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21世紀は消費者の時代であるという。 生産者であり消費者であるシチズンが集まってシティを成す。 供給と需要のバランスで集団社会は成り立つ。 いまや供給過多の競争時代にあり、需要以上のモノがあふれ、消費者の選択権がマーケットを支配している。 衣食住…本当に必要なモノは、既に雑多な装飾で消費者の注意を惹くことでニーズを呼び起こすという販売競争の中に埋もれて見えなくなりつつある。 一方で、持続可能な社会を目指すべきという地球規模での開発目標が示され、一つの指針となっている。 では、いったい消費者として何が必要であるのか? ひとりのシチズンとして、何に評価を与えるのか? 一人ひとりの矢印が揃うとき、シティは大きなベクトルとなって動き始めるのだろう。 作られたニーズではなく、自発的に求める評価・ニーズを問うことが今のシチズンに必要ではなかろうか。 何が欲しいのか、何が必要なのか、…豊かさや幸せを感じ、生きがいや働きがいを感じるには、何が大事なのか。 それが、小さな一歩であり、大きな前進なのではなかろうか。
2020.11.27
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都会では、COVID-19の感染陽性者が増えている。 毎日まいにち、ニュースで騒いでいる。 だけども、問題のあれはどうなった? ・インフルエンザ治療薬として期待されていたアビガンの承認はどうなった? 妊娠に悪影響を及ぼすということで、使用の制限が必要になる…というところから、パッタリとニュースに出てこなくなったけど、「治療薬」の開発はどうなっているのだろうか。 ワクチンの実用化が近づいたというニュースばかりで、治療薬の話は聞くことがなくなった。 ワクチンは、集団感染・免疫によるパンデミック拡大の予防薬であり、治療薬ではないと思うのだが、肝心なところはボカシて「良かったよかった」とはやし立てているような気がする。 ・ウィルス変異が早くて次々と亜種が発生すると言われていたが、どうなった? まるで1種類のウイルスのみが感染拡大しているような伝え方だが、それでいいのだろうか? ワクチンの効果についても大きな影響を与える要素だと思われるのだが、希望に水を差すような問題提起は行わないということなのだろうか。 ・GOTOキャンペーンは、案の定、感染拡大を引き起こしたと思われるが、経済活動を止めないために、継続して後押しをするという判断をしているようだが、大丈夫なのだろうか? 少なくとも感染拡大地域での対応の仕方を考慮するという判断にはつながらないのだろうか。 これから、忘年会・新年会、年末年始の帰省という時期を迎えるが…手放しで放置しておいて様子を見るということでいいのだろうか。 上意下達で行くならば、中国式に上有政策下有対策で…それぞれの身はそれぞれで守れということになるのだろうか。 ・・・表舞台に出て来ないことも、ミクロのウィルスは関係なく満たしてゆくだろう。 大脳前頭葉の発達した裸のサルの浅知恵が、果たして通用するのだろうか。 …そんな気がする昨今である。
2020.11.20
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まだ車の運転が楽しくてしょうがなかったとき… マニュアル式シフトの操作では、シフトダウン時のエンジンとミッションの回転数合わせにヒール&トーを練習した。 コーナーでのハンドリングでは、スローIN・ファストOUTでのクリッピング・ポイント探しをした。 特別な技能・技術を目指したわけではなく、いかにスムーズにマシンをコントロールして走れるかということだけでも、楽しかった。 できなかったことが繰り返しの練習で上手くできるようになり、流れをリードできるような走り方が身について行くのが楽しかった。 その中で、スムーズに安全に走る為の基本として、「アクセルは小指でブレーキは親指で」と意識するようにというポイントを、何かの記事で目にした。 アクセル操作はデリケートなものだ。 走行中は常に微妙なコントロールをしなければスムーズには走れない。 そのアクセルを離してブレーキに足を置くときには、力を入れて踏み込まなければならない可能性がある。 減速するためのブレーキ操作中でも、急ブレーキも含めての止まるためのブレーキングが必要になることは多い。 心構えとしての「小指、親指」の使い分けは、常日頃から必要だろう。 オートマが進化し、半自動運転や電子サポートシステムが標準となった現在では、あまりそんなことに気を遣うことは無くなってきているのかも知れないが、マシン操作の基本としては身に着けておいた方が良いと思う。 COVID-19への社会的対応を見ていて、そのタイミングがイマイチ納得いかないのは、こんな感覚でのズレがあるように思えた。 経済活動と感染拡大とのリスク・バランスを取りながら、スムーズに進めて欲しいものである。
2020.11.13
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成果主義が騒がれた時、それに基づく人事評価について、正当な評価がなされるのか否かを疑問視する声を聞いた。 繰り返し行われてきた人事評価制度において、未だかつて「まともな」評価が行われたことは無く、常に問題を抱えて試行錯誤を繰り返してきたのだという。 官公庁の競争入札制度への全面導入が始まった時、正当な積算を行っても単に安価であるというだけの理由に負けてしまい仕事が取れないという事態が生じた。 「まともな」積算すら出来ない発注者が、単に数字の大小だけの評価することになり、決定権自体も担当部署から経理総務へと移ってしまった…という。 人も仕事も、単なるコストとしての評価でしか判定されず、過当競争の中で余裕のない働きがいの無い「最適化」の世界に入ってしまった。 余裕や遊びの無い「最適化」では、COVID-19のような想定外の外的要因による環境変化には対応できないのではなかろうか。 「最適化」してきた環境自体が大きく変化すれば、依存度合いが大きければ大きいほど不適化して対応が難しくなる。 余裕や遊びの中で作られていた人間関係も地域貢献も変動への対応力も、余分なこととして削ぎ落されてしまい、改めて新規取り組み・事業・プロジェクトとして立ち上げることでしか動けなくなってしまった。 改めて社会貢献活動などと大声で喧伝しているが、本当にそれが世の中にとって役に立つのかどうかはわからない。 環境変化への適応力が種族保存の大きな要素と聞く。 地球規模の環境変化に種の滅亡や繁栄が生じて来たことを我々は既に知っている。 知識として知ってはいても行動は伴わず、現在から未来へと向かう道筋は描けていない、 既存権益を保つことが大きな評価を得ることになるが、それは過去から現在に至る価値観であって、決して未来へと向かうものではないだろう。 不確定でリスクのある未来へと繋がる価値観に基づく評価を誰が下すことが出来るだろうか。 増えすぎた人類、進み過ぎた資本主義経済…果たしてどんな未来へと繋がって行くのだろうか。
2020.11.11
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ヴァイオリンで数億円の価値と評価されるものがある。 姿かたちはさほど違わないにもかかわらず、その評価は大きく分かれる。 歌い手にしても、声の質の良し悪しでの評価が問われるだろう。 最近は特に、個性的であることや特徴的な声質に注目が集まるようだ。 一人ひとりの固有の声質があり、それに合う歌や唄い方を選ぶことも大きな要素とされる。 それぞれの身体の違いもあり、発声法やトレーニング量の違いによっても声の響き方が違う その日の体調によっても声の調子が変わる。 自分の身体を一つの楽器として考えるとき、その楽器としての価値を高めることも必要だろう。 自分の声質がどんなものなのか、どこに魅力があるのか、…自分自身では気づきにくいこともあるだろうから、周囲の人の感想も参考にすることがいいだろう。 ボイトレや教室に顔を出しているならば、指摘される点を無視することなく、冷静に受け止めることも必要だろう。 そして、どうすれば自分の声が個性的で魅力的な声になるのか、楽器としての価値を上げるには何が必要なのか、その価値をキープするには日頃の手入れに何をすればいいのか…等々の課題を手に入れることができるだろう。 とりあえず、まずやるべきことは、伸び伸びと唄うことだろう。 遊び心をもっていろいろな声を試してみるの良いのではなかろうか。 その中で、今まで見えていなかった自分の声の特徴や奥行きに気付くこともあるのではなかろうか。 特に思うのは、一つのジャンルにこだわることなく、様々な歌を唄ってみることで幅を広げることが、これからは必要になるということ。 それと、マイクに頼り過ぎることなく、自分のオリジナルの声を磨くことを忘れてはならないということ。 プロでなくても自分の声の魅力を磨く時代になってきたように思う。
2020.11.09
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腹筋を使って呼吸し、おなかのポンプで歌を唄うという…頭ではわかっていても、感覚的になかなか習得できない課題があった。 息をいっぱい吐いて空にすれば、自然に空気が入って来る…という感覚はわかるのだが、声を出して唄う段になると、どこに力を入れたら上手くポンプが働いてくれるのかわからなくなる。 息をすることと声を出すことがマッチングしなくて、おなかのポンプを使って唄うという課題がクリアできない。 ちぐはぐなままでは声に力が入らないし、表現力も発揮できないし、気持ちよく唄うことにならない。 身体全体を震わせて一つの楽器として声を響かせることもできない。 あるとき、唇を震わせてヴ~と一定の音を続けて途切れることなく、息が続く最後まできれいに出す練習?をしていて…あれっと気づいたことがあった。 息を出すときに、唇を細めて一定の抵抗を作ってやれば、その抵抗に逆らって息を出すためにおなかのポンプを意識して使うことになる。 これがおなかのポンプを使って唄うこと…なのかなと。 そうすると呼吸と発声がマッチングして、体全体が一つの楽器になれたような気がした。 ボイストレーナーのレニー女史の呼吸法では「蜂の羽音」と表現されていた場面を後で思い出した。 知ってはいたのに、わかってはいなかった…ということだったのだろう。 おなかのポンプは母音の発声に大きな影響を与え、体を振動させて大きな声、魅力的な声を出すのに効果を発揮することになる。 また、おなかのポンプの力加減で、声の表現力を高めて、唄う本人にも聞く人にも気持ち良く響く歌を唄うことが出来るのではなかろうか。 あとは繰り返しのトレーニングで自分のものにすることが必要だろう。 それで「自分の歌」を増やしていくのが楽しくなって行くのではなかろうか。
2020.11.05
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