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2017年07月30日

母の言葉

私の体型や体質は、母によく似ています。母が生まれた時、祖母はこの子は腕や足は太いのに胸が薄くお尻が大きい子だと思ったそうです。そのように母が私に繰り返し語りました。母も小さい頃虚弱体質で、毎朝熱を測って今日は学校に行けるかどうかを確かめていたそうです。母も走るのが遅く、まだ若い頃から横断歩道を走って渡るのが精一杯という状態でした。運動音痴は母から受け継いでいます。お転婆なところは父譲りです。

思春期の頃、母は私に「なんてお尻が大きくてみっともない子なんだろう」と言いました。

きっと母自身が祖母から言われ続けていた言葉なのだろうと思います。祖母は、柳腰というのでしょうか、ほっそりとした体つきで、着物姿の祖母の立ち姿は本当に美しいものでした。

高校生の頃、ジーパンが流行り始めました。女の子がジーンズをはき始めたのは1970年でした。私がクラスメートと同じようにジーパンをはくと、「あぁ、なんてみっともない!」と言われました。当時流行していたオーバーオールを着た時など、「そんな姿で近所を歩かないでちょうだい」とも言われました。母の言葉は、今でもずうっと耳の底でなり続けています。

母は、感情をぶちまけるようにそんな言葉を口にすることもありましたが、親身になって「本当にあなたの人生のために、もっと自分の体型を生かすファッションをしなさい。フレアスカートのようにお尻が目立たないような服を選んで着たらもっと素敵になるわよ」などとアドバイスしてくれることもありました。

いずれにしても、母は自分とよく似た娘の体型を、自己嫌悪のように嫌っていたのでした。
タグ: 肥満症

2017年07月29日

ダイエット人生の下地

週刊マーガレットや月刊リボンを語らずして子ども時代を語ることができないほど、マンガは夢中になって読んでいました。もちろん、主人公に自分を重ね合わせて読むのですが、あの頃のマンガに主人公に多かった設定は「チビで、目ばかり大きな、痩せっぽちの女の子」。しかも主人公はその容姿にコンプレックスを持っているのです。私には大いなる疑問でした。「デカくて、目の小さな、太っちょの女の子」なら、決して少女マンガの主人公にはなれなかったでしょう。

?@背が低い、?A目が大きい、?B痩せている、これは、白馬の王子と出逢うための三大必須条件として、当時の少女たちの潜在意識に刷り込まれていきました。もちろん私もそのひとりです。私は太ってはいませんでしたが、背が高くしっかりとした骨格でしたし、目だって大きくはありませんでした。

まだ幼いころから何年間か、私は近くのバレエ教室に通っていました。とてもバレエなどと呼べる代物ではなく、ただのお遊戯にすぎませんでしたが、私はその頃から、美しいもの、可憐なもの、愛らしいものが好きでした。トウシューズやチュチュ(レースのスカート)に限りない憧れを持っていました。大人になったらバレリーナかピアニストになりたいと思っていました。華奢な体に美しい衣裳を纏い、軽やかに舞ったり演奏する自分の姿を夢想していましたが、現実はそうではありませんでした。

5年生にって鼓笛隊に入ったらいきなり大太鼓担当に指名されました。もう半世紀近く前のことなのにとても傷いたことをよく覚えています。新入部員はみんなピアニカなのに、私だけ大きいから選ばれたことは明らかでした。決して悪意で指名されたのではないことはよくわかっていました。この中で誰が大太鼓にふさわしいかと問われれば、私でさえ自分自身を選んだと思います。今、初めて、長年心の奥深くにしまいこんでいた自分の気持ちを表しました。大役の大太鼓に選ばれて傷ついたなんて、誰にも言えませんでした。
タグ: 肥満症

2017年07月28日

運動音痴

子どもの頃から背も高く、いわゆる体格のいい子どもでしたが、私は運動が苦手でした。早く走ることも長距離を走ることもどちらも苦手でした。ドッヂボールのように瞬発力が必要なゲームも得意ではありませんでした。

その割におてんばで、木登りや鉄棒、ジャングルジムなどは大の得意でした。5年生と6年生の時は夏休みに学校のプールで真っ黒になるまで泳ぎました。高い所によじ登っているか、水の中にいるのが好きな子どもでした。外でみんなと遊んだり、お友だちとリカちゃん人形で遊んだりもしましたが、基本的には、図書館にいるのが大好きで、本ばかり読んでいました。

小さい頃は虚弱体質で、毎学期のように熱を出して寝込みました。小学校3年生の時は気管支炎で、4年生の時は肺炎で2年続けて運動会には出られませんでした。いまだに冷房の季節になると年中行事のように気管支炎をおこしています。

とにかく走ることが苦手で、校庭一周400mを同級生の倍の時間をかけてなんとか回りきるのがやっとでした。走り終えると喉に血の味がしました。2kmマラソンなどとんでもないことでした。一緒に歩こうねと約束した友人らの背中がどんどん小さくなるを見つめながら、片腹を押さえてひとり歩いていました。

長じてからもテニスもスキーもゴルフも、友人に誘われて体験はしましたが、私にはつらいばかりで何ひとつ興味を持てず、もう決してやるまいと思いました。

2017年07月27日

ダイエット人生の始まり

ティーンエイジャーの頃から、私は自分のことを太っていると思っていました。小学生の時には既に身長は162cmあり、体重は50kgくらいありました。幼稚園児の頃からクラスで一番大きい子どもでした。健康優良児に選ばれたこともあります。周りからは褒め言葉のように「大きい、大きい」と言われてましたが、大きいということはものすごくコンプレックスでした。「山椒は小粒でピリリと辛い」とか「うどの大木」という言葉を聞いただけで、まるで自分が責められているように感じたものでした。

自分で洋服を買うようになった頃、私の服のサイズは大体11号でした。身丈、袖丈、肩幅などは11号がちょうど合いました。でも、9号には可愛らしいピンクがあるのに、11号にはブルーしかないことがよくありました。売り切れではなくて、そもそも9号はピンク、11号はブルーしか製造されていないのです。男の子色のブルーの11号しか入らない私は女の子としては失格だと感じました。

仲の良い友人の中には、9号はゆるすぎて7号がぴったりだわという子も何人かいました。それは単に事実を述べているだけなのに、私は何だか自分の努力が足りないと責められているように感じていました。

体重が55?sを超えた頃、何がなんでも痩せて絶対に9号を、あわよくば7号を着られるようになりたいと思いました。食事を抜いてリンゴだけ食べてみたり、お菓子だけにしてみたり、あれこれやっては2kg落とし、3kgリバウンドさせたりしていました。

もしもあの頃の自分に声をかけることができたなら、私は次のように言って、両手でぎゅーっと抱きしめてあげたいと思います。
「165cmの身長ならば、一番健康でいられる体重は60kgなのよ。55kgの今のままで十分かわいらしいし、そのままが一番きれいよ。私はそんなあなたが大好きよ。本当に今のあなたは魅力的よ」(BMI = 1.65 x 1.65 x 22 = 59.895 ≒ 60)

けれどもどうしても自分を受け入れられなかった私は、それからも3kg落としては5kgリバウンド、5kg落としては7kgリバウンド、7kg落としては10kgリバウンド、10kg落としては15kgリバウンド……と、果てしなく続くウエイトサイクリングを繰り返す人生を送ることとなってしまいました。
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