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My Camino story,だれでもあーと_ story (4284)2017.2.12 Rue Saint-Martin and Avenue Victoria Paris(sketched at 10:20 in angle of 45°)左の木陰がサン・ジャック塔がある公園My camino hisory.There are over 50route of camino,I did only 4 or 5 route of them . I have now several route must to walk for example Camino Vía de la Plata(銀の道),Camino Vía de la Plata(サナブレスの道)、Camino Primitivo(プリミティボの道)、Chemin de Vèzelay(リモージュの道).いままでの巡礼を備忘録として記し、日記類へのリンクを試みた。【道の名前】、(区間)、<月日>、リンクSantiago de Compostelaは SC 、Saint-Jean-Pied-de-PortはSJPPと略している。 My Camino Route Map1.2004 【Camino Francés フランス人の道】【Camino a Finisterre フィニステーラの道 】 (Sahagún-SC- Finisterre)<2004.9.2-20>El camino de Santiago巡礼の旅2.2010 【Camino de Le Puy ル・ピュイの道】【Camino Francés フランス人の道】【Camino a Finisterre(フィニステーラの道 】 (Moissac-SC- Finisterre)<2010.8.2-9.22>「フランス→スペイン巡礼Moissac-Fisterra 1200kmの旅」3.2012 【Camino de Le Puy ル・ピュイの道】 (Le Puy-en-Velay -- Moissac)<2012.7.26-8.13>「フランス巡礼の旅 Le Puy-en-Velay -- Moissac」4-1.2015 【Camino Europa Route ヨーロッパの道 ;ポーランド-Paris 】 (Kraków--Paris)<2015.5.10-8.9>(その0)ルート図(PDF)(その1)ポーランド ・・(クフィジン)TV局-YouTube(その2)ドイツ(その3)ベルギー・フランス4-2.2016 【Camino del Norte 北の道】【Camino Inglés イギリス人の道】【Camino Portugués Central ポルトガル人の道】【Camino de Cádiz カディスの道】 (Paris--Gibraltar)<2016.8.10-11.9>2016年のフランス・スペイン・ポルトガルを歩く総集編*************************************徒然の記■だれでもあーとこんな緩~~~い Art教室が世の中にあろうか。2回目の参加でこのお絵かきクラブが気にいった。芸大の先生のゆるーい指導のもと、障害者や我々えせ健常人が絵を描いたり、紙粘土で作品を作ったりしていく。柘榴を買いそびれた、turbo717は持っていたViolaをスケッチ。中尾彬(あきら)さんが描いている割りばし画((2017.2.5(日)の日参照参考)にならい、割りばしで絵を描いてみた。割りばしをコンビニで買ってきて、一本ずつ先を尖らせてかつ平らにしたものを4,5本用意していった。それに墨汁をつけ少し液を落として僅かに割りばしに付いているぐらいにする。あとは筆代わりに絵を描くだけ。Popな線が描けなかなか楽しい。最初のタッチで墨汁がぼとりと垂れてしまうのには閉口するが、慣れてくればそれも無くなりさっさと描けるので実に簡便である。画用紙もすこし滑らかな画質のものを使うと筆運びが楽である。in the classroom where anyone can draw pictures(Daredemo-Art)(だれでもあーとの仲間たち)(sketched at 14:00 in angle of 40°)
Feb 12, 2017
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Cádiz-2,2016.11.1-Memoirs83(回顧録83),Pastorale_ story (4277)2017.2.4Memoirs・・Cadiz was concatenated 2 part,the northern part is the Old Town with square streets in the old part like the Dejima in Nagasaki and South part is the New Town with 3km long beach,overall this city is similar to the city of Kyoto .Today・・・I went to listen to the concert at Kioi-Hall Onsen chamber Orchestra played Ludwig van Beethoven Symphonie Nr.6"Sinfonia pastorale" .【Memoirs82】2016.11.1(Tue) **Onsite Report(現地からのリアルタイム・レポート)は第13報告(10/28-11/3)の第4項を参照ください。**Castillo de Santa Catalina(サンタ・カタリナ城)(sketched at 9:01 in angle of 240°)茶色の部分が引き潮で海底が露出している。左奥がサン・セバスティアン城今日のコースはCádiz(カディス)の町歩き。凡そ徒歩7km。一泊13€という破格のホステル-De Cadiz Cadi Hostelではアラブ系の男性2人が同室。8人部屋に4台のベッド。皆下の段を占有している。シャワーとトイレの部屋は隣でかなり広い。洗濯物は、リネン室のようなスペースが奥にあり空を仰げる。縦にビルが出来ているためこんな芸当ができるのであろう。グランドフロア以外は玄関からすぐ階上にいく階段があり一般住宅となっているようである。Sevillaと違い、ここは整然とした区画の中にびっしりと家屋が連なり3-4階建てと決められた町造りとなっているようである。狭い通りを挟んで向かいの家が迫る。外目からはホステルであることが分からない。小売店舗はこういう住宅のグランドフロア部分をぶち抜いて面積を広げたものや、もともとの一軒家の部分で店を経営している。間口が狭い店では、商品名を言って取ってもらう形式。卵だの、缶詰など、すべて口で言わなければならない。たまたま店の壁にあるものは手で指して取ってもらう。朝の早い時間は建物の影に町中が覆われている感じで東に伸びる道路に出るか、海岸線を歩かない限り暗い。Falloシアターの広場を確認。本日19:00にここで現地在住の人にあうのだ。通りを曲がり、日の指す方向へ。しばらくすると海岸に出た。カディス大学(Universidad de Cádiz)のFacultad de Ciencias Económicas y Empresariales(経済・ビジネス・教員過程)の建物があり、その校門前にFicus(フィクス)という名の大木が植わっていた。根がものすごい。樹齢数百年の大木が一角を埋めている。Ficus(フィクスという名の大木)(8:39)城をスケッチ。早朝ランニングする人達や、干潟で何かを漁る人や、船の手入れなどとよくある”ビーチ沿いの風景”が展開されている。北側にCastillo de Santa Catalinaが、南側にCastillo de San Sebastiánがある。後者は約1kmほども突き出た突堤の先にある。La Careta湾に面するビーチLa Playa de la Caleta(プラジャ・デ・ラ・カレータ)は信じられないほど美しい。(海岸線)(9:35)そこを出て、出島のような部分の南側はAv.Campo del Sur(カンポ・デル・スール通り)で、大聖堂(Catedral de Cádiz)が聳える。その横にある古い建物がTeatro Romano (30 a.C.)で、大聖堂の元の形であるという。Plaza de Catedralで一服し聖堂をスケッチ。Barの桟敷を使わせてもらう。まだ開店前でオーダーは受け付けていない時間帯。(Catedral de Cádiz from Plaza de Catedral (広場からカディス大聖堂)(sketched at 10:54 in angle of 240°)大通りに進み出て東側の旧市街を散策。Palacio de Congresos de Cádiz、Iglesia Conventual de Santo Domingo、Parroquia de la Mercedなどの建物群を縫うように展開される極細の路地群。なかなかスリルがある散策である。町角に行列のできるパン屋があったので並んでみる。菓子パンなども多く、バケット一本などを所望。Torre Tavira(タビラの塔)があったので登った。360度の絶景であるが、さらに潜望鏡のような筒が天高く伸びていて、自動で回転して撮影される景色を下の展示室で観ることができる。こちらは上映時間が決まっている。カディスの町並み(北側)(16:48)カディスの町並み(南側)(16:49)大聖堂の奥が3kmのビーチ)(Catedral de Cádiz from Plaza de Catedral Calle Benjumeda(ベンフメダ通りの町の風景)(sketched at 12:33 in angle of 300°)よく似た通りは5万通り。すべてT字路のような景観。道が微妙に曲がっているからだ。19時約束の待ち合わせ場所のGran Teatro Fallaはオペラなどを上映する劇場である。その時間ともなると町はお祭り騒ぎ。マリア像を担ぎだした行列が歩き、楽団が続き、人々がそれを見守る。ものすごい人込みである。待ち合わせたMaria Rosaのご主人が髭もじゃの大男。彼がその列を掻き分けて先頭に出ていく。小生もそれを追いかける。先頭から写真を撮ったほうがよいであろうとのこと。Videoでも小生を撮影してくれる。なかなかのおもてなしであった。(行列)(19:15)採れたての魚介類を天ぷらにする店が大繁盛。昔よく見たたこ焼きを包んでいた半紙ほどの大きさの紙を漏斗状に作ってその中に天ぷらを入れていく。オーダーした種類別に包装されるのだ。4,5個の紙包みを持ってテーブルに着く。5人分のジョッキが運ばれ乾杯。談笑につぐ談笑。スケッチブックはCamino del Norte のMaariz (マーリッツ)から描きとめた1冊であるがそれを一枚一枚見ていく。その一枚一枚を写真に撮り始めたからたまらない。手を振りかざした瞬間に、その手がジョッキに触れた。大きな音を出して床で割れた。隣の女性の背中までもビールの液体が飛んでいる。しかし「いいですよ、いいですよ。」とにこやか。その音も問題にならないくらいに店は活気に満ちあふれ、声が行き交っていたのだ。ほんの小さな出来事で何もなかったように時が過ぎる。店員が飛んできて掃除を始めた。我々はお代わりを注文したり、天ぷらを平らげるまでその店で粘ったものだ。あとは市内を歴史散歩。馬車が狭い道を行き交うため通りの角々には衝突防止の杭や、鉄板で出来た黒いガードがあるのを教えてくれる。階上から投げ落とされた排泄物を流す溝だった部分がへこんでいる。家々の壁は地上から高さ50cmくらいに色を塗り分けられている点、ペスト蔓延で石の凸凹に菌が付かないように白い漆喰で建物を覆いつくした事、等々詳細な説明が次から次に語られる。4人とも、造形の専門家である。微に入り細に入り町の説明は続く。・・ Map : Cádiz(カディスの地図) 徒然の記■カディス・・孤島だった島が、南からの砂丘の延伸で陸地と繋がった。中心部では埋め立ても行われて現在のカディスという都市が造成された。鶏の形と似た形状で、ネックの部分が砂丘である。頭の部分が長崎の出島といった感じである。川をさかのぼったところにあるSevillaをしのいで一大貿易港となったカディスは、アメリカとの貿易をスペイン国内の3/4を賄った。。アメリカ文化の象徴であるハローウィンが盛大に行われる背景ともなっている。大富豪が活躍した18世紀の建造物が多くを占める。コロンブの4回の出帆のうち2回がこのカディスである。通りが碁盤の目であるのは計画的に町が拡張されていったためのようである。Sevillaと大きく違うところであろう。島だった時代の最上部にTorre Tavira(トレー・タビラ タビラの塔)が建っており町全体が眺望できる。■音泉(おんせん)室内合奏団天満敦子(Vn),音泉室内合奏団曲目 ヘルメスベルガー2世:悪魔の踊り, ブルッフ:ヴァイオリン協奏曲第1番, ベートーヴェン:交響曲第6番「田園」この合奏団は長野県松本を拠点に年に3回ほど演奏し、そのうちの1回が東京公演という。指揮者を置かないスタイルであり、面白い。今回が第50回。我々が定演で演奏する田園が取り上げられているので向学の一環として紀尾井ホールに聴きに行ってきた。コンマスが指揮者の代わりをする。全体に見事な演奏であった。ヴァイオリン協奏曲ではソリストがviolin1 violin2 viola celloの半円形の中に立ち方々と向き合い協奏する姿を始めてみた。指揮者がいない分聴衆には見やすく、曲作りの困難さを思うが楽しく聴けた。田園・・Pastorale(牧歌)・・この英語訳はcountry。日本の初演が1918年久留米俘虜収容所(*)で、半年後に上野東京音楽学校(芸大)で。countryの邦訳として日本の農村風景をイメージし、”田んぼの園”すなわち”田園”を当てたようである。まさにこの年内務省の先導の下に渋沢栄一が『理想的な住宅地「田園都市」の開発』を目的とする田園都市株式会社(東急電鉄)を創設している。”田園”という言葉のはしりが1918年であった。(町の「田園調布」は1923年分譲が開始された。)(*)・・久留米ではいろいろの楽曲が初演されている。ドイツ人捕虜たちがいかに芸術性が高かったと驚愕。1916年にベートヴェン交響曲8番、5番、1番、 1917年に7番、 1919年に9番。田園・・難しい曲である。木管のソロで決まってしまう感が否めないが弦も難関。心せねば。アンコール:violin カザルス 鳥の歌パリー:イギリス組曲より「エアー」ヘルメスベルガー2世:悪魔の踊り より(2016.2.4(Sat) 18:30-20:45 以上京王線車中からblogをupしました。)
Feb 4, 2017
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Utrera-3,2016.10.27-Memoirs78(回顧録78), movie_ story (4272)2017.1.30Memoirs・・I walked to Utrera 1st day of the Camino de Cádiz for last camino trip of this long journey.Today・・・I went see the film of" Tchinmoku-Silence" by Martin Scorsese edited by Syusaku Endo. Christ(God here) passed silence on act of stepping on fumie(=copper plate on which Christ or Our Lady was draw). He knew all the pain.【Memoirs76 1st day of Camino de Cádiz 】2016.10.27(Thu) **Onsite Report(現地からのリアルタイム・レポート)は第12報告(10/20-27)の第8項を参照ください。** Utrera (ウトレラ近郊 )(sketched at 15:33 in angle of 180°)松の見事な樹形と街道 今日のコースはSevilla(セビージャ)からBellavista(ベジャビスタ)→Dos Hermanas(ドス・エルマーナス)を経由してUtrera(ウトレラ)までの33km。(赤字は現地便りの文章を借用)今日から最後の巡礼コース--Camino de Cádiz(カディスの道)を歩く。3泊もしたSevilla(セビージャ)を後にするが11日目にもう一度戻ってくるのでこの町に4泊もすることになる。将来スペインに住むとしたら、もうここしかない。人々はアンダルシア特有の明るさがある。公園多し、迷路なるも、おもちゃ箱をひっくり返したような面白さがある。さて早朝に町を抜け出す。今までと違って都心の朝は早い。沢山の車や人が行き交っている。そこを真っすぐ南に進路をとる。広い歩道も4kmも歩けば無くなってしまった。よく見るとどちらかの道にジョギングコースが設けられている。Bellavista(ベジャビスタ)から幹線を反れ一般の道に入ってさらに南下。アフリカ系の人が住む町なのか雰囲気が変わってくる。鉄道をくぐり、空き地に入ると貧民窟? さびれた町角。ごみの山やぬかるみを通り抜けると農地。この先にGran Hipódromo de Andalucía(アンダルシア大競馬場)があり広々とした丘。厩舎などの施設が連なる場所を通るようにMy Mapが作られてしまっている。フェンスで行き止まりとなっている箇所ばかりで閉口する。犬が吠えるし、馬が怪訝な顔をするし、住民も飛び出してきておかしな顔をするし・・。もうこのまま進むのは止めよう。多少遠回りでも車道を歩く。歩道部分の余地はゼロ。車は少なかったが恐ろしい。空き地で休憩。鉄道を跨ぐ道路を見上げるとcaminoらしい人がSevilla(セビージャ)を目指している。どうも別の道があったようである。Dos Hermanas(ドス・エルマーナス)の町は大きかった。背の高いビルは一つもなく扁平。ものすごい強風にBarのテーブーブルに置いた帽子が飛んだ。(Bar Sierra Norteで水補給。ポテトのマリネをオーダー 3.8ユーロ。--13:25)(パタータのマリネ)(13:33)町はずれに到着。 ここから広大な農地が15kmも続いた。farthest end of Dos Hermanas(町のはずれ)(14:10)荒野である。どうも住民たちがじろじろ見るのがわかった。あまり人が通らないcamino道だったのだろう。そのうちオートバイや自転車の人たちが1,2回 小生を見物に荒野の一本道を追いかけてきては話しかける。また戻っていった。(暑い 35℃位の暑さ。汗が滴り落ちる。14:36 木陰あり。昼寝休憩。--15:12)しかしそれもUtrera(ウトレラ)直前の10kmで途絶えた。(16:06 8kmの土道始まる。 )完全に道路が無くなったからである。灌木を潜っていくと深い溝があり、どんなバギーカーでも渡れない場所があった。そこからは完全に単独行。camino?(16:09)車はもはや通れない。足跡もすくない。不安な気持ち。mud way of camino(16:14)(16:28 食事休憩。17:05 がガビチョウ(画眉鳥)よりも小さく綺麗な鳴き声の鳥 頭上で鳴き続ける。)farm road(16:24)(さて夕闇迫る。やっとUtrera(ウトレラ)の町。道路が四方八方から集まった交通の要所であろう。鉄道駅もある。18:30 ペンションPensión Hidalgoに到着。「Pencion Hidalgo 2 」であるがベルを鳴らしてもメモ書きだてた所に電話をしても応答なし。下にあるBarでカーニャ2杯をあおる。長距離を飛ばしてきたのでその旨いことといったらない。ここでは皆がcachimba(カチンバ:水ギセル)を吸っている。不思議な光景。ここはアラブか?と、煙を店の人も吸っている。50cmほどのガラスの塔。プクプクと泡立つ。店の男性にやっと応答があったようだ。20分待てと。)hookah(水ギセル)(19:12)客もバーテンダーも吸っていた。5本くらい容器からノズルが出ている。 Map and Elevation Profile :Between Sevilla and Utrera.(セビージャからウトレラまでの地図と標高プロフィール) この区の最高標高は56m・・ほぼ平坦。徒然の記■マーチン・スコッセッシ監督の映画「沈黙ーサイレンス」を観に行った。奉行-井上筑後守(イッセー尾形)、通詞(浅野忠信)などが江戸時代初期にこれだけ英語(実際はポルトガル語)を喋ったのかと思うほどよく英語を喋り、なかなか面白かった。凄惨な場面もなくはないが、示唆に富んだ映画である。”信仰”とはそもそもなんだろうか。無神教論者たる小生は恥なのか?深く考えさせる映画でもあった。
Jan 30, 2017
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セビリアその3、Sevilla-3,2016.10.26-Memoirs77(回顧録77),Ludwig van Beethoven_ story (4271)2017.1.29Memoirs・・I walked around City of Sevilla to try out new shoes for long trip of Camino de Cádiz.Today・・・Conductor Kenichiro Kobayashi(Kobaken) cried so muchi only 5 measures of 1st movement of Symphonie Nr.6"pastorale".We must play that kind of performance as well.【Memoirs76】2016.10.26(Wed) **Onsite Report(現地からのリアルタイム・レポート)は第10報告(10/20-27)の第7項を参照ください。** La Plaza de España (スペイン広場 )(sketched at 12:10 in angle of 268°)今日のコースはSevilla(セビージャ)市内。この日の回顧録を書こうとしたが、週報であげた現地便りにはこの日の分が2000字もある。膨大な日記を書いていたものだと驚愕する。あの小さなスマホのKBを必死に打っていたのであろう。絵を書きながら、食事をしながら、歩きながら、常にスマホに日記をインプットしていたようである。要するに相当暇であったのだろう。小生の旅は人と話をしているか、スマホをいじっているかの2パターンしかなかったようである。或る意味、寂しい!すこし補うとするなら、とにかく新調した靴を明日からの巡礼に備えて履きならしておかなければならない。よって市内をそれこそぐるぐる、迷子になるまでほっつき歩くべき市中に飛び出した。La Plaza de España (スペイン広場 )(12:20)La Plaza de España (スペイン広場 )(12:20)Plaza de España(スペイン広場)の隣にはParque de María Luisa(マリア・ルイサ公園)があり、土道が張り巡らされており緑陰の散策は最高であろう。Parque de María Luisa(マリア・ルイサ公園)(12:31)大聖堂の南に位置するアルカサル(Real Alcázar de Sevilla スペイン王室の宮殿)には世界中の植物が植わっており鑑賞できる。午後は一番にヒラルダの塔へ。La Giralda(13:49)ヒラルダの塔の展望台から。左上から時計回りの北→東→南→西上の写真の突起は、川向うにあるTorre Sevillaのビル。超高層。Luis Montoto(ルイス・デ・モントト)を通って「Ruinas Acueducto遺跡」へ。通りの真ん中に古代の要塞が保存されている。Casa de Pilatos(カサ・デ・ピラトス)やConvento San Leandro(サン・レアンドロ修道院)この後、キノコ(ラス・セタス)に偶然出会う。La Plaza de Encarnación(Las setas)(権化の広場)La Plaza de Encarnación世界最大の木造建築? いや改築されて現在は鋼板で出来ている。ドイツ人設計の建造物。この建物Calle Imagen(イマヘン通り)を空中で跨いでいる。大聖堂から北に延びる細い道Calle Lineros(リネロス通り)をどこまでも行くと忽然と現れる。()(18:44)セビーリャ大学に近く、学生のデモ部隊がこのキノコ前に集結した。教育改革に憤慨していた。 Night scenery of Cathedral(sketched at 21:42 in angle of 220°)ライトアップは19:45から。徒然の記■Ludwig van Beethoven Symphonie Nr.6"Sinfonia pastorale"市民オケの今日の練習は稲垣さん指揮で全曲を通した。先週は、小林研一郎(こばけん)さんの話が面白かった。1974年第1回ブダペスト国際指揮者コンクールで優勝したときに振ったベートヴェンの「田園」でのことだ。最初の5小節のフェルマーターで、あまりにもオケのサンウンドが美しく泣けてしまったという。もっと驚くべきことが。Violinのトップの女性も泣いていたと。たった5小節で泣ける曲とは。それ以来、こばけんは、この箇所を長めに取るようにしているのだと。この曲最初のCの音を伸ばすその最初の発音がものすごい。全員が息を合わせピタリと合わせると得も言われぬサウンドが生まれるという。だからたったの4小節演奏しただけで、涙がでてくるというのだ。こうなると音楽とは・・哲学であると言い切れるのではないか。このベートヴェンの紡ぎ出した楽曲を我々が演奏させてもらうわけであるが、一瞬の気のゆるみも許されない。緻密な構造物が一瞬にして崩壊につながるほどすべてが巧みに組み合わされている。しかも機械が演奏するのではなく人間が演奏するため揺れては元に戻るなどの微妙なテンポの躍動にも全員が呼応しなければならない。難曲中の難曲である。カリスマ指揮者 宇宿允人(うすきまさと:1934-2011)が、氏が編成したフロイデフィルハーモニーでこの曲を振ったのを聴きに行ったが、いまだに耳に音楽が響いているほどの感動があった。彼がどれほどのカリスマであったかは、逸話として指揮棒から奏者までビームやオーラーが飛んでいたとまことしやかに騒がれたほどだ。会場に聴きにきていた超能力者が証言したほどだ。神がかりな演奏であったと。我々も、ここにベートヴェンが居て、聴いているという想いで真剣に取り組まなければならないだろう。2月4日にある音泉交響楽団(おんせん)の演奏会で演じられる「田園」がいまから楽しみである。まず最初の5小節で”泣けるかどうか”が勝負である。
Jan 29, 2017
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セビリア、Sevilla-2,2016.10.25-Memoirs76(回顧録76),grand-daughter_ story (4270)2017.1.28Memoirs・・I got new tracking shoes at the big sport shop of Sevilla,old one miserably had large holes in the bottom..Today・・・Our granddaughter sang a song, played an instrument and played a drama in nursery school, We enjoyed it .【Memoirs76】2016.10.25(Tue) **Onsite Report(現地からのリアルタイム・レポート)は第10報告(10/20-27)の第6項を参照ください。** Catedral de Sevilla from Plaza Virgen de los Reyes (セビージャ大聖堂前の広場より )(sketched at 18:59 in angle of 220°)右は、ヒラルダの鐘楼。大聖堂まえの広場でスケッチをしていたらシャモニーから来たというご婦人が話しかけてきた。絵を描くご婦人でそのごfacebookで交信するようになった。今日のコースはSevilla(セビージャ)市内。郊外のDecathlon(デカトロン)に靴を買いに行っている。投宿しているグランド ラックス ホステル(Grand Luxe Hostel)から100mもあるけば大聖堂である。朝のミサに参列しつつ、聖堂内をスケッチ。 Pipeorgan in Catedral de Sevilla(セビージャ大聖堂内部)(sketched at 10:00 in angle of 340°)11:00には一般公開が始まるというので10:30頃追い出される。11:00から始まる無料のガイドツアーに参加。3班にわかれるほどの盛況ぶり。一つはスペイン語。他の2つは英語という。tram in front of Cathedral (10:39)guide tour(11:06)guide tour()(11:34)Sevilla(11:56)さて、午後は郊外のDecathlon(デカトロン)のshopへ遠出。穴の開いた靴も今日までだ。昨年と歩いた距離は2200kmと変わらないのに、早くも穴が開いた。あと300kmも歩かなければならないのだ。いかに今回が過酷な道であったか。巨大なshopもトレッキングシューズ売り場には限定されたメーカーのものだけ。サイズを合わせ歩いてみたりと、とっかえひっかえ品物を試す。なにせ何かを買わないことにはこの店を後にできないのだ。店員がいない分、自由に試着でき助かる。新しい靴を買い古いのは捨てて来た。捨てるに際し記念撮影。shoes(16:33)先日のプレゼンテーションのスライドから。(焼き栗)(18:24) Map:Sevilla(セビージャ市内散策地図) 地図の大聖堂と川の間にある「Plaza de toros de la Real Maestranza」が闘牛場徒然の記■セビリア大聖堂・・・スペインで最大。世界で3番目(バチカンのサン・ピエトロ大聖堂、ロンドンのセント・ポール大聖堂に次ぐ.)という大聖堂。しかしゴシック様式で世界最大といわれるケルン大聖堂のような威圧感はない。モスリムとカソリックの融合した建築様式がそうさせているのであろう。カテドラルの入口は南側のPlaza del Triunfo(トリウンフォ広場)に面するゴシック様式のサン・クリストバル門のそば。盾と椰子の葉を持った女性のブロンズ像ヒラルディーヨが立っている。この像と同じ物が、La Giralda(ヒラルダの塔)の頂上にも設置されている。昨日の絵にも描かれている。■保育園の発表会(於:南大沢 第二なみのり保育園)孫娘が出るというので観に行った。4歳児「しか組」で「うちゅうせんのうた」を歌い、「チムチムチェリー」ではキーボードを演奏し、「さるかに合戦」の劇ではカニ役を演じた。よく成長したものだ。この保育園もう1年お世話になる。おわってから居酒屋で昼食会。■オルフ室内合奏団 第19回定期演奏会(於:多摩センター パルテノン多摩小ホール)指揮 山下進三・コレルリ 合奏協奏曲1番 Op.6-1・レスピーギ リュートのための古風な舞曲とアリア第3組曲・バーバー 弦楽のためのアダージョ Op.11・・・ジョン・F・ケネディの葬儀で使用されてから有名になった曲・・すばらしい曲だ。これぞ究極の音楽ではないか。・グラズノフ 弦楽五重奏曲イ長調 Op.39・アンコール:真田丸 主題曲・・あの劇的な演奏のViolinは、ここでは合奏に変えられて演奏。なかなかの迫力。この室内合奏団はパルテノン多摩の創立10年記念式典で多摩地区の有志が集まってカルミナ・ブラーナを演奏したことがきかっけになり結成された。それから20年がたち大いに成長している。来年(2018.1.27)は20回目のコンサートとなる。Va奏者に市民オケだった女性、コントラバス奏者に現市民オケの男性がいる。指揮者はトレーナーとして来ていただいたことがある元読響のVa奏者。なかなかの熱演であった。
Jan 28, 2017
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Zumaia,2016.9.5-Memoirs26(回顧録26)、Picture scroll-El Camino de Santiago en España_ story (4221)2016.12.9Leaving San Sébastien where is the central city of Basque Region.,I walked 3km around the road of Playa de la Concha . A sand beach spreads from just under the bank of the coast. 【Memoirs26--2nd day of Camino del Norte】2016.9.5(Sun) **Onsite Report(現地からのリアルタイム・レポート)は第5報告(9/2-9/8)の第4項を参照ください。**バスク自治州の中心都市サン・セバスチャンを出発。Bahía de la Concha(コンチャ湾)を右手に見ながらPlaya de la Concha(コンチャ海岸)の道を3kmほど歩く。海岸の堤の直下からは砂浜が広がる。波音が次第に激しくなってきた。砂浜がついに終わりとなり海水が突堤に直接ぶつかる。camino道はここで陸側に90度折れ山を登る。石畳の道などを取りながらcaminoらしい直登の短絡路をどこまでも登っていくとついに灯台への分岐点に達する。実はこの1時間前に既にMonte Igeldo(イゲルドの丘、灯台がある。東のMonte UrgulL(ウルグルの丘)と向かい合っている。)までは登っているのであるがゲートがあってその先に進めなかったのである。朝早すぎたようである。開門を待つか引き返すか迷ったが、時間が惜しいので泣く泣くそこを戻り、元来た場所を90度それて山を再び登る。往復5kmのロス。上り返した山道でも道に迷った。どうも歩道があるとそれにつれて行くという悪い癖が直らない。ちゃんと土道を進むように矢印があったのだ。まだこの矢印に慣れていないようである。そこら中に指標のマークがあり、独断で進むことは許されていないようである。まぁ支配されているようであまりいい気はしないが、迷路のような山道では致し方ないであろう。もとよりMy Mapにはない道を進んでいるのであるから。今日のコースはOrio(オリオ)→Zarauz(サラウツ)→top of Getaria(ゲタリア上部)→Askizu(アスキス)→Zumaia(スマイア)と進むのであるが、海岸寄りのUp-Downの激しい道程である。Orio(オリオ)のBarでアルゼンチンからの3人に会う。このうちの2人は父娘であった。男性の方のもう一人はTatoさんと言い、小生のOta性と名前がよく似ている。TotaさんではなくTatoさんであるところが面白い。女学生のほうは1日だけ父親と旅を共にし、電車でサン・セバスチャンに戻るという。なかなかの健脚であった。この日余りの暑さで水飲み場で顔を洗った時に早くもサングラスを失くしている。以降の64日はサングラス無しの旅となった。自業自得である。Zarauz viewing from passZarauz Bearch Zarauz top Getaria viewing from top La Iglesia de San Pedro(サン・ペドロ教会)(90°、18:58)Utrola Ibaia(スマイアの河口)からAskizu(アスキス)の方向を望む(48°、20:10)camino道は右側の丘を下る。 Map: Between Donostia/San Sebastián and Zumaia(ドノスティア/サン・セバスティアンからまスマイアまでの地図) Elevation Profile : Between Donostia/San Sebastián and Zumaia()(イルンからDonostia/San Sebastiánまでの標高地図)徒然の記■巡礼の道絵巻 El Camino de Santiago en España Author・・Munehiro Ikeda 今日の巡礼プレゼンテーションの場所は西武新宿線の野方。邸宅に主夫婦を入れて7名が集まった。パソコンとTVとのHDMI接続がうまく行かず結局ノートパソコンの画面を見ながらの説明となってしまった。食事と喫茶を挟んでの4時間ほどのお喋り。一人は日本山岳会のご婦人。ボランティアでネパールに何回も足を運ぶという。現在はボールペンを寒村の子供たちに運んでおられる。義援金ではなくこういう教育資材の手渡しが大変喜ばれるという。また別のご婦人は「家で本を処分しようとしていたらこんなのが出てきた。よかったらどうぞ。」と言う。な、なんと池田宗弘さんの大著「巡礼の道絵巻 ロマネスク彫刻紀行 El Camino de Santiago en España(スペイン・サンティアゴへの道)」である。1990年の初版で7000円もする本で今だと数万円の値打ちがある本である。"Gさん"文庫に寄贈という形にしてもらって、さっそくながら厚かましくも借り出してきた。「フランス人の道」を中心にロマネスク彫刻の構成法を研究した時の副産物として全コースの鳥瞰図及び、教会の克明な彫刻のスケッチと解説から成り立っている700ページにも及ぶ本である。これを今日から読んでいきたい。
Dec 9, 2016
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Donostia-San Sebastián,2016.9.-Memoirs25(回顧録25)、Presentation _ story (4220)2016.12.8Which town did you start for Camino del Norte? It's answer will be mostly Irún or Donostia/San Sebastián or Bilbao.But my answer is "from Prais".Precisely saying, I took train from Paris to Ramboullet ,walked from Ramboullet to Chartres ,took the train from Chartres to St Malo, walked from St Malo to Saint Brieuc took the BlaBlaCar from Saint Brieuc to Nantes, walked from Nantes to Bordeaux ,took the train from Bordeaux to Sant-Vincent-de-Tyrossen, and after walked to this point .It tool long time to answer ,shortly from Paris to here some times by train, boart, car some time by walking.By the way I started to walk Camino del Norte at 4th Sep.【Memoirs25】2016.9.4(Sat) **Onsite Report(現地からのリアルタイム・レポート)は第5報告(9/2-9/8)の第3項を参照ください。**北の道はイルンからSCまでの海外コースで816.04kmもある。この道を行くcamino仲間なら必ずどこから歩いて来たかを尋ねられる。Irún(イルン)から、San Sebastián(サン・セバスティアン) から、はたまたBilbao(ビルバオ)からと。大体3通りの答を予想する。ところが、これをパリから歩いて来たと言うと一応にギョッツとされる。詳しくは、パリから電車でRamboullet(ランブイエ)に行き、Chartres(シャルトル)まで歩いた後、St Malo(サン・マロ)まで電車に乗ってSaint Brieuc(サン・ブリュー)まで歩き、その後ブルターニューを旅し、Nantes(ナント)までBlaBlaCarで行き、またそこからBordeaux(ボルドー)まで歩き、Sant-Vincent-de-Tyrosse(サン・ヴァンサン・ド・ティロス)まで電車に乗った後は、ここまで歩いてきましたと。とは答えるものの回答が長すぎるので、一声パリからですと。多少端折っても許されるであろう。いきなり山越えの険しい道が始まる。朝一番にヘッドライトを点けて出たものの、すぐに道に迷う。My Mapのせいで、さっと地図をみて、ろくにマークなど見ずに歩いてしまう癖がついているのでいけない。camino道はいままでの道とは違って直線コースは少なく、しょっちゅう曲るため矢印の見落としは致命傷となる。しかも真っ暗で様子がよくわからない。沼のようなところを右に、左に、徘徊するように進む。高度が上がってくるに従い夜明けとなった。標高150mの箇所に教会があり日曜日の礼拝に大勢の人たちが車で上ってきていた。7:30の鐘が連打される。ここからさらに100mばかり急斜面を登ると、巻道の一般caminoルートが始まる。しかし、大西洋と、イルンの町を同時に見るためには、頂上まで続く稜線コースを取ることが望ましい。およそこのコースを行く人は1/100くらいの確率でごくごく少ない。なにせさらに300mほど余計に登らなくてはならないからである。トレッキングコースとしてマウンテンバイクや地元のハイカーなどが登ってくる。逆向きに来る人も多く恰好のハイキングコースとなっているようである。登頂後は、一気にPasaia San Pedro(パッサイア)まで下り、フェリーに乗って対岸まで渡る。ここからDonostia(ドノスティア)-San Sebastián(サン・セバスティアン)までは丘を歩く気持ち良いコースとなる。丘の上からDonostia/San Sebastiánの町を見遥かす。なかなかの絶景である。view from Jaizkibel(ハイスキベル山からピレネー山脈を眺望))(140°、9:06)中央はParque Natural Aiako-Harria (アヤコ=アリア自然公園 )の急峻な山々。バスク自治区の境界がこの稜線。この向こうはナバラになる。パンプローナが控える。JaizkibelPasia(パッサイアの風景)(330°、12:20)この右側が絵になる風景であるが時間がなく突端だけスケッチ。あとで知り合った中国人女性(パリ在住)はその部分をみごとなペンスケッチでノートに仕上げていた。old town of San Sebastián(サン・セバスティアンの旧市街地)(330°、17:50)大都市が海の間際にある例。川の河口部分は海水の逆流で波打っている。恐ろしいほどである。市民、観光客は、この橋を行き来して旧市街地にひしめくBarを梯子する。海の突端にビルがひしめく・こんな危なっかしい光景は日本にはない。 Map: Between Irún Donostia/San Sebastián(イルンからドノスティア/サン・セバスティアンまでの地図) (1st day for camino del Norte)Elevation Profile : Between Irún and Donostia/San Sebastián(イルン)(イルンからDonostia/San Sebastiánまでの標高地図)徒然の記■Presentation今回の旅に関してはいずれ語り部として話をせねばならないだろう。いつお呼びが架かってもいいようにプレゼンテーションを作ってみた。スマホに持ち替えてからしか写真が保存されていないがそれでも3000枚くらいとなるので、旅の準備段階などの資料も寄せてみて200枚くらいのスライドを作成してみた。語り部としてUSBを持参し、プロジェクターかTV画面に映してみたい。といいながら明日さっそく知人宅でプレゼンテーションをやってみるつもりだ。
Dec 8, 2016
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2016.8.14-Memoirs4(回顧録4)、等々力渓谷map_story(4200)2016.11.17【Memoirs4 】2016.8.14(Sun) St.Malo(サン・マロ)からキャンプ地 Château do Galinée(ガリネーキャンピングサイト) へ。 Real Report(現地からのリアルタイム・レポートは第2報告を参照。)サン・マロの波止場から対岸のDinárd(ディナール)まではほんの1km。湾と橋を利用した一周コースは10km。フェリーを利用するのが一番であるが、時間があれば景観を歩行で楽しみたい。フェリーの日曜日の出航は10:00を過ぎる。これでは余りに遅い。今から徒歩で湾を一周する場合と、出発時間の遅いフェリーで対岸に渡る場合とは到着時間であまり差が無い。というわけで予定通り徒歩でDinárd に向かうことにした。ブルターニューでの歩行の開始である。Saint-Servan-Sur-Mer(サン・セルヴァン・シュル・メール)の地区へ坂道を上がっていく。日曜日でもパン屋は開いている。通りをみれば必ずパンをぶら下げている人が通るので店がopenしているということがわかる。GR34というトレッキングコースがブルターニューの海岸線に沿って存在するということを初めて知った。なんと1000kmにもおよぶルートでほぼブルターニュー半島を一周している。サン・マロの市内からもこのルートへの小道があり海岸林の険しいジグザグの道が始まる。このジグザグにはまってしまうと、距離はあるのに、一向に前に進まないというジレンマに陥る。山道の常として行きつ戻りつするからである。こちらのように30数キロを歩く身にとっては森の中の道ほど辛いものはない。Briantais(ブリアンテ)ピークとBrebis(ブレビ)ピークを結ぶ箇所に700mくらいの長大な橋が架かり遥か下に釣り糸を垂らす男性達5,6人。潮の流れが激しく恰好の釣り場となっているようである。対岸からもトレッキングルートが続き、丘へのぼりつめるルートが用意されている。高度差は50mくらい。なかなかしんどいものがある。ディナールのPlage de l'Écluse(レクルーズビーチ)には素晴らしいプロムナードがあり、これに岩礁が続く。ここにもトレッキングコースが続く。実はこれが問題でそんなこととは露とも知らず、何百mもこのコースを辿って行ったのであるが、歩数カウントがまだ甘く、地図をよく見ていなかったせいもあり曲がるべきポイントを見落とした。曲がるというのはトレッキングコースから外れるということで、すべて急峻な階段で50mもの断崖絶壁を登らなくてはならないということを意味した。手すりがついてはいるものの垂直に近い階段をのぼりつめるというのは相当の勇気がいる。都市空間が丘の上に展開され、いきなり別世界。My Mapにも書いていない場所から予定コースへ合流という試練を経なければならなかった。この場合もMaps.Meが大活躍をし複雑な経路もコンパス頼りに1,2kmで合流できている。あとはひたすら田舎道を紆余曲折を経ながら30kmも歩く。キャンプ地に辿りついたが、ここは別の意味で別天地。外部とは隔離された町となっているのだ。プール、レストラン、ミニコンビニ、なんでも揃っている。キャンプ用として宛がわれた敷地には自動車用のコンセントしかなくアダプターは25€だという。共同スペースに普通のC型コネクタがあったのでそこで充電。洗濯機もキャンプ場固有のジトンを使うようになっており両替をしなければならない。何泊もするには都合がよかろうが、外国人にはきついキャンプ場である。こちらに来てから初めてのテント張りとなった。Landscape of Dinard from Baie du Prieuré;(ブリュレ湾からディナール市街を眺望) Map Betweeen St.Malo and La Chabossaye・・Camping Château de Galinée(サン・マロからラ・シャボセイユ郊外のキャンプ地-シャトー・ガリネまでの地図)徒然の記■等々力渓谷・・先日世田谷区にある等々力渓谷を散策した。例のようにMy Mapを作成すると以下のような4kmのコースが一枚の地図になる。散策はこれに2時間をかけた。巡礼でのspeedの半分以下である。僕のような”せかせか”歩きは、健康によいのであろうか。この地図は1万分の1(2cmが200m)のサイズであるが、これでも道が判別できる限界である。今回使用した地図のなかに2cmが500mというのがあったが、これではほとんどの道が消えてしまい歩行には支障をきたす。彼の地で使う前に日本で地図サイズを検証した筈であるが、1万分1ばかりでは膨大な枚数になってしまうためついつい2cmが500mという地図を間に挟んだ結果、現地で泣くという事態に。おめおめ地図は省略してはならないという教訓である。逆に言えば、こういう地図をもって外国を歩いてきたわけで生還できたことは奇跡のような感じ。(?)Between Nikotama and Todoroki Valley;等々力駅から二子玉までの散策ルート
Nov 17, 2016
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2016.8.13-Memoirs3、年賀ハガキ_story(4199)2016.11.16【Memoirs3 】2016.8.13(Sat) Chartres(シャルトル)からSt.Malo(サン・マロ)へ今日(8/13)はサン・マロへの移動日。昼の電車なのでシャルトルの町を再度探索。部屋でスケッチの準備をしようと思ったら肝心のスケッチブックも含め道具一式が無くなっている。はて?やはりお酒を飲むと注意が散漫になるらしい。昨夜はシャンジュ通りのレストランで食事をしながら大聖堂を描いたのだが、その後で隣の椅子の下に置いておいたのがまずかった。立ち去るときに道具一式が入ったサックを忘れて置き去りにしてしまっていた。その直前で隣のテーブルからガラスコップが落ち、ウェイトレスが掃除したりして慌ただしかったことも注意が散漫になった理由かもしれない。さて?どうする。まずはその場所に行ってみることだ。あれだけ賑やかだった通りが閑散としている。沢山あったテーブルが片付けられガランとし、清掃車がそこを綺麗に水をまきながら進んでいた。パン屋の車が朝いちで各レストランやBarに出来立てのパンを配達している最中であった。藁をもすがる思いでBarのドアをノックしてみた。コックが一人出てきた。朝のカフェを準備している最中であったようだ。窮状を訴え忘れ物が届いていないかと。このコック大きく頷き、奥へ引っ込んだ。昨夜からの申し送り状が届いていたのであろう、忘れ物を引っ提げてニコニコしながら現れた。あぁ、やった! 感謝のお礼を述べその足で、目星をつけておいたスケッチポイントへと。寸描を時間の許す限り弾丸のごとく描き進む。リュックを持っていない身としては大変気軽な町散歩となった。下記はその一部。最初のがスケッチブックを忘れたときに描いていた寸描で、食卓で絵具を使うのを控えたため殆どデッサン画となっている。描いた時刻と方角が今後のスケッチに追記される。Short Skech of Chartres 1-Cathedral from Rue des Changes(シャルトル寸描1;シャンジュ通りからの大聖堂(pm7:26 267°))Short Skech of Chartres 2-Place de la Poissonnerie e Office de Tourisme(シャルトル寸描2;ポワッソヌリ広場と観光案内所(am7:37 90°))Short Skech of Chartres 3-L'Eure from Pont Bouju(シャルトル寸描3;ブシュ橋からユール川(am7:55 323°))Short Skech of Chartres 4-église St Pierre from Pont Taillard(シャルトル寸描4;タイヤール橋からピエール教会の尖塔(am8:16 162°))Short Skech of Chartres 5-Cathédrale Notre-Dame de Chartres from Rue de la Guillaume(シャルトル寸描5;ポルト・ギヨーム通りから大聖堂(am9:44 291°))さて、午後の一番でSt. Malo(サンマロ)へ移動。Chartres 12:09 --Le Mans 13:24 、Le Mans 14:06-Rennes 15:20、Rennes 15:45--St Malo 16:35と2回の乗り換えを経て、サンマロに移動。到着時の気温は25℃。暑い日差しを受けてまずはユースホステル(Youth Hostel Ethic Étakes)へと急ぐ。途中にあったスーパーに目星をつけあとで買い物。ユースホステルは町の中心から離れている分、長い砂浜を見ながら旧市街へと行けまことに観光気分である。ビーチはぎっしりと人で埋まり、遊歩道も海水浴客で溢れており、それに面するリゾートホテルやレジデンスから出入りするする人たちも加えごった替えしている。なかなか夏らしい雰囲気である。さすが大観光地だけのことはある。旧市街地は高い城壁で囲まれ中は暗い。しかしネオンなどで煌々と照らされ狭いメインストリートはさながら不夜城のように輝いてまぶしいくらいだ。町の中心にあるカテドラルをまずはスケッチ。夕陽を見るためには高い城壁の回廊部分に上がる必要があり、上がれば市街地と違って開放感を味わえる。日没をレストランのテーブルから拝めるような店を探す。Crêperie Le Corps de Garde(クレープの店)がちょうどいい場所に建っていた。満席のようであったが、入り口の一テーブルが一つだけ空いていたので案内される。ブルターニュ名物のガレット(そば粉を生地にしたものが「ガレット」、小麦粉を生地にしたものが「クレープ」とこちらでは区別している。)を戴く。生地はそば粉と塩が使われていてこれだけで十分主食になるほどで、その上に卵2個などとトッピングしていき、4隅を折りたたんで小さくしたものがでてくる。真ん中には半熟の卵が入っておりナイフに切り分け乍ら口に入れていく。デザートに甘いタレがかかったクレープを戴いたりと。Cathedrale Saint Vincent of St.Malo(サンマロ大聖堂(pm7:18 68°)) Crêperie Le Corps de Garde and Salle Sainte Anne ,Hôtel San Pedro (サンマロ・クレープの店(クレープリー:コープ・デ・ガルディ)とホテル群(pm8:21 0°))赤い天幕と奥の木枠のガラス窓が、Crêperie Le Corps de Garde 。 Map Betweeen Chartres and St.Malo(地図:シャルトルからサンマロ(電車移動))サン・マロは、モン・サン・ミッシェルとは直線で40km弱しか離れていないが、前者はブルターニュー、後者はノルマンジーに属する。徒然の記■年賀ハガキ緑区にある橋本郵便局に別の用事で行ってきた。入り口そばの天幕では、年賀ハガキを声を枯らして局員数人が"定価"で販売していた。そこから距離にして500m。JR橋本駅前では金券shopが200枚単位の場合で47円、端数の場合は48円で販売。この事実をどう見たらよいのだろう。定価で買ったほうがお年玉抽選に当たる確率が高いのだろうか。または寄付金額が付いた「A番号」を買えるのだろうか。金券shopは、少し前までは47.5円とちょっと高かったようである。値下がりする要因はどこにあるのだろう。netで調べると、プリンター消耗品のインクと抱き合わせでもっと安く買えたりもするようである。不思議な日本。
Nov 16, 2016
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2016.8.12-Memoirs2、明治神宮御苑_バルバッコア_story(4198)2016.11.15【Memoirs2 】2016.8.12(Fri) Cathédrale Notre-Dame de Chartres(シャルトル大聖堂)Auffargis(オウファルジ)のCatherine家を立ち、いよいよ最初のLong trail開始。Chartres(シャルトル)までの37kmは、D150という県道をひたすら歩くという単調な歩行。途中にある町々に近づく度に、市道に入るためほっと一息つく。シャルトルの13kmあたりの手前から、麦畑の向こうにいつも2本の塔が見え隠れする。すでにシャルトル大聖堂の2本の塔が見えていたのである。最初は町々の教会の塔かと思うも、次第に大聖堂に違いないと確信を持てるようになった。方角と照らし合わせてみても間違いはない。そこへ一目散という形。Orphin(オルフィン)の町から道はD32と名前を変え、Gallardon(ガラルドン)に到達する。町の中心部はいきなり細い石畳。そこを抜けると再びD32と合流し、南西に向かう。シャルトルのMetropole(メトロポル)空港の広い敷地に張られたフェンスを見ながらVoie de la Liberté(リベルテ道路)をまっすぐ進む。もうここではシャルトル市内で、自動車道とは分離された快適な散策道路にかわる。Rue de la Croix Thibault(クロア・ティボ通り)の上部にある公園から眺望した教会をスケッチ。淡い緑色の屋根が印象的。1979年ユネスコの世界文化遺産に登録。Cathédrale Notre-Dame de Chartres from entrance of Town,町の入り口からシャルトル大聖堂道は町中に入っていく。2本の川を渡るように見えるが、L'Eure(ユール川)に長細い島が横たわっているためである。道はどんどん狭くなり一方通行の旧市街地になっていく。川のほとりにあるのが、Église St Pierre(サント・ピエール教会)で、目指すホテル Saint Pierre Appart Hotelはすぐ見つかった。リュックを置いて迷路をなす丘を上がりシャルトル大聖堂へ。青のステンドグラスを見る。スペインのレオン大聖堂の赤のステンドグラスと対比して、青のステンドグラスのシャルトルが語られるほどこの聖堂のステンドグラスは青が特徴。ただ窓に描かれる物語はそれぞれの色をもって輪郭や面が描かれるため赤色や黄色なども多種の色があるが全体としては青いのである。Blue Stained glass ;教会内部のステンドグラス二つの尖塔の右側は、高さ105mの角錐(1174年~)であり、左側は、高さ113mの後期ゴシック・フランボワイアン様式(火焔式)の塔である。front of Cathédrale Notre-Dame de Chartres Map Betweeen Rambouillet and Chartres;地図:ランブイエからシャルトル徒然の記■明治神宮御苑・・今日は歩き塾の仲間が原宿のバルバッコアで帰国祝いをしてくれた。お肉を食べて英気を取り戻そうという趣旨である。ただその前に明治神宮を散策しようではないかということになり広い境内を皆で歩く。ちょうど2020年の神宮鎮座100年に向けての社殿の屋根の修復に使う銅板の奉納という行事をやっていたので参加。「¡ Buen Camino !」「歩き塾」という文字を2列に書き奉納。4年後までに屋根に裏返して葺かれ、表に緑青が出たあとも永代この文字が屋根銅板に残るという。頑張らねば。神宮参拝の後、御苑に寄ってきた。紅葉はまだすこし早いものの、そこそこに欅が色づき、菖蒲園のさびた感じがなんとも言えない晩秋の雰囲気を醸していた。末端にあった、清正井(きよまさいど)は渋谷川の源流とされ、いまだこんこんと清水が湧き出る様に感動。Power Spotであろう。■バルバッコア→ネパール米産ブラックアンガス牛の肉を中心に多種多様な部位を戴く。Contra File(サーロイン)、Picanha(ピッカーニャ(イチボ))、Alcatra(アルカトラ(ランプ))、Fraldinha(フラウジィニア)、その他、、ソーセージ、ローストチキン、豚肩ロース、ラムレッグ、ペッパーステーキ、焼きチーズ、焼きパイナップルなど。サラダバーには100種類くらいの食材が並ぶ。これに飲み放題メニューなどを付けて大いに食べ、飲んだ2時間。すっかり酔ってしまった。その後は、神宮前1丁目にあるネパール喫茶へ。驚いたことに重宝した「旅の指さし会話帳」のネパール版が置いてあった。ただし現地の文字が読めないため我々には使えない。こんな感じである。तर यो तपाईँले भाषा पढ्न सक्दैन प्रयोग गर्न सकिँदैन। यो जस्तै छ।(せめて以下のように、ローマ字などで発音を書いてほしいものである。)Tara yō tapā'īm̐lē bhāṣā paḍhna sakdaina prayōga garna sakim̐daina. Yō jastai cha.■こむら返り巡礼中も、帰ってからも、悩まされているのが、足のこむら返りである。キーンと足が硬直し、えも言われぬ苦しさ。七転八倒の挙句、しばらくこの世のものと思えぬ苦しさが経過し(1分程度であるが)、これを我慢するとうたかたのごとく痛みは消えていく。右足も、左足も。靴を履くときにつったたり。様々な場所でも起こりうるが、大体は寝ている時である。これに効く薬の一例。・協和発酵の「アルギニンEX アミノ酸」・・錠剤は袋に6粒入っているが、これを毎日2錠飲んでいる間はこのくむら返りは無かった。錠剤が30日で無くなってしまった後からくむら返りが始まった。よってこの錠剤にはこむら返りを抑えるなんらかの効能があったのではないかと思う。・ツムラ漢方甘草湯(かんぞうとう)・・こむらがえり、筋肉のけいれん、腹痛、腰痛に効能ありと謳う。・大正漢方胃腸薬・・これでも効くと 友は言う。
Nov 15, 2016
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2016.8.11-Memoirs 1-1、府中市民交響楽団_story(4197)2016.11.13From now,I want to put may image of this year's long journey on the blog,and write some day-to-day diary.【Memoirs 1-1 】2016.8.11(Thu) その1:Paris2番地下鉄のAnvers(アンヴェール駅)にほど近いLe Régent Montmartre Hostel (ル リージェント モンマルトル ホステル)は、Gare du Nord(パリ北駅・ガール・デュ・ノール)からほど近く、RERを北駅で降りてRue de Dunkerque(ダンケルク通り)を西に真っすぐ行きさえすればよかった。このHostelを予約したのには訳がある。前回訪れることができなかったBasilique du Sacré-Cœur(サクレクール寺院)にぜひ行ってみたいと思ったからである。早朝の5時は、夏のパリでもまだ薄暗く、Boulevard de Rochechouart(ロシュシュアール通り)の大きな道もまだ車はそうは走っていない。そこを斜めに横断し、狭い路地をとにかく北向きに上がっていく。Saint-Pierre(サン・ピエール)通りの向こうはSquare Louise Michel(サクレクール・ルイ・ミシェル)公園で、サクレクール寺院を見上げるように広がる。西側にはケーブルカーが設置され開業の準備をしていた。階段をのぼりつめるとそこにライトアップした寺院がそそり立つ。下では徹夜で騒いでいたであろう若者たち。そろそろ引き上げる時間か。暗い境内であるが、ライトアップを頼りに寺院をスケッチ。そろりとPoliceの車が目の前に止まった。数人が降り、若者たちのところに向かう。何も起こらない。若者たちは散会するようだ。急に静かになった寺院でスケッチを続ける。高台からはパリの街並みが夜のしじまに浮かび上がり幻想的。light-uped Basilique du Sacré-Cœur ;早朝のサクレクール幾多の路地を通って下に降り、ホテルに戻って朝食を食べる(7時30分)。その後リュック姿となりチェックアウト。(現地報告(real日記)第14報(第14報)で書いたようにこれがまずかった。ホステルで短時間、預かってもらうべきであった)。同じ地下鉄2番線のBarbès-Rochechouart(バルベル・ロシュシュアール駅)から目指すPère Lachaise(ペール・ラシェーズ駅)へ。2番線は大変便利で、観光路線のような感じ。円弧を描きながらも乗り換えることなくペール・ラシェーズ墓地へと運んでくれる。ショパン、バルザック、ピアフの3名のお墓を詣でるのが目的。入り口に索引と地図が出ているのでそれをもとに歩を進める。1km四方もある広大な墓地は、中心部が迷路、周辺部は矩形の路地となっているものの、奥まったところにある墓はなかなか見つけるのに苦労した。墓地は静かなもので閑散。東西に2か所しかない門。特に東門へは相当の距離を歩くことを覚悟しなければならない。全体は西に向けて丘を下っているので、東門から入ると坂道を下る形となる。これを済ませ次なるは、3番、4番を乗り継いでChâtelet(シャトレ)へ。Tour Saint-Jacques(サン・ジャックの塔)を訪れる。Rue de Rivoli(リヴォリ通り)とAvenue Victoria(ヴィクトリア通り)に南北を挟まれた形の公園の真ん中に、目指す塔が建っている。高さは52m、フランス革命で取り壊された教会(サン・ジャック・ドゥ・ラ・ブシュリー教会)の遺構で唯一残ったとされる。建築様式はゴシック・フランボワイヤン。フランス国内を発する巡礼街道の一つトゥールの道の起点である。1998年に巡礼路関連遺産として世界遺産に登録。見学は7月上旬~9月中旬の金土日10:00-17:00.Tour Saint-Jacques(サン・ジャックの塔)その後はノートルダム大聖堂へと。(これは第14報に詳しい)2016.8.11 Paris Access map徒然の記 ■栃木OB会: 2016.11.12(Sat)16:00-18:15 京王線府中駅の南にあるデパート9階の「風流日本料理 歌行燈 」 毎年平均年齢が1歳づつあがっていくタイプの会社OB会。宇都宮時代の人たちが17人集まった。万年幹事は唯一現役の人事部長。54歳。あとは平均70歳を超えるのではないだろうか。怖い話が2件ほどあった。交通事故の話である。信号無視と暴走。新聞を賑わす事故は、こうした身近にも存在した。不必要にぶらぶらと外に出ないことが肝心か? アクセルとブレーキを踏み間違えても自動車側がうまく処理するようなAI機能の開発と搭載の義務付け。■府中市民交響楽団第74回定期演奏会:2016.11.13(Sun)14:00-15:45 於いて 府中の森芸術劇場どりーむホール曲目:デュカス 交響詩「魔法使いの弟子」、ビゼー「カルメン組曲」、サン=サーンス 交響曲 第3番 作品78「オルガン付き」・・今回は聴衆として。なかなかの熱演。オケ復帰を決意。Violaを月1くらいで習うことにする。■華の舞:2016.11.13(Sun)16:15-18:30 演奏会の後は毎回のように府中にいたころの会社の仲間が集まる。巡礼の報告会を兼ねて大いに盛り上がる。面白かったのは先輩の話、昔のパリ。あまり英語が通じなかったころの話である。「Do you Japanese?(あなた。日本人ですか?)」「Yes. I do Japanese(はい。"日本人"をやっています。」今は教育が行き届いているので、5歳くらいでも英語はしゃべれる。ポルトガルではほとんどの人が英語が喋れた。
Nov 13, 2016
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The14th final Report(4th(Fri)-7th(Mon)Nov.) from France,Spain,Portugal. I reached to Gibraltar finally ,I could not enter to the gate of Gibraltar without crying in collapses. I finished my trip (over 3500km for 3 mounths) at 5th Nov.Now I am CDG aerport to Narita.Japan.I must say thanks to every persons,one of them as follow.name:meet-spot ,(nationality)Catherine:Auffargis,Rambouillet,Pais(F),Michel & Françoise :St.Briuex,Pouezec or Plouha(F),François and Blanche:Arsac-Bordeaux(F),Bénesse:Capbreton(F),Guillemind,Tato,Fabian:San Sebastian (Ar),Marc(マーク;speed walker):Zumaia--La Isla (F),Mark,Roland:Elexalde-Arratzu(Hr),Syds,Irma,Denzel,Eleonore,Lee Minww:Bilbao(Hr,Ch),Annick,Martin:Portugalete(F),Shimmy,Eva:Santoña(Is),Christine Winter,Eleonal,Joan:Güemes(F,D),Giacomo(ジャコモ;speedy walker),Javier,Anna,Golico:Llanes(I,S,D,D),Igor Alberto Gomes:Rebadesella(Br),Jacque:Villaviciosa(F),Juan ,Pepin,Jose:Gijon(I),Georg:Aviles(Pa),Dariusz(8000km walker from Porland ):Luarca(Pr),Ogawa,Gloria:Ribadeo(J,Sp),Karmen(カルメン;artist ) :Maariz(Sp),Annemarie(Shikoku-Junrei at end of March 2017):Vilalba(Sw),Golling Sedges,Poco Ruana:Pontedeame(F),Mario Pozzati(Egyptlogy visiting Professer ),Tipolo,Fernand,Lola.Emilio,Eidi,Simina Toni,Arriva:Betanzos(I),Fred Gaudet,Oliver:Santiago de Compostela(USA),Oscar Rivera:O Pino(Co),Annika Pfeiffer,Robert Sturgess:Santa Eulálla de Mós(D),Steliyan Vasilev:Vilarinho(Bg),M.Ozaki:São João Madeira(J),Cal:Fátima(F),K.Watanabe :Sevilla (J),Antonio Leon( helpfully in forest ):Huelva(Sp),Maria Rosa,Jose and their friends (artist ):Cádiz(Sp),Victor Quitanilla:La Línea de la Concepcion(Sp) And all Hospitalero.All stuf of Hotel,Hostel,Hostal,Arbergur,super-mercado's staff,polices,Bar's counter,And all Japanese friends.Thanks lots for my encouragement ,you will be my forever friends.From here I will up my drowned skechs to my Blog,"http://plaza.rakuten.co.jp/turbo717 ",or you can search by "turbo717".4th(Fri) Nov.Vejer de la Frontera +9km--Tahivilla-- Casas de Porro--La Costa--Tarifa(タリファ)カディスからジブラルタルまでの途中のVejer(べヘール) の町は丘の天辺に位置する。展望台から遥か下を国道が走る。その国道まで急斜面の遊歩道を転がるようにして下りた後、深夜の国道を9kmまでは歩いたが限界。国道のすぐ脇という恥ずかしい状態でのテント。まぁ完全なビバークである。ところが夜半から小雨が降り続く。国道の交通量を計って見ると3時台が最も少ない。殆どゼロだ、4時台でぽつぽつ、5時台からカディスやセビーリャに向けて北上する車が増え出す。車のライトを受ける時はテント内が明るくなるのでよいのであるがそれ以外は漆黒。弱めのヘッドライトで作業をする。4時起床。まずは嵩張っている寝袋を仕舞う。この旅では最後のテントとなった。諸物に感謝である。昨日はテントを張るギリギリまで歩いていたので歩行用の行動服を全部着替えてテント内に干してある。テントの梁が内側なので天幕と梁の隙間に衣服の端を挟み干すことができる。高さ90cmと上の方はかなりの余裕。万艦飾とまではいかないが身体の前後に吊るされている。これで車のライトが和らげられぐっすりと寝ることができた。テントの下を長い草たちが何千本も身を屈めてくれているのでフカフカ。最高の下地となった。そこを4時半起床。朝御飯はツナ缶詰(こちらではAtunと「A」を付けなければ通じない。)、サラミ、トマトの薄切り、白い葡萄、バナナなどを水と共に喉に含んでいく。食事に相当な時間を要するため早めの開始が望ましい。それが済むと戦闘態勢に移行。服を着替えザックに全ての物を詰め込んでいく。ザックカバーと雨具、反射板付きの蛍光上っ張りというスタイルで出発の準備。6:01 テント撤収(テントからマットを除き全てのものを外に出す。2本のポールは中央でジョイントされている最新型。入口にあるポール受けからポールを外す。テントはぺしゃんこになっても人間がまだテントの中にいる。ポールを折り畳んでいくのはテントの中でも出来る。サックに仕舞うところまで済んだら次に靴を履く。マットのクッションを利用して膝まずけるので最高。マットを外に出しテントを畳む。ベンチレータ用の支えの部分がテントを巻く時に平行になるように調整し縦方向に4つ折りし巻いていく。この時下地の草や土を巻き込まないようにマットの上で作業を行う。慣れれば10分で終わる。) 6:20 出発。今日は元々の長丁場に加え昨日の未達成分3kmを加えて凡そ40km。最後の最後で一番の長距離となった。4.2km(4000カウント)の単位で、長丁場を括っていく。1. 7:02 count 4000 小雨 国道N-340は120度の方向。山を回り込む最後の北向のカーブ。--7:08 2. 7:54 count 4000 小雨 風力発電基地(ジブラルタル海峡に吹く風を受けているのだという)一列何十台もが何列にも並ぶ。道は120度。--8:063. 8:50 count 4500 雲 Tahivilla(タイビリャ)の町。教会あり。町は右側の丘の上に展開、国道筋には気のきいた店は何も無い。赤いものがあるとBarの椅子ではないかと期待が膨らむが裏切られることもしばしば。少々休憩。無風状態であるがゆっくりと風力発電の羽が回る。景色は牧草地。前方左右に低い山々が連なる。154度。Policeの車通過 、もうお咎(とが)めはない。--9:004. 9:41 count 4000 中規模の山裾半分に白い家屋群。日本によくある石灰が露出した山裾に映った。Facinasの幻想的な町。暑いので雨具を脱ぐ。食事休憩。太陽128度。道123度。この国道脇の溝。食べこぼしたパン屑を蟻達がせっせと運んでいる情景に気が付いた。蟻の気持ちになって見てみよう。「わぁ。パンが一杯落ちている。一つ戴いていくとするか。大きい奴がいいなぁ。石ころだらけで歩きにくいが頑張ろう。深い穴に一本棒が横たわっている。落とさないように慎重に。先まで行ったが断崖絶壁。天井にどうしたらとどくだろう。後ろ足4本をぐるぐる回転させてみよう。もうアクロバットだ。だめだ。持ち方を変えてみよう。やや端が天井にひかかった。パンを利用して180度、回転の大業だ。よいしょやっと難所を切り抜けた。やや。漁夫の利を狙ったずるい蟻。引っ張りこだ。協力してくてないのか。こっちも負けずにたたかわないと!」そんな蟻達が口々にパンや菓子屑を大事そうにせっせと運ぶ。面白い光景だ。--10:47 5. 11:32 count 4500 11:17にアフリカ大陸が見える。2,300mの高さの山が目の前に。道は200度。太陽は156度。薄曇りながらまた暑くなってきた。今までの登りをこれから一気に解消していく。緩い南東方向への下りカーブ。--11:396. 12:20 count 4000。道は190度。太陽190度。南の方向は確かにアフリカ。12:237. 12:30 25kmにして初めてBar -Restaurante "Rioja"あり。512歩で中断し反対車線のBarへ。ここで今日はじめて顔を洗う。髭ずらが気になるが大量の水での洗顔は贅沢にすら感じる。水の補給とバッテリーへのチャージ。カウンターのガラスケースにあったアラカルトを注文。1.ensalada ruza 2.pipiranade langostinos 3.ensalada de melva de tarifa con pimientos asadosiの3皿とペプシx2 もう立派な昼食だ。パンはカステラ風のカットで、茶色。この辺りのBarでは乾パンのような小さな個片が10個ほど付く。9ユーロ。Tarifa まで直線11km。頑張れそうだ。4kmカウントをあと3回すれば到達できる。--14:0714:37 count 4000 道129度。太陽 207度。8.15:20 count 4000。道114度。太陽 218度。緩い右カーブでTarifa の町に入っていく。右手に海やキャンプ場、左は牧草地と風力発電。--15:269. 16:11 4000 。2km手前から既にTarifa。なんとピタリとHotelに到着。count4000は最近では4.2km相当。かなり早く飛ばしたことになる。Hotelで寝袋とテントに風を通すべく広げておく。3日ぶりの洗濯。大スーパー「Sol」で果物、パン、缶詰などを購入。ここでザクロをまた買った。兎に角今身体はビールと何か腹ごなしを求めている。Hotelに隣接するBar El Torreónで一息つく。この後は港を見学し、旧市街の郷土料理店 Morillaへ繰り出そう。スケッチは今日は夜の景色。パエーリア(Arroz con vardura 2人からが基本であるが野菜パエリアは一人から準備出来るという。)、ビール(Tanque Cervesa)、ジュースなど。18ユーロ。Hospedaje Villanuevaイベリア半島最南端の町タリファ。モロッコへの1日観光が40ユーロ。ドックに入る商船に関税を掛けたらことからtarrifの語源になった町としても知られる。アフリカ、或いは海峡を渡る風を利用した何千もの風力発電は一見の価値。旧市街は城壁に囲まれ入場はトンネルのような場所でアーチをくぐる。Whale Watchingの基地として、サーファーの基地として、色んなレジャーが展開される町である、宿のご主人、可愛い女の4人姉妹(11,10,5,3歳)と美しい奥さんがいた。5th(Sat) Nov.Tarifa --El Bujeo--Peleyo--Algeciras(アルヘシラス)-- La Lí nea de la Concepción)(ラ・リネア・デ・ラ・コンセプション略してラ・リネア)--Gibraltar--La Línea5:00前に起床。テントと寝袋を仕舞う。食事は"ザクロ"。ひとつ分を食す、種を出す。と書いたが熟したものは種もそのまま食べる。スプーンと言ったが手で房を裏返すようにして粒を出していくと良さそうだ。ハムは買ったときは厚みがあると思ったが騙された。一枚一枚が恐ろしく薄い。上手に1枚を剥がしてパンに挟む。ジュースはマルチジュースの1L。オレンジ100%のは2-3ユーロもするが非常に美味しい。マルチは安い分水代わりといった感じであまり美味しくない。今日も国道を行くので昨日同様4000カウントを一括りにして歩行。7:08出発。1. 7:44 2500 雨具とヘッドライトを外す。道 46度。右カーブに差し掛かる。振り向くと222度の方向にアフリカの最西端北が眺望できる、Tarifa から南21kmしか離れていない。1. 8:01 日の出 3062 8:12 count 4000 道 38度。--8:132. 8:59 count 4000 道 107度、太陽 129度。完全な山岳コース。道は登り続けている。小休憩。----9:083. 9:46 3532 72度の方向にGibraltar の岩山(ザ・ロック)を眺望。苦節3ケ月。ついにジブラルタル!9:53 count 4000 。道 53度、太陽 143度。 Algeciras nまで8km。町が見えはじめている。湾の向こうにジブラルタルの山々とつきだした岬が眺望される。下り坂に掛かっている。もう上りはないであろう。---10:014. 247 10:07 食事休憩。8km先が町だとするとリュックの食料もゼロベースにしてもよいかも知れない。ハムや夏ミカンなどは食べつくそう。--11:2312:01 count 4000 。道74度、太陽 167度、いまだ坂の途中。周囲はユーカリの植列で見通しが利かない。--12:08 5.ロータリ手前からAlgeciras(アルヘシラス)の市内に入るため細心の注意。12:42 count 2000で丁度28_01_007 b point のpoint 。ここで国道から外れて、市内に入る。蛍光色の上っ張りを脱ぐ。Bar-Restaurante Los Pastoresでコーラ休憩+充電+水補給。ここから4.3kmでMy Map は終わっている。Algecirasを最終ゴールと決めてあったためだ。ところがスペインにはもっとジブラルタル寄りに国境の町 La Lí nea de la Concepciónが有ることを知ったのはセビーリャのバスターミナルである。セビーリャまでのバスは La Lí neaが始発になっていたからだ。ジブラルタルに行くためには La Lí neaから徒歩で向かう。Barの位置からLa Lí nea de la Concepciónまで行く方法を模索。10km以内であれば歩く。しかしMaps .Me による検索は恐ろしく時間が掛かっている。長大なルートを計算しているのであろう。ここは諦めBarの人に La Lí nea de la Concepciónまでいくバスに乗るには?(Dónde puedo coger el autobus a la Líne de la Concepción? )と聞いてみた。Autobus COMESへ行けと。Hotel Octavioにあると。重要な情報がgetできた。Algeciras 駅の近くにある、それこそ最短コースを検索すると途中までMy Mapの設定コースのままである。15:20出発。北向の進路。市内中心街を通り抜けていく。Maragaに行く方向。My Mapによるアクセス。16:16 Gibraltar 入国!16:30発のCity Center行きのバスに乗る。ともかく中央部へ、飛行場を横断していく。英語の通じる国に入った。4分で北駅。10分で中央駅。山の高さは426m、南北5km、東西1.5kmの要塞がジブラルタル。La Lí nea de la Concepciónへ戻る。ホテルの予約を昨日している。 C型コンセントが使えない国のため戻ったほうが正解であった。19:40 ホテル到着。外は雨。6th(Sun) Nov.La Lí nea de la Concepción)(ラ・リネア)--Algeciras --Jerez --Sevilla 5:00起床。日記を読み返す。メモ帳に毎日書いた記述。思い出して書き加えた部分もあるが大半はreal timeで1秒先が闇という状況下である。読み返して見るとまぁ実に細々と書いたものだと本人も呆れている。■シャワーLa Línea de la Concepción)(ラ・リネア)のHotel Miramar(ホテル・ミラマール)のシャワー、最初の4分が水だ。あまりの遅さに時間を計ってみた。これでは熱湯の配水管が100mくらい先ではないかと思うほどである。「歩き」の場合は最初の水の部分が重要で所謂「icing アイシング」に使えるのだ。どこでもそうであるがシャワーのノズルを足元から膝の部分を冷やす。徐々に温度が上がっていくので身体の上部に当てていく。心臓は最後である。22度以上であれば心臓も大丈夫であるが最初から全身に水を浴びる勇気はない。日本のように浴槽に張られたお湯が最初から準備されている場合は別である。そいう例は皆無。シャワー10分で浴槽のお湯の量に匹敵するという。なんという無駄であろうか。シャワーは効率が悪いのである。このホテル、暖まるまでに浴槽分の水を消費したことになる。5分間もアイシングしていると身体が冷えきってしまうのだ。目一杯赤いマークに合わせているのだが時々あるように逆の場合かなぁと青いマークに合わせたりするものだからますます水が暖まってこない。ぜひ改善してもらいたいものだ。今日は半日このホテルで寛ごう。"歩き"用途に使った「戦闘服」はもう着ることはない。昨日最後の洗濯をしタオルでプレスしてあるのでほどなく乾くであろう。青空の下、ビーチを散策。にちようびであるからだろうか。閑散としている。砂浜でジブラルタルの岩山とアフリカ大陸の山々をスケッチ。色んなアスレチックの道具が並んでいた、マラソンついでに腹筋を鍛える男性、カップルで体操をしながらヨガのような逆立ちの姿勢、スケートボード用フィールドで競う男達、ここはジブラルタルを望む楽天エリア。秋寒むの晴れた一日を皆が外に出て楽しんでいる。スペインでは兎に角"外"が重要。自分を晒し、議論をふっ掛け、自己主張し、フェンスkに囲まれた安全地帯とその外の往き来こそが人生。よそ者をとことん観察する姿勢は見事である。よって怯んではいけない、笑顔で挨拶すれば同調間違いなし。スペインとはそいうお国柄である。スペイン語はマスターしたい。燃え尽き症候群にならないように次の目標を立てろと息子からメール。Maraga、Granadaなど今回パスした多くの町々をペラペラのスペイン語で闊歩したいものだ。スケッチしたりゆっくりしている間にまた小腹が空いてきた。パキスタン人が店を構えるケバブの店。チキンカレーがあったのでオーダー。ふと時計を見ると13:00に近い。ホテルのチェックアウトの時間を1時間もオーバーしている。荷物など広げたままだ。走りに走りホテルに謝りながら自室へ。杖はクロスしてリュックに仕舞えている。戦闘服などをてきぱきと取り入れスタッフザックに入れていく。部屋を3回転し"ワン"と。忘れ物が無いことを最終チェック。13:05ホテルを飛び出しそのままケバブの店に。熱々のカレー。辛さを抑えて貰ったので舌への影響を最小限に出来た。Sevilla 行きのバスは15:00。まだ1時間ほど余裕。スケッチ2枚。彫刻家が声を掛けてきた。有名な方らしい。多くの友人から日本に行けと言われていると。典型的スペイン手法との融合を期待されているのかも知れない。Sevilla 行きのバスは定刻の15:00出発。以外と乗客が少ない。La Línea からは2人、Algeciras から10人。モロッコから到着したばかりの人のようだ、アフリカの香りと肌色。スカーフが似合う。15:37 出発。15:41 昨日利用したBar を通過。Tarifa へ小生が歩いた道を辿っていく、全て覚えている景色を逆走。今日は激しく風力発電の羽が回っている。バスからはもっとはっきりアフリカが見渡される。南側の風車は鉄塔に羽が付いている。古いタイプであろうか。北側のは電柱タイプで新しい。牛が喰む牧草地は鞣し革のような色と質感。1600 Tarifa 到着。5人が乗り込む、苦労して歩いた距離はバスだと19分! 16:02出発。この状況ではSevilla まで殆んど小生の歩いた町々を線で結んでいくのでは。16:22 Thivilla 0人、16:39 Vejer の町の崖下の町-La Bahara de Vejer のバス停10人、トイレ休憩。バスの外に出て新鮮な空気を吸う。17:03 Conil (コニール)4人、17:05 出発。17:26 Chiclana de la Frotera(チクラナ・デ・ラ・フロンティア) 3人、カディスをパスするだけで殆んど小生のコースである!違う道は無いのかと言いたい。17:43 Puerto Real (11/2に通る予定であった都市。) 1人、降りる。この後は高速を飛ばしてSevilla へ。18:36 Sevilla まで26km。高速の所だけ思いきり木を植えた感じ。中央分離帯も10mの巾で木が植わっている。要するに下界からは無粋な建造物である高速が見えないようなシステム。音はすれど姿見えず これがスペインの施策でこれ見よがしの日本の高速との違いであろう。バスで4時間の距離を10日かけて歩いたことになろう。なんと贅沢に時間を使わせて貰ったものだ。camino 道を"世界で一番贅沢な散歩道"と呼んだ人がいた。まさにその通りだろう。足の持つ限り歩きたいものだ。19:05 バスターミナル到着19:23 10日前に3泊も泊まったHostel Grand Luxe Hostel へは18分。102号室も同じ。6Bedsに2人。豪勢だ、シャワーを浴びるも今日は洗濯無し、明朝は4時出発としている。飛行機が6:30発のParis行きだからtaxiを呼んである。屋上に上がり大聖堂の夜景を観賞。これほど凄い夜景はない。見事な景観である。鐘塔のライトアップは力強い。教会の十字の建物は僅かにくすんでいる。それでも丸い塔が美しくハイライトで輝く。回廊の上に設けられたライトは白く真珠のように煌めく。こんな夜景をホステルの屋上から独り占め。この光景は手前にある古い建物が黒くシルエットを作り夜の黒とはまた別の黒がお互いに共鳴し大聖堂をもり立てている。ピコスという乾パンを肴に1ユーロのビールを飲んで更に観賞。この時間はスマホの充電を行うのに使っている。外でビールをがぶ飲みする分を一杯余分に飲んでおく。さて最後のセビーリャの夜である。スケッチしたかった近くの通りに繰り出す。絵を2枚ほど仕上げた。レストランLa Subastaがある通りはレストランがカーブをなして連なり独特の雰囲気。ゴッホの「黄色の夜景(?)」のように寂しくはない。天幕に取り付けられた電熱器の赤い灯りを受け客達が色ずく。通りをそぞろ歩きをする多くの人をスケッチに入れて此方は賑やかに。すぐそばのレストランRoblesの天幕からご婦人が歩いてきた。絵を見せてくれと言う。色付けする前と後の2回、足を運んでくれた。今回の旅では時間の関係で夜景を描くことも多く新しい出合いがある。そのレストランでアンダルシア名物のPaellaを戴く。ビールのお代わりはなしで安くついた。作戦は成功。さて日本では老人達は冬の寒い風呂場でよく亡くなる。タイルの冷たさと風呂のお湯との温度差が原因。このレストランの天幕に取り付けられた電熱器(ブランドは"Heliosa")のようなものがあれば暖かくて良いのではなかろうか。我が家でも欲しいくらいだ。蛍光灯のような形をしており反射板がついているので暖かい。乾パンがここでも出てきたので名前を聞いてみた。Picos(Horno camperos)というのだと。7th(Mon) Nov.Sevilla --Paris --Auffargis(オーファルジ) 今日は大変重要な日。ノートルダムで巡礼手帳に印を貰うのだ。3:30 起床。Hostel(Grand Lux Hostel)の102号室。"町スタイルの服装"は全てシャワー室の前に吊るしてある。同室の人が起きないように別室で装着。靴を履いたり忘れ物チェックにはヘッドランプで確認。3:45フロントへ。3:50 呼んでくれていたTaxiが到着。18kmの距離があるたやむなくTaxiを利用したのだが高くついた。29.8ユーロ。空港に4:05到着。4:30に空港がopenする。VuelingのLCCであるが3社のシェア便となっている。手荷物は1個までというのを持ち込み1個と勘違い。リュックを預けるべきであった。リュックが大きいので手荷物チェック機械の穴にすんなり通らず引き出さなければならなかった。しかも中には太陽パネルが入っていたため別室で開けてチェックをさせられた。誰が言ったのだろう。"機内持ち込みしなければ追加料金を取られる"と。誰も一銭も払っていない。到着後荷物クレームを通らずすぐ外に出れるというメリットがあるが。手ぶらで搭乗ゲートに進めるというメリットは大きい。リュックが座席の上のボックスに入るのか心配であったがこれはok。7:05 マドリッド上空を通過。黒の生地にオレンジの数珠で刺繍したように美しい町並み。所々にある黒い部分は森か公園。桜模様の縁取りは高速道路。マドリード郊外の町は雪の結晶のような形で薄いオレンジ色で漆黒の中に点在する。朝焼けの茜が差してきた。機はこれからSan Sebastian に向かいBordeaux 上空へ。なんと今回の旅のspot を辿る道のりである。キャサリーヌが今度はRambouillet (ランブイエ)でなくパリで待っていてくれている。初っぱな失敗した(*;下記)ノートルダムのスタンプを貰うためにリュックを自家用車に納めてくれることになっている。巡礼のスタート地点はノートルダムに近いサンジャック塔。そこで会おうということになっているのだ。7:32 下界は雲ってきたが日の出が近い。真っ赤な幾つもの線が雲の上端に現れだした。その中央が膨れ出した。閃光が出始めたが飛行機は動く。雲の輪郭を追うように太い赤が移動していく。太陽の上昇は速い。ついに真っ赤な太陽がばぁーと顔を出した。時刻は7:36。(*)正直な話間違えば8/10 パリのパリは厳戒体制が敷かれ全交通機関が止まったかもしれないのだ。志摩サミットの当日渋谷のコインロッカーの前に置かれた一つのバッグもしかり、バルセロナの全地下鉄をstopさせた一つの鞄、それと同じ状況であったからだ。すなわち大きなリュックを背負った男、ノートルダムに入場するためには厳格な荷物検査があるため最少の手荷物だけにしなけれならない、入場を待つ列は長蛇。重い荷物をどうするか。周囲に聞こうとしたがその時点ではPoliceはいなかった。ドイツでリュックを盗まれている男はやにわに東新宿で仕入れた超強力チェーンを取りだしノートルダムの黒い柵にがんじがらめにして鍵まで掛けて列の最後尾に並んだのだ。さて10分がたち男は列の前のイタリア人家族に了承を取って荷物が大丈夫であるか見に行った。何事もなし。そいうことを2、3回繰り返していたのだ。30分ほどが経過した。突然列が進まなくなってしまった。何か様子がおかしい。Police の車が集まり出し列は封鎖されている。どうもリュックの回りが慌ただしい。「それ僕のです。この通り鍵を持っています。はずしてみましょう!衣服とスケッチブック、ソーラパネルしか入っていません。」Police達は本部に連絡。あのアホな巡礼が----。大いに注意をされたことは言うまでもない。。持ち物に人が付いていないものは全て不審物になり爆弾処理の対象になるのだと。このParisではあり得ない状況であったと。コインロッカーかホテルに預けないかぎりノートルダムの入場はあり得ないと。まったく浅はかであった。ドイツで「盗まれた」一件も爆弾処理班が処理したか誰かが警察に持っていったのかも知れない。横の連絡が悪く情報が伝わらず翌日になっても出てこなかったという事由ではなかったか。要するに不審物となるような"チェーン処理"はあり得ない時節なのだ。スペイン北の道の最後のほうの町Vilalba の郵便局から日本に送り返す第一番目の荷物になったことは言うまでもない。このあと直ぐにRambouillet に向かう列車が出るモンパルナス駅に走ったが巨大過ぎる駅は地下鉄を含め多層階をなす。コインロッカーさえも荷物検査があるという物々しさ。ロッカーのKey操作も難解。という訳でついにノートルダムには戻れずに旅を始めてしまっている。スーパー等ではリュックは見ててもらうか、預かってもらうか、小さければロッカーが利用できる。いかなる場合でも"不審物"ではないという主張が必要。スーパーでは加えて別な解釈。袋ものの持ち込みは厳禁。商品を入れても分からずに出てこられるからだ。スケッチブックのサックすらも店員に預かってもらうのだ。そいう心遣いがヨーロッパでは必要である。長々とした説明を後人殿が参考にして戴ければ幸いである。8:55 パリ・CDG空港に到着 9:26 RERでパリ市内に。さてParisは小雨。気温5度、南国から真冬の国へ!RERは、Parisへの直行便で10ユーロ。Garu du Nord 、Châtelet-Les Halles、Saint-Michel-Notre-Dame、---。等に止まる。 St Jacques towerで待ち合わせなので試しに Saint-Michel-Notre Dameで降りてみた。5番出口がNotre Dame に近いという。地上に出てみるとセーヌ川の南側。Dameとtowerの2つが実に近く迫ってくる。空港よりも寒く気温は3℃ほど、みぞれ混じりの重い雨が降っている。パリはすっかり晩秋の雰囲気。雨の空と紅葉と街並みがしっくりと融け合っている。スケッチしてみたくてうずうずする。ここでは全てが絵になるのだ。10:25 フロックコートや厚手のオーバーを着た人々が足早に通り過ぎる。セーヌを渡り St Jacques towerの方向に進む。南西角にあるBar 「IN」で暖を取る。朝食はSevilla でも食したが、ここでもプティ・デジョネ・クラシックを注文。出てきたパンはこの世のものと思えないほどの美味しさ。すぐボロボロになってしまった かの国のパンと全く違う。10:55 もうそろそろかなと電話するとキャサリーヌも近くのBarに居ることがわかった。外に出てみると手を降っている。という訳で3ケ月振りの再会。彼女はこの間北の道を完歩している。お互いに労をねぎらいつつ談笑。リュックを地下駐車場に止めた車に仕舞う。その足でノートルダムまで印をもらいに行く。月曜日は休みの筈であるがちゃんとopenしていた。特別な週間であったのかもしれない。よしんば締まっていてもスタンプなら事務所で貰えることは3ケ前から確認ずみ。孫たちへの土産物は郊外型の大型Shopがパリ市内よりも安かろうと、途中にBoulogne(ブーローニュー)の森の中にあるFondation Louis vuitton(ルイ・ヴィトン財団館)で開催中の「Icônes de L'art Modern (近代美術へのアイコン))"La collection Chtchoukine(チチョウキン・コレクション)"に立ち寄る。Chtchoukine はロシアの富豪であるがパリでまだ其ほど名前が売れて居なかった時代のピカソの絵など多数を購入しロシアに持ち帰ったのであるが、死後全コレクションが国に移管されモスクワやペテルスブルグの美術館に分散されている、その絵画群が一気公開だという。2年前に完成した超モダンな財団館で展示が始まったのだと。雨で寒いので余り並ばなくても良いのではないだろうかということで足を運ん次第。Netで時間を予約した人の列とそうではない人の2列。50分待ちというが30分ほどで入れた。地下を含めて5層の建物にゴーギャン、ピカソなど多数の作品が展示されていた。美術全集でも見たことがない作品群に驚愕。昨年はゴッホの墓へ、今年は展覧会へと、似たような展開である。一例を挙げると、Paul Gauguin(ゴーギャン)--Self Potrait.Tahitians in a Room.Aha oé feii(What .ar you jealous?),Sunflowers,Man picked fruit from tree,Ruperupe(Tahiti is a wonderful land),Landscape,Women on the seashore,Scene from Tahitian life,Vairaumati,The ford--など多数。以下同じ。Paul Cézanne(セザンヌ)--Self PortraitJames Paterson(パターソン)--The Enchanted CastleSir Frank William Brangwyn--MarketCamille Pissarro(ピサロ)--Place du Theatre-Français.SpringClaude Monet(モネ)--Seagulis,River Thames in London,Steep Cliffs near Dieppe,Cliffs at Etrwtat,Vetheuil,Meadows at Giverny,Lilac in the Sun,Luncheon on the GrassAlfred Sisley--Village on the SeineHenri Matisse(マティス)--Luxembourg Gardens,Bois de BoulogeHenri Rousseau(ルソー)--In a Trpica Frest.Paul Cézannr(セザンヌ) --Mont Sainte-Victoire seen from Les Lauves,The AqueductAuguste Renoir(ルノワール)--Woman in BlackなPicasso(ピカソ)Auffargis(オーファルジ)へ。シャンパンで乾杯。8th(Tue)Nov.Auffargis(オーファルジ)--Saint-Rémy Iès-Chevreuse--Paris・CDG(Aeroflot Rusian Airlines 11:50)--Narita(9th(Wed)11:40)4:30起床。衣服は全て洗濯し乾燥は完了している。パッキングしたり装着したりと。昨日は2つのBig-Shopを訪れている。孫たちの土産を物色するためだ。面白いのは女の子のコーナ。まぁ驚くなかれ。人形だらけ。風景が一転する華やかさである。キッチン道具のコーナーや食器類のコーナーもあり"フランス人の女の子"になるための要素が全部詰まっていた。まぁ日本と似ている一面も。木のおもちゃはスウェーデン製とか。車が外につくようなF1車はひとつもない。高学年用の"おもちゃ"はもう領域を外れるのかも知れない。物色もなかなか面白い。camino 仲間からfacebook で忠告があった。最後まで気を付けてと。忘れ物、盗難、怪我、---。弛緩はゆるされないのだ。心して掛からねば。6:30 出発、近くのRERの終点駅からCDGのターミナル2(終点)へ直行。チェックイン。WiFi環境があれば通信を試みる。杖は縮めてたすき掛けとしリュックに納めた。マットは何時もと違って側面に固く結わえつけてある。土産類は食料のように上に積みAllinoneとした。ショルダーバッグのみの軽装で機内に入る予定である。■追記町の道路によく見られた膨らみは、仏語では「casse-vitesse」(速度抑止ブロック)という、スペインでは3M製のゴムのブロックを幾つか並べたものが多かった。何回その上を歩いたことだろう。■ファーブの香りがする草花Fenouil(フヌイ)--丈は1m--2m。先に黄色い小さな花をつける。camino 道や車道に沿って沢山見掛けた。塵が散らばった汚い道でもこの雑草は育つ。芳香に幾度 救われたことだろう。■痛い草イッチと悲鳴をあげるのがこの草。Ortiga(オルティガ)という。可愛い白い花を房状につける。葉にはギザギザがあり、茎の部分に小さなトゲがある。背丈は30-40cm。皮膚に直接触れると飛び上がるほど痛い。細かなトゲが突き刺さるからだ。目にはみえない。スペイン中北部のあらゆる所に生えるため草地に入る場合は注意が必要。ただこの草。料理に使ったり肥料になったりと優良植物ということである。■オリーブの実黒く熟したオリーブの実、ピクルスやオリーブオイルのもとにになるこの実。かじってみた。飛び上がるほどの不味さ、辛さ、酸っぱさ、あらゆるマイナスの要素があった。これがあのピクルスになるのかと。実にびっくり。########完########旅のconclusion第1段・・・2015.5.10-8.9 ポーランド--パリ第2段・・・2016.8.10-11.9 パリ--ジブラルタル年が相違するが月日は継続する。シェンゲン条約(どの6ケ月をとっても滞在総日数が3ケ月を越えてはならない。)のため2期に分けてたのだ。######################拙い文章を長々と読んでいただき有り難うございました。数々のトラブルに見舞われながらもほぼ最初の計画通りParisからGibraltar まで旅を続けることができました。ひとえに皆様の激励の賜物であります。無謀な旅を2年に亘ってやらせてもらったカミさんと家族に感謝します。オフラインマップのMaps.Meには随分助けられました。Google Mapや、Open Street Mapを基にして作ったMy Mapに、Google Earthによる計測結果を書き込んだ地図は1000枚を越えますがこれを旅の「指示書」として活用できました。そいう意味で"放浪の旅"ではなく"計画通り"の旅を"ストイック"に実行しましたが、パソコンによる作業でしたので計画変更への対応に問題を残しています。これらについては今後の課題とします。描き貯めたスケッチブックは2册で凡そ200枚。日程の地図と一緒にupしていきます。
Nov 8, 2016
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The 13th Report(28th(Fri)Oct.-3rd(Thu)Nov.) from France,Spain,Portugal. I reached to Cádiz of "Camino de Cádiz.For the final stage,I am walking to Gibraltar,now near old town Vejer ,Andalucia,Spain.In next report.I will say thanks to every persons .Added Diary of 2nd Nov and some photos■柘榴の食べ方ポルトガルで多かった柘榴。木に実っている場合は割れれば食べ頃。果物屋で売っているのが実が大きくがっしりとしていて割れていない柘榴。この割れていない柘榴の食べ方は-----。先のレポートでネットで調べてから食べる と書いたままにしてあったら読者から質問があった。「その後どうなりました?」インターネットで調べると驚いたことに女性の"妊活"の味方でもあり健康食品だと。実の中の種を食べるべしと。男女で差のある食べ方になる果物であろうか。1.実の上部を切り落とす。2.四等分し食べやすくしてそのままかじる。3.種も食べる。小生の開発した手法。1.真っ二つに割る、2.中の粒々は鞘に納まっているので丁寧にスプーンなどで掻き出す。3.それを一気に口に含み食べ、種を外に飛ばす。女性の場合はそれも食べるか飲み下す。■バッテリーとの戦いタブレットがまだ活躍していたときから、現在の"予備"のスマホまで毎日が電池残量との戦い。50%を切ってくると何かそわそわするのだ。休憩時間内にバッテリーから給電して80%にはしたい。充電効率をよくするために、電源をオフにしているがいつか「再起動」状態のほうが効率がよいと聞いたことがある。プログラムを立ち上げたままでの充電は当方のAndroid の古い機種では少なくとも歓迎されない。さて、多数のアプリを起動したままにしておくと消費電力は大きくすぐ40%を切ってしまう。アプリにもよるが立ち上げたグラムを終わらせる方法がある。Maps.MeなどのオフラインMapは特に消費電力を食うようである。今までは起動した後、電源を切ってプログラムを完全に終了させていた。これでは能率が悪い。Androidの場合は中央のメニューボタンの長押しで起動したアプリの一覧が表示される。1.全部終了させる場合---三にxのマークの付いたアイコンが右下に表示されるのでタップ。2.一部のアプリのみ終了させる場合---該当するアプリを左右の欄外にドラッグ。3.インターネットのブラウザ画面の場合は+10などの表示が上部にあるのでタップして表示させ「-」アイコンをタップして不要な画面を消していく。さてこれらを明日から実行しよう。28th(Fri) Oct.Utrera(ウトレラ)--El Torbiscal--Sacramento-- Las Cabezas de San Juan(ラス・カベサス・デ・サン・ファン)7:20 出発。真っ暗なUtreraの町を南下。なかなかスリルがある。教会を回り込む道など暗すぎて本当によいのであろうかと。石畳の細い道をどこまでも南下。policeの車がやって来るが道を聞こうにもすぐ角を曲がって行ってしまった。広い道路の向こうは更に暗い。荒涼とする原野が待ち構えている。怖くなりあとで合流する車道A-8030 を8kmばかり進むことにした 。その4455歩である。8:35 Policeの車が静しずと接近してきた。「No」というジェスチャー。深夜に歩くなら黄色い蛍光色の服を着ろ、日照を待てと。"危ない"と電話が入ったので見に来たという。ヘッドライトは車からでは小さすぎて認識が出来ないと。nextタウンで買うことを約束。 どんな買い方をすればよいかそれこそpoliceに聞くべきであった。 辺りはすでに明るくなり始めている。歩道0cmでは本当に怖い。さてA-8080の道、綿畑の道。取り入れが終わっていない綿畑があった。背は50cmほどと低い。綿の果実が弾け綿が見えている。触ってみると座布団の綿そのものである。優しい白色。道端にも雑草としての綿が低い姿勢ながら散見される。最初はゴミかと思ったが綿が飛んできて雑草に絡んでいるのと生え残った草が種をつけ綿を弾かせているものなど。辺り一面綿だらけである。9:55 3256歩。 Canal del Bajo Guadalquivirを渡る。 景色は基本的に変わらない。幾つかの畑に別れているが地平線360度まで見通せる。10:13 4746歩。 運河あり。その横で軽食休憩。26_02_003 aから1kmのポイント。男性2人が畑を見回っている。土くれだけをを見て分かるのであろうか。来年の収穫など。さてA-8080の道は"高速"のロータリーに向かい終わっている。しかし車道ながら細い道が続く。My Mapでは線路を渡って向こう側に行く指示。厳重にフェンスで囲まれた線路である。特急が走るからであろう。どこを探しても線路を横断する道などなにもない。踏み切りはこの辺りでは皆無である。困った!細い車道は南に向かうが線路を渡るどころかどんどん離れていく。1kmばかり進んだ。用水路と畑と高速道路のみの殺風景な景観。じりじりと太陽に焼かれる。バイクの男性に聞いてみた、遥か遠くに見える-方向としては東側の丘の町が Las Cabezas de San Jeanであると。運河の道を真っ直ぐ向かうとよいだろうと。Maps.Meでも念のため現在地からの最短ルートを探ってみた。元へ戻って"橋を跨いでいた高速"を歩いて向こう側に行けと。唸りを上げて自動車が通っていた道は高速ではなく一級国道であろう。しかしそんな恐ろしいことも出来ないしと考えあぐねる。しかし見よ。線路を潜る場所に用水が流れている。僅かな隙間に羊が飼われている。泥んこの飼育場所を羊にまじって歩行できなくはない。恐る恐るその泥んこに足を入れた。羊達はいとも静かである。逃げ出した羊であろうか。見せしめに首吊りになっている。と。向こうに犬が見張っている。これはやばい。またもとの道へ上がる。しかし線路の向こうに細い農道が見える。待てよと。な、なんと今まで気が付かなかったが用水路の反対側に工事用であろうか道が通じている。My Mapは正しかった。ただしガードレールを跨いで川そばのその工事用の道に下れ と読めばの話しであるが。しこうして"高速"を歩くこともなく線路の向こう側に行く事ができたのである。camino 道でこんなことが許されるのかと。時間のロスも甚だしい。もう13:00だ。今度はA-471。1mほどの余裕がある。14kmで Las Cabezas de San Juan(ラス・カベサス・デ・サン・ファン)と標識。しかし高速仕様なのか車がやけに速い。A-8080どころの話しではない。車も多い。暑すぎる。13:07 1.418 A471から別れてcamino 道を進むことにする。運河沿いの道となる。14:36 工事現場から2.2km 15:26 出発。15:55 あまりの暑さでダウン。工事用の車が引き返してきた。冷たいバナナと柿の差し入れに感涙。だが再びマット休憩。1.5kmしか持たない!貴重な日影を身体が求めているようである。小さな黒い石が敷き詰めてある。これを利用しない手はない。一眠りしたようだ。時計は16:40。どこまでも、続く堀。ちょろちょろと水が溜まっているに過ぎない。あと2.5kmでA471と交差する。camino 道は国道と交差しこそすれ絶対に国道を歩かないように出来ている。町LasCabezas de San Juan は丘をなす町。教会がtop。そそりたって目の前に展開し始めた。今日スケッチの時間がなければ明日は遅いスタートにしてスケッチをしよう。日照は寝ている間に柔らかくなってきたようだ。16:5517:08 1.2km 綿畑の刈り取り現場に遭遇。17:18 1.9km 228度の方向に道が伸びる。まさにその方向に仰角30度で太陽の最後の輝き。2336歩でA417に合流。camino道でもロータリーまで200m国道を進めとの指示。しかしもう限界だ。A471をそのまま町に3km進む。角の「Alojamiento Temporal Las Cabezas」の筈であるが名前が違っている。「Hostal Las Cabezas」という間口1mのホステル。えーいままよと飛び込んだら「Hiroshi!」と言って男性が飛んできた。18:10着。部屋に入って驚いた。キチン、洗濯機、ベッドルーム2つ、ダイニンにリビング。もう住居のような内装、部屋は町の中央広場の正面に向いているため人の様子が一目でわかる、ATMもスーパーも黄色い上っ張りも100m以内で探せそうだ。ホテルを飛び出して100mでATM、戻って道を右に10mで中国人が経営する「何でも屋」でGilet de Haute Visibilité EN-340/03 EN-471/03 (蛍光色)の上っ張りをget。なんという厳しい1日であったか。29th(Sat) Oct.Las Cabezas de San Juan Lebrija--El Cuervo豪華なペンション風のホステル。6:00起床で朝食の準備。豆の煮炊き、茹で玉子とスクランブルエッグ、Yatekomoのラーメンスープとパン、バナナ、赤葡萄。超満腹。8:30 出発 砂漠でも頑張れるという十分な食料と水をザックに積んでいる。9:46 ロータリーから730歩でガードレールを跨ぎ国道へ。なんと昨日からのA-471だぁ! 心してかからねば。10:17 3139歩に橋。My Map 上3.3km のpointにあたる 。3139は65歩毎に100mとカウントしている。3139の実際の歩数=31x65+39=2054 3.3/2054=1.6 今は63歩数が100mとなっているた。恐らく靴を新調したことによる歩数の違いと杖を勢いよく突くことによる歩幅の延伸が影響している。すこし考慮せねばならない。さて10:26。このまま国道A-471を歩くとしたら例の蛍光色の上っ張りを羽織ってみよう。どれほどの効果があるだろう。A-471こそcamino 道をつぶして敷設したのに違いない。A-471がづっと付いてくる。少しこの景観を説明しよう。原野という表現は正しくない。全てが人の手が入った耕作地。この時期刈り入れが終わっているので耕作の土くれや畝が延びる畑。見渡す限り何もない。広大な大地の起伏のみ。そこを自動車道が町と町を結ぶ。 Las Cabezas de San Juan (カベサス)やこれから向かうLebrija(レブリハ)のように丘をなす町ならば起伏の襞から町が見え隠れしながら次第に近づいてくる。自動車道の断面は台形。上端部分に両側が白線。ストック一本分くらいの幅が我が道に許されているスペース。「auto--」という名前の高速道路以外は人は歩いても許される。問題は台形の傾斜の部分。30cmに満たないものから3m-5mに及ぶものまで様々。橋や沼や牧草地やロータリーなど環境に応じてガードレールが設けられる。その開始と終了が面白い。地面に突き刺さるようにしてゼロベースからスロープを成す。日本のようにパルス状に立ち上がりはしない。ガードレールの外に出るときはそのスロープを利用する。自転車caminoもよくそうやっていた。さて想像して欲しい。遮るものの何もない風景を。太陽がじりじりと照りつける地獄を。夏場だったら40度を超え車道にかげろうが昇るさまを。或は地面が水をうったようになるのを。帽子の衿を折ると視界が狭くなり足元しか見えなくなる危険性を。もうよい。休憩としよう。畦道に入っていくようなときその入り口部分に僅かなスペースが見出だされるのだ。オレンジを切り分けようとしたのにフランスから無くさずに常に携帯していた黒いセラミックのナイフが" 無いふ "。水分補給用に楽しみにしていた赤葡萄もない。 Las Cabezas de San Juanのホステルの台所で最後の最後に使ったものだ。どうも最終チェックにもれたようだ。宿屋からも11:11電話があった。El Cuervo へ車を飛ばしてくれるようだ。しかしそれほどは重要な物ではない。あまりの親切心に感動。丁重にお断り。どして電話番号が分かったのだろうかと不思議。さて蛍光色の上っ張りを着て何か変わったか?二つのパターンで違いが。蛍光色を着ているので道路精通者に違いない。--あまり避けずに車軸を保って通り過ぎる車。(昼間だと逆効果)、蛍光色に気が付いて普通の歩行者同様少し車輪を右側に。極端に右寄りする車がなくなった。蛍光色を着なかった場合は、「人が歩いている、一般人だ、これは多いに避けて通らなくては、」と大きく避けてくれるのではないかと。今日は特に畑を走る兎を多く見かける、野っぱらで狩りをしているので逃げてきたのかも知れない。乾いた銃声、6人が隊列をくんでいる。-11:2012:16 441013:30 やっとLebrija の町のBar Casa Archiveroに辿り着く。時々あるのだ。まったくBarやお店のない町が。中心を「く」の字に曲がった街道筋。その丁度曲がった奥に一軒のBar。14.4km 狭い店内に3,40人の全員が喋っている。そのうるさいことといったら。ビールを飲んだりと。土曜日とて解放感でいっぱいだ。煩いからさらに声高になるようだ。子供が3人。小さいときからこの喧騒だ。Hamburguesa Simple 3ユーロ、玉ねぎとトマトのスライスを一杯挟んでもらう。コーラ2杯、満腹-14:3014:45 26_03_004 b point。ここからしっかりカウント。最近暑さのせいかカウントが途中でおかしくなる傾向、とにかく影があったら休みたくなりカウントが途切れる。しかし今からは1.3kmの間に450m、740mのベンドポイントあり。脇道に入っていく。案の定土道が始まった。15:33 A-471はガードレールの端から道路に入りそのまま横断。少し戻って土道が始まる道を南下。510mで道が左右に別れる。左側を800m進む。農家が点在し犬が吠える。のどかな秋の一日という感じ。15:47 1.5km 南東126度の方向に高さ300m位の山陵が見えてきた。15:55 2004歩。喉からから。暑いが爽やかな風あり。気持ちがよい。オリーブの木陰で昼寝休憩。16:14 目が覚める。オリーブが随分実っている。真っ青な空にオリーブの白い葉っぱ。裏側が白く実がなっていないてっぺん部分が白く、実をつけてたわんでいる下のほうは表側を向いて緑。これだけオリーブを見てきたのだ。絵にしてあげたいものだ。実をよく見ると緑色に光っている実と光っておらず黄緑色のものとがある。収穫はどんな風にするのだろうか。--16:3517:02 Y字分岐26_03_005 b point から1532歩 もうすぐ県道A-8152に合流する。17:07 1752歩でMy Map 上の記載1930mをカウント。17:26 1340歩で1.4kmをカウント。まぁ当たらずとも遠からず。N-4を横断すれば荒れた土道1.4kmを行きなさいという指示。今日の土道は計5.14km。30th(Sun) Oct.El Cuervo(エル クエルボ)--Nueva Jarilla--Guadacacin--Jerez(ヘレス)毎日ホテル住まい。アルベルゲが一つもないためあまりにも高くつくcamino de Cádizであることよ。ホテルでは宿泊客一人という状況が3日も続いた。歴史的建造物や自然的な遺産が少ないためであろう。昨夜のホテルも素晴らしいデザインの浴槽。四角いデザインに統一されている。まわすノブが全て四角。今日の目的地 ヘレスはどうであろうか。入り込んだ道からなにか歴史的建造物が多い都市に映るが。旧市街地に宿を取った。期待しよう。8:25出発。エル・クエルボの町を抜けていく。8:44 26_04_001 a point から620歩で土道が始まった。郊外が農地に囲まれている。朝日が上がる方向に大農場が展開されている。有刺鉄線がずっと何キロも。8:55 1211歩 向かいの傾斜地に朝日が当たり始める。ヘレス空港に降り立つ飛行機が薄い青空に美しい。9:00 2.6kmを歩いたところで行き過ぎに気づく。2.2km point まで戻るもフェンスが張られ大農場の敷地の中の道路が見える。フェンスには潜れるだけの窪みと隙間があるがcamino の靴あとなど元よりなし。途中まで引き返した時点で"Mapa.Meさん"の「(其処)へのルート」という便利な機能に聞いてみよう。そこに示されたのは南東部最初の2.6kmのポイントを右折しろと。そのポイントに再び戻る。ここには立派な門があり開いているがよくみるとその横を土道が一本農場の間を走っている、この道を行ってみよう、9:40start。10:15 26_04_002 b point 高速道路のトンネルを潜る。14歩 自転車5人小生と同じ方向に向かう。10:52 3254 丘の彼方から犬を連れた人達の一群。一列になって近づいてくる。狩りの教室のようである、兎を放ちそれを追いかけるのであろうか。篭を持った人が耕作地の先頭に立つ。10:59 3700 牛のモニュメント。11:10 4359 高速のSAのような箇所26_04_004 a point 11:21 新しいカウント 400 よい日影 最初の休憩。-12:0012:46 557 向日葵畑12:59 1623=1.7km 26_04_005 a point 13:17 陸橋の下の日影で休憩。考えてみればここにcaminoマークがあったことから、別の道から曲がって北上することを示していたのだ。My Mapではここから高速道路沿いに26_04_005 c point まで南下すると指示。出発。しかし3.2kmに達した所で高速を潜るような道はない。Maps.Meに聞いてみよう。なんと指示された場所は藪の中に土管が2つ。そこを行けという。それは無理でしょう。高速のジャンクションを横切って西に行くcamino 道はなさそうである。どうする!方法は2つ。JCTを大きく巻いて一旦東方向に道をとり最終的にJerez の町に行く13kmの道、3.2km戻り高速を跨いで西に向かいそこからJerez の町に向かう14kmの道。後者はひょっとしてcamino 道かも知れないと夕刻迫るなかを決断。この3.2kmの戻りはなんと遠く感ぜられたことだろう。戻りの道をカウントする気にもならずひたすら歩く、なんと長かったことだろう。新しい道は何キロでも平気なのに同じ道を戻る辛さ!15:54 同じ場所の近くに戻ってくる。ロスタイム約2時間 8km。ここで再び小休止。Jerez 空港から小型飛行機が5分置きに飛び立つ。17:10 当初計画した地点に到達。2.5kmの鋪道をJerez 中央に向かって進む。もう意識朦朧だ。18:05 あと800m、もう目一杯だ。20:07 買い物ついでに冷えた缶ビールをあおる。ナイフをやっと手に入れる。これも中国人がやっている所謂「何でも屋」。食材からオモチャまで種々雑多なものが置いてある。パン、缶詰、ピーマン、トマトなどをget、日曜なのに店を開けておいてくれるのは有り難い。部屋に帰ってシャワーに洗濯、タオルでプレスして干す。この一連の所作が完了したのは20:08。今からが自由時間。ここでやっとベッドに横たわれる!寝入ってしまわないうちに、通りの角にあったBarにパエリアでも食べに行こう。大変な一日の締め括りに。本日の土道---17.2+5.2=22.4kmよくもこれだけ土道を残したものだ。乗馬、バイク、ランニングなど多目的に使える。今日の全コースはJerez の町に入るまで店など何もないそれこそ砂漠である。ハイキングの場合は十分な水と食料が必要になる。歩いている人は皆無。パエリアは高くついた。チキンパエリア。久々の温かい料理に舌鼓。31th(Mon) Oct.Jerez--Aqualand Bahia de Santa Cádiz--El Puerto de Marina--Valdelagrana--Campus de Puert Real-- CádizJerezの町、camino ルートが町のやや北方向に位置し東西に貫いている。昨日は其を外れホテルがある町中央部に向けて南側から入った。歩道は両サイド15mくらいもあり超近代都市と映った。四辻ごとの大きなロータリーがなかなか悩ましい。真っ直ぐ行きたいのに、半径30mほどの円を大きく半周しなければならない。横断歩道はさらに奥まった安全地帯に設けられることも多くその分歩数カウントを修正をしなければならないのだ。距離方向に依存しないルートはカウントせず斜めはルート2(1.41・・・)となるようにすこし間引きしながら歩数カウントを行う。緩い坂道が続き標高があがっていく。こんな調子だ。16い、17い、18い、19、20---。この「い」は半歩分を調整しカウントの遅延をさせているのである。どんな町でもこの方法で到達、あるいは脱出を行っている。かだ今日のJerez はとてもややこしい。960mを北に取ってcamino 道に合流する長いルートを選ぶか、ホテルから西向きにジグザグに進み最短コースで町外れにあるcaminoコースに合流するかの選択。昨日から絵を一枚も描いていないのでその要素も加味しコース取りを行わなくてはならない。「あまりストイックになりなさんな。」というクラスメイトの言葉が耳に響く。この解釈はいろいろ出来る。禁欲的になりなさんなーーたまにはタクシーなぞ呼んで楽をすれば。電車やバスを使ってあまり自分を痛めつけないで。もう歩くのをよして帰ってくれば。とか勝手な当方の願望が全部でてしまった。または「そう厳格になりなさんな」歩数カウントが「1」のオーダーまで厳格にするのはやめにしてもっとアバウトにすれば!たまには寝坊するなどして普通の人に戻ってくださいな。あぁ、もともと全コース3500kmの今回の旅を実行しようと考えた段階から「ストイック」なしでは実現不可能であったわけである。もう少し続けさせて欲しいというのが小生の思いである。激励は歓迎。今日はテント。これから合計4回のテント泊が待ち構えている。そろそろ限界がちかい。「あぁ、ストイックでない生活に戻りたい。」あと6日の歩行。頑張れturbo717。10:06 すこしスケッチなどをして時間を潰してしまった。今日も高速にそって道が延びる。26_05_002 b point から300m。土道始まる。10:40 100 26_05_003 b point から1.2kmでコンクリの道に変化。10:47 1424 牛のモニュメントまた現れる。これは何だろう?10:54 1952 歩。で高速に渡す橋が見える。昨日はこれが無かったために3.3kmも戻るはめに。ついでに救急車まで通りかかる。「そこどけ」と。11:01 2.3km point 。26_05_003 c point 。800m(d point )で確かな道がなくなる。c point の曲がり角には黄色い矢印。まずはok。この先800mを注目しよう。11:09 252歩で土道に突然切り替わる。11:18 d point 到着、土管のコンクリ部分に進行方向を示す黄色の矢印。しかしこれでは逆向きの人には分からない。T字路だからだ。そのまま矢真っ直ぐ、つまり印とは逆の方にすすむ。11:40 丘の上。なんとCádizの町や湾を渡す大橋が眺望される。なんともう少しでカディスなのかと。明日はこの湾を一周してカディスに入る予定。まずは何処かで昼食を。12:32 出発。13:32 El Puerto de Marinaの町でコーラを飲む。リュックを担いだままでは最後が苦しい。26_05_005 b 240m次のc point 南国のような雰囲気の公園と道路の交差。緑が濃い!14:08 Macあり。ネットを繋ぎつつ作戦会議。--15:40Cádizまで直線17km。今なら行ける距離である。明日利用するホステルを検索。3ユーロ安く13ユーロで泊まれることが分かった。即予約。ランチョンマットに高速沿道にあった牛の看板と同じ絵があり「この牛肉を100%使っています。」と。さてはあの看板は牛肉の生産地を宣伝するものであったのでは。しかしここで問題が。念のため、Maps.Meさんにも「ホテルまでのルート」を尋ねてみた。暫く考えての答は湾を一周する37km。なんとcamino道通り、大橋が無かった頃のルートを示した。きっと最短ルートを知らないのだ!と高を括って出発。橋を幾つか渡っているうちに、高速道路仕様になっていく。これは不味い展開である。蛍光色を着てみたがどうも様子がおかしい。歩いては行けない道のよう。このまま進んでも二度と下界に戻れないのではと。バッテリーが少くなってきている。広大な潟の広がりの中に歩くべき土道が見える。そこなのだ。私が歩きたい道は。ただし道の西側。今いる場所は東側で雑草と鉄路。どうする?正確な現在位置をMaps.Me で確認。車がいない瞬間に下り方向と上り方向の2つの別々のレーンを横断し広大な潟に近づく。次なる手は上り車線の左側を歩いその潟に延びる土道に下り立つことだ。これはたやすい。ここで驚きの展開、黄色の矢印を発見。橋の渡りか方が間違っていた。ここは右側、つまりcamino側(CádizからSevilla)では正しく左側通行になる場所に専用の橋が設けられていたのだ。小生はわざわざ左側を"取った"ために専用道路を横断する羽目に。さて広大な潟を渡る心細いほどの狭い道。手すりなど何もない海の中の一本道。強風が吹いてどちらかに倒そうとする。右に傾いても左に傾いても海に転落。これが延々何キロも続く。16:36 26_05_008 aから670m point 。潟を右手、高速を左手にみて南下。最後がサイエンス大学。ここに東屋とベンチが。水飲み場で大変な情報が。この先の大橋2つは歩行禁止だという。ここで初めてMaps.Me が正しかったことに気づく。事前にもっと調べておけばよかったのである。バスは2ユーロだという、バスで行くべしと。というわけで最後の7kmは楽チンのバス、18:00にホテルに到達。湾を一周していたらまだ着いていないだろう。ハロウィンで盛り上がっている市場を見物。町中の子供たちが集まっている。仮装して親に手を引かれている。魚屋のブースでは魚の切り身や頭で劇場を模した箱庭。これを見たいがためにぎっしり行列。右往左往の大混乱。Cádizの街並みはSevillaのそれとは対照的。碁盤の目である。セビーリャの迷路を上下左右に引き伸ばして碁盤を作った感じで迷路は残る。真っ直ぐな道はパリ、ボルドー以来だ。狭いので長く感じる。ミニショップが点在するため買い物が楽しい。どの店で買ったかの再現は難しい。今日の土道11.7km。素晴らしい土道に感動。1st(Tue) Nov.Cádiz10/30 3:00am サマータイムが終わり冬時間が始まった。1時間遅くする。7時の場合は6時というように。これで日本とスペインとの時差は8時間になる。その時計の修正を今日11/1まで忘れていた。さほど不自由なことが無かったからであるがひとつ思い出した。昨日10/31Campus de Puerto Realで「バスがもうすぐ来るよ」と言うのでバス停に駆けつけたのに時刻表を見ると行ったばかりで1時間半も待たなけれならない。椅子に座って待つ体勢になった途端、2連のバスがやってきた。こちらから合図もせず他の客もいなかったために通過しようとしたのだ。待てよと。運転手の意味ありげな視線を感じバスを追いかけた。待ってくれよとのサインにようやく先の方で止まってくれた。「随分ルーズなバスもあるものだ」と。これが正しかったのだ。時刻表は変わらない。時計の針だけが変わるのだと。面白いシステムである。昨日と一昨日の日記は夏時間のままとなっている。御了承を。さてCádizの一日が始まる。7:00だと言うのにまだ寝静まっている。スーパーマリオ教授の影響を受けた朝シャワーをしたいが騒音を発する。もう少し待とう。台所があり料理が出来る什器が全て整っている。旧市街のど真ん中。これが13ユーロとは安すぎる。まずは、Plaza Frgelaに出てFallo劇場を仰ぎ見る。San Rafael 通りを南下。Cádisの先端半島の北西。Playa de la Calete(カレテビーチ)にでてCastilli de Santa Catalina(サンタ カタリナ城)へ。Casitillo San Sebastiánへの通路が町から突出する形で西側に750m延びている。10:00 海岸べりの広場 Puerta de la Caletaで寛いでいると、サンタマリアを唱えながらしめやかな隊列。凡そ100人ほど。司祭が一人、大きなローソクを持つ人2人。海に張り出すテラスを周回してい11/1、2は町中が休みでお祭りという。その一環であろう。11:08 半島南側のAvenida Campo通りに沿う岩礁を見て、大聖堂に向かう。さすがに大きい。Catedralに向かったテラスに座るもボーイが飛んでこない。悠長なお店である。Santa Maria地区、Cabrera Nevares、Rosario、José del Toro、Benjumeda通りなど観光・商業地区を散策。スケッチなどしながら寛ぐ。小さな店に入ってはパンや果物を仕入れたりと。午後は部屋でゆっくりする。19:00に人と会う約束。16:40-17:30 Taviraの塔へ。町で一番高いという。てっぺんにつきだした更に高い場所にあるカメラから360度の映像が館内で楽しめるという。その時刻17:10。しかしパスしてホステルに戻る。10人部屋(ベッド5x2段)に一人しかいないようだ。19:00 ホステルから100歩の場所にあるFalla Theatre の正面でMaria Rosaさんとその主人ホセさんと会う。camino仲間が紹介してくれts貴重なカディス住人である。日没はもう過ぎたのかも分からないが西向きに開けたCaletaビーチからの景色は格別であると言って走る。ご主人も走る。当方は朝見た場所である。場所は頭に。夜の光景はまた格別。樹齢何年になるのであろうか。Ficusフィクスという巨大な木が2本植わっていてライトアップされている。前が大学であるという。もう一カップルを加えて5人で喧騒の町へ。お祭りをやっているのだ。アメリカ伝来のハローウインとの関係もこの町ならではという貿易の歴史があるという。セビーリャとカディスの町は複雑さは似ていてもこちらは碁盤状、あちらは納豆の糸。どうしてだろうと聞いてみた。あっちはイタリア、こっちはアラブ+ナポレオンという。頭の良さの違いか。なお最初はもっと小さく貿易で発展するに従い埋め立てて旧市街地が出来上がったのだと。詳しい説明が続く。カテドラル近辺の魚のフライ専門の店で談笑は続く。明日からの行動ではConil de la Frontera (コニールデラフロンティア)へ行くべしと。白い建物の重なりが楽しめるという。2nd(Wed) Nov.Cádiz--San Fernand--Chiclana de la Frotera(チクラナ・デ・ラ・フロンティア)--Conil de la Frontera (コニール・デ・ラ・フロンティア)今日のコースはMaria Rosaお薦めのコース。さてどうなりますかこの40km。8時出発を目指し5:00起床。6:00 朝食の準備 Yatekomoの焼きそば(ポルトガルと違いスペインではどんな小さな店にも「ヤテコモ」有りますか?で通じ棚から出してくれる。大したものだ。カレー味のカップラーメンが一番旨い。沸騰したお湯を規程の線より少し多目に注ぎ3分待つ。あまり長いとラーメンが水分を吸ってしまい美味しくなくなる。just 3分で、固いパンに先程多目に入れたお湯を吸わせるのだ、これほどおいしい"スープ・パン"はこの世にない。目玉焼き(昨日はオリーブオイルを懇願したらカップに半分もの大量のオイルをくれた。これでフライパンは焦げ付かない!)、パン、サラミ、バナナ、白蒲萄、クッキーなど。Chiclana de la Frotera(チクラナ・デ・ラ・フロンティア)までは電車がなさそう。またカディスからバスだと肝心のcamino 道を歩かないことになる、少なくともSan Fernand までは歩いてその先は人に聞いてみよう。My Map27_01_008 a point (26km)に兎に角合流することを目指し、 Maps.Meで最短ルートを検索しScreen Copy10枚を取っておく。7:55出発、8:11 1056歩で海岸べりに出る。8:32 新しいカウント1726で建物の上から日の出。Camino de Cádizはカテドラルから始まりSevilla をめざす、所々に矢印と貝殻マークのモホンが立っている、途中まではこれに沿って歩く。10:57 土道4.7kmでcamino 道から外れる。Sevilla へ行く道は湾の内側。我が方はこれからMaps.Meの 27_01_008 a point (26km)へ向けて東に舵を切る。ここでよい草地があったので土道を少し降りマットを敷く。--11:30 San Fernandの鉄道駅がすぐそこ。駅員に聞いてみた。Maps .Me 上にあったこの先の3つの駅は現在無いのだと。直前の分岐は廃線になっていたし、map上も線が途中で無くなっていたので「やはり」という感じ。 Chiclana de la Frotera(チクラナ・デ・ラ・フロンティア)までの7.5kmを歩けば2時間。バスがあるので利用したらとバス停(Bahía de Cádiz)を身振りで教えてくれる。まぁ特に乗る必要も無いのだがバスの終点で Conil de la Frontera (コニール・デ・ラ・フロンティア)への情報がget出来るかもしれない。面白い婆さんが話し掛けてきた。どこまで行くのだというので、Gibraltar だと言ったら、顔をしかめ猿しかいないのだと。 Conil de la Frontera (コニール・デ・ラ・フロンティア)や、 Vejer de la Frontera(ベヘール・デ・ラ・フロンテラ)はとても良いところだと。M1という市内バスに乗りながら大声で Chiclana de la Frotera(チクラナ・デ・ラ・フロンティア)行きは次のバスだと運転手から聞いた情報を伝えてくれる。 Chiclana de la Froteraまでは1.6ユーロ。さて終点でバスの運転手に聞いてみた。900m戻れと。Mac前のバス停にカディスからのバスが停まると。バスが13:35にやって来た Conil →Vejer (コニール、ベヘール)行きのbusに乗る。同じく1.6ユーロ。このようにローカルバスを乗り継いでいったほうが格段に安い。「白い町」が楽しみだ、バスはN-340を南下。14:20 Conil に着いたらしいが乗り過ごした。終点はここでは無く次のVejer(ベヘール)であったようだ。急いでMaps .Me を立ち上げるも既に遅し。どんどん離れていく。運転手に状況を述べて途中の原野で降ろしてもらう。これが幸いした、絶景が現れたことと、町の全景がつかめたことだ。ついでに野宿の場所など、今日はたっぷり時間がある。閉まっている店も多いが18時になれば開くという。海岸に出てみると大きなレストランが開店中。WiFi も使えるという。スケッチポイントがなかなか見つからない。ゆっくり探索しよう。先ほどの絶景はスケッチ済みであるが。また塔が出現した。今度のはLa Torre de Guzmán と言う。これに登れば下部から町を仰ぎ見ることが出来ようが閉まっている。15:55 軽食休憩。食料はこれで全部無くなる予定だ。3時間前の食事では缶詰のタブが外れてしまい大損。18:00-19:30 浜辺にマットを敷き夕陽を拝む。18:22 薄紫色のベールが水平線に掛かっている。茜色もあるがやはり完全な水平線上の日没は望めない。天空は青空なのに。月齢1日目のような細い細い月がでている。沈んだばかりの太陽から光を受け光っている。一番星も輝きだした。町の方を振り向くとオレンジ色の街灯とライトアップされた家屋が浮かび上がる。夕食に選んだ店はPizza house 、Andalciaの7ユーロは薄い焼き方でパリッとしていてとても美味しい。 あまりにも美味しかったのでMargarita1/4を追加。狙いを付けておいたビバーク場所に戻り設営。21:30就寝。3rd(Thu) Nov.Conil de la Frontera--Vejer de la Frontera--+9kmConil de la Fronteraの丘の上、灌木の間でビバークしたのはよかった。海が一望でき、これから向かうVejer(べへール:標高190m)の町の光が山の上にみえ、星が近い。5:30起床。7:30出発。明るくなり出してからのほうが今日の新規開拓の道には都合がよい、今日もMaps.MeでVejer の町直前のpoint まで最短歩行ルートを検索しScreen Copyを14枚撮っている。これをもとに歩行を行う。My Mapの原案ではN-340を行くようになっているが余りに恐ろしい。7:55 土道が始まる。そこに「Sancha Pérez Bodega Almazara Ecológico」と書いた看板あり。8:08 道は107度の方向に進み、日昇も同じ角度。曇っているがすでに日の出であろう。8:20 1406歩 116度の角度の雲の間から強い日差し。9:09 農道が高速2本(E-5、A-48)、国道N-340の3本を渡る橋に到達。これまでのルートは合っている。このpointでも最初の計画通り国道を行ってもよいのであるが車道が3本では煩すぎる。距離は変わらないようなのでこのまま農道を行く。9:38 橋から1661。農道も草道となりなにか怪しげ。ただ国道が高速を跨ぐか潜る場所にもとからある山がそうさせているのであろ。9:50 怪しすぎる。不安になり地図で確認するが合っている。2261 ok。290mで左折。ここで2つのミス。犬が盛んに吠える方向へ右折。元に戻り今度は舗装道路を思い込みで行って行き止まり。これも500m戻り"正しい"農道をいく、10:26 丘の上に上がりきる。11:50-11:40 五差路のような場所。最初の食事休憩。 27_02_005 b point の合流まであと3km。農道ときどき道路という面白いコース。バイクもその一部分で遭遇するが殆どが一人旅。山道を含めなかなかやるじゃないかMaps .Me ! と言いたい。これがなければ今回は国道ばかりであったろう。バス停の椅子に座って軽食を取っているがあれだけ悩まし続けた蝿や蚊が一匹もいない。ガラス空間が厭なのであろうか。11:49 729 目の前にVejer の町。確かに山のてっぺんにある。教会の尖塔が天を突き刺す。12:07 2154。12:31 合流地点から824。1.4kmの坂の途中休憩。疲れたぁ。周囲の素晴らしい景観を撮影。植栽で気付いたのは刺のある植物が皆無となったことである。雑草に皮膚が触れただけで痛みや、トゲが刺さるということがなくなった。優しい植物達。--12:44 あと少しでVejir !12:56 1750で漸く町の端が見えた。13:18 topに上がりきったら教会は遥か東。その尖塔を少し入れてスケッチしよう。その間バッテリーから充電。58%--66%に改善町は2つの丘を持ち、一つが古城、一つが文京地区。複雑に道がからむ、古城の方の広場にあるBarで大休止。14:28--Bar Penequeで寛ぐ。Barでメニューを貰い検討するも、カウンターにあるアラカルトの方に目が行く。茶色の丸い皿一つにそれらを盛って1.5ユーロの安さだ。肉と玉ねぎを和えたのが格別に美味しい。白いてんこ盛りの料理は.ensalada ruza、それも一皿と。長居とバッテリーへの充電などで消費を率先しビールなども2杯と。リュックを置かせてもらい、すまほにもチャージを行っている間にスーパーで買い物を企てる。シエスタあけの17:00が開店時間。店の前で待つも店主なかなか到着せず。やっと17:18到着。こちとらこれから12kmも歩かなければならばいのだ。さっさと開店して貰いたいものだ。パン、ハムなどをgetし、先ほどの Barに戻る。続いて夕食を食べるほどの時間の余裕はない。肉料理のみを口に含み急いで出発。町を抜け出す方法は2つ。車道と、急傾斜の歩道。困ったことにMaps.Meの地図情報にこの急傾斜の道が載っていないのだ、緑色の塗りつぶしで"フォレスト"を表しているだけだ。その道を下っていく。橋を渡ればいよいよN-340である。高速との違いは道路に有刺鉄線付きの柵があるかないかである。N-340は柵がない。イコール 人が歩いても良い道路なのである。だが歩く人はいない。皆、車であるからである。早速反射板付きの蛍光色の上っ張りを着て歩き始めた。日没後はヘッドライトを付けて。18:00-19:00 この間4kmは何とか見える景観。19:00-20:30 この間5kmは真っ暗。もう危険! しかしビバークする場所がなかなか決まらない。暗くなってからテント場所を探すことほど難しいものはない。いままでは昼間に物色をしておいてそこにテントを張るか明るいうちに到着できるかいずれかであったのに。まして国道脇はずっと有刺鉄線の張られた私有地である。12kmの歩行は諦め時間との勝負のみとしこうなったら国道脇でもよいので平らな草地さえあれば十分。突然優しい草だけの原っぱのような場所が出現した。少し靴でならしビバーク。1mほど下がった場所。道からは2mほどしか離れていない。当然全車両から丸見え。これ以上歩くと車と歩行者双方が危険。そういう意味でのビバークである。正しいのだ。照らさば照らせと。開き直りの境地。テントの幕に草地の映像が映され幻想的。それがヘッドライトが走ると映像も反対方向に走る。眩しすぎるにで、ナノタイルで目隠し。耳栓をして寝袋にくるまればもう快適な我が家。お休みなさい。21:30
Nov 3, 2016
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The 12th Report(20th(Thu)-27th(Thu)) from France,Spain,Portugal.I crossed the border to Sain from Ayamonte.I reached to Sevilla 4 days ago, and am walking now camino Cádiz from Sevilla.My shoes was bloaken ,so I got new one .■Booking .comの危険Sevillaで時間があったのでホテルで少し聞いてみた。フロントに置かれているパソコンを見ながら新しい予約を入れてみた。まぁ刻々と全世界からbookingの情報が届けられ部屋が自動的に確定していく。中には1人の予約なのに2名の予約が入ってくる。また明らかに間違っているであろう、ダブルbookingの情報が5秒後に日本から届く。日程も時差の関係からか単なる間違いなのか10秒後にまた予約が入ってくる。あらゆる場合でもBooking.com上での修正以外はは、ホテル側では変更は効かないという。要するに予約側で細心の注意が必要である。サイトでは人数が「2」名から始まる。ホテルの場合はダブルベッドやシングルx2の部屋もあるのでさほど影響がないがホステルの場合は2段分というようにベッドが確保されていく。この場合は価格が2倍になってしまう。一人の場合は「2」のチェック印の上に「1」があるのでスクロールして確実に「1」を選ぶ必要がある。当日予約など2日以内の場合はBookung.com上でも変更が効かずキャンセル料が発生する。そのホテルを利用しなくてもクレジット番号から引き落とされる。Bookingしたあと、コメント欄などに余計な追記は止めたほうがよい。ダブルBookingとなってしまうことがある。「到着が遅れます。」など通信はしないほうがよい。重ねて言う。ホテル側では修正はきかないのだと。20th(Thu) Oct.Guia --Ferreiras--Pinhal--Boliqueime--Valecovo--Campina de Baixo--Loulé- é -Pedragosa--Torres de ApraGuia の静まり返った宿。一人だけ停泊した館、灰色と黒で塗り分けられた全ての調度品、ステンレス機具が光るシャワールーム、繊細なデザインのトイレ。テラスに置かれたテーブル。そこを5:00起床。昨日泳いだ時に使った海パンが乾いていない。所作を1つ忘れたのだ。すなわちタオル類がふんだんにある場合はそれらにくるみプレスしておくと乾きが早い。プレスは足踏み。これで洗濯機の脱水レベルになるのだ。手で絞ってもここまでは絞りきれない。今回の旅で会得した技術。これ結構使える。どんなに到着が遅くても朝方には乾いているのだ。これをし忘れた!さて国道を3km行ったところで恐ろしげなジャンクション。歩行者の事は一切考えていない。自動車専用ジャンクションとなってまっている。しかも2重、3重の立体交差。ここは事前に調べてはあるのだが実際通り危ない場所。このまま国道を進めないこともないが国道はFerreiras の町を大きく迂回するような造りとなっていて長い。ここはジャンクションを迂回し町中央を通る2.5kmほどの"歩行迂回路"を取ることにしよう。8:29 もうこの時間となればBarやパン屋はopenしているだろう。町の中央四辻に集まる車の疾走が見えだした。そこに行くまでに一人の老婦人と会った。「ボンディア」と挨拶。向こうはボンディー-アと応える。ひと呼吸長い。しかもディーアに思いがこもっている。大切な人生の一日。晴れた朝が嬉しいとも聞こえる。四辻にはCafa-Barがそれぞれ一店づつ。出来立てのクロワッサンにカフェコンレチェ。少量のエスプレッソに大量のミルクを入れるという能率のよい作り方でガラスコップに入れてくれる。殆どの客は小さいカップにエスプレッソだ。--8:539:55 国道と側道の合流点から2930歩数。 9:53 みかん畑が広がる、取れたてのみかんを袋に詰め家の前と、向には露天を出して商売している。日焼けした婦人が店番。そこは町の名前P?iが消されている場所。。町の境界だったわけ。10:37 2328歩。23_03_003 cのpoint 360m手前。軽食休憩。ユーカリが無くなった地域ではハエが多く追い払うのに帽子が必須うアイテム。はえとのたたかいが始まる。--11:2012:29 25_03_004 c から218歩。ザクロが沢山なっている。1つ失敬。甘く美味しい。よい水分補給。近くは柑橘類のお山が続く。びっしりとは植わっていない。土の部分が多く見える。12:55 高速下の日影でマット休憩を決め込もうと思ったがトラックなどが飛ばして入ってくる。余りにも危険である。来んないなか道だからこそ飛ばすのであろう。その道を外れれば誰も来ない。かんかん照りで暑いが灌木の日陰がよさそう。つでにスケッチ。25_03_005 bのpoint 。14:07出発、まだ15kmもいなか道。境はテントを決め込ãもう。柑橘類の丘がどこまでも続く。素晴らしい!15:34 小綺麗な高原の町へ上がってい。狙い通り大型スーパーLidi。まだ設営予定場所まで5kmあるが重たくても水はgetしなくては。途中にBarかレストランがあれば幸い。15:40 買い物 16:22出発、13-14kgか。そうは重くない。ビールとパン、バナナ4本積んでいる。17:25 Pedragosa 25_03_008 bから250mにBar-Rレストランあり。18:30まで粘る。ところが出発して僅か15分で素敵な野営地を発見。丘に上がりきるとまずまずの平坦地。マットを敷いて寝転ぶ。灌木の影。日没を待って見よう。だめならこの先3kmで探そう。21th(Fri) Oct.Loulé-- Gralheira--Pedragosa --Torres de Apra--São Brás de Alportel--Santa Catarina da Fonte do BPP.(サンタ・カタリナ・ダ・フンテ・ド・ビスポ)--Tavira3:30 起床、半月、星も輝き綺麗な夜空 眼下20mの街道を行く車は僅か。目の前の丘の上に建つ住宅群のオレンジ色の明かりの列と少し遠くの西の丘のローレの町の光だけ。それ以外は暗く月光のみの光。おぼろげ。5:30出発。6:58 25_04_001 c point 本日分行程の4.9km point 7:34 25_04_002 b point São Bras de Alportelの町の入り口。四辻のロータリー。少し休憩。780m行ったら中心街の四辻でBarを期待したいが今は朝焼けの空が美しい。町の絶景スポットまで少し下ってみる、南に開けた高台があり教会が建っていた。7:57日の出、8:00を告げる教会の鐘が耳元で響く。北向に200mほど戻ろう。Cafeがあるかどうか勝負。わぁ広場に面し5軒も!朝日が当たる店の一角に腰を掛けカフェコンレチェを啜り甘いパンを食べる。犬が2匹寄り添ってくる。この四辻の主のような存在。入ろうとしたおばさんに叱られている「あなたたちはそこじゃなんでしょ。」と。菓子パンでも「このパンください」と日本語で通じるところが面白い。修道院の老夫婦にも「シャボンが欲しいんですが」と日本語で言ったらちゃんと持って来てくれた。。「ピンからキリ」までのピンは小さいことを意味しキリはその逆だ。、テンプラ、ブランコ、ビスケット、カボチャなどポルトガル語が随分日本語になっているのだ。宣教師、鉄砲伝来と古くからポルトガルとは縁が深いのである。もっと仲よく学びあっても良いのではなかろうか。日本語でどこまで通じるか勝負!さて長居をしてしまった。8:47 旅を続けよう。10:09 2mの誤差でpoint 25_04_004 b地点に到達。Google Mapもよくやってくれるものだ。地元のひとでも絶対に通らない細い土道を最短コースとして僕に提供してくれた。合計約2kmの土道。Maps.Meだと点線になる山岳道路。でもGoogle Map は違う。立派な二本線なのだ。点線表記という文化がないらしい。最後なんか犬が吠え狂うように絶対人が通らない灌木で塞がれたよう土道。コンパス上は正しいそう。勇気を出して突進。はてさて次第に農道のようになり地元の幹線に合流。測歩の誤差は2mと、My Mapが恐ろしく正確だ。水補給。10:22 再出発。856 カウントで時計を見たら10:47もう5時間も歩いている。カフェ休憩を除いて。 靴が悲鳴をあげている。オリーブ、無花果、カリン、その他柑橘類の畑の開いたスペースにマットを広げる。25_04_004 d point 手前 230m。ー12:00 出発もバッテリーが35%と充分ではない。920m進んだ所が Santa Catarina da Fonte do BPP.(サンタ・カタリナ・ダ・フンテ・ド・ビスポ)の中心街。12:22 Barによりコーク休憩+バッテリー充電。Taviraまで10.7kmのBar。14:46 Tavira 4km 高速下をくぐりロータリーを越え60歩で空き地に寝転ぶ。ザクロをどう食べるか思案。バッテリー充電。15:05 出発。ザクロは自然に割れるまで待つのかインターネットで調べてからにしよう。昨日スーパーで買ったのだ。15:37 Tavira 市の看板。感涙。Praça da República にあるホテルTavira Formosa Guest Houseへはキャッスル経由が一番早い。迷路のような旧市街はすべて石畳。My Mapの表示を目一杯拡大してコンパス片手にずんずん進む。お城の隅で絵を描いている婦人あり。覗くと目の前にある大きな木と背景の家屋群。キャンパスとパレットを抱くようにしてこじんまりと油絵を仕上げていた。少し会話。城壁からの景色も面白い。了承を得てそこでスケッチ。見ると沢山ザクロが成っている。この辺りの特産であろう。城を降りて行く階段はトンネル。発掘中の様子を見せていた。最下段に教会Igreja da Misericórdiaがあり中を拝む。貰ったパンフ。な、なんとポルトガル東部の巡礼ルートの基点の教会。ここからもSCを目指すルートがあったのだ。"O Camino do Este de Portugal"Tavira --Cacela Velha--Castro Marim--Alcoutim--Serpa--Seixo--Borda--Nisa--Belmonte17:00 ホテル到着。広場は観光客で溢れている。川を渡す旧い橋も趣がある。レストランが張りだした沢山の椅子やテーブルの隅を進むと小さな玄関。ゲストハウスはちょうどその2nd floor。カジカの絵を描いた鍵が2つ。1つはシャワー室、大きい方が部屋の鍵。個室ではあるが其々のトイレ・シャワーは別という面白い造り。キッチンも完備されている。水回りを一か所に纏めるという内装になっているのであろう。22th(Sat) Oct.Tavira--Manta Rota--Bornacha--Vila Nova de Cacela--Altura--Vila Real de Santo António--(Spain)Ayamonte--Montetreinaあぁやばい事態に。貧乏旅もいいとこだ!リュックと靴が壊れて来た。リュックは「Gregory のBaltri75L 」心棒が折れている。2、3日前から何かリュックがおかしかったのだ。お爺さんになったように腰が折れてュックがかしいできた。リュック中身を全部出して確認。背骨が下のほうで真っ二つに折れている。上に積んだ食料品が重すぎたようだ。バリっという音がした時のはこの折れた骨が擦れる音だったのだ。肩に重量がかかり、腰の部分が身体に触れて痛くなってきた。リュックのバランスは大変重要。どう挽回するか。杖を後ろ手にリュックの底を持つようにすれば少しは楽になる。今後は食料も含めて重いものをいっそ最下部に。さて問題の靴。「AsoloのVibram」 ポーランドの旅から使ってすでに5000km歩いてきたものだがボロボロになって穴が空きだした。靴底は今回の旅で交換してあるのだが道は比べ物にならないくらい厳しい。右足かかと部分がすり減りすぎて靴に付属しているスポンジの部分がみえだした。インナーソールにもダメージが。石などを踏まないように道を選ばなくてはならない。しかも今日もテントの予定。テントの時はビバークということで距離が長めに設定されている。36.3km!誰がこんな厳しいスケジュールを設定したのだ!と私は言いたい。このように最後が一番厳しい旅になりそうだ。turbo717=hiroshi ota=太田 宏 頑張れ。しかし考え方を変えてみよう。旅のあらゆる要素をひっさげての歩き旅。景色を観て、話して、描いて、・・・十分楽しまなくちゃ。5:19 活動開始。朝食の準備と食事、出発準備。抜かりはないか。閂式のこの館、一旦出たら二度と入れないのだ。忘れ物は許されない。8:36 線路から2157。雨激しくなる。9:13 狙っていたカフェ Cafe O Ferrolha。ピタリと到着。国道から離れた町の街道。ほとんど車は通らない。男どもが11人も。店角で1人。通りを見張っているような顔つき。よくある光景だ。いまから抗争が始まる西部劇そのもの。皆朝のコーヒーかビールを飲みに来たのに過ぎなく外でタバコを吸いながら通りを見ているのだ。そこを巡礼姿の小生が通りかかる。格好の餌食である。「雨なのにご苦労なこった。」そんな顔付きである。ここで靴を脱げばよいのだがあと1時間ほど歩いてみよう。口には堅めの御菓子をほうばっている。抗争は起こる気配を見せない。TVでは昨晩の事件を詳細に報じている。--9:4010:29 ランドマーク間6.2kmという最長のpoint 。そこの町がポルトガル最後の町Vila Real de Santo Antónioである。ポルトガル オブリガド!幾ら有り難うといっても足りないくらいだ。スーパーの店員はオラー と オブリガドを連発。日本のレジではどうであろう。ほとんど無口で愛想がないのでは。この国の道は決して綺麗ではない、水溜まりも多く歩きずらい。心はピューアーである。感心。4428。11:34 バス停で休憩。雨が続く。荷物は肩に食う込む。兎に角食べて荷物を減らさなくては、11:58 出発、青空が真上と北西。その他は厚い雲。12:03 再び雨が降りだす、激しさを増す。12:30 Vila Real de Santo Antónioというポルトガル最後の町に到着。ものすごい雨となった。皆天幕等に避難している。それを尻目に真っ直ぐ東へ。波止場からでるボートへ。次の時刻は13:30。スペイン時間は14:30。今日は23時間しかないのだ。船賃1.8ユーロ。国境の川は海のような広がり。目指すAyamonte (アヤモンテ) の町が河口から遠い方に白一色の固まりとして見えている。航行時間は25分。Camino を歩きポルトガルからは自転車で旅をする年配に会った、他はオランダ人の観光客。スマホの電源残量が15%以下となり警告が出始める。ここでBar休憩。Patata con Chocoという特別メニューを注文、入り口でそれを食べている人がいたので同じものを と頼んだだけである。別の男性が走りよってきて看板に書かれていない今日の特別メニューであることを教えてくれた。クロンボがずかずか店に入り込んで来たものだから皆の注目の的となる。ならばと。バッテリーとスマホ本体の2つを充電してもらう。その間、近くのスーパーで買い出し。16:00位まで粘ったせいでスマホには65%ほどの電力が溜まった。16:00から日が差し暑くなる。17:33 3.1kmのカウント2505_007 b 手前100m.で疲労困憊。48mのなだらかなup。夕刻は寒くなり始める。上下レインコートを着る。ビバーク予定場所まで6kmほど。18:12。天候が持てば幸いである。明日はホテルを予定するものの36kmも歩かなければならない。よって今日はあと6km以上がノルマである。食材は日曜日用に多目にパンを仕入れてある。水が重く腰を圧迫。贅肉ゼロの身体に堪える。どうも靴がいけない。穴がどんどん大きくなり、インナーソールまでも穴が開いてきた。これでは靴下で歩いているようなもの。応急に処理したいが---プラスチックの破片が転がっていたのでそれを靴底に当ててみた。これで6km持つか?否5.8km目で道路に置き去りに。明日の宿泊場所Huevlaで靴を買うか修理かを決めよう。国道とみかん畑の間に格好の平坦地を発見。20:55設営開始 21:11設営終了 就寝。23th(Sun)Montetreina--Lepe--Cartaya--Bellavista--Urb.Nuevo Carrale--Huelva2:12 雨粒で目が覚める。換気のためベンチレータを効かせていたのだ。テントの入り口を編み目のみにしている。天気のいい日はそこから満天の星空を楽しむことができる。3:30 星空を確認。今日は晴れ渡る日なのか? さに有らず、また降ってきた。4:40 雨の中を起床。中はあまり浸潤していない。結露もなく快適。ぐずぐずの食事、喉を通らないのだ。鰯の缶詰、ドレッシングの入っていないサラダ、赤ピーマン、バナナ、すぐぺちゃんこになってしまう味気のないパンを口にふくんで行く。ペットボトルの水で流し込む。白ブドウの水分と甘味は随分助かる。締めはアップルパイ風菓子など。車が近づく度にヘッドランプを塞いだり消したりと。6:40 真っ暗な中を出発。ヘッドランプをつけて進行。7:53 テント場所から5760mでLepeの町。 大きく迂回している国道を避けて町を目指す。 この町驚いたことに建物が建っているほんのそばまで泥んこの土道。1.4kmもの悪路をどうして舗装しないのか不思議。農業一本の町なのか健康増進のためジョギングコースとしてCamino 道のような土道を敢えて残したのか聞いてみたいところだ。8:25 まだ暗い。9:00 町を抜け出すのにひと苦労。 延々北に進路をとる。フェンスの中にも北に進む土道。これが途切れない限り100m横を行く国道には戻れない。Poligono Industrial Cortés Dazaという工業団地が始まる所でやっと抜け出し国道へ。縁石がありマットを敷いて横になる。やっと日の出のようであるが曇っていて寒い。雨具に身を包む。日曜とて全体に閑散とした風景。国道N431を歩いているとにょっきと人の腕。Bellota(ベヨタ:ドングリ)を拾っているのだった。ドングリは細長く太い。国道沿いにはこの木が一杯植わっている、その一つをバケツに収穫しているのあった。11:10 Cartaya(カルタヤ)の町に入る。 Bar-Riá Pitáでcafe+菓子休憩。充電。表に7つテーブルを縦列に並べている。外に5人、中には15人ほど。賑やかだ。アンダルシアの陽気さである。また雨が降りだした。11:33まで粘ったものの今日は長丁場である、先を急ぐ。朝からスマホの調子がおかしい。画面が切り替わらない、切り替わろうと努力はしてくれているようだが1ページ目に戻ってしまう。My Mapを入れている「アルバム」が暴走、Maps.Meが立ち上がらない、等々。なんと完全にOutである。時間のロスもいいところ。電源を切っては入れるのだがそれでも言うことをきいてくれない、万事窮す。何回かやっているとたまに動く事があるのでそれを期待して東方向に進む。ただ森を通るコースは危険が多い。さりとて国道はとんでもない方角に行っている。ここに来て磁石が地図の方角を示さなくなった。磁気偏差は30度以上もある(-1.45度であったがなぜか小生のは大きい)。磁石が東をさし、道も東に向かっているのに地図では南東に向いた道となっている。太陽は東に90度に上がっていたのに、ここでは120度を指す。13:02 1.5kmに橋。左腰が擦れて耐えきれなく痛い。リュックが変形して形が崩れて来ている為である。休息、処置を考えよう。ナノタオルという大きな布を擦れる場所にあてがう。これが結構調子がよい。靴は穴が開いている。穴の開いた靴をカバーするように右足は爪先から着地。runningが一番今の状態には適している。このままでは遭難するのではないかと不安になってきた。しかも雨が降ったり止んだりと目まぐるしい。たまたま立ち上がったMaps.Meを見ると森のなかの編み目のような道は正しく選ばれている。ここでMy Mapさえ上手く動作してくれれば10kmに及ぶ森を抜け出せる筈。東に進みさえすれば生還できるのだ。どうもスマホが濡れていて暴走するようだ。雨の進軍は複雑な道は無理であろう。23kmの地点。森のなか。あと13kmなんとか頑張ればHuelvaウエルヴァに着く。時間は14:30。もしにっちもさっちも行かなくなったら同じ道を戻って先ほどあった煙が出ていた人家に駆け込みタクシーを呼んでもらおう!くねくねと何処までも曲がって延びていく道。森閑とした中に独りぼっち。とまぁそんな情況。人生、最大の危機。今回の旅ではダメになったタブレットに代わり、どれだけスマホに助けられたか。そのスマホが暴走するとは。あとは"研ぎ澄まされた"(?)五感に頼るだけだ。暫く時間が経過。なんとこの森に一台の車が犬を走らせて近づいてきた。話しかけてきた。かくかくしかじか。コースは間違っていないのだが、なにせスマホが動かないと窮状を訴えた。ならば助けてあげようと、なんと神様のような方。Antonio さんであった。というわけで本日は13kmをスルー。このHuelva にもアルベルゲがあったが歩いている人は僕だけだという。キッチンはない。立派な作りの4階建ての四角いビル。中庭や回廊があり雨を防いでくれている。傷心のturbo717。 近所の郷土料理店 La Pintaでバイキング風のアラカルト魚、肉、野菜という風に指差しでえらんでいく。pescaitos fritos(ペスカイトス フリトス:小う魚のフライ)にセルベッサ。勘定を頼んだらたったの3.6ユーロ。テーブルに現在出ている食器をカウントしただけなのだ。正直に申告して10ユーロほど払ってきたがこの店今までどれ程損をしてきたのだろうかと心配になった。24th(Mon) Oct.Huelva--Sulxentral Eléctrica--San Juan del Puerto(サン・ファン・デル・プエルト)--(train)--Sevilla 今日は待望の月曜日。店も全部開いていて活気が取り戻せているであろうか。友の忠告では雨の日スマホは止めろと。カバーは外しているのだが、雨で表面電流の微弱な電流変化を感知出来なくなっているようだ。防水サックに仕舞 い見るときはBar内部に限ろう。昨日あれだけぼやいてしまったスマホに謝る。町を抜け出すまでの7kmは紙に写していこう。朝食を7:30にお願いしているのでそれまでに作業を終えなければならない。7:30-8:00 朝食10:30--11:05 3.7kmのカウントのうち1519で工業団地のBarに到着。この日記ではあまり景色のことを書いていない。少し説明しよう。昨日分まではそれこそ果樹園かオリーブ畑の連続。国道はユーカリ林か松の列植林。果樹園などはずっと有刺鉄線が張られた景観。日本のように車を止めてゆっくり拝観という景色ではない。なん十キロも続く。森は松に似た樹木が植えられ大変透けた空間を作り起伏はあるもの遥か先まで見通せて明るい。こんな場所をrunningできたらどれ程楽しいか。今日の景色はA5000という国道。酷な道。白線しか引いていない"歩道?" 。途中トヨタのディーラーがあり月曜日朝の晴々とした職場の雰囲気。そう言えばポルトガルの果樹園+原野の土道では三菱の車をよく見かけた。泥道や起伏には都合がよいのだろう。燃費競走よりも機能性を謳ってもっと頑張ってもらいたいものだ。さてすでに7km以上は歩いているというのに、工場群か原っぱの景色が続く。このままA5000を行き続け今日の32kmがすべてこれであるとしたら大いに問題であるのではと考え出した。セルビアまであと79km。2日連続のテント泊。穴の開いた靴、靴の新調を考えた場合、早めにセルビアに到着すべきではないかと。このBarで近くにバス停があるか聞いてみよう。ふらふらと右側にたおれこめば即死間違いなし。70km以上のトラック達。殺風景な原っぱと工業団地が延々と続く。11:38 SanJuan del Puerto に着いた。110m先にlocal線のバス停がある。時刻表を見みよう、この近くには鉄道駅もある。しかし驚いたことにバス停や駅にも時刻表というものがない。駅前のBarに聞いても1日3本ぐらいだがはっきりしたことが分からないと手を広げる。駅で思案にくれていたら先ほどのBarの男性がスマホをかざしながら飛んできた。ネットで時刻表を調べたようだ。次発は15:12という情報。(最近は、親切を受けると涙がすぐ流れてくる。昨日も森の中で泣いてしまった。)では待たしていただこうと。そのBar「El Tangai」でRevueltos「Rustico(Chorizo,Morcilla,Huevo y Patata)」とCañaで時間を潰す。ここで旅の日程変更。則ちここからSevillaまでの79kmのコースのうち鉄道駅と隣接したこの土地。何時間待ってもセビリアに直行すべきと。セビリアで3日過ごした後、いよいよcamino de Cádizに向う。新しい靴で! Decathlon(sports shop :デカトロン)へ行こう。USBソケット付きの電源プラグも昨日から無い。テント場か途中のリュック操作で無くしたらしい。杖はもうとっくにゴムが摩耗しコツコツとうるさい音。ツーリズモでも十分な情報をgetしたい。ジブラルタルまでの合計350kmで有終の美を飾ろう。15:12 Sevilla 行きの列車。4輌編成。定刻通り出発。15km先のPuerta del Bueyに停まった。車窓にはオリーブ畑の連なり。耕作が終わって耕した土だけの畑。15:28 車掌が来きた。Sevilla まで11.1ユーロ。15:33 次の駅 Pama del Condan。15:45 Escacena del Campo 、15:50 Carrión de los Céspedes まぁよく止まる列車だ。ポルトガルの南部からアンダルシアにかけての家々が白いのは石造りの表面に白い漆喰を施してあるからだ。アクセントを付けるため窓枠にオレンジなどの色を塗っている。16:04 Benacazón 。電車は北上しSevilla の町を 半径5kmの円弧を描くように時計回りにして終着駅に近づいている。景色はオリーブ畑の連なりと土むくれ。農道は土道。気持ちよさそう。最寄りの駅を全部すっ飛ばしていく。町並みが見えてきた。割りと平坦。運河は濁っている。この分だと直前まで畑。陸橋など建造物には必ず太い丸文字。ニンジン畑に変わった。市民の菜園も見える。日本と同じだ。多摩川の不法菜園ではあるまい。マルセイユと違って終着駅に近づくに従い太文字は無くなっていく。16:32 セヴィリア到着。晴れている。ここから旧市街のど真ん中にあるホステルまでの道は途中から迷路中の迷路。約1.7km。道幅は1.5m、無事17:05 到着。18:00 ホステルの屋上で寛ぐ。ポーランド女性が作った夕食の残りとHuelva のアルベルゲから持ってきたパンで夕食。周囲の景観を気にしながら洗濯物を干す。スケッチなどしながら食事。とても忙しい。19:45目の前にカテドラルがライトアップ。絶好のポジションで一泊16ユーロ。20:30から大聖堂近くのタブラオでフラメンコ鑑賞。男2女2(男性の歌い手カンタオール(cantaor)が踊り手バイラオール(bailaor)を兼ねる、女性の歌い手カンタオーラ(cantaora)と踊り手バイラオーラ(bailaora)を兼ねる、踊り専門のバイラオラーラとギタリストトケ(Toque)の4人が)のステージ。激しいリズムが巡礼を忘れさせてくれた。21:45就寝。25th(Tue) Oct.Sevilla 7:30起床、8:00 3rd floor で朝食。9:30 大聖堂東側のツーリズモでCamino de Cádiz(カディスの道)の情報を聞く。アンサーは大変つれないものであった。公的なものでないので一切のマークはないと。挙げ句の果てに国道を指差しこに道がよかろうと。camino道なら調べはついている。もう結構。しかしスタンプはgetできた。Cádizまで5-6個のスタンプを貰うスペースはクテデンシャルに空けてある。最後にParisのノートルダムで判子を貰えれば裏表は埋ることになる。大聖堂の拝観はミサの後だと。9:40-10:20 ミサに参列したいと言ったら祭壇に入れてくれた。パイプオルガンの縦長の風景にも遠近法では天井の遥か上部に消失点があるのだなぁと説教も上の空で感心。そこをスケッチ。ミサのあとゆっくりしていたら追い出された。一般公開の11:00が近づく外ではネットで予約した人達(日本人のツアー客はなど)とそうではない人達の2つの長蛇の列。こちらはその前にちゃっかりと見学できたわけだ。11:00からのFree Tourのガイドツアーに参加マリナ マリアンテの2人が英語のガイド、25分のガイドと思いきや昼食を挟んで3時間ほど、これには裏があった、レストランに寄って昼食、ナイトツアーや明日からのツアーの宣伝に余念がない。モスリムとカソリックの融合した大聖堂。鐘塔は下部が石造り、上部がレンガ造りなどと詳細なガイドが続く。Torre del Oro(gold tower )なども見学。こちらは午後靴を買うという用事があるのだ、レストランに入った時点でさようなら。Calle poeta muños san románにある郊外型大型スポーツ店「Decathlon :デカトロン」 まで3.5kmの道を歩いて買い物に。釣り道具から自転車まで広大なスペースの店舗。靴は狙っていたAsoro(アソーロー)は置いていず皆安い。TACNICA-vibram 。サイズEUR42(27cmレベル)99.99ユーロをget。靴底に「vibram」というブランド名 今まで履いていAsoloの靴と同じで指先が太目、この方が豆が出来にくい。市内へ戻るときArmasのバスターミナル(Estación de Autobuses Plaza de Armas)に寄ってみた。さすがに大きな町である。南部とに長距離バスはSan Sebastian の方だと。明日寄って見よう。ジブラルタルから戻って来るときに使うターミナルである。やはり旧市街中心部にあるこのGrand Luxe Hostelがよかろう。ArmasのターミナルからCanaljas通り、San Eloy 通り、Sierpes通りを使って旧市街に戻る。この通りブティックが立ち並ぶ一大ショッピングストリート。驚くべくことに世界のブランドが全て揃っている。小雨降る大通りのあちこちから煙が棚引く。ターナーの風景画。煙りの脇では10cm位の木片を4片束ねて売っていた。「 Palulú 」と言う、camino仲間が教えてくれた。奥歯で噛んでチュウチュウするようだ。乾いたパイナップルの様な味がするようだ。アラブ系の人も多く行き交うために売られている。面白いのは栗の煙が目印となっている点だ。ずっと地味ではある。19:30 カテドラル東側をスケッチ。雨が止んだ瞬間に。いつまた降りだすかドキドキ。シャモニーに住むというフランス人旅行者が声を掛けて来た。不思議な事を言う。1日4枚?を描きながらそれをインターネットに公開している人達が世界中にいる。貴方はその一人かと。シルビエスクさんである。彼女も絵を趣味で描くという。さて部屋に帰って驚いた。昨日夜中の2時にシャワーを浴びてうるさかった男性であるが何とスペインでシェフをしており今回休みを取って国内を1ケ月歩いていると言う、同じように靴を履きつぶしていた。今日新しいのを近所で買ったという。夕食はスパゲッティー。今回のように長期(3日も)滞在していると普段は買えない食材が買える。スパゲッティは400gや500gと、カルボナーラなどは一缶を買える。2、3回分の分量である。次に驚くべきことが。部屋に戻ると日本人が荷ほどきをしていた。久しぶりの日本語で話が弾む。Hostelに荷物を置いたままモロッコに行ってきたという横浜出身の青年。カナダで育ったといいモロッコで級友と6、7年り再会できたと。なんという偶然だろうか。26th(Wed) Oct.Sevilla窓の扉を少し開ければ晴れ渡った空が眺められた。7:30起床も部屋には深夜に増えたらしい4人を入れて6人はまだ寝ている。ヘッドランプを付けながらの操作、シャワーを"静かに"浴び、フロントへ。6th Nov.もこのHostelを予約したい。7日朝一番飛行機へはここからタクシーで向かう形とした。そのまま食堂へ。朝の食事と日記の記入など。同室の渡邉君が上がってきた。色々情報交換。夕刻グラナダに向かうという。航空券は予めプリントアウトしておかなければならないという、バーコードが付いたシートが重要なのだと。1月に予約をしてあるが返信メールには予約番号がメールで来ていた。これをプリントアウトする必要がある。ホテルに後で頼んでみよう。San Sebastian のバスターミナルに行ってジブラルタルからのバスがあるかどうか確認。最寄りのLa Luneaからアルヘシラス、タリファ経由でセビリアまでのバスは1日4便。マラガ経由が欲しいのだがなさそう。Plaza Españaへ向かう。このセルビーリャ 「大きな公園に囲まれた町」、公園の中に町があるように樹木や広場だらけである、パカパカと小気味良く馬車の沓音。Plaza Españaの広場を囲む緑はさながら地上の楽園である。固められた土道も心地よい。Puente de los Remedios(レメディオス橋)へ進む。Alfonso運河は川のように広く青い。Puente Teimoまでは行かずAv.de Rima通りを北東に。大聖堂のGiralda Bell Towe(ヒラルダの鐘塔)に登ってみよう。Barでパン休憩。13:00-13:30 大聖堂見学の列に並ぶ。9ユーロ。説明では世界最大のゴシック建築。鐘楼は96m、聖堂中央交差部分の高さ37m、建物全体の面積23.500平米。十字の部分---126m x 83m。13:55 鐘塔頂上。西側から時計回りに3枚づつ写真。14:00に耳元で鐘、合計25個の鐘全部が同時に撞かれるようだ。帰りのスロープをカウント、全部で41辺。4x10+1 中心部を10回周回した勘定。途中で休まなければ目を回してしまう。スケッチのとき窓の位置が左右で違っていたのはこのスロープのせいであったのだ。ホテルに帰って本日分のチェックイン。実は最初の計画では午後遅くSevilla に到着の予定であった次第だ。新しい靴で歩き回った結果として靴擦れもなく快適。ネッスル提供のカップラーメンを啜る。Yatekomaよりも味は落ちる。さて我が1つ星Hostelのloofテラスからは近くの4つ星ホテルLos Seisesの屋上プールがよく見える。28℃の気温にたまらず泳いだりベンチに腰かけたりと。こちらは熱いラーメンを食べながら日除けもなくじりじりと焦げ付いている。ゆっくりしているともう17:00、最後の市内観光に出掛けよう。こんどは地図に頼らず大いに迷ってみよう。カテドラルから東に伸びる道M.Gagoを通ってIglesia Santa Cruzへ。Fabiola、La Blanca,Pelayo、La Flda,Luis Montotoを通って「Ruinas Acueducto遺跡」へ。Luis Montotoを西北に戻り「San Esteban」へ。Casa Pulatos、Convento San Leandroへと。Aguilas通りを西に取れば幅広い1.5mの超ナローストリート。車が来れば縁石30cmの上で息を止めて通過を待ち、次の車までの間に少しでも前進。Lindo、CondoIbarra、Lirio通りと紆余曲折を進む。完全に迷子状態。Maps.Meも反応しない幅50cmくらいのAire。ぐるぐる回るうちに出発地点に。これは面白い。鬼ごっこでもすれば絶対に見つからない露地が何千本。満腹だったお腹も空いてきた。もっと迷ってみよう。凡その方向を北にPuente y Pellon通りを取っているうちに恐竜の骨組みのような奇妙な建造物にぶち当たった、もっと驚いたのはその前に立つ2本の大木。直径50mも有ろうかと思うほどの広がり。それを上手く覆うようにその建造物が建設されている。段ボールで最初は試作機を作ったのであろうがそれがそのまま鉄骨になったというイメージ。eapacio metropol parasol である、新しすぎて地図にも出ていない。場所はPlaza de la Encarnacion。市庁舎(Ayntamiento)の裏側。今日も学生達がシュピレヒコール。その狂声がここからでも聞こえる。どうも教育システム改悪に反対する集会らしい。エントランスは地下にあって3ユーロ。ワインなどのドリンクのサービスが付く。カテドラルも眺望できる。日没は19:29。この恐竜の背骨からは明日から進む南東の方角に山があるか観察してみた。何もなく真っ平な道と理解してよいのだろうか。ビルが6階建てくらいに制限されているようで都心空間がごちゃごちゃするなかでも均整が取れている。スーパーに立ち寄り明日用行動食をgetしつつArgo de Molina、Abadessegovia、Don Demonde各通りをすり抜けHostel に戻る。27th(Thu) Oct.Sevilla--Bellavista--Urbanizacion Buenavista--Des Hermands--Utrena(ウトレナ)セビーリャ 26℃。今日から歩き再開。深夜から身体が痒い。薬屋で買った「After」用の付け薬が当たったとしか思えないほど全身に痒みが。よく言う「身体に合わない場合はすぐお止め下さい」というやつではなかろうか。シャワーで熱消毒してみよう。101号は個室ではないが6人部屋に2人しか泊まっていない。急に空き始めたホステル。昨夜フロントで貰ってきたタオルケットは助かる。これを被ってスマホを打っているのであるが目の前を蚊が飛んだ。痒かったのは蚊の仕業だったのだろうか、ならば「Before」を買わねばならない。大きくて重いので避けてきたが。シャワー室で身体を見てみた。さほどダメージはない。妄想で痒くなる「旅疲れ全身痒み走ります症候群」(自称)ではないだろか。不思議なこともあるものだ。気温21℃。8:23 出発。まずTorre del Oro(金の塔)に向かう。ここから大通りを南東方向にどこまでも、歩道がどこまで続くか見ものである。8:408:55 1058歩。もう300歩くらい土道が続いている。女性とすれ違った。真っ赤な口紅。上は白、スカートは真っ赤という国旗のような女性。ポーランドファンなのであろう。9:00 1438歩。土道が途切れる。広大な公園の脇であったわけだ。早朝runには最適。もう決めた。住むのならセビーリャだ。坂道が無く緑が多い。9:32 3526 歩道途切れる。白線の引かれた道。9:35 3713 歩道現れる。b9:37 3820 歩道途切れる。もう記録を止めよう。約4kmほど歩道があったわけだ。東西南北とこれだけ歩道があれば十分であろう。だってここまで歩く人はいない。バスを利用する。10:40 My Map24_01_003 aから1.2km。今回の旅で初めてのフェンス越え。高さ1.7mを越える。理由は右側がレジデンスの排他的領域、左が耕作地。両方に始めから道があったのであるが右を選んだためにL字のところでその先に行けなくなってしまったのだ。戻ってもよかったのであるがまぁここは突破しよう。ついでに軽食休憩。茹で玉子やグレープフルーツなど荷を減らさなければならない。11:46 食事休憩。 My Map24_01_004 a から離れたコース--途中 第二、第三のフェンスに阻まれコース変更。歩道はもとより白線の左側0cm。白線上を歩く。 --12:45My Map 24_01_004 bから459歩数Dos Holmanの町 Bar Sierra Norteで水補給。ポテト(パタータ:いつか書いたかしら、写真を撮るときの"チーズ"はポルトガルでは"パタータ)のマリネをオーダー 3.8ユーロ。--13:2514:13 1310歩で貧民洞 最果てに到着 ここから原野 My Map 24_01_004 f14:25 811 暑い 35℃位の暑さ。汗が滴り落ちる。14:36 1554 で木陰あり。昼寝休憩。--15:1215:55 24_01_005 b から1.3km point 松の見事な樹形と街道 交響詩レスピーギの「ローマの松」だ。16:06 8kmの土道始まる。24_01_006_a point 16:28 1659食事休憩。17:05 がガビチョウ(画眉鳥)よりも小さく綺麗な鳴き声の鳥 頭上で鳴き続ける「早く起きて歩き出さないと日がくれますヨ」と。17:10出発。この土道、両側を松や灌木で縁取りされた幅2-3mの道であるが直線ではない。うねうねと続き先が見通せなく実に不安。オリーブ畑や刈り取りの終わった畑など、わりと手が入った畑が続く。自転車や耕運機の轍の跡。水溜まりも多くすべって転ばないようにストック操作。新しい靴がどんどん汚れていく。17:52 6.1km point ,道路をくぐるトンネルの部分で初めて黄色いマークを発見。やはりこの道がcamino道であったのだと認識。ではどうしてこの道が指示書:My Mapに入っているかという点。今はデータが削除されているが以前は全camino がGoogle Earthのデータ(kml)として公開されていた時代があった。そのデータは誰かが実際を歩きガーミンなどのツールを使ってトレースしたものであった。教会に寄っていたり軌跡が面白い。Googleのポリシーでは道路情報には賞味期限が付くものでkmlファイルが付いたサイト全てに削除の依頼をしたようである。今は"modern route"という英国のサイトにひっそりと残っている程度だ。ただ1日分の行程ごとに名前が付いたファイルになっているため全体を繋げるには相当の努力が必要。さて夕闇迫る。やっとUtrena(ウトレナ)の町。道路が四方八方から集まった交通の要所であろう。鉄道駅もある。18:30 ペンションPensión Hidalgoに到着。「Pencion Hidalgo 2 」であるがベルを鳴らしてもメモ書きした所に電話をしても応答し。下にあるBarでカーニャ2杯をあおる。長距離を飛ばしてきたのでその旨いことといったらない。ここでは皆がcachimba(カチンバ:水ギセル)を吸っている。不思議な光景。ここはアラブか?と、煙を店の人も吸っている。50cmほどのガラスの塔。プクプクと泡立つ。店の男性の電話にはやっと応答があったようだ。20分待てと。ホテルの男性、Barのカウンターに現れる。ビールなどは只にすると。時間が遅くなってきたのでゆっくりシャワーをあびる。スーパーLidlでの明日の朝食と行動食の買い出し、Barでの外食。9ユーロ。--21:20
Oct 28, 2016
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My schedule of 2nd Stage as long journey for the camino_story(4179)2016.7.22_2nd I walked already for the 1st Stage from Kraków--Oświęcim--Auschwitz--Birkenau--Katowice--Częstochowa-Jasna--Łodź--Żelazowa Wola--Warszawa--CiechocinekToruń--Chełmża--Grudządz--Kwidzyn--Malbork--Gdańsk--Sopot--Gdynia--Koszalin--Kołobrzec--Międzyzdroje(Poland)--Greifswald--Rostock--Lübeck--Hamburg--Bremen--Nienburg--Weser--Dortmund--Köln--Aachen(Germany),Namur(Belgium)--Reims--Paris (France)1st stage of Poland-ParisI will walk for next stage for long 2nd journey as follows approximately 3,000km .It will be shown for my caming enthusiastic energy .It will be very hard to follow this schedule every day for 30-40km walking but I will try. I will be prepared to trace exactly tha map completely preparation.In any village or any town,if you saw me-little old man carrying the heavy backpack ,please say "buen camino".Paris - La Rochelle10th/Aug(Wed)stage01_01 Narita-Terminal1-North Wing 12:00--Paris-CDG 20:50 SU26111th/Aug(Thu)stage02_01 Paris--train--Rambouillet12th/Aug(Fri)stage03_01 Rambouillet--Chartres13th/Aug(sat)stage03_02 Chartres--train--St. Malo14th/Aug(sun)stage08_01 Bretagne Saint Malo--La Chabossaye_Camping Château de Galinèe15th/Aug(mon)stage08_02 Camping Château de Galinèe--Cap Fréhel--Camping Plage de Saint Pabu16th/Aug(tue)stage08_03 Camping Plage de Saint Pabu--Saint Brieuc--- Pouezec17th/Aug(wed)stage09_01 free18th/Aug(thu)stage09_02 free19th/Aug(fri)stage09_03 free20th/Aug(sat)stage09_04 free----Nante21th/Aug(sun)stage11_01 Pay de Loire Nante--Montaigu22th/Aug(mon)stage11_02 Montaigu--Chantonnay23th/Aug(tue)stage11_03 Chantonnay--Les Huttes24th/Aug(wed)stage11_04 Les Huttes--Marans--13:25 -13:37 18:25-18:51 SNCF--La RochelleLa Rochelle-Ferrol25th/Aug(thu)stage12_01 Aquitaine Limousin Poitou-Charentes La Rochelle--Échellais26th/Aug(fri)stage12_02 Échellais--Royan27th/Aug(sat)stage13_01 Royan—Ferry--7.45 --Le Verdon--Queyrac_Near Tronbloux(Chambres d'Hotes Les Pres Verts)28th/Aug(sun)stage13_02 Chambres d'Hotes Les Pres Verts--Medoc29th/Aug(mon)stage13_03 Medoc--Bordeaux30th/Aug(tue)stage14_01 Bordeaux(SNCF)--Train--Ychoux--Sallebert31th/Aug(wed)stage14_02 Sallebert--Léon01st/Sep(thu)stage14_03 Léon--Hotel Cabaretè02nd/Sep(fri)stage14_04 Hotel Cabaretè--Bayonne--Biarritz03rd/Sep(sat)stage16_01 Biarritz--Pais Vasco/Irún04th/Sep(sun)stage17_01 Camino del Norte Irún--Guadalupe--Jaizkibel(545m)--Pasaia San Pedro--La Plata--San Sebastián (1st day for camino del Norte)05th/Sep(mon)stage17_02 San Sebastián--Iglido--Orio--Zarauz--Getaria--Askizu--Zumaia (2nd day)06th/Sep(tue)stage17_03 Zumaia--Elorriaga--Itziar--Deba--Ibiri--Olatz--Armoate (3rd day)07th/Sep(wed)stage17_04 Armoate--Marquina-Xemein--Iruzubieta--Bolibar--Cenarruza--Gerrikaitz--Zarrabenta(Muitibar)--Mendata--Elexalde-Arratzu (4th day)08th/Sep(thu)stage17_05 Elexalde-Arratzu--Marmiz--Mendieta--Gernica-Lumo--Gerekiz--Goikolexea--Larrabetzu--Lezama(5th day)09th/Sep(fri)stage17_06 Lezama--Zamudio--Bilbao--Barakaldo--Sestao--Portugalete (6th day)10th/Sep(sat)stage17_07 Portugalete--Playa de la Arena--Pobeña--Covaron--Onton(Cantabria)--Baltezana--Otañes(7th day)11th/Sep(sun)stage18_01 Otañes--Santullán--Sámano--Castro Urdiales--Allendelagua--Islares--El pontarron--La magdlena--Liendo (8th Day)12th/Sep(mon)stage18_02 Liendo--Tarrueza--Laredo--Colindres--Santoña--Noja--S.Miguel de Meruelo(9th Day )13th/Sep(tue)stage18_03 S.Miguel de Meruelo 2.5+Bareyo--Gúemes--Linderrio--Galizano--Latas--Somo--Latas--Horma--Villaverde--Solares--Sobremazas--Heras--Santiao--Astillero--Peñacastillo--Santander (10th Day)14th/Sep(wed)stage18_04 Santander--Peñacastillo--Boo de Pielagos--Arce--Oruña--Mogro--Cudón--Requejada--Barreda--Camplengo--Santillana del Mar (11th Day)--Cueva de Altamira(re-toure+4km)15th/Sep(thu)stage18_05 Santillana del Mar --Arroyo--Oreña--Caborredondo--Novales--Cobreces--La Iglesia--Concha--Comillas--El Tejo+2.1km--S.Vicente de la Barquera (12th Day)16th/Sep(fri)stage18_06 S.Vicente de la Barquera--Acebosa--Serdio--Pesués(Puente)--Unquera--Colombres(Asturias)--Buelna--Pendueles--Asturias/Pendueles--Andrín(34.3km)(19_01_003)(13th Day )17th/Sep(sat)stage19_01 Andrín Llanes--Poo--Celorio--Barro--Niembro--Naves--Nueva--Cuerres (14th Day)18th/Sep(sun)stage19_02 Cuerres Piñeres de Pria--Toriello--Ribadesella--San Esteban--La Vega--Berbes--La Espasa--La Isla--Gúeño Colunga (15th Day )19th/Sep(mon)stage19_03 Colunga --Pernus--La Llera--Priesca--La Vega--Sebrayo--Villaviciosa--Grases--Niévares--Pión (16th Day )20th/Sep(tue)stage19_04 Pión 1.3+Curbiello--Cabueñes--Gijón(Xixón)--Veriña--Poago--Santa Eulalia--Tamón--Trasona--Avilés (17th Day)21th/Sep(wed)stage19_05 Avilés--Sabugo--San Cristóbal--La Sablera--Salinas--San M. De Las--Vallinas--Naveces--Santiago del Monte--Ramón--El Castillo--Muros de Nalón--El Pito--Las Dueñas (18th Day)22th/Sep(thu)stage19_06 Las Dueñas --Rellayo--La Magdalena--Sotomayor--Soto de Luiña--Valdredo--Albuerne--Novellana--Castañeras--Santa Marina--Ballota--Tablizo--vRibón--Friera--Cadavedo (19th Day)23th/Sep(fri)stage19_07 Cadavedo--Villademoros--San Cristóbal--Querúas--Canero--Puente de C.--Barcia--Almuña--Luarca (centro)--L'Outeiro--Santiago--Villuir--Otur--Villapedre--Piñera (20th Day)24th/Sep(sat)stage19_08 Piñera--Villaoril--La Venta--La Colorada--Navia--Barqueiros--Jarrio--El Esteler--Cartavio--La Caridad--El Franco--Porcia--Brul--Tol--Las Campas Barres (21th Day)25th/Sep(sun)stage19_09 Barres--Figueras--Ribadeo--Vilela--Vilar--O Esfolado--A Ponte--Villamarin Pequeno--Villarmarin Grande----Gondán (22th Day )26th/Sep(mon)stage20_01 Gondán--San Xusto--O Corveiro--Laurenzá--Arroxo--S.Pedro de la Torre--Mondoñedo--Maaritz--Lousada (23th Day )27th/Sep(tue)stage20_02 Lousada--Gontán--Abadín--Martiñán--Goiriz--Vilalba (Refugio)--Vilalba (centro) (24th Day)28th/Sep(wed)stage20_03 Out of Camino del Norte Vilalba (centro) Paligono Industrial (25th Day)29th/Sep(thu)stage20_04 Paligono Industrial--Ferrol(26th Day )Ferrol-Lisboa30th/Sep(fri)stage21_01 Camino Inglés Ferrol--Fene--Vilar do Colo--Pona do Pico--Capilla Magdalena--Pontedeume--Buña--Viadeiro--Rio Baxoi--Miño01st/Oct(sat)stage21_02 Miño--Ponte do Porco--Montecelo--Chantada--S.Martiño de Tiobre--Betanzos--(A Coruña--Torre de Hércules)--Betanzos--San Estevo--Puente Presado--Sta. Eulalia--Santo Tomé--Fontenla--5km before from Hospital de Bruma02nd/Oct(sun)stage21_03 5km before from Hospital de Bruma--Cabeza de Lobo--A Rúa--A Calle--Ponte Pereira--Baxoia--Poligono--Sigüeiro03rd/Oct(mon)stage21_04 Sigüeiro--Marantos--Vilasuso--Sionilla--O Barral--Poligono--Rúa do Rio--Rúa da Pastoriza--(Monte do Gozo)--Santiago de Compostela04th/Oct(tue)stage21_05 Santiago de Compostela05th/Oct(wed)stage22_01 Camino Portugués Reverse course Santiago de Compostela--Milladoioro--Rua de Francos--Teo--Areal--Esclavitude--Cambelas--Santa María de Iria--Padrón--Ponte Cesures--San Miguel de Valga (1st Day)06th/Oct(thu)stage22_02 San Miguel de Valga--Carracedo--Caldas de Reis--Briallos(Portas)--La Seca--Barro(San Amaro)--Alba(San Caetano)--Pontevedra (2nd Day)07th/Oct(fri)stage22_03 Pontevedra--Santa Marta de Ganderon--Cacheiro--Arcade--Redondela--Galleiro--Santa Eulálla de Mós (3rd Day)08th/Oct(sat)stage22_04 Santa Eulálla de Mós--O Porriño--Orbenlle--Magdalena--Tui--Valença do Minho(4th Day)09th/Oct(sun)stage22_05 Valença do Minho(Portugal) --Paços--Fontoura--São Bento da Porta Aberta--Rubiães--São Roque--Labruja--Arco--Arcozelo--Ponte de Lima (5th Day)10th/Oct(mon)stage22_06 Ponte de Lima--Seara--Alto da Albergaria--Vitorino dos Piáes--Ponte das Táboas--Alto da Portela--Vila Boa--Barcelos (6th Day)11th/Oct(tue)stage22_07 Barcelos--Barcelinhos--Carvalhal--Pereira--Pedra Furada--Sáo Pedro de Rates--Sáo Miguel de Arcos--Junqueira--Vilarinho (7th Day)12th/Oct(wed)stage22_08 Vilarinho--Gião--Vilar--Mosteiró--Vilar do Pinheiro--Maia--Capela de Araújo--Oporto (8th Day)13th/Oct(thu)stage23_01 Oporto Vila Nova de Gaia--Perosinho--Mosteiro de Grijó--Lourosa--Ferradal--Malaposta--Sáo Joáo da Madeira (9th Day)14th/Oct(fri)stage23_02 Sáo Joáo da Madeira--Santiago de Riba Ul--Oliveira de Azeméis--Pinheiro da Bemposta--Albergaria a Nova Albergaria a Velha (10th Day)15th/Oct(sat)stage23_03 Albergaria a Velha--Serém de Cima--Pedacáes--Mourisca do Vouga--Águedahj--Aguada de Baixo--Avelãs do Caminho (11th Day)16th/Oct(sun)stage23_04 Avelãs do Caminho--Arcos--Aguim--Alpalháo--Mealhada--Lendiosa--Carqueijo--Santa Lúzia--Sargento Mor--Adóes--Cioga do Monte--Adémia--Coimbra (12th Day)17th/Oct(mon)stage23_05 Out of Camino Portugués Coimbra--9:30-11:15--Nazaré--15:15--6:55--Lisboa (20th Day)Lisboa-Gibraltar18th/Oct(tue)stage25_01 Lisboa--12:30-15:40--Portimãn19th/Oct(wed)stage25_02 Portimãn --Porches--Pera--Guia20th/Oct(thu)stage25_03 Guia--Ferreara--Boliquim--Loulé--Torres de Apra21th/Oct(fri)stage25_04 Torres de Apra--São Brás de Alportel-- Santa Catarina da Fonte do Bpp.--Tavira22th/Oct(sat)stage25_05 Tavira--Altura--Portogue(Vila Real de Santo António 22.4)--Spain(Ayamonte 10.8)--Monterreina23th/Oct(sun)stage25_06 Monterreina--Lepe--Cartaya--Bellavista--Urb.Patria--Carrales--Huelva24th/Oct(mon)stage25_07 Huelva--San Juan del Puerto--Peñuela--Niebla--Villarasa25th/Oct(tue)stage25_08 Villarasa--La Palna del Condad--Villajba del Alcor--Manzanilla--Castilleja del Campo--tent(+4km,or;6.7km)26th/Oct(wed)stage25_09 Cazstilla del Campo--Sanlúcar La Mayor--Casilleja de la CuestaSevilla27th/Oct(thu)stage26_01 Camino de Cádiz--Reverse courseSevilla--Bellavista--Urbanizacion Buenavista--Dos Hermands--Utrena28th/Oct(fri)stage26_02 Utrena--El Torbiscal--Sacramento--Las Cabezas de San Jean29th/Oct(sat)stage26_03 Las Cabezas de San Jean--Lebrija--El Cuervo30th/Oct(sun)stage26_04 El Cuervo--Nueva Jarilla--Guadalcacin--Jerez31th/Oct(mon)stage26_05 Jerez--Aqualand Bahia de Cádiz--El Puerto de Marina--Valdelagrana--Puero Real01st/Nov(tue)stage26_06 Puero Real--Tres Caminos--San Fernand--Cádiz02nd/Nov(wed)stage27_01 Out of Camino de Cádiz Cádiz-Puero Real--La Chocona--Los Franceces Vega--Chiclana de la Frontera--Hozanejos03rd/Nov(thu)stage27_02 Hozanejos--Vejer de la Frontera--72KP04th/Nov(fri)stage27_03 72KP--Tahivilla--Casa de Porro--La Costa--Tarifa05th/Nov(sat)stage28_01 Tarifa--El Bujeo--Peleyo--Algeciras06th/Nov(sun)stage28_02 Algeciras--Gibraltar--Algeciras--Sevilla07th/Nov(mon)stage29_01 Sevilla 11/7(tue) Paris Sevilla(SVQ)6:40--CDG9:05 Paris 08th/Nov(tue)stage29_02 Paris 11/8(Tue)CDG11:50--09th/Nov(wed)stage NRT 11:40 Narita Terminal1 North-Wing
Jul 22, 2016
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京都散歩(その4)_story(3560)2014.9.15清水寺近くの3年坂(産寧坂)を下りて、2年坂(二寧坂)に向かうと楽しげなお土産屋さんなどがづらりと軒を連ねる。このままいくと高台寺にぶつかるため、一歩手前で左に折れ一念坂にやって来た。ちょうど、近くの着物レンタル屋さんで舞妓になった女性だろうか、雑誌の撮影だろうか、わからないが、”舞妓”の姿があった。これはスケッチせねばならない。しかし時間がない。すでに時間は10時12分。10:40に京阪四条駅で特急に飛び乗らないと間に合わない。1.5kmほど。それまでの時間でささとスケッチ。一念坂の舞子緑の正面は「The Garden oriental」のレストラン。最近は庭園を取り入れた素敵なレストランが増えつつある。1300坪の空間は、日本画の巨匠竹内栖鳳が昭和のはじめに構えた私邸である。昼間のランチや、ディナー&バーで、庭園の景色をゆっくりと楽しむことが出来る徒然の記 2014年 府中市民交響楽団 夏合宿於:山中湖畔荘ホテル 清渓・・山中湖村旭日丘このホテルで合宿を行うのは今回で5回目。ベートーヴェン:「エグモント」序曲マーラー:交響曲5番を練習。およそ80名ほどが集まり、過去最高参加人数。9/14(日):turbo717はコントラバス族の2台の車に分乗させてもらって山中湖へ。府中発8:30で山中湖着が11:50。温泉「紅富士」12:10-13:40 練習会場到着13:55.9/15(月) am9:00-12:00 練習。出発pm12:30、ほうとう屋「水神」で昼食。13:00-14:00。河口湖IC 14:20 八王子駅前着 16:35.帰りのバスで・・・敬老の日で神奈川中央交通のバスは全線「70歳以上ワンコイン(100円)」ということらしい。社内の掲示板にテロップが流れていた。降車時に申告して100円(通常は230円)で利用。わぁ、歳がバレタ。Picture1(sketch-direction 275°am10:20 Sketch point:Sannenzaka,Matubaradori,Kiyomizu-temple,Higashiyamaku,Kyoto JapanGPS 34,996225,1357807(°)(34°59'46.41" N,135°46'50.25" E)標高80m
Sep 15, 2014
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京都散歩(その3)_story(3559)2014.9.14清水坂(松原坂、松原通り)を上っている。両親が眠る東山浄苑に行って墓参り。帰りに再び清水坂に出た。ここから京阪四条駅まで歩くつもり。産寧坂いつもは七味家本舗前は大混雑。今朝通りがまだ空いている。二寧坂の方角を望む。甍が重なり合って面白い構図。徒然の記1 山中湖畔荘 ホテル清渓市民オケの合宿に今年はなんと80名が集まった。3連休の14日(日)、15日(月)を使っての合宿で例年土曜日がダメだという人も多く、日月にしたことで都合がついた人も多い。マラー5番とベートーヴェン「エグモント」という組み合わせで述べ7時間んいおよぶ密度の濃い練習。楽しみである。演奏会は11月16日(日)pm1:30開場、14:00開演Picture1(sketch-direction 12°am8:54 Sketch point:Sannenzaka,Matubaradori,Kiyomizu-temple,Higashiyamaku,Kyoto JapanGPS 34,996225,1357807(°)(34°59'46.41" N,135°46'50.25" E)標高80m
Sep 14, 2014
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京都散歩(その2)_story(3558)2014.9.13清水坂(松原坂、松原通り)を上っている。商店街の一番頂上の店は、清水寺仁王門前。国宝の本堂に至るまで、仁王門、山門、三重塔(改装中)、経堂、開山堂/田村堂、轟門、朝倉堂、回廊を経なければならない。15mの高さで4階建てビルの高さほどか。この下を通って、東山浄苑へ行くのは毎度のこと。しかし混雑している時間帯は一方通行となり逆走の形となってしまう。順序に従い、上記経路で舞台経由で進む必要があり時間がかかるだろう。なんか、清水寺を通り抜けの為の通路として使っている感じで申し訳ない。裏門近くに子安の塔、泰産寺があり結合皆が訪れるようである。裏門を出るとこれまた高倉天皇陵、清閑寺など。一帯の山林は「高台寺山国有林」で世界文化遺産の背景として貢献している森が拡がる。社寺に隣接する広大な森があることが古都京都の景観に重要な役割を担っている。清水坂から仁王門日中は大混雑している門前の商店街。スケッチなんかやっている余裕はないのであるが、朝が早いためまだ開店前の店もありスケッチは比較的楽。徒然の記1 チーズプロフェッショナル協会主催の日本の銘チーズ百選第5回目となる今年の「日本の銘チーズ百選」は10月30日(木)16:30-19:00 飯田橋 ホテルメトロポリタンエドモンドで開催される。先日銀座8丁目のチーズ&ワインカフェ ブーケ「Bouquet」のマスターから割引招待チラシをもらったので少し紹介しよう。PDF:http://www.cheese-professional.com/pdf/2014_100sen.pdf日本中のチーズ工房が自慢のチーズを持ち寄り、品評会と試食会が行われる。具体的には北海道から24工房など全国50工房から100種類以上のナチュラルチーズと生産者が会場に揃うという。、ワインの部では15のワイナリーや酒造メーカーが出展。チーズ好きにはたまらないイベントであろう。Japan Cheese Award'14という国産ナチュラルチーズの賞が用意され、翌年フランスで開催される国際コンクール「Mondial du Fromage」への出品支援を受けることができるという。徒然の記2 徳島県共通コンセプト「vs東京」YouTubeの下記URLが話題になっている。見ると東京をかなり意識した作りであるが、地方再生の時流に合っているのではないかと思う。徳島県庁の若手が地元のTV製作会社と共同で制作したプロモーション動画で力作。BGMとして、阿波踊りの曲ではなく、ベートーヴェン第九を流している所が憎い。東京一極集中型に反発して、このように地方がもっと発信すればよいのではないかと思う。https://www.youtube.com/watch?v=JN-bmtN9OjA来年、徳島から四国巡礼を始めるにあたり興味が湧いた次第である。Picture1(sketch-direction 12°am8:54 Sketch point:Sannenzaka,Matubaradori,Kiyomizu-temple,Higashiyamaku,Kyoto JapanGPS 34,996225,1357807(°)(34°59'46.41" N,135°46'50.25" E)標高80m
Sep 13, 2014
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熊野古道-小辺路・那智・伊勢路 回想録 総集編_story(3553)2014.9.9世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」体験記。昨年の大峯奥駈道に続いて、今年は小辺路(こへち)を体験した。ついでにと考えた小雲取越え・大雲取越え(中辺路の一部)は今回はパス。小辺路の後は那智滝と熊野大花火、伊勢路を少し歩き8/19早朝帰宅した。下記はその総集編で、それぞれの日記のページに飛ぶことが出来る。1日の回想として複数日をあてている。夫々の日程の先頭日記(例えば2日目の日記では「その5」)には、標高プロフィールを図示した。スケッチしたポイントのGPS-mapスケッチした場所のGPS点を散布図で示した。Google-Erath map右が昨年の大峯奥駈道左が小辺路道1st Gaolの熊野本宮大社(9/1 既掲載)2nd Gaolの那智大滝(9/3 既掲載) 太字の部分が小辺路。8月11日(月)1日目 極楽橋(523m)→不動坂-3.8km-高野山(815m)-2km- 転軸山森林公園キャンプサイト(820m)のログハウス→奥之院→大門→根本大塔→金剛峰寺→霊宝館→転軸山森林公園ログハウス泊0819 その10820 その20821 その30822 その4 8月12日(火)2日目 転軸山森林公園-2km-金剛三昧院→薄峠(995m)→丁石→大滝→高野龍神スカイライン合流→水ヶ峰分岐→林道タイノ原線→下谷(674m)→大股(ここまで17.2km)→桧峠→伯母子岳(1344m)→伯母子峠(1215m 山小屋 ここまで22km)0823 その50824 その68月13日(水)3日目 伯母子峠(1215m)山小屋→三田谷橋→三浦バス停→神納川(345m)→五百瀬(いもせ 350m)→三浦峠(1065m 15km)→新道-11km-西中バス停→重里・西川第一小学校(テント泊 22km)0825 その70826 その80827 その98月14日(木)4日目 重里・西川第一小学校(テント)→大津越→昴の郷(150m)→十津川温泉→平谷-(143m 公衆浴場 郵便局で荷物の送受)→櫟砂古(いちざこ)→果無村落→観音堂前の避難小屋0828 その100829 その110830 その128月15日(金)5日目 観音堂前の避難小屋-1.1km-果無峠(1050m)→八木尾(83m)→九鬼→三軒茶屋跡(210m)→熊野本宮大社(90m)→本宮郵便局(荷物の送受)→渡瀬温泉→下湯川温泉→湯の峰温泉(公衆浴場)→旧四村川小学校でキャンプ0831 その130901 その14 8月16日(土)6日目 旧四村川小学校-(バス)-新宮-(JR)-那智-那智海岸水泳-(バス)-大門坂→滝一周コースは崩落で断念→那智滝(3H)-(車)-熊野0902 その150903 その16 8月17日(日)7日目 熊野・・・・熊野大花火0904 その170905 その18 8月18日(月)8日目 熊野→松本峠道→鬼ヶ城→大泊海水浴場→大吹峠道→波田須-(JR)-松坂 青空ライナー21:400906 その190907 その200908 その21 8月19日(火)9日目 シーティーエアターミナル YCAT 5:20着持参地図:2万5千分の一地図・・高野山、梁瀬、上垣内(かみがいと)、伯母子岳、重里、十津川温泉、発心門、伏拝(ふしおがみ)、本宮、紀伊大野、新宮、紀伊勝浦 計12枚 イラストmap A4版11枚世界遺産紀伊山地の霊場と参詣道「熊野古道伊勢路」・・三重県立熊野古道センター持ち物・・リュック、ハイパワーガス、鍋、コンロ類、ライター、テントマットコンパクトM、ポール、ペグ、枕(ULコンフォートシステムピロ)、コンロ用風よけ、ポンチョ、雨具(上下)、熊よけ鈴、サンダル、寝袋、帽子UVトレッキンググローブ、ステンレススプーン、爪切り、ナイフ類、割りばし、80L用-レインカバー、塩熱飴、地図12枚ナップザック、スケッチブック、絵具5色、パレット、水入れ、筆4本、鉛筆10本+磁石軽量登山服類(ズボン、タイツ、シャツ L/Sジッブシャツ、long タイツ・・)α米各種、スープ各種、チョコレート、エナージ・バー、チーズ、ソーセージザラテクト(虫よけスプレー)、虫よけスキンガード、ドデカシート、虫さされかゆみ、バンテリン、タオル、ハンカチ・・。スマホ用USBケーブル20cm、デジカメ充電器、スマホ充電器+電池8(単3、単4)、ランタン(オービッド)、小型ライト(タグライト)ラジオ、髭剃り、デジカメラ、スマホ・・。財布、酒、ゴミ袋、1.5Lポリタンク、0.5Lペットボトルx2・・・。地図はその日に歩く分だけ8つ折りにしてポシェットに入れておく。防水ビニール袋などに入れて汗を吸わないようにしておかなければならない。ジャンルに分けて小袋にしたものも多い。要はしまう場所を決めておきそこに無いものは「無くした」とみなす。逆に言えばちゃんと決めた場所に戻すことである。何かが無くなっていると「気持ちが悪い」という感覚になればしめたものである。物に心があるとみなして旅を続ける。水を入れると、軽く15kgとなってしまうのである。
Sep 9, 2014
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熊野古道-小辺路・那智・伊勢路 回想録(その21 完結編)_story(3552)2014.9.8世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」体験記 完結編。「ミニ伊勢路の旅」を楽しんでいる。それも最終回。鬼ヶ城から海岸線を大泊に向って歩き出した。まだ午前10時と時間は早い。ではひと泳ぎということで、大泊海水浴場の防潮堤を歩いて浜辺の様子を窺ってみた。白い砂浜にはあまり人がいない。ほとんど独占状態の海水浴場である。水道の蛇口もあり、まずまずの設備。台風11号の時の大しけで海岸に打ち寄せた流木などを取り除く作業が1週間ほど続きやっと片付いたようである。小型ショベルカーが引き上げていく。遠浅の海水浴場で、この辺りでは穴場ではないだろうか。新宮川の河口は特に遠浅になっており、どこまでも浅く10-20cmくらいの水深のため、幼児の遊び場となっていた。昼食は浜辺で缶詰のパンとスープ。なかなか今回はコンロが活躍した。波田須(はだす)までの大吹峠(205m)道を通りミニ伊勢路の旅を完遂。無人駅で小一時間、電車を待つ間、リュックを駅に置いて「徐福の宮」に散策した。重い荷物もこれが最後となった。秦の始皇帝の命によって蓬莱山にあるといわれる不老不死の妙薬を求めて数十隻に及ぶ船団を組んで東方に向ったが台風にあい徐福の船だけがこの地、矢賀の里に流れ着いた。徐福は3軒の家のものに助けられたが、帰国を断念しここに永住して、焼物、土木、農耕、捕鯨、医療など中国文明を里人に教えたと言う。このことからこの地は奉住(はたす)と呼ばれ、波田須(はだす)の地名になったと言われている。最後の夕食は松坂で。松坂牛を出す店が駅前にあるだろうと思ったが甘かった。鰻を出す店以外、広い通りは何もない。そこでもコンロが活躍した。駐車場の隅で、夕食を作り食した。最後の最後まで貧しい生活となった。この反動が今も続く。α米だけの飢餓状態の旅は、よほど身体に堪えたと見る。”全細胞”が食欲を欲っして聞かないのである。大泊海水浴場水平線に浮かぶ島は、魔見(まみる)ヶ島(マブリカ)、箱島。この魔見(まみる)ヶ島・・将軍坂上田村麻呂が鬼ヶ城を攻める時沖のこの島で童子が現れて舞い踊り、鬼が油断して岩戸を開く一瞬に将軍が矢を放ち見事一矢でしとめたという伝説が残っている。大吹峠(205m)道の下り波田須(はだす)の集落が見える。「徐福の宮」が海沿いの集落にある。徒然の記1 実際の日程太字が本blogの記述部分。過去の行程は昨日以前のblog参照。→・・徒歩 -km- 区間距離表示 8月18日(月)8日目 熊野→松本峠道→鬼ヶ城→大泊海水浴場→大吹峠道→波田須(はだす total9.5km)-(JR)-松坂 青空ライナー21:40 8月19日(火)9日目 シーティーエアターミナル YCAT 5:20着 持参地図:世界遺産 紀伊山地の霊場と参詣道「熊野古道伊勢路」熊野古道-小辺路・那智・伊勢路 回想録(完)徒然の記2 Poland to Franceヨーロッパ縦断の徒歩旅行を計画している。2年がかりとなるが、その前半部分を計画してみた。クラコフ(Krakow),オシフィエンチム(Oswiecim)、チェンストホバ(Czestochowa)、ワルシャワ(Warszawa)、 トルニ(Torun)、グダニスク(Gdansk),シュチェチン(Szczecin)以上ポーランド ロストック(Rostock),ハンブルグ(Hamburg),ブレーメン(Bremen),ケルン(Köln),アーヘン(Aachen)以上ドイツナミュール(Namur)以上ベルギーランス、パリ 以上 フランス。これらの各都市を直線で結んでみたら2133kmになった。ジグザグ道はこの1.5倍として約3000km。これを88日で完歩するものとした。このためには34km/1日 という試算。朝から夜まで歩き通さなければならない。しかも、まずいことにcamino道というべき”土”の道があるのかも不明。情報がまったく無いのである。ポーランド国内には聖母マリア参拝のための巡礼道がある。特に各都市から黒いマドンナが祀られているチェンストホバ(Czestochowa ヤスナ・グラ僧院に聖母の画がある。)に向かって毎年8月15日に集まるための道が整備されている筈で、観光局に行って聞いてみようと思う。ドイツ、フランスに関しては、2010年か2012年に知り合った幾人かの知り合いにcamino道があるか聞いてみよう。メールをしたためて送ってみた。Google Earthをフル活用して、Street Viewで道を探したりしているが、埒があきそうにない。車道なら縦横にあるため問題ないのであるが、これでは面白くない。生活道路を歩くことに意味があるからである。あぁ、苦労が始まった。今回のは、とてつもなく大きい。Picture1(sketch-direction 160°pm12:00 Sketch point:Odomari-beach,Kumano City,Mie Pref.,JapanGPS 33.899647,136.118042(°)(33°53'58.73" N,136°7'4.95" E)標高4mPicture2(sketch-direction 250°am9:30 Sketch point:Hdasu,Kumano City,Mie Pref.,JapanGPS 33.905069,136.131442(°)(33°54'18.25" N,136°7'53.19" E)標高213m
Sep 8, 2014
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熊野古道-小辺路・那智・伊勢路 回想録(その20)_story(3551)2014.9.7世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」体験記。「ミニ伊勢路の旅」を楽しんでいる。松本峠(135m)から海の方に展望台があり登って行った。この先に行く下り道にはテープがしてある。昨日の花火大会のためのものであろうか。その道を一組のカップルが登ってきた。聞くと「鬼ケ城跡」がこの先にあり、遊歩道で「鬼ケ城」に降りていけるという。昨日の花火大会を観たという人にもう一組会った。皆、翌日の観光にこの鬼ケ城を当ててているのである。断崖の上が「城跡」、断崖の下がこれまた「鬼ケ城」なんともややこしいのであるが、海賊由来の名称がこの「鬼ケ城」で、その後ここに城を築いたのが室町時代(1523年頃)の有馬忠親である。「桃太郎 鬼ケ島」伝説(岡山や岐阜)と違って、この鬼ケ島には、坂上田村麻呂伝説が残っている。桓武天皇の命を受けて、鬼と恐れられこの地を荒らし廻っていた海賊・多娥丸(たがまる)を征伐したとされる。熊野灘に面して断崖絶壁が1kmにも及ぶ。浸蝕岩の連なりは壮大であり世界遺産となっている。石英粗面岩からなる崖が1段の高さ2-4mの6段からなり階段状をなし、数回にわたる急激な地盤の隆起のあとを残している。格段毎に波蝕洞窟がある。洞窟はいずれも入口の上端が鋭くとがり天井部分には蜂の巣状の風蝕痕があり、床面は板のように平らな棚となっている。城址頂上から鬼ケ城までは、”桜の散歩道”なる遊歩道が続き、海に転げ落ちそうな急斜面をつづら折りで降りていく。鬼ケ城跡展望台より大泊・磯崎町小さな漁港があり、国道311号が峠を越えようとしている。一方内陸には、熊野・尾鷲道路の国道42号線が大吹トンネルを貫通しておりここは素通り。しかし、漁港からまっすぐに伸びる市街道路にそって甍の連なりが実に整然としている。そこに降り立ってスケッチをしに行きたくなった。鬼ケ城国の名勝・天然記念物遊歩道がついているが、現在は西側の部分は通行止めになっている。徒然の記1 実際の日程太字が本blogの記述部分。過去の行程は昨日以前のblog参照。→・・徒歩 -km- 区間距離表示 8月18日(月)8日目 熊野→松本峠道→鬼ヶ城→大泊海水浴場→大吹峠道→波田須(9.5km)-(JR)-松坂 青空ライナー21:40 8月19日(火)9日目 シーティーエアターミナル YCAT 5:20着 持参地図:世界遺産 紀伊山地の霊場と参詣道「熊野古道伊勢路」徒然の記2 巨大な稲城ナシ日曜日のオケはマーラ交響曲5番。Violaでは1楽章から5楽章まで楽譜にして40ページもある大曲である。今日は分奏(弦と管・打楽器に別れて演奏)の日で弦は4楽章と1楽章を練習した。1楽章では♭が5個も出てくる調(Des dur 変ニ長調・・爛熟した退廃的な音色 或いは、bモール 変ロ短調・・暗くくすんだ響き・・ロマン派が好んで使った調)でかつ最高音Disがでてきて指が届かないくらい高い。うーーん。音程が今一。不完全燃焼のまま正午にルミエール(府中市 中央図書館)を後にした。京王線府中駅の東口あたりで梨の売店が出ていた。東京都名産「稲城」という幟を立てて。最初は通り過ぎたのであるが、そのあまりに大きな梨に興味がわき、2個を買い求めることにした。値段は1kg千円という。計れば1.6kg以上あったが、「大阪からはるばる来ました(嘘ではない、49年前になるが)」と情に訴えてまけてもらい2個で千円。しかし果物にしては高すぎる。言い値で買ったら一個800円の梨なんて聞いたことがない。Viola+重い梨を抱えて橋本駅に降り立つ。そこにはアッシー姫が。カミさんである。さて、おやつの時間となった。pm3:00を忘れたことはない。小生が下記すべて準備。1.マクワ瓜の熟した冷えたものが冷蔵庫にある。それをまず食す。種の所が一番甘いため、あまり種を綺麗に取り除かない。むしろずいぶん残っているようなものが美味しい。肥料をまったくやっていなかった割には甘い。2.続いて、稲城ナシ。巨大。重さ800gを食す。10日ほど前にマラソンして買いに行ったものとは違いえらく甘く上物であった。普通の人はここで止める。うちは違う。3.なんと続いてケーキ。「食べる?」と聞くと「うん。」とカミさんの返事。よくぞ両人食べるものである。小生は、熊野古道以来、身体が壊れてしまったのか、細胞たちが飢えたままでいることだ。旅でよほどの苦労したと見える。食料がある時に食っておかなくては。ということを覚えてしまったようである。旅の後ものすごい食欲なのである。あぁ神様。重さ800gの梨 言い値で800円!?稲城市名産のナシ「稲城」800g。マッチ箱と較べても巨大であることがわかるPicture1(sketch-direction 60°am8:06 Sketch point:Onigajyo View Spot,Kumano City,Mie Pref.,JapanGPS 33.891692,136.113481(°)(33°53'30.09" N,136°6'48.53" E)標高129mPicture2(sketch-direction 250°am9:30 Sketch point:Onigajo Park,Kumano City,Mie Pref.,JapanGPS 33.890128,136.116128(°)(33°53'24.46" N,136°6'58.06" E)標高116m
Sep 7, 2014
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熊野古道-小辺路・那智・伊勢路 回想録(その19)_story(3550)2014.9.6世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」体験記。最終日 いよいよ「ミニ伊勢路の旅」を歩く日がやってきた。岳父(娘婿の父親)に熊野市駅近くまで送ってもらったあとは、松本峠(135m)を越えて大泊(おおどまり)方向へ。途中から鬼ケ城遊歩道をみつけ、鬼ケ城へ。その後は大泊(おおどまり)海水浴場で一泳ぎ。大吹峠(おおぶき)道を波田須(はだす)まで。ざっと9.5kmを歩き最終日とした。その初めの部分をここに記す。木本高校生が遠足で、熊野古道の松本峠道と観音道を行ったと聞いた。このとき道を間違い右往左往したらしい。道に迷う箇所などがあるのかも今回のチェックポイントの一つである。ちなみに観音道は、大吹峠道とほぼ平行して走る山側の道であり、両者は途中にある短絡道で結ばれている。おそらくこのときに高校生が道に迷ったということらしい。伊勢路は他の街道同様、「紀伊山地の霊場と参詣道」の世界遺産であるが、石畳など旧道が残っている場所だけ世界遺産の指定となっている。簡単に言えば、石畳道のみ世界遺産、自動車道路や生活道路は除外されている。また峠道も一本ではなく複数本あり、その複数本が世界遺産に登録されているため、全部を歩きとおすためには、Uターンして別の峠道を歩く以外に手はない。この道を歩く人もまた非常に少ない。松本峠への道2日くらいのインターバルがあったためリュックを担ぐのがつらい。ゼーゼーハーハ言いながら峠道を登っていった。突然視界がパーと明るくなるところがあり感動。蚊に刺されながらスケッチ。松本峠展望台より熊野市 市街地一望。手前の小さな山の向こうに熊野市役所がある。駅前の目抜き通りが手前右の街路樹に囲まれた直線。海岸の緑は、獅子岩、奥が花の窟(いわお)緑の浜は七里御浜遠くの山々は、大烏帽子山、光ヶ峯、妙法山 那智山、大雲取山、女郎ヶ峰、子ノ泊山(ネノトマリヤマ)など徒然の記1 実際の日程太字が本blogの記述部分。過去の行程は昨日以前のblog参照。→・・徒歩 -km- 区間距離表示 8月18日(月)8日目 熊野→松本峠道→鬼ヶ城→大泊海水浴場→大吹峠道→波田須(9.5km)-(JR)-松坂 青空ライナー21:40 8月19日(火)9日目 シーティーエアターミナル YCAT 5:20着 持参地図:世界遺産 紀伊山地の霊場と参詣道「熊野古道伊勢路」徒然の記2 麹町のインド料理店 AJANTA(アジャンタ)NHK総合の「サラメシ」は中井貴一のナレーションが軽妙で好きな番組の一つ。今週の「あの人も昼を食べた」は、イラストレータ 安西水丸さん(村上春樹の装丁を数多く手がけたことでも知られる。1942.7.22-2014.3.19)が足しげく通った千代田区二番町3-11のアジャンタ。日テレの正面玄関の前にあるお店ですぐ分かる。氏が飛び切り辛い「マトンカレー」を食べたとあった。では行かなくては!と思い立ち本日決行。11:00-13:00ランチが11:00からやっている特質すべきお店。続いて、四ツ谷でやっている知人の画伯の個展(:サンチャゴデコンポステラ 巡礼の旅 スケッチ展 於:コーヒーハウス エル(麹町6-4 麹町ハイツ B1) 8/25-9/20)へコーヒを飲みに。・・(展示はF4サイズの絵が23枚。絵ハガキ5枚setなどが売っていた。フランス人の道のスケッチでなかなか美しい。)13:00-14:00更に続いて、3kmほど南下した場所にある六本木のフランシスカンチャペルセンターで行われる「巡礼者送り出しの儀」への参列(15:00-15:30)と懇親会(15:30-16:30)と二次会(17:00-20:00)。近々に巡礼する人10数名を祝福。3つを同時に処理する機会に恵まれが、なかなかスリルに富んだ都心散歩となった。特に四ツ谷から六本木(14:00-15:00)は歩道橋、階段、狭い路地 とスリルに富んだもので、ビルの谷間を曲がった回数は23回。「ブラタモリ」同様の発見が満載。このような都心散歩もなかなか面白い。9月からは毎月開講している「3分間スケッチ」講座で使えそうなコースである。Picture1(sketch-direction 71°am7:37 Sketch point:Matumoto-pass,Kumano City,Mie Pref.,JapanGPS 33.894539,136.109353(°)(33°53'40.34" N,136°6'33.67" E)標高58mPicture2(sketch-direction 244°am8:10 Sketch point:Matumoto-pass View-Point,Kumano City,Mie Pref.,JapanGPS 33.894458,136.112183(°)(33°53'40.05" N,136°6'43.86" E)標高116m
Sep 6, 2014
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熊野古道-小辺路・那智・伊勢路 回想録(その18)_story(3549)2014.9.5世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」体験記。さて、今回の旅の大目玉、熊野市観光協会主催の「熊野大花火大会8/17(日)」の日がやってきた。この日から逆算して旅計画を立てているのであった。さて晴れ渡った日曜日。花火は海上で打ち上げるため、雨よりも波が心配である。朝6時にはもう広報で「今日は花火大会をやります!」なんていう通知が防災無線から聞こえた。信じられないことであるが国道42号線は翌日の午前2時まで通行止めになるらしい。近隣の人達が国道を歩いて帰れるように設定してあるのだ。車を市街地に止めようものなら帰宅は早朝ということになりかねない。そこで我々は七色ダム経由のかなり大回りをして市中央部に入った。それでも市街地から外れた井戸川べりの知り合いのお宅の駐車スペースに車を置かせてもらうことにした。まぁ、河口から1kmほど内陸に歩ければ帰りは楽かもしれないという。岳父母、娘婿の妹3人とその子供達3人計9人が海岸に向かって歩いて行った。箕面から来ている3歳の男の子は湧仁(わくと)君(通称「わく」)と言い、実に元気に歩く。会場は熊野灘に面した海岸線。およそ幅120mはあろうかとおもう浜辺が1.3kmくらい続いている。この地形を生かした花火大会である。そこに8/12から陣取りが始まったということで、波打ち際に近い場所に、「わくと」という名前の立札が立っていた。青いビニールを敷いて家族が座るもかなりスペースに余裕がある。いつの間にか近所の人達、岳母がトイレで声をかけたという見ず知らずの大阪からのカップルも坐り和気藹々に、すこし賑やかになっている。こういうところがなかなか寛大でよい。ビールを飲み交わしたりしながら暗くなるのを待つ。この花火大会 通常の花火大会と違うのは、その音響と、半円形にあがる3尺玉のすごさ。鬼ケ城、獅子岩という石英粗面岩からなる奇岩の壁、防潮堤の3方向からの音響効果で心臓が揺さぶられる大音響。痺れるような迫力を20万人が待つという。尺玉があがるときは予めカウントダウンがあり、半円形に花火が広がる。鬼ケ城近くにも花火が仕掛けられ地爆する。海上の船からの自爆と2方向から花火が迫る。鬼ケ城の岩肌には、水道管が張り巡らされ、草木があるため引火をくいとめる。まさに命がけの大勝負。世界遺産に対する配慮である。何万発を競う花火ではなくその音響を楽しむ花火である。こんな花火は初めてで度肝を抜かされた。9時には終わる所、この日は危険区域に人が立ち入ったということで警官が排除するするまで相当の空き時間。しかしながら連続で打ち上げられていた花火の煙幕がその間すっかり綺麗になり。9時半頃焼けくそになったようにドカンドカンと何十発の大花火。壮大にして壮観。空前絶後。抱腹絶倒。どんな四字熟語をここに置いたらいいのかわからないくらい絶叫ものであった。旅の最後を飾るにふさわしい大饗宴。堪能!花火の前・・・鬼ケ城方向岬は磯崎町。花火の前・・・獅子岩方向国道42号線が防潮堤の向こう側に走る。いくつかのトンネルがありそこをくぐって会場にはいる。我々は7番gate。獅子岩に近い方であった。席としては鬼ケ城に近く、防潮堤に近いほうが音響が良かったのではないと岳父は盛んに悔しがる。しかしこの席で十分楽しめた。時間前に家族が寛ぐ。海岸には20万人が集まると言う。遠く大阪あたりから車で。鬼ケ城の画像を使ってアニメーションを作った下記をクリック。豪華客船も停泊し海上から花火を見る。熊野大花火大会・・上記「鬼ケ城」の画像より作成花火1(写真)花火2(写真)花火3(写真)徒然の記1 実際の日程太字が本blogの記述部分。過去の行程は昨日以前のblog参照。→・・徒歩 -km- 区間距離表示 8月17日(日)7日目 熊野・・・・熊野大花火 8月18日(月)8日目 熊野→松本峠道→鬼ヶ城→大泊海水浴場→大吹峠道→波田須(9.5km)-(JR)-松坂 青空ライナー21:40 8月19日(火)9日目 シーティーエアターミナル YCAT 5:20着 持参地図:2万5千分の一地図・・高野山、梁瀬、上垣内(かみがいと)、伯母子岳、重里、十津川温泉、発心門、伏拝(ふしおがみ)、本宮、紀伊大野、新宮、紀伊勝浦 計12枚 イラストmap A4版11枚徒然の記2 ORAGINA(オランジーナ)昨日は赤紫蘇ジュースの話をしたが、これとは別に毎夏飲んでいる飲料がある。ORAGINA(オランジーナ)である。フランス生まれのこの清涼飲料水は、サントリーフーズがライセンスを取得して日本で生産している。12%混合果汁入り飲料(炭酸ガス入り)であり、原料はオレンジ、レモン、マンダリンオレンジ、グレープフルーツでこのほかに果実繊維、オレンジピールエキスを含み、パンチの利いたコクのある飲料は実に爽やかで美味しい。赤紫蘇ジュースをこれと較べたものだからお話にならないと言っているわけではないが。ORAGINA(オランジーナ)をまず朝一口飲んでみよう。目が覚めるほどの爽やかな涼風が吹きぬけることであろう。Co-opか、スーパーの成城石井で買えるのではないだろうか。Picture1(sketch-direction 73°pm5:15 Sketch point:Fire-beach1(Onigajyo),Kumano City,Mie Pref.,JapanGPS 33.888461,136.104036(°)(33°53'18.46" N,136°6'14.53" E)標高4mPicture2(sketch-direction 220°pm5:27 Sketch point:Fire-beach2(shishiiwa),Kumano City,Mie Pref.,JapanGPS 33.888461,136.104036(°)(33°53'18.46" N,136°6'14.53" E)標高4m
Sep 5, 2014
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熊野古道-小辺路・那智・伊勢路 回想録(その17)_story(3548)2014.9.4世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」体験記。参詣道体験記も最終段階となってきた。当初の予定では今日(8/17)が那智高原から那智山原生林を巡り、勝浦へと徒歩で旅し、夕刻にJRで熊野に入る予定であったが、すでに昨日から熊野に入ってのんびり過ごしている。まぁ、いままで頑張ったのだからと、自分へのご褒美の時間として甘く享受させて戴く。3エーカー(12,000平米)はあろうかと思われる親戚の別荘。この敷地のなかにポツンと池があり鯉が泳いでいる。3年前の水害で全滅したかに見えたレンコンが息を吹き返したという。蓮そっくりの葉っぱと花。午前中一杯スケッチする時間を得た。昼食は茶がゆ。何杯お替りしたかわからないくらい食べた。体内の細胞が貪欲に栄養を欲しているのだ。静かである。ことりとも音がしない。高野山から一人旅で熊野本宮大社を経て湯の峰温泉まで歩いてきたが、それを想いだしていた。和歌山県と奈良県の境を出たり入ったりしながらほぼ南南東に進路を取って歩いてきた旅は本当に静かであった。こういう境遇の継続もいいものだ。昨年瀞八丁遊覧から国道169号に上り、七色ダム、七色貯水池から大井谷トンネルをくぐって五郷まで歩いた。トンネル手前に分岐があり坂道を上がっていく車があった。親戚に尋ねると、「大井谷」へ上っていく道で行き止まりという。そこに有名なホタルの里があるという。その時期、何千何万匹のホタルが飛び交い燈火を消した真っ暗な家屋群がシルエットになって浮かび上がるくらいすごいという。ここはそんな自然がいっぱいある地区なのである。感嘆!里山の風景北向きの山々は朝霧が立ち込め輪郭がおぼろ。手前は池。1/3くらいをレンコン畑が占める。レンコンの葉っぱと花(その2・・昨日に続く。翌朝の風景)鯉が何匹も泳ぐ。池が浅いので、鯉が通ると泥が波紋となり軌跡が少しの間残る。なかなか優雅なものだ。レンコンが植わっている辺りは鯉にしてみればジャングルである。そこを器用に泳ぎ切る。レンコンの葉っぱと花(その3)茎の重なり、茂みの影。空に向ってポッカリ咲いた花く。100号のキャンパスにじっくり描きこんでみたい対象である。徒然の記1 実際の日程太字が本blogの記述部分。過去の行程は昨日以前のblog参照。→・・徒歩 -km- 区間距離表示 8月17日(日)7日目 熊野・・・・熊野大花火 8月18日(月)8日目 熊野→松本峠道→鬼ヶ城→大泊海水浴場→大吹峠道→波田須(9.5km)-(JR)-松坂 青空ライナー21:40 8月19日(火)9日目 シーティーエアターミナル YCAT 5:20着 持参地図:2万5千分の一地図・・高野山、梁瀬、上垣内(かみがいと)、伯母子岳、重里、十津川温泉、発心門、伏拝(ふしおがみ)、本宮、紀伊大野、新宮、紀伊勝浦 計12枚 イラストmap A4版11枚徒然の記2 赤紫蘇ジュース階下がキャッキャと騒がしい。どうもカミさんの散歩仲間が、畑で大量の赤紫蘇が採れたからというので、赤紫蘇ジュースを作りに出張調理にやってきたのだ。昨日の散歩で勧められて飲んだらしい。「どお?」と聞くので「美味しい!」とひとまず応えたらこの事態である。出来上がったジュース 冷やして飲んでみた。甘くていいのであるが今一つパンチに欠ける。しかも、肝心の紫蘇の香りがしない。製法に問題でもあるのかしらん。アセロラ、ラズベリー、カシス、スイカなどの清涼飲料水は、苦労して製品にしたのであろう。アントシニンを含むため、効能は疲れ目、視力回復、アレルギー、整腸、疲労回復、食欲増進、ダイエットとnetに書いてあった。この仕込みで、一つだけ実験室のような驚きがあるらしい。紫蘇を煮出して黒くなった汁にお酢(クエン酸)を垂らすとあら不思議。鮮明な赤色に変化するという。当方元気すぎてこういうものには頼りたくないし。それにしても3Lくらいの成果物、どうしてくれよう。誰が飲むのか?Picture2(sketch-direction 88°am6:42 Sketch point:Isato,Kumano City,Mie Pref.,JapanGPS 33.995828,136.051419(°)(33°59'44.98" N,136°3'5.11" E)標高271mPicture2(sketch-direction 180°am8:15 Sketch point:Isato,Kumano City,Mie Pref.,JapanGPS 33.995828,136.051419(°)(33°59'44.98" N,136°3'5.11" E)標高271mPicture2(sketch-direction 140°am8:23 Sketch point:Isato,Kumano City,Mie Pref.,JapanGPS 33.995828,136.051419(°)(33°59'44.98" N,136°3'5.11" E)標高271m
Sep 4, 2014
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熊野古道-小辺路・那智・伊勢路 回想録(その16)_story(3546)2014.9.3世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」体験記。参詣道体験記も最終段階となってきた。今回の旅の大きな目的の一つが那智大滝をスケッチすることである。親戚が大滝入口のバス駐車場まで迎えに来てくれると言う。待ち合わせ時間はpm2:00.滝一周の山道が地図には載っている。那智原始林をを一周するコースとしては、高台にある青岸渡寺から歩を進め、時計回りに大門近くまで降り立ち、待ち合わせ場所の滝入口まで車道を登って行く案と、逆コースの2つ。那智駅からバス便があるため、大門で降りてから、那智大滝一周を反時計回りで行こうと決めた。那智川を渡り、発電所に出た。ここは標高107m。周回コースのTopは548m。約450mほどの登攀が待っている。リュックを担いだまま登り出したがどうも様子がおかしい。大土石流の爪痕が。倒木や大きな石の堆積で谷筋が埋め尽くされ登山道路は完全に無くなっており全く進めない状態である。流木である大木の下をくぐり、岩に登りと地図にある線にそって登攀を試みたがとても前に進める状況ではない。所々赤い印もあったためそれを目指したが、どうもそれらは土石流前の目印であったようだ。このまま先に行っても同じような状況は変わらないとみた。谷は「陰陽の滝」のある標高215mから土石流が始まっているとみた。およそ1.5km。複雑に堆積した土石を越えていくのは危険である。自然の猛威の恐ろしさに立ちすくむ。これらは3年前、那智勝浦町を襲った”紀伊半島豪雨”(H23.9)の爪痕である。”退却 !”の合図に兵たち(約1人)はトボトボと土石流の跡を下って行く。小雲取峠ー大雲取峠に続いて2回目の撤退となった。残念!さて、次なるは、気を取り直して那智大滝へ。滝つぼまで2km。自動車道のヘアピンカーブを登って行くのはじつにしんどい。去年は、熊野那智大社、青岸渡寺の庭から滝を遠望したに過ぎないが、今年は目の前のしぶきに迫る。ナイアガラ同様雨具がいるような大しぶき、大音響。ゴーゴーとものすごい水量。圧倒された。楽しみにしていたスケッチはこれでは不可能である。ちょうど休憩室があり、窓を閉め切っていたのでここから見た滝を描くことにした。親戚のおかみさんとその息子(=次女の婿殿)の2人が熊野市から迎えに来てくれた。今夜は兄妹家族が10人も揃うというので盛大なBBQである。およそ2時間で熊野市五郷に到着した。別荘の池にあったレンコンの花をスケッチ。那智大滝「滝を描く」という願いが叶えられた瞬間。133mの落差で一段の滝としては日本一の高さと水量を誇る。描きたかった対象であるが・・。三重県熊野市・レンコンの葉っぱと花蓮の花や葉っぱに似ている。ここで絵描きにでもなって余生を送りたいほどである。徒然の記1 実際の日程太字が本blogの記述部分。過去の行程は昨日以前のblog参照。→・・徒歩 -km- 区間距離表示 8月16日(土)6日目 廃校(旧四村川小学校)-(バス)-新宮-(JR)-那智-那智海岸水泳-(バス)-大門坂→滝一周コースは崩落で断念→那智滝(3H 3.4km)-(車)-熊野 8月17日(日)7日目 熊野・・・・熊野大花火 8月18日(月)8日目 熊野→松本峠道→鬼ヶ城→大泊海水浴場→大吹峠道→波田須(9.5km)-(JR)-松坂 青空ライナー21:40 8月19日(火)9日目 シーティーエアターミナル YCAT 5:20着 持参地図:2万5千分の一地図・・高野山、梁瀬、上垣内(かみがいと)、伯母子岳、重里、十津川温泉、発心門、伏拝(ふしおがみ)、本宮、紀伊大野、新宮、紀伊勝浦 計12枚 イラストmap A4版11枚徒然の記2 NARP関東のパソコン教室新規に教室を始めた。今日はNARP関東(Nippon Association for Refreshing Persons 米国AARP(全米退職者 協会)の日本版の東京支部 )主催のパソコン教室。同じ会社でSEをしていたという女性まで現れ、計5人の”生徒さん”で賑わった。am10:00-pm4:00という長帳場ながら、なかなか皆頭の刺激になったようである。XPからWindows8-Offfice2013へのいきなりの移行で手間取っているその女性は、メールのアドレス帳のデータを移す方法を教えてほしいと午後からやってきた。アドレス帳に関してはcsvファイルにしてエクスポート/インポートを行う方法が一般的であるが、なかなか一筋縄ではいかない。実例を次回に提示することにした。一般授業項目のWordで質問が出た。「場所:」「集合時間:」など文字数が違う行を、「:」の部分で綺麗に縦に揃えたいがどうすればよいかと。これには均等割り付けという手法がある。これはなかなか面白い。「:」など別の文字があれば楽であるが、「場所」という文字だけで、いきなり改行マークがあると、[均等割り付け]で1行分に大きく2文字が割り付けられてしまい、埒があかない。この理由はこうだ。改行マークもいれて文字を選んでしまうとこのようにびよ~んと広がってしまうが、改行マークを入れずに、文字だけを選べば、ダイアログボックスが出てきて、何文字分に拡大しますか?と聞いてくれる。改行マークを選んでしまわないようにするには特殊な手法が必要。今日はこの手法を発見した。まず文字の左端にカーソルを置き、Shiftキーを押しながら、→キーで全部の文字を選んで行く。このとき最後の改行マークも選んでしまうが、←キーで一つ戻すのである。これらはShiftキーを押したままで行う。この方法で均等割り付けが思い通りに出来るようになる。Netでしらべてもこういう細かな事が書いていない。授業では、先生も苦労しているのである。徒然の記3 第二次安倍内閣消費税10%を真剣に討議するらしい。人口減の時代、売り上げ増を目論む企業と政府。ということは我々消費者が昔よりも物を買い過ぎないといけないという経済学。これを断ち切り売上は右肩下がりではあるが、利益は出るというような”質”での勝負に挑む企業や政府・・人口7,000万くらいに落ち着くと見ての経済施策はないものかと考えるのである。経済も潤い、消費者も潤い、全員がハッピーとなれるようなWin-Winの方程式は無いものか。都心にこれ以上人が溢れることはないし、地方再生にも繋がるだろうし、静かな日本となろうが、そこに落ち着くまでにいかにして「豊かさ」を保つか。環境が保たれ、電力も少なくて済む、原発なんていらない、自然は汚されないですむ、広い家にすめる・・・人口減だと良い事ずくめのような気がするが誰も言いだせない。2100年までは、少子化をよしとして5-7,000万人口にする思い切った施策はないものかと。ひょっとしてそれが10%消費税実施の隠された施策かもしれない。Picture1(sketch-direction 10° pm12:25 Sketch point:Nachi-fall,Nachikatsuura Town,Wakayama Pref.,JapanGPS 33.674056,135.887744(°)(33°40'26.6" N,135°53'15.88" E)標高284mPicture2(sketch-direction 112°pm4:51 Sketch point:Isato,Kumano City,Mie Pref.,JapanGPS 33.995828,136.051419(°)(33°59'44.98" N,136°3'5.11" E)標高271m
Sep 3, 2014
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熊野古道-小辺路・那智・伊勢路 回想録(その15)_story(3546)2014.9.2世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」体験記。旧四村川小学校体育館の玄関でテントを張った夜が明けた。校務員の家であろうか、小学校の敷地のはずれにポツンと一軒家がある。昨日は燈火が灯っていたし、車も玄関先に置いてある。この住人が起きる前に身支度を整えてここを立ち去らないといけない。およそ広げた物品は100点を越える。よくもこの一つも失くさずにいままで歩いてきたものだ。リュック、ハイパワーガス、鍋、コンロ類、ライター、テントマットコンパクトM、ポール、ペグ、枕(ULコンフォートシステムピロ)、コンロ用風よけ、ポンチョ、雨具(上下)、熊よけ鈴、サンダル、寝袋、帽子UVトレッキンググローブ、ステンレススプーン、爪切り、ナイフ類、割りばし、80L用-レインカバー、塩熱飴、地図12枚ナップザック、スケッチブック、絵具5色、パレット、水入れ、筆4本、鉛筆10本+磁石軽量登山服類(ズボン、タイツ、シャツ L/Sジッブシャツ、long タイツ・・)α米各種、スープ各種、チョコレート、エナージ・バー、チーズ、ソーセージザラテクト(虫よけスプレー)、虫よけスキンガード、ドデカシート、虫さされかゆみ、バンテリン、タオル、ハンカチ・・。スマホ用USBケーブル20cm、デジカメ充電器、スマホ充電器+電池8(単3、単4)、ランタン(オービッド)、小型ライト(タグライト)ラジオ、髭剃り、デジカメラ、スマホ・・。財布、酒、ゴミ袋、1.5Lポリタンク、0.5Lペットボトルx2・・・。地図はその日に歩く分だけ8つ折りにしてポシェットに入れておく。防水ビニール袋などに入れて汗を吸わないようにしておかなければならない。ジャンルに分けて小袋にしたものも多い。要はしまう場所を決めておきそこに無いものは「無くした」とみなす。逆に言えばちゃんと決めた場所に戻すことである。何かが無くなっていると「気持ちが悪い」という感覚になればしめたものである。物に心があるとみなして旅を続ける。水を入れると、軽く15kgとなってしまうのである。これらを荷物として担ぎ、バス停に向かった。バスの時刻は新宮行が6:56である。時間があったのでその辺をスケッチ。新宮高校前で降り(8:03)、勝浦行きのバスに乗り換える(8:08)。すごく乗り継ぎが良い。JRだと2時間は待たなければならなかっただろう。今日の行程は、那智滝巡り。時間があったので那智海岸でひと泳ぎ。晴れ→雨→晴れといった目まぐるしく変わる天候であった。四村川の対岸(下湯川集落)その1大きく蛇行する川の河川敷近くは若干の平地がありそこに人が住む。急峻な山肌にも転々と家屋が。ほんとうに慎ましやかに人は暮らしている。四村川の対岸(下湯川集落)その2四村川の下流方向。那智海岸昨年も泳いだ場所で。今回は実に空いていた。徒然の記1 実際の日程太字が本blogの記述部分。過去の行程は昨日以前のblog参照。→・・徒歩 -km- 区間距離表示 8月16日(土)6日目 廃校(旧四村川小学校)-(バス)-新宮-(JR)-那智-那智海岸水泳-(バス)-大門坂→滝一周コースは崩落で断念→那智滝(3H 3.4km)-(車)-熊野 8月17日(日)7日目 熊野・・・・熊野大花火 8月18日(月)8日目 熊野→松本峠道→鬼ヶ城→大泊海水浴場→大吹峠道→波田須(9.5km)-(JR)-松坂 青空ライナー21:40 8月19日(火)9日目 シーティーエアターミナル YCAT 5:20着 持参地図:2万5千分の一地図・・高野山、梁瀬、上垣内(かみがいと)、伯母子岳、重里、十津川温泉、発心門、伏拝(ふしおがみ)、本宮、紀伊大野、新宮、紀伊勝浦 計12枚 イラストmap A4版11枚徒然の記2 ”駈ける”ロボット現る時速4.2kmで走る高速二足ロボット「アキレス」が登場した。まだ外部にケーブルが付いているので完全自律型ではないが。もたもたしていると、このロボットにも追い抜かれてしまう。頑張らなくては。Picture1(sketch-direction 28° am6:03 Sketch point:Shimoyukawa-spring,Homgu-town,Tanabae City,Wakayama Pref.,JapanGPS 33.822836,135.752597(°)(33°49'22.21" N,135°45'9.35" E)標高77mPicture2(sketch-direction 130°am6:08 Sketch point:Shimoyukawa-spring,,Hongu-cho,Tanabe-City,Wakayama Pref.,JapanGPS 33.822836,135.752597(°)(33°49'22.21" N,135°45'9.35" E)標高77mPicture3(sketch-direction 176° am9:33 Sketch point:Machi-coast,Homgu-town,Tanabae City,Wakayama Pref.,JapanGPS 33.644164,135.937064(°)(33°38'38.99" N,135°56'13.43" E)標高3m
Sep 2, 2014
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熊野古道-小辺路・那智・伊勢路 回想録(その14)_story(3545)2014.9.1世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」体験記。果無山脈中腹にある「観音堂避難小屋」から果無峠を越えて、熊野本宮大社まではおよそ11.1km。当初予定した小雲取越えは13km(標高500mの峠を越える)。その替わり湯の峰温泉宿泊を決めたのにも拘わらず、テント場を探しながら放浪した距離はなんと13.7km(湯の峰温泉 標高125m)。たいして距離は変わっていない。後者はかなり平坦であるものの、舗装道路ばかりを歩くというおまけがつく。翌日のこと(当初予定は標高800mの大雲取越えに対して、バス移動)を考えればそのつらさは帳消しになろうが。「屋根つきのテン場」というかなり悲しい制約があるためかなり長く彷徨うこととなってしまった。そもそも世界遺産熊野本宮館で教えてもらったテント場とは、オートキャンプ場のことでありバックパッカー用のテン場ではない。なかなかマイナーな”部類”に入るらしく通じていないのである。日本には山以外ではテントを張る場所が無いのではなかろうか。オートキャンプ場はどうか? うるさ過ぎるので嫌なのである。車族ときたらやたらと荷物を持ち込み一族郎党をあげてわいわい騒ぎ、BBQをするのが常。こちとらは一人静かに寝たいだけなのである。こういう場所が無い。やはり行きつくところは小学校の庭で、体育館などへつづく廊下というのがベストである。静かなことは請け合い。本宮郵便局で受け取ったのは、山行をかねての「α米x5+パンの缶詰x2+行動食(カロリーメイトなど)x3 スープx7 、ズボン(長+ショート)+熊野花火観戦用衣類(半ズボン+Tシャツ)+帰宅用(半ズボン、Tシャツ)、トレッキングシューズ」であったが、山はパスしたので幾分減らして送り返す。これらの手続きをすませ郵便局を出たのは2時。レストランで久々の昼食。カロリーの多そうなカツカレー注文。出してくれた水を何杯お代わりしたか分からないくらい。おそらく60兆もの細胞すべてが水を欲していたのではないかろうか。身体中に浸みわたっていく感じで蘇生していく。生き返ったturbo717はそのまま国道168を南下。田辺・白浜行きの道は国道361号で、分岐して大日山トンネルをくぐる。四村川沿いに行くと渡瀬温泉が見えてくる。蛇行する川につり橋をかけて客を呼び込んでいるようである。すぐ脇に川湯温泉へいく「温泉隊道」というトンネルがあるが、そこはパス。吊り橋に魅力を感じ、国道に付けられた階段を下って行く。吊り橋を渡った先にあったのがゴージャスな「渡瀬(わたらせ)温泉 ホテルひめゆり」である。川で遊んでいる人はすべてこの温泉の宿泊客とみた。ここにオートキャンプ場「熊野瀬温泉キャンプ場」が併設されている。皆大きなテントを車の脇に張り、屋根つきの炊事場などで調理をしているようである。ここはお呼びではない。トボトボとまた361号線にもどり「下の湯温泉」方向へと歩いていく。白浜へは、渡瀬隊道というトンネルで西のほうに分岐するが、こちらはそのまま下湯川方向に向かい坂道を下りていく。ここに郵便局がある。局名は「湯峰局」。道路を挟んだ真向いに小学校がある。しかし、校門を入って行こうとすると何やら人の目を感じる。車も沢山止まっている。すこし川べりの土手で様子を見ることにした。次第に分かってきたことは、お盆の風習であろうか、河原で故人を偲んで供養をしているのである。竹などを2本立てかけ紐を渡して祭場とし、いろんなお供えをして拝んでいるのである。河原のあちこちにそのようなものが置かれている。あるものは石を何段も組み立て、お墓のようにしている。家族親戚全員が集まり長い時間をかけてお祈りをしているのである。止まっていた車はそういう人達が村落からやってきたものであろうか。しかしそういう人が居なくなったあとでもなりやら人の気配。なんと老人福祉施設がありそこを出入りしている人たちで絶えず人通りがあるということ。学校はどこへ行った?門構えや体育館、運動場、校舎が残っているものの廃校となり、敷地の半分が施設の用地となっていたのである。まぁ、これも時代の流れか。子供がいなくなってしまったので合併をして廃校になったのである。体育館の玄関に格好のスペースを見つけた。コンクリートながら雨は防げる。かなりのスペース。しかし、運動場の端にコンクリートの道があり、一軒屋に続いている。そこに燈火が。だれか住んでいるのである。玄関に近い運動場の向こうに老人センターの明かりが煌々と。テント場にしては気になる明かりが2方から迫る。まぁ、ここは一軒家からは死角になっているためそっとしておれば見つかることはない。真っ暗な夜であるし。テントを張ってから2km先の「湯の峰温泉」へタオル一つぶら下げて行ったものである。テントを張る前にもすでに訪れている。事前にチェックしておいたのだ。公衆浴場が250円で利用できることを。安いのには理由があった。石鹸やシャンプーが置いてないのである。なるほど。甘かった! 湯船につかったり頭をお湯で洗ったり手持無沙汰。冷たいドリンクで身体を冷やしつつ帰宅。2kmの山道を。この公衆浴場なかなかの商売熱心。一般(250円)、薬湯(390円)、壺湯(770円 30分入れ替え制)、家族風呂(510円 30分間で入れ替え制)、12枚券(2,570円)、温泉汲み取り券(10L 100円)、休憩室(2時間 510)などと種類が多く自販機が大型で目がくらみそうであろう。しかしものすごい人気でどこにも待ち行列。帰宅して気付いた。小銭入れが無くなっていることを。そこで3度目の2km登攀に及んだ。お風呂受付に黒い財布が置いてあった。半ズボンからこぼれ落ちたようである。距離が13.7kmと多目なのは、湯の峰温泉往復1.5kmが3回分入っているからである。ドジもいいところである。温泉の効能か足が疲れないのである。老人ホームからの遠火をもらって比較的明るいテント生活となった。渡瀬(わたらせ)温泉 ホテルひめゆり四村川の河原で水浴びなどしていた。湯の峰温泉あぁ、この温泉に入るため3往復しているとは。中央の橋を渡った右手奥にあるのが公衆浴場。賑わっていた。熊野本宮大社からは「大日山越え」という古道が残っており近道。参詣道を歩いた旅人が峠越えをして温泉に浸かったのである。この近くには、川湯、下湯の峰、渡瀬温泉と温泉が多く、沢山の修験者や参詣者で賑わったことであろう。熊野本宮大社 大斎原(おおゆのはら)熊野川・音無川・岩田川の合流点にある。かっての熊野本宮大社。明治の大風水害で神社が流され、今の高台に移された。残った4つの宮が祀られている。熊野川の濁流8月9-10日の台風11号の影響の大雨でで、どこも水が濁っていた。昨年は、水量がすくなく、熊野川を渡渉できたというのに。これでは無理である。水深は1mから17mと水量とダム放水に寄り激変する徒然の記1 実際の日程太字が本blogの記述部分。過去の行程は昨日以前のblog参照。→・・徒歩 -km- 区間距離表示 8月15日(金)5日目 観音堂前の避難小屋-1.1km-果無峠(1050m)→八木尾(83m)→九鬼→三軒茶屋跡(210m)→熊野本宮大社(90m)→本宮郵便局(荷物の送受)→渡瀬温泉→下湯の峰→湯の峰温泉(公衆浴場)→廃校(旧四村川小学校)でキャンプ(24.8km)徒然の記2 東海代表・中京(岐阜)が全国高校軟式野球大会を制する延長50回に及んだ準決勝で東海代表・中京(岐阜)が西中国代表・崇徳(広島)に3-0で勝利。そのままの勢いで決勝初出場の南関東代表・三浦学苑を2-0で破り優勝した。さて、中京地区には「中京」と名のつく学校が多い。岐阜の中京は、「岐阜・中京」と呼ばれ、愛知県にある中京は、「中京大附属中京」などと呼ばれる。「岐阜・中京」は正確には「学校法人安達学園 中京高校」で、小生が奉職した中京学院大学もこの系列である。大学としても今回の快挙は喜ばしい限りであろう。一方中京大附属中京や三重中京はそれぞれ「学校法人梅村学園 中京高校」、「学校法人梅村学園 三重高校」が正確な学校名である。この梅村姓と安達姓とはもともとは兄弟関係にあるため学校名も似たようなものになったのであろうか。かっては”中京商業”の名前が両高校ともあった。常に何らかの付属文字が付いて区別されてきた。岐阜の中京も、愛知の中京も、共に駅伝や野球が強く、マスコミに頻繁に登場する。Picture1(sketch-direction 315° pm3:31 Sketch point:Watarase-spring,Homgu-town,Tanabae City,Wakayama Pref.,JapanGPS 33.889789,135.751753(°)(33°49'0.25" N,135°46'2.33" E)標高101mPicture2(sketch-direction 4°pm5:31 Sketch point:Kumanohongu-taisya,Hongu-cho,Tanabe-City,Wakayama Pref.,JapanGPS 33.827897,135.7572(°)(33°49'40.43" N,135°45'25.92" E)標高126m
Sep 1, 2014
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熊野古道-小辺路・那智・伊勢路 回想録(その13)_story(3544)2014.8.31世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」体験記。さていよいよ今日は目的地の熊野本宮大社。果無山脈の中腹にある観音堂(am6:00出発)から1kmほど登りつめると果無峠に到着。時間はam6:49。およそ50分もかかったことになる。なかなかきつい果無峠であった。経験上登りは35-40分/1km、下りは25分/1kmと読んでいる。コンクリの平坦では15分/1km。これをバロメーターとすると、時間のかかり具合で難路であるか登攀がきつかったのかがわかる。峠には第17番目の観音像が祀られていた。八木尾まで約5km 7:00発、9:29着 約150分・・30分/1km。これは難路に当たる。理由は石畳の下り道。滑るのである。実にあるきづらい。途中登ってくる夫婦に会った。古道を手入れするのだという。長い柄のついた鎌を持っていた。頭が下がる。果無峠を南下している間に奈良県から和歌山県に入る。国道168に降り立てばあとは道の駅「奥熊野古道ほんぐう」を経過。九鬼から、上り坂をとり三軒茶屋跡で中辺路と合流し、熊野本宮大社へ。中辺路と合流地点で驚いた。中辺路を歩いている人がぞろぞろ居るのである。聞くと、発心門あたりから5,6km、熊野古道を体験するという人達である。本宮からはバスが出ていて、体験できるのだと。それでも2.1kmの山道は、侮るなかれ。相当の距離に感じた。ようようにして本宮到着。予定の11時を越えて、11時半となっていた。約1時間境内にいたことになる。社務所のトイレで顔を見ると、目の周りに黒いクマが出来ている。これは相当の疲れであるとみた。予定では小雲取越え、大雲取越えをして那智滝まで行くことになっているが、これから郵便局により昼食を取ってスタートするのが昨日同様2時過ぎ。残り15km。時間にして6時間。到着予定時刻20時過ぎ。しかしこれは危険である。この時点で、今回の旅を小辺路のみとし後は今後の宿題とすることを考え始めた。疲れ切っている身体をまずは休ませよう。自分自身にムチを打ち続けるのは止めにしよう。旅の予定変更を家族にメール。たまたま次女夫婦が熊野に帰っているという。明日、那智滝まで迎えにいくので夕方皆でBBQをしようという楽しい企画に乗ることとした。とりあえず、本宮大社を下山して郵便局に向かう。果無山中から見た本宮の山々熊野本宮大社撮影禁止の聖域。スケッチしか画像に残せない。この絵を描くために小辺路を旅したようなものだ。この一枚に尽きる。すこし丹念に描いたが難しい!手前から、結宮(西御前、中御前)、本宮(証誠殿)、若宮(東御前)参拝順は、1.本宮(証誠殿):証誠大権現:家津御子大神、2.結宮(中御前):速玉大神、3.結宮(西御前):夫須美大神、4.若宮(東御前):天照大神5.この絵の奥。満山社:結ひの神、祓(はら)いの神徒然の記1 実際の日程太字が本blogの記述部分。過去の行程は昨日以前のblog参照。→・・徒歩 -km- 区間距離表示 8月15日(金)5日目 観音堂前の避難小屋-1.1km-果無峠(1050m)→八木尾(83m)→九鬼→三軒茶屋跡(210m)→熊野本宮大社(90m)→本宮郵便局(荷物の送受)→渡瀬温泉→下湯川温泉→湯の峰温泉(公衆浴場)→廃校(旧四村川小学校)でキャンプ(21.6km) 8月16日(土)6日目 廃校(旧四村川小学校)-(バス)-新宮-(JR)-那智-那智海岸水泳-(バス)-大門坂→滝一周コースは崩落で断念→那智滝(3H 3.4km)-(車)-熊野 8月17日(日)7日目 熊野・・・・熊野大花火 8月18日(月)8日目 熊野→松本峠道→鬼ヶ城→大泊海水浴場→大吹峠道→波田須(9.5km)-(JR)-松坂 青空ライナー21:40 8月19日(火)9日目 シーティーエアターミナル YCAT 5:20着 持参地図:2万5千分の一地図・・高野山、梁瀬、上垣内(かみがいと)、伯母子岳、重里、十津川温泉、発心門、伏拝(ふしおがみ)、本宮、紀伊大野、新宮、紀伊勝浦 計12枚 イラストmap A4版11枚徒然の記2 大手前高校三八会 古希の祝い今日(8/31)は、大阪までの新幹線日帰り旅行。2車泊3日の高速バスの旅よりもよっぽど楽ちんである。ジパングを使っているためJRは3割引きと安くバス料金とそうは変わらない。今回は、京都に立ち寄ってから大阪入りを計画した。「新横浜駅」始発の「ひかり」(am6:00岡山行き)は「のぞみ」と同じSpeedでぶっ飛ばしてくれるため京都に2時間で到着する。目指すは東山浄苑(清水寺から約1km東)。両親の墓がある。京都で許される時間は3時間。ちょうど清水寺方面行きのバスが駅前に到着した。韓国からという家族5人が飛び乗ってきた。清水寺直行のバスと思ったらしく、最寄駅の「東山五条坂」で降りようとしない。小生だけ降りるも、運転手が引きずり降ろした。よってこの家族と一緒に清水寺への600mも登攀に及んだが途中で見失った。あまりの長い坂に辟易したのであろう。五条坂を登りきると松原通りにでる。土産物屋がぎっしり軒を連ねている界隈である。清水寺の舞台の下を通り裏門に出る。高倉天皇陵、清閑寺を過ぎて、東山ドライブウェイをさらに登っていくと東山浄苑の山門に出る。さらに遊歩道を上り詰めると両親の墓に参ることができる。この時点で汗びっしょり。帰りは、清水寺を通り、二年坂、三年坂などを楽しみ、京阪四条駅へ。もうほとばしる汗。背広もぐっしょり。ここから特急で京橋へ。環状線で森之宮へ。KKRホテル11:50着。とぎりぎりに会場にすべりこむ。東京勢は8人ほど。大阪勢72名計80名ほどの集まり。卒業生400余名ほどのなかで物故者は35名ほど。50数年ぶりの方もおられ全体が浦島太郎ながら、談笑がつづく。隣に座った女性なんぞ、孫が10人もいるということであった。2人がNYの隣のニュージャージー州に住むのでなかなか会いに行けないという。自身もピアノを弾き元気はつらく。そうじて全員元気である。Picture1(sketch-direction 0° am9:00 Sketch point:Hatenashi,Hongu-cho,Tanabe-City,Wakayama Pref.,JapanGPS 33.889789,135.751753(°)(33°53'23.24" N,135°45'6.31" E)標高440mPicture2(sketch-direction 14°pm12:24 Sketch point:Kumanohongu-taisya,Hongu-cho,Tanabe-City,Wakayama Pref.,JapanGPS 33.840342,135.773439(°)(33°50'25.23" N,135°46'24.38" E)標高86m
Aug 31, 2014
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熊野古道-小辺路・那智・伊勢路 回想録(その12)_story(3543)2014.8.30世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」体験記。郵便局に局留めしておいた衣類や食料を入れ替え、蘇生したような清々しさ。燃料のガス缶(液化ブタン・液化プロパン混合)は差し替えず同じものを持ち歩くことした。まだ相当量残っていたからである。点火回数と、水の量によりどの程度ガスの消費があるか計算するためでもある。旅の終わりにこれを計算してみたが、およそ250g缶で、8Lの水を沸かすことができそうである。「一回500ml換算、30回の点火、16回の食事」と計算されよう。次回の郵便局は本宮町。明日である。よって果無山脈登攀は荷物を最小にできるのである。しかも良いことに宿泊予定の観音堂は水が供給できるということで、飲み水1Lのみの携帯で軽装である。意気揚々、果無山脈へ挑戦!といきたいが、昨日も書いたように戦意は既に消滅している。「どっこいしょ。しんどいな。暑いな!」という感じで、足を引きづりながら炎天下の国道を歩くこの辛さよ。観光地「十津川温泉」で、大きなバッグパックを担いで歩いている人を見かけないのである。バスか車の人ばかりで周囲の観光を楽しんでいる。去年難渋した玉置神社ですらここからは車で目と鼻の先で、頂上近くの駐車場まで林道が通じている。日本一広い十津川村はつぎの五つのエリアに分けて観光に力を入れている。「橋」・・谷瀬の吊り橋を含む北部エリア、「水」・・伯母子岳からの小辺路参詣道や東端の大峯奥駈道を含む中部エリア、「集」・・大峯奥駈道の行仙岳、道の駅「十津川郷」を含む東部エリア、「花」・・玉置山をふくむ東南部のエリア、「憩」・・十津川温泉を含む南部エリアの5つである。なかなかの秘境でめったに来れるものではない。そこをとぼとぼと歩いているのである。時計は14:00。炎天下の筈である。子供たちは御昼寝のお時間、こうしてオジサンが頑張っているのだ。さて、小辺路道から2kmも離れた十津川温泉から元の場所に戻るよりも、ダム湖に沿って南下し、バス停の櫟砂古(いちざこ)から山に登り小辺路と合流するコースを取ることにした。こっちのほうが近道である。果無の山道には西国三十三観音の観音像が祀られている。第33番観音は、この櫟砂古にあるため観音を全部拝むためには好都合である。さて登り始めた。2,3歩いくと息が切れてしまった。どうも温泉で長湯したことでまったく力が出ないのである。2万5千分の一の地図で見ると、250mの落差があり、水平距離は250mと等高線がびっしりと込んでいる。45°の傾斜である。ころげ落ちそうになる最初の階段で息切れがした。足を踏み外せば、交通頻繁な国道に転落することになる。カミさんが買ってくれた塩入の飴(ウイダーinタブレット塩分プラス)というのを適宜口に含んでは、右足と左足を交互にに出していく。意識朦朧。観音の写真は全部撮らねばならないだろう。だって、ここを歩きたかった友の声なき声が聞こえてくる「どうして撮らなかったか?」と。そこでパチリパチと。33観音は地元の信者が果無峠を含むこの山中約10kmに33体、300mに一体を祀っていったようである。ほとんど全ての観音に真新しい枝が差さっているのである。本当に信心深い人たちがいるものである。観音さんはみんなやさしい顔つき。微笑ましい。ヘアピン状の山道を徐々に登っていく。何百回折り返したことだろうか。正規の小辺路ルートに合流する箇所は、「果無集落」で絶好のカメラスポットになっているのは観光客が多い。皆車で上がってくるようである。まぁ、西国33観音を拝みながら上がってくるような人は皆無であろう。この集落を抜けるといよいよ山道。17:40観音堂到着。登攀に3時間40分もかかってしまった。観音堂の前に水飲み場があり2本のチューブから水が滔々と流れ落ちている。集落の人達の水はこの近くからパイプで曳いているようで何本もの黒いチューブが小辺路道にづっと続いて埋められていた。狂想曲 第1章艱難辛苦の果てに辿りついた避難小屋であるが、なにやら様子がおかしい。ピョンピョンと何かが飛び跳ねる音。太鼓の皮をピョンピョン打つような音が立体的にどこからも聞こえてくる。かまわず小屋の中で食事用のお湯を沸かし始めた。その中にも飛び込みそうな勢い。闖入者と、既存の住人との戦いがはじまった。既存の住人とは見たことがないほど巨大なコオロギである。間接の長さ8cmくらいの巨大なのが何十匹もそのあたりを飛び回っているのである。コオロギ狂想曲のような3次元の音響。ヘッドライトだけでは埒があかないので、ランタンを点け天井からぶら下げる。小屋の中にテントを張ってもよかったのであるが面倒、そこで一匹づつ小屋の外(すでに真っ暗となっている。宿泊はまた1人のみ)に放り出すことにした。しかしながら囲炉裏の底から次から次へと湧いてくる。暖炉のストーブの煙突が外れたままとなっているが、室外からこれを伝わって飛びこんでくる勢い。囲炉裏にあった木切れを燃やし燻し出すことにした。狂想曲は第2章へ。ビニール製の箒を見つけた。これは強力な武器となった。これで彼奴を一匹づつ叩きのめす作戦に変更。一撃ではくたばらないのである。死んだ振りをして生き返るのである。彼奴をまだ動いているうちに小屋の外に放り出すことにした。雨戸をあけて外に出すも新しいのが入ってこないように一瞬の開閉。燻す煙もむせ返るように煙たくなってきた。これでは人間もやばい。而して数時間に及ぶ悪戦苦闘の末根絶やしにした。就寝。しかしまたピョンなどと単音がする。音のする方にヘッドライトを当て部屋の隅に追い立てる。すでにストーブの煙突には栓をして中に入らないようにしてあるし、囲炉裏の方々の穴には一応石をあてがい万全である。しかしながら山小屋である。どこかに隙間があるのかもしれない。次回からは蚊取り線香を持って来よう。やっと静かな夜が更けていく。お休みなさい。御機嫌よう。十津川村・果無(はてなし)集落-1稲作と石畳道(小辺路道)西国33観音の東側の登山道と、小辺路との合流点。漸く尾根に出たという感じで感動。手前の山は昴の郷の北側にある405mの山。行仙岳(1091.3m)など。十津川村・果無(はてなし)集落-2民家の路地を抜けていく。車道がづっと追いかけてくる。ここから山道となる。十津川村・果無山脈天水田跡(300m先の「山口茶屋」の住人が雨水だけを頼りにして稲作したといわれている。)山は果無山脈 1042m峰 この右に1114m峰があり、果無峠1075mの峠がある。手前から右前に向かっている稜線を果てしなく登っていく。十津川村・西国33観音 第33観音約300mに一基、10kmの山道に合計33体の観音像。徒然の記1 実際の日程太字が本blogの記述部分。過去の行程は昨日以前のblog参照。→・・徒歩 -km- 区間距離表示 8月14日(木)4日目 重里・西川第一小学校(テント)→大津越→昴の郷(150m)→十津川温泉→平谷-(143m 公衆浴場 郵便局で荷物の送受)→櫟砂古(いちざこ)→果無村落→観音堂前の避難小屋(14km)徒然の記2 うなぎ屋「竹の家」調布にある名店に長女とカミさんとで昼食を食べに行ってきた。季節外れか? 鰻。さりとて大繁盛。長い廊下の部屋部屋にはどこも沢山のスリッパが並べられている。大体焼くのに20分かかるようであり本格的な証拠?しずしずと運ばれてきた3つのお重。「並」を注文したカミさん ひっくり返った。鰻の下にあるご飯は厚さ1cmしかない。煎餅のように薄く敷かれたご飯。まぁダイエットしているからよしとしよう。鰻は2/3匹。「上」を注文した小生。ご飯を「大盛り」としておいてよかった。ほどよいご飯。鰻は1匹「特上」を注文した娘(因みに今日は娘の奢りである。)鰻が1匹プラスαで2重になっている。御飯が薄いのでひっついているらしい。おいしかったが、味の印象が薄い。「普通」という感じ。タレがご飯に浸み込むくらいにタップリと欲しかった。天然ものという味に慣れていない庶民には「有難味がわからない味」という味なのであろう。こういう上等のものは食べ慣れないと評価はできない と感じた。小生、一生で最後に食べたいものがこの「うな重」である。こんどは北千住の有名店に行きたい!Picture1(sketch-direction 0° pm2:46 Sketch point:Hatenashi-syuraku,Totsukawa Vill.,Nara Pref.,JapanGPS 33.931775,135.758347(°)(33°55'54.39" N,135°45'30.05" E)標高350mPicture2(sketch-direction 12°pm3:04 Sketch point:Iorinomaehashi bridge-2,Totsukawa Vill.,Nara Pref.,JapanGPS 33.930461,135.758561(°)(33°55'49.66" N,135°45'30.82" E)標高375m
Aug 30, 2014
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熊野古道-小辺路・那智・伊勢路 回想録(その11)_story(3542)2014.8.29世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」体験記。親父が大峰山の講の一員であったため修験道も歩いている。そのとき玉置山から十津川に下り温泉の入った話は聞いていた。断崖絶壁の上に温泉があり下の谷を見おろしたのだと。どんな険しい渓谷かと思っていたが、今はそのようなことはなく、同じ場所でも風景が変わってしまっている。十津川温泉開祖の植村忠知が平谷に旅館吉野家を創業し、温泉掘削などに尽力した。この吉野家が十津川温泉一の旅館として現存する。親父は恐らく講の人達とここに泊まり屋上にある露天風呂に入った筈である。そのころは下流にあるダム「二津野ダム」もなくまさに渓谷で、眼下2,30m下に十津川渓谷を見た筈。今はダム湖となり旅館からはほんの10mほどの距離に湖の水面があるため絶景とはなっていない。それでも町は狭いながらもぎっしり家屋が立ち並び活気があった。郵便局で局留めにしてあった衣類や食料を受け取る。そのダンボールを庵之前橋の袂にある公衆浴場「庵の湯」まで運び入れ温泉に浸かる。携帯とデジカメの充電もせねばならないためおよそ2時間くらいねばって入浴。4日ぶりのお風呂。十二分にリラックス。しかしこれが敗因。すっかり歩く気力を喪失し、ぐったりとベンチで休憩。スーパーで買い求めたカロリー多目の幕の内風の弁当を「庵の湯」の足湯の間で戴く。着かえたものをダンボールに詰め替え、自宅に発送。暑い昼中、こんどは果無山脈に800mくらいの登攀が待っている。もうへとへとである。十津川村・十津川温泉街スケッチ庵之前橋から北側を眺望。湖から時々泡が噴き出す。おそらく温泉が吹き上がっているのであろう。豊かな泉源である。十津川温泉 十津川温泉街スケッチ吉野家の立派なホテルが崖の上に建つ。ダム湖となったため水面は高くかっての渓谷は今はない。徒然の記1 実際の日程太字が本blogの記述部分。過去の行程は昨日以前のblog参照。→・・徒歩 -km- 区間距離表示 8月14日(木)4日目 重里・西川第一小学校(テント)→大津越→昴の郷(150m)→十津川温泉→平谷-(143m 公衆浴場 郵便局で荷物の送受)→櫟砂古(いちざこ)→果無村落→観音堂前の避難小屋(14km) 8月15日(金)5日目 観音堂前の避難小屋-1.1km-果無峠(1050m)→八木尾(83m)→九鬼→三軒茶屋跡(210m)→熊野本宮大社(90m)→本宮郵便局(荷物の送受)→渡瀬温泉→下湯川温泉→湯の峰温泉(公衆浴場)→廃校(旧四村川小学校)でキャンプ(21.6km) 8月16日(土)6日目 廃校(旧四村川小学校)-(バス)-新宮-(JR)-那智-那智海岸水泳-(バス)-大門坂→滝一周コースは崩落で断念→那智滝(3H 3.4km)-(車)-熊野 8月17日(日)7日目 熊野・・・・熊野大花火 8月18日(月)8日目 熊野→松本峠道→鬼ヶ城→大泊海水浴場→大吹峠道→波田須(9.5km)-(JR)-松坂 青空ライナー21:40 8月19日(火)9日目 シーティーエアターミナル YCAT 5:20着 持参地図:2万5千分の一地図・・高野山、梁瀬、上垣内(かみがいと)、伯母子岳、重里、十津川温泉、発心門、伏拝(ふしおがみ)、本宮、紀伊大野、新宮、紀伊勝浦 計12枚 イラストmap A4版11枚徒然の記2 珊瑚の会珊瑚の会(大学OBオケ)が幡ヶ谷であった。17:30-21:00モーツァルトPコン 23番とベートーヴェン交響曲2番。参加35人ほど。Violaは4人とまずまずの出席。いやぁ難曲。しかしまぁよく弾けたほう。長老は81歳。チェロとViolaに一人づつ。皆オケや、カルテットで現役で頑張っている人達。認知症が忍びよる隙間などない方々。見習うべき先輩達。21:00-22:30 懇親会Picture1(sketch-direction 314° am8:40 Sketch point:Iorinomaehashi bridge-1,Totsukawa Vill.,Nara Pref.,JapanGPS 33.941611,135.767778(°)(33°56'29.8" N,135°46'4" E)標高132mPicture2(sketch-direction 122°am8:45 Sketch point:Iorinomaehashi bridge-2,Totsukawa Vill.,Nara Pref.,JapanGPS 33.941022,135.769953(°)(33°56'29.35" N,135°46'1.98" E)標高132m
Aug 29, 2014
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熊野古道-小辺路・那智・伊勢路 回想録(その10)_story(3541)2014.8.28世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」体験記。重里にある小学校「西川第一小学校」の校庭を無断で使わせていただいたが、夜中に大雨が降り避難さわぎ。テント全体を覆うオーバーシートがあれば避難せずにすんだであろうか。今回のテントは、「屋根」のある場所という制約があり、テント場が極端に少なくなってしまった。am5:45出発。集落は寝静まっている。国道425号をひたすら歩く。「昴の郷」というリゾート施設は、温泉プールを備えた立派なものである。昨日の外人組がこんな贅沢をするはずがない。小辺路から外れ、これよりさらに2km行った十津川温泉の民宿かどこかにテントを張ったに違いない。温泉場の郵便局にはam8:00には到着。庵之前橋の袂にある温泉飲料を飲めるようにした東屋にリュックを置いて近くを散策。今回の作戦は、ここで2時間ほど休憩し、果無集落へと登っていくものであるのでたっぷりと時間がある。十津川村・重里・殿原スケッチ西川は蛇行しながら流れる川のため大きくカーブする部分に低地ができ人が住みつく。一方国道は、川の左岸のみを開拓して作られたため、方々で取り残された集落を結ぶ橋が必要となる。カーブするたび2つくらいの橋がかけられ結果、無数の橋を見ることとなった。朝靄がたなびく村落。十津川温泉 平谷橋から街並み スケッチ小さな温泉村であるがぎっしり家屋が建つ。ダム湖となって広くなった十津川の向こうに玉置山の山稜が連なる。十津川村・重里→果無観音堂 Profile標高152mしかなかった十津川温泉から1050mの果無山脈へと登り詰める行程。もうへとへとであった。徒然の記1 実際の日程太字が本blogの記述部分。過去の行程は昨日以前のblog参照。→・・徒歩 -km- 区間距離表示 8月14日(木)4日目 重里・西川第一小学校(テント)→大津越→昴の郷(150m)→十津川温泉→平谷-(143m 公衆浴場 郵便局で荷物の送受)→櫟砂古(いちざこ)→果無村落→観音堂前の避難小屋(14km) 8月15日(金)5日目 観音堂前の避難小屋-1.1km-果無峠(1050m)→八木尾(83m)→九鬼→三軒茶屋跡(210m)→熊野本宮大社(90m)→本宮郵便局(荷物の送受)→渡瀬温泉→下湯川温泉→湯の峰温泉(公衆浴場)→廃校(旧四村川小学校)でキャンプ(21.6km) 8月16日(土)6日目 廃校(旧四村川小学校)-(バス)-新宮-(JR)-那智-那智海岸水泳-(バス)-大門坂→滝一周コースは崩落で断念→那智滝(3H 3.4km)-(車)-熊野 8月17日(日)7日目 熊野・・・・熊野大花火 8月18日(月)8日目 熊野→松本峠道→鬼ヶ城→大泊海水浴場→大吹峠道→波田須(9.5km)-(JR)-松坂 青空ライナー21:40 8月19日(火)9日目 シーティーエアターミナル YCAT 5:20着 持参地図:2万5千分の一地図・・高野山、梁瀬、上垣内(かみがいと)、伯母子岳、重里、十津川温泉、発心門、伏拝(ふしおがみ)、本宮、紀伊大野、新宮、紀伊勝浦 計12枚 イラストmap A4版11枚徒然の記2 サラ文 編集会議本日の作業・・・am11:00-pm7:00冊子は22ページに及んだ。投稿が多いのと写真集などもあり結構手間取る。pm2:30には大体終わったと見たが、その後4時間半は、文面のチェックや、行事予定表へフィードバックなどに時間を割かなければならなかった。だいたい出来上がっている版下があってこの時間である。それが準備されていない場合は倍以上の時間がかかる筈。小生不在の時はどうすればよいのか? マニュアルをこれから伝授して行こう。HP作成、サラ文通信編集、年会費処理、会員名簿メンテナンス、宛名印刷、発送チェックリスト・・・など6点以上の引き継ぎマニュアルとなり膨大である。なにもかも一人でやってきたが、ひとえに”こういう事をするのが好き”という性格からであろう。慣れればすべて両手を使って1秒でできる項目故、一手にyesマンとなり引き受けてきたことによる。これからは”後進を育てていくこと”を趣味にしていかなければならない。Picture1(sketch-direction°300° am6:00 Sketch point:Tonohara,Totsukawa Vill.,Nara Pref.,JapanGPS 33.954128,135.739639(°)(33°57'14.86" N,135°44'22.7" E)標高210mPicture2(sketch-direction 180°am9:45 Sketch point:Hiradani,Totsukawa Vill.,Nara Pref.,JapanGPS 33.941022,135.769953(°)(33°56'27.68" N,135°46'11.83" E)標高152m
Aug 28, 2014
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熊野古道-小辺路・那智・伊勢路 回想録(その9)_story(3540)2014.8.27力士の育盛(育ちざかり)が痩せて63kgになってしまった。やせ我慢では済まされない。体当たりで吹っ飛びでもすれば危険でもある。もっと太れ!世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」体験記。日本一面積の広い村、十津川村の西の端にある崖又山を源流とする西川が「大谷」という名の渓流を合流させ濁流は十津川温泉で十津川(和歌山県では熊野川)に注ぐ。この川沿いを国道425号線が走る。さて、西中からR425を進む。平坦な道は距離が稼げて楽である。玉垣内(たまがいと)に差し掛かった。赤い橋が景色を背景に実に印象的。実はこの景色に小学校の校舎が見えていたのだが、気付いた時には通り過ぎていた。テント場としては学校のグランドが最適なのである。住民には迷惑を掛けないし静かだし。ここを過ぎれば、次なる小学校は重里にある。あと1kmと迫ったあたりから交通が怪しくなってきた。通り過ぎたばかりのバスが引き返してくる。「通行止め」という真新しい看板が国道に立てかけてある。嘘のような光景。信じられない。車は行き来している。重里には郵便局もあり、まとまった集落がある。その手前で、「通行止め」の柵があった。本当に通行止めである。行き来していたと思った車輛は地元の車であった。万事窮すと思いながらおっかなびっくりで道を進む。自動車が通らなくなると道路に小枝などの落下物がそのままとなり、荒れた風情。なおも進むと、本当に道が崩落しており、重機がポツンと置いてある。作業小屋も真新しい。なおも進むと、土石流が国道を押し流したようで、まだ日が浅く工事が始まっていない代わりに、飛び石伝いには対岸に渡れそうな感じ。人の踏み跡もある。大きな足跡は、ドイツ人のものである。山でさんざんこの足跡を見てきたのである。船渡橋で外国人カップルと会った時にやっと謎が解けたのだ。その足跡があるので、おそらく彼らも対岸に渡り十津川温泉へと向かったのに相違ない。対岸の空いたスペースを今夜のテント場と定めテントを張っていたら、作業の人が話しかけてきた。大きなダムは3年前の大水害のとき、同じように国道が決壊したので谷筋にダムを建設したという。しかし3日前の台風11号の雨で、再度土石流が発生し3時間でダムを埋め、そのダムを越えて土石流が押し寄せ国道を破壊したのだ。このダムの工事のときに、水抜きの措置を取るように再三申し立てたが県は動かなかったとひどく残念がっていた。別の作業員が来て、小型ヘリを飛ばしながら上流部分を撮影して行ったと言うと、それはコンサルだという。建設会社に進言する役割を担っており、かれらが設計を左右するのだと。「”想定外”の雨でした」と弁明すれば済む職業であるとも。工事の本質は、現場をよく知る地元の土木作業員なのに、意見が全く通らないと憤慨していた。食事をしていたら、さらに地元の古老が寄ってきた。野菜を持ったりして崩壊現場を行き来している人であった。これから雨が降るのでここは危険かもしれない。小学校へやはり行けという。今日は誰もいない筈であると。しかし許可取らなくてはならないのでは? と畳み掛けると、困ったと言う風に。じゃ公民館があるのでそいの広場にテントを張ればよいと教えてくれる。食後テントを畳み、移動を開始。公民館に行くとコンクリの敷地。目の前は駐在所。恐れ入った。はやり最初の目標をと、小学校に分け入る。午後10頃から激しい雨。テントの中まで雨が降ってくる。オーバーシートを持ってこなかったのが敗因(重量の制約から家に置いてきたのだ)。至急屋根のある廊下にテントを引きずっていく。そこで就寝。大変な1日であった。十津川村・玉垣内(たまがいと)スケッチ対岸にすむ2,3の住民のためにかけられた橋。このような橋が随所に架かっていた。十津川村・重里の崩壊現場 スケッチ1億円を掛けた砂防ダム。3時間で埋まり、その上から土石流が流れてきたという。山の上からすでに傾斜が出来てしまったので砂防ダムを掘りかえすことは無いのだと言う。さらに上流にダムを作り、国道を橋にするなどの方策か。工事が本格したら、小辺路(こへち)の巡礼者は通れないことになる。大回りで十津川温泉へ行かざるを得なくなる。十津川村・重里の崩壊現場 写真凄まじい土石流。国道425が完全に分断された。十津川村・重里の西川第一小学校広い校庭の隅を借用。途中雨が降ってきたので体育用具置き場脇の廊下へ移動。静かな一夜であった。感謝。徒然の記1 実際の日程太字が本blogの記述部分。過去の行程は昨日以前のblog参照。→・・徒歩 -km- 区間距離表示 8月13日(水)3日目 伯母子峠(1215m)山小屋→三田谷橋→三浦バス停→神納川(345m)→五百瀬(いもせ 350m)→三浦峠(1065m 15km)→新道-11km-西中バス停→重里・西川第一小学校(テント泊 28.8km) 8月14日(木)4日目 重里・西川第一小学校(テント)→大津越→昴の郷(150m)→十津川温泉→平谷-(143m 公衆浴場 郵便局で荷物の送受)→櫟砂古(いちざこ)→果無村落→観音堂前の避難小屋(14km) 8月15日(金)5日目 観音堂前の避難小屋-1.1km-果無峠(1050m)→八木尾(83m)→九鬼→三軒茶屋跡(210m)→熊野本宮大社(90m)→本宮郵便局(荷物の送受)→渡瀬温泉→下湯川温泉→湯の峰温泉(公衆浴場)→廃校(旧四村川小学校)でキャンプ(21.6km) 8月16日(土)6日目 廃校(旧四村川小学校)-(バス)-新宮-(JR)-那智-那智海岸水泳-(バス)-大門坂→滝一周コースは崩落で断念→那智滝(3H 3.4km)-(車)-熊野 8月17日(日)7日目 熊野・・・・熊野大花火 8月18日(月)8日目 熊野→松本峠道→鬼ヶ城→大泊海水浴場→大吹峠道→波田須(9.5km)-(JR)-松坂 青空ライナー21:40 8月19日(火)9日目 シーティーエアターミナル YCAT 5:20着 持参地図:2万5千分の一地図・・高野山、梁瀬、上垣内(かみがいと)、伯母子岳、重里、十津川温泉、発心門、伏拝(ふしおがみ)、本宮、紀伊大野、新宮、紀伊勝浦 計12枚 イラストmap A4版11枚徒然の記2 寒い!3日ほど前までの酷暑はどこに行った?今日は9月下旬から10月初旬の寒さ。21°しかない。快適な筈の気温であるが、35°近辺でうだっていた日から急激な冷え込みで身体がついていかず、非常に寒く感じるのだ。寒い話が多すぎる・・STAP細胞が検出できないという。広島の土石流災害の現場では新築アパートが流された。そこに居た新婚の湯浅康弘さん(29)と妻のみなみさん(28)。 27日に湯浅さんの死亡が確認されたという。生きていてくれればどれだけ現場に明るいニュースとなったことか。祈っていたのに。悲しくて悲しくて涙もでない。残念。Picture1(sketch-direction 220° pm4:36 Sketch point:Tamagaito,Totsukawa Vill.,Nara Pref.,JapanGPS 33.971128,135.737947(°)(33°58'16.06" N,135°44'16.61" E)標高218mPicture2(sketch-direction 135°pm4:52 Sketch point:Shigesato,Mudflow,Totsukawa Vill.,Nara Pref.,JapanGPS 33.966336,135.739283(°)(33°57'58.81" N,135°44'21.42" E)標高230m
Aug 27, 2014
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熊野古道-小辺路・那智・伊勢路 回想録(その8)_story(3539)2014.8.26世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」体験記。三田谷橋を渡り、神納川(かんのう)にそってバス道路を2kmほど進むと、五百瀬の集落。腰抜田(こしぬけた)という面白い史跡があった。これは南北朝の頃、五百瀬を通ろうとした大塔宮護良親王(だいとうのみやもりよし(もりなが)しんのう)は、五百瀬の荘司に行く手をさえぎられ止む無く錦の御旗を渡し通行を許された。遅れてきた宮の家来村上義光は大いに怒り荘司の家来を水田に投げ飛ばし御旗を奪い返す。その時家来が腰を抜かしたので、その田を腰抜田というようなった。明治の大水害で埋没し、今は川底に眠っている という。さて、三浦口バス停からは吊り橋の船渡橋を渡る。自販機があったので、橋の下に広がる河川敷に降りて行こうとしたその時である。ここにある旅館か民宿を利用したという外人2人とばったり。聞くと男性はドイツ人で女性はフランス人だという。高野山から熊野本宮まで歩くのだという。2人ともテントの準備はしている。9時半という遅い時間に出発ながら今日の予定はかなり遠い「十津川温泉」だという。これは特急で飛ばさなくては間に合わない距離である。時間がなければ途中でテントを張った方がよかろう。ただし、十津川村条例ではテントは禁止されているので山中かあるいは学校がよかろう。住民に目立たないようにと。なぜだ?と聞くので、熊の危険性と、川の増水が心配なため+住人の安寧のため(マナーが悪く以前警察沙汰になったことがある)というのを喋りたかったが、「条例」の英語が出てこずに、後半はうやむや。「直ぐ会えるね」と女性が言うので「はい。」と応えるも、2度と会うことはなかった。相当の健脚と見る。コーラーを一本飲んでスケッチしただけなのに、追いつかないのだ。三浦峠の東屋のベンチには彼らの濡れた尻跡だけが残っていた。昼飯もそこそこに先を急いだようである。朝が遅い2人なので翌日十津川温泉で会えるかもしれないと思ったがダメであった。国道425の崩落現場で大きく迂回をしたため道に迷ったのかもしれない。さて、三浦峠から6kmとも11kmとも読める道標。理由が後でわかった。どちらも正しいのである。一方は旧道の6km。他方は新道の11km。しかしながら、通行禁止のため新道を強制的に歩かされることとなった。この道でも史跡が多い。古矢倉跡、出店跡、矢倉観音堂(旧道)など。矢倉の集落から下界に入った感が漂い安堵。下にある、国道425号線をひたすら十津川温泉に向けて歩くだけなのだから。(明日に続く)三浦の村落吊り橋の船渡橋を渡り終えると石段道の坂集落があった。矢倉三浦峠を下り、矢倉観音堂あたりから西中の集落を見下ろす。船渡橋透けている吊り橋。下を見たら渡れない。激流がゴーゴーと流れる。三浦峠にある東屋林道と交差するように小辺路道がある。このベンチに2人が座った跡が残っていた。小辺路の新道旧道は峰をいくため行程が短いが、通行止め。新道は、手入れされておらず、至る所でがけ崩れ。傾斜30度くらいある崩壊地。このまま足を滑らせれば谷底に!一応ロープがあるが信用してはいけない。徒然の記1 実際の日程太字が本blogの記述部分。過去の行程は昨日以前のblog参照。→・・徒歩 -km- 区間距離表示 8月13日(水)3日目 伯母子峠(1215m)山小屋→三田谷橋→三浦バス停→神納川(345m)→五百瀬(いもせ 350m)→三浦峠(1065m 15km)→新道-11km-西中バス停→重里・西川第一小学校(テント泊 28.8km) 8月14日(木)4日目 重里・西川第一小学校(テント)→大津越→昴の郷(150m)→十津川温泉→平谷-(143m 公衆浴場 郵便局で荷物の送受)→櫟砂古(いちざこ)→果無村落→観音堂前の避難小屋(14km) 8月15日(金)5日目 観音堂前の避難小屋-1.1km-果無峠(1050m)→八木尾(83m)→九鬼→三軒茶屋跡(210m)→熊野本宮大社(90m)→本宮郵便局(荷物の送受)→渡瀬温泉→下湯川温泉→湯の峰温泉(公衆浴場)→廃校(旧四村川小学校)でキャンプ(21.6km) 8月16日(土)6日目 廃校(旧四村川小学校)-(バス)-新宮-(JR)-那智-那智海岸水泳-(バス)-大門坂→滝一周コースは崩落で断念→那智滝(3H 3.4km)-(車)-熊野 8月17日(日)7日目 熊野・・・・熊野大花火 8月18日(月)8日目 熊野→松本峠道→鬼ヶ城→大泊海水浴場→大吹峠道→波田須(9.5km)-(JR)-松坂 青空ライナー21:40 8月19日(火)9日目 シーティーエアターミナル YCAT 5:20着 持参地図:2万5千分の一地図・・高野山、梁瀬、上垣内(かみがいと)、伯母子岳、重里、十津川温泉、発心門、伏拝(ふしおがみ)、本宮、紀伊大野、新宮、紀伊勝浦 計12枚 イラストmap A4版11枚徒然の記2 梨・狂想曲!梨6個を買い求めるため今日はなんと26kmもマラソンしてしまった。事の次第は下記の通りである。8/25(月)の総合TVの12:20-12:43の「ひるブラ」が、東京都稲城市特産の梨「稲城」を紹介してしていた。カミさんと付き合い出して間もない頃、9月に稲城市に梨狩りに行っている。それ以来40年梨狩りはしていない。その時は「幸水」だったか、お土産に1kgほど梨をもらって帰った記憶があるぐらいである。多摩川の水脈を得て、美味しい梨ができるということで品種改良した結果、特産の「稲城」が生まれたという。収穫時期は8月中旬から9月中旬まで。今が旬である。ならばちょうどマラソンの目標値としては手ごろな20数km。カミさんも友人が稲城市に住むため、買いに行きたいと言う。こちらは来週。netで調べると、稲城市・押立にある「上原園」が直売場と梨狩りやぶどう狩りを行っている大きな農園のようであった。マラソンのターゲットをここに絞り、リュックを担いでいざスタート。寄る年波、何回も”ヘトヘト休憩”を取りながらも、途中JAに寄りカミさんのために「農園map」を貰ったりしながらも「上原園」に到着。1kgどころか、合計2,3kgくらいある大粒の梨6個におまけの2個をもらい、欲張り婆さんになったようなまん丸いリュックを背負いながら京王線稲田堤まで2kmも走る。この重かった事。家に帰って体重との差分を取ってみるとなんと梨などを5kgも担いでいたことになる。最後の2kmが特にしんどかった。あぁ、この人生。食料買い出しの人生であろうか。この梨を早速食して(皮は厚めに剥くべし。)カミさん曰く「たいして変わりがないわね。」と。トホホ・・・。Co-opからすでに届いている梨に加えて、今日買った「稲城の梨」と、来週カミさんが買ってくるであろう(?)再びの「稲城の梨」により、『今日もコロッケ、いや今日も梨、明日も梨、明後日も梨、・・・』 梨漬けの毎日となろう。なして?Picture1(sketch-direction 90° am9:59 Sketch point:Miura,Totsukawa Vill.,Nara Pref.,JapanGPS 34.033758,135.703872(°)(34°2'1.53" N,135°42'13.94" E)標高391mPicture2(sketch-direction 190°pm3:08 Sketch point:Yakura,Totsukawa Vill.,Nara Pref.,JapanGPS 33.98475,135.726447(°)(33°59'5.1" N,135°43'35.21" E)標高384m
Aug 26, 2014
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熊野古道-小辺路・那智・伊勢路 回想録(その7)_story(3538)2014.8.25世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」体験記。3日目の行程は、「伯母子峠にある避難小屋から三田谷(315m)まで下り、続いて五百瀬(いもせ 350m)から三浦峠(1065m)へ上り詰め、矢倉観音堂か、重里方向(175m)までキャンプ地が見つかるまで歩き続けること」というのがコンセプトであり、宿泊場所が固定していない極めてaboutな行程である。ともかく下図のプロフィールにあるように、1000m級の峠を越えなければならない。このコース史跡が多い。三田谷までの9kmに、上西家跡、水ヶ元茶屋跡、待平(まちだいら)屋敷跡。山の中に平均3kmに一軒なんらかの店があったということになる。上西家は昭和9年まで旅籠であったという。高野山から十津川に向けて伯母子峠を越えて馬が米や魚を運んだという。早い朝が明けるとチリンチリンと鈴の音が響いて2頭も3頭もの馬が背中いっぱい荷を積んで下ってきたものだと古老が伝える。馬子たちは、上西で一服すると下の五百瀬(いもせ)へと下りていく。その帰りも馬子たちはお茶を飲んでいったという。毎年春から夏にかけては巡礼が大勢泊まり夜の更けるまで御詠歌が止まず、それは賑やかだったという。今は林の中に石垣が残るだけであるが。水ヶ元茶屋では、弘法の封じ水が有ったという。この水を呑むと「心能ならん、恩ならん、命延ならん、恩を知ならん」と立札に書かれてていたという。ただここには老婆一人住んでいて恐ろしい形相だったとも。待平(まちだいら)には、寺が一軒あったとも、茶店があったともいう。地元の古老の話では関所跡との伝承もあるという。伯母子小屋を近くの街道もやに巡礼道が霞んでいる。ここから800mも下る。三田谷橋から五百瀬(いもせ)の方向赤い橋が三田谷橋。この下を流れる渓流が三田谷。本流は右側で、神納川(かんのう)台風11号のもたらした豪雨で神納川(かんのう)は茶色の濁流。一方、三田谷渓流は青く、この場所で渦を巻きながら合流。道は、この橋を渡ってする左に折れる。小さな島状の突起を巻くような形。村落がありバスが朝と夕刻1回通る。伯母子峠から重里までのProfile待平(まちだいら)近くの石畳道三田谷への下り坂では石畳が残る道もあり、「熊野古道・小辺路」を感じさせる山道であった。ただ枯れ枝が散り敷き歩きずらい。徒然の記1 実際の日程太字が本blogの記述部分。過去の行程は昨日以前のblog参照。→・・徒歩 -km- 区間距離表示 8月13日(水)3日目 伯母子峠(1215m)山小屋→三田谷橋→三浦バス停→神納川(345m)→五百瀬(いもせ 350m)→三浦峠(1065m 15km)→新道-11km-西中バス停→重里・西川第一小学校(テント泊 28.8km) 8月14日(木)4日目 重里・西川第一小学校(テント)→大津越→昴の郷(150m)→十津川温泉→平谷-(143m 公衆浴場 郵便局で荷物の送受)→櫟砂古(いちざこ)→果無村落→観音堂前の避難小屋(14km) 8月15日(金)5日目 観音堂前の避難小屋-1.1km-果無峠(1050m)→八木尾(83m)→九鬼→三軒茶屋跡(210m)→熊野本宮大社(90m)→本宮郵便局(荷物の送受)→渡瀬温泉→下湯川温泉→湯の峰温泉(公衆浴場)→廃校(旧四村川小学校)でキャンプ(21.6km) 8月16日(土)6日目 廃校(旧四村川小学校)-(バス)-新宮-(JR)-那智-那智海岸水泳-(バス)-大門坂→滝一周コースは崩落で断念→那智滝(3H 3.4km)-(車)-熊野 8月17日(日)7日目 熊野・・・・熊野大花火 8月18日(月)8日目 熊野→松本峠道→鬼ヶ城→大泊海水浴場→大吹峠道→波田須(9.5km)-(JR)-松坂 青空ライナー21:40 8月19日(火)9日目 シーティーエアターミナル YCAT 5:20着 持参地図:2万5千分の一地図・・高野山、梁瀬、上垣内(かみがいと)、伯母子岳、重里、十津川温泉、発心門、伏拝(ふしおがみ)、本宮、紀伊大野、新宮、紀伊勝浦 計12枚 イラストmap A4版11枚徒然の記2 G画伯の展覧会5月ー6月の約50日をピレネー東麓のフランス・SJPP(サン・ジャン・ピエ・ド・ポー)からスペイン・SC(サンチャゴ・デ・コンポステラ)まで800km以上を歩かれた元銀行員。小生と同じようにスケッチしながらの巡礼。ほのぼのとした水彩画を描かれる画伯である。この度、四ツ谷で絵の個展を開かれると言う案内を戴いた。今日からから9/20までという。Picture1(sketch-direction 200° am5:45 Sketch point:Obakodake,Nozegawa Vill.,Nara Pref.,JapanGPS 34.078267,135.654297(°)(34°4'41.76" N,135°39'15.47" E)標高1222mPicture2(sketch-direction 270°pm6:11 Sketch point:Mitadani-bridge,Nozegawa Vill.,Nara Pref.,JapanGPS 34.036942,135.692378(°)(34°2'12.99" N,135°41'32.56" E)標高350m
Aug 25, 2014
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熊野古道-小辺路・那智・伊勢路 回想録(その5)_story(3537)2014.8.24世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」体験記。人生最高につらかった事と考えるといくつか記憶が揺れ動くが、この日の伯母子攻め いや、伯母子岳登攀ほどしんどかったものはなかった。大股の集落に民家が水をくれるという噂があったが、誰一人合わないまま集落のてっぺんまで来てしまった。炊飯用の水は2Lほどリュックの中にしまってあるが、当座の水1Lが無い。困ったことになったと思ったちょうどそのとき、畑の隅、小辺路に面してなんと蛇口が備えられてあった。栓をひねると冷たい水がほとばしるではないか。救われたという気持ち。時間も時間である。ヒグラシが鳴きはじめ、夕暮れの森の中をゆく寂しさはいかほどか。標高差にして310mほど登ったあたりに立派な避難小屋があった。「萱小屋跡」という史跡に、実際に近代的な「萱(かや)小屋」あるとはこれ如何。ここから頂上へは3.7km。桧峠、伯母子岳分岐と進むのであるが、いくら歩いても伯母子岳の山容が見えない。標高が70mしか違わない「夏虫山」の周囲を回っているのみで肝心の独立峰に近い伯母子岳が見えないのである。5時半 近くともなれば、ほとんどのパーティはこのまま近道をして伯母子峠にある山小屋に直行するであろう。ただし、注意が必要。近道と思いきや、山肌を等高線に沿って歩くほど遠いものはないのである。実際の距離よりも2倍ほどかかる理由は、複雑な地形に沿うため歩行が真っ直ぐではなく凸凹となるため距離にして約倍ほどもかかってしまうのである。ここは一気に頂上を極めてから峠に下ったほうがよほど早いのである。多くのblogではこの頂上を極めずに峠に建つ小屋に直行している。残念なことである。さて、標高差140m、距離にして600mの最後の登攀を開始。時間は17:30.この時間となると夕日と競争である。日が沈んでしまわないうちに頂上を極めたい。山頂到着18:00。間に合った。やった!と一人叫ぶ。(この旅ではまだ誰にも会っていない!)四方の山が初めて眺望出来感動。芝生で寝転がったりスケッチをしたりして峠の小屋に降り立つ。18:30小屋到着。なんと小屋の扉の下が20cmくらい小動物に齧られており、外と行き来できる状態。これでは寝ているときにハクビシンなどが侵入することも考えられる。小屋にあった、プレート2枚で蓋をしたりつっかえをしたりして防護。ログハスと違って、こちらは電気がない。真っ暗な中で炊飯。食事。お酒を飲んで就寝。夜・・大雨。林の中、一人寝の真っ暗な小屋。これって都会では考えられない一瞬の静寂。残念ながら満天の星を見ることができなかったが、森閑とした貴重な静けさ。伯母子岳から護摩壇山方向を望む伯母子岳から野迫川村の山々を望む野迫川村・大股の小辺路脇にあった水道伯母子小屋中央より左(北)・・野迫川村右・・・十津川村左下の道が小辺路。手前・・頂上より下ってきた道小屋の右側はバイオトイレ しかし鍵がかかっていて使えなかった。徒然の記1 実際の日程太字が本blogの記述部分。過去の行程は昨日以前のblog参照。→・・徒歩 -km- 区間距離表示 8月12日(火)2日目 転軸山森林公園-2km-金剛三昧院→薄峠(995m)→丁石→大滝→高野龍神スカイライン合流→水ヶ峰分岐→林道タイノ原線→下谷(674m)→大股(ここまで17.2km)→桧峠→伯母子岳(1344m)→伯母子峠(1215m 山小屋 ここまで23.6km) 8月13日(水)3日目 伯母子峠(1215m)山小屋→三田谷橋→三浦バス停→神納川(345m)→五百瀬(いもせ 350m)→三浦峠(1065m 15km)→新道-11km-西中バス停→重里・西川第一小学校(テント泊 28.8km) 8月14日(木)4日目 重里・西川第一小学校(テント)→大津越→昴の郷(150m)→十津川温泉→平谷-(143m 公衆浴場 郵便局で荷物の送受)→櫟砂古(いちざこ)→果無村落→観音堂前の避難小屋(14km) 8月15日(金)5日目 観音堂前の避難小屋-1.1km-果無峠(1050m)→八木尾(83m)→九鬼→三軒茶屋跡(210m)→熊野本宮大社(90m)→本宮郵便局(荷物の送受)→渡瀬温泉→下湯川温泉→湯の峰温泉(公衆浴場)→廃校(旧四村川小学校)でキャンプ(21.6km) 8月16日(土)6日目 廃校(旧四村川小学校)-(バス)-新宮-(JR)-那智-那智海岸水泳-(バス)-大門坂→滝一周コースは崩落で断念→那智滝(3H 3.4km)-(車)-熊野 8月17日(日)7日目 熊野・・・・熊野大花火 8月18日(月)8日目 熊野→松本峠道→鬼ヶ城→大泊海水浴場→大吹峠道→波田須(9.5km)-(JR)-松坂 青空ライナー21:40 8月19日(火)9日目 シーティーエアターミナル YCAT 5:20着 持参地図:2万5千分の一地図・・高野山、梁瀬、上垣内(かみがいと)、伯母子岳、重里、十津川温泉、発心門、伏拝(ふしおがみ)、本宮、紀伊大野、新宮、紀伊勝浦 計12枚 イラストmap A4版11枚徒然の記2 東京マラソン201・・2015.2.22(日) ダメもととは思いながらもエントリーは済ませた。8/1の受付日に定員をオーバしたため抽選となる。NYCマラソン同様、いろんなチャリティー企画に応募して出場枠をgetする方法もある。やり方はこうだ。13の寄付先事業があり、例えば「森林整備で未来の水を守る水源の森再生事業」に2000円くらいでまず自分自身が応募する。その後その応募者(ここではturbo717本人)のこの事業に対する声明文に賛同する人が募金をして合計10万円となり、かつ3,000人枠がその時点で空いていれば無条件で走れるという制度。自分でポンと10万円出して早々と出場権をgetするのもよし、細々と募金を募って10万円になるのを待ってもよし。ただしそのとき、先着3000人以内ならok。小生の知人100人に1,000円づつの応募を呼びかけてもよいのであるが、何か後ろめたい。当る筈もないクジを待つしかないか!Picture1(sketch-direction 240°pm6:05 Sketch point:Obakodake,Nozegawa,Vil.,Nara Pref.,JapanGPS 34.077322,135.631286(°)(34°6'22.04" N,135°37'52.63" E)標高1344mPicture1(sketch-direction 270°pm6:11 Sketch point:Obakodake,Nozegawa,Vil.,Nara Pref.,JapanGPS 34.077322,135.631286(°)(34°6'22.04" N,135°37'52.63" E)標高1344m
Aug 24, 2014
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熊野古道-小辺路・那智・伊勢路 回想録(その5)_story(3536)2014.8.23世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」体験記。さて今日からいよいよ小辺路(こへち 高野山→熊野本宮大社)に分け入る。巡礼路の開始である。森林公園から金剛三昧院までは2kmの道のり。水3Lを担ぐため70Lのリュックは15kg以上とずしりと重い。これだけ重いと担ぎ上げるのに工夫が必要。まずお相撲さんのように四股を踏む形で股を広げる。左の腿にリュックを持ち上げ、これに腕を通す形で一気に背負うのだ。断崖絶壁でこれをやると谷底に落ちる危険性がある。この場合は一段高いところにリュックを置き、腕を通すようにして担ぐ。さて900mも行かない内に道に迷った。この次第は下記である。事前に小辺路紀行を他の人のblogで読んでいた。このパーティーは、「女人道」を行ってしまい高野龍神スカイラインに辿りついてから引き返すことなく延々と大滝の先の合流点まで歩いたと言うのだ。ここでKey Wordの「女人道」を覚えていたため、「左 女人道、右 X」 という9番の札がある道路標識で道を間違えてしまったのだ。地図を参照。実に紛らわしい。この標識は「左 小辺路、女人道、右 X」と記されるべきであったのだ。右 Xとあるが、通行止めなどで一時的なものだろうと高をくくってそのまま進んだ。案の定、門があり閉まっている。水道施設のため立ち入り禁止という。ならばがけ下にづっと続く足跡を辿っていくと、貯水施設のような原っぱに出た。幾つものバルブや貯水槽があり道がここで行き止まり。空き缶などは作業員のものであったわけである。万時窮す。なんとスタートしてから900mで万事休すとは。先の思いやられる旅となったものだ。藪こぎして先に進むこともできたが、一応引き返すことにした。こうなったからには、先人同様、高野龍神スカイラインを辿るという大回りしかないであろうと、女人道をそのまま進むことにした。本日は長旅である故1secのロスも致命傷となる。なんと、100mほど進んだ場所で再度標識が出ている。「左 女人道、右 小辺路」とあるではないか。これで遠回りをせずにすんだ。正常ルートであることを確認。2万5千分の一の地図でもこの2つの分岐を確認し安堵したものだ。あまり情報を事前に入れておくのも問題だと感じた。さすが、「小辺路」である。道幅は常に2mから1mとしっかりしたものである。トイレ道などの杣道に分け入らなければ、間違えることはない。最初の失敗は一体なんだったのか?薄峠まではなだらかなup-dowm。御殿川を渡る赤い橋のあと大滝集落の町道に登るが、キャラバンシューズがズルズルとすべりおちるほどの急坂。ほとんど垂直の道によくコンクリートを打ったものだ。この急坂が、小辺路全コースでもっと急な舗装道路であった。町道自身もすさまじい急坂である。最後の民家の前に東屋があったので大休止。スケッチを一枚。水を民家で調達。(ただしそのあと山水が出ている箇所が何か所も!)高野龍神スカイラインに合流し奈良県と和歌山県の県境を進む。奈良県野迫川村から十津川村までの小辺路は奈良県である。水ヶ峰からはスカイラインから外れ急の坂道を進んで林道「タイノ原線」をすすむ。東屋が見えた。炎天下舗装道路はきつい。ここで昼食とした。「大股」まで進んでから昼食と予想したが、最初のつまずきで時間をロスしたため敢え無く妥協。昼食は行動食(カロリーメイトやチョコのスナック菓子)。特にα米は炊かない。時間がもったいないからだ。缶詰に入ったパンをかじり、スープを沸かして飲む程度。しかし暑かったので着ている服を脱いで乾かしたり時間を有効に使う。かなり歩いたとみたがまだ行程の半分。大股到着2時。まだ5kmも残っている。登りは35分/1kmの計算。3時出発で6半着という予想。賄い付きの山小屋では考えられないくらい遅い時間帯である。全部自炊という条件では明るい内は歩けるという気安さがある。大股で40分ほど休憩。スケッチ。大滝の集落大股の集落この風景に猿がいた。電線を呑気に渡っているのである。「津田」という姓が多い。津田旅館など。上の白い看板の箇所まで一気に登って行く。この急坂が2番目の急な坂であった。本日の高度プロフィール本日の登山は伯母子岳(1344m) 大滝と大股が渓谷沿い。このためup-downが相当にある小辺路金剛三昧院のわきの小辺路金剛三昧院の右脇から小辺路に分け入る道に迷いそうになった箇所(2万5千分の地図「高野山」から)2箇所の分岐最初の分岐では「女人道」へ次の分岐では、「小辺路」へ。このあたり標識を改めてもらいたいものだ道に迷いそうになった箇所の標識「左 女人道、右 X」「左 小辺路、女人道、右 X」とすべき。小辺路という文字が見えないため迷う。徒然の記1 実際の日程太字が本blogの記述部分。過去の行程は昨日以前のblog参照。→・・徒歩 -km- 区間距離表示 8月12日(火)2日目 転軸山森林公園-2km-金剛三昧院→薄峠(995m)→丁石→大滝→高野龍神スカイライン合流→水ヶ峰分岐→林道タイノ原線→下谷(674m)→大股(ここまで17.2km)→桧峠→伯母子岳(1344m)→伯母子峠(1215m 山小屋 ここまで23.6km) 8月13日(水)3日目 伯母子峠(1215m)山小屋→三田谷橋→三浦バス停→神納川(345m)→五百瀬(いもせ 350m)→三浦峠(1065m 15km)→新道-11km-西中バス停→重里・西川第一小学校(テント泊 28.8km) 8月14日(木)4日目 重里・西川第一小学校(テント)→大津越→昴の郷(150m)→十津川温泉→平谷-(143m 公衆浴場 郵便局で荷物の送受)→櫟砂古(いちざこ)→果無村落→観音堂前の避難小屋(14km) 8月15日(金)5日目 観音堂前の避難小屋-1.1km-果無峠(1050m)→八木尾(83m)→九鬼→三軒茶屋跡(210m)→熊野本宮大社(90m)→本宮郵便局(荷物の送受)→渡瀬温泉→下湯川温泉→湯の峰温泉(公衆浴場)→廃校(旧四村川小学校)でキャンプ(21.6km) 8月16日(土)6日目 廃校(旧四村川小学校)-(バス)-新宮-(JR)-那智-那智海岸水泳-(バス)-大門坂→滝一周コースは崩落で断念→那智滝(3H 3.4km)-(車)-熊野 8月17日(日)7日目 熊野・・・・熊野大花火 8月18日(月)8日目 熊野→松本峠道→鬼ヶ城→大泊海水浴場→大吹峠道→波田須(9.5km)-(JR)-松坂 青空ライナー21:40 8月19日(火)9日目 シーティーエアターミナル YCAT 5:20着 持参地図:2万5千分の一地図・・高野山、梁瀬、上垣内(かみがいと)、伯母子岳、重里、十津川温泉、発心門、伏拝(ふしおがみ)、本宮、紀伊大野、新宮、紀伊勝浦 計12枚 イラストmap A4版11枚徒然の記2 国土交通省のハザードマップ広島の土砂災害の教訓を生かそうとハザードマップを覗いてみた。http://disapotal.gsi.go.jp/このポータルサイトには、「洪水」「内水」「高潮」「津波」「土砂災害」「火山」の公開情報が閲覧できる。作成が未遂になっているのものや、公開していない市町村も多いが、わが「相模原」はその名のごとく「さがみっぱら」であるため、これらのmapは白紙である。いかに安全な場所に住んでいるか!交通の不便さを思うにcoopで一週間分の食料が届くのでよしとしたい。今やなんの不便も感じない。Picture1(sketch-direction 44°am8:37 Sketch point:Otaki,Koyasan Town,Wakayama Pref.,JapanGPS 34.181289,135.609292(°)(34°10'52.64" N,135°36'33.45" E)標高795mPicture2(sketch-direction 165°pm2:19 Sketch point:Omata,Nozegawa Vil.Nara Pref.,JapanGPS 34.106122,135.631286(°)(34°6'22.04" N,135°37'52.63" E)標高672m
Aug 23, 2014
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熊野古道-小辺路・那智・伊勢路 回想録(その4)_story(3535)2014.8.22世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」体験記。高野山の街を散策している。この日だけで、16km余りも歩いた。すでに足は棒に近い。中学校の林間学校では2泊3日を要した高野山。見るべきものは尽きないのである。圧巻は、霊宝館。高野山の貴重な文化遺産を一手に引き受け保存・展覧(展観)する施設で大正10年(1921)に開設された。昭和36年(1961)に大宝蔵を増設し、国内の国指定物件の文化財を収蔵している。曼荼羅や仏像などが整然と並べられた歴史の空間。国宝21件、重要文化財143件、和歌山県指定文化財16件、重要美術品2件、合計182件、約2万8千点弱を収蔵し、未指定品ともなると5万点以上を数える収蔵量を誇っている。ここでは様々な仏像を拝むことができる。如来・・覚者・真理を悟った人の事=仏陀 大日如来、釈迦如来、阿弥陀如来、薬師如来など。菩薩・・覚(さと)りを求めて修行を積みつつも、大衆の救済を優先。弥勒菩薩、観音菩薩、千手観音など明王・・神秘な力を持った諸尊。真言や陀羅尼の力でもって煩悩を打ち破り、覚(さと)りの世界に導くはたらきを持つ。不動明王、八大童子など天部・・如来・菩薩や仏法、その信仰者を守護する護法善神、六道(ろくどう)(地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人・天)中の天。毘沙門天、帝釈天、四天王、摩利支天など。曼荼羅・・大宇宙の本質的なものを諸仏の配置によって表現し、感覚的・現象的に把握できるようにしたもの。いままで数々の仏を見てきたが、このように分類される。なかなか奥が深い仏教界である。さてこれらを霊宝館で勉強したあと、金剛三昧院に向かった。国宝の多宝塔がある。しかも最重要ポイントが熊野古道-小辺路がこの院の脇から始まる。そのポイントは明日の早朝出発時に通過する部分などで位置関係をよく確かめておかなければならい。これらを済ませ、本日の宿の転軸山森林公園ログハウスに向かった。台風の影響か、宿泊者は小生1人だけ。ログハウスは10畳ほどある立派な小屋が6棟。炊事場やシャワー室など完備された本格的な山小屋である。夜半、ものすごい雨。今後何日も、夜=(豪雨)、朝=(雨)、昼=(曇りまたは晴れ) というパターンが続いた。金剛峯寺-経蔵総本山金剛峰寺の全身である学侶方本山青巌寺の経蔵。江戸時代の延宝7年(1679)に再建された。徒然の記1 実際の日程太字が本blogの記述部分。過去の行程は昨日以前のblog参照。→・・徒歩 -km- 区間距離表示 8月11日(月)1日目 極楽橋(523m)→不動坂-3.8km-高野山町役場(815m)-2km- 転軸山森林公園キャンプサイト(820m)のログハウス→奥之院→大門→根本大塔→金剛峰寺→霊宝館→転軸山森林公園ログハウス泊(16.3km) 8月12日(火)2日目 転軸山森林公園-2km-金剛三昧院→薄峠(995m)→丁石→大滝→高野龍神スカイライン合流→水ヶ峰分岐→林道タイノ原線→下谷(674m)→大股(ここまで17.2km)→桧峠→伯母子岳(1344m)→伯母子峠(1215m 山小屋 ここまで23.6km) 8月13日(水)3日目 伯母子峠(1215m)山小屋→三田谷橋→三浦バス停→神納川(345m)→五百瀬(いもせ 350m)→三浦峠(1065m 15km)→新道-11km-西中バス停→重里・西川第一小学校(テント泊 28.8km) 8月14日(木)4日目 重里・西川第一小学校(テント)→大津越→昴の郷(150m)→十津川温泉→平谷-(143m 公衆浴場 郵便局で荷物の送受)→櫟砂古(いちざこ)→果無村落→観音堂前の避難小屋(14km) 8月15日(金)5日目 観音堂前の避難小屋-1.1km-果無峠(1050m)→八木尾(83m)→九鬼→三軒茶屋跡(210m)→熊野本宮大社(90m)→本宮郵便局(荷物の送受)→渡瀬温泉→下湯川温泉→湯の峰温泉(公衆浴場)→廃校(旧四村川小学校)でキャンプ(21.6km) 8月16日(土)6日目 廃校(旧四村川小学校)-(バス)-新宮-(JR)-那智-那智海岸水泳-(バス)-大門坂→滝一周コースは崩落で断念→那智滝(3H 3.4km)-(車)-熊野 8月17日(日)7日目 熊野・・・・熊野大花火 8月18日(月)8日目 熊野→松本峠道→鬼ヶ城→大泊海水浴場→大吹峠道→波田須(9.5km)-(JR)-松坂 青空ライナー21:40 8月19日(火)9日目 シーティーエアターミナル YCAT 5:20着 持参地図:2万5千分の一地図・・高野山、梁瀬、上垣内(かみがいと)、伯母子岳、重里、十津川温泉、発心門、伏拝(ふしおがみ)、本宮、紀伊大野、新宮、紀伊勝浦 計12枚 イラストmap A4版11枚徒然の記2 ミラノ会会社生活31年のなかで入社4年目でパリに派遣された。同時期にミラノやボストンに派遣された同期が一人づつ。大中小と規模が違う電算機を共同開発する国際部隊の一員として。このうちミラノに集結したのはHW,SWなど諸担当が10人以上。この業務が終結した後、同窓会的な集まりが日本で持たれていると聞いた。パリ部隊ではそのような同窓会がないのかお呼びがかからない。寂しく思っていたら、ミラノ会のメンバーで小生と同時期に派遣された友人から、誘いを受け、銀座1丁目のイタリアレストラン「 LA BETTOLA da Ochiai(ラ・ベットラ・ダ・オチアイ) 」に行ってきた。この店は知る人ぞ知る超有名店らしく半年前から予約しないと席が確保されないと聞く。そこへ潜り込ませて貰ったというのが真相である。11人が集まった。2800円コースのCメニューのランチも前菜(カルポッチョやテリーヌなど6種)、パスタ(リガトーニ、ラザニアなど9種類、)、メイン(的ダイのグリル、カツレツ、仔羊の香草グリルなど8種類)と豊富なもので、組み合わせは何と432通り。わいわい言いながら2時間ほど談笑しつつ、ワインなどで完全に仕上がってしまった。記念撮影しながら別れたが、近くの公園で酔いを醒ましつつ、金曜日レッスンのカミさんの車に便乗し帰宅。夜食はお茶漬けでも満足。あぁ、ほろ酔いの銀ブラ(日中は暑すぎたが)となった。徒然の記3 明日からのシニアライフを提案:団塊スタイル選 危ないもの忘れを見分ける)カミさんから重要事項として、E-テレ 8時からの軽度認知障害(400万人)を紹介する番組(明日からのシニアライフを提案:団塊スタイル選 危ないもの忘れを見分ける)に誘われるも小生には今のところ関係ないかもしれないといいつつ、人の名前が出てこない悔しさ!ここでは9つのチェック項目をあげていた。□この頃 もの忘れがひどいと思う 他の人からひどいと言われる□頻繁に もの忘れや探し物をする□何かしようと思っても何をしようとしたのか すぐ忘れてしまう□最近 おっくうで何事もやる気が起きない□覚えていたはずの漢字が書けないことがよくある□今日が何日だったかよく忘れる□家電製品やスイッチの操作にまごつくことが多い□会話で言葉が すらすらと出てこなくなった□字で読むことが面倒で新聞や本などを読まなくなった3つ以上にチェックが付くと軽度認知障害の疑いという。しかしこれは運動、会話、お喋り、地域活動で多数の人と関わりを持つ、幼児にむけた朗読や劇・・など脳を活性化する活動で改善できると説く。これらを聞いて、小生には今のところあまり関与しないと考えたわけだが。さて、一つ「ポーランド語」の独学がまったく頭に入っていかない焦り。これは手を動かして筆記することもやりながら何万回もrepeatしていく覚悟が必要であるかな。ポーランド語を6年以上も勉強するカミさんに頭を下げて教えを乞うべきか! 悩ましい点である。「何回言ったら分かるの?」など小言が飛んでくる事が想像できるからである。Picture1(sketch-direction 300°pm4:27 Sketch point:Kongobuji-kyouzo,Koyasan Town,Wakayama Pref.,JapanGPS 34.213675,135.583828(°)(34°12'49.23" N,135°35'1.78" E)標高826m
Aug 22, 2014
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熊野古道-小辺路・那智・伊勢路 回想録(その3)_story(3534)2014.8.21世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」体験記。高野山の街を散策している。大門から500mくらい東に、コンビニがあった。通りからすこし凹んだ場所に建てられ、前庭にテーブルなど置かれている。これはすごいおもてなし。外国人にはうってつけの休憩場所となる。並んでいる食材をレジに運ぶだけで言葉もいらず買えるのだから。10人ほどの外国人が弁当を食べながら寛いでいた。こちらもご相伴。根本大塔は高野山のシンボルである。中学時代に林間学校でここを訪れている。同じように大門から根本大塔まで歩いた記憶が鮮明に思い出される。スケッチを描いた場所に、三鈷の松があった。空海が、三鈷杵(さんこしょ)を聖地を求めて投げたところ、この位置にある松に架かったという。3葉の松という珍しい松である。散り敷いた落ち葉のいくつかは3葉であり、記念に2,3持ち帰ったが失くしてしまった。大門町の西のはずれにこの大門がある。ここからの夕日が美しいという。R480の立派な道路(高野山道路:日本の道100選)がこの大門めがけて登ってくる。観光バスもだいたいがここから町に入っていく。台風のごみを掃除するのにジェットサイクロンを使う人が居た。これがなかなかうるさい。何時間も休止することなく葉っぱなどを掃いている!これはいただけない。誰が掃除しているのであろうか。大勢の観光客がある前では止めてほしいものだ。根本大塔弘法大師空海が高野山を開創し、真言密教の根本道場とした建物。1937(昭和12)年に再建。高さ49m、約24m四方の威容を誇る。まさに高野山の中心建造物である。右は金堂の屋根を支える柱群。徒然の記1 実際の日程太字が本blogの記述部分。過去の行程は昨日以前のblog参照。→・・徒歩 -km- 区間距離表示 8月11日(月)1日目 極楽橋(523m)→不動坂-3.8km-高野山町役場(815m)-2km- 転軸山森林公園キャンプサイト(820m)のログハウス→奥之院→大門→根本大塔→金剛峰寺→霊宝館→転軸山森林公園ログハウス泊 8月12日(火)2日目 転軸山森林公園-2km-金剛三昧院→薄峠(995m)→丁石→大滝→高野龍神スカイライン合流→水ヶ峰分岐→林道タイノ原線→下谷(674m)→大股(ここまで17.2km)→桧峠→伯母子岳(1344m)→伯母子峠(1215m 山小屋 ここまで22km) 8月13日(水)3日目 伯母子峠(1215m)山小屋→三田谷橋→三浦バス停→神納川(345m)→五百瀬(いもせ 350m)→三浦峠(1065m 15km)→新道-11km-西中バス停→重里・西川第一小学校(テント泊 22km) 8月14日(木)4日目 重里・西川第一小学校(テント)→大津越→昴の郷(150m)→十津川温泉→平谷-(143m 公衆浴場 郵便局で荷物の送受)→櫟砂古(いちざこ)→果無村落→観音堂前の避難小屋 8月15日(金)5日目 観音堂前の避難小屋-1.1km-果無峠(1050m)→八木尾(83m)→九鬼→三軒茶屋跡(210m)→熊野本宮大社(90m)→本宮郵便局(荷物の送受)→渡瀬温泉→下湯川温泉→湯の峰温泉(公衆浴場)→廃校(旧四村川小学校)でキャンプ 8月16日(土)6日目 廃校(旧四村川小学校)-(バス)-新宮-(JR)-那智-那智海岸水泳-(バス)-大門坂→滝一周コースは崩落で断念→那智滝(3H)-(車)-熊野 8月17日(日)7日目 熊野・・・・熊野大花火 8月18日(月)8日目 熊野→松本峠道→鬼ヶ城→大泊海水浴場→大吹峠道→波田須-(JR)-松坂 青空ライナー21:40 8月19日(火)9日目 シーティーエアターミナル YCAT 5:20着持参地図:2万5千分の一地図・・高野山、梁瀬、上垣内(かみがいと)、伯母子岳、重里、十津川温泉、発心門、伏拝(ふしおがみ)、本宮、紀伊大野、新宮、紀伊勝浦 計12枚 イラストmap A4版11枚徒然の記2 広島土砂災害に想う痛ましい災害である。お亡くなりになった方々の冥福を心よりお祈りする。広島市安佐北区に聳える阿武山(標高586m)-鳥越峠-権現山(397m)(広島市民の信仰の山である)、安佐南区に聳える丸山(457.6m)。麓の標高は60mから30m。山頂からの距離は僅か1.2km。阿武山の場合は平均傾斜22度という強烈な山肌である。1999年の広島市佐伯(さえき)区を襲った土石流を教訓にして土砂災害防止法が成立している。ハザードマップではイエローゾーンやレッドゾーンを指定する。特に危険なレッドゾーンには宅地開発などの規制がかかる。今回の事故は、ほとんどがこのイエローゾーンやレッドゾーンで起きている。台風11,12号でもたらされた雨量に加え、今回の猛烈な雨量に山肌が持ちこたえられなかった。一気に谷筋がある急傾斜が崩落した。15年前の教訓にも拘わらず、県営住宅などがそのまま建てられている。既成事実で撤去は難しいのが実情であるし、大げさなハザードマップの公表は地価を下落させる。山裾の新興住宅地が谷の扇状地に建てられているためその一部または全部が被害を受けてしまった。しかし古い屋敷は、谷筋から一歩控えた場所に建てられており難を逃れている。今回の痛ましい災害は人災ではないかとさえ思うのだ。レッドゾーンに県営住宅があることに、県知事などの声明が聞かれない。100万都市にするため山腹の際まで住宅建設を推し進めなければならなかった市や県に責任はないのか。今後十二分に検討されたい。turbo717はいつも言っているのだ。”庭付き住宅”などの個人の要望はもう諦めなければならないのでは。都市部などに集中して20,30階建てにして収容すべきである。山際に建設することがないようにと。Picture1(sketch-direction 90°pm2:14 Sketch point:Daimon,Koyasan Town,Wakayama Pref.,JapanGPS 34.213036,135.573294(°)(34°12'46.93" N,135°34'23.86" E)標高858mPicture2(sketch-direction 180°am10:05 Sketch point:Konpondaito,Koyasan Town,Wakayama Pref.,JapanGPS 34.213333,135.579308(°)(34°12'48.00" N,135°34'45.51" E)標高843m
Aug 21, 2014
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熊野古道-小辺路・那智・伊勢路 回想録(その2)_story(3533)2014.8.20世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」体験記。小辺路(こへち 高野山→熊野本宮大社)を歩いた。ただし一般の日程ではない。第一日を高野山観光に徹している。南海高野線の終着駅「極楽橋」から徒歩で不動坂を3.8km、標高差300mの山道を進めば、女人堂が見え、ケーブル終点駅から中心街までのバス専用道路に合流する。高野七口(ななくち)とは今でも山上の街に至る道が四方八方から迫る様を表す。標高815mの高台にこれほどの街が栄えた礎は、弘法大師が密教で使う三鈷杵(さんこしょ:刃がフォークのように三本に分かれたもの)を聖地を求めて投げたことに由来する。高野山の松にひかかったからだといわれる。その松の子孫はいまでも現存し不思議にも3葉からなる。普通は2葉か5葉なのに。麓からは深い森しか見えないのに、天上は平らな空間(東西2km、南北1km)。不思議な町である。参道を進むと何百と言う院があるが、皆、台風(11号)一過の枯枝の掃除に余念がない。町役場2階に「まち未来課」がある。ここで転軸山(てんじくさん)森林公園ログハウス宿泊の手続きをする。実は安いログハウスの利用が団体客専用であったのを「1人利用」で借り受けるため役場の方が便宜を図ってくれたのである。まぁ”巡礼特別仕様”であったようだ。あまりにも直前の申し込みで振込手続きが間に合わなかったことも起因する。管理人に電話してくれ、すでにログハウス一棟はカギが開けられており、荷物を置いて散策できる手筈が整っていると聞いてくれた。ありがたや。貰ったガイドマップの地図をみると山をこえれば「奥の院」に行ける点線を見つけた。聞くと、スキー場の草むらを進めば道が分かるはずだと言う。ナップザック風の軽やかなスタイルで町を散策することにした。弘法大師御廟へは5kmほど。参道には20万基の墓があるという。石田光成の墓、肥前島原松平墓所などそれぞ重厚である。奥の院・・弘法大師御廟撮影禁止領域である。ガイドもここからは喋れない。ツアー客も帽子を脱いでしめやかに進んでいく。奥の院・・汗かき地蔵奥の院 中の橋の脇この汗かき地蔵は世の中の人々の苦しみを身代わりになり、一身に受けているので、いつも汗をかいていると伝えられる。お堂の右側に「姿見の井戸」がある。この井戸を覗きこんで自分の顔が映らなければ三年以内に死んでしまうと言われているのだとか。さらに、昔の人はこの水で目を洗えばどんな眼病も治ったと言われている。高野七不思議のひとつ。鬱蒼と聳える杉の巨木がお堂を守るようだ。徒然の記1 実際の日程太字が本blogの記述部分。前日までの行程は昨日以前のblog参照。→・・徒歩 -km- 区間距離表示 8月11日(月)1日目 極楽橋(523m)→不動坂-3.8km-高野山町役場(815m)-2km- 転軸山森林公園キャンプサイト(820m)のログハウス→奥之院→大門→根本大塔→金剛峰寺→霊宝館→転軸山森林公園ログハウス泊(16.3km) 8月12日(火)2日目 転軸山森林公園-2km-金剛三昧院→薄峠(995m)→丁石→大滝→高野龍神スカイライン合流→水ヶ峰分岐→林道タイノ原線→下谷(674m)→大股(ここまで17.2km)→桧峠→伯母子岳(1344m)→伯母子峠(1215m 山小屋 ここまで23.6km) 8月13日(水)3日目 伯母子峠(1215m)山小屋→三田谷橋→三浦バス停→神納川(345m)→五百瀬(いもせ 350m)→三浦峠(1065m 15km)→新道-11km-西中バス停→重里・西川第一小学校(テント泊 28.8km) 8月14日(木)4日目 重里・西川第一小学校(テント)→大津越→昴の郷(150m)→十津川温泉→平谷-(143m 公衆浴場 郵便局で荷物の送受)→櫟砂古(いちざこ)→果無村落→観音堂前の避難小屋(14km) 8月15日(金)5日目 観音堂前の避難小屋-1.1km-果無峠(1050m)→八木尾(83m)→九鬼→三軒茶屋跡(210m)→熊野本宮大社(90m)→本宮郵便局(荷物の送受)→渡瀬温泉→下湯川温泉→湯の峰温泉(公衆浴場)→廃校(旧四村川小学校)でキャンプ(21.6km) 8月16日(土)6日目 廃校(旧四村川小学校)-(バス)-新宮-(JR)-那智-那智海岸水泳-(バス)-大門坂→滝一周コースは崩落で断念→那智滝(3H 3.4km)-(車)-熊野 8月17日(日)7日目 熊野・・・・熊野大花火 8月18日(月)8日目 熊野→松本峠道→鬼ヶ城→大泊海水浴場→大吹峠道→波田須(9.5km)-(JR)-松坂 青空ライナー21:40 8月19日(火)9日目 シーティーエアターミナル YCAT 5:20着 (歩行・・117.2km total)持参地図:2万5千分の一地図・・高野山、梁瀬、上垣内(かみがいと)、伯母子岳、重里、十津川温泉、発心門、伏拝(ふしおがみ)、本宮、紀伊大野、新宮、紀伊勝浦 計12枚 イラストmap A4版11枚徒然の記2 まくわ瓜の収穫余りに暑いので、2階の書斎にあるエアコンのスイッチをついにオンとした。しかし一向に冷房の効果が上がらない。フィルターを掃除した。今いち。そこで室外器を見に行った。なんと、蔦がまつわりつき、シソ科のメドーセイジが覆いかぶさるようにして空気循環を悪くしていた。ふと見ると、栽培が難しいとされる、マクワウリが7,8個たわわに実っているではないか。油粕を最初に入れておいたことと、ネットを立てたこと、徒長ツルをつまんだぐらいである。さっそくその一つを採取。御味は・・淡泊。もうすこし熟させよう。収穫したマクワウリPicture1(sketch-direction 340°pm12:17 Sketch point:Gokurakubashi-bridge,Koyasan Town,Wakayama Pref.,JapanGPS 34.222717,135.605872(°)(34°13'21.78" N,135°36'21.14" E)標高822mPicture2(sketch-direction 106°am12:56 Sketch point:Asekaki-jizo,Koyasan Town,Wakayama Pref.,JapanGPS 34.227986,135.585350(°)(34°13'3.4" N,135°36'11.8" E)標高811m
Aug 20, 2014
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熊野古道-小辺路・那智・伊勢路 回想録(その1)_story(3532)2014.8.19世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」体験記。昨年の大峯奥駈道に続いて、今年は小辺路(こへち)を体験した。ついでにと考えた小雲取越え・大雲取越え(中辺路の一部)は気力が持たずパス。那智滝と熊野大花火、伊勢路を少し歩き本日(8/19)早朝帰宅した。下界は暑すぎてうだるようである。本日19日の関東は雲一つない大快晴。紀州の旅をスケッチを入れて回想していく。*****************************大阪環状線の新今宮駅で南海本線に乗り換えるも、SUIKAなどのカードは使えずすべて現金だと言う。自販機でも同じで現金しか扱えないと言う。この時代に!窓口では行き先は「高野山」ではないのかと駅員が何度も聞き返す。橋本で南海高野線乗り換えて終点「極楽橋」に向かう。ここからケーブルと専用のバスで中心街の「高野山」までアクセスするのが一般。こちらは「極楽橋」から徒歩で中心街に向かうと説明してやっと納得してもらった。標高差300mの不動坂を歩きたいのである。これは昨年の大峯奥駈では「吉野」からケーブル(千本口→吉野山)で向かうところを3駅前の吉野川河畔にある六田(むだ)駅で下車し、柳の宿~第69靡(なびき)を見学してから川を渡って山を登って行った経験になぞらえている。極楽橋から外に出ていく客は皆無と見えて道は寂れている。「極楽の森」にかかる急傾斜の道を登っていく。前日の11号台風の影響で、枯枝或いは生木が沢山散り敷き道を塞でいた。このあと小辺路の全行程でも同様。ケーブルの軌道をくぐったあたりからさらに道が荒れ始める。コンクリの道以外に、ほんとうの旧道もあるが、こちらはリュックが重いためパス。ずっと舗装の道を行く。(車輛は町に入る手前で崩落があり通行禁止となっていた)極楽橋右上が、南海高野線の終点「極楽橋」道は手前が行き止まりとなっている。橋を左に渡って「極楽の森」に分け入る。不動坂途中にある清不動堂不動坂途中にあるお堂。お堂の右側に旧道が伸びている。手前は橋でコンクリの道が右方向に続いている不動坂は高野七口(こうやななくち)と言われる七つの入口の一つに通じている。各入口には、西暦1872年(明治5年)女人禁制が解かれるまで、高野山に入れない女性の為に参籠所が設けられていた。高野山境内に入るところに女人堂があるが、このお堂の1kmほど先。徒然の記1 実際の日程太字が本blogの記述部分。→・・徒歩 -・・km表示 ・・バスなど8月11日(月)1日目 極楽橋(523m)→不動坂-3.8km-高野山(815m)-2km- 転軸山森林公園キャンプサイト(820m)のログハウス→奥之院→大門→根本大塔→金剛峰寺→霊宝館→転軸山森林公園ログハウス泊 8月12日(火)2日目 転軸山森林公園-2km-金剛三昧院→薄峠(995m)→丁石→大滝→高野龍神スカイライン合流→水ヶ峰分岐→林道タイノ原線→下谷(674m)→大股(ここまで17.2km)→桧峠→伯母子岳(1344m)→伯母子峠(1215m 山小屋 ここまで22km) 8月13日(水)3日目 伯母子峠(1215m)山小屋→三田谷橋→三浦バス停→神納川(345m)→五百瀬(いもせ 350m)→三浦峠(1065m 15km)→新道-11km-西中バス停→重里・西川第一小学校(テント泊 22km) 8月14日(木)4日目 重里・西川第一小学校(テント)→大津越→昴の郷(150m)→十津川温泉→平谷-(143m 公衆浴場 郵便局で荷物の送受)→櫟砂古(いちざこ)→果無村落→観音堂前の避難小屋 8月15日(金)5日目 観音堂前の避難小屋-1.1km-果無峠(1050m)→八木尾(83m)→九鬼→三軒茶屋跡(210m)→熊野本宮大社(90m)→本宮郵便局(荷物の送受)→渡瀬温泉→下湯川温泉→湯の峰温泉(公衆浴場)→廃校(旧四村川小学校)でキャンプ 8月16日(土)6日目 廃校(旧四村川小学校)-(バス)-新宮-(JR)-那智-那智海岸水泳-(バス)-大門坂→滝一周コースは崩落で断念→那智滝(3H)-(車)-熊野 8月17日(日)7日目 熊野・・・・熊野大花火 8月18日(月)8日目 熊野→松本峠道→鬼ヶ城→大泊海水浴場→大吹峠道→波田須-(JR)-松坂 青空ライナー21:40 8月19日(火)9日目 シーティーエアターミナル YCAT 5:20着持参地図:2万5千分の一地図・・高野山、梁瀬、上垣内(かみがいと)、伯母子岳、重里、十津川温泉、発心門、伏拝(ふしおがみ)、本宮、紀伊大野、新宮、紀伊勝浦 計12枚 イラストmap A4版11枚Picture1(sketch-direction 340°am9:12 Sketch point:Gokurakubashi-bridge,Koyasan,Wakayama Pref.,JapanGPS 34.234050,135.581828(°)(34°14'2.58" N,135°34'54.58" E)標高558mPicture2(sketch-direction 180°am10:05 Sketch point:Seifudodo,Koyasan,Wakayama Pref.,JapanGPS 34.227986,135.585350(°)(34°13'40.75" N,135°35'7.26" E)標高673m
Aug 19, 2014
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熊野古道-小辺路・中辺路・伊勢路(その8 完結編) _story(3531)2014.8.18今日は"伊勢路"を行く。 昨夜の熊野大花火大会は熊野市駅から海岸通りに出て高い防潮堤に幾つか開けられたトンネルを通り抜けて砂利の広い海岸に出た場所が観客席。聞くと8/12に区画が決定する前から場所取りのバトルがあるようである。町ごとにいくつかの割り当てもあるという。大阪などの遠方からの人は桟敷の空いた場所に誘い入れられて座われたりするようで、皆至って寛大である。よその花火のように本数を競う花火大会ではない。海上の自爆や岩稜の地爆や音を競う。3尺玉は直径600mの花が咲く。これが半円形である。度肝を抜かれる。鬼ヶ城、防潮堤、獅子岩の3カ所からの3重の反響を楽しむのである。花火の歴史は300余年。鬼ヶ城に仕掛けられた最後の花火。どうもこれがクライマックスで、音がいかにすごかったかを話し合う。我々は7番トンネルのほぼ最前列。鬼ヶ城からは遠い。これでは防潮堤からも遠く音が3重になって聞こえなかったといって次女婿殿の父親は悔やむ。しかしこちらは初めての大花火である。十二分に楽しめた。さて、伊勢路は松本峠道(熊野市駅→大泊)、鬼ヶ城跡、桜の散歩道、鬼ヶ城散策、大吹峠道(大泊→波田須 はたす)を歩くことにする。 それでも時間が余るため、大泊海岸で3時間ほど遊泳することとした。これが凄かった。穴場の海水浴場である。綺麗な砂浜。遠浅の海岸。熊野宮川の河口部ではさらに浅く乳幼児たちが水浴びをする微笑ましい風景。魚も泳ぐ。久々の夏らしい快晴の空、波の揺らぎが海底の砂浜に映りみごとな造形。何時間潜っていても飽きがこない。しかも海面の温度は温いのに下部はひんやりとしており実に気持ちが良い。コッヘルでお湯を沸かして昼食を取る。波田須駅(無人駅 ここで旅装束をい着替え車中の人となる)発15:51の亀山行きワンマン列車に乗り、松坂下車。長い旅は、前半地獄、後半天国の9泊10日の旅になろうとは! 明日からスケッチを添えた何時ものblogになります。回想録形式となります。松坂の高速バス停より。 徒然の記1 熊野巡礼次の予定で熊野を旅している。太字がその日の行程。前日までの行程は前日以前のblog参照。 8月18日(月) 熊野-鬼ヶ城・・・大泊-波田須(はたす)-松坂 青空ライナー21:40 8月19日(火) シーティーエアターミナル 5:20着 予定。☆☆太田 宏★★
Aug 18, 2014
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大峯奥駈道その他の熊野古道・・story(3191)2013.9.12橋杭岩 朝のシーンハロン湾のように岩礁の小島が海に浮かぶ。この橋杭岩 総延長が850mと言うので驚く。map左図はスケッチpointのGPS軌跡 右図は工程図回想録総覧2013年8月3日から15日まで、世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」を12泊13日で巡ってきた。絵日記として綴ってきたものを下記に総覧する。(スケッチ画は計58枚)第1章 大峯奥駈道2013.8.03 1日目・・六田・柳の渡し→下千本→吉野山→奥千本口→青根ヶ峰→薊岳→四寸岩山(1235.8)→二蔵宿小屋 その1 柳の渡し その2 吉野山2013.8.04 2日目・・二蔵宿小屋→大天井ヶ岳(1438.9)→五番関→洞辻茶屋→山上ヶ岳(1719.3)→覗きなど一小笹の宿 その1 西の覗き その2 山上ヶ岳2013.8.05 3日目・・小笹の宿 →阿弥陀ヶ森→大普賢岳(1780.1)→七曜岳→行者還岳(1546.5)→行者還小屋→一の垰(タワ)→聖宝ノ宿跡→弥山(小屋泊) その1 大普賢岳 その2 弥山2013.8.06 4日目・・弥山小屋→八経ヶ岳(1915.1)→明星ヶ岳(1894)→舟の垰(タワ)→楊枝の森→楊子の宿小屋→仏生ヶ岳→孔雀覗→橡(えん)ノ鼻→0:45→釈迦ヶ岳(1799.6)→深仙小屋 その1 楊枝の森 その2 橡(えん)ノ鼻2013.8.07 5日目・・深仙小屋→太古ノ辻(ここから南奥駈)→天狗山→嫁越峠→地蔵岳(子守岳 1464)→ヒクタワ(乾光門)→涅槃岳,(1376.2)→証誠無漏岳→持経ノ宿避難小屋→平治ノ宿→転法輪岳→倶利伽羅岳→行仙岳→行仙宿山小屋 その1 太古ノ辻 その2 行仙岳2013.8.08 6日目・・行仙宿山小屋→笠捨山→葛川辻→(巻き道)→香精山(1120.9)→塔ノ谷峠→蜘蛛ノ口→ 花折塚→カツエ坂→玉置山→玉置神社泊 その1 笠捨山 その2 花折塚2013.8.09 7日目・・玉置神社→本宮辻(玉置辻)→大森山(1078)→切畑辻→五大尊岳(825m)→大黒天神岳(573.6m)→吹越宿跡(325m)→吹越峠→七越峰→備崎→0:35→本宮郵便局(熊野本宮大社) その1 玉置神社 その2 大黒天神岳第2章 その他の熊野古道 川の熊野古道、瀞八丁、伊勢路、中辺路、大辺路2013.8.10 1日目(通算8日目)・・熊野本宮大社、本宮町→バス→志古→瀞峡探勝ウォタージェット→田戸で途中下船→河原で休息→10:00→東野トンネル→観光筏下り出発地→おくとろ温泉「きたやま」→おくとろ公園キャンプ場 その1 熊野本宮大社 その2 志古 その3 田戸2013.8.11 2日目(通算9日目)・・おくとろ公園キャンプ場(和歌山県北山村)→大沼→竹原→七色峡→七色ダム→大井谷トンネル→熊野市 五郷(いさと)町 その1 大沼 その2 七色ダム2013.8.12 3日目(通算10日目)・・休息日 五郷町 石神神社(クスノキの巨木)、カヤノキ(巨木) 午後 七里御浜→獅子岩→花の窟(いわや)→丸山千枚田 その1 五郷 その2 丸山千枚田2013.8.13 4日目(通算11日目)・・五郷町→JR熊野市駅→JR→新宮→熊野速玉神社→佐藤春夫記念館→西村記念館→阿須賀神社→王子神社→王子ヶ浜→(熊野古道)→高野坂(こうやざか)→三輪崎駅→JR→那智→那智海水浴場 その1 熊野速玉神社 その2 高野坂2013.8.14 5日目(通算12日目)・・那智海水浴場(浜ノ宮 那智津浦海浜公園)→那智駅前→(バス)→熊野那智大社、青岸渡寺→大門坂→尼将軍塚供養塔→補陀洛山寺(ふだらくさんじ)→那智駅→JR→串本→3km徒歩→橋杭岩公園(テント泊) その1 熊野那智大社 その2 大門坂2013.8.15 6日目(通算13日目)・・橋杭岩公園 その1 橋杭漁港 その2 橋杭岩旅装旅の行程を2つに分け、服装を変えている。「第1章 大峯奥駈道」は所謂「山ガール」スタイルの男性版で、長袖、長タイツに半そで、半ズボンという出で立ちでダニやヒルを避ける姿として皮膚を露出しない完全防衛態勢。登山靴を履く。第2章 その他の熊野古道は、平地スタイルとして、半袖、機能タイツに半ズボンという出で立ちとして、トレッキングシューズを履く。道路からの太陽の反射を避けるために原則サングラス着用とした。国土地理院の2万5千分の1の地図を9枚持ち、それを1/16に折畳みポシェットに入れて置いた。昭文社の「山と高原地図」(山岳map)との併用で行程はほぼ迷うことなく進めた。コンパスは必携。山道は直線でなく、複雑に紆余曲折するため途中で方向感覚を失う。このためコンパスは必携である。すぐ手元にあるようにしておく必要がある。ポシェットは必携。X字形のたすき掛けできるようなタイプも良いだろう。背中にバックルの突起がくると、リュックを背負った時に身体に当たるため予め調整しておく。カメラなどもリュックにしまわずにポシェットなどから取り出せるようにしていおく。また落下防止のため、紐はポシェットに固定しておく。財布などもしかりである。ただ「お札」は湿気で濡れないように2重チャック付きのビニールケースに忍ばせておく必要がある。水は小出しできるように、リュックから担いだままで取り出せるタイプがいいだろう。トレールランで担ぐ水(給水パック+チューブ)では、残量が分からず失敗する。常に水の分量を確認しながら少しづつ飲めるタイプのものがお勧め。水、装備荷物の量は変わらないが、「第1章 大峯奥駈道」では水は常に3Lを確保。「第2章 他の熊野古道」では水は容易に手に入るため1L未満とした。オフ(歩かない時間)の時間が長いためサンダルを携帯。荷物のチェンジは本宮で行った。予め郵便局に「局留め」で送り、預かってもらっておいた。薬・・足のトラブル対応・・豆用のクッション、バンテリンなどの筋肉痛対応薬品、救急絆創膏など。虫よけスプレーや殺虫剤(アブにはほとんど効果なし。空中に散布してもすぐ拡散するので効き目なし)皮膚に止まってから叩き落とすのが一番。)宿代避難小屋や山小屋では募金箱があれば一泊千円を箱に入れる。弥山小屋は一般の営業山小屋で8千円程度。玉置神社はさんろう(参籠)費用として6千円程度。道の駅・・15時半など閉店時間が早いので注意(那智駅前、おくとろ)登山者山では、登山客にほとんど会わず、平地でも、リュックを担いで歩く人は皆無であった。熊野奥駈道はよほど過酷な旅と見えて、山道はほとんど一人旅であった。要所要所に避難小屋が充実しており、修験者用に提供されている。Picture1(sketch-direction 80°am6:26 Sketch point:Hashigui-rocks,Kushimoto town,Wakayama Pref.,JapanGPS 33.484708,135.790669(°)(33°29'4.95" N,135°47'26.41" E)標高2mGoogle Earthを楽しむ方法Blogに掲載されている画像はすべて場所名、方位、時刻、GPS情報と標高を付けています。このうちGPS情報(ex. 35.645569,139.615544(°)など)を、Google Earthのジャンプboxに貼り付けて検索ボタンをクリックすると、スケッチした場所に飛ぶことが出来ます。
Sep 12, 2013
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橋杭岩その2・・story(3190)2013.9.11都心散歩今日は都心を縦断した。東京都美術館で9/9から9/16まで開催されている「東京展 美術の祭典2013」を見たあと、銀座1丁目のギャラリー小柳で開催中のジャネット・カーディフ&ジョージ・ビュレス・ミューラーの「Experiment in F#Minor(嬰へ短調の実験)」を体感した。作品に近づくと72個のスピーカーから嬰へ短調の調べが奏でられる作品。30分くらい居ただろうか。その後は有楽町に移動して3D映画「ワールド・ウォーZ」を見て、新宿へ繰り出した。サラ文(サラリーマン文化芸術振興会)の主催する「第2水曜に集まろう会」に出席するためである。途中登山スポーツ店に寄り、テントのフレーム修理が直ったので受け取る。連なっているフレームであるが破断した3本のみを交換してくれたので安上がりであった。集まろう会では、二科展に出品した写真家、バリ島から一時帰国の方など多彩な顔ぶれに圧倒。合言葉は「2020まで生きよう! まぁ、目標ができて良かった。熊野古道・第2章 回想録(6日目 最終日 その2)橋杭岩 近傍熊野古道 第2章6日目(通算13日目 最終日)の行程 その2(最終号)橋杭岩公園→橋杭漁港→橋杭岩→橋杭海水浴場→串本駅→新大阪→自宅熊野古道第2章 最終 最後の最後になってクラゲに刺されケロイド状の傷跡が残った。午後3時台の「特急くろしお」で新大阪に向かう予定。それまで随分時間がある。浜辺で涼を取るため、海で過ごすことにした。浜辺で休みながら時々海に入りCoolind downを図る。この時である、少しくらいの痺れはいままでもあtった。那智海岸でもヒリヒリする痛みは経験していた。大したことが無かった。ところがその強烈な痛みに飛びあがったくらいだ。クラゲである。売店のおじさんも、姿が見えないのでお手上げという。おそらく点在するブイの周りが怪しい。ブイの紐あたりに猛毒のクラゲないしはその影武者が潜んでいるのではないだろうか。電気ショックのような一瞬の衝撃の後、鮮やかなマークを残していった。どうもあちこちで幼児達が泣き叫んでいるのもクラゲのせいなのかも知らない。海水浴客の半分は服を着て泳いでいる。紫外線防止のためと思ったがどうもクラゲ対策であったようだ。しかし楽しそうに遊んでいる。免疫が出来ている人達かもしれない。橋杭岩 近傍(その2)干潮の時は、橋杭岩 近傍に歩いて行くことができる。写真:カヌー教室彼らは、午前と午後に開かれて洋上で特訓をうけるカヌー教室のメンバー。リュックなどを置きおた東屋で説明を受け、2人一組や1人でカヌーに乗って大島あたりまで漕いで行く。写真:トルコ軍艦(エルトゥールル号)殉難の記念碑大島の東端の樫野崎灯台そばにエルトゥールル号殉難将士慰霊碑がたっている。日本とトルコの友好関係の始まりと考えられている。エルトゥールル号遭難事件は、1890年(明治23年)9月16日夜半、台風のため座礁し水蒸気爆発で沈没。587名の死者、行方不明者がでた海難史上最悪の事態となった。島の人達に助けられた人は69名。町と在日本トルコ大使館の共催による慰霊祭も5年ごとに行われている。写真:紀勢線 特急くろしお>これに乗って紀州をあとにする。この列車、新大阪や京都へ直通の便である。天王寺→新大阪。なんと大阪駅をパス。ということは貨物線を通って大阪市内を北上していく。新大阪はお盆で大変な混雑。4月に出来たばかりという27番線ホームで、新横浜に向かう。真っ新なホームである。従来のホームよりも2,3m高い場所にあって新大阪駅全体を見渡せる。Picture1(sketch-direction 83°am5:28 Sketch point:Hashigui-rocks,Kushimoto town,Wakayama Pref.,JapanGPS 33.484708,135.790669(°)(33°29'4.95" N,135°47'26.41" E)標高2mPicture2(sketch-direction 90°am7:11 Sketch point:Hashigui-fishers port,Kushimoto town,Wakayama Pref.,JapanGPS 33.485936,135.792489(°)(33°29'9.37" N,135°47'32.96" E)標高3mGoogle Earthを楽しむ方法Blogに掲載されている画像はすべて場所名、方位、時刻、GPS情報と標高を付けています。このうちGPS情報(ex. 35.645569,139.615544(°)など)を、Google Earthのジャンプboxに貼り付けて検索ボタンをクリックすると、スケッチした場所に飛ぶことが出来ます。
Sep 11, 2013
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熊野古道 大門坂を下る・・story(3188)2013.9.9オリンピック東京招致 プレゼンテーションいや驚いた。プレゼンテーションの素晴らしさ。仏語、英語交えての挨拶やプレゼンテーション。安倍総理も流ちょうな英語で笑顔を振りまき、ジェスチャーで語りかけた。IOC委員のすべてが感動をしたのではないだろうか。国会答弁もこのように紙を見ないで行って欲しいものである。まず高円宮妃久子さんの流ちょうな仏語に度肝を抜かされた。マドリード陣営からすると予想外の皇族である。セレブが多いIOC委員のハートを掴んだんのではないだろうか。パルス状の映像が一貫して流れていくので、全員のプレゼンテーションが一塊になって盛り上がっていく。太田雄貴選手もよかった。将来のIOC委員の風格を持っている。さてこうなればIOC委員からしてみればただ一言懸念材料として浮上していた「汚染水問題」にたいして「大丈夫!」と言ってもらえればそれでいいのだ。皆な放射線の専門家ではない。質問時間においてそこへ総理が具体的な数字を2,3あげ「国家をあげて保証する。」と言った時IOC委員全員が安堵したのだ。もうそれで十分であった。総理の説明のあと、拍手が起こったくらいである。オールジャパンで臨んだIOC招致活動が勝利した。明日火曜日午後6時55分から都庁前で祝賀パーティーが予定されている。 オリンピアンの太田 雄貴選手 パラリンピアンの佐藤 真海選手が登場する。さて、たった7年間で東北の復興、スタジアムの建設、福島の収束を図っていかなければならない。どえらいことになった。日本人が得意とする「箱もの」の建設はお任せあれ。しかし震災復興はいかがする。人・物が東京に集中し始めたら、東北はどうなることか。いや東北・東京が最優先とあらば、他地域が枯れてしまわないか。へんな心配をし始めた。「予算がないので、年金を減らします!」というお触れが近いうちに回ってくるだろう。さらに心配なのが熱中症対策。オリンピックは夏休みにやらなくてはならなくなってしまっている。年々暑くなる日本。2020年7月24日(金)~8月9日(日)の 真夏対策は? あぁ、心配事ばかりであるが、チャンスがピンチを生み、そのピンチをチャンスに変えていく。良いスポイラルが回り出せばよいのであるが。熊野古道・第2章 回想録(5日目その2)熊野那智大社から大門坂へこの坂を上がった記憶がないのである。ひょっとして昔は、最上部にある駐車場までバスが通っていたのではないだろうか。それであれば平面を進むだけで熊野那智大社や青岸渡寺に到達できたのである。一方通行だったとしたら、この階段を降りたのかもしれない。世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」を12泊13日で巡ってきました。第2章5日目(通算12日目)の行程 その2熊野那智大社、青岸渡寺、(熊野古道 中辺路(なかへじ))・8kmくらい・大門坂→尼将軍塚供養塔→熊野古道→補陀洛山寺(ふだらくさんじ)→那智駅→JR→串本→橋杭岩公園(テント泊)「熊野古道を歩こう」とのキャッチフレーズで、最も簡便に体験できるコースが「大門坂」である。鬱蒼とする杉並木は、ほぼ直線状で165mくらいの高度差がある場所を石段を踏みしめて昇り降りする。今回初めてこのコースを下山ルートとして選んだ。リュックをしょっているので、あたかも高野山あたりから南下してきた旅人にも見えたであろう。那智駅までは旧道が続いている。五地蔵さんがあって、ここから運命の2つのコースに分かれる。平地で明るい県道を行くか、山を登って行く尼将軍塚供養塔のコースうぃ選ぶか。ここではもっとも古道らしい供養塔のコースを選んだ。これがけっこうきつい。結局2kmほどの険しい山道の遠回りとなってしまった。途中竹林があった。これこそが昔ながらの道であったのであろう。終盤に「補陀洛山寺(ふだらくさんじ)」がある。これは補陀洛渡海信仰の根本道場である。遠く南海の彼方に浄土があるという海上信仰で、補陀洛山寺のある浜の宮から渡海のために船出、綱を解く場所、出帆する場所であった。寺はその儀式を行う所であった。具体的には60歳の11月の北風が吹く日を選んで夕刻行われた。帰らぬ人となった渡海上人の墓が裏山にひっそり残されている。そのような海岸であった那智の砂浜は、家族連れの海水浴客で賑わっている。昨日乗ったJRの同じ便で串本まで歩を進めよう。それまではのんびりこの海岸で水泳をして鋭気を養うこととした。勿論昨日の寝た場所の藤棚はほとんど占有されてしまっている。道の駅で買った昼ごはんに合わせるようにスープを作る。いまでは全てフォー(ベトナム料理の食材で麺)のスープである。これがなかなか旨い。吉野からのリュックに10袋あったものである。さて、串本へ移動したら驚いた。結構な町である。回転すし屋、スーパー、コンビニなどあらゆるものが揃っている。テント生活に合うような食材をしこたま買い込んで、橋杭岩公園まで歩く。真っ暗闇となったが、国道沿いを痛い足を引きづりながら歩く。テントは、フレームが壊れているので立体にはならないが、蚊などをよけるためには最適な”完全防備の衣類”である。ペシャンこなテントに寝袋を入れて眠る。しかし、あ、暑すぎる。まさに”熱中症”である。たまらなく、結局ベンチに寝袋を敷きそこに潜り込む。蚊よけのスプレーを10分置きにかけなければならなかったが。橋杭岩が見えないものの、岩一個一個に電燈が灯されているようである。それが家屋に灯された電燈のようにも見える。果たしてここが橋杭岩の景勝地なのか皆目わからないまま夜が更けていく。熊野古道ー大門坂写真:大門坂入口写真:尼将軍塚供養塔から浜の宮へ(竹林)鬱蒼とする竹林。海が近いはずなのに、最後の最後までこのように視界が悪い。Picture1(sketch-direction 180°am8:30 Sketch point:Nachitaisya steps,Nachikatuura-town,Wakayama Pref.,JapanGPS 33.669514,135.891047(°)(33°40'10.25" N,135°53'27.77" E)標高302mPicture1(sketch-direction 266°am9:10 Sketch point:Daimonzaka,Nachikatuura-town,Wakayama Pref.,JapanGPS 33.671061,135.89069(°)(33°40'15.82" N,135°53'49.45" E)標高168mGoogle Earthを楽しむ方法Blogに掲載されている画像はすべて場所名、方位、時刻、GPS情報と標高を付けています。このうちGPS情報(ex. 35.645569,139.615544(°)など)を、Google Earthのジャンプboxに貼り付けて検索ボタンをクリックすると、スケッチした場所に飛ぶことが出来ます。
Sep 9, 2013
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ついに結願 熊野那智大社・・story(3187)2013.9.8オリンピック東京招致と今朝の失敗!朝の5時20分 2020オリンピックの東京招致が決まった。数日前の韓国による8県(海のない栃木県も含まれているというので笑止千万である)の魚介類全面輸入禁止はなんだったのだろう。福島の汚染水問題を引いてのことであろうが、誘致妨害のつもりだったのだろうか。前回の東京オリンピック(1964年)は小生のもっとも暗い日々であった。そう、19歳でありながら、2浪中のわが身であった。TVをこそこそ見ては試験勉強に明け暮れていたのだ。次回はなんと76歳。あぁ、私の青春を返してほしい。さぁ、これからフランス語と英語とスペイン語をやり直そう。ペラペラになっておいてボランティアをしたいものだ。あぁ、食いしん坊の小生が失敗をしでかした。ダイニングの脇にオーディセットがある。その上に食器の小皿が2つ、水を張って並べてあった。ソファーでは長女が寝ている。最近「あまちゃん」のVideoを見に土曜日ごとに家に来て泊まるようになっている。そのまま寝てしまう癖がついているのだ。日曜日はオケに行かなくてはならないため、早めの朝食を食べている。そっと静かに食器を片づけた。オーディオセットのテーブルにあった皿も台所に持ち運び、水を全部捨てて、洗って乾かした。外出の準備のため2階へ移動。「行って参ります」と言おうとしたらやけに騒がしい。娘が、コンタクトが無いと騒いでいると。なんと、水が張ってあった小皿にはコンタクトが入っていたのだと。4万円もする上物と言うではないか。幸い台所の水はネットを通して下水に流れる仕組みとなっているためどこかにある筈である。こちらは時間がないので出かけなければならない。母娘必死の形相で探していた。電車に乗っていると携帯へメールが入り見つかったという。しかしキズがついているのかは定かではないと。あぁ、何と言うことか。最初、何か丸い透明なものが浮いていたので、「ナタデココ」ではないかと思ったくらいだ。甘い水にでも浮いているのではと、水を舐めたり匂いを嗅いでみたり。なんのことはない普通の水であった。最初は飲んでしまおうかと思ったくらいだ。氷菓子を冷蔵庫から出して食べたあとであろうかとも。どこまでも無知であった。カミサンからは、「わざわざ、置いてあるのにどうして捨てたの?」と。今後は「不信に思ったらそのままにする。」を徹しなければならないだろう。「捨てる」ということはなかなか難しいのである。熊野古道・第2章 回想録(5日目その1)熊野那智大社から那智の滝「那智四八滝修業」があるほど背後の那智山は多くの滝を有する。世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」を12泊13日で巡ってきました。第2章5日目(通算12日目)の行程 その1那智海水浴場(浜ノ宮 那智津浦海浜公園)→那智駅前→(バス)→熊野那智大社、青岸渡寺、滝見物→(熊野古道 中辺路(なかへじ))・8kmくらいの山道・大門坂→尼将軍塚供養塔→熊野古道→補陀洛山寺(ふだらくさんじ)→那智駅→JR→串本→3km徒歩→橋杭岩公園(テント泊)那智海岸(浜ノ宮 那智津浦海浜公園)で一泊した後、目と鼻の先にある那智駅へ水を汲みにいくと、驚いたことに、駅の階段のわずかなステップに同じような一人用のテントが張ってある。その人もテントを出て水を汲みに行くところであった。浜で会ったときに聞いてみると、初めての土地で様子が分からなかったという。昨晩遅く到着したようである。なんと、剱岳から穂高まで北アルプスを縦走してきた帰り道という。八王子市高尾にお住まいの方で同じ年らしい。痩せているので、仙人の風貌がある。これから高野山まで歩いていきたいとおっしゃる。長いことずっと家を空けての放浪のような感じの人である。こっちも似たようなものだ。お互いに奥さんから見放されているのであろうか?熊野那智大社への一番バスは6時47分発。3人くらいが乗り込んだ。先ほどの人はまだ海岸にいる。このお寺、記憶ではこんな階段があったのかとおもうほど天を突く階段を上って初めて熊野那智大社の境内にいたる。大滝が見える場所は、いつもそばに親父やお袋がいた。懐かしい。40-50年のブランクがあるからである。前後の記憶はまったく飛んでいるのだが、大滝が見える場所は1箇所しかないのでよく覚えている。那智の滝の源流は、那智山をふくむ広大な流域。それらの水量をすべて集めて日本一の滝が流れ下る。この上に一の滝、二の滝がある。ただ直根をもたない杉、ヒノキの植林と林道とによって山林が荒れ始めているという警鐘がなっている。その西の丘陵が中辺路で小雲取山を経て熊野本宮大社に向かっている。熊野那智大社熊野夫須美神(ふすみ)が主神で、本地は先手観音である。本宮・新宮同様に熊野12社を祀るが、加えて那智一の滝を地主神として滝宮に祀り、13社としている。明治の神仏分離で完全に神道化された。写真:青岸渡寺西国三十三所観音霊場の第一番目の寺である。明治のはじめに起こった廃仏毀釈でも統合されずに、存続し熊野那智大社と青岸渡寺とが並存している。お寺自身も相当古く1590年建造で520年の歴史を重ねる。本尊は如意輪観音。大峯奥駆道の再開は、この寺より始まる。昭和63年に、順峰として、那智山から、熊野本宮大社→玉置神社→前鬼に向かった。高木副住職と、新宮山彦ぐるーぷの玉岡憲明氏他3人であった。毎年大峯奥駈は、那智山から吉野山を4回にわけて実施しており、参加者は150名を越えるとのことである。新宮の佐藤春夫記念館の受付の女性は、この青岸渡寺の住職の娘さんである。Picture1(sketch-direction 54°am7:30 Sketch point:Nachinotaki,Nachikatuura-town,Wakayama Pref.,JapanGPS 33.643614,135.936856(°)(33°40'9.56" N,135°53'23.75" E)標高347mPicture1(sketch-direction 256°am8:17 Sketch point:Nachinotaki,Nachikatuura-town,Wakayama Pref.,JapanGPS 33.643614,135.936856(°)(33°40'9.56" N,135°53'23.75" E)標高347mGoogle Earthを楽しむ方法Blogに掲載されている画像はすべて場所名、方位、時刻、GPS情報と標高を付けています。このうちGPS情報(ex. 35.645569,139.615544(°)など)を、Google Earthのジャンプboxに貼り付けて検索ボタンをクリックすると、スケッチした場所に飛ぶことが出来ます。
Sep 8, 2013
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三輪崎漁港、那智漁港・・・熊野古道・第2章回想録(4日目その2)_story(3186)2013.9.7Violaの先輩で地域介護ステーションを経営されている女性がおられる。新しい社屋と事業所を統合した建物の落成記念パーティーの開催の連絡をもらった。玄関先の掃除人として雇ってくれないかしらという気持ちもこめてさっそく近くなのでマラソンで見に行った。往復で14kmあったが、本宅からは近い。なかなか瀟洒な建物で明るい空間が確保されている。将来利用するかもしれないがまずはおめでとうと言うメッセージをスケッチ付きで送っておいた。昨日の日記は1万2千字を越えていた。まぁよくも長々と書いたものである。今日は短めにいこう!熊野古道・第2章 回想録(4日目その2)高野坂稲荷山から三輪崎漁港の方向展望台があるというので、熊野古道を離れ延々1kmくらい歩いただろうか。小さな祠があり猫が一匹番をしていた。海岸をスケッチ。大峯奥駈道を歩いているときから夢にまで見た海。スケッチするとき手摺りにサングラスを掛けた。すっかりこれを忘れ2,3km先の三輪崎へ。そこでサングラスを思い出し、再度ここまで往復。疲れた!世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」を12泊13日で巡ってきました。第2章4日目(通算11日目)の行程 その2高野坂(こうやざか)→三輪崎駅→JR→那智→那智海水浴場(那智津浦海浜公園、浜ノ宮)テント泊地方を歩いていてつくづく思うのは、なんと静かな環境であろうか。お祭りなどに出くわさなければ平々凡々の生活が送られているからである。逆に言ええばお祭りの時に再度出直さなければ本当の町の様子は分からないのである。だって祭りに1年をかけているとあらば、普通の日にブラブラと歩いても真の様子はつかめない。祭りの準備や練習風景などを特定の場所へ見に行かない限り、静かな、だれも通っていない町だけを見ることになる。新宮がそうであった。2月6日にお燈祭り(おとうまつり)が行われる神倉神社へ行かなければ2000人の男衆に会えないし、お盆の日の花火大会を丹鶴(たんかく)城から見なければ川面の夜景の素晴らしさに感嘆することはない。そういう意味で、やはり1年を通じてその場所にとどまらなければ真の姿を見ることができない。旅の難しいところである。中辺路(なかへじ)として新宮から高野坂(こうやざか)経由で三輪崎駅まで8kmくらいを歩いている。これは日本カミーノ・デ・サンティアゴ友の会の会報冊子で、熊野古道が紹介されており丁度この道がイラスト付きで出ていたから記憶していた。地図は新宮駅の観光センターでもらっている。冊子にあった地図とは若干異なるがこちらもイラストマップとなっている。新宮から隣駅の三輪崎までは、子供の頃は、線路道を行ったものである。海岸伝いでは断崖があるので不可能。さりとて国道は遠回り。ということで短いトンネルが連なる海外沿いの線路道を歩いて宇久井(うぐい)海水浴場などに行った記憶が甦る。当然今なら許される行動ではないが、昔の少年のガキ大将は、朝飯前であった。当然大阪から帰省している身としてはそれに従うまでである。今はそれを思い出しつつ、しんどい峠の道を重いリュックを担いで登っていく。このあたりは、鉄道の線路が最短コースなのである。近世の「熊野古道」が明治・大正以降の線路敷設工事で「線路」になってしまった部分もあり、歩道としては大きく迂回を余儀なくされる。三輪崎駅のすこし手前は、昔を想いだし線路を歩いて見た。ぞくぞくとする恐怖感と近道を急ぐという行為が重なった。単線であるため、だいたい10分に一本は上下で列車が通過する勘定である。午後4時台は途絶えていたようである。17時14分発の紀伊田辺行普通に乗って、那智まで移動。那智到着17時29分。古道を行っても面白かったとは思うが夕闇がせまっている。那智の駅裏の「浜ノ宮」でひと泳ぎしなければ!昔は駅の裏手がすぐ海岸で、浜へ出て泳いだものだ。いまは立派な津浦海浜公園が出来ており、防波堤の役割を負っている。藤棚が20棚 くらい並んだ長い公園。日中は日影を作り、家族が寛いでいた筈である。19時くらいまで泳いでいたがそろそろテントを張らねばならない。キャンプ、バーベーQは禁止の公園である。夕闇に隠れるようにして藤棚の下にテントを張る。実はこれが敗因であった。テントの2脚を藤棚の柱に固定し、残り2脚はペグで固定。浜風が吹いたときにテントにいかかる力のバランスが悪くなり、午前4時ころバサッと音がしてフレームが複雑骨折(3箇所)してしまったのである。あと1日残して、大変なことになってしまった。那智漁港の朝日テントが壊れて意気消沈。5時38分。雲っていた空にやっと太陽が顔を出した。この海浜公園は朝も早く散歩する人たちがいる。悠長にテントで寝ておれない事情もあり壊れたテントのフレームを四苦八苦しながら折畳み片づけにかかる。写真:高野坂(こうやざか)の海線路が真下を通る。しかし青い海は昔からの眺めであろう。写真:高野坂の熊野古道石畳や石の階段が残っている。こういう光景をみると本当の「熊野古道」という感じがする。これに対して大峯奥駈道は、木の根っこをつかみながらの登攀の数々でであった。Picture1(sketch-direction 216°pm4:060 Sketch point:MIwasaki fishers-port,kouyazaka,Singu City,Wakayama Pref.,JapanGPS 33.695019,135.991494(°)(33°41'42.07" N,135°59'29.38" E)標高28mPicture2(sketch-direction 90°am5:38 Sketch point:Tsura-beach,Hamanomiya,Katuura-town,Wakayama Pref.,JapanGPS 33.643614,135.936856(°)(33°38'37.07 N,135°56'12.68" E)標高4mGoogle Earthを楽しむ方法Blogに掲載されている画像はすべて場所名、方位、時刻、GPS情報と標高を付けています。このうちGPS情報(ex. 35.645569,139.615544(°)など)を、Google Earthのジャンプboxに貼り付けて検索ボタンをクリックすると、スケッチした場所に飛ぶことが出来ます。
Sep 7, 2013
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熊野速玉大社・・・熊野古道・第2章回想録(4日目その1)_story(3185)2013.9.6今朝は9時半から臨戦態勢。小生はカミサンの携帯で、10時3秒前に電話を掛ける係りである。12月13日(金!)に開催される演奏会のチケット予約をしようとしているのだ。会員は割引制度があるため安く買えるのだが、先行発売のサービスが一切ないホールである。一般も同時に受付が始まる。アクセスが集中するため即完売が予想される。ぬかる訳にはいかない。すでに30分前に試に電話してある。笑ってしまった。コンピュータの声で「まだ受け付けていません!」という声が返ってくるものと思ったが、男性職員が電話に出てしまった。「あのぅ。ブレハッチの予約はまだですヨネ?」と言い訳をしつつ、「はい。10時からとなっています。」と分かりきった声が。まだ「チケット受けつけモード」に切り替わっていなかったのかしら。というわけで、小生の方は「リダイヤル」機能で、プチと真ん中のボタンを押すだけである。電話が相手に繋がるまでには実験で3秒ほどかかることが判明している。よって電波時計が9時59分57秒にさしかかった瞬間にボタンを押すことにした。傍らでカミサンはパソコンにかじりついている。もう1時間も前から。会場のホームページでは、会員しか入れないページがすでに開いている。「更新」ボタンを1sec前に押すという裁断である。9時59分59秒となった。よる年波、手元が狂い、0.5秒遅かった。なんとその瞬間、「ただいまネットが混んでいて繋がりません。」というメッセージ。カミサン悲鳴を上げる。ネットでは同時に500名くらいが繋いだもよう。2分後には会場の真ん中部分がすでに予約で満席となっていた。さて、小生のほうは、10:00ジャストに電話が繋がった。男声の声であったので先ほどの男性かもしれない。それをカミサンに渡す。かようにしてパソコンでは取れなかったチケットが、携帯のほうで無時チケットを1枚 ゲットできた。10時2分。小生は今日の大役を終えて、2階に移動。後ろからカミサンが「有難う!」と。ここで、調べてみた。インターネット回線でも加入しているのが一次プロバイダー(OCNやNifty)か、二次以下かで、Speedや、busy状態が違ってくるというのだ。地方の無名のプロバイダーの場合は孫請けとなるため遅いのではないかということである。さて、神奈川のJ:comはどっちであろうか。このあたり電話のほうが確実なのかしれない。いずれにしろ、10:00:00(今の場合は、時報の10時で受付開始の場合)から行動を起こしてはダメだということである。繋がるまでの時間を見越して早めにアクセスしなければならない。熊野古道・第2章 回想録(4日目その1)新宮市 熊野速玉神社 境内熊野速玉大神(くまのはやたまのおおかみ)と熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)を主祭神とする神社で熊野三山の一つ。靡(なびき)では第3靡にあたる。境内には新宮市の市の木「梛(なぎ)」の巨木が植わっている。この神社の始まりは、権現山と呼ばれた千穂ヶ峯(253m 速玉大社の裏山)の南端にある神倉(かんのくらorかみくら)で、ゴトビキ岩という巨石があり古代の祭地であった。奈良時代に現在の場所に移された。新宮の名の起こりである。現在、神倉神社には高倉下命(たかくらじのみこと)が祀られている。2月6日に行われる「お燈祭り(おとうまつり)」では2000人もの「上り子」たちが松明をかざして538段の石段を駈け降りる。巨大な火の帯が出現する。世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」を12泊13日で巡ってきました。第1章として大峯奥駈道(吉野川柳の渡し→熊野本宮大社)6泊7日の旅、第2章として下記の伊勢路、川の熊野古道、外辺路、中辺路、大辺路といった大峯奥駈道以外の熊野古道を6泊6日で探索した。それを回想する。、第2章4日目(通算10日目)の行程五郷町→車(15km)→JR熊野市駅へ移動→JR→新宮→熊野速玉神社→佐藤春夫記念館→西村記念館→「新宮山彦ぐるーぷ」の方のお宅→阿須賀神社→王子神社→王子ヶ浜→(熊野古道)→高野坂(こうやざか)→三輪崎駅→JR→那智→那智海水浴場(那智津浦海浜公園、浜ノ宮)テント泊(ここでテント壊れる親戚の人の見送りを戴いて、新宮行の列車が出発。気恥ずかしい。この新宮には会合わなければならない人たちがわんさかとおられるのだ。行程にずいぶんと記述した。当初は五郷町から最寄の大泊(おおどまり)駅まで15kmほどを歩く予定であったが、新宮での時間を取りたいと言うことと、足の豆のためこの区間は車で送って戴くことにしたのだ。「さんまの歌」で有名な文化勲章受章者佐藤春夫(1892.4.9 - 1964.5.6)はこの新宮で生まれ、文京区で亡くなっている。文京区にあった邸宅を新宮市に移し佐藤春夫記念館となっている。場所は何と、熊野速玉大社の敷地の中である。この館長をされている方が従兄弟の奥さんの親戚に当たる。訪ねると館長直々に、館内を案内してくださった。谷崎潤一郎(1886.7.24- 1965.7.30)の奥さんを譲り受ける形で結婚した事件(「細君譲渡事件」)など詳細な研究発表の冊子もお土産に戴いた。この館長が薦めるのが次なる西村記念館である。西村伊作(1884.9.6- 1963.2.11)が設計した邸宅が記念館となっている。与謝野鉄幹、晶子らと文化学院を創設した。氏は、奈良県十津川村の森林の大部分を持っていたという森林王でもある。豊な財力をもって、教育につぎ込んだが、一方建築家でもあり、さらに画家でもあったという。西村記念館の館長が、これから「新宮山彦ぐるーぷ」事務局で世話人のOさんと会に行くのだというと電話をしてくれたり。この町では皆が知り合いなのかと驚いてしまう。道行く人にスタミナをつけるために「かつ丼」を食べたいと言うと2,3人が寄ってきて相談を始めた。焼肉ならボリュームたっぷりの店が駅の北側にあると教えてくれたり。なにか「鶴瓶の家族に乾杯」を地で行く展開となりつつある。「新宮山彦ぐるーぷ」(1974.4.28発足-)事務局のOさんとは、大峯奥駈道で会っているのである。持経ノ宿(じけいのしゅく)で、冷たいジュースやお茶を貰った方である。彼らの活躍は、「世界遺産 熊野古道」(文 坂本勲生、写真 南川三次郎、朗読CD 嵐圭史)、伊勢路を中心とした「熊野古道-世界遺産を歩く-」(文 川端守、写真山本卓蔵)や、「大峯奥駈道75靡」(森沢義信)の本で紹介されている。大峯奥駈道の内、南半分(太古の辻(前鬼口から上り詰めるとこの辻に至る)から熊野本宮大社)までの道を整備し(赤テープを結わえたり、危険個所にロープを張ったり)、山小屋(持経宿、平治宿、行仙宿)を建てて維持管理し、飲み水をタンクに入れ、トイレを清掃し、那智の青岸渡寺が年4回催す順峰修行の宿や食事の準備など諸々の事を続けている団体である。2004年の世界遺産認定の原動力になっている。相談役は80歳代で今も元気な玉岡憲明さんである。このOさんの近くに小生の伯父の家がある。ガソリンスタンドの向い側でもある。奥さんの親戚がづっとこのガソリンスタンドを経営されている。何とこんな関係であったのである。寄寓もよいところである。このO氏、車で、王子神社まで道案内をしてくれる。熊野古道が速玉神社からづっと続いているというのだ。中辺路の一部である。(田辺→熊野本宮大社→川の熊野道→熊野速玉大社→那智・補陀洛山寺→熊野那智大社→雲取峠→熊野本宮大社(一周))。(熊野古道)→高野坂王子ヶ浜から見た高野坂。3kmはある海岸線。誰も泳いでいない。深いので遊泳禁止になっているとのこと。写真:八咫烏「熊野牛王符」(くまのごおうふ)は、この烏文字で出来ている。熊野三山でいうと、88匹を使って書かれているのが熊野本宮大社。72匹が那智、48匹が速玉神社である。八咫烏を小さくして文字の「つくり」にしている。厄除けの護符として売られている。全国にある熊野神社でもこの八咫烏を見ることができる。サッカー日本代表のマーク写真:西村記念館Picture1(sketch-direction 280°am10:00 Sketch point:Kumanohayatamataisya,Singu City,Wakayama Pref.,JapanGPS 33.732217,135.983872(°)(33°43'55.98" N,135°59'1.94" E)標高12mPicture2(sketch-direction 200°pm3:05 Sketch point:Ojigahama,Singu City,Wakayama Pref.,JapanGPS 33.706697,135.996072(°)(33°42'24.11N,135°59'45.86" E)標高5mGoogle Earthを楽しむ方法Blogに掲載されている画像はすべて場所名、方位、時刻、GPS情報と標高を付けています。このうちGPS情報(ex. 35.645569,139.615544(°)など)を、Google Earthのジャンプboxに貼り付けて検索ボタンをクリックすると、スケッチした場所に飛ぶことが出来ます。
Sep 6, 2013
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丸山千枚田(棚田百選)、花の窟・・・熊野古道・第2章回想録(3日目その2)_story(3184)2013.9.5今日、「東京マラソン2014」の事務局からメールが入った。8月31日に締め切られた応募は、一般エントリーが30万3千。一般枠は3万人であるので10.3倍の競争率である。3万5千人枠のうち、他の5千人は別枠のようである。9月26日に抽選結果が、メールで送られるということである。2014年は、NYCマラソン(5年ごとに走っている)の年なので、東京が当たれば2月と11月にフルマラソンということになる。さあ、明日から練習だ。今朝は激しい雷で京王線がstopした。これにびびった分明日から基本的に毎日走る!100mでもよいとしよう。カミサンが買った「5分で痩せる。階段step」は結局使われていない。促すと1分だけ疑似階段を踏み終えた。毎日続けるというのが難しくなってきた。楽な目標で行こう。熊野古道・第2章 回想録(3日目その2)五郷町 湯谷川の景観本宅と別宅は山越えならば直線で1.1km。車道で2.5km。なかなかいいロケーションにある。湯谷川をスケッチ。セキレイの種類であろうか、腹の青い鳥が石に止まった。この上流や、下流域に泳ぐ場所がある。この地域の人達の遊び場が大又川であり、支流の湯谷川である。世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」を12泊13日で巡ってきました。第1章として大峯奥駈道(吉野川柳の渡し→熊野本宮大社)6泊7日の旅、第2章として下記の伊勢路、川の熊野古道、外辺路、中辺路、大辺路といった大峯奥駈道以外の熊野古道を6泊6日で探索した。それを回想する。、第2章3日目(通算9日目) その2親戚の家に泊まらせてもらっている。その2日目。湯谷川で泳いだりして午前中を過ごしたのち、昼食の用意ができるまでと、時間をもらって近くの清流でスケッチ。めはり鮨(熊野地方に伝わる高菜を巻いたおにぎり・・大きく口を開けて食べる時、目を張る様子から「めはり」という。玉置神社でも昼食用にと握ってくれた。)、茶粥などの用意ができた。皆で食べる。ここの御嬢さん、茶がゆコンテストのジュニア部門で優勝している。お父さんも負けてはいない。朝から茶がゆを仕込んでおいてくれた。これがなかなか美味いのだ。天然の鰻も仕掛けておいてくれたらしい。釣果が思わしくなくお預け。奥さんの方はこの鰻を捌けるという。この家族、大峯奥駈道で林道と交差した地点にあった「持経ノ宿」近辺にもキャンプをしによく行ったものだという。なんという素敵な家族であろうか。”自然”がいっぱいの家庭。午睡したのち、海岸線へ繰り出した。8/17には熊野大花火大会があるという。七里御浜にそって見物席が仕立てられていた。ここの花火はすごいという。なにせ海上から花火が上がるのである。近くにある鬼ヶ城を冠した「鬼ヶ城大仕掛」は、爆発した花火が扇状に開き、轟音が響きわたる。周囲の山々に反射して音響がすごいのだと。直径600mに広がる大花火! 夜は昨夜に続いてペルセウス座流星群を堪能。川の字にウッドデッキに寝そべる。5分に一回くらい誰かが歓声を上げる。流れ星が流れていなくても歓声をあげるものだからややこしい。楽しい家族である。丸山千枚田(三重県熊野市)棚田100選には、三重県から丸山(熊野市)、深野(松阪市) 坂本(亀山市) が選ばれている。丸山には1340枚の棚田があるという。段数はおよそ100段。熊野古道が近くを通る。展望台からの景色。背景の山は瀞八丁の北にある小杉山(702m)。若干明るく開けている右の方向に七色ダムがある。千枚田の中を下の方に縫う道を我々は帰っていった。写真:獅子岩熊野古道の伊勢路は、険しいリアス式の海岸線を南下するが、木本の町から新宮までの25kmにわたっては、広々とした景色が続く。幅30mの砂浜が延々と続く。この七里御浜に面して岩山が屹立する。獅子岩もその一つ。太陽や月がこのライオンの口に入る特定日がありカメラマンで混雑するという。写真:花の窟(はなのいわや 熊野市有馬町)神々の母である伊弉冊尊(イザナミ ノミコト)と、火神・軻遇突智尊(カグツチノミコト)を祀る。神殿はなくこの大きな岩が御神体となっている。世界文化遺産。毎年2月と10月の2回、例大祭が行われる。御縄掛け神事である。日本一長いともいわれている約170mの大綱が岩窟上45m程の高さの御神体から境内南隅の松の御神木に渡される。この神事は、太古の昔から行われており「三重県無形文化財」に指定されている。Picture1(sketch-direction 180°pm12:10 Sketch point:yunotani-river,Isatocyo,Kumano-City,Wakayama Pref.,JapanGPS 33.994389,136.058756(°)(33°59'39.8" N,136°3'31.52" E)標高319mPicture2(sketch-direction 0°pm5:25 Sketch point:Kayanoki,Maruyama senmaida,kiwacyo,Kumano-City,Wakayama Pref.,JapanGPS 33.872911,136.956378(°)(33°5222.48" N,135°57'22.96" E)標高303mGoogle Earthを楽しむ方法Blogに掲載されている画像はすべて場所名、方位、時刻、GPS情報と標高を付けています。このうちGPS情報(ex. 35.645569,139.615544(°)など)を、Google Earthのジャンプboxに貼り付けて検索ボタンをクリックすると、スケッチした場所に飛ぶことが出来ます。
Sep 5, 2013
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五郷町で休憩・・・熊野古道・第2章回想録(3日目その1)_story(3183)2013.9.4大雨カミサンが銀座で「書」を鑑賞するのだとして9時半に出かけた。ところが1時間もしないうちにトボトボと帰ってきた。一緒に行くはずの友達が大雨で家から出れないのだと言ってという。携帯で話している間にも雷が落ちた音がしたと。こちらはポツポツとした雨である。局地的なものだろうか。我が家は近くに丹沢山系があり、相模川が流れ、河岸段丘を形成する起伏の激しい場所にある。昨日の雷雲もこの丹沢を避けた形で北側を東の方向に移動して行った。関東平野のど真ん中で起こりやすい竜巻などの異常気象が起こりにくいのではないかと考える。となれば都会の辺縁に住むのもまんざらではないかと考えるのだ。しかし富士山の爆発は困るのであるが。熊野古道・第2章 回想録(3日目その1)五郷町 石神神社のクスノキ大又川の支流、湯の谷川の谷間に、1本の大クスノキが立っている。案内板に、古老からの伝承として、「クスノキは千年たつと枝が地につくようになる」との話が紹介されている。まさにこのクスノキも、その域に達しようとしているように思われた。巨樹の根方の穴に、ひすい色のきれいな石がすえられている。 この木の穴のなかにはもっと大きな石がある。木の根っこが成長して石を抱きかかえてしまっている。もともとはその石が石神神社のご神体ではないだろうか。不思議なエネルギーが流れる神社である。世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」を12泊13日で巡ってきました。第1章として大峯奥駈道(吉野川柳の渡し→熊野本宮大社)6泊7日の旅、第2章として下記の伊勢路、川の熊野古道、外辺路、中辺路、大辺路といった大峯奥駈道以外の熊野古道を6泊6日で探索した。それを回想する。、第2章3日目(通算9日目)の行程休息日として1日の丸々の余裕。午前中・・・五郷町 石神神社(クスノキの巨木)、カヤノキ(巨木)などの観光スポットを探索。湯の川の清流で水泳。午後遅く・・熊野市街に出る。→七里御浜、獅子岩、花の窟(いわや)、丸山千枚田 夜・・前夜に続いてペルセウス座流星群を堪能2年前、まだ家に車が2台あった時の話である。マイカーをねぐらにして、世界遺産のうち伊勢路(伊勢神宮→熊野速玉大社間、このうちツヅラト峠道、荷坂峠道、馬越峠道など世界遺産登録箇所16道)を歩く計画を立て、さらに瀞八丁の玉置山口→玉置山、熊野本宮大社、十津川温泉という歩行ルートを計画していた。五郷町へは国道42号線の道の駅に車を止めてrunningなどと、奇想天外な計画。これが台風12号の影響で中止におちいった。十津川温泉の女将からも電話で道路寸断の影響で営業が出来ないとの連絡が入っていた。その時でも、新宮と本宮を巡るためには、どうすべきかなど悩んだものだ。花の窟の先にある「立石の道標」から、内陸を行く「本宮道」と、海岸を行く「浜街道」の2つに分かれる。このうち「本宮道」がとてもややこしくインターネットでもなかなか検索できない。横垣峠(2011.9の風水害で通行禁止)→坂本→風伝峠→・・・(ほぼ311号沿いとは思うのであるが、瀞には出ず、紀和町の山の中を進み、楊枝の渡し(ジェット船の発着場「志古」の対岸の集落「楊枝」)で熊野川を渡り、山に登って熊野本宮大社に向かうのであるが地図が明確ではない。この道にある風伝峠から熊野古道を離れ、「通り峠」を経由して「丸山千枚田」に遠回りする道が、ハイキングコースとして登場する。しかしながらこの部分は世界遺産のルートではない。ただこれも吉野に向かうという壮大な行程であれば、玉置口への近道となるため採択する方法もあった。この休憩期間で、川の熊野古道のことをもう少し考察してみよう。熊野川左岸で三重県紀宝町鮒田から紀和町小船までの21kmが世界遺産として登録されている。川端(川丈)街道である。この区間に県道が昭和45年に全通したため街道自身は寸断されてしまっているが。ダムが建設されるまでは熊野川、北山川とも水量は豊富で、材木は筏で新宮まで運ばれた。筏師は帰りは自分の竿一本持ち、川端(川丈)街道を登っていった。道の駅おくとろがある大沼はその筏師の故郷である。材木は、2種類の方法で筏に仕立てられる。メガ筏(メガ穴という穴をあけてネジ木で結合)とカン筏(材木を繋げる紐(ノタリ)を渡して鉄の楔であるカンを打ちこんで固定)である。明治22年に新宮に当時日本一の17000坪の貯木場ができ材木が水路で運び込まれた。船下りは1日ががかり(宮井から新宮まで、古来の川の熊野古道)であったが、帰りは3人ほどが2日かかりで曳航したという。大正6年(1917)アメリカ人飛行士アート・スミスが新宮河原において飛行機で新宮市内を一周するという離れ業を行った。これを見た川船の船夫であった29歳の鳥居丈之助は、飛行機のプロペラを推進力として使えないかと思い立ち材木商の小西正一の支援を得て、1919年1月に試運転に成功。このときの船は長さ13m、幅1.5m、20人乗りであった。このプロペラ船は昭和43年まで使われた。昭和14年に、新宮ー宮井間にバスが運行され、熊野川は観光客を乗せたプロペラ船、荷物を載せた団平船、陸ではバスやトラックが走り水運と陸運が併存し栄えた。昭和39年に筏がトラックに変わり、昭和43年にジェット船が志古と瀞八丁を往復するようになりほとんどは陸上交通にとって代わられた。小生が幼少のころ、帰省しては、熊野川河口で遊んだものである。川に浮いていた貯木場でも遊んだ。遠くのほうにある明かりを目指して一気に潜水するのである。また鉄橋の橋桁の深い所を利用して飛び込みの肝試しをしたものである。いまではそのどれも禁止事項であろうが。その当時の新宮にはパルプ工場がいくつもあり強い匂いをまき散らしながら栄えていた。五郷町 かやの木園のカヤの木(天然記念物)カヤは裸子植物の一種で樹高20-25m、直径2mにもなる常緑高木。雌雄異株、これは雌株。日本の温暖帯で広く分布。材の優秀性(均質・美麗・碁将棋の最高級材)、種子の多様途(食用・薬用)の関係から大木は非常に少なくなった。絵ではすこし分かりずらいが、右の家屋の庭から傾いている木がカヤの木。樹高は6mで止まっているが幹周4.5mもあり、6本の分枝は四方に広がり25m四方に及ぶ大樹冠を形成している。写真:石神神社の鳥居湯の谷川に沿った道路に面して立つ。鳥居をくぐると、鬱蒼とする樹木の中で、クスノキの大木が目に飛び込んでくる。Picture1(sketch-direction 264°am9:50 Sketch point:Ishigami-shrain,Isatocyo,Kumano-City,Wakayama Pref.,JapanGPS 33.994389,136.058756(°)(33°59'39.8" N,136°3'31.52" E)標高319mPicture2(sketch-direction 271°am10:45 Sketch point:Kayanoki,Isatocyo,Kumano-City,Wakayama Pref.,JapanGPS 33.997767,136.056781(°)(33°59'51.96" N,136°3'24.41" E)標高365mGoogle Earthを楽しむ方法Blogに掲載されている画像はすべて場所名、方位、時刻、GPS情報と標高を付けています。このうちGPS情報(ex. 35.645569,139.615544(°)など)を、Google Earthのジャンプboxに貼り付けて検索ボタンをクリックすると、スケッチした場所に飛ぶことが出来ます。
Sep 4, 2013
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奥瀞-筏下り・・・ 熊野古道・第2章回想録(1日目その3)_story(3180)2013.9.1今日の日曜練習はベートヴェン「運命」。2管編成ということで、ファゴットの名手が4名も揃い、非常に贅沢な練習内容となった。トレーナーはI氏。♪ダ・ダ・ダ・ダーンという有名なフレーズが何百回も出てくる曲であるが、長いフレーズになってもそれを感じながら弾けば、際だってくると。今年は2年に一度の第九を開催する年でもあり、10月に運命を聴いて、12月に第九を聴くというセッティングになっている。今回のチラシのキャッチコピー(毎回テーマーを一言で表現している)はそれを表現したものとなった。すなわち、「運命」作曲時は、耳が聞こえなくなる時期でもありこの「苦難」を突きぬけて第九の「歓喜」に至れとするもので、「ベートヴェン 歓喜にいたれ」になった。10月13日(日)府中の森芸術劇場で演奏するが、今回の公演は府中市芸術文化祭実行委員会主催の行事のため無料である。なんと我々は恵まれているのか!熊野古道・第2章 回想録(1日目その3)葛川大橋と田戸橋<笠捨山を源流とする葛川が瀞八丁に注ぐ。渓谷は深い。国道168号線が頭上に大きくかかっている。断崖絶壁の村落田戸からは坂道でこの168号に合流。国道はこの手前に長大な瀞峡トンネルがある。世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」を12泊13日で巡ってきました。第1章として大峯奥駈道(吉野川柳の渡し→熊野本宮大社)6泊7日の旅、第2章として下記の伊勢路、川の熊野古道、外辺路、中辺路、大辺路といった大峯奥駈道以外の熊野古道を6泊6日で探索した。それを回想する。、第2章1日目(通算8日目)の行程本宮町→バス→志古→瀞峡探勝ウォタージェット→田戸で途中下船→河原で休息→10:00→東野トンネル→有蔵トンネル→小松トンネル→小森トンネル→観光筏下り出発地→13:00→(11km)→おくとろ温泉「きたやま」→おくとろ公園キャンプ場田戸の船着き場は瀞八丁のうち、下瀞と上瀞の境にあり、浅瀬になった場所に設けられている。普通なら、途中休憩のあと再度乗船し上瀞を遊覧したのち始発駅の志古に戻る。よって田戸で下船してしまうと、上瀞を見ることができない。1番船に乗客が1人だったものだから船は、そのままUターンして帰って行った。このあたり上瀞を少しだけサービスしてくれてもよさそうであるが・・。さて、田戸の部落は断崖絶壁の上にあるため、急な階段を標高差にして50mほど登り詰めなくてはならない。「こんなところで途中下船してどうするのですか。車はあるのですか?」「はい、大峯奥駈道縦走の帰りで、徒歩で奥瀞に向かうのです。」という会話は交わされたのは初めてではないだろうか。皆 驚愕していて顎を開いたまま次の言葉がでてこない。しかし、売店の人の忠告は正しかった。水は半分にしろ。途中で石清水がほとばしっている箇所が2箇所あると。これは嬉しかった。瀞峡トンネルという長大なトンネルを抜けてきたばかりの国道169号線は、次なる東野トンネルに突入する。葛川が瀞峡に合流するのであるが、葛川大橋というこれまた長大な橋が葛川を跨いでいる。この葛川を遡ると上葛川に行きつく。大峯奥駈道の笠捨山を源流とする。巻き道で苦労した場所の谷が上葛川であった。感慨無量である。田戸橋という支線の橋を登っていくとこの長大な橋の袂に行きつく。さて、いよいよここから本格の歩行が始まる。リュックは重いままであるが幾分は軽くなっている。水が少ない分である。土道と違ってアスファルトの道が続く。瀞峡が見え隠れする国道は絶景の連続。歩道はないものの走行する車も少ない。谷筋を跨ぐ箇所には必ず水がある。楽々と水をgetできたのが、大峯奥駈道と違う所であろう。数多くのトンネルのうち一つだけ小森トンネルのみが歩道がなく、省エネのため間引いて点灯している天井灯のため薄暗く、ヘッドライトを点けなければならなかった。途中 乗客を満載したバスに何回もあった。皆こっちを見ている。手を振ったりと。後で分かったことだが、瀞峡は、東野トンネルを抜けたあたりから北山峡に名前を変えていており、道路も「筏師の道」となっている。この箇所が観光筏下りの場所で、道の駅「奥瀞」から5kmほど下流にあたる。その発着場や下船場と、奥瀞の道の駅との往復を行っているバスであった。ジゴ、オトノリ、黒淵など急流があり、小松展望台から一望することができる。道の駅に正午過ぎに到着。レストランで何日ぶりかの白いご飯を頂く。朝鮮人参を漬けた30年物のビンがあったので所望すると、30ccくらいで千円という。まぁ高い!半分にしてもらって水割りとしたがスタミナがついただろうか? さて、この食堂で1時間くらい粘った。午後1時過ぎで、誰も居なかったが、そのうち客が入りだしたので、その間隙をぬってスマホで溜まっていたblogの更新を7日分くらい一気に行った。本宮で電波を得たがblogを更新する気力がなかったのである。いつもリュックが荷物になってしまっていけない。表にゴロンと置いておいても持って行く人はいないだろうか。道の駅に併設されていた、[「おくとろ温泉きたやま」ではリュックを預かってあげるという。2時間ほどカウンターの横に「でん」と置いておいてくれた。しばし温泉で休養である。夕刻にテントを張って寝るだけである。それまで何もすることがない。温泉で2時間もいたため身体がふやけてしまった。露天風呂で寝そべっている間にチクチクするのでみたら小さな蟻が小生を食べているのである。なんとしたことか。油断もすきもないものである。蟻の通り道となっていたのであろうか。通り道が塞がれたために起こそうとしていたのであろう。テントはオートキャンプ場の外れに。川でカヌーなどのラフティングを楽しむ若人が大勢集まっていた。ここは小森ダムが下流にあるため水量が豊富で池のようになっておりボートを浮かべる好適地なのである。夜は満天の星。お休みなさい。 筏下りの発着場観光筏下りの発着場黒淵あたり。奥瀞は淵が多く、急流となっている。3隻が止まっているが、乗客は救命胴衣をつけて立って乗る。両側に手すりがついている。おくとろ公園キャンプ場の夕焼け手前にあるのは、小生のテントである。公園は、北山川が小森ダムで堰き止められている場所にあり、大きな池となっている。カヌーやボート遊びができ、この上流の七色峡ではラフィティングも楽しめる。そういった場所の宿泊拠点がこの基地がおくとろ公園キャンプ場全員車。リュックで歩いてきているのは小生1人。あぁ、なんということか!写真:瀞八丁・田戸田戸の村落から、瀞八丁を見下ろす。50mの断崖にへばりついている村落である。国道からは村に降りて行く道が3本も通じている。そのうちの一つは、上瀞を跨ぐ吊り橋「山彦橋」に通じている。浅い川をどんどん遡上していく。Picture1(sketch-direction 0°am10:42 Sketch point:kuzukawa-bridge,Tado-Bridge,Totsukawa-vill.,Nara Pref.,JapanGPS 33.914342,135.881542(°)(33°54'51.63" N,135°52'53.55" E)標高125mPicture2(sketch-direction 211°pm12:24 Sketch point:Kurofuchi,Ikada,Totsukawa-vill.,Nara Pref.,JapanGPS 33.933228,135.919844(°)(33°55'59.62" N,135°55'11.44" E)標高115mPicture3(sketch-direction 211°pm12:24 Sketch point:Okutoro-Park,Kitayama-town,Kurofuchi,Ikada,Totsukawa-vill.,Wakayama Pref.,JapanGPS 33.938539,135.948983(°)(33°56'18.74" N,135°56'56.34" E)標高127mGoogle Earthを楽しむ方法Blogに掲載されている画像はすべて場所名、方位、時刻、GPS情報と標高を付けています。このうちGPS情報(ex. 35.645569,139.615544(°)など)を、Google Earthのジャンプboxに貼り付けて検索ボタンをクリックすると、スケッチした場所に飛ぶことが出来ます。
Sep 1, 2013
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