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国会議員をひとり北方領土担当大臣と名づけ、何か起こるたびに 「遺憾」 と言っているだけで済ませる分には、書類の紙代と電話代くらいしかコストがかからない。いちばん安くつくから、それで済ませてきた。これが一方の極端。もう一方の極端は、自衛隊派遣による北方領土の奪還。これは、「国際紛争を解決する手段」 としての 「武力による威嚇 又は武力の行使」 にあたるから憲法で禁じられている。この両極端のあいだに、我々ができることは山ほどある。すべて茶番めくけれど、「北方領土を来年から領有したいと思えば、基本動作として何をしているか」 という発想で考えないといけない。■ 北方領土の日本国による国有化を法で定める ■まず、北方領土は歯舞群島から択捉島まで、一切の補償支払いなしに国有化することを定めた法律を制定する。陸地だけで福岡県ほどの面積のある北方領土は、日本の法律上、日本国の国有地もあるだろうが、私有地 (=日本人が法的所有権をもっている土地) も多い。(国有地と私有地の比率が知りたいものだが……。)「私有地」といっても、ロシアが実効支配しているから日本の法律上の所有権の行使のしようはないが、それでも私有地だ。日本国政府がさまざまなギヴ・アンド・テイクの末に北方領土を返還させたとしても、次の日にはこれら私有権者が「おれの土地だ」 「わたしの土地よ」と言い出すだけで、日本国政府がその土地に道路一本ひくのにも、私有権者に補償金を払わねばならない。じつにバカらしいことが起きる。そういうことが起きないように、今の段階で (つまり私有権の行使のメドがまったく立たない段階で) 北方領土の 「補償なしの国有化」 を法律で決めておくべきだ。考えてもみよ。領土交渉の過程で北方領土の一部を日本政府が放棄することを決めたとしようか。すると、現状の法体系でいけば、日本国民の私有地を日本国政府がかってに放棄させるわけだから、私有権者に補償金を払わねばならなくなる。踏んだり蹴ったりである。■ 千島特区長を定め、千島特区行政事務所を東京と根室に置く ■北方領土のうち、根室市に属するのは歯舞群島のみ。日本の法律上、色丹島・国後島・択捉島には根室市とは別の郡があり、町があり、村がある。国有化後は、これら3島は 「千島特区」 とする。行政区域には、その長がいなければならない。千島特区長を国会承認によって定め、千島特区行政事務所を東京と根室に設ける。行政事務所といっても実効支配していないから、きょう明日の仕事はない。実効支配したとしたら、どういう道路をつくり、どういう施設をつくるかを、まじめに計画して次々に発表するのである。北方領土が返還されたあとの、在留ロシア人への政策も決めておかねばならない。■ 政治には、演劇的要素がある ■こういうことをひとつずつ行わないから、「北方領土を返還せよ」といってもロシア側はまったく本気にしないのである。なめられる構図は、尖閣諸島にそのまま通じる。返還を望むなら、まずそれを演じることから始めなければならない。実効支配の維持を望むなら、まずそれを演じることから始めなければならない。
Sep 30, 2010
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むかし付き合いのあった某メーカーのひとに「ウソも百回言えばホントになる」が口癖のひとがいた。 昨今の中国共産党政府を見ていて、このひとを思い出した。 中国漁船 (=スパイ船) の犯罪現場のビデオを、日本政府は早く公開するべきだ。 ビデオの公開は、中国人向けではない。国際世論を日本側に引き付けるために必要なのである。■ 米国メディアを落とす ■ おそらく外務省が、どうすればキレイにおさまるか、外交ルートで中国側と協議しているのだろうが、ボヤボヤしている間に火がどんどん燃え盛っている。 中国共産党は、「ウソも百回言えばホントになる」 の信念をもって、米国メディアにもアプローチしている。米国の記者・評論家を陥落させれば、中国側の主張を米国通信社が世界中の新聞・テレビに広めてくれるから、力の入れどころだ。 中国側の公式の主張は「尖閣諸島はそもそも中国領なのだから、日本の海上保安庁の巡視船がそこにいること自体が不法である。悪いのは日本側であり、中国人船長は当然、無罪である」というもの。 だから、中国のスパイ船の犯罪現場のビデオを公開しても、日中交渉には大した決め手にならない。 中国側は百ぺんでも言うだろう。「中国漁船には正義がある。不法な海上保安庁の船舶に衝突することがあっても、その責(せ)めは日本側が負わねばならない」。■ 遠交近攻 ■ おそらくこの空しさを理由にビデオ公開をためらう向きが日本政府のなかにいるのだろう。「どうせ交渉の決め手にはならないのだから、いたずらに中国側を刺激することはない」などと。 たしかに、ビデオを公開したところで、中国側は平然と動じぬフリをするはずだ。 しかし、米国メディアはさすがに常識が我々に近いから、犯罪現場のビデオを公開すれば、日本側についてくれる人が多いだろう。菅首相が、問題のビデオ公開を自ら行えば、インパクトは最大限だ。 外交は、そういう劇的効果も考えながらやらなければならない。軽武装をタテマエとする国家だからこそ、こういうところでネチネチと勝負する必要がある。■ 朝日新聞が尖閣諸島を売る日 ■ 今回のような紛争は、これからも手を変え品を変え、中国側から仕掛けてくる。 あるところで、朝日新聞あたりがこう書きはじめるのが、時間の問題のように思える。「我々は歴史の知恵に学ばなければならない。サハリンは、1867年から1875年まで日本・ロシアの両国の共有の地となった。江戸幕府の直轄地とされていた樺太(からふと)だったが、戦争回避のために 『領土共有』 という鋭い知恵が働いた。現代の日本人は、幕末の知恵に学ばなければならないほど、国際感覚が鈍ってしまったようだ」 あの…、まさかと思いますが、この想像上の朝日新聞記事にうなずいてしまう読者は、いませんよね? 領土共有で、樺太の島内では両国の住民間のもめごとが頻発し、結局は樺太・千島交換条約で日本は樺太をいったん失ったのでした。■ さわやかな外交など、ない ■ 尖閣諸島で日本が少しでも譲った途端、今度は先島諸島(=与那国島、西表島、石垣島、宮古島など)の領有権を中国共産党が主張しはじめるのは、目に見えているわけです。 沖縄県の領有権について清国(しんこく)は、「琉球は清国のものである」と主張し続けていた。日清戦争で日本に負けるまで。 尖閣諸島で日本が少しでも譲った途端、あれよあれよと言う間に中国共産党は「日清戦争は日本による悪辣な侵略戦争であった。琉球は中国固有の領土であり、琉球族は中国の少数民族であるにもかかわらず、日本は不法な侵略で琉球を奪った」と大キャンペーンを始めることでしょう。 ウソも百回言えばホントになる。 だから、尖閣諸島問題をスカッとさわやかに解決したい、などと思っちゃいかんのです。 尖閣諸島があるから、まずそこで問題が起きてくれる。相手の本性が見える警告音が出る。スカッとさわやか、を夢見ないこと。■ 現実直視 ■ 経済界への影響について。 輸出入取引に、さしたる影響はない。中国政府が日本からの輸入の制限にまで踏み込むと、WTOがらみの問題となり多国間の場で取り上げられるから。 領土の件は二国間の問題ということで押しまくるのが、中国の基本戦略です。 日本企業は、中国への長期投資をしみじみ考え直す機会を得たことに、むしろ感謝すべきでしょう。なりふり構わぬ理不尽がときにまかり通る国であることを、横並び志向の経営者はすぐに忘れてしまうから。 中国人団体旅行のキャンセルが相次いでいることをマスコミが取り上げています。 これまた、キャンセルしてくれて救われたのかもしれない。 こういう時世、中国人集団に 付 和 雷 同 の火がつくと、「千名の中国人客が一斉に寝小便をし、生理現象だから仕方ないと言い放って弁償を拒否して帰国した」 みたいな事件が起こりかねないのですねぇ。■ お人よしこそ日中不友好のもと ■ こういう突拍子もない出来事を想定するのは失礼にあたるというお人よしが、ひろく日本人の特徴だ。 商社で投資の仕事をしていると、考えるべき最大限のリスクが どのあたりか見極めるよう常に叩き込まれる。 「千名がわざと寝小便をするリスク」 を真剣に想定するのは、わたしくらいのものだろうが、本業が影響しているのはたしかだ。 こういう想定を積み重ねて対処策を練っておかないと、結局はとんだ 大 幻 滅 の日中不友好ということになる。 そもそも尖閣諸島を未解決の領土問題であるかのごとく、トウ小平の口車にのった田中角栄のお人よしが、今日に至る日中不友好の禍根を残したのである。
Sep 24, 2010
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今月の銀座界隈の画廊展でいちばん楽しみにしていたのが、銀座一丁目 Gallery 156 の “My favorite works” 展だった。案内葉書の絵にひかれた。懐妊の姿かと思われる女性のセミヌードで、左手の指をそろえて胸元に当てたところが光り、宗教性を感じる。一見したところ無表情のように見えるが、じっと眺めているとふてぶてしいまでの強さを感じさせる。ハイパーリアリズムの油画と思われた。闇を背景にメタリックな布をまとった女性はほとんどモノクロで、しかし瞳はあざやかな緑色、くちびるの薄紅色にはみずみずしい精気があり、右耳のすぐ上に群青色のアクセサリーをつけている。ミステリアスな美しさ。こういう美に、ぼくはとろけてしまう。画廊をたずねると、展示を企画した画家の中村亮一さんがおられた。この案内葉書はたいへん好評で、もう1枚も残っていない、と言われた。作品は想像より小ぶりで、しかも写真を絵画的に加工したインクジェットプリントだった。(案内葉書をよく見れば、サイズもインクジェットプリントであることも書いてあったのだが。)“Waiting for Sol Invictus” 「無敵の太陽を待ちつつ」 という題名は、この女性が聖母マリアのイメージの延長上にあることを示している (…というのが、ぼくの解釈。こういうところでラテン語の知識が役立つ) 。作家は、昭和58年にポーランド南西部のヴロツワフ市に生まれた マルタ・スクウォドフスカ (Marta Sklodowska) という20代後半の女性。あぁ、ポーランドは思い入れのある国だ。値札は9万円。このまま2度とこの作品に会えなくなったときの後悔の深さを想像し、購入を即決した。中村亮一さんに、スクウォドフスカさんとどういう縁があって今回の企画展につながったのか、たずねた。今回、中村さんが選んだのは4人の作家。人間に向き合うスタンスにどこか共通する一線をイメージしつつ、ドイツの写真展などに出品された多数の作家の作品を見比べつつ絞り込み、スクウォドフスカさんを選んだのだという。ネットで彼女のサイトを見たら、しびれるほどいい作品であふれている。こうしてご縁がつながって、よかった。今回の企画展ではほかに、昭和53年ドイツ生まれの Wolfgang Ganter さんの合成写真作品、昭和42年大阪生まれ、沖縄育ちの儀保克幸(ぎぼ・かつゆき)さんの木彫、昭和57年東京生まれのナカムラ・リョウイチさんの油画。儀保さんの木彫 「子供の頃の夢をみているの」 に、たましいが吸い込まれそうなほどの安らぎを感じる。ナカムラ・リョウイチさんの作品は、米国西海岸の一光景かと思う少女と男児の質感・存在感、工事現場の労務者のまるでシルエットのような静けさ、そして謎解きを迫る不思議な水浴の子供らと浮遊するシンボルたち……。ぼくなりの謎解きをご披露したりしていたら、なんとこのナカムラ・リョウイチさんとは、展覧会を企画した目の前の中村亮一さんその人のことだった。(“My favorite works” 展は9月29日まで、銀座一丁目5-6 福神ビルB1Fの Gallery 156 で。)
Sep 23, 2010
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男女ふたりの朗読劇。知っているのは劇名 「私の頭の中の消しゴム」 と出演者ふたりの名前だけという、真っ白の状態で劇を見たので、展開に推理小説のスリルがあった。さまざまの伏線が合流し、あっ、ひょっとして、薫(かおる)は若年性アルツハイマー病なのではないかと気づいたとき、うずくような重みがぼくに のしかかってきた。高速度撮影画面で、鉄の車輪にゆっくりとからだを轢かれるような、そんな感覚。やがて、舞台が残酷な解答の扉を開く。恋したひとと結ばれて幸せの頂きにいた薫。不本意なできごとの連続と不可解な検査のすえに、医師に病名を宣告されて。ことばが、出ない。ことばが、搾り出せない。表わしようのない苦しさ。愛する浩介(こうすけ)にも伝えるわけにはいかないと自分を追い詰める薫。この辺りからの笹本玲奈さんの役作りがみごとだった。悲しみのテンション、つかのまの回復のガラス細工のようなよろこび、空気が抜けてゆく人形のような存在感あるいは非存在感。愛する浩介の顔がわからなくなり、あろうことか、かつての恋人の名で「おはよう、和哉さん」「いってらっしゃい、和哉さん」と夫・浩介に呼びかける薫は、あまりにやさしく美しく、だから堪えられないせつなさが襲う。剥ぎ取れるもの以上のものを剥ぎ取られたあとの たましいの不安定な清(きよ)らさを、笹本さんが舞台上一瞬の視線にこめた。あぁぁ、心がゆるやかに、しかし確実に、からだに先行して死んでゆくとはこういうことなのか…。劇後半の薫は、いろいろな女優さんの演じ方を比べ見、比べ聞きしたくなった。*今回は9月16日と19日の公演をそれぞれ最前列中央で観せていただいた。わざと真っ白な脳で観劇した16日は、想定外のできごとに薫と浩介がうける衝撃を刻々と共有して、ぼくの心の林にも風と雨が吹きぬけた。朗読劇もまた闘いなのだと思った。朗読劇というジャンルにここまでの可能性があったなんて。19日の千穐楽公演では、舞台展開を隅々まで覚えているだけに、逆に浩介役の溝端淳平(みぞばた・じゅんぺい)さんの絶叫調の連続に飽きを感じたのも事実だが、やはりカーテンコールが終わってしばらくは席を立つのが苦しいほど、5年間を2時間で駆け抜けた舞台のふたりの重さがぼくの胸のひだに食い込んでいた。そうさ、16日にも、とてもそのままさっさとモノレールの駅までは歩けず、劇場の隣のホテルのバーでひとしきり飲みつつ舞台を反芻して、ようやく家路につけたのさ。*17日に、原作の木村元子著 『私の頭の中の消しゴム』 を読んだ。原作は、ひたすら薫の日記なのである。原作の大筋を踏まえつつ、薫の日記と浩介の日記を創り、薫と浩介が交互に読みあう朗読劇に仕立てたのは、脚本・演出を担当した岡本貴也(たかや)さんの大手柄。原作にはない、浩介のとんだ母親にまつわる脇スジを入れたり、薫と浩介の再会をみごとな山場として盛り上げたり、岡本貴也さんの脚本はみごと。その上演を見てから原作を読むと、比喩が悪いが解凍に失敗したステーキ肉のように思えたほどだ。岡本貴也さんの演出も、朗読劇の弱点をよく克服している。ストーリーの設定上、前半がいささか “たるい” のは否めないのだが、劇を互いの日記の盗み読みから始めることで、冒頭から生き生きとしたテンションのある舞台になった。随想めいた部分では、舞台奥の小スクリーンに建設現場や街風景のスライドを映すなどして、飽きさせない。演出の極めつけは、発病した薫の日常生活の助けのために壁に貼ったメモや写真が、病状の深刻化とともにぱらぱらと剥がれてゆくシーン。メモ用紙が壁から剥がれ落ちるようすが、薫の脳から記憶が消えてゆくようすを象徴していて、せつなさを高めた。*溝端淳平さんの演じた浩介像は、かなり単細胞な男に仕上がっている。それが青春、なのかもしれないが、前後にだけでなく左右にも動けないものかなぁと、ちょっと残念だった。しかし、台本から目を離して演じる瞬間がわりと多かったのには好感をもった。笹本玲奈さんは、きまじめな性格をそのままぶつけた演じ方で、一途(いちづ)な薫像に仕上がった。きまじめすぎる余り、2時間のあいだ台本からほとんど目を離さなかった。ここまで来ると、朗読劇とは何なのかという、ジャンルそのものへの問いにもなってくるけれど、ぼくの意見としては、俳優は台本に目をこらして 「読む」 ことにこだわらず、坐って台本を片手にもちつつも顔やからだで演じられるところは、役のままを演じればいいと思う。「朗読劇」 というのはあくまで予算と練習時間の制約から、セリフの丸暗記をしなくてもいい劇として存在するのであって、台本を見ずにことばが出る時間が長いほど舞台は生き生きするはずだ。朗読劇なのだからセリフを覚える必要はまったくないけれど、相手方の長い朗読部分では自分は台本から目を上げて役なりの顔を演じるとか、工夫の余地はあったような気がする。ファンは、そういうところまで期待しているのだけれど。
Sep 21, 2010
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わがふるさと愛媛県の伊予銀行が、総合商社のような意気で 「環境」 事業に取り組んでいる。・ 省エネのための技術診断紹介 (仲介手数料収入)・ 必要資金の融資 (金利収入) ・ 環境私募債の引き受け (仲介手数料収入) ・ 排出権取引 (仲介手数料収入) このような様々な切り口でビジネスを拡げられるわけだ。総合商社でもこういう仕事をしたいが、融資や私募債引き受けのような銀行業務部分が伴っていないと、コスト倒れになりビジネスとして成り立たない。融資機能で得られる基礎収入の期待をベースに、多彩なメニューを創造してビジネスを活性化させようというアプローチは正しい。地方銀行のあり方として、注目に値する。うれしい。日本経済新聞 平成22年9月10日 地方経済面≪「環境」 巡り融資先支援、関連投資囲い込み伊予銀 「省エネ診断」 紹介 四国の金融機関が 「環境保全」 をテーマにした取引先支援策を相次ぎ打ち出している。伊予銀行は中小企業の環境対策を後押しするため環境コンサルティング会社と提携。阿波銀行などは環境に配慮した活動をする企業に対する融資の取り扱いを強化している。景気低迷下でも企業の関心の高い環境分野のサービスを充実させ、融資機会の拡大につなげる。 伊予銀と四国電力子会社の四電技術コンサルタント (高松市) は、このほど業務提携契約を締結。四電技術コンサルが、エネルギー管理士の資格を持つ社員や四電グループOBを伊予銀の取引先企業に派遣する。4月の改正省エネルギー法の完全施行に伴い、エネルギー使用量や省エネ計画の報告を義務付けられている企業などが対象。四電技術コンサルの社員は派遣先企業の電力やガスのエネルギー使用量を原油ベースで推定する 「省エネ診断」 を無料で実施。その上で燃費効率の悪い機械設備の使用法の改善や、二酸化炭素 (CO2) 排出抑制につながる新設備の選定などを有料で助言する。伊予銀は今月から四国4県で四電技術コンサルの環境分野の専門家の紹介を開始。四電技術コンサルから仲介手数料を受け取るほか、通常の融資より金利の低い環境私募債の引き受けなどを通じて取引先の環境投資を後押しする。伊予銀はポリエチレン加工の日新化学工業 (松山市) が今年初めに、本社工場に発電能力が四国最大級の太陽光発電設備を導入した際には、資金融資とともに CO2 の排出枠を取得するなど幅広い支援を手掛ける。環境投資の融資枠を設定したり、環境対策に力を入れる企業向けに有利な条件で融資したりする金融機関も増えている。≫
Sep 17, 2010
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瀬奈じゅんさんのエリザベート、山口祐一郎さんの死神(トート)の組合せで観た。最高でした。瀬奈じゅんさんは、平成20年5~7月の宝塚月組公演の「ミー&マイガール」のビル役が ふてぶてしくもみごとだった。今回のエリザベート役も、第1幕のソロ 「私だけに」 に電気が走った。瀬奈じゅんさんを評して 「安心して観ていられるエリザベート」 とコメントせずにはいられないのも、ダブルキャストのもうひとりのエリザベート役の女優さんが、ルックスはすばらしいけれど半音階をしばしば外すひとだからなのです。*エリザベートの夫、フランツ・ヨーゼフ皇帝を演じる石川 禅さんが、特筆に値(あたい)する。第1幕前半のフランツ・ヨーゼフは個性を押し殺したマザコン男なのだが、皇帝はそれに終わるわけではない。エリザベートへの愛を自分の支えにしなければ生きていけないことを悟り、おののき悩む男、生きるとはどういうことか内省する人間としての存在感は深い。第1幕前半のフランツ・ヨーゼフが透明人間のような存在だけに、よほど切り替えのうまい俳優でないと役の深みを演じられない。石川 禅さんは、扉の向こうに閉じこもるエリザベートへ呼びかける絶唱は高らかで、ふるえる人間像の演じ方は繊細。期待どおりの好演だった。ルドルフ役の伊礼彼方(いれい・かなた)さんは、初めて見た。プログラム写真のうつりが弱々しいが、舞台の上の風格はベテランの趣が漂うほど。今後も期待しています。*このブログを書く前に、あらためてドイツ語版ウィーン公演のDVDを観た。帝劇公演を観ていて、山口祐一郎さんの後ろで思いおもいに始終からだを動かし続ける男性バックダンサーたちが目障りで仕方なかった。ウィーン公演には、こういうバックダンサーは出てこない。帝劇流は、小池修一郎さんの過剰演出なのだろう。帝劇客席のわたしがせっかく死神トートと差しで対面したいと思っているのに、お呼びでない青年らに背後でちょろちょろ動かれて ― しかも狭いスペースに8人も! ― まったく迷惑だった。そもそも、死神というのは孤独な存在でなければならない。それが8人も子分を連れてお出ましとはね! 笑えるぜ。演出家の哲学を根本から疑いたい。たとえば 「マリー・アントワネット」 で怪人カリオストロの後ろでバックダンサーがうろちょろしていたとしたら、ぞっとする。そのほか、ウィーン版の遊び心たっぷりの印象的な仕掛けが消えたのも残念だ。登場人物がチェスの駒になって舞台をぎこちなく右往左往するシーンとか、反政府運動家がゴーカートに乗ってカフェに集合するシーンとか。平成20年秋の帝劇公演を観たときは、チェスのシーンもゴーカートのシーンもあった。今年の公演から演出を変えたのである。ウィーン版に比べると、たしかに帝劇版は舞台美術が充実している。分かりやすくなってもいる。舞台につねに多彩な動きが盛り込まれているから、退屈な瞬間はない。こういう演出が好きなひとも多いのだろう。しかしわたしは、もっとシンプルな演出がいい。エリザベートやトートに じかに向き合う時間を大切にしたい。また、今回の 「エリザベート」 公演は音響にも不満がある。1階P列18番の席だったが、左右のスピーカーから時々しゃかしゃかとリズムをとる乾いた音が流れてきて、耳障りだった。帝劇にはこれまで30回ほども来たろうか、とにかくこんな不愉快な音響演出は初めてだった。余計なことをせず、すなおな音響で楽しませてほしい。*次に帝劇に行くのは11月の 「モーツァルト!」 だ。いい公演でありますように。「エリザベート」 は10月30日が千穐楽。
Sep 8, 2010
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金曜日の仕事帰り、1時間45分で1~2階の会場を超スピードで鑑賞した。写真部門に充足感を感じた。絵画的構成のみごとな写真作品が乱舞する。絵画以上の想像喚起力。2階の絵画作品を順路と逆向きにたどっていたら会場入口近くに、渦のように吸引力のある緑の瞳があった。少女の顔の周りに蝶と花をふんだんにちりばめ、瑞々しい生にあふれた装飾画。おもむろに作者の名を見たら、あの工藤静香さんだった。一般応募作として特選をとっていた。*絵画と彫刻部門ではメモをとらなかったので、絵葉書を買った4枚のことを書く。総理大臣賞の宮村 長さん 「神さまがお怒りおはせしか、老いておはせしか」 :作品の意図が不明確で、いらいらする。単なる装飾画として鑑賞したらバカを見そうな作品。画面中央にはためく日章旗。赤い円は固定固有の位置を占め、白地は揺らぎくすみ果てている。周囲に風神・雷神・雨神、左下に貧相な富士山、中央下にはめらめらした紅色を背景に ふぎゃっと大なまず。国旗をおちょくるような意味ありげな題名のこの作品に総理大臣賞とは、なんというブラックユーモアだろうか。主催者のアイロニーに脱帽したいが帽子がない。宮村 長 氏におかれては、総理大臣賞などあざ笑って辞退されれば首尾一貫したろうに。文田哲雄さん 「娘たち (雲・時)」 :船の甲板(かんぱん)上の白昼夢と形容しよう。6人の若い女性が遠く近く、異なるポーズで。主役は手前に坐る黒い帽子の女のはずだが、すぐ後ろにバックダンサーのように動きのある娘がいて、うつくしい胸と脚をはだけてひときわ存在感がある。あたかも幻想劇の一場面のようだ。女性の顔の描き方など必ずしもぼく好みでないのだけど、構図のちからに圧倒される。鶴岡義詮さん 「影」 :数少ないヌード画。肉感を存分に保ちながら、紺とグレーの装飾画に仕上げてある。女の謎を解くのに長い時間がかかるように、この絵の謎も闇の向こうにあるようだ。吉井 浩さん 「横並びの6人」 :ウィスキーグラスのような頭のキャラはロボットめく。赤を基調に白・黒・緑をかすれ散らした彩色は、一種メタリックでありながらまぎれもなく生なましい筋肉。このキャラは、見る者の脳にあがり込んだが最後、平然と居座りつづける。パワフルだ。*デザイン部門でおもしろかったのは、杉本洋一さんの立体ポスター。惑星をつくる神々の工場だ。真鍋 博さんのイラストの世界を連想させる美しい色彩と、ファンタジー感を支える丁寧な手仕事。イラストで印象に残ったのは、望月勉さんと稲谷直弓さんの作品。望月さんのは、よくありそうな一筆書きふうの人物画だが、色づかいが絶品。人物の髪は極彩色、背景は緑と赤をじつに淡く配合して、これはありそうでなかなかない出来ばえだ。稲谷さんのは、呆けた少女を海老茶色で描いたペン画。一見ありふれているが、ネオテニー感覚で描いたピアズリーとぼくは形容したい。*写真部門は、欲しくなった作品がいくつかある。1万5千円もする図録には住所録がついていた。作者に葉書を書けば1万円ほどでプリントを譲っていただけるのではないか。際限なく注文してしまいそうで、怖い…。朝倉玲子さんの 「路地裏」 は、モロッコのフェズかカサブランカか。画面に左から歩き入る緑のケープの女性が上半身だけ、くっきりと陽光を受ける。躍動感。地面はレンガ敷き。路地の壁面は、高さ2.5メートル辺りまでまばゆい水色で、そこから徐々に白く塗られる。いろんな舞台道具が、監督の一声で一斉に生かされたような瞬間。渡辺隆夫さんの 「バレリーナの不安」 は、そのまま油画にしたくなる女性の横顔が、薄い闇に浮かぶ。高木 寿さんの 「魅惑」 はインド女性か。長い髪が左目を覆う。右目の表情のなんと妖艶なことか。伊藤繁雄さんの組写真 「藝人」 は、金粉を塗った男の両手、斜め横顔、背から腰。それぞれの肉の表情が際立つ。白石志津子さんの組写真 「カルメンのバラ」 は、枯れくすんだ色の薔薇の花々。これが魅惑的なのである。薔薇こそ花の王者なりと感得させられる絵画的作品。二科会写真部の創立会員である大竹省二さんの 「紅雀」 が展示筆頭。なんというみずみずしさ。ロシア女性だろうか、明るい含み笑いの目が美しい。口元を隠すのは、手のひらに載った紅雀だ。忘れられない作品である。
Sep 4, 2010
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9月2日、手嶋龍一さんの講演会で恥ずかしながら初めて知ったのだが、米軍の海兵隊がなぜ重要かといえば、議会の承認なしで大統領権限だけで動かせる危機即応の部隊だからだ。「たかが尖閣列島ごときのために核戦争のリスクを犯すのか」という米議会の議論とか「日本人はまだひとりも死んでいないのに、自衛隊が出動して先に中国兵を死なせたらどう責任をとるのか」という列島愚者の議論を脇において、自衛隊とともに危機即応してくれる可能性の高い部隊だ。海兵隊の軍服には赤い線が入っている。危機即応部隊を象徴する尊い血の色なのだと、手嶋さんは語ってくれた。軍国主義国中国の軍の冒険主義が年々高まるなか、「海兵隊は不要」 と唱えるには代替する自衛隊駐屯の大幅な強化を打ち出すべきだが、それを言わないから小沢一郎発言は実に不まじめだ。小沢一郎が首相になったら、そんな首相のいる日本のために米軍は血を流さない。有事には本気で、米国人だけ救済して帰る、と割り切るだろう。「あとは北京で交渉だ。東京に用なし」。本来、沖縄には隅々まで自衛隊が日本軍としてきっぱりと駐屯し、米軍駐屯の漸減を目指すべきだが、自衛隊駐屯拡大を伴わない米軍撤退を唱えるのは不誠実・不真面目の極みである。永田町では、「どうせ党内左派対策さ」とか「政権奪還後に備えた社民党への秋波だ」と、けらけら笑って済ませる向きがあるようだが、笑って済ませる内にインド洋での自衛隊の給油協力は中止された。笑って笑って笑って済ませ、不作為のままに、日米のプレゼンスが希薄化するのは、未来の歴史に泥を塗る不始末だ。北國新聞 社説 平成22年9月4日≪「海兵隊不要」 発言 普天間問題の迷走に拍車 小沢一郎前幹事長が沖縄駐留の海兵隊を不要とする認識を示し、党内外に波紋が広がっている。日米両政府は、普天間代替施設を名護市辺野古沿岸部に建設するとした専門家協議の報告書を先月末にまとめたばかりであり、普天間移設問題の迷走に拍車が掛かる懸念も出てきた。 小沢発言は、日米合意の見直しを示唆する内容であり、米国側に改めて不信感を持たれるのは間違いない。非現実的な 「県外移設」 をあおって迷走を重ねた鳩山前政権の二の舞になりはしないか。 小沢氏は、菅直人首相との公開討論で、在沖縄海兵隊8千人のグアム移転を引き合いにして、「米軍は前線に大規模な兵力をとどめておく必要がなくなった」と述べ、「米海軍第7艦隊だけで、米国の極東でのプレゼンス (存在) は十分」とした過去の発言についても否定しなかった。 とはいえ、辺野古移設に代わる 「腹案」 があるわけではなく、日米合意についても「白紙に戻すと言っているわけではない」と弁明するなど、言葉を濁す場面もあった。小沢氏の発言は、日米同盟の根幹を揺るがす重大な内容を含んでいるにもかかわらず、熟慮を重ねたものとは思えない。日米と沖縄の三者が歩み寄れる妙案があるならまだしも、日米両政府がようやく積み上げた合意内容をぶち壊しにしかねない乱暴な発言は避けるべきでなかったか。 政府が発表した報告書は、滑走路2本をV字形に配置する案 (現行計画) と滑走路が1本のI字形案を併記し、最終決着を11月末の沖縄県知事選以降に先送りする内容である。本来なら11月の日米首脳会談で正式決定する予定だったが、菅首相は面倒を嫌がって先送りしてしまった。ただでさえ、沖縄の同意を得るのが難しい状況下で、火に油を注ぐようなことを言うのは理解に苦しむ。 永田町では、小沢氏は党内の左派勢力の支持を得るために、あえて言ったという見方がある。県外移設を主張し、連立を離脱した社民党対策との声も聞かれる。代表選を有利に戦うために普天間問題を利用してほしくない。≫
Sep 4, 2010
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小沢一郎の 「日米安保解体+国連至上」 主義は、どういうコンプレックスによるものなのか。きっと、「あるとき米国人にコケにされて、何くそ今に見ておれ、ほえヅラかくなと思った」とか「中国人の若者にちょっとよくしてやったら、えらく可愛げがあった」とか、そういう低次元の体験から来ていると思う。国連 (正確には「連合国組織」) を至上とする安保体制がなぜ絵空事か。端的に、ふたつ挙げておこう。(1) 中国・ロシアに対して抑止力にならない:日本の2大脅威国が、安保理常任理事国で拒否権をもっている。中国が尖閣列島を軍事占領しても、国連はまったく動けない。(2) 自衛隊が国連安保理決議に基づき日本を攻撃することも可能:小沢一郎の論法。いまの日本国憲法のもとでも国連至上主義にもとづけば、自衛隊は 「日本の国家主権から離脱した存在」 になるから、海外での武力行使ができるのだというもの。各国が結託して、連合国組織の名のもとに日本を軍事占領することを決めたとしたら、どうなる。言っておくが、日本には拒否権がないから、これはじゅうぶん可能性がある。「日本の国家主権から離脱した存在」 である自衛隊は、連合国組織の名のもとに日本攻撃に参加しなければならなくなる!そもそも、国軍を 「国家主権から離脱した存在」 として想定するなどというクレージーな(狂気にみちた)ことをするから、こういう変なことになる。*9月2日に千代田区平河町で 「えひめ産業立地フェア」 が開かれ、手嶋龍一さんの特別講演もあった。手嶋さん曰く、平成7年 (だったと思いますが…) にワシントン特別市で民主党・共和党の超党派で小沢一郎を分析する会議が開かれ、ジョセフ・ナイ氏などをはじめ著名人士も参加した議論があったという。そこでの結論は、「小沢一郎氏はしずかに日米同盟から離脱して東アジアへ軸足を移そうとしている」 というもの。これを報道したところ、当時の小沢一郎は激怒したそうだ。手嶋さん曰く「政治家が激怒するのは、隠したいことをズバリと言われたときです」。まったくそのとおりだ。「15年前には指摘されて激怒していた同じことを、小沢氏はいま平然と述べてみせる。15年前には、悟られると危険だと警戒していたが、いまは警戒する必要がなくなったということだと思われる。」と手嶋さんは言う。「インド洋での自衛隊の給油活動は、国連決議が伴っていないから、ダメ。いっぽう、アフガニスタンでの自衛隊による武力行使は、国連決議が伴っているからOK、というのが小沢氏の論法。いろんな政治家と話しても、小沢氏ほどの国連至上主義を唱えるひとは誰もいません。小沢氏ひとりが、じつに特異な存在なのです」という手嶋さんの言うことが正しければ、個々の政治家に常識と気概が備わる限り日本は安泰なのだが、民主党代表選で小沢に蠅のようにたかる人の群れを見るとそれを期待するのは難しい。暗澹たる思いがする。けっきょく、常識を守る存在としての官僚集団が頼り、ということになってしまうではないか。だからこそ、小沢一郎は掲げるのだ。「政治主導」 を。小沢の 「政治主導」 とは、「コンプレックス男による常識外れの独裁」 の別名である。
Sep 3, 2010
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