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『勝手にふるえてろ』綿矢りさ(文春文庫) 家で見るBSとか有線とかアマゾンとかも含めて、かなり映画を見るようになって3年ほどですが、映画とその原作となる小説をセットで見たり読んだりすることが少しだけ増えました。 パターンでいうと、原作小説先→映画後、が少し多いかなという感じがします。このパターンだと、かつては映画にがっかりすることが多いように思っていましたが、近年はそうでもなく、映画は映画でそれなりに興味深いなあと感じます。それは映画を見慣れたことで、映画面ゆえの独創的な魅力ということに、私が気付いてきたからかもしれません。 一方、映画先→原作小説後の場合は、主に二つの興味深さを感じます。 一つは、そもそもこのパターンで後で原作小説を読むというのは、けっこうその前に見た映画の出来がいいと感じたからで、それを踏まえて小説を読むと、頭の中は、先に見た映画の流れがそのまま展開していて、結局のところ、頭の中でもう一度映画を見ている面白さというわけであります。 といっても、やはり小説には小説の強みというか特徴があるわけで、それは心理説明に強い、ということでありましょう。それが二つ目であります。 映画での心理説明は、直接的なものなら独白と会話で表現しますが、それ以外では間接的に、人物の表情や動作、さらには様々な物や風景などに人物心理をことよせて描きます。しかし、それがちょっとうまくいっていない(あるいは私がそのように読み切れていない)場面があったりします。 そんなところを後で小説で読むと、表情、動きや物に象徴された人物心理が、「ああ、あの場面はそういう意味だったのか」と、くっきりと補足されます。 というのが、映画先→小説後パターンです。 で、今回私は、そのパターンで2作品(映画と小説)を鑑賞をしました。冒頭の一冊と、映画については同じタイトルで、監督並びに脚本の担当は、大九明子であります。 (見終わって)読み終わって、この2作品の鑑賞はとても興味深いものでありました。 なぜ今回の2作品の鑑賞が特に興味深かったかといえば、この2作品がはるかに隔たっていると感じたからであります。 後でよく考えれば、なるほどと思う部分もありました。 原作小説は、初出が純文学雑誌の「文学界」です。(上記の文庫本にもう一つ収録されている短編小説は、同じく「文学界」初出ですが、これはもろに純文学テイスト作品です。) 一方映画の方は、ジャンルでいえば、これは「ラブコメ」でありましょう。隔たっているのもムベなるかなであります。 だから私の感心は、よくこれを原作にして、これだけ別のものが作れたものだという驚きであります。(と書けば、手柄は監督脚本家ゆえと特定されもしますが。) しかし、どちらの出来が良いという好みとしてはあっても、それを脇に置くと、一つの球根から伸びながら全く色合いのちがう二輪の花が開いたようなそんな二作品ができあがるからこそ、小説家の側もきっと、驚きとそして原作者としての満足を感じられるのでしょう。 最後に一つだけ、私の思い付き、であります。 「勝手にふるえてろ」というタイトルの意味(象徴性)ですが、私はまず映画でその言葉の出る場面を見て、全くわかりませんでした。(その言葉が出てくる展開的意味合い=必然性がわかりませんでした。) 次に小説を読んで、小説には一か所この表現が出てきますが、やはりよくわかりませんでした。(前後の文脈からの意味なら分からないことはないのですが、この表現が、なぜ作品全体のタイトルにまでなっているのかが、まるで分かりません。) そんな私の思い付きは、前者の方、映画におけるこのタイトルの意味の解釈です。 (小説のほうについては、同じくわからないながら、かつてこの作家が、意味ではなくてわりと直感的にタイトルを付けるといったようなことを書いていたのを読んだことがあります。) しかし、それは、小説でこの部分について描かれた説明を読んでいなければ分かりにくいものであります。ただ、原作が先行している以上、映画監督は読んでますから、それを「証拠」とできなくもないかなということで……私の思い付きの解釈はこうです。 (映画・小説両方を読んで(見て)ないとわからないと書きつつ、しかし詳しい説明は省略して……) 「今日までの自分の正直さだけを信じていた私、勝手にふるえてろ!」 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2025.07.27
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『硝子戸の中』夏目漱石(新潮文庫) 森鴎外は胡坐をかかないといったのは、確か芥川龍之介であったように覚えています。 胡坐というのはもちろん比喩で、何といいますか、文章に向かう態度という感じのものでいいでしょうかね。 では、本書の漱石はどうでしょうか。 いえ、そもそもの話として、私は上記に胡坐とは文章に向かう態度だと書きましたが、胡坐をかかない森鴎外の、文章に向き合う態度がどのようなものだというのでしょうか。 胡坐をかかないというのは、きちんとした姿勢で真面目に取り組んでいるというのなら、本書における漱石の姿勢だってそうです。 芥川だって、私なんかが読めば胡坐なんて書いてないように……いえ、最晩年は、ちょっと違ったかもしれません。面会謝絶に近い状態で寝込んでいそうな感じの文章もあったように……。 冒頭の続きに戻ります。 本書は、漱石の少しまとまった随筆集であります。漱石の随筆集として有名なのは、本書と「思い出すことなど」がありますが、本書のほうがより晩年の作で、48歳、すでに亡くなる時から2年を切っています。 だから、昔から本書は、最晩年の漱石の思想を知る大きな手掛かりとして扱われてきました。ここに「則天去私」の姿があるなどという話も、どこかで読んだように思います。 で、戻って、胡坐の話ですが、私はやはり本書においても漱石は胡坐をかいていないと思いました。それはここに描かれた少なくない話に、いかにも漱石らしい端正な倫理観が描かれていると思うからで、実のところ、漱石の小説の魅力とは、この端正な倫理観ではないかと、私は強く思っています。 いえ、文学と倫理の関係はそう簡単に連動するものではないくらいのことは、一応私も理解しているつもりであります。(私の大昔の大学卒業時の論文は谷崎潤一郎テーマであります。って、これもあまり関係ないですかね。) しかし、漱石作品にとっては、この漱石的倫理観が、ほぼストレートに漱石作品の第一の魅力になっていると私は考えます。 そして本書における魅力もまさに同様で、その「漱石的倫理観」が、やはりテーマとして読めるエピソードの話が多くとても感動的であります。 幾つか具体的に挙げてみます。 例えば、講演会の話が「十五」「三十四」にありますが、謝金の話と講演に臨む態度と後日談の話。物事を、善意を核として、理詰めにきっちり考えようとする漱石の姿が描かれます。 漱石が、読者らしい女性と面会する話が「六~八」「十一」「十八」にありますが、ここには人と対応する際の漱石の自他に対して厳しいまでの誠実さが読み取れます。(「六~八」の女性の話は、小説仕立てなせいもあって、前半のエピソードの白眉であります。) そのように読むなら、後半の白眉のエピソードは「三十一・三十二」の「喜いちゃん」の話でしょうか。 ここには、漱石が終生悩みとしていた、自身の感覚の方向性を「不善の行為から起る不快」と分析しています。 これはまた、「十二・十三」で「坂越の岩崎」という嫌な人物を取り上げた中で、類似の不快感としてこう描かれています。 (略)私の感情はこの男に対して次第に荒んで来た。仕舞にはとうとう自分を忘れるようになった。茶は飲んでしまった、短冊は失くしてしまった、以来端書を寄こす事は一切無用であると書いて遣った。そうして心のうちで、非常に苦々しい気分を経験した。こんな非紳士的な挨拶をしなければならない様な穴の中へ、私を追い込んだのは、この坂越の男であると思ったからである。こんな男の為に、品格にもせよ人格にもせよ、幾分の堕落を忍ばなければならないのかと考えると情けなかったからである。 これらの、自分の「不善の行為から起る不快」や、自らの中へ中へと潜り込んでいく不快と怒りの感情こそ、まさに漱石が人生の中盤から晩年にかけて、一歩ずつ作品を通して追い詰めていこうとしたものでありました。そしてその足跡こそが、我々が漱石作品から感じる第一の魅力であると思います。 さて最後に、本文にはそれらの感情を、いかにも随筆的にまとめて絶唱のように書いた一文が、「三十三」の最後にあります。 実は、本書の読書報告は、わたくし、二回目であります。 前回もとても感動的であった部分として引用しているのですが、この度の再読のほうが、より深く共感したように思います。(前回は、ブログの文章のようだみたいなことを書いています。)もう一度、抜き出してみます。 もし世の中に全知全能の神があるならば、私はその神の前に跪ずいて、私に亳髪の疑を挟む余地もない程の明らかな直覚を与えて、私をこの苦悶から解脱せしめん事を祈る。でなければ、この不明な私の前に出て来る凡ての人を、玲瓏透徹な正直ものに変化して、私とその人との魂がぴたりと合うような幸福を授け給わん事を祈る。今の私は馬鹿で人に騙されるか、或は疑い深くて人を容れる事が出来ないか、この両方だけしかない様な気がする。不安で、不透明で、不愉快に充ちている。もしそれが生涯つづくとするならば、人間とはどんなに不幸なものだろう。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2025.07.13
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