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「思考と直覚」時間と霊魂37 人間に実際に体感し体験して観想させているいる時間とはどのようなものか。人間精神が実際に体感し体験している時間は、空間化(視覚化)された時間や、ニュートン力学の変数のような時間ではないという指摘があります。そもそもが、世界の基底において過去や未来というのは実在するのが実相であるのかないのか。変化するものが何一つない場合でも、時間はあるのか。勿論のこと、変化することがないのは「有」としての永遠の存在ふぇある絶対者及び神の絶対時間です。人間のみならず世界内存在は、変化からは免れ得ません。即ち、人間の捕捉できる時間とは変化が基底となります。時間の概念が「有」としての神や絶対者及び絶対存在と世界内存在である在りと汎ゆるものとの完全な絶縁です。然し乍ら、理性を抱(いだ)いた人間精神は稀有なことに神の様態の延長として、神の認識を受動する可能性を持っています。其れを具体的思考でもって答えたのがイマヌエル・カント(1724年-1804年)です。ニュートン時間を、空間の直観形式でもって、人間は様々な現象を認識する後の経緯に具体的な論理を説きます。カントにあっては経験的な認識は、現象からの刺激を、先ず外官によって空間的に、そして、内官感覚器官によって時間的に受け取り、それに純粋悟性概念を適用することによって成立する。空間は外感覚によって直観、或いは「直覚」され、時間は内官によって直観として意識される。この場合、時間は空間の喚起(メタファー)として捉える見方もあるとして取り上げている「純粋理性批判」ですが解釈の大変難しい課題として捉えています。時間と空間の一体どちらが根源的な認識様式であるかという問いに関しては、どちらかといえば時間であるという見解も純粋理性批判には見出され得るのです。西洋の伝統では、事象が空間的、視覚的に捉えられる事からの結論です。現代物理科学のビッグバンや其の後の空間膨張に伴って時間が派生する経緯がシュミレーションされていないことからくるやむを得ない解釈だといえます。何れか知れずの「素因」から何らかの「核」が発生、其のエネルギー源から変化が起動され運動としての膨張が生じ、空間が生じ、重力子並びに光子に伴ない実相が見えない時間子或いは人間が思考上観想する時間が派生したとするのが穏当な現代解釈でしょう。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年11月30日
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「思考と直覚」時間と霊魂36 人間精神が実際に時間を観想するときに、幾何学的に空間化されてものや、ニュートン力学の変数化されたものを観想、実際に体験を実相しているのかは甚(はなは)だ疑問です。抑々(そもそも)が自己の実在する今に、思い出や事実的予感である過去や未来が現状に在るのか無いのか、言い換えれば過去や未来というのは実在するのかの疑問が湧きあがります。変化するものが何一つない場合でも、時間はあるとするのかどうかの問題です。譬えば、暗黒の宇宙で人間が呼吸しないで生きていると仮定して、上下左右は勿論のこと、意識は立っているのか横になっているのかの状況。見えるものとして見えない空間、距離感は当然に失われています。其の立ち位置にある人間は、計測する対象さえ持たない。空間感覚さえ奪われた特異点で、時間は空間化されたもの、或いは、ニュートンの時間の等速を感じるかは常識的にはないだろうとする疑問です。此れは、母親の胎盤の胎児との状況とも掛け離れています。何故なら、胎児には母体の心音が聞こえている時間の対象があるからです。暗黒の宇宙で人間が呼吸しないで生きている状況においても人間が時間を悟性するならば、人間を離れては時間の実存性は在るのか無いのかに再度向き合うことになります。此処で、無限永劫を感ずれば時間は流れており等質・等速運動する何ものかである可能性が大になります。対して、今現在しか感じなければ時間には粒子性があり比較相対するものなくしては成り立たないことになります。此の視点から観想するとすれば時間とは主体として成り立っているものではなく、何ものかに付帯する作用因だとの結論が待ち構えます。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年11月29日
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「思考と直覚」時間と霊魂35 ニュートン力学においては時間は全宇宙で均質・等質とされたが、アルベルト・アインシュタインが思考した相対性理論によって、そうではないことが世界的に認識されますが、物体の運動については、光速に近い速度でない限り、相対論からの近似により、ニュートン力学の枠組みで十分な精度で計算できることが保証されています。相対性理論が登場した後でも、大学の専攻分野によっては違うものの、基本的にニュートン力学の枠組みのままで時間概念を取り扱うことが一般的です。人間精神が時間を観想するものの、現代の物理学の体系において、時間は物理量のひとつと即ち「運動」として扱われています。時間が独立した物理量のひとつであるならば、当然に「時間子」が存在する筈ですが未だ無い発見したことは耳にしません。但し、特筆すべき「プランク時間」の概念の登場があります。物理学上の定数を用いて、「長さ(時間)」「エネルギー」「温度」などの単位を再構築しようという思考がそうです。自然単位系と呼称されています。。プランク時間は自然単位系のひとつであるプランク単位系の時間の単位である。プランク時間は、物理的には最も短い時間であり、しばしば「時間の最小単位」であるとも云われます。然し乍ら此のことが物理学における時間の概念が分離離散的なものであることを意味するとは考えられません。人間の精神が生理的に時間を流れると捉えるからでしょう。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年11月28日
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「思考と直覚」時間と霊魂34 必ずしも全てキリスト教の影響から脱却したとはいえないが、時間、林檎の落下から万有引力を発見したアイザック・ニュートンが、自然哲学にユークリッド幾何学を基底にした体系を構築しますが、当時、著名な幾何学と云えばユークリッド幾何学を指し、譬えば無限大とした大宇宙の空間は原点を何処に求めるかは任意的であり,n次元の運動群の作用する等質空間と思考しています。ニュートンは「時間」は過去から未来へと何(いず)れの場所でも常に等しく進むもので、空間と共に、現象が起きる固定された舞台のように想定します。此の等質的に固定された世界における空間を「絶対空間」と呼び、等質的な時間を「絶対時間」とも呼称しています。ニュートン力学では、空間座標と時間座標は独立であるとしたため、時間座標(時刻)は空間座標(位置)の媒介変数(parameter)としています。従って、現代物理学的な物理学の、特に相対性理論における4元ベクトル(よんげんべくとる、英語: four?vector )とは、ミンコフスキー空間またはアルベルト・アインシュタインが時空間を記述するのに利用したアルベルト・アインシュタインが時空間を記述するのに利用したローレンツ変換で有名なヘンドリック・アントーン・ローレンツ(Hendrik Antoon Lorentz)ローレンツ多様体上の4次元のベクトルです。より具体的には、時間に対応する物理量と空間に対応する 3次元ベクトルをまとめて 4次元時空上のベクトルとして表示したもので相対性理論における4次元ベクトル(four-vector)、「方向・進路・方向量」といった意味の言葉。物理学的には「空間における大きさと方向を持った量」を言いますが、時間に対応する物理量と空間に対応する3次元、我々が学業において習ったように時間を時間線として捉えています。つまりは、ニュートン力学の範囲では、時間は全宇宙で等質に流れ均一だということです。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年11月27日
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「思考と直覚」時間と霊魂33 古代世界社会にあって、特異なのはアラビア半島においての国境なき隊商、駱駝などで通商貿易に従事する隊商が、南はアフリカ大陸、東はインド大陸にまで接し、インドの「ゼロの発見」によって商取引に目覚ましい発展を見せます。旧約・新約・イスラーム世界での同じ民族の間では利息は宗教上許されないものでしたが、イスラム圏外での商取引には利息は認められ、日数と費用の計算である利率を求めるためには時間観念を取り入れ得ざるを免れません。西洋各都市で屡々よく見る市民共有の大時計は、自由都市を牛耳る商人たちの、経済的・社会的・政治的支配の道具の象徴的意味が含有されています。市民共有の大時計は、自由都市を牛耳る商人たちの、経済的・社会的・政治的支配の道具として時間意識ととともに必要不可欠でした。現代的な時間観念は此の思考を引き摺っています。アラビア数字とインドの「ゼロの発見」の導入により時間概念の定則化と商取引に目覚ましい発展が起こります。片や、借入れる人間の側に立てば奴隷制度廃止後は其れ以上の塗炭の苦しみをも生みかねません。ギリシァ社会の奴隷はアフリカのオランダ植民地の奴隷とは違い自由度が高く、借金するより良い主人に仕えるほうが優っていたからです。ともあれ、人間が自己の社会制度において時間意識が現実性を帯びたのは哲学や科学ではなく、経済でした。経済的社会時間は人間霊魂から深層に眠る時間観を実務的現実性へと変換します。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年11月26日
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「思考と直覚」時間と霊魂32 先史時代・歴史時代突入初期のゲルマン語を話す部族および部族連合を原始ゲルマン人、または古ゲルマン人、亦は原始ゲルマン人と呼称しますが、ゲルマン人(独; Germanen)はインド・ヨーロッパ語族に属する言語を用いる群小部族集団の総称であって、現在のデンマーク・スウェーデン・ノルウェーの各国やアイスランド人、アングロ・サクソン人、オランダ及びドイツ人等々がこれに属しますが、原始ゲルマン人または古ゲルマン人はこれら民族の祖先とされています。フン族の進出により已む無く民族大移動したゲルマン人以前の古ゲルマン人を指します。古ゲルマン人の時間意識はキリスト教の時間観とは異質で、神の意思の一つの方向を目指す直線的な時間観ではなく、円環的な時間観相を示しています。物理的な時の刻みではなく、其のスパンは季節などかなり長い時の経過を意味しており、「年」などの解釈も毎年繰り返される収穫の意味として観想されています。現実の農耕生活における、具体的な、人間と自然の規則正しい関係があり、それが人間の意識や行動を規定していたのであり、自然の循環こそが「時間」であり、「循環する経緯」こそが人間と自然の規則正しい関係であり、人間は死後冥界に入るが、此の冥界というのは此の世と並行して存在しており、此の現世と交流可能な世界であり、死者は現世と繋がりつつ冥界で生きるとされ「転生観」や「霊魂再生」及び「神の死と再生」までが盛り込まれます。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年11月25日
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「思考と直覚」時間と霊魂31 キリストの現出が古史からの形而上哲学や円環的時間観に大いな影響を及ぼしたことは大いにあります。其れは時間の二層性・二重性の観念です。形而上哲学においても絶対者の時間と人間が存する世界の在り方からなる時間を明瞭に区分けして捉えます。物理科学上の時間は、物質の運動を捉えるのには時間の概念は欠かせない単位です。なかでも、青年期にはゾロアスター教から派生し,キリスト教のグノーシス派 と仏教の要素を加えた古代ペルシアの宗教マニ教、光と闇・善と悪・精神と物質とが截然と分かたれていた始源のコスモスへの復帰を軸として徹底した二元論的教義展開、マニ教独自の救済教義が宇宙論的に展開される教義を信奉し、次いで新プラトン学派哲学に傾倒、32歳でキリスト教に回心した初期キリスト教の西方教会最大の教父で、正統的信仰教義の完成者とされる紀元354年-430年に存したアウグスティヌスは時間を世界内時間存在と考える思考から引き離し、人間の内面精神に解答を求めます。彼は人間が時間を過去・現在・未来と区分するのに視点を定め、過去とは「既にに無いもの」であり、未来とは「未だ無いもの」である。ならば在ると言えるのは現在だけなのではなかろうか。過去や未来が在るとすれば、それは「過去についての現在」と「未来についての現在」が在るのである。過去についての現在とは「記憶」であり、未来についての現在とは「期待」、そして現在についての現在は「直観」だとします。即ち、直観とは瞬間的閃きを「直覚」することです。時間とは、人間精神の根底にある心の働きなのだとします。「神は世界創造以前には何をしていたのか」と問う人もいようが、アウグスティヌスによれば、此の類いの問いは無意味である。何故なら、人間が存する世界時間そのものが神によって創られたものだから。創造以前には人間が認識できる時間はなかったのである。神は永遠であり、過ぎ去るものは何もなく、全体が現在にある「永遠の瞬間」とも云えるものだとしています。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年11月24日
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「思考と直覚」時間と霊魂30 時間線上で神との唯一決定的な接点は兎も角も、旧約ユダヤ教では「地と、森羅万象の完成した。第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれた。」としますが、キリスト教では、神の創造も唯の一度で完了した過去の業に過ぎないものではなく、世界創造と同時に伝統・継続的な「不断の創造」としての現在の継続創造事実があるととされ、ドイツのプロテスタント神学者R・K・ブルトマン(Rudolf Karl Bultmann)の新約聖書のパラダイスの表象とその解釈をめぐる問題としての非神話化や「現在的終末論」を展開したC・H・ドッド(Charles Harold Dodd)を徹底的終末論を一方の極と考えるならば、その対極として考えられる「実現された終末論」(realized eschatology)、イエスと共に世界は既に世の終りたる神の国がこの世界の中に入り込んできていると思考、イエスそのもの自身が認識し、また、それを教えたとするものです。ドッドは、世の終わりがこれから来たるものとして、イエスによって信じられていたことを勿論のこと否定はしなかったが、強調点は徹底的終末論とは異なり、既にイエスと共に神の国、神の支配がこの世に到来しているというところでしょう。此の様に「実現された終末論」は、既に神の国の最も重要な要素たる神の支配が起こってしまっている以上、其の要素が未だ此れから先のいつに完全に実現されるものであっても、いつそれが完全に実現されるかはそれ程に重要な問題ではなくなる。終末についても現在性、即ち、現在進行形であると指摘しています。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年11月23日
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「思考と直覚」時間と霊魂29 人間が時間線上で神との唯一決定的な接点を持ったとするならば、其れは形而上の哲学ではなく、宗教のみに許される事柄でしょう。其れが「新約マリアの処女受胎、神の子の受肉」です。キリストの此の世への到来、其の「死と復活」という歴史のただなかへの一度限り成された「神の啓示」です。此れこそが、たとえ、宗教に携(たず)わらないまでも、人間が思考し得る「永劫の時間である神」と人間が存する時間線上で接点を持ち得た1回切りの奇跡であることはナザレの大工ヨセフの子をイエス・キリストと認めるならば神との時間線上の接触でしょう。キリスト教にあっては、此の事績は反復されない、一回限りの決定的な出来事とされ、それを唯一の根源としてキリスト教の救済史観が成り立っています。イエス・キリストの現出が過去多くの思想家・宗教家が始まりと終末を考慮せずに済む円環的時間観にキリスト教が直線的な時間をもたらせたことは西洋思想に重要な影響を与えています。エジプト古代史における太陽暦からの日々繰り返される日照時間は円環的時間感を醸(かも)します。東洋の思想史を見ても、「時間は巡る」の諺通り世界は日々再生循環するとした思考も根強くありました。キリスト教世界の始まりと終末は、西洋哲学は勿論、天文学や物理科学への思考に影響少なからずあったこと事実です。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年11月22日
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「思考と直覚」時間と霊魂28 モーセが記したとされる旧約の創世記で、初めに、即ち世界創造の最初期段階に「神は言われた。光あれ。こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。」とあります。そのうち、「神は言われた。光あれ。」は神の絶対存在としての絶対意思・絶対意識が表装されています。次の、「神は光を見て、良しとされた。」は絶対者としての神の完全体を顕し、神の創造には意思の欠片や不充分性はなく神の意識は自己を意識することすらない完全な絶対意識なのですから、人間が其のように受け止めたと解釈すべきでしょう。更には「神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。」とありますが、此の文言(もんごん)は要注意です。「初めに神は」の語彙を読み取れば、人間が観想する時間は此の時点で発生しており、神の時間は無限永劫の過去から有り、未来永劫に有ることが解ります。言い換えれば、神の時間は人間が観想する過去や未来を超えた永遠の瞬間だと断定せざるを得ない、旧約の創世記は其れを語ります。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年11月21日
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「思考と直覚」時間と霊魂27 旧約に神が世界に時間を導入させたと記さない以上、旧約としてのユダヤ教は「神の時間」と「人間が在する世界の時間」を明確には区分せず、「神の永遠」即ち世界の時間線を俯瞰する、其れも一瞬の長さを持たない世界の時間線の始まりから終末を俯瞰する時間的変遷のない恒常の一点です。世界の時間線とは接点は、神が世界に時間を齎したのなら時間には始まりがあり、終末があることは「神」を基底とする限り当然です。旧約は創世記の出だしから人間の時間観想を神に投影させて、自ら時間を混沌化させ矛盾を浮上させています。神の創造を人間が観想する時間で表意したことからする矛盾です。モーセが記したとされる旧約はモーセの預言書であり神の通詞の役割を担いますが、記述することの限界が見られます。世界三大宗教の聖者が語るのみで自ら文章に記さない素因は此のあたりにありそうです。とはいえ、人間誰しもが時間の経過、現在が過去へと流れ、未来が現在に至り、過去になることを思考から拭(ぬぐ)困難です。紀元前4世紀のアレクサンダー大王を幼年から家庭教師を務め傍らに努めて居たアリストテレスは、運動なきところには時間があり得ずと思考し、時間と運動を同一視しています。此れは専ら人間の在する実存時間に対する思考であって、神の時間を問うものでないことは言う迄もありません。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年11月20日
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「思考と直覚」時間と霊魂26 時間は世界の創造以前に「常有」していたのか。旧約の書き出し、創世記のはじめには神が時間を齎(もたら)せたとは記されていません。抑々(そもそも)が「神の時間」と人間の時間とに接点が在るとすれば、円環的な時間観が、屡々、顔を見せる旧約に続くキリスト教的時間観、過去から現在そして未来へと流れる、見方を変えれば、未来が現在へと近付き現在となり過去へと流れる円環的時間観とは相違する観念があります。何に故かと問われれば、決定的なことは、神の子の受肉としてのイエス・キリストのこの世への到来、その死と復活という、歴史の只中で一度限り成されたとされる神の啓示が再度繰り返されないことを説くからです。此のことなしには、反復されない一回で決定的な出来事とされ、それを唯一の根源としてのキリスト教の救済史観が成り立たたないからです。キリスト教は反復不可能な時間観で成り立ちます。それを唯一の根源としてキリスト教の救済史観が成り立っていると云えます。反対に時間を円環として回り続けるイメージで捉えれば、時間に始まりや終わりがあるかないかという面倒な問題が避けられることから、此の立場を取る思考にも根強いものがあります。何れにしろ、神の時間と世界の時間との接点は世界の時間線を「無限の過去」或いは「神の世界創造」若しくは「無から有としてのコア(核)の出現と其の爆発後の時間の発生」としてのX軸上の線と捉えようが、「神」若しくは「絶対者」は、世界に始まりがあり終末があるならば、Y軸上の円錐を底辺とする頂点の大いさも何もない一点から伸ばされた円錐でしょう。神の子の受肉としてのイエス・キリストのこの世への到来、その死と復活というのは「永遠の瞬間」がX軸上の線に刻印した奇跡です。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年11月19日
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「思考と直覚」時間と霊魂25 パルメニデスに教授された古代ギリシアの自然哲学者にして医者であり詩人・政治家でもあり、弁論術の祖ともされるエンペドクレス(Empedocles/紀元前490年頃-紀元前4「原初・根源」)は、物質のアルケーは火、水、土、空気の四つのリゾーマタ(rizomata:根)からなり、それらを結合する「ピリア(愛)」と分離させる「ネイコス(憎)」がある。それにより四つのリゾーマタ(四大元素)は、集合離散をくり返す。この四つのリゾーマタは新たに生まれることはなく、消滅することもない。 このように宇宙は愛の支配と争いの支配とが継起交替する動的反復の場である。亦、全く無い、素因を持たないものから「もの」が生じるて来たることはあり得ようもないし不可能事であるこちは万人が認めよう。亦、在るものが全く滅し去ること、無に帰すというより、其の事実までもが滅することは不可能であること。大乗の祖「龍樹」の「空論」を「ピリア(愛)」によって存在の不生・不滅を論じます此処から疑問符の付く構文「在るものが全く滅び去ることは、実現しがたく耳にし難きこと。何故なら、其れは何処に押しやられようとも、常に其処にあるだろうから。」は時間観念或いは変化・変遷の考慮が欠如しています。人間理性が捉える時間観相では「昨日の今日」「明日の今日」は今現在には無く、時間概念を組み込まなければ、現実世界の持続性が適用されなくなり変化は消滅します。時間経過が止まったように想えるブラックホールないであろうとも変化が見られる以上は時間の影響は免れません。変化のない世界は3Dに描画された永遠に劣化しない画像であり実相とは掛け離れることになります。其の師のパルメニデスにしても世界を思考して「或るものが何処から何(ど)の様にして生じたというのか在らぬものかということも思考することも、私はおまえ、自己思考には許さぬであろう。何故なら、「在らぬ若しくは、非(あ)らぬ」ということは語ることも考えることも出来得ぬ故に。且つ又、抑々(そもそも)が何の必要がそれを駆り立てて以前よりも寧(むし)ろ後に無から生ずるように促したのか。かくして其れは、全く在るか、全く非ず(非実在)の何れかでなければならぬ。」としますが、現代科学の宇宙創生論では、今現在でも「非存在」からの創造は、理論的にも成立しませんが、宇宙内での「無から有(存在)」と「有(存在)から無(非存在ではなく存在無)」の物理科学上の観測から変化をほぼ正当化しています。「もの」は「虚」からは生じないにしても「無」からは生じること、其れから導き出されるのは存在として在るものも無に帰すことはあれども「虚」に帰すことはあり得なく、時間経過に関しても人間精神の捉え方の問題であり、実相がどうしたものであれ、人間精神の時間観相は否定し切れません。時間は人間生活の根本を規定しているようにも観想させます。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年11月18日
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「思考と直覚」時間と霊魂24 「万物の根源」については、古代ギリシャの哲学者たち、タレスは根源は水であるとし、アナクシメネスは空気、クセノパネスは土とし。更にはデモクリトスは原子論、エンペドクレスは、「火、空気、水、地」の四元素説を唱えていますが、其のどれもが「万物の根源たる源(みなもと)」に解答していません。万物の源を有とするならば、「有」とは{虚」ではなく「無」を併せ持つ必要があります。「無」から存在を派生することは可能かもしれませんが、{虚」からは{虚数}を別として何ものをも生じさせないからです。「虚」はあくまで思考の便宜上置かれたものであり、仮想空間等の、実際的には存在しないにしても人間からは実質上の世界として捉えられるバーチャル世界とは掛け離れています。紀元前500年か紀元前475年にギリシアの哲学者で、エレア派の祖。「ある」と「ない」の概念を考究し、西洋哲学においては最初に一元論を主張した形而上学の創始者といわれるパルメニデス(Parmenide)は科学の基本は、世界の運動・変化を数量的に語ることであるとして世界の運動・変化を数量的に語ることを模索していますが、「或るものが何処から何(ど)の様にして生じたというのか。非(あ)らぬものからということも思考することも、私はおまえ、抑々が自己思考には許さぬであろう。何故なら、「在らぬ若しくは、非らぬ」ということは語ることも考えることも出来得ぬ故に。且つ又、抑々(そもそも)が何の必要がそれを駆り立てて以前よりも寧(むし)ろ後に無から生ずるように促したのか。かくして其れは、全く在るか、全く非ぬの何れかでなければならぬ。」とし、「無と虚」の区分を顕現化させます。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年11月17日
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「思考と直覚」時間と霊魂23 神存在であれ「哲学」に読む絶対存在・絶対意識・絶対意思は旧約で語られるモーセが神と会見した幕屋にしても「姿形(しけい)或いは姿影」を見て会見する筈もなく、私を見たものは死ぬと諭(さと)されています。人間は神の様態の延長だとしても、はたまた「神が自己に似せて人間を創られた」にせよ、人間が神を見ることは、芸術家の創作物を除いては現実味に欠けます。旧約に屡々登場する神は、神が人間に観(み)せる様態としての神の霊性の一部であり、欠片(かけら)に過ぎません。「時間」にしても神のもとには経過なぞありよう筈もなく、永遠永劫の始まりであり永遠永劫の終焉であり人間が観想する始まりも終わりも有り得ません。神に時間観念があるとすれば時間は一瞬で永遠の形も大きさもない「点」的存在であり、人間の観想する時間の流れを俯瞰するものでしょう。それ故に、神は始めにありき存在ではなく、時間や運動に類する世界の成り立ちの経緯とは次元を異にし、科学が事実や理論を幾ら積み重ねても人間の観相すること能わずの「見えざる存在」なのです。仮にも人間が神の真相を手中にする時は、人間が人間自身を離れたときです。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年11月16日
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「思考と直覚」時間と霊魂22 地は混沌であって、闇が深淵の面(おもて)にあり、神の霊が水の面を動いていた。」は意味深長であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていたとは、何を指しているのでしょう。神の霊が「多重人格」の如く自らの意思の支配に属さないものを許すとするならば、絶対意思・意識である一神教其のものが瓦解します。神の霊、神の理知及び霊性には、全てが人間の知ることの出来得る霊、生命の源泉が漂っていたと解釈することは可能です。「何もないところに蛆(うじ)が湧く」とした諺通りに、生命にも精を吹き込む原因・素因はある筈です。即ち、神の延長としての様態の延長としての霊性が漂っていたとするのが理にかないます。此のことはユダヤ教の旧約聖書にモーセに言葉、勿論のこと実際のところは、他の人間が聞き取れる言葉、口言ではなく、声なくしてモーセに言葉として霊性が語っている筈です。新約のイエスにしても神の声は他の人間には届きません。神として表現されるのが天使として表装されることからも解かるように、神の霊性を人間がおよそ生前に触れることは有り得ません。イスラームのムハンマドにしても神との対話は神の様態の延長としての大霊を介しています。此処にハイデッガーの存在者の見えざる手を感じ取ります。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年11月15日
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「思考と直覚」時間と霊魂21 ユダヤ・キリスト教イスラームを含めての系統に属する神的な語りが、世界の始まりを「神による無からの創造」とするならば、「時間」の創造概念は極めて不明となります。「旧約聖書の冒頭の文章、初めに神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。光あれ。こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。」の文言を文字通りに解釈し補完すると、すると「初めに神は」天地を創造、天地を創造を現代科学のコアの大爆発と解釈することは可能です。「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」は意味深長であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていたとは、何を指しているのでしょう。神には神の絶対意思の大霊魂のなかの作用上の霊魂が道具として働き闇に仂き掛けているのでしょうか。「神は言われた。光あれ。こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。」此処に、光の存在が登場し、暗躍の空間と対比させます。「空間」の登場です。「神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。」此の文源の語彙から想像するに旧約聖書で登場する「時間」、「神の永遠の瞬間」ではなく「人間が観想する時間」の登場です。絶対存在であり絶対世界から現実世界が生じます。彼方から此方への変遷転化が行われます。彼方には人間が云うところの「時間」は存在せず我々人間の知る空間と運動が連動する次元グラフ「四次元グラフ」を超えた、一般的時間線上のX線上の底辺を持たない三角錐が「神の時間」、永遠で瞬間的な時間です。では神に時間があるのかと云えば世界に時間をもたらせた以上は時間はあり、但し、始まりと終末がないものです。然し乍ら、時間線を人間の世界観に観相させる以上は単純には時間の有無を即答することは困難です。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年11月14日
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「思考と直覚」時間と霊魂20 ユダヤ・キリスト教の系統に属する神的な語りが、世界の始まりを「神による無からの創造」としての意図、即ち、被創造者の人間には図り難い絶対存在としての意識を持った存在「神」が謂わば人為的性格が投影された神格性をもって世界を無から「創った」という形容で語るのに対し、東洋圏での神話においては、世界の始まりを「とうから自然にあった」或いは「自然に成った」もの、または「勝手に生じた」ものとして描いているものが少なくないのは何故なのか。この異相は西洋の神話が「造る或いは創る型の神話」であるのに対し、東洋神話が「自然世界を背景に生む型の神話」、「成る型の神話」としての要素を持つものとして対比されることです。将又、ユダヤ・キリスト教・イスラームの系統に属する世界観が「無」から「有」が作られるという「無からの創造」(creatio ex nihilo)の形態を持つのに対し、世界中の多くの神話、たとえばギリシャ神話や、また古代インドに見られる世界生成に関する哲学的思索、日本神話における天地開闢などにおいては、始めに世界の素因「混沌」ありきで、要因である「混沌」から「秩序」が生まれるという「混沌からの生成」の形の説明が多く見れられます。、既存のものから世界が作られるという「物質からの創造」(creatio ex materia)という形の説明が少なくありません。此のことは宗教のみならず哲学の流れを汲む思考には数多くみられる思想形態であり、西欧思想は大きく分けて此の二つの分流が主流を占めます。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年11月13日
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「思考と直覚」時間と霊魂19 現代ではイスラーム原理主義の復興によりイランなどでは聖職者の政治的発言力が強いが、現代ではイスラーム原理主義の復興によりイランなどでは聖職者の政治的発言力が強く、コーランにもとづく信仰(六信)と厳格な生活規範(五行)の遵守義務、飲酒の否定や、一夫多妻制の容認など、西洋キリスト教社会とは異質なものですが、旧約以来のかっての世界の科学を牽引して来たイメージは薄れています。ムハンマドの偉大性と実際的で現実的な実務性をアッラーを尊び崇めた人物ですが、骨子としての教義はともかくも有史以来世界の科学と技術理論を牽引して来たイスラム文明、国境なき隊商のセム族、此のことはアフリカ大陸に行けば多くのイスラム系商人に出会うことからも解かるように、開かれた民族性が基底にあります。隊商文化はアラビア数字が其れを語ります。歴史的に見れば、中世から近世にかけてユーラシアの中でもっとも科学技術の進んだ文明のひとつはイスラーム文明があったこと、その技術や学識は現代科学の基礎であることなどからもわかるように、イスラームが本質的に他宗教より反科学的というわけではないことも認識する必要があります。アラブ諸民族の時間観想は正直不明です。但し、同じセム族のユダヤ民族を観想すれば世界は初元から始まり終末に向かうというのが妥当でしょう。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年11月12日
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「思考と直覚」時間と霊魂18 ムハンマドの柔軟な適応と適合を象徴としたイスラームが、正統カリフの時代以降、教義やカリフの地位を巡って争い、幾つかのの分派に分かれていきますが、其の中ではスンナ派が多数を占めます。現在まで続く分派としては、第4代カリフ(Caliph)のアリーの子孫のみを正当な指導者と信じる少数派として、1979年イランのパーレビ王朝が倒壊させた、イラン・イスラム共和国を成立、ウラマー(イスラム法学者)の統治(ベラーヤテ・ファギーフ)と呼ばれる宗教指導者による支配体制で有名な政教一致の統治者ホメイニ師で有名です。所謂、イスラム原理主義による革命の輸出を企てるところからアラブや西欧では危険思想と看做します。何(いず)れにしろ、骨子には、一神教であること、即ち、アッラーの他に神は無し!。一神教であることはユダヤ教・キリスト教とも共通しますが、キリスト教、なかでもローマ=カトリックの正教会がイエスを神と一体として崇拝するのに対し、イスラームではムハンマドは崇拝の対象ではなく預言者にすぎないとする立場は共通しています。ユダヤ教にも一部認識されますが、何と言ってもイスラームの最大の他宗教との違いは、宗教としては異色の偶像崇拝の否定。アッラーの像やムハンマドの肖像は絶対に作らせないし、許されない。キリスト教その他の異教徒の聖像や神像の崇拝を激しく攻撃するのも教義に反するからです。最大の特徴はイラクの軍人出身のサダム・フセインが政教分離政策をとったことを除いて、原則としては政教一致であることが最大の特徴です。アッラーへの信仰によって結ばれる信者集団がすなわち国家であるとするのです。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年11月11日
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「思考と直覚」時間と霊魂17 被征服民に人頭税の支払いを前提に其の民の信仰を認可するというのは、一つには25歳の時に40歳の年上である女商人ハディージャと結婚し、其の後、隊商貿易に従事する傍らに様々な地域を見聞した経緯。もう一つに、今では思慮の外、キリスト教徒やユダヤ教徒を「啓典の民」、即ち、呼称は違(たが)えども自分と同様に、只、世界の唯一である神の啓示を預言した者を、アッラーのもとでは同様に扱うということです。此の大らかさは、ムハンマドが国境線を越えて各地を巡る隊商であったこと、アラブ名門の出自であることが影響しています。とはいえ、ムハンマドやその弟子たちが生きていた時代から遠くなるにつれ、イスラーム教が西アジアに定着していく一方では、信仰のあり方や日常生活の規範としては「コーラン」、イスラ-ムの用語としては預言者ムハンマド(マホメット)の言動の記録、あるいは記録集をさして「伝承」と訳される「ハディーズ」、預言者の言行其のもの自体はスンナ(預言者の範例)と呼ばれ、その解釈を行うイスラーム法学者であるウラマー「原理主義」と結びつきます。ユダヤ教同様に律法主義に陥っていったのに対し、形式的なイスラーム法の遵守より日常生活と自我の意識から脱却して神への絶対的な服従の道を実践する少数の修道者が生まれ、彼らはスーフィーと言われ、その運動は総じて神秘主義(スーフィズム)と捉えられています。10世紀頃までに各地にスーフィーを聖者として崇(あが)める神秘主義教団が形成されていきますが、彼らは民衆の現実的な要求に応じながら神との一体感を得るという非常に解りやすい教えによって広く民衆に受け入れられています。またムスリム商人の活動と結びついて、西アジア以外のアフリカ内陸や南インド、東南アジアにイスラーム教が拡がっていく上でも重要な役割を果たしています。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年11月10日
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「思考と直覚」時間と霊魂16 マホメットはラテン語由来のヨーロッパでの呼び名で、ムハンマドはアラビア語での呼称です。、紀元570年頃名門クライシュ族のハーシム家に生まれ、幼くして孤児になり其の後叔父に育てられ成長します。成長したマホメットは驚くべきことに25歳の時に40歳の年上である女商人ハディージャと結婚し、其の後、隊商貿易に従事する傍らに様々な地域を見聞、610年頃、ムハンマドは唯一神アッラー(アッラーフ)の啓示を天使ジブリール(ガブリエル)から受け、自ら預言者として自覚し、偶像崇拝をする多神教に代わり、厳格な一神教のイスラム教を創始します。7世紀初めに成立したイスラーム教が、半世紀も経(へ)ないで西アジアに拡がり、更には周辺の世界に拡大したのは何に故か。其れは彼らの新しい宗教思想は、ビザンツの抑圧的なキリスト教や、神秘主義的なゾロアスター教の間で身動きが取れなくなっていたアラビアの民衆から熱狂的に迎えられ、将又、まったくシンプルな信仰、人間と神を隔てる障害物の役目をする聖職者もいなければ神殿もなく、その前ではすべての民族や階層が平等だとする基底のあります。イスラームを誤解させるのは「コーランか剣か」でしょう。行ったアラブ=ムスリム軍の征服活動の圧倒的な勝利の背景には、彼らの士気の高さとともに、ササン朝ペルシアやビザンツ帝国の統治の弱体化と民衆の離反があるのです。通説ではアラブの征服軍は「コーランか剣か」の二者択一を迫り、イスラーム教を受け入れなければ容赦なく剣にかけて征服したとされているが、此の主張はイスラームの軍事力の圧倒的な強さにおびえた現地のキリスト教との誤解がそのまま後世に伝えられたに過ぎません。実際にはアラブの征服には、イスラームに改宗するか、将又、人頭税(ジズヤ)を納めて従来の信仰を保持するか、此れ等二つを拒否してあくまで戦うかの三通りがあり柔軟性があります。アラブ軍は征服地のキリスト教徒やユダヤ教徒を「啓典の民」、即ち、ムハンマドと同じく預言者による神の啓示を信ずる民意と認識し、人頭税の支払いを条件にその信仰を認めています。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年11月09日
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「思考と直覚」時間と霊魂15 啓示(けいじ/ revelation)とは、神または超越的な存在より、真理または人間が通常では知りえない知識・認識が開示されることをいいます。 天啓、神示ともいわれることもありますが、あくまで彼方からの仂き掛けです。 其れ故に、モーゼ(或いはモーセ)のように突然の啓示に驚天動地の驚きと恐怖が顕れ畏怖を感じることになります。人間の理知では不可知の真理や神秘が、神や絶対存在などの超越者によって開示されることが起因です。啓示を意味する欧米語の源泉となっているギリシア語「アポカリュプシス(apoklypsis)」が、隠されているものの覆いが取り除かれることを意味しているように、啓示は、人間の目には理知ある人間の心の奥底にある隠されている神的な神秘が覆いを取り去られて示される宗教的なだからです。此れ等、啓示の事件を起因する宗教を啓示宗教といい、人間の自然的本性に基づいて宗教的神秘ないし神を認識しうると主張する自然宗教、アメリカインディアンを代表とした自然宗教ギリシァのピタゴラス派等の理性宗教と対比されます。宗教学の対象として取り上げられる実証的宗教、すなわち歴史的現象として対象化される宗教は啓示に基づく宗教であって、教祖、教典、教団組織などは、いずれも歴史的なできごととしての体験である啓示を抜きを基底にします。たとえばセム民族的な唯一神では、イスラム教では預言者ムハンマド(マホメット)に啓示され、『旧約聖書』ではモーゼ(モーセ)に「アブラハム、イサク、ヤコブの神」として啓示され、イスラム教では預言者ムハンマド(マホメット)「アッラー」、呼称は違えども同一神として啓示され、さらには各時代の預言者を通して啓示される唯一神です。キリスト教においては、さらに歴史的実在な存在であったイエス・キリストを通して神の啓示が与えられるだけではなく、イエス・キリストが神の啓示そのものである形で明瞭な啓示宗教が成立します。とくにイエス・キリストが神の啓示といわれる場合、それは単なる知識の伝達にとどまらず、神との自己の誕生の際の約束違反の罪によって、「神」との破れた関係の和解を求める意志の伝達として、主体的応答を求める招きの性格をもち、啓示が信仰によって対応されるべきことが明らかにされています。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年11月08日
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「思考と直覚」時間と霊魂14 ユダヤ教を特例として宗教であるキリスト教に続くイスラームは元来(がんらい)は、ユダヤ民族の守護神であったモーセの著作とされるユダヤ民族四十数万の異民族の他国土への侵入、滅ぼし或いは支配下に置く旧約上の「ヤーウェ」が与えた約束の地の契約を除外しては戦闘的傾向はありませんでしたが、此の旧約の原理主義が、後に生まれたキリスト教やイスラームに反映され、史上にて度び重なる悲劇を齎(もたら)します。イスラム教の相手の平安を祈る「サラーム」が本来のイスラームの本意です。ムハンマドの死後はその教えは代々のカリフに継承され、かくも、アフリカ内陸部、中央アジア、インド、東南アジアに拡がったのは「サラーム」が活きた証です。聖典や教義を忠実に解釈し実践しようとする思想や運動「原理教義」に戻り再考することは勿論、何れの時代や社会生活の基礎に置くことは何等不思議な事ではありませんが、絶対存在としての「神」ならばまだしも、時代を経た世界の事情を考慮せず強引に復古主義を唱(とな)え行動することは、神が選んだ「預言者」をも冒涜します。神が世界に変化と運動を与えているのは前進を意味するからです。仮に、絶対者としての意思が混乱と後退であれば人間は「神との合一」は求めないでしょう。アインシュタインの言う「神とは秩序」であり、たとえ世界がエントロピーに向かうにしても何らかの秩序が背景にあり、世界の基底に仂くと看做したいものです。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年11月07日
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「思考と直覚」時間と霊魂13 伝説のヘビー級ボクサー「カシアス・マーセラス・クレイ」と云えば、1976年6月26日に当時の新日本プロレスの絶対的エースであったアントニオ猪木と異種格闘技戦を闘ったことでも知られています。当初は「世紀の凡戦」と批判されていたものの、相互に負けられない究極の状況のなかで行われた試合であること、剣豪の立ち合いでも半日の間身動きせぬのは相手の備えである態勢に入れば負けることが判っているからです。好勝負とはそういったものです。カシアス・クレイは、何故にモハメド・アリという名前を名乗るようになったのか。当時のアメリカは白人社会。片や当時ではカシアスは黒人、名舌のオバマが出る迄は。カシアス以前は、黒人がヘビー級ボクサーとしてのし上がっていくためには、白人社会へ順応する必要があった。黒人でありながら白人社会へ順応していく「準白人」になる必要があった。極論すれば「黒人としてのアイデンティティ」を捨てなければいけなかった。カシアスは12歳のときに洗礼を受けたキリスト教徒であったが、1964年に離脱しイスラム教へと改宗しています。キリスト教は謂わば、白人社会の根幹を形成している宗教です。白人社会へ飲み込まれないようにするためには、カシアスはキリスト教を離れる必要があった。彼はプロ転向後、イスラム教に改宗した後、教団の指導者から授かった「モハメド・アリ」という名前を名乗ることになります。「モハメド」とは「賞賛に値する」という意味。「アリ」は預言者マホメットの従兄弟で、マホメットの死後に第三代カリフとなった人物の名前。このような意味のある名前を名乗ることで、白人社会であるアメリカからの離脱を図ったのだが歴史は転回してアメリカ史上初めての黒人大統領「オバマ」がアメリカで支持されます。1996年7月19日、アトランタオリンピックの開会式では聖火を聖火台に点火。金メダルを再授与された。この開会式では聖火台の点火者は当日まで秘密にされていたが、女子水泳選手のジャネット・エバンスが点火台まで聖火のトーチを運び上げた際、アリは彼女からトーチを受け取り、病のために震える手で点火用のトーチに火を点けた、おそらくは、キング牧師以上に黒人に夢を与え続けた人物です。彼の人間を殺す戦争拒否は本来的なイスラームの教義であり誤解を避けることが賢明です。イスラム教徒同士の挨拶アラビア語で原義は「神の平和があなたの上に」を意味するコーランが本来的には平和と安らぎを求めているのは事実であり理解せねばなりません。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年11月06日
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「思考と直覚」時間と霊魂12 世界史上最も重量級に拘わらず蝶のように軽やかに舞い、いとも軽く易(やさ)しく見えるストレートで猛者をリングを舐めさしめたカシアス・マーセラス・クレイ、伝説のヘビー級ボクサー、ヘビー級の体格ながら驚異的なスピードを持ち、1960年のローマオリンピックではライト・ヘビー級で金メダルを獲得。それまでのヘビー級のボクシングは、一発のパンチで勝負が決する、力対力という側面が強かったのを「スピード」と「スタミナ」という要素を持ち込み、ヘビー級のボクシングスタイルの歴史を変えます。「蝶のように舞い、蜂のように刺す」と形容される長いリーチ(203cm)を活かしたボクシングスタイルは、ロッキード事件の田中角栄の元秘書であり、事件で有罪となった榎本敏夫前夫人の三恵子が、榎本に不利な法廷証言を「蜂の一刺し」と表現するほど軽い刺激も急所を掴めば致命的となる其の技術を天運して持っていたボクサーです。モハメド・アリは革命的な黒人であり、そのことに誇りを持っていました。彼はベトナム戦争に対して反対派が未だ少数派で、声高に反対すればボクサーとしてのキャリアを脅かされるような時代からのベトナム戦争には反対しています。1960年代には彼はベトナム戦争に投入された250億ドルを、賠償金としてアメリカ南部の黒人たちの家を建てるために使うべきだと提案さえしていました。アリは政治的には極端な急進派で、かつてはジャッキー・ロビンソン(黒人初のメジャーリーガー選手)は彼のことを「悲劇」だと言い、ネーション・オブ・イスラム(アメリカ黒人のイスラム運動組織)も最終的には彼と距離をおいていました。20世紀、学生非暴力調整委員会会長のストークリー・カーマイケルは、「FBIは自分よりもアリのことを脅威とみなしている」と語り。21世紀になり、NSA(アメリカ国家安全保障局)が彼の会話を盗聴していたことが明らかになります。それでも彼は決して信念を曲げず、何をおいても死ぬまで黒人であり続けます。アリがキャリアを犠牲にしてまで貫いた信念と、彼への支持の輪が広がった以来、これほどの社会的インパクトを残したアスリートはいません。アリが「ベトコンには恨みがない」と言ってから50年後、プロアスリートたちは社会問題について立派に意見を述べるようになったことが証(あかし)です。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年11月05日
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「思考と直覚」時間と霊魂11 イスラームは日本では以前では「イスラム(Islam)」と表記されることが一般化していましたが、現代では名前や国名・地名や名称をオリジナルな発音表記へと改められつつあります。亦、イスラームは別名「マホメット教」とか「回教(かいきょう)」、「回回教(フイフイ教)」などとも言われますが、回教は中央アジアに住むウィグル民族を中国で「回」の文字を当て、偶々(たまたま)彼らがイスラーム教徒であったので、13世紀ごろからイスラーム教を意味するのに回教というよ文字を使うようになった経緯あります。元来(がんらい)、イスラームは当初はアラブ人の信仰でしたが、ムハンマドの貧富や民族を超えた人間の神の前での平等を説く教えは、瞬くあいだにアラブ人の枠を超えて拡がり、ムスリム即ち旧約・新約に続いた一神教の「神」に身を捧げた者といわれるその信者は西アジアを中心に世界に広がり、仏教・キリスト教とともに三大世界宗教とされるに至ります。其の世界宗教としての優れた普遍性や明快さが西アジアの多数の民族、とくにイランやトルコそしてアジアの多数民族、中国・インド・アメリカに次ぐ世界第4位の人口国に拡がり浸透してて、現在に至るまでには世界を動かす大きな軸の一つとなっているのは衆知の事実です。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年11月04日
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「思考と直覚」時間と霊魂10 スーフィズムでは禁欲的で厳しい修行を行う。 修行法は様々だが、もっとも重要な行はズィクルと呼ばれる祈祷句を読み上げる儀礼でしょう。神に思念を集中し一心不乱に連祷することでファナー(消滅・消融)と呼ばれるトランス状態に入り神秘体験をする。ファナーに入るために音楽や踊りも盛んに用いられ、白い布状の服を身につけて一心不乱に回る、回旋舞踊(セマー)と呼ばれるものを行い、神との一体化を求めた。スーフィーは導師の指導の下、決められた修行(マカーマート)を段階的にこなし、階梯の準備を進めます。最終段階では、雑念を捨て去り、一心に神の事をのみ考え、神と合一したという悟りが訪れるのを待ちます。此の覚りの境地に至った者は、時として万人が或いは一部の集団に受け入れた場合には聖者と認められ、崇拝の対象となります。日本の密教的要素も此れに似通っています。亦、酒井大阿闍梨、「阿闍梨」は密教では大日如来や諸仏菩薩を指す場合もある程の位置付けることも指すほどの称位にあり、伝教大師「最澄」が空海に往復書簡で潅頂を受けんとして一旦は断られたこともある程の位置付けです。海軍航空特別隊員からの人生は負(マイナス)の社会生活であり愛妻までも自殺に追い込み、39歳のときには得度し比叡山延暦寺に入り、更には、明治時代に死者が出て以来中断していた「常行三昧」という厳しい行を達成した其の姿は像、スーフィズムのファナー(消滅・消融)と同視することも不遜の一言では片付けられない人間の霊魂の叫びを感じさせます。自己が没頭するものに「我」を忘れて「対象に合一」溶け込むことは誰しもが経験することです。其れが昇華されて人間自我の解放から世界自然に溶け込む、此れが「神との合一」或いは「神との融合」だとも云えるのです。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年11月03日
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「思考と直覚」時間と霊魂9 スーフィズムは、「人間の魂と、神との結合」を目的とします。スーフィの語源はスーフ(羊毛)に由来すると言われ、初期のスーフィ禁欲主義者たちが着用していた粗末な羊毛衣服から来たという説もあります。アッバース朝の時代になると、カリフとアッバース朝の時代になると、コーランとハディースを解釈し、イスラーム法の維持にあたる神学・法学者。またひろくイスラーム法学を修めた知識人、ウラマーの中でもイスラーム法による裁判を行う裁判官の役目を果たす人々はカーディと言われるますが、其の一般信徒の礼拝の指導者ウラマーが政治権力との緊密な関係を築き、ウラマーは権力と癒着して信徒にイスラム法の順守を強制するようになり、後のイスラーム信仰に基づく政治の在り方を説く20世紀のイスラーム原理主義の一つの典型ホメイニ師を生み出します。対してスーフィズムにとっての修行とは、人間が神に近づくための準備以外のなにものでもない。修行の眼目は自己の行為を神格に金面的に一致させることに努(ゆと)めて、内面的 に人間と神とを隔てる一切のものを徹頭徹尾排除することが基底となります。そのための修行法を体系づけたものが、マカーマート(神秘階梯)と呼ばれるもので神への愛・神との合一であるファナー・神についての神秘的知識であるマーリファという三つの要素を統合する行法を修めます。スーフィズムの立場からすれば、預言者ムハンマドは、このうちのファナーの状態で神の言葉を伝えたとしています。現世の束縛や人々との交わりのすべてを絶ち、世俗的な欲望の一切を捨て独居する。独居中は師の指導に従って断食や徹夜の祈り、コーランの読誦や沈黙の誓いなどを行う。此の面では仏教に於ける「座禅」とは行動的には異質なものの、目指すところは世界自身との合一であり、仏教の密教的要素を孕んでいます。其の行法といえば、単旋律による無伴奏の声楽曲で、その理論や旋律様式及び声楽的技法は後世のさまざまな声楽分野の形成に多大な影響を与えており日本音楽の源流ともいわれる声明(しようみよう)に近似します。演歌を唸る方が自ら其の中に陶酔しているのも頷(うなず)け、陶酔を超えた「合一状態」を思い浮かべればなんとなく合点(がてん)がいくでしょう。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年11月02日
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