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朝早くから、鶯がないている。 かっては鶯はこんな人里ではあまり鳴かなかった気がする。ほかにも山でしか見なかった鳥を、家の軒先で見るようになった。山は植林が進み、鳥たちの食べるものが少なくなっているのかもしれない。 兄は昨日の昼から落ち着いてきた。受け答えが以前の兄に戻ってきた感じがする。ここではほとんど兄の言動に干渉せず、したいことをさせており、気持ちが自然に流れるようになったからかもしれない。私もほっとしている。 そんな兄がこんな俳句を野の花社の前の黒板に書いている。 降りそそぐ 老鴬の声 祈りあり 兄の言葉から祈りというような言葉は聴いたことがなかった気がする。この句を読んで、あっ、兄の気持ちに何か良い変化が起こったなという気がした。 また兄は昨日来た福祉事務所の人たち3人の、病院との関係を保つために退寮命令を出されるのは避けて、自主退寮の形にしたほうがいい、と言う意見を聞き入れて、そうすることにもした。このことにもほっとしている。私からはもうそう言う気はしなくなっていたところもあり、福祉の人には感謝している。 その兄が昨日の夕方6時半過ぎに、ちょっと出かけてくるといって出かけたまま、今朝にな手も帰ってきていない。一昨日の夜も出かけて、朝2時かそこらに帰ってきていたようだけど。となりの町の飲み屋にでもでかけ、知り合いとともに飲んでいるのではないかと思うが、少し気がかりである。
2005.05.28
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躁鬱病といわれる言葉があり、そう状態というのがどういう物かは本で読んだ知識はあったが、実際にそういう状態の中にある人とは出会ったことがなかった気がする。兄の今の状態がそうなのだと思う。鬱状態の兄、そこから少し回復した兄、そして軽そう状態の兄、それから本格的な総状態、あるいはその入り口にある兄、それぞれとても明確な違いがある。そして本格的な兄のそう状態というものに出会い、少しびっくりしている。独断専行、多動、高圧的な自己主張と人の批判や注意に対する激しい反発、自己正当化しかないあり方、その変化に戸惑い、昨日の昼までは私も少しむきになって対応してしまった。 そう状態にある兄の言動を制止することは、ほとんど不可能な気がする。そうしようとしたら喧嘩になるし、力ずくで押さえ込むしかない。今はそんな暇はないからもうやりたいようにさせておくしかない。しかし生活してゆく上でこのままの状態を続けることは、私にとっても不可能な時期が近いうちにくる気がする。ガスの使いすぎ、夕方8時頃から電話に張り付いて、ずっと大学時代の友達多数に電話を掛け捲るような状態など、私の経済状態では支えかねるようなこともおきてきている。 もう少し経済的に余裕があったら、いいのだけど。 岐阜の病院の寮からは31日を持って退寮命令を出すことになるだろうという言葉も貰っている。兄にそう言っても、異議申し立てをすることができるから簡単には退寮させられない、こちらから自主的に退寮を申し出るようなことはするなといわれている。私は兄の保護者になっていて、私の判断でそうすることができる。そうしないと、もう岐阜の病院からも兄は受け入れられないという状態になるだろう。この近くの精神病院の多くからそういう状態の対応をされていて、兄の入院できる病院が少なくなっている。こういうことは良くあることらしい。 兄は昨日の朝、寮のスタッフの女性が命の危険を感じるような具体的行動に出て、その女性はその後恐怖感もあって泣いてしまい、午後から仕事をやめて帰られたとか言う。その女性の恐怖感など兄に伝えても、どこが悪い、向こうが悪いのだ、おまえはそんなこともわからんのかと、私をど叱るような状態である。
2005.05.25
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山の中でシキミをきろうとしたら携帯がなり、寮のスタッフや医師から寮での生活は今は困難だから、一度落ち着くまで私のところに外泊ということにしたい、との連絡が入る。その前にアンが昨日今日と荒れていつという話もある。それが事実であれば寮のスタッフや医師の判断に任せるしかないと思う。その旨伝える。その後医師から私のところに1時外泊という提案があり,それを受け入れる。昼頃車で送られてくる。私が山の中にいる間に。 帰ってきて会った感じではそれほど荒れた様子はない。ただ怒りっぽくなっているのは事実。 いまど喧嘩した。私も怒りが爆発した。
2005.05.24
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数日前にモンジュにべてるの家という、北海道浦河にある障害者のコミュニティーのこと紹介され、そのホウムページを覗き、いい感じだったので本も取り寄せました。仲間に症状が出ると、順調に回復しているんだね―とか、言い合ったりしてとても楽な感じで生きていることが伝わってきます。自分を見つめなおすというのではなく、自分を研究すると言う方が良いとか、私自身のためにもなるし、私と兄妹との関係を深めてゆくのにもとても触発されるところがありそうで、こうしたところのことを知ることが出来て、喜んでいます。 兄は寮の方が退寮を求める中、それに抵抗して何らかの対抗手段を考え、実践してゆくようで、今は見守るしかない感じです。寮のスタッフに対しては闘争的な姿勢をとり、戦うという感じです。これも兄の回復過程でおきていることで、それ自体を悪く言うことは出来ません。寮のスタッフや医師はそれなりに良心的にやっておられるのですが、基本的なところで今の社会のあり方に患者が適応するようにことを勧めようとし、そうできないものは薬で押さえて無気力にするか、退寮させるしかないようなシステムの中いるので、兄のような人が出てくると対応しようがなくなってしまうのだと思います。べてるの家なら、現在の兄は回復過程にあるものとして、順調に回復しているんだねーといわれそうですが、寮のスタッフや医師にとっては症状が出ていて社会生活は困難だから、縫うインして病院の中に収容しておとなしくさせるということになります。 私としては、私自身がべてるの家のような対応をしたいのですが、まだ自分の中にもそうできないところがあり、多分それで妹がここでもくつろげず、兄がくることに不安を感じ、ともに生活することが出来ないというようになっていることに加担している面があると思います。 上の写真は昨日岐阜での話し合いの後帰ってきて、午後3時頃から山に入ったとき切ってきた赤ドウダンの見事な木です。
2005.05.24
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数日前にモンジュにべてるの家という、北海道浦河にある障害者のコミュニティーのこと紹介され、そのホウムページを覗き、いい感じだったので本も取り寄せました。仲間に症状が出ると、順調に回復しているんだね―とか、言い合ったりしてとても楽な感じで生きていることが伝わってきます。自分を見つめなおすというのではなく、自分を研究すると言う方が良いとか、私自身のためにもなるし、私と兄妹との関係を深めてゆくのにもとても触発されるところがありそうで、こうしたところのことを知ることが出来て、喜んでいます。 兄は寮の方が退寮を求める中、それに抵抗して何らかの対抗手段を考え、実践してゆくようで、今は見守るしかない感じです。寮のスタッフに対しては闘争的な姿勢をとり、戦うという感じです。これも兄の回復過程でおきていることで、それ自体を悪く言うことは出来ません。寮のスタッフや医師はそれなりに良心的にやっておられるのですが、基本的なところで今の社会のあり方に患者が適応するようにことを勧めようとし、そうできないものは薬で押さえて無気力にするか、退寮させるしかないようなシステムの中いるので、兄のような人が出てくると対応しようがなくなってしまうのだと思います。べてるの家なら、現在の兄は回復過程にあるものとして、順調に回復しているんだねーといわれそうですが、寮のスタッフや医師にとっては症状が出ていて社会生活は困難だから、縫うインして病院の中に収容しておとなしくさせるということになります。 私としては、私自身がべてるの家のような対応をしたいのですが、まだ自分の中にもそうできないところがあり、多分それで妹がここでもくつろげず、兄がくることに不安を感じ、ともに生活することが出来ないというようになっていることに加担している面があると思います。 上の写真は昨日岐阜での話し合いの後帰ってきて、午後3時頃から山に入ったとき切ってきた赤ドウダンの見事な木です。
2005.05.24
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昨夜は兄が飲むと苦しくなるという睡眠剤を、1回分それぞれ種類の違いもの4錠を飲んで寝ました。兄の苦しみがどんなものか体験的に理解したかったからです。その結果今日の昼過ぎ2時まで寝てしまいました。途中朝5時頃小便に起きましたが、頭がくらくらして足がふらつき、意識は歩こうとするのに身体がついていかない感じで、つんのめって倒れそうな感じがして危険を感じました。兄は前の病院でも倒れて柱か何処かに顔をぶっけていく針か縫う傷をしていますし、今の寮でこの薬を処方されてから2度ほど倒れています。今日の2時になっておきてからも頭はふらふらするし、言葉はろれつが回らないような、変な喋り方になっています。夕方になって知り合いの女の人から電話がかかってきましたが、彼女もすぐそのことに気がつきました。今夜の11時過ぎですけど、まだ頭がふらふらしています。 おかげで今日は仕事があまりできませんでした。雨の降ることはわかっていましたが、カッパ着てシキミを取りに行くことはできるのでそうするつもりでしたが、出来ませんでした。明日は妹とともに花市場に行くついでに、兄のいる病院に行き、寮のスタッフや医師などと話し合う予定です。寮での生活をこれ以上続けさせることは、困難だという寮の側からの電話が入りそういうことになりました。 ともかくいろいろなことを体験させられる日日です。この困難、ハードさは刑務所ではけして味わえませんが、これが生きるということであり、私はそこから多くのことを学び、きたえられている気がします。何かおかしいような、にこにこ、この事態を楽しみ引き受けようという気もちが湧いてきます。今日も妹とも夜になってよく話し合いました。妹がここにいて良いのか不安になるというので、いてもいい、私は私自身も含めた精神的に苦しんでいる人が、自己回復していくことをともに支えあうような場としても野の花社のことを考えている。それは自分がこれまで苦しい中を生き抜いてきたことからそう思うことでもある。だかだ兄や妹が苦しんでいるのを見ながら、出て行くほうがいいという気餅にはならない。何とか自分を取り戻して楽に生きられるようになって欲しい、それが私が本当に思っていることだ。それは私も普通の人間だから、時には妹が出て行けば楽だな―とか思わないわけではない。だけどそれはふと思い浮かぶ思い出、そう現実に望むということではない。そんなことについてです。妹はそれを分かってくれました。 写真は昨日山で見かけた木の枝の上で昼寝している蛇を写したものです。
2005.05.22
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昨日は岐阜の生花市場にシキミなどを持っていくついでに,兄を乗せて岐阜の病院にも行きました。始めは医師の診察を受けて帰る予定だったのですが、1回目の診察を受けたあとに兄の気が変わり,当分は兄は寮で暮らすということのになり、私だけ帰ってきました。兄が寮に帰りほっとするところもあり,昨日は9時頃に眠りました。身体に疲れがたまってだるい感じもしていたので。 今回の兄の帰宅とその後の経過に関しては、私は流れに沿うという感じで物事に対処したため,比較的に楽でした。全てを兄の意志に任せるとか言うのではなく,日日の流れ、できごとの中で、兄の気持ちも聞き、いう必要のあると感じたことはいい、ただ自分なりに生きてゆく、そんな感じで時を過ごしました。そしていろいろな人々に会い、話し合い、久しぶりに何か深みに触れる出会いも体験しました。 その兄が野の花社の前にかけてある黒板に、以下のような俳句を残してゆきました。 奢がの花 鐘撞く時に 揺れており 石垣に 草刈る人や 夏はじめ 鶏の声 聞こえくる寺 夏涼し
2005.05.19
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今日はまたかなりハードな日だった。 朝8時半頃には車で30分くらいのところにある、安らぎクリニックという精神科の医院に、兄と行き、兄と岐阜の病院の医師との関係、薬の適否、これからの兄の身の振り方などについて話し合いに行く。医師は結局今の病院の医師・スタッフともっと話し合ってことを進めるしかないといい、彼がそこの対処の適否に付いて言うことなど出来ない、などということをはっきり言ってくれる。一般論だが、そううつ病は現在の段階では薬物療法しかないという。 その後美濃加茂市にある保健所に行き、保健婦、士かの人と、兄はこれからどうしたら良いかについて、相談に乗って貰う。精神障害者の、そううつ病患者の抱えている問題、そう状態になったときどんなことが起こるかについてといったことなどとても深く理解している人で、兄に対してとても説得力のある感じで話してくれ、また良く耳を傾けてもくれ、とても心癒されるものを感じた。私は途中彼女と出会えたことをとても嬉しく感じていることを伝えていて、自然に泣けてきて少し涙を流して泣いてしまった。ほんの少しだけど。 彼女のアドバイスを受けて岐阜の病院の援護寮に行き、これから兄がどうするかについてもう1度話し合うことになり、午後からそこに軽トラで行く。その前に兄が以前はいっつていた精神病院である、望みの丘病院に行く。そこのロビイで昼食を摂るために。昼食を摂っている間に兄の数人の知り合いに兄が話し掛けたりして、楽しく過ごす。兄が少し自分を大物に見せるようなふるまいをしている気はしたが。 その後午後2時に岐阜の援護寮に行き、25歳くらいのケースワーカーの男の人と話し合う。彼らは、このまま兄を退寮させることは、兄の社会復帰を余計に困難とする思われるので、したくない。今のままの高圧的な言動がつづくかぎり、地域の人との間で軋轢が生じる可能性が高い。今の兄、最近の兄の寮での生活を見ていてそう思う。そんなことを言う。 兄はいやそんなことはない。地域の人々との間にトラブルを起こしたこともない。などと言ったりする。私はそれに対しては、事実としてはそうしたことが何件もあり、これまで何度も再入院する羽目になっている、そんなことも伝えてみる。 私はその後精神科医の多くが、そううつ病は脳伝達物質の増減によって起こる問題で、薬で押さえることしかできない。みたいに言うけれど、兄がそう状態になっているときに現れてくるような問題行動が、どうして生まれるかについて、兄が深く理解しようとすれば、そうしたことは克服される可能性は大きくなると思う。そう状態になったとき自分がなにをやってきたか、できるだけ詳しく見つめ直し、その状態における自分の姿に本気で直面し、そのでたらめさ、人々がそのことから受けた苦痛、そう言ったことを深く理解していけば、2度とそんな状態になりたくないとかんがえられるようになるだろう。またそれは、今この場で兄がここの医師やスタッフを馬鹿にし、そんな馬鹿から教えられることは何もないというような高圧的な言動がでてくることはなくなるだろう。そう状態の中での自分の言動がどれほど醜く、ばかげていて、幼稚なものであるか理解できたら、他人をそんなに馬鹿にすることなどけして出来ないはずだ。 こうしたことは私が自らの犯罪とそこに至るまでの言動、経験、考え方などをこと細かく見つめ直し、自らのどうしようもない醜さに直面することを通して変わってきた体験から思うことだ。医師はそううつ病は薬で対処するしかない、内的な伝達物質の増減の問題に過ぎないようにいい、兄もそれを真に受けて自分のそう状態における言動はそういうことが原因になっていると思い、そこにおける言動にいっせつ責任を負わないような生き方をしてしまう。わたしはかねてから兄に対してもそのことをいい続けて来たが、兄は今までのところそうすることはなかった。だから兄が今度は大丈夫みたいに言うのを聞いてもそれをそのまま受け取ることはできない。これまでと同じことが起こる可能性が大きいと思う。そうしたことをふせぐためにも、兄にはほんとうに自分のやってきたことを見つめなおして欲しいと思う。また医師やここのスタッフにも薬にだけ頼るようなかんがえ方はあらためて欲しいと思う、などといったりする。 兄はそれに対し、おまえのやったことは犯罪だからそうしたことが出来たのだろうが、俺は犯罪を犯したわけではないから、とか言ったりもする。面接したOさんはかなりそれをまとも見受けとめてくれたが。 その後夕方7時頃に野の花社に帰り、妹が買ってきてくれていた安売りの弁当などで夕食を済ませる。妹は今日は朝からご飯を食べる気がしないと言い、精神的に相当こたえているような様子。その妹と、彼女が取り上げている形になっている兄の携帯を私に渡すようにということで、シビア―な話し合い。兄が携帯に何件か電話が入っているはずだから、その着信履歴を見たいから携帯を見せるように妹に言いつづけていて、妹はそれすらしないこと、以前兄が電話を掛け捲り1ヶ月で33万もの金を使ったことがあるからという理由で、そのことに対し、気持ちはわかるけど、今はここに私の安い電話があるからそんなことはしないし、いつまでもやたさないわけには行かない、兄がここを離れる時にはわたさなくてはいけない。その後兄がどうしようもないほど携帯で金を使うことになったとしても、そこまで私たちがコントロールできるわけではない。その責任は兄がとるしかない。そんなことまでふせぐことはできない。 そんなことに関し、3人で激しいやり取りをする。ほんとうにもう3人でともに生活することはできないことをこうした現実の中で兄もどうしようもなく感じてしまっている。一応兄の携帯は私が預かり、兄には着信が9件あることを見せ、妹との約束もあるから、兄がここをは慣れるまでは私が預かる形にするということで、兄にも了解を取る。 2,3日中に兄は岐阜に帰り退寮の準備を始めることになりそう。退寮しても医師との関係はしっかり持ち、どうしようもないそう状態に入ることのないよう気をつけるということということで。兄はこれまでのようなことは繰り返したくないということで、そうしたいというかなり強い自覚は持っている。 以下は毎日新聞から掲載の許可が下りたので,4月19日の記事を転載します。4月19日 見出し :連続放火・爆破事件:28年経て謝罪--東本願寺爆破、加藤三郎さん ◇“人は罪深い”親鸞に共感 77年11月に真宗大谷派・東本願寺大師堂(だいしどう)(御影堂(ごえいどう)=京都市下京区)を爆破したのをはじめ、宗教施設を主な標的にした放火・爆破など8件の罪で懲役18年の刑に服した加藤三郎さん(56)=岐阜県七宗町=が18日、同寺を訪れ、発生以来28年ぶりに謝罪し、熊谷宗恵宗務総長もこれを受け入れた。大谷派の宗祖親鸞聖人は「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という悪人正機説で知られる。教義に沿った対応とはいえ、門信徒600万人といわれるわが国屈指の大教団の最高責任者が爆破犯人と面談して赦(ゆる)しの言葉をかけたことは、宗教界に大きな波紋を広げそうだ。【田原由紀雄、丹野恒一】 加藤さんは、宗祖親鸞聖人の御真影(ごしんねい)(木像)を安置した阿弥陀堂を訪れた後、午後3時から約20分間、熊谷宗務総長と面談。「申し訳ありません」と頭を下げ、「謝罪のしるしに」と現金1万円を差し出したという。 さらに、「服役中に出会った大谷派の教誨(きょうかい)師から『自分は愚かで罪深い』と言った親鸞の言葉を聞き共感しました」と話した。熊谷氏は、加藤さんに「親鸞は『人は業縁(ごうえん)によっては何をしでかすか分からない愚かな存在だ』と述べている。だから、私たちはあなたへの憎悪もなく、脅威にも思っていない。自ら罪を感じ取り、親鸞の御真影の前に身と心を運んできたことは尊いことです」と語りかけたという。加藤さんは「私の過ちで多くの人に迷惑をかけた。今後も被害者への謝罪活動を続けたい」と話している。 宗教家の父を持つ加藤さんは高校時代にべ平連(ベトナムに平和を!市民連合)に加わり、在日朝鮮人とともに建設現場で働くうち「日本人としての自分の侵略性と差別性を克服、解体することを根本的な課題とするようになり、後に引けない闘争(爆弾闘争)に至った」。宗教施設を狙ったのは「宗教組織の一端を担う家に生まれ育ち、その偽善性や矛盾を感じていたため」という。 加藤さんは熊本刑務所で服役し、02年に満期出所。現在は古里でサカキやシキミを摘み、「道の駅」に卸すなどして生活している。「あのころの私は、他の人から隔絶した観念だけで生きていて、現実と触れ合って生きてはいなかったと思います」と若い日の過ちを顧みながら、長い時の流れをかみしめていた。……………………………… ◆連続放火・爆破事件 76年から約2年間にわたり、平安神宮、東本願寺、梨木神社(いずれも京都市)、神社本庁(東京都)などで放火・爆破事件が起こり、計12人が負傷。東本願寺の事件は、77年11月2日夕、当時は大師堂と呼ばれていた御影堂で時限装置付き消火器爆弾が爆発した。翌3日、鴨川で「世界赤軍日本人部隊闇の土蜘蛛」を名乗る声明文が見つかった。
2005.05.16
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昨日は久しぶりにこれから始めようとしている、もう1年も前からだけど、サプリメントの紹介の仕事を、親しい女性の友達に対してしました。すると彼女いわく、あなたにはそういう仕事似合わない。私もそうかも知れないとも思います。昔逃亡生活をしているとき、公団住宅の申し込みの代行業の契約取りの仕事をしたことがありますが、宣伝のハガキに対するコンタクトがお客のほうからあれば、80パーセントは契約が取れると聞いていましたが、6,7軒回って1つしか取れなかったことがあります。何か私はそれらのお客の部屋に上がって、ゆっくり話しているうちに契約を取るという方向にエネルギーが向かわなくなってしまうということがありました。もっともそのときは、そういう仕事や、雇われている業者に対する信頼感もなかったから、そんなふうにしかやれなかったのだという気もしますが。 今回は扱うサプリメントも最大限化学的な物質を使わず、自然から、植物などから採ったもので作るようにしていたり、古くなると効果が減少するということから、店舗など作って、あるいは個人が大量に買いこんで他の人に売るようなシステムは出来なくしていて、製品はみな個人が直接生産工場のある本社に注文を出して取り寄せるとか、栄養素を破壊しないために徹底した低温処理でサプリメントを創っているとか、とても信頼できる会社のものです。また人の健康の増進に役立つものと思われることから、それを紹介することは、私にとって好ましく思われる仕事です。 でも私は、この会社の製品はどこの会社の製品よりもいいから、ぜひ購入してください、みたいに熱っぽくこの製品を他の人に紹介することはしません。ごく淡々と製品をそのよさを紹介し、私の紹介だからといって買うことなどしないように言いますし、相手が本当に自分の意志で買いたい気持ちにならなければ買ってほしくないこともしっかり伝えるつもりです。出なければ私も気が重いし、相手も義理で買うみたいな気の重さを抱いてしまうことになります。私はこのサプリメントの紹介という仕事を通して、相手が買う買わないは別にして、より信頼関係や、楽しいことが増えればいいと思います。買ってくれなくても、その紹介に関しても含めそっちょくな話し合いが出来たりすればいいと思います。 この仕事を気の重いものにはしたくないのです。楽にやれる仕事、気長にやれる仕事、少しでも相手に役に立つ仕事にしたいと思います。もちろん仕事であるかぎりそのことから十分な報酬も受け取りたいのですが。少なくともこの仕事のほうが、私の生き方とはつりあっています。榊やシキミを取って売るというのは、私はその仕事に金を稼ぐための手段としての意味合いしか感じず、その仕事の内容自体にはあまり価値を感じていないのです。仏壇や神棚にそうしたものを飾るということに、根本的な価値があるとは思わないのです。ただ榊採りなどの仕事は、山の中で自然を相手にするものという点では、とても気に入っていますが。 それともしうまく行けばですが、この仕事である程度の収入が得られるようになれば、私自身がもう少しやりたいことができるようになりますし、妹や兄に対しても何か良い出会いの場を紹介したりすることもできるようになると思うのです。山の仕事ももう少し続けていれば、もう少しいい稼ぎをできるようになるとは思いますが。 今日は朝方妹とシビア―な会話、やり取りをしましたが、そのことで彼女との関係に適当な距離が出来始めたかもしれないと思っています。兄が来たことがきっかけにもなって、妹が自分の居場所を私との関係においてではなく、他の形で創り始めようとしているのかもしれないとも思います。
2005.05.14
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今朝5時半頃起きてみると、兄が野の花社の前の道に水を撒いていた。昨日もそうだった。そのほか兄には私の服の洗濯や、流しの食器などを洗うことなどはしてもらうことにして、兄はそうし始めている。ガスコンロに薬缶をかけっぱなしにしたり、身体をきれいに拭くために、長いこと湯沸し気を使ったり、少しひやひやしたことはあるが、何とか落ち着いた生活に入りつつあるようにも思う。しかし妹はやはり居場所がない感じで、食事もあまりゆっくり取れない感じになっている。この先妹がどうなってゆくかも不安である。ともあれ今の私にはこの状況を、どうしようという気はない。毎日毎日を流れの中で決めてゆくしかない気がする。何か決断しなければならないときがこないかぎり、このままで行くのが言い気がしている。岐阜の生花市場には昨日、一昨昨日に出荷し、合計で2万5千円ほどの稼ぎがある。5月前半はその他道の駅で2万くらいの5万円の稼ぎ、かなり苦しい。今日もかなり冷え込んだ朝だ。
2005.05.14
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今夜は兄弟妹3人で、9時頃から10時半ごろまで、よく話し合った。と言っても良くかみ合った話し合いとはいえなかったが。兄がここで暮らしたいという意向を私に伝えていて、妹はそのことを伝えられて居らず、そのようなことに関しどう思うかといったことを話し合ったのだ。話の内容については書かないが、こんなことについて、かなり突っ込んだ話し合いが出来たのはこれが初めてだ。しっくりした結論が出たわけではないけれど、ともかく話し合えてよかった。妹も思ったほどきつい感じにはならず、まずまず平静に話し合えた。 その前に摂った夕食も豪華だった。久しぶりに刺身など食べた。
2005.05.11
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兄がそう状態が昂じているということで、閉鎖病棟に入れられそうになる。選択肢として外泊ということで私の家に帰ってもいいということがあったので、一応1週間ぐらいということで、野の花社につれて帰る。兄としてはあまりに強い薬を飲まされることに抵抗があったようだ。6日の日に美濃加茂に連れて行ったときも、途中でたらたらと鼻血を出していた。兄の説明では、これは薬を身体が異物として押し出そうとして起こるのではないか、とか。鼻からも身体からも、くさいものが出てくる。しかしそういうと医者らは、妄想だとして精神分裂症―統合失調症とみなし、閉鎖病棟に入れたり強い薬を飲ませたりするから、患者は黙っている、とか。兄の言い分は筋が通っている気がする。 妹の不安定な状況もあり、妹とかなり話し合った上で、妹の最終的な合意を得られないまま、私の決断で兄をここへ連れてくることにする。今日の夜までに兄を私が迎えにこなければ、病棟に入れるという医師の主張だったので、閉鎖病棟などに入れられるままにしていたら、兄がまた傷つくとか、私との信頼関係を損ねることにもなるから、今回はここに連れて帰りたいと、電話で強く私の気持ちを伝え、その線で決めた。 連れてきてよかった。兄は今日はあそこでは泊まりたくなかったとか、私がいたから今回は強く主張できた、これまでは誰も頼る人がなくて心細かった。精神病院では患者の立場はとても弱いもんだぞ、向こうはどうにでもできるのだから、などとも行っていた。 連れてきたのは良かったけれど、今日もそんなことで仕事が出来なっかた。5月もまだまだ経済的な危機がつづく。 このことを契機に妹が少し離れた部屋に寝泊りするようになる。それはそれで嬉しいことだ。彼女の自律のためにも、私の精神衛生上も。
2005.05.09
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6日は1日中兄と付き合っていました。兄は岐阜の精神病院の付属の、患者の社会復帰のための寮にいるのですが、6日の9時近くにそこに行き、初めてそこの食堂・兼ホールのようなところに上げてもらい、兄が医師の診察を受けてくる間1時間ほど待っていたりしました。上の写真は、そのホールです。明るくて静かでとてもいいところです。こんなところなら私が住みたいくらいでした。兄もけっこう気にいっているようでした。 その後兄を軽トラ・タンポポ号に乗せて、美濃加茂から七宗へ、七宗から岐阜へと回り、帰ってきたのが夜の10時頃でした。兄は車に乗っている間、とても多弁でした。ときどき、喋りすぎかよ、と聞いたりすることもあり、自分がそう状態になっていることはかなりはっきり感じているようでした。 ともあれ少し浪費気味になってもいますし、職員らとの関係でも少し強気になっていますし、いろいろなことが危険な状況になっているともいえます。これまではそうになるとこういうパターンで、いろいろな関係破壊が起こり、また鬱に落ち込むことを繰り返しています。彼はもう同じ間違いを犯したくないという気持ちは持っていて、それなりに工夫して入るのですが。 顔は最近になくいい顔をしていました。8キロくらい減量したこと、そう状態だということもあると思います。 7日は妹とともに、美濃市の歩ホットに行き、妹に高田豪さんのクラス、ワークショップを受けてもらいました。最後まで踏ん切りがつかないでいる彼女に執拗に働きかけて、何とか彼女の運転で出かけました。 10時からのセッションの間中、私は歩・ほっとの幼稚園児などの子供たちと、砂場で溜池を造って遊びまわりました。久しぶりに童心に帰って、無邪気に遊んだ感じでした。 その間、少しの間子どもたちとはなれていたときもありました。そのときなぜかとても悲しくなって、広場の隅の枕木のような木に頭をつけてしゃがみこみ、泣きました。結局私は兄と妹のことでかなりに気が重くなり、つらく思うような気持ちがあたのです。あるいは妹がこのセッションで自分の苦しみについて語るなどしているのではないかとも思い私も悲しくなってしまった、ということもあります。 夕方、4時に終わる予定が5時半頃までやっていたこともあり、妹もきっと何か真剣に深く何かを語る機会はあたのだろうとも思いました。 ところが帰りの車の中で妹は特にいいことがあったようには言わず、相変らずいつも言うようなことを言い続けていたので、私はかなりがっかりきてしまいました。たぶん私は、彼女のためだけでなく、私が楽になりたいから彼女を強く誘った面があり、豪さんのセッションの中で何かいいことに気がつき、変わるきっかけをつかむことができるかもしれないというような、過剰な期待を抱いてしまっていたのです。 そんなことから野の花社に帰ってきてから、かなりにシビア―なやり取りをしてしまいました。彼女はそのセッションで野からだほぐしのことなどにとても感動していました。そのことはあとから知りました・
2005.05.08
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昨日も風呂作りに専念しました。内部の壁の残っていた分と天井を張りました。材料はみな友人・知り合いの大工さんから貰って来た物です。10時、昼、3時夕方の食事、おやつの用意は妹がしてくれました。少し気力が出てこない相変わらずの妹なのですが、そおいう点では助かります。彼女の私はもうだめかなー、という口癖を伴奏にするように、私は仕事をしていました。ここにきて10ヶ月、繰り返されるその言葉にはなれもしましたが、何か痛ましく感じる気持ちはより強くなっています。そのような妹と暮らすことで私に与えられている課題は何か、私はどうしたらよいのか、そのことを常に自覚させられます。 昼から天井の張り方などを教えてくれに、同級生の友達の大工アキラさんがきてくれ、一応素人の風呂作りとしてはこれでいいんじゃないかという感じで、隙間を塞ぐためのコーキングは、紙テープなどはってやったほうが綺麗に行くことなどアドバイスしてくれました。彼の父親が少し前になくなり、私はその父親の遺骨を埋める穴を掘りました。 今日は岐阜の精神病院の社会復帰のための中間施設にいる兄のところに行き、兄のメガネの修理のために兄を美濃加茂まで乗せてきます。途中美濃市の賢治の学校・歩ホットにも寄り、兄にそこを紹介もしてゆくつもりです。そのあと社会復帰に向けて動き出している、少しそう状態に入っている感じの兄を野の花社まで連れてきて、彼が必要としている本屋服などを彼に探してもらうつもりです。 そのような動き方をしようとする私に対し、昨夜の妹は激しい不安を感じ、とても不安定になりました。兄は自分でバスやJRを乗り継いで美濃加茂に行き、そのあとここにきて自分で帰ればいい、とも言うのです。それはそれでいいのですがそうすると兄はここにきてすぐ帰るというわけにも行かず、ここに泊まってゆくことになると思います。しかし妹は兄がここに泊まってゆくのは苦しいから、連休中に帰りたがっていた兄に、帰らないでくれと私が頼んだいきさつもあります。 この兄弟妹が自己回復してゆくこと、そのことが野の花社の始めの仕事、基礎になる気もします。そのことに力を尽くすことは、困難ではありますが、とても意味のあることに感じられ、そう考えるとわくわくしてくるところもあります。こうした状況をマイナスに考えず、野の花社を機能させるために私に与えられている課題と捉えること、最近しきりにそう考えるようになり、この困難に立ち向かう気力が生まれてきたようにも感じます。 しかし不安もあります。こうして兄妹のことに関わっていると、ここを維持してゆく金を稼ぐことのほうにさく時間が少なくなり、またお金を稼ぐためにきつい不安定な労働にも力を尽くさなければならなくなるからです。5月に入ると榊やシキミは新芽が出てきて、採ってもすぐ傷むこともあり、とりにくいということもあります。何とかここをしのぐべく、屋根拭き関係の仕事や、便利屋的な仕事もするつもりでいます。 上の写真は昨日の夕方撮ったものです。
2005.05.06
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もうあれからかなり日が経ってしまいましたが、4月18日に京都の東本願寺に謝罪に訪れた際、熊谷宗務総長に手渡した私の浄土真宗大谷派の人々に対する謝罪文を、いかに掲載して置きます。 浄土真宗大谷派の皆様への謝罪 加藤三郎 岐阜県加茂郡七宗町神渕13715-1 私は1977年11月月2日に、東本願寺の大師堂を爆破し、何人かの人を傷つけ(公式にはなっていないようですが),大師堂の床の1部を損壊するなど、浄土真宗大谷派の皆様とその関係者の皆様に対し多大な苦痛と損害を与えた犯罪を行った当事者です。その後5年ほどの逃亡生活のあと逮捕され、懲役18年の刑を受け、19年ほどの拘置所、刑務所内での拘禁・服役生活の後に、2002年12月に熊本刑務所を出所しました。その後今は、郷里の岐阜県の山里に帰り、社会復帰後の生活の建て直しの努力をしています。 このたびそのような私がこの浄土真宗大谷派東本願寺を訪れたの はこの生身の身 体と心を持ってここを訪れ、私が犯した犯罪の被害者である大谷派東本願寺の皆様に 対し、私なりの謝罪の意をきちんと表したかったからです。私は1983年5月に逮 捕された後、東京拘置所において自らの人生と犯した罪を見つめなおす作業を深めて きました。そしてもしそれが受け入れてもらえるなら、罪を犯したこの私がその被害 に合われた方々 に、直接謝罪する機会を持つことは、罪を犯したものの責任を果た す上で欠かせないことだと考えるようになりました。刑務所に拘禁されている間もそ の気持ちは変わりませんでした。そして出所後も、そうしたいという気持ちを心のそ こで抱きつづけてきました。 しかし山里の村で生活を再建する仕事、作業などにおわれ、そのようなことを実現 する機会を持たないまま、2年ほどを過ごしてきてしまいました。そして最近になっ てその一歩を進めようという気持ちになり、謝罪のためにこの東本願寺を訪問するこ とに決めた次第です。 今私は、社会復帰後の生活を立て直す作業に追われる、忙しい現実の日日を暮らし ています。こうした生活のなかから振り返ると、1977年頃急進左翼の一員として 行った、太子堂爆破のような犯罪が、いかに思い上がった独り善がりなものであった かが、よくわかります。私自身が生活者としての日常に追われ、社会的な発言や行動 などまったくせず、その頃の私からすれば強い批判の対象でしかないような生き方を しているからで す。 ともあれあの時、信仰の場、礼拝の場であり、観光の名所でもある東本願寺の大師 堂を爆破したということがどのような深い犯罪であったかは、次のようなことを考え ると、とてもリアルにわかります。私の家は天理教の教会を営んでいました。ですから 信仰の場としては、多少であれ東本願寺に似た性格の建物を所有し、そこにお参りに くる人々があった現実がありました。今私は、教会であった建物を使って生活してい るのですが、その広間の祭壇の近くに爆弾が仕掛けられ、爆破されたらどんなことに なった、なるかがとてもよくわかります。もしそんなことが起こったら、父母がどん なに驚き、苦痛を感じ、悲しく思っただろうかということがよくわかります。もちろ ん彼らの子供である私も同様であったでしょう。 仮にもしこの教会に参拝していた人が傷つき、あるいは死んでいたらそのひとたちの 家族はどんなにそのことに苦しみ、悲しんでいたことでしょう。もちろん父母や私た ち家族も同様です。 過去の私の大師堂爆破という犯罪はそうしたことを考えるだけでも、どのように深 い過ちだったかが、ありありとわかります。 ほんとうに申し訳ありませんでした。 深く謝罪します。 二度とこのような罪は犯しません。 もしも余裕が出来たら再びこのような犯罪が起こらないよう、私なりの社会的な活 動もしてゆきたいとも思っています。 お詫びのしるしとして、たった1万円ですが同封します。こんなお金 は何の足し にもならないものでしょうが、今の厳しい生活の中では これがやっとの感じです ので、お許しください。 2005年4月17日記了 なを、昨夜その謝罪について、熊本刑務所在所中に教誨を受けていた大谷派の教誨師に電話をかけて、その報告と実際は新聞記事のようにすっきりしたものではなかったことなど伝えました。彼はそれを予測していてくれました。またアビが私の謝罪について触れた文章で、大谷派の対応への問いかけをしていたような点について、彼のほうから自分たちにも多くの誤りがあり、私の行動はそれを見つめ直す機会にもなった、旨の言葉もありました。とても嬉しい応答でした。 さて妹とのかかわりの件ですが、少し良いことがあった気がします。 今日も朝から風呂作りにかかり、仕事の合間に何度も妹と話し合う機会がありました。依然として自己否定的な言葉を繰り返し、どうしてよいかわからない感じで苦しんでいる風だったのですが、夜寝る前になって久しぶりに落ち着いた感じになりました。彼女がここにいても私に必要とされているかどうかわからないから、不安だとか言うのに対し、そう考えたらそれは不安になるだろう、自分がここにいるのはじここで自己を回復するためだというふうには思えないだろうか、私が野の花社を名乗っているのは、ここを私自身を含めた苦しんでいる人々が共に自己回復の作業をしたりする場にしたいからだ。私自身がまだほんとうには自己回復できていないところがあり、彼女と共に自己回復してゆくための共同作業をしていければ嬉しいと思う。苦しんでいる彼女がここで自己回復できるかできないかは、その野の花社を創った私が問われることでとても大切なことだ。 そんなことを話しました。また私はここから車で30分くらいのところにある、賢治の学校歩・ホットで5月7日8日と開かれる、高田豪さんのワークショップに参加するよう勧めてきたのですが、彼女は金がかかることなどから気が重いとも言ってきました。私としては彼女が自己回復するための道筋を見つけられないまま、苦しみつづけている姿をみつづけているほうが苦しい。豪さんのワークショップに出ることで、何か自己回復の手がかりをつかんで欲しい。そのためならかなりの困難も耐えられる。 そんな話をしたのです。 何か少し気が楽になったみたいで、柔らかな雰囲気で寝に行きました。ホホットのそのワークには出席してくれそうです。
2005.05.04
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もう作りかけてから半年くらいになるのに、いっこうに進展しなかった風呂作りですが、この連休中にでもおおよそのところは終わるつもりで、昨日から再開しました。だいぶらしくなってきました。こういうのも嬉しいですね。上の写真はその作りかけの風呂です。
2005.05.02
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