2024年11月15日

動き出す前に身体のアイドリングを必ず行わなければ成らない

先月の10日辺りから、血圧が異常に上昇している。
毎日血中酸素濃度と体温、血圧を計測している。
血圧の高い日と低い日では、30以上の差が出る。
具体的には上が120辺りが普通なのだが、170を越える日もあるのだ。
だが、翌日には150になったりする。
とにかく、血圧が高くなっているのだ。
しかし、血圧が戻る原因も分かってきた。
お風呂に入って身体を温め、血管が広がると120台に戻るのだ。
最近、自転車では無く歩く様に心掛けている。
結果、脹脛が痛くなった。
つまり、脹脛の結構が悪くなっている可能性があるのだ。
足は第二の心臓と言うが、脹脛は正に心臓の役目を担う筋肉群だからだ。
筋肉を弛緩させることで血圧は下がると言うことになる。
運動不足の解消の為に歩くことは大切だ。
然し、歩いた後の身体のケアはもっと大切のようだ。
歩き出す前後のストレッチが健康を担保する保険なのかも知れない。
身体の声を聞き、動き出す前に身体のアイドリングを必ず行わなければ成らない。
もう、そんな年になったのだ。


預金封鎖の報道がされていたという投稿があった

昨日Twitter(X)で預金封鎖の報道がされていたという投稿があった。
こうした報道がメディアである場合、予告的な意味合いが強い。
Twitter(X)のAIGrokで預金封鎖について調べてみた。

**預金封鎖**(よきんふうさ)とは、政府や中央銀行が特定の条件のもとで、個々の預金口座にある資金の引き出しを制限する政策です。
主に以下の目的で行われることが多いです:
1. **インフレーション対策** - 過度な消費やインフレーションを抑えるために、一時的に預金の引き出しを制限し、貨幣の流通量を減らす。
2. **財政政策の一環** - 例えば、戦時中や経済危機の際に、国家の資金を確保するために行われることがあります。
3. **金融システムの安定** - 金融危機の際に、銀行の資金流出を防ぎ、銀行の破綻を避けるために用いられることがあります。
4. **税収確保** - 特定の時代や地域では、新しい通貨制度への移行や税金の徴収を容易にするために預金封鎖が行われることもありました。
預金封鎖が行われる背景には、通常、経済的な困難や国家の重大な危機が存在することが多く、その結果として人々の預金にアクセスする自由が制限されます。
この政策はしばしば国民の反発を招くため、実施に際しては慎重な検討と説明が必要です。具体的な例としては、第二次世界大戦後の日本や、1990年代のロシアでの事例が挙げられます。
各国の法律や経済状況によって、実施方法や影響は大きく異なります。

だそうだ。
現在の日本で預金封鎖を行う必要性は無いと思われる。
しかし、この数年で異常な増税政策が展開されている。
日本は資産では一京近くも保有している資産国家だ。
そもそも、増税どころか1000万円近くを赤ん坊含めた国民に給付しても問題は無い程の資産がある。
何故、自民党政府はこの様に増税政策を強行するのか?
政府は国民に何かを隠していると思う法が賢明だ。
先の岸田政権ではウクライナの債権保障国に勝手に署名している。
ロシアとウクライナの戦争の発端を知る人々は、ウクライナの非を知っている。
そして、NATO(北大西洋条約機構)の条約違反も知っている。
EUの破綻も予想がついていた。
更に、ウクライナとNATO(北大西洋条約機構)連合はロシアには勝てないことが判っている。
2022年の経済政策の失敗も未だに認めない西側諸国の大誤算は更に傷を広げている。
2024年の頭には、ロシアへの経済制裁が失敗して、戦争継続能力が削げない事実を確認している。
その後に日本の岸田は負けるウクライナの債権保障国になった。
ウクライナの敗戦は決定的なので、ロシアへの賠償・債権は日本にも大きくのしかかってくる。
それを判っていて、岸田は債権保障国になったのだ。
国家反逆と言っても差し支えのない行いだったのだ。
それを承認した国会議員も全員、国家反逆の罪に問われるべきだと思う。
そうした背景が国民への意味の無い増税や預金封鎖への前準備だとしたら、クーデターを起こしてでも、現政府と体制を倒すしかない。
そういったかなり危険な状態が今の日本なのだと、最近は思いはじめている。


2024年11月14日

石破内閣は全くやる気が無い

外務政務官に生稲晃子を起用。
外務政務官に英利アルファイヤを起用。
内閣政務官に今井絵理子を起用。
更にデジタル政務官に岸信千世を起用。
石破内閣は全くやる気が無い。
冗談抜きで、今月中にも内閣不信任案が出されるかも知れない布陣だ。
明らかに実務が出来ない様な人間を起用して何を考えて居るのか?
総てを完了に丸投げして、議員は名前貸しだけの様だ。
若しかしたら、今までもこうした人事だったのかも知れない。
そもそも、芸能人という客寄せパンダを起用することに何の意味があるのか?
どうも石破内閣は何かを隠している気がする。
そもそも、日本は債権国家では無く、資産国家だ。
増税する理由が全くない。
にもかかわらず、岸田内閣から4年間で異常な増税が行われてきた。
更に増税を企てる理由は何だろう?
預金封鎖を臭わせる報道が有ったとの投稿もあった。
自民党政府は何かを隠している。


2024年11月13日

二酸化炭素による温暖化の嘘

二酸化炭素による温暖化の嘘
世界中で二酸化炭素を減らそうと言う動きを示している。
しかし、専門家と言われる人たちは、誰もその節を信じては居ない。
確かに産業革命以降、二酸化炭素は弱冠だが増加した。
しかし、その増加量が温暖化ガスとして地球の温暖化を促進する量なのかはハッキリしていない。
否、そんなはずは無いとさえ考えている専門家が多いはずだ。
そもそも、気候の変化の原因は、海流の流れと気団の動きで決まるモノだ。
季節はどうやって変わるのか?
冬は極点に近い寒気という気団が降りてくるから寒くなり、冬という季節になる。
寒気という気団は海流にも影響を与える。
逆に海流が気団に影響を与える場合もある。
例えば台風だ。
暖かい海流が広がれば気団は温められ、地球の自転により台風は発生する。
地球は常に変化をしている。
今から2万年前は、最寒冷期にあたり、氷河が発達していたため、海水面は現在よりも100メートル以上も低かった。
1万年前は気温が上昇し始め、現在よりも海水面は20メートル以上も上昇し手痛そうだ。
その当時に人間の輩出する二酸化炭素の量など気候に影響を及ぼすことは無かっただろう。
地球に寄生する生き物の影響で地球環境を変化させるに事は不可能だとも思える。
「人類が経験した最大の気候変動、10万年周期の氷期-間氷期サイクルのメカニズムを解明」というサイトを見つけた。
10万年周期で地球には氷河期が来ているとのことだ。
また、各氷河期の炭酸ガス(二酸化炭素)の影響は無関係とも記載されていた。
以下がそのサイトのURL  https://www.nipr.ac.jp/info/notice/20130808.html
世界中の専門家はその事実を知っている。
しかし、世界中のメディアは報じない。
理由は簡単だ。
炭酸ガスビジネスにスポンサーが乗っかっているからだ。
間違った報道に踊らされる民衆。
金儲けの亡者の印象操作に世界は騙されている。


空手については、最も新しい武道・武術だ

空手については、最も新しい武道・武術だ。
沖縄に発祥するとある。
沖縄の空手は唐手という呼び名も有るらしい。
新しい武道・武術なので、書籍なども入手しやすいが、空手は戦後に雨後の竹の子のように流派を立ち上げ増殖した武道・武術でもある。
日本の本土に最初に入ってきた流派は松濤館流で、船越義珍という人が海軍などの体育教練で平安という型を考案して体力増強に貢献した。
先の大戦後に朝鮮人の大山倍達という人が顔面や休所以外には実際に当てる試合形式を考案し、オープントーナメントという興業を興して極真会という団体の普及に成功した。
大山倍達は自著の「空手を始める人のために」で”空手のプロフェッショナルがあってもよいし、”と空手をスポーツ化、の興業化を正当化している。
裏を返せば、大山倍達の空手に武道・武術の精神は無く、奥義も無い。
空手はお金を集める道具であると位置づけている様だ。
合気道の一部の団体を除き、武道・武術は興業化しており、武道・武術の本質である”生命のやり取りに備える事”とはかけ離れたスポーツに変貌している。
極真会などは、黎明期では漫画やアニメでの宣伝を行い、喧嘩空手などとまるで愚連隊のような事を言っていた。
空手の定義特にない。
素手で殴り合う格闘技で、空手だと言ってしまえば、空手になる。
そもそも、沖縄の空手の歴史は曖昧なのだ。
間違いなく大陸の武道・武術が起源であるのだが、沖縄人は手という武道・武術が沖縄には古よりあったと言い張る。
まるで韓国人がアニメのドラえもんを原作は韓国人が作ったと言う様なモノだ。
伝統空手というジャンルがある。
昭和の時代に普及された空手道だ。
伝統空手の特徴は寸止め組み手の試合を行うことにある。
また、型の試合も存在する。
正直、組テオ試合形式は審判の恣意的な感情と技量により勝敗が決まる。
型に於いては、正に恣意的な感情のみで勝敗が決まる。
そもそも、型は鍛錬法の一つで、型の演武で優劣が判る道理は無いのだ。
型は仮想した敵に対する鍛錬法だ。
仮想した敵に合わせて変化する。
一本調子の演武など、評価の価値も無い。
だが、興行的に型は舞踊として観られるのだから試合も成る立つのだろう。
何でもお金になれば良いのが現代の武道・武術の実体だ。


現代の武道・武術の実体

現代の武道・武術の実体
武道・武術の礼節が重んじられる理由。
旧来の武道・武術は一人稽古が一般的で、主に型や巻き藁、立木への打ち込みなどが主流だった様だ。
相対稽古では、常に相手を信頼し、また相手に信頼されることで稽古が続けられるのだ。
相対稽古などは基本的に殺し合いになる事が当たり前の事だった時代、武道・武術の礼節は、双方の信頼関係を示す儀式なのだ。
相対稽古の利点は一人稽古とは違い、変化する状況を経験できることだ。
しかし、何度も相対稽古をする事で、パターン化された技術は逆に弱点になる。
昭和に入り、あらゆる武道というモノが公開されているが、公開された武道・武術は実践では使い物にならない。
秘匿され、相対したとき、相手が死ぬときに観られるのが武術の奥義で在り、真髄なのだ。そうした武道・武術文化で培われた技術を継承する事は、基本的に無い。
一代限りの技術が本来の武術だ。
漫画などでの一子相伝とか、免許と称する巻物は、単に稽古をした人の名を連ねているだけだ。
巻物の中には哲学的な文言や医術的な工夫に考え方などを記したモノもある。
だが、今に伝わる型や技法は総て、口伝であり、最近になって体系化したように見せかけているが、どんな武術も継承したと思い込んでいる人間の思い込みにしか過ぎない。
宮本武蔵の五輪書は有名だが、書かれている事は、書いた武蔵にしか真髄は判らない。
柔道は嘉納治五郎という人が明治時代に創作した武道・武術だ。
元は柔術(起倒流・天神真楊流)だったが、相対稽古を工夫して逮捕術に応用して警察に取り入れられた。
そして警察が柔道の普及に協力する形で広まった。
10人倒せば黒帯という段位を得られるスポーツになっている。
現代の柔道は武道・武術では無く、ジャケットレスリングと言うべきモノだろう。
合気道は植芝盛平が剣術、槍術と柔術(起倒流・天神真楊流・大東流)を工夫して創作した武道・武術だ。
こちらも相対稽古を工夫して稽古をしているが、試合形式の大会などは無い。
しかし、会派に因っては試合形式の大会を開く愚かな行動に出る団体もあるようだ。
剣道は江戸時代の北辰一刀流の千葉秀作が竹刀という怪我の少ない仮装太刀と防具の開発で怪我をさせない叩き合いの剣術が起源である。
しかし、本当に実践で勝ち続けた剣豪は、こうした防具を着けた叩き合いの剣士では無く、一人稽古での鍛錬を積んだ剣士だったそうだ。


武道・武術と人格形成は全く関係ない

武道・武術と人格形成は全く関係ない。
Twitter(X)AIのGrokに因ると、
「人格形成とは、個人が生まれてから大人になるまでの間に、さまざまな経験を通じてその人の性格、価値観、行動パターン、感情表現などの人格を作り上げていくプロセスを指します。」
と言うことだ。
一般的に武道・武術による人格形成に期待する事は、
礼節を重んずる、
弱者への配慮、
正義感のある態度等、
周囲の者に都合の良いことを期待されている。
だが、現代の武道・武術での礼節は、ルーティーンであり、決して武道・武術本来の礼節の意味を理解していて行っている訳では無い。
そもそも、指導者達がそうした事を理解していない。
たんなる儀式なのだ。
では何故、武道・武術では礼節を重んずる事になったのか?
旧来の武道・武術は一人稽古が一般的で、相対稽古などは基本的に殺し合いになることが当たり前の事だった。
道場稽古などは基本的に大名のお留め流の武術であり、禮を重んじるのはそうした道場稽古から派生したと思われる。
武道・武術は生命のやり取りの稽古である。
常に相手を殺してしまうかも知れないという緊張感と、殺されないような仕組みを考えなければ成らなかった。
殺されないためには、双方の信頼を示さなければならない。
そうした考えの中で生まれた儀式・慣習が武道・武術に於ける礼節である。

次に、弱者への配慮だが、今の勝敗偏重の世の中で、そのう様な事を期待すること自体に無理がある。
武道・武術の精神とは、強くなることで生き延びる術を身につける事だ。
先ず一番に考えることは、自身の強化以外に無い。
他者や弱者などに関わっている暇など無い。
殆どの武道・武術は大会を開き、その成績結果で知名度を上げ、普及に努めている。
弱者は淘汰されるのが当たり前と言うのが実体なのだ。
当然、虐めなどは当たり前のように横行する。
但し、行為自体は虐めであっても、稽古であり修行という体裁で覆われてしまっているだけである。
武道の世界は修羅の道である事を考えれば判るはずだ。



最後に正義感のある態度だが、正義とは何かを勘違いしている人が多すぎる。
正義とは、個人にとって都合の良いことを指す。
つまり、自分にとって都合の良いことが正義なのだ。
正義というモノに共通認識など無い。
個々人が正しいと思えば、その本人にとってそれは正義なのだ。
最近の日とは殺人を絶対的な悪とと認識するように刷り込まれている。
しかし、それは平和な国の子供のような稚拙な考え方だ。
現実的に戦争を行っている国、例えばイスラエル。
イスラエルは建国思想からしてレイシズムやシオニズム、民族主義的な独善的思想で生まれてた国だ。
彼らはパレスチナに入植という形で侵攻し、今では原住民を虐殺するテロ集団になっている。
だが、イスラエルにとってはそれは正義なのだ。
これは極端な話しでは無く、個々の思想の在り方で、正義というモノの位置づけは全く異なると言うことだ。
話しを戻すと、正義感のある態度など、個人の気分、恣意的な問題で行動すると言うだけで、一般的な人格という周囲に都合の良い事など無いのだ。
正義は非との頭の数だけ存在する。
私はそう考えている。

武道と人格形成は全く関係ない。
改めてそう思った。



人核形成とは⇒Twitter(X)AIのGrokの返答:

このプロセスは以下の要素によって影響を受けることが一般的です:
1. **遺伝と生物学的要因** - 遺伝子や先天的な気質など、生物学的な特性が基盤となります。
2. **家庭環境** - 家族との関係、親の育て方、家族の文化や価値観などが非常に大きな影響を与えます。
3. **社会・文化的背景** - 学校、友人、メディア、社会全体の文化や規範など、社会的な環境が人格に影響を及ぼします。
4. **教育と学習** - 教育制度や学習経験が知識だけでなく、思考の仕方や価値観にも影響を与えます。
5. **個人的な経験** - 成功や失敗、トラウマ、旅行、自己啓発など、個人の体験が人格を形成します。
6. **ピアグループ** - 友人や同僚との交流、対人関係の経験。
7. **心理的発達段階** - エリクソンの心理社会的発達理論など、各発達段階での心理的な課題とその解決が人格形成に関連します。
人格形成は終生にわたって続くプロセスであり、特に幼少期から青年期にかけてが重要とされていますが、大人になってからも新たな経験や学びによって人格は変化し得ます。
このため、人格形成は静的なものではなく、動的なプロセスとして理解されます。


2024年11月12日

身体のアイドリング

身体のアイドリング
年を取ると、急に動き出すことが危険に感じることがある。
頭では動こうとしているのだが。手足や体幹、その他総てが準備が出来て居ないのだ。
手は頭から近いことも在り、またよく使うので問題なく使える。
しかし、足腰はそうは行かない。
超しも足も、手に比べると背骨を通して脳からの命令が届くまでの距離がある。
腰は足よりも近いので、意識はしていないが、手の次によく動かせるはずだ。
問題は足だ。
座って動かす場合は、そんなに苦も無く動かせる。
しかし、立つとなると話は別だ。
先ず、背骨から腰に指令が行き、足に動くようにと指令が行く。
そして足が動くと腰と背骨が倒れないようにバラスを取ろうとする。
足は立とうとするので、バランスが悪くなる。
脳は単に立ち上がるという命令だけなので、バランスの調整はできない。
つまり、年を取ると背骨から腰・足の動きをそれぞれのパーツが忘れているのだ。
いきなり立とうとしたり、座ろうとしたり、立っていても歩く方向を変えようとすると、脳の指令と手、背骨、腰、足の動きのバランスが取れなくなるのだ。
脳はかつての動作を期待して指令を出す。
背骨は脳の指令をそのまま足腰に伝える。
だが、背骨がそれぞれの動きの調整をする機能を忘れているから駄目なのだ。
だから、その機能を思い出させるために、準備運動が必要になる。
身体のアイドリングだ。
古い自動車もエンジンのアイドリングが必要な様に、使い込んだ身体もアイドリングをする事で、若い頃のような働きを続けることが出来るかも知れない。
背骨にかつての動きを思い出させてから、動くことを心掛けなければならない。


そもそも婚姻・結婚とは目的は何だ?

買い物の帰り道、結婚男女間の関係について考えてみた。
そもそも婚姻・結婚とは目的は何だ?
以前何かの書籍で読んだ気がする。
結婚は男女の間で行われる。
そして結婚の目的は嫡子を設けそしてそれを養育・育てあげる事。
それを結婚婚姻の目的としている。
現代のように男女または同性間の恋好きとか嫌いと言う感情は全く婚姻とは無関係である。
婚姻は地域社会の認証儀式で在り、個々人の感情は問題としない。
家の格付けで婚姻できる男女は家の格の釣り合いで決められる。
仲人は監視役で在り、若い番の面倒をみる役目が有ったようだ。
そもそも、こうした古の時代から脈々と続いてきた掟がなぜ破られるのか?
それは人権宣言と言う間違った思考感染が行われたからだ。



人権宣言は先の大戦の戦勝国である国々のサロンである国連と言う組織が、
実験として行ったと思われる。
人間から生まれた生き物は全て人間として認め生存する権利を与える。
こうした間違った思想を世界中に思考感染させた。
世界中の地域文化には成人という概念が有る。
人から生まれても、育つ環境で人成らざる者が出現したことが有るのだろう。
地域の社会に認められる人格と良識を備えなければ成人として認められないのだ。
人権宣言はそうした人間の根本思想を理解しておらず、間違った思想だと言える。
人権宣言が世界中に思考感染という形で広まった結果、人間は権利と言うものを主張するようになった。
何か自身に不都合な事象が有ると、権利という言葉で不利な問題を退けようとするのだ。
だが、権利はそれを担保する実力があって初めて権利となるモノだ。
屁理屈を言って、その屁理屈の根拠に人権という権利の主張をこじつけるのが現代人の権利の主張の特徴だ。
そして最近はSNS等で、訳も判らないにも関わらず、恣意的な感情や雰囲気、投稿者の印象操作で事の真偽も調べずに賛同する傾向が見られる。
そして、そうした恣意的な根拠も無い賛同者の数が力を持っているが如く、世論に影響を与えている。
権利はそれを担保する実力が伴わなければ意味は無い。
そうした原則を全て端折ってしまい、とにかく権利と言うものがあると思い込ませた。
統一国家(国連)の行った人権宣言は非常に悪質な思想感染実験であった。
人間は「自身にとって都合の良いことを信じ込みそして都合の悪い事は決して認めない」
そうした人間の特徴をついた思考感染なのだ。
人類はその歴史の中で多くの犠牲を払いながら「尊厳」と言う思想を築き上げた。
それは地球上のあらゆる地域で同じような価値観で育まれてきた思想だ。
その思想を覆すのが人権宣言と言う思考感染だ。
現代人が同性婚や夫婦別姓と言う諸問題の根源にあたる思想は、そうした事をしても良い権利があると思い込んでいるからだ。
再度言うが権利はそれを担保する実力がなければ意味がない。
「尊厳」とは、仏教で言う「苦諦」である。
つまり、生き物で在る以上、どうにもならないことを「苦諦」として受け入れると言うことだ。
同性婚や夫婦別姓と言う諸問題を自分都合で権利として推し進めると、行く先は苦しみと憎悪、後悔にしか辿り着かない。
そして、こうした異端の生き物は、存在を許される事も無く、レイシズムに取り憑かれた人々(レイシストやシオニスト、民族主義者など)により、殲滅される運命だろう。



投稿者は空手の指導者をしているらしい

先週、子供の空手の試合の動画がTwitter(X)に投稿されていた。
投稿者は空手の指導者をしているらしい。
フルコンタクト系の空手の試合で、拳が顔に当たったので、審判が止めを掛けたが、拳を当てた方の子供は、止めが掛かって後ろを向いている選手の後頭部に蹴り技を加えてしまった。
しかも、セコンドに居た指導者は止めが掛かっても「行け!」と叫んでいたらしい。
負傷した選手は、そのまま他入れ込んでおり、全く救護の人間が来ない。
主審と副審は負傷した選手を観ることも無く、何やら審議を始めている。
こうした一連の安全性を欠く子供の格闘技の試合の動画の投稿は、大炎上となった。
私も主審の行動に不信感を持ったコメントを投稿した。
この動画にはさらに、負傷した選手の親が相手に批判的な言葉を怒鳴り着けたとして、負傷した選手側が三ヶ月の大会出場停止の処分になったそうだ。
それが更に炎上の油を注いだ。
かなりのインプレッシュ件数での大炎上が二日ほど続いた。
そして、何故か投稿された動画は、削除されてしまっていた。
それから二日ほどして、同じ投稿者が負傷した選手の処分は無かったことを伝える投稿をした。
その投稿に、この大会の主催団体が記載されていた。
ネットで調べると、直ぐにその空手の協会名と、大会のルールブックが表示された。
ザットだがルールを読んでみると、この大会の安全対策は殆ど無く、怪我や事故は自己責任とされている。
正直、かなり問題のある空手の団体で有ることが判った。
また、別の投稿では、この傘下団体の指導者は入れ墨をしている人たちが多く、どうも普通の団体とは違う雰囲気の参加団体だったようだ。
こうした事実があらゆる人からTwitter(X)に投稿され、更に大炎上になった。
そして、また処分を免れたという投稿は削除されていた。
削除前に、大会の主催者を擁護するコメントも発していた。
また、組織的にこの大会主催者を擁護する投稿・返信が送られてきた。
その殆どが海外からのモノだった。
正直、気持ちの悪い空手の団体だと思った。
こうした一連の騒動を観て思ったのだが、最近は暴力団が道場と称して一般の人間に格闘技を教える様な稼ぎ方をしているのでは?と思ってしまった。
この大会に参加する団体の人間が暴力団かは判らない。
しかし、気質という気配の無い人間で有る事は感じられた。



不思議なことに、こうした武道とか格闘技は平和な時代に流行るモノだ。
戦争になるとこの様な武道とか格闘技はなんの役にも立たないからだ。
2021年に行われた東京オリンピックの空手競技で優勝したウクライナの選手は、ロシア侵攻の戦いで戦死している。
銃弾の飛び交う洗浄で武道や格闘技など生き残る為の有利な条件にはならない。
逆に根拠の無い戦いへの自信が死を早めるかも知れないのだ。
洗浄とは、勇猛果敢な兵隊から死んで行く。
ドラマや映画のような華々しい撃ち合いなど皆無だ。
武道や格闘技は平和な時代だからこそ、成り立つと言っても過言では無い。
この平和な時代の日本で武道や格闘技で反社会勢力が幅を利かせ始めているのかも知れないと今、思った。
最近、反社会勢力の関係者は何処に隠れたのかと思っていたが、こうした武道や格闘技の世界で、子供を指導する立場で生活しているのかも知れない。
本当に困った社会になっているかも知れない。


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