昨日あれほどつらかった腰痛も、夕べお風呂でゆっくり温まって、ひと晩横になったらだいぶん良くなりました。
今日は、昨年から取り組んでいた仕事が遂に終わりました。私にとっては難題でした。同僚が慰労会だと食事をご馳走してくれました。その時、同僚が学生時代の話をしてくれました。それはまだ若かった同僚が、これから目の前に広がる人生を前にして、どのように生きていったらよいのかと自問自答した時に、評判とか評価とか他者の視点に従うのではなくて、常にもうひとりの自分に問いかけながら生きていこうと決意したという話でした。
そしてその時、同僚は言いました。「いつも自分を見守り、自分の味方になろうと思ったんです」
私はそれを聞いたとき、不覚にも鼻の奥がツンとし、泣きそうになりました。私はいつも自分の批判ばかりしてきたと思いました。自分の味方になるなんてそんな発想自体ありませんでした。常に自分を責め、反省を促してきました。謙遜とは別の種類の卑下が根底にありました。何をやっても自分はたかが知れているし、常にまだまだだと思っていました。
もう20年も前のことですが、昔からの友人と話していた時、ふとしたことからおもしろいことに気づきました。私は、人生の本番をまだ歩いていないと感じていたということです。例えていうなら、歌手が舞台の袖や、あるいは奈落の底で出番を待ってマイクを持たずに小声で歌の練習をしている気分だと気づいたのです。
私はまだまだ修行が足りないので、本番の舞台には上がる資格がないのです。いつの日にか回舞台がぐるりと回転したり、奈落がせり上がってスポットライトを浴びる日が来ることをひたすら修行しながら待っていると感じていたことに気づきました。
実はこの前に週末に、たまたま住まいのショールームにいったのですが、このようなステキなキッチンは一体何歳くらいの人が注文するのだろうかとふと思いました。私はまだまだ修行が足りないのでこのような素敵なキッチンを買うような身分ではないのです。でも、そんなことを言っていたら一体全体このようなキッチンは誰のためにあるのだろうかと思いました。そして私はいつになったらこのようなキッチンを使えるような身分になれるのでしょうか。
冷静に考えてみれば、私はもう数年で還暦なのです。一昔前なら55歳で定年退職したのです。もうその年齢も越えました。私は何をどこまで修行しなくてはならないのでしょうか。いつになったら人生の本番を歩くつもりなのでしょうか。本番を生きるにはどのような条件をクリアすれば良いのでしょうか。
今日の同僚の話を聞いて、きっと自分に味方がいれば、もしも自分自身が許可を出してくれたなら、私も自分の人生の本番を歩けるようになるかもしれないと思いました。私は常に誰かに攻撃されてきたと感じてきました。だから防御のためにたくさん食べなくてはいけなかったし、肥満という最大の弱点を悟られないように甘いものを気にせず食べる振りをして来なければなりませんでした。
でも、もし私が私自分の味方をしてあげれば、多くの問題が一気に解決するのではないかと思いました。
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2017年12月21日
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