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『アンソーシャル ディスタンス』金原ひとみ(新潮社) 以前何かで読んだんですがね、と、またもや今回も出所不明の無責任文から始まって申し訳ありません。とにかく、そんな話なんですが、安部公房のエピソードなんです。 安部公房の担当の編集者が(話の内容からして、公房との付き合いが長く親しく、割と何でも言える間柄という感じの方でしょうか)、「先生、女性の裸の場面をもっと書けませんかね、そうすればもっと売れるのに」とか何とか言ったという話であります。 それだけの話なんですがね。 いえ、公房が答えたのは、「そんなことできないよー」といったものだったと思います。でも、それだけの話です。 私が何を言い出そうとしているかといいますと、一言でいえば、純文学作家の読者サービス意識、ということなんですね。 昔は、純文学作家が読者サービスを考えるなんてとてもあり得ないものだった、……といっても、その「昔」とは、明治大正そして昭和の初年くらいまでの話でありますが。 やはり今の時代、いくら純文学作家でも(「純文学作家」なんてカテゴリー自体が実際は消滅していることは、私でも少しは認識しています。この語の使用は一種のアイロニーであります)、読者サービスくらいするでしょう。ましてや、文芸雑誌の編集者ならば。 とすると、本短編小説の初出誌「新潮」は、そしてやはり筆者は、どんな読者層を想定して、どのくらい読者サービスしようと考えたのでしょうかね。 まー、仮にも「新潮」といえば、押しも押されもせぬ文芸誌の大老舗でありましょう。 純文学文芸誌としての自負も、相当なものがあると思います。 ではそこの編集の方たちは、誰にこの一連の小説を読ませたいと思って連載(1年に2回ずつの掲載)したのでしょうね。 そんなことを思うのは、私がこの短編小説たちは、20代から30代の女性向けだけの娯楽作品だとしか思えないからであります。 すぐれた作品は読者の世代を超越するとはよく言われることですが、超越された感が私にないのは、半分は、私の読解能力不足もあるかもしれませんが、でも、もともとそんな話だろうと、つい同意を求めてしまう気持ちが大いにあります。 というのも、本書の5つの話は、ざくっと、アル中女話、美容整形マニア女話、男乗り換えゲーム話、心中未遂話、そして自慰中毒女話と、いかにもいかにもではありませんか。 主人公はすべて20代後半から30代の女性の一人称で、「私」「私」ばかりの強烈なナルシスト、他責的理屈っぽさ、死の安売り、そんな人物の意見と生き方がふんだんに描かれていて、そこには他者の存在が全くなく、すさまじいまでの自己肯定とその裏腹の「生きづらさ」しか描かれていません。これって、控え目に言っても、若者の特権だから、みたいな話ではありませんか。 何より、ストーリーが、ルックスと食欲と男=セックスがらみのものしか書かれてないって、これは、ある特定の読者層(20代から30代の女性、実は、この層の方たちが、現在一番たくさん書籍を購入なさっているってことは、「本屋大賞」という賞の受賞作が如実に示していますね)に、サービスをしているお話だとしか思えないじゃありませんか……って、いつもながら、かなりバイアスが掛かりすぎですかね。 ……という感じで、あー、このお話は、わたくしはちょっと苦手だなあなどと思いながら(また一方では、文章は読みやすくっていいな、ドライブ感があるな、アル中女話が一番出来がいいんじゃないか、でも好みでいえば、美容整形マニア女話かな、などとも思いながら)、第4話まで読んでいました。 そして、第5話に入ったのですが、しばらく読んでいて、はっとこのお話はこれまでと違うぞと思ったんですね。少なくともこの話は、表面的にも(内容的にはもちろん)筆者は全く主人公の思考や行動に寄り添ってはいないと感じました。 そして、最終盤のいかにも喜劇的なエンディングを読んで、私は少し戸惑いました。 それは、この5つ目の話は、1つ目から4つ目の話のすべての否定の話なのか、という思いであります。 第5話は、主人公の設定がそもそも今までとは異なった感じで、その理屈のあり方も含め戯画的な極端な描かれ方をしていました。そして、エンディングの崩壊のさせ方が、コミカルさを十分に発揮しつつかなり客観性を保証している、つまり、これが筆者の本当の意図ならば、第4話までの内容は、すべてがここに至るための否定的エピソードになっているのではないか、と。 第5話になって、初めて筆者はここで種明かしをしたのか、……と、考えると、本短編集に溢れているのは読者サービスなどではなくて、俄然がっちりとした重層性のある作品群ではないかと、私は大いに関心をしました。 ……が、実は今に至って、そんな私の読みが本当に正しいのか、かなり自信がありません。やはり、若者向けエンタメ小説に近いものなのでしょうか。第5話の展開は、単にバリエーションの一つに過ぎないのでありましょうか。 うーん、いかがしたものでありましょう……。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2025.06.28
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『サンショウウオの四十九日』朝比奈秋(新潮社) 病気の主人公の小説というのは、昔からけっこうあるといえばありますよね。よく考えたら、多分いくつも挙がってくるように思います。 その病気も、身体のものと精神のもの(一応分けるとして)、がありますね。 ちょっと、いわゆる「純文学」に、対象を絞ってみますね。エンタメ小説まで、例えば推理小説なんかを含んじゃうと、特殊な病気を持つ主人公や登場人物のストーリーなどは、一気に増えそうな気がします。 ということで、純文学小説で病気の主人公の話を、身体・精神それぞれ私が思う代表的な作品を、ひとつづつ挙げるとこんな当たりでいかがでしょう。 「檸檬」梶井基次郎・「死の棘」島尾敏雄 と、挙げたところで、なぜこんな話になっているかの理由めいたものは、何も申し上げていません。 要は、今回読書報告する小説には、何というか、やはり特異な病気(本文中にはその出生確率を「50万出生に1組」とし、「人口が何十億人もいることを考えれば」「たいしたことではない」と書いていますが)の話になっており、私がこの度特に興味深くスリリングに読んだのは、その病名(文中には「病気のようには思えない」との表現もありますが)が明かされる冒頭から32ページ目までの部分であります。 この物語の発端の部分は、実に様々な小説的工夫がなされていて、とても面白かったです。そのうちのいくつかの個所を、ざっくり挙げてみますね。 物語巻頭を数行読むと、地の文中に「私」の語が出てきます。読み手はここで、「私」の一人称文体小説なんだなと思います。 母親とのやり取りが少しあって、「実家」という舞台設定や、「妹の瞬」、母親のせりふの中に「二人」という語などが出てきます。 「私」の性別はまだ書かれていませんが、すぐ後に十年前の成人式の振袖カタログの話が出てくるので、姉妹の話だろうと類推できます。 しかしこのあたり(本文に入って3ページ目)で、最初の変な表現が出てきます。「妹の瞬」が、主人公たちの居住地域の十年前のグルメ雑誌を見ている場面の地の文です。 無くなった店の写真を観ているうちに瞬はひどく懐かしく感じて、胸に沁みてくる心地のままに、「あぁ、懐かし」 実際に声に出してからラックに戻し、かわりに私は隣の振袖のカタログを手に取る。 どこが変なのかお分かりになりますでしょうか。 地の文の視点=主観の混乱が見られるんですね。 地の文は「私」の一人称、つまり私の心理を主観にして自分の動作や見聞きしたことを綴っていく形を取っているはずなのに、声に出した「妹の瞬」の心の中の説明が、直接地の文に書かれています。これは、「私」には分かるはずのない(あるいは類推の)もので、この描写は、基本的に、小説のイロハに反しているでしょう、と。 ところが、私は最近、そんな小説のイロハなんてどこ吹く風という小説に、連続して二冊出会ってしまって、ちょっと、戸惑っていたのであります。 それは、どちらも逆の表現、つまり、三人称文体なのに、何の断りもなく(例えば間接話法や直接話法的な描き分けもなく)登場人物の一人称心理が地の文に頻繁に出てくる小説です。(ただ、こちらのほうが、作者がそう書きたい気持ちはわかるような気はしますが。) 私は読んでいてちょっと気持ちが悪かったのですが、それはいわば「エンタメ系小説」であったので、納得とはいきませんが、流行りの傾向なのかなと思っていました。 それと同種のものが、純文学系小説にも出てきたか、と。(純文学系小説でも、「実験小説」的なものには、以前から似た試みはあったような気はしますが。) ともあれ、そんなことを考えながらさらに読み進めていくと、なんかぼそっとした感じの「私」の父親が登場してきて、父親の兄弟、つまり主人公にとっては叔父の、生まれたころの「病気」の話がだらだらした感じで続いていきます。 実はこの話が、この小説の核となる一つ目の設定となっているのですが、簡潔にまとめると、赤ん坊だったころの叔父(名前は「勝彦」)の「病気」が、胎内に(多くの読者がここで同じイメージで思ったでありましょう)手塚治虫の『ブラック・ジャック』の「ピノコ」と同様の胎児を宿していることであったというものです。 そして、手術をして胎内から取り出したという説明の次の行の表現に、読者は思わず「あっ」と(少なくとも私は)驚きます。こうあります。 そういった面倒を片付けている間に、勝彦さんから取りだされた父は猛烈な速度で大きくなっていき、数か月で新生児治療室から出ることができたらしい。 突然現れた「父」の語に驚くんですね。 あ、これは、ぼそっと描かれていた主人公の父親の話なんだ。(父親がピノコなんだ……。) 父親(とその兄弟)は、そんな数奇な出生をしていたのだ、と、読者は(少なくとも私は)俄然興味深く思います。しかし、そのことは、上記に書いた「変」な一人称文体の説明にはなっていません。 相変わらず、気にしだすとかなり気になる主観の混乱表現はこの後も現れますが、かなり異様な父親の誕生の話がやはり伏線めいたものになって、読み手である我々は、徐々にひょっとしたらと考え始めます。 私が考えたのは(多分多くの読者も同様だと思いますが)、二重人格主人公ではないかということでありました。 ……と、いう風に読んでいき、その「謎解き」が示されるのは32ページ目であります。しかし、それをここに書くのはやはり反則かなと思います。 ただ、本小説は、芥川賞受賞作でもあり、それなりに高く評価されています。その評価は、この「謎解き」の後の展開にこそあるのでしょう。 例えば本文には、いかにも32ページ目までで作り上げた物語の設定に則った、「意識はすべての臓器から独立している」「意識が融合してしまえばどうなるのか」などの問いかけが描かれていきます。 しかし、私としては、個人的にこの先に描かれている内容については、申し訳なくも、やや消化不良に思えました。 大きなテーマに挑もうとする筆者のその心構えは、十分諒とするも。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2025.06.14
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『かわいそうだね?』綿矢りさ(文芸春秋) 前回の続きです。詳しくは前回のところをご覧いただくとして、とりあえず、下記の本の内容を報告いたします。この本です。 『大江健三郎賞8年の軌跡 「文学の言葉」を恢復させる』(講談社) この本の冒頭には、大江健三郎によるこの賞の設立趣意書のような一文があります。これはいわば、これからこんな本をこの賞に選んでいきたいとたった一人の選者である大江健三郎が述べている文章なので、わりと重要です。だいたい、こんなことが書かれてあります。 1・今の社会で「文学の言葉」がとても痩せている。 2・しかし、だからこそ大逆転の時があるのではないか。 3・確かに、社会の表現と認識の言葉をリードしていく層の人たちが、「文学の言葉」と無縁になっているが、 4・注意深く見れば今も力にみちた「文学の言葉」は創られている。 5・それを、知的な共通の広場に推し立てたい。「文学の言葉」を恢復させたい。 と、こうなっています。 新時代に力のある文学表現としてふさわしい作品を選ぶ、というところですかね。 で、次に『かわいそうだね?』が選ばれた時の選評を読んでみます。 大江氏は、ミラン・クンデラの小説論を引用するところから始めます。(その前にも少し前振りはありますが。) ミラン・クンデラによると、小説とは、 1・ある美的な計画に基づく長い仕事の成果で、 2・自分・他者のために、本質的なもののモラルを説くべきものであろう。 いかがですか。いかにも大江健三郎が共感しそうに小説論ですね。 「1」について、大江氏は「小説のたくみさ」と補足しています。そしてこの選評をこう括っています。 才能のきらめきとのみ見えた小説のたくみさが、晩年の仕事における本質的なモラルの表現の支えとなるのを知っています。 そして、この『かわいそうだね?』との関係についてはこう書いています。 (略)彼女の文学生活のひとつの転機を記念する傑作というほかない作品をつうじて、私はクンデラの小説論を具体的に検証したいのです。 つまり、本小説は、クンデラの小説論の具体例にふさわしいから賞を与えた、と、まあ、こういうことですね。 で、以下大江氏は「検証」していくのですが、作者との対談という形式での「検証」は、やはりかなり荒っぽくはありました。ただ、読んでいる分にはなかなか面白くもあります。大江健三郎はそんなところに着目し、そんなふうに褒めるのか、と、とても興味深かったです。 以下に、私が理解できた範囲で(この「範囲」が、かなり狭いうえにかなり不安でありますが)、ちょっと書いてみますね。 ポイントは、タイトルの「かわいそうだね?」の語が否定的なものとして描かれていると捉えるところから始まります。 主人公の感情の根底にこの語があって様々な行動が描かれていき、クライマックスの後に、それが変わっていく姿が描かれます。ここが、本作の最も重要な部分だと、大江氏は説明します。その個所を少し引用してみます。 「困っている人はいても、かわいそうな人なんて一人もいない」というのが、彼女のモラルといいますか、彼女の精神的な結論なんです。今までの自分から、精神的に、人間的な深みに一歩踏み出したことが、そこで示されているわけです。 一歩踏み出した先のことを、大江氏は作品中の言葉である「慈愛」だと指摘し、これこそが「本質的なモラル」だと説明します。 「かわいそうだね」の同情は、自分と対象を切り離した上での感情だが、「慈悲」とは共感であり、その状態を共有しようとする意志だ、と。 そして、こうまとめます。 一生の間に一つの(中略)本質的な、根本的なモラルが、人間が生きていくこと自体において固まってくる。小説の中にそれを表現して、それを一つの作品として、人びとに向かって差し出すことが、作家にできることだとミラン・クンデラは言っているのです。 いかがでしょうか。だから、本小説に賞を与えた、と。 わたくし、この一連の文章を読みまして、一作品全体の評価としては、少々、「牽強付会」っぽくはないかと、ひそかに愚考いたしました。 しかし、大江賞とは大江個人が選ぶ賞でありますから、その時の選者大江氏の興味のありかがそのまま賞に反映するというのは、それはそれで、悪くはないように思うのであります。 少なくとも、大江研究にとって、それはなかなか興味深いことではないかなと、もうすでに『かわいそうだね?』の読書報告からはるかに隔たってしまっている本報告の最後に、わたくしは思った次第であります。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2025.06.01
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