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メキシコ市での地震を体験したのは、もう35年以上前のこととなりました。Fiesta Palaceと言うホテルの10階付近に宿泊していましたが地震が襲来、日本の地震とは違って、周期が1~2秒でゆっくりとし、振幅の大きな揺れが特徴でした。Fiesta Palaceは当時完成したばかりでしたが、未だFiesta Americana Reformaと言う名で営業されている様ですが、よく泊まったホテルでした。元来、メキシコ市はアステカ帝国の宮殿があった湖の湖畔にあったのですが、侵略して征服したスペイン人が、全て湖を埋めて居住地域とした都市なのです。埋設の仕方が適切ではなく極めて地盤が軟弱で、地震が到来しますと、地下にあった湖の残った水脈等がフィルターになり、短周期振動は吸収され、長周期振動が地上に到来することになります。長周期振動は極めて危険で、高層ビル等は倒壊させてしまう懸念が大きいとされています。今回も、同じな様な長周期振動で、近代ビル群の倒壊が数多くなったのではないかと懸念される処なのです。メキシコを9月19日、メキシコ市周辺でマグニチュード(M)7.1の地震が襲った。この日は、首都を襲って1万人以上の死者を出した大地震から32年目で、大規模な避難訓練が終わった2時間後、本物の地震でビルが崩壊し、学校にも深刻な被害をもたらした。今回の地震は、人口2千万人を超すメキシコ市都市圏を直撃し、中高層ビルが倒壊して被害を拡大させている。地震発生時刻は多くの人が出歩く日中の午後、深夜に発生した前回に比べて、被害が大きくなっているとみられる。
2017.09.21
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ハリケーン・ハーヴィーはコーパス・クリスティ近郊に上陸、その随伴雨雲でヒューストンは豪雨と洪水に襲われて、未曾有の被害を受けていますが、ハリケーンは再びメキシコ湾に押し戻されて、ヒューストン南のガルベストン島から再上陸して北上する天気予報の様ですので、豪雨・洪水被害は木曜日までは続くとされています。住宅・住民被害だけでなく、ヒューストン運河河口に位置していて世界最大の製油所とされるExxonのBay Town Complexも操業停止になっていますので、原油価格高騰など産業界への負の影響も必至です。ヒューストンは大河も無い平地ですので、日本九州での被害とは違って、豪雨による土砂崩れはなく、山林からの流木被害もありませんが、東西を貫くBuffalo Bayouと言うセセラギは、排水の役割を果たすことが出来ずに、洪水被害を増大させている様です。2年前にも、Buffalo Bayouでの氾濫被害はあったのですが、降雨量が今回は凄まじく比較にならない様で、数十年振りの災害と言われています。Buffalo Bayou沿いは、木々が育って緑濃い環境ですので、市中心街から少し離れた河川敷は公園として整備されていますし、その郊外では住宅開発も多く、車に依るアクセスを容易にするべくコンクリート舗装をしたことで、雨が地中に浸み込まずにセセラギに流れ込んだことで、被害を大きくしたとも言われています。A Look At Why Houston Floods | NBC Nightly News私達家族が1980~1983年に3年半の間住んでいた地区も、Buffalo Bayouからは遠くないので、洪水被害を受けているに違いないと思うばかりです。
2017.08.29
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強烈なハリケーン・ハーヴィーは、テキサス州南部の主要都市コーパスクリスティ市近郊のロックポート市に上陸、勢力を弱め熱帯低気圧となりましたが、今後も内陸部での甚大な死亡事故も発生するのではと懸念されています。Texans who rode out the most powerful hurricane to hit the United States in a decade ventured out on Saturday to see what was left of their neighborhoods in what was "now turning into a deadly inland event."The first fatality was reported in the hard-hit coastal city of Rockport.竜巻、豪雨、洪水警報もあって、テキサス州東南部は、強風による倒木、外れた看板飛散、旗竿倒壊、屋根や壁からのレンガ剥落、等の被害発生が数日に渡って予想されます。With dire warnings of tornadoes, torrential downpours and days of flooding to come, broad swaths of southeast Texas were littered with uprooted trees, toppled signs, flagpoles that snapped like toothpicks and clusters of bricks peeled like scabs from walls and rooftops.私達家族も1983年8月に、ガルベストン(Galveston)島に上陸したHurricane Aliciaによる被害で、2週間の停電を余儀なくされ、エアコンのあるホテルを泊まり歩いたことがあって大変な思いをしましたが、今では懐かしい思い出となりました。コーパスクリスティ(Corpus Christie)市を海水浴と海釣を楽しむべく訪問しましたのは、その2年前の1981年9月のLabor Day休日のことでした。写真はコーパスクリスティ市中心部から橋を渡った、リゾート地となっているパードレ(Padore)島の砂浜、宿は海浜に建てられたリゾートの一部屋を借りました。未だ私も家内も30才代ですから、子供達と旅行するのも楽しく、元気そのものでした!テキサス南部は、最初はスペイン人が入植しましたので、コーパスクリスティ(Corpus Christie)は“キリストのお体”、パードレ(Padore)は“神父”と言うスペイン語で命名されています。
2017.08.28
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昨日は、知人が欲しいと言うアンソニー1ドル硬貨1979年を含めて、瓶入りの外国硬貨を横浜市青葉区にある先輩知人宅へ持ち込みました。アンソニー1ドル硬貨は1979~1981年に発行され、1999年にも追加発行されたコインなのですが、知人宅には1999年のコインがありましたが、1979年硬貨が無いとのことだったのです。38mmの大きなアイゼンハワー1ドル硬貨(1971年〜1978年)に較べて小さく、25セントコインより、少し大きい程度で間違えてしまいそうです。ヨーロッパに留学していた経緯もあり、北欧を含めて殆ど所蔵しているとのことで、西半球のコインを中心として、仕分け選別頂き、必要なコインを貰って頂くことにしました。Mexico、Venezuela、New Zealand、Canadaに加えてKoreaまで譲渡することが出来て、外国硬貨の一部が収集家のしかるべき処に納まって何よりだったと思っています。
2017.05.28
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会社時代の3年先輩の方が、網膜剥離手術をして退院したので、お見舞いに行って来ました。未だ白眼が充血していましたが、手術後の経過が良く、日常生活に支障が無くなった様で何よりでした。何しろ多趣味な方で、模型機関車、模型飛行機の製作、その他収集歴も多数あるのですが、書棚の中に「コイン1、2」とされたファイルがありました。聞きますと、海外旅行をした際は、流通しているコイン硬貨は記念として持ち帰り、ファイルに入れて収集されているとのことでした。英国硬貨では、エリザベス女王戴冠前のジョージ6世肖像のあるコインもありましたので、たいしたものですが、先輩は1960年初頭にドイツ留学生活をしておりましたので、ヨーロッパ各国へ旅行、英国では未だ前国王のコインも流通していたのでしょう。その他の各国通貨も見せて頂き、趣味の多さと勤勉さには感心させられました。自宅へ帰って、メキシコのコインが無かったと思い、メールしてみますと「20、10、5、1 Peso をしっかりと集めました。GE の John Smith も一緒、下条さんが駐在でしたね」と又凄い記憶力です!直径35mm 50ペソコイン、直径32mm5ペソは所蔵されていませんので、次回訪問に際しては持参することにしました。直径35mmは流通するコインとしては、世界最大級ですから喜んでくれるかも知れません。しかし、全て35年も前のことですから、現行の流通コインでは無い様な気もしています。
2017.05.26
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この写真には日付があって、1994年6月となっていますので、もう22年前に最後のドライブと思いつつ撮った画像です。28年にProcter & Gamble Oxnard Plantにガスタービン発電装置を建設するプロジェクトのプロマネに任じられ、ロスアンゼルス空港からHighway 1、通称は太平洋湾岸道路(Pacific Coast Highway)と呼ばれるルートを使って毎月通ったもので、プラントは25年前に完成させることが出来ました。22年前に、所用で米国出張があったので、その帰路に懐かしくなってHighway 1を使ってOxnard/Port huenemeからロスアンゼルス空港をドライブしたのでした。YouTubeにはPacific Coast Highway関連の動画が多数アップロードされていますが、無人の海岸道路からリゾート地区であるマリブー(Malibu)海岸に至るドライブ動画がアップロードされていましたので、ご覧ください!Pacific Coast Highway (PCH), Driving Into Malibu along Southbound California State Route 1この辺りは、海流が冷たくて霧が出ることが多いのですが、海中にはジャイアントケルプが繁茂して、ラッコも多数生息すると言われていますが、生息地を特定出来ず、残念ながら目撃したことはありません。
2016.09.26
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昨夜、TVでカナディアンロッキーの旅番組を観ていましたら、食前酒にBloody Caesar(ブラディシーザー)を勧められる場面が出て来て、40年前の記憶が蘇りました。Vodka(ウォッカ)ベースのカクテルとしては、Bloody Mary(ブラディ―メアリー)が知られていますが、 Bloody Caesar(ブラディシーザー)はカナダの改良カクテルです。イギリスのメアリー女王は多数の処刑をし、「血だらけメアリー」と揶揄されたのが由来で、トマトジュースが血を連想させるのです。一方、ローマのシーザーはブルータス等によって暗殺されるのですが、トッピングされるセロリが暗殺用の短剣を連想させるカクテルで、ハマグリとトマトのミックス “Clamato Juice”、ハマグリのエキスが肝機能を高め、トマトジュースがアルコール代謝に優れるとされ、二日酔いが無いとされています。シーザー(ブラディシーザー)は、カナダのカルガリーCalgaryで生まれたカクテル。Vodka(ウォッカ)Clamato juice(クラメートジュース)Tabasco(タバスコ)Worcestershire sauce(ウスターソース)トッピング:+ Salt and pepper(塩コショウ)+ Celery(セロリ)+ Lemon(レモン)日本でもよく聞く“Bloody Mary”(ブラディ―メアリー)【ウォッカ+トマトジュース】と似ていますが、Bloody Caesar(ブラディシーザー)はトマトジュースの代わりに Clamato Juice を使用、Clam(ハマグリ)とTomato(トマト)のミックスで “Clamato”、ハマグリのエキスが肝機能を高め、トマトジュースがアルコール代謝に優れるとされる。
2016.09.01
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昨夜はスコールにも似た夕立があって、暑さが和らぎ、熱帯夜を免れることが出来ました。朝は過ごしやすいと思ったのですが、湿気が高く蒸し暑いので、結局はエアコンの世話になることにしました。昨日はテキサスでの生活を懐かしみましたが、海外出張や駐在でよく訪れたオハイオ州シンシナティへのドライブをYouTubeで検索してみました。シンシナティは、GE航空転用型エンジンのOEMメーカーとして北方郊外イーブンデール地区にあるGE工場・オフィスでの打ち合わせ、ダウンタウンにあるプロクター・ギャンブルでのガスタービン供給契約の打ち合わせ、等で一番訪問回数の多い都市でした。シンシナティ空港はオハイオ州でなく、ケンタッキー州にあって、インターステート275号線からインターステート75号線に乗り換えて、シンシナティに向かうのですが、オハイオ川に向かって坂道を下りていく、ドイツ雰囲気に溢れる景色が好きでした。Driving North Through Cincinnati, OHヒューストンは30年を経て、インターステート10号線は全米一広いインターステート道路となり、有料道路も増えて様変わりが激しいのですが、インターステート75号線は30年前と変わらない姿を見せてくれています。
2016.08.11
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マートルウッド(Myrtlewood)とは、カンラン(橄欖)とかギンバイカ(銀梅花)のことだと思っていました。ゲーテの「ミニオン」の言う詩に、南国の植物として詠われていて、小さな樹木と思っていました。Kennst du das Land, wo die Zitronen blühn, 君や知る、レモン花咲く国Im dunkeln Laub die Gold-Orangen glühn, 暗き葉かげに黄金のオレンジの輝きEin sanfter Wind vom blauen Himmel weht, なごやかなる風、青空より吹きDie Myrte still und hoch der Lorbeer steht? ミルテの花は静かに、月桂樹は高く聳ゆKennst du es wohl? 君よ知るや、その国を?Dahin! Dahin かなたへ、かなたへMöcht ich mit dir, o mein Geliebter, ziehn. 君と共に行かまし、わがいとしき人よ。しかし、オレゴン州のマートルウッド(Myrtlewood)は、カリフォルニア月桂樹とも呼ばれる大木で、ローソン檜と共に、オレゴン州の主要な輸出資源である様で、家具や木工細工の他、ギターの共鳴板にも使われる高級木材とされています。台座裏には、「The House of Myrtlewood, Coosbay, Oregon」と焼印がされています。多分、35年前に、オレゴン州Roseburgに出張した際に、何処かのみやげ物店で購入したものであるらしく、屋外の物置に永年あったので薄汚れていますが、埃だけ拭き取って、菓子鉢として使っています。
2016.05.15
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コロンビア大氷原(Columbia Icefield)は、ロッキー山脈の標高2,500~3,200m付近にあり、北極圏外では北半球最大の大氷原で、道路から見えるのはコロンビア大氷原の一部を形成している総面積6平方km、全長も6kmにもなるアサバスカ氷河 Athabasca Glacier、容易にアクセス出来ることで人気の観光地になっています。しかしながら、地球温暖化によって氷河の後退が顕著で、アサバスカ氷河もその例外ではない様です。BS放送ではどのTV局もコンテンツが充実せず、TVショッピングと旅番組が中心を為していて困りものですが、先日カナダ編でアサバスカ氷河が紹介されましたので、拝見させて頂きました。インターネットで検索し、2010年の訪問記で、次の様な写真を見つけましたが、年々後退速度が増している懸念が避けられない様です。氷河の厚さは最大部で365m、長さは5.3kmで、毎年の積雪(7~10m)で新しい氷河が作られ年間25~125m 岩を削りながら流れ落ちているとされますが、温暖化で融けるスピードはもっと速くて、差し引き毎年1~3m位ずつ後退を続けているとのことです。我が家の家族旅行で、其処を訪れたのは1981年8月初旬、地球温暖化がそれ程深刻ではなく、駐車場から氷河の先端まで歩いて行くことが出来、雪渓で遊ぶことが出来たのです。35年も経ちますと小さな子供達も中年世代となり、自分の高齢化と時の流れを実感してしまいます。
2016.03.27
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ハーフ・ダラー硬貨は歴史的に種々の肖像を用いた銀貨でしたが、ケネディ大統領が暗殺された翌年からは彼の肖像が使われ、1965年からは銀含有量を半減、1971年から銅・ニッケル合金硬貨に変えて、今に至っています。我が家には、20枚弱残っていますが、90%銀貨が1枚、40%銀貨が2枚のみで、残りは全部、銅・ニッケル合金のハーフ・ダラー硬貨の様です。ハーフ・ダラー(英語: Half Dollar)として知られるアメリカ合衆国50セント硬貨は、アメリカ合衆国造幣局の設立初期である1794年以来、ほぼ毎年製造されている硬貨である。ハーフ・ダラー銀貨フランクリン(ベンジャミン・フランクリンの肖像) 1948~1963年ケネディ(ジョン・F・ケネディの肖像) 1964年~現在銀の含有量40%のハーフ・ダラー硬貨1965~1970年製造のケネディ・ハーフ・ダラー硬貨1976年製造のケネディ・ハーフ・ダラー硬貨(1976年に製造された5億枚の内、1100万枚が銀40パーセントで造られた)銅・ニッケル合金のハーフ・ダラー硬貨1971~1974年、1977~2000年、2001年~現在までのケネディ・ハーフ・ダラー硬貨。 200周年記念のケネディ・ハーフ・ダラー硬貨(「1776-1976」と刻まれている)
2015.09.10
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1980年2月1日、家族を迎えにサンフランシスコに迎えに行きました。私は1979年9月からヒューストンに滞在し、借家を見つけて家具類を買い付けて家族を迎える準備をしていましたし、家内は日本の団地契約を解消したり、大きな家具類を実家の五島まで送ったり、その他の家具類をヒューストンに送る等の身辺整理をして、米国への生活に備えていたのでした。そして、家族一同で泊まったのがパレスホテル、当時はシェラトン系列のSheraton Plazaとなっていましたが、大きなホテルでしかも大きな通りに面していて、入り口が数箇所もあって治安上の不安もありましたが、当時は今ほど治安が悪化していなかったのです。それから、35年も経ちますので、取り壊して新しいホテルに生まれ変わったのだろうと思っていたのですが、改修してホテル事業を再開した様です。 The Palace Hotel. Established in 1875. Reinvented in 2015.A newly renovated San Francisco icon unveiled. A designer’s vision brought to life. Original architecture and authentic elements paired with classically inspired, modern décor. Space filled with light, color and warmth. A look that is rich, stylish, and absolutely gorgeous. It’s improved upon, historic perfection. And it’s befitting of the Palace.現在は、Sheraton系列から離れて独立、Palace Hotelとなっている様です。取り壊さず改修して再利用するのは大変なことですが、その企画には共感を覚えます。東京オリンピックのメイン競技場も取り壊さずに、改修して再利用すると言う企画が全く無かったのは奇妙にも思えます。今回の新築費用は1550億円、整備費は2%として年間31億円が必要となり、毎年50日スポーツイベントが開催されるとすると、主催興行主に6000万円の負担を強いることになりますので高額で負担に耐えられないと予想され、負の遺産となる懸念が大きいからです。
2015.08.30
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日本では樋口一葉が、ドイツのマルク紙幣ではクララ・シューマンが、紙幣の肖像として採用されていますので、女性の肖像画が採用されることに違和感はありませんが、アメリカでは画期的なことの様です。米財務省は、女性の参政権が認められて100周年にあたる2020年に発行する10ドル紙幣に女性の肖像画を使うと発表した。米国の紙幣に女性の肖像画が使われるのは、1896年まで流通した1ドルの銀兌換券に描かれた初代大統領夫人マーサ・ワシントン以来、約120年ぶりとなる。10ドル札は1929年以降、初代財務長官アレクサンダー・ハミルトンの肖像画が使われている。新たにあしらわれる女性について、財務省はツイッターなどソーシャルメディアで一般からの意見を募る。ルー財務長官が対象者を選び、今年後半に発表する。選定の唯一の条件は「対象者が死亡していること」だと言う。実はコインでは、女性像が既に採用されているのです。アイゼンハワー・ダラー(1971年〜1978年)1971年から1978年にかけ、アメリカ合衆国造幣局は表側にアイゼンハワー大統領の肖像を、裏側にアポロ11号の月面着陸を描いた新デザインの1ドル硬貨を製造した。アンソニー・ダラー(1979年〜1981年、1999年)1979年から1981年の短期間、造幣局はアンソニー・ダラー硬貨を製造した。この硬貨の表側にはスーザン・B・アンソニーが描かれているが、これは流通するアメリカの貨幣に描かれた最初の実在女性である。双方とも一般流通はしていないのですが、我が家には、古い1ドル銀貨数種、ケネディのHalf-Dollarコインを含めて数枚残っています。多分、米国駐在時、古銭屋に行って記念目的で購入したものと思われます。
2015.08.29
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UCカードの月刊誌には次の様な記述があります。1517年、沖合を通過したスペインの探検隊が白亜に輝く神殿を目にした。未開の地と考えていたスペイン人はその構えを見て驚いた。それが西欧文明とマヤ文明の最初の出合いとなった。世界に資源を求めていたスペインはメキシコを征服し、マヤ文明の終焉にも繋がった。トゥルムを造営した人々は抗争を避けて内陸部から移って来た人達と考えられている。新しい土地で築いた神殿が滅亡の切掛けになってしまった。歴史を振り返る時、カリブ海の青さが物悲しく目に映える。家族旅行でカンクーンを訪れたのは1983年1月のことですから、もう32年以上前のこととなりました。事前にアメリカ人の知人から、海岸と遺跡がマッチするトゥルム(Tulum)遺跡と、シュノーケリングで熱帯魚を観察出来るシェルハー(Xel-Ha)は必見と言われていたのです。未だ、当時はそれ程人気の出た観光地ではありませんでしたので、遺跡内は殆ど人影がありません。中央神殿の階段でも、我々家族だけでした。中央神殿に登り、北側にある風の神殿が見える処で記念撮影。その日の内に、序でにシェルハー(Xel-Ha)へ行くことにしましたので、風の神殿の見物は止めることにしました。
2015.05.30
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カナダ観光のWebサイトを見ていましたら、トロントでの推奨ホテルとしてFairmont Royal Yorkが紹介されているのに吃驚しました。1983年8月のナイアガラ滝、トロント、モントリオール、オタワ等のカナダ観光旅行で、家族4人で宿泊したことがあり、当時でもトイレの水流しが止まらない等室内施設が老朽化していて、取り壊しも遠からずとの記憶があったからです。その翌日、当時世界一の高さと言われたCNタワーに登り、346mの展望台から見たRoyal Yorkです。当時のRoyal Yorkは、2~3代目の建物で、1929年完成、湖畔に近い高級ホテルとして知られていました。Fairmontホテル系列となった際、5年掛けた復旧工事で、外装は残して1993年に生まれ変わって再オープンとなった様です。CNタワーは、カナダオンタリオ州のトロントに位置する通信と観光用の塔である。開業から2007年までの32年間、自立式建築物としては世界で最も高い塔であった。高さは553.33m(1815.39ft)で、4つの展望台があり、トロントの人気観光スポットになっている。
2015.05.28
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先日、JAL Global ClubからLIFE MILEと刻印されたバゲージタグが郵送されて来ましたので、JAL WebサイトのGlobal Club Member!s Roomでチェックして見ますと、次の様に記載されていました。207,542マイル(国内線 20,517 マイル 国際線 187,025 マイル)生涯搭乗回数 68回(国内線 34 回 国際線 34 回)Global Club入会は1994年6月で、その後の搭乗記録が積算されているのでした。私の初海外出張は1972年3月、その頃はANAには国際路線がなく、日本人旅行者にとってJAL以外のキャリヤーは考えられないことでした。その後も海外出張が続きまして、JALに乗ることが多かったのですが、1987~1989年に米国でのプロジェクトで、プロジェクトマネジャーとなり、客先要望もあってUnited Airlineに30回以上に亘って乗り換えたことがありました。しかし、プロジェクト完了後は、勤務していた会社の旅行部門からJALへの乗り換えが助言され、搭乗回数が多くなった1994年にJALからGlobal Club招待があって、入会したのでしょう。パスポートも期限切れとなり、海外旅行も行くチャンスは見つけられませんが、どれかの手提げ鞄にでも装着しておこうかと思っています。
2015.02.11
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ホテル フォーシーズンズ ヒューストンがオープンしたのは1982年のことでした。1981年までは事務所が、マイラム通りにあるTenneco所有の1100 Milamビルにありましたので、Skywalk連絡通路で繋がっているHyatt Regency Houston、Sheraton Houston、Lamar Hotel等に出張者には泊まって頂いていました。1981年に、2ブロック東のファニン通りにあるFirst City Bank所有の1001 Fanninビルに事務所が移転し、それまでのホテルからは少し遠くなりましたので、フォーシーズンズ ヒューストンがオープンしたのを契機に、出張者宿泊所に変更したのです。内部が30階迄吹き抜けとなっているHyatt Regency HoustonはContemporaryですが、ロビーで種々イヴェントが行われますと騒音が上階まで響いて、少々騒々しいのです。それに比べて、Four Seasons Hotel Houstonは落ち着いていますし、備え付けられている家具類もOrientalな雰囲気で統一されている落ち着きのあるホテルでした。客先担当にも、渡辺さんと言う女性スタッフのマネジャーがおられましたので、予約確認も日本語でOKと言う便利さを利用させて貰いました。1983年9月末、ヒューストン駐在を終えて帰国するに際しては、我が家族の為に無料でスイートルーム(Suite Room)を泊めて頂く親切には感謝するばかりでした。30年以上経た現在では、Sheraton Houston、Lamar Hotelは取り壊されて無くなってしまいましたが、Four Seasons Hotel Houstonは高級ホテルとして営業されているのを知りますと嬉しいものがあります。
2014.10.22
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次男が先月メキシコ出張の際、ヒューストン空港経由だったらしく、其処で購入した絵葉書を数枚くれましたが、その内の1枚に中心街を写した写真がありました。最高層ビルは1982年にTexas Commerce Bankビルとしてオープンし、今ではJP Morgan所有となっているビルの様ですが、地震も無い土地柄、奇抜な高層ビルが増えました。下の絵葉書は1979年当時のヒューストン中心街を写した写真で、35年の開きがあります。ヒューストン市は、石油・天然ガスの世界ビジネスの中心都市ですから、高層ビルは石油会社所有が大半を占めていました。メジャーのShell、Exxonの他、民族資本系のTenneco、Penzoil等で、その他は高層ホテル程度であり、私が駐在する事務所は中央にある黒い鏡面47階の1100 Milam(Tenneco系列)の46階にありました。1980年代からは、強い米ドルを背景に銀行ビジネスが活況を呈し、高層ビルが次々に建てられる様になりました。1981年Tenneco系列オーナーが大規模店子を入居させるべく賃貸更新に応じず、First City National Bankが新設した1001 Fanninビルの38階に事務所移転となりました。中心街近くには木造の小さな家々が連立していたのですが、中心街再開発で強制移転させられたのか、緑豊かな公園に変貌したり、野球場や大きな会議場になったりしている様です。私が駐在員業務を過ごしたビルは、次男に貰った絵葉書では他の高層ビル群に隠れて見えなくなってしまっているのは残念です。ヒューストンでは、大規模な再開発事業が進んでおり、2008年秋には300店以上のレストランやショップ、映画館を備えたヒューストン・パビリオンズがオープン予定。この再開発プロジェクトにより、観光客に新しいテキサスの魅力をアピールできると期待している。テキサス州への日本人訪問者は業務渡航が70%から80%程度で、「業務渡航の際に延泊し観光」と促進する一環としてヒューストン市観光局では、ヒューストンの観光スポットを周遊できるシティパスを薦めている。
2014.10.09
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オハイオ州シンシナティ市郊外、インターステート75号線沿いのイーブンデイル(Evendale)に米国GEの航空機エンジン工場はあります。最初に訪問しましたのは1976年のことで、東京から出張して新しく設計したGE LM5000ガス発生機に対応する出力タービンについてGEの設計レビュー(DRB)に参加するのが目的でした。その際の定宿はイーブンデイルから75号線を少し北に行った処にあるシャロンビル(Sharonville)のマリオット(Marriott)と言うモテルでした。GEの歓迎バンケットは、宿から歩いて行けるスペイン帆船をモチーフにした雰囲気のある良いレストラン(Windjammer)でその都度行ってくれました。数回のDRBを基に、出力タービンが完成しOEMブランドで、当時世界最新鋭の航空転用型ガスタービンが販売開始となり、自家発に販売成功となりました。その後、日本での実績を基に、米国内でもGEとの共同歩調で拡販しようと、米国駐在を命じられたのが1979年のことで、実績を見つつ3~5年家族帯同と言うことになり、4年間全米各州をGEの支援を受けつつ拡販活動することになりました。その後は、会社からの出張者を連れて何回も通いましたので、多分合計20回を越えていることでしょう。最後の訪問は1998年、日本のムーンライトプロジェクトに「分散電源用の高効率蒸気噴射ガスタービン」をGEと共に参画するべく、説得に行ったのですがGEも大会社、米政府プロジェクトは良いが、日本の通産省では難しいと断られることになってしまいました。その際は、レンタカーしたこともあり、シンシナティ市内の4星ホテルCincinnatian Hotelに宿泊し、シャロンビルには行かなかったのですが、その時はもう閉店となっていた様です。現在、インターネット検索しますと次の様な古い閉店通知を見つけることが出来ます。Windjammer in SharonvilleAfter three decades as a Sharonville landmark, the Windjammer restaurant at the Marriott Hotel complex will close on March 28, 1997. The Windjammer was opened as an upscale supper club in 1966, next to what was then a Howard Johnson's motel. It was said to have been modeled after an 18th-century Spanish galleon that sank off the Florida keys in a hurricane in 1773, El Enfante, and was decorated with a collection of artifacts salvaged from the Enfante, including her 20-foot-tall three-ton anchor, and etc.懐かしい姿が、絵葉書として残されていて、何とか見つけることが出来ました。壮年時代の思い出としてアップさせて頂きます。
2014.06.20
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ミネソタ州は「数多い湖の地(Land of 10,000 Lakes)」と呼ばれ、氷河湖が散在していることで知られています。ベミジ市(City of Bemidji)はそんな雰囲気に溢れた街で、近郊のイタスカ湖(Lake Itasca)はアメリカ最長のミシシッピ川は源流地ともされる、豊かな自然に囲まれています。此処を訪れた発端は1972年初春、米国GE社の紹介で、Great Lakes Transmissionと言う天然ガスパイプライン会社のブースタステーション(Clear Water Station)を、単独で調査見学する為でした。その後、1977年初春に同僚と再調査、1982年初夏にも出張者を引率して見学することになりました。この写真は、1977年初春に巨人ポール・バニヤン(Paul Bunyan)と青い大牛(Babe)の記念像の前で撮ったものです。ポール・バニヤンはアメリカ入植者たちの民間伝承に登場する巨人、ベイブという巨大な大きい青いウシを連れている。アメリカにある沢山の湖や山、川などは彼が造ったとされる。五大湖を水で満たそうとして水を運んでいたとき、ベイブが桶をひっくり返したので、慌てて川をつくり、水害を食い止めたのが現在のミシシッピ川なのだという。ベミジ市にはポール・バニヤンとベイブの像が飾られている。1982年は初夏でしたので、ミシシッピ川の水源とされるイタスカ湖を訪問してみましたが、夏季休暇(Summer Vacation)には早過ぎて誰もおらずひっそりとした湖畔でゆっくりと自然が満喫出来た記憶が残っています。イタスカ湖(Lake Itasca)は、ミネソタ州北西部クリアウォーター郡に位置する小さな氷河湖である。この湖は北アメリカ最大の流域を持つミシシッピ川の水源と見なされ、湖とその周囲はイタスカ州立公園に指定されている。この湖がミシシッピ川の水源であると確認されたのは1832年のことである。ミシシッピ川は3,770kmの距離を流れメキシコ湾へ注いでいる。Bemidji, First City on the Mississippi
2014.01.13
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1979年12月から1982年12月までは月額650ドル、1983年から月額700ドルで家族4人が180m2の広いスペースを満喫して楽しく暮らしました。暖炉のある端の家でした!ヒューストン市の西方Spring Branch地区は、治安が良く、又公立小中学校も学力程度が高いことでも知られ、日本駐在員家族も殆どこの地区で暮らしていました。子供達の通学にはスクールバスも整備され、家の直近のロータリーまで行けば良いので、交通事故の不安も無かったのは幸いでした。そんな貸家の様子が、YouTubeで不動産屋の宣伝としてアップロードされています。同じGeorgetown Complexの中で直ぐ近く、Living Roomと言うか客間、階段の位置レイアウト、家族用居間Den、その間に位置するKitchen、玄関脇のWalking Closetは、2階の主寝室、浴室・トイレは全く同じ、又、Complexの中のプール等も紹介されていて懐かしい想いがしました。13072 Trail Hollow Dr 6 Houston, TX 77079
2013.12.18
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老齢になりますと過去が懐かしくなると言われますが、将にその通りです。33年前にコロラド州ロッキー山脈国立公園(Rocky Mountain National Park)に初めての家族旅行をしたのはその後4年間の滞米生活を楽しむ発端となりました。エステスパーク旅行案内書で宿を予約して貰い、国立公園内での小さなベアレイクを家族で一周したのですが、素晴らしいピクニックでした。秋は赤いカエデはありませんが、紅葉が綺麗な様です!エステスパークに戻って、湖でのボート遊び、山間地での乗馬体験にからに泊り、翌日に残雪の残る国立公園を楽しんだのです。子供達も成人して各々結婚し、親の責任は果たし終えたと思っておりましたが、まさか長男が40才を越えて闘病生活となって未だ退院とはならない中、長男夫婦を自宅に緊急避難させることになるとは思いませんでした。人生は、棺桶に入るまで何が起こるか分からないものです!家族が1980年2月にヒューストンに来てから6ヶ月経ちました。子供二人はSpring Branch地区の公立小学校Rummel Creekに通いましたが、日本と違って学期の終わりは6月初旬、始まりは9月ですので、長男は9月から3年生、次男は小学校に入学となります。長男は英語も解らずにいきなり通学しましたので、授業内容もさっぱり解らず相当の緊張したのだと思います。次男はアメリカ人と同じ新入生で活動しますのでプレッシャーは少ないと思われます。両者とも大変と思いますが将来の英語の勉強を小さい時から出来るのだと言うことで頑張って欲しいと期待するより仕様がありません。 親も慣れておらず、私は運転免許を取って漸く8ヶ月、家内は未だ免許を取っておらず、出張が多い私でもあり、生活に不自由している時でした。日本での家族旅行は家内の両親の実家に行くだけで特にしたことはありませんでしたので実質的に初めての家族旅行です。夏休みに子供達をキャンプに入れる計画もあったのですが、英語に慣れてからの方が良いと翌年に延ばすことにしましたので子供達も夏休みの最大の楽しみでした。
2013.12.13
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今回ニューヨークのブロンクス地区での脱線転覆事故には驚かされました。JR西日本のカーブで起きた列車転覆事故に酷似しているからです。事故を起こしたメトロノース鉄道ハドソン線には1988年12月、ニューヨークでホテルが満杯で取れず、仕方なくメトロノース鉄道ハドソン線のタリータウン(Tarry Town)に宿を取ったことがあり、2日間程グランドセントラル駅迄通いましたが、通勤客も多く不安に感じることが無かったからです。米ニューヨーク市ブロンクスで1日午前7時過ぎ、メトロノース鉄道ハドソン線の列車が脱線し、当局によると少なくとも4人が死亡、数十人が負傷した。現場は同線のスパイトンダイビル駅付近のカーブ。列車は郊外のポキプシーから市中心部のグランドセントラル駅へ向かっていた。全8両が脱線し、少なくとも2両が横転した。アメリカの運輸当局は、列車が制限速度の倍以上の130km/Hr余りでカーブに進入していたことを明らかにし、なぜ猛スピードで走行していたのか原因を調べている。タリータウン(Tarry Town)は郊外電車に沿った住宅地区でもあり特別の思い出はありませんし、況してブロンクス地区にそんなカーブがあった記憶もありません。1988年12月の翌週にはコネチカット州ハートフォード市にプロジェクト会議があって、空路で移った記憶しか残っていません。
2013.12.03
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懐かしい写真が抽斗から出て来ました、家内が仕舞って置いてくれたものらしいのです。日付は1988年10月18日となっていますので、もう25年も前のこととなりました。ガスタービン・コジェネレーションを「プロクター&ギャンブル」のオクナード工場内に構築するプロジェクトを受注して、半年程が経過した時に、客先のプロジェクトマネージャからご自宅に招待されたのでした。客先プロジェクトマネージャの提案は、クライアント(Client)とサプライヤー(Supplier)のコンサルタント(Consultant)のプロジェクトマネージャが核心チームとして、毎月現地サイト(Site)に集まってプロジェクトを成功に導こうとのことでした。私は当時46才でサプライヤー(Supplier)として客先に認知され、コンサルタント代表は私の同年の46才、客先プロジェクトマネージャは10年程年上で、良い核心チームが確立されたと思われました。それから2年間は毎月の渡米が義務付けられましたことで、年中時差呆け(Jet Lag)の感が拭えず次第に体調が優れず健康を損なうことにもなりましたが、プロジェクトが良い結果を得たことで遠き良き思い出となりました。客先プロジェクトマネージャの奥様と私、公民権運動にも積極的なウーマンリブの典型的な女性でした。ご主人訪日調査の際にも同行され、ご主人のみ訪日に際してはご主人を拙宅に招待したこともあり、何回もご自宅に招待され手料理でもてなしたくれたのでした。その上、旅券手配にもお世話頂き、ご主人以上にお世話になったことも有り難いことで、結局は人と人との付き合いにもなっていたのでした。その奥様も10年余後、病を得て60才代後半で、多分私の家内と同年代で亡くなられましたのは何とも残念なことでした。
2013.11.23
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部屋の整理をしていましたら、ポリ袋に入ったティーポットが出て来ました。我が家では、1983年秋の帰国以来、紅茶によるティータイムは行ったことがありませんので、無用の長物だったのでしょう。ロイヤルアルバート オールドカントリーローズ(ROYAL ALBERT Old Country Roses)1896年に創業するなり翌年のビクトリア女王即位50周年記念品を制作する栄誉に浴したロイヤルアルバート。イギリスの国花のばらをモチーフにしたオールドカントリーローズはアルバートを代表する製品です。ヒューストン駐在時代には、駐在員の奥様方とそんな催物があったのかも知れませんし、帰国に際しての贈り物として頂いたものなのかも知れませんが、その辺は分からず仕舞いとなりました。但し、ウェッジウッドのユーランダー・パウダー・ルビーのティーポットは大事にしていましたし、未だ戸棚の奥に保管されているのです。ユーランダー・パウダー・ルビー(Ulander Powder Ruby) ティーポット(L) 食卓に美しさや華やかさを彩るとの思いが込められたシリーズ、「ルビー」のような光を放つパウダー状の色模様が特徴です。
2013.11.10
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ヒューストン駐在中に家族4人で暮らしていました住居が貸家としてリストアップされていました。1979年12月から1982年12月までは月額650ドル、1983年から月額700ドルで家族4人が180m2の広いスペースを満喫して楽しく暮らしました。当時から売家では無かった様ですが、その頃の財産価値では7~8万ドル程度と言われていました。13144 Trail Hollow Dr, Houston, TX 77079This home is not listed for sale.Estimate market value: $182,247 Estimate Rent: $1,695/moARooms: 5Bedrooms: 3 bedsBathrooms: 2 bathsCondo: 2,058 sq ftYear Built: 1968Parking: 2 lotsCounty: HarrisSchool District:Spring BranchRummel Creek Elementary (assigned) Memorial Middle (assigned)ツーバイフォー工法のタウンハウスでしたが、築45年を過ぎて未だ貸家に出来るとは、日本では考えられませんし、整備はしているのでしょうが、月額レンタル料が2.5倍になっているのにも驚かせられました。
2013.11.06
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テキサス州ヒューストンには1979年から1983年迄の4年間、家族と共に生活し、帰国後もビジネス出張で何回も訪れました。1998年春に米国化学学会(AIChe)に論文発表するべく訪れたのが、ヒューストン訪問は最後となりました。その際、ダウンタウンの再開発が進み、近くの貧民街が取り払われて、国際会議場、野球場が整備され驚いたものでした。会社の同行者もいましたので、昔のGreater Houston市内Spring Branch地区の住居、200マイル西のサンアントニオのアラモ砦、50マイル南のGalveston島も案内したものでした。それから15年が過ぎましたが、再開発は一層進み、ダウンタウンには路面電車が走って、バス以外の公共交通機関の無かったヒューストンも変貌を遂げています。 48 Hours in Houston, Texas旅行ガイドは英国人ですが、インタビューされる方々のテキサス訛りが懐かしく聞こえます。
2013.10.24
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先日NHKBSの「世界街歩き」を見ていましたら、サンアントニオの街歩きで、河岸歩道(River Walk)が紹介されていました。運河沿いも綺麗になり、魅力的なショップも多く、観光客で溢れていましたのを懐かしく思いながら拝見しました。私達家族はサンアントニオを何回か訪れていますが、最初は1980年4月のことでしたから、今から33年前のこととなりました。私が米国で運転免許を取得して4ヶ月して経っておらず、片道200マイルを3時間掛けて行く初めての長距離ドライブでもありました。次男は日本では車酔い癖があり15分以上はバスでも酔ってしまい気を付ける必要があったので、ロングドライブでは休憩を取りつつ行く積りでしたが、道路事情が平坦であった為だったのか車酔いも無く、到着出来ました。アラモの砦を見学し、河岸歩道(River Walk)を散歩しましたが、当時は米国経済が下り坂で、観光客も多くありませんでした。運河に運行されていた観光船に乗って、メキシコ風の景観を楽しみましたが、運河は清掃度合いが悪く、少し悪臭もしていた記憶もあります。此の時、家内は37才、長男8才、次男6才、私も含めて米国生活には慣れておらず、全員苦労があった頃でした。此処はクリントン政権の2期目の経済復活で、観光地としての整備が進み、豊かになった観光客が多く訪れる様に変貌、今では運河は自然河川と繋がっていて、観光船も運河を出て自然河川も航行する様に変わっている様でした。経済力・経済状況は、やはり国益の基本となる様です!
2013.03.02
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資産価値の分散化で再び注目を浴びている金、金価格は1500~1800ドル/ozのボックス圏にあると言われています。今迄は、強い円の影響で4500円/gだった円建ての金価格は、アベノミクスに依る円安主導で90円/ドルに近づいたこともあって、5000円/gを越える様になりました。円建ての最高金価格は1980年の7000円/gですが、今後の円安動向を考えますと其処に近づくのではないかとも思われます。メキシコ2ペソ金貨は多分世界で一番小さい金貨、金含有量は1.6gで1/20 ozしかありませんので、ペンダントにしても邪魔になりません。オーストリア4ダカット金貨は直径39mmと世界で一番大きな金貨、非常に薄く重さが13.9gと軽いので、在米時ヒューストン市郊外のMemorial Shopping Centerの古銭を扱う店でペンダントにして貰いました。家内は折に触れて使い分けていた様で、30年前の帰国時New York観光では2ペソ金貨ペンダントをしていました。ミシシッピ州ビロクシ(Biloxi)へ、プランテンテーションハウス見学の際はオーストリア金貨をしています。双方とも、形見分けとして長男と次男家族の女性方に差し上げたかったのですが、平等ではないかと逡巡しつつ、もう3年も過ぎてしまいました。
2013.01.24
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先年、近くのスーパーで、「青の洞窟」と言うボンゴレロッソの一人前レトルト食品を見つけて、2回程スパゲッティ・ボンゴレロッソを食しました。独り暮らしですので一人前食品は有り難いのです。スパゲッティ・ボンゴレはイタリア料理の定番ですが、従来はバターベースのボンゴレ・ビアンコが殆どで、トマトベースのボンゴレロッソは無かった様に思われます。スパゲッティ・ボンゴレロッソを初めて食しましたのは34年前のヒューストン駐在が始まった頃で、ウェストハイマー道路(Westheimer Rd.)にあるイタリア人の家族経営レストラン「ミケランジェロ(Michelangelo)」でした。スパゲッティ・ボンゴレと注文しますと「ホワイトかレッドか?」と聞いて来ますので、場合に応じて両方頼みましたが、レッド即ちボンゴレロッソの方が好みでした。土曜日、子供達を校外にある日本人補習学校に送り届けた後、家内を連れて「ミケランジェロ」迄行き、スパゲッティ・ボンゴレロッソとアンチョビを利かせたピザを注文して早めのランチとし、午前中に終わる補習学校に子供達を迎えに行くことが何回かありました。子供達もピザは好きでしたので、アメリカスタイルのPizzaHutピザではなく、イタリア本来のスパゲッティとピザを、其処まで連れて行き食べさせた様な気もしますが、定かではありません。
2013.01.19
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TVで放映されたので、テムズ川の1000隻の船を従えての川遊覧も見ましたが、ヘンデルの「水上の音楽」が響いていて、実況なのかTV局の演出なのか定かではありません。4日間を国民の祝日として、ビートルズやエルトンジョンの記念コンサートもありましたが、最終日に馬車でパレードし、大聖堂で礼拝して祝賀行事に幕を下ろしました。天皇皇后両陛下は先月にウィンザー城で行われた60周年祝賀行事に出席されたのですが、天皇陛下は60年前に皇太子としてエリザベス女王の戴冠式に出席されたので、感慨深いものがあったと思われます。英女王即位60年を祝うダイヤモンド・ジュビリーの記念式典は、2012年6月2日~5日までの4日間、国民の祝日と行われ、最終日に馬車でパレードし、大聖堂で礼拝して祝賀行事に幕を下ろしました。この時期になったのは、エリザベス女王が1952年2月6日に即位したものの、喪が明けるまでお祝い事は控えると言うことで、戴冠式は翌年6月2日、ウェストミンスター寺院にて行われたことによるものとされています。エリザベス女王は御年86才、立ち居振る舞いには気品があり、未だ矍鑠としたものがありました。下記の画像は、我が家の写真アルバムに残るカナダの1ドル紙幣、1976年のものですから女王は当時50才、発行された紙幣は40~45才の頃と思われますが溌剌とした姿に見えます。写真はバンフ国立公園北方で、ルイーズ湖を遠望するテラス、未だ3月では雪に埋もれていて湖水は見えません。
2012.06.06
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12月28日(水)NHKBSで「古代文明 マヤ文明 五千年のメッセージ」と言う番組がありました。2012年12月に世界が終わる…そんな“マヤの予言”が噂されています。噂の元はマヤ文明で使われていた暦。世界の始まりからスタートしたとされる暦が、およそ五千年後の2012年に終わることから、2012年が世界の終わりではないかというのです。“マヤの予言”の真実を探るために、女優・原沙知絵がマヤの大地・中央アメリカのジャングルを大冒険。メキシコの世界遺産パレンケでは驚くべき天文学と建築技術の証である春分の日の天体現象を体験。そしてグアテマラのジャングルの奥では新発見の壁画を目撃。壁画に描かれたマヤの創世神話には“マヤの予言”につながる重大な“マヤのメッセージ”が秘められていました。“メッセージ”を探るため、原はさらに地底湖、現代マヤ人が祈る洞窟へと旅を続けていきます。ユカタン半島の北端カンクーンに家族で出掛けましたのは、1983年1月でしたから、もう29年も昔のこととなりました。マヤ遺跡が数多く存在し、特にカンクーン近くには最大級のマヤ遺跡チチェンイツァがありますので是非訪問したいものと思いました。結果的には借りたレンタカーの調子が悪く、チチェンイツァの手前20kmの村で諦めてしまいましたが残念なことでした。それでも、海岸の遺跡トゥルム(Tulum)を訪問出来たことは今でも良かったと思い出します。その頃は日本円の為替相場も200円/ドル程でしかなく、海外旅行費用は高い状況で海外旅行ブームは起きておらず、日本人観光客は未だ少なかったのです。遺跡と綺麗な海で、チチェンイツァ程有名では有りませんがトゥルムが一番魅力的と言う人も多い様でしたが、訪れる人もそれ程多く無かったのです。遺跡の途中も殆ど店類もありませんでした。メキシコの遺跡はエジプト等に巨石文化では無く小さな石を漆喰で固めたものが多いようでした。
2012.01.05
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昨日NHKBSで、“驚き!地球!グレートネイチャー「世界一の巨樹の森~アメリカ・カリフォルニア~」”と言う番組を再放映していました。大迫力のハイビジョンで“驚きの大自然”に迫る! 舞台は、米カリフォルニア、世界一の巨樹の森だ。高さ100mの巨樹に、ツリークライミングで大接近する!カリフォルニアの巨樹には2種類あり、内陸地にあるジャイアントセコイア、海岸地にあるレッドウッド、共にセコイア種となるらしい。ジャイアントセコイア国立公園には海外工事展開中の1989年6月、ゴールデンゲート橋の北側サウサリートにあるレッドウッド州立公園には家族で1983年7月に訪問しましたので、二昔以上も前のこととなりました。Giant Sequoia国立公園1983年7月17日レッドウッド州立公園
2011.12.28
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今日は4日振りの快晴で気持ちが良い朝を迎えました。昨日までは最高温度7℃と寒い冬だったのですが、朝日が燦々と輝いている所為か、とても暖かく感じられます。朝食後は早速、3日湿っていた布団干し、溜まっていた下着類の洗濯、カーペットのゴミ取りを粘着性のコロコロ紙でする等、家事に専念することとなりました。ふと明るさを増した玄関先の壁を見てみますと、種々掛けられています。玄関ドアの上には、テキサス・ロングホーンの角、左上にはジャスパー国立公園アサバスカ滝、右上にはバンフ国立公園ボー湖の油彩、左下にはスイスのグリンデルワルトから見るシュレックホルン、その横には数年前の団地祭り様に描いた花水木通りの油絵が掛けられています。反対側の靴箱の上壁には、左から上五島の大曽教会、技術士登録証、榎津城山から見る蛤海浜風景の油彩、アステカカレンダーの七宝風レプリカが掛けられています。何れも何かを思い起こさせ、記念する品々ではあります!家内の逝去以来、筆を執ったことは無いのですが、意を奮い起して何とか記念となる鎮魂絵を手掛けたいものだと思っています。実母が18年前、義母が16年前に亡くなった際には、数ヶ月後に1枚づつ描いていたのですが、老齢になりますと何でも逡巡して優柔不断となる気がしてなりません。
2011.12.04
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先週、NHKBSで世界各地のSL蒸気機関車が紹介されていました。小学校低学年時代には東海道本線でもSL蒸気機関車が走っていましたし、その後20才頃までは山陽本線、九州でもSL牽引の客車があったのです。そんな思い出から、SLマニアにはなり切れないものがあります。トンネルに入る際は、窓を閉めないと煙が車内に充満してしまい、燃えた石炭殻灰が飛び込んで服が埃だらけになる等の不都合があったからです。今では、SLは動態保存された機関車が観光用に使われ、人気を呼んでいる様です。家族旅行で訪れたコロラドのロッキー山脈国立公園にも、そんな観光SLがあり、子供達も初めてのSL体験でした。1980年6月、子供達も未だ4ヶ月でアメリカ生活に馴染めない頃、気晴らしを兼ねての旅行で、私38才、家内37才、長男9才、次男7才、この写真は長男がシャッターを切ってくれたものです。ジョージタウン・ループ鉄道1864年にジョージタウンの近くで銀が発見され、瞬く間にシルバーフィーバーが起こり、 1871年に銀の原石を精錬所に輸送するための鉄道建設の話をコロラドセントラル鉄道会社と開始、1877年に開通しました。2000年5月、ミュンヘンでの国際学会論文発表後、ザルツカンマーグートを訪れて、SL登山鉄道でシャフベルグ頂上駅まで行き、徒歩で下山したのも懐かしい思い出となりました。シャフベルグ登山鉄道開業以来100年以上も運行を続けている登山鉄道。ヴォルフガング湖畔の街ザンクトフォルフガングから出発し、標高1783mのシャフベルグシュピッツを目指す。映画サウンドオブミュージックの舞台となったのもこの地域です。ザルツカンマーグートの湖群に加えて、アルプスの大パノラマが楽しめます。
2011.10.24
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アメリカ東部はプレートテクトニクスの影響も無く、又強固な岩盤があって地震とは無縁地帯と思っていました。しかし、そうでもなく直下型の地震は世界の何処でも、起こって不思議は無いことが分かりました。23日午後、バージニア州中部を震源とするマグニチュード5.8の地震が発生した。首都ワシントンでは、ホワイトハウスや近郊の国防総省などの建物が一時閉鎖され、職員が避難した。バージニア州では、建物の一部が崩れるなどの被害が出たほか、原子力発電所2基が運転を停止した。ニューヨーク・マンハッタンの高層ビルでも、大きな揺れを感じたということで、大勢の人がビルの外に避難した。家族で首都ワシントンを訪れ、議事堂、ホワイトハウス、リンカーン記念堂、スミソニアン博物館、と見学しましたが、ワシントン記念塔からは全て一望に眺めることが出来ました。1983年3月末の連邦議事堂、暖かく天気の良い日でした。午前中に見学したホワイトハウスも足下でした。ポトマック河畔に建つリンカーン記念堂、アメリカ人の最も敬愛する大統領です。首都ワシントンのシンボル「ワシントン記念塔」の先端部分に亀裂が入っていることが分かった。地震直後にヘリコプターから外壁をチェックしたところ、ピラミッド型に組まれている石材に長さ約1.2m、幅約2.5cmほどの亀裂が入っていた。翌日の再調査で、さらに複数のひびが見つかったという。 米国立公園局は塔内部を無期限で閉鎖し、専門家が修復方法を検討している。 塔は高さ169m、初代大統領ジョージ・ワシントンをたたえて造られ、1884年に完成。首都の代表的な観光名所として親しまれている。やはり、首都を一望出来る観光名所、見学を再開して貰いたいものです。
2011.08.29
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ある雑誌に、写真付きで次の様に紹介されています。ユカタン半島北部のカリブ海側はマヤのリビエラと呼ばれている程に光溢れる場所。半島随一のリゾート地カンクーンから南へ130kmの処にトゥルム遺跡があった。海側に一際大きな建物があった。石段の上にエルカスティーヨ神殿が見える。神殿の裏手に回ると、其処は十数mの崖の上。神殿は高い石の壁になっている。1517年、神殿は沖を通ったスペイン探検隊の目に入った。それはスペインによるメキシコ征服、マヤ文明の終焉につながった。目に沁みる程の青さのカリブ海。漆喰が落ちた神殿が建つ崖の下に寄せる波の白が、眩しく物悲しい。我が家の家族4人で訪問したのは、1983年1月16日ですから28年も前のこととなりました。神殿の周回路から北側に向かって、撮った家内の写真、当時2週間前に40才になったばかりですので、とても若い姿だと改めて思います。子供達が、何故か横からVサインしているも初めて気がつきました!
2011.04.22
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テオティワカン (Teotihuacan)とは、メキシコシティ北東約50キロの地点にあり紀元前2世紀から6世紀まで存在した巨大な宗教都市遺跡、緯度的には北回帰線の南に位置していますので熱帯地方になるのですが、高度が2400mもありサボテン・灌木が散在していますので暑いという気候ではありません。この遺跡はアステカ文明以前、西暦で言うと紀元前後に作られたもので、テオティワカン文明に属するとのことで、「テオティワカン」という名前もアステカ語で「神々の座」という意味だそうです。テオティワカン人の宇宙観、宗教観を表す極めて計画的に設計された都市で太陽のピラミッド、月のピラミッドそして南北5キロにわたる道(「死者の大通り」)が基点となり各施設が配置されている。テオティワカン社会についてはあまり知られていないが、規模から考えると神権的な権威が存在し、高度に階層が分化し、発達した統治組織があったものと推測されている。市内には職人の地区が設けられ、盛んな商業と交易の中心地であり、農民たちの巡礼となって集まる信仰の中心地でもあった。此処を訪れましたのは1977年ですからもう34年も前のこととなりました。最大のピラミッドである「太陽のピラミッド」は底辺の一辺が224m、高さ65mと言う巨大な建造物です。頂上からの展望は素晴らしいのですが、高原高度が2400mありますので急いで登りますと息が切れますので要注意です。太陽のピラミッド頂上から「死者の大通り」を見ると、その規模の大きさが実感出来ます。
2011.04.07
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米国のシンプソン製紙シャスタ工場(Simpson Shasta Mill)向けガスタービン火力発電所の爆発事故に遭遇したのは、23年前のことでした。当時の私は、米国プロクター・ギャンブル(P&G)向けガスタービン火力発電所のプロジェクトマネージャを任ぜられて、オハイオ州シンシナティ市のGE社、P&G社での打合せだったのですが、中断させて貰ってカリフォルニア州レディング市に急遽駆けつけました。そのガスタービンは蒸気混相流GTで燃料天然ガス噴射弁には同時に蒸気噴射もする工夫がなされている最新型のものでした。最新型は常に万全では無いことも多く、蒸気と燃料天然ガスを繋いでいる配管の逆止弁となるチェック弁が過熱蒸気370℃で劣化し、常温の燃料ラインに流入して何処かにホットスポットが出来たのか爆発してしまい、ガス発生機であるジェットエンジンは大破、勤務していた会社が製造した出力タービン(PT)にも大きな損傷が出て、ローター、翼、ケーシングの補修が必要でした。勿論ガス発生機はGE社(GE Evendale)から、PTローターはGE社のLos Angeles郊外修理工場に会社が予備品として保管してあったものを使用することにしました。ニューヨーク駐在員、会社派遣の技術指導員を含めた復旧体制を構築したこで、P&Gプロジェクトに戻ろうとしたのですが、客先のシンプソン製紙のコンサルESIから「我々と共に、君が陣頭指揮を取って欲しい」と要望され、今度は該当プロジェクトのプロクター・ギャンブルに了解を得て、40日間に亘り陣頭指揮を取って無事復旧に漕ぎ着けたことがあったのです。写真が1枚だけ残っていますが、ガスタービン・パッケージの何処の写真だったか今は不明です。この鋼製パッケージのお蔭で爆発が周囲に飛散せず、人身事故には至らなかったのは幸いでした。PTローターには動翼がありますが、静翼は肉盛溶接で補修することに決めコネチカット州ハートフォードに、ケーシング補修はサンフランシスコに送り出し、手待ちの数日間がありましたので、東3組立運転課の二人を連れてシャスタ湖の鍾乳洞を見学に行きました。左端の組立運転課班長、パンチパーマの職長は私の指揮下良く働いてくれ、客先の評判も良く会社の誇りを守り抜いてくれました。しかし彼らの名前が出て来ないのです。 苦しくも楽しい充実感の思い出の筈ですが、23年前ともなりますと、記憶とは曖昧なものです。
2011.03.23
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今朝NHK-BS放送を見ていましたら、EverGlades国立公園の紹介をしていました。アメリカ鰐(Alligator)を筆頭に多くの野生の水生動物がいる湿地帯の魅力、ジュゴンが住むフロリダ湾の魅力も、視聴者にも分かりやすく解説されていましたので、見入ってしまいました。フロリダ半島南部にあるEvergrade National Parkは野生の水生動物が多数いる湿地帯の国立公園です。鰐も人魚として有名なジュゴンもいるらしいのですが、残念ながら両方とも見るチャンスはありませんでした。 ディズニーワールドを家族で訪れた際に、マイアミ迄南下して海水浴・釣りを楽しんだ後、EverGlades国立公園にも行ってみたのです。南端にありますフラミンゴ・ビジターセンターに行ってゆっくり温暖な気候を楽しめただけで良かったと思います。私がブログで紹介しましたのは、8年ほど前のことだったと思っています。EverGlades国立公園私達家族がEverGlades国立公園を訪問しましたのは、1982年の正月のことで、私が40才直前、家内も39才直前、長男10才、次男8才の時ですから、「光陰矢の如し」と言いますが、月日の過ぎるのは速いものです。
2011.02.16
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食器棚から、普段使わない皿などを取りだしていましたら、サランラップに包まれた銀食器が出て来ました。ケーキナイフとケーキサーバーらしく、Reed & Bartonと言う銘が記されていましたので、イギリス製のテーブルウェアらしい。ヒューストン在住時代は、会社代表として駐在員活動しなければならず、お客様用の食器類は揃えておく必要に迫られ、家内と相談して、月々家計への負担を考えつつ、少しずつ揃えて行った記憶があります。Memorial Shopping Centerにある百貨店Foley*sで購入したものか、高級品を売り物にしていたTown & Country MallにあったSweeney宝飾店で購入したものか、今となっては何とも分かりません。29年前に帰国してからは、会社代表と言うシガラミが無くなり、サラ銀(Sterling Silver)製の食器類は黒く変色してしまいますので、使わない食器としてサランラップに包んで食器棚に収蔵しておくだけになった様です。これからも使うことは無さそうですが、家内の残した記念品として、保存しておこうと思っています。
2011.01.25
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コネチカット州都であるハートフォードには、1980年から1992年迄に四季折々訪れたものでした。ニューイングランド地方ですから、秋の紅葉時期は素晴らしい景観を楽しむことも出来ました。州のニックネームは「憲法の州(Constitution State)」と言われる通り、市民の政治意識の高いことでも知られています。又、ビジネス的には保険ビジネスのメッカとして保険会社の多いことでも知られ、世界的コングロマリット企業であるUnited Technologiesの本拠地としても知られていて、United Techologies出身者から国務長官も輩出し、アメリカ実務思想の実践地の一地域では無いかとも思われます。市中心の丘上には、州議会議事堂があり、隣接してブッシュネル公園(Bushnell Park)があって、市民散策に絶好の場所ともなっています。其処にある、市民戦争凱旋門(Soldiers &Sailors Memorial Arch)はヨーロッパから移築したのではないかと思われるレンガ製の市民戦争凱旋門(Soldiers &Sailors Memorial Arch)があります。The arch was dedicated on September 17, 1886, the anniversary of the Battle of Antietam to honor the 4,000 Hartford citizens who served in the Civil War, and the 400 who died for the Union. This Gothic monument is made of brownstone from Portland, Connecticut. Notice especially the terra cotta frieze depicting scenes from the Civil War, and midway below it, eight-foot-tall statues representing the various kinds of residents who left their homes, families and businesses to fight in the War: student, farmer, freed slave, stone mason, carpenter and blacksmith. The original terra cotta angels, Gabriel and Raphael, which crown each tower, were replicated in bronze and replaced in 1987.レンガでは無く、州内から調達した褐色の自然石製で、1886年完成ですから、それ程古くは無い様です。調査団を引率してUnited Techologiesの会社見学調査を行った際、団長を公園に案内した時の写真で、1992年3月末でしたから、もう19年も経ちました。
2011.01.24
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コロラド州にあるエバンス山は標高14,260ft(4,278m)で、富士山(3,776m)よりも高い山ですが、其処に北米で一番標高の高い自動車道路があります。頂上付近は森林限界を越え、岩がゴロゴロした風景となっています。我が家のアメリカ家族旅行の第1回目で、訪問しましたのは1980年8月初旬でしたので、もう30年も昔のこととなりました。この日は風が強く、標高4,000mとなりますと、平地に比べて24℃も低くなりますので、震えあがってしまいました。子供達は寒いのか車から出てきませんでしたが、折角だからと家内に出て貰い、岩場をバックに記念撮影し、ほうほうの態で何もせず下山しました。寒風に晒されて、顔を顰め、家内も必死の様相であることが分かります。その後、在米中、ビジネス出張で、何度かデンバー市を訪れましたが、殆どがヒューストンからの日帰りでしたので、デンバー市内から遠くにエヴァンス山を見るだけで再訪したことはありませんでした。
2010.12.03
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羽田空港に定期的国際線が復活することになり、海外渡航が便利になりそうです。私も閉鎖される1978年3月ギリギリまで利用していましたし、5月出張は遠くて不便だと思われた成田空港に替りましたので、感慨深いものがあります。下記の写真は1977年3月頃の羽田送迎デッキ、アメリカ東海岸行きは午前11頃出ていましたので、荷物チェックインを終え、出国管理前のひと時を家族で過ごしている時のもので、長男は5才なので幼稚園を休み、3才の次男と共に見送りに来てくれたのでしょう。当時は、出国時には家からタクシーを使い、帰国時には会社がハイヤーを用意してくれました優雅な海外出張時代だったので、家族全員での見送り・出迎えも容易だったのです。未だ為替も250円/ドル程度で、海外旅行は業務出張が殆どで、観光旅行は高嶺の花でもありました。パソコンも無い時代で、トランクは書類で一杯、重くて苦労をしたものです。まさか、それが2年後、家族帯同でのアメリカ駐在が命じられると思いもしませんでした。羽田空港の国際線旅客ターミナルビルと4本目の滑走路(D滑走路2500m)が10月21日、オープン、航空会社などのセレモニーが相次ぎ、本格的な再国際化を祝った。 羽田空港に国際定期便が復活し、成田国際空港も発着枠を広げる。いよいよ始まる国際拠点(ハブ)空港への挑戦だが、海外の主要空港に追いつくには課題も多い。日本航空の再建には不透明感も漂う。日本は「空の攻防」で正念場を迎える。「将来的に5本目の滑走路を考えることも課題」、羽田空港で馬淵国交相はさらなる拡大の可能性をにじませた。10日後の31日、32年ぶりに国際線の定期便が就航します、来年初めまでにニューヨークやホノルル、パリなど世界17都市と結ばれる予定で、羽田空港は、本格的な国際空港として新たなスタートを切りました。又、都心まで最速13分で結ぶ東京モノレールと京急電鉄の新駅も開業した。JALでも「羽田国際線を利用した方への無料航空券キャンペーン」をしていて、当時のパスポートを見ますと、1977年は3月と10月、1978年は3月に羽田から出国していますので応募しようかと思いつつ、応募要領を読みますと、10月30日にイベント会場に行く必要があるとのことですので、Give Upすることにしました。
2010.10.22
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ヨッホー国立公園の白眉はエメラルド湖(Emerald Lake)と言うことになりますが、その近くにあるタカカウ滝も必見の場所に思えます。タカカウ滝(Takakkaw Fall)は、私は永い間「タカッコー滝」と覚えていたのですが、現地では「テクコー」と発音するのが近いらしい。この滝はWaptik Icefieldを源泉とする滝で、Cree族の言葉で"Magnificent(壮大な)"という意味だそうだ。落差は380m高さを有し、カナダ随一の落差を誇り、豪快な景観を呈してくれる。1981年8月初旬、会社を1週間休んで、我が家の家族カナダ旅行ではエポックメーキングな旅行でした。子供達も英語に慣れて来て、親が通じない会話も徐々に助けてくれ、アメリカ生活を楽しめる様になった頃でした。家内38才、長男10才、次男8才の3人をタカカウ滝をバックにして、駐車場から記念写真を撮りました。滝壺まで行って壮大さを見学、多少の水しぶきを浴びた記憶もありますが、写真は残っていません。29年前は、私、家内、子供達も、それなりの事情でストレスがあったと思われますが、若さと家庭内宥和で、乗り越えることが出来た時期でもありました。
2010.09.15
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次男夫婦に女の子が生まれました。写真付きのメールが送信されて来て、目が開いているのに、「そうだったか?」と遠い過去に思いを馳せました。家内の1周忌前1ヶ月ですので、生まれ替りが誕生したのだと思えてなりません。よく一世代30年間隔と言われますが、近頃は結婚年齢も高くなり、一世代35年位なっている様な気もします。30年前の1980年7月、米国駐在時代の初めての家族旅行は、ロッキーマウンテン国立公園で、レンタカー待ちでデンバーに一泊しましたので、デンバー市内観光することにした時の州議事堂前でのワンショットです。私が38才で、家内37才、長男9才、次男7才で、家族全員若くて元気、英語が分からずに通う現地小学校のストレスがありましたので、リフレッシュを兼ねたご苦労さんの慰労ご褒美旅行でした。そんな旅行を重ねつつ、親も子供も漸くアメリカ生活にも何とか馴染みつつある頃でした。家内も行年66才で、あと1年存命であれば、孫の姿を見ることが出来ましたのに残念なことでした。世の中は上手く行かないものです!
2010.09.09
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メキシコシティには15回以上訪問していますが、それも27~30年前のことで、その殆どは駐在地のヒューストンからの1~2泊出張、PEMEX(メキシコ石油公社)、CFE(電力庁)、CLF(Companie Luz y Fuerza:電力燃料会社)での技術説明でしたので、市内観光はしないまま終わってしまいました。会社駐在事務所がレフォルマ大通りにありましたし、宿泊ホテルもその近くでした。よく泊まったホテル、Fiesta Palaceは当時完成したばかりでしたが、未だFiesta Americana Reformaと言う名で営業されている様です。独立記念塔(Angel de la Independencia)は、「アンヘル(天使)の塔」と呼んで、遠くによく眺めていました。仕事が終わると夕方になりましたので、昼間に近くに行って見たことはありませんのが、今から考えますと残念です。そんな訳で写真は一切手持ちがありませんので、上記画像はインターネットGoogle Earth経由で借用させて頂いたものです。レフォルマ大通りは、メキシコの首都メキシコシティの中心を貫く大通りで道幅も広く最もゴージャスな通りで、新聞社や銀行など大企業のオフィスビル、それに有名ホテルもいくつか軒を連ねている。又、レフォルマ大通りに沿って、人類学博物館、近代美術館、タマヨ美術館、歴史博物館、植物園、動物園がある。そして、レフォルマ大通りのメインは独立記念塔(Angel de la Independencia)、何かある度にメキシコ人が集合する場所でもあり、気勢を揚げる所であり、記念の写真を撮るところでもある。高い塔の上の金メッキの大きな天使の像は、メキシコ人の誇りである。メキシコシティは標高2400mにある盆地ですから、自動車の排気も薄い空気なので未燃ガスも多く、又その排気ガスが盆地内に溜まってしまい、大気汚染公害の典型的な場所でしたが、現在は改善されたのでしょうか?
2010.08.10
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1980年代後半に、カリフォルニア州オクスナード(Oxnard)市にあるプロクター・ギャンブル(Procter Gamble)社に自家発電所を創設するのに2年間、殆ど毎月と言って良いほど通い続けました。最初はロサンゼルス空港から、インターステート405号線から101号線(Ventura Highway)を使って丘を越えて行っていたのですが、海岸線も良いとの助言もあり、ハイウェイ1号線(PCH:Pacific Coast Highway)を北上して使うことが多くなりました。マリブ(Malibu)はサンタモニカからハイウェイ1号線を20分くらい北上した場所にある、海と山に挟まれた穏やかで美しい町。高級住宅地でもあるのですが、自然をそのまま残す分、山火事や土砂崩れなどの災害に見舞われることも。それでも人を惹きつける、大きな魅力がマリブにはあるようです。うっすらと見える丘(サンタモニカ山系と呼ばれる)の向こうがサンタモニカ、此処の海は寒流が南下している関係から海水温が低く、霧が発生しやすい気候です。上記画像は、プロジェクトが完了して数年、テネシー州ナッシュビルでの米国航空宇宙学会で論文発表した後、懐かしさに誘われてドライブした時のもので最後の記念、もう16年も経ったのです!訪米目的は、主契約者のプロジェクト・マネジャとしてP&Gプロジェクト会議出席でしたので、独りでドライブすることが多かったのですが、採算性の話題に言及する場合には、契約変更も考えられ、営業担当も何回となく連れて行ったのです。その内の一人が昨年67才で亡くなりましたのも、「光陰矢の如し」の感がし寂しくて仕方がありません。
2010.07.24
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1972年4月初旬の朝のワイキキ・ビーチ、それにしても空いています。その1年前に、360円/ドルの固定相場から308円/ドルになったばかりで、外貨の少ない日本からの観光客が少ない頃で、海外旅行は未だ高嶺の花でした。ミネソタ州の小さな町から日本に帰国することをJALに電話相談したのですが、即日帰国は無理で、ホノルル経由で翌日に帰る様に設定してくれ、ワイキキ・ビーチにある契約関係にあったモアナ・ホテルを予約してくれたのでした。ワイキキと言えば砂浜で有名ですが、ワイキキ・ビーチには元来砂浜はなく、1920年代から1930年代にかけて、カリフォルニア州のマンハッタンビーチから白砂を運んで作られた人工の砂浜である。1971年8月、ニクソン大統領はドルと金との交換停止を宣言し、ブレトン・ウッズ体制の終了と為替相場の変動開始を告げた(ニクソン・ショック)。1971年12月、スミソニアン博物館で各国蔵相会議が開かれ、通貨の多国間調整(1ドル=360円→308円に切り上げ)と固定相場制の維持(スミソニアン協定)が確認されたが、長続きせず、1973年2~3月に日本を含む各国は相次いで変動相場制に切り替えた。変動相場制は1976年1月ジャマイカのキングストンで開催されたIMF暫定委員会で承認された(キングストン体制)。
2010.06.25
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ノットウェイ・プランテーションハウス(Nottoway Plantation)を訪れましたのは、1981年1月のことですから、ほぼ30年前のこととなりました。当時は、アメリカは製造業の衰退が顕著で景気が悪い時でしたので、観光産業にも勢いが感じられず、訪問客も殆どいませんでした。観光産業が勃興するのはクリントン大統領2期目のことでしたから、それより10年以上経過しなければなりません。我が家でも、駐在員の私が出張多く母子家庭になっていたのですが、家内が運転免許を取得し2台目の車を使って行動が自由となり、英語が話せず1年間現地小学校に通っていた子供達も漸く慣れて来て、少しづつ英会話での意志疎通も見え始め、少し安心感が出て来た頃でした。ノットウェイ・プランテーションハウスはサトウキビ実業家が、建てた豪邸で、敷地面積2800ha、建坪5000m2、 部屋数64という南部最大のプランテーション。1859年に出来上がったこの家、寝室にはウォーキングクローゼットなどが隣接し、納戸等も含まれ、ボールルーム、書斎、ダイニング、ゲストルーム、プレイルームと様々な部屋が点在している。敷地内には42の奴隷小屋が備えられ、敷地内に共同浴場やら病院、集会場なども設置していたと言う。現在では、訪問客用に、母屋と隣接する棟の15部屋がB&Bとして宿泊できるようになっている。このプランテーションは、南北戦争時代の戦火から逃れ、ほぼ当時のままの姿で保存されているが、1889年多額の税金の支払いを課せられ結局、5万ドルにてこの屋敷を売り払った歴史があります。現在は、オーストラリアの富豪が所有、当時の栄光の姿を保管すべき同じ時代の調度品などを収集しこの屋敷に集め、それを一般公開しているそうです。ルイジアナ州、ミシシッピー州のプランテーションには結構行っていますので、その一部をご覧ください!古き良き時代のプランテーションハウス
2010.06.21
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