「原因」と「結果」の法則について?@

ジェームズ・アレンの『「原因」と「結果」の法則」(※原題は「As a man thinketh」)』を読みました。
読んだのは坂本貢一さんが翻訳したサンマーク出版から出版されている本です。

初めてこの本を知ったのは漫画版ですが、漫画版で興味が出たので本の方も読んでみようと思い買いました。
届いた本はあとがきを含めて95ページと大変薄いもので驚きましたが、とりあえず読んでみました。

さらさらっと読んだ感じは、まあ、なるほどなーという感じでした。
それっぽいことは書いているのですが・・・正直良く分かりません。
いや、理屈では分かるような気はするんですが、でもその意味が感覚で掴めないといいますか、全然自分のものになったっていう感覚がないんです。専門用語をものすごい勢いでまくしたてられた後「ってことだけど分かったよね?」っていう感じっていうか・・・
決して難しい言葉は使われていません。むしろ、平易な言葉で簡単な言い回しで、、、と大変に読みやすいものです。でも分からない。
・・・と、ここでいつもの自分なら読書を終えて「あまり自分には合わなかった」とまとめてしまうところですが、世界で多くの人に読まれているベストセラーである以上、きっと何か心に響くことが書かれているはず・・・と考えると、終わる訳にはいきません。
今の自分では気づけていないだけ、という可能性が高いですから。

・・・よし、読み込んでみよう!
ということで、少しずつ、考えながら読んでみることにしました。


「思いと人格」の章

人生をつくる絶対の法則として「原因と結果の法則」のフレーズが紹介されます。
でもその法則が何か?ということの直接的な解説はありません。
「結果」という言葉に注目しながら読んでいくことになります。

P15に次のように書かれています。

”それは、くり返しめぐらされつづけた、気高く、正しい思いの、自然な結果です。そして、卑しい獣のような人格は、卑しく、誤った思いの、やはり自然な結果です。”

ここでは気高い神のような人格や、卑しい獣のような人格が「結果」であると説かれています。
原因と結果の、結果の方だと考えるのが妥当でしょう。すると原因は?同じ文のなかから読み取れるのは、「気高く、正しい思い」あるいは「卑しく、誤った思い」が原因にあたるものだと推測されます。

つまり普段の思いが結果としての人格をつくっているんですよということですね、きっと。
これを踏まえて読み進めていきます。

次にP17では真実として一つの事が紹介されます。

”「人間は思いの主人であり、人格の製作者であり、環境と運命の設計者である」”

先ほどの原因と結果の法則と似た内容ですね。
論理として考えると、
「人間が思いの主人である→原因を支配するのは人間である→結果を支配するのは人間である→人間は人格の製作者である」
ということになります。ここまでは分かります。理屈としてはですが。でも感覚的にはピンと来ません。
一方、「環境と運命の設計者である」の部分はまだ論理的にも良く分かりません。繋がるロジックは示されていません。

更に読み進めていきます。
すると、重要だと思われる部分が出てきます。丁寧に、この本では点まで打たれていますから、やはり重要であることは間違いないでしょう。

P17
”でも、私たちがそうなるためには、まず、自分の内側で機能している「原因と結果の法則」をはっきりと認識しなければなりません。そしてその認識は、みずからの試みと経験と分析によってのみもたらされます。”

この部分を読んだとき、あ、なるほどな、と腑に落ちる感じがありました。
”みずからの試みと経験と分析によってのみもたらされます”
ということは、認識、つまり「原因と結果の法則」の認識は、知識的なものではなく自らの体験的なものとして理解することで初めてモノになるんだということなんですね。

この本を読んだだけでは駄目。自分を分析する努力と経験がなければ「原因と結果の法則」は認識できず、先程にあげた真実にも辿り着くことは出来ないんだよと、ここには書かれているわけです。
「人間は自分の人格の製作者であり、自分の環境と運命の設計者である」という真実は身をもって知るものだよということですね。また、後には、その真実を知ることは知恵とパワーの獲得だよと書かれています。

なるほど。
この本を読むだけでは駄目で、自分をしっかり分析する努力を経なければ、いわゆる「原因と結果の法則」は認識出来ないんだ。知識だけでは駄目で、智慧にしなければ駄目なんだと。
何だかちょっと仏教的ですね。

でも少し「原因と結果の法則」という本の面白さが分かってきたような気がします。
ちょっと面白くなってきました。

さて今の時点でまだ明らかにされていないことは何かと考えると、
・「原因と結果の法則」を認識するための、試みと経験と分析とは何か。
・紹介された真実の「環境と運命の設計者である」である理由は何か。
という2点だと思います。

これらは以後のページで紹介されるのでしょうか?

とりあえず今日はここまで。

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2015年06月15日

「原因」と「結果」の法則について?A

ジェームズ・アレンの『「原因」と「結果」の法則」』(訳:坂本貢一 サンマーク出版)の続きです。

「思いと環境」の章

前章で筆者が真実として紹介された「人間は自分の人格の製作者であり、自分の環境と運命の設計者である」のキーワードの一つである「環境」が出てきました。

環境というのは、一人の人間を取り巻く外的環境のことでしょう。私は「環境が人を作る」というように考えています。全てでは無いですが、大きな要因の一つだと考えています。恵まれた環境は恵まれた人格を形成すること、また逆に、不幸な環境は不幸な人格を形成することは多いのではないかと。

さて、この章は”人間の心は庭のようなものです。”という例えから始まります。

P21
”すぐれた園芸家は、庭を耕し、雑草を取り除き、美しい草花の種を蒔き、それを育みつづけます。同様に、私たちも、もしすばらしい人生を生きたいのなら、自分の心の庭を掘り起こし、そこから不純な誤った思いを一掃し、そのあとに清らかな正しい思いを植えつけ、それを育みつづけなくてはなりません。”

なるほど。
これは何となく分かる話です。

”思いと人格はひとつです。そして、人格は環境を通じて、それ自身を表現しています。”

良く分かりません。自分自身の人格と、それを取り巻く外部環境は全く別の要因によって構成されるものではないのでしょうか?
ひょっとすると、自分の考える「環境」と、筆者が言う「環境」の定義は異なるのかもしれません。読み進めていきます。

P22
”そうではなく、「私達の環境を構成しているさまざまな状況は、どれもがみな、それぞれに、私たちの人格を構成する特定の重要な要素のあらわれである」という意味です。そして、それらの状況のすべてが、私たちのその時点以降の進歩にとって、決定的に重要なものです。”

更に筆者は
”よって、人生には、偶然という要素はまったく存在しません。私たちの人生を構成しているあらゆる要素が、けっして誤ることを知らない法則が正確に機能した結果なのです。”
と続けます。

これは筆者の考えですね。私は人生には偶然という要素が少なくとも存在すると考えます。でも筆者のような考え方を持つとすると、一体どのようになるというのでしょうか。
そういえば、先ほど出てきた「私たちの人格を構成する特定な重要の要素」とは何なのでしょうか?何となく読み飛ばしましたが、よく考えてみるとはっきりとはまだ分かりません。今までの原因と結果の法則からいえば、「人格を構成する」ということはすなわち「結果」であり、今まで「結果」として語られたのは「思いの結果としての人格」です。
・・・まだ良くわかりません。この疑問点は一旦置いておき、進めましょう。

あ、ありました。

”私たちは、自分を環境の産物だと信じているかぎり、環境によって打ちのめされる運命にあります。しかし、「自分は創造のパワーそのものであり、環境を育むための土壌と種(心と思い)を自由に管理できる」ということを認識したときから、自分自身の賢い主人として生きられるようになります。”

”環境を育むための土壌と種(心と思い)”と、先ほどのP22からの引用部分とは対比になっていると考えられます。ここから考えられることは、私たちの人格を構成する特定の重要な要素=「心と思い」であり、これらが環境を育むのだ、と筆者は考えているということです。

P24
”そして環境は、心がそれ自身と同種のものを受け取るための媒体です。”

環境についての筆者の考えが出されました。
筆者はこのように考えているのだと理解します。
「環境は自分自身の心と思いにより育まれたものであり、心とともに変化するものである。そしてさらに、心がそれ自身と同種のものを受け取るための媒体である」
「媒体である」という表現から考えられるのは、筆者が環境そのもの自体にはあまり意味を見ていないということです。自身を取り巻く環境が一体どういうものであるかということではなく、環境を通じて自分自身が何を受け取るのか、という行為と内容にこそ環境の存在意義があるのだ、と考えているのでしょう。

続いて書中では「原因と結果の法則」のしくみが説明されます。
「心の中に蒔かれた思い→同種のものを生み出す→行いとして花開く→環境という実を結ぶ」
良い思いは良い環境を、悪い思いは悪い環境を生み出すというのがこのくだりです。
まあ、良く言われていることだと思います。このあたりは事実がどうかという事ではなく、事実を見て真実をどのように考えるかということの解釈の一つ、という事でしょう。
しばらくはこの点の説明が繰り返されます。

ふと、話が展開します。

P28
”この真実の光のもとで眺めたとき、「環境と戦う」とは、どういうことなのでしょう。それは、自分自身の内側で「原因」を養いながら、外側の「結果」に戦いを挑むことにほかなりません。”

ちょっと興味を引くフレーズです。人は自分にとって不利益な環境下にあると気づいた時、一般的には、その環境を変えようと奮闘するか、あるいはその環境から逃避するか、環境への耐性を獲得しようとするか、いずれかの行動を取ろうとするのではないでしょうか?少なくとも私はそう考えていました。けれども筆者は、その行為は、自分で原因を作りながら一方ではそれに戦いを挑むという、無意味で限度のないものだと指摘しています。
筆者にとって環境はあくまで自分自身の思いの「結果」だとこれまで述べられてきました。結果である環境に戦いを挑むことは無意味な行いであると述べている訳です。そしてここからは、「原因」こそが改善されなくてはならないものだと話を展開します。自分自身の原因により、どのような結果が得られているのかという例をいくつか紹介していきます。

P31
”また、環境はきわめて複雑です。そこには、個人のさまざまな思いが深く根づいています。幸せの条件は個人によってさまざまである、という事実もあります。よって、私たちの魂の総合的な状態を、私たちの人生の外面的特徴のみからほかの誰かが知ることは(私たち自身は知ることができるかもしれませんが)、とうてい不可能なことです。”

これは逆に言えば、他人の魂の総合的な状態(思いとそれによって発生した結果の複合体とでも考えるものべきものでしょうか?)を、他人の外面的特徴や環境から知ることは不可能なことだということでしょう。そして筆者は、「特定のことに正直→全てに正直」ではない、「特定のことに不正直→全てに不正直」ではないと続けます。思いとその現れは複雑なものだと。
しかし筆者は次のように続けます。

P33
”「自分の心と人生内で機能している法則は完璧に公正であり、それが、悪に対して善で報いたり、善に対して悪で報いたりすることは絶対にありえない」ということを知るでしょう。”

これを知識として筆者は表します。
何かよく言われている綺麗ごとだな・・・と思いますが、丁寧に見てみると、完璧で公正なのは「自分の心と人生内で機能している法則」と言っているのに過ぎないのですね。なるほど。世界がどうこうという話ではなく、あくまで自分の中で機能する法則(原因と結果の法則のことでしょう)が完璧で公正だと言っているのですね。

・・・むむむ。
なかなか薄い本だと思いましたが、こうやってゆっくり考えながら読んでいくと、なかなか味があります。

熟読すべきかどうかを判断するかどうかの方法の一つとして速読があげられていますが、速読では、慣れている人でなければその判断もなかなか難しいと思います。しかし、多くの人に認められている「古典」は、やはり何らかの価値が多くの人に見出されている訳であり、そのような本は迷わず熟読してもいいのかもしれません。

とりあえず今日はここまで。熟読って大変だなあ。。。でもこうすることで本当の味が分かるかと思うと、やっぱりよく噛まないといけないなーと思います。

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他人との距離感をいつも遠く感じながら生きてきました。高校の体育祭のフィナーレでは、肩を抱き合って大はしゃぎする光景に「何でこんなに盛り上がれるんだろう・・・?」と全く共感できませんでした。共感できない自分が理解できず、いつも悩んでいます。そんな私でも面白いと思うことはこの世界に一杯あります。それが私の生きる糧でした。面白いことが増えていけば、よりたくさんの人が楽しく生きられるはず。そんな世界を夢見ています。
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