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『蛍・納屋を焼く・その他の短編』村上春樹(新潮社) 本書は、1984年の発行となっています。収録されている短編小説は前年の1月から当年4月の間に文芸雑誌に掲載された5つの作品です。(さらに参考までに、筆者の年齢は35歳であります。) 少し調べてみると、筆者のキャリアの中での本短編集の位置はこんな感じです。 ・1979年『風の歌を聴け』デビューから五年目。 ・長編作品では、1982年『羊をめぐる冒険』と1985年『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』のあいだで、参考までにその次の長編『ノルウェイの森』は1987年。 ・短編集では1983年『中国行きのスロウ・ボート』『カンガルー日和』に続く三冊目。 この事実から何が見えてくるかというと、まー、これも結果論的な分析になりますが、デビューして5年、次のキャリア・ステップを求めて、全体として若書き感がありながらも、それは未熟ということではなくて、意欲的に様々な試みや企みを作品に取り込んでいこうとする、まさにその言葉そのものの「若々しさ」が感じられる作品、ということでありましょうか。 例えば単純に、タイトルにしてもどうでしょう。 おやっと思うのは、「その他の短編」の部分ですね。 この「業務連絡」のようなそっけない表記は、普通は付けないでしょう。書名にこんなフレーズは基本的には付けないし、確かに似た表記としては、「他〇篇」と言うのがありますが、あれは文庫本等に多く(つまり文庫本用にまとめた形で)、タイトルそのものではないと思います。(「他〇篇」というのは、例えば、本棚からランダムに取り出したのですが、『小僧の神様・他十編』『ウィヨンの妻・桜桃・他八篇』という表記、見ると、岩波文庫が多いですね。) では「その他の短編」の表記とは、何なのでしょうか。 私は、全く個人的な感じ方ではありますが、ここに筆者の一種の若々しい「気負い」めいたものを感じました。いえ、ひょっとしたら気負いというより、「自信」なのかもしれません。「読者への挑戦」とまでは言いすぎでしょうが、そんな元気の良さを感じました。 私がそれを最も作品中に感じたのは、「めくらやなぎと眠る女」という収録作でした。 本短編集の五作品の中で、現代日本のリアリズム(日本でなくてもよさそうではありますが)を舞台にして書かれているのは、これとあと「蛍」「納屋を焼く」の三作だと思います。 その中で、「めくらやなぎ」は一番描かれているエピソードが多い作りになっています。 あとの二つの短編は、前半エピソードと後半エピソード(なんかお能の「ワキ」と「シテ」みたいにも感じます)で作られているように思います。 しかし「めくらやなぎ」には、私は、四つくらいのエピソードが混ぜ合わされながら入っているように思いました。 それが表すものは何か。 私は、筆者が、今後も小説のストーリー性を重視し追求していこうとしている「宣言」である、と思いました。(従来の小説の、「伏線」などという言葉では全く収まりきらない複雑なストーリー展開。) そもそも村上春樹は、デビュー時から、登場人物の内面や感覚を説明する描写にかなり独特な魅力がある(特に特徴的なものして個性的な比喩表現がある)作家でした。つまり、どちらかといえば、「文体」にこそ、魅力のある作家ではなかったかと思います。 しかし、本書の作品にしてもそうですが、丁寧にそんな部分だけを読んでいくと、それがどこかルーティーンめいた「限界」のようなものになっていそうにも感じます。(特徴的な文体でデビューした作家が、次に一番にせねばならないのは、自らの文体との格闘であるとは、古くより多くの作家の軌跡が示しています。) 例えばこんな部分です。 僕は何百回となくこの彼女の手紙を読みかえした。そして読みかえすたびにたまらなく悲しい気持になった。それはちょうど、彼女にじっと目をのぞきこまれている時に感じるのと同じようなやり場のない悲しみだった。僕はそんな気持をどこに持って行くことも、どこに仕舞いこむこともできなかった。それは風のように輪郭も無く、重さもなかった。僕はそれを身にまとうことすらできなかった。風景が僕の前をゆっくりと通り過ぎていった。彼らの語る言葉は僕の耳には届かなかった。 今、こうして抜き出してみても、とても魅力的な文章だと思う一方、そもそもが形のないものを描こうとしているせいももちろんありましょうが、分かる気もしながらやはりそこには具体的な像が何も結ばれないようにも思います。(いえ、それこそがこの文章の魅力なんじゃないかとも思いつつ。) 私はそこに、筆者はさらに複雑なストーリーを付け加えようとしていると読んだわけであります。 ただ「めくらやなぎ」では、まだそれはぎこちなく、やや継ぎはぎめいて感じられますが、このあとの作品で、筆者が描く複線のエピソードは、さらに混然一体となって描かれ、もはや見分けがつかない、ただ、読んでいてとても深い思いの残るものになっているように思います。 それが、こののちの長編小説作家としての筆者の、もはや誰もが認める実りあるキャリアを生み出した一因、とは、かなり強引な読み方でしょうか。 ともあれ、私はこの短編集を読み終え、筆者の若い力にあふれた瑞々しさに、とても強い魅力を感じました。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2025.11.29
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『錦繍』宮本輝(新潮文庫) 「生きてることと、死んでいることとは、もしかしたら同じことかもしれへん。」 「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。」 ……いかがですか。 って、言われても何が、とお思いでありましょうが、この冒頭のフレーズ、別々の小説から抜き出してきたんですね。 似てますよね。というか、ぱっと見、同じこと言ってませんか? ちょっと別の角度から考えてみますね。 この二つが似ているのは、そもそもがいかにもちょっと考えてみたら出てきそうなフレーズだから、それが似ていても特に問題はないんじゃないのか、とも考えられそうです。そうかもしれませんね。 では、個々のフレーズの出典を、もう少し丁寧に説明をしてみます。 上のフレーズは、今回の報告図書『錦繍』から取ってきました。下記に示しますが、本小説のテーマとかかわってくるような大切なフレーズです。新潮文庫によると、本小説は昭和57年(1972年)刊行とあります。 下のフレーズは、村上春樹の短編小説「蛍」(昭和58年・1973年雑誌初出)からの引用です。 初出年度は『錦繍』の方がわずかに先行しますが、驚くほどのほぼ同じ時期ですね。あるいは私が知らなかった当時話題になったりしたのでしょうか。 上のフレーズが小説『錦繍』にとって大切なフレーズだと書いたように、この「蛍」中のフレーズは、作中では、行を独立させてゴシック体の太字で書かれています。 さらに、この「蛍」という短編小説は、あの村上春樹の大ベストセラー小説『ノルウェイの森』の冒頭付近に、作品全体の展開もほぼそのまま取り入れられています。(このフレーズも、全く同じ表現で入っています。) そんな一文です。 と、まず、私が少し驚いたことから書き出したのですが、この類似にはっとする前、この度は『錦繍』を読んでの報告ですから、『錦繍』内にこのフレーズが出てくる(文庫本で70ページあたりです)前から、私は何となく、村上春樹の小説と感じが似ているとちらちらと思っていました。 いえ、村上春樹の小説と宮本輝の小説とは、それは違うだろうという思いはなんとなくありました(私は村上小説はほぼ読んでますが、宮本小説はあまり読んでいませんが)。 総合的にはそのとおりでしょう。今回私が、おや、似ていないか、と感じたのは、この『錦繍』も(『ノルウェイの森』同様)、主人公の男性と、そしてその男性にとって「100%運命の女性」とでも言えそうな異性との恋愛話ではないか、と読みながら感じたことでありました。 ただその考えは、本作半ばあたりから違っていることに気が付いてきました。 例えば『ノルウェイの森』が、そんな「100%運命の女性」との恋物語で最後まで書き切ったと考えるなら、本書は、途中からかなりテーマが異なっているように思います。 それは、冒頭に引用した作品にとっての重要なフレーズの用いられ方が、本作品の場合、物語が進んでいくにしたがって、微妙に連続的に変わっていった事からもわかります。 そもそも、冒頭のフレーズの作品中での解釈について、『ノルウェイの森』では、主人公の思いとして明確に示されています。主人公の自殺した友人の影響から抜けきれない心情を表した表現だと思います。 一方『錦繍』での用いられ方は、元々はモーツァルトの音楽の感想としてヒロインが迷い迷い発した言葉が、聞き手や読み手によって様々な色を付けられ、さらにはヒロインの元夫の「臨死体験」の解釈にあてはめられていく、それもかなり強引なあてはめられ方で、悪く書けば、その時々の場面に都合よく解釈されていったように思いました。 実は私は、読みながらそのあたりがかなり気になっていました。ちょっと嫌だったんですね。ただ一方で、そんなこだわりを持って読むことは、本書の心地よい読書に繋がらないんじゃないかという気もしていました。 上記にも触れましたが、私は本書の展開は真ん中あたりで二つに分かれてしまったように思いましたが(「100%運命の女」の影が消えていく)、後半は後半で、ユーモアもあってとても読みやすい展開でした。 そういえば、村上春樹の小説も極めて高いリーダビリティを持つと、誰か評論家が書いていたように思います。 本書の解説文を小説家黒井千次氏が書いていますが、そこには、「宮本輝は自他ともに認めるまぎれもなき物語作家である」とあります。 物語性の復興は、私も切に現代小説に期待するものであります。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2025.11.16
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『ブラックボックス』砂川文次(講談社) 読み終えて、私は少し困りました。 このお話のよくできているところがわからなかったんですね。 いえ、よくできているの基準は、いわゆる一般的なものではなく、本作が芥川賞受賞作であるのに、というものではあります。 つまり、もちろんそれなりにしっかりと書けているとは思いながらも、かといって、まー、現代日本でもっとも有名な純文学賞(ただし新人賞ではありますが)である芥川賞を受賞するほどのできのよさなのかということを、なにか闇夜に鼻をつままれたような唖然とするわけのわからなさで感じてしまったわけであります。 例えば、文章ですが、とても上手だなーと感じるところと、こういう書き方って、なんかどんくさい、古臭い感じがすると思ってしまうような部分が、不安定に散見されるように思いました。例えばこんな二個所はいかがでしょう。 背中から――少しだけ右の肩甲骨寄りに――地面に落ちた。落ちてもなお速度は死んでおらず、サクマはそのまま自転車と一緒に、見えない糸で引っ張られるみたいにして路上を滑った。 もっとちゃんとしなきゃなんねえ、行動で人となりを表すことのできる人間のなんと少ないことか、とサクマなんかは自戒の念も相まって改めて近藤に思いを致す。 常々襟を正しているつもりだったが、いかんせんサクマはこの手のことが長続きのしない質だった。そこを含めての自戒であっても、明日の朝までこの決意を抱えている自信はない。これも感情の決壊と同じで、自分との約束を反故にすればするほど、その行為自体に慣れてしまうのだ。 ……どうでしょうか。私は、上の文章なんかは、動きの感覚がよくわかる、上手に書かれたところだなーと思うのですが、下の引用個所などは、用いられている用語も含めて、何かどんくさい、古臭い感じがしました。 で、そう思いながら読んでいくと、要するにこの筆者は、外界の具体を描くときはとてもシャープな描き方をしている一方、内面・抽象を説明する時は、どこかたどたどしいように書かれていることに気づきました。 さて、実はこのあたりから、私はひょっとしたら、と思い始めるんですね。 えっ、描き分けている? そして私は、ざくっとですが、もう一度最初から、二度目を読み始めました。 すると、……おいおいこれはかなりしっかり書き込んでいるぞ、ということにけっこうたくさん気がつきました。 初読では読み落としていた細部が、見事に後半部の主人公の強烈な暴力性につながっているということ、そしてそんな性癖の自分と、加えて抽象的思考が極めて苦手な主人公の内面の描き方そのものが、このどんくさい・古臭いと私が感じていた筆者の手法ではないのか、と。 私は、ざっと二度目を終えて、かなり、なるほどな―と思いました。 前後半部が分裂しているんじゃないかと最初感じた思いも、いや、前半部にもかなり(半ば隠すようにしながら)書き込まれていると気づいたし、何より主人公の「苦悩」が一貫していることがわかりました。 では、その主人公の「苦悩」とは何なのか。 二回読み終えた後に、ふっと浮かんだのは「不易流行」という言葉でした。 下記は二度目に読んだ時に、つい私も噴き出した個所。「でも今時こんな古臭い問題に頭抱えてんのってダサいのかなぁとかも思っちゃうしなぁ」「なんだよ、古臭いって」「いやほら、エスディージーズとかマイノリティとかサステナブルとかゆーじゃないですか、だから今時正規がどうのとか賃金がどうのとかっていうのって違うのかなって。ぼくらももっと環境とかにコミットした方がいいんじゃないかなって、どうです?」 サクマは噴き出した。 ここは本文の自己パロディになっている個所でしょうが、結局のところ本小説も、ある意味古くからのテーマである自分探しを描いていると思いました。(「不易」ですね。) 本編中に何度も、「遠くへ行きたい」「変わらない」という、主人公のつぶやきのように描かれたフレーズがありますが、これなどはその例証でしょうか。 ではさらに、もっと具体的な主人公の「苦悩」とは、と、魚を捌くように捌いていくと、作品の味わいとしてはやや身も蓋もなくなる気はしますが、私は二点だと思います。 一つは、上記にも触れましたが、自らの粗暴的性格に対する骨がらみの苦悩。 そしてもう一つは、例えば下記のこんな部分について、私は、一度目の読みの時は軽く見落としていたのですが、二度目の読みの時は、これは重要な表出部なんじゃないかと感じたところです。 ちゃんとした仕事に就いていた時期もないではなかったが、そこに必ずついてまわる諸々にサクマは順応できなかった。三枚複写の保険の申し込み用紙とか人事とか本部とかに出す書類を見るたびに目が滑って何も考えられなくなってしまうのだった。雇用とか被用者とか期間の算定みたいな単語は、あっという間にサクマのやる気をねじ伏せてしまう。 ここに描かれていることは、本当にそのままの意味にとらえると、知的障害とまでは言えないが、そこへのボーダーライン上にある若者の、内面と知性そして苦悩の描写でありましょう。 またふっと、私の感想は飛んでいきます。 文学が描く病の中で、心理や精神、神経などのそれを扱った作品はけっこうあると思います。例えば島尾敏雄の『死の棘』とか、色川武大の『狂人日記』とか。 しかし、「不易流行」の「流行」の部分として、知的ボーダーライン層を描くというのはどうなのでしょう。 なるほどそこに注目すると、新しいものを描くというのがその評価のきっと少なくない部分であろう芥川賞を本作が受賞したというのは、いかにもふさわしいと、二回本書を続けて読んで、私はそう思うに至りました。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2025.11.02
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