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「精神病」が定義される以前に「精神病」はなかったと主張するのは、「自閉症」以前に「自閉症」はなかった、というのと同じ類の善意の詭弁にすぎない。ただ昔は日本だとたとえば髭黒の右大将の北の方のように、「物の怪」や「狐つき」のせいにされていただけのことである。
2007.01.31
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決断を下した以上、たとえそれが決断を下さないという決断であっても、自分で責任をとらなければならない。おしめをはずすということは、つまるところそういうことだ。誰も、他人の代わりに便所へ行くことはできないのである。
2007.01.30
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源氏―女三宮―柏木の三角関係の原型はすでに「胡蝶」の帖にみられる。女三宮の場合と同じように、玉蔓の置かれた状況も源氏の意志によるものであった。そしてどちらの場合も、柏木は事の真相を知らない。女三宮に対しては痘痕も笑窪であったし、玉蔓は柏木の異母妹なのに想いを寄せるのである。悲劇の伏線は、こんなところにもあったのだ。
2007.01.30
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葵の上と源氏はとうとう最期まで一首も歌を交わさなかった。彼女の性格を反映しているとはいえ、このふたりの間に若宮が生まれたこと自体、すでに一個の奇跡である。
2007.01.29
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今月中で退職するという友人を誘って上記の展覧会に行ってきました。最終日なので黒山の人だかりです。画風は、手塚治虫の絵を日本画にしたような感じでしょうか。「日本の四季」コーナーでは子犬のうめ吉、お地蔵さま、お人形、案山子、サッカーボールなどお馴染みのアイテムが並んでいましたが、個人的には、最近パリに行って描いた一連の作品「パリの四季」が好みでした。パリのルーブル美術館でも大好評だったそうです。展覧はしてありませんでしたが、リトグラフの「通り雨」は懐かしい作品でした。東京の大学に通っていた頃、地下鉄の駅でこの絵のポスターを見て「お地蔵さま」という詩を書いたからです。あれからもうすでにひと昔が過ぎ、もうすぐふた昔を迎えようとしています。五月雨にひつじぐさ、の葉をかむっていっしんに馳せてゆくころころと紫陽花のようによくわらいながらあかいよだれかけもわすれて。
2007.01.28
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初めて読んだ時は気がつかなかったが、「朝顔」は後の源氏と女三宮と紫の上をめぐる三角関係の悲劇を予感させる帖だ。女三宮と結婚したのは必ずしも彼女が藤壺ゆかりの女性というだけではなかった。根底には高貴なる女性への憧れと虚栄心があったことが暗示されている。末摘花は高貴な生まれだったが醜女で無口で気が利かなかった。秋好中宮は養女のような感じで手が出せない。朝顔の君は臆病でつれなかった。物語は喜劇的色彩から中間色になり、やがて避けられない悲劇に至るのである。もしも光源氏がこの帖で紫の上の深い哀しみを心から理解していたなら、決して女三宮を迎えたりなどしなかっただろうに。…
2007.01.27
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SFチックな「ハードボイルド・ストーリー」と、エンデの『モモ』を思わせるような大人のための「寓話」が対位法的に織りなす旋律は、読者を自己の内的宇宙へと誘い出す。これを文学と呼んでいいのかどうか悩むが、イタロ・カルヴィーノが文学であるように、村上春樹も文学なのだろう。たとえみそ汁や梅干しという小道具の出現によってかろうじてこの作品が翻訳小説ではなく日本の小説たりえているとしても、それでもブンガクであるように。影が独りで遠くへ行ってしまったので世界の終りは僕の頭骨のなかにある無限に分割されつづける時間のうちに飛ぶ 矢が決して飛ばないように 逆説的に在りつづけるだろう 森の中で僕は(僕らは) 古びた手風琴を奏でながら 一角獣の夢をあなたに語りつづけるだろう永遠に
2007.01.26
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公正な入札で公平に、という建前はわかります。けれども、建設業者が仕事を取ってきて潤うのは現場で働く肉体労働者。弱肉強食の完全入札制になれば、弱い業者はドンドン淘汰されます。結果、失業者が増えます。勝ち組の建設業者も、安い価格で仕事を請け負った分、人件費にとばっちりがきます。それが手抜き工事につながったり、一級建築士の耐震構造偽装問題にまで広がったりします。勿論、それが全てとまでは言いませんけれども、安かろう悪かろう、と言うではありませんか。過度な競争の結果「適正価格」を下回る「価格破壊」が横行すれば、結局は最終的なユーザー、消費者にしわ寄せが来ます。食べ物の話で言えば、世界で一番安い牛肉が狂牛病の肉だったり、世界で一番安い小麦粉がチェルノブイリ産でなかったりしないという保証は、どこにもないのです。だから、談合というか、話し合いで、「今回はあんたに譲るから、次はうちでお願いしますよ」という根回しを入札の前に業者間で行なうことが、そんなに悪いことだとは思えないのです。そういうことを新しい主任に言うと、苦笑しながらこう答えてくれました。「そうだね、嵯峨山君の言うことにも一理ある。ただああいうことが表沙汰になる背景には、そもそも公共事業の削減という現実があるんだよ」「ただでさえ少なくなったパイを分け合おうとするからけんかになる、と?」「そうそう。どこの会社も自分とこの社員を食わせていかなければならないから、中小の業者は昔みたいに譲り合う余裕がないのね。そうなると、あぶれたところがマスコミに垂れ込んだりする、と」今の主任は営業であちこちまわられた経験があるので詳しいのです。ここで語られた現実が不具の住む地域の問題なのか全国規模の問題なのかはさておき、つくづくマスコミの報道というのは優等生的で表面的な分析しかしないんだなあ、と感じてしまった不具でした。
2007.01.26
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夜、チーズを食べていると何やら固いものが引っかかった。今はやりの異物混入かと思ってみると、わが歯の詰め物である。今月一番奥の親知らずの金属がとれてしまったばかりだというのに。夜のお仕事なので昼間は無精髭である。また例の歯医者さんへ行く。今回は色気なし。オマケに今日一日では終わらないという。やれやれ。何かと出費が嵩みそうな一、二月である。
2007.01.25
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今週は未明さんが石破元防衛庁長官と対談する内容。石破さんは核議論は抑止すべきではないけれど核保有には否定的な立場。メリットがないから、というものです。日本に原子力発電用のウランが供給されなくなるし、アメリカとの関係も悪くなるし、北朝鮮を非難できなくなるし、核抑止のための兵器の開発も滞ってしまう、というもの。最後の理由は理由になっていません。要するに戦略の問題じゃないですか。北朝鮮を非難できなくなるって、優等生的な発言ですね。そしたら核保有国インドに対するパキスタンの立場はどうなるのですか。最初の二つの理由はわかります。要するに国民の生命と財産を、という発想です。これだけ豊かになった日本に、往年の気概を持て、というのは無理なのだろうと思います。石破さんは、パンを語る人です。政治家としては当然でしょう。これに対し、小林さんは精神を語ります。これもまた、言論人としては、当然の立場でしょう。
2007.01.24
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亥年の選挙は恐ろしい 永田町では全員がそう思ったのではないだろうか。宮崎県知事選挙で泡沫候補と思われていたタレントのそのまんま東氏が圧勝した。誰もが予想しなかった選挙結果について、当初「保守分裂の影響」や「無党派の反乱」が指摘されたが、そのまんま東氏の得票数は投票総数の44%、二位との差が7万票余り、自民・公明の与党が推す候補に対しては二倍以上という数字で、「保守分裂」や「無党派の反乱」だけで片付けられるとは思わない。云々。誰もが予想しなかった選挙結果?アホかいな。日記には書かなかったけれど、東さんが当選するだろうと考えていた人は少なくないと思うよ。持永さんと川村さんの両方が立候補した時点で予測できたことだと思うけれど。95年の青島・ノック選挙を誰も思い出さなかったというのかね。負けはしたけれど、ホリエモンの善戦を忘れてしまったというのかね。東さんが早稲田の第二文学部に入学・卒業後、同大学の政経学部に入学したことをみんな知らなかったというのかね。視聴率主義のテレビがお笑いタレントを時代の寵児に持ち上げ、小泉政治が政治家の地位をお笑いタレントに近づけた。それがなければそのまんま東氏の圧勝はなかったのではないか。はあ?東さんがどれだけ真面目だったか、この記者全然わかってないね。相変わらずの中央的発想。日本がこのまま進めば、良しにつけ悪しにつけ(夕張市のように)「地方の時代」になるのは目に見えているのに、ね。そのまんま東オフィシャルサイト
2007.01.23
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いやー、しらなんだ。いつのまにか楽天リンクスに自動登録されていたとは。管理画面を見ると、友達なし、足跡なし、招待なしではありましたが、実名がさらされているのには驚きました。知らずにこのSNSに積極参加していればどうなったことやら。早速ここを読んで退会の手続きを取らせていただきました。個人情報保護法っても当てにならない世の中です。付記本来、今日はこれだけを書く予定でした。「大工が来たりて…」下野の修理がすみました。あとで請求書が来るでしょう。取り掛かりがスローであったように、請求もスローであってほしいものです(笑)
2007.01.23
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スタインベックは、実はほとんど読んだことがありません。今回初めて『赤い子馬』を読んで思ったこと。何だ、子馬すぐ死んでしまうじゃん!四つのエピソードが並ぶ短編集は、主人公の少年とその家族を中心に、馬(「贈り物」)―老人(「大連峰」)―馬(「約束」)―老人(「開拓者」)という<お客様>と少年の出会いと別れを描いています。一種の教養小説でしょう。このうち第四話の「開拓者」だけは、以前別の短編集で読んだことがありましたが、他は初めてのお話でした。自然描写が物語にとって重要な意味を持つ点では源氏物語と共通しているものの、光る君のお話が貴族的で優美で女性的なのに比べ、こちらの連作短編集はいかにも労働者的で武骨で男性的です。多分、これがスタインベックという作家さんの味なのでしょう。映画にもなっているようですね。
2007.01.22
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なんとも気の長い話ですが、3ヶ月以上前の家の修理の見積もりに、やっと便利屋さんが来てくれました。保険金はとっくに下りているのですが、諸事情あって、なかなか都合がつかなかったのです。その間、他の業者に頼むことも考えたのですが、知り合いつながりで、まあ人柄が信頼できる人だと思いましたので。遅れている理由も大体分かっていましたし。とりあえず下屋の部分の修理をお願いしました。
2007.01.21
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年末超過労働3時間分をもらっていなかったのはどうやら不具だけではなかったようです。職場に行くと、年末超過労働したほぼ全員に未払金の通知と「事務所にお越しください」というお願い文書がついていました。不具が気がつかなかったらどうなっていたんだろう。遅かれ早かれ気がついただろうとは思うけれど。知らんぷりを決め込んで会社の裏金にしたんじゃなかろうか。などと自画自賛してしまいました。
2007.01.20
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1月19日8時0分配信 産経新聞 【バンコク=岩田智雄】カンボジア北東部のラタナキリ州で19年前に行方不明になっていた少女が18日までに無事に保護された。少女は現在27歳。言葉はほとんど話せず、与えられた衣服を脱いでしまうなど半分野生化した様子だという。 AP通信によると、この女性はロチョム・プニンさん。1988年、8歳のときに家畜の水牛の群れを追ったまま行方不明になった。同州の村で最近、弁当箱から食べ物がなくなる被害が相次ぎ、村人が付近で張り込んでいたところ、米を盗もうとした女性を発見。父親が腕に残った傷跡で、行方不明となった娘と確認した。-------------物語で読む『ジャングル・ブック』や『ターザン』はとても面白いのですが、現実の『狼に育てられた子ども』(人間社会の中で育たなかった子ども)というのは、やはりこのようなものなのでしょうね。ロチョム・プニンさんに幸あれかし…
2007.01.19
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お金を失うより、信用を失う方がもっと惨めである。
2007.01.19
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朧月夜は、光源氏に身も心も愛されて結果的に貧乏籤を引かなかった唯一の女性である。花散里は精神的に信頼されただけだし、末摘花に至ってはその身分の高さのために表面上重々しく扱われたにすぎない。藤壺は出家した。明石の御方は身分違いに悩み、紫の上は二度までも裏切られた。六条の御息所については言うまでもない。…
2007.01.18
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ネット上の上手な文章が必ずしもその人の人柄を表しているとは限らない。しかし、汚い言葉遣いは、たとえそれが演技であったとしても、その人の心のありようを反映している。
2007.01.17
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『源氏物語』で最も鑑賞が難しいのは、和歌だと思います。掛詞や縁語がふんだんに使われている上、場面場面に応じた技巧や遠まわしな回りくどい言い方がなされていることが多いからです。そんな和歌も、『みだれ髪』を現代短歌に全訳した俵女史の手にかかると一変するから不思議です。『古今集』や『小倉百人一首』で僕らが鑑賞する和歌は死んだ和歌だけれど、『源氏物語』の中には状況に応じた贈答歌乃至独詠歌が詠みこまれていて、それを書いた架空の人物の息遣いまでがこまやかに伝わってきます。いわば、生きた歌というのでしょう。愛情、欲情、哀傷、謙遜、無邪気さ、社交辞令。そのほかあらゆる感情が三十一文字で表される、なんとも優雅で感傷的な日本の宮廷生活。うまい人はうまいなりに、下手な人はそれなりに、人柄が伝わってきます。紫の上の悲哀について、夫の光源氏がどんなに無理解だったか、夕霧や薫がどんなに女心がわかっていないか、ようくわかります。中島潔氏の装丁もすばらしく、ぜひ図書館で借りて読むべき一冊だと思います。
2007.01.16
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日銀は1月17、18日に開く金融政策決定会合で、追加利上げを提案する方向で最終調整に入った。ただ、追加利上げが現実味を増したことで、景気の腰折れを懸念する政府・自民党は、利上げ反対の姿勢を一段と強めている。民間調査でも6割の企業が追加利上げを「時期尚早」と回答しており、日銀は難しい判断を迫られている。(小熊敦郎) 「そんなことは許すことはできない」。 自民党の中川昭一政調会長は15日の街頭演説で「せっかく離陸したがっている日本経済に上から強い空気を送り込み、また水面下に押し込んでしまうような政策は絶対とってはならない」と、日銀の追加利上げを強く牽制(けんせい)した。 政府も塩崎恭久官房長官が同日の会見で「日銀が政府の経済政策との整合性を取りながら金融政策の理念にのっとって適切に判断すると理解している」と発言。「12月に(利上げの)判断を見送った日銀が今月利上げする合理的な理由は見当たらない」と指摘し、日銀が追加利上げを決めた場合、議決の延期を政府が求めることができる「議決延期請求権」の行使もちらつかせた14日の中川秀直・自民党幹事長の講演以降、日銀の利上げを阻止しようとする政府・与党の姿勢が強まっている。 政府が利上げに反対するのは、利上げで景気の腰折れを引き起こせば、内閣支持率をさらに引き下げかねないという懸念があるためだ。閣僚の不祥事が続く安倍晋三政権にとって、景気の腰折れは致命傷になりかねない。 また、企業も利上げに慎重姿勢を崩していない。帝国データバンクの企業意識調査によると、全国1万社のうち6割以上が追加利上げは「時期尚早」と回答。「妥当」(16%)、「遅すぎる」(2%)を大きく上回った。 一方、日銀は昨年12月発表の企業短期経済観測調査(短観)や、12日発表の日銀支店長会議で全国景気の拡大・回復を確認。個人消費に関する経済指標も11月以降、持ち直しに転じ、今月の追加利上げに自信を深めつつつある。 日銀は昨年10月に公表した展望リポートで、景気拡大が企業部門から家計部門に波及するシナリオを示しており、今回の決定会合で行う中間評価で、このシナリオの維持に合意する見通しだ。 さらに追加利上げを見送れば、「政府の圧力に屈した」と金融政策の独立性を疑われることになりかねず、「(日銀は)この点はなんとしても避けたいはず」(日銀ウオッチャー)との見方も広がっている。 ただ、利上げの時期について上昇テンポの鈍い消費者物価(CPI)などをもう少し見極めるべきだとの意見が日銀内にもある。このため、政府・与党の圧力を別にしても、政策委員の多数意見が「1月利上げ」で集約されるか、決定会合の行方はなお流動的だ。 最終更新:1月16日8時34分-------------この記事をどう読むか、ですね。不具は不具なりに予測を立てています。その後の株価の動きについても。しかしそれをここで明言するのは避けることにします。また一度とったポジションをその後どうしたかなどといちいち克明に報告することもございません。あしからず。
2007.01.16
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楽天株を54000円台で一部買戻し、その資金でA株を購入。
2007.01.15
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川柳会に出席するのは大方、お年よりです。若い人は、あまりいません。というより、まずいません。久しぶりの句会、出席しなくなった理由はいろいろですが、煎じ詰めれば、選ばれる句がお年よりくさいものが多い、ということに尽きます。選ばれなかった自分の句にもそれ相応の理由がありますが、選ばれた句をみていくと一句一句はともかくとして、並べていくと似たような句ばかりです。詠む人も選ぶ人も同世代なので、どうしてもそうなってしまうのですが、六十、七十にならなければ味わい深いいい句ができないというのなら、この年で川柳会に出る必要はないでしょう。もうひとつ。選ばれる句を詠もうとして、どうしてもそういう句を作ってしまうということがあります。迎合といっていいかどうかわかりませんが、自分の作風を曲げてしまうのです。無論、選者にもよります。風刺が好きな方もいれば、人情派も、ユーモア派もいます。ただ、孫とか傘寿とか老いの心境を連想させる句が選者の共感を得やすいという実情に違いはありません。そうすると不具のような中年はジレンマに陥ってしまうのです。自分の色を貫くべきか。選ばれるように選ばれるように書いていくか。勿論自分の色を曲げずに、かつ選者にも共感していただけるような句を作ればいいのですが、これがなかなか難しいのです。ということで、今日の句会で披講されたのは二句(どちらも雑詠)。お年玉くれとは言わぬ肩たたき平凡な一句されどもわが一句
2007.01.14
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元クラスメートが大病にかかっていることを偶然に知った。もう、何年顔を見ていないだろう。どれくらいの人が知っているのか。電話で確認してみようか。ちょっと考えたけれど、誰にも直接いわないことにした。伝えるべき人には、本人がきちんと伝えているだろう。ましてや当時さほど親しくもなかった不具が、偶然にそれを知ったからといってでしゃばるべきことではない。同級生は今必死で病気と闘っているのだ。よけいなお世話である。それにしても。真人間とは言えない不具がこうしてピンピンしているのに、一方でこういう同級生もいる。人生はなんて不条理なのだろう。運命はなんて不条理なのだろう。
2007.01.13
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またですか、と言いたかったのですがそこは大人です。事務所に電話して、年末超過労働3時間分をお茶つきおわびつきできちんといただきました。何しろ、時給生活者ですから。他人事だけれど、同僚のみなさん、ちゃんとチェックしているのかしら。
2007.01.12
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とある方から、豚さんの置物がずらっと並んだ写真つきの年賀状のお返しをいただきました。謝謝(なぜか中国語)。何でだろうと思いましたが、よく考えたら、今年は豚年なのでした。中国でもベトナムでも、お隣韓国でも(多分北朝鮮でも)。ところで、日本ではどうして豚が猪に変わってしまったのでしょう?諸説あるようですが、中国において「いのしし」の野生種を見ることは稀であり、この文字は家畜の「ぶた」を意味することが一般的だそうですので、実際のところどちらでもいいのかもしれません。ただ、「豚」を「亥」にしたあたり、日本人的な美意識の存在を個人的には感じます。ちなみに中国では今年が60年ぶりの「金豚年」という大変縁起のいい年なのだそうです。日本のみなさんにも福あれかし。
2007.01.11
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年賀状を出していなかった方から、今日年賀状が来ました。早速返事を出さねばと思って郵便局へ行くと、年賀状の販売は昨日までだったというではありませんか。仕方がないので、夜になって、先方にご挨拶とお礼と言訳の電話を入れました。「え? 嵯峨山さんから年賀状来たけどねえ」「え? 出しておりませんが…」よくよくうかがってみると、去年の年賀状の話のようです。そういえば去年出しました。返事が返ってこなかったので今年はとりあえず様子をみたのですが、何と一年以上経って御返事が来たのでした。電話の向こうとこちら側で大笑い。なんとものんびりしたお話でした。
2007.01.10
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朝、パンを食べていると、何やら固いものが引っかかった。今はやりの異物混入かと思ってみると、わが歯の詰め物である。それも一番奥の親知らずの金属がとれてしまったのだった。幸い仕事のない日なので行きつけの歯医者さんへ行く。とうに神経のない歯なのだが虫歯が進行しているという。ついでに隣の歯も少し侵食されているという。だ・か・ら。2ヶ月前にお宅へ行ったんじゃないですか。そう言ってもはじまらないので治療を受ける。抜くと上顎洞に穴が開くリスクが高いというので詰めていただくことにした。それにしても鏡で自分の歯を見る姿はマヌケだ。無精髭のみならず鼻毛の白いのまでくっきり写る。おまけに親知らずなので口を開け続けてるのがつらい。先生が女性だったので頬やこめかみにあたる巨乳が心地よい。時々目を開けると縦長に切れてるふたつの瞳がまた、艶である。助手の方も女性なので四つの縦長のひとみが麗しい。助手さんの鼻の穴がよく見える。毛はちゃんと刈り込んであるようだ。さすがである。そうこうしているうちに治療が終わった。もう今日で終わりだという。しめて2000円弱。お金が掛かるのは嫌だけれど、ちょっぴり残念な不具であった。
2007.01.09
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『源氏物語』をめぐる視点は、大きく分けて3つあります。ひとつは、国文学からの視点。これはもういわずもがな。ひとつは、世界文学として捉える視点。(現在のところ)主に欧米系の学者先生による自国の文学理論を基盤として、その上に国文学研究の成果を重ねながら展開する理論です。私見ですが、ロイヤル・タイラー氏などの源氏解釈はこの部類に属するようです。そして最後に、日本文学として捉える視座があります。これは、アリストテレス以来の西洋文学理論とともに平安時代の時空間的文脈と背景を基盤にして、互いに交差させながらテクストの読みの可能性を探る試みです。ハルオ・シラネさんはサイデンステッカー先生のお弟子さんですが、『源氏』と先行する散文物語、『源氏』と和歌(相聞歌及び挽歌)、『源氏』と平安時代、『源氏』の各帖同士の相互関係を明らかにしながら、西洋の読者にも日本の読者にも違和感なく読めるような「日本文学理論」を構築された一人だと思います。有名な出だし「いづれの御時」とは大体、紫式部の生きていた時代から百年くらい前を指すそうです。この時代は、式部の生きていた「道長の時代」とくらべて、比較的藤原氏の影響力が強くなかった時代でもあります。源氏は天皇の息子ですが、頭の中将は藤原氏。匂宮は源氏の子孫ですが、薫は頭の中将一族の柏木の子供です。物語における敗者は一貫して藤原氏なのですが、式部は時代設定を百年前に設定することで、藤原一族が機嫌を損ねないように工夫しているわけです。なるほど。将来冷泉帝となる皇太子は源氏の子ですが、不倫の胤なので、そうは言えません。桐壺帝は知ってかしらずか源氏を摂政にします。このあたりも藤原氏への配慮でしょうか。いずれにせよ、源氏と藤壺は結果的に阿吽の呼吸(?)で結託して我が子のために秘密を守り通します。それでも源氏は自らの恋愛行為がもとで都を追放されしまいました。恋愛といえば、『源氏』の主題のひとつに男女の恋愛があります。大きく分けて葵―藤壺―若紫―女三宮という本系と、空蝉―末摘花―源典侍―玉鬘という傍系に分けられますが、本系においては子をなすなり幸せな伴侶に恵まれるなどする源氏も、傍系の恋愛においてはことごとく失敗します。式部は本系の逸話と傍系の逸話を交互に「対位法的に」紹介しています。このあたり、源氏に人間くささをもたらしている理由のひとつと言えるかもしれません。また追放といえば、『竹取物語』以来の貴種流離譚と『落窪物語』に代表される継子いじめの物語がどのように『源氏物語』において幸福に結合したかは周知のとおりです。また光源氏に『伊勢物語』のプレイボーイ在原業平の影がみられることもいうまでもありません。紫式部は最初源氏を源高明など藤原氏によって失脚させられた貴族になぞらえています。藤原氏に睨まれた貴族が都に復帰することは歴史上ありませんでしたが、物語の中の光源氏はまるで神話上の英雄(海幸彦山幸彦の)山幸彦のように追放先で姫を得て、見事「社会復帰」を果たします。紫式部のパトロンである藤原道長はこれを読んでどう思ったでしょうか。あるいは不愉快に思ったのかもしれません。それに配慮してか、いわゆる玉鬘十帖をはさんで「藤葉裏」にみられる絶頂期の源氏はまるで藤原道長のようです。もっともその絶頂も長くは続かず、「若菜」上下においてすでに破綻してしまうのですが。ここでも、設定を百年前にしたおかげでやぶへびを免れているわけです。また、著者はそこまで言っていませんが、源氏物語はフェミニズムの教科書として読むことも可能です。世界の文学者の中で、紫式部ほど一夫多妻制における女性の苦悩と悲劇を描きえた女性はいません。そういう意味では是非インドネシア語やアラビア語に翻訳していただきたいと思うのですが、今のところその気配はなさそうです。吉村作治氏によれば、エジプトの女性は一夫多妻制のストレスをかなり抱え込んでいるそうです。平安貴族においても、おそらくそうだったでしょう。源氏の建てた六条院は、言うまでもなく六条の御息所の霊の鎮魂のために建てられたものですし、一人の男性をめぐる二人の女性の三角関係は、ほとんど物語全編に満ちています。まめ男夕霧の妻雲井雁さえ、このトライアングルに悩まされるのです。桐壺帝―藤壺―源氏、匂宮―浮舟―薫というような、一見女一人の三角関係にみえるときでさえ、男の側には別の女(正妻等)がいます。玉の輿に乗るということは、経済的自由と引き換えに、女の精神的自由を奪うことでもありました。この憂鬱の道から抜け出すほとんど唯一の道が「出家」だったのです。では源氏物語七十余年の時間軸における仏教思想とはどのようなものであったでしょうか。第一部部においては加持祈祷、陰陽道中心の密教でした。それが第二部、さらには紫式部と同時代に近い、浮舟の登場する第三部の終末近くになるにつれ、次第に浄土教的色彩が濃くなっていきます。著者によれば、それは単に因果応報の物語というだけでなく、キリスト教が西洋文学に深いドラマをもたらしているように、浄土教が源氏物語に深い劇的構造をもたらしているのだということです。源氏物語は、オデュッセア(貴種流離譚)とシンデレラ(継子いじめ)物語を基盤にしてそれを変形させながら、最初は一種のサクセス・ストーリーとして描かれたのかもしれません。しかしそれが好評だったために、おそらくは請われるままに次々と続編を綴っていったのでしょう。喜劇は悲劇となり、ついには紫の上も光源氏も死んでしまいます。それでも物語は終わらずに、光源氏が到達してしまった境地から新たなる主人公が出発し、さらに陰鬱な筋書きが展開されました。これら一連の過程において、紫式部が一夫多妻制の社会における男女の関係と女性の身の処し方について彼女なりに苦闘し、その考えを深化させていったのだと著者は説きます。社会的ロマンスの横糸と精神的求道の縦糸の織り成す一大タペストリー。本書を読むとまるで源氏物語が全く瑕疵ひとつない完璧な創造物であるかのような「錯覚」さえ受けます。当然、著者は源氏物語複数作者説には懐疑的です。
2007.01.08
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ネタがないのでご披露目。・百人一首初句と四句とを覚えさせ・立候補させられたのをしたと言いどちらも高校生の時の作品です。その頃の句。・防衛費売上税に助けられ消費税が導入された今では古臭くなってしまいました。・戦後派の子が先に逝く長寿国まだあったような気もしますが思い出せません。・浪人は入試で慣れているけれどこれは就職浪人のときの句。「大学院は出たけれど」句会に出席していた頃は…まあいろいろありますが時節柄・あと五分五分ずるずる寝正月・開けるまでしあわせだった福袋続きはまた気が向いたときに。どうせ自分の日記だし(苦笑)。
2007.01.07
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星新一は小説家ではない。説話文学者である。氏のフィクションはほとんど人間の内面を書かず、外面的事件だけを述べる。その語り口と内容は、SF的思考に慣れてしまった読者にとってあるいは物足りないかもしれない。不具も、氏のフィクション作品をフレドリック・ブラウンやロバート・シェクリィの短編集と一緒にとうの昔に手放してしまった。物足りないとこそ思わないが、図書館から借りるならともかく今更買ってまで読む気もしない。現在手元にあるのは『人民は弱し 官吏は強し』などのノンフィクションだけである。それでも不具は、氏の<千夜一夜物語>はSFの形を借りた現代の説話文学として当面の間新しい読者を獲得し続けるだろう、と確信している。
2007.01.06
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二百年経っても新しい本があるとすれば、それはすでに古典である。
2007.01.05
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不具はこの言葉が嫌いである。作り手が健常者だろうと障害者だろうと病人だろうと犯罪者だろうとアートはアートであり、逆に言えば、アートでないものはアートでないのだ。
2007.01.04
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今日の昼間、会長と社長とSさんが現場にやってきました。よりによって忙しいときに。三名様、どうやら不具を見ながらひそひそひそひそ。「嵯峨山君、よくやってるね」「よく動いてるね」「大丈夫だね」不具の体が不自由なので、皆さんの足を引っ張っていないか、様子を見にきたのがみえみえです。もう1年以上も勤めているのにね。いや、1年以上勤めているから気がかりなのか。助成金がもらえないから、それにペイするだけ働いているかどうか。あほらしい。不具の様子を見にくるくらいなら、もう半年以上も経つのにいまだに半人前の「新人」健常者二人の様子でも見に来たらいいのに。そう思ってしまいましたが、ぐっとこらえました。いまさらこんなことに驚いていては、身障者は民間企業では働けませんって。
2007.01.03
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地球人ライブラリーのうちの一冊。この本を読むのは実は2度目なのだけれど、ここの過去ログを検索しても出てこなかった。ということはそれ以前に読んだということか。火星に不時着した技術者が無人星で何とか生き延びる話。現地人を「フライデー」にするつもりが自分が「フライデー」にされてしまう話。そこまでは記憶のとおりだった。実際、前半はほとんどクルーソー物語の変奏曲である。後半は…さあなんと言ったらいいだろう。レムに似ていないこともない。けれどもちょっと違う。鯨的知性というか、仏教的というか、東洋的というか。ただ、この物語の「続編」は目に見える気がした。ブラッドリィの『火星年代記』である。アーメン。『宇宙人フライデー』
2007.01.02
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年越しそばも初日の出も初詣もない元旦でありました。除夜の鐘を聞くひまもなく勤務でした。謹賀新年m《(_)》m
2007.01.01
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