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野蛮国・ニッポン 園田政務官44歳 汚物を飲む44歳の園田政務官は処理した放射性物質汚染水を飲んで、汚染水の安全性をアピールしたと日本の報道は放送した。こんなことを報道するぐらい日本は野蛮国になったのだろうか?セシウム137の経口致死量は0.1ミリグラムで、青酸カリの2000倍程度の毒物だが、園田政務官が飲んだ水のセシウム137の濃度はおそらく0.1マイクログラム以下で、致死量には遠く及ばない。政務官は致死量から遠く離れた汚物を飲むことを知っているので飲んだ。実に狡猾だ。「致死量からかなり離れて少ない毒物が入っているものを飲んでも死なない」ということは野蛮国でなければ、社会は知っている。だから、園田政務官は絶対に汚染水を飲んでも死なない。だから飲んだ。汚染水が危険かどうかは、園田政務官が64歳になるまで汚染水を飲み続けてガンにならないかどうかだ。しかも、その確率は100分の1以下だから、44歳の官僚が100人飲んで、20年後にその汚染水が安全かどうかが判る。100人に一人ということは1億人の日本では100万人が危険に陥るということを意味している。福島の子ども達は汚染された給食を食べ続けているのだ。バカにするな!!・・・・・・・・・なんで政務官ほどの人がこんなに野蛮で、ピエロのようなことをしたのだろうか? 日本国民はそれほどアホなのだろうか? 今、お母さんが心配しているのは、5歳の子供が15歳で病気になるかどうかということであり、飲んだらすぐ病気になるなどと考えてはいない。政府の注水にる人はお母さんの心配を知らず、その不安になにも答えていない。狂牛病の恐れのある牛肉をほおばる議員、汚染されたほうれん草を食べる都知事、そして汚物を飲む政務官・・・それはなにを意味するのだろうか?それとも安全だと錯覚させ、日本の大切な子供を病気にさせたいのだろうか?? むしろ、「汚染水を飲まなければならないということは、危険が迫っているのだな」と不安を煽る効果があるだけだろう。指導者には指導者の出処進退、尊敬される言動が必要である。私は、日本人として日本がこれ以上辱められ、野蛮になることは耐えられない。(平成23年10月31日)武田邦彦
2011年10月31日
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暴走する放射線医療関係者・・・医師の発言に疑問(医師が1年1ミリより多くても大丈夫といわれたときには、単に言葉だけではなく、「被曝によるガンの確率」と「治療や検査しないときのリスク」について数字で聞いてください。以下はその時の理論武装です。)放射線医療関係者は次の2つを知っている。まず第一に、2004年に世界的に有名な医学雑誌に「日本の放射線医療は被曝レベルが高い。医療によるガンの発生は欧米の4倍と考えられる」という論文が出たこと。第二に、医療に被曝が許されているのは、医師が「被曝の損害より、治療の効果が高いこと」と判断する場合に限定されることだ。そして、「被曝の損害」は担当医師が判断するのではなく、法律に定められた一般公衆の被曝限度1年1ミリシーベルトが基準になる。この図にあるように「医師という専門職」が「治療のために他人の体を傷つけても良い」という特殊な権利を持っているのは、「個別の医師の判断に基づく治療は禁止される」という前提がある。たとえば、ある医師が「安楽死は正しい医療だ」と考えても、専門家の組織である医師会か国民の意思を代表する国会などの必要な機関が認めないと医療には使えない。安楽死は特別なケースだが、どんな医療でも、医師が「一人で判断して患者の了解無く」新しい医療を施したら、それは「人体実験」として厳しく糾弾される。この世の中には「専門家」として特殊な権利を有している集団がいるが、それらは弁護士にしても医師にしても、教師にしても「自分勝手な判断」は禁じられている。法律を作る人、治療法を確定する人、真理を追究する人は、社会の人に直接、関係を持っていない場合に限定される。弁護士が自分で法律を作って相談したり、医師が勝手に治療法を開発して医療をしたり、教師が自分の意見を生徒に教えたりしてはいけない。それは「専門家の倫理」として厳に戒められていることだ。患者さんに対して「この治療や検査を行うことは必要だ」という判断だけで、患者を被曝させてはいけない。被曝による損害と治療や検査によるメリットを患者にしめし、それが納得されれば、レントゲン、CTスキャンなどが可能になる。あくまでも患者の意志による。・・・・・・・・・この二つのことから、「1年1ミリシーベルトでなくても良い」と言っている医師などの放射線医療関係者は、1)社会に対して直接、行動をしてはいけない研究者が錯覚しているケース、2)「医師だから患者の健康については全権を有していて社会的合意(1年1ミリ)を無視して何でもできると錯覚しているケース、の2つが見られる。節度ある医師、尊敬される医師としての言動を求めたい。まず医師は患者に対して放射線治療や検査をする場合、「1年1ミリで1億人に新しく5000人のガンの発生」という「社会的合意」と、患者の状態を比較するべきであり、「被曝の影響」を独自に判断してはいけない。まして、「検査をしておいた方が後で文句(医療過誤)を言われないですむ。それから見るとがんと被曝の因果関係はつきにくい」などという姑息な気持ちを持ってはいけない。医は神聖なものである。繰り返すが、放射線治療の医師が「自分は1年20ミリまで大丈夫」と考えるのはよい。でも、それが社会的合意にならないと自分は判断できないという謙虚な気持ちが必要だろう。そうしないと「風邪を治すためには右手を切り落とした方が良い」などという独自の判断での治療が進んでしまう。私たちは札幌の心臓移植、四国の臓器移植、神奈川の安楽死などの医療事件を経て、社会は「医師の神の手」を拒否してきた。これらのことがを通じて社会と医療の関係について一定の進歩をしてきたが、まだ放射線医療の方では認識されていないように見える。(平成23年10月30日)武田邦彦
2011年10月31日
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「日本は縮こまらなくてはならない」という錯覚はどこから来たか?1990年、バブルが崩壊すると、それまであれほど贅沢をしていたのに、180度転換して「節約」、「環境破壊」、「資源の枯渇」などが流行しました。なぜ節約が必要なのか? 環境は破壊されているのか? そして、本当に資源は枯渇するのか? そんなことにはあまり関心もなく、真剣に考えもしないで、社会は「地球に優しく」という言葉に酔ってしまったのです。中国は発展して良いけれど、日本は節約しなければならない・・・なぜ、同じ地球に住む人間としてこれほどの違いを認めていくのか、その理由すらハッキリしませんでした。また、「事実を見ずに御札(建前)だけで進む」ことも当然のようになったのです。まだ、検証が十分ではありませんが、その結末が福島原発事故であり、東海地震を心配して阪神淡路大震災、東北大震災で犠牲をだしたのではないかと思います。私たちはここで立ち止まり、真剣に考えなければならないでしょう。つまり、今度の福島原発事故は、1990年以来、日本社会が「現実逃避、ダブルバインド」に陥ったことによると考えられます。「ダブルバインド」とは、たとえば子供に「こっちに来なさい。あっちに行っていなさい」と二つを同時にすることができないことを求めて、相手を窮地に陥れることなどで使います。現実にも、「環境が大切だから、ガソリンを節約しよう」と言いつつ、「高速道路はタダがよい」というようなことで、この二つが明らかに矛盾しているので、ダブルバインドの例です。日本社会はそれを自分でやって自分で苦しんでいるように見えます。●原子力発電は安全だ≠僻地に原子力発電を作る●原子力発電所は地震に強い≠震度6に耐えた原子力発電所はない●ゴミを分ければ資源≠分別したプラスチックは燃やしている●CO2で日本は温暖化する≠水の比熱は空気の3500倍●アルプスの氷が融けているのはCO2の温暖化だ≠イギリスのテムズ川が1814年から凍らないのは太陽による温暖化だ●少子化を食い止めれば年金が安定する≠ピンピンころりが理想だ●命を大切にする教育≠福島の子供は1年20ミリ●中国の食材は危険だ≠日本の食材はセシウムだけで1年5ミリ●中国は情報統制している≠福島3号機の爆発の写真は報道しない●東京に住んでいる≠温暖化防止を叫ぶ●東京に住んでいる≠生物多様性を叫ぶ●トキを保護する≠ゲンゴロウの絶滅には関心がない・・・・・・・・・私たちはこの際、「今だけ良ければよい」、「言葉だけ優しそうに見える」ということから、自らの意志、誠意、良心に戻らなければならないように感じられます。「takeda_20111030no.283-(7:16).mp3」をダウンロード(平成23年10月30日)武田邦彦
2011年10月30日
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原子力予算4500億円はどこに使われたか?「偉い人」、「社会の指導的立場にある人」のもっとも重要なことは「誠実」であり「自らの意志がハッキリしている」ことであると思います。その点で、先日にこのブログで指摘したこと・・・東電は2000年から自分の原発で働く従業員の被曝を1年1ミリにしていたのに、原発を運転させてくれた福島の子供たちが1年20ミリの被曝になっても声を上げなかったことを言いました。東電は「自らの意志で」1年1ミリにしていたのですから、自らの意志で1年20ミリに対して政府に全力で抵抗し、恩のある福島の子供たちを守るのが大企業の誠意というものです。平時の時には「国民から批判を浴びるから」といって1年1ミリにして、その結果、従業員の数が増えても(2倍以上になった)、その人件費は電気代に乗せ、事故が起こると自分の責任で被曝している子供たちに1年20ミリを黙っているとはおよそ「指導的企業」ということはできません。・・・・・・・・・これと同じことが原子力関係者にも言えます。原子力予算は1年で4500億円。事故が起こったのは今年の予算が使えるようになる約1ヶ月前です。そして福島の人は生活にも食材にも困り果てていたのに、原子力関係者は「除染、買い取り」に予算を提供することを言いませんでした。いったい、福島原発事故が起こってから、原子力予算は何に使っていたのでしょう?自分たちの人件費を20%カットし研究や開発を止め、残り(おそらく3000億円程度)を拠出すれば、福島は梅雨までに相当部分を除染し、農家の人に完璧に補償ができたと思います。せめて、空間および土壌の詳しい汚染を測定して、それを発表するぐらいは可能だったでしょう。原子力、および関連産業に携わっている方!! 今後も社会の指導的立場で仕事をするなら、「誠意」と「意志」を示してください!!「takeda_20111030no.282-(6:43).mp3」をダウンロード(平成23年10月30日)武田邦彦
2011年10月30日
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11月18日金曜日 東京・大田区講演ご案内メールのアドレスが見にくいので、書きました。yoyaku.skn@gmail.com(申し込みだけで問い合わせはできないということです。メールには参加人数、電話番号が必要なようです。この企画は業者ではなくお母さん方がやっておられます。そこもご理解ください。 武田邦彦« 至極、当たり前の話・・・ビクビクする私たち | | ネット・テレビご案内について » 11月18日 東京・神奈川方面 新百合ヶ丘で大講演会11月18日 東京・神奈川の方に「新百合ヶ丘」(小田急線、新宿から特急も止まると思います)の駅から徒歩5分。麻生文化センター(正しくはセンターの中の麻生市民館ホール)で、大講演会を行います。先着順で午後5時半から整理券が発行され、予約はできないとのことです。「子どもの未来を考 えるたまの会」の石川さんが主催してくれます。 ●問い合わせ先 http://tamanokai.blogspot.com/ 武田邦彦« サカナは食べられるか? | | 人類が繁栄するのは自然や生物界に悪いことか? » [トップページへ戻る]>[■■■■ 特設の2] (C) 2007 武田邦彦 (中部大学) 引用はご自由にどうぞ
2011年10月29日
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岩手3題● 福島県に接している宮城県があまり汚染されなかったのに、岩手県の一関や平泉が汚染されたので、そこに住んでいる人たちに注意して貰いたいと思ってテレビで発言したら、ひどいバッシングを受けた。バッシング自体は仕方ないと思ったけれど、東北の新聞は一斉に「武田はケシカラン」という論調を張ったことにはやや驚いた。東北の新聞は東北の人の健康を心配していると思ったら、それより農作物の出荷を気にしていたらしい。東北の汚染された農作物をすべて買い上げても、1年の原子力予算の10分の1にも満たないのに、原子力予算を東北に引き出すことと逆の方向に進んだことは残念なことだった。一関の市長さんや議会からの抗議を受けた。立場からもその気持ちはわかるが、その後、セシウムで汚染された一関のウシが出荷停止になったり、基準を大きく超える線量が一関の中学校で見つかったりした。除染に国のお金を導入する方向ではなく、私の発言が逆の方向(大したことはないから、なにもしなくても良い)に進んだことも残念だった。そんなこともあって、その後、岩手が何となく気になっているが、ここに3つの情報を取り上げてみたい。それぞれ本来は岩手の人が郷土や子供たちを守るという意味で重要で、かつなかなか難しい問題だ。•● 一関の高濃度放射線下の中学生の死亡一関の中学校でかなり高い線量を出していた学校で、中学生が死亡したという情報がある。まずはこの情報が事実かどうかがわからないし、一般的な病死は中学生にもあるから、それが被曝に関係しているかもまだ判らない。教育関係者、行政は「プライバシー」ということで事実自体を公表しない可能性があるし、テレビや新聞も報道するかどうかは不明である。これがインフルエンザなら生徒の名前はふせるだろうが、事実は必ず公表するべきだ。でもことが被曝と関係しているので、怖がって報道しない可能性がある。もし本当に中学生の死亡という事実があったら、何らかの手段で公表し、その原因についても被曝とは無関係であることを示す方が良いだろう。中学校の名前も個人名も伏せることは十分にできるからだ。•● 岩手の汚染状態について、斉藤さんが様々な視点からグラフを作っておられる。このマップもその一つだが、早川先生と岩手大学の測定値をもとに福島原発からの放射性物質が岩手の中でどのように拡散しているかについてのものである。これを見ると、福島から岩手へは2つのルートが考えられること、北上川にそって北上して盛岡まで達したことが判る。女川が独立に汚染されていることから、女川原発からの放射性物質の漏洩についても注意が必要だろう。・・・・・・・・・人間が他の動物より断然、強いのは「知は力である」という原則があるからだ。情報が正しく、細かいほど危険から逃れることができる。そのために私たちは公共放送、民法、そして新聞や雑誌という社会システムを持っているのだが、今回の事故ではそれが逆方向に働いたとも感じられる。また、私たちが多くの税金を払って仕事をして貰っている役所はどうやら「特定利益団体の出先」になってしまったからだ。そこで、ネットなどを活かして、今後も多くの人が情報を交換することが大切だろう。(平成23年10月28日)武田邦彦
2011年10月29日
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確定した「1年1ミリ」・・・法律違反の暫定基準値は見直されるが、日本は野蛮国になった食品安全委員会が2011年10月27日、恒久的な食品安全の基準を「生涯100ミリ」とした。これは食品安全委員会も発言したように「外部被曝がゼロの場合」で「生涯100ミリは外部と内部被曝の総計」であるという結論だ。日本人の平均寿命は女性で86歳だが、このような場合には平均ではなく、ごく希な場合を除き、長寿の人が基準でなければならないので100歳ぐらいだろう。また、「将来、被曝が増えるか減るか不明」の時には、平均値かあるいは平均値より少なく毎年の値を決めるのも常識だ。つまり、「生涯100ミリ」ということは「1年1ミリ」というこれまでの法令の基準をそのまま追認したことを意味している。その点では現時点でこのような決定をしたことは、「セシウムだけで1年5ミリという暫定基準値」が法令違反であることから、評価されるべきだろう。・・・・・・・・・しかし、いくつかの問題点を含んでいる。もっとも大きな問題は、法令で定められている1年1ミリという「我慢の限度」と異なる決定を食品安全委員会ができるのかという問題である。被曝限度は「正当化の原則」のもとで決められる。「正当化の原則」とは「被曝による損害」に見合う「利益」があるかどうかである。つまり日本では医療被曝、自然被曝の他に被曝する原因は原発の電気を貰うということであり、それによるメリットが「一生涯100ミリ」に相当する損害と同じであるかどうかという「正当化の原理」を吟味しなければならないからだ。つまり、放射線被曝量の決め方は「どこまでが安全か」ではなく、「被曝は損害だが、どこまでは許容できるか」が「正当化の原則」だからである。その意味で、今度の決定は「まあまあ、なあなあ」の日本式論理が国の委員会レベルで認められたという点で、大きな禍根を残した。福島原発事故の後で、多くの識者、専門家、役人などが口にする「被曝量の限度」は「野蛮国の論理」だった。つまり、野蛮国では国民は為政者のために時によっては「我慢」を強いられる。しかし民主主義の文明国では国民が主人であるから、私企業の活動のために我慢を強いられることはない。国民が被曝するのは「電力会社の活動」によるものであり、それは「個人(法人)が国民に損害を与える」ことを意味している。だから、おいそれとは認めることはできない。ただ、私企業の行為が国民に益を与える限度において国家が国民の代わりに、それによる損害を認めるというのであるから、「正当化の原理」は厳しく守られなければならない。その点では食品安全委員会が「野蛮国の原理=1生100ミリまで我慢せよ」として、「文明国の原理=1生100ミリの損害は原発の電気の利益と相殺する」ということを明言しなかったことは日本社会の低い論理レベルを露呈したと考えられる。また一つ、日本が近代社会になる機会を失った。(平成23年10月28日)武田邦彦
2011年10月28日
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子供はなにも言わないから・・・業者が怖い腰抜け役人 葛飾区が市民から通報のあった「放射線量の高い場所」の放射線量を測定し、「高かったので、公表できない。地価が下がるから」と言った(読者情報)。 数ヶ月前、ある幼稚園付近の放射線量が高いということが判った自治体が「幼稚園がつぶれては困る」という理由で公表しなかったことがあった(このブログで紹介した)。 子供は何も言わない。不動産屋や幼稚園の園長は文句を言う。だから、子供を被曝させる。何という腰抜け役人だろう。 この際、社会の大原則を決めたらよいと思う。「日本人の健康に影響のある情報は、他のいかなる損害が予想されても公表についての責任を免れる」、「日本人の健康に影響のある情報を、他の損害や利得があるからといって公表をしない場合、厳しく罰せられる」。 このような原則を提案する議員に一票を入れたいものである。なお、一関で死亡した中学生は女子中学生であることがわかりました。校庭の線量はかなり高かったようです。法令を超える被曝を与える環境で学校生活をさせた校長は病気の原因を問わず、責任を問わなければならないでしょう。中学生は人生の時間を選べないのです。 (平成23年10月28日) 武田邦彦
2011年10月28日
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ダブルスタンダード社会3 「規則」と「その時の都合だけ」?私はこのグラフを見ると哀しくなります。2000年以来、「成人男子で原子力発電所に勤めることを自分の意志で決めた従業員」に対して、電力会社は「1年1ミリの被曝」に抑えるために約2倍の従業員を雇用しているのです。なぜか? それは1年1ミリに制限しないと従業員の健康が損なわれ、社会の批判を浴びるからです。このことを進めてきた当の本人・・・東電・・・は文科省大臣が「福島の子供たちに1年20ミリ」としたときに声をあげないのです。もし人間としての誠意があったら、「それはダメです。私たちでも成人男子で自分の判断で働いている人でも1年1ミリにしてきたのです。まして福島の子供たちは被曝の感度が3倍高く、強制的に被曝しているのです。是非1年1ミリ以下にしてください」と叫ぶはずです。でも、実は東電の人は二面性を持っているのです。・・・世間がうるさいし、従業員を増やしても電気料金をあげれば良いのだから、従業員は1年1ミリにしよう。でも福島の子供たちが病気になるかどうかなど自分たちに関係が無い・・・ということです。・・・・・・・・・私はこの二つの通達と法律を見て哀しくなります。これまで経産省(原発担当省)は常に「一般公衆の被曝限度は1年1ミリ」として大臣通達を出し、原子力関係者は医師も含めて「被曝は少ない方が良い」と繰り返し、法律まで作ってきたのです。それなのに原発事故が起こると自分たちの責任を減らすために、NHKと共同して「1年20ミリでよい」、「福島に住んだ方が安全だ」、「被曝をすると元気になる」と言い出したのです。NHKも原発事故まで「法律を守るよい子」の放送をしてきましたが、それは単なるカモフラージュだったのです。・・・・・・・・・誰もが東電と同じです。子供の将来などまったく心配せず、自分がかつてどう言ったかも隠し、その時(事故が起こっていないとき)、その時(事故が起こったとき)で自分の都合の良いように言っているだけです。こんな人たちが日本を指導しているのは、「出された問題に答えることがうまい人が東大に行く」という社会を作ってしまったからです。日本人の大切な能力は「誠実、礼儀、信義」などであり、まったく違った人が指導していることに原因があります。今の教育は「その場限りの言い訳のうまい人」を選別しているのですから。音声あり。「takeda_20111027no.280-(8:04).mp3」をダウンロード(平成23年10月27日)武田邦彦
2011年10月27日
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人類が繁栄するのは自然や生物界に悪いことか?トキを絶滅から救うことはトキにとってとても残酷なことだと私は思い、小学館から「生物多様性のウソ」という本を2011年に出した。本当は「トキは逝ってくれ」という題名にするところだったが、刺激的ということでややおとなしい題になった。生物はその長い歴史の中で繁栄と絶滅を繰り返してきた。(このブログに貼り付けた図はクリックすると若干大きくなります。)この図からも判るように、5億5千万年前に誕生した多細胞生物は、古生代、中生代を経て現代に至っているけれど、誕生と絶滅を繰り返し、その間に生体の防御能力がついてきた。紫外線や放射線で言われるホルミシス効果も絶滅によって獲得してきた能力である。その時代時代には、その時代の環境にもっとも適応した生物が繁栄する。古生代なら三葉虫やアンモナイト、中生代の恐竜、そして新生代の人類などがそれに当たる。そしてその時代の支配的な動物が自らその競争力を放棄した例は無いと思われる。つまり、恐竜が繁栄していた頃、恐竜が「こんなに恐竜ばかりになったら自然を破壊する」とか、「俺たち以外の動物が絶滅するのは許せない」などと考えるはずもない。自然や生物界というのは競争力の強いものが繁栄するのを「良し」とするようにできている。そして三葉虫、アンモナイト、恐竜はすべて「繁栄しすぎて絶滅した」のではなく、古生代と中生代の間に起きた第氷河時代と隕石の落下によって滅びたと考えられている。「発展しすぎて滅びた」生物は見あたらない。私たち現代人も、前のネアンデルタール人が11万年続いた前の氷期を乗り越えられずに絶滅した結果として登場してきたのだ。最近、ある地域のサイの絶滅が話題になっている。サイは現代の哺乳動物の中でも比較的古い種で、その絶滅は時間の問題でもある。・・・・・・・・・「人間だけは他の生物と違う。人間には知性がある」と言うけれど、それは私たちが人間だからそう思うだけで、やはり多くの生物の中の一つだろう。このように考えるのはあまりにも傲慢な気がする。そうすると、人間が都市を造り、畑を耕し(里山)、動物を飼育するのは特に「悪い」ことではないのではないか。そして1300万年後の次の隕石が落下するときか、あるいは生物の活動の元であるCO2が2000万年後に無くなってしまうか、どちらかまで大いに繁栄したらどうだろうか?生物の絶滅が自然を破壊するという考えはあまりに浅薄なように感じられる。いずれにしても1000万年から2000万年ぐらいで人類は絶滅する可能性が高いのだから。ひさびさ、音声あり。「takeda_20111027no.278-(6:41).mp3」をダウンロード(平成23年10月27日)武田邦彦
2011年10月27日
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「汚したものをかたづける法律がない」???「福島第一原発から約130km離れたある市に住む方が線量計で庭の土を計測したところ0.5マイクロシーベルトであったので、庭の汚染土を土嚢に詰め、引き取ってもらおうと東電に行った。」という記事がでていた。東電は「法律がないから引き取れない」と答えた。おそらく「他人の財産を汚した場合、汚した人は直ちに旧に復しなければならない」ぐらいの法律は民法かなにかにあるはずだ。他人の服を汚した、他人に庭に汚い物を投げた・・・などで注意された場合、「法律に決まっていない」とふんぞり返る人は日本人だろうか? 法律以前の問題だし、東電は福島原発などの「放射性物質を扱える土地」を多数持っているのだから、引き取ることはできる。でも、不思議なことがある。まず一つは警察が駆けつけないことで、普通なら人の健康を著しく損なう恐れのあるものを誰かが飛散させたら、とりあえず警察が来てロープをはり、汚した人を連れてきてすぐに片付けさせるはずだ。犯人はハッキリしているのに警察は動かない。そして第二にNHKだ。これまでNHKは「視聴者に支えられた放送局」として宣伝などとは関係なく、国民に親しまれてきた。食品汚染問題、公害、女優の薬物使用など「社会の悪」と言われるものは徹底的に報道してきた。たとえばトリ・インフルエンザが流行したときには、大きなキャンペーンをやり、インフルエンザのトリが「一羽でも発見された県」を真っ赤に塗りつぶしたマップを繰り返し示した。その時、「この県では何万羽のトリがいますから、1羽ぐらいでは安全です」などという論理は使わなかった。多くの人はまだNHKに好意を持っていて「そのぐらいは良い」と言っているが、それが子供を被曝させている。事故直後、NHKは福島原発近辺から取材陣を総引き上げさせた上で「健康に影響がない」との放送をしたとされる。一刻も早くこの時期の事実を公表すべきである。・・・・・・・・・法律ではアルファ線を含まないものがあると確認されていても、1平方メートルあたり4万ベクレルを超える場合や、1キログラムあたり1万ベクレルを超えれば、直ちに飛散した人が片付けなければならない。東電が「汚染された土壌」を片付けないでも平気なのは大会社だからか?日本の憲法で定められた法の下の平等は守られているのか? 政府、法曹界はこのことについてのコメントを発表するべきである。そして2度と再び、NHKは個人が汚いもの、毒物、ウィルスをまき散らしても放送してはいけない。(平成23年10月23日)武田邦彦
2011年10月26日
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サカナは食べられるか? 8月から10月にかけての太平洋側のサカナの汚染状態について整理をしてみたいと思います。基本的には状況は変わっていません。結論としては、次のようになるようです(太平洋岸の北海道から静岡まで)。1)時々、大人でも食べてはいけないサカナが見られる(セシウム)。2)おおよそ、子供は食べない方がよい(セシウム)。3)ストロンチウム、プルトニウムのデータがほとんど無く、小魚を骨ごと食べるのは避けた方がよい。4)汚染の数値はセシウムの値を2倍にするのがメヤス。結局、東日本の太平洋側のサカナは買わない方がよいのですが、その理由は、1)暫定基準値が高く設定されいるので、表示されていなければ1年5ミリの被曝になる可能性がある、2)安全レベルの1キログラム40ベクレル以下のものもあるが、40ベクレル以上のものも「安全」として売られているので区別がつかない、3)相変わらず福島近辺の海からとれるサカナが汚染が高く、海の海流などでのセシウムの拡散が遅いようだ、4)川魚、貝類、藻類も同じように危険、ということです。今年は買うのをやめておいた方が良いでしょう。(川魚の汚染と水道の汚染のつじつまが合わずに、若干困っています。)・・・・・・・・・•1. 8月のグリーンピースのデータ8月のデータでは、アイナメ、メバル、サクラマスなどの主力魚が200から1000ベクレル程度汚染されています。1年1ミリの被曝として、空間0.4ミリ、水0.1ミリ、ホコリ0.1ミリ、食材0.4ミリと割り振ると、サカナは1キログラム40ベクレルが限度になりますから、いずれもまったく食べることができないぐらいでした。日本にいてグリーンピースのデータを使うのは残念ですが、私が最初にサカナの汚染を調べたのもグリーンピースでした。今までグリーンピースの批判をしていましたが、国がダメなときには「徹底的な反対派」がいることも大切ですね。•2. 9月の水産庁のデータ9月は8月と同じく福島近辺では50ベクレルから1700ベクレルぐらいになっていて、状態の変化はありませんでした。これを「放射性物質の移動」という意味では海に流れた放射性物質を陸揚げしているということを意味しています。特に海に流れたと考えらえられるストロンチウムやプルトニウムをサカナを媒介して陸に揚げていることも心配されます。また水産庁の測定は信頼できると思いますが、肝心のストロンチウムとプルトニウムの値が出てこないので、その点で不誠実と思います。またサカナも一部が公開されているのか、全体から見て、ここで示したサカナが何%なのかも判らない発表のしかたです。•3. 10月の水産庁データ青森県から宮城県沖でとれたサカナは、タラ、カレイ、ブリなどの主力魚がおおよそ10から40ベクレルぐらいで、「汚染されているが食べられる」というレベルにあります。もし、国が食材について1年0.4ミリシーベルトというまともな規制を引いていたら、これらのサカナは堂々と「安全」というレッテルを貼って出荷されるでしょうが、なにしろ基準値が500ベクレルなどになっているので、これらのサカナも紛れて危険になってしまいます。茨城沖も10から50ベクレルぐらいでギリギリの状態が続いています。このような状態は北海道の太平洋側から神奈川まで続いていて、静岡のデータはほとんど得られません。静岡のデータが見つからないのは、私の探し方が悪いのか、本当に測っていないのか判りません。静岡はお茶の時に「測定しない」という方針をとったので、その名残があるのかとも思っています。川魚はどうかというと福島などは汚染されていますが、100ベクレル程度の汚染がみられます。このデータは栃木県のアユですが、子供は絶対に止めた方が良いという値です。これでも国の暫定基準値(1年5ミリ、セシウムだけ)の範囲に入るのがとても残念です。このような状態なので、「検出せず」のサカナも多いのですが、基準値が高いので、やはり避けた方が良いと思います。総じて、水産の人にも順法精神と日本の子供を守る日本の大人としてのプライドを求めます。(平成23年10月25日)武田邦彦
2011年10月26日
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ダブルスタンダード社会2 原発は安全で危険原子力に携わってきた私としては原発事故の一要因として日本社会の特性をあげることはやや躊躇しますが、事故を繰り返さないためにも考えを進めておきたいと思います。原発の安全性に関する日本のダブルスタンダードは次のようなものでした。【日本人が建前で使う御札】 原発は安全【日本人の本音の気持ち】 原発は危険【地元の人の心】 お金と危険を交換日本人は床の間に「原発は安全」という御札を貼ってきました。首相、大臣、知事、市長・・・責任ある立場の人は「原発は安全」と繰り返してきましたし、福島原発事故のあとでも「原発は安全」と言っています。また、原発が爆発したら、今度は「被曝量の限度が低すぎた。人間はかなり被曝しても大丈夫だ」という御札に取り替えつつあります。日本人の多くは矛盾した論理にはまっていました。それは「建前としては原発は安全、本心は原発は危険」というものでした。だから、日本の原発は「安全だが、危険なので僻地に作り、地元に危険手当を出す」ということを続けてきました。「安全だが危険」という矛盾した論理はどうして生まれたのでしょうか?・・・・・・・・・正しくは、1)原発が安全か危険かをハッキリさせる、2)安全なら実施し危険なら止める、3)安全だから実施するなら電力の消費地の近くで水のあるところにたてる、4)東京なら利根川沿い、大阪なら琵琶湖湖畔がもっとも良い、ということになります。このように考えると、東京の電気を柏崎や福島浜通に建設して延々、送電線で送っていたこと自体が奇妙な風景だったことが判ります。でも東京郊外や大阪の近くに原発を建設するということになると、反対が多いでしょう。でもこれを克服しないと日本は真の意味で原発を受け入れることができないと思います。原発の運転が本格的になって20年。その間に震度6の地震で7つの原発が破壊し、3つの原発が全電源を失い、1つの原発(発電所)が爆発しました。また日本には震度6の地震が1年に1回以上あります。そうすると、20年間で一度ぐらい今度の福島原発事故のような事故が起こることを意味しています。100年後、日本は5回の福島級の事故を起こし、原発で日本国は無くなると思います。技術的には間違いありません。それをどのぐらい日本人が受容するか、それともこれまでのように塗布していくか、そこに私たちの子孫の運命がかかっていると思います。(平成23年10月25日)武田邦彦
2011年10月25日
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分かりにくいごまかしの理屈(基準値(今回)と積み重ね(次回))これまで色々な事件が起こっても比較的、良心的に専門家やマスコミとしての節度を保ってきた学者やNHKが、こと被曝に関しては突如として錯乱しています。普通の人は専門家でもありませんし、マスコミのようにチェックできるものでもありません。「何となくおかしい」と思ってもそれを具体的な形で示すことはできません。だから、本来は、専門家やマスコミに「誠意」を求めるわけで、法律、社会で普通に使われることを大切にして欲しいのです。今度の福島原発の問題は政府の「直ちに健康に影響はない」という表現に専門家とNHKはビビってしまいました。政府があれほど誠意がないことを言うのだから、それに反抗するとひどい目にあうと思ったのでしょう。子供の健康と自分の立場を比較して子供を捨てたともいえます。・・・その一つが「基準値」や「規制値」です。事故後、保安院が「ヨウ素が基準値の3355倍だが、健康に問題は無い」と言いました。私の見解ではこの発言だけで傷害罪と思います。つまり基準値の3355倍の海に入ったら「健康に害がある」からこそ基準値なのです。また公務員として法律や規則を遵守することを厳密に守る必要があり、公務員法にも違反するでしょう。「基準値の3355倍だが、海に入らないから」ということを言う専門家がいますが、それは「牛肉のセシウムが基準値の20倍だが、牛肉を食べないから」という理屈と同じで、そのようにすればどんなものにも基準値は不要になります。食品の基準値を決めるときには、その国民がどのようなものをどのような状態で食べるか、吸収率などを細かく検討しますが、もっと大切な原理原則は、「1日1キロ食べ、1日40ベクレルまでOK」ということなら、すべての食品を1キロあたり40ベクレル以下にしなければならないのです。たとえば牛肉が1キロ100ベクレルで、1日牛肉を50グラム食べるとすると、100に50をかけて1000で割るので「被曝はわずか5ベクレル」になり、「だから基準値が40ベクレルなら大丈夫」ということになります。事故後、政府、保安院、東電、食品安全委員会、東大教授、横浜市のパンフレット・・・など多くの専門機関、専門家がこのように言っています。これは一種の犯罪行為とも言うべきトリックなのです。というのは、その人が牛肉を1日50グラム食べるとすると、「その他には食べないのか?」を断定しなければなりません。つまり、その人はいずれにしても1キロ(若干の水を含む)を食べるとすると、牛肉以外の食材が「まったく汚染されていない」ということを証明する必要があるからです。現実的には汚染された牛肉を食べた人が、そのほかの食材はまったく汚染されていないことを証明することはできませんから、「病気にならないための計算」としては、「すべての食材が牛肉と同じように汚染されている」と仮定せざるを得ないのです。「被曝」というのは「受け手の受ける被曝の足し算」だからです。あくまでも牛肉を供給する側ではありません。一関の中学生も同じです。たとえば学校の校庭は低線量率(たとえば0.5マイクロ)で、側溝がその10倍の5マイクロシーベルトだったとします。教育関係者は(おそらく生徒の健康には関心がなく、ただ大丈夫だと言って面倒な対策を回避したいだけですが)、「生徒が溝の近くにいる時間はせいぜい10分の1だから、5マイクロシーベルトを10で割って良い」と考えます。仮に教育関係者がこのようなことを言えるためには、1)学校にいるときの生徒の行動を事細かに規制し、それを記録していること、2)生徒の学校外の行動と被曝をすべて把握していること、が必要だからです。従って、溝が5マイクロシーベルトの場合、「24時間、溝の近くにいること」を仮定して計算します。実際にも、その生徒が空間が1時間1マイクロのところで住み、食品を暫定基準内で食べていたら1年5ミリ(セシウムだけ、4月5月のヨウ素も含めれば10ミリ)ですから、すでにそれだけで(0.001×8760+10)=19ミリ になり大幅に被曝限度を超えているのです。仮に一関の中学生が大丈夫というためには、全生徒の全生活における「学校生活以外の被曝量」を総計し、そのうちのもっとも被曝の多い生徒を確定して、その数値を示し(たとえばそれが1年0.99ミリの恐れがある場合)、残りの被曝量(0.01ミリ)だけが学校での被曝として許されるので、それが学校の溝の近くで大丈夫かということを言わなければならないのです。そんなことは非現実的なので、規制値や基準値は「空間なら8760時間をかけ、食材なら1キロに換算し、それに水とホコリの被曝量を足して1年1ミリ以下」になるようにしなければならないのです。そして平均的にそれを出して、さらに「人による感受性の差」を3倍(放射線)とか10倍(食材)を考慮して規制値が決まります。つまり、「善良な国民のうち、やや弱い人が善良な政府の規制値を信じて空気を吸い、家に住み、学校に行き、食事をし、水を飲み、校庭で運動しても、健康を害さない」ということになっているのです。食品に含まれる農薬や添加物でも、お母さんがスーパーに行って、1)子供の年齢を考え、2)牛肉を買ってその中にどのぐらいの添加物が入っていたから野菜は**以下にしようと計算し、3)今日は汚染されたものを買ったから12品以上は買えない・・・などと考えなくても良いようになっているのです。安心とはそのシステムが必要なのです。「おそらく大丈夫だろう」とか、「そんなのは特殊な例だ」と言うことは通用しません。東京都知事が汚染された食材を食べてみたり、首相が福島の農産物を食べるのは何の意味もなく、日本は非科学的な野蛮国だということを知らせているに過ぎません。あれを正常な行為と思うのはかなり判断力が低下していると言わざるを得ないからです。事故の起こった直後、私は「足し算のできない東大教授」と書きましたが、まさに今でも足し算のできない地方自治体の市長、教育委員長、NHKで溢れています。この際、善良な指導者に戻ってください(もう一つの問題は長くなって時間がなくなって来ましたので、明日以後に書きます。)(平成23年10月22日)武田邦彦
2011年10月25日
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至極、当たり前の話・・・ビクビクする私たち世田谷でラジウムが見つかってビックリ、足立区のプールで高線量が見つかってビックリ、また柏でビックリ! なぜ、こんなに数ミリシーベルトのところが出たと言ってビックリしているのでしょうか?至極、当たり前の話です。「測定が必要」と思っているのに「測定しないで大丈夫」と言っている偉い人が多くいるからです。福島原発から80京ベクレルという途方もない放射性物質が漏れたのですから、北は岩手から南は静岡までの太平洋側の都県は細かく汚染を測定しなければならないのは当たり前です。・・・・・・「神様」と言っても良いし、「大丈夫おじさん」と言っても良いのですが、福島原発事故が起こってから突如、「測定しなくても俺には判る」という人が大勢出てきて、不安を煽っているのです。新聞・テレビも「大丈夫」と言っておきながら、汚染が見つかると大騒ぎというのを繰り返しています。まるでマッチポンプですね。不安を解消し、ビックリしないためには市役所の人、5人ぐらいをあて、国は原子力予算の500分の1(10億円規模)を投じて、3ヶ月ぐらいで詳細マップを作っていればビクビクする必要はなかったのです。今からでも、子供のために、至極、当たり前のことをしてください。(平成23年10月23日)武田邦彦
2011年10月24日
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子供たちの運命は大人の判断で決まる・・・一関の中学生岩手県一関市のこともたちの運命は、そこの大人たちの判断と決意で決まる。農作物の販売に重きを置くか、子供たちの命を大切に思うかも含めてそこに住む大人の判断だ。一関の中学校(一関中、花泉中など)から毎時1マイクロシーベルトを超える放射線量が測定された。すでに半減期の短いヨウ素131などが無くなっているから、4月には10マイクロシーベルトを超えていたと考えられる。校庭の庭のホコリを吸った中学生の子供たちはホコリによる内部被曝を1時間に10マイクロシーベルト程度吸い込み、さらに給食の食材の基準もセシウムだけで1年5ミリシーベルトだからヨウ素も含めると給食で1年10ミリに達する恐れがある。つまり4月に一関市の中学生が被曝したのは1時間に空間が10マイクロ、土からなどの誇りが10マイクロで20マイクロシーベルトである。それが徐々に減って、現在では1時間あたり5マイクロぐらいになっているとすると、平均で1時間に12マイクロシーベルト程度になる。7ヶ月は7ヶ月×30日×24時間=5040時間で、それに12マイクロシーベルトをかけると1年で60ミリシーベルト。それに食材がセシウムだけで5ミリだからヨウ素も入れると10ミリぐらいになり、合計70ミリシーベルトに達する。児童の場合は50ミリシーベルトを被曝した時点でヨウ素剤を服用させる必要がある。ガンの発症率は福島県に移られた山下医師も100ミリで1000人に5人の発症が確定すると言われている。チェルノブイリの事故の時、ヨウ素剤を飲まなかったソ連の子供たちから甲状腺ガンが数1000人出て、飲んだポーランドからはほとんど報告されていない。4月にヨウ素剤を飲ませるか飲ませないかも一関の大人の責任だ。子供たちは大人を信じているが、子供は大人の所有物だろうか?・・・・・・・・・この記事は、私がテレビで、汚染されているところの一例として岩手県・一関をあげ、その後、市長さんや議会から抗議されたことを何か思ってのことではありません。私は子供たちを被曝から守るということが目的で、私の名誉などはまったく関係がありません。ただ、宮城県があまり汚染されなかったので、その北にある一関の人がうっかりして子供に被曝させてはいけないと思い、テレビで一関の名前を挙げたのです。政府が「遠くに逃げろ」とウソをいったので、多くの人が放射線物質の汚染が「トビトビ」になることに気がついていないからです。一関の中学生が被曝したのは残念です。すでに手遅れになる可能性があります。まだ教育委員会は「部分的だから」とまだ東電側にたって、言い訳をしていますが、言い訳をするより普通に計算して子供たちがどのぐらい被曝しているかをすぐ明らかにし、必要な対策をとって貰いたいと思います。その時に「校庭にいるときだけ」とか「給食は汚染されていない」とか、「内部被曝はわからない」などと言わずに「危険サイド」にたって計算をしてあげて欲しいと思います。どんなにヘマをしても、それを認めて直ちに対策をとれば救われる子供達がいます。・・・・・・・・・子供は大人を信じている。食材の暫定基準がセシウムだけで1年5ミリになっていること、自分たちの健康より農家の出荷を気にしていることなども知らない。ひたすら大人が子供を守ってくれていると信じている。その純粋な心に今こそ大人は応じて貰いたい。一関の例は関東、東北のすべての学校に当てはまります。是非、参考にして子供を守ってください。今、測定された線量はこれまで被曝した量の一部ですからそれも誠実に計算してください。(平成23年10月22日)(マイクルシーベルトとミリシーベルトが混乱していましたのを、読者の方に指摘されましたので、修正しました。「こっそり直した」などと言う人がいますが、できるだけその時点で正しい情報を書きたいと思っています。最新のものがもっとも正しいく、ほとんどのものは1日以内に修正するようにしています。ご指摘していただいた読者の方に感謝申し上げます。皆さんと一緒によい情報を提供したいと思っています。)武田邦彦
2011年10月24日
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「大丈夫」と「危険を避ける」ことの違い高速道路を利用する回数は1年に5億回ですから、平均して国民一人あたりおよそ5回利用することになります。そして高速道路で起こる交通事故の犠牲者は約250人ほどです。食中毒には多くの人が注意を払っていますが、1億人の人が毎日3度づつご飯を食べていますが、食中毒で死ぬ人は戦後1年間で500人ぐらいの時代もありましたが、今では10人レベルになっています。それでも食中毒にならないようにいつも気を配っています。つまり「大丈夫」と「危険を避ける」というのは質が違うのです。毎日のように高速道路を走る人でも、交通事故の犠牲になる人はほとんどありません。「私は毎日、高速道路を利用していますが、事故に遭ったことはありません。だから高速道路は安全ですから、時速を80キロから160キロに上げても大丈夫です」というのは間違いです。このことで判るように、「危険を避ける」時には「こうしても安全だったから」という個別の経験とはまったく関係なく、1億人でどのぐらいの被害者がでるかで決める必要があります。それは人生で不遇の死を遂げることは絶対に避けなければならないのと、生活の中の危険は、交通(自動車、電車、ヒコーキなど)、火事、台風、大雨、強風、崖崩れ、食中毒、農薬、添加物、アレルギー、感電、被曝、電磁波、熱中症、凍死、階段、やけど、インフルエンザ、結核、ガン、犯罪、通り魔、誘拐、スポーツ・・・・など数が多いからです。一つ一つの事故の確率が100分の1だったら、ほぼ毎年、事故に遭宇ことになります。また、「ほとんどの家は火事にならないから、火の元に注意しなくても良い」とか、「感電事故は少ないから、裸線でも良い」、「インフルエンザがはやっている時に彼はマスクをしなかったのに罹らなかった。だからインフルエンザにマスクは要らない」などというのは、通常の生活では禁句です。このように「確率的に起こる」ことというのは、「大丈夫だった」という個別の例は「危険を避ける」には何の役にも立ちません。最近、「世田谷のラジウム事件では数10ミリシーベルトを浴びたかも知れないのに病気にならなかった」とか「首相が汚染されたものを食べても直ちに病気になっていない」などを言って「だから被曝しても大丈夫だ」とか「1年1ミリは厳しすぎる」という結論を出す人がいますが、かなり悪質と言わなければなりません。およそ専門家ならこの違うぐらいは判っているからです。・・・・・・・・・ところで、「1年1ミリ」はさらに決めるのに難しい面があります。それは交通事故や食中毒などと違って、毎年、被害者がでるものではないので「統計的に起こるものなのに、参考にする統計がない」ということです。だから、論争が残るのです。統計的なものを統計がないのに目安をきめるのですから、「合意」で決めたわけですが、その合意が1年1ミリです。1年1ミリ以上の被曝をして10年後に子供がガンになるかどうかはおおよその科学的根拠はありますが、本当は「神様しか判らない」のです。だから、今後、「1年1ミリ以上でも大丈夫」という人がいたら「神様」と呼ぶと矛盾がハッキリすると思います。未来の判らない人間なら子供たちが被曝している2011年(かりに日本に放射線漏れが無いときなら議論はOK。新しい合意を作れば良い)は、合意=1年1ミリ、しか発言できないはずです。(平成23年10月21日)武田邦彦
2011年10月23日
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原発事故の原因の一つ・・・「専門家」と「教科書」技術士の「原子力部門」を作った委員の一人として、私は少し前に「専門家の系列」の図を出しました。この図に関していろいろなご意見が寄せられました。それがこの図ですが、「王-法学者-弁護士」の系列では「王」ではなく「法」、「正」ではないかとの意見もいただきました。実は、最初に私が書いたときは宗教も入っていましたので一番上は、「神、王、命、真」というように絶対的なものだったので、その名残がのこっていました。確かに「王」より現代社会では「社会の約束」とするべきかも知れません。2語で納めるとしたら「約束」でしょう。また、教育のところでは「知-科学者-教師」と書きましたし、また「教師は自分が正しいと思ったことを教えてはいけない」としましたので、「教科書によって教育を行う」と理解された先生からもメールをいただきました。実は、この系列図には2種類があります。先日の図は「人」を中心にしたもので、もう一つは「システムに重点を置く」というものです。それを次に書きました。このように図に整理すると、少しのことでも考えなければならないことに気がつくとともに、日本人の多くのコンセンサスになるまでにまだまだ時間がかかりそうなことも判ります。第一列(左)は「法-国会-弁護士-司法試験」と書いてみました。社会を構成する人のお互いの約束を「法」とすると、その条文を国会が決め、弁護士が勉強して社会で起きるトラブルに対します。弁護士は独立した資格として社会が認めるので、国家試験(司法試験)を経なければなりません。また弁護士は原則として身分が保障されていて、本来なら「弁護士会(専門家の集団)」だけが資格の剥奪ができるのが歴史的な経験です。そして一番右の4列目に「知-日教組-教師-教員試験」という列を書いてみました。「知」の下は「学会」が来ることも考えられますが、理想的には学会が学問的な知を定めたら、それに基づき教員の集合体である「日教組」のような組織が「教えること」を決め、それを教師が児童・生徒に教えるというのが本筋でしょう。また、教師も公的な専門職ですから、国家試験(教員試験)があります。大学教授の場合は、「博士」と「教授会」がこの役割を果たしていますが、まだ中途半端であまり厳密には守られていません。また教育は「知」ばかりではなく、「知・情・体」のすべてを教えるので「教」とする方法もありますが、「教える」というのは手段ですから、ちょっと違和感があります。現在の教育は「知-文科省(教科書)-教師」となっていて、文科省は主として役人であり、文科省の大臣一人で「教育界を代表している」とは言いにくい面があります。また教科書が「知」から離れて政治の道具になることもしばしばですので、欠陥だらけということがわかります。また、戦後、文科省の統制に対して日教組が政治的な言動をとったことで混乱しました。「教師」という専門職の身分を保障し、教えることを決めるシステムはまだ日本には概念すら定着していないことも判ります。今度の福島原発事故では「校長先生とはいったい何か?」もハッキリしていなかったので、校長は「文科省が言うことを聞く。子供の健康は考えない」という態度に出たのだとおもいます。ところで、このブログでの当面の課題は「専門職でもない東電の社長が、原発という巨大技術でかつ国民に大きな影響を与える行為をなし得るか」、「原発の安全設計は日本原子力学会が行うのか、個別の私企業が行えるのか」などを考えることですので、この辺で教育の問題は別の機会にしたいと思います。(平成23年10月21日)武田邦彦
2011年10月23日
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短信・・・農家の補償と原子力予算● 計算すると汚染されたところからとれる農作物の出荷総額はおよそ700億円。これに対して1年の原子力予算は5000億円。1年間、原子力利権の人に我慢して貰えば、汚染された土地を回復するのに7年間の余裕があります(700億円×7年=4900億円ですから、それでも100億円おつりが来ます)。•● ある方が農家の方に「今年は植え付けをしないでください」と言ったところ、農家の方が「じゃ、おまえ、補償してくれるか?」と聞かれたそうですが、すでに私たちは原子力に使う税金を納めているのですから、農家の方も自分のことだけを考えずに子供を被曝から守ることを一致団結して進めましょう。お金は税金という形ですでに政府に納めてあるのです。•● 政府は原子力予算を農家と除染に出してください。(平成23年10月21日)武田邦彦
2011年10月22日
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「優しい言葉」が子供を被曝させたか?大臣が言った「痛みを分かち合う」といわれ、それにそって「東北の瓦礫で他県も汚染しよう」と言うことになったのには私はビックリしました。もちろん東北の瓦礫がすべて汚染されているのではありません。日本は近代国家で汚染の測定もできるのですから、汚染されていない瓦礫は積極的に受け入れて協力すれば良いのですが、受け入れの交渉は一切公開しない、それどころかどの市が受け入れるかも公表しないというのでは住民が不安になるのは当然で、国家の私物化とも言えるでしょう。政府は「福島の人を助けよう」というかと思っていました。福島の人を助ける方法は、{詳細なマップ作り、汚染していない食材を使った給食、除染そのもの、福島原発5キロ以内を国家が買い取り、焼却設備・処理設備を作り、汚染されていない食材の供給、疎開先の準備やお金の援助}ですから、国がやろうと思えば簡単なことです。でも考え見ると、これも私たちの今までの「甘さ」が原因しているかも知れません。環境を研究している時、どうしても「地球に優しい」という言葉になじむことができませんでした。しかし、結構、分別もあり知識もある人が盛んに「地球に優しく」などと言う言葉を使われるので、いちいちクレームをつけていてもと思っていました。たとえば、地球が誕生したときに、大気の95%はCO2で、少しのN2(窒素)があったに過ぎませんし、気温は1000℃を超えていたと考えられています。だから、現在のCO2=0.04%とか、気温=16℃ですから、もし地球が「昔に戻りたい」と思っていたら、CO2はドンドンだして、もしそれで温暖化するなら地球は喜ぶでしょう。環境の専門家でそんなことを百も承知の人が地球に優しくという言葉を繰り返すのです。そのうち、なんとなく「地球はCO2が少ない方が良いのだ」と錯覚して、さらに「オゾン層はCO2が増えたから破壊された」という珍説まで登場しています。もともとオゾン層ができた15億年ほど前は、CO2は現在と比較にならないほど高く、温度もかなり高かったので、その当時にできたオゾン層がCO2が多くなると破壊されるなど現在の科学では考えられないのです。「痛みを分かち合う」、「地球に優しく」、「ゴミも分ければ資源」など言葉をいい加減に使っていると誤解が誤解を招きますが、この辺で「耳には心地よいが事実とは違う表現」を止めるようにしたいものです。本来なら「言葉、用語」を大切にする新聞やテレビまでもが新聞を読む人、テレビを聞く人に心地よさだけを考えて、日本語をダメにしているように感じられます。今度の痛い経験を活かして、環境の専門家からまずは「地球に優しい」という言葉を使うのを止めて欲しいと思います。(平成23年10月20日)武田邦彦
2011年10月22日
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これからの生活の設計のために(3) 福島の南(茨城・栃木・群馬)福島の南には二本松、郡山を通った放射性灰と、いわき市、水戸を通った流れがあります。それが群馬、千葉、埼玉、そして東京、神奈川に流れた。その様子は次の図で示されています。福島に接しているところには1時間1マイクロシーベルトを超えるホットスポットがあり、また霞ヶ関や沼田の付近には0.5マイクロの場所が見られます。細かく測定するとさらにミニホットスポットが多く見つかると思います。まず第一に自治体レベルでやることはホットスポットの地域で「飛散防止」の措置をすることです。これはすでに法律や規則で定められていますので、その一例として電離放射線障害防止規則の第28条を示しておきます。厳密な法律論はこのブログではしないことにしていますが、何にしても「日本人の健康」という点ではどの法律でも同じですから、まずは「飛散措置」をして貰いたいと思います。飛散措置は土壌飛散防止剤がすでにありますので、それをシャワー上にして土の上に散布すればほとんど飛散を防ぐことができます。安価にできるので、除染を躊躇している自治体でもそれぐらいは住民の安全のためにやって欲しいものです。個人的な防護としては、被曝限度が1年1ミリですから0.25マイクロのところは8760時間をかけて、2.2ミリになりますから移動した方が良いでしょう。でも、大きな地域で平均的に0.25マイクロということは、部分的には1マイクロのところも0.08マイクロのところもあるのですから、できるだけ細かく汚染を測定すれば1年1ミリに抑えられる生活もあるかも知れません。・・・・・・・・・最近、1年1ミリという規則を作った人たち、それを守ってきた放射線関係の人たちの多くが1年1ミリを守らなくても良いと発言し、さらには1年1ミリを説明する人に対して「危険を煽る」とまで言っています。日本は法治国家ではなかったのかとも思い、ガッカリしています。1年1ミリは「外部線量+内部被曝」の合計で、文科省はこの計算を間違えないように事故前までは厳しく指導してきました。それに従えば、外部被曝0.4ミリ、水0.1ミリ(水道局)、食材0.4ミリ、ホコリ0.1ミリぐらいが適切ですから(本来はこの目安は国が発表する方が良いのですが)、外部被曝を1年0.4ミリとすると、それを8760時間で割って1時間0.05マイクロになり、それに自然放射線のうち外部放射線の分、0.03程度を加えますと、測定値としては0.08マイクロぐらいが「安心の目安」になります。つまり、図の白いところはほぼ普段通りの生活をして、色がついているところは、1)できれば付近の色の白いところへ移る(直ちに補償を東電、東芝などに求める)、2)生活圏内をよく測定してマップを作り平均値を下げる、などが必要でしょう。もともと東電・東芝が除染しなければならないのですから、こんなことをすること自体に腹が立ちますが、私たちが選挙した人たちの判断ですから仕方が無いので、自衛するしかないのです。(それにしても東電は汚染地域をそのままにしていますね。それに東芝などのメーカーもほとんど福島の人を助けていないような感じですが、どのように思っているのか、聞いてみたいものです。また1年1ミリの規則を作った人たちにも、どうしてそんなに信念が無かったのか、特に今でも発言している人は自分が作った規則を簡単に破って、また違う数値で人を説得しているのですから、その気持ちもなかなか理解できません。)(平成23年10月20日)武田邦彦
2011年10月21日
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これでは「除洗」と呼ぶべきではない 2011年10月18日、テレビや新聞は国が事故から7ヶ月たってやっと「除染」というのを進めることになったことを報じていた。テレビでは5,6名の作業員が民家らしきところ屋根を高圧水洗浄していた。 マスコミの一部はこれを「大規模除染、始まる」と報道していたが、まったく事実に反する。計画では5年間で11万戸だから、1日わずか60軒、それも全国から土建屋さんなどの応援を得てやるのではなく、市などが業者に委託したり、ボランティアを募ったりする。 本来、除染は雨の降る梅雨までに1万人規模で機械を使って除染し、その後、細かく市街地や森林をするのが当然で、汚染されてから7ヶ月後から5年にわたって除染するなど、すでに初期被曝を過ぎていて被曝を大幅に低減するという意味での「除染」には入らない。 原発事故が起こってから日本の政府、自治体、大学教授などの「順法精神喪失」が目立ち、それを国民も支持しているように見える。もともと放射性物質をこぼしたら法律(規則などを含む)に書いてあるように「こぼした会社が直ちに片付ける」ということであり、あまりにも当たり前だ。 人の苦しみを見て平気なのは東電ばかりではない。爆発した原子炉を作ったメーカーから大学に移った教授が「放射線を心配するから家庭不和になる」と言っていた。自分たちが作った原発が爆発したのに、なんということか! そのメーカーは責任をとって重役退陣、従業員は総出で除染を行うべきだ。自分が関与した原発が爆発して多くの人が苦しみを味わっているのにどういうことだろうか。だから除洗が片手間になるのだ。 福島の子供たちが可哀想だ。今からでも遅くないから、除染の規模を大きくし、舗装道路2ミリ、土5ミリを基準としてしみこんだ放射性物質を取り除き、福島の地を安心して住めるようにするのは原発を推進した政府と国民の責任である。 東電以外の関係の会社も挙げて機械を調達し、人間を派遣して福島の除染に協力すべきである。自分たちの装置で多くの人を苦しめておきながら、「心配するから不幸になる」とは、何という原子力関係者なのだろうか。 世田谷、足立区など数マイクロシーベルトの放射線量が発見されると「東京だから」ということで翌日には片付け、福島は1年近く掘っておくことになる計画では、この際、政府を福島原発の傍の避難地域に移すしかない。またこの際、新しい原発を動かす場合には「消費地の近く」を原則にし、徐々に柏崎原発を東京へ移動することが必要である。 (平成23年10月20日) 武田邦彦
2011年10月21日
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「大丈夫」という人たちに大人の責任を求める法律で1年1ミリと決まっていて、国際的にも合意されているのに、事故後、急激に「1年1ミリを超えても大丈夫」という大人が増えてきました。このことで苦しんでいるお母さんが多いので、是非、以下の論理を読んでいただき、本当に「1年1ミリ以上でも大丈夫」と大人の責任で言えるのか、10年後に疾病がでたときに補償する力があるのかを考えていただきたいと思います。•1) 日本の法律で1年1ミリと決まっている。また仮に日本だけが1年1ミリ以上にしても国際的な合意を得られないので、観光、食品輸出、国際ビジネスなどに大打撃が予想される。国際的にも約束を守らない日本人ということで信用を失墜する。•2) お母さんは「被曝すると子供がすぐ病気になる」とは思っていない.10年先に病気になることを心配している。人間なら10年先のことを予想できない。10年先のことをなぜ「大丈夫」と言えるのだろうか?ここを考えて欲しい。•3) 発言する人は、原子力、放射線の関係者で1年20ミリの許可を得ている成人男子に対して、1年1ミリになるように指導してきたという事実を述べるべきである。また、1年1ミリ以外の数値を言うときには、なぜ意見を変えたかを述べるべきである。•4) 1時間1マイクロ(1年に外部被曝だけで8.7ミリシーベルト。内部を加えれば10ミリに近くなる。)が安全と言っている自治体などがあるが、その根拠を示すべきである。住民が計算できないだろうと思って、1時間1マイクロ以下は安全というのは悪質の部類に入る。公務員は正直で誠実であって欲しい。•5) 1年1ミリを決めるとき、1ミリでも危険という意見と1ミリ以上でも安全という見解があり、議論をして決めている。だから、1年1ミリ以上でも安全というデータは多くあり、また同時に1年1ミリ以下でも危ないというデータも多くある。自分の考えがどちらかでも、多くの子供が被曝している最中に、自分の意見に都合のよいデータだけを示して、子供たちを1年1ミリ以上の被曝をさせる権限は誰にもないことは明らかである。•6) 先日のNHKの番組のように、福島県で一つの家庭だけをとって、それがあたかも福島県を代表する平均や、特に危険なところにお住みの方のように放送した場合、10年後に障害がでたら、それを人間は購うことができない。病気になった人の将来は取り戻せない。NHKは絶対に番組内容を保存し、常に視聴者が見ることができるようにすること。•7) 事故後、6ヶ月を経って、1ミリ以上でも大丈夫というデータだけを出して自分の意見を言う人が後を絶たないが、たとえば今年、100ミリを主張した人は、10年後、20年後まで自分の発言を保存し、病気がでたら自ら申し出て、その子供の生涯を償わなければならない。人の人生を人が取り返すことはできない。•8) もともと福島原発の設計は一般公衆の実効線量(外部+内部)が1年1ミリになるようになっていて、事故が起こったら1年1ミリを超えることにはなっていない。大人は実施したことに責任をとらなければならない。•9) 福島を除染し、日本国民の被曝を1年1ミリ以下に押さえ込むことは財政的にも技術的にも可能である。以上のことをよく考えいただき、子供たちが被曝している現在、日本人の誰もがすでに20年間、合意事項として社会の安全を保ってきた1年1ミリに違反し、それ以上の被曝を容認することは人間として、大人としてできないことをよく認識してください。被曝を押さえ込んだら、将来のために議論して、世界を納得させたら、1年1ミリを超える基準もあり得ます。一刻も早く、お母さんが安心できるように、権限のある大人が行動をおこしてください。1年1ミリにすればストレスはすべて無くなるのですから。難しい理屈を作って1年1ミリ以上の被曝を子供にさせるなら、被曝しないように行動する方が良いと思います。(平成23年10月19日)武田邦彦
2011年10月20日
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法律には根拠があります・・・「安心」を得るために被曝によるガンなどの発症は、早くても4年、普通は10年はかかります。日本はここ20年、一貫して「一般公衆の被曝限度は1年1ミリ」として来ました。これには、政府ばかりではなく文部科学省、専門家が総出で決めていたことです。もちろん、今、1年100ミリと言っておられる医者の先生も数値の決定には参加しておられます。このように政府や専門家が動揺している時ですが、私たちはどのように考えたら良いでしょうか? つまり、1)今まで1年1ミリが被曝限度と言っていた「偉い人」が1年20ミリまで大丈夫と言っている、2)被曝によって体の異常が起こるのは早くて4年、普通は10年で将来のことだから今すぐ判らない、3)あまり辛いことはできないけれど、できる範囲では家族の健康を守りたい、この3つを納得して行動し、安心した生活を送りたいものです。自分が納得でき、10年後に反省しなくても良い方法を決めるもっとも大切なことは「医学的に判っていない」ということをしっかり頭に入れることです。医学的に判っていないということは10年後の状態は「神様しか判らない」ということです。ドイツは1年0.1ミリ、世界と日本は1年1ミリ、文科省は1年20ミリ、ある海外の物理学者は1月(1年ではない)100ミリ・・・こんなに離れているのですから「本当は1年何ミリまで安全」などと断定できる人がいるはずもありません。10年先のことで、しかも医学的に不明なのですから、神様しか判らないのです。それを文科省や自治体のお役人、NHKなどがいくら「大丈夫」と言っても「大丈夫の根拠」が無いのは誰の目で見ても明らかなのです。・・・・・・そこで、私は次のように考えています。 「どのぐらい被曝したら子供が可哀想なことになるのか本当なところは誰にも判らない。でも事故前と同じ状態なら何が起こってもあきらめることができる。それ以外の場合はあきらめられない。だから、事故前の状態をなんとか頑張る」ということです。もし、1年1ミリ以外の基準があるなら、それは事故前に21年間も余裕があったのですから、変更されているはずです。かりに1年1ミリ以外の数値を言うなら、当然、専門家でなければなりません。そして専門家なら1年1ミリの決定に関係していますから、まず「私は誤っていました。どこを誤っていたかというと・・・」と説明してからでないと、同じ人が2011年の1月には1年1ミリと言い、4月になると1年100ミリになるのですから、それは信用おけません。よく「安全・安心」と言い、「安全」と「安心」は違うと言います。1年何ミリか誰にも判らないのですから、「安心」するには「事故前の状態」以外にはあり得ないのです.その点で、自治体のお役人、学校の校長先生、マスコミは日本人の心を不安にする言動にはくれぐれも注意して「1年1ミリ」以上は危険とハッキリしてください。・・・・・・・・・ところで、決定的な「二枚舌」をすこし紹介しておきます。資料の最初のものは経産大臣が発電所の放射線による被曝限度を通達したものであり、ハッキリ1年1ミリとしてあります。これほどハッキリ書いてあるのに「1年1ミリなどと危険を煽っている人がいる」などと言えば、不安を煽るだけなのは当然です。断固として1年1ミリを貫けば安心は拡がるでしょう。2番目のものは、「成人男子」で「原発作業員」の被曝の推移です。グラフでは1980年からプロットされていますが、折れ線の方が「被曝線量」です。国際的な研究もすすみ、作業員は1年20ミリの許可を得ているのに「それでは危険だ」ということで最近ではほぼ1年1ミリに落としてきています。電力会社としては1人の作業員で20ミリまで被曝できれば人件費が減るのに、その20分の1で運営をしていたという実態がわかります。子供が成人男子の3倍の感度を持つと言われているのですから、原発関係者も「1年1ミリを守る」と言ってください。・・・・・・・・・信頼できる政府、信用できる人というのは「何か不都合なことが起こっても言うことは変わらない」ということでしょう。そして人間は相手を信用できなければ安心できません。また、福島を中心とした汚染地域で収穫される農産物の出荷額は700億円程度と見込まれます。それに対してやってもいないリサイクルに4000億円も出して1万人の利権者に配るということをしているのです。当面、リサイクルを止めてその4000億円を福島の除染と農作物の補償にあてても良いし、原発関連予算5000億円を足せば、1兆円規模の予算を組むことができます。そうしたら、日本の子供は被曝することなく、福島の除染はすでにすんでいたでしょう。感情的になって「東北の人の心を傷つけるな」などと言わずに、大人は強い精神力で子供を守ってください。お金を投じて綺麗な大地を取り返すことができるのですから、そちらに向かって欲しいものです。(平成23年10月19日)武田邦彦
2011年10月20日
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そこまでやって委員会、竹書房の動画のご案内竹書房で録画した説明がニコニコ動画に掲載されています。http://www.nicovideo.jp/watch/1318570079関西系のテレビで放映されている「やしきたかじんのそこまで言って委員会」という番組の関連ネット番組で「そこまでやって委員会」というのがあります。そこで、時々、話をします。ネットです。http://ex-iinkai.com/free/武田邦彦
2011年10月19日
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NHKの報道(2011年10月17日あさイチ)映像は人の心や判断を決めるのにとても強い力があります。特に、特定の思想で国民を洗脳するときには映像は大変な武器になるので、歴史的にも多くの重要な場面で政治に利用されてきました。日本ではNHKがもっとも歴史も深く強力な映像を提供していますが、NHKはもともと1920年代に誕生したもので、戦後、今の形になっています。NHKの設立の目的はまだ日本が貧困で、情報が極端に少なかったので、全国津々浦々に電波を届けるということでした。もちろん、地上波テレビ、BS、CS、ネット、携帯電話、iPhoneなどができた今日、NHKがその設立の目的を失ったのは明らかですが、一度できた組織は簡単には無くなりません。でも、NHKが「良い番組」を提供してくれれば良いのですが、本来の目的を失った組織が「良い番組」を提供するというのは至難の業で、NHKの番組には理解できないある特徴があります。それは「放送の素人のような内容の番組を作る」ということです。その典型的なものの一つが2011年10月17日の朝に放送された「あさイチ」という番組でした。番組の内容は福島と福島以外のいくつかのご家庭を選び、そこで1週間にわたって食べた食材のベクレル(汚染度)を測定して放送するというもので、放送の結論としては、1)福島の家庭がもっとも食材の汚染がすくなかった、2)気にすると被曝して気にしないと被曝しない、というものでした。・・・・・・・・・この番組は、1)学校で平均値と個別の値の関係を勉強しなかった人、2)因果関係を考えることを知らない人が制作し、3)映像のもつ力を理解していない(もしくは悪意のある)人が指導した、ということになるでしょう。たとえば、3年A組の平均身長が160センチ、3年B組が165センチとします。でも、A組でも背の高い人は180センチあり、B組でも背の低い人は150センチの人もいます。だから、A組から一人だけ、B組から一人だけを選んで写真を示し、「B組は背が低い」と言ったのとおなじなのが今回のNHKの「あさイチ」です。福島から一つ、放射線の無いところから一つの例を出して、結論を出すなど言いようの無いほどひどい番組でした。映像で断面を切り取ることは印象を深くするのに大切ですが、それを示すときには合わせて統計的なデータを示す必要があります。あまりにひどい番組であることはNHKも知っているので、大学の先生を出して「私が先にやりたかった」と言わせるところなど、とても作為的です。このような手法をとれば、集団の一つを選んでなんとでも言えます。福島の家庭には汚染されていないものを、遠く離れたところのものは福島のものを食べさせたのか、あるいは九州の原発から放射性物質が漏れていると言いたかったのかと考えられます。次に、「因果関係」を当たらなければなりません。つまり、「汚染された畑からとった野菜がなぜ汚染されていないか?」ということです。すでに学問的には「移行率」、つまりどのぐらい汚染されていたらそれが植物にどのぐらい移るかという研究があるのですから、「汚染されている畑でとれた野菜が汚染されず、汚染されていない土地のものが汚染されている」ということはあり得ません。もし、放送があったように福島の野菜から放射性物質が検出されず、汚染されていない地域から検出されたなら、慎重に調べなければなりませんので放送できないはずです。また、映像というものを扱うときには、平均値と個別の値、因果関係などを正確に調べ、さらに映像を見る人に間違った印象を与えないように万全の注意をしなければなりません。これは放送法で3条で、{三 報道は事実をまげないですること}と厳しく定められているからです。私もNHKに出たことがあるのですが、放送の前後にかなり厳しく事実関係を調べ、論理の整合性をあたります。もちろん、この番組もしているでしょうから、意図的であることが判ります。さらに、「気にしていると被曝する」と指定ましたが、このようなことを放送するのはきわめて悪質です。たとえば、台風報道、インフルエンザ報道など危険が迫ってくる場合、「注意すること」が被害を減らすことにつながるからです。これからNHKは台風報道にさいして、「注意しない方が安全です」と言わなければなりません。以上、この放送はまったくひどい放送で、なんの参考にもなりません。NHKが故意に子供に被曝をさせようとしているとしか解釈のしようがありません。またネットなどに出ている説明ではカリウムの放射線を小数点8桁ぐらいだすなど、専門家が測定した結果ではないことを示しています。これでNHKに受信料を払えといっても無理というものです。(平成23年10月18日)武田邦彦
2011年10月19日
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これからの生活の設計のために(2) 宮城県と山形県宮城県に比較すると山形県のこれからは設計がしやすい。山形は奥羽山脈が自然の要害となって放射性物質の流れを止めた。奥羽山脈は東北の中心を南北に伸びる山脈だが、福島と山形を分けるところには吾妻山系と蔵王がある。吾妻山系は地元にも親しまれているなかなか大きな山だ。その後、山形県の北部の山形市には宮城を迂回した流れがあり、現在では弱い汚染が見られるが、山形県の大半は汚染されずにすんだ。このことは山形の人はもとより、福島の人にも朗報である。福島から逃れるときに山形という目と鼻の先に汚染されない大地が拡がっているのだから、山を越えれば汚染されていない大地が待っている。その意味で、今後も山形を汚染しないことが福島、宮城の人にとってもとても大切だ。山形にはぜったいに汚染物質(瓦礫など)を運び込まないようにすることだ。福島の人の被曝を減らすためには福島の森林の枝を切り落として焼却することだが、山形の場合は、雪解け水が田んぼに入らないまえに危険な山林は枝を伐採して焼却しておく必要がある。来年の春からの水で山形の大地が汚染されないためだ。 ・・・・・・・・・それに比べて宮城は難しい。福島ほどには汚染されていないし、そうかといって0.125(法律の限界は外部だけで0.11)以上ある場所が宮城の中央部をグルッと囲んでいる。どこからでも中央部に進出する構えである。なかなか大規模に放射性物質の進入を防ぐことも難しい。従って、宮城県はいそいで細かいマップを作り、ホットスポットの位置を覚えて、生活の中でできるだけ近づかないような工夫が必要となるだろう。以上をまとめると、1)山形は必死で汚染を食い止める、2)宮城は県庁が頑張って細かく対策を練る、ということに尽きるだろう。宮城の場合はもっとも汚染されているところで0.25だから2ミリ程度になり、まずは我慢できる(法律は1年1ミリだが、5年間で回復ができるから)範囲に収まるだろう。仙台で生活している人は、1)できるだけ北の方で生活をすること、2)食材、特に魚を食べないこと、3)新米を警戒すること、4)幼児、妊婦も含めて移動は必須ではないこと(急に移動しなくても良いこと)、5)ときどき汚染されていない山形のどこかで遊ぶこと、などが大切と思う。農家や漁業の方は、日本の子供の健康が万が一にも損なうことがないように、1年1ミリ(食材は1キログラム40ベクレル以下)を守ってください。この根拠は、宮城の場合、外部線量で0.4ミリは行きますから、水で0.1、粉じんで0.1とすると、残りの0.4を食材にあてるので、ほぼ40ベクレルが限度になります。政府は500ベクレルなどを基準にしていますが、理由は「食材が無くなるといけない」ということですが、この際、そんな理由に従わず、法律を守って同じ日本人として東北の子供を大切にしたい。(平成23年10月17日)武田邦彦
2011年10月18日
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DDS社会 福島と世田谷世田谷で1時間3ミリシーベルト程度の放射線の場所が発見されて大騒ぎとなった。原因は古いラジウムだったが、なぜ大騒ぎになったのだろうか?福島では3月から6月ぐらいの時期には3マイクロ以上の地点はいくらでもあったし、今でも3マイクロ以上のホットスポットは無数と言ってよい。でも、政府は世田谷なら翌日にラジウムを運び出したが、福島はほったらかしている。世田谷に住む人の健康は問題だが、福島の人は動でも良いというダブルスタンダードだ。こんなことは私には理解できない。法律では、汚した人がすぐ片付けることになっている(この条文でいう事業者というのは、東電である)。世田谷を文科省が片付けたとき「法に基づきしかるべき機関がに移動する」といった。「違法に放置されている放射性物質を引き取るしかるべき機関」は存在するのである。福島の汚染物質も直ちに持って行けるのだ。福島の人が世田谷の人と同じ日本人であることを、政府は行動によって示して欲しい。日本国憲法は法の下の平等をうたっている。おそらく政府が福島を見捨てているのは、福島の自治体自身が放射性物質を受け入れるというコメントを複数出していることもあるが、東京の人の方が大切と思っていると思う。ダブルスタンダードは現在の日本では当たり前になってしまった。(平成23年10月18日)武田邦彦
2011年10月18日
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「善良な国民」になろう・・・善良な「専門家」の論理「善良な国民」には「善良は専門家」が必要です。それでは「善良な専門家」とは誰でしょうか? もちろん御用学者は善良ではありませんが、この問題はそれより深い内容を含んでいます。「放射線の専門家」というと、放射線の利用や防護を「研究している人」と思いがちですが、「専門家」という厳密な定義としては正確ではないと言えます。2011年の原発事故で「専門家ではない専門家」が登場し、多くの人を混乱に落としています。そこでまず「専門家」の基本的な定義をハッキリさせておきましょう。この図は近代社会における専門家として、弁護士、医師、技師、教師を例にとって、その人たちの社会的役割を示したものです。少し意外なこともあると思いますので、丁寧に説明したいと思います。まず図の一番上に書いてあるのは、その専門系列がもっとも大切にしなければならないことです。弁護士なら法、医師なら命です。私はこのことをよく「野戦病院の医師の行動」に例をとって解説します。・・・・隣国との戦争になり、前線の野戦病院に派遣された国立病院の医師は、病院に担ぎ込まれた敵兵を治療する。その敵兵は味方の兵隊が頃し損なった兵隊であり、医師は国から派遣された国立病院の医師であったにしても、「命」がもっとも大切なものだから医師はそれに従って敵兵を治療する・・・このように「専門系列」に所属する人は、上司の命令やお金などより大切なものがある職業に携わっているのです。しかし、一般には専門職にはこの図の2段目の「研究者」と3段目の「社会に対して直接、仕事をする人」を指していますが、この2つの職に求められることは違うのです。そこで2段目の人を「学者」といって社会から見ると直接的な関与ではなく、3段目の人を専門家(弁護士、医師、技師、教師)と呼ぶのがふさわしいと考えられています。つまり専門系列の人は2つに分かれていて、法学者、医学者、科学者、研究者などは「法律を作る、治療法を作る、新しい事実を発見する」などであって、決してそれを直接、社会に作用させることはありません。従って、職業倫理は社会と切り離されます。これに対して「専門家」は「作られたものを社会に応用するのであって、自分で新しいものを作り出してはいけない」という制限があります。国家資格制度、身分保障など具体的な行為を実施できるための制度も作られます。かつてのギルドなどに見られる独占性が認められるのです。この構造を簡単に言うと「作る人」と「使う人」に分かれていて、それぞれの分を守ることが求められます。たとえば今回の原発事故の場合、4番目の軸(右の軸)ですが、社会に対して解説をするのは「教師」か、あるいは「啓蒙家」であり、決して「研究者」ではないのです。このことを医師について見てみますと、個別の医師が新しい治療法を開発して独自の考えで治療にあたると、危なくて病院に行くことができません。先日のブログにも書いたように「風邪を治すのに右腕を切断する治療法」のようなことも起こるからです。この種の難しい問題として安楽死があります。現場の臨床医は苦しむ患者を診て安楽死をさせたいと思うことがあるでしょうが、安楽死が医学会で認められ、社会が容認していないと医師は勝手に判断することはできないのです。その代わり、医師は医療法人の理事長の命令でも治療を変更する必要はなく、自分の判断で治療を行うことができ、職業的倫理もそこで発生しますし、また身分も保障されています。それと同じように学校の教師は「学問的に判っているもの」を教えることになります。最近、環境問題などで「環境省」のような役所のデータを使って教える先生がおられますが、本来は専門家としては認められない行為と言えます。私は10年ほど前、「技術者が原発を設計したとき、東電の社長たりともそれを拒否することはできない」というシステムができない限り原発の安全性を保つことはできないと考え、技術士に原子力部門を作りました。福島原発のような事故が起こったとき、東電の社長が謝るのではなく、まずは設計した技術者の責任を問うというシステムです。東大教授が御用学者になったのは、東大教授の責任というより日本社会が「専門家」というのと間違えた可能性もあります。この問題はかなり深く考えなければなりませんが、原発のような大がかりな技術を進める場合、{東電-保安院}というようなシステムが良いのか、{技師-科学者(学会)}のほうが望ましいのか、考える必要があります。また、私は20年前に原子力の研究を終えたので2番目の地位を降り、約20年ほど教師(+啓蒙家、3番目の専門家)をしていますので、原発事故では「専門家」に当たると思っています。私が自らは判断せずに「1年1ミリ」という法律を紹介しているのはこのことです。私を「専門家ではない」という方も多いのですが、放射線防護の第一線の研究者は「社会に対する専門家」にはなり得ません。だから研究者は「専門家とはなにか?」をよく考えて発言して欲しいものです。(すこし深い内容なので、久しぶりに音声があります)「takeda_20111017no.243-(9:49).mp3」をダウンロード(平成23年10月17日)武田邦彦
2011年10月17日
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科学的な間違いに振り回されないように(2) 人格攻撃と信頼性(読者の方からご心配をいただいているので)原発事故については、いろいろな情報がネットを中心に発信されていますが、発信者が「専門(この分類が難しいが)かどうか」より、そこに書かれたことが「まともで真面目で前向き」かどうかが問題で、その発信内容で判別する方法を書きました。原則としては、「そこに書かれたことの背景、歴史、経緯、根拠、データなどをしっかり説明し、全体像を明らかにしながら述べているもの」はOK。相手の人格の批判が中心だったり、相手の意図を憶測したり、言葉使いが普通には使わないほど汚なかったり、そして文章があまりにも激しい・・・などは信用できないと言ってよいでしょう。たとえば、最近、私(武田)に関することで実例を挙げて説明します。まず一つは、「私の郷里の山形では、舌先三寸で世の中を渡っていく口のうまい奴を"ベロ屋"と言います。これ以上ない軽薄な人間のことですが、よくテレビでしゃべっている中部大学教授とやらのあなたを典型的なベロ屋だなと私は軽蔑して見ていました。」というものがありました。書いたのは高名な人で、媒体は販売部数の大きな全国的な週刊誌のコラムです。私の記述のどこに問題があるかを書くのではなく、まずは私の人格攻撃から始まっていました。学問は難しいので私もたいした学問的業績は上げていませんが、一応、所属する学会や大学から研究や教育を評価され、学術論文を出してきました。決して「舌先三寸で世の中を渡っていこう」としたわけではありません。ここで私が弁明しようと言うのではなく、なぜこの著者が私が人生で「舌先三寸で世の中を渡ってきた」と判断したのか、そこを少しでも書いてくれればまだよかったと思います。書いた人が学力も知識もある立派な人、載っていたのが有名な週刊誌ですからビックリしましたが、このような人格攻撃が主体の場合は「怪しい」と思って良いでしょう。あまり参考にしないようが良いと思います。人格攻撃をしたために書いてある内容が信頼を失ったのではないかと思います。また、別の有名な方ですが、「理科系の大学教授(一見すると専門家に見える)の肩書きででたらめな話をしている武田邦彦氏は、あまりにもひどいので放置できない。」というのもあり、ここではでたらめな話の反駁として「原発は核爆発しない」、「1年1ミリには科学的な根拠がない」、「セシウム137は青酸カリより安全」ということが書いてありました。でも、いずれも科学的にはこの指摘は誤っていると考えられます。まず「専門家かどうか」ですが、私は20年ほど原子力の仕事をして、20年ほど大学教授、そして原子力関係の国の委員も長くやってきましたから、「専門家(定義が難しいが)」ではないかと思います。また科学的な指摘の誤りはこのブログにすでに書いてありますが、この方がなぜ誤ったかというと、おそらくは人格攻撃を先にしたので、その後に筆が滑って論旨が乱れたのでは無いかと思います。原発が核爆発するか、被曝と人体、それにセシウムの毒性などはいずれも「科学」の問題ですから、私の肩書きとか性質かというのは本来、関係が無いからです。・・・・・・・・・常識も学識もありテレビにもでるような知識人が、「ベロ屋」とか「理科系の大学教授(一見すると専門家に見える)の肩書」というようなことを書いて良いのでしょうか? その人の「見識」とは「相手は相手が考えることがあり、それは必ずしも自分とは一致しない」ということを知り、「学問」とは「私たちは何も知らない」ということを知っていることです。批判も良いのですが、論の中心はあくまで自分が考える正しい情報、正しい解釈を伝えることで、特定の人を侮辱したり、回復せざること(性別、生まれ、履歴など)を批判の対象にしてはいけないということも思い出してもらいたいと思います。御用学者も困りますが、お二人とも評論の経験の豊富な文化人ですから、より紳士的(武士的)になっていただくこと、多くの方の見本になるような論述を期待します。私は自分の所属する組織(政府、自治体、NHKなど)の言動については批判させていただき、個人の批判は特別に地位の高く決定権を持っている人以外は控えるようにしています。またこのような人格攻撃に対して、読者の方からご心配をいただきましたのでブログで説明をしましたが、私は個人的にはあまり気にしていません。そして、現在は、いかにして子供を被曝から守るかがもっとも大切で、少しでも知恵があればその目的に沿って行動するべきと思っています。ネットの多くが前向きな議論になれば、日本は明るく、発展性のある社会になると思います。(平成23年10月16日)武田邦彦
2011年10月17日
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しっかり反論:瓦礫引き受け・・・量と濃度の錯覚多くの自治体で瓦礫を引き受けることになり、心配が拡がっています。瓦礫を引き受けるのは自分たちの住む場所が少しずつ汚染されていくことであり、必ず阻止しなければなりません。でも、「瓦礫はあまり汚染されていないので大丈夫」と言われますから、その反論を以下に書きました。•1) 「量が少ないから大丈夫」という説明について福島原発から漏れた死の灰の量は80京ベクレル(公式発表)で、日本人一人あたり約65億ベクレルになります。一方、セシウムは半減期が30年であり、ストロンチウムなどの放射性元素もありますから、ほぼ30年は被曝することを覚悟しておかなければなりません。今、10歳の子供なら、40歳まで被曝します。30年間というのは約1万日ですから、仮に毎日、死の灰を処理できたとしても、毎日65万ベクレルの負担になります。人間は1日約1キログラムの食材、1キログラムの水をとりますので、この死の灰で汚染されたら1キロ30万ベクレルほどになります。食材の暫定基準値が500ベクレル程度であることを考えると、とんでもないことになることが判ります。実際には死の灰は毎日、消滅することはなく、蓄積していきますから「量が少ないから大丈夫」と言っていると、取り返しのつかないほど汚染されていくということです。汚染されたものは数100億円で建設ができる焼却炉を福島原発の近くに作り、そこで処理するしか無いのです。•2) 「量」と「濃度」の錯覚に騙されないように東京都のある区では「瓦礫の汚染度は低いので大丈夫です」と言い、たとえば1キログラムあたり4000ベクレルなどの基準を設けています。第一の問題点は、この数値は焼却前です。焼却によって体積が10分の1になりますから、濃度は10倍になり4万ベクレルとなります。4万ベクレルはセシウムの場合、法律で除去しなければならないレベルですから、もともと汚染されていない場所に「汚染物質を持ち込む」という結果になり、法律(このブログに示してあります)としても違法行為になります。第二の問題点は、1キログラム4000ベクレルというのは「濃度」ですが、その瓦礫を1万トン受け入れますと400億ベクレルになり、受け入れるところの住民の数が1万人とすると、一人あたり400万ベクレルを背負うことになります。これは上の説明でも判るように大変な量です。また、「1年1ミリシーベルト以下の被曝にしかならない」という説明もあるようですが、被曝は足し算で、食材の暫定基準値だけでも1年5ミリですから、水、普通の空間(例えば山形の場合は、0.125マイクロ×8760=約1ミリシーベルト)などを足しますと、子供たちが1年10ミリに近い被曝を受けることになります。理由は不明ですが、自治体も専門家も常に「被曝は足し算」を忘れています。この足し算は、1)瓦礫、水、食材、空間、土煙などからの被曝をすべてを足す、2)風で流れてきた汚染、食材が運び込まれた汚染、自動車のタイヤについてきた汚染、瓦礫を運び込んだ汚染・・・などを足す、の2つの足し算です。「少しでも自分の土地に住む子供の被曝を減らしてあげよう」と思ったら、心配ですから必ず足し算をするはずです。(平成23年10月16日)武田邦彦
2011年10月16日
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科学の進歩と人間シリーズ(7) 文学の世界、法律や経済の理論では「人間の欲望」とか「性悪説」などが全面に出てきますが、科学の一つとして人間社会を考察してみると、その他にもいろいろな要因があることが判ります。「専門性」、「職業倫理」、「倫理の黄金律」、「誠実さ」、「脳の欠陥を理解すること」などをよく咀嚼することによって、よりよい判断をすることができるでしょう。それでもまだ人間がもつ本来的な業(ごう)を克服することができるかを考えてみたいと思います。その一つに「事実を見つめる勇気」があります。19世紀、チャールズ・ダーウィンが進化論を提案したところ、社会から猛烈な反撃を受けました。ダーウィンが進化論を提唱する前は「人間は神に似せて作られた」とされていましたので、それを突然「サルから進化した」と言われたので、一、これまで知っていた知識と違う、二、自分がサルの子孫などと思いたくない、という強力な理由があったからです。一番目の理由はすでに解説をしたように人間の頭脳は自分の頭の中に入っているものを使って判断するので、進化論の前に聖書から教わったものを「正しい」と考えるからです。第二番目の理由は「イヤだから事実を正面から見ることができない」という別の人間の特徴からのものです。反撃に手を焼いたダーウィンは「勇気を持てば真実が見える」と言っています。この言葉を逆に表現すれば「真実を見るには勇気がいる」と言えます。今回の原発事故も「日本の原発は震度6で壊れる」という事実をどうしても見ることができませんでした。また「1年1ミリシーベルトという線量限度を守ると、ここに住むことができない」と思うと、1年1ミリシーベルとが被曝限界であることを納得することができないのです。でも、身を守ることも、正しい判断をすることも勇気を持って真正面から事実を見るしかないのです。ここに人間の心の弱さと厳しい事実との関係があります。もう一つ、人間には克服できずにいることがあいます。それは「目の前の善」と「全体で長期的な善」を比較することができないということです。すでに寝たきりになった老人はある意味では人間社会に重荷になるかも知れません。そして医療費が増え、社会はその負担に耐えられなくなる危険性があります。でも、だからといって寝たきりになったら終わりになってもらうことは人間にはできません。目の前に起こっていることは個別の善悪で判断し、それがたとえ全体の善悪と相反しても認めることはできないのです。歴史の流れを見ると「個別の善」に従ったが故に滅びるという例があるのですが、これは人間がまだ克服することができずにいます。科学的、経済学的なことでは、「個別の電気製品の省エネ化は、国全体のエネルギー消費を増やす」ということや、「合成の誤謬」がこれに当たります。ペットボトルのリサイクルをすると石油の消費量が増えるとか、節約をすると環境が悪くなるなどと一見して逆説的に見えるものも、個別と全体の矛盾が潜んだ問題です。しかし、人間が常に個別の善悪を重視して全体を無視するのかというとそうでもありません。「国のために死んでくれ」と兵士に言うのは全体を重んじて命までも捧げてくれということですし、学校教育でも「国のために優れた人を作るので、試験をする」ということが行われます。克服せざる人間の矛盾も科学技術が欠陥をもつ大きな原因の一つになっていると考えられます。(平成23年10月15日)
2011年10月16日
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これからの生活の計画のために(1) 岩手県2011年3月12日の原発の爆発から半年が経ち、今後の生活の計画を立てる時期になりました。3月、4月に避難した人と事情で動けなかった人ですこし違いますが、地区ごとに解説をしていきます。群馬大学の早川先生の地図を主として参考にします。岩手の人もまた政府と東大教授の「虚偽」の犠牲になりました.おそらくは「遠くに逃げろ」とか「距離の二乗に反比例する」という科学的な間違いを信じて、「もし、放射線が来るとすると、宮城から徐々に岩手に来るだろう」と思っておられたのでしょう。しかし、汚染や被曝は「距離」ではありません。「死の灰」が飛んできてどこで落ちるかが問題なのです。もし、正しい知識を持っていたら、田畑にビニールを敷くとか、気象庁と連携をとって危険な時には児童を待避させるなどの措置ができたはずです。残念です。岩手県一関に落ちた死の灰は、宮城県沖から牡鹿半島を通ったものと奥羽山脈にそって北上したものがあるようです。それが2回に渡っているのか、一緒なのかも今のところ明らかではありません。さらに残念なのは盛岡です。一関から北上川を北上した死の灰は盛岡で落下しました。都市部は人間が住んでいますので、ビルがあったり周辺と温度が違ったりしていて死の灰が落下しやすい傾向にあります。関東の柏市、東京の新宿などと同じです。自治体・教育委員会単位で実施することは、1)一関付近の0.5マイクロシーベルトの場所は自治体がさらに詳細に測定し危険な箇所に標識をたて児童を被曝から守ること、2)汚染地域にはできるだけ作物を植えないこと、植えた場合はベクレルを測定すること、3)0.125マイクロ以上の場所は自治体が警戒区域にして、詳細なマップを作り市民の被曝を抑制してください、3)子供の給食は北海道などの汚染されていない食材を使ってください(子供と土地は郷土の宝です)です。個人レベルでは、1)ホットスポットの面積が小さいので、できるだけその場所から引っ越しをすること、2)買い物やレジャーに行く時には汚染されていない場所に行くこと、3)付近で線量率の高いところを避けることができるようにマップを作ること、です。法律的に言えば(放射線防護の法律。もし自治体の人で法律を知らない人は武田に聞いてください)、0.5マイクロシーベルト以上のところはセシウムが4万ベクレル以上ある危険性が高いので、直ちに東電に電話してください、法律では事業者に次のような義務を課しています。スポット的に汚染されても「法律を守り、冷静、科学的」に対応すれば被曝を最小限に抑えることができます。児童は大人と違い、感度が3倍、被曝チャンス3倍で約10倍の被曝を受けます。岩手の方が一致協力して一関、平泉、奥州市、盛岡の子供たちを助けることを願っています。(私はまったく弁明する気はないのですが、関西のテレビでの私の発言を報じた東北の新聞は、私の発言を正しく伝えてはいませんでした。私が知っている東北の人は口が達者ではありませんが、誠実で粘り強い人ばかりです。私がなんとか子供の被曝を減らそうとしていることを東北の新聞は伝えてください。間違いを報道して東北の人の感情をたかぶらせ、その結果子供の被曝が増えるのは決して東北の人の希望ではないと思うからです。一関の議会からも抗議が来ていますが、その根拠が「東北の新聞にこう書いてあった」ということなので、もしできましたらもう一度、私のテレビをご覧になって抗議をしていただければと存じます。)(平成23年10月15日)武田邦彦
2011年10月15日
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「善良な国民」になろう・・・放射線「善良な国民」というのは「日本国憲法と倫理の黄金律を守る誠実な人」をイメージしていますが、それはおいおいハッキリするとして、その「放射線版」です。「日本の法律」および「国際慣行」では次のように「数値で明確」に決まっています。•● 総合(足し算)の被曝制限(一般公衆、1年あたり) 1ミリシーベルト (食品、水、土もこの基準でベクレルに計算したものです) •● 食品と水の汚染制限(1キログラムあたり)水 10ベクレル食品 40ベクレル(少しプラスマイナスあり)•● 土の汚染制限(1平方メートルあたり)土 4万ベクレル・・・・・・・・・知識人、マスコミを中心に「正しく怖がる」という奇妙な言葉があり、「正しく」とは何かと思って今日、ある新聞の社説を読んだら、「自分が正しいと思う数値」のことを言っていることがわかりました。つまり「俺は殿様だから、俺が正しいと決めたことは正しい。法律などは無視する」ということです。このブログにも書きましたように、「正しい」とは、1)法律で決まっている(社会的約束)、2)倫理で決まる(相手に聞く)、の2つしかありません。新聞の社説のように「自分が決めたことが正しい。法律は無視して良いし、お母さんの希望も聞かなくて良い」ということを正しいとする人は、けっして「善良」とは言えません。日本の法律は一般公衆1年1ミリを基礎に決められており、放射性物質を取り扱う人に対して制限を加えています。従って、法律には施設境界の空間線量、排気、排水、廃棄物などを別にして「一般公衆の制限」は明記されていません。それは、法律の規制の対象が放射性物質や放射線を出す機器を取り扱う人であるからです。法律の審議過程では1年1ミリが繰り返し出てきて、そのためには食品は?土壌は?ということで数値を決めているのです。「犯罪を犯す人」(東電)、「犯罪を容認する人」(政府、自治体、マスコミ)はともに「善良」ではありません。この際、是非、その人たちも「善良な国民」の一人になって「法律では・・・」と必ず言及してください。明るく発展性のある日本の子供のために。(平成23年10月15日)武田邦彦
2011年10月15日
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マップの大切さ東京の世田谷で起きた事件は「汚染マップ」の大切さ、放射性物質の管理の大切さをしめしました。福島原発事故からすでに半年、奥の人が放射線に敏感になっているのですし、また放射線の高いところが散在することも事実です。それに1時間3マイクロシーベルト程度の線量が観測されたのですから、私も含め多くの人が「ドキッ」としたのも当然でしょう。この事件の詳細はこれから少しずつ明らかになるでしょうけれど、私たちの教訓としては、このぐらいではビックリしないように現実を把握することと思います。今回の「発見」が偶然だったことを考えると、まだ東京で高い放射線の地点があっても見つかっていない可能性もあるということで測定の精度を上げる必要があることを示しています。・・・・・・・・・・群馬大学の早川先生は2011年4月中旬から継続的に岩手から静岡にいたる地域で放射線量を測定、それを地図にして公表してこられました。私も早川先生のデータを見ながら解説を加えてきましたが、このご努力で多くの人が被曝から逃れることができました。このグラフは9月11日に先生が発表された第4版ですが、実に詳細でわかりやすく、「国民栄誉賞」にも相当するもので、さらに学問の成果としてとても素晴らしいと思います。もし、このような地図が東京にもあったら、その時点で今回のことも発見され、また福島からの放射性物質の高いところも見つかっているでしょう。それに対して文科省が9月18日に発表した土壌汚染のマップもそれなりに評価はできます。でも、やはり発表の時期が被曝した後で遅いこと、地図の仕上がりと精度が悪いこと、そして県境を意識して必要な場所が測定されていないことなど、早川先生のマップに比べると数段落ちることは一目でわかります。文科省ばかりではなく、東京都や各自治体はさらに細かく線量を測定し、より安全に国民が生活するような基盤の整備が必要でしょう。もう一つ、この2つのマップを比べて見て判ることは「学問の自由」の大切さです。もし、日本国憲法が学問の自由を保証していなければ早川先生は国の強い原発報道の規制に中で、マップを発表することができなかったでしょう。それは結果的に国民の被曝を増やしたと考えられます。また、早川先生のマップでは、岩手県一関市、盛岡市や新潟県魚沼の汚染が示されていますが、政府の発表なら自治体の反撃などがあり、この段階では発表が難しく、また発表できなかったかも知れません(文科省の地図では含まれていません)。時の政府がさまざまな理由で情報を隠匿するのは歴史的にも多いのです。アメリカの例ではイラクに大量破壊兵器があるという情報は必ずしも正確ではなかったのですが、その情報をテコにしてイラクに攻め込みました。アメリカは比較的報道の自由や学問の自由が尊重されていますが、それでも政府の強力な情報操作には敗れることがあるのです。今回の原発事故で政府の情報操作が著しく、それにマスメディアが追従してしまったことは日本の報道にとっても大きな汚点になりましたが、学問の自由が保証されていたことで早川先生のようにご立派な学者の活動が国民を救ったのです。「災いを転じて福となす」という言葉がありますが、福となすには災いを正面から受け止め、前向きに改善をして行くことです。(平成23年10月12日)武田邦彦
2011年10月14日
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横浜のストロンチウムと子供の守り方(緊急の2)横浜でストロンチウムが検出され、多くの人が心配しています。原子炉の中ではセシウムとストロンチウムが同じく6%程度できます。そして半減期もほぼ同じで30年。ベータ線をだし、おそらくは原子炉から吹き出すときには酸化物で、やがて水酸化物になり水に溶解していくというところまで似ています。さらには比重は3.5から4ぐらいですから何から何まで双子の兄弟と言ってよいでしょう。ところがこれまではセシウムが何十万ベクレルという高濃度で発見されているのに、ストロンチウムはその100分の1にもなりませんでした。原子炉の中では同じようにでき、性質も似ているのになぜストロンチウムが観測されないのか? チェルノブイリの時にも10分の1はあったのになぜ無いのか? 本来ならあるべきストロンチウムが極微量しか検出されなかったことが問題だったのです。すでに国民の多くは政府やマスコミが積極的に国民を守ろうと思っていないことを知っているので、政府が「なぜ、ストロンチウムは無いのか?」の説明をすることを期待していません。それより「おそらくは隠しているのだろう」と思っています。10月初旬に横浜でストロンチウムが1キログラムあたり200ベクレル程度、測定されるようになりました。データの真偽はこれから少しずつはっきりしてくるでしょうが、「えっ!ストロンチウムが!」と驚かれていますが、普通なら「えっ!ストロンチウムが今頃、観測されたの?」という方が常識的でしょう。・・・・・・・・・まず、防御法ですが、セシウム137は青酸カリより桁違いに猛毒ですが、ストロンチウムも猛毒で骨に蓄積し白血病の原因となります。ただセシウムより蓄積するところが限定されているので、さっそく防御をしましょう。人間の骨は主としてカルシウムでできていますが、毎日、少しずつ溶けて少しずつ食品からのカルシウムで骨を作り直しています。普通の生活をしている人は1日200ミリグラム、寝ている人は1日400ミリグラムのカルシウムが尿中にでます。そこで、カルシウムを少し余分にとっておけば、ストロンチウムは骨に入りにくくなります。骨は本当はカルシウムを必要としているのですが、カルシウムがなければ仕方なくストロンチウムをカルシウムの代わりに使うので、まだ学問的にははっきりしていませんが、自衛策がなかなかない中、カルシウムを一緒にとっておくのが良いと考えられます。でも、困ったことがあります。太平洋の静岡から北の小魚は汚染されていますし、牛乳は危険で飲むことができません。従って、カルシウムをとるのは、日本海側の小魚、四国、九州、沖縄、海外の小魚、そして海外からの乳製品ということになります。でも、カルシウムが多い豆類などがありますので、情報をよく交換してお子さんがカルシウム不足にならないようにしてください。・・・・・・・・・(検出されない理由)・・・・・・・・・おそらくは横浜ばかりではなく、神奈川、東京から岩手までかなりの濃度でストロンチウムがあると考えた方が良いでしょう。チェルノブイリでもそうでしたし、もともとの性質を考えても「セシウムあるところにストロンチウムあり」と考えるべきだからです。では、なぜ今まで検出されなかったのでしょうか? 私はやや犯罪の臭いを感じます。というのは、セシウムは「機器」を使って「人間が操作しなくても」測定できるのですが、ストロンチウムは混合物からストロンチウムだけを取り出してから測定します。だから、その操作の時に「ストロンチウムを故意に捨てる」ということは容易なのです。かつての日本人はこんな誠意のないことはしなかったのですが、最近の大人の男は平気でします。なにしろ福島や関東の野菜を売るために汚染されていない南の野菜を捨てさせているぐらいですから、何をやるか判りません。ある時に専門家が「ストロンチウムは重たいので東京まで来ない」などと言っていましたが、科学的な間違いです。おそらくは「そう言えばテレビに出してあげる」と言われて、他人や子供の健康より自分のことを考えたと思います。日本はダメになってしまったのですから、外国で生活するように自衛することです。それには、1)ストロンチウムはセシウムがあるところはある、2)カルシウムをとっておけばかなり防ぐことができる、と覚えて自衛してください。国、自治体、専門家、NHKは信用できません。(平成23年10月13日)武田邦彦
2011年10月14日
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高分子と私先日、日本高分子学会から栄誉ある「高分子学会フェロー」の称号をいただき、感慨深いものがある。資源材料を専門とする私にとってはうれしい限りだ。恩師の荻野先生、妹尾先生、鶴田先生、増子先生、先輩の世古さん、三角さん、宮内さん、野村さん、三宅さん、山内先生、同僚の池田さん、鬼塚さん、永野さん、多田さんはじめ、小川さん、伊藤さん、そして多くの人に感謝申し上げ、これまでの私の高分子研究を支えてくれた研究員の方にもお礼を言わなければならない。・・・・・・ファイヤーストーンがゴムを発見したのは偶然の要素が高かったが、ベークランドがベークライトを発明したのは、決して偶然ではなかった。すでにベークランドから100年前、人間の生産力は拡大し、自然(植物(樹木))を用いることが困難になった。当時のイギリスの森林は乱伐によって荒れ果て、広大なアメリカのランバーインダストリーもヨーロッパの需要に追いつかなかった。人間の生産力が拡大し、現在の自然に頼ることができなくなった人間は、19世紀初頭に石炭を、20世紀初頭に石油を使うようになって、やっと「自然との共生」にメドをつけることができるようになった。19世紀に拡大した経済活動を、太陽光、バイオなどでは支えられなかったからである。近代文明と自然が調和しなくなった200年前のイギリスの生産力は一人あたりで現代の日本人の500分の1である。これからの人類の生産拡大を考えると、200年前の石炭から、原子力に変わる必要があると考えられたが、それも間違っていた。現代文明はこの問題をどのように解決していくだろうか?ところで、ベークランドの発明したプラスチックは、その後、スタウディンガー、カローザスなどの巨人を経て現在に至っている。なぜ、高分子はこれほど隆盛を誇ったのだろうか? それは「拡大した生産力と動物の命」を避ける新しい方法を案出したことによると思われる。ものごとが隆盛を極めるにはそれが発明発見されたときに社会にフィットするのではなく、それから100年の見通しが正しかったときである。その意味で、1990年に「プラスチックと環境」などを考えたり、ましてエントロピー増大の原理に反するリサイクルに手を染めたりするのは高分子に携わるものとして恥ずかしい限りだ。・・・・・・ところで、来るべき100年に高分子が期待されるのはなんであろうか?それは人間社会が次のステップに上るために必要なこと・・・鉄鋼材料からプラスチックへを実現する技術に他ならない。ドーム、新幹線、橋梁、エレベーター、船舶、航空機などはすべてプラスチックになるだろう。もちろん、その原料となる石油や石炭はほぼ無限大というほど大量に存在し、いざとなったら空気中にはプラスチックの真なる原料CO2がある。もう一つは生物が6億年の歴史で獲得したものを人工物に取り入れることだ。私は自己修復という研究をしたが、「命と機能の分離」もまた次の100年の中心的テーマになるだろう。若き一時期、プラスチックというまたとない素材に巡り会ったことは幸運であった。「takeda_20111012no.240-(5:42).mp3」をダウンロード(平成23年10月12日)武田邦彦
2011年10月13日
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世田谷の高線量率と福島の新米(緊急)哀しい事実と、国や自治体のウソがまだ続いています。もともと、原発事故というのは「原子炉からの放射線で被曝する」のではなく「自分の身の周りに飛んできた死の灰」によって被曝するのですから、「距離には関係が少ない」と覚えた方が被曝を減らせます。それを、事故が起こった直後、政府、NHK、東大教授の連合軍が「遠くに逃げろ、距離の二乗に反比例する」、「直ちに健康に影響がない」と科学的に間違ったことを言ったので、多くの人が「余計な被曝」をしました。またかつては言論が自由だったので「死の灰」と呼んでいた放射性物質を「言葉狩り」が流行しているので使えずに綺麗な言葉を使ったために分かりにくく、これも「余計な被曝」につながりました。・・・・・・・・世田谷で1時間あたり2.7ミリシーベルトが観測されましたが、道路の脇の藪の傍で、当然、死の灰の性質からいって予想されることです。毒物が飛散した場合、「どこに毒物があるか」というスタンスで毒物の多いところを探して、そこを警戒するのに、「できるだけ事故を小さく見せたい」ということで公園の真ん中など意味のないところを測定していたのです。だれでもわかるように「毒物が飛散した」というと道路の真ん中や公園の広場を調べるのではなく、丹念に「どこに行ったか?」を調べるのですが、今までは「なさそうなところ」を測るというとんでもないことをやっていたのです。さらに、1年は1日が24時間、1年が365日ですから、それをかけて8760時間ですから、今回の汚染は1年24ミリに相当します。しかし世田谷区は5000時間ぐらいで計算し「年間14ミリシーベルトだから20ミリより少ない」と説明しています。国の言い分としては「そこに24時間いないから」と言いますが、その人は残りの時間は「放射線が全くないところ」にいるのでしょうか? そこはどこでしょうか?このトリックは禁手です。もし1日14時間とするなら、後の10時間をどこでどのように過ごすかを決めて、そこでの被曝を計算に入れなければならないのです。つまり「被曝側の立場」に立つことが安全の基礎中の基礎です。世田谷区の人のうちもっとも被曝を受ける人を決めて、その人を基準にすることはできないので、普通は「24時間」とするのです。この事件の教訓は、「細かくマップを作れば危険なところを避けることができる」ということですから、早速、東京の人は高性能の線量計を使って付近をくまなく測り、マップで被曝から子供の健康を守りましょう。国、自治体、専門家、NHKはまったく頼りになりません。被曝させるのに一所懸命ですから。災いを転じて福となすためには、測定すること、自治体やNHKを排除することがポイントです。・・・・・・・・・福島の新米を買うことができなくなりました。それは「二本松のお米が400ベクレルていど汚れている」からではありません。「ベクレル表示せずに販売する」からです。国の暫定基準である500ベクレルというのは1年間に5ミリシーベルト程度の被曝になりますから、労災適応ギリギリということです。明らかなダブルスタンダードですから、子供たちに福島のお米を食べさせることはできません。残念です。もし福島の新米を出荷するときに福島が「ベクレル表示をする」と決めてくれれば、安心して買うことができたのですが、「ベクレル表示をせず、食べる人を被曝させます」という宣言ではとうてい、信用することができないからです。福島県が「1年100ミリまで大丈夫」という違法学者を雇用した理由が少しずつわかってきました。それは福島の人が決めることですから良いのですが、福島のお米を絶対に他県に出さないでください。法を守ることは国民の大切な義務です。ある道路を走っていて制限速度が60キロなのに「おれは運転がうまいから100キロでも大丈夫だ」などというのは誠意ある大人とは言えません。最近、食材はますますひどい状態になってきました。無理矢理、関東、福島の野菜を食べさせるために、汚染されていない各地の野菜を出荷しないように圧力がかかっています。こんなことが起こるなんて、自由で明るい国、日本とは思えないですね。(平成23年10月13日)武田邦彦
2011年10月13日
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科学の進歩と人間シリーズ(6) 科学の成果を社会に活用するときに、私たちが心にとめておかなければならないのは、人間の頭脳には欠点があることです。それをいくつかあげてみましょう。まず第一には「これまでの知識を正しいとして判断する」という癖です。このことは次の例でよく理解することができます。 かつて地球が平らだったと考えられていた頃、毎日、太陽が東から出て西に沈むのは不思議でした。なにしろ地球は平らなのですから、西に沈んだ太陽は夜は「西にいる」はずであり、朝になると「西から出て東に行くはず」だからです。つまり昨日、東から出たら、次の日は西からでるのが普通です。東京から博多へ新幹線で行った社長が「明日はどこから帰ってこられますか?」と聞けば怒られるだろう。「博多にいるのだから、博多から帰るに決まっているじゃないか!」ということになる。まさか、東京から博多にいった社長が、帰っても来ないのに、また東京から博多に行くはずもない。でも太陽は「毎日、東から」なのである。 これを不思議と思わないはずはありません.昔の人は「地球が平ら」ということと「太陽が毎日、東からです」という2つの矛盾したことを何とかして説明しようとしたのです。そして、「太陽は東の土から毎日作られ、西に沈んで土に帰る」という発見をして納得していました。この説明には、2つの誤りがあります。1つは地球が平らであること、もう1つが太陽が毎日土から作られることです。でも2つ間違うと正しくなるというおもしろい現象なのです。つまり人間は「正しいことを正しいと思うのではなく、納得できることを正しいと思うに過ぎない」と言うことがわかります。・・・・・・ 第2番目は「目で見たことを正しいと思う」という癖です。これも太陽を例にとって説明しましょう。 毎日、太陽の動きを見ていますと東から上って西に沈みます.どう見ても太陽が動いていて大地はじっとしています。だからコペルニクスやガリレオが天動説を考えだすまで、太陽が動いていると考えるのはごく自然です。目の前にものすごいスピードで新幹線が通り過ぎるのを見て、「あれは新幹線が動いているのではない。私が動いているので、結果的に新幹線が動いているように見えるだけのことだ」などと考える人はいないのです。 ところが「太陽は動いているが、それは自分が動いているからだ」と思うのはなぜかというと、人間は目で見ているようで、目で見た物を頭で解釈しているということです。かつては太陽が動くのを見て天動説を信じ、今は小学校で太陽系を学ぶので地動説を支持しています。目で見たことを一度、脳の知識で処理しているので、同じことを見ても結論が違う例です。・・・・・・そして3番目には、人間は「自分が考えていることが正しい」と錯覚することです.よく「おまえは間違っている!」と叫んでいる人がいますが、なぜ「自分は正しく、相手は間違っている」ことが判るのでしょうか。相手はまた同じように「自分が正しく、相手は間違っている」と思うからです。さらに、人間は「今、自分が正しいと思っていることが未来永劫正しい」と思いがちです。でも、少し前には正しいと思っていたことが30年も経つと間違っていたことになるのはごく普通のことです.少し前までは「日光浴は健康に良いので、子供はできるだけ日光浴させるように」と言われ、今ではほとんどの皮膚科の先生が「日光浴は健康に悪い」と注意します。またスポーツでは「運動中に水を飲むな、ピッチャーは肩を冷やすな」といわれたのに、これも今は正反対に、運動中は適当に水分をとらないといけない、ピッチャーは氷で肩を冷やせと言われるのです。・・・・・・また、4番目は、人間の脳は「最初に聞いたことを正しいと思う」という構造をしていることです。よく先入観と言われることがありますが、「ゴミは分別すれば資源」と最初に聞くと、次に「ゴミを分別しても資源にはならない」ということに反論したくなります。これは人間の脳の根本的問題です。もし、人間の脳というものが生まれたときに「知識」があれば違うのですが、何も知識がない状態で生まれます。そこに知識をつけ、その知識を組み合わせてあることを「正しい」と思います。脳が発達していなければ親から貰った遺伝子(DNA)に書かれた通りに行動しますから、DNAに「あいつは敵だ」という情報があったら、どんなに親切にされても敵とおもいますが、人間の脳は発達しているんで生まれてからの知識で変わります。先に脳に入っている情報(先入情報)によって、後から来る情報を判断するのですから、どうしても「先に入った方が勝ち」ということになるのです。でも、必ずしも正しい情報が先に入るわけではありません。どうしても先入観にとらわれるのは人間の脳の思考構造によっているのです。(平成23年10月12日)武田邦彦
2011年10月12日
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科学的な間違いに振り回されないように(2) 被曝と科学被曝は「1年1ミリシーベルト」、表面汚染は「1平方メートルあたり4万ベクレル」と私が日本の法律や国際慣行の数値を説明しますと、「法律のことばかり言って科学的ではない」とか「低線量被曝の結果はすでに科学的に判っていて1年100ミリ以下は安全」などと言う人がいます。もしそういう人がいたら「それではなぜ、日本の法律も国際慣行もともに1年1ミリになっているのですか? 学者は決定には関与していないのですか?」、「それではなぜ、ソ連では1平方メートル4万ベクレル程度で管理地域にしたのですか?」と聞けば、その発言の矛盾が判るでしょう。昨日、このブログに載せたように日本の法律に関わる数値を決めるときには、日本の主要な機関、専門家はほぼすべて参加していることを示しました。その人たちは膨大な論文やデータを見て数値を決めているわけで、その中から「自分に都合のよいデータだけを選ぶ」などという非科学的なことはしませんし、そんなことをしても専門家は「1年100ミリ以下の低線量被曝ではデータがばらついている」ということを知っていますから恥ずかしくて言えません。もちろん、広島、長崎の方のデータは主力データですから含まれています。その上での1年1ミリです。私が1年1ミリの科学的根拠を示さないのは、それが膨大なデータからなっていること、相反するデータが多いので、どれをとるかによって1年1ミリが安全にも危険にもなることを知っているからです。このような時、自分に有利になるようにデータをとることは専門家には容易ですが、同時にやってはいけないことです。まして、自らは一部のデータを紹介し、正面から法律の値を示していることに批判しても正しい理解を深めることはできません。特に、今回の場合のように現に子供たちが被曝している最中なので、ネットとはいえ慎重にして欲しいと思います。ご意見の違いは良いのですが、くれぐれも子供たちが被曝している最中であること、その子供たちを具体的になかなか救うことができないことを考えて建設的な意見を希望します。(平成23年10月12日)武田邦彦
2011年10月12日
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最近の情勢から(2) 先日の続きです(読者のかたのご質問があるものから少しずつ書いていきます)•1) 医者の診察と判断お医者さんは医師の国家試験や放射線医の勉強をしている時には「一般公衆の被曝限度は1年1ミリ」というのをご存じですが、長く医師をやっていると患者さんの診断を独自にしますので、法律の制限などは忘れている先生も多いようです。先日、「1日200回のレントゲンまで大丈夫」と言われた先生がおられましたが、それは医療の必要性からお医者さんが特別に判断する場合です。お医者さんは必要があれば両足を切断手術することもあるのですが、だからといって健康な子供の両足を切断して良いというわけではありません。その点ではお医者さんの発言の自制を求めます(お医者さんも法律は守ってください)。また、「鼻血、下痢」など放射線障害として認められていない症状について、お医者さんにお聞きしても無理と思います。お医者さんは独自の判断や治療はできません。あるお医者さんが「風邪を治すには右腕を切れば良い」と思っても、その通りに治療したら困るのです。医学会が認めた治療法以外は原則として医師は判断も治療もできません。その点では低被曝量における症状と治療について、医学会はより積極的に緊急の学会を繰り返し、多くの人の鼻血、下痢などの症状に対してより積極的なカウンセリングと治療を行って欲しいと思います。4) 専門家は法律を破るのを勧めても良い?それともお金??3月12日以来、特に放射線防護の専門家が積極的に「法律違反」を国民に勧めているのが残念です。非常時で法律を破る必要がある時には、政府がその理由を十分に説明した後でないといけないと思います。「被曝は少ない方が良い」、「一般公衆の被曝限度1年1ミリシーベルト」や「表面汚染の1平方メートルあたり4万ベクレル」などは法律で守らなければならない基本的な数値ですが、いとも簡単に「瓦礫を移動させて良い」、「1年20ミリでも大丈夫」とか「表面汚染は大したことがない」と発言する専門家が多くなりました。ここに示した名簿は名前は除いてありますが、3月11日まで日本の放射線被曝についての国の基準を決めていた人たちの一例です。これらの組織の人は3月11日までと12日以後でどうして判断を変えたのか、政府からどのような指示があったのか原子力基本法の「公開の原則」に従って、明らかにすべきです。また、日本は法治国家ですから、法律に反することをある行為に直接結びつく形で行うとき(たとえば自治体から判断を求められて「大丈夫」という時など)には、「私の発言は法律に違反している」ことを明示しなければならないでしょう。•2) 化学反応で放射線が消える?すこしでも被曝を減らしたいという切な望みにつけいって「化学反応や生物的な効果」で被曝を減らすことができるという宣伝が後を絶ちません。その中には当人が錯覚しているものもありますが、同時に詐欺まがいのものもあります。「放射線を出す元素」は化学反応や生物的な効果で無くなったり減ったりすることはありません。「酸化すると無毒になる」、「この酵素を使うと被曝が弱くなる」などは少なくともこれまでの学問では否定されていることです。当たり前のことですが、できるだけ被曝を避け、健康を保つことが大切です。•3) 除染しても効果がない?除染は4月にやるべきでした。最初はべとべとした「死の灰」も軽く地表に乗っている状態なので、水はぬれぞうきんで除染できたのですが、梅雨を過ぎ、半年も経つと、コンクリートの小さな亀裂に入りこんで除きにくくなっています。だから除染しても効果は4月の3分の1ぐらいになっているようです。それでも除染しなければなりません。被曝はマイクロシーベルトに時間をかけますから、早く除染すればそれだけ効果が高いからです。そのかわり、昔より「ゴシゴシ」と拭いたり、高圧水を使って丁寧に洗ったり、樹木の葉を落としたり、雑草を刈ったりすると効果がありますし、この際、年末に向けてベランダの手すり、裏口の格子の窓のサン、雨樋の中など4月、5月には手の届かなかったところをチャレンジするのも良いと思います。•4) 衣服を出すときに春はまだ知識がなく、外出した時の服をそのまましまってある場合、洗濯できる物は洗濯、ブラシをかけることができるものはブラシなどで丹念に放射性物質を落としておくと良いと思います。そろそろ冬物を出す時期ですから、3月を思い出すのも有効です。私の家は玄関の線量が高いのですが、私の靴の裏と思います。時々、デッキブラシでゴシゴシやっています。被曝を減らすのは「自分の身の回りから遠ざけること」が大切で、東京の下水の汚泥から高線量がでたことがありましたが、実に喜ばしいことで、かつて都民の方の傍にあった放射性物質が下水に流れ、まとまったのですから処理も大幅に簡単になります。(平成23年10月10日)武田邦彦
2011年10月11日
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科学的な間違いに振り回されないように(1) 原発と核爆発福島原発事故が起こった直後には原子力関係者や被曝医療の医師が中心になって発言されていましたが、半年が過ぎ多くの人がさまざまな角度から発信するようになってきました。このこと自体は良いことなのですが、もともと原子力に関係の少なかった人は事故後の政府、専門家などの「意図的な誤報」にかなり影響を受けているようです。間違った知識は間違った判断を生み、それが子供たちの被曝を増やすことにもつながります。その意味で、少し解説をしておきます。・・・・・・「原発は核爆発しない」と言っている人がいます。この世のものはすべてと言って良いほど「エネルギー」がもとになってある現象が起こります.事故を起こした原発を爆発させるエネルギーとしては、1)水素が酸素と結合するときにでるエネルギー、2)核反応が起こって質量欠損によって生じるエネルギー、3)相変化によって膨張するエネルギー、の3つはすでに観測されています。1)によるものが水素爆発、2)が核爆発、そして3)が水蒸気爆発です。爆発の規模、およびそれによる影響は大差ありません。潜在的なエネルギーとしては核爆発がもっとも大きいのですが、原発は原爆と違い、爆弾のように瞬時に大きなエネルギーを出せるようにはなっていませんので、その温度、爆風などの規模はそれほどでもありません。原発の核爆発は、「臨界」、「遅発臨界」、「即発臨界」、「核反応」など多くの言葉があり、特に原発は安全であるということを印象づけるために「爆発」という言葉を避けていますが、科学用語としては私たちが日常的に見る「火事」は、科学的には「可燃物のガスが爆発限界に入った」と表現して厳密に正しいのです。原子炉の非常用の「制御棒」があるのは、「運転中に緩やかに起こっている核爆発」が異常時に異常な速度で起こると困るので、とにかく「核爆発」を止めるために何が何でも燃料の中に挿入して中性子を吸収させます。「制御棒がある」ということはイコール「原発は核爆発する、もしくはいつも核爆発する」ということを意味しています。これを「臨界を超えた」と言っても、「核反応が連続して起こっている」と言っても、「中性子による連鎖反応が進む」と言っても全く同じで、いずれも「質量欠損による発熱」です。ちなみに広島原爆では0.8グラムの質量欠損があのすごい爆発になっていますが、それに比べると原発のウランが膨大なことから、原発のすごさが広島原爆どころではないことが判ります。とりあえず間違ったことに影響されるといけないので注釈を書きましたが、今や、事故のはじめに問題になるところを掘り起こして議論するよりも、除染、被曝を下げること、食材のことなどをみんなで知恵を出し合う方が良いと私は思います。社会はいろいろな反論があって健全ですが、あまりにも後ろ向きのことや人格攻撃などを含むのは感心しません。(平成23年10月10日)武田邦彦
2011年10月11日
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科学の進歩と人間シリーズ(5) ここまで、近代社会になってからの科学技術の進歩と寿命や快適な人生、そして科学技術は進歩して良いのかということに対して具体的な問題を取り上げて考えてきました。その結果、科学技術の進歩自体は良いが、時折、「倫理の黄金律」を深く考えて社会が合理的に科学技術の成果や医療を選択していかなければならないことがわかりました。 つまり、科学技術に関しては学者、医療に関しては医師、食材の流通に関してはスーパーなどの当事者が独自に判断したり、政府や業界と手を結んで力を持つのではなく、それを受ける方(社会、患者、食べる人)の希望が主体にならないといけないということが理解されます。 原爆を作っていいかは頭上に原爆を落とされる人の方に諾否を聞く、タバコを吸うかどうかはタバコを吸っている人と副流煙の被害をうける方から、そして放射性物質で汚れたものを売って良いかどうかはそれを食べる人から、希望を聞かないといけないということです。そうすると、比較的簡単に、原爆やダメだ、タバコは煙が他人に行かないように吸う、放射性物質が入っていないものは売らない・・・ということになるでしょう。 つまり、科学技術が進みすぎたといわれる問題は科学技術にあるのではなく、その作品を受け取る社会が、受け取る人の希望を聞かなかったというところにあると考えられます。 たとえば、2011年の原発の問題は原子力関係者がその作品をショーウィンドウに飾ったあと、その説明に「原発は電気を起こすのに適切な発電装置の一つです。ただ、人類が作った原発の中で震度6で壊れなかった原発はまだありません。また日本では震度6の地震が1年に1回以上きます。また原発が運転中には広島原爆の1000倍程度の放射性物質を含み、仮に爆発すると100年以上、付近には住むことができません」と書かなかったことにあります。 このように書いたときに日本社会が原発を選択するかどうか、それはその国に住んでいる人が決めることです。もちろん、被曝はある市町村だけの問題ではありませんから、どこかの市町村に「危険手当(20年で税も入れて800億円ぐらい)を出したり、やらせメールをして公聴会を開いたりする必要はありません。 また原発事故の被曝では文科省大臣が「東電がヘマしたので、福島の子供に1年20ミリシーベルトの被曝をさせることにしました。これは1年400回の胸のレントゲンに相当します。それでも保護者の方は1年20ミリでよろしいでしょうか?」と言わなければなりませんでした。 少し前のことになりますが、リサイクルでは「ゴミは分別すれば資源」と言われました。これも「ゴミを分別したら、それを資源として使う人はいますか。分別費用も運搬費用もからこれまで使っていたゴミ処理費を差し引いたものはお引き取りになるときにいただきます。一例としてプラスチックでは1キログラムあたり200円ぐらいになります」と言えば、一部のものを除いて誰も賛成しなかったでしょう。また食品リサイクルでは、「食品リサイクルという名前はついていますが、食品をリサイクルできる訳ではなく、食品の中の1000分の1ぐらいの無機物を中心としてリサイクルすることです。従って、ほとんどリサイクルはできません」とショーウィンドウに示しておく必要があったのです。 またダイオキシンは「ダイオキシンは特定の動物実験で猛毒である可能性が示されました。まだ人間への影響は不明ですので、人間にとって毒物かどうかの結果がでるまで、とりあえず仮に「予防原則」で厳しく規制します。データの解析が終わったら報告します」とするべきで、ダイオキシンの場合には研究の結果、毒性が弱かったのですから、規制は解除しなければなりません。 温暖化は「温暖化するかどうかは学問的に意見が分かれています。しかし、日本は海に囲まれていますから温暖化の影響はほとんどありません。またCO2はあまりにすくないので徐々に増やしていく必要があります」と書くべきでした。 つまり、科学技術の作品をショーウィンドウに飾って、正直に説明をすれば科学技術は人間社会に悪いことはしないと言えます。しかし、ウソをつく人が多い場合には結果的に科学技術の作品が社会に悪影響を与えることが生じるということです。 つまり、科学技術や医療の成果を活かすためには「相手の希望を聞くこと」、「正直に説明すること」がいかに大切かが判ります。 (平成23年10月9日) 武田邦彦
2011年10月10日
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広域の汚染について・・・引っ越し?除染??群馬大学の早川教授のマップのあと、2ヶ月ほど遅れて文科省から広域の土壌汚染についての調査結果が発表されました。まずは、それを見て、「逃げなければいけないところ」、「東電が直ちに除染しなければならないところ」をハッキリさせたいと思います。(クリックすると大きくなります)この地図で「青、緑、赤系統」の色のついたところ、つまり茶色系の色のついたところはおよそ「1平方メートルあたり4万ベクレル」が観測されていまう。放射性ヨウ素が合った時代のデータも示して欲しいが、今の政府では期待できませんから、せめてセシウムのデータで考えてみたいと思います。•1) 最初に流れた伊達市、福島市、二本松市、郡山市、日光市、沼田市、東京の奥多摩までの流れ、•2) 二回目のいわき市、水戸市、土浦市、松戸市、葛飾区までの流れ、•3) 地図にはありませんが、岩手県南部への流れ(最近、岩手県の危険性を指摘すると、あまりにもしつこく文句を言われるので、岩手県の危険性については暫く、記述を止めます)、の3つがあります。繰り返していますが、原発の事故による汚染は原発からの距離より死の灰がどこに流れたかで決定されます。風と気流や雨で地表に落ちたところをそのまま描いているのがこの地図です。新聞にはこの測定値と日本の法律との関係はなにも説明されていませんでしたが、日本は法治国家ですから、法律ではどうなっているのか、まず見てみましょう。法律で決められた数値は福島原発が起こる前に日本の放射線防護の専門家が頭を絞って「被曝から国民を守る」ことを考えての基準です。「電離放射線障害防止規則」(他の法律も日本の法律であるかぎり、相互に矛盾はありませんので、法律論争ではなく「健康」を問題にするときにはどの法律を使ってもほぼ同じです)を参考にします。この法律(規則)を使うのは、法律にしては見やすいのと、2011年1月に改訂され、もっとも新しい考えが入っているからです。第28条には放射性物質を扱う人が間違って普通の場所を放射性物質で汚した場合、「標識をたて」、「速やかに除染すること」を求めていて、その値は別表第三に示した値の10分の1であることを明確に示しています。別表第三には次のようにアルファ線を出すものと、アルファ線を出さないものに分かれていて、セシウムはアルファ線を出さないので、1平方センチメートルあたり40ベクレルですから、この10分の1の4ベクレル。従って1平方メートルあたり4万ベクレルが「基準値」になります。東電は、土壌の表面が1平方メートルあたり4万ベクレル以上になる地域は、1)土壌飛散防止剤を散布し、2)すぐ標識をたてて、3)除染しなければなりません。地図で言うと茶色以外のところはすべて東電がすぐ社員を派遣して除染するところです。まず、私たちはこのことをハッキリ認識しないと先に進めませんし、新聞やテレビがなぜこれを言わなかったのかについても十分に考えてみる必要があります。マスコミがいかに東電に甘いかがよくわかります。(なお、面倒な法律論争や重箱の隅をつつくような議論ではなく、愛情をもってそこに住む人の健康だけに関心がある議論をしてください。)つまり、地図の青、黄緑、橙などの色の地域は「3月11日以前なら住むことができない場所」であることが判ります。一刻も早く移住か除染が必要ですし、そこの物品や人は自由な移動ができません。(平成23年10月9日)武田邦彦
2011年10月09日
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【緊急】 発言記録を残そう!!事実をそのまま見てください。可哀想に福島の子供たちに甲状腺の異常が認められたのですが、これまで「直ちに健康に影響がない」、「この市の線量なら大丈夫」、「野菜を食べても安全」、「給食は食べなければならない」、「瓦礫や花火の搬入に反対する奴はケシカラン!」、「私は医師だが1年100ミリまで大丈夫」・・・などと言った人があれほど多いのに、まだ誰一人として甲状腺異常の診断結果について「そんなことはウソだ。子供は健康だ!」という反論をしていません。黙っています。「安全だ」と言い続け、危険を回避しようと努力する親御さんを批判し、給食を無理矢理食べさせて子供を被曝させ、そして目の前に健康不安や患者さんがでると黙っている。そんな人たちを許すことはできません。そんな人で子供たちを病気にすることはできません。断固、「被曝は大丈夫」と言った人がいたら、即座にそれを記録し、テレビ、新聞、ブログなどの発言記録を保管し、可能な限り糾弾しなければならない。子供は声を上げない。大人が声を上げ行動しなければ子供は声を上げずにベッドに行く。東京都に運ぶ瓦礫を阻止できなければ、また被曝を拡大する。福島の除染が遅れればそれだけ子供の被曝が増える。911デモで不当に逮捕されたのがフランス人だったことは日本人として残念だ。私たちはもう「抜け殻」になったのか?・・・・・・・・・個人で生活を守ろう。政府、自治体、医師、学校・・・そんなところは何の責任もとらない。だから、できるだけ1年1ミリを守り、どうしてもダメでも1年5ミリの範囲に入るようにしたいと思います。1年1ミリなら3月11日以前と同じですから、人間として受け入れることができます。とにかく被曝を少しでも減らして2度と甲状腺異常の子供たちを出してはいけないと思います。新米はしばらく様子を見ること、肉は外国産を買うこと、魚は量を減らし、買うなら日本海側に限定し、外国の加工食品などを積極的に使い、日本の牛乳は一切飲まず、東北、関東の食材でベクレル表示のないものは避け、家の除染をもう一度して、自治体に地域の除染を厳しく要求し、被曝を1年1ミリ以内にするように心を強くしよう!原発の設計変更、それに被曝と人体の関係が判るまで、原発は中止しなければならない。ビクビクして生活するより、やるだけのことをやって、後で「ああ、よかった。無事に済んだ」と笑うようにしたい。(平成23年10月5日)武田邦彦
2011年10月09日
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科学の進歩と人間シリーズ(4)(時々刻々と汚染状態が変わっているのに、のんびりしたブログを出している感じですが、東京の汚染などは、1)福島を除染し、2)福島の一部を管理区域として物の出入りを制限し、3)汚染を拡げない、ということをしないと汚染はひろがります。それは福島の人の希望でも無いと思います。私は終始、福島の人や「東北」の人が日本中を汚染するのは気が進まないと思っていると信じていますが、政府の宣伝にのせられて主に自治体や教育関係者がまだ錯覚の中にいるようです。) ところで先回、科学の作品をショーウィンドウに飾るという話をしましたが、このようなことは医療の倫理でも成り立ちます。 科学者と同じように医師も専門的な知識を駆使して社会に貢献するのですが、その時の治療法はあくまでも患者さんや社会が希望していることに沿わなければなりません。患者さんの人生観が診察した医者と違うという理由で、医者が患者さんを怒鳴っているところに出くわしたのは一度ではないのですが、医者は治すことに全力を注いだ方が良いというのが私の考えです。 たとえばタバコのことで私はいろいろな問題を投げかけているのですが、タバコを吸うと肺がんになりやすいから吸ってはいけないと医師が言うことができるかというのは非常に難しい問題を含んでいます。 医師の仕事が病人を直すだけではなく、患者の健康を守るというならタバコを注意する必要があります。現代の多くのお医者さんはそう思っておられます。でも、人の一生の幸福というのは「健康で長生き」だけではありません。場合によっては健康を害しても自らの目標に向かって身を削る人もいますし、細く長く生きるより太く短く生きる方が良いと考える人もおられます。 このようなことを「法律」で決めることはできないので、適切な情報やアドバイスが必要な時もありますが、その人に強制するようなことでもありません。人は自分の生活、幸福、健康、命などを自由に自分で決めることができると考えるべきだと私は思っています。 そうすると強い反論があります。それは「タバコを吸うと病気になり、治療にお金がかかる。医療費を国民が分担しているのだから、病気になる行為をするのは反社会的で自由ではない」という考えです。このような考えも私は「ありうる」という感じです。誰もが国民ですから、一致して医療費の削減に努力しなければならないし、まして本人の健康になるのだから当然でもありますが、どうも引っかかるところがあるのです。 人の健康、人の命と「経済学」を一緒にするとろくなことはないからです。私はこんなとき、1970年代に起きたフォードピント事件を例にとります。 第二次世界大戦後のアメリカは強大な国になり、その力を背景に豊かな生活を享受しました。その一つとしてアメリカの巨大な車、ラグジャリーな自家用車がその象徴的な存在でした。ところが1960年代になって徐々に日本が作る小さなコンパクトカーが優性になってきたので、フォードもそれに負けじと小型車の分野に参入し、その第1号がピントという車でした。なにしろ、それまで小型車なるものを設計していなかったので、狭いところに部品を詰め込むという経験が無く、後ろのトランクに置いたガソリンタンクの設計が悪く、追突されると火災を起こし、数人が焼け死にました。 フォードの社内で緊急会議がもたれ、ピントをリコールして修理するか、このまま放置するかが議論された結果、リコールするとお金がかかり、このまま放置して数10人の死者がでて補償金を払ってもその方が安いということになり、放置することになりました。 私には悪魔の決定と思います。人の死とお金を比較するとこんな奇妙な結果になると言うことです。これは実例ですが、現実には次々と死者がでてフォードは社会的に非難されて、結局リコールしたということになりました。 この例を頭に入れて「タバコ」を考えてみましょう。この場合はタバコを止めることによって本人の健康も良くなるのですから、フォードピント事件とは違うような気もします。でも、本人がタバコを吸いたいという強い希望がある場合、果たして医療費を抑えるということで本人の行動を制限するだけの合理性があるかということです。 そこで「タバコと肺がんの関係」、「タバコと寿命の関係」などを調べてみますと、必ずしもハッキリしているとは言えないのです.タバコを吸うと血管系の病気などが起こることは臨床的にもまちがいないのですが、どうも「タバコ忌避」の中にはタバコと医療費の問題ばかりではなく、「タバコはイヤだ」という感情問題も多いような気がします。 もう一つの問題は、医療費を削減したいので、メタボ対策、禁煙などをしてもよいかということです。医療費が増大した主たる理由は、第一に長寿になったこと、第二に現代医療が進歩してきて大型の診断機械などを使うようになったということです.前者は大変結構なことで「医療費を削減しなければならないから、長生きするのが悪い」というのはかなり無理な論理です。また「高額医療をすると病気を治すことができるが、医療費がかかるから控える」というのも無制限にOKという訳にはいきません。あまり高額な医療は「保険からはずしてご本人の医療費でやる」というのは正しいと思いますが、全面禁止というのもどうかと考えます。 つまり、医療費の削減という経済問題と、国民の健康を絡ませるとろくなことはないという感じです。「takeda_20111008no.237-(4:20).mp3」をダウンロード(平成23年10月8日)武田邦彦
2011年10月08日
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最近の情勢から(1)福島原発事故から半年。多くのことが「手遅れ」になりましたが、それでも今日もまた最善を尽くして行かなければなりません。いつの世もそうですが、本質的ではないことに話が及ぶこともあり、それが解決を遅らせるのも人間社会ですから仕方が無いことです。でも間違った情報に惑わされることなく、子供を守っていきたいと思います。メールなどで寄せられていることを書きました。•1) 全国への放射線への拡散(九州はどうか?)外部被曝と土埃を心配しなければならないのは、福島、茨城、栃木、埼玉、東京、千葉の北部、山形の福島側、宮城の南部と北部、ホットスポット(早川先生データ)です。(本当は一関などもそうなのですが、一関の放射線量が高いと書くと、一関や岩手の方から抗議が来ます。放射線量が高いのだから事実をそのまま見ないと子供たちを被曝させることになるのですが、農家の方の力が強く、汚染された農作物をどうしても出荷したいようで、こまったものです。)食材は、静岡以北の太平洋側(北海道、青森、岩手、宮城、福島、千葉、神奈川、静岡)は魚はもっとも注意を要します。中部圏から関西、四国、九州、沖縄、日本海側、北海道日本海側、オホーツク側の魚、貝、海草は大丈夫です。北海道は海流の関係で太平洋側の魚が50ベクレルぐらいになりまして、残念ですが、しばらく控えた方がよいでしょう。野菜などは外部線量が問題の地域(最初に書いた地域)のものはできるだけ避けるようにしてください。新米も同じですが、もう少し様子を見ることと、玄米および玄米の製品はより注意が必要です(玄米の方が圧倒的にセシウムが多くなる。米は怪しかったらよく水でとぐ。野菜も怪しかったら煮て煮汁を捨てることで5分の1になる。)牛乳などの乳製品は注意しなければならず、同じ物を続けて食べないことや量を減らすことが大切です。外国製品などで補ってください。卵は上記地域の物以外は大丈夫です。水耕栽培のキノコ、もやしもOK。マスクは放射性物質がかなりコンクリートや土にへばりつくようになってきたので、飛散量は減っています.その代わり除染が難しくなっています。雨は心配ありませんが、雨の日に外出した場合は靴は外で拭いた方が良いでしょう。やや落ち着いて来ましたから、身の回りを見て3月に汚染されたと思われる家具、絨毯、その他の洗浄などを計画すると良いと思います。•2) 子供の体に放射性物質子供の甲状腺の検査結果がでましたが、医学的に異常かどうかはこれからの様子を見ることになります。しかし、今頃になって民間が子供の診察をするようでは話にならず、継続的に福島の子供たちの健康診断を重ねて貰いたいものです。また、子供の尿などからセシウムがでる例が増えてきました。これは汚染された地域、もしくは食材などからどうしても入ってきます。汚染のレベルが問題ですが、尿中に1キロ1ベクレルを超えるようなら少し気をつけてください。今、尿中に出る濃度との関係を検討しています。ボディーカウンターより尿中のセシウムを測定した方が被曝の状態はわかりやすいと思いますが、それでもヨウ素はすでに半減期をかなり大きく過ぎているのであまり正確にはわかりませんので、できる限り注意することが大切です。体内にセシウムが取り込まれると、そのまま排泄されるものと体内の筋肉などに残る物があります。体内のものを計算するのが「内部被曝計算」で、摂取してから50年間の被曝量を計算するのですが、原発事故がなく一回限りの場合と、今回のように毎日のように被曝する場合とでは計算はかなり違います。ネットを見ていると一回限りの被曝計算をして「大したことはない」と言っている人もいるので注意を要します。また50年間といっても最初の3ヶ月がほとんどですから、それも間違わないでください。体内の被曝もセシウムの場合、あまり特定の箇所に蓄積することもないので、被曝計算で大丈夫です。その点では、1キロ20ベクレル以下の食材(このブログでの注意は20ベクレルぐらいを念頭に置いています。外部被曝、呼吸なども加味しています。)が相変わらず子供を守るポイントでしょう。(少し長くなって、時間が無くなってきたので、とりあえず、これでアップし、また書きます)(平成23年10月7日)武田邦彦
2011年10月07日
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【深く考える】教育問題(試験と合格)教育問題の3回目は、「なぜ、先生は成績をつけるのか?」という本質問題に入りたいと思います。大学では「なぜ、学生に「単位を撮らなければならない」と指導するのか?」ということや、「なぜ、落第させる必要があるのか?」ということです。当たり前のように思いますが、教育と人格問題など、結構、奥が深いのです。音声が主体です。「takeda_20111006no.224-(7:27).mp3」をダウンロード「takeda_20111006no.225-(8:15).mp3」をダウンロード(平成23年10月6日)武田邦彦
2011年10月07日
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科学の進歩と人間シリーズ(3)人類の実質的な寿命を8倍にして、苦痛を除いた科学技術が、一方では人類を500回も殺す兵器を増産するという両面性を持っていることを指摘しました。そしてこのような異常な状態になる理由が社会にあるらしいことが判りました。そこでまず、「科学と社会」をどのように考えるのか、難しい議論があります。それは「原爆を作る方が悪いのか、原爆を使う方が悪いのか」というものです。もし科学者が原爆を作らなければ、もともと原爆はできません。もし科学者が原爆を作ってもそれを社会が使わなければ原爆は使われません。そのどちらが良いかというのは長い間、議論されてきました。 このことについては私は固い信念があります。私の信念が正しいかどうかはわかりませんが、長い間、科学者として技術者として仕事をし、多くの政治家、経済学者、文学者、科学者、技術者、それに医師、弁護士などの方とお会いし、話をしてきましたが、どうも「科学者や技術者」は社会全体を見てバランスのよい判断をしているようには見えないのです。科学者(ただしくは自然科学者)や技術者という仕事は、若い頃から「物」を相手にして「人」との接触がすくなく、もともと人にはあまり関心が無いし、歴史や文学などは苦手な人も多いのです。そうするとこれまでのことや人間の性質などに疎いので、「新しいものを作る」のは良いのですが、それが社会にとって良いかどうかの判断は少なくとも標準的ではないと思います。結婚して間もない頃の私は典型的な技術者でした。歴史や文学が好きで学校のころは歴史書や小説を読みふけったものでしたが、技術者になってからは頭の中は「物」だけが閉めていたのです。ある時、家内と二人で東京の山手線のホームで電車を待っていたときのことです。向かい側のホームに京浜東北線が入ってきたので、私は家内に「モーター車が3台しか無いんだね。ディスクブレーキには変わっているけれど」と言ったら、家内は「なんですか?それ」と訝しげに返事をしました。ホームの向こうに電車が入ってくると私は「モーターは?ブレーキは?パンタグラフは?」と興味がわいてくるのですが、おそらく家内は「どんな人が降りてくるのか」と見ていたかも知れません。若き技術者は社会では特殊な生活を送っているのです。 そんなことがあり、私は「科学者や技術者は作品をショーウィンドウに飾るのにとどめるべきだ。その作品を使うかどうかは社会が決める」という考えになったのです。ただ、作品をショーウィンドウに飾るときに「ウソの説明を書かない」ということが第一に必要です。たとえば原発ですと、原発が良いか悪いかは判断せずに、ショーウィンドウに飾り、説明書に「この原発は震度6ではほとんどの場合、破壊され、30年ごとに1回ぐらいは大爆発します」と書くということです。 たとえば「原爆は作ってはいけない」というのは当然のように思いますが、戦争の時に使うものは多いので、「刀は良い、ピストルは?機関銃は?焼夷弾は?ナパーム弾は?ジェット戦闘機は?爆撃機は?原爆は?」と個別に考えると結構、難しく作る側の人が決めるのはなかなか困難です。「敵が攻めてきたら君の妻子も皆殺しになる。国を守るために銃ぐらいはいる」と言われるとそんな気もしますし、兵器を作る側の技術者はどんな兵器でも「気が向かないけれど、命令なら」という気分ではいるけれど、断固、拒否するというところまでは難しいのです。 科学技術で問題が起きる多くの場合は、科学者がその作品をショーウィンドウに飾ったことが原因ではなく、説明が不十分だったり、社会がある熱狂に巻き込まれていて説明を冷静に聞かなかった時に起こるようです。(平成23年10月6日)武田邦彦
2011年10月06日
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毒を飲ませず、毒を除いて植えることを求めたい 事故も起こすべきではありませんでしたが、起こってしまったことは受け入れざるを得ません。でもその被害を最小限にすることは私たちの責務です。相変わらず東電は事故後に退任した社長に2億円の退職金を出し、ヨウ素131やセシウム137といった猛毒をまいた人の家の掃除にも来ないという状態です。政府も6ヶ月を経て福島の除染にまったく人手を出していません。東電は解散、政府は転覆しなければならないでしょう。セシウム137の経口致死量は人間で0.1ミリグラム(計算上)、犬を使った動物実験では0,4ミリグラムという値が報告されています。私たちが知っている毒物の中で猛毒とされている青酸カリでも致死量は200ミリグラム(人体、経口)ですから、500倍から2000倍、つまりおおよそ3桁(1000倍)も強い毒性を持ちます。そのセシウム137を福島などに蒔いた会社の社長が、それを綺麗にせず、なぜ2億円の退職金をもらえるのでしょうか? 今、彼はどこにいるのでしょうか? 日本はまったく平衡感覚を失ったように見えます。さらに、猛毒の物質が東電によって田畑にまかれているのにそのまま稲を植えたり、道路にまかれているのに除染をしなかったり、青酸カリより強い毒物が入った野菜を売ったり、どうしたのでしょうか? どうも「セシウムは猛毒」ということが頭に入らないとしか思えません。(お医者さんに:1年1ミリの被曝限度には異論があるお医者さんが多いのですが、セシウム137の経口毒性は動物実験もあり、計算もでき、これらの毒性を示したのは医師などを含む研究者であることも理解し、それらのデータと調和した発言を求めます。)さらに「汚染された野菜を食べないとはどういうことか!」とお母さんを怒鳴った人、「ベクレルを測定しない花火は打ち上げろ!」と言った人は、もう一度、次のように怒鳴って欲しい。「青酸カリを飲め!」、「青酸カリを花火と一緒に空にぶちまけろ!」 そういえばいくら抜け殻になっていても、自分が何を言っているのかを気がつくでしょう。・・・・・・【福島、東北の方へはじめて呼びかけます】福島の人も辛いでしょうけれど、自分たちが被害者であることに気がつき、他の日本人を傷つけるのではなく、ともに力を合わせて政府と東電に3月10日以前の生活を取り戻すように言動を統一することを希望します。私が「青酸カリを田畑に蒔いたようなものだから、それを除いてから作物を植えるべきだ」と発言したことに対して、「そんなこと言うな!」というご批判が多かったのですが、やはり厳しい事実をかくしても、事態の改善は遅れるのではないでしょうか。大人が事実を知ることを拒否すると、その被害は子供に及びます。同じく私が「東北の野菜は食べないように」という発言も福島を中心に一関や郡山などから強いご批判がありましたが、汚染された食材を出荷するということは、「青酸カリより強い毒物がついている野菜を我が子に食べさせなければならない」という親を作るということであり、親御さんの気持ちを少しでも理解してあげてください。 もし、「東北」というくくりが問題なら、「ベクレル表示」か「セシウムのマイクログラム表示」をしてください。そうすれば「東北」という括りは無くなります(農水省は「細かい産地区分をするな」という趣旨の通達を出していることも多くの人が知っています。それに従っているということになると被害者が被害者を苦しめることになります。)今回の甲状腺異常の10人の子供は被曝が原因では無い可能性もありますが、私たちが被害者どうして非難し合ったり、除染しないで安全な生活を送ろうとしたり、時には挫折したくなる気のゆるみに対する警告と受け取った方が良いと私は思います。政府やマスコミは子供の甲状腺に異常が見られたことの報道を控えるか、「10人は被曝が原因とは限らない」という理由にもならない(万が一でも子供を被曝させないという気持ちのない)ことのキャンペーンを打ってくるでしょうけれど、それに誤魔化されないようにしたいと思います。)(平成23年10月5日)武田邦彦
2011年10月06日
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