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「ベルリン・アレクサンダー広場」で衝撃を受けたファスビンダーの代表作のひとつという。今回上映された3作はいずれも女性を主人公としているが、この「マルタ」はドメスティック・バイオレンスの夫をもった女の恐怖を描いていた作品。112分と標準的な長さの映画だが、前半はやや退屈。眠くなるほどではないが、根をつめて観ていると混乱する。わけがわからない、というか監督の意図の想像しにくいシーンが続く。後半、結婚生活を始めてからは一級の心理ホラー映画のようになる。DVは直接には描かれず、マルタの被害妄想のようにも描かれている。マルタ役の女優はやせていて美人でもないので、よけいDVになる理由もわからない。だが、特別な手法もつかわずに緊迫感を強めていくファスビンダーの手腕には天才を認めざるをえないし、カール・ベームの息子という夫役の俳優も適役。ファスビンダーの作品としては傑作とは思えないが、深読みすると、戦後復興が逆に精神の荒廃を生んだという「マリア・ブラウンの結婚」と同じテーマなのかもしれないと思える。
August 31, 2013
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この映画は30年以上前に観た記憶がある。当時はまったく理解できなかったし、細部はほとんどと言っていいくらい覚えていない。しかしあらためて観ると、ファスビンダーの言いたかったことはわかる。端的に言えば、それは戦後復興の欺まん性である。主人公の女性のたどる運命はそのまま戦後ドイツの歩みと同じなのだ。こんなことが、すぐ気づきそうなものなのに、30年前にはまったくわからなかった。わずか24時間しか結婚生活のなかった夫が戦死。戦後、アメリカ兵の子どもを宿すが流産。フランスの実業家と知り合って地位と富を手に入れるが、どちらの男をも好きだけど愛してはいない。経済復興によって「愛のすべ知らぬ女になった」主人公は戦後ドイツそのものであるメタファーなのは明らかだ。つまり、奇跡の復興と精神的な豊かさの間には関係がなく、戦争で失ったものへの絶望感は決して消えることはない。拝金思想にとりつかれた女がしだいに醜くなっていく姿は、ドイツそのものだと言いたいのだろう。死んだと思っていた夫が帰還するが、長い捕虜生活で生気を失っている。これは「古いドイツ」の死のメタファーと読める。つまり、古きよきドイツは死に、戦争の教訓を学ばず再軍備に走りアメリカの妾になった「新生ドイツ」を、しかしそれとはわからないように断罪し告発しているのだ。この映画は爆発で始まり爆発で終わる。いろいろな解釈ができるラストであり、この部分は永遠の「ナゾ」として残った。新生ドイツなど滅びてしまえというファスビンダーの叫びのようにも思えるし、遠くない将来の予言にも見える。人類史に例のないホロコーストを行い、いままたイスラエルを支持してヒトラーの手先と化している現代ドイツは、主人公マリアのように爆発死するのだろうか。してほしい。
August 30, 2013
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いわゆる「泡沫候補」に取材したドキュメンタリー。泡沫候補への投票は死に票となるから無意味と思ってきたが、この映画を観て考えが変わった。これからは泡沫候補にしか投票しないことにした。この映画では主に3人の「泡沫候補」が登場する。落選記録保持の羽柴誠三郎秀吉(青森)、ファシストで政見放送が外国でも大人気という外山恒一(鹿児島)、そしてこの映画のメーンキャストともいうべきマック赤坂(京都)である。大阪府知事選挙に出馬した何人かの泡沫候補にもインタビューしていて、それはそれで興味深いが、なんと言ってもこの3人のユニークさとキャリア(笑)は際だっている。さらにその中でもマック赤坂はダントツだ。自己顕示欲を満たしたいだけの人々という、泡沫候補に対する偏見をきれいにぬぐい去ってくれた(わたしにとっては)すばらしい映画だった。もちろん、泡沫候補といってもいろいろあり、宗教団体系政党の泡沫候補は単なる人間のクズでしかない。しかし、個人の主張と決意だけで立ち上がり、巨大組織や政党に挑むこれらの人々は、その主義主張や政策に関係なくあっぱれだ。大ざっぱに言えば、3人とも反共思想の持ち主といえると思うが、そんなことは些末な問題にすぎない。最も感動したのは、父親の出馬に必ずしも同調的ではないと思えるマック赤坂の息子が、野次る安倍晋三の動員支持者(統一協会とザイトクが過半に見える)たちに対して、「お前ら、壇上に上がって同じように意見を言ってみろ」と単身で叫ぶ秋葉原のシーンである。「泡沫候補たち」のかっこよさは、この息子に具現されている。衆を頼み個人では行動できない「大衆」の弱さ醜さずるさ、その「鮮烈に醜い」姿がこの映画には記録されている。そしてそれに立ち向かうマック赤坂と息子、秘書の3人はしびれるほどかっこいい。この3人ほどかっこいい人間は、たったひとりで国会に突入した60年安保の唐牛健太郎以外に思いつかない。マック赤坂に限らずなぜ彼らがかっこいいかというと、完全に自立した個人の行動だからだ。野生動物のような機転と判断力、そして生命力がなくてはいけない。残念なのは羽柴氏は肺がんで闘病しており引退も考えられること、マック赤坂が引退を表明したことだ。年齢を考えればしかたがないかもしれないが、ぜひ後継者をたててほしいものだ。もし後継者が立つなら、マック赤坂率いるスマイル党に入党したいくらいだ。マック赤坂の櫻井秘書もいい味出している。ひ弱そうな優男が警察や公共施設の管理人たちとやり合う中でたくましく成長していく姿に打たれる。好きだ、櫻井秘書。「維新の会」とのバトルシーンも印象に残る。橋下や松井といった人物をガードしているのは、見るからに「その筋」とおぼしき連中。しょせん、ヤクザの子はヤクザなのだ(もちろん石川さゆりのような例外はあるが、寡聞にしてほとんど知らない)。供託金の300万は高すぎる。10万円くらいにすべきだ。そうすれば誰でも選挙に出られるようになる。立候補の自由をそこなう公職選挙法の供託金規定は憲法違反であり、したがって日本のすべての選挙など無効だ、ということも教えられる。
August 26, 2013
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シリア侵略をうかがうアメリカやフランス、イギリスなどの動向を見るにつれ、旧社会主義国は実は「良い国」だったのではないかという気がしてしかたがない。アメリカが「悪の枢軸」だの「テロ国家」だのと呼ぶ国は、たしかに国内の人権抑圧はあるにしても、アメリカのように海の向こうの外国の非戦闘員居住地区に原爆を落としたりナパームで焼き払ったりしたことはない。北朝鮮やイランやシリアや打倒されたがカダフィのリビアといい、キューバやベネズエラやラオスといい、アメリカとアメリカに加担する国々に比べれば百万倍はすばらしい国ではないか。「悪の枢軸」「テロ国家」とはアメリカ・カナダ・日本・オーストラリア・フランス・イギリス・韓国・トルコ・サウジアラビア・イスラエル・タイなどのことであり、これらの国は第二次世界大戦以降も朝鮮、ヴェトナム、ラオス、ニカラグア、エルサルバドル、グレナダ、フォークランド、イラク、パレスチナなど世界中で侵略と殺戮の限りを尽くしてきている。人類を10回は滅亡させられるだけの核を持った国が「核開発疑惑」の国に経済制裁など、ちゃんちゃらおかしくはないか。同じ核大国でも旧社会主義国ソ連の後身であるロシアはシリア侵略に反対している。元KGB幹部の暗殺マニア、プーチンがオバマやケリーに比べて何と善良に見えることか。スターリンの恐怖政治や中国の文化大革命はたしかに社会主義の暗黒部分だ。しかし、それらは権力闘争に利用されたから悪なのであり、ファシストや白軍を処刑するのはいいことだ。粛清政治がまちがっていたのではなく、粛清する対象が間違っていただけではないのか。こういった乱暴なことを考えているときに、ほてったアタマを少し冷やす必要があるかもと思って観たのが「東ベルリンから来た女」(原題はバルバラ)。ベルリンの壁崩壊は1989年だが、この映画の舞台は1980年。いなかの病院に赴任させられた女医が恋人のいる西ベルリンに脱出しようとするお話。この女医、周囲と打ち解けず、感じが悪い。どうも何か国家の逆鱗に触れることをして、左遷されてきたようなのだ。定期的に秘密警察(シュターデ)がやってきては身辺を洗っていく。その屈辱的なシーンは、ほんとうにこういうことが行われていたのだろうというリアリティがある。殺風景な建物やあか抜けないファッションなど、「統一」以前の東側世界の異様な雰囲気も、だいたいこういうものだったのだろう。淡々とした日常の中、過酷な境遇におかれた少女や心優しい同僚に出会い、変化が生まれていく。女医は、西側にいる恋人と定期的に会っていて、その恋人の助けで東ドイツから脱出しようとする。ネタバレになるのであえてラストは書かないが、このラストシーンは人間精神の崇高さ、気高さを表していて衝撃的なほど感動的だ。これは<東>の非人間性を暴いた映画ではなく、<東>だからこそこうした自己犠牲的な行為が行われたのだという<西>の拝金主義を批判した映画ではないかと錯覚してしまいそうになるほどだ。このラストシーンに打たれない人間がいたとしたら、そいつは人間の皮をかぶった豚かドブネズミだろう。秘密警察の男が人間的な弱さを持った人間であることも描かれ、単純な「反秘密警察」映画になっていないところもいい。映画だから作り事だとは知りつつ、ラストシーンのヒロインの毅然とした気高さは決して忘れることができないほど印象に残る。こういうシーンに出会うのが映画を観る醍醐味の最高のひとつだ。ところでこの映画を観ながら変なことを思った。1980年の東ドイツと日本を比べて、豊かさではあまり大きなちがいを感じなかったことだ。風呂なしアパートなんてあたりまえだったし、冬はスーパーから野菜が消えた。1980年代に入り、レーガノミクスで世界経済は拡大した。プラザ合意の円高で日本はバブル景気を謳歌し、ソ連崩壊による冷戦終了で90年代は世界が繁栄を謳歌した。バブル崩壊後の日銀の超低金利政策がサブプライムバブルを生み、リーマンショックの尻ぬぐいのためにアメリカ中央銀行はQEでバランスシートを3倍以上に拡大した。日本はアベクロミクスに踏み切ったところだ。乱暴に言ってしまえば、恐慌も世界大戦も中央銀行によって、正確には中央銀行のミスによって起きるし起きてきた。中央銀行のバランスシートの異様な拡大という、かつて直面したことのない歴史的瞬間にいまわれわれは立ち会っている。10年前、イラク、アフガニスタン、スーダン、リビアには中央銀行がなかった。いまもないのは北朝鮮とイランだけだが、21世紀になってからこれらの国で起きたことを考えるなら、軍事力で世界を支配できなくなったアメリカが、ドルによる世界支配へ傾斜を強めているとはいえないだろうか。そうであるなら、バランスシートをこれ以上拡大できないFRBは、つまりアメリカは最大の危機にあると言っていい。ドル高はアメリカの強さではなく、弱さの表れではないか。
August 25, 2013
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今年の都留音楽祭のメーン・イベントとでもいうべきコンサート。今回の来日ではただ一度のリサイタルである。休憩なし、アンコールを入れて正味50分強。リュートとテオルボ伴奏(つのだたかし)の2曲のあとに弦楽アンサンブルとの曲をおくという構成。なるほど、舞台の設営と撤収に少し時間がかかるので、こうしたプログラムだと歌手は喉を休めることができる。曲目はディンディア「きみよ 折ふしのわが詩片に」、カッチーニ「死なねばならないのか」、ヴィヴァルディ「いと公正なる怒りの激しさに」、ストロッツィ「恋するヘラクレイトス」、モンテヴェルディ「さようならローマ」、ヘンデル「泣かせてください」、アンコールはヴィヴァルディの終曲「アレルヤ」。1000人収容のホールに観客は100人ほど。前列から二番目に座ったわたしの周囲・視野に他人はいない。21世紀のマリア・カラス、ロベルタ・マメーリをほぼ独占することのできた黄金の50分。こんな機会はヨーロッパではありえない。ヴィヴァルディ作品での圧倒的なアジリタ、豊かな声量で繰り出される超絶技巧に息をのまなかった人はいないだろう。この分野でも間違いなく世界の第一人者であることを見せつけた。しかしロベルタ・マメーリの真骨頂はモンテヴェルディの「さようならローマ」のような激しいパッションを秘めたシリアスな歌にある。イタリア語の歌詞はほとんどわからないが、しかし歌詞にこめられた感情の熱さ、激しさをこれほどのリアリティをもって表現できる歌手は、かつても、いまも、これからも現れないであろうことは容易に推測できる。ロベルタ・マメーリとは優れたソプラノ歌手というにとどまらない。それは一つの現象であり奇跡なのだ。わたしなどよりはるかにバロックの音楽に通じ、自分でも演奏しているこの日の聴衆で、このことがわかっている人がいるだろうかと思う。稀代の名歌手であったキャシー・バーベリアンはモンテヴェルディ・アルバムをのこしている。しかしその演奏とマメーリのそれを比べるとき、バーベリアンの演奏は楽譜をなぞっただけの幼稚なものにしかきこえない。そのバーベリアンの演奏はこの40年、最も優れたモンテヴェルディだと思われてきたのだ。きれいごとではすまない、きれいごとではない音楽の美しさというよりは強さ。こうした音楽は、経済的繁栄におぼれ、小市民的生活に安住しているような人たちとは無縁である。ほんの数小節で世界を震撼させるようなドラマを紡ぎだしていくマメーリの芸術の真の価値を理解できる人間は絶無に近いだろう。マスタークラスではひんぱんに咳をするなど、マメーリの体調は万全ではなかったようで、演奏そのものには若干の瑕疵もあった。しかし、音楽的な充実はそんな瑕疵など吹き飛ばしてしまうほどで、たぶん、当日の聴衆だけでなく共演者さえ気づかなかっただろう。クラシック音楽をきくようになってもうすぐ半世紀がたつが、今年3月にきいたペレーニのコダーイとこの日のマメーリをきいて初めてクラシック音楽のすごさがわかったような気がした。そうした経験を参照すると、過去にはレナード・バーンスタインがPMFオーケストラを指揮したシューマン「交響曲第2番」だけだ。マメーリは現在、歌手としてはピークにある。年齢は不詳だが、マリア・カラスがピークを過ぎた年齢よりは年上だと思われる。あと何度、どのようなレパートリーでマメーリをきくのか、きけるのか。とりあえず次は北とぴあ音楽祭、11月22日「フィガロ」でマメーリのスザンヌをきく。余談だがこの音楽祭の名物といえるクロージング・パーティではマメーリのイタリアン・ロックや日本の歌、盟友・波多野睦美の「天城越え」をきくことができた。超一流の歌手が歌うロックや演歌のすばらしさは筆舌に尽くしがたい。あれから毎日のようにそのときとったビデオを楽しんでいる。
August 18, 2013
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ロベルタ・マメーリ ソプラノ・リサイタル(8月18日)のために山梨県都留市に来ている。せっかくなので日本で唯一といっていい古楽の音楽祭である都留音楽祭の全日程に参加することにした。というのも、会場が都留文科大学に隣接する都の杜うぐいすホールというあまり交通の便がいいとはいえない場所なので、前後泊して自分で交通機関(レンタカーなど)を手配するより宿泊や食事まで込みで4泊5日の受講生パックに参加した方が楽なのだ。この音楽祭は今年で28年目、1回の休催をはさんで27回目になる。聴講を含めた受講生は90名ほどで、ほとんどは音楽祭で講師をつとめる世界的な古楽演奏家たちに個人レッスンを受けるのが目的。会期中には3回の有料コンサートと受講生によるコンサートが1回開かれる。昼食時には毎日、志願者によるフリーコンサートが開かれ、食事をしながら古楽を聴くという貴重な体験もできる。 16日には講師陣によるオープニング・コンサートが開かれた。古楽の熱心な聴き手とはいえないわたしにとっては一昨年、ロベルタ・マメーリのリサイタルできいたメゾソプラノの波多野睦美とリュートのつのだたかし以外の演奏家は初体験。古楽演奏家に限らず、日本のクラシック演奏家の演奏は、許光俊が指摘するように、どこへ行こうとしているのか、意思がよくわからない場合が多い。美しいが抑揚に乏しく、流麗だが変化がない。この音楽祭の講師たちにも同じ傾向がある。何もジュリアーノ・カルミニョーラのように攻撃的である必要はないが、線の細い上品さ(許光俊にはそれが貧乏くささに聴こえるようだ)に、これが古楽の本質だろうかという疑問を感じてしまうのだ。中では、ダウランドの歌曲を3曲歌った波多野睦美がやはり出色。また、リコーダーの吉澤実、フラウトトラヴェルソの中村忠はいずれも積極的な演奏で、他の器楽講師たちの演奏スタイルとは一線を画すものだった。特にクラインクネヒトの超難曲と思われるロ短調のソナタを演奏した中村忠の名人芸と果敢な挑戦には驚嘆させられた。モーツァルトのイ短調のロンドをひいたフォルテピアノの小倉貴久子は、この楽器のダイナミックレンジの広さを生かした演奏で、この作品の価値をはじめて教えられた気がする。コンサートの最初にはリュリのオペラ「ファエトン」から「女性のためのシャコンヌ」が浜中康子のダンスで上演されたが、優美な音楽とダンスのコラボレーションは音楽祭の幕開けにふさわしいもので、ヨーロッパ宮廷文化の片鱗に触れたような満足感があった。うぐいすホールは収容人員1000名ほどの規模で木を多用した柔らかい響きのホール。周辺は緑が豊かで、現実を忘れて音楽に集中する環境にふさわしい。
August 16, 2013
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都留音楽祭に参加しようと航空券を探していたら、東京行きキャンセルチケットを見つけた。お盆のこの時期は航空券が異常に高いがこのチケットが手に入ったのではやめに東京入りすることにした。レイバーネットなどで調べてみると、14日と15日に「歴史認識」問題でのイベントがあるのを見つけたので参加することにした。参加したのは日本軍「慰安婦」メモリアル・デーの集会とデモ、ゴメンだ!安倍政権 歴史認識を問う 8・15反「靖国」行動。14日の行動については以下の呼びかけによる。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2012年12月、台北で開催された第11回アジア連帯会議で、8月14日を「日本軍『慰安婦』メモリアル・デー」とすることが決まった。8月14日は、1991年に、韓国の金学順さんが「慰安婦」被害者として初めて名乗り出た日である。衆参両院における議員からの質問に対して、日本政府(当時の労働省職業安定局長)が「いわゆる従軍慰安婦につきましては、民間の業者がこれを連れまわしたもので、軍は関与いたしておりません」と、日本軍の関与を否定したという報道に接した金学順さんが、自分は日本軍に連れまわされた被害者であると告発した。この勇気ある告発がきっかけとなって、アジア各地の被害女性たちが半世紀の沈黙を破ることになった。それ以前から、沖縄のペ・ポンギさんのことは知られていたし、韓国では尹貞玉(梨花女子大学名誉教授)が調査と報告を行っていたが、アジア各地の女性たちが立ちあがる最大のきっかけは、やはり金学順さんの勇気だった。元になった国会質問は、朝鮮学校生徒に対するJR定期券差別問題であった。当時、JRは日本学校生徒にのみ通学定期券を発行し、朝鮮学校生徒にはこれを認めていなかった。私たちは平等の定期券発行を求めて、文部省、運輸省、JR東日本に要請行動をしたが、その一環として議員に国会質問をお願いした。本岡昭次議員と清水澄子議員がそれぞれ国会質問を行ったが、その際に取り上げたのは「戦前戦中に朝鮮人を強制連行し、酷使して鉄道工事を行ったにもかかわらず、その子孫である朝鮮学校生徒をいつまで差別するのか」という問題であった。そこで定期券差別問題だけではなく、朝鮮人強制連行問題、従軍慰安婦問題、南方方面派遣団問題を取り上げてもらった。この質問に対して、日本政府が関与を否定したのが右の答弁であり、報道でそれを知った金学順さんが名乗り出ることにつながった。「慰安婦」被害女性の運動は、東アジアにおける問題だけではなく、世界各地における紛争下の女性に対する暴力の問題につながった。1993年5月のウィーン世界人権会議、同年一二月の国連「女性に対する暴力撤廃宣言」採択、1994年3月、国連人権委員会における「女性に対する暴力特別報告者」の創設とラディカ・クマラスワミ特別報告者の任命、そして1995年のクマラスワミ特別報告者の調査と、1996年のクマラスワミ「慰安婦」問題報告書へとつながった。まさに歴史を動かしたのが、金学順さんと、東アジア各国のサバイバー(被害女性たち)であった。そこで、第11回アジア連帯会議の決定を受けて、さらに今年、日本で「8月14日を国連メモリアル・デーにしよう」という運動が始まった。アジアだけの問題ではなく、武力紛争下における性暴力、とりわけ性奴隷制と闘うためのメモリアル・デーとするためのチャレンジである。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・15日の行動は以下の呼びかけによる。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・安倍政権が参院選に圧勝した事で、憲法改悪、戦争、ナショナリズムの一層の推進が危惧されています。また街頭では「在特会」などの右翼が在日朝鮮人・外国人にヘイトスピーチを浴びせかけています。そしてこれらが最も暴力的に展開されるのが、毎年8月15日の靖国神社反対デモであり、それは最早限度を超えています。私たち参加者有志は妨害の暴力の停止を求めるとともに、より多くの方が実態を知り、今年の『ゴメンだ! 安倍政権 歴史認識を問う 8・15反「靖国」行動』にもともに参加する事を呼びかけます。★デモに対する凄まじい右翼暴力に反対を靖国神社は戦前の侵略戦争で戦死した人々を「英霊」として祭り上げ、アジアへの侵略戦争と植民地支配を賛美し、天皇を始めとした戦争指導者の責任を免罪しています。そして敗戦日当日の8月15日は閣僚や首相が参拝・黙とうし、靖国神社と侵略戦争を肯定し続けてきました。そこで当日は朝から様々な抗議行動・デモが行われ、午後は「8.15反『靖国』行動」の集会とデモが行われ続けてきました。それに対して機動隊が過剰警備で阻止したり、靖国を参拝する街宣右翼がデモの沿道から暴行目的の突入を試みる妨害が繰り返されてきました。そしていわゆる「在特会」などの新たな草の根右翼グループが街頭デモを始めた2009年頃から、ネット上の呼びかけなどでデモ中の妨害者が激増し妨害内容もエスカレートしました。靖国神社に最も近い九段坂下の交差点の四方に数百人もの妨害者が陣取り、凄まじい罵声とともに缶やペットボトルを投げつけてくる。デモグッズを奪い取る。街宣右翼もそれと張り合うかのように突入してきて、09年はデモ終了後に参加者が殴られて鼻の骨を折る大ケガを負いました。2011年は右翼の突入後の現場に何とナイフが落ちていた事が確認されました。私たちは「8.15デモ」がいま最も暴力を受けるデモになってしまったと思っています。毎年の写真はこちら:http://www.mkimpo.com/diary/2012/yasukunix2012.htmlいま「ヘイトスピーチ」が問題になっていますが、「8.15デモ」に対してもネットでの妨害予告や殺人教唆が行われ、今年もすでにネット上に溢れています。毎年同時期に行われる「靖国キャンドルデモ」に対しても、今年は右翼が車で突入を試みたと言います。今年の「8.15デモ」も集会の段階から深刻な妨害が予想され、それは開催前から参加者と主催者に多大な心労と被害を与えています。民主社会の根幹であるデモを文字通りの暴力で圧殺することは絶対に許されません。また右翼暴力の多くが警察に放任されていることも見過ごせません。すでに今年6月の新大久保でも「在特会」らのデモが許容される一方でデモに抗議した側が4名も不当逮捕され、右翼が「被害届」を提出して警察が運動側の立件を狙う事も東西で起こっています。2011年の「8.15」の右翼所持品と思われるナイフは公安警察が拾ってバッグに隠して不問にしてしまいました。また2012年の<「危機」の時代の天皇制を問う!2.11反「紀元節」行動>では、未公表のデモ出発時間が右翼のブログに掲載され、デモコースも未公表なのにコース上で妨害右翼が待ち受けていました。デモ申請後に公安警察が情報をリークしたとしか考えられません。右翼暴力に乗じての弾圧も常に懸念されるのです。★靖国神社は問題の根源。ぜひ多くの参加を!首相や閣僚がどれだけ国内外から批判されても靖国参拝を続けるのは、権力者が支配体制を維持するための核心的行為だからです。靖国反対デモが右翼から凄まじい暴力を受けるのも、靖国への反対は権力者にとって「あってはならない事」になっているからです。「靖国神社への反対は死者への冒涜だ」「遺族や人々が個々の死者を追悼したい気持ちを踏みにじることになる」という批判がよく聞かれます。しかしこれは大きな事実誤認です。靖国神社は個別の死者を祀る場所ではなく、天皇のために死んだ者だけが選ばれ「英霊」と一まとめに祀られています。つまり死者を選別して個別性を奪い、国家のための死を優先し、私たちにそう思わせるのが靖国神社の機能なのです。それを通して戦前の戦争を正当化し、新たな侵略戦争で自衛隊員が死んだ際も活用されうるのです。天皇制から安倍晋三まで、日本の権力者が戦前から継続していることは知られており、靖国神社はその核です。国家主義を極めている今の安倍政権下では、反対デモへの暴力と弾圧の危険性もより高まります。いわば現在の「8.15」と反対デモへの妨害は、原発事故の責任を取らず憲法改悪や貧者の切り捨てに突き進む安倍政権と日本国家の暴力的な本質と起源が、最も露呈する場だと言えるでしょう。だからこそ「8.15デモ」は今年もこれからも無事に大きく行われなければなりません。私たちは参加者としても「8.15デモ」への右翼暴力の停止を求めるとともに、多くの方々が暴力に反対することを呼びかけます。そして多くの方にご参加いただき、暴力や弾圧を止めながら問題の根源へ迫ることを、願わくば「3.11」原発事故後の酷い状況を変えたいと新しく社会運動に参加し始めた方々や、「在特会」らのヘイトスピーチに心を痛めてカウンター行動に参加し始めた方々にもぜひともに参加して頂くことを呼びかけます。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・集会とデモの趣旨に賛同するのはもちろんだが、右翼が最もいやがり、公安警察が神経質になるのが侵略戦争における天皇の責任追及につながる、つまり日本人の思想的基軸にもっとも鮮烈な影響を及ぼすこうした催しである。国家にフランチャイズされ天皇制にしか自分のアイデンティティを見つけ出すことのできない思想的敗北者、差別によってしか自己の存在確認ができない人生の失敗者が日本の右翼である。こうしたテーマの集会やデモには、妨害やカウンターと称してこうした連中が大挙しておしかける。こうした右翼の写真や映像を収集するのも目的の一つである。遠くない将来に起こるであろう世界恐慌と経済危機に際し、われわれが国家権力の奪取に成功したばあい、こうした右翼は逮捕し収監し処刑する。アジア(だけではないが)の2000万人を殺戮した日本帝国主義とそのボスであったヒロヒト、そのヒロヒトの「偉業を受けつぐ」と公言する現天皇を支持する人間など、この世に存在してはならないからだ。ただし右翼といってもいろいろだ。特攻服を来て軍歌を流しているような連中は実はあまり政治性は高くない。ザイトクメンバーなどは漢字の読めないような輩も多く、職場でも地域でもすってんてんに浮いて相手にされていない。敵としてあまりに情けない。しかし中には、実際は左翼くずれに多いのだが、緻密な論理構成をもち、民族問題・階級矛盾を解決するというスタンスで疑似共産主義革命的な右翼革命、国家社会主義革命を志向する人間がいる。こうした勢力が特攻服のヤクザ右翼、ザイトクなどのアホ右翼を巻き込みヘゲモニーをとることだけは警戒しなければならない。公安はこうした連中に利用価値を見いだし、活用するにちがいない。反靖国行動は近年にない参加者の数で、250名ほど。来年は500名、再来年は1000名の結集をかちとることは簡単だ。諸潮流が反天皇制運動から召還する中、毎年のこの8・15闘争の重要度はますます高まっている。日本のマスコミはほとんど取材にこないが、外国の通信社はかなり来ていて、醜い日本右翼と、日本にも良心的な人々がいることを世界につたえている。この集会での新潟大学教授・吉澤文寿さんの話は、外務省が何を隠し、何をおそれているかがわかる興味深いものだった。どうも、終戦で放棄した(させられた)日本人の在外資産の補償問題が起こることを懸念しているらしい。旧植民地在住し資産を持っていた人たちは数百万人に及ぶはずだ。打ち上げの席では、太田昌国氏と天野恵一氏の知己を得ることができたし、いわゆるフリーター生活をしているような若者たちの、生活感覚・生活実感の中から運動に結集していく健全な感性に時代の変化と将来への希望を感じた。朝鮮人を皆殺しにせよ!と絶叫するファシスト女。両日とも来ていた。
August 15, 2013
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下品でバイオレンスなギャグ連発の映画。しかし観賞後の印象はむしろ爽やか。バカもここまで徹底するとすばらしい、と爆笑させてもらった。日本のマスコミはヨーロッパをもっぱら高福祉の先進国、グルメと文化の楽園というふうに描く。そういう一面がたしかになくはないが、スウェーデンの暴動で明らかなように高度福祉社会などいずれ破たんする。ありえないことだからだ。全ヨーロッパでオーケストラや歌劇場の統廃合が続いている。ほとんどの人間がオペラにもコンサートにも縁がないのは日本と同じだ。主人公は底辺社会の5人組。不況その他のあおりで無職になった5人は、「カネねー、ねーからはらわねー」と暴走しやりたい放題。とうとう政府が武力で鎮圧しようとする。しかし、この5人の行動はどこか憎めなく、愛郷心を刺激したりもするのでとうとう政府が追いつめられていく。国家と官僚の狡さと脆さもさりげなく描かれている。警官を殺しまくった割には裁判では寛刑で済む。機動力のあるバカは国家を破たんさせうるのだという「希望」を与えてくれ、爆笑のあとにすがすがしい感動の残る映画だった。
August 13, 2013
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「笹の墓標」第四章「未来へ」(120分)と第五章「私たち」(109分)は、東アジア共同ワークショップに参加してきた若者たちにスポットがあてられている。第一章と第二章は考古学的手法に対する興味がないと重たい気持ちで観ざるを得ないが、この二つの章は運動の中で成長していく若者たちに頼もしい気持ちになるし、明るく快活な個性の持ち主が多いのにあらためて感銘を受ける。第五章「私たち」は2012年夏のワークショップを中心に記録したもの。確度が高いと思われた情報提供に基づいて、芦別で働かされ亡くなった人たちの遺骨を発掘しようとするが、見つけることができなかった。発掘作業の記録自体は第二章などに比べるとやや散漫な印象を受けるが、発掘できなかった結果からしかたがないのかもしれない。が、なぜ失敗したかといった点への踏み込みがあれば印象は変わったかもしれない。むしろこの章では、運動の中で出会い結婚した人たちや、それを報告する集いでの、特に韓国・在日韓国人たちの議論のやりとりが印象に残る。ある参加者がこのワークショップが現実の問題を見ないユートピアになっているのではないかという鋭い提起をするのだが、その提起が豊富化するような方向で、しかし緊張感を失わずに議論されていく。丁半をすぐ決めたがる日本人の議論ベタとあまりに対照的で興味深い。このシーンを収めたことでこの第五章の価値は高まった。継続は力なりとはよく言ったものだ。この第5章でも第4章でも、初期のころに比べると格段にたくましく成長した「元若者たち」のその後の生き方の選択などに教えられることは多い。社会に出て就職したとたんに「転向」する人間は非常に多い。さらに年をとるほどに保守化していくのが一般的な日本人だが、ヨーロッパからの参加者も見られるようになったこのワークショップの国際性と持続性、そして課題そのものの重さが、若者たちをそうした日常への埋没から救うことになったのだと思う。全編を通じて、深川の一乗寺住職でこのワークショップを始めた殿平善彦氏とそのご子息の誠実さ、発掘作業で大活躍する韓国・漢陽大学教授・鄭炳浩の豪快な人柄、名前は失念したが、日本語と韓国語の両方に堪能で多くの重要な場面でリーダーのような働きをする韓国から日本に移住した若者のねばり強いキャラクターが印象に残る。こういう人たちに出会えるなら、毎年行われているというこのワークショップに参加してみたいという気にさせられる。
August 12, 2013
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第三章「遺族」(109分)は、東アジア共同ワークショップの参加者たちが発掘した遺骨を遺族に返還する旅が記録されている。4体の遺骨を持って半世紀以上も前の遺族を訪ねていく。韓国は世界でも数少ない戸籍制度のある国。インターネットなども駆使しつつ、推理力を働かせて遺族を見つけ出す過程はなるほどと思わされる。印象的なのは遺骨と面会する遺族たちの感情の発露。これがもし日本人だったらと想像すると、民族性の違いに驚く。それほどまでに彼らの悲しみの表現は強烈だ。「日本人を見直した」という感想を述べる女性がいた。日本には天皇主義者やレイシストばかりでなく、まともな人間もいることを初めて知ったにちがいない。こうした草の根の交流の大切さが強く印象付けられるシーンであった。こうしたことは本来、強制連行や強制労働の責任者である政府や当該企業が行うべきことだが、日本政府は戦没者の遺骨収集や返還にさえ積極的ではない。これは日本人の民度の低さを表すもっとも象徴的な事柄である。
August 11, 2013
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「笹の墓標」は「東アジア共同ワークショップ」の15年を記録した9時間超のドキュメンタリー。監督の二人は札幌在住で、そもそもこのワークショップの参加者らしい。 「東アジア共同ワークショップ」は、元々は「日韓共同ワークショップ」として始まったが、参加者の広がりによって名前が変わったもの。深川の一乗寺の住職が1976年に朱鞠内湖を観光で訪れたときの出来事をきっかけに始まったという。その住職、殿平善彦氏は1980年から1984年まで5回、16体の遺骨を発掘したものの、中断。韓国民主化運動の活動家で文化人類学者のチョン・ビョンホとの出会いによって1997年に再開したという。第一章「朱鞠内」(113分)は朱鞠内のダムと鉄道(1997年)での、第二章「浅茅野」(98分)は猿払村浅茅野旧日本陸軍飛行場工事での犠牲者発掘(2006年〜10年)を記録したもの。発掘作業だけでなく、日韓の若者たちのちょっとした衝突や意識の差、交流の風景も見ることができる。「朱鞠内」は、機材のせいか映像も甘いし、手探り感が否めない。ところが「浅茅野」になるとぐっと本格的な「ドキュメンタリー映画」の趣きが出てくる。撮影のポイントやタイミングをつかむ経験値が上がってきたのだろう。印象的なのは「浅茅野」の発掘作業。遺跡発掘というのはこういうふうに行われるのかと、ていねいで精緻な作業自体が、不謹慎な言い方だが面白かった。 工事の犠牲者には日本人もいたが、日本人はきちんと埋葬されているのに、朝鮮人はそうでなかった事実も遺骨の状況からわかる。骨の形状などから死んだ時の年齢や生活歴がわかるのも謎解きのようでぐんぐん引き込まれる。病死と処理されているのが若者だったりする事実からは、苛酷な労働など非人間的な扱いを受けたことが容易に想像される。強制連行や強制労働はなかったという歴史の捏造がレイスシトなどによって行われている。日本帝国主義のアジア侵略を正当化するための歴史の偽造は犯罪にほかならないが、こうしたデマをまき散らす人間だけでなく、それを信じる人間も万死に値することをあらためてかみしめる思いになる映画だ。
August 10, 2013
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この映画を観るまで山口彊(つとむ)という人のことは知らなかった。広島と長崎の両方で被爆し、2010年1月に93歳で亡くなった人である。原爆症に苦しみながら戦後を送ったが、2005年に息子ががんで死去したのをきっかけに89歳で「被爆体験の語り部」になることを決意したという。上映に先立ち、同じ会場(厚別サンピアザ)での8月6日の上映に際して行われたこの映画の監督稲塚秀幸と加藤登紀子(この映画でナレーション等をつとめている)の鼎談が放映された。この鼎談を観られないのが残念だっただけに、主催者の配慮がうれしい。この鼎談での加藤登紀子の発言は実に興味深いものだった。日本人は原爆その他戦争による被害者ではあったが、同時に加害者でもあった。しかし、戦争の加害者になるといった点も含めて大きな視点で見れば戦争の被害者であった・・・というものである。ポツダム宣言受諾でほとんど降伏していた日本に7月に完成したばかりの原爆を投下したアメリカの非人道性についてはもっと検証されるべきだという指摘ももっともだ。ヒロシマ・ナガサキは原爆のテストだったのだ。純軍事的・戦争論的に見ても不要な「人体実験」だったのである。エノラ・ゲイを遠い博物館に移し、説明なしで展示しているアメリカ政府の「隠蔽体質」についても報告していた。さて、70分ほどのこの映画は、昨今の優れた日本のドキュメンタリー映画と比べると分が悪い。何というかテレビ的で説明(ナレーションなど)や音楽が過剰。山口彊氏の声に音楽がかぶさる部分などはかなり疑問を感じた。土本典昭監督や小川紳介監督のようなドキュメンタリー映画の方法論が唯一とは思わないが、時間が足りなかったにせよ、対象との密着度が低いと感じた。むしろ印象的だったのは、最晩年の山口彊氏と交流するジェームズ・キャメロン(映画監督)やチャールズ・ペレグリーノ(小説家)、山口氏の短歌の翻訳に情熱を傾ける大学院生チャド・ディール、平和運動家や高校生、高校教師といったアメリカ人たちである。彼らが山口氏に発する質問、あるいは山口氏の質問に対する答えなどが、知的であるだけでなく人間的なあたたかみに満ちたものであったことだ。たまたま出会った女性教師など「アメリカ人として申し訳ない」と個人的に謝罪するし、高校生は「なぜ原爆を落とした加害者を憎まず交流できるのか」と問う。「なぜわたしに注目するのか」という山口氏の問いに、キャメロン監督は「あなたはそこにいて、すべてを目撃した。あなたは選ばれた人なのです」と答える。山口氏の話をきいてただ涙するだけの日本の高校生が幼稚園児に見える。しかしこうした形で山口彊氏の「遺言」が映像に残されてよかった。知らずに終わるところだったし、「被爆したマリア像」や山口氏の短歌の数々には言葉をうしなうほどの衝撃を受ける。最後には核の平和利用などありえないと「原発に反対」する山口氏の語りが数分間、付録のようにつけられている。まるで1年と少しあとの原発事故を予見しているかのようで衝撃的だ。2006年の「二重被爆」には山口氏をはじめ7人の「二重被爆者」が登場するそうだが、ぜひこの映画も観てみたい。原爆問題に限らないが、大事なのは、自分が当事者だったかもしれないという想像力を常に働かせることだ。もしかしたら自分が被爆していたかもしれないし、被爆二世だったかもしれない。さらに言えば、アメリカに生まれていればエノラ・ゲイの操縦士だったかもしれないし、劣化ウラン弾を製造する会社の労働者、あるいはそれを扱う兵士だったかもしれないのだ。日本人全体はいま「ヒバクシャ」になりつつある。同時に、福島原発からの放射性物質が太平洋全体を汚染する「加害国」国民になったいま、「加害者であることも含めて被害者となった」日本人の意識啓発にこの映画以上のものを見つけるのは難しいかもしれない。
August 9, 2013
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映画は人生を豊かにするための重要なツールのひとつだ。というか、人生を豊かにするためには映画をツールとして使いこなす必要がある。それができない人、しない人は薄っぺらな人間のまま死んでいく。映画をこうしたツールとして使いこなしているかどうかは、つきあう人間をえらぶ際の重要なポイントになる。その意味ではウォシャウスキー姉弟監督の2012年作品「クラウドアトラス」ほど「使える映画」はほかにない。ヤフーの映画掲示板などを見ると、半数の人が絶賛している反面、3割くらいの人は全否定している。絶賛しているからといって油断はできないが、少なくともこの映画を全否定する人間はつきあう価値がない。アメリカでは酷評されるなど、この映画の評価がわかれる理由は理解できる。たしかに3時間弱と長いし、6つの時代の6つの物語が行き来する映画作法(グランドホテル方式というらしい)に難解さを感じる人も多いだろう。グロなシーンも散見されるので生理的な不快感を感じる人がいてもおかしくない。しかし、この映画を観て、監督の天才を直観・直感できないとしたら、その人間の感性はすでに死んでいる。好悪だけで判断し、監督の天才と原作のもつ深遠な哲学の片鱗さえ評価できないなら、その人間の知性も死んでいる。感性と知性の滅んだ人間を何と呼ぼうか?細部にはつっこみどころも多いが、それを言い立てるのはあら探しが好きなネガティブさの証明にすぎない。そう、映画を人生に役立てていこうというポジティブさがあるなら、この映画にはいくつもの発見と感動があり、全体としては陰惨で悲劇的な話ながら見終わったあと明るい気持ちになるだろう。前作「マトリックス」の場合と同じように、映画を観る前と観た後では、世界がちがって見えるし、自分の生そのものが変化したように感じるにちがいない。この映画は輪廻転生をテーマにしているようでいて実はちがう。輪廻転生を宗教的な「真理」としてではなく「希望」として扱っている。つまり「生き方」「どう生きるか」を問いかけた映画であり、ウォシャウスキー監督はこの映画でヨーロッパ近代文明を超越する革命とそれへの武装決起をよびかけている、という見方が一面的なら、愛や友情や連帯や自由が時代を超えた普遍的な価値だと言っている。実はこれは革命映画なのだ。気づきにくいが、時代も場所も異なる6つの物語には共通のテーマが不正の告発、隷属状態からの解放、そのためには危険や死をもいとわない人間の崇高な精神への讃歌である。俳優たちの反復キャスティングによる輪廻転生の暗示、異様に精緻でスピーディなアクション、ときおり炸裂する暴力シーン、一見関連のない物語の脈絡のない進行は、監督のあざとい目くらましであり、そのあざとさの中から真のテーマを浮かびあがらせる手腕が天才的なのだ。その手腕があまりに見事なので、この監督にこれ以上の作品ははたして可能だろうかと思わざるをえないほどだ。この映画に完全な拒否反応を示す人が一定の割合でいるのは、彼らが人間性をとりもどす革命を拒否し隷属状態の継続をのぞむ人間、あるいはトム・ハンクス演じる医師のように弱肉強食思想にとりつかれた拝金主義者だからにほかならない。6つの物語にすべてに共通するテーマが自由への解放、自立、連帯、革命、闘争、愛と友情、自由をかちとるための暴力による決起であり、資本主義と近代文明批判も織り込まれていることを、一つ一つの物語に即して解説しておこう。「波乱に満ちた物語」は奴隷貿易の公証人でありながら奴隷の悲惨さを目撃し、脱走奴隷に命を助けられたのをきっかけに奴隷商人の娘である妻と共に奴隷解放運動に身を投じる弁護士の物語である。この妻を「伝説のクローン少女と革命」での革命に合流するクローン少女と同じ女優が演じているが、このあたりに監督の意図が明確に感じられる。「幻の名曲の誕生秘話」は、男娼であった過去を大作曲家に握られ、自分の作品を横領しようとする大作曲家を銃で撃ち、自分の名誉と作品を守って自殺する若い男の物語。言うまでもないが、彼の銃撃と自殺は武装決起であり権威と権力からの解放である。なんと、彼がのこした唯一の作品は「クラウドアトラス六重奏」!なのだ。「巨大企業の陰謀」は、原発事故を誘因して大もうけをたくらむ石油ロビイストの悪事を命がけで暴こうとする女性ジャーナリストを描く。原発企業の悪事を暴こうとしてカーマギー社とFBIに消された労働組合の活動家カレン・シルクウッドのことを思い出した人も多いだろうが、原作者や監督にはこの事件が念頭にあったと思われる。カレンが消されたのと同じ方法で「消され」そうになるからだ。これは20世紀の物語であり、この話が中心だと考えると全体が理解しやすくなる。石油マフィアに消される科学者二人のうち一人は、男娼の過去を持つ作曲家の元恋人なのだ。二人の魂が来世で結ばれることを予感させる愛の物語は、残された手紙の文面の詩的で崇高な言葉によってとてつもない感動にまで高められる。「ある編集者の大脱走」は、交響曲でいえばスケルツォ楽章に相当する。担当している小説家が犯した殺人事件のせいで本が売れ大儲けした編集者はその小説家の弟から印税の支払いを求められ逃亡する。兄に助けを求めたが兄は彼を老人施設に監禁同様に収容させてしまう。だが施設内で仲間と語らって脱走に成功し自由を得る。おもしろい仕掛けも用意してあって胸がすく。イングランドに虐げられたスコットランド人の誇りに火をつけて追っ手を撃退するアジ演説をするのが、いちばんひ弱で足手まといになるかと見えた脱走老人なのだ。この部分は全体との関係が薄いように思われるが、弟を施設に監禁させた兄は大金持ちで、この施設の大口出資者という設定になっている。障害者や高齢者まで食いものにする資本主義のあくどさが描かれる。「伝説のクローン少女と革命」は、地球温暖化により水没した22世紀の全体主義国家ネオソウルが舞台。遺伝子操作で作られたクローン人間(複製種)は人間(純粋種)に支配され、労働力として酷使されている。複製種ソンミ451は革命家チャンに救出され初めて外界に出る。彼女は自由を得て旅立ったと思われた仲間が、実は殺されソープという彼女たちのリサイクル・タンパク源となっていたことを知り、ソウルの貧民街を拠点とするチャンの革命組織に合流していく。チャンの属する革命党は、組織の壊滅をおそれずこの国の実情を世界と宇宙に知らせ政府軍との激烈な戦闘を戦いぬいて滅んでいく。ソンミ451は伝説となり「崩壊後の地球」の人間たちの神としてたたえられるようになる。この物語はもっともわかりやすい。人間が人間を搾取する資本主義のシステムが赤裸々に暴かれるし、マクドナルド的労働自体が揶揄されている。この物語では全体主義国家を奴隷であるクローン人間と人間が手をたずさえて打倒しようとする「連帯」が描かれている。「波乱に満ちた物語」で夫と共に奴隷解放運動に立ち上がる妻と同じ女優がこのソンミ451を演じていることは前述したが、こうした自由と平等と解放を志向する魂は「輪廻転生」するという監督のメッセージをくみとることができる。「崩壊した地球での戦い」は24世紀、(たぶん)原発事故によって文明が滅びたあとの物語。原始時代のような生活をしている部族の男と、かろうじて文明を保持して残存している人間のコミュニティからやってきた女の交流が描かれる。どうもこの男の島にはかつて他の星に逃れた地球人コロニーとの交信施設(悪魔の山)があり、放射能に汚染された地球から逃げ出すことのできる最後の手がかりとなっているようなのだ。実際、生き残ったこの二人は他の星であらたなファミリーを作る。夜空には青く光る地球が見える。この島の人々の神がソンミ451である。彼女の言葉は経典となっている。島にやってきた女は、「巨大企業の陰謀」での女性ジャーナリストと同じ女優が演じている。島の男は、彼女を「自分に訪れた奇跡」だと言うが、男は何度も彼女を窮地から救う。他人を救う者が救われるのだという美しい希望が描かれると同時に、ソンミといい、ジャーナリストといい、女性の転生がこの映画のひとつの主軸であることがわかる。そう、この映画ではフェミニズムもまた称揚されているのだ。あと二つ、重要なポイントがある。島の男が「神のお告げ」を破る部分と、島に訪れた女が「議会との約束」を破る部分である。ここではさりげなく宗教と議会が否定されている。自分自身が正しいと判断したことを貫く「自立した精神」が称揚されているのだ。この映画を観て、この程度のことも読解できない人間の知性と感性は滅んでいる。言いかえれば近代合理主義文明の価値観に汚染・洗脳されている。自分に絶望するために、せいぜいこの映画を観に行くがいい。フィル・グラスを思わせるミニマル・ミュージックを基調とした音楽(トム・ティクバ)もすばらしかった。この音楽と共に、生涯、いや輪廻転生した来世までも、忘れられない映画になった。
August 8, 2013
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新書サイズの小さなガイドブックで知り、初めて雨竜沼湿原に行ったのは1986年のこと。ドライブついでの気楽な散歩と思っていたら本格的な登山で、登山靴ではなかったのでひどく難儀した(特に下山時)。それでも、猫を連れて訪れた湿原は別天地で、訪れる人もなく静かで怖くなるほどの美しさだった。地元の人と、南暑寒別岳に登る登山者にしか知られていなかったこの湿原が脚光を浴びるようになったのは、「北海道夏山ガイド」シリーズ(北海道新聞社刊)の刊行(1990年)からだ。バブル期のレジャー・ブーム、アウトドア・ブームもあってツァーが企画されるようになり、一車線のダートも舗装されたり拡充されたりした。湿原入り口までは国道から20キロ、40分ほど。まだクルマがすれ違えないほどの狭いダートは残っていて秘境感は完全にはなくなっていない。この27年に訪れたのは10回ほど、3年に一度くらいの割合。近年の特徴は花の咲く時期が遅くなってきていること、乾燥化がすすみ笹が湿原を浸食してきていること、ヒグマの気配のまったくないところだったのにヒグマが出没するようになったことだろうか。遊歩道のすぐそばが掘り返されている。去年と思われる。ヒグマは何を食べたのだろうか?遊歩道の両側が踏み荒らされている。例年の開花時期(7月はじめ)に観光客がおしかけたのだろう。残雪が多く遊歩道が歩きにくかったにちがいない。ふつう、時計回りに歩くのですれ違うことはないが、東京からのツァー旅行者は、登山者であってもお花畑に平気で入り込む。ここまで荒れると回復には5年以上かかる。ヒオウギアヤメは元気がなく群落を見ることはできなかったが、エゾカンゾウはまとまった群落が湿原の奥の方で見られた。乾燥化で池塘の干上がりが心配されたが、大小数百の池塘は健在。時間により色を変え、雲を映して美しい。ここのワタスゲは背が高く、ちょうど盛りだった。2枚目は絶滅危惧種とされているクロバナハンショウヅル。ハクサンチドリ、ショウジョウバカマ、エゾノツケソウなど春の花も目立っていた。雪どけの遅い年は、春から秋の花が一斉に咲くことがあるが、今年はややその傾向がある。イヌゴマという8月の花とこれらの花が同時に咲いているのは珍しい。リンドウもかなり大きな蕾になってきていた。お盆あけには咲くと思うので、リンドウめあてにもう一度訪れてみるのもいいかもしれない。
August 4, 2013
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衝撃的な本だ。もちろん本が衝撃的なのではなく、中国が東トルキスタンでやっている虐殺、拷問などの人権抑圧、ウイグル人差別が衝撃的なひどさなのだ。文春は極右出版社だ。ホロコーストの否定やナチス賛美が犯罪であるドイツでは、文春の本や雑誌には翻訳出版すること自体が不可能なものがたくさんある。そういう出版社から著書を出す著者についても、その不見識を一応は疑っておく必要がある。だが本の出版は出版社の担当社員との個人的な人間関係を契機にすることが多い。この著者のように良心的な著者の優れた本がこうした出版社から出ることもあるゆえんだ。しかしなぜ岩波やちくまから出なかったのだろうか。こうした出版社から出た方が、はるかに多くの人が読んだだろうにと思う。取材費用を負担してもらっているといったような事情がなければ、単純な「反中国運動」に利用されかねない本書のような内容の本を「極右出版社」から出すなどありえないし、あってはならないことだ。NHKの「シルクロード」を持ち出すまでもなくシルクロードに憧れる人、実際に旅する人は多い。トルファンやウルムチを起点にカシュガルを経由し中国パキスタン国境のクンジュラブ峠を越えてフンザやギルギットまで行くカラコルム・ハイウェイはバックパッカーにとって憧れだ。一般の旅行者が8000メートル級の山を近くから見ることができる場所はチベット側からのヒマラヤとここしかない。登山愛好者にとっては天山山脈もある。登山自体はエキスパートの世界だが、キルギスやカザフスタン側にはお花畑と氷河のハイキングコースもあり、手軽に絶景が見られるようだ。いつか行きたいと思っているこのあたりのことを知りたいと思い、手にとったのがこの本。著者は近現代日中関係史が専門の人で、北京に留学経験もある。副題は「亡命者が語る政治弾圧」。中国でいう新彊ウィグル自治区、東トルキスタンで中国が行っていることは断片的には耳にしていた。チベットと同じようなことをやっているにちがいないと想像していたが、想像以上にひどいことが本書を読んでわかった。著者は2006年に「世界ウィグル会議」現主席のラヴィア・カーディルにインタビューしたことをきっかけに、世界各国に散らばるウイグル人亡命者への聞き取り調査を行うようになったという。その中から、武装闘争にかかわった人をのぞき、人柄に魅力を感じたり証言が信頼に足ると思われた人たちの証言を紹介し検証したのがこの本。大富豪から独立運動のリーダーになり滞在しているアメリカで「暗殺」されかけた前述のカーディル、ヨーロッパでの独立運動のリーダーであるドルクン・エイサ、タクラマカン砂漠での核実験による被害を告発した医師アニワル・トフティ、東トルキスタンの学術調査を行っただけで「スパイ」とされ逮捕された東大大学院生トフティ・テュニヤズのほか、1997年2月の「イリ事件」に連座した3人、ウイグル社会の最底辺に育ち、難民同然にアフガニスタンにいてアルカイダと誤認されアメリカ軍に逮捕されグアンタナモ収容所に長期拘留された5人の、合計12人の聞きとりが収められている。これが現代かと思うような中国の弾圧のひどさはともかく、亡命者や政治難民を中国に送り返す中央アジアの国々、非を認めない不誠実なアメリカ、グアンタナモの5人を受け入れたアルバニア政府といった情報が得られたのは貴重だ。キルギスの警察の腐敗などについてはバックパッカーの間でも広く知られているが、送還すれば殺されるのがわかっているのに送還するこれら中央アジアの国々は虐殺加担国家として糾弾されなければならないし、アルバニアのような国については旅行と友好を検討すべきだろう。大事なのは、ウイグル問題やチベット問題(中国による東トルキスタン侵略やチベット侵略)にかかわって運動をしているのが、日本では極右勢力だということだ。著者も、政治・歴史的に理解するより先に、単純な話に飛びついて「正義」を主張するような「保守派・愛国派」に対する批判を「おわりに」で述べている。日本の極右勢力と中国共産党は極似している。同類と言ってもいい。南京の人口が20万人しかなかったのに犠牲者を30万人という南京大虐殺はなかったというのと同じウソの論理を、中国共産党はチベット大虐殺で使っているからだ。どちらも卑怯者なのだ。南京大虐殺やチベット大虐殺が正しいなら、なぜ堂々と虐殺を正当化しないのか。民族問題というが、パレスチナ難民は1千万人を軽く超えるし、カレン民族は500万人、ウイグル族も1千万を超える。ヨーロッパの小国より多い数の人間が、住むところを追われ、虐殺され、ひどい人権抑圧にさらされているのがこれらの地域である。パレスチナ問題以外は、「社会主義国」の「国内問題」であるという意識からか、左翼・新左翼勢力は取り組まず、極右勢力がこれらの問題を利用する状況が野放しになっている。こうした状況を変え、実効性のある独立運動支援を作り上げるには何が必要か。本書からはそういったこともくみ取ることができるだろう。
August 3, 2013
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同じ著者の「韓国の昭和を歩く」のきちんとした日本語と内容に好感を持ったので、食べ歩きガイドブックとでもいうべき本書を読んでみた。読書の目的はいろいろだし本もいろいろだ。知識や情報を得るためにうのみするように本を読む人が最も多いだろうが、本を読むのは自分であって、徹頭徹尾、エゴイスティックな行為であるべきだ。LCCが就航してアジア個人旅行がしやすくなった。北海道からは韓国・台湾・中国・香港・タイの順で行きやすい。韓国へは毎日5~6便出ている。どこへ行っても同じようなチェーン店が並ぶ金太郎飴のような日本の旅はつまらない。古都に興味はないし、北海道にかなう大自然は本州以南にはない。韓国の地方には、日本の1960年代や70年代のような風景がまだ残されているという。そういう風景の中で本場の韓国料理を食べるような経験をしてみたいとかねがね思っていた。しかしふつうの旅行ガイドブックの情報などあてにならないし、有害なだけだ。フランス料理の源流がイタリア料理であるように、沖縄そばやたこ焼きが戦争から生まれたものであるように、料理にはその国、民族の歴史が凝縮している。だから、そうしたことを踏まえた人が書いたものでないと、どうしても軽薄な内容になってしまう。その点、この本は完璧。この本を片手に韓国を歩けば、韓国で最もおいしい韓国の代表的な料理を味わえるだけでなく、土地柄やその料理が生まれた背景なども同時に「学ぶ」ことができるにちがいない。こういうのが生きた「学習」だ。この本を読んで大まかな旅行計画を立ててみた。この本の第2章にしたがってまず釜山に入る。名物はテジクッパとミルミョン。ミルミョンは北朝鮮の冷麺がこの地で変化してできたもの。釜山のある慶尚道はマッコルリの名産地で韓国の他の土地よりおいしいというから、花飯という名の美しいビビンパブで有名な晋州にはぜひ滞在してゆっくり味わいたい。第4章「味といえば全羅道」は全5章のうちで最も分量が多く、著者の筆にもこの地の食べ物のおいしさを伝えようという熱がこもってくるように感じられる。時間があれば済州島から北上して全羅南道、全羅北道と北上し、この「食の都」を味わいつくしたい。この地方、特に全羅南道に豊かな食文化が花開いたのは、この土地が流刑地であったからだという著者の指摘は興味深い。第5章「辺境の地で咲いた芳味」は情報としても貴重。ソウルの東側にある江原道はそば料理が多いらしい。また朝鮮アザミの炊き込みご飯などが健康食として人気になってきているという。こういう、日本の韓国料理店では食べられないものをぜひ堪能したい。ソウルのことはあまり書かれていないが、この著者には「ソウルを食べる」という共著書もあるようなのでそれをあたることにしよう。1967年生まれの著者が2006年に書いた本なので、情報は古くなりつつある。60年代~70年代的風景、そして人情が失われないうちに行っておきたいものだ。
August 2, 2013
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つまらない映画は多い。つまらない演出のオペラも多い。つまらない演劇はもっと多いだろう。つまらないだけのものはあまり害がない。つまらなくなった原因を考える「前向きの」鑑賞もできる。しかし、日本映画(やテレビドラマ)に多いのが、観客を侮辱しているとしか思えない作品である。観客をという言い方は正確ではない。観客の知性を侮辱している作品があまりに多いと感じられる。観ているわたし自身の知性を侮辱された気がして不愉快になるケースが多く、日本の映画やオペラからはすっかり足が遠のいてしまった。この映画はちょうどその逆だ。おもしろいというだけではない。観客の知性に敬意を払っている、観ているわたしの知性に敬意が払われている、と感じる。ウディ・アレン作品にも通じるが、この映画はもっと独特だ。ファンタジーでもなく、ストーリーもないからだ。舞台はウィーン、パリ、ロンドン、デンバー、フェニックスを転々とする。とりあえず記憶に残っているうちに、ストーリーめいたものを書いておこう。貧困からの脱却をめざし妹のためにウィーンの高級娼婦になるスロバキア人の姉は、彼女を買う予定だったイギリス人ビジネスマンとすれ違い、彼の取引相手に買われる。このビジネスマンの妻は若いブラジル人カメラマンと愛人関係にある。それを知ったカメラマンの同棲相手は失恋気分でブラジルへとひとり帰国するが、飛行機の中で失踪した娘を探す老紳士(アンソニー・ホプキンス)と知り合う。雪害で空港に足止めをくう間に彼女は性犯罪更正プログラムに参加中の性犯罪者をそうとは知らず部屋に招き入れるが、彼は懸命に自分をコントロールし、やる気満々の彼女は失望する。高級娼婦の二人目の客は、ロシアマフィアのボス。そのボスに売春相手の手配をしている男の妻はイスラム教徒の歯科医に恋をし、歯科医も彼女に夢中で仕事に手がつかない。ホプキンスはアル中更正集会に参加するがそこにはその手配師の妻も参加し「道ならぬ恋」を告白する。手配師はボスが買春中、待っている娼婦の妹と親しくなりウィーン市内をドライブする。ひとつだけ事件が起き二人が死ぬ。この事件もまたエピソードにすぎず、誰もその真実を知ることがない。マフィアのボスから電話で「いまノックしたのはおまえか」ときかれた手配師は「イエス」と答える。そのせいでボスは死に、一晩で大金持ちになった娼婦にちなんでブランカと名乗っていた女は大金を手に入れるが、その真実を知っているのは、映画の登場人物の誰でもなく、映画を観た観客だけなのだ。この部分が、「観客の知性に敬意が払われている」と感じ痛快きわまりない。しかしこの部分だけでなく、ヨーロッパ各都市で複数の男女がつながり、人生の分かれ道を選択しそれぞれの人生を歩んでいくと要約できないこともない全体が、観客の想像力を刺激するだけでなく、その想像力自体に敬意が払われていると感じるのである。こんな映画は観たことがない。娼婦のおっぱいで始まりおっぱいでとじられる演出・構成は粋の極地だし、ヨーロッパだけでなく、アメリカの空港なども舞台にしたことでリアリティを高めた。この映画はフェルナンド・メイレレスというブラジル人監督の2011年の作品。劇場未公開だというから蠍座での上映が世界初ということだ。アンソニー・ホプキンスが出ている映画を劇場公開できないのは情けないにもほどがあるが、やはりこの大俳優が出ると場面が引き締まる。この監督の名は記憶すべきだし、これまでの作品もぜひ観ておきたいという気になった。
August 1, 2013
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