仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2022.09.19
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カテゴリ: 仙台
仙台とコレラの歴史について。阿曽沼先生の著作を読んで記す。

■参考
阿曽沼要『墓誌・碑文・古地図にかいまみる仙台の医学史』丸善出版サービスセンター、2010年

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1 明治15年の仙台コレラ流行と水の森の碑文

緑豊かな水の森公園。水の森市民センターを起点とする散策路を150歩ほど北進すると、左手に、「叢塚」が建つ。さらに60歩ほど奥の散策路分岐部には、上部が欠けた自然石の「焼場供養塔」がある。276人の供養碑である。

叢塚には漢文で碑文が刻まれている。以下が解読文である。

明治15年7月、虎列刺(コレラ)疫が盛行し、宮城県仙台区の病死者日に十余名に上る。官は荒巻邨(村)に場を設けて死屍を火(焼)き、壇(檀家)の埋葬を許さず。蓋し伝染を防ぐなり。
虎列刺疫は、印度に原出し、遂に我が邦に侵入して愈東に熾んなり。宮城県の此の疫あるや、今茲に始めと為す。
疫の本は有機毒性為りて尤も酷烈にして熱度沸湯に至らざれば則ち撲滅せずと聞く。凡そ、飲水の不浄庭宇の不潔、及び魚鳥果菜、調理を失うの類は必ず其の種を遺す。故に飲食の選択、庭宇の麗掃、最も不可なるは以て心を用いざるべからざるに夫婦の愚かなるは衛生の何物為るを知らず、恬然として省みず。遂に毒を使わし焔炎々として嚮邇すべからず(向かい近づくのを止められない)。
是自ら招くところの者有りと雖も豈に亦憫ならずや。
今や秋気清爽、呻吟の声熄(や)むも当時を回想すれば実に人をして身戦(おのの)き心悸(おそ)れしむ。其の惨を極むと謂うべし。
荒巻邨は仙台区の北に在り。場を設けて自り以来、屍276名を火(焼)く。火く毎に親戚遺骨を収めて之を葬る。然れども余骨灰中に現存する者堆積す。
宮城県士族邨上左膳君之を哀れみ、叢冢を築き、遺骨を収めて合葬し、又碑を建てて永く香火の地と為す。義を好む者争って貲を捐して之を助け、余に嘱して之を記せしむ。
嗚呼、君の此の挙、祭吊(弔いの祭)に礼情有りて義の尽くるに至ると謂うべきなり。
死者霊有らば宜しく泉下に瞑すべし。是に於いて書す。明治15年11月 西岡逾明撰并書

干時明治15年12月建之 発起人世話人8人

邨上左膳なる人物の詳細は不明である。西岡逾明(ゆめい)は肥前佐賀の生まれで字は子學、宜軒と号した司法官。明治14年宮城県控訴院長に任ぜられ、のち大審院刑事局長、長崎、函館控訴院長を歴任した。西岡は文学を愛し、仙台在任中は維新後衰退した仙台文学を発揚した文人でもあった。

2 過去のコレラの歴史

コレラは経口感染する法定伝染病。潜伏期間は早ければ数時間から5日以内、猛烈な水様便と嘔吐で急速に脱水症状が進む。腹痛や発熱はなく、血行障害、血圧低下、筋痙攣を起こして死に至る。現在では補液などの適切な対処を行えば死亡率は1%から2%に過ぎないという。

『宮城県史』の災害編には、疫病を含む多くの災害が記録される。
・寛永6年(1629) 暑熱・疫病
・享保19年(1734) 洪水・疫病
・安永3年(1774) 気仙郡疫病・死者2,107人
・寛政2年(1790) 疫病死者多し
・寛政5年(1793) のどはれ流行・死者多し
・享和2年(1802) 疫病流行
・享和3年(1803) 麻疹流行・死者多し
・文政7年(1824) 麻疹流行・死者多し
・天保元年(1830) 痘瘡流行・子ども多く死す
・天保2年(1831) 感冒流行
・天保3年(1832) 朝鮮風邪流行
・天保6年(1835) 夏中疫病流行・死者多し
・天保8年(1837) 流行病者多数
・安政元年(1854) 痘瘡流行
・安政5年(1858) 天然痘・コレラ病流行
・安政6年(1859) コレラ病激烈
・文久2年(1862) 麻疹流行・死者多し
・明治15年(1882) コレラ大流行・屍体は焼却
病名が記載された最初は、寛政5年の「のどはれ」である。その後、麻疹、痘瘡(天然痘)、朝鮮風邪などがあるが、コレラが最初に記載されたのは安政5年である。

日本のコレラ流行の最初は、コッホのコレラ菌発見の60年ほど前の文政5年(1822)とも言われる。この年は、朝鮮、対馬、九州、山口、京都や大阪の経路で流行し、朝鮮では4万人、対馬は全滅、萩583人、岸和田134人、大阪では毎日ニ三百人が死亡したという。安政5年(1858)は、九州、中国、東海道、江戸、そして仙台藩へ伝播したと考えられる。江戸の死者は30万人を越したといわれる。
西岡は碑文の中で酷烈な伝染力を記し、衛生知識のないことが死を招いたと断じている。

3 火葬について

火葬はユダヤ教、イスラム教、ギリシャ正教やロシア正教では禁じられている。米国ではプロテスタント保守派で禁忌が強いこともあって火葬率は20%ほどだという。日本では、仏教伝来とともに伝わったという説が有力。これは仏陀が火葬されたことに因むと言われており、日本の火葬率は高いそうだ。明治政府が衛生面から推奨したことにもよるという。

しかし昔は土葬が主で、火葬が主流になるのは昭和もずっと後である。何かで火葬の必要があるのに常設の火葬場がないときは、場所を決めて野焼きを行った。

火葬が法律で決められた当時は、あの世に行けなくなると、施行前に自殺が相次いだそうだ。焼かれることが大変な苦痛だったからこそ、この碑を建てた人の心が顕彰され、人民の心は別に伝染防止のため集めて焼いた「官」の英断も賞賛されよう。





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最終更新日  2022.09.19 19:58:30
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