記事が前後しましたが、今日は4月1日(土)の墓参の記事です。
前日に雨の中を20キロ余を歩いたので、朝の墓参のウォークは丁度良い馴らしになりました。
墓参は、例によって途上の寺の門前の言葉から始まる。
この日は4月1日でありましたから、この日の言葉は4月1日の言葉となる。4月1日の言葉となると、嘘が交じってもいい訳で、些か信用性には問題があるということになるが、山門の言葉はそのような悪ふざけとは無縁、常時真面目である。
人と生まれた悲しみを知らないものは
人と生まれた喜びを知らない
「かなし」という言葉は、「前に向かって張りつめた切ない気持ちが、自分の力の限界に至って立ち止まらなければならないとき、力の不足を痛く感じながら、何もすることが出来ないでいる状態」
(大野晋「日本語の起源」岩波新書)
を表す言葉である。思いをつのらせ、思いつめて、なお思い足りないというような思い・感情のことを意味する言葉である。現代語では「悲・哀
(かな)
し」にのみ使用されるが、古代には「愛
(かな)
し」という用法もあった。
悲しみであれ、愛しさであれ、思いに思って、これ以上はもう限界というような地点に立って、言わば自らの限界・力不足を嘆くと言うか、その寂しさのようなものを感じる思いが「かなし」という言葉には内在している。してみれば「人として生まれた悲しさ」を知るということは、そういう限界のある、有限な存在としての命の「かなしさ」を知るということでもあり、他の命を犠牲にしなければ己の命すら維持し得ないという「存在」そのものの「かなしさ」を知るということでもあるだろう。
それを「知る」ことによって、人は他への「優しさ」というものを得る。この「優しさ」と物事に対して「喜び」に思う感情とは寄り添った関係にあるようです。この「優しさ」がベースにあって、日常の些事などにも「喜び」を見出すことが出来るというものであるのだろう。
前日の雨の名残の露が、墓地のナンテンの赤い葉にとどまって、きらきらと光っていました。これを見て「美しい」と喜びに似た感情が生まれるためには、柔らかな優しい心根が見る側の人間に存在していることが必要でしょう。
そして「逆も亦真なり」で、こういった美しきものを目にすることによって、人は優しい心を得ることができるのだとも言えます。
はい、このブログ記事をご覧になったお方は、ご覧になる前よりも幾分かは優しい心根になられたのであります。良かったですね(笑)。
そして、土筆です。
まあ、土筆は遅きに失する題材でありますが、最近、土筆の画像を取り上げていませんので、久々にこれを撮影、記事にしてみました。勿論、今年初めての土筆の画像。何年かぶりの画像アップであります。
(墓地に生えていた土筆)
(同上) (同上)
同じく、カラスノエンドウも花を咲かせていました。
子供の頃は、カラスのエンドウ豆、と呼んだりしていたので、長らく「カラスのエンドウ」だと思っていたが、そうではなく「カラス野エンドウ(烏野豌豆)」であることを知ったのは、いつのことであったろうか。
従って、カラスが食べる豌豆という訳ではなく、豆の莢が、熟れて弾ける頃には、真っ黒になるところから烏野豌豆という名になったようだ。もし真っ白になるのであったら、白鷺野豌豆・シラサギノエンドウとなるところであったのだ(笑)。
これの小振りな奴にスズメノエンドウというのがあるが、これは、カラスノエンドウとの比較からひと回りかふた回り小さいスズメを当てての命名であろう。その証拠に、カラスノエンドウとスズメノエンドウとの中間位の大きさのものは、カスマグサと呼ばれる。カラスとスズメの中間、つまり、「カ」と「ス」の間「マ」という訳である。
こんなズボラな命名をせず、ハトノエンドウとかモズノエンドウとかにすべきではなかったのか。
墓参の後の花散歩で写真に撮ったのは以上まで。
これでは花散歩には届かず、「花二歩」程度なので、2日のお花見の折に撮った写真も加えて、「花三歩」か「花四歩」にして置きましょう。と言っても、珍しい花などは登場しないのが当ブログの「花散歩」。そんなことから「今一歩」と陰口をたたく輩もあるそうな(笑)。
朝日に匂うシロツメグサの花である。
赤い花のアカツメグサというのもあるが、下の写真の右側のそれはピンク色である。シロツメグサとアカツメグサの中間ということで、カスマグサの倣いに従うなら、アシマグサということになる。赤いシロツメグサということでアカシロツメグサなんぞという何色か迷うような名前よりはいいだろう(笑)。
(同上) (同上)
次も2日のお花見の待ち時間に撮影のもの。やはり、朝日に匂うオランダミミナグサである。青みがかっているのは光線の加減によるカメラの「困惑」が露呈したものであり、青花ミミナグサという訳ではない。
上の写真・右は、花園中央公園でのお花見の待ち時間の撮影ではなく、第二部のたこ焼きパーティの折に、煙草休憩で席を外して、智麻呂邸前の公園でぷかぷか煙を吹かせながらに撮ったものであり、もう朝日に匂う、ではなく、午後の日差しに打たれつつのミミナグサである。
花を見る限りは、ハコベの花と変わりはない。ハコベとオランダミミナグサの違いは、茎が赤紫色で茎長が長く、背が高いのがオランダミミナグサで、ハコベは茎が緑色、茎長が短く、背が低い、という区別をしているのであるが、この区別がいかなる場合にも成立するのかどうかは自信はありませぬ。
次はナズナ。春の七草、セリ・ナズナ・ゴギョウ・ハコベラ・スズナ・スズシロ・ホトケノザのうちの一つである。食用にするのはこれの若芽であって、このように成長して、花を咲かせてしまっては食えない。ただのぺんぺん草に成り下がるのである。
上の右側の花は名前不明です。ナズナと同程度の極小サイズの花であるが、花の付き方や花弁の形状が異なる。葉の形状も違う。ナズナには似ていないから、一応「ニズナ(不似菜)」と呼んで置こう(笑)。
そして、麦畑です。
勿論、麦畑ではありません。苔です。2~3cmの背丈の苔です。接写すると一見「麦畑」の写真のようにも見えます。この写真は花見の待ち時間での撮影です。
苔の名前などは殆ど知らない。ネットで苔図鑑に当ってみると、キンシゴケという名前のようです。錦糸苔と書くのでしょうね。まさか菌糸苔ではあるまい。近視苔、禁止苔などは論外。
(同上) (同上)
朝日に照り輝く様を、露出を落として撮影し、これを少し補正するとこのように幻想的な写真となりました。これなら、金糸苔と表記してもいい。
苔は、雨の後が美しい。
乾燥して、枯れてしまったかのように見すぼらしくなっていた奴が一斉に元気になって、「わが世の春」を謳歌し出す。裸足になってその上を歩きたくなるが、これはお薦めできない。足が濡れてしまって大変です。
本日は、墓参&花散歩の記事でした。
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