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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ70 人間誰しも或る時点で「なぜ何かがあるのか」「何故、世界は此のように成り立っているのか」は人類史の過去を問う経験的な問題ではなく、寧ろ(むしろ)、世界の成立の根拠を問う問題です。此の難題を 議論化する形式で初めて明確にするために定式化したのがゴットフリート・ライプニッツ(Gottfried Wilhelmは Leibniz/1646年-1716年)です。当時は、宗教改革によって正教会の権威が地に堕ち、思想的には実存主義や唯物主観よりもピュロン主義が復活しています。ピュロン(Pyrrho/BC360年頃-BC270年頃)は古代ギリシャのエリス出身の哲学者であり、其の経歴は古代の最初の懐疑論者として知られており、ピュロン主義の英語pyrrhonismはその名に由来しています。彼以前にはなかった世界最大のサラセン王国の創始者であるアレクサンドロスの東征に従い,インドのヨーガ行者に出会ったことで、この世の一切が不確実であること、それによる魂の苦悩を避けるには、懐疑論者ピュロンは,さまざまな哲学説の真偽を判定しようとしますが徒労に終わり、其の結果から哲学の真偽を判定することは、徒(いたずら)に苦悩を増すだけであり、彼は心の平静を得るべく,判断停止を決意したといわれる判断中止(エポケー/希:epokhe)をして,心の平安(アタラクシア)を求めるべきことを説いたと伝わります。17世紀には宗教改革によって教会の権威が地に堕ち、ピュロン主義(懐疑主義)が復権を果たしたのに、人間は疑いようのない知識を手に入れることが出来得るのか、それとも全ては貧弱な知性の臆見に過ぎないのか。デカルトの「我思う,故に我在り」を鏑矢とする議論は、英仏のみならず、当時は、未だ発展途上にあるドイツにも波及。その地にあった万能の人ライプニッツが、懐疑論者デカルトの批判を展開することになります。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年07月31日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ69 「言(神のロゴス)は肉となった」というヨハネの証言を歴史的な真理と解するならば、処女のマリアが聖霊によって身籠(ごも)り、救い主イエスが生まれたとする処女受胎の証言が、ヨハネの言う「言は肉となった」というヨハネの証言と、不即不離(ふそくふり)の関係にある事が分かります。不即不離というよりも「不離一体」の関係にあると言う方が妥当かもしれません。神が人となったという重大な真理は人間が信教的には神と同化する可能性を秘めています。神の救済意志が人類創造の時から始まっている事を、証言しているのです。此の意向は、西洋哲学者に多くの思考基底として流れています。中世以降の思想家は嬰児から叩き込まれた思考だから致し難ない面があり、其れに反する思考方法を認識しようと努力する思想家はスピノザを始め多くを数えます。スピノザを理解するにあたり粗方(あらかた)同時代に生きたライプニッツはスピノザの思想を比較して彼の「絶対存在・絶対精神・絶対意志」本の本相を究明・鮮明にするのに役立ちそうです。次章からはライプニッツの思考を垣間覗いてみたいと思います。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年07月30日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ68 スピノザの「神」存在を比較検討するには、新約聖書が最適でしょう。特にハネ福音書の初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった(ヨハネ1:1)。言葉は肉となった(ヨハネ1:14)の四つの命題はヨハネ福音書の枠組みが見事に要約させています。此処で云う言葉とは、所謂、人間が話す意味での「言語」ではなく、ソクラテス以来の言(ロゴス)です。ロゴス(logos)とは、元来(がんらい)は古典ギリシア語の音写で、 概念や意味、論理や説明と理由、理論及び思想などを指しますが、 キリスト教では、人語では理解不可能な「神のことば」世界を構成する論理としてのイエス・キリストの表現を意味します。 哲学的にはロゴス(logos)は真を語る言語、論理、真理の意味、転じて「論理的に語られたもの」「語り得(う)るもの」という意味で用いられることもあります。キリスト教的には「自己」の創造への神の語りかけであり、その救済意志の表現です。ヨハネの福音書の示す、これが「神と共に」ありつつ、同時に「神である」存在として、天地創造の前から存在したという信仰告白は、驚くべき「神の秘義」を自らの言語で、未来を予言するに非ず、通常の人間には、皆目、わからない「神のことば」を預言「通詞・翻訳」しています。更には、そのロゴスが「肉となった」。詰まるところ、人間イエスとして受肉したと解く信仰告白は、旧約聖書の示すユダヤ教的神観の思考では成り立ち得ぬ信仰的逆説です。神が一部とはいえ受肉して人となった。この事実に基づいてこそ、かくまで身を低くして世に来られたロゴスなるイエスを拒否し、十字架に架けた、あの人間の反抗の姿を通して、罪の実態が極点に至るまで噴出したのであり、この様な罪を身に負って死んだイエスの十字架を通してこそ、神の救済意志が貫徹されるとし、神の最終的勝利が宣言されるのです。同じ「ロゴス」にしても信教的に云う「ロゴス」とエチカが捉える「ロゴス」とに同一側面は見い出し得ません。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年07月29日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ67 スピノザは自己の思考を沈思し、此れをを幾何学的論証によって証明したのは、多分に推理するに、一時期、生計のために当時の最新技術である顕微鏡や望遠鏡の「レンズ磨き」をしていたとされるが、誤解も甚だしいものがあります。顕微鏡や望遠鏡を製作する光学研究のためにレンズを磨くのは当時の哲学者に多く見られるもので、格別、珍しいものでもなく、スピノザを「レンズの磨き職人」に見立てるには無理があります。スピノザの生計を援助していたのは、多くの友の経済的援助です。スピノザは当時の最新技術である顕微鏡や望遠鏡の「レンズ磨き」から土星(Saturn)を取り巻くものを「輪(リング)}であることを解き、また、光の波動説を説いた物理学者である友人ホイヘンスにレンズを代価を求めずして提供しています。更には、画家フェルメールに、ヨハネス・ケプラーが最初に名付けたと言われる写真の原理による投影像を得る装置で、実用的な用途としてはもっぱら素描などのために使われたカメラ・オブスクーラ用のレンズを提供したという説まであります。此の「レンズ磨き」をしていたことが、レンズ磨きから出る有害な粉塵を長年吸いつづけたことで、44歳でのあまりにも早い死因の肺病を誘発したと見られています。ピノザの汎神論は一時期、時代の風潮もあり低迷しますが、後世のイツ・ロマン派の作家や思想家たちによって再評価されることになり、現代的では再評価されています。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年07月28日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ66 スピノザの思考法の独自性は、自然を超越した存在者をも、一切合切、幾何学的論証によって証明しようとしたところにあります。彼の主著「エチカ」の原題は正式には「幾何学的秩序に従って論証された倫理学(エチカ)」です。「エチカ」は、幾何学体系の一つであり、古代エジプトのギリシア系哲学者であるエウクレイデス(英: Euclid/ユークリッド)の著書「ユークリッド原論に由来するユークリッドの幾何学教本のような体裁をもち、「定義と公理」、其処から導き出される定理、其の証明という順序で書かれています。全259条にものぼる定理のうちの一つ、西田哲学に影響を与えたと思われる「善」の解釈をスピノザは「エチカ(第4部)定理2」で、精神の最高の善は神の認識であり、また精神の最高の徳は神を認識することであるとし、其の証明を「精神が認識しうる最高のものは神、言いかえればそれなしには何ものも在りえずまた考えられない絶対に無限なる実有である。したがって精神の最高の利益すなわち最高の善は神の認識である。次に精神は認識する限りにおいてのみ働きをなし、また精神はもともと、その限りにおいてのみ有徳的に働くと言われうる。したがって精神の本来の徳は認識することである。ところが精神が認識しうる最高のものは神である。ゆえに精神の最高の徳は神を理解することあるいは認識することである。」をラテン語quod erat demonstrandumの略「Q・E・D」「これが証明されるべきことであった」という意味で締め括ります。スピノザが解明しようとしたのは、世界の原理としての神であり、人間霊魂の悩みや苦悩を除く積極的な働きがけといった意味合いは持ちません。但し、精神の最高の善である神の認識に同期するまでに自己の霊魂を高め得た者は人間としては最高の喜びと満足、霊魂の不滅をも実感します。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年07月27日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ65 自然即ち「世界存在」を超越した存在者を一切認めないスピノザにとっては、スピノザの「神」は、ハイデッガーの「見えざる神」でもなく正教会の云う「見得る神」でもない。スピノザの思考する「神」はとは我々人間が生息する空間はもとより其れから派生する運動や時間其のものが「一の神」であり、変化・変動しない仏教哲学に云う「有」であり「完全体」です。神は自然「世界」其のものであり、世界のなかに存在するのでもない。神は世界そのものなのです。神は世界全体であり、それが唯一の実体であることから帰結するのは、世のありとあらゆるものは「神」から流出したものであり、人間もまた神の一部である。スピノザは、すべてのものが神から流出したものであり、世界のすべては神(完全体)が姿を変えたもの「様態」であると考えます。其の思考に従えば、人間の自由意志は否定されます。我々人間が自己のことを自由な存在だと思うのは、自然法則の必然性を完全に知り得ないことによる妄想であり、主観の誤謬による自己錯覚に過ぎないと断定します。此の思考・思索はアジア極東の島国の世界に日本哲学を西洋に知らしめた西田幾多郎(にしだ きたろう)の哲学にも浸透しています。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年07月26日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ64 スピノザが頭に描(えが)く「神存在」は、普段、他存在に依存して生活する人間が頭に描く「神存在」とは「異質の神」と捉えられるかもしれません。世界自然を超越した存在者、現在の科学でいう大宇宙に拘束されない外的存在をば一切認めないスピノザにとっては神は全体として世界其のものであり、流れる「時間」も神に内在したものであり、運動を生み出す「空間」も神と一体だといえます。現代科学に云う「ビッグバン」まして其の「核(Core)」は言わずもがな、最先端の理論科学でさえ見い出せない「コア(Core)}以前を知らないスピノザが「世界」存在自体を「神」と成すのに矛盾は見い出せません。此のことは、シッダルタが生前成仏したところの釈尊解くところの説法と相似しています。従って、他に「有・的存在」、言い換えれば「神」以外に他者を想定するにしても其れは「虚無」に過ぎないとしいます。自然であり世界にしての神は「全体」であり唯一の実体で。仏教哲学的に言い表すならば「有」、始まりを知らず終末を知らずというよりは、至元もなく終末もないのが「神」だと分析するのです。然し乍ら、現代科学の理論世界は崩壊へと進むエントロピー理論は勿論のこと、現代理論物理学では「無」から「有」への転遷(せん)の理論づけて公式化されようとしています。スピノザの解き拓く「神」の解釈の行き着く先は皆目見当が着かない状況が現代です。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年07月25日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ63 歴史上最も過激な思想家とも呼称されるスピノザ。其れは聖書が神的起源をもつことを疑い、魂の不死を疑うことに起因します。当時の神学論争が喧(かまびすか)しいヨーロッパで、如何に、商人の国家として北部地域に成立したネーデルランドの自由国の歴史を持つ多民族国家にあっても権威と権勢を恐れて思想展開するスピノザは迫害を恐れます。スピノザが、言論の自由を主張した最初の哲学者であることを知るものは稀でしょう。迫害を恐れ匿名出版されたものの禁書処分となった「神学・政治論」の内容は、彼が表現の自由を主張するために書いたものです。教会権威と政治権力の中枢、乃至は(ないし)はバックボーンとする正統派と自ら呼称する神学者達は派閥を成し、其れに違(たが)えて自ら正統派と考える思考方法をとる人物を危険なる思考と思想を持つ人物と看做し、背景にある権威・権力を使って弾圧をします。果敢にとは云えないまでもスピノザが敢(あ)えて主張するのは、新約聖書の目的は「隣人を愛せ」への服従を教えることであり、宗教は哲学に干渉すべきではないし、逆もまた同じというものです。国家の目的は自由にあると考えたスピノザは、国家による言論統制にも反対していたのです。商人家系に産まれたスピノザ。商人とは元来が国家による統制を嫌います。日本の織田信長の「楽市・楽座」の成功を思慮すれば充分でしょう。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年07月24日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ62 スピノザとしては、イエスのキリストとしての復活の象現(しょうげん)は、誰彼無しに起こることではなく、人間其れ其れの要素や把握力に応じた出現であっただろうと推論します。其の復活の象現(しょうげん)は「使徒」其々にも異質に映り、血縁・縁者にも異相であることは「新約」が語るところです。更には、キリストが自己を「神の宮」として語ったところの真意は、聖ヨハネの「言葉は肉となった」、初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった(ヨハネ1:1)言は肉となった(ヨハネ1:14)の四つの命題によって、ヨハネ福音書の枠組みが見事にに要約され、言(ロゴス)とは、世に対する神の語りかけであり、救済意志の表現なのですが、旧約聖書の示すユダヤ教的神観のもとでは成り立ち得ぬ信仰的逆説である神が人現として象限とする語句とともに、神がもっとも多くキリストの中に顕現したことを表現したものと解しています。亦、徳の報酬は「徳」其のものであるとする立場からは、「道徳律」は「律法」としての形式を神自身から受けているか否かにかかわらず神聖かつ有益であるとしており、神の命令に対する不本意な隷属とは対置されるところの、人間を自由にするものとしての神に対する愛を推奨しているものとします。スピノザの汎神論は、「人格神」を徹底的に棄却しつつも、道徳律は律法としての形式を神自身から受けているか否かにかかわらず神聖かつ有益であるとしており、神の命令に対する不本意な隷属とは対置されるところの、人間を自由にするものとしての神に対する愛を推奨しています。スピノザは無神論ではなく汎神論者であるとする所以です。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年07月23日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ61 スピノザは、キリスト教に関しては多くを述べないまでも、ナザレのイエスがキリストとして復活を具現化するのは、「鶏鳴二声の虚言」で有名な一番弟子ペテロを最後にして、使徒其れ其れの把握力に応じて具現化しています。使徒の中で高弟第一のペテロが、其れ故にローマからの宣教の地ローマからの信者の要請に拘わらず、足を踏み込むことに躊躇したときには、キリストが私を二重に貼り付けにするのかと叱咤してペテロの眼前に浮かび上がります。其のこと故に、再びローマに戻って拘束されたペテロは自らを蔑み刑罰をイエスと同様の十字架刑でなく、より酷い「逆さ十字架刑」を望み執行されています。事程左様に、イエス・キリストの復活は、信者各々夫々に対して、其の持ちうる信仰の把握力に応じて示された出現に他ならないとし、スピノザはキリストが自分自身を「神の宮」として語ったことは、ヨハネの語る「言葉は肉となった」という語句とともに、神がもっとも多くキリストの中に顕現したことを表現したものと解しています。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年07月22日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ60 スピノザが思考の基底に置く「神」存在は1930年代にナチスへ加担したことも度々重なり、論争を引き起こしているハイデッガーの影響が顕著ですが、スピノザの汎神論は「神の人格性及び人格から想起する神の神格性」を徹底的に排除し、理性の検証に耐えうる合理的な自然論、即ち、神は完全体であるからにして絶対存在を基底とし、絶対精神・絶対意志として与えられています。此のことから導かれるのは「神」とはハイデッガーの述べるが如く、姿形はもとより、完全なる精神は自己を省みる必要性もなく、何らかの欠損部分がある筈もなく、人間的な自我や不足部分・欠損を欲求する要素はあり得ません。只、自己の存在を自らが生み出した様態の延長に知らしめるものとして人間に理性を賦与しています。スピノザは、所謂(いわゆる)無神論者などでは決してなく、寧ろ、理神論者として神をより理性的に論じ、人間が「神」を捉える人格神については、これを民衆の理解力に適合した人間的話法の所産、所謂ところの、「方便」であるとしています。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年07月21日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ59 スピノザの思考にある「理性」とは絶対存在である「神」の絶対意思・絶対意識を起点とした様態として延長的に持つものであり人間が発想・発現したものではありません。個々の人間の自己保存衝動からの行動をスピノザは否定しません。然し乍ら、自己保存衝動が自が権益を歪曲し自己保存衝動と捉え、自らの欲望・欲求を損なうこと自己保存衝動と捉える人間を蔑(べっ)して止(や)みません。各々が存在に固執する力は、神の性質の永遠なる必然性に由来するとしても、自己の権益を自己保存衝動と捉える人間は神を起点とはしていません。自己の名声・権威・権力の保守行動、ヨーロッパの中世から近代初期にかけて,王の権力をキリスト教によって補強する役割を演じた観念であ王権神授説等々は噴飯のたぐい(類い)でしかあり得ません。各々の性状を部分ではなく全体と看做す限りにおいては諸々の行動は相互には相身互いに調和せず、万人の万人に対する闘争に成りかねないことを危惧します。この不十全な衝動の先の見えない混沌を十全な方向へ導くため、全体としての自然(神)の必然性を理性によって認識することに自己の本質を認め、また、この認識を他者と分かち合うことが要請される必然性があるのです。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年07月20日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ58 スピノザの論によれば人間の生物としては獲得した稀なる「理性」は、其の深度・大いさには差はあれども個々其れ々の理性に対応して感情を支配・統御出来得る筈とスピノザは自己の著書の代表作である倫理学の哲学的研究「エチカ」の中で述べています。然し乍ら、現実的には其の様な理性で感情を統御出来得る人間は非常に稀で、海浜でダイアモンドの欠片(かけら)を見付けることよりも困難です。感情・情欲に囚われた人間は、闘争においては仲間を圧倒することに努め、そこで他者に勝利した者は己が利益を獲得、自己を益しことにより他人を害したことを誇るに至るのは時代は変われども同一の現状です。他人の権益を自己の権益と同様に守らねばならない、更には、他人の権利を自己の権利と同様に守らねばならない、他人の個性を自己の個性と同様に守らねばならないとする道徳的価値観は自己の衝動に駆られた人間には宗教にしても倫理学ににしても「理性」に縛られない人間には強制力どころか何の働きも醸し出せません。まして。己(おのれ)の自己保存衝動の崩壊の見返りに、全く無関係な人々を巻き込むことは現代では頻繁に起きています。此処に、スピノザの個々の自己保存衝動を想定する存在に固執する力は、神の性質の永遠なる必然性に由来すること、人間は神への知的愛に達し、神が自己自身を認識して満足する無限な愛に参与することで最高の満足「最大の喜びである幸福」を得ることと主張する価値があるのです。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年07月18日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ57 世界内存在の物質の活動には自己の運動特性に内在した保存活動が含有されています。とはいえ、各々の個物が存在に固執する力は、神の性質の永遠なる必然性に由来しています。各々の物質が存在に固執する力は、神の性質の永遠なる必然性に由来するのですが、其れを欲求として内在させているのは何らかの本能や精神を持つ「生物」でしょう。取り分け、人間精神の本能と理性は存在に固執させようとする力が強大です。何故なら、人間精神の欲求の元を辿れば神の性質の永遠なる必然性に帰着するからです。欲求の元は神の在りかつ働きを成す根元の恒常性に由来し、其の恒常性が個々の人間精神に反映させ衝動として突き動かすとスピノザは認識します。然しながら、其の人間精神の各々が其の部分々ではなく全体と看做されるかぎりに置いては、諸物は相互に調和せず、万人の万人に対する闘争になりかねないことも承知しています。此の不十全な衝動(コナトゥス)の混沌(カオス)を十全な方向へ導くため、全体としての自然即ち神の必然性を理性によって認識することに自己の本質として認め、またこの認識を他者と分かち合うことが要請されるところに真相がありそうです。但し、此の思考は、物質崩壊であるエントロピーの法則は考慮されておらず後世の解釈に委ねられます。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年07月17日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ56 我々人間の精神自体が個々夫々に深さは相違しても永遠の相の下に其れを捉え、身体を神の様態の延長として捉えるならば、導き出される結論は、自らが神の中にあり、神を通して考えられることを知ることから、神への「知的愛」を認識し無限な愛に参与することになり人間は最高の満足、即ち最高の喜びを得ることが出来る。取りも直さず、此のことは、精神の表象的な認識に依存した精神の動揺する情念を持つ限りは神への「知的愛」を認識し得ない。外部にある事物の能力で定義されるような記憶力にのみ依存する観念は不十全な観念だとします。明瞭判然たる十全な諸観念を形成することを可能にするものは人間固有の「理性」が抱く「認識」に他ならないのです。此のことから、「人間は神への知的愛に達し、神が自己自身を認識して満足する無限な愛に参与することで最高の満足を得ることができる」とスピノザが述べているとする論を目にすることもありますが、完全体が自己の不足を認識することはあり得ません。「我」の認識は「全体」ではあり得ないものが認識する事柄であり「神が諸物に抱く愛」も認識を超えた「自体を認識しない」神の自己愛であり、神が自己自身を認識すらしない無限な愛に参与することで人間は最高の満足と幸福、曳いては自己の充足と永遠性を得ることができるとスピノザは想定している筈です。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年07月16日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ55 スピノザの存在意識においては、表象的な認識に捕らわれ依存した人間は、完成され付け加わるものがなにものもない、不充分性がないから、自らないから不足を補わなければならないとする神(絶対存在・絶対意思・絶対意識)、自己を認識すら必要としない完全体とは相違し、絶えず動揺する情念に突き動かされ受動感情を持ちます。此の受動感情を破棄するこよを成し得たものこそがは、必然性を把握する理性的な認識の持ち主になります。必然性を把握する理性的な認識は、到底、自己の肉体のみならず精神の記憶を持って判断・観想する「観念」では事足りません。人間の獲得した「理性」は幾多の生命に見られない明瞭判然たる十全な諸観念を形成する。「われわれの精神は、それ自らおよび身体を、永遠の相の下に(sub specie aeternitatis)認識するかぎり、必然的に神の認識を有し、自らが神の中にあり(inDeo esse)、神を通して考えられる(per Deum concipi)ことを知ることから、人間は神への「知的愛」に達し、神が自己自身を認識して満足するとはいえ、「神」そのものが自己を愛する感受性は持たない完全体であるからにして、人間精神が神の様態の延長として、無限な愛に参与することに人間は最高の満足を得ることができるとスピノザは結論付けています。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年07月15日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ54 スピノザの思考は、懐疑論から始まるデカルトとらしい人間は自己の自由意志によって感情を制御し得るとする主張とは異なり、人間の精神と肉体としての身体は分離され得るものではなく同一存在なのだとする心身合一論。肉体は滅びても無くなるものものでもなく変化・変遷し、肉体に伴う精神も同様に変化・変遷するものであり、「無」と帰する筈もなく、所謂(いわゆる)同一存在における心身平行論から、人間個々の独立的な精神に宿る自由な意志が主体的に受動的な身体を支配するとする主張を否定します。スピノザは、人間個々の意志は、神格性はもとより人格性を賦与された「神」、人間創造或いは人間世界への降臨の「神」ではなく、世界に有る可くしての絶対存在・絶対精神・絶対意思の人間が様態の延長としてある限りは、必然的であって自由ではないとした上、個々の人間が持つとされる「理性の有或いは存在」を個々の意志発動の原因として考えるのは、人間というものを個々の人間の起因として考えると同様に不可能であるとします。更には、人間の抱く(いだく)観念論においては観念は観念であるかぎりにおいて肯定ないし否定をも包含するものとしており、自由意志と解される表象像や言語は実は単なる身体の運動であるともしています。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年07月13日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ53 シッダールタの肉体から精神を昇華させ、其の精神から「我」を棄捨(きしゃ)する真意を当時の西洋の哲学思想家は、先ず、「自己」からの思考に起点を置くために理解し難いものがあったでしょう。逆に取ると、人間性を亡きものとするものと映ったかもしれません。対して、スピノザは心身の合一という我々の現実的なありかたに立ち位置を設定し、精神は身体から独立にある筈もなく、身体も精神から分離独立とはなりえる筈はない。それは人間の精神の変化・変遷は身体の変化・変遷の状況にに対応しているからと解きます。「唯心論」が主張する身体に先だって精神があるとする思考、「唯物論者」の人間の精神に先だって身体があるとする主張も当(とう)を得ない。人間の精神と肉体としての身体は分離され得るものではなく同一存在なのだ。肉体は滅びても無くなるものものでもなく変化・変遷し、肉体に伴う精神も同様に変化・変遷するものであり、「無」と帰する筈もなく、所謂(いわゆる)同一存在における心身平行論を主張します。人間の有限なる精神は、全自然を認識する「或る無限の知性」の一部分であることから、この世界内全自然を「或る無限の知性」の一部分を「想念的(objective)」に自己内精神に含有するところの思惟する無限の力(potentia infinita cogitandi)によって形成される個々の思想と、この力によって観念された自然の中の個々の事物とは、同じ仕方で進行するとしています。すなわち思惟という側面から見れば自然は精神であり、延長という側面から見れば自然は身体である。精神を構成するところの観念とその対象の秩序は、同じ実体の二つの側面を示すから一致するとし、人間は「神」の構成の一部だとします。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年07月12日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ52 デカルトにしてもスピノザにしても、人間の精神状況の変化・変遷は、其の精神の在り処の肉身である身体の状況の変異に対応しており、精神が全く以って肉体から独立しているわけではないとことは両者も充分に承知しています。此の点に鑑(かんが)み興味を惹かれるのがシッダールタの「我執」を離れたん自己を減する精神の境地です。自らの肉体に囚われる精神の「柵(しがらみ)」から己を解き放ち、「我執」を離れた存在に自己の内精神の奥底に潜むであろう世界に内在する精神の真奥を探求し世界内存在、即ち、他者から賦与されたものではない自己完結の精神に感応せんと自らを過酷なまでに修行し、或いは、平常心を以って世界を見渡し、己(おの)が我執を離れた境地で一度は宇宙に内在する神々、若しくは、大世界に外在する「有」を考慮したでしょう。然し乍ら、彼の我執を離れた霊魂は世界の常在に他者の「意思」をば捉えません。「意思」無き「意思」、永遠の掟とも云える「空」を覚りによって掴みます。龍樹の「大乗哲学」の以前の仏教、龍樹からは「小乗仏教」と貶め罵倒されている、その「上座仏教」から「仏」と崇(あが)められるシッダルタを、釈尊は「空」に溶解し世界に遍在(遍く在る)、空間と時間線の全てに在(ざい)することを説きます。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年07月11日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ51 デカルトはスピノザと同様に神を無限な実体「一としての有」として捉え、他者は在り得(う)可きも無い世界に、「空間」と「時間」線まで含有する特異性を賦与しています。其の「無限実体」を根底とした世界に彼は人間が考察する視点から精神と身体、スピノザの多用する物体としての神の延長という二つの有限実体、人間の精神と神の延長としての身体である「有限なる実体」をデカルトは厳密な意味では「神の世界内」に置ける「認識存在」と捉えていると解釈していますが、スピノザは世界の根底にある存在が属する汎(あら)ゆる実体、「実体」といっても人間の認識上の存在ですから、「唯一の有」である真実普遍の永相を「実体」として神のみに帰結するとします。スピノザに思考には、一切の完全性を自らの中に含有する神は、自己の完全性の力によってのみ作用因である。此のことから当然に他者からの影響は非ず、否、自己を認識したりすることはあり得ない「自己原因」だからです。換言すると、神とは超越的な原因ではなく、万物の内在的な原因なのです。神とは世界自然、小宇宙どころか果て無き世界の一切合財を指し示しています。神が唯一の実体である以上、人間の持つ精神も身体も、唯一の実体である神における二つの異なる属性としての思惟と延長とに他ならないのです。更には、神の本性は絶対に無限であるため、無限に多くの属性を抱えており、所産的自然としての諸々のものは全て、能産的自然としての神なくしては在りかつ考えられることの出来得ないものであり、神の変状ないし神のある属性における様態であるということになります。スピノザが「一元論・汎神論者」と呼ばれる由縁です。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年07月10日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ50 人倫を成立させる道理として、それを体得している精神を会得した人間の状態を「徳人と呼称しますが、徳篤き精神を会得した人間を哲学的には「徳人」とは呼びません。「徳」がソクラテス的な「知」を意味するからです。一般的には道徳といえば,倫理と保々(ほぼ)同義的に用いられてはいます。徳という意味合いを「知」を強調するところに一般的に言われる「徳」に相異があります。西洋ではソクラテスの徳の定義は、徳というものは其れ自体が或る思考及び定義に随伴するものとします。徳は他者からという教えられ得るものである知識ではなく、人間精神の思惑(おもわく)として精神の知とは無関係に「神の恵み」によって人間に備わるものであるよ言い切っています。此の「言(げん)」に従順に従えば「徳」とは「悳(直感或いは直覚)」と読み解いても間違いのない、教授され得ないものになります。其れ故、「徳」とは人間の獲得知とは別の立ち位置、霊魂の世界、霊域の問題と立ち入ります。「道・徳」の徳とは獲得するものではなく産声を上げた時点から人間に左様するものでありません、哲学的な徳は人間の努力とは無関係に自らの授かった霊魂に耳を傾けることになります。「真の知」とは絶対存在としての神の意思を捉える。其れが「徳」だと説いているのです。一方、学校教育の一環として徳育教育の「徳」は学び従い其れを育成すれば社会に対応することを念頭に置いています。此方は「社会人」としての順応を目指しており物事の基底にあるある「知」とは無関係であり修養すれば「徳」を獲得する「道」が拓け(ひらけ)ます。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年07月09日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ49 倫理学は道徳を定義なさしめ、道徳の「道(Tao)」は中国哲学上の人や物が通る可き「場」であり、宇宙自然の普遍的法則や根元的実在、道徳的な規範、美や真実の根元などを広く意味する言葉として「道徳」よりも広範囲を示し、人倫を成立させる道理としては「倫理」とあらかた同義なのですが、其の捉え方には諸説があります。「道(たお/Tao)」は、一に老子の論に基づけば、「道」とは名付けることの出来得ないものであり仮に道」と名付けているに過ぎないものである。礼や義などを超越した真理とされる天地一切を包含する宇宙自然、万物の終始に関わる道を天道(若しくは一貫道)と名付け、人間世界に関わる道を人道という。「人倫」のみに非ず人間世界に関わる天地一切を包含する宇宙自然、時間観念から眺めた万物の終始をも「道(たお/Tao)」の語彙に持たせ「道徳」の道の語意を遥かに超越します。第二には孔子の解釈です。天道を継承し、詩経、書経で人道についても語り、「子曰 朝聞道 夕死可矣」や「子曰 參乎 吾道一以貫之哉」に道義的真理があり、天地人の道を追究した孔子の「道」解釈です。道義的真理や、天地人の道を追究した孔子の姿勢、冠婚葬祭における葬儀に関しての血脈が顯れ(あらわれ)ています。第三に、神秘思想の上に取り入れられた宗教色を帯びた道教における「道」の概念は、過去には道家の「道」とは懸け離れた概念となっているとされていましたが、フランス学派の学者たちを中心に道家と道教の連続性を認める傾向が顕著です。「名」以前は、名も無き「道(Tao)」これが老子の「天地生成論」ならば倫理は人間の誕生を以って発現する「理」なのです。スピノザの説く実践倫理とは隔壁を感ぜずにはいられず、焦燥の観に追い込まれること止む得ざれずです。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年07月08日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ48 人間の霊魂を思考するとはいっても「人間」其のものの言葉が曖昧であってはいけません。「ひと」は「人間という語彙の持つ真相」を理解しているのであろうか甚だ疑問を感じる場合があります。倫理学にしても定義は確立しているとは言えません。日本の和辻哲郎(わつじてつろう)が、倫理学は「人の間」としての「人間」の学であるとして、独自な体系を樹立しています。人間存在の根本構造は個々の個人と、全体としての社会の二重構造にあり、其れ等は全体存在の否定によって個が成立し、個の否定によって再び全体が全に還帰するという二重の否定運動によって顕現するとします。道徳的善悪に関していえば、個が全を否定して全から背き出るのが悪であり、個が自らを再度浮上させ其れを否定して全に戻るのが善であるとしています。ここでは二重構造とはいっても、「個」に対する「全」の優位性が示されています。然し乍ら、和辻倫理学とは別に、人間を文字どおり「人の間」にあるものとして捉え、其の視点から道徳の原理を探ることも可能でしょう。道徳的な善悪は、人間の人間に対する行為、自己の他人に対する行為のうちにもっとも明瞭(めいりょう)な形で現れます。此れを然りだとすれば、道徳の原理は人と人とを架け渡される橋すなわち「間」の領域にあるともみることが可能です。人と人とを架け渡される橋、それを人「間」性と意味取れば、道徳の原理の解明にとって必要なのは、人間本性の解明ではなく、寧ろ(むしろ)こうした人「間」性の解明であると云えるでしょう。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年07月05日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ47 「倫理」中でも形而上哲学で取り扱われる「倫理学」は実践哲学として「道徳」の定義に、些か(いささか)の異なった見解が現代にも持ち込まれていますが、第二の立場として「倫理学」の範疇にある「道徳」は、人間は歴史とともに変化する存在であることにより社会生活を送る生活規範としての道徳も歴史とともに変化し、永遠不変な道徳は存在しないとみる立場があります。これは自然主義的倫理学と相異し、歴史的相対主義の立場であって、実証主義の倫理学や、これまでの道徳はいずれも階級制から導かれた道徳であり、階級の利益に奉仕するものであり普遍とは無縁ですです。マルクス主義の倫理学は、この立ち位置にあります。第三には、個々の人間のあり方を予め(あらかじめ)規定しているような普遍的な人間本性などは存在せず、其のことから導き出されるのは普遍的な道徳もまた存在しないとする実存主義の見方です。一例としてサルトルによれば、人間各自の実存は本質に先だつものとして自由であり、既成の価値に捕われずに自由に自己を創造していく行為が道徳的に善である。普遍的な道徳法の存在を否定し、其の都度の状況に応じた決断を重視する状況倫理も同様に捉えらrます。普遍的な道徳の存在を認める第一の見方はギリシア以来の伝統的な見方であり、道徳の歴史的相対性を説く第二の見方は近世の産物であり、個別的な実存の倫理を重視する第三の見方は現代に生じた見方であると宇都宮芳明は分析しています。然し乍ら、現代でも尚、此の三つの見相は其々に、尚、有力な見方として鼎立(ていりつ)しているのが現状であることも事実です。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年07月04日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ46 20世紀の戦後の日本の普通高校では、必ずと言っていい程、「倫理」という授業課目を設けていました。所謂、義務教育での「道徳」の授業の発展型だったとも云えます。現代倫理学は其の意味では、道徳原理を定義する学問であり哲学だとも云え、高校の授業科目に「倫理」を取り入れたのでしょう。其の意味で「倫理」中でも形而上哲学で取り扱われる「倫理学」は実践哲学として「道徳」の定義に、些か(いささか)の異なった見解が現代にも持ち込まれています。一つは、道のときにも徳は人間固有の本性に根ざしているとした見解、其のこと故に、何れ(いずれ)の時代にも変動しない普遍的な道徳が存在するとする処に立ち位置を持つ思考です。その代表としては「最大多数の最大幸福」の古典的功利主義者ベンサムや其れに続くイギリスの哲学者というよりはジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill/1806年-1873年)、政治哲学者、経済思想家として有名で、倫理学においてはベンサムの唱えた功利主義の擁護者として知られる他、論理学分野においてはバートランド・ラッセルら後続の分析哲学にも強い影響を与え、初期科学哲学の重要な哲学者として知られている彼や、ヘンリー・シジウィック(Henry Sidgwick、1838年-1900年)、イギリスの哲学であり、倫理学者、18世紀から19世紀の快楽主義に基づく古典的功利主義の倫理。人間は快を求め苦を避けるという性状を本性的に持つ。人間が本元的にこうした本性をもつ以上、道徳的に良い行為とは、出来得れば出来るだけ多くの快を人々に齎すか、或いは、人々から出来るだけ多くの苦を取り除く行為である。いわゆる「最大多数の最大幸福」が説かれる所以(ゆえん)であると説きます。これは、快を求めるという人間の自然的本性に道徳の基礎を置く点で、自然主義的倫理学といってよいが、普遍的な人間本性を認容するところに難があるとする立場も見られます。概してスピノザの倫理学は此の傾向を帯びています。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年07月03日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ45 スピノザの主著、倫理学の哲学的研究である「エチカ(倫理学)」では、単に、世間一般、若(も)しくは、宗教及び慣習的道徳をそのままに従容として受容するのではなく、其れについて哲学的考察によって其の真否を明確化し、どのような原理に従って生きるのが真に道徳的な生き方であるかを探究する倫理学、人間はいかに生きるべきかを考え、人間らしく生きるためにはどのような生き方を選んだらよいかを探求します。此の意味では、ソクラテスの場合には倫理学は哲学と一体化して扱われますが、アリストテレスによる理論学と実践学の区別が、近世以降、哲学内部における理論哲学と実践哲学の区別として定着し、今日では倫理学は実践哲学として、哲学の一部門とみなされスピノザを「実践倫理」の確立者としての名誉を与えます。スピノザの「実践倫理」とは道徳を道徳たらしめる原理の探求であり確立です。此のスピノザの「実践倫理」に対してレビ・ブリュールやデュルケームのように、倫理学は習俗をも含めて道徳を社会的な一現象として捉え、其の機能や構造を実証的方法によって考察する社会科学であるべきだとする見方もありますが、ある種の行動のに規範を設定したり根拠付けたりするのに何を根拠や基盤に置くのかが問われます。スピノザは誰しもが否定出来得ないとされた数学的幾何学の定義に従って、「神」即ちスピノザの云うところの「絶対存在」を基底とした観点からから「Q.E.D」を列挙・羅列します。
2017年07月02日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ44 哲学上の思考論理として取り上げられ、人間の精神を表象するときに用いられ遡上するのが「概念」と「観念」です。此の「概念」と「観念」の区別を曖昧にしたまま、スピノザの著作物を紐解こうとしても更なる曖昧性が襲ってきます。概念とは物自体に関した人間の真否の捉え方であり、定義によって明確化されます。一方の観念は対象物に対して心の働きが加わったもの、つまりは認識されたものです。其れ故に、概念とは外的・共通的なものとしてあり、観念は人間の内的で個人的なものとなります。殊更、スピノザの主著、倫理学の哲学的研究である「エチカ(倫理学)」副題も含めた正式名称「幾何学的秩序に従って論証された「倫理学」では、人間はいかに生きるべきかを考え、人間らしく生きるためにはどのような生き方を選んだらよいかを探究する学である「倫理学」、言い換えれば道徳の実践とは題されるも、スピノザ哲学の汎神論的体系全体が織り込まれ実践哲学スピノザの面目躍如たるものが表現されています。スピノザお得意の誰しも納得させ得るのは数学理論、なかでも「幾何学」を用いてるのには訳があります。数学上の量は単位と数値で表されて初めて概念となりますが、実際の量は経験的なものであり、その経験の過程では初めから数値があるわけでもなく,漠然とした大きさの感覚,つまり量の観念があって,それが概念化され客観化されて数値表現に至るのです。観念の定格化に幾何学的秩序を哲学的研究に導入する感覚はスピノザ特有の論理思考なのです。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年07月01日
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