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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ43 宗教にしろ哲学、其の中でも形而上哲学では人間の意志の取り扱いには重要な基底を構成します。旧教ユダヤ教では神の律法のもと人間の自由意志は厳重に枠組みが規定され、其れを逸脱した人間には{神」が永遠の滅却を用意しています。滅亡或いは獄門行きの覚悟さえあれば、一応は意志の自由が確保されていますが、信仰に従うものが敢えて其れに逆らって立ち向かうとは思えません。「懐疑論」を門口(かどぐち)にしたデカルトは、いくら懐疑しても自己の思考していることは疑えず、他の力の制御なしに人間は思考するとしています。自由な意志によって感情を制御することが出来得るとするのです。即ち、人間には世界内という範疇の制限はあっても自己の自由な意志によって感情を制御することを認めます。スピノザは、彼の主張する心身合一論の直接の帰結、独立的な精神に宿る自由な意志が主体的に受動的な身体を支配することは、意志というものを「理性の在り処(か)」を個々の意志発動の原因としてあるのは、ひとえに、絶対存在に帰し、人間というものを個々の人間の原因として考えると同様に不可能であるとして破棄します。プラトンによって,経験的な個物を超越した不変、永遠の存在の意味を負わされるに至った観念は観念であるかぎりにおいて肯定ないし否定を包含するものとして、自由意志と解される表象像及び言語の実相は単なる身体の運動であるとして言い切っています。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年06月29日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ42 人間精神の変化は身体の変化に対応しており、時々刻々(じじこくこく)の変化は何も身体だけに関してだけではなく、唯心論の説く「身体に先だって精神がある」ものでもなく、所謂、唯物論の説く精神に先だって身体があるものでもない。精神は身体から独立にあるわけではなく、身体も精神から独立と成り得ないからです。スピノザの立ち位置は精神も身体も同一存在におけるとする心身平行論です。更には、人間の身体を対象とする観念から導かれ得(う)るものだけが認識し得るとします。人間の有限な精神は、全自然を認識する或る無限の知性の一部分を構成するとしており、十全の世界の自然を想念的(objective)に自己の精神うちに含むところの思惟する無限の力(potentia infinita cogitandi)によって形成される個個の思想と、其の力の派生よって観念された自然の中の個々の事物とは、同じ仕方で進行するとしています。即ち、思惟という側面から見れば自然は精神であり、延長という側面から見れば自然は身体であるということです。精神を構成するところの観念とその対象の秩序は、同じ実体の二つの側面を示すことから、両者の秩序は一致するとしています。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年06月28日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ41 スピノザは「人間精神を構成する観念の対象は現実に存在する身体であると宣言」します。何故(なぜ)なら、人間存在自らに問うて「絶対存在の延長するとされたものの様態及び思惟するものの主体としての人間存在が神の属性の変状である以上、二つは同じ「もの」の二つの側面に他ならない」と言い切ります。此の命題を定義することにより、我々人間が正常時の精神と肉体としての身体の合一という我々人間的な側面の在りかたを説明出来、且つ、充足させ得るとスピノザは述べるのです。彼の演繹的幾何学から人間存在は神即ち絶対存在の認容から「神の延長とするもの及び理的実在及び人間が思惟(しい)するものは論理的観点からみて神の属性の変状である以上は、二つは同じものの二つの側面に他ならないからであるとします。これによって心身の合一という我々の現実的なありかたを説明出来得るとスピノザは論断するのです。神が唯一の実体である以上、精神も身体も、唯一の実体である神に置ける二つの異なる属性、見方を変えると神の本質を構成する。我々からは逆方向として考えられる一側面としての思惟と延長との先には唯一の実体である神が在(ざい)する事になります。。神の本性は絶対に無限であることから、無限に多くの属性を抱えることになります。能産的自然から派生する所産的自然としての諸々の有限なもの或いは個物は、全て、能産的自然としての神なくしては在り、且つ、考えられることの出来得ないものであり、神の変状ないし神のある属性における様態であるということになるとします。人間や其ノ他の個物は神の延長の一部を構成するかぎりには、人間身体の損傷や精神の正邪も、スピノザの説く神は、人間精神の自由を問うことにも、神は関与しません。此のことだ正教会がスピノザを異端者扱いする理由を与えています。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年06月27日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ40 懐疑論者デカルトは自己の精神の在否から出発し、絶対存在を無限な実体として世界の基底に設定、哲学解釈に於ける「神」のもとに人間の精神と身体、精神が神の様態の延長、物体が神の存在の延長という二つの有限実体を立論(りつろん)します。対して、スピノザは世界の総じての本質に存在が属する実体は唯一絶対存在のみにある。スピノザにあっては、一切の完全性を自らの中に含むスピノザの表現するところの「神」は、自己の完全性の力によってのみ作用因であり[自己原因です。言い換えると、神は超越的な原因などではなく、万物の内在的な原因だとします。神とは即ち自然、此処に言う自然とは、植物のことではなく、人や物も含めたすべてのことであることに注意が肝要です。これをスピノザが一元論・汎神論と呼ぶ決め手になります。神が唯一の実体である以上、其れを受けて人間の精神も身体も、唯一の実体である神における二つの異なる属性、神の本質を構成すると我々から思考する側面としての思惟と延長とに他ならない。更には、神の本性は絶対に無限であるため、当然に無限に多くの属性を抱えている。この場合、所産的自然としての諸々のものである有限者或いは個物は全て、能産的自然としての神なくしては在り且つ考えられること出来得ないものであり、神の変状ないし神の属性、自己の意志を必要としない完全体における様態であるということになります。重要なのは「神」とは充足しており自己を意識すらすることがない存在だということです。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年06月26日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ39 現象界の奥にある、世界の根本原理を純粋思惟(しい)や直観によって探究する、所謂、形而上学(英Metaphysics)は、人間の感覚乃至(ないし)経験を超え出でた超現実世界のリアリティーを真実在とし、其の世界の普遍的な原理について理性的な思惟によって認識しようとするものですが、世界の根底或いは根本基底を究めんとすることから、未完全な物理科学では捉え切れず、其の根底は思想家による哲学によって規定されますが実相は皆目(かいもく)見えざる段階にあり、理論物理学及び形而上哲学と宗教が混在するのは現代でも同様です。我々人間が知りたいのは「何故(なぜ)に自分が産まれたのかを自己を認識することにより、また、「自我」に目覚めて生成されたものが何故に滅びに向かうのか、自己の恒常を願うのは人間に限らず生命あるものの本能に刻印(input)されています。其れならば、不死乃至は不滅はあるのかと云えば宇宙の始まりが物理学理論上的にしろ定義されて認容されている以上、エントロピー(ENTROPY)の法則に従い終末が訪れることが予想されます。始まりのあるものには終末があるのは理の当然であるからです。デカルト及びスピノザの時代の思考には宇宙の始まりがあるとすれば世界とは別個に神の創造を認めることに成り、持論には矛盾となり、世界の終末を認めるならば無の要素が入り込み、将又、矛盾に陥ります。懐疑思考のデカルトを除いてもスピノザは絶対者(絶対存在・絶対意識。絶対意思)を世界そのものと合一すると想定する以上、現代物理科学はスピノザの論理には反します。エントロピー(ENTROPY)の法則の正邪が問われます。何よりも霊魂の不滅には大打撃でしょう。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年06月25日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ38 スピノザの主著「エチカ」はユークリッドの『幾何原論』を髣髴とさせる公理定義・定理・証明の一大体系です。副題の「幾何学的秩序によって論証された」という形容が彼のQ.E.D「これが証明されるべき事柄であった」を示すラテン語の略に顕著です。哲学に数学的な「演繹法」を幾何学とともに徹底した演繹を試みたのはスピノザの功績であり、万人に解りやすい思考表現は過去に試みられたことはあっても大成させたのはスピノザです。彼は神を想定したのではなく論理的に唯此の世界の有り様としての存在の根源に「神」を認識します。其の神とは世界と一致しており他者からの介入は認めません。「神即世界」をスピノザは幾何学の論理、中でも演繹法で証明することに努めます。スピノザの其の主著「エチカ」に於いて、当時に確立されていたユークリッドを始祖とする幾何学形式の数理理論の範疇にあって自論の展開を演繹的に公理および定義から始め、先ずは世界と神を一元とする「汎神論」を、次いでは人間の精神と身体の問題を取り上げて考察していきます、最終的には其処から見出される「倫理」、行動実践の方法を取り上げています。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年06月24日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ37 スピノザの論考、一元的汎神論や能産的自然という思想は後の哲学者に強い影響を与えたことは疑いを持ち得ないことは誰しも認めるでしょう。実体という思想を「自己の絶対的な主体」へ発展させたヘーゲルが批判的にしろスピノザの思考には魅入られており、其の思考方法を自らの思考方法である弁証法に転化させ、スピノザの思想は無神論ではなく、寧ろ、世界内存在として総じて神のみが存在すると主張する無世界論(Akosmismus)であると評しています。此の無世界論(Akosmismus)とは何ぞやと言葉の語彙を検索すると「世界あるいは宇宙は実在せず、永遠なものや神の一時的な仮象にすぎないとする思想」とあり、エレア学派・スピノザ・バークリーなどの名が挙げられていますがが、此れにスピノザが加わっているのはヘーゲルがスピノザ哲学を評した語に始まります。対してスピノザの「神の様態として」の表現は「実体の様態」としては実体と不可分であるものの、「様態」を「其れ自体として」見るならば、其れは神の別様の実体の仮象として或いは{延長」として理解し得るとして、こうした解釈を退け、スピノザを別な読み方をしたのがフリードリヒ・ヴィルヘルム・ヨーゼフ・フォン・シェリング(Friedrich Wilhelm Joseph von Schelling)長い名前ですが、寿限無寿限無の「長介」的に呼べばシェリングです。スピノザの主義・論理は汎神論とは言えないばかりか、スピノザの言う「神の様態として」の様態表現は、何ら本質的なものを表現していない。スピノザの様態は「実体の様態」としては実体とは不可分ではあるものの、「様態」を「其れ自身の様体として」見るならば、神は見えて来ないとします。スピノザ自身、神の絶対性はヘーゲル同様に見えざるものとしている限りは理の当然の批評だとも云えます。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年06月23日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ36 スピノザの論考が所謂「汎神論」、「神」と「存在全体としての宇宙・世界・自然」とを同一視する思想体系、神と存在全体を一元的なものとして世界存在そのものを理解し、両者の質的対立を認めない点では「神格性」を「世界存在外」に賦与する有神論とは異なりますが、史的流れの中では諸宗教において自らの宗教的正当性を神秘的側面を持たせ理論化若しくは正当化する際に屡々(しばしば)現れる思考論理の形体として其の論法が取り込まれています。然し乍ら、スピノザの説く汎神論には「一元的汎神論及び能産的自然」という極めて特徴的な側面があり、「弁証法」を大成したヘーゲルは批判的ながらもスピノザに唯一の実体という思想を自分の絶対的な主体へ発展させたことには大いに影響を与え、スピノザの思想は、無神論などではなくて、寧ろ「神」のみが存在すると主張する無世界論(Akosmismus)、即ち世界あるいは宇宙は真のところは実在せず、永遠なものや神の一時的な仮象に過ぎないとする思想。ヘーゲルはスピノザ哲学を「無世界」説であると評していますが如何なものでしょう。此れでは実世界は人間の倫理的実存や人間の霊魂を思考する対象からは外れ、人間は鏡面内のアリスと化されます。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年06月22日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ35 スピノザが著書「エチカ」に置いて「限られた」公理および定義から出発するとした、「限られた」とするものは、一つにはスピノザの想定するとは神的存在とは、内的自然其のものに表現され基底の人間には隠された全て、然し乍ら、隠されたとは人間の単純な理性では獲得できない、神の様態の延長としての人間存在には発見出来得ないとすることから来る推論です。神存在其のものは世界内に限定されたものはなく、神存在以外の「有」の認識を予感したときにしか、限定された世界内存在としての公理および定義は生まれ得ません。スピノザが著書「エチカ」に置いて「限られた」公理および定義から出発するとした限界説は、人間が内在する世界以外を否定しているとも取れ、仮にブラックホールが宇宙の勝手口や裏口で其の裏口が表門のフォワイトホールであり線形連鎖或いは円環連鎖を構成する及び現代科学論の先端理論「無から有の誕生」説を認容するとすれば現在する宇宙にも限界があるとも言えるし無しとも言えます。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年06月21日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ34 スピノザの著書「エチカ」は、彼が副題に「幾何学的秩序によって論証された」と形容するように、現代でも避けては通れない数学論理、ユークリッドの「幾何原論」を髣髴とさせる定義・公理・定理・証明の幾何学倫理の一大体系でを組み上げます。スピノザ云うところの、これが証明されるべき事柄であった「Q.E.D」の羅列であり「演繹法」を徹底して哲学の実証に活かそうとした努力は過去には見られません。著書「エチカ」に於いて、限られた全体のもとに限られた世界の道理、限られた公理や定義から、倫理を展開し誰しもが否定出来得ない倫理の確立を目指します。スピノザは主著「エチカ」の前半では誰にも批判され得ない限られた公理である一元的汎神論から始発し、次いで人間の精神と身体の問題を取り上げ、後半は現実主義的ともいえる倫理学を展開しています。スピノザは野放図に世界は存在するのではなく、たとえ世界の悉くの道理の完全体であり、絶対存在としての「完全たる意思・全うされた意識」にしても、不完全要素は皆無だとしても、或る意味、完全体である唯一の「有」は絶対意識を意識することもなく、絶対意思がはたらく以上世界内存在としての「神」として人間が精神上に持つ「自由」とは縁がなく、自己であり自己の創造の世界の絶対限界に服しています。他に求める依存限界ではなく自らが完全体として他の要素の入り込める余地がない完璧な世界が、スピノザの思考する世界の捉え方です。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年06月20日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ33 ルネサンス(Renaissance)とは、「再生」「復活」を意味するフランス語であり、一義的には、古典古代の文明ギリシアやローマの文化を復興しようとする文化運動であり、14世紀にイタリアで始まり、やがて西欧各国に広まったイタリア語のリナシタからの派生語です。イタリア語で「再生」という意味を持つため、終わりがあれば始まりもあるという意味合いもあります。ルネサンスの運動は 16世紀にはアルプスを越えてフランス及びドイツ、スピノザのネーデルラント、イギリスなどを巻き込みヨーロッパを席巻します。夫々の国が各々の文化的伝統および社会的状況と結びついた独自のルネサンス文化を生んでいくことになります。アルプス以北の特徴の一つは聖書の研究を通じて信仰の内容を問いかけたことで,これは宗教改革に連なる面を持ったことが正教会を揺るがします。 教会中心の中世的世界観を離れ、現世の肯定、人間性の解放、個性の尊重を主張することが始まります。其の影響は政治・社会・宗教など多方面に及び、特にキリスト教は聖書解釈を改めざるを得ない環境に追い込まれ聖書の見直しを余儀なくされ宗教改革に継ながり、欧州近代文化の礎となります。ルネサンスはギリシア文明の唯物観を取り入れ、ガリレイやニュートン及びコペルニクス(Nicolaus Copernicus)等の自然科学者の育成援助の盾とも成りました。この世界の理を万人が納得する思考法、数学における論証がなくても自明の真理として承認され、他の命題の前提となる根本命題である公理・定義・定理・補題・命題を駆使して演繹法乃至帰納法を世界の真相追求取にり入れたスピノザの著書「エチカ」の功績があります。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年06月19日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ32 スピノザは哲学の扉を叩いたときから、晩年の大作「エチカ」まで、ほぼ一貫して思考基盤は揺れることがなく「神即自然 (deus sive natura)」、即ち、自然とは、植物のみのことではなく、人や物も含めた総てのことである世界の非人格的な概念。更には、エチカの論法からも解る通り、伝統的、あくまで伝統的な自由意志の概念を退ける徹底した決定論を仄(ほの)めかしますが、「絶対存在であり絶対意思でもあり絶対意識を保有する神」其のものには自由などは問題とはならず、完璧なものには「自由」其のものが不要であり、何かの不足を充足する必要は更々(さらさら)有り得ないし、自由は「不完全な精神体」即ち人間及び高等哺乳類のみが必要とするものであり、「完全体」が自由其のものを意識することは些(いささ)かなりとも有り得ないのは理の当然であることは誰もが疑いを持たないでしょう。此の論法が「神の報償論」を説く正教会からの批判・危険論者のレッテル、あらゆる出来事は、其の出来事に先行する出来事のみによって決定しているとする「徹底した決定論者」として忌み嫌われることはスピノザ自身が承知していましたから、自由民の市民国家の歴史を持つオランダでさえ出版を差し控えています。スピノザはキリスト教神学者からも無神論者として攻撃されますが果たして其れが正答なのでしょうか。スピノザの演繹論法の構成の評価から見ても不当であることは宗教上はいざ知らず「思考と直覚」からは認容します。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年06月18日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ31 世界の悉(ことごと)くの存在を疑う懐疑論の行き着く先が「我思う故に我あり(cogito ergo sum)」の「デカルトの哲学原理」を、スピノザは思惟する私が存在するという自己意識の直覚と捉え「我は思惟しつつ存在する(Ego sum cogitansを)」と解釈しています。此の西洋思考はインド大陸の仏教哲学とは対照すれば陰と陽、鏡の中に自己の精神を見る者と鏡に映る自己を消し去る事により「存在」を直覚として捉えんとする我執を無きものとしたときに存在の真相を観相出来得るとする正反対の思考順序が特徴的です。勿論のこと、シッダルタも存在の真相を突き詰めていくのに何も考えるなとは言ってはいません。自分の思考を追求したが故の判断であり「我思う故の思う自己にある自我」を放棄或いは昇華せよという訳です。間違ってならないのは我執を捨て去る「無我」を手中にするにはデカルトの哲学原理である「我思う故に我あり(cogito ergo sum)」やスピノザの「我は思惟しつつ存在する(Ego sum cogitans)」を前提にしていることは紛れも無く真実でしょう。そうでなければ、仏道修養は何の役(えき)にも立たないし、我執が無いならばゴキブリやスピロヘータが「無我の境地である覚り」を獲得していることになります。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年06月17日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ30 スピノザの哲学史上の先駆者は「我思う、故に我あり(コギト・エルゴ・スム/ Cogito ergo sum)」のデカルトであり、其の思考を一歩進めたのがスピノザだとも云えます。一切の存在物に神的なものの内在を想定する汎神論を想定するものの、宗教に見い出される形態的存在としての神格性は否定し、非形態的存在としての存在全般への関与は疑い得ないけれども、其れは人間のような自由意志的存在を認容していることからも解る通り絶対存在其のものの限界、世界(地球環境ではなく思考が許す限りの大宇宙)の外存在に位置するものではなく、世界存在そのものが意識の現れであり、将又、意思である仏教に云う「偏在」とは異なり人間の身体的様体並びに精神的様態に影響を賦与する存在、所謂、「汎神」をデカルトもスピノザも認容します。此の汎神論的思想は、宗教の非合理性を排して、近代自然科学と調和させようという意図で築かれたものであることがは明らかです。自己の徹底的な、即ち、身体的な滅びである死と精神の滅びを滅却とは捉えず復活である脱我的合一が宗教的核心を成す神、人格的・形相或いは形象的の存在が関与するのが神秘体験主義であり、正教会の見解、スピノザを神秘主義思想家と決めつけるのは根拠に欠けます。スピノザへの世界観として汎神論の主張は許容するにしても、汎神論が直ちに神秘主義でないこともスピノザの世界観を理解する上では重要です。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年06月16日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ29 スピノザの世界観を見極めるには、ルネサンス時代の新プラトン主義の影響のもとで説かれたイタリア・ルネサンス期の哲学者パドバのアリストテレス主義の代表者ポンポナッツィ(Pomponazzi/1462-1525)、主著「霊魂の不滅について」によって正教会から批判され激しい論争を起こした、人間の霊魂を、存在や思惟(しい)のために物質を必要としない不滅で永遠な純粋知性と、物質を必要としその内に浸って生きる動物との中間に位置づけ、この中間的な知性たる霊魂こそ人間に固有なもので、精神の純粋さと物質の複雑さを兼ね備えた人間の本性を表現しているとみなす。人間は普遍的なものを考えうるという点で、「ある意味で」不死ではあるが、肉体なしに思考することができず、内的に肉体に結び付いているために、「端的に」可死的であるとする。また霊魂を可死とする立場から、死後の賞罰のためよりも、徳のために徳を求めることにより大きな功績を認めます。然し乍ら、不死を完全に否定したわけでもなく、信仰の問題に委ねたポンポナッツィ。更にはブルーノの汎神論がスピノザの世界観を理解する上で参考になります。何故なら、汎神論の最も完全な体系的表現は、スピノザしての哲学であると云われるからです。然し乍ら、汎神論とは世界自然其のものが、絶対存在であり、絶対意思及び絶対意識を持つものとされ、世界を超越した神の存在(神格)を認めないことからスピノザは極悪の無神論者として危険人物の烙印が押されます。スピノザの汎神論は新プラトン主義的な一元論でもあり、後世の無神論や唯物論に強い影響を与えたことを見る通り、無神論の思想的準備の役割を果たしたことは見逃せません。生前のスピノザ自身が神の定義を確立することに尽力したにも関わらず、無神論者のレッテルを貼られ異端視され、批判を浴びていることは、後世の唯物主義である弁証法的唯物主義の典型である唯物史観の影響は見逃せません。スピノザの世界観は神秘主義・汎神論・唯物論に巧みに取り込まれる程の思考倫理の巧みさがあり、著書「エチカ」に於ける論理の進め方は我々「霊魂」を「真」とする者には引き込まれる吸塵力をがあり魅惑的です。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年06月15日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ28 スピノザの云ういわゆる「神」の定義に対象として欠かせないのが、従来の世界の諸宗教が一神なのか多神なのかの考察です。此の宗教的色彩を帯びる論理こそがスピノザを汎神論の覇者とするのです。主として古代国家の宗教にみられる多神教(polytheism)は、ギリシアやローマ時代にまで遡(さかのば)ればエジプトから中央アジアを経て、果ては極東の日本に顕著に観られる一般的宗教の「神」の捉え方です。多神のうちでも、時事に応じて特定の一神を重要視する単一神教(henotheism)や交替神教である古代インドのベーダ宗教((kathenotheism)。最初から、唯(ただ)一柱のみの神を絶対視する一神教(monotheism)であるユダヤ教は元よりキリスト教からイスラム教に至るものまでがあります。一切の存在物に神的なものの内在を想定する汎神教(論)もそうしたものの一つではあるのですが、通常では汎神論を「神秘主義」と捉えられることもありますが、「神秘主義」が汎神論であっても、汎神論を「神秘主義」と捉えられることは出来ません。更には、汎神論に似通ったものに仏教(pantheism)の概念があります。また、神を形態的に捉えた人格的存在と考察する立場と非形態的或いは形象を求める立場、神が非人格的存在であるのは理の当然であり、神に形象を求めること自体が矛盾しており非人格的存在であるのは理の当然だとする分け方もあります。此れ等に共通するのは自己の肉体の徹底的な滅びと「我」の復活を踏襲する一神教(monotheism)であるユダヤ教やキリスト教其れに続くイスラム教を除いては脱我的合一が神秘体験の宗教的核心を成します。スピノザの云う「神」は絶対(絶対存在・絶対意思そして絶対意識)を有する存在であり、世界の中(うち)に観る世界観としての汎神論からは区別されるべき汎神思想ですが、神秘主義がその世界観として汎神論を採ることはあっても汎神論が直ちに神秘主義ではないことからスピノザを神秘主義者とするのは誤謬です。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年06月14日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ27 正教会にしろハイデッガーの存在論に現れる「見えざる手」、スピノザの「神の定義」其々が、「絶対存在」を主張します。「絶対存在」を掻い摘べば、正教会からすれば現代風に解釈すれば大宇宙を離れた其のものであり、神格性により自らが創生したものです。此のことにより、宇宙のエントロピーは「神」の意思であり世界の滅びは神の意志です。ハイデッガーの存在論に現れる「見えざる手」は大宇宙に内外が有ろうと無かろうと、神の絶対意志は或る一定目標に意志が働いている様に捉えられます。だから何だと云えば神「見えざる手」はビリヤードのキューを突く第一者であり其の後の活動や変化には関与せず、卑小的な世界に生きる人間の精神には関与しません。此処にスピノザのバラモンの根本思想である宇宙の根本原理であるブラフマン(梵)と個人の本体であるアートマン(我)と酷似或いは同一であるとする著作「エチカ」が遡上に上ります。但し、ブラフマン(梵)がスピノザの定義する公理としての「神」即ち、絶対存在・絶対精神・絶対意識の本源的な姿形なき無限なる存在です。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年06月13日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ26 存在するもの、人間が「在る」とするを超えて、未だ見えざる世界や宇宙及び大自然は全てが一に帰すのは、スピノザの時代背景を通して、正教会からは極悪の無神論者と看做され警戒されるところは致し方ないかも知れません。スピノザの方も自由国家オランダに居てさえそうなのですから、神学論争かまびすしい当時のヨーロッパ報復を怖れて旅行どころか出版はおろか発表をも差し控える程です。世の中のありとあらゆる在り得(う)る全てを一(いち)即ち、無をも併せ持つ「有」とするところは、大乗の祖「龍樹」の有と無うお離れた「空」を、ハイデガーの「見えざる手」を連想させます。古代ギリシャの哲学者クセノファネスが最初に用いた「一にして全(希:hen kai pan)」、インドの哲学書ウパニシャッドに代表されるバラモンの根本思想で、宇宙の根本原理であるブラフマン(梵)と個人の本体であるアートマン(我)とは同一であるというインドの正統バラモン教思想の根本原理が想起されます。然し乍ら、片や反面では、神は被造物に干渉しないとする理神論とも微妙に異なり、世界そのものが神であるとするから、有神論のように「世界の外側」「宇宙存在に異なる意思」を否定します。即ち、「宇宙は果てしなく」膨張する追いかけても々、逃げていく見えない靄或いは区切りのない模糊としか捕らえ切れません。神と被造的世界との絶対的対立を認めない汎神論は神を世界を統一する普遍的原理、法則性として考える点では合理的側面をもつが、その反面で自我の神への介入、主観と客観との絶対的合一を説いて神秘主義に陥りやすい傾向があります。神と世界とについて明確な概念が形成しようとしたのがスピノザでしょう。ブルーノ、スピノザ、ドイツ観念論に共通する周辺の思想家たちの汎神論的思想は、宗教の非合理性を排して、近代自然科学と調和させようという意図で築かれたものであることは明白です。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年06月12日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ25 汎神論はプラトンの幾多の著書、中でも、師ソクラテスから問答法(弁証法/ディアレクティケー)を受け継ぎます。「プロタゴラスやゴルギアス及びエウテュデモス」といった初期対話篇では、専らソフィスト達の弁論術(レートリケー)や論争術(エリスティケー)と対比、妥当性追求のための手段とされるに留まっていたが、中期の頃から対象を自然本性にしたがって「多から一へ」と特定するための推論技術として洗練されて]、数学・幾何学と並んで、「イデア」に近付くための不可欠な手段と成します。此の弁証法を更に追求し、プラトンのイデア論を徹底させ、万物は一者から流出したもの(流出説)と捉え新プラトン主義(英: Neoplatonism)或いはネオプラトニズムを完成させたのがプロティノスでした。ルネサンス期には新プラトン主義の影響のもとにP・ポンポナッツィやG・ブルーノの汎神論が形成された経緯を経て体系的に完成させたのがスピノザです。汎神論とは世界に想像しうる一切、汎(あら)ゆるものは「神」であり、神と世界とは「一体」であるという哲学説を云い、一つは神のみが実在的であり、世界は神の表現または流出の総体にすぎず、それ自体としては実在性を持たないとするものであって解釈論では「無世界論」に継(つな)がります。対して世界のみが実在的であって、神は存在するものの総体に過ぎないとするものに自然主義的または唯物論的汎神論と呼ばれるもの。此方(こちら)は無神論に継(つな)がります。汎神論は大凡(おおよそ)哲学的には此の二説に大別されますが、更には、自然を生きた統一として表象し崇敬する自然を生きた統一として表象し崇敬する文学的態度までも含めて汎神論とする立場もあります。cap-hiroのプロフィール
2017年06月11日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ24 スピノザの思考がフェヒナーの精神物理学という学問を創始させたのは、「思惟と延長」を同一の実体(神)の二つの表現に過ぎないと看做す一元論の立場から、人間身体への刺激に対して感覚が,人間個々の意志の発動に対して身体運動が起こるとき,刺激や意志は神が感覚や身体運動を生じさせる機会原因としての限りに置いて在る。フェヒナーはスピノザの此の思想を心理学の領域に移し、汎神論の立場から平行論を唱え、精神物理学を創始するのですが、汎神論とは抑々(そもそも)が「哲学的に捉える神」と「存在全体としての宇宙であり世界でもあり自然である総体」とを同一体とする思想体系であり、神と存在全体の本元的な要素を一元的に理解し、両者の質的対立を認めない点では有神論とは根本的に異なります。神秘的側面を理論化する際に現される体系化の一つの典型であるとはいえ、自然や世界に働く統一的原理は、あくまでも徹底した「世界の原理」としての神を構想するギリシア思想、仏教に云う「偏在」が妥当します。「神」をして万物に遍在すること及び自我と神との一致を主張するアーリヤ人の自然崇拝から起こった多神教で「ヴェーダ」を聖典として成立したバラモン教(Brahmanism)にしてもも同一軸上にはある思考でしょう。但し、自我と神との一致を主張する「ヴェーダ」を聖典とするバラモン教は「自然の行為」に性格を賦与したことで哲学とは程遠いものですが、スピノザの思考論理に多少の影響が見られることには興味津々たるものがあります。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年06月10日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ23 心理学、英語ではPsychologyとは、特殊な場合を除き人間が抱く(いだく)心の内域或いは精神と其の行動の学問であり、科学的な手法によって研究されるのを原則としています。心或いは精神と其の行動のアプローチとしては、行動主義のように行動や認知を客観的に観察しようとするものと、一方では、主観的で内面的な経験を理論的な基礎におくものとに大別されています。此の範疇に在るスピノザの「思惟と延長」を同一の実体(神)の二つの表現に過ぎないと観相する一元論の立場を、精神物理学に巧みに応用したのが感覚に関する精神物理学の基本法則確立したフェヒナ-です。グスタフ・テオドール・フェヒナー(Gustav Theodor Fechner/1801年-1887年)は、ドイツの物理学者であり哲学者。1834年からライプツィヒ大学で物理学の教授を務めたフェヒナーは、スピノザの思想を心理学の領域に移して、汎心論の立場から平行論を唱え、精神物理学という学問を創始し、実験心理学(experimental psychology)の成立に大きな影響を与え 後(のち)に実験心理学の父と称されるヴィルヘルム・マクシミリアン・ヴント(Wilhelm Maximilian Wundt/1832年1-920年)を世に出します。フェヒナーの哲学思想は、精神と物質は一であり、宇宙亦は世界は一つの面から見れば意識、一つの面から見れば物質であるという面を見せる。彼は宇宙を意識的存在と見ることを「昼の見方」、無生物として見ることを「夜の見方」と呼び、夜の見方の眠りに落ちた人々を昼の見方に目覚めさせることを目指した。彼の哲学の反響は小さかったが、その哲学に基づいて構想された、身体と精神(物的エネルギーと心的強度)の関係を研究する精神物理学は大きな反響を呼びます。仮に大宇宙が意識存在だとすると其れを捉え得る「人間の精神意識」は絶対意識を伴い例え肉体の滅びがあろうと、「霊魂」と呼ばれしものとして不滅のものとなります。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年06月09日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ22 スピノザは主著「エチカ」、彼の心身平行論の章に於いて、特異的な才能が一際(ひときわ)思考方法に秀(ひい)出ている幾何学的秩序に従っての論証を行います。世界が人間に与える刺激に対しての感覚が、意志の発動に対しての反応として身体運動に転移して起動するときには、刺激や意志は神が感覚や身体運動を生じさせる機会的要因並びに機会の発動原因として働き、人格的意味においての神格性を持ち入ること能(あた)わずの世界存在、絶対存在としての「神」は其れ以上の強制を課さない存在であると観想し、想定しています。スピノザは思惟と延長を同一の実体(神)から発する二つの表現に過ぎないとみる一元論の立場から、「思惟と延長」が同一の実体(神)から発する以上、「唯一の実体」からの派生とする高度な被創造物である精神と肉体を持つ人間も、思惟と延長を同一の実体(神)からなる二つの表現を継承し心身の平行を保つことの重要性を一元論の立場から述べています。だからといって、「唯一の実体」であり人格的意味においての神格性を持ち入ること能(あた)わずの世界存在が人間に干渉することは有り得ません。其れ故に、人間の自由精神は確保される訳です。例え、「宗教並びに信教」上の神格・人格性を帯びた神も、人間を支配欲から自由精神を制限しない筈ですが、信仰の倫理性が其れを許しません。スピノザの場合は神は一方通行であり、神への喜びは自己に帰します。「宗教並びに信教」上の神は相互往来があり、喜怒哀楽・罪非は神に召喚され報復を免れ得ません。此のスピノザの思惟と延長を同一の実体(神)の二つの表現に過ぎないと観相する一元論の立場を、実体(神)からなる二つの表現を継承し心身の平行を保つスピノザの思考を汎神論の立場から精神物理学に巧みに応用したのが感覚に関する精神物理学の基本法則を確立したグスタフ・テオドール・フェヒナー(Gustav Theodor Fechner/1801年-1887年)です。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年06月08日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ21 通俗的と時には批判されることもある「汎神論」とは、「神」と存在全体としての宇宙・世界・自然とを同一視する思想体系です。神と存在全体を一元的なものとして世界存在そのものを理解し、両者の質的対立を認めない点では有神論とは異なりますが、史的流れの中では諸宗教において自らの宗教的正当性を神秘的側面を持たせ理論化若しくは正当化する際に屡々(しばしば)現れる思考形体で、宗教の正当性の体系化の一つの典型として利用され取り込まれてきた経緯があります。自然や世界に働く統一的原理としての神を構想するギリシアの思想やインド大陸の仏教のようなタイプと、神が万物に遍在する及び自我と神との一致を主張するベーダやバラモン教のようなタイプまでがあります。人間の内面性,神秘的生活と宇宙の調和を強調するところから,スピノザやゲーテ等に影響を与えたことは疑いを挟めません。「一者(ト・ヘン/to hen)」論は「存在事物の源泉である一者」から生み出された下位の存在事物は、存在の働きにより、その下に他の存在事物を生む。こうして、世界は、光がその源から発してしだいに光度を弱め、ついに闇(やみ)のうちに消え入るように、一者の光輝として存在し、次第に存在の度を弱めてついに無(非存在、質料)に至る。事程左様な多様な存在者の位階秩序ととして把握されています。それは、一者がその同一性そのものによって生み出す他と多の世界である。理性、魂、生物はそのおもな経過・段階です。哲学読み下せば「愛知」とは、魂をもつ存在事物である人間が、源泉である一者へと、他と多の世界から離れて還(かえ)る過程であるとも云えます。一者とは、存在事物が存在する限りでもつ統一性の根拠であるが、一者そのものは如何なる「多」を含まず、其のことにより、分別の原理である「言語」や「理性」によっては把握されず、人間の言語による分別を超え、「脱我(ekstasis)」として「融一(henosis)」或いは「神的合一」されるとしたものです。中世の神秘思想と神学体系への影響は極めて大きいものがあります。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年06月07日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ20 プロティノスにしろ、論理上の必然として「産む自然」としての「一なる神」を実体、多様な「産まれた自然」をその様態と説く論理思考の進め方の経緯は、純粋経験の程度及び量的差異による世界と人生の一元論的解釈としては極めて有用に働きます。凡そ謂われる「汎神論(はんしんろん)」の理解では、「一なる神」の正鵠(せいこく)を射るものではないことは確かです。此の「産む自然」としての「一なる神」を実体、多様な「産まれた自然」を唯一の実体の様態と説くのがスピノザです。スピノザの影響を帯びる西田幾多郎の著書「善の研究」も純粋経験の程度・量的差異による世界と人生の一元論的説明の試みとなります。スピノザは、思惟と延長を同一の実体「一なる神」の二つの表現に過ぎない。ユークリッド幾何学の「点」、ハイデッガーの「見えざる手」は、共に一者・一元から発する。即ち、刺激に対して感覚が、意志の発動に対して反応し身体運動が起こるときには、刺激や意志は神が感覚や身体運動を生じさせる機会原因に過ぎないと思考します。つまりは、一元論の立場から、心身の平行を主張し其処に人間の心身の迷いのなくなった境地「安心(あんじん)」を説いています。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年06月06日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ19 プロティノスの思想は一元論、即ち、物事の一切を人間の精神に還元する唯心論や物事の一切を物質に還元する唯物論、精神と物質とをともに夫々の現象形態として「一」の第三者に還元する等の系統に属します。其の西洋の代表者の一人として目(もく)されているのが「一者(ト・ヘン/to hen)」からの多種多様な現象の流出を説くプロティノスなのです。彼によれば其の「一者」から世界内存在の一切が現出します。存在事物の源泉なのです。一者はその存在の充溢(じゅういつ)から、一者以外の他の何者をも生み出します。「溢出(いっしゅつ)亦は流出( effluent)」とも呼ばれるは尽きることのない源泉です。即ち、自己内源泉の転移に過ぎないからです。「一者」其のものは何等(なんら)損なわれることは有り得ません。存在の働きを自己以外のものを生み出す創造の働きとして把握する此の直観は、ギリシア哲学の達した中でも極限の美しい直観の一つであるとも言えます。此の「産む自然」としての実体を信仰上の神格性を持った神存在ではなく「神」、論理上の必然として「産む自然」としての一なる神を実体、多様な「産まれた自然」をその様態と説くのがスピノザであると云えます。西田幾多郎の「善の研究」(1911)も、純粋経験の程度及び量的差異による世界と人生の一元論的説明の試みと言っても過言では無いでしょう。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年06月05日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ18 サイズのない点からなる幾何学、言い替えると、其れは「大いさ、詰まりXはおろかYとZさえ持たないし、質量や粒子性格を持たない原点ゼロの世界であり将又、無限な存在・無限数の点の幾何学」です。虚無ではないにしても存在が見えない点から始まり、点を集めて線が、線を集めて面が、さらにはそこから色々な図形がつくられることになり、数学上ではあらゆる図形の出発点にあるのがサイズのない点なのですが、其の後の現代物理科学においても「点」の重要性は一層増すものとして人間思考の基礎概念に位置づけられます。此処にスピノザの「絶対存在」の基本思考論理が観られます。このスピノザの「絶対存在」の基本思考論理解明に役立つ人物が、ヨーロッパ古代末期を代表するギリシアの哲学者であり神秘思想家にいます。それはヨーロッパ古代末期(AD205年-269年乃至270年頃)に代表されるギリシアの哲学者、神秘哲学志向を纏った(まとった)思想家プロティノス(Plotinus/AD205年乃至269年-270年)です。東方の知恵を求めて、39歳のときゴルディアヌス帝(Gordianus /在位238~241年)の東方遠征に加わるものの遠征が挫折(ざせつ)、目的は果たされず、40歳でローマに上り学校を開き、多くの友人門弟を集め、其れ其れから尊崇を受けるも、プラトンに一辺傾倒し、自己の哲学をプラトン哲学の師や先人の説を受け継ぎ、それに基づいて学問を進め、そして述べる祖述と看做していました。彼の師のアンモニオス・サッカス「神より教わりし人(theodidaklōs)」という異名を持つことから類推すると、生来の神秘家だったか、密儀伝授の導師だったらしい可能性もあります。ソクラテスと同様にまったく著作を遺さなかったのですが、その門下に古代末期の三大巨匠を生みます。新プラトン学派の創立者プロティノス、キリスト教神学者オリゲネス、修辞学者ロンギノスがそれでプロティノスは後世の人からは新プラトン主義者とも呼ばれます。然し乍ら、そこにはアリストテレス、ストア派などの影響も大きく、古代ギリシア哲学の一大総合体系となっていることは注目されます。また、時代の一元論的、宗教的な傾向に応じ、魂の解脱を目指し目論む救済の哲学は「思考と直覚」が注視すべき人物であり、其の思考経緯に興味が向かいます。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年06月04日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ17 ユークリッド幾何学はサイズのない点から始まる幾何学だとします。サイズが無い点から成り立った幾何学です。言い換えれば「大いさを持たない点を基底にする幾何学」なのです。「もの」は点から始まり、点を集めて線が、線を集めて面が、更にはそこから色々な図形がつくられることになるとします。即ち、在りて在る汎ゆるものの図形の出発点がサイズのない点なのです。しかし、ユークリッドの「原論(Elements)」の「Size-Zero」を存在の出発点にするのは大いに不可思議な理論及び理屈であり、其の存在は当(まさ)に基準があって初めて認識される「特異点」となります。サイズのないものは存在出来得ないし、存在し得たとしても人間は感知すること能(あた)わず出来得ない。サイズの無いものは物理的には存在せず、人間がどの様に工夫しようとも知覚経験も儘(まま)ならない。然らずんば、「点」をサイズの在るものとして世界の理を探求すると大宇宙の中心どころか地球の中心軸さえ求めることが不可能、数学と物理学が協同して世界を探求することが出来得ない状況に陥ります。然し乍ら、此処にユークリッドの、そしてギリシァ数学の格段に優れた物事の本質や裏面を見抜く「慧眼(けいがん)を見出すことが出来るとするのは西洋思想のみであれば納得しますが、「印度世界のゼロ(Zero)の発見」に負うところがあることも忘れてはなりません。此のサイズのないゼロ(Zero)の発展型である「点」が現代における生活世界の基盤として働いていることは誰しも否定出来得ないし、其の恩恵で現代生活しいては人間社会が成り立っている事実は否定のしようがありません。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年06月03日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ16 Size-Zero、ユークリッドの「原論(Elements)」の「Zero」の定義から始まる「一点」、部分をもたないものとして定義され、一見しては「点とは部分のないもの」全体に対しても比較比肩しようとしても出来得ないものとしての定義付ける。此の「定義」を認めれば、「点」を幾ら集めようと大きな点どころか原点である幾何学上の原点は論理上には存在しても「Point Mark」に過ぎず、世界のものとして質量どころか見えざるものとして理論上或いは仮空便宜上には存在はするが姿形を持たない。それでも、世界の汎ゆるところに偏在する。ハイデッガーの「神の見えざる手」、世界の「理(ことわり)」を観想させます。無定義語の「部分」を使って、「点」とは部分を持たないにも関わらず、元のものの部分であるとするならば、点には部分があることになり、これは定義に矛盾を抱え(かかえ)ます。其のこと故に、「点」にはサイズが持ち得ないことになります。「在って無き存在」、「無と有」を離れた存在、「夢有」である仮想現実の世界です。ユークリッド幾何学は「サイズのない点から始まる幾何学」、「サイズのない点からなる幾何学」、詰まりは「大きさを持たない点の幾何学」です。ユークリッドの幾何学は「点」から始まり、点を集めて線が、線を集めて面が、更には其処から様々な姿形が創出することになります。世界創造の凡そ汎ゆる個物の出発点にあるのがサイズのない点なのです。スピノザは此のユークリッド幾何学の演繹法を人間存在に取り入れることに成果を求めます。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年06月02日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ15 スピノザが「世界の礎」に置く「公理より先にある絶対理」とは「何モノ」なのでしょう。「公理」とは、汎用的な人間の思考の体系の基盤となる「論理的な」決め事です。 「論理的な」とはいいながらも、疑いを挟めないとする人間思考の論理です。疑いを挟めない論理とは認定された数学の基礎理論でしょう。喩えれば「点」でしょう。紀元前300年頃に活躍したギリシアの数学者。ギリシア名はエウクレイデス(Eukleidēs)彼の代表的著書は「ストイケイア(Stoikheia)幾何学原本或いは原論などと訳す13巻の最初で述べる「点」の定義、「点とは部分のないもの」は、スピノザが説く「世界の礎」に置く「公理より先にある絶対理」の思考経緯を理解するのには好都合です。どの様な「もの」であれ「点」は思考上は考え得られます。その「点」に測量可能なサイズがあれば、その半分のサイズが考えられ、其の部分も元のものの部分であることから、点には部分があることになり、これは定義に反することになり矛盾を生じます。其れ故に、「点」には二次元・三次元、まして四次元の拡がりはありえません。此のユークリッドの定義は或る思想を喚起させます。点から始まり、点を集めて線が、線を集めて面が、さらにはそこから色々な図形がつくられることになるとは、即ち、汎ゆる次元図形の出発点にあるのがサイズの「ない」点なのです。しかし、重要なのは「点」が全ての出発点だということです。ハイデッガーの見えない絶対者が浮かび上がります。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年06月01日
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