この広告は30日以上更新がないブログに表示されております。
新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
広告
posted by fanblog
2016年01月06日
「なぜ年明けした感じがないのか?」の理由
どうも。
あけましておめでとうございます。
最近は、真面目に新たな小説の執筆に励んでいる、ともなりたかひろです。
なので、今日の記事は、真面目で、つまらない記事になるでしょう、きっと。
ところで、さっきの「あけましておめでとうございます」ではないですけれど、多くの人がたぶん、
なんか、年が変わった感じがしないんだよなぁ。。
という感慨にふけっていることと思います。かくいう僕も、その一人です。
というわけで、今日は、「なぜ年明けした感」がないのか、を考えてみましょう。
思うに、その理由は2つある、と踏んでいます。
一つは、簡単です。
以前、 世紀末のころは、1997年、1998年、1999年、と新たな年を迎えることに「カウントダウン感」(ワクワク感)があったからです。
でも、2001年以降は、ただ、2002年、2003年、そして2016年と、ただ一年が増えていくだけで、なにか「区切り」となる「イベント感」がなくなってしまったからです。
もう2つ目は、ちょっと難しいです。
そして、僕の推論に過ぎません。
結論を先に言いますと、やはり最近の「気候変動」が大きく関係している、と思います。
・・・例えば、そうですね、これを書いている現在2016年の1月5日の時点で、気温が15℃もあるんですよね。
15℃、ということは、これは別の季節である「春」でも成立する気温ですし、はたまた、先ごろ去って行った「秋」でも成立する気温でしょう。
ゆえに、この「新年」という「季節」が、「冬」なのか、「春」なのか、「秋」なのか、僕たちは分からなくなり、「一年」という「時間」に対するバイオリズムも狂ってしまうわけです。
以前はそんなことなく、例年どおり「四季」が巡っていたので、「ああ、今年も一年が終わるのかぁ」という感慨を持つことが出来ていたんです。
でも、今は先述の通り、「四季」が崩壊し、「季節感覚」がはっきりと区別できない日本になってしまいました。
こうなると、どういうことが起こるのか。
・・・皆さん、ちょっと、去年(2015年)に起こった出来事を思い出してみてください。
安保デモが過激に行われたなぁ。
あとは、マイナンバー制度が導入されたなぁ。
あ、あとはあれだ、そうそう、日本ラグビーだよね、やっぱり。うん。五郎丸ポーズ。
つい最近のことだから、忘れていたけど、やっぱりフランス同時多発テロだよなぁ。
——などなど、人によって違うでしょうが、様々に去年(2015年)に起きた「社会的事象」が思い出されたことでしょう。
し・か・し、です。
皆さん。
それらの「社会的事象」が、「体感」として、どの「季節」に起きたものなのか、即答することが出来ますか?
難しいでしょう。
そここそが「2015年」という「一年間」を「一年間らしく感じられない」問題を解くキーなんです。
安保デモが国会前で起こったのは「梅雨」〜「初夏」の「季節」でした。
そして今年の「夏」は酷暑で、残暑も厳しかったので、五郎丸選手がクローズアップされた「季節」も、本来の「秋」の出来事ではなく、「夏」の出来事だと、僕たちの「季節」に対するバイオリズムでは判断してしまうわけなんです。
もちろん例外はありますし、暴論だとも思いますが、正直、僕個人としては、「2015年」に起こった「社会的事象」のほとんどが「夏」だった、ぐらいに思っているんです。
「2015年」という「一年間」には「夏」という「季節」しかなかった。
と、言い切ってしまっても、腑に落ちてしまうぐらいに。
通常、寒い「冬」からほの温かい「春」が来て、次第に「梅雨」(初夏)に入り、やがて突き抜けるように暑い「夏」が来て、その後の「残暑」に耐えていると、やがて徐々に気温が下がり「秋」が来て、年末にかけてその寒さは増してゆき「冬」が来ます。
以前は、そういう日本の「四季」というルーティーン(習慣)に、僕たちの「一年間」に対するバイオリズムがぴったり合致していたので、「一年間」を「一年間らしい」と感じることが出来た。
が、今では「春」でも「初夏」ぐらいの気温の高い日も珍しくないですし、「梅雨」の時期もほとんど「真夏日」と言えるほど気温が高かったり、「冬」になっても対して寒くならず、「冬」という「季節」が「秋」でも「春」でも構わないような、異常な気候変動の中に僕らは暮らしているわけです。
これからさき、こういった異常な気候変動により、「四季」は崩壊し、ますます僕たちの「四季」に関するバイオリズムは狂っていき、結局、「まったく一年が終わったと感じられない」年越しを過ごすことになるでしょう。
・・・以上(異常)です。
おまけ。
異常気象の一つである「水害」を「予見」した天災小説『ひとつになるとき』→ http://tb.antiscroll.com/novels/jiga619/18203
あけましておめでとうございます。
最近は、真面目に新たな小説の執筆に励んでいる、ともなりたかひろです。
なので、今日の記事は、真面目で、つまらない記事になるでしょう、きっと。
ところで、さっきの「あけましておめでとうございます」ではないですけれど、多くの人がたぶん、
なんか、年が変わった感じがしないんだよなぁ。。
という感慨にふけっていることと思います。かくいう僕も、その一人です。
というわけで、今日は、「なぜ年明けした感」がないのか、を考えてみましょう。
思うに、その理由は2つある、と踏んでいます。
一つは、簡単です。
以前、 世紀末のころは、1997年、1998年、1999年、と新たな年を迎えることに「カウントダウン感」(ワクワク感)があったからです。
でも、2001年以降は、ただ、2002年、2003年、そして2016年と、ただ一年が増えていくだけで、なにか「区切り」となる「イベント感」がなくなってしまったからです。
もう2つ目は、ちょっと難しいです。
そして、僕の推論に過ぎません。
結論を先に言いますと、やはり最近の「気候変動」が大きく関係している、と思います。
・・・例えば、そうですね、これを書いている現在2016年の1月5日の時点で、気温が15℃もあるんですよね。
15℃、ということは、これは別の季節である「春」でも成立する気温ですし、はたまた、先ごろ去って行った「秋」でも成立する気温でしょう。
ゆえに、この「新年」という「季節」が、「冬」なのか、「春」なのか、「秋」なのか、僕たちは分からなくなり、「一年」という「時間」に対するバイオリズムも狂ってしまうわけです。
以前はそんなことなく、例年どおり「四季」が巡っていたので、「ああ、今年も一年が終わるのかぁ」という感慨を持つことが出来ていたんです。
でも、今は先述の通り、「四季」が崩壊し、「季節感覚」がはっきりと区別できない日本になってしまいました。
こうなると、どういうことが起こるのか。
・・・皆さん、ちょっと、去年(2015年)に起こった出来事を思い出してみてください。
安保デモが過激に行われたなぁ。
あとは、マイナンバー制度が導入されたなぁ。
あ、あとはあれだ、そうそう、日本ラグビーだよね、やっぱり。うん。五郎丸ポーズ。
つい最近のことだから、忘れていたけど、やっぱりフランス同時多発テロだよなぁ。
——などなど、人によって違うでしょうが、様々に去年(2015年)に起きた「社会的事象」が思い出されたことでしょう。
し・か・し、です。
皆さん。
それらの「社会的事象」が、「体感」として、どの「季節」に起きたものなのか、即答することが出来ますか?
難しいでしょう。
そここそが「2015年」という「一年間」を「一年間らしく感じられない」問題を解くキーなんです。
安保デモが国会前で起こったのは「梅雨」〜「初夏」の「季節」でした。
そして今年の「夏」は酷暑で、残暑も厳しかったので、五郎丸選手がクローズアップされた「季節」も、本来の「秋」の出来事ではなく、「夏」の出来事だと、僕たちの「季節」に対するバイオリズムでは判断してしまうわけなんです。
もちろん例外はありますし、暴論だとも思いますが、正直、僕個人としては、「2015年」に起こった「社会的事象」のほとんどが「夏」だった、ぐらいに思っているんです。
「2015年」という「一年間」には「夏」という「季節」しかなかった。
と、言い切ってしまっても、腑に落ちてしまうぐらいに。
通常、寒い「冬」からほの温かい「春」が来て、次第に「梅雨」(初夏)に入り、やがて突き抜けるように暑い「夏」が来て、その後の「残暑」に耐えていると、やがて徐々に気温が下がり「秋」が来て、年末にかけてその寒さは増してゆき「冬」が来ます。
以前は、そういう日本の「四季」というルーティーン(習慣)に、僕たちの「一年間」に対するバイオリズムがぴったり合致していたので、「一年間」を「一年間らしい」と感じることが出来た。
が、今では「春」でも「初夏」ぐらいの気温の高い日も珍しくないですし、「梅雨」の時期もほとんど「真夏日」と言えるほど気温が高かったり、「冬」になっても対して寒くならず、「冬」という「季節」が「秋」でも「春」でも構わないような、異常な気候変動の中に僕らは暮らしているわけです。
これからさき、こういった異常な気候変動により、「四季」は崩壊し、ますます僕たちの「四季」に関するバイオリズムは狂っていき、結局、「まったく一年が終わったと感じられない」年越しを過ごすことになるでしょう。
・・・以上(異常)です。
おまけ。
異常気象の一つである「水害」を「予見」した天災小説『ひとつになるとき』→ http://tb.antiscroll.com/novels/jiga619/18203
【このカテゴリーの最新記事】
- no image
2015年12月26日
『今年を漢字一文字で表すと』をプロデュース!〜「今年を漢字一文字で表すと」の「一文字」を「標識」にしてみたら?の巻〜
漫才「五郎丸ポーズ」
「どうも〜、今日はフォースが覚醒しております」
「(頭を叩いて)酒に酔ってるだけだろ!」
「酒じゃない。・・・酒とクスリだ」
「余計ダメじゃねーか! でも、大丈夫ですよ、お客さん、叶美香さんみたいにはなりません、こいつ、後でトイレで吐いてますよ」
「ずるいぞ!それ、俺のボケじゃねーかよ!」
「おめーのじゃねーよ!とにかく明るい安村のボケだよ!」
・・・・。
というわけで、今回は、
「 今年を漢字一字で現すと?」をプロデュース!
まぁ、客観的にいえば、変化の『 変』でしょうね。
undefined
undefined
?@ 国内情勢
?A 国外情勢
?B 一般市民の暮らしカルチャーも含め)
?C 自分自身の生活
この4つの領域において、良くも悪くも「 変化」した年だと思いますけどね。
まず?@の「 国内情勢」で言えば、安保理の可決や、マイナンバー制度の導入や、TPP参加の決定など、政治システムに「変化」が起こった年でした。
そして、「国外の状況」においては、もちろん、先のパリ同時多発テロの「変」(いや、昔の桜田門外の変みたいな言い方するなよ)があり、世界情勢が大幅に「変動」しました。
次に、「一般市民の暮らし」ですが、やはり?@の「国内の政治」の影響で、日本産の食べ物が高騰したり、政治への不満から「変化」を起こそうとするデモ集団が現れたり、あるいは、不安定な生活境遇からか、多くの拉致・殺人を起こす「変人」(逮捕者)が続出しました。
そして、「自分の暮らし」でいえば、—ーまぁ、いろいろ「変動」が多い一年でしたね。バイトしなくても食っていける収入源をゲットしたのでバイト暮らしを辞めましたし、あと、小説家としては『インディーズ文庫』さんと喧嘩別れしましたし、『小説・神聖かまってちゃん』を巡ってパーフェクト・ミュージックさんと「訴訟沙汰」になりかけたりもしました。まぁ、今となってはどうでもいい話ですし、皆さんも興味ないでしょうから、これ以上は言いませんけどね(←この決まり文句を流行らそうとしましたが、全く、でした)。
ところで、話は「変」わりますが、こういう 今年を漢字一文字で現すという遊びに、「標識」を導入してみたら面白いかも、とちょっと思いましたけどね。
例えば、『 壊』という一字を「 標識」にして、あらゆるシュチュエーションを考えてみる、わけです。
例えば、『ここで携帯は使用しないでください』という「標語」の隣に、『 壊』という「 標識」を置いてみる。
そうすると、携帯を使用していなくても、その人の携帯のワイヤレスネットワークが壊れる、というね。
そして、その相手との関係も「壊れる」というね。
・・・う〜ん、普通過ぎて面白くないですね。
あるいは、こんなのはどうでしょう。
コンビニ。
足元の「ここにお並び下さい」の「ライン」の前に、『 壊』という「 標識」を置いてみる。
そうすると、・・・並んでいた客が一歩レジへ前へ進もうとした途端、落とし穴が空き、どすんと落ちます。
そう。
今、youtubeの広告CMでよくみる 出川哲郎です。
あるいは、コンビニverならば、『 変』でもいいです。
足元の「ここにお並び下さい」の「ライン」の前に、『 変』という「 標識」を置いてみる。
そうすると、僕の前に並ぶ客が「変」になって、狂いだし、「コンビニのあの子」に向かって暴力を働かそうとするわけです。
そこで、すぐさま僕は、
「暴力はダメじゃないですか。・・・・・大丈夫ですか、店員さん」
と「コンビニのあの子」をかくまうことで、その娘とお近づきになれるチャンスが生まれるわけです。。。(以下、妄想2000文字)
まあ、最後のコンビニの例に関しては、僕のtwitterやfacebookをチェックしていないと分からない実体験のネタなので、もし知りたければ僕(ともなりたかひろ)のtwitterやfacebookを覗いてみて下さい。
とにかく!
工夫次第で、こういうイベントも面白くなる、ということが分かれば全員100点!
では、よいお年を。
2015年12月16日
2015年から見る『オトナ帝国の逆襲』論 あるいは 『オトナ帝国の逆襲』批判〜「名作」は「完璧に近いきれい事」に過ぎない〜
『オトナ帝国の逆襲』は名作だ、と言う人は多い。
彼らの思う「名作」というのは、「笑いあり涙あり」的な全ての要素を巧みな構成の中に包括しており、なおかつ、「“深い”普遍的なテーマ」を提示しており、鑑賞者にポジティブなバイブレーションを与える作品のことを指している。
そういう意味では、『オトナ帝国の逆襲』は確かに「名作」だろう。
だが、「完璧が完全じゃない」ように、「名作」も、商業映画という安心・安全なパッケージの中にすっぽり内包している時点で、「完璧に近い『きれい事』」であり、「真理追求」の立場から見れば、甘ったるい「たかが名作」に過ぎない。
僕は「作品自体」に文句があるのではない。
もちろん「起承転結」という「構造」自体がすでに「きれい事」だが、それが商業作品である以上、「起承転結」という「きれい事」の中にパッケージングするのは当たり前のことだからである。
僕はこの作品の持つ「テーマ性」に文句があるのだ。
『オトナ帝国の逆襲』が扱っているテーマを「普遍的」と評する人がいるが、2015年の日本の現実に照らし合わせると、なんら「普遍的」でないことが分かる。
少なくとも2015年の段階において、『オトナ帝国の逆襲』が提示した「テーマ」や「メッセージ」の方向へと日本は向かっていない。
まず、「他者から与えられた特別化(美化)された過去に浸ること」と、「ごく普通の一個人が努力して手に入れた平凡な暮らしの尊さ」の「対比構造」自体、まず「現代のメインテーマ」とはなりえない。
なぜなら、今の時代、あるいは、若い世代にとって、「普通の平凡な暮らしを送ること」自体がもはや「特別」(非凡)なことだからであり、「美化されるほどの過去」など「始めから存在しない」からである。
「普通の平凡な暮らしを送ること」自体がもはや「特別」(非凡)である、という点については、余り説明の必要はないように思われる。
社会に帰属することや就職難もさることながら、経済面、コミュニケーション面、様々な面から見て「結婚する」こと自体「平凡」(簡単)なことではなく、一個人として非常に「困難な事業」である。
次に「美化されるほどの過去」など「始めから存在しない」という点は、多少メディア論を通過しなければならない。
僕は、若い世代が、90年代のJ‐POP黄金期の曲を聴いて、「懐かしいなぁ」などと「感傷」を漏らすことに「欺瞞」を見出している者である。
なぜなら、実際は90年代の「記憶・思い出」は、「失われた記憶」ではなく、ただ単に「薄まった記憶」だからである。
未だ潜在的に存続している「薄まった経験」を「懐かしい」とは呼べない。
0’年代の特色は、むしろ90年代の「薄まった経験」を「失った経験」と積極的に呼べず、あるいは、「現状と過去」として「切り離すこと」が出来ず、「懐かしいなぁ」と心の底から「“言えない”居心地の悪さ」だけが陸続きで存在している、という点にある。
音楽でもゲームの世界でも、「ハード」(形式)は、3D化やら、カバーソングやら、サンプリング(引用)やら、スマホによる通信・配信やら、変化・進化はしたが、「ソフト」(内容)自体は、殆ど90年代の「リバイバル」(再利用)であって、なんら「新しい展開」などなかった。
しかし、メディアは「新しい“意味”」を絶えず提供しなければならない。
“意味”とは、「流行」であり、「スター」のことである。
現在のメディアがやっていることは、実際は何ら画期的でもない「流行」や「スター」を勝手に祭り上げ、「組織化」することで、新しい「“意味”っぽさ」を「捏造」し、「停滞している現状」を「派手に停滞している現状」として「先延ばし」しているだけである。
「ごまかしの“意味”」=「流行」「スター」も、「組織化」する(毎日放送したり、全国民が無知を装いそれを信じ込む)ことで、やがて「新たな“価値”」に見えてくる、というメディアのトリック。
話がだいぶ逸れてしまった。
とにかく「他者から与えられた特別化(美化)された過去に浸ること」と、「ごく普通の一個人が努力して手に入れた平凡な暮らしの尊さ」の「対比構造」は、全く「普遍的」ではなく、ある時代において「一般的」だった問題意識に過ぎない。
次に『オトナ帝国の逆襲』という映画に対して気にかかるのは、野原家の「未来志向」の動機付けである。
ひろしは、「自分の家族のため」に「未来志向」を選ぶ。「それの何が悪いんだ!」と反発してくる人が多数であろう。
確かにそれは、「健全」なのでしょう。
が、それと同時に、「自分の家族のため」という「美名」は、「他者のことを一切排除している」という意味で、健全でない側面が含まれていることは無視できない。
『オトナ帝国の逆襲』には、敵キャラと子供たちを除き、出てくる大人たちに「他者」がいない。「簡略化」され、みな「野原家」と「同一線上に存在するもの」と見なされている。
そんな「現実」こそ、存在しない。
別段、「家庭の幸福」のために生きていない大人もいて、つまり、「他者」がいて、はじめて「現実」である。
「家庭の幸福は諸悪の元」という言葉がある。
分かりやすく言えば、『今、あなたが自己中心的に手に入れた「家庭の幸福」の「せいで」、その裏で不幸になる人が出るかもしれないよ』という意味だ。
もっと突き詰めて言えば、『世の中、「救われる人」と「救われない人」がいて、「絶対に全員は救われない」』という真理だ。
ひろしの「未来志向」=「家庭の幸福」は、野原家という「一個人」の「家庭の幸福」という「未来」を保障するかもしれないが、日本の「社会全体」の「未来」を保障するとは限らない。
答えは簡単。
「家庭の幸福」だけが生きがいの人が「全員」ではないから。
仕事が生きがいの人もいれば、懐古趣味に引きこもるのが生きがいの人もいるから。そして、それらの人たちの多様な生き方は否定されるべきではない。
が、『オトナ帝国の逆襲』は、「多様な生き方」=「他者」を排除している。
つまり、『オトナ帝国の逆襲』において、「過去の感傷に浸らせてコントロールしようとすること」が「独善的」(自己中心的)であるのと同時に、「未来を志向し自己中心的に自分の幸福のために努力すること」もまた「独善的」(自己中心的)なのだ。
ベクトルが違うだけなので、野原家の言い分が「上位」なわけではない。また、独善的という側面から「完全に正しい」わけでもない。
しんちゃんの「未来志向」の動機は、「大人になりたい」からであり、なぜ「大人になりたいか」といえば、「みんなと一緒にいたい」からであり、「きれいなお姉さんとたくさんお付き合いしたい」からである。
「みんな」というのは「家族を含め自分の身近なコミュニティーに属する人々」のことで、「他者」は含まれていない。
こんな独善的な理由の子供が作る「未来」は「良い未来」なのだろうか?
僕は小説『ひとつになるとき』 http://tb.antiscroll.com/novels/jiga619/18203 において、野原家に代表されるような「家庭の幸福」を守
ることだけにしか眼中がなく、それ以外の「他者」には関心を持たない、「罪のない独善的な大人たち」を描いた。
あるいは、以下の音楽動画で。
3.11以降、あるいは、パリにおけるイスラム国によるテロの激化以降、以上のような「家庭の幸福」さえ死守すればよい、「他者」はどうでもよい、というような「罪のない独善的な大人たち」が増えた気がする。
そういう大人たちは、究極において、醜く、頼りにならない人間である。
地震が来たら真っ先に引っ越すタイプだ。
語弊は承知で言うが、『オトナ帝国の逆襲』にて、「大人になりたいから」と言ったしんちゃんが育って、「大人」になり、「家庭」を持ったとしたら、3.11以降に目立った、自分の「家庭の幸福」(身近なコミュニティー)に固執し、それ以外の「他者」には関心のない、「罪のない独善的な大人たち」になったことだろう。
映画 クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲 [DVD]
以上である。
最後に、余談だが、「人前で泣いた」ことを、恥も外聞もなく、口外するのが当たり前みたいになっている風潮は、気持ち悪い。
宇多丸さんが言っていた通り、「人前で泣く」ということは、「人前でヌく」(人前でオナニーしている)ということだ。
——その「恥」に気付かない「神経」、、、考えられない。
彼らの思う「名作」というのは、「笑いあり涙あり」的な全ての要素を巧みな構成の中に包括しており、なおかつ、「“深い”普遍的なテーマ」を提示しており、鑑賞者にポジティブなバイブレーションを与える作品のことを指している。
そういう意味では、『オトナ帝国の逆襲』は確かに「名作」だろう。
だが、「完璧が完全じゃない」ように、「名作」も、商業映画という安心・安全なパッケージの中にすっぽり内包している時点で、「完璧に近い『きれい事』」であり、「真理追求」の立場から見れば、甘ったるい「たかが名作」に過ぎない。
僕は「作品自体」に文句があるのではない。
もちろん「起承転結」という「構造」自体がすでに「きれい事」だが、それが商業作品である以上、「起承転結」という「きれい事」の中にパッケージングするのは当たり前のことだからである。
僕はこの作品の持つ「テーマ性」に文句があるのだ。
『オトナ帝国の逆襲』が扱っているテーマを「普遍的」と評する人がいるが、2015年の日本の現実に照らし合わせると、なんら「普遍的」でないことが分かる。
少なくとも2015年の段階において、『オトナ帝国の逆襲』が提示した「テーマ」や「メッセージ」の方向へと日本は向かっていない。
まず、「他者から与えられた特別化(美化)された過去に浸ること」と、「ごく普通の一個人が努力して手に入れた平凡な暮らしの尊さ」の「対比構造」自体、まず「現代のメインテーマ」とはなりえない。
なぜなら、今の時代、あるいは、若い世代にとって、「普通の平凡な暮らしを送ること」自体がもはや「特別」(非凡)なことだからであり、「美化されるほどの過去」など「始めから存在しない」からである。
「普通の平凡な暮らしを送ること」自体がもはや「特別」(非凡)である、という点については、余り説明の必要はないように思われる。
社会に帰属することや就職難もさることながら、経済面、コミュニケーション面、様々な面から見て「結婚する」こと自体「平凡」(簡単)なことではなく、一個人として非常に「困難な事業」である。
次に「美化されるほどの過去」など「始めから存在しない」という点は、多少メディア論を通過しなければならない。
僕は、若い世代が、90年代のJ‐POP黄金期の曲を聴いて、「懐かしいなぁ」などと「感傷」を漏らすことに「欺瞞」を見出している者である。
なぜなら、実際は90年代の「記憶・思い出」は、「失われた記憶」ではなく、ただ単に「薄まった記憶」だからである。
未だ潜在的に存続している「薄まった経験」を「懐かしい」とは呼べない。
0’年代の特色は、むしろ90年代の「薄まった経験」を「失った経験」と積極的に呼べず、あるいは、「現状と過去」として「切り離すこと」が出来ず、「懐かしいなぁ」と心の底から「“言えない”居心地の悪さ」だけが陸続きで存在している、という点にある。
音楽でもゲームの世界でも、「ハード」(形式)は、3D化やら、カバーソングやら、サンプリング(引用)やら、スマホによる通信・配信やら、変化・進化はしたが、「ソフト」(内容)自体は、殆ど90年代の「リバイバル」(再利用)であって、なんら「新しい展開」などなかった。
しかし、メディアは「新しい“意味”」を絶えず提供しなければならない。
“意味”とは、「流行」であり、「スター」のことである。
現在のメディアがやっていることは、実際は何ら画期的でもない「流行」や「スター」を勝手に祭り上げ、「組織化」することで、新しい「“意味”っぽさ」を「捏造」し、「停滞している現状」を「派手に停滞している現状」として「先延ばし」しているだけである。
「ごまかしの“意味”」=「流行」「スター」も、「組織化」する(毎日放送したり、全国民が無知を装いそれを信じ込む)ことで、やがて「新たな“価値”」に見えてくる、というメディアのトリック。
話がだいぶ逸れてしまった。
とにかく「他者から与えられた特別化(美化)された過去に浸ること」と、「ごく普通の一個人が努力して手に入れた平凡な暮らしの尊さ」の「対比構造」は、全く「普遍的」ではなく、ある時代において「一般的」だった問題意識に過ぎない。
次に『オトナ帝国の逆襲』という映画に対して気にかかるのは、野原家の「未来志向」の動機付けである。
ひろしは、「自分の家族のため」に「未来志向」を選ぶ。「それの何が悪いんだ!」と反発してくる人が多数であろう。
確かにそれは、「健全」なのでしょう。
が、それと同時に、「自分の家族のため」という「美名」は、「他者のことを一切排除している」という意味で、健全でない側面が含まれていることは無視できない。
『オトナ帝国の逆襲』には、敵キャラと子供たちを除き、出てくる大人たちに「他者」がいない。「簡略化」され、みな「野原家」と「同一線上に存在するもの」と見なされている。
そんな「現実」こそ、存在しない。
別段、「家庭の幸福」のために生きていない大人もいて、つまり、「他者」がいて、はじめて「現実」である。
「家庭の幸福は諸悪の元」という言葉がある。
分かりやすく言えば、『今、あなたが自己中心的に手に入れた「家庭の幸福」の「せいで」、その裏で不幸になる人が出るかもしれないよ』という意味だ。
もっと突き詰めて言えば、『世の中、「救われる人」と「救われない人」がいて、「絶対に全員は救われない」』という真理だ。
ひろしの「未来志向」=「家庭の幸福」は、野原家という「一個人」の「家庭の幸福」という「未来」を保障するかもしれないが、日本の「社会全体」の「未来」を保障するとは限らない。
答えは簡単。
「家庭の幸福」だけが生きがいの人が「全員」ではないから。
仕事が生きがいの人もいれば、懐古趣味に引きこもるのが生きがいの人もいるから。そして、それらの人たちの多様な生き方は否定されるべきではない。
が、『オトナ帝国の逆襲』は、「多様な生き方」=「他者」を排除している。
つまり、『オトナ帝国の逆襲』において、「過去の感傷に浸らせてコントロールしようとすること」が「独善的」(自己中心的)であるのと同時に、「未来を志向し自己中心的に自分の幸福のために努力すること」もまた「独善的」(自己中心的)なのだ。
ベクトルが違うだけなので、野原家の言い分が「上位」なわけではない。また、独善的という側面から「完全に正しい」わけでもない。
しんちゃんの「未来志向」の動機は、「大人になりたい」からであり、なぜ「大人になりたいか」といえば、「みんなと一緒にいたい」からであり、「きれいなお姉さんとたくさんお付き合いしたい」からである。
「みんな」というのは「家族を含め自分の身近なコミュニティーに属する人々」のことで、「他者」は含まれていない。
こんな独善的な理由の子供が作る「未来」は「良い未来」なのだろうか?
僕は小説『ひとつになるとき』 http://tb.antiscroll.com/novels/jiga619/18203 において、野原家に代表されるような「家庭の幸福」を守
ることだけにしか眼中がなく、それ以外の「他者」には関心を持たない、「罪のない独善的な大人たち」を描いた。
あるいは、以下の音楽動画で。
3.11以降、あるいは、パリにおけるイスラム国によるテロの激化以降、以上のような「家庭の幸福」さえ死守すればよい、「他者」はどうでもよい、というような「罪のない独善的な大人たち」が増えた気がする。
そういう大人たちは、究極において、醜く、頼りにならない人間である。
地震が来たら真っ先に引っ越すタイプだ。
語弊は承知で言うが、『オトナ帝国の逆襲』にて、「大人になりたいから」と言ったしんちゃんが育って、「大人」になり、「家庭」を持ったとしたら、3.11以降に目立った、自分の「家庭の幸福」(身近なコミュニティー)に固執し、それ以外の「他者」には関心のない、「罪のない独善的な大人たち」になったことだろう。
映画 クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲 [DVD]
以上である。
最後に、余談だが、「人前で泣いた」ことを、恥も外聞もなく、口外するのが当たり前みたいになっている風潮は、気持ち悪い。
宇多丸さんが言っていた通り、「人前で泣く」ということは、「人前でヌく」(人前でオナニーしている)ということだ。
——その「恥」に気付かない「神経」、、、考えられない。
2015年10月03日
福山雅治の「関係者」がその私生活を激白!〜「関係者」の定義〜
どうも。
福山雅治の「関係者」の一人です。
今日は2015年10月3日、ということで、今年も残すところ、3ヶ月となりましたね。
これを読んでいる「あなた」は、いかがお過ごしですか?
僕は9月の時点でですね、れいの「 エンブレム盗作問題」と、8月に起きた「 台風18号」を利用することで、以下の2つの小説を「 プチ・ブレイク」させることが出来ました。
・ 「盗作問題」が起こることを以前から「予見」したことで再評価 =小説『 太郎取扱説明書』(インディーズ文庫・無料立ち読み版あり)→ http://indiesbunko.com/index.php?IB_taro
・ 「台風18号」による被害とそれにまつわる人間模様を「予見」したことでサイト内読者数NO.1獲得 =小説『 ひとつになるとき』(縦書き文庫・完全無料)→ http://tb.antiscroll.com/novels/jiga619/18203
これで大体今年の仕事はやり終えたなぁ、と思ってですね、最近、秋にもなってきたし、紅葉を見にいこうよう、ということで、部屋で旅行支度をしていたらですね、もうすでに我が部屋が「紅葉」していることに気付いたんですよ。
なぜなら、 部屋の壁がまっ黄色に染まっていたんで。
・・・って、 それただのタバコのヤニだろーっ!!
ということで、お久しぶりです、最近は小説家でなく、漫談家のともなりたかひろです。
今日は、福山雅治さんの「関係者」とは、どこまでのことを指すのか、についての考察を書くつもりだったのですが、もうすでに動画にしてしまったので、以下の動画を見て頂ければ、その「答え」がわかるでしょう。
動画コント「福山雅治の関係者が激白!〜どこまでが「関係者」か?〜」
ほんと、上の動画のように、 福山さんの「関係者」でもないのに、無理にこじつけて「関係者」ぶって、このたびの「福山フィーバー」に便乗している人が多いですよね。
以上です。
あ、ついでに、短いですが、面白い漫談動画を置いておきます。
『漫談「モーフィング」(やかんの話×デモの話×国勢調査の話)』
福山雅治の「関係者」の一人です。
今日は2015年10月3日、ということで、今年も残すところ、3ヶ月となりましたね。
これを読んでいる「あなた」は、いかがお過ごしですか?
僕は9月の時点でですね、れいの「 エンブレム盗作問題」と、8月に起きた「 台風18号」を利用することで、以下の2つの小説を「 プチ・ブレイク」させることが出来ました。
・ 「盗作問題」が起こることを以前から「予見」したことで再評価 =小説『 太郎取扱説明書』(インディーズ文庫・無料立ち読み版あり)→ http://indiesbunko.com/index.php?IB_taro
・ 「台風18号」による被害とそれにまつわる人間模様を「予見」したことでサイト内読者数NO.1獲得 =小説『 ひとつになるとき』(縦書き文庫・完全無料)→ http://tb.antiscroll.com/novels/jiga619/18203
これで大体今年の仕事はやり終えたなぁ、と思ってですね、最近、秋にもなってきたし、紅葉を見にいこうよう、ということで、部屋で旅行支度をしていたらですね、もうすでに我が部屋が「紅葉」していることに気付いたんですよ。
なぜなら、 部屋の壁がまっ黄色に染まっていたんで。
・・・って、 それただのタバコのヤニだろーっ!!
ということで、お久しぶりです、最近は小説家でなく、漫談家のともなりたかひろです。
今日は、福山雅治さんの「関係者」とは、どこまでのことを指すのか、についての考察を書くつもりだったのですが、もうすでに動画にしてしまったので、以下の動画を見て頂ければ、その「答え」がわかるでしょう。
動画コント「福山雅治の関係者が激白!〜どこまでが「関係者」か?〜」
ほんと、上の動画のように、 福山さんの「関係者」でもないのに、無理にこじつけて「関係者」ぶって、このたびの「福山フィーバー」に便乗している人が多いですよね。
以上です。
あ、ついでに、短いですが、面白い漫談動画を置いておきます。
『漫談「モーフィング」(やかんの話×デモの話×国勢調査の話)』
2015年08月31日
「この平和がずっと続きますように」は欺瞞!の件(=ゆずが大嫌いだ!)
はい、どうも。
・・・先日、2ちゃんねるにおけるたった一つの発言で、『 物証乏しく大阪中1遺棄の山田容疑者は「殺人罪」に問えず?』のスレを発生させた、裏の火付け役の、小説家のともなりたかひろです(まぁ、「半分」は誇張ですけどね)。
ごほん。
いやぁ、それにしても、最近急に涼しくなりましたよねぇ。・・・とうとう「秋摂政」の到来かぁ、なんて思ってますけどね(いや、「冬将軍」みたいに言うなや)。
ところで、話は351度変りますけど(出た、中途半端な角度)、よくさ、「 この平和がずっと続きますように」なんて、言うじゃないですか。
でも、この発言に僕は違和感があるんですよね。
だって、僕たち日本人の「生活」自体を鑑みればさ、どこが「平和」やねん!状態(それは多くの“犯罪”という形で顕在化している)だし、むしろ毎日の「生活」自体が「戦争」だと思うから。
特に、若い子なんかは、それを痛切に感じているんじゃないですかね。
若い子にとってはまず「就職」自体が「戦争」。
数少ない自分の「椅子」を確保するために、他者と争うんだからね。
しかも、その「戦争」に負けたら、「自分の人生は終った…」と絶望し、自殺しちゃう子が一定多数いるという、この事実。
あとは、——なんでもいいですよ。
「恋愛」だって、「戦争」。
「結婚」だって、「戦争」。
「子供がもてるか」だって、「戦争」(特に女性の方にとってはそうでしょう)。
「孤独死しないか」(一生他者から承認されないで死ぬかもしれない不安)だって、「戦争」。
・・・みんな「戦争」ですよ、ある意味では。
で、話は冒頭に戻るんですけど、「 この平和がずっと続きますように」とか、「 もう二度と戦争は起こって欲しくない」とか、安易に発言する人、いるじゃないですか?
その、 外国との武力行使を伴った意味での「戦争」とか「平和」を持ち出すことによって、今国内で日夜行われている、もう一つの、僕たちの日々の生活自体の「戦争」を無意識的に「隠蔽」している「欺瞞」が、僕は気に食わないわけです。
ぶっちゃけて言ってしまえば、・・・うーん、「この平和がずっと続けばいい」とか、あるいは、「戦争反対!」と叫んでデモに参加されている方々には、「 ああ、そう。デモに参加できるほど“生活”に余裕があるんだネ」という 皮肉もあり、だと思う。
——だってさ、日日、手に汗して必死に働いている人たちにさ、「 日本の政治がどうたら」とかさ、「 世界情勢のなんたるか」なんか、語っている「余裕」なんか、ないじゃない。
だから逆に言えばさ、「 この平和がずっと続けて欲しい」 とかのたまっている人たちはさ、日々の「生活」という名の「戦争」の「勝利者」であって、つまり、収入も安定していて金銭の不安もなく、結婚もし、家もあり、子供もいて、まさにご自身の人生が「平和」だからこそ、「この平和がずっと続いて欲しい」なんて甘い戯言を言えるわけ じゃん。
その代表的なのが、天皇陛下だけどね。
あるいは、「ゆず」みたいな、安っぽいミュージシャンとか、24時間テレビに出てるジャニーズのアイドルとかさ。
これらの人たち、・・・全然「生活」に困ってないじゃん。
「良い暮らし」してんだから、そりゃ、「平和がずっと続きますように」って言えるよね、無神経にさ。
だから、これらの人たちが、どん底まで落ちて、金も底をついたときに、以前と同じ“笑顔”で「 この平和がずっと続きますように」と言えるか・どうか、だよね。
そこを考えてみれば、本当の意味での「戦争」や「平和」の「本質」がわかってくると思いますけどね、僕は。
以上です。
そう。
人間、全員が救われるわけでない。救われる人もいれば、救われない人もいる。
そんな不条理さに業を煮やしている、そこのあなたは、以下の曲をおすすめしますよ。
・・・この動画、山崎まさよしさんの名曲『One more time,one more chance』をバック・トラックにサンプリングしたポエトリーリーディング(詩の音楽的に朗読する)なんですが、先日、山崎まさよしさんがデビュー20周年ということで、僕もFacebookで山崎まさよしさん本人とコンタクト取ることができまして、で、そのとき、「山崎さんの曲を使ったポエトリーリディングの動画があるんですが、・・・できれば見てやってください!」とメッセージを送ったんですよ。
その後、山崎まさよしさんから、「視ましたよ。いい曲だと思いました」というメッセージを頂いたのです!
うれぴーっ!
というわけで、山崎まさよしさん「公認」かつ「推薦」の曲、『人はパンのみにて生くるにあらず』、じっくり聴いてくださいネ。
そんじゃ〜。
・・・先日、2ちゃんねるにおけるたった一つの発言で、『 物証乏しく大阪中1遺棄の山田容疑者は「殺人罪」に問えず?』のスレを発生させた、裏の火付け役の、小説家のともなりたかひろです(まぁ、「半分」は誇張ですけどね)。
ごほん。
いやぁ、それにしても、最近急に涼しくなりましたよねぇ。・・・とうとう「秋摂政」の到来かぁ、なんて思ってますけどね(いや、「冬将軍」みたいに言うなや)。
ところで、話は351度変りますけど(出た、中途半端な角度)、よくさ、「 この平和がずっと続きますように」なんて、言うじゃないですか。
でも、この発言に僕は違和感があるんですよね。
だって、僕たち日本人の「生活」自体を鑑みればさ、どこが「平和」やねん!状態(それは多くの“犯罪”という形で顕在化している)だし、むしろ毎日の「生活」自体が「戦争」だと思うから。
特に、若い子なんかは、それを痛切に感じているんじゃないですかね。
若い子にとってはまず「就職」自体が「戦争」。
数少ない自分の「椅子」を確保するために、他者と争うんだからね。
しかも、その「戦争」に負けたら、「自分の人生は終った…」と絶望し、自殺しちゃう子が一定多数いるという、この事実。
あとは、——なんでもいいですよ。
「恋愛」だって、「戦争」。
「結婚」だって、「戦争」。
「子供がもてるか」だって、「戦争」(特に女性の方にとってはそうでしょう)。
「孤独死しないか」(一生他者から承認されないで死ぬかもしれない不安)だって、「戦争」。
・・・みんな「戦争」ですよ、ある意味では。
で、話は冒頭に戻るんですけど、「 この平和がずっと続きますように」とか、「 もう二度と戦争は起こって欲しくない」とか、安易に発言する人、いるじゃないですか?
その、 外国との武力行使を伴った意味での「戦争」とか「平和」を持ち出すことによって、今国内で日夜行われている、もう一つの、僕たちの日々の生活自体の「戦争」を無意識的に「隠蔽」している「欺瞞」が、僕は気に食わないわけです。
ぶっちゃけて言ってしまえば、・・・うーん、「この平和がずっと続けばいい」とか、あるいは、「戦争反対!」と叫んでデモに参加されている方々には、「 ああ、そう。デモに参加できるほど“生活”に余裕があるんだネ」という 皮肉もあり、だと思う。
——だってさ、日日、手に汗して必死に働いている人たちにさ、「 日本の政治がどうたら」とかさ、「 世界情勢のなんたるか」なんか、語っている「余裕」なんか、ないじゃない。
だから逆に言えばさ、「 この平和がずっと続けて欲しい」 とかのたまっている人たちはさ、日々の「生活」という名の「戦争」の「勝利者」であって、つまり、収入も安定していて金銭の不安もなく、結婚もし、家もあり、子供もいて、まさにご自身の人生が「平和」だからこそ、「この平和がずっと続いて欲しい」なんて甘い戯言を言えるわけ じゃん。
その代表的なのが、天皇陛下だけどね。
あるいは、「ゆず」みたいな、安っぽいミュージシャンとか、24時間テレビに出てるジャニーズのアイドルとかさ。
これらの人たち、・・・全然「生活」に困ってないじゃん。
「良い暮らし」してんだから、そりゃ、「平和がずっと続きますように」って言えるよね、無神経にさ。
だから、これらの人たちが、どん底まで落ちて、金も底をついたときに、以前と同じ“笑顔”で「 この平和がずっと続きますように」と言えるか・どうか、だよね。
そこを考えてみれば、本当の意味での「戦争」や「平和」の「本質」がわかってくると思いますけどね、僕は。
以上です。
そう。
人間、全員が救われるわけでない。救われる人もいれば、救われない人もいる。
そんな不条理さに業を煮やしている、そこのあなたは、以下の曲をおすすめしますよ。
・・・この動画、山崎まさよしさんの名曲『One more time,one more chance』をバック・トラックにサンプリングしたポエトリーリーディング(詩の音楽的に朗読する)なんですが、先日、山崎まさよしさんがデビュー20周年ということで、僕もFacebookで山崎まさよしさん本人とコンタクト取ることができまして、で、そのとき、「山崎さんの曲を使ったポエトリーリディングの動画があるんですが、・・・できれば見てやってください!」とメッセージを送ったんですよ。
その後、山崎まさよしさんから、「視ましたよ。いい曲だと思いました」というメッセージを頂いたのです!
うれぴーっ!
というわけで、山崎まさよしさん「公認」かつ「推薦」の曲、『人はパンのみにて生くるにあらず』、じっくり聴いてくださいネ。
そんじゃ〜。
2015年08月21日
高槻少女殺害事件の「真相」
どうも。
・・・久々に、・・・ともなりたかひろが、——くるぅ〜!!
…ってことで、ザキヤマさん、結婚おめでとうございました。末永く、お幸せに。
というわけで、ニコニコ静画×『なかよし』コラボ企画マンガをなんとか書き終り、ほっとしている、ともなりたかひろです。
今回は、寝屋川市の殺人事件について、(連日のマンガ制作のせいで)疲れているので、軽く書いて寝たいと思います。
——僕の小説家としての勘ですけど、犯人の「目的」は、女の子の「殺害」もしくは「性的暴行」の方で、男の子の方は「不要要素」だったと思います。
だって、その他に「目的」が見当たらないもの。
そして、屋外・屋内で殺害した説はないと思う。
100%車内だと思う。
どうやって誘拐したか、まではわからないけど、女の子の家庭事情(ちょっと「親」や「家」に反発してたらしいじゃない)から言って、犯人の“ 自由な場所へ案内してあげるよ”的な甘い「口車」に乗って「車」にすんなり乗ってしまった、という推理は、まぁ理屈としては通るよね。
男の子が殺されているか・いないかは別としても、「遺棄」はしてない、と思うんだよね。
だって、 「遺棄」=「自分の逃走ルート」という「印」をつけることと同義だからね。
わざわざ「点」を「線」を繋げるようなバカな真似は、まぁ、この手の計画的犯行に及ぶ犯人の性格から言って、しないだろうな 、と。
つまり、男の子の方は、犯人にとって、 逃走の「時間稼ぎのコマ」ですよ、明らかに。
案の定、寝屋川の警察が、寝屋川市近辺の、河原の草っぱらなんかをえんらこらせっせと捜索している時点で、「あはは、バカだなぁ」と思ってますよ、犯人は。
まんまと逃走の「時間稼ぎ」の「罠」にかかってるわけだからね。
あと重要な点は、「現時点で寝屋川市警しか動いていない」ということじゃないすかね。
全国捜索じゃないじゃない、車で逃走してんのに。
近辺捜索にただでさえ少ない「人員」を割いてちゃ、車の検問の方は後手後手になる、——って話じゃないですか。
ていうか、事件発生から結構経っているのに、車種すら特定できてない時点で、「・・・」って話ですけどね。
肝心の犯人像ですけど、——専門家曰く、「土地勘」のある人——、それはそうなんでしょう、おそらく。
ただ、「顔見知り」ではないですね、確実に。
「身近な人」(ネット上も含む)は、まず真っ先に疑われるわけだから。
「身近でない人」でも、女の子がついていってしまう理由——それは前述の通りです。
しかし、話は142度変りますが(中途半端な角度〜)、寝屋川市の事件なんかを見ると、 現代の「家庭」の「ロールモデル」(見本)なんか成立しないんだな、とつくづく思いますね。
あまりに多様化しているから。
そりゃ、万人に共通するような「ホーム・ドラマ」なんか現代に成立するわけがないよね、って話ですよ、橋田壽賀子先生!
「親」というロール・モデル(見本)がわからなくなっている、というのは、ドラマはおろか、アニメ観てるだけでわかるでしょう。
例えば、『けいおん!』における「親」の「存在感」の希薄さがいい証左でしょう。
つまり、 どういう「親」が、「現代の親っぽい」のか、わからないんですよ、誰にも。
もちろん、 90歳で石頭の橋田壽賀子さんに見抜けるわけない、っていうね(笑)。
まぁ、そんな感じっす。
・・・あ、今日もアフィリエイトの広告貼りますけど、うん、いいです、別にクリックしなくて。
それでは、皆さん、自由にお過ごし下さい。
・・・久々に、・・・ともなりたかひろが、——くるぅ〜!!
…ってことで、ザキヤマさん、結婚おめでとうございました。末永く、お幸せに。
というわけで、ニコニコ静画×『なかよし』コラボ企画マンガをなんとか書き終り、ほっとしている、ともなりたかひろです。
今回は、寝屋川市の殺人事件について、(連日のマンガ制作のせいで)疲れているので、軽く書いて寝たいと思います。
——僕の小説家としての勘ですけど、犯人の「目的」は、女の子の「殺害」もしくは「性的暴行」の方で、男の子の方は「不要要素」だったと思います。
だって、その他に「目的」が見当たらないもの。
そして、屋外・屋内で殺害した説はないと思う。
100%車内だと思う。
どうやって誘拐したか、まではわからないけど、女の子の家庭事情(ちょっと「親」や「家」に反発してたらしいじゃない)から言って、犯人の“ 自由な場所へ案内してあげるよ”的な甘い「口車」に乗って「車」にすんなり乗ってしまった、という推理は、まぁ理屈としては通るよね。
男の子が殺されているか・いないかは別としても、「遺棄」はしてない、と思うんだよね。
だって、 「遺棄」=「自分の逃走ルート」という「印」をつけることと同義だからね。
わざわざ「点」を「線」を繋げるようなバカな真似は、まぁ、この手の計画的犯行に及ぶ犯人の性格から言って、しないだろうな 、と。
つまり、男の子の方は、犯人にとって、 逃走の「時間稼ぎのコマ」ですよ、明らかに。
案の定、寝屋川の警察が、寝屋川市近辺の、河原の草っぱらなんかをえんらこらせっせと捜索している時点で、「あはは、バカだなぁ」と思ってますよ、犯人は。
まんまと逃走の「時間稼ぎ」の「罠」にかかってるわけだからね。
あと重要な点は、「現時点で寝屋川市警しか動いていない」ということじゃないすかね。
全国捜索じゃないじゃない、車で逃走してんのに。
近辺捜索にただでさえ少ない「人員」を割いてちゃ、車の検問の方は後手後手になる、——って話じゃないですか。
ていうか、事件発生から結構経っているのに、車種すら特定できてない時点で、「・・・」って話ですけどね。
肝心の犯人像ですけど、——専門家曰く、「土地勘」のある人——、それはそうなんでしょう、おそらく。
ただ、「顔見知り」ではないですね、確実に。
「身近な人」(ネット上も含む)は、まず真っ先に疑われるわけだから。
「身近でない人」でも、女の子がついていってしまう理由——それは前述の通りです。
しかし、話は142度変りますが(中途半端な角度〜)、寝屋川市の事件なんかを見ると、 現代の「家庭」の「ロールモデル」(見本)なんか成立しないんだな、とつくづく思いますね。
あまりに多様化しているから。
そりゃ、万人に共通するような「ホーム・ドラマ」なんか現代に成立するわけがないよね、って話ですよ、橋田壽賀子先生!
「親」というロール・モデル(見本)がわからなくなっている、というのは、ドラマはおろか、アニメ観てるだけでわかるでしょう。
例えば、『けいおん!』における「親」の「存在感」の希薄さがいい証左でしょう。
つまり、 どういう「親」が、「現代の親っぽい」のか、わからないんですよ、誰にも。
もちろん、 90歳で石頭の橋田壽賀子さんに見抜けるわけない、っていうね(笑)。
まぁ、そんな感じっす。
・・・あ、今日もアフィリエイトの広告貼りますけど、うん、いいです、別にクリックしなくて。
それでは、皆さん、自由にお過ごし下さい。
2015年07月21日
広瀬すずは「性格」が悪い、のではなく、広瀬すずは「俗物」である、という件
どうも。
最近、僕の「 ある小説」が原因で、 パーフェクト・ミュージックという音楽会社と「 訴訟沙汰」になりそうな(本当のこと)、小説家のともなりたかひろです。
もし裁判で「執行猶予」がついたらウケるよね(笑)。
だって、 僕の人生自体が「執行猶予中」だからね 、普通に(笑)。
まァ、そんなときはさておきさ、僕はね、 広瀬すずさんに一言言いたくてここにはせ参じたわけなんですよ。
彼女、『食わず嫌い王』で、スタッフの方へ「職業差別」とも取れる発言したじゃないですか?
そんな、人の声を録音することだけの人生でいいの? 的なさ。
僕は彼女はまだ若いのだからそのくらいの失言は仕方がない、とかいう理由で許す気はなく、徹底的に批判したく思っている。
——あのね、 広瀬すずさんは、ご自身を「選ばれた人」だと思っているんだよね。
つまり、 「必然」として、今の自分の「人生」や「状況」がある、と思っていらっしゃる。
でもさ、と思うんだよね。
「一回性」の「人生」において、支配しているのは「 自分の力」ではなく(いや、俺は自分の力で人生を勝ち登ってきたぞ、という意見の方もいらっしゃるだろうが、それはこの後ちゃんと注釈しますから)、多くの「 見えない力」のせいだったり、「 なぜか物事が巧く運んだ」という「 偶然の堆積」だったりする、・・・つまりは、 多かれ少なかれ、「自分ではどうすることもできない大きな流れ」によって「一回性」の「人生」は形成されていくんだよ。
つまり、 たった一度きりの「人生」において獲得した「人生訓」が、100%正しい、とは思えないわけ、僕には。
少なくとも、世にいる 瀬戸内寂聴みたいな「人生訓」を垂れる人は、「真理」の半分しか分かっていない、ということにすら気付いていないことは確かだ。
それが、「人生の真理」の「全て」を知っているかのような顔で民衆に説いているのだから、いやになるのだ。
だってさ、考えてもみてくださいよ、 「もう一回人生やり直しね〜」ってなったらさ、「今回の人生」のような「立場」や「状況」を得られるか、って言ったら、ちょっと難しいと思わないかい?
ここだよね、ポイントは。
例えば、「 今回の人生」で「 社会的に成功」した人は、きっと「 信念を貫けば、人生は自分の力でどうにでも出来る」という「 人生の真理」を得るだろう。
しかし、反対に、「 今回の人生」で「 社会的に失敗」した人は、きっと「 信念があろうがなかろうが、関係ない。世の中には、自分ではどうすることもできない力が働いているのだ」という「 人生の真理」を得るだろう。
簡潔に言えば、 広瀬すずさんには、今はこういう「恵まれた人生」を生きているけれども、「私だって『もう一回人生やり直せ』ってなったら、もしかしたら音声さんとして一生地味に暮らしていたかもしれない」という、「可能世界」的視点が欠けているのである。
そして、この「可能世界」的視点が欠けていることの何が悪いのか、というと、——答えは単純、 世の「弱き人々」に対して「本当の優しさ」を持てない、ということなのだ。
「今俺は音楽で成功して暮らせていけてるけど、もう一回人生やり直しってなったら・・・夢破れて日の目も見ずに人生終ってたかもな」
こういう風に考えるだけで、——病床にいる子供にも、いじめで自殺してしまった小学生にも、就職で失敗してニートになってしまった青年にも、いい年こいて派遣やっている中年のおじちゃんにも、駅の立ち食い蕎麦屋で働いているおばちゃんにも、・・・少しは 「優しい」視点を持てるんじゃないの?・・・ってことさ。
そして、この「立脚点」(悟り)を得た人は、—— 他人に「人生訓」なんて絶対垂れないよ。
つまり、 本当に「賢い人」ほど、ただ黙って、かすかに笑っている「無力な人」なのですよ。
それはもう、皆さんご承知の通り、——「 この世はどうにもならない“偶然”が支配する“不条理”な世界で、救われる人もいれば、救われない人もいる」という「本当の真理」を知っているからですよ。
自分の「今回の人生」だって「たまたまそうなった」んだから、——無責任に、他人に向かって「こう生きれば幸せになれますよ」とか、言えないよ、そりゃ。
とまァ、これ以上話すと、それこそパーフェクト・ミュージックに「削除」された「ある小説」の内で扱ったキリストの話になっていきそうなので、もうやめますけど、とにかく僕は広瀬すずさんは「本当の優しさ」を知らない人だ、ということは確かだと思いますね。
・・・ていうか、関係ないけど、このブログ、全然、「アフィリエイト」になってないですよね・・・。
最近は商品すら紹介していないし。
「 結果にコミットする!」
「 全然出来てないやんけ!」
という漫才が成立するぐらいに、「アフィリエイト」になってない。
うん。
まァ、いいや。
一応、この記事の最後に、アフィリエイトの広告を貼っておきますね。
じゃ。
自由テキスト
最近、僕の「 ある小説」が原因で、 パーフェクト・ミュージックという音楽会社と「 訴訟沙汰」になりそうな(本当のこと)、小説家のともなりたかひろです。
もし裁判で「執行猶予」がついたらウケるよね(笑)。
だって、 僕の人生自体が「執行猶予中」だからね 、普通に(笑)。
まァ、そんなときはさておきさ、僕はね、 広瀬すずさんに一言言いたくてここにはせ参じたわけなんですよ。
彼女、『食わず嫌い王』で、スタッフの方へ「職業差別」とも取れる発言したじゃないですか?
そんな、人の声を録音することだけの人生でいいの? 的なさ。
僕は彼女はまだ若いのだからそのくらいの失言は仕方がない、とかいう理由で許す気はなく、徹底的に批判したく思っている。
——あのね、 広瀬すずさんは、ご自身を「選ばれた人」だと思っているんだよね。
つまり、 「必然」として、今の自分の「人生」や「状況」がある、と思っていらっしゃる。
でもさ、と思うんだよね。
「一回性」の「人生」において、支配しているのは「 自分の力」ではなく(いや、俺は自分の力で人生を勝ち登ってきたぞ、という意見の方もいらっしゃるだろうが、それはこの後ちゃんと注釈しますから)、多くの「 見えない力」のせいだったり、「 なぜか物事が巧く運んだ」という「 偶然の堆積」だったりする、・・・つまりは、 多かれ少なかれ、「自分ではどうすることもできない大きな流れ」によって「一回性」の「人生」は形成されていくんだよ。
つまり、 たった一度きりの「人生」において獲得した「人生訓」が、100%正しい、とは思えないわけ、僕には。
少なくとも、世にいる 瀬戸内寂聴みたいな「人生訓」を垂れる人は、「真理」の半分しか分かっていない、ということにすら気付いていないことは確かだ。
それが、「人生の真理」の「全て」を知っているかのような顔で民衆に説いているのだから、いやになるのだ。
だってさ、考えてもみてくださいよ、 「もう一回人生やり直しね〜」ってなったらさ、「今回の人生」のような「立場」や「状況」を得られるか、って言ったら、ちょっと難しいと思わないかい?
ここだよね、ポイントは。
例えば、「 今回の人生」で「 社会的に成功」した人は、きっと「 信念を貫けば、人生は自分の力でどうにでも出来る」という「 人生の真理」を得るだろう。
しかし、反対に、「 今回の人生」で「 社会的に失敗」した人は、きっと「 信念があろうがなかろうが、関係ない。世の中には、自分ではどうすることもできない力が働いているのだ」という「 人生の真理」を得るだろう。
簡潔に言えば、 広瀬すずさんには、今はこういう「恵まれた人生」を生きているけれども、「私だって『もう一回人生やり直せ』ってなったら、もしかしたら音声さんとして一生地味に暮らしていたかもしれない」という、「可能世界」的視点が欠けているのである。
そして、この「可能世界」的視点が欠けていることの何が悪いのか、というと、——答えは単純、 世の「弱き人々」に対して「本当の優しさ」を持てない、ということなのだ。
「今俺は音楽で成功して暮らせていけてるけど、もう一回人生やり直しってなったら・・・夢破れて日の目も見ずに人生終ってたかもな」
こういう風に考えるだけで、——病床にいる子供にも、いじめで自殺してしまった小学生にも、就職で失敗してニートになってしまった青年にも、いい年こいて派遣やっている中年のおじちゃんにも、駅の立ち食い蕎麦屋で働いているおばちゃんにも、・・・少しは 「優しい」視点を持てるんじゃないの?・・・ってことさ。
そして、この「立脚点」(悟り)を得た人は、—— 他人に「人生訓」なんて絶対垂れないよ。
つまり、 本当に「賢い人」ほど、ただ黙って、かすかに笑っている「無力な人」なのですよ。
それはもう、皆さんご承知の通り、——「 この世はどうにもならない“偶然”が支配する“不条理”な世界で、救われる人もいれば、救われない人もいる」という「本当の真理」を知っているからですよ。
自分の「今回の人生」だって「たまたまそうなった」んだから、——無責任に、他人に向かって「こう生きれば幸せになれますよ」とか、言えないよ、そりゃ。
とまァ、これ以上話すと、それこそパーフェクト・ミュージックに「削除」された「ある小説」の内で扱ったキリストの話になっていきそうなので、もうやめますけど、とにかく僕は広瀬すずさんは「本当の優しさ」を知らない人だ、ということは確かだと思いますね。
・・・ていうか、関係ないけど、このブログ、全然、「アフィリエイト」になってないですよね・・・。
最近は商品すら紹介していないし。
「 結果にコミットする!」
「 全然出来てないやんけ!」
という漫才が成立するぐらいに、「アフィリエイト」になってない。
うん。
まァ、いいや。
一応、この記事の最後に、アフィリエイトの広告を貼っておきますね。
じゃ。
自由テキスト
2015年07月11日
赤ちゃんってどうやってできるの? feat.岩手いじめ自殺問題について
どうも、お久しぶりです、これを読んでいる「貴方」。
最近、AmazonKindleから出版した『 小説・神聖かまってちゃん』が、契約違反(たぶん著作権違反&プライバシーの侵害)で、完全に消去され、永久にアカウントBANになり、「ちくしょう、せめて 過払い金だけでも払え」と思っている、小説家(詐欺師)のともなりたかひろです。
『小説・神聖かまってちゃん』(移植・無料で読める版)→ http://tb.antiscroll.com/novels/jiga619/18229
・・・すいません、どうしても「過払い金」というワードを使いたかったんです。
あともう一つ、謝らせてください。
タイトルと内容、あんま関係ないかもしれません。
でも、フリースタイルで書いていくうちに、関係していくかもしれません。
実は最近、Twitterを通じ、ある中学生から「相談」を受けまして、今日はそれに対する答えを提示しよう、と思うとるわけでございます。
というわけで、本日は「 子供相談をプロデュース!」(内P好きやな〜)
面倒くさいので、手っ取り早く言いますよ?
その「相談」は、「 いじめられてるんですけど、どうしたらいいですか」的なものでした。
あの、最近また、中学生のいじめによる自殺のニュースが報道されたじゃないですか?
あれについてね、コメンテーターとか、マス・メディアとかは、大抵、「 学校が悪い」とか、「 教育委員が悪い」みたいな方向の批判に走るじゃないですか。
僕、違うと思うんですよね。
問題はさ、つまりこういうことだと思いますよ。
『 学校が社会のすべてだと思ってしまったところに、当時の僕の不幸があった』(ブラスト「公論」より引用)
じゃないすか?
うん、これですよ。
学校なんて、別に「社会」の全てじゃないじゃないですか。
でも、自殺しちゃった子にとっては、「自分の世界」の全てだったんだよね。。
そこが、やっぱり、口惜しいよね。
大人になればさ、複数の「自分の居場所=社会」を、作れるわけじゃん?
例えば、会社で苛められてても、趣味のフットサルチームにいるときは幸福だったり、夜は気のいい仲間とクラブで酒飲んで踊りまくったり、まぁ、とにかく別の「社会」に「逃避」できるわけですよ。
あるいは、松山ケンイチじゃないけど、「別に皆に嫌われててもいい。だって、僕には僕を愛してくれる家族がいるから」みたいな考え方も持てるし。
でも、子供にはそういう「逃げ場」がないから、かわいそうだよね。
もう、 中学生にとってはさ、「中学校」しかないんだよ、「自分の世界=社会」が。
だから、自分の心の傷を隠してでも、息を殺してでも、毎日、学校へ通うしかないわけ。
で、そこで、イジメられて、「おまえはバカだ」とか、「おまえはクズだ」、みたいな人格否定を受けて、しかも、そこが「自分の世界」の全てだと思っているから、その人格否定の烙印を真に受けちゃうわけよ。
でもさ、考えてみると、中学時代にイケイケドンドンだった奴が必ずしも大人になって出世するとも限らないし、いや、むしろ、地味な子の方が出世してたり、「シャイ」だったヤツも社会にもまれれば必然的にその性格が解消されるだろうし、——とにかくまぁ、中学生のときの「性格」なんて、全然その後のアテにならないじゃん。
人間、いくらでも変れるんだからさ。
だから、中学生のときに受けた「自分の評価」なんて、気にすることないと思うよ。
・・・つっても、その時は、気にしちゃうに決まっているんだけどね、絶対。
まぁとにかくですよ、中学生たちに言いたいことは、—— 逃げちゃっていいと思うよ、嫌だったら、ってこと。
「学校」以外に、いくらでも「自分の居場所」なんてあるんだから。
常識・非常識/善人・悪人なんて関係ないよ、世の中。
色んな人がいて、色んなコミュニティーがあって、色んな稼ぎ方があって、色んな生活があって、・・・ そういう「メチャクチャ」なもんなんだよ、「世界」って。
なんか、作家の中島らもさんも言ってたけど、中学→高校→大学→就職みたいな「主流」から外れたら、すぐ絶望して「死のう・・・」みたいな固定観念はさ、ほんとは一部の人しか持ってないものなんだよ、って気付かせてあげなよ、周りの大人がさ。
企業する、ヤクザになる、ヒモになる、ニートになる、Youtuberになる、不正な生活保護で暮らす、性風俗にハマる、暴力にハマる、殺人者になる、アル中になって堕落する、ヤク中になって堕落する、出世するもよし、堕落するもよし、まぁ、なんでもいいけど、「なんでもアリ」な世界なんだよ、本来、「世の中」は。
この 「なんでもアリ感」が、本来の「常識」なんじゃん?
だから、あんまり「正しいか・正しくないか」とか、「常識的か・非常識的か」とか、考えない方がいいよ。
実際、世の中、そういう風にまわってないわけだから。
というわけでね、「相談」に答えてきたわけですけど、実はその中学生から、もう一つ、「相談」を受けてたんだよね。
それは、
『赤ちゃんはどうやってできるの?』
というものでした。
ずばり、お答えしましょう。
以下の動画が、その答えです。
いかがだったでしょうか?
ここで、また一つ、謝らせて下さい。
「とある中学生から相談を受けた」なんて、実は真っ赤な嘘なんです。
そんな事実、ありません。
全部、僕の創作です。
でも、いいんじゃないですか?
「なんでもアリ」な世の中なんだから。
・・・などと、おあとがよろしいようで。。
最近、AmazonKindleから出版した『 小説・神聖かまってちゃん』が、契約違反(たぶん著作権違反&プライバシーの侵害)で、完全に消去され、永久にアカウントBANになり、「ちくしょう、せめて 過払い金だけでも払え」と思っている、小説家(詐欺師)のともなりたかひろです。
『小説・神聖かまってちゃん』(移植・無料で読める版)→ http://tb.antiscroll.com/novels/jiga619/18229
・・・すいません、どうしても「過払い金」というワードを使いたかったんです。
あともう一つ、謝らせてください。
タイトルと内容、あんま関係ないかもしれません。
でも、フリースタイルで書いていくうちに、関係していくかもしれません。
実は最近、Twitterを通じ、ある中学生から「相談」を受けまして、今日はそれに対する答えを提示しよう、と思うとるわけでございます。
というわけで、本日は「 子供相談をプロデュース!」(内P好きやな〜)
面倒くさいので、手っ取り早く言いますよ?
その「相談」は、「 いじめられてるんですけど、どうしたらいいですか」的なものでした。
あの、最近また、中学生のいじめによる自殺のニュースが報道されたじゃないですか?
あれについてね、コメンテーターとか、マス・メディアとかは、大抵、「 学校が悪い」とか、「 教育委員が悪い」みたいな方向の批判に走るじゃないですか。
僕、違うと思うんですよね。
問題はさ、つまりこういうことだと思いますよ。
『 学校が社会のすべてだと思ってしまったところに、当時の僕の不幸があった』(ブラスト「公論」より引用)
じゃないすか?
うん、これですよ。
学校なんて、別に「社会」の全てじゃないじゃないですか。
でも、自殺しちゃった子にとっては、「自分の世界」の全てだったんだよね。。
そこが、やっぱり、口惜しいよね。
大人になればさ、複数の「自分の居場所=社会」を、作れるわけじゃん?
例えば、会社で苛められてても、趣味のフットサルチームにいるときは幸福だったり、夜は気のいい仲間とクラブで酒飲んで踊りまくったり、まぁ、とにかく別の「社会」に「逃避」できるわけですよ。
あるいは、松山ケンイチじゃないけど、「別に皆に嫌われててもいい。だって、僕には僕を愛してくれる家族がいるから」みたいな考え方も持てるし。
でも、子供にはそういう「逃げ場」がないから、かわいそうだよね。
もう、 中学生にとってはさ、「中学校」しかないんだよ、「自分の世界=社会」が。
だから、自分の心の傷を隠してでも、息を殺してでも、毎日、学校へ通うしかないわけ。
で、そこで、イジメられて、「おまえはバカだ」とか、「おまえはクズだ」、みたいな人格否定を受けて、しかも、そこが「自分の世界」の全てだと思っているから、その人格否定の烙印を真に受けちゃうわけよ。
でもさ、考えてみると、中学時代にイケイケドンドンだった奴が必ずしも大人になって出世するとも限らないし、いや、むしろ、地味な子の方が出世してたり、「シャイ」だったヤツも社会にもまれれば必然的にその性格が解消されるだろうし、——とにかくまぁ、中学生のときの「性格」なんて、全然その後のアテにならないじゃん。
人間、いくらでも変れるんだからさ。
だから、中学生のときに受けた「自分の評価」なんて、気にすることないと思うよ。
・・・つっても、その時は、気にしちゃうに決まっているんだけどね、絶対。
まぁとにかくですよ、中学生たちに言いたいことは、—— 逃げちゃっていいと思うよ、嫌だったら、ってこと。
「学校」以外に、いくらでも「自分の居場所」なんてあるんだから。
常識・非常識/善人・悪人なんて関係ないよ、世の中。
色んな人がいて、色んなコミュニティーがあって、色んな稼ぎ方があって、色んな生活があって、・・・ そういう「メチャクチャ」なもんなんだよ、「世界」って。
なんか、作家の中島らもさんも言ってたけど、中学→高校→大学→就職みたいな「主流」から外れたら、すぐ絶望して「死のう・・・」みたいな固定観念はさ、ほんとは一部の人しか持ってないものなんだよ、って気付かせてあげなよ、周りの大人がさ。
企業する、ヤクザになる、ヒモになる、ニートになる、Youtuberになる、不正な生活保護で暮らす、性風俗にハマる、暴力にハマる、殺人者になる、アル中になって堕落する、ヤク中になって堕落する、出世するもよし、堕落するもよし、まぁ、なんでもいいけど、「なんでもアリ」な世界なんだよ、本来、「世の中」は。
この 「なんでもアリ感」が、本来の「常識」なんじゃん?
だから、あんまり「正しいか・正しくないか」とか、「常識的か・非常識的か」とか、考えない方がいいよ。
実際、世の中、そういう風にまわってないわけだから。
というわけでね、「相談」に答えてきたわけですけど、実はその中学生から、もう一つ、「相談」を受けてたんだよね。
それは、
『赤ちゃんはどうやってできるの?』
というものでした。
ずばり、お答えしましょう。
以下の動画が、その答えです。
いかがだったでしょうか?
ここで、また一つ、謝らせて下さい。
「とある中学生から相談を受けた」なんて、実は真っ赤な嘘なんです。
そんな事実、ありません。
全部、僕の創作です。
でも、いいんじゃないですか?
「なんでもアリ」な世の中なんだから。
・・・などと、おあとがよろしいようで。。
2015年06月30日
新しい自殺の方法
どうも、お久しぶりです。
やっぱり文章上のアフィリエイトは無理かな、と思い、地味にYoutubeに進出しつつある、小説家のともなりたかひろです。
いやぁ、今日は、れいの東海道新幹線の焼身自殺の事件一色でしたね。
僕もまた、「自殺」に関しても、人並みに意見を持っているので、少し語ってみたい、と思っています。
梅雨でかったるいので、結論を早く言いましょう。
僕は、 「安楽死」あるいは「安楽死」施設を合法化し、「自殺」というものを正しく管理するべきである、と考えている。
そして、そのアイデアを僕は以前漫画『レベルE』(冨樫義博)を下敷きに一個の短編小説にしたことがある。
『 レベルE—remix—』 http://ch.nicovideo.jp/jigafromjiga/blomaga/ar218214
考えてもみて欲しい。
他人に迷惑をかける不合理な自殺 。
一方、
他人に迷惑をかけることなく、管理された環境下での合理的な自殺 。
どちらが賢いだろうか?
日本では、一年に3万人もの自殺者が出ている。
その人たちが「他人に迷惑をかける自殺」をする前に、安楽死施設へ行かせれば、自分が一番好きな音楽や人などに囲まれ、一番安らかに死ぬことが出来るのだ。
勿論、他人に迷惑をかけることなく。
さらに、重要なことは、そのような 安楽死施設を設立すれば、日本の経済は回復するであろう、ということだ。
少なくとも、本来不要な生活保障費を大幅に削減できることは確かである。
こんなにも合理的であるシステムを政府はなぜ「合法化」しないのか?
勿論、その理由はわかっていますよ、僕にだって。
「生命倫理」の問題ですよね?
従来の「生命倫理」から言えば、「 そんな人の命を《商品》にしてはならない!」「 人の命の重さをもっと考えろ!」という答えが返ってくるのであろうが、むしろ僕は「生命倫理」について深刻に考えていないのはあなた方の方なのではないですか、と言いたい。
僕から言わせれば、 しっかり「自殺」を管理した方が、はるかに命を大事にしていると思うのだが、どうなのでしょうかね?
まぁ、ともかく、日本という国で安楽死が合法化することは、21世紀における一つの「革命」であることは、間違いない。
いずれ、そんなシステムが出来る日がくるのか、こないのか。
それはわからないけれども、とにかく、焼身自殺の「 火」は、「 水」で消さなければならないね(急に宣伝モードかい)。
僕の最新の小説(無料)『 ひとつになるとき』内の降り止まない 雨水で。
『 ひとつになるとき』(縦書き文庫) http://tb.antiscroll.com/novels/jiga619/18203
これから焼身自殺をしよう、と思っている諸君、それを実行に移す前に、上記の『ひとつになるとき』をちらと読み、心の「炎」を消して頂きたい。
そして、この記事の下部に設置してある旅行サービスを利用し、一度、旅行でもして、頭を空っぽにするがいい(もう、宣伝も投げやり)。
それでも、生きていたら、また他日。
・・・ていうか、この記事のカテゴリ【芸能】か??
やっぱり文章上のアフィリエイトは無理かな、と思い、地味にYoutubeに進出しつつある、小説家のともなりたかひろです。
いやぁ、今日は、れいの東海道新幹線の焼身自殺の事件一色でしたね。
僕もまた、「自殺」に関しても、人並みに意見を持っているので、少し語ってみたい、と思っています。
梅雨でかったるいので、結論を早く言いましょう。
僕は、 「安楽死」あるいは「安楽死」施設を合法化し、「自殺」というものを正しく管理するべきである、と考えている。
そして、そのアイデアを僕は以前漫画『レベルE』(冨樫義博)を下敷きに一個の短編小説にしたことがある。
『 レベルE—remix—』 http://ch.nicovideo.jp/jigafromjiga/blomaga/ar218214
考えてもみて欲しい。
他人に迷惑をかける不合理な自殺 。
一方、
他人に迷惑をかけることなく、管理された環境下での合理的な自殺 。
どちらが賢いだろうか?
日本では、一年に3万人もの自殺者が出ている。
その人たちが「他人に迷惑をかける自殺」をする前に、安楽死施設へ行かせれば、自分が一番好きな音楽や人などに囲まれ、一番安らかに死ぬことが出来るのだ。
勿論、他人に迷惑をかけることなく。
さらに、重要なことは、そのような 安楽死施設を設立すれば、日本の経済は回復するであろう、ということだ。
少なくとも、本来不要な生活保障費を大幅に削減できることは確かである。
こんなにも合理的であるシステムを政府はなぜ「合法化」しないのか?
勿論、その理由はわかっていますよ、僕にだって。
「生命倫理」の問題ですよね?
従来の「生命倫理」から言えば、「 そんな人の命を《商品》にしてはならない!」「 人の命の重さをもっと考えろ!」という答えが返ってくるのであろうが、むしろ僕は「生命倫理」について深刻に考えていないのはあなた方の方なのではないですか、と言いたい。
僕から言わせれば、 しっかり「自殺」を管理した方が、はるかに命を大事にしていると思うのだが、どうなのでしょうかね?
まぁ、ともかく、日本という国で安楽死が合法化することは、21世紀における一つの「革命」であることは、間違いない。
いずれ、そんなシステムが出来る日がくるのか、こないのか。
それはわからないけれども、とにかく、焼身自殺の「 火」は、「 水」で消さなければならないね(急に宣伝モードかい)。
僕の最新の小説(無料)『 ひとつになるとき』内の降り止まない 雨水で。
『 ひとつになるとき』(縦書き文庫) http://tb.antiscroll.com/novels/jiga619/18203
これから焼身自殺をしよう、と思っている諸君、それを実行に移す前に、上記の『ひとつになるとき』をちらと読み、心の「炎」を消して頂きたい。
そして、この記事の下部に設置してある旅行サービスを利用し、一度、旅行でもして、頭を空っぽにするがいい(もう、宣伝も投げやり)。
それでも、生きていたら、また他日。
・・・ていうか、この記事のカテゴリ【芸能】か??
2015年06月11日
堂本剛の現在——最新の『ぼくの靴音』——
どうも、こんばんわ。
小学生の頃、一番好きだったドラマ『金田一少年の事件簿』の堂本くんのもみあげに憧れて、一時期もみあげを伸ばす=ファッショナブルと思っていた、小説家のともなりたかひろです。
ええ、本日は、堂本剛ファンの方々のご機嫌を伺いに参りました。
というわけで、今回は、
アイドル堂本剛という男をプロデュース!
…というね。(?)
今となっては、堂本剛というアイドルは、個性的なファッションをし、音楽もやり、俳優もやり、お笑いもやる、「個性的なアイドル」と見られているようですが、当時の僕としては、 堂本剛というアイドルは、「アイドル界で初めて心の闇をさらけ出した唯一のアイドル」として興味を持っていました。
それまでの男性アイドル史の中で、「心の闇をさらけ出した男性アイドル」は、剛くん以外にいなかった のです。
それが、僕にとってはとても新鮮で、革命的なことに思えました。
笑顔を与えなければならない職業であるはずのアイドルなのに、自己主張が下手で、内省的で、「世界」を哲学的に見ていて、とても思慮深く考える、苦悩する人。
そんな堂本くんの「真の姿」が、克明に現れているのが、やはり著書『ぼくの靴音』でしょう。
ぼくの靴音
この本は、1999年から2005年まで雑誌『MYOJO』に掲載されたエッセイをまとめたもので、——要は、主にバリバリにドラマに主演していた時期(=剛くんが最も苦悩していた時期)の彼の思いが吐露されています。
エッセイ、といっても、日常に起きたことをダラダラ書き連ねているのではなく、日常に起きたことを通して、彼の「哲学」(主に“愛”や“強さ”についての考え)を展開したり、彼の悩みをさらけ出したりしているので、いわば 「エッセイ」というより、「当時の堂本剛の精神的自叙伝」 といった方が的を得ている内容となっております。
この『ぼくの靴音』の中で、主に語られていること、つまり、当時の堂本剛としての主な「問題」は、たぶん2つに絞られると思います。
?@ 「愛」について
?A 「自分自身」について=「強さ」について
誤解して欲しくないのは、?@の「愛」についてと?Aの「自分自身」について=「強さ」についての問題は、別個にあるのではなく、当時の堂本くんにとっては、分かち難く結びついている問題だった、という点です。
簡単に言うと、 彼の中で「愛」と「自分の強さ」は結びついている 。
『ぼくの靴音』の中で、こんな一節があります。
ちょっと長いですが、彼の中でいかに「愛」と 「自分の強さ」の問題のウエイトが大きいのか、端的に分かる箇所なので、全部引用してみたいと思います。
『 独りでいるのは楽だよね。傷つかないし、傷つけないからね。それで、独りの世界にこもってしまったこともあった。外に出て、誰かに優しい言葉を掛けられたりしたら、思い切り甘えてしまいそうだったから。そんな自分は嫌いだったから。もっと強い人間になりたかったから。大切な人にね、本心で「愛してる」が言いたいし、将来結婚する相手には「貴方が生きて笑ってられる為になら、この命を捧げます」って言える愛の強さを持つ僕を目指したい』
どうです?
堂本くんの「恋愛感」=「人生観」がよくわかる一節でしょう。
要するに、 堂本剛という男は、自分が繊細で、臆病だからこそ、物凄く「強い自分」になりたい人なんですね。
それは、他の文章にも現れています。
『 僕の今の敵は、自分自身だと思う。自分に勝たなければ何も始まらない。』
『 困難に突き当たったときの痛み、言い換えれば、泣きたくなるくらいの孤独や、途方もない“攻撃”には負けたくない』
そこに、「愛」についての問題が絡んでくるわけですね。
——おそらく当時の彼は、若くして芸能界に入り、様々な陰湿な人間の「裏の顔」を見ることによって、多くの「心の傷」を受けたことでしょう。
そして彼は、人間不信になり、「愛」に臆病になっていった。
そりゃそうでしょう。
なんせ当時は「天下の堂本剛」だったわけですから。
もし付き合いたいと言い出した女性がいたとして、いざ付き合ってみたら、その女性がフライデーかなんかに暴露するような類の女だとしたら、心から「純粋」な堂本くんは、その「裏切り」を受け、さらなる人間不信に陥っていたかもしれないんですよ!
けれど、——冷静になって分析してみると、やはり、当時の堂本剛くんにとって、一番重要な問題は、やはり「自分の強さ」で、「愛について」は、二の次だった感は否めません。
だって、結局、自分の臆病さを乗り越えて、相手を愛することができる自分になりたいわけですから。
結局、自己愛なわけですよ。
でもまぁ、そんな細かい指摘は、無粋というか、・・・無視していいじゃないですか。
なにせ、彼の言葉は「 純粋」なのですから。
そう。
堂本剛くんの良いところは、物凄く「 純粋」である、ということなんですよね。
例えば、堂本剛くんの語る「哲学」や「思想」は、難解なものではありません。
むしろ、ありふれている、当たり前じゃん、とすら言ってもいいかもしれません。
けれど、なぜ無視できないか、と言えば、それはひとえに、—— 彼が本当に「純粋」だから、の一言に尽きると思います。
彼自身、自分が「純粋」=「無垢」だということを、作中で次のように語っています。
『 僕は、人間という生き物でありながら、それをまったく理解し切れてないうちに社会の扉を開いてしまった。人間の強さ、脆さ、気高さ、愚かさ…について深く知る前に世の中を歩き始めてしまった。』
彼の語る「哲学」や「思想」は、決して「書斎の中で発見した哲学」ではなく、「実体験(自分の肉体)から得た哲学」なので、とっても「純粋」だし、・・・なんというんでしょう、なんかこう、——とっても「ピュア」なんですよね(同じやん)。
だから、「 はじめてのおつかい」って、ありますでしょう?
それじゃないけれど、堂本剛くんの場合は「 はじめての人生問題」みたいな感じで、その諸問題をとってもとってもピュアに考えているもんだから、——なんかこう、とっても「 かわいい」んですよね。
なんか、母性本能をくすぐられる、といいますか。
たぶん、現在でも堂本剛くんに女性ファンの方々が多くいらっしゃるのは、勿論、彼が個性的だとか、ユニークだとか、そういう理由もありましょうが、やっぱり根っこの部分では、 彼の「純粋さ」に対して母性本能を感じ取っているから、のような気がします。
僕も、この『ぼくの靴音』を読んで、何度も何度も、「 こんな純粋な人がこの世にいるのか?」と思わされました。
まるで、生前のマイケル・ジャクソンのように。
ところで、ここからは余談になります。
なぜこのエッセイ集のタイトルは『ぼくの靴音』なのでしょうね?
結論を先に申し上げますと、おそらく、堂本剛という一人のアイドル・人間が、苦悩して、落ち込んで、でも、勇気を出して強くなろうともがいている、その一歩一歩の積み重ねの総称。
だから、タイトルが『ぼくの靴音』なんでしょうね、たぶん。
『靴音』というキーワードには、たぶん、広い解釈が可能だと思われます。
例えば、この『ぼくの靴音』の中には、彼の故郷である奈良の話が出てきますが、その奈良での少年時代の懐かしい『靴音』。
あるいは、草薙剛と飯島直子さんと出会って、会話し、別れたあとの、力強く生きていこう、と決心して踏み出したときの希望に満ちた『靴音』。
悲しい『靴音』もあれば、希望に満ちた『靴音』もある、というね。
果たして、現在の堂本剛くんの『靴音』は、どんな音を鳴らしているんでしょうかね?
というわけで、以下に堂本剛くんの最新の『靴音』を紹介します。
【先着購入特典付】 TU ふつうよし(通常盤)(クリアファイル付)
ファンの方々なら、もうとっくにご承知でしょうが、新しいアルバムを出されていたんですね。
最新の『靴音』、僕もチェックしてみたいと思います。
さらに余談ですが、堂本剛さんは、かの松本人志さんのお笑いに影響を受けていますよね?
なので、ファンの方は、こちらもご覧になってはいかがでしょうか。
HITOSI MATSUMOTO VISUALBUM “完成” [DVD]
——と、まぁ、いつもは記事の最後に、この記事の末尾に表示される2つのアフィリエイトを紹介するのですが、・・・今回はやめておきます。
いくらなんでも、そこまで僕も汚れていません。
まぁ、普通にここまでの記事を読んで、満足してくれた方は、堂本くんが現在やっているツアーを見にいきたいでしょうから、以下の2つの格安旅行会社をご利用して頂くのも手だとも思います。
それでは。
『さぁ、進もう』(By 堂本剛)
小学生の頃、一番好きだったドラマ『金田一少年の事件簿』の堂本くんのもみあげに憧れて、一時期もみあげを伸ばす=ファッショナブルと思っていた、小説家のともなりたかひろです。
ええ、本日は、堂本剛ファンの方々のご機嫌を伺いに参りました。
というわけで、今回は、
アイドル堂本剛という男をプロデュース!
…というね。(?)
今となっては、堂本剛というアイドルは、個性的なファッションをし、音楽もやり、俳優もやり、お笑いもやる、「個性的なアイドル」と見られているようですが、当時の僕としては、 堂本剛というアイドルは、「アイドル界で初めて心の闇をさらけ出した唯一のアイドル」として興味を持っていました。
それまでの男性アイドル史の中で、「心の闇をさらけ出した男性アイドル」は、剛くん以外にいなかった のです。
それが、僕にとってはとても新鮮で、革命的なことに思えました。
笑顔を与えなければならない職業であるはずのアイドルなのに、自己主張が下手で、内省的で、「世界」を哲学的に見ていて、とても思慮深く考える、苦悩する人。
そんな堂本くんの「真の姿」が、克明に現れているのが、やはり著書『ぼくの靴音』でしょう。
ぼくの靴音
この本は、1999年から2005年まで雑誌『MYOJO』に掲載されたエッセイをまとめたもので、——要は、主にバリバリにドラマに主演していた時期(=剛くんが最も苦悩していた時期)の彼の思いが吐露されています。
エッセイ、といっても、日常に起きたことをダラダラ書き連ねているのではなく、日常に起きたことを通して、彼の「哲学」(主に“愛”や“強さ”についての考え)を展開したり、彼の悩みをさらけ出したりしているので、いわば 「エッセイ」というより、「当時の堂本剛の精神的自叙伝」 といった方が的を得ている内容となっております。
この『ぼくの靴音』の中で、主に語られていること、つまり、当時の堂本剛としての主な「問題」は、たぶん2つに絞られると思います。
?@ 「愛」について
?A 「自分自身」について=「強さ」について
誤解して欲しくないのは、?@の「愛」についてと?Aの「自分自身」について=「強さ」についての問題は、別個にあるのではなく、当時の堂本くんにとっては、分かち難く結びついている問題だった、という点です。
簡単に言うと、 彼の中で「愛」と「自分の強さ」は結びついている 。
『ぼくの靴音』の中で、こんな一節があります。
ちょっと長いですが、彼の中でいかに「愛」と 「自分の強さ」の問題のウエイトが大きいのか、端的に分かる箇所なので、全部引用してみたいと思います。
『 独りでいるのは楽だよね。傷つかないし、傷つけないからね。それで、独りの世界にこもってしまったこともあった。外に出て、誰かに優しい言葉を掛けられたりしたら、思い切り甘えてしまいそうだったから。そんな自分は嫌いだったから。もっと強い人間になりたかったから。大切な人にね、本心で「愛してる」が言いたいし、将来結婚する相手には「貴方が生きて笑ってられる為になら、この命を捧げます」って言える愛の強さを持つ僕を目指したい』
どうです?
堂本くんの「恋愛感」=「人生観」がよくわかる一節でしょう。
要するに、 堂本剛という男は、自分が繊細で、臆病だからこそ、物凄く「強い自分」になりたい人なんですね。
それは、他の文章にも現れています。
『 僕の今の敵は、自分自身だと思う。自分に勝たなければ何も始まらない。』
『 困難に突き当たったときの痛み、言い換えれば、泣きたくなるくらいの孤独や、途方もない“攻撃”には負けたくない』
そこに、「愛」についての問題が絡んでくるわけですね。
——おそらく当時の彼は、若くして芸能界に入り、様々な陰湿な人間の「裏の顔」を見ることによって、多くの「心の傷」を受けたことでしょう。
そして彼は、人間不信になり、「愛」に臆病になっていった。
そりゃそうでしょう。
なんせ当時は「天下の堂本剛」だったわけですから。
もし付き合いたいと言い出した女性がいたとして、いざ付き合ってみたら、その女性がフライデーかなんかに暴露するような類の女だとしたら、心から「純粋」な堂本くんは、その「裏切り」を受け、さらなる人間不信に陥っていたかもしれないんですよ!
けれど、——冷静になって分析してみると、やはり、当時の堂本剛くんにとって、一番重要な問題は、やはり「自分の強さ」で、「愛について」は、二の次だった感は否めません。
だって、結局、自分の臆病さを乗り越えて、相手を愛することができる自分になりたいわけですから。
結局、自己愛なわけですよ。
でもまぁ、そんな細かい指摘は、無粋というか、・・・無視していいじゃないですか。
なにせ、彼の言葉は「 純粋」なのですから。
そう。
堂本剛くんの良いところは、物凄く「 純粋」である、ということなんですよね。
例えば、堂本剛くんの語る「哲学」や「思想」は、難解なものではありません。
むしろ、ありふれている、当たり前じゃん、とすら言ってもいいかもしれません。
けれど、なぜ無視できないか、と言えば、それはひとえに、—— 彼が本当に「純粋」だから、の一言に尽きると思います。
彼自身、自分が「純粋」=「無垢」だということを、作中で次のように語っています。
『 僕は、人間という生き物でありながら、それをまったく理解し切れてないうちに社会の扉を開いてしまった。人間の強さ、脆さ、気高さ、愚かさ…について深く知る前に世の中を歩き始めてしまった。』
彼の語る「哲学」や「思想」は、決して「書斎の中で発見した哲学」ではなく、「実体験(自分の肉体)から得た哲学」なので、とっても「純粋」だし、・・・なんというんでしょう、なんかこう、——とっても「ピュア」なんですよね(同じやん)。
だから、「 はじめてのおつかい」って、ありますでしょう?
それじゃないけれど、堂本剛くんの場合は「 はじめての人生問題」みたいな感じで、その諸問題をとってもとってもピュアに考えているもんだから、——なんかこう、とっても「 かわいい」んですよね。
なんか、母性本能をくすぐられる、といいますか。
たぶん、現在でも堂本剛くんに女性ファンの方々が多くいらっしゃるのは、勿論、彼が個性的だとか、ユニークだとか、そういう理由もありましょうが、やっぱり根っこの部分では、 彼の「純粋さ」に対して母性本能を感じ取っているから、のような気がします。
僕も、この『ぼくの靴音』を読んで、何度も何度も、「 こんな純粋な人がこの世にいるのか?」と思わされました。
まるで、生前のマイケル・ジャクソンのように。
ところで、ここからは余談になります。
なぜこのエッセイ集のタイトルは『ぼくの靴音』なのでしょうね?
結論を先に申し上げますと、おそらく、堂本剛という一人のアイドル・人間が、苦悩して、落ち込んで、でも、勇気を出して強くなろうともがいている、その一歩一歩の積み重ねの総称。
だから、タイトルが『ぼくの靴音』なんでしょうね、たぶん。
『靴音』というキーワードには、たぶん、広い解釈が可能だと思われます。
例えば、この『ぼくの靴音』の中には、彼の故郷である奈良の話が出てきますが、その奈良での少年時代の懐かしい『靴音』。
あるいは、草薙剛と飯島直子さんと出会って、会話し、別れたあとの、力強く生きていこう、と決心して踏み出したときの希望に満ちた『靴音』。
悲しい『靴音』もあれば、希望に満ちた『靴音』もある、というね。
果たして、現在の堂本剛くんの『靴音』は、どんな音を鳴らしているんでしょうかね?
というわけで、以下に堂本剛くんの最新の『靴音』を紹介します。
【先着購入特典付】 TU ふつうよし(通常盤)(クリアファイル付)
ファンの方々なら、もうとっくにご承知でしょうが、新しいアルバムを出されていたんですね。
最新の『靴音』、僕もチェックしてみたいと思います。
さらに余談ですが、堂本剛さんは、かの松本人志さんのお笑いに影響を受けていますよね?
なので、ファンの方は、こちらもご覧になってはいかがでしょうか。
HITOSI MATSUMOTO VISUALBUM “完成” [DVD]
——と、まぁ、いつもは記事の最後に、この記事の末尾に表示される2つのアフィリエイトを紹介するのですが、・・・今回はやめておきます。
いくらなんでも、そこまで僕も汚れていません。
まぁ、普通にここまでの記事を読んで、満足してくれた方は、堂本くんが現在やっているツアーを見にいきたいでしょうから、以下の2つの格安旅行会社をご利用して頂くのも手だとも思います。
それでは。
『さぁ、進もう』(By 堂本剛)
タグ: ジャニーズ 堂本剛 松本人志