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オーチャードホール 15:00〜 3階正面 ウォルトン:戴冠行進曲「王冠」 モーツァルト:ピアノ協奏曲第26番 ニ長調K.537 「戴冠式」 <独奏アンコール> ラフマニノフ:前奏曲ト長調 op.32-5 チャイコフスキー:交響曲第4番 へ短調 op.36 <アンコール> エルガー「威風堂々」第1番 (短縮版) ピアノ:小山実稚恵 東京フィルハーモニー交響楽団 指揮:アンドレア・バッティストーニ LFJはどうしたって?まぁ、さ。明日くらいに書きますから......チケットは買ったんですけどね。そこそこ。 いわゆる平成最後のコンサートってやつになりました。 実は、この前々日の日フィルに続いて、新日も聞いてるんですが、あまり感心しないままにこれを聞いたので、割愛。一言で言えば、聞くまでもなかったなという感じ。やっぱりオケがねー.....弦がねー...... で、東フィル。見ての通りの戴冠式系楽曲のオンパレード。 全体に言うと、まぁ、例によってバッティストーニの爆音系炸裂。なんだけれども、東フィルが爆音をちゃんと出すようになってるというか、まぁ、上手くなってると言っていいと思います。爆音が。それもどうよと思うんですけどねー。でも、最初のウォルトンとか、チャイコフスキーとか、爆音系の間にモーツァルト、というのが、これがまたそれなりにちゃんとしていて。 オーケストラとして上手いかどうかはまたちょっと微妙な感じもあるのだけれども、ああ、このオケはバッティストーニ好きなんだろうな、という気はします。 実際、バッティストーニを嫌いになるのはなかなかに難しい、というのが私の感想。なんというか、愛嬌があって憎めない。指揮姿が大童ってこんな感じのこと言うんだよねぇ、とつい微笑ましく思ってしまう。そして、少なくともこの人それなりにやる人ではある。かつてのエッティンガーのような俊英って感じではないけれど、何をどうしたいんだ、というのが相応に伝わってはくるんですよね。それが爆音系なのはどうなのと言いたくなる気もしなくはないけれど、選曲にあざとさがあまりないんですね。言い換えると保守的で平凡と言えなくもないけれど、今回のようにちゃんと古典もやるあたり、例えば下野竜也なんかとは似てるようで全然違う。あれはあざとさの塊みたいなもんで、なんか選挙演説聞いてるみたいで全然面白くない。 その一方で、以前はマスカーニの日本を舞台にしたオペラをやってみたり、とか、外連味も十分あるんだけれど、でも、「ああこの人これがやりたいのね」というのがわかる音楽なのでね.... 日本のオケの指揮者としては、ブラームス、ブルックナー、マーラー、この辺をあまりやらないバッティストーニは、あまりいい評価を受けないのかも知れないけれど、そんなもんどうせやる奴ぁいっくらでもいるんだから、いいんですよ。やりたいやつにやらせときゃ。 一番面白かったのはチャイコフスキー。モーツァルトは、小山実稚恵が安定の演奏なんだけれど、まぁ、決して爆音ではないオケの方が、にも関わらずちょっと勝っていたようにも思います。あれは少し不思議だったな。
2019年04月30日
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サントリーホール 19:00〜 2階右手 武満徹:弦楽のためのレクイエム ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第3番ハ短調 op.37 シベリウス:交響曲第2番ニ長調 op.43 ピアノ:ジョン・リル 日本フィルハーモニー交響楽団 指揮:ピエタリ・インキネン 珍しく夕方都心に居たので、ことのついでに聞いてきました。 ただ、まぁ、正直ちょっと疲れてたので、眠かったのではあるなぁ..... 日本フィルハーモニー。聞くのは随分久し振りです。多分、何年か前にサマーミューザでコバケンがチャイコフスキー振ったとかじゃないかなぁと。聞いてそうで聞いてません。正直、こういう機会でないとなかなか聞かないし。 というか、サントリーホールで日本のオケ聞くのも久し振りでしてね... 前半は武満とベートーヴェンのピアノ協奏曲。この、ジョン・リルという人、多分聞いたことないんだと思うんだけれど、どういう人なのやら....1970年にチャイコフスキーコンクールで一等を取ってるらしいけれど.....演奏は、そう言ってはなんですが、格別可もなく不可もなくと言ったところ。 ピアノよりは、オーケストラが存外はっきりした音を出すのがむしろ気を引いたかなと。 後半はシベリウス。 日フィルは今月フィンランド初め欧州にインキネンと楽旅に行って居たそうで、それもあってのシベリウス、ということらしいですが、まぁ、なんというか、それほどローカルチックなシベリウスらしさみたいなものが出ているわけではなく。むしろシベリウスだからどうこうでなく、演奏がなかなか良い。 正直、あまり日フィルはいい印象はないんですよね。物凄く昔、学生の頃には、定期会員持ってたこともあるんですが、あまりいいオケというイメージではなく。下手と言ってもいい。或いは、典型的な「日本のオケ」とでも言うような。それが、今回は結構いい。力み返るようなところがない。アインザッツは結構ばらけてましたけどね。でも、無理してやってない感じがあって、音がいい。音楽的。(言い換えると日頃の日本のオケは音楽的でない、というね.....) 最後、この曲、終止はバーンと鳴らずに終わるのだけれど、そこをちょっと抜き気味に処理したのは如何なものかとは思わなくもないけれど、まぁ、そういう終わり方なのでね。仕方ないと言えば仕方ないし。 一体いつからこうなったのかしらん。一過性のものでないとしたらば、随分以前に比べると変わってるように思うのだけれど、インキネンなのか、或いはその前なのか。
2019年04月20日
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新国立劇場 14:00〜 4階左手 ツェムリンスキー:フィレンツェの悲劇 グイード・バルディ:ヴゼヴォロド・グリヴノフ シモーネ:セルゲイ・レイフェルクス ビアンカ:斎藤純子 プッチーニ:ジャンニ・スキッキ ジャンニ・スキッキ:カルロス・アルバレス ラウレッタ:砂川涼子 ツイータ:寺谷千枝子 リヌッチョ:村上敏明 ゲラルド:青地英幸 ネッラ:針生美智子 ゲラルディーノ:吉原圭子 ベット・ディ・シーニャ:志村文彦 シモーネ:大塚博章 マルコ:吉川健一 チェスカ:中島郁子 スピネッロッチョ先生:鹿野由之 アマンティオ・ディ・ニコーラオ:大久保光哉 ピネッリーノ:松中哲平 グッチョ:水野秀樹 ブオーゾ(助演):有岡蔵人 東京フィルハーモニー交響楽団 指揮:沼尻竜典 演出:粟國淳 今年の新国シーズンは、この後ドン・ジョヴァンニ、蝶々夫人と続くのですが、この二演目は買ってないんですよね。忙しくて発売を逃したというのもあるし、そもそもあまり見る気がしなかったとも。蝶々夫人は元々好きじゃないからいいとして、ドン・ジョヴァンニは、むしろ好きな演目なんだけれど、面子といい、もう一つ確保する情熱が.....後々気が向いたらZ席トライしてもいいけど...... というわけで、個人的には暫く観に来ない前提での今日の公演。 フィレンツェ繋がりでのこの二演目、という捉え方。ただ、ジャンニ・スキッキは、プッチーニの「三部作」の一つとしてある訳で、言えば本来とは違う取り上げられ方ではあります。まぁ、これだけ取り出して他のオペラと組み合わせて上演されることは少なくないけれど。 で、まずはフィレンツェの悲劇。 結論から言うと、いい出来ではあったと思います。3人しか出て来ないけれど、なかなか緊張感のある物語ですが、シモーネ役のセルゲイ・レイフェルクスのみならず、3人とも緊張感を維持したいい舞台ではあります。オーケストラも集中力を途切れさすことなく最後まで維持していたと言って宜しいかと。ツェムリンスキーの音楽も、まぁ、悪くない。これはこれでそれなりにいい舞台ではあったと思います。 ただ、これ、面白いの? こういう公演を打つと、またぞろ「意義深い」とかいい出す人達がいると思うんですよ。でもさぁ、これって、面白いか? 正直、このくらいのスキャンダラスさというのは、今から見るとそれほど衝撃的という訳でもないでしょう。衝撃を言うなら、「ヴォツェック」とか「ルル」なんかの方がよほどだと思いますよ。いや、無論、このオペラが書かれたのは1914年とか16年とか、その頃なので、ベルクにはずっと先行している訳ですが、しかし、これを2019年の今わざわざ持ってくる意図がもう一つよく分からんのですよ。 このオペラ自体も、それほど「面白い」というほどでもない。それは物語そのものだけでなく、この音楽自体が、悪くはないけれど、今ここで上演する意図がピンと来ないのです。 粟國淳の演出も、決して悪くはない。けれど、ト書き上は縁を戻す妻の首を夫に絞めさせる、という演出も含めて、「ああ、そういうものですよね」という以上のものではない。 じゃぁ、これを観て「面白い」と思うか、というと.......「興味深い」とか「意義深い」みたいな話に終わっちゃう気がするんですよね。それって、言い換えると、大して引っ掛かりもしなければ、娯楽としても大したことない、という話なのかなと。 演者に問題がある訳じゃないと思います。演出だって、これ自体は決して責められるものではない。恐らくはこの企画そのものが何したいのかよく分からん、という話だと思うんですね。 後半はジャンニ・スキッキ。 これはねぇ.......オケはともかく......... 一言で言ってしまえば、外題役のカルロス・アルバレスが全て。というか、私、上演中は誰がやってるか分かってなくて観てたのですが、外題役だけ全然レベル違うよなぁ、と思っていたのですが、まぁそりゃそうか、と言っては済まされないんですよねぇ。 まぁ、ぶっちゃけて言うと、外題役以外はほぼ全員芝居が出来ていないと言っていい。大根以下。公平に言って、ラウレッタの「私のお父さん」はまぁそれなりだったけれど、そこでの見物はラウレッタに迫られるジャンニ・スキッキの芝居、仕草であり表情なのですよ。それでもまぁラウレッタとリヌッチョのカップルはまだしもだけれど、贔屓目に見ずとも、二期会連中はほぼ全滅。演奏会形式でも無理だねありゃ。小学校の学芸会からやり直してこいというレベル。無論それを補うような声である訳もなく。なんでこうなっちゃうのかね? にも関わらず、アルバレスの、「芝居」があるから「金返せ」にならなかったと言っていいのではないかと。 正直言うと、アルバレスの「歌唱」としては、ずば抜けてよかった訳ではなかったと思います。が、とにかく、芝居がきちんとしている。場数の差が決定的に出る、という言い方も出来るかも知れないですが、でも、芝居はある程度までは、少なくとも声・歌よりはまだ努力でどうにかなるのではないかと思うのだけれど、もう、ねぇ.......子供役を別にして、アルバレスの次に芝居が良かったのは、ブオーゾの死体役ですよ。死体より芝居が下手なこの人達、どうして舞台に立てるんだろう.......あ、技能的にとかそういう意味でなく、なんというか、倫理的な意味で、ですね。申し訳ないと思わないのかなぁ。思わないんだろうなぁ。 まぁ、アルバレスの芝居は見る価値はあったと思います。 演出は、こちらは、何故か巨大なデスクの上がブオーゾの寝室という設定。或いは人間が矮小化しているのか。なんだかよく分からん。意味が分からない。意味は分からないけれど、なんだろう、違和感があるような無いような、違和感はあるけれど、観ている上で邪魔にならない感じ。意味分かんないけどね。ということは、多分、いい演出なんですよ。何度も観ると陳腐化しそうな気がするから、あまり再演しない方がいいような気はするけれど、「再演に耐えない」=「ダメ」かというとそうでもない、という例かと思います。コストパフォーマンスは悪そうですけれどね。
2019年04月15日
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東京文化会館大ホール 15:00〜 4階右手 ワーグナー:さまよえるオランダ人(演奏会形式) オランダ人:ブリン・ターフェル ダーラント:イェンス=エリック・オースボー ゼンタ:リカルダ・メルベート エリック:ペーター・ザイフェルト マリー:アウラ・ツワロフスカ 舵手:コスミン・イフリム 東京オペラシンガーズ NHK交響楽団 指揮:ダーヴィト・アフカム 昨日はボロクソ書いてる訳ですが、音楽祭というか企画そのものに罪がある訳ではないので、それはそれとして聞く、という訳で。まぁ、コンサートマスターがライナー・キュッヒルだから、関係無くもないのだけれど、キュッヒルのせいにするのもちょっと違うしね...... オランダ人。久し振りです。多分暫く前に新国で出したのを観て以来。一時期は日本では「手頃なワーグナー」といった趣もあったのかも知れませんが、まぁ、今はそういう訳でもないのでしょう。ただ、3,40年前にバイロイトだかで出した「神経症ゼンタの妄想」バージョンの演出以降、あまりオランダ人は取り上げられる機会は多くないようにも思います。そんなに一生懸命チェックしてる訳ではないですけどね。 まず、演出から先に。演出というか、この公演は基本演奏会形式で、ただ、舞台の後方に映像を投射して見せるという最近よくあるスタイル。で、それはいいんですが、この映像がね、おかしいんですよ。 そもそも、船というものの動きを全然知らない人が作ったとしか思えないCG。何がおかしいか。まず第一に、激しい嵐、というようなシチュエーションならば、帆が安定的に風を孕んでいるなんてことは無い筈なんですよね。で、そんなにひどい嵐なら、帆を畳んで乗り切ろうとするのが普通。帆の位置もなんだかおかしくて、上から見ているCGだと、どう見ても、舳先の先に伸びている棒に帆を付けている。そういう船もあるのかも知れないけれど、そんなに展開していたら到底暴風雨はまともに乗り切れないというもの。 で、何よりおかしいのは、その船が全然水を切って進んでいるように見えないという事。いや、さまよえるオランダ人の船だから宙を飛んでるんです、とか言うのかも知れないけれど、普通は舳先が水を切って左右に分かれていく訳です。それが全く表現されない。 しかも、嵐を避けて入江に入った筈が、大きく開いた湾で - これ普通はノルウェーだかのフィヨルドのイメージじゃないのかね? - 停泊していて、これが、岸のすぐ側に岸に平行に停泊している。これ、暴風なんだったら、間違いなく横転座礁するやつです。洞爺丸が動力失った後流されて、こうやって座礁横転沈没してます。 もうね、ツッコミどころ満載で気になって気になって..... CGで映して見せる、なんてのは、もう目新しくもなんともないですよ。陳腐化してる、とは言いません。でも、取り敢えず映しときゃいいや、って時代はもう終わったと考えて、もっと真剣にコンテ切って作って頂きたい。それが出来ないんなら、いっそ映すなと。中途半端が一番よくない。無くたって大して困りゃしませんから。 さて。 一方、歌唱陣はと言うと、外題役のブリン・ターフェル。良かったです。 前に聞いたのがいつだったか、もう覚えてないんですが、今日聞いたのは、良かった。凄い、っていうような、瞠目させるようなというのではないけれど、過不足無く最後まで聞かせてくれました。 ゼンタのリカルダ・メルベート。この人私はあまり知りませんが、第三幕はかなり良くなって来た。ここまで歌えれば十二分です。 後のキャストも概ね良かった。エリックのペーター・ザイフェルトは、結構好評だったようだけれど、個人的には、悪くはないけどあまり好みじゃないな、といったところかなと。他はまぁともあれ良しと。 合唱は......相変わらずねぇ.......もうちょっとちゃんと歌いましょうよ、とは思うかな。大体東京オペラシンガーズはダメなんだけれど、その中ではまだマシな方。でも、これ、要するに人海戦術なんだよね。一人でもちゃんと歌えるかしら、ね。そんな風には思います。 オーケストラはそれに比べると幾分いいかなと。アインザッツが合わないのが目立ったりはしますが、そういうのを別にすればこれもそこそこ頑張ってはいたかなと。 ただ、オランダ人といえども、ワーグナーなんですよね。そういう意味で、やはり物足りなさは残るかなぁと。いわゆる「うねり」っていうんですかね。この曲はそういうのとは別に「うねり」が普通に入ってきますから、他の演目とは又少し違うのですが、それにしても、もうちょっと全体考えて欲しいとは思います。この辺になると指揮者の問題ですかね。とにかく、「オランダ人」なんて、真面目に端正にやっててもそれほど面白くはならないと思いますんでね。 全体的には、まぁ、こんなものかなぁ、といったところかと。このくらいの出来栄えなら御の字ですかね。
2019年04月08日
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東京文化会館小ホール 11:00〜 このマラソンコンサートは、解説が曲間に入ります。いつからかそういうスタイルに。まぁ、正直無くていいやと思うんですけれどね。でもまぁ、そういう話が曲間に入る。 で、3公演目の曲間、解説者が解説してる、舞台上では設営してる、そういう時にですね、けたたましくも下品に女性の笑い声が聞こえてきた訳ですよ。他の声高な話し声共々。一応PAが入っている解説が聞こえなくなるくらいに。 この瞬間、この公演は論評に値しないものになりました。 これね。実は、率直に言うと、今時どんだけの人が判るものやら、と言う気がするんですがね。でも、まぁ、書きます。やはり大事なことなので。 私個人としては、このマラソンコンサートの曲間に入る解説、正直つまらないしいらないや、と思ってます。でも、それは「公演の内」なんですね。だから、そこまで含めて「公演」なんです。 で、「公演」というものは、「お客さんに聞かせる」ものなんですね。お客様は神様....なんて言い方はしませんが、しかし、お客さんに聞いてもらうことが第一で、出来るだけいいものをお客さんに聞いてもらう、というのが、公演に携わる者の最優先目的である筈です。 舞台裏、というのは、「公演」の中には入りません。最近はやたらと舞台裏を見せたりするのが横行しますが、本来、それは見せない筈のものであり、だからある種の出歯亀願望も含めたお得感の演出でもあるけれど、しかし、お客さんの前に出すものではないものが舞台裏。その舞台裏で大騒ぎしてるのを聞かせるものではないのですよ。しかも、はっきり言って、未だ続いている「公演」の邪魔になる程に、というのは、もう人前で演奏したりして聞かせる資格無し。これは上手い下手以前の問題です。他人に聞かせるということをまるで理解していない。 実は、最近、人前で歌って聞かせることがたまにあります。小さいマンションの小部屋みたいな「ホール」を借りて、特定少数の人にお声掛けして、聞いて頂く。お捻りカンパを頂戴することもありますが、基本お代は頂かない。それで思うことがあります。よくアマチュアでも勘違いしているのだけれど、お金を頂かずとも、お客さんは時間というリソースを使って頂いている訳です。だから、聞いて頂くのは、誰が何と言おうと「有難いこと」なのです。 そのお客さんが「公演」、この場合は、私に言わせればどうでもいい話だけれど、でも、皆曲の合間の準備の間にその話を聞いている、それの妨げをすること自体が不見識というか、お前ら客なんてどうでもいいと思ってんじゃないのか、と思う訳です。 君らにお客さんの前で演奏する資格はないよ。お客さんに失礼だよ。きっと言っても判らないだろうけれどね。多分、一生涯判らないんじゃないだろうか。誰も教えてくれてないんだろうし、それを感ずる感性も無いんだろうから。 このコンサート全5公演で、3公演目でこれをやらかしやがったので、本気で帰ろうかとも思ったんだけれども、実はライナー・キュッヒルが出てましてね。3公演目は居なかった。4公演目と5公演目は出てきて、しかも5公演目は出ずっぱりだったので、結局最後まで聞いたけれども、5公演目でも、舞台裏でチューニングしていて、特に管の音が滅多矢鱈とでかい音で、話が聞こえ辛いくらい。これも同罪です。ただ、率直に言えば、話よりは演奏の方が大事で、演奏の為には仕方ない、という判断があったのなら、まだしも赦せる余地はあるかも知れないけれど、不見識には変わりない。それなら舞台に上がってからチューニングすればいいのであって、それは普通で当たり前の事だし、第一舞台上と環境が違うかも知れない舞台裏でチューニングするのは本来じゃない。全部で8人くらいしかいないんだし。やはりものを判ってないと言うべきだし、それを許したのならキュッヒルも同罪。許しちゃいけません。まして散々舞台のことを知ってる身なら尚の事。 東京文化会館の小ホールは裏が狭くてね、とかいうのは言い訳にもなりません。なら静かにしろと。馬鹿話したいなら外に出てやれと。チューニングは舞台に出てからゆっくりやれと。そうすりゃいいだけのことなんだから。それがステージマナーというものであり、人に向けて舞台に立つ身としての当たり前の約束事というものです。 こっからは邪推ですが、3公演目までは二期会系の歌手が出てたんですね。4,5公演目では出てないけれど。あいつらじゃないかなぁ、とちょっと思う訳です。あのアマチュア歌手互助会の質の悪さはよく知ってるし、あいつらならやりかねん、とは思ってるんですけれどね。ま、邪推ですが。 ともあれ。そんな訳で、演奏については全て論評しません。論評されるべき人もいるのかも知れないけれど、でも、誰がどうなのかまでは分からないし、だから、まとめて「論評に値しない」で済ませます。 キュッヒルの演奏は良かったですよ。だけど、誰か知らないがこの不見識をやらかした奴ら、及び5公演目の管楽器一同(舞台裏で馬鹿でかい音でチューニングやらかしてた奴ら)にははっきり申し上げたい。金返せ。そして二度と人前で演奏するな、と。上手い下手ではない、人間としての問題、何かに、誰かに、この場合は話をしている人とそれを聞いている人とに、敬意を払うということを知らない、という問題だと。
2019年04月07日
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