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これも何かの縁だろうか。前回の記事『動物を「人間」たらしめているものは何か…』に載せた、藤井聡やむすび大学の動画を通して浜崎洋介という人物を知り、彼が出演している動画を幾つか観ている内に西部邁に辿り着いた。先日も書いたように今は「やる気ゼロ」なので(笑)、別に何かを書くつもりは無かったのだが、とある動画で西部が小津安二郎監督の【東京物語】について語るのを聞いて、思わず「そう、そう、あの映画の本質はそこなんです!」と嬉しくなり、今回は社会派とも映画評論ともつかない記事を少し書いてみる事にした。映画【東京物語】の感想はこちら →『完璧なものは美しい…』西部邁が「あたかも季節が移り変わるように、人間の命が生まれ、生き、やがて死んで行く事に対する情感は、世界中の誰もが少なからず持っているものであり、日本人に限った話ではない」と言うように、僕も【東京物語】で描かれている主題は「人間の普遍性」だと思っている。特に鳥肌が立ったのは、周吉(笠智衆)が旧友の沼田(東野英治郎)と居酒屋で交わす台詞だ。「今時の若い者の中には、平気で親を殺す奴もおる」これは今から70年以上も前、1953年(昭和28年)の台詞である。それを僕は今、年配の客達が口を揃えて言うのを、喫茶店で毎日のように聞いている(笑)。(子供に対する愚痴や、外の音が気になって眠れないといった小言まで同じだ)当時「今時の若い者は…」と呼ばれていた者達が、70年経って当時の老人達と同じ事を口にする。そして、そんな彼らを下の世代は煙たがり、相手にしたがらない。つまり【東京物語】の登場人物達は、古今東西、其々の年齢層になれば誰しもが経験し体感するであろう想いを、其々に代弁しているのだ。その心象風景が、普遍的で何気ない日常生活の中にくっきりと浮かび上がって来るからこそ、この映画は不朽の名作として、世界中の人達から高い共感と評価を得ているのだと思う。なので、藤井聡には申し訳ないが、「そんな所で日本人らしさを論じて欲しくない」という西部の指摘は正しい。その一方、「国家の戦争のために死んで行った者達を記憶に留め、時々は語ってやろうという人間が、敗戦から10年も経たずして日本から消えてしまった」「日本人は直ぐに自分達を美化するが、関東大震災の時にはあらぬ疑いから在日朝鮮人を何千人も虐殺したではないか」という西部の憤りには、身の引き締まる思いがした。ただ、小津安二郎を擁護する訳ではないが、【東京物語】で戦前がほとんど語られないのは、戦争に反対していた小津なりの優しさなのではないかと感じている。それが端的に現れているのが、「私ずるいんです」と告白する紀子(原節子)に対し、周吉がかける「ええんじゃよ、それで」という台詞だ。ここには、過ぎ行く時間の無情さ、薄情さと共に、次の世代が戦後を生きる事を肯定する、小津の「君達は君達の時代を生きなさい」という想いが込められているように感じた。それを象徴するアイテムが、あの形見の時計なのだ。また、その後の場面で周吉が隣人と交わす「独りになると、急に日が長ごうなりますわい」という台詞では、時間が完全に止まってしまった周吉(=死)と、時間を進める紀子達(=生)との永遠の別離が表現されている。だからこそ、あの独りのラストシーンは、何とも言えない悲哀と郷愁を誘うのだ。そして、良くも悪くも「生」の象徴として描かれた「東京」は、70年が過ぎた現在も時間を刻みながら変わり続ける。という事で、記事を書くために途中で止めていた動画の続きを観たいので、今回はここまで。西部の「戦争で亡くなった者達を忘れてはいけない」という想いも、小津の「子供達に過去を背負わせるべきではない」という想いも、僕はどちらも正論だと思う。では、過去と未来の狭間に生きる僕達は、どういう形で先人達から過去を受け取り、子供達に未来を託して行くべきなのか…。西部邁の話を聞きながら、その「繋げ方」「バランスの取り方」を問う事にこそ、「日本人とは何者か?」というアイデンティティの問題に答えを出す糸口があるような気がした。せっかくなので、浜崎洋介が出演している他の動画も幾つか挙げておく。僕は彼ほど知識も教養も無いが、見ている景色は同じだと感じた。彼なら、僕の立てた問いに答えを出してくれるかも知れない。と、そんな事を書いている間にも、イラン大統領の墜落事故死のニュースが入って来て、世界はどんどん混沌の渦に巻き込まれて行く。いつまでも呑気に「やる気ゼロ」とは言ってられなさそうだ…。
2024.05.20
ハァ…「ぶりぶりざえもん」みたいな生き方がしたい相変わらずYouTubeやXはチェックしているものの、次の一手になるような動きが無く、最近は少し呆けている。また、数年に一度くらいの頻度で無性にゲームがしたくなり、毎日一時間ほどネットでパズルゲームをして過ごしている。なので、暫く更新が滞るかも…(笑)。それか、こんな眺めの小さな部屋で、暫くぼんやり過ごしたい。
2024.05.16
民主主義とは「人数の多い方が勝つ」という数の勝負である。 資本主義とは「金額の多い方が勝つ」という金の勝負である。 そして残念な事に、民主主義の「数」は資本主義の「金」で買える(=買収できる)という致命的な欠点を持つ。 なので当然ながら、民主主義と資本主義が併存する社会では、資本主義の方がより強い影響力を持つ事になる。これは、人間が動物である以上、抗いようのない本能である。 あらゆる「モノ」「コト」の価値が金に換算されて判断される現代社会では、この傾向は更に顕著となる。では、そうした動物的本能に支配されず、人間性を保って生きるには一体どうすれば良いのか。それは「自省」と「自制」の心を育てる事だと、僕は考えている。「○○したい(したくない)」「□□が好き(嫌い)」「△△が欲しい(要らない)」という欲求は、動物的本能に由来する。怒りや不安といった感情も同様だ。であれば、そうした動物的な欲求を抑制しコントロールしようとする心の働きこそ、動物を人間たらしめる根源ではないか。(ここで言う「自己の抑制」は、「他者からの抑圧」とは全く性質が違うものであり、混同してはいけない) 奇妙な事に、これは現代社会で善とされる「自由」「権利」「多様性」とは真逆の発想である。 しかし、昨今グローバリスト達が推し進めるLGBT運動や移民政策が、欧米諸国にどんな混乱を引き起こしているかを見れば、人間が集団で社会生活を営む上で「自省」と「自制」の心がどれだけ大切なものであるか直ぐに気付けるだろう。これに関して、今読んでいる【日本人が知らない!世界史の原理】の中で、宇山卓栄が興味深い話をしている。 中国では、王朝がコロコロ替わり、遂に人々に国というものの意識が根付かなかったのだと思います。国の意識が無いために、公共の意識もありません。人が道で倒れていても誰も助けない、そこら中にゴミや公害を撒き散らして平然としている、そんな自分さえ良ければよい人間ばかりが集まる荒廃した社会になってしまうのです。 道徳の荒廃は、ならず者や簒奪(さんだつ)者が覇を競う無秩序な世が長期的に続いたことにより生ずるものです。国の支柱となるべき精神や規範というものが欠落した状態が歴史的に慢性化し、それが今日の共産党政権まで続いているのです。 現在、世のグローバリスト達はこの「道徳が荒廃した社会」を意図的に作り出そうとしているように、僕の目には映る。 彼らの唱える「グローバル社会」が「新共産主義社会」と同義なら尚更だろう。個人の自由と権利を盾に、国や民族、宗教、文化、伝統、価値観などの境界を侵食し曖昧にする事で、社会の支柱となるべき精神や規範を奪って行く。その一方、それと並行して、気候変動やパンデミック、戦争、フェイクニュースなどで社会の危機を演出し、大衆の不安を煽る事で、個人の自由や権利を制限して行く。このように、グローバリスト達の戦略は「自己の抑制」を破壊しつつ、「他者からの抑圧」を強制する事である。であれば、反グローバリズム運動とは「自己の抑制」を守りつつ、「他者からの抑圧」に抵抗する事だろう。(繰り返しになるが、今それを実践している国家指導者が、ロシアのプーチン大統領である)これに関しては、以前に紹介した元KGBで対外プロパガンダの専門家、ユーリ・ベズメノフの講義でも詳しく解説されている。「自由」「権利」「多様性」といった巧言に誑かされ、動物的本能に支配されれば、人間は己の欲求を抑制する心を失ってしまう。しかし、「自己の開放」は常に「人間性の堕落」「公共性の崩壊」を誘発する危険性を孕んでいる事を忘れてはならない。今の日本社会に蔓延する「今だけ金だけ自分だけ」という風潮も、グローバリズム思想の悪しき影響だと考えれば納得しやすい。そうした風潮に抗い、人間性を失わないためにも、これからの時代はより一層「自省」と「自制」の心が重要になるだろう。そして、その心を育てる拠り所となるのが、「哲学」なり「信仰」なり「(国や家族への)帰属意識」だろうと僕は考える。そのために、先ず「教育システム」と「家族のあり方」を見直し、再構築する事が必須となる。何故なら、人格形成の基盤となる環境が不安定では、健全な精神と確固たる思想を育む事は困難だからである。以上、やや駆け足ながら、「理性と本能」という視点から「人間性とは何か」そして「民主主義と資本主義」「グローバリズムと反グローバリズム」についてまでを語ってみた。(少し話題を広げ過ぎたかも知れない…笑)せっかくなので、僕とアプローチは違うが、色々と参考になるであろう識者達の解説動画も一緒に載せておく。また、蛇足ではあるが、コロナワクチンの案件に対して金で買収されなかったコヤッキーには、この場を借りて敬意を表したい。彼が理性的な人で良かった。
2024.05.08
慌しかったゴールデンウィークも終わり、途中になっていた記事にもようやく目処がついた。少し長くなってしまったので、前後編に分ける。以前に紹介した「受動意識仮説」を参考に、「動物」と「人間」の差について書いてみようと思っていたら、コヤッキースタジオが面白い動画を挙げてくれた。先ず、こちらからご覧頂きたい。一般的に、人間には「理性」と「本能」があり、それらは互いに独立し、別々の働きをすると考えられている。そして、動物的な欲求や感情を司る「本能」を、人間だけが持つ「理性」がコントロールしていると考えられている。それ故、理性は本能より優れており、理性を持つ人間は本能しか持たない動物より賢いのだと、学校では教えられる。しかし、果たして本当にそうだろうか。大学で西洋哲学を学び、独学で東洋哲学と禅の思想に触れ、色々と思索を重ねる中で、これまで教えられて来た理性と本能の関係性に疑問を感じるようになって行った。何より、日常生活や世界のニュースで見る人間の行動は、理性よりも本能(=感情や嗜好)に起因している事の方が圧倒的に多い。スマホやSNSが普及してからは、更にその傾向が極端になったように思う。(つまり、短絡的な思考しかできない人間が増えた、という意味だ)また、自分自身を観察しても、やはり理性より本能で動いている場合の方が多いように感じた。こうした考察から僕は、理性とは飽くまで本能の一部分であり、本能が「理性的でいよう」と判断した時にのみ働くのが理性であるという結論に至った。なので、40歳を過ぎて初めて「受動意識仮説」を読んだ時は、全く何の違和感も無くすんなりと腑に落ちた。・人間が日常的に行っている意思決定の大半(8~9割)は、意識ではなく無意識の部分で行われる・人間が「指を曲げよう」と意識するから脳が指を曲げる指令を出すのではなく、脳が指を曲げる指令を出すから人間に「指を曲げよう」という意識が生まれる・人間の感情や嗜好、言動には、脳内で分泌される神経伝達物質の働きが大きく作用している・人間にそもそも自由意志など無いこれは、酒を呑んで酔っ払った人の行動を思い浮かべてみると理解しやすい。泥酔した人はよく「昨日の記憶が無い」といった発言をするが、近年の脳化学の研究によれば、これは「記憶が無い」のではなく、呑んでいる最中にそもそも「意識が無い」のだとか。つまり、酔っ払っている人はほぼ無意識で行動している、という事になる。それでも、多少なり言動に可笑しな所はあれど、周りの人達と普通にコミュニケーションを取る事もできるし、会話もできて1人で家に帰る事もできる。裏を返せば、この時、他人から見て「変だ」「普段と違う」と感じる部分が、普段「理性」で補っている部分だとも言える。それ以外は、本能の働きによって、人間は無意識に勝手に動いている(=動ける)のだ。そう考えると、人間が日常生活を送るのに、理性が無ければ成立しない場面というのは意外と少ない事に気付くだろう。そして、普段からこの状態で生きているのが動物だとすれば、人間と動物の間にはさほど差が無いようにも思える。「遺伝子的に見れば人間と猿の違いは1%しか無い」というコヤッキーの説明にも、違和感が無くなるのではないか。(脳の大きさの差は、パソコンのCPUと同じで、そこに蓄えられる情報量とその処理能力の差であり、理性と本能の差ではないと僕は考えている)そして、この状態こそが「理性は本能の一部でしかない」「本能が理性的でいようと判断した時のみ働くのが理性」の証左である、というのが僕の見解だ。逆に言えば、その僅かな部分こそが、動物と人間を分ける決定的な違いなのではないかと思う。以上を踏まえた上で、動物を「人間」たらしめているものは何かを、僕なりに考察してみたい。動物が人間のような仕種や行動をするのではない。人間がそもそも動物なのだ。或いは、人間が気付いていないだけで、動物には動物なりの理性があるのかも知れない。過去の関連記事 →『動物は、家族や仲間の死を悲しむのか…?』He changed his mind.. 😂 pic.twitter.com/uD3y1ftJQB— Buitengebieden (@buitengebieden) April 19, 2024Someone is jealous.. 😅 pic.twitter.com/4mxuHaaoS6— Buitengebieden (@buitengebieden) May 6, 2024The best babysitter..🦧😍 pic.twitter.com/7b0AGA54bO— 𝕐o̴g̴ (@Yoda4ever) May 5, 2024İzledikleri çizgi film kapatılınca sinirlenen köpekler pic.twitter.com/i4NXFQwZfi— Tuhaf Ama Gerçek (@TuhafAmaGercek) January 29, 2024Amazing magic. 😂 pic.twitter.com/V7Wm1KmslL— The Best (@ThebestFigen) February 22, 2024
2024.05.08
先ず、インドネシアとヘヴィ・メタルというイメージが結び付かないのに加え、ヒジャブを纏った若い女の子3人組というビジュアルも鮮烈なバンドが登場した。Voice of Baceprot (ヴォイス・オブ・バチェプロト)「イスラム教徒で、しかも女性がロックなど演奏して大丈夫なのか?」と疑問に思ったが、解説を読むとやはり色々と規制は厳しいようだ。しかし、彼女達はそうした現実に立ち向かうべく、自らの想いを表現する手段としてヘヴィ・メタルを選んだ。バンド活動は、既に10年になるそうだ。幼いルックスからは想像できないほど本格的なヘヴィ・サウンドに、アジアらしさを感じさせるメロディとリズムが不思議な魅力を醸し出している。その音楽とメッセージが、彼女達の未来、そして世界をどう変えて行くのか注目したい。また一つ、好きなバンドができた。※以下、メーカー・インフォメーションより。 アジア有数のメタル大国インドネシアから強烈なグルーヴのメタル・サウンドと強靭なメッセージそしてヒジャブを纏ったビジュアルで世界を席巻中のガールズ・メタルバンド“ヴォイス・オブ・バチェプロト”がついにCD/LP世界初リリース!さらにボーナストラックとしてメタリカ「Enter Sandman」カバーを追加収録!ジョコ・ウィドド大統領がメタル・ファンであることを公言、大規模のコンサートが開催されるなど、メタル大国として知られるインドネシア。その一方でイスラム教の宗教警察によってパンクスが拘束されるなど、規制が厳しいことでも知られている。そんな社会において“闘争”としてのメタル携えて立ち上がるのがヴォイス・オブ・バチェプロト(VOB)だ!2014年に西ジャワ州ガルト郊外の小さな村シンガジャヤでFirda Marsya Kurnia(ヴォーカル、ギター)、Widi Rahmawati(ベース)、Euis Siti Aisyah(ドラムス)という3人の十代の少女がシステム・オブ・ア・ダウンやレイジ・アゲインスト・ザ・マシーン、メタリカなどから影響を受けてバンドを結成。当初はカヴァー曲を演奏していたがオリジナル路線で頭角を現す。エクストリームなサウンドと卓越したテクニック、英語とスンダ語を交えたメッセージ性の強い歌詞、ヒジャブを髪に纏ったヴィジュアルなどがSNSなどで話題を呼び、世界のメタル・シーンを巻き込んでうねりを巻き起こしてきた。2018年にシングル「スクール・レヴォリューション」で正式デビューを飾った彼女たちは2021年にはレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンのトム・モレロとの対談が実現、2022年には世界最大のメタル・フェスであるドイツ“ヴァッケン・オープン・エアー”出演、そして2023年には初の北米ツアーを行うなど、着実に世界制覇への道をステップアップしていった。VOBのファースト・フルレンス・アルバム『RETAS』は彼女たちの10年の軌跡の集大成であり、新たな闘いへのプレリュード(序曲)だ。ヘヴィなリフとバキバキと骨をきしますグルーヴ、大地を揺るがすリズムに乗せて、彼女たちのリアルなメッセージが叩きつけられる。「ホワッツ・ザ・ホーリー(ノーベル)トゥデイ?」は“STOP WAR!”と訴えかける反戦ソング、「PMS」は“Perempuan Merdeka Seutuhnya =完全に自由な女性”を指す。「ジ・エネミー・オブ・アース・イズ・ユー」では“人間こそが地球の敵”というペシミスティックな視点が突きつけられ、「(ノット)パブリック・プロパティ」は女性に対する性搾取へのプロテスト・ソングだ。地元の一部保守層から敵視されることもある彼女たちだが「ゴッド、アラウ・ミー(プリーズ)トゥ・プレイ・ミュージック」では“私は犯罪者でも敵でもない。ただ心の丈を歌いたいだけ”と主張する。そんな真摯なアティテュードが彼女たちの音楽をよりダイナミックに、より切実にしていることは間違いないだろう。アーティストであること、女性であること、そして何よりも人間であること。“やかましい声”を意味するヴォイス・オブ・バチェプロトの音楽は、強い意志で自分の道を貫く3人から世界に向けた、どこまでもラウドなアイデンティティ宣言だ!
2024.05.02
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