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2018年01月10日

いちごサンド

今日、コンビニでいちごサンドを見かけ、直ちに買いました。

子どもの頃、私が珍しくお腹をこわした時のことです、私は便秘することはあったも、お腹をこわすことはまずないこどもでした。私は発熱担当、弟はお腹こわし担当のようなところがありました。

その珍しく私がお腹をこわした時、母がいちごサンドを買ってきました。食パンにいちごと生クリームがはさまっていて、まるでショートケーキのようなサンドイッチでした。でも私はお腹をこわしていたため食べられませんでした。母は良くなったら必ず買ってあげるから今日だけは我慢さなさいと言いました。

あれはもう五十年以上も前のことでした。しばらくしてお腹も治った頃、母と一緒にパン屋さんに行ったら、もういちごサンドは季節が終わってしまって、夏ミカンか八朔のサンドイッチになっていました。当時は旬のものだけが食卓を彩っていました。

その日以来、私はいちごサンドを見かけたら、直ちにその場で買っています。きっと母も弟もこんなエピソードは忘れているでしょう。でも私には、いつもでもあの日に戻ってしまうタイムマシンのような存在なのです。

2017年12月30日

1年を振り返って

明日の大晦日は、終日バタバタと過ぎてしまいそうなので、今日は1日早いけれど今年1年間を振り返ってみようと思います。

今年の元日の体重は、97.0kgでした。

2016年には、105.6kgから91.4kgまで、7ヶ月間で14.2kgの減量に成功したというのに、わずか4ヶ月で6kg近くリバウンドさせてしまいました。今年のお正月はちょうどリバウンドの最中で、7月までにはさらに9kg増やして106kgまで戻すことになります。

5月のGWの頃には103kgに戻っていて、もう苦しくて堪らないけれど自分の力では食欲をコントロールすることが完全にできなくなっていて、医師に相談に行きました。2016年12月末に6.0だったHbA1cは、今年の2月に6.2となり、5月には6.7に上昇してきたため、近くの病院に糖尿病の教育入院をさせていただくことになりました。仕事の都合で入院の日程が7月中旬になってしまいましたが、決まって心底ホッとしました。

ところが、入院が決まった安心が裏目に出て、あと2ヶ月最後だと思って甘い物をたくさん食べちゃおうと、もう食べたくないのに、苦しいのに、おいしくないのに、まるで罰ゲームのようにひたすら口の中にお菓子を押し込み続けました。そして入院初日、5月の血液検査から2ヶ月足らずだというのに、HbA1cは7.6を記録してしまいました。

HbA1c7.6は私にとっては衝撃的でした。

たった2ヶ月で6.7から7.6になるとは驚きました。肝機能も軒並み悪くなっていました。若い頃から何度も警告されていましたが、いつもただの肥満で糖尿病も境界型と言われていただけだったので、自分の体を過信していました。しかし、ここにきて一気にツケがまわってきたように感じました。

そして入院中に始めたのがこのブログです。

今年の後半は、ひたすらダイエットに励みました、このブログにある通りです。元日に97kgだった体重は、106kgになってから、再び94kgになりました。ボラティリティは非常に高かった1年でしたが、差し引きしてみると、結局、3kgのマイナスということになりました。去年の91.4kgにはまだ及びませんが、なかなか善戦したと思います。

今は年末年始の忘年会新年会と母と夫の誕生日が重なって体重は増加気味ですが、一日も早く1,500kcal に戻して、粗食を楽しんでいこうと思います。木を見て森を見ずというようなことにならないように、大きなゴールを見失わないように、多少の凸凹に一喜一憂せずにこれからも努力していこうと思います。

2017年12月21日

自分の味方

昨日あれほどつらかった腰痛も、夕べお風呂でゆっくり温まって、ひと晩横になったらだいぶん良くなりました。

今日は、昨年から取り組んでいた仕事が遂に終わりました。私にとっては難題でした。同僚が慰労会だと食事をご馳走してくれました。その時、同僚が学生時代の話をしてくれました。それはまだ若かった同僚が、これから目の前に広がる人生を前にして、どのように生きていったらよいのかと自問自答した時に、評判とか評価とか他者の視点に従うのではなくて、常にもうひとりの自分に問いかけながら生きていこうと決意したという話でした。

そしてその時、同僚は言いました。「いつも自分を見守り、自分の味方になろうと思ったんです」

私はそれを聞いたとき、不覚にも鼻の奥がツンとし、泣きそうになりました。私はいつも自分の批判ばかりしてきたと思いました。自分の味方になるなんてそんな発想自体ありませんでした。常に自分を責め、反省を促してきました。謙遜とは別の種類の卑下が根底にありました。何をやっても自分はたかが知れているし、常にまだまだだと思っていました。

もう20年も前のことですが、昔からの友人と話していた時、ふとしたことからおもしろいことに気づきました。私は、人生の本番をまだ歩いていないと感じていたということです。例えていうなら、歌手が舞台の袖や、あるいは奈落の底で出番を待ってマイクを持たずに小声で歌の練習をしている気分だと気づいたのです。

私はまだまだ修行が足りないので、本番の舞台には上がる資格がないのです。いつの日にか回舞台がぐるりと回転したり、奈落がせり上がってスポットライトを浴びる日が来ることをひたすら修行しながら待っていると感じていたことに気づきました。

実はこの前に週末に、たまたま住まいのショールームにいったのですが、このようなステキなキッチンは一体何歳くらいの人が注文するのだろうかとふと思いました。私はまだまだ修行が足りないのでこのような素敵なキッチンを買うような身分ではないのです。でも、そんなことを言っていたら一体全体このようなキッチンは誰のためにあるのだろうかと思いました。そして私はいつになったらこのようなキッチンを使えるような身分になれるのでしょうか。

冷静に考えてみれば、私はもう数年で還暦なのです。一昔前なら55歳で定年退職したのです。もうその年齢も越えました。私は何をどこまで修行しなくてはならないのでしょうか。いつになったら人生の本番を歩くつもりなのでしょうか。本番を生きるにはどのような条件をクリアすれば良いのでしょうか。

今日の同僚の話を聞いて、きっと自分に味方がいれば、もしも自分自身が許可を出してくれたなら、私も自分の人生の本番を歩けるようになるかもしれないと思いました。私は常に誰かに攻撃されてきたと感じてきました。だから防御のためにたくさん食べなくてはいけなかったし、肥満という最大の弱点を悟られないように甘いものを気にせず食べる振りをして来なければなりませんでした。

でも、もし私が私自分の味方をしてあげれば、多くの問題が一気に解決するのではないかと思いました。

2017年12月13日

豪華なパフェ

今日は学生時代の友人と少し遠くまで足を伸ばして、豪華なパフェを食べにいきました。もはや芸術作品と呼んでもいいほどの素晴らしいパフェでした。食べに行こうと提案したのは私です。友人は私が行きたいお店があるならどこでもいいよというスタンスでした。パフェは見目麗しいだけでなく、良質な材料と細やかな仕事で味も最高でした。仲の良い友人と、宝石のようなパフェが食べられて、この上ない幸せなひと時でした。

けれども、心のどこかで少し後悔しています。私は本当に今日パフェが食べたかったのでしょうか。実は来週別の友人とパフェを食べに行く約束をしています。もうひと月以上前の約束です。きっと間違いなく来週も行くでしょう。どうして来週まで待てなかったのでしょうか。

そもそもこのところ気温が低いので、作り置き野菜を冷蔵庫から出してそのまま食べるのにもちょっとした決意が必要です。電子レンジで10秒ほど加熱することもあります。朝、薬を飲むにもお水ではなくお湯で飲んでいます。それなのにどうしてパフェなのでしょうか。お店でメニューを選んでいたときも、パフェは冷たそうだなと思っていたくらいです。

時々不思議に思うのですが、私はなんらかの義務感に駆られて甘いものを食べていると思うことがあります。もちろん純粋に食べたいから食べていることもありますが、今日のように、なぜ寒いのにわざわざパフェなのか、来週もパフェなのになぜ今日もパフェなのか、自分でも説明のつかないことがしばしば起こるのです。

うまく表現できないかもしれませんが、甘いものを食べるのは一種の「防御」のように感じることがあります。無理矢理の変な喩えですが、試験前に「昨日全然勉強しないで寝ちゃった」とクラスメイトにいうような感じです。試験勉強が十分でなく心の中では焦っているのに、試験のひとつやふたつどうってことないと空威張りしている感じです。

本当は寝ても醒めても食べ物のことばかり考えていて、甘いものを食べずにはいられないということに苦しみ続けているのに、「また甘いもの食べちゃった」と、体型なんてそんなもの気にしてないわと空威張りしているような感じなのです。

「肥満」。それは私の全人生を丸ごと支配してきた「諸悪の根源」なのです。

若い頃から苦しく苦しくて、あまりに苦しくて感情を受け止めることができないほど、肥満は私の最大の弱点なのです。だからこそ、弱味を見せないように強がって甘いものを食べ続けてきたという側面があるのです。食べ続けることで弱味を見せないようにするのです。食べることイコール防御なのです。

でも、私は誰かに攻撃されるとでも思っているのでしょうか。学生時代からの友人が私を攻撃してくるとでも思っているのでしょうか。なぜ信頼している友人の前でも私は虚勢を張り続けなくてはならないのでしょうか。

きっと自分に自信がないのでしょう。等身大の自分の姿を晒すことが怖いのだと思います。だからこそ、自覚している最大の弱点を押し隠して、食べたくもない甘いもの、ケーキやパフェを口の中に押し込んできたのだと思います。

今度、友人に会ったら次のように話してみたいと思います。「私、若い頃から肥満に苦しんできたの。自分なりに色々努力してきたのに遂に糖尿病になってしまったの。本当につらくて悲しいの。7月には教育入院までして毎食1,500kcalのカロリー制限するように言われているの。時々羽目を外したくなることもあるからその時は付き合ってね。でもあんまり羽目を外し過ぎたら注意してね」

2017年11月16日

お弁当の思い出〜厚生係再び編

自作のお弁当を持参すると、お冷やご飯がどんどん溜まってしまいその処理は私の責任となり、また朝はいつも大急ぎでなので卵焼きを作ったフライパンを流しにそのままにして家を飛び出していっては叱られ、帰宅してからはしてからで洗っぱなしのお弁当箱は高価な塗りに水滴が残っているといっては叱られていました。

肝心のお弁当といえば、周りのみんなの可愛いらしくて日々趣向を凝らしたお弁当とは違い、私のは形の崩れた玉子焼きと、たこ足ウィンナーが入っている程度のものでした。お冷やご飯が大量に残り始めてからは、朝からチャーハンを作ってそのまま詰めていったこともありました。しかもそれが高級な塗りのお弁当箱に入っているのです。

眠いのに早起きして、母に叱られ、迷惑がられて作っている割りにはあまり得るものもなく、これなら厚生係に卵パンを頼んだ方がマシだと思うようになりました。こうして自作弁当はあまり長続きすることなく自然消滅してしまいました。

ところが、自作弁当作成以前は当然のことのように支給されていたパン代ですが、再度母にねだると「どうしても必要なの?」「どうしてそんなにかかるの?」などと言われるようになりました。「どうしても必要か」と言われれば、一食くらい抜いても死にはしないのでどうしても必要というわけではありません。世の中には義務教育を終えてすぐに高校など行かずに働いている同年代の人たちもいるのですから、贅沢だ我儘だと言われても仕方ないのかもしれません。でも同じクラスの同級生を見渡した時、お昼ご飯代をもらうのに毎朝こういうやり取りをすること自体、理不尽なことに思えてなりませんでした。

母の思考が理解できないと思ったのは、他にも洋服をほとんど買い与えてくれなかったこともありました。中高校生の頃、今でも忘れることはないほどの強烈な記憶としてあるのは、学校の制服以外で私の持っていたスカートは、家庭科の実習で作成した夏物のブルーのボックススカートと、同じ型紙で作った冬物の千鳥格子のスカートの2枚だけだったことです。

ブラウスは夏冬それぞれ1枚ずつ買ってもらっていましたが、仲良しの友人と週末や長い休みに出かける時には、春夏でワンパターン、秋冬でもワンパターンしかありませでした。ワンパターンとは文字通りワンパターンで着た切り雀でしたから、2日続けて出かける時も3日続けて出かける時もまったく同じ服装で出かけるしかありませでした。洗濯など当然できませんでした。

洋服に関しては、ある時泣いて頼んで母に一緒に買い物に行ってもらいました。友人と週末一緒に遊びに行く時の普段着がどうしても欲しかったのです。けれどもその時買ってもらえたのは、胸に刺繍のついた薄桃色のワンピースでした。ピアノの発表会くらいしか着ていく所がないようなドレスでした。私の欲しかったのはこのように何万円もするステージ衣装ではなくて、千円くらいで売っているただのTシャツと洗濯の替えとしてのスカートかズボンでした。しかし母はそんな安物はみっともないからと買ってはくれませんでした。結局、ドレスに袖を通すこともなく家庭科のスカートを履き続けることになりました。

もしも私の家が貧困家庭であったらどんなに楽かと思いました。そうすれば諦めがついたと思うのです。でも私が育った家にはお金がなかったわけではありません。お弁当を作ってくれないのはまあ仕方ないとして、自作弁当には非難の眼差しが注がれ、パン代を貰うのに一苦労し、着た切り雀という状態で高校生活を送るのは簡単なことではありませんでした。

けれどもこのような日々でも母が私を大切に思っていることを私はわかっていました。私は母の自慢の娘でした。とにかく母はどこかおかしいのです。子どもに満足に衣食住も与えないのなら、なぜ私を産んだりしたのだろうと思いました。あの頃は本当に毎日、なぜ生まれてきてしまったのか、なぜ生きていなければならないのか自問自答を繰り返していました。パン代だって次第にどうでも良くなっていきました。毎朝なぜパンを買う必要があるのかという不毛なやり取りすることに比べれば、お昼ご飯なんて食べない方がよほどマシでした。

そんなある日のこと、3歳年下の弟の通っている中学校の給食センターがトラブルに見舞われ、突然明日からお弁当ということになりました。

2017年11月13日

お弁当の思い出〜自作編

母にお弁当作りをお願いすることができないことはよくわかっていたので、ある時自分で作ることにしました。

まずお弁当箱ですが、母は天袋から塗りのお弁当箱を取り出してきで、それを使うようにいいました。私はみんなのように液だれしないようにパチンと蓋のできるプラスチックのお弁当箱がいいと言いましたが、家にあるお弁当箱は最上級の塗りのお弁当箱なのだからと新しいものは買ってもらえませんでした。

お弁当箱は液だれするといけないので、スーパーマーケットのビニール袋に入れて持っていきました。みんなのように、可愛い絵のついたナプキンで包んで持っていきたかったのですが、それをいうと母はタンスの上の方の引き出しから縮緬生地の美しい布を出してきて、これであの上等の塗りのお弁当箱を包んでいけば良いといいました。そうではないのです。お弁当箱を包むナプキンにはほどよい厚さと可愛い柄などのある種の約束事がありました。でも言えば言うほど、「塗りのお弁当箱に縮緬生地の包みに何の不満があるのか」「これ以上の贅沢がどこにあるのか」「よそはよそ、うちはうちです」とも何度も言われました。

思い起こせば私の幼稚園のお座布団には座面一面に、母お手製の豪華なフランス刺繍が施されていました。周りのみんなはマンガのプリントの生地のシンプルなお座布団でしたが、私のはビロード生地に咲き誇った薔薇園の刺繍のおかげでお尻の下がゴツゴツしていました。刺繍といえば私のスクール水着にも母は煌びやかな刺繍をしてくれていました。

そういえば、なにもかも母は過剰でした。ランドセルもみんなが持ってる合皮の軽いものではなく、最高級の皮製のずっしり重いものでした。6個のおにぎりと半斤のサンドイッチをいれたリュックは、軽くて丈夫だという山羊の皮でできていて、水筒のキャップには方位磁石までついている本格的なものでした。

母はお洒落でセンスも良かったので、小学生の頃から私もお洒落な格好をさせられていました。でも私は周りのみんなと同じように、パチンとはめる革靴ではなくて、つま先をトントンとして履くズック靴や、マンガのキャラクターが印刷してあるようなTシャツ、木登りしてもどこにも引っかからないようなTシャツが欲しかったのですが、どんなに頼んでも買ってはもらえませんでした。

お弁当箱もナプキンも、両方合わせも千円くらいで買えたでしょうが、母は頑として買ってはくれませんでした。お金がなくて買えないというのとは、まったく違った理由で私は欲しいものを買ってもらうことができませんでした。小さな頃から上等なものを持たされながらも、身の縮むような思い出ばかりが積み上がっていきました。

さて、肝心の中身の方ですが、こちらはなんとかなるだろうと思っていました。小学生の頃からお台所で適当にあれこれ作っていたので、玉子焼きをちょちょいと作り、あとはウインナーでも焼いて詰めれば良いと思っていました。ところが実際に始めてみると、問題はご飯でした。

私の育った家では朝食はトーストでしたから、朝ご飯を炊いて1人分のお弁当を作ると炊飯器の中にご飯が余ってしまいます。あの頃はまだご飯をラップでくるんでおいで、あとで電子レンジで温めるというような発想がなく、夕飯の時に炊飯器の中で冷たくなっているご飯を食べることになりました。あるいはお冷やご飯は別にとっておき、改めてご飯を炊くことになるのですが、そうするとお冷やご飯がどんどん溜まっていってしまいます。私がお弁当を持っていくと家族に迷惑がかかるという雰囲気がなんとなく形成されていきました。

周りの子のお弁当はおかずも充実していましたが、聞けば、少し多めに作っておいた前日の夕飯のおかずを入れているとのことでしたが、私の家には余った夕飯のおかずなどあったためしがありませんでした。
タグ: お弁当 母親

2017年11月10日

お弁当の思い出〜厚生係編

幼稚園、小学校、中学校と11年間続いた給食も、高校生になるとなくなりました。私の通っていた高校では各自お弁当を持参するか、朝のうちにクラスの厚生係にパンを注文することになっていました。

母にとってお弁当というのはなぜかハレの日感覚で、とても毎朝3時起きして作ることなどできないとのことでした。そこで私は毎朝母から数百円だか千円だかの現金をもらうことになりました。ぼんやりとした記憶では、学校までの往復のバス代とパン代で伊藤博文の肖像のついた千円札1枚だったように思います。

お昼は仲のいい子どうしで机を寄せ合って食べました。女子はほとんど全員お弁当でした。可愛いらしいナプキンに包んで持ってきている子が多く、お箸ではなくて当時はまだ「うさこちゃん」と呼ばれていたミッフィーの絵のついた子ども用のフォークを持ってきている子もいました。

お弁当の中身も可愛らしいものが多く、定番のそぼろ弁当にしても、卵とひき肉に茹でたさやいんげんを細かく刻んで3色にし、さらにプチトマトやカラフルなポテトサラダを添え、別容器にうさぎ耳のリンゴをいれているというようなものでした。

大人っぽくていつも斜に構えているような友人のお弁当もなかなかファンシーでした。彼女は「うちの母親は専業主婦で暇だから、こんなことくらいしかすることないのよ〜」などと照れ隠しなのか、やらせてあげているかのような言い方をしていました。

厚生係は、みんなからパン屋さんと呼ばれていました。実際に厚生係の仕事はパンの注文取りだけでした。パンを注文するのはもっぱら男子で、運動部の子は、お弁当を2個持ってきた上にパンを何個も買っていました。女子でパンを買う子は、大抵何かの理由がありました。おばあちゃんの具合が良くないのでお母さんが田舎に帰っているとか、リフォーム中でお台所が使えないとかです。

私は大抵毎朝2個か3個パンを買っていました。玉子を挟んだコッペパンが好きでした。その頃の私にとってパンを買うことなんて恥ずかしくも寂しくも何ともないことでした。けれども今、こうして思い出しながら書いていると、そういう風に記憶されているということは、母親にお弁当を作ってもらえない自分のことを、多少なりとも恥ずかしく寂しいことだと感じていたのでしょう。

当時の私にとっては、寂しいなどということよりも、みんなのお母さんが毎日できるようなことを、なぜ自分の母だけできないのか、そちらの方が不思議でした。母のヘンテコリンの完璧主義のせいなのか、あるいは家事能力の低さなのかわかりませんが、そもそも母の中には、手作りのものはおいしい、だから子どもには手作りのものを食べさせたいという思い、というよりそのような概念そのものがなかったように思います。

2017年11月08日

お弁当の思い出〜遠足編

今日も簡単な野菜だけのお弁当を持って行きました。プチトマト、ブロッコリー、キャベツの塩昆布和え、パプリカの酢漬け、茹でほうれん草をタッパーに詰めただけですが野菜不足解消には役立ちます。

子どもの頃、幼稚園も小学校も中学校も給食でした。幼稚園選択のポイントは給食だったと母が話しているのを覚えています。子どもは変なことを覚えています。ですから子どもの頃のお弁当の記憶というのは、遠足とか運動会のようなハレの日のことです。

遠足のバスの中でバスガイドさんに「おにぎりいくつ持ってきましたか?」と質問されるのが子どもの私はイヤでした。1個の人はまずいなくて、「2個の人」と聞くとクラスの半分くらいの子どもが「ハーイ、ハーイ」と競って手を挙げます。「3個の人」の時も残り半分くらいがまた「ハーイ、ハーイ」と手を挙げます。4個となると2人か3人に激減し、周りの子ども達に「わ〜、〇〇君、大喰らい〜」などと囃し立てられます。そのやりとりを見ながら「さすがに5個の人はいませんね」というと笑いが起こって次の話題に移っていきました。

私は一度も手を挙げたことがありません。なぜなら母が持たせてくれたおにぎりの数は6個だったからです。私のお弁当箱には、友人達の半分くらいの小さなおにぎりが、海苔や胡麻やたらこや鰹節などで色とりどりの可愛いらしい姿で並んでいました。おかずも手の込んだものがたくさん詰められていました。ウズラの卵には黒胡麻と食紅で顔が描かれていました。

そして、さらに私はもうひとつの包みも持っていました。それにはサンドイッチがぎっしり詰められていました。玉子やハムやチーズや野菜などの、こちらも色とりどりの美しいものでした。

お弁当の時間、私は必死でした。とにかく時間内に全部平らげないといけなかったからです。母が朝3時から起きて懸命に作ったお弁当を残すことなんてできませんでした。

長じてからのある日、食事が喉につかえたことがあって、慌ててお茶で流し込みながら不思議と懐かしい想いにとらわれて、その理由を手繰り寄せるようにして探っていったら、子どもの頃毎年味わっていた「遠足の味」でした。

母はどうして小学生の子どもに、小さいとは言えおにぎりを6個と、半斤も食パンを使ったサンドイッチを持たせたのでしょうか。食べ切れると思っていたのでしょうか。今日、ひと言で言ってしまえば「過剰」でした。それでも子どもの私は母の気持ちを忖度して、期待に応えるのが精一杯でした。子どもの頃を思い出すと「一生懸命な母を評価してあげなくては」というおかしな保護者意識のようなものが常にあったように思います。

私は遠足がイヤでした。遠足の前日にはいつも「バスが谷底に落ちますように」と神様にお願いしていました。

2017年09月23日

野菜を食べる

1977-8年頃、カゴメの野菜ジュースに宣伝で、畑の真ん中にいる農作業の服装をしたお母さんが、都会に出て行った子どもに向かって「野菜をた〜んと摂らんと、だちかんぞ〜」と呼びかけるテレビコマーシャルが流れていたことがありました。色んなバージョンがあり、色んなお母さんがそれぞれの子どもに呼びかけていて、このセリフは流行語になりました。

初めてこのCMを見るまで、私は野菜を食べることの重要性についてまったく無知でした。あの頃私は高校生だったと思いますが、それまでの人生で野菜を食べるようにと言われたことは一度もなかったと思います。お米はお百姓さんが手間暇かけて作ってくれたものだから感謝して一粒も残さず食べましょうとか、おかずも牛乳も好き嫌いなく残さず食べましょうとは言われてきましたが、野菜に関して何か言われた記憶がありませんでした。せいぜいビタミンCが体にいい程度の情報があるだけでした。

あのCMが流れていた時だって、農家の家の子どもは野菜を食べろと言われるのだななどと、まったく人ごととして捉えていました。野菜、野菜と言われるようになったのは、逆説的ですがきっと、日本人全体の野菜摂取量が減ってきたからでしょう。農村から都市部に人口移動が進んだこと、高度成長期を経てそれまで高価だったタンパク質が手に入れ易くなったことで相対的に野菜摂取量が減ってきたこと、また欧米の食文化の流入で食生活が大きく変化したことなどで、野菜摂取を敢えて促さなくてはならない時代になってきたのでしょう。

長年野菜摂取に無頓着できました私も、成人してからは野菜摂取の呼びかけをしばしば耳にするようになり、そういえば「だちかんぞ」というCMもあったと思い出したりしました、

今、食生活を見直そうと、食品交換表片手に献立を考えると、推奨される1日に350gの野菜摂取というのは相当意識しないと実現できません。単純計算で1日350gとは毎食約120gになるわけですが、朝から両手いっぱいのキャベツの千切りでも食べない限り、到底350gには届きません。試行錯誤は続きますが、これからも野菜多目の献立作りの努力をしていこうと思います。
タグ: 野菜 食生活

2017年09月21日

お菓子事始め

初めて私がチョコレートを食べたのは、まだ物心がつくかどうかという小さな頃だったそうです。母によると、初めてチョコレートを口にした時「なんだこれは?」という表情をし、その瞬間からチョコレートの虜になったということでした。以来、言うことを聞かなかった時など「チョコレートをあげるから」と言うと、チョコレート欲しさにすぐに素直になる現金な子どもになりました。

そもそも私の母も生来のお菓子好きだったということでした。母は子どもの頃あまりにご飯を食べないので、祖父母が悩んだ挙句食卓にお菓子が置き「ご飯とおかずを全部食べ終えたらこのお菓子を食べてよし」と、まるで目前にニンジンをぶら下げられた馬のような状態で育てられたそうです。

そんな母が、チョコレートをチラつかせて私を育てたのもある意味当然のことかもしれません。

また母をそのように育てた祖父母からは、数ヶ月に一度くらいチョコレートやキャラメルやビスケットなどがギッシリと詰まった小包が送られて来ました。祖父母は日々の暮らしの中で、孫が喜びそうなお菓子を見つける度にこまめに買い貯めて、ある程度まとまると小包にして送ってくれていたのです。当時は宅配便などない時代でしたから、祖父母は面倒にも毎回小包に紐をかけ荷札を結わえ重い小包を郵便局まで運び送ってくれました。

甘いお菓子と祖父母の愛情は渾然一体となって私を幸せで包み込んでくれました。平仮名が書けるようになった頃には、一所懸命祖父母にお礼の葉書を書いたものでした。今でも小包を開けた時に色とりどりのお菓子がギッシリ並んだ様子が目に浮かびます。

私の育った家では、幼い頃から食事のあとには必ずお菓子タイムがありました。祖父母からのお菓子小包だけでなく、父も「おみや」という名のお土産をよく買って来てくれました。それは当時10円くらいで買えたミルキーやポップキャンディや和菓子のすあまなど安価な子ども用のお菓子でした。それでも私はとても楽しみにしていました。とにかく家には十分すぎる程お菓子がありました。

味覚がどのように決まるのか詳しいことはわかりませんが、生まれながらの好き嫌いというのはきっとあるだろうと思います。私の場合には、生まれつきのお菓子好きに加え、生育環境も益々私をお菓子好きに育てていきました。
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