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“ともだち”が自分の父であることを知ったカンナ。 自分自身を見失ってしまうカンナ。 そんなカンナの心の中にケンヂの歌声が響く。 カンナ覚醒!! 一方、万丈目と高須の怪しい関係。 聖母を目指す二人の狙いは? そして、1970年の嘘って何だ? 今はまだよく分からない……。老人ホームの屋上で、モンちゃんメモが書かれた経緯を、サダキヨがコイズミに語る。そして、そのモンちゃんに対し自分の仕事を全うしたと苦渋の表情で告白するサダキヨ。しかしその時、コイズミとサダキヨは高須らによって追い詰められていた。そこに救いの手が!地上からはカンナ、そして空からはヨシツネ。モンちゃんメモは、響子の手に渡る。そして、意を決してともだちのもとに向かったサダキヨの乗った車は港区の路上で炎上。車からは中年男性の死体が……それは、サダキヨなのか?ところで、関口先生はキリコの担任でもあった。彼の話を切っ掛けに、母の行方を追うことになるカンナ。オデオン座でフィルムに写る母の姿と対面。そして、岸壁の上の病院、友楼会鳴浜病院で衝撃の事実を知ってしまうカンナ。一方、オッチョと角田は大福堂製薬の役員からDr.ヤマネの居場所を聞き出そうとする。その頃、ユキジとヨシツネもヤマネ君に目を付けていた。ヤマネ君が理科室の水槽にいるクマノミに付けた名前、それはキリコ。この辺りも、映画とは違うエピソードが満載。サダキヨやヤマネ君の存在感が際立っている。
2009.09.28
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ここに来てすごくイイ感じになってきた。 映画では描かれてなかったお話しが結構ある。 しかも、それがなかなか良いのだ。 特にサダキヨと恩師の再会のシーン。 それにしても、ハットリ君のお面の下の少年の素顔、 正直驚いたな。 ヴァーチャルアトラクションだからこその素顔。 本当にあんなのいたら、腰抜かしちゃう。そして、都立新大久保高等学校にやって来た新任の英語教師・佐田清志。長嶋のサイン入りバットでお母さんを叩きつぶす。ここは本当に予想外の展開。“ともだち博物館”でともだちの写真を見てしまったコイズミ。そこで語られるサダキヨの悲しい少年時代……顔のない少年時代。サダキヨとともだちとの関係。そして、ともだちの家は炎上。ともだちを裏切り、トヨタ2000GTで逃走する館長とコイズミ。 だから僕は誓ったんだ 僕は忘れない 僕が教師になって受けもった生徒の一人一人………… その子達の顔と名前を絶対に忘れない その子達の中で忘れ去られてしまうような子がいても…… 僕だけはその子の顔と名前を覚えている。 ……なら、先生も覚えてるかも…… あなたのこと……老人マンションで恩師に再会。そして、恩師が手渡した写真。遠足の時、先生が撮った少年の写真。これって、きっとこの作品の中でもとっても重要で良いシーンだと思うんだけど……映画にはなかった……ですよね。そして、サダキヨを追う校長から衝撃の事実を聞くことになったカンナ。ここて第10巻は終了。ところで、エロイムエッサイムズのギタリスト・ダミアン吉田の行方も気になる。西日暮里の十字路で、彼に声かけた悪魔って何者だ?
2009.09.28
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首吊り坂の屋敷でテルテル坊主に隠れて話をしてた二人。 一人はサダキヨ、そしてもう一人がともだち? そのことを確かめるため、学校の屋上に向かう響子と少年・ヨシツネ。 ナショナルキッドのお面を被ったサダキヨがそこにいた。 さらに、忍者ハットリくんのお面を被った男のコも登場。 彼だけは、この世界がヴァーチャルアトラクションだと知っている。 そして2014年、ヨシツネが危険を感じ、ゲームを強制終了させる直前に、 響子はそのお面の下に隠されていた素顔を見た?ここから先のお話しは、映画(第2章)もかなり原作に沿って作られていた。生まれながらの超能力を活かし、ラビット・ナボコフで勝ち続け、それを切っ掛けに、ともだちに立ち向かうための仲間を集めようとするカンナ。中国のマフィア、タイのマフィア、そしてホームレスたちが歌舞伎町の教会へと集まってくる。一方、モンちゃんから「しんよげんの書」を手渡されたユキジは、救世主が暗殺されるのを阻止するため、新宿の教会へと向かう。そこでは、カンナが集まったマフィアやホームレス達に「血の大晦日」の真実を訴えかけていた。そんな中、あのホクロの巡査がカンナに銃口を向ける。カンナ、大ピ~ンチッ!!そこで、ステンドガラスを突き破って現れたのが、我らのショーグン・オッチョ!カンナの前に盾となって立ちはだかる。しかし、ホクロの巡査は背後から銃撃されて死亡。彼の命を奪ったのは13番。カンナの母親の出現をオッチョに予告し、空の彼方へと立ち去る。映画と違って、漫画ではともだちのパレードは行われてませんでした。だから、オッチョがともだちに立ち向かうことは、この教会のシーンではできませんでした。映画では、第2章のクライマックス・シーンだったんだけどね。
2009.09.27
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「破壊の神」は風船のっけてでかくみせかけ、 鉄骨や配線むき出しで、ボロ雑巾ズルズル引きずってる うすっぺらなにせものだった。 その操縦席に一人乗り込んだケンヂ。 そこでモニターに映るあの男と対面。 忍者ハットリくんのお面を被ったあいつ。 ビルから落ちたのはやはり偽物だったのか。 そして、ケンヂはその正体を見たのか……大爆発。それにしても、この辺りから映画とはかなり違ってた。小泉響子が予想外に一人でとっても頑張ってる。“ともだちランド”の研修会。ヨシツネの指導で『エロイムエッサイムのテーマ』を頭の中で歌い続け、ボーナスステージへ。ま、私の中では「エロイムエッサイム、エロイムエッサイム」とくれば、続きは「まわれ地獄の魔方陣」なんだけど。それにしても映画で使われた『ハロハロ音頭』はよくできてる。三波春夫さんの『世界の国からこんにちは』のイメージそのまんまだ。さて閑話休題、ボーナスステージ・1971年首吊り坂の屋敷。バカでかいテルテル坊主のうしろ、踊り場を横切ったのがともだち?そこでケンヂとオッチョが話をしてたのがともだち?そして、響子はともだちの顔を見てしまうのか……。
2009.09.27
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「登場少年紹介」にある蝶野将平のところ、 第6巻では「叔父にあたる伝説の刑事・チョーさんにあこがれる」となってたけど 第7巻では「伝説の刑事・チョーさんの孫」になってました。 まぁ、出版された当時も、きっと数多くの指摘が小学館になされたのでしょう。 オッチョと角田は無事に刑務所からの脱出に成功。 そして、上陸後オッチョの見たものは万博会場。 高度成長期で絶好調右肩上がりの日本を象徴する一大イベントの再現。 EXPO'70には、無限に広がる夢と輝かしい未来が凝縮されていた。今の日本にそれに匹敵するものはどこにもない。それどころか、後にも先にもあんなとてつもない空間が国内に存在したことは他にはない。だから、その凄さと意味合いを、体験していない者に伝えるという作業はとても難しい、というか、そんなのほとんど不可能だと思う。それにしても、本物の太陽の塔を使って装飾を施し、映画の撮影をしたと知った時は驚いた。今巻で目立ったのは小泉響子と神永球太郎。神様が巨万の富を得て、日本人初の民間人宇宙観光旅行をやってのけた経緯や、コイズミがケンヂに興味を持つに至った経緯は、なかなか面白かった。そして、そのエピソードの後にいよいよあの“血の大晦日”の真実が語られる。高島屋じゃなくてTAKATORIYAの屋上で、破壊の神を操縦してるらしい人物を発見。その人物はハットリ君のお面を被っていた。その人物と対面したのはケンジとフクベエ。しかし、その人物とフクベエは、もみあいになった末に屋上から落下してしまう。そしてその時、フクベエの口から出た言葉は「サダキヨ…………じゃない」地上に叩き付けられ(?)、無残な姿で倒れたままの二人。ダイナマイトを積んだトラックで、破壊の神に突っ込もうとするケンヂとマルオ。その時、フクベエがよくかけてたカセットテープをカーステレオに挿入。流れてきた曲は『20世紀少年』。がなりちらすようにケンヂが歌う。最後に、国家危機管理委員会のシーンを見て、原作が描かれた当時の総理大臣って、森さんだったんだなぁと思い出した。何か、あんまり良いイメージでは描かれてませんけどねぇ……。
2009.09.26
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「登場少年紹介」にある蝶野将平のところ、 「叔父にあたる伝説の刑事・チョーさんにあこがれる」となってますが チョーさんって、確か蝶野刑事のお母さんのお父さん、 つまり、蝶野刑事のおじいちゃんのはずですよね? まぁ、本編の方では、本人も遺影に向かって「じいちゃん」と言ってるし ヤマさんとその妻も「おじいちゃん」と言っている。 さらにヤマさんは「やっぱりあんたの孫だな………」とまで言ってるから、 やっぱり、おじいちゃんいということに決定!(つまり編集ミスだな)それにしても、ノンキャリから初の警察庁長官になってるっていう時点で、普通気付くでしょ、なんかヤマさん怪しげだなぁって、あの状況なら!!でもまぁ、まだまだ駆け出しだからねぇ、蝶野刑事は。でも、そんなんだから、ブリちゃん死んじゃったんだよ。いやいやそれどころか、カンナがお守りの中の発信器に気付かなかったら、あなた絶交されてましたよ、ホントのところ(命の恩人に感謝せよ!)。そんな彼と真逆なのがショーグンことオッチョ。何時でもどんな場所でも、とにかくカッコイイのです。彼がどんな経緯で「海ほたる刑務所」の特別懲罰房にいるのかは定かではないけれど、脱獄へのチャレンジを2週間に一度、14年もの間続けているというのはスゴすぎる。そして、漫画家・角田君も、なかなか頑張ってるゾ!『大脱走』ばりのスゴイ脱獄劇を成し遂げようと身体張ってます。
2009.09.26
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5巻の半ばで2000年12月31日がやって来る。 映画でいうと、ここで第1章が終了というところ。 ヨシツネが、例のマークがどういう意味かってオッチョに尋ねたとき、 コンビニで少年サンデー買ってきて説明したシーンはヨカッタな。 小学館ビル(浦沢さん、あちこちで気を遣ってるな)付近の再開発地域から 例の「破壊の神」がついに姿を現し、殺人ウイルスを撒き散らす。 この「破壊の神」は、STAR WARSのAT-STのイメージかな。 まあ、AT-STよりかなりデカイけどね。そこからは間髪おかず、漫画の冒頭第2シーン・2014年へと戻る。その時、カンナは18歳の女子高生になっている。それにしても、第2巻でチョーさんにかかってきた電話、ホントに娘さんからだったんだ。う~んっ……辛いねぇ(じいちゃんからピカブー貰うはずだった蝶野刑事、頑張れ!)。もう一つの注目シーンは、ユキジがカンナの住む常盤荘の大家さんのところに、カンナが大音量でガンガン音楽をかけ、迷惑かけてることを謝りに行ったときのシーン。 その大家さんの名前が常盤貴子。太鼓じゃなくてタコを叩いてるオバさん。これが描かれた当時、まさか映画でユキジを常盤さんが演じるなんて、誰も予想してなかったろう。ところで、カンナ部屋の隣に住んでる漫画家は氏木氏と金子氏。2人合わせてウジコウジオ。彼らによると、2014年には、ともだちの手によって、漫画家がずいぶん捕まってるらしい。宝塚先生に、西森氏、青塚氏、角田氏等々。手塚先生に、石森氏、赤塚氏、つのだ氏か……まさにトキワ荘絡みのメンバーたちだ。
2009.09.26
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バンコクにイソノさん登場。 ヘアスタイルからすると波平さんか? それにしても、ショーグン格好イイ! ホントに正義のヒーローって感じだな。 映画でも一番露出が多くて、目立ってたのは豊川さん。 ケンヂは第2章ではほとんど出番無しだし、 もちろんカンナは第1章では出てこない。 だから全編通して、カッコ良く登場し続けてたのは豊川さん。それにしても、映画にも増してショーグン、いやオッチョ格好良かった修行中の師匠の言葉も良いねぇ。 “強い”とは、“弱さ”を知ること…… “弱さ”とは、“臆病”であること……… “臆病”とは……“大事なものをもっている”ということ……… “大事なものを持っている”ということは、“強い”ということ。万丈目の情報を伝えるため、メイが命懸けでバンコクに戻ってきたところで息絶え、その直後、ケンヂから電話がかかってきたシーンは、これから本気で、オッチョがともだちに立ち向かっていく動機を伝えるエピソードとして読む者全てを説得するのに十分なものだった。さて、中村の兄ちゃんがオッチョに言った言葉 ジャニ・ジョプの声って、藤圭子みたいに悲しいよなあ…わかるよなあ…わかる……かなぁ?ま、今だったら「宇多田ヒカルの方がチョットは近いかも」って突っ込めるんだけど。さて、ロボット会議で飛び交う発言の数々はとても面白かった。ロボットをリモコンで動かすか、乗って動かすかでもめることになるのだが、ある発言者が「これは世代的な見解の相違かもしれませんが……」と予め断ってるように、まさに、ロボットに対する世代の差を見事に感じさせるシーンに仕上がっている。そんな中での「腕時計で指令する」という発言はジャイアント・ロボをイメージしてのものだな。そして、途中何やかやあったとしても、結局は同じ横山さんの作品でも、敷島博士だから、やっぱり鉄人28号イメージのものに落ち着くのかと思いきや、「破壊の神」の姿は全くの別物だった(ケンヂの描いた巨大ロボットとは随分違う)。
2009.09.26
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ついにケンヂが立ち上がった。 ドンキーが残した「地球を救え」のメッセージで。 しかし、今を生きている仲間たちにはそのことがなかなか言い出せない。 結局、単身ともだちコンサートに乗り込む。 そこで、ともだちと再会(?) 忍者ハットリくんのお面を被ったともだち。 そして、彼の口から発せられた突然の想像を絶する意外な言葉 「カンナの父親を……撃つことはできないだろ?」ユキジにだけ、これまでの経緯を語り、翌日のクラス会で出会ったフクベエから新しい情報を得たケンヂ。 その団体の代表の、“ともだち”っていうのが言ってる話…… おまえとオッチョがガキの頃作った話に、そっくりなんだよな。 俺、おまえが“ともだち”かと思ったけど、どうやらそうじゃないらしい。 …で、俺、あの話を詳しく知ってる奴、誰だったか思い出してみた…… 俺……おまえ……ヨシツネ……マルオ……ケロヨン……モンちゃん…… ドンキー……それにオッチョ……あと…… もう一人いる……酔いつぶれたフクベーを自宅まで送り届けたとき、フクベーはもう一人の“よげんの書”を見た人物を思い出す。それがサダキヨ。しかし、マルオによるとこのサダキヨ、中学の時に死んだという噂があるらしい。ところで、このサダキヨっていうネーミング、『リング』シリーズに登場する超能力者・山村貞子(さだこ)と『犬神家の一族』の白いマスク・犬神佐清(すけきよ)をドッキングさせたもの?それとも、単に私の思い過ごし?とにかく、成田空港じゃなくて羽田空港が“よげんの書”通りに爆破され、さらには、ともだちの信者たちによってカンナが奪われかけ、さらにコンビニが炎上したところでケンヂは少年の頃自らが書いた“よげんの書”を自宅の庭で掘り当て、それを手に、一人でともだちに立ち向かうことを決意する。そしてその頃、ショーグンと呼ばれる男はバンコクにいた。
2009.09.25
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なるほどねぇ。 ケンヂがカンナにあれほど拘るのは、 キリコとの間にこんなことがあったからなんだ。 そうかぁ……分かるなぁ……分かるよ、ウン、分かる。 しかし、ヤマさんの死は辛いねぇ。 映画でも辛かったけど、マンガはより辛く感じちゃったかな。 せっかく、娘さんと雪解けかと思われたところで…… でもあの電話、本当に実の娘からのものだったのか?それにしても、チョーさんとヤマさんか。モデルはもちろん下川辰平さんと露口茂さんだな。(そのチョーさんを竜雷太さんでキャスティングした映画もヤルなぁ)さらには「ピカブー」に「トイケらトプス」か。細かいところまで、本当にしっかりと遊んでくれてる。いいなぁ……好きです、こういうの。とってもね。さて、第2巻はドンキイイイ!!の最期が明らかになったところで終了。オッチョはまだ怪しげな謎の人物のまま。
2009.09.25
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まだ第一巻、スタートしたばかりなのに、 映画でいうとかなりの部分までお話しが進んでしまった感じ。 それにしても、お話しの中で時代の行き来が結構激しいので、 予備知識無しの読者が、この展開についていけるのかと心配になる。 もちろん、こちらは「謎の少女」となっている人物ですら すでに何者かハッキリと分かった上で読んでいるのだから 迷う所なんてこれっぽっちもない。 と言うか、先に映画を見てしまってるので、そのイメージが抜けないで困る。でも、これはしばらく読み進めれば、変わっていってくれると思う。なぜなら、きっと原作には映画で描かれていない部分が多々あるはずだから、そこを足がかりにして、映画とは別物の世界が自分の中に形成されていくはずだから。そうじゃなければ、今さら原作を読む必要なんかないわけだ。それにしても、映画のキャスティングの凄さには驚かされる。特にケロヨンの宮迫さんは、それ以外にはありえないというほど似てる。ひょっとして浦沢さん、宮迫さんをイメージしてケロヨン描いたの?でも、ピエールさんのモデルは竹中さんじゃなくて、明らかにポール牧さんだな。マンガの方も「恋の季節」を口ずさみながらヤン坊マー坊が現れたり、正義の忍者部隊(これは「月光」だな)をケンヂたちが結成したり、「アニマル1」のローリングストーンが登場したりと、ポイントポイントで60年代の空気を満喫でき、たいへん感慨深い。第一巻はケンヂとユキジの再会シーンにて終了。
2009.09.24
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『20世紀少年 最終章 ぼくらの旗』を9月6日に観てきた。 冒頭に約5分のダイジェストがあったんだけど、 自分の場合、『第一章 終わりのはじまり』と 『第2章 最後の希望』はTVで観てたから、 復習も兼ねて十分楽しむことが出来たよ。 ただ、このダイジェスト観ただけで、いきなり第3章観るのはキツイかな。 まぁ、これは『20世紀少年』に限らず、 『STAR WARS』や『ハリーポッター』等、 シリーズ物は総じてそういうもんだけどね。 途中、映画館の冷房が効きすぎてて、 トイレに行きたくなって仕方なかったんだけど、 こんな所で席を離れると、話について行けなくなると思って 結局最後まで、90分くらいはガマンしてた。 もちろん、ガマンしきれずトイレに行った人も結構いたよ。 隣に座ってたツレは、いつも映画の途中で意識が飛んじゃうんだけど、 この日はずっと起きてたって、後で自慢してた。つまり、この映画はそれくらい面白かったっていうこと。上映時間は結構長めなんだけど、そんなことを忘れさせるほどに面白かった。何といっても、最後にはトイレに行きたいことすら忘れさせちゃったんだから大したもんだ。自分の中では、これまで観た映画の中でも最高ランクに入れても良いと思ってた。ところが、家に帰って映画のレビューサイトなんかを見てみると、これが結構コテンパンに叩かれまくってるんだよ。興行成績の方は、ず~っと1位をキープし続けているのにだよ、まったく。それまで盛り上がってた気分が、一気にヒューンと冷めちまったよ。で、どんな風に叩かれてるかっていうと、簡単に言えば、原作の良さが活かされてないとか、失われてるとかいうのがほとんど。でもまぁ、そう言いたくなる気持ちもわからないじゃない。自分も『風と共に去りぬ』を観たときは「何じゃこりゃ!!」と思ったからね。あるべき話が描かれず、そこはそんな話じゃなかっただろうというようなシーンが突然平然と入り込んで来て、映し出されてしまったりするんだから。特に自分のお気に入りのメラニーの描かれ方、あんなんじゃガマンできないよ。これと同じことを感じたのは『チーム・バチスタの栄光』だな。男だったはずの医者が、映画では突然女になってるんだからタマンナイよ。でも、やっぱり映画は映画、小説は小説で、別の作品ということなんだ。そう、あくまでも原作というだけで、完璧に忠実な映画なんて作りようがないんだよ。だって、読者が行間から読み取るイメージなんて、十人十色でみんなバラバラなんだから、そんなのキッチリ正確になんて描きようがない。それでもまぁ、マンガの場合は、アニメ化してグレードアップする例がないでもないな。特に『ONE PIECE』なんかは、自分はアニメ版の方が感動させてもらった回数が多いよ。サンジが海上レストラン・バラティエから旅立つシーンとか、冬島に桜が舞ったシーンなんかは、本当に泣けたね。と言うことで、原作読んだ人間がどんな気持ちであの映画を観たのか知りたくなって、とりあえず24冊まとめて発注して、今日家に届いたんでこれから読んでみる。そうそう、この語り口は、気付けばさっきまで読んでた『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の主人公・ホールデンみたいになっちゃってたんだ。もし、気に障ったら許してよ。
2009.09.24
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村上春樹さんが訳した青春小説。 主人公が「君」に話しかける形態を取りながらストーリーが展開する。 その内容は、一人の男子高校生が成績不振で学校を追われることになり、 寮を飛び出してから、ニューヨークの街を数日に渡り彷徨う姿を描いたもの。 そのぶっきらぼうな語り口や、自暴自棄とも言える行動ぶりは、 色んな意味で、かなり追い詰められた思春期の男子を想像させる。 家庭そのものは裕福でありながら、自己肯定観は極めて低い。 その鬱屈ぶりは痛々しく、もの悲しくさえある。そして、本著の肝は主人公のホールデンがこっそりと自宅に戻り、愛すべき妹・フィビーに語りかけているシーン。 「でもとにかくさ、ただっぴろいライ麦畑みたいなところで、 小さな子どもたちがいっぱい集まって何かのゲームをしているところを、 僕はいつも思い浮かべちまうんだ。 何千人もの子どもたちがいるんだけど、ほかには誰もいない。 つまりちゃんとした大人みたいなのは一人もいないんだよ。僕のほかにはね。 それで僕はそのへんのクレイジーな崖っぷちに立っているわけさ。 で、僕がそこで何をするかっていうとさ、 誰かその崖から落ちそうになる子どもがいると、かたっぱしからつかまえるんだよ。 つまりさ、よく前を見ないで崖の方に走っていく子どもなんかがいたら、 どっからともなく現れて、その子をさっとキャッチするんだ。 そういうのを朝から晩までずっとやっている。 ライ麦畑のキャッチャー、僕はただそういうものになりたいんだ。 たしかにかなりへんてこだとは思うけど、僕が心からなりたいと思うのはそれくらいだよ。 かなりへんてこだとはわかっているんだけどね。」(p.292)これを語っているとき、彼は正気だったのか、それとも酔っていたのか?その言葉はいつもの冗談なのか、それとも正真正銘の本気・本音なのか?主人公が現在の自分をどう受け止め、その将来に何を求めているのかを掴むべき所だけに、善意で解釈すれば、まだまだ彼の未来には期待が持てそうとも感じるが……(この言葉、一般的にはどう解釈されているのだろう?)さて、本著で最も残念だったのは最終ページのこの告知。 本著には訳者の解説が加えられる予定でしたが、原著者の要請により、 また契約の条項に基づきそれが不可能となりました。 残念ですが、ご理解いただければ幸甚です。 訳者現著者のサリンジャーは1919年1月1日生まれの90歳。村上さんが解説を書くということについて、どういう考えを持ったのだろう?ひょっとして、サリンジャー作品も村上作品と同じように、一切「解説」というものがないのだろうか?どっちにしろ、村上さんの解説が読めないのはとても残念だと思っていたら、良いものを発見しました。「村上春樹・柴田元幸『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を語る」というサイトです。出版元の白水社も、なかなかやるなぁ!
2009.09.24
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これまで読んだ村上さんの小説とは違う。 話にブレがないし、「?」もない。 一番近そうなのは『ノルウェイの森』だろうが、 主人公やそれに絡む女性たちの設定が違う。 何が違うかといえば、登場人物もお話しも 最後までとってもノーマルなのである。 「ちょっと変わってる?」っていうところがほとんどない。 最後の落とし所も、とっても安心のノーマル結末(のはず……)。 ナット・キング・コールは『プリテンド』を歌っていた。 英語の歌詞の意味はもちろん僕らにはまったく理解できなかった。 それらは僕らにとってただの呪文のようなものだった。 でも僕らはその歌が好きだったし、あまりにも何度も繰り返して聴いたので、 始めの部分を口真似で歌うことができた。 プリテンニュアハピーウェニャブルウ イティイズンベリハートゥドゥー(p.17)私もナット・キング・コールは好き。別のページ(p.242)で、彼は『国境の南』も歌っている。 ピアノ・トリオがいつものように『スタークロスト・ラヴァーズ』の演奏を始めた。 僕と島本さんはしばらく黙ってその曲を聴いていた。(p.232)とってもお洒落な曲。主人公の経営するバーの雰囲気が伝わってくる。 「『砂漠は生きている』、ディズニーのやつだよ。砂漠についての記録映画だよ。 小さい頃に見なかった?」(p.288)私はタイトルは知ってたけど、見たことはない。今度見てみたい。 昔の知り合いとの再会は、結果的にはあまり楽しいものとは言えなかった。 彼らと会って話をするのが嫌だったわけではない。 僕だってもちろん昔の友達に会うのは懐かしかった。 彼らの方も僕に会えたことを喜んでくれた。 でも、結局、彼らが口にする話題は、今の僕にとってはみんなどうでもいいことだった。 故郷の町がどうなろうと、他の同級生たちが今どのような道を歩んでいようと、 もうそんなことにはまったく興味が持てなかった。 僕はかつて自分がいた場所や時間からあまりにも遠く離れてしまったのだ。(p.113)これも分かるなぁ。でも、そう思わない人が多いのも確かだ。 「たぶん世界が我々に近づいているんだろう。 でも子どもたちがいつも家の中で二人で遊んでいるのを見ていると、 ときどきなんだか不思議な気持ちになることがある。 こういう育ち方というのがあるんだなと感心しちゃうんだよ。 僕は小さい頃からいつも一人で遊んでいたからね、 子供というのはみんな一人で遊んでいるものだと思っていた」(p.122)一人っ子と兄弟姉妹がいる子供では、やはり違いがありそうだ。世代によって子供の育ちが違う原因の一つであることは間違いないだろう。 誰かがやってきて、背中にそっと手を置くまで、僕はずっとそんな海のことを考えていた。(p.299)さて、私にとっては大問題の最後の一文(ここで急に終わってしまいビックリした)。こんな文章を最後にキッチリ持って来るところが、さすがに村上さん。でも、「誰か」って誰なの?その「誰か」が誰なのかによって、このお話は全然ノーマルなお話しではなくなってしまうんだけど……。そんなことを考えてしまうのは、お話しの終盤でこのお話の中で唯一の「ちょっと違う」人物イズミを、主人公が目撃しているから(p.282)でも、ミステリー小説じゃないんだから、ここは普通に「誰か」は、有紀子ということにしておいて欲しい。
2009.09.24
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『1.コアラ純情篇』に続く本著における一番のお楽しみは、 何と言っても高橋尚子の登場シーン。 私自身としては、シドニーオリンピックで最も印象に残っているところ。 マラソン直後とは思えない、あの普通で感動的なインタビューも忘れられない。 ところが、マラソンに優しいはずの村上さんなのに、 Qちゃんには、そんなに優しさが感じられない。 やはりかなりの天の邪鬼のようだ。 でも、それってやっぱり村上さんらしいのかも。そんな女子マラソンで敗れたケニア代表のロルーペの発言(選手村の朝食を食べて気分が悪くなった。誰かが何かを盛ったに違いない)に村上さんが一言。 だいたい何事にも用心深い日本人選手は、 レースの朝に選手村で出される食事なんて食べないだろう。 いずれにせよ、「負けた人間は多くを語らない」というのが勝負の鉄則だ。 何を言っても泣き言か言い訳に響いてしまう、(p.82)私自身も、心してこの言葉を胸の奥にしまっておきたい。次は、またオリンピックそのものに対する村上さんの一言。 ここでもう一度最初のテーマに戻ります - ブラームスのシンフォニーみたいに。 オリンピックは退屈なのか? そう、イエス、オリンピックは退屈なものです。(p.111)この「ブラームスみたいに」というのは、「戻ります」にかかるのか、それとも「退屈なのか?」にかかるのか?もちろん、私は後者だと思ったわけだが、それなら、村上さんと私は同じ感性だということになります。どうも、ブラームスは苦手だ(実はオリンピックの開会式も)。 ピエール・ド・クーベルタン男爵は 「オリンピックは勝つことにではなく、参加することに意義がある」と言った(といわれてる)。 有名なせりふだが、これは今となってはかなり非現実的に響く。 「そういうのって、まあきれいごとだよね」で終わってしまいそうだ。 でも男爵は本当にそんなことを言ったのだろうか? 僕が読んだ本によれば、彼は実際にはこう言ったそうだ。 「人生において大事なことは、勝利ではなく、競うことである。 人生に必須なのは、勝つことではなく、悔いなく戦ったということだ」 これなら話はわかる。そう思いませんか?(p.145)全く、そう思います。これなら分かります。だから、本著の締めくくりは、シドニー後の犬伏さんであり有森さんであるわけだ。そして、もう一人印象的だったのは、もちろんキャシー・フリーマン。
2009.09.24
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今、シドニーの街は濃いオレンジ色に染まっているらしい。 内陸部で巻き上げられた砂ぼこりが吹き寄せたためとか。 もちろん、本著はそんな砂ぼこりのことを書いているわけではない。 そこに描かれているのは、2000年9月に行われたシドニーオリンピック。 書いたのは、あの村上春樹さん。 小説はもう随分読み進めたので、ここで初めてエッセイを読むことにした。 しかし、まるで別人が書いた文章のように感じる。 小説の時と違って、全体的に軽快でスッキリした感じ。それでも、最初の有森さんを描いた文章などは、村上ワールドを感じさせる。しかも、自らがランナーだけに、細かいところに行き届いた文章。それに続く犬伏さんを描いた文章には、村上さんの強い思い入れが込められている。ランナーとしての視点が、ここでも感じられる。それにしても、村上さんはかなりの天の邪鬼。オリンピックを扱った本で、オリンピック開催そのものに辛らつな言葉を投げかけ、特に開会式なんて、メッタ切りにしてしまっている。それに比べると、トライアスロンやマラソンにはとっても優しい。 近くに本屋があったので、寄って本を買う。 シドニーの歴史と、オーストラリアの開拓の歴史の本。 それから誰かにあげるために、『国境の南、太陽の西』の英語版を二冊買う。 合計で九十二ドル五十七セント。(p.107)どうしてこの部分を引用したかというと、今パソコンに向かっているこのテーブルで、私は本も読むんだけど、パソコンの左手には、これから読む予定の本が10~20冊ぐらい山積みになっている。そして、引用した部分を読んでいたとき、たまたまその山の頂にあったのが『国境の南、太陽の西』だったから。偶然とは言え、ちょっとビックリしてしまった。ただそれだけの理由です。それでは、『2.ワラビー熱血篇』に進みます。
2009.09.24
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真の入門書。 誰にも身に覚えのあるようなエピソードを交えながら、 専門的な知識に深入りすることを上手く避けて書かれているので、 スラスラと読み切ってしまうことが出来る。 子どもの発達障害を扱った書籍は数多くあるが、 それが大人となると、途端にその数が激減する。 最近になって、その数が徐々に増えつつあるようにも感じるが、 まだまだ少ない。「ちょっと変わった人」はどこにでもいる。いや、実は誰の中にでも存在する。その「変わった」というレベルが、人によって大きいか小さいかだけの違い。つまり、その人その人の個性・特性ということになる。ただ、この「変わった」という部分は、自分では気付きにくいし(自分のクセはなかなか気付かないが、他者はすぐに気付いてしまうようなもの)、自分では無意識にそうなってしまってたり、悪気なんか全然なかったりする。しかも、それは誰が悪いというようなレベルのことではなく、あくまでもその人の特性なのだ。そんな事実を世間が広く知り、「ちょっと変わった」を受け止める土壌が必要である。そのためにも、本著のような書籍が出版されることは大いに意味がある。知らなければ、否定したり拒絶したりするだけで終わってしまうものが、ほんの少しの知識を得たことで、受け止める側の余裕を生む。 発達障害には、先天的な脳の機能のかたよりによって生じる独特な行動の特徴があります。 その「特徴」によって、周囲の人とうまくつき合いながら、 社会生活を円滑に送ることが難しくなります。 そのため、発達障害を「治す」ことは目標となりません。 「治す」「治さない」という考え方は、なじまないといっていいでしょう。 それよりも、社会生活を円滑に送るための「対処法を身につける」ことにより、 日常で困ることをへらし、仕事に就き、自立した生活を送っていくことが目標です。(p.035)そして、その余裕が「ちょっと変わった」人を支援する余裕に繋がり、それによって、あなたも私も、誰も彼もが皆上手くいくようになるのである。
2009.09.24
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『シュガー社員が会社を溶かす』の田北さんが、 シュガー社員への対処法を示した一冊。 本著をいきなり読むよりも、 やはり先に『シュガー社員が会社を溶かす』を読んでおいたほうがいい。 なぜなら「シュガー社員とは何か、そしてその実体は?」については、 『シュガー社員が会社を溶かす』の方が圧倒的に詳細で分かりやすく、 本著の方は、それを十分理解した上ので、対策編ということになるからだ。 逆に言うと、シュガー社員の恐ろしさは本著からだけではつかみにくい。著者のシュガー社員に対する基本的なスタンスは、周囲がどんなに頑張ってシュガー社員を一人前に育てようと思っても無理ということ。つまり、無理だからこそシュガー社員と呼ばれるのである。それ故、最大の対策法はシュガー社員を雇用しないこと。履歴書や職務経歴書、採用面接でいかにシュガー社員の正体を見破るか。そのノウハウが、詳細に記されている。シュガー社員対策としてだけでなく、面接のNGワード等、普通に社員を採用するときにも、ここで示されたノウハウは十分に使えそう。そして、本著で示された新しい捉え方が「シュガー社員スイッチ」。仮性シュガー社員を、いかにしてスイッチ・オンで真性に変身させないようにするか、そのノウハウも示されている。この部分も、一般のマネージメント知識として十分に役立つだろう。
2009.09.24
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読み始めると思ったより難しめで、 最初は取っ付き難さを感じてしまったのだが、 読み進めるにつれて、こちらも次第に慣れてきて、 最後には「なるほどね」というところまで辿りついた。 父親の急逝で突然社長に就任することになった若き女性・由紀を ちょっと謎めいた公認会計士・安曇が、月に一度食事をしながらレクチャー。 経営に関しては素人同然だった由紀が、 次第に会計の力を身に付けて、会社を優良企業へと変えていく。中でも身内の逆粉飾を見破るシーンは、このお話しの最大の見せ場であり、メインバンクの支店長から融資継続を勝ち取った所では思わず拍手!それにしても、管理会計という少々カタめの内容をストーリーに上手く載せながら展開しているのは見事。『夢をかなえるゾウ』を彷彿させるところもあるが出版されたのは、本著の方が約1年も早い。ただし、扱っている題材が「会計」であるため、自己啓発を扱う『夢をかなえるゾウ』に比べ、そのドラマチック度が劣るのは仕方あるまい。それでも、それ以後続編や漫画版まで出版されているのだから、各方面での評判はかなり良かったに違いない。本著で登場した「大トロはなぜ儲からないか?」については、『コハダは大トロより、なぜ儲かるのか? 』として、その後出版されている。
2009.09.24
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リュウのお話しに比べると、こちらはかなりハードな内容だ。 リュウがスタンダードな思春期を過ごしたとするならば、 アンの場合は、かなりそこから逸脱している。 そのことは、著者であり母である青沼さんも「あとがき」で触れている。 自分の意志で(ホントに?)、お受験のための塾通いを始め、 1年間のハードな受験勉強の末、見事私立女子中学へ入学したアン。 リュウが普通に公立中学校へ通ってた(だよね?)ことからすると、その差は大。 ところが、高校2年生で突然の「高校やめる」宣言。まぁ、その前の段階でヒップホップのダンスを習い始めたり、チャッパに細眉、制服は胸明け、超ミニ、ハイソとバリバリにギャル化したりしているから、客観的に言うと、その予兆は十分にあったわけだ。実際、生活指導室への呼び出しも常連となっている。にもかかわらず、 アンは派手なファッションが好きなだけで別に不良ではない 中身は普通の女子高生だ(p.043)と青沼さんは書いているんだけど、それって果たして本当に「普通」?まぁ、親という立場に立つ青沼さんとしては、それを「普通」ということにしておかないと、絶対にダメだとは思う。だって、娘がこの漫画を目にする日は、必ずやってくることになるわけだから。お話しとしては、アンはその後本当に頑張って通信制高校を卒業し、さらにダンススクールへの入社まで成し遂げるなど、まさにハッピーエンド。そんな娘を、周囲の雑音にに惑わされることなく、子どもを信じて、最後まで見守り続けた両親も本当に立派ということになるだろう。でも、なかなかこう上手く行かないケースが多いのも確かなのだ。人それぞれに人生があり、子どもの人生は親の人生とは別物だと頭では分かっている。それでも、子どもより何年かだけ豊富なこれまでの人生経験を基にして、色々と考え悩んでしまうのが親というもの。そんな時、どんな風に子どもに接し、どんな言葉かけをするのかは、とても難しい。悪くすれば、子どもとの関係が崩壊してしまうだけでなく、子どもの人生をさらに大きく狂わせてしまうことにもなりかねない。親をするにも「覚悟」が必要だということか。そういう意味で言うと、きちんと腹をくくった青沼さんはやっぱり立派。父親としてのダーリンの存在感も十分に感じられた。そして、兄のリュウも色々と妹を気遣っているようだし。こんな風にいい家族に囲まれていれば、人生やっぱり間違えようがないってことかな。
2009.09.23
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先日新聞広告で『かわいいころを過ぎたら(アン18歳)』が発売されたのを知った。 そして、そこにはもちろん本著も並んで宣伝されていた。 そうか、あの子たちももうそんなに大きくなったのか…… 月日が経つのは早いものだと一人で感慨にふける。 何といっても、我が家のリビングの書棚には 今でも『ママぽよ』シリーズの全4冊がしっかりと並んでいる。 もちろん、どれも発売当時に購入したものなのだが、 家族みんなが、思い出したように時々取り出しては読んでいる。青沼家の家族と我が家とは、家族構成や年代において重なる部分がとっても多いので、『ママぽよ』のページをめくるのは、まるでアルバムをめくるような感覚。それは子どもたちが幼かったあの頃へのひとときのタイムスリップ。そのリュウとアンが成長したということは、我が家の子どもたちも成長したということだ。 楽天ブックスにアクセスすると2冊とも在庫ありの表示。早速発注したのだが、しばらくすると『かわいいころを過ぎたら』が在庫切れとなり、発送できないとのメールが届く。翌日『かわいいころを過ぎたら(アン18歳)』だけが自宅に届いた。しかし順序からいっても、リュウのお話を是非とも先に読まねばならない。そこで、近所の書店に行って探すがなかなか見つからない。2軒目にいって探してもすぐには見つからず、諦めて店を出ようとしたところで遂に発見。帰宅して、すぐに読み始める。リュウは20歳になっていた。そして、ここに至るまでの日々が『ママぽよ』と同じタッチで描き出されていく。その成長の過程が、何だか妙に懐かしく感じられる。「そうだったよなぁ」と一人納得しながらページをめくり続ける。「男の下着変遷」や「男はだまりんぼう」「かーさんに至るまで」など、我が家を覗かれてたんじゃないかという程、本当にぴったしカンカン。ちょっと違うなというのは、我が家の場合、リュウに比べ小食だということくらい。「頭ン中はエロだらけ」なんかは、そんなものだったのかと今さらながらに勉強になった。リュウっていう男のコは、とってもスタンダードな思春期を過ごしてきたように感じる。ということは、我が家の場合もスタンダードだということか。久しぶりに、読んでいてホッコリする本に出会えた。続いて、アンのお話を読むことにする。
2009.09.23
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内田先生の数ある本の中で、本著は現時点で私の中でのベストである。 これまでは『下流志向』がその座を守り続けてきていたが (そしてこの本こそが、私が内田先生にのめり込む契機となったのである)、 遂にそれを凌ぐ存在が、新たに登場したのである。 本著は、内田先生の神戸女学院大大学院における2007年の講義を編集したもの。 掲載されている11の講義では、当時世間を賑わせていた教育改革や教育再生等、 教育に関するあれこれの問題に対して、内田節が炸裂。 そこで発せられる言葉の幅の広さと奥行きの深さには、もう脱帽するしかない。 教育再生会議に私が批判的なのは、「一気に解決できる方法」を必死に探しているからです。 教育のような惰性の強い制度が不調になっているときに、短期的な解決などありえない。 長期にわたる忍耐づよい継続的、多角的な努力がなければどうにもならない。 そのためには「誰が犯人だ」というような他責的な議論は有害無益なのです。(p.174)まさにその通り。この言葉に何の過不足も感じない。この後に続く 問題はすでに起きてしまった。その船に乗り合わせた以上は、 この事態について自分には直接の責任がないと思っても、 この危機を脱するためには他の全員と協力しなければならない。 「私には責任がないから寝ている。責任があるものだけでなんとかしろ」ということが言えるのは、 実は危機感がないからです。(中略) 被害評価の低さ(無根拠な楽観)と、自己卑下(無根拠な悲観)、 この二つが「犯人捜し」に熱中する他責的な人々の特徴なのです。(p.175)は、現代の日本社会を見事に言い尽くしており、拍手喝采ものである。 うんざりする話ですが、ともかく、その全国民を巻き込んだ国策的な 「自分らしく生きる」「個性的に生きる」キャンペーンの過程で、 消費行動に際して同意が必要な他者との共生は 「よくないこと」であるということについての国民的合意がいつのまにか成立しました。 非婚化・晩婚化・少子化というのは、この合意に基づく論理的な帰結です。(中略) そんなふうに「自分らしい消費生活」と「家族解体」のあともどりできないプロセスの中で、 グローバル資本主義は大変に繁盛したのでした。(p.200)なるほどね……結局誰かが儲けるために、こうなっちゃったってわけだ……。そしてそのしわ寄せは、儲けた人とは程遠いところにいる人たちの所にまわってきた。 だから、就活の面接のコツは簡単と言えば簡単だよといつも学生には言っています。 「自分をよく見せよう」と思わないで、 その場にいる人たちが(いっしょに面接を受けている競争相手も含めて) 気分がよくなるようにふるまうことです。 集団面接でディベートなんかやるときに、周りの人間を黙らせて、 ひとりで滔々とと自説を述べるような人間はまともな組織は「ノー・サンキュー」です。(中略) むしろ、みんなが気分よく話せるように「ファシリテイト」するタイプの人間が高く評価される。 (p.212)これから面接試験を受けようとする人には、本当に有り難いアドバイス(しかし、それを実践することは、思ってる以上に簡単でないと思われる)。 ミスもチャンスもどちらもグレーゾーンに発生する。 この経験則が、私たちの社会で現在進行している危機と、 組織的停滞の理由を説明していると思います。(中略) 「自己決定・自己責任」すること、「個性的であること」への病的なこだわり、 「協働」という生き方に対するつよい忌避と それがもたらす「共同的に生きる能力」の不足が 若者たちを非正規雇用や劣悪な労働条件に追い込んでいるということは、 重ねて確認しておく必要があると思います。(p.222)先に記したように、本著は大学院における「比較文化・文学」での講義録を編集したもの。この辺りのお話しは、さすがに世間一般の人々に向けて語られるものとは違って、アカデミックな香りが漂っています。 言いたかありませんが、子どもたちが働くモチベーションをなくしたのも、 モジュール化された仕事しかやりたがらないのも、 疑似家族的な企業体質が大嫌いなのも、自分の能力について外部評価を受け入れないのも、 これは私たち日本人が打って一丸となって国策的に推進してきた あの「グローバリゼーション」の輝かしい成果でなくて、何なのでありましょう。 消費単位を細分化するために「家族解体」を掲げ、 自己決定できる消費生活の素晴らしさを謳い上げ、 「自分らしさ」とは尽きるところ「商品購入のことなんですよ」と 二十年間メディアを通じて宣伝し続けてきた企業のみなさんが、今さらそれに頬被りして、 「なぜ最近の若者は自分の消費生活を最優先して、 他人と共同で労働することができないのだ」などと凄まれても、 こちらだって言い返す言葉がない。(p.226)内田先生、かなり熱くなっているようで、この後も「キャリア教育」について言いたい放題。これが先に記した「しわ寄せ」が、大学にまわってきた最大(?)のところだから仕方ないか。 私たちが怒るとき、あまり怒りの感情が高まってこないとき、私たちは怒気を強める。 怒声を張り上げる。そうすると、自分が口に出した言葉につられて、 内面の怒りの感情が沸騰してくる。 まず怒りの感情が内面にあって、それがふさわしい言葉を選んで表出されるのではなく、 ある言葉を選択したことによって、その言葉にふさわしい感情が内面に形成される。(p.246)これは確かにそう思う。つまり、貧困なボキャブラリーからは、貧困な感情しか湧き起こらず、それ故貧困な行動しか生み出されない。自分の感情をコントロールし、豊かで人間らしく生きていくためには、その時々の感情に、出来る限りフィットする言葉の選択肢を増やしておく必要がある。「キモイ」と「ウザイ」ばかりでは、豊かな未来は切り開けない。 前にも話したことがありますが、自分の子どもが生まれたときにそのことを強烈に感じました。 自分の遺伝子の受け渡しが終わった。 次世代にDNAが継承された。 そのことによってドーキンスの「利己的遺伝子」的な考え方からすれば、 私の仕事はもう終わったわけです。(中略) それは「もう、おまえは死んでもいい」ということです。 子どもが生まれた瞬間に、生物としての仕事を成し遂げたという安心感と虚脱感が同時に来る。 (p.254)この部分は凄く共感したというか、実は驚いた。こんな風に感じる人って、やっぱり他にもいるんだなって。それも、内田先生と自分とが、全く同じ感覚を抱いたなんてね。そして、この後はこう続いていく。 でも、それだけでは終わらない。 今度は自分から生まれてきた子どもを守り、 次世代にこの子がDNAを「パス」出来る状態まで養育しなければいけないという 新たな義務感が湧いてくる。 これもまったく想像もしていなかった種類の情動でした。 つまり、「もうおまえの仕事は終わった。もう死んでもいい」というメッセージと 「石にしがみついてでも生きろ」というメッセージが同時に来るんです。(中略) 子どもを持つというのはこういう経験のことなのかと、そのときに驚嘆したことを覚えています。まさに、これこそが親というものだ。
2009.09.23
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私は『天才バカボン』という漫画がそれほど好きなわけではない。 TVアニメ放映時も、楽しみにしていたというほどではない。 何よりあのハチャメチャさには、子供の頃からついていけなかった。 見ていて「これでいいのだ」とは、到底思えないことも多かった。 本著もまさにそういう感じである。 著者の狙っているところは、私にとって「これでいいのだ」と言うよりも、 「それじゃダメだろ」と突っ込みたくなる部分がかなりあった。 私はバカボンのパパのようには、とてもなれそうにもない……。だから「この本を14歳の子どもたちに読ませたいか?」と聞かれたら、基本的には“No”。でも、子どもたちは一人ひとり違うから、「読ませてもいいか」と思える子供もいる。いや、それどころか「ぜひ、読ませるべきだ」と思える子供も確かに存在する。でも、自分の子供には読ませないだろうなぁ……読ませたい部分も結構あるんだけど……。 最近、ティーンの子どもたちが親を殺しちゃったりする事件が増えていますが、 「親だって自分とは違う別人格なんだから、思うとおりにふるまってくれないこともある」 と言い聞かせれば、ちょっとは肩の荷が軽くなるのではないでしょうか? 私自身、若いころは親の言うことは絶対だったから、 たとえ間違ったこと言われてもそれに気づかずに悩んだこともあります。 でも、大人になってみると、親も自分と同じただの人、 間違ったことも言うし、決して完璧な人間じゃないんだと、理解できたんですよね。 そのとき、なんか気が楽になったんです。 親も愛すべき人たちなんだなって……。(p.044)これは赤塚不二夫さんの娘・りえ子さんの言葉。不二夫さん自身もバカボンのパパに負けず劣らずの方だったように思うが、そんな父親を漫画家として尊敬し、その作品を守り後世に残そうとするりえ子さん。この境地に至ってこそ、まさに親と子である。『日本一醜い親への手紙』に登場した人たちは、ここに至らぬままに、人生を終えてしまうのだろうか。そして、自分の子供が誕生したときには、どのように接していくのだろうか。また『完全家出マニュアル』なら、この体験談にどんな「傾向と対策」のコメントを掲載するのだろうか。 ところが、せっかく面白い先生が来て体験授業をやっても、 生徒はみんなボーッとして聞いてるだけ。 「教育の問題って、先生だけにあるんじゃないぞ」と気がついたんです。 ただ、話のメモ取って、試験受けてるだけじゃ同じだ。 これは、生徒も変わらなきゃいけないと思いました。(p.140)これは橘川幸夫さんの言葉。この人の対談部分が本著の中で一番面白かった。1961年小5の時に、近所で一番初めに自宅にテレビ受像機が届いたときの話や父親が頑張って父親の力をなくすという一種のニヒリズム、さらに「闇しばり」や「自分探し」「コミュニケーション」について等々内容が盛りだくさん。「コンドームとコンプレックス」や「アフターインターネットの世界」なんかはもう最高で、この人の世間を見渡すセンサーの守備範囲の広さと鋭さとには、心底感服させられた。 だから、大人に「何になりたい?」って聞かれたら、 子どもは「それなら、何をやりたい?でしょ」と訂正すべきです。 私自身、子どものころ、「何かになりたいっていうことが最終目的なの?」 というふうに疑問を持っていました。大人も質問力をつけたいですよね。 「このカメラ欲しい?」ではなく、 「このカメラ買ったら何撮りたい?」と聞くべきなんです。(p.204)これは文句なしに素晴らしい!でしょ?まさに目から鱗が落ちるとはこのことですよね。この言葉は、インターネット寺院「彼岸寺」僧侶の松本圭介さんのもの。東大を卒業し大手広告代理店に受かりながら、突然仏門を叩いたという人。この人にかかれば「これでいいのだ」という言葉は、究極の自業自得の言葉になってしまう。仏教もなかなか奥が深い。
2009.09.23
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「家出」とは「自立」である。 親やその他の家族との関係を断ち切り、 経済的にも精神的にもそれらに一切頼ることなく 自分の力だけで生きていくこと。 もちろん、自分を支援してくれる人たちは絶対に必要。 そんな人的ネットワークの作り方も本著には示されている。 また、経済的に自立するための手立ても事細かに教えてくれている。 その辺の「就職手引書」など足元にも及ばない現実的な内容である。本著に示されたことをやり遂げるためには、精神的な逞しさと知性、そして何よりもかなりの行動力が必要とされる。気軽に誰もがホイホイと出来るようなことではない。真の「家出」というものが、どれ程の困難を伴うものであるかがよく分かる。ここまでのことが出来てしまう人ならば、家に留まりながらでも、現状を打破していけるのではと思ってしまうが、それは私の考えが甘いのだろう。本著に示されたことを実行できてしまう人ですら、家に留まっていては抜け出せない或いは、パワーを奪い去られてしまう「狂気」がそこにあるのだろう。 *** 掲示板では頭の弱い人に関わるな: 多少ムッとするような書き込みを掲示板でするような人が現れたら、とりあえずはタッチしないこと。 ネットには、心を病んだ人や、大声でしゃべりまくるような自意識過剰な人も参加している。 彼らがマシンやネットについての高度な技術を持っている場合(結構ある)、 キミの個人的な情報をハッキング(ネット上からあらゆる手段で情報を引き出すこと)して 公開されることもある。(p.65)本著は1999年8月20日初版発行、つまり10年も前の書籍である。ケータイやインターネットの環境は、今とは随分違っていたはず。しかし、そこに示されている内容は当時としては最先端であったことはもちろん、それらのツールの使いこなしの術は、現在でも十分に通用するものであり、正直驚かされた。 親=単なる中年というメガネでいつも観察できていない人は、 家出中に親がやっと変わったことに気付かず、 「なぜこんなに思いやりのある親を思いやれなかったんだ」と見当違いの反省をしがちだ。 自分が親になると「親の心が分かって大人になった」と錯覚し、 親はなくとも子は育つという現実を忘れがちになるが、 そうして大人になることそのものが、次の世代に同じような悲劇を引き継いでしまっているのだ。 大切なのは、1度でも一生でも、捨てられてこそ親だってこと。(p.106)本著が出版されたのは「アダルトチルドレン」という言葉がもてはやされてた頃。著者は時代に敏感に反応し、それに関連する著作を次々に世に送り出した。『日本一醜い親への手紙』もそんな中の一冊。もちろん、これらの著作は同じ方向性・意図をもって作られている。 これは「心からは愛せないけど死ぬまで一緒」という貞操主義の結婚を捨て、 デート相手はA氏、セックスならB君、相談はCさん……という具合に 目的別に親密な人間関係を分ける恋愛スタイル。 それでさみしさを解消できるだけの慣れとネットワークが必要。(p.181)人が世界を見渡すときの物差しは、その育ちの中で形成されていく。どれほど知的で創造力の豊かな人であっても、自分の実体験した世界からは抜け出せない。体験を伴わない世界の出来事は、どこまでいってもバーチャルなものに留まる。それは、私も著者も、誰も彼もがそうである。
2009.09.23
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現在、この書籍は一般の書店に並んでいない。 本著に続く『もう家には帰らない/さよなら日本一醜い親への手紙』と 『子どもを愛せない親からの手紙』の親子の愛憎三部作のいずれもが入手不能。 もちろん、中古でなら、色んな方法で手に入るでしょうが。 親への恨み辛みを並べた手紙を、 100通も次から次へと見せられると、 読んでいる方も、さすがに気が重たくなってくる。 最後まで読み切るには、かなり気合いを入れないと難しい。私が本著のことを知ったのは『わたしの心は壊れてますか?』で。そこには、こう書かれてあった。 最近の話題作に『世界一醜い親への手紙』というバカ本があります。 あの本のなかで手紙を発表した子どもは生涯、 親と和解できないのではないかと思うと悲しくなります。 ああした本を認め新聞が大々的にとりあげ、 なおかつ売れてしまう社会というのはまちがいなく歪んでいると私は断言します。(p.42)『わたしの心は壊れてますか?』の「あとがき」が書かれたのが1998年9月であり、本著の発行が1997年11月であることから、タイトルが『世界一』となってはいるものの、それは著者の高橋さんの記憶違いであり、ここで述べているのは、おそらく本著のことについてだと考えて間違いないと思う。本著の中の手紙についての私の感想は、基本的には高橋さんと同じである。中には、どう考えても「ちょっとなぁ……」と思えるものがある。それらを全て受け入れてみるという信田さんの姿勢には、ついていけそうにない。しかしながら、書き手に共感せずにはおれない手紙も多くあるのも確かだ。こんな手紙を書かずに済んだ自分は、たいへん恵まれていると思うし、また、自分の子供にも、絶対にこんな手紙は書かせたくない。しかし、この本に掲載された手紙の書き手たちは、それぞれに、書かずにはおれない理由があったのだろう。その理由の客観性や重大性、正当性はともかくとして。生きていく中で、それぞれの人にそれぞれの色んな人間関係ができあがる。しかし、それらは転居や転退職、死別等、色んな理由で一つずつ途絶えていくものだろう。もちろん、途絶える人間関係もあれば、新たに生まれる人間関係もある。でも、その中で最後に残る、一番大切な人間関係というのは何なのだろう?少なくとも、私にとって親子の関係は、何物にも代え難いほど重要である。
2009.09.05
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小栗旬くんが、映画『TAJOMARU』(2009年9月12日公開予定)のことをTVで話していた。そのとき、彼が演じている盗賊・多襄丸というのが、芥川龍之介の短編『藪の中』に登場する人物だと聞き、興味がわいたので、青空文庫で早速読んでみた(私は「Virtual Book」というテキストビュワーを使っています)。お話しは、事件について語る7人の証言で構成される。証言しているのは、木こり、旅の僧侶、検非違使庁の下級刑吏、死んだ男の義母、そして、事件に直接関わった盗賊・多襄丸、死んだ男の妻、そして死んだ男である。死んだ男の証言は、巫女の口を借りて語られる。このうち事件の核心に迫る証言は、最後の3名からのものだけである。しかしながら、この3名の証言が、肝心なところで全て食い違っている。多襄丸は、太刀打ち(決闘)をした際に自分が男を殺したと言い、男の妻は、小刀(さすが)を使って自分が夫を殺したと言い、男は、妻が落とした小刀を使い自刃したと言う。即ち、3人の証言者は全て、自分が男の命を絶ったと証言しているのである。また、殺した理由として語られる内容もそれぞれに違う。なかなかに難解……。このお話しの解釈については諸説あるようだが、ちゃんとした決着はついていないようで、それ故、真相がハッキリしないことを「藪の中」と言うようになったとか。黒澤明監督の『羅生門』が、このお話しを元にして作られたことを、恥ずかしながら、私は初めて知った。そして、その映画作品の中では、一応、真相が明らかになってエンディングを迎えているらしい。ただし、今回公開される『TAJOMARU』は、時代も設定も、この作品とは全く別物で、小栗くん演じる盗賊の名前が、そこから採られただけのようだ。
2009.09.05
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『生きちゃってるし、死なないし 』を読んだ頃には、 リスカや薬物のことに興味の方向が向いていたので、 その頃『生きちゃってるし……』と一緒に購入した本の中の一冊。 もちろん、一時期世間を大いに騒がせた有名な一冊である。 色んな死に方があるものだが、どれもそんなに簡単なことではない。 普通に手に入るような大衆薬なんかだったりすると、 相当な量を飲み込み、かつ吐き出さないようにしないと死ねない。 規制医薬品ですら、相当貯め込まないと致死量にはならないようだ。それに比べると、さすがにドラッグは危険度大。アップ系の代表が覚醒剤とコカイン、ダウン系の代表がアヘン、モルヒネ、ヘロイン。さらに、カクテルや幻覚剤もある……一口にドラッグと言っても奥が深いことを知った。そして、医薬品以外で私を最も驚かせたのは、煙草の溶液の持つ毒性の強さ。その他には首つり、飛び降り、手首・頸動脈切り、飛び込み、ガス中毒、感電、入水、焼身、凍死等々が、自殺の手段として紹介されている。予想外の方法が、自殺の手段として案外有効だったりした。そして、手首・頸動脈切りで死ぬことが、なかなか難しいことも再確認。そんな中、ケーススタディとして紹介されている三原山の火口岸から約60m下の火口底に飛び込みながら、結局死にきれず、傾斜約70度の火口壁を、飛び降りてから15時間かけて登り切ったというエピソードは印象的。ケガは全治1か月の軽傷だったという。しかし、ここまでの生命力を持った人間が、何故自ら命を絶とうなどと思ったのか。一緒に火口に飛び込んで死亡してしまった女性の意向に沿っての飛び込みだったのか、それとも、主導したのは実はこちらの男性で、女性はそれに従い亡くなってしまったのか。いずれにせよ、三角関係のもつれを精算しようとして飛び込んだのは間違いないのだろう。そして、もう一つ気になったのが大阪・熊取町の事件。1992年の6月から7月にかけ、毎週1人ずつ5人の男女が不可解な死に方をした事件。自殺なのか他殺なのか、未だにハッキリしない所が多いらしい。しかもこの熊取町、2003年5月には小4女児誘拐事件が発生し未解決のまま。いずれにせよ、自ら命を絶とうとしている人に巻き込まれ、ケガをしたり、命を失ってしまった人は気の毒としか言いようがない。また、誰かが自ら命を絶ち、そこで多方面に多額の支払いが生じた場合(飛び込み等)、精神的にも経済的にも大きな負担を強いられることになる家族や親族は、本当に痛々しい。もちろん、そんな周囲の状況を冷静に判断できるような心持ちであれば、自ら命を絶とうなどというような判断に至りはしなかったのだろうけれど。「死んでしまえば、全てが終わり」というわけにはいかないということだけは、誰もが肝に銘じておかねばならないことだと思う。
2009.09.05
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販売開始と共に即購入、即読了。 『ピアノの森 16』の方はミスってしまったけれど、 こちらは、次巻が何時出るかだいたい予測がつくし、 予約開始時も、楽天のブックランキング登場ですぐ気付く。 もちろん、入荷した折には、どんな本屋さんだって、コンビニだって、 必ず店頭の目立つ場所に置かれるから、見逃しようがない。 やはりこうしてみると、『ONE PIECE』は超メジャー作品であり、 『ピアノの森』の認知度は『のだめカンタービレ』にも及ばない……。さて、今巻の主役は何と言ってもオカマの2人。それぞれに、ビシッと決めのセリフが際立っています。まずは、ボンちゃんがルフィー救出に引き返す理由をバギーとMr.2に言い放った言葉。 友達(ダチ)だからようっ!!!! 理由なんざ他にゃいらねェ!!!!続いては、復活に向け苦しみもがくルフィーの姿を見るに見かね、涙ながらに何とか助けてくれと頼むボンちゃんにイワさんが言い放った言葉。 奇跡は諦めない奴の頭上にしか降りてこない!!!! “奇跡”ナメんじゃないよォ!!!!しかも、このイワさん、ルフィーパパ・ドラゴンと深~い関係の人物。ルフィーがドラゴンの息子であることを知ると、俄然強力バックアップを開始します。それにしても、そうそうたるメンバーが集結し始めたものです。ジンベエ、クロコダイルにMr.1までもが加わる強力ラインナップ。そこにホルホルの実のイワさんとチョキチョキの実のイナズマ。そして、勿論強い絆で結ばれた友人2人・ルフィーとボンちゃん。バギーやMr.3も、何かの足しにはなるのかな。そして、いよいよ次巻では、この精鋭たちがエース救出のため海軍本部に乗り込む!!
2009.09.03
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うかつにも新刊が発売されていたことに 2週間もの間、気付いていませんでした。 近所の本屋さんでは、チェックを入れてたにも拘わらず見当たらなかったし、 このブログ・左サイドの楽天の「ブックランキング」でも表示されなかったし……。 それで、たまたまネットで検索をかけて、初めて発売に気付いたわけです。 もちろん、即、ネットで発注して、今日自宅に届きました。 そして、手にした16巻を読み始める前に、まず15巻を読み直しました。 う~んっ、やっぱり『ピアノの森』、スゴイ!そして16巻を読み始めると、これがまた15巻以上にとってもスゴイ!!カイのショパンコンクール一次審査演奏シーンでは、回想シーンが挿入されています。そこで描かれる、カイと阿字野が二人三脚で歩んできたピアノの日々はとっても感動的。これまで明らかにされていなかったエピソードも結構たくさんあります。 そして、聴衆を魅了してやまない演奏の締めくくりが24のプレリュード Op.28 第24番ニ短調。Dの最低音fffの1音目は、左手中指に人差し指を重ねて強打、さらに2音目と3音目は、両サイドの白鍵を右手親指と人差し指で押さえながら、左拳で強打。鳴り止まぬ拍手と歓声、3分15秒ものスタンディング・オベーション。ライバルたちも、カイの演奏を聴いて、それぞれの表情を見せますが、審査員の中には、頑なにその演奏を受け入れようとしない先生もいるようです。そんな中、佐賀先生は、遂にカイのピアノとマリアのピアノとの関係に気付き始めました。続く、一次審査通過者30名発表シーンの主役は、カロル・アダムスキ。一番最初に呼ばれるはずの彼の名前が、結局コールされないまま発表は終了。カイや修平、アン兄弟、ウェイ・パンなど主だったところは全て通過したというのに……。ポーランドの辛口評論家ヤツェク・ホフマンが語った言葉は、まさに、ドロドロとしたコンクールの舞台裏を暴くものでした。 ***カイの演奏シーンの盛り上がりようは、もう尋常ではありませんでした(やはり、現状では『のだめカンタービレ』を遙かに凌駕しています!)。彼の弾くピアノが、鮮やかに頭の中で、心の内で鳴り響き、読んでるうちにドンドン興奮が高まっていきました。それが審査結果発表のシーンになると、突如として物語のトーンが一変。フィクションとは言え、こういうことも結構本当にあるんじゃなかろうかと思わせるコンクールというものの得体の知れない恐ろしさが、ひしひしと伝わってきました。頑張れ、カロル!
2009.09.02
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