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「閑話休題」ア・プリオリとア・ポステリオリ ア・プリオリとアとア・ポステリオリ(a prioriとa posteriori)とは、元来はギリシア語と並んで西欧の古典語であるラテン語(Latin)であり、古代ローマ帝国の公用語でもあり、中世から近代の初めに至るまでカトリック教会を中心とする全ヨーロッパの「知識層」の、いわば高等言語共通の文語として用いられ、思想や宗教書等々の著名な書がラテン語で執筆されていることが頻繁です。ア・プリオリとア・ポステリオリもラテン語では「先なるものから」「後なるものから」という語彙ですが、和訳では「先天的」及び「後天的」と訳されるのが一般的です。此の言語(ごんご)は、経験論に立ち位置を持つ人間の認識の経験からの独立性に関連して使われ、認識論上の術語となった経緯があります。一例をあげれば、凡そ多くの人間が思考基底として抱く数学の真理の正しさは、経験とは独立に、つまり経験に先だって知られるア・プリオリな知識の例になります。対して、物理学の法則の正当性は、実験や、観察といった経験的な事柄の繰り返しによって確からめられことで知られます。つまりは、経験した後になって真理として知られるので、ア・ポステリオリな知識の例になります。アリストテレス的思考の伝統では、原因・根拠であるという意味で、より先なる事象に基づいて、結果にあたる事象を導出する論証の性格を持つといいますが分かり辛い文面です。近世的には、「先天的」に対しての「後天的」の意から、生物学・心理学などでの、ある機能が生得的に与えられていること。また哲学、特にカントの認識論では、認識・概念などが後天的な経験に依存せず、それに論理的に先立つものとして与えられているア・プリオリな知識に対して、アポステリオリは、帰結・結果であるという意味で、より後なる事象に基づいて、原因・根拠にあたる事象を導出する論証の性格をいうとしています。一般には何らかの機能の発生原因がが生得的ではなく、経験や学習によって得られること。認識論では、認識・概念などが経験を根拠にして成り立っていることを基底とします。要(よう)は、人間が学習する前から成り立っているの簡明に解かるのがア・プリオリであり、人間の思考・分別・論証による認識後に初めて受け止められる経験認識がア・ポステリオリであり、人間の介在が両者を分け隔てています。単純に云えば人間認識の介在の有無による別け方と捉えてもいいのでしょうが、人間の理性のような進化を伴ったものは兎も角も物理科学においては発見・解明の時間差が両者を区分しているとも言え厳格な意味では大なり小なり、同様のことを定義付けしているだけだともいえます。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年08月31日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ100 なぜ宇宙があるのか?(Why is there a universe?)、なぜ世界があるのか?(Why is there a world?)、なぜ無ではないのか?(Why not nothing?)。物事の根拠を「何故々」と繰り返し問い続けることでやがて現れる「究極の問い」とも呼ばれるものを、ショーペンハウアーは根拠律(充足理由律)の四方向に分岐した根として、「なぜ」という問いを、可能な人間理性の可能な範囲を超えてまで問うことは誤りだと断じます。根拠律一般の普遍的な意味は、何の様(どのよう)な「もの」も常に他の「もの」によってのみ存在するということに帰着せしめられる。だが、其れ等の全ての形態における根拠律は、経験によって得られたのではなく、かえって経験が成り立つ基礎になるような概念または原理「ア・プリオリ」であり、従って我々人間の知性に根差している。其のこと故に、根拠律を一切の存在する事物の全体、即ち、存在世界全般(世界がそこに存在するこの知性をも含めて)に適用されてはならない。なぜなら、ア・プリオリな諸形式によって現れる世界は、まさに其のこと故に有る単なる現象若しくは現実だからである。此れを然(しか)りと捉えれば此等の要素を形式の結果においてのみ世界に妥当するもの、ショーペンハウアーは根拠律(充足理由律を含めて、世界そのものの存在、即ちそこに現れる物自体へ適用されることはないとします。其の出処根拠は、世界におけるすべての事物は、他のものによって存在する」とは問えないし、問うことは愚の骨頂だと指摘します。「在る」ものは「有る」、言い換えれば、常住するのであって「どんなものにもそれが存在していることの理由がある」という原理(根拠律)を「世界全体」に対して適用することはできないとしています。インド釈尊の因果律の否定が浮上します。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年08月30日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ99 ショーペンハウアーは、我々人間が普段においても問いを発する時、文章の意味、単語の語彙が解らないときに発する「何故に(なぜに)」の語彙の持つ性状を分析しています。彼が学位獲得のために著した論文「充足根拠律の四方向に分岐した根について」では、人間が「なぜ」という形で問いが発せられる時には、期待されている解答には四種類の根拠律(充足理由律)、即ち、一には生成の根拠律、二には認識の根拠律、三には存在の根拠律、四に行為の根拠律を揚(かか)げ、其々に分析し、此れ等は表象における原因と結果の系列を成立させるものであり、因果律のことだと断定します。但し、インドの仏教哲学に堪能な彼は、第上の祖、空理論の龍樹(ナーガルジュナ)同様に、生成の根拠律は、物自体としての世界ではなく、意識における表象の現れ方に関わるものとして規定されているとしています。主観に対する客観のこの第一類においては、根拠律は因果律として登場してきており、「このような根拠律を私は生成の根拠律と呼ぶことにする。経験的実在性の複合体を成している全体表象のうちに現われてくるすべての客観は、其れ等の諸状態の生成消滅に関しては、言い換えれば時間の流れの方向においては、この生成の根拠律によって相互に結びつけられている。」とします。此れこそが仏教哲学の解明にも役立つ課題であり解答です。此のことを誤ると「虚無主義」が待ち構えます。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年08月29日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ98 カントによる形而上学への批判は、以降の西洋の哲学に大きい影響を与え、後の思想家に神の存在証明や宇宙の始まりなどの形而上学的な問題を、哲学の中心的なテーマとして議論される傾向も時代の変遷に連れ抑制されていく傾向をみせてきます。事実、其の脈絡の途絶えんとするときに、其処に、アルトゥル・ショーペンハウアー(Arthur Schopenhauer/1788年-1860年)が現れます。彼はドイツの哲学者、主著は「意志と表象としての世界」Die Welt als Wille und Vorstellung 1819年)ですが、今時では珍しくもないが、当時の西洋では異端思想の扱いを受けるのみであった仏教精神そのものの思想を学び、其の精髄を語り尽くした思想家であり、其の根本を成す哲学は、後世の多くの哲学者、芸術家、作家に重要な影響を与え、生の哲学、実存主義の先駆者と覚(おぼ)しき人物とされています。彼ショーペンハウアーはカントのアンチノミー(二律背反)の問いを直接分析するのではなく、其の前提にある「なぜ」とは何なのかを分析しています。その上で、ライプニッツによって唱えられた「すべての事物の存在あるいは真理が成立するためには十分な理由(原因)がなければならぬ」という「何故(なぜ)」の適用範囲の判断に問題が有り、カントのアンチノミー(二律背反)は抑々(そもそも)の思考方法の判断にも誤りがあることを指摘しています。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年08月28日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ97 第四のカントのアンチノミー(二律背反)の命題、世界の原因の系列を遡(さかのぼ)り辿(たど)りつめると絶対的な必然である「モノ」に至る。否、系列のすべては偶然の産物で、世界に絶対的必然者は存在しないに関しての此の二律背反には、先ず、必然性(ひつぜんせい、Necessity)の定義を明確にする必要があります。必然性とは、其の事柄が実際に起こるか否か、真であるか否かの確実性の度合をはかる蓋然性ではなく、偶発的事件に伴う変化変容を伴う偶然性を対立概念とします。 必然性は反対対照が不可能な概念であり本来的には偶然の産物などとは両立する筈がありません。つまりは、世界に自由はなくすべてが必然であるとすれば、世界のなかには自由が働く余地がなくなります。此の第四の命題は世界の第一原因と神の存在の問題です。現代科学理論の無から有が生じるを取り込んでも「無」の原因因子は説明できません。行き詰めれば神の存在に再度立ち向かわねばなりません。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年08月27日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ96 第三のカントのアンチノミー(二律背反)の命題、世界のなかには自由が働く余地がある/世界に自由はなくすべてが必然であるに関しては決定論と自由意志(determinism and free will)が関与します。決定論は、すべての出来事はそれに先行する出来事によって完全に決定されていると主張するものです。すると、ただ一つの未来が過去が目録によって決定されており、偶然的なものが存在する余地はない。したがって、意志を決定するために複数の選択肢を前提とする自由意志其のものの存在が否定されることになります。然し乍ら、仮に決定論のいうように、意志決定の自由は存在せず、全ての行為が因果的に必然的だとするならば、行為に対する人間の責任は問えないことになります。ここに、自由な行為の余地を求めて人間の意志決定を特別視し、自由な選択を可能にする非決定性の存在を主張する非決定論が唱えられる理由が浮上する余地が生じます。 哲学・思想 ブログランキングへ
2017年08月26日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ95 第二のカントのアンチノミー(二律背反)の命題、世界はすべて単純な要素から構成されている。否、世界に単純な構成要素はないとすることに関しては現代物理論では克服しつつあるのが現状だといえる時代が来ています。其れは宇宙の始元のコア(核)、所謂、世間を騒がす「核爆発」とは次元を異にする人間の時間感覚的には一瞬の爆発と其の後の膨張ですが、世界には重力因子のみが一定の期間とは云え宇宙が「重力の海」といわれる単純な要素から構成されている時期が在ったことでは、アルベルト・アインシュタインの一般相対性理論より導かれる重力波を媒介する粒子として提唱され、スピン2、質量0、電荷0、寿命無限大のボース粒子であると予想され、力を媒介するゲージ粒子であるとされています。此のことは現在のコンピューターを駆使した物理科学のシュミレーター理論からもほぼ解明されつつあります。然し乍ら、カントが述べる世界はすべて単純な要素から構成されている。否(いな)、世界に単純な構成要素はないとすることに関しては前提として自分の心・魂との協力及び連携が不可欠だとしています。物理科学が未熟であったことから致し方ないのですが、インドの正覚者の良き理解者、大乗の祖の龍樹(ナーガルジュナ)の「空」が連想されます。未だ発見すること能わず重力子を「空」だとすれば、一方のカントが述べる世界はすべて単純な要素から構成されているは解決され、アンチノミーのもう一方を考察すれば宇宙が年代を経るに連れ複雑化してエントロピーの最終章を迎え再び単純化するとすれば一応の納得は出来得ます。現代思考では大宇宙其のものにサイクルがあるのか無いのかの方が注目されます。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年08月25日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ94 カントが説くアンチノミー(二律背反)に関しては、更に、彼が云わんとするアンチノミーの語彙するところを観想し例示を上げ確証する必要に立ち向かわねならなければ、其の主張の本意が理解可能な状態とした上でなければ明晰な答えは導き得ません。先ず、アンチノミー(二律背反)とは、ある命題「テーゼ(判断・定立)」と、その否定命題「アンチテーゼ、(否定的判断・反定立)が同時に成立してしまうような場合を云う。即ち、事実を記述し、真ないし偽の値をとることができる定義を考えて命題相互の論理関係を主題とする科学から導き出される難問、第一のテーゼ世界は時間的にも空間的に有限である。のに対するアンチテーゼ世界は無限でもある。については現代科学は宇宙の始まりには空間が無く、Core(コア/核)の爆発とともに重力の海が生まれ光因子が発生し空間を生じ其の運動が人間の心或いは理性の認識が「空間の存在」と其の中の運動変化を「時間」として捉えることと成ったとするのが一般的思考でありカントのアンチノミー(二律背反)は現在では意味をなしません。現代宇宙の物理観察論の「無から有」や「有から無」への変遷は、第一のテーゼ、世界は時間的にも空間的に有限であるのに対するアンチテーゼ世界は無限でもあるに関してのアンチノミー(二律背反)は、「無から有」「有から無」の大宇宙の観測から証明されようとしており、無からコアの誕生そして爆発(Big Bang)其の後の単一因子からなる「重力の海」、そして複雑化し永遠とも云え得(う)る空間のエントロピー増大による崩壊から、無限大の縮小経過を経て限りなく「無」へと向かいます。運動が空間無くしては成り立たない以上、何より時間の有無は意味をなしません。カントのアンチノミーは物理科学の進歩により克服されようとしています。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年08月24日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ93 人間の理性に関しての詳細な分析と構造を思考したイマヌエル・カント(1724年-1804年)が、人間の理性は、どの様な問題でも扱い極み得る万能の装置などではなく、理性が扱えるのには限界があるとします。一定の制約があるとしています。其のことから人間の理性によっては扱えない問題、カントは「純粋理性」のアンチノミーとしてのいう四つの命題を宣言します。其のカントの、字義通りには二つの法則が現実的にであれ見かけ上であれ相互に両立しないことを意味し、これは論理学や認識論で使用される術語であるアンチノミー(独: Antinomie/二律背反)に関するカントの議論は理性の構造を分析し、その上で、「時間に始まりがあるか」「宇宙に果てがあるか」といった問題は「人間の理性」では捉えきれない埒外にある課題だとしています。彼はライプニッツの神の存在論的証明に関する「神」の質疑解答に対し、人間の持つ理性の構造問題を分析した上で、主著「純粋理性批判」の中で、或る事柄について相互に矛盾する命題が,同様に有効な基礎付けをもって主張される二律背反に基づき、カントは、人間の理性が経験の限界をこえて無制約者即ち「神」或いは、哲学的に云う「絶対存在」を求めるとき,時空の限界の有無,世界の基本的構成単位の有無,自由と必然,絶対者の存在と非在などを巡(めぐ)る二律背反に行き尽(つ)かざるを得ぬ所以を示し,理性の限界への洞察によってそれを解決すべき一つの方向を提示した四つのアンチノミーを例示しています。一には世界は時間的、空間的に有限である、若しくは世界は無限である。二には世界は全て単純な要素から構成されている、若しくは世界に単純な構成要素はない。三には世界のなかには自由が働く余地がある、若しくは世界に自由は無く総てが必然である。四には世界の原因の系列を辿(たど)ると絶対的な必然者に至る、若しくは系列のすべては偶然の産物で、世界に絶対的必然者は存在しないことを例示しています。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年08月23日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ92 神が痛みや苦しみがない世界を創れなかった、軈(やが)て来るであろう痛みや苦しみが生まれると「予想できなかった」、現にあるところの痛みや苦しみを知らないのであれば「神」は全能だとは言えない。後半の、人間に痛みや苦しみがあることを知りつつ、且つ、それを修復でき得るにも拘らず放置している。此等の要素の一つでも妥当するならば、世界の内外は問わず「全知全能で完全に善なる神」は存在しないことになります。仮に、ライプニッツが神の存在論的証明で定義した神があらゆる側面について最上級の性質を持つという前提は解答なきでは破綻するのが当然です。事実、ライプニッツは此の問題には生涯に於いて難渋しています。ライプニッツ自身の思考が与えた悪の問題への解答は、神が創造した世界の評価の基準は、人間とは似たものであるとは想えず、創造した世界がどの様ものであれ、神の観点からすれば自ら創造したものは最良の世界なのであろうということです。また、「悪い」こととは、神が善いことを決定(けつじょう)したあとで、受動的に付加された程度のものであり、先ず(まず)、悪いことを原理的に望まれたわけではないことは当然です。人間の理性的には道徳的に見て受容可能なものであるといったものとしています。此処で云う「善いこと」の要(かなめ)は人間への自由意志の付与でしょう。悪の問題はユダヤ・キリスト教圏において紀元前から議論されている問題ですが、スピノザはじめ古今東西を問わずの争論であり現在も宗教哲学や神学の領域で議論が続いているのは明々白々の事実です。宗教・物理学・哲学が共に世界に継続していることが其の実例と成ります。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年08月22日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ91 十七世紀にアイザック・ニュートンと微分法の第一発見者の立場を巡って争ったライプニッツですが、ニュートンが1687年に出版した「自然哲学の数学的諸原理」という著書を、神が作成した宇宙の仕組みを理解しその偉業を称えるためといったある種の宗教的な側面を持って執筆しています。但し、此の論証は現代では{ニュートン力学}と呼ばれ、物理学の課程で必ず教えられるものとなっており、後世のカントの批判に晒(さら)されます。ライプニッツが自己の思考や其の結果に一番思い悩んだのは「悪の問題(Problem of evil)」というものです。 全知全能で完全に「善」なる神が、最良のものとして、「無からの創造」でこの世界を創ったのなら、何故に(なぜに)、此の存在世界には痛みや苦しみ等々の人間には悪いことがあるのだろうかという疑問です。此のことから類推されるのはライプニッツの想定する「唯一者」が西洋における一神教的な神、つまり「全知全能で完全に善なる神」であることから来る問題です。其の疑問とは、仮に神が痛みや苦しみがない世界を「創(つく)れなかった」、亦は、やがて痛みや苦しみが生まれると「予想できなかった」、更には、痛みや苦しみのある現在の世界を「修正できない」のであれば、神は全能ではない。亦、世界を創る際に軈(やが)て来るであろう痛みや苦しみが生まれるとを予想出来得なかった、若しくは、痛みや苦しみのある現状を知らないのであれば一神教の云う「神」は「全知」でないことになる。更には、人間に痛みや苦しみがあることを知りつつ、且つ、それを修復でき得るにもかかわらず「放置している」のであれば、神は道徳的に完全に善なる存在ではないと述べ、ライプニッツ抱(いだ)くところの神の存在論的証明に難渋(なんじゅう)します。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年08月21日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ90 西欧の17世紀は教会権威と其れを背景として利用した国家権力が体制として確立していました。其のこと故に世俗に長(た)けたライプニッツの「なぜ世界が存在するのか」という問い、「なぜ世界はこうなっているのか」という問いに、伝統的な論理学の根本原理の一つで「何の様(どのよう)な事柄からも其れとする結果が生ずるのには其れなりの十分な理由がある」とする充足理由律を持ち出し、「神があらゆる可能世界の中から最も良い世界を選んでこの世界を現実化した」という最善説を解答とし、「神」をニュートン及びスピノザとは程遠い「神」に神格性、人間の「自我」らしきものを賦与し、ライプニッツの独自性の基底「最善説」が浮かび上がります。此の解答が持つ問題点としてライプニッツ自身が一番深く悩んだのは「悪の問題(Problem of evil)」という疑問、最善説を解答としたからには当然に沸き上がる問い掛けです。此のことは西欧及びイスラームの遥か以前から存在してきた西アジア文明の一神教に由来しています。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年08月20日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ89 アイザック・ニュートンの「林檎の落下(Fall of Newton's apple)」は、幼児でさえ絵本で一度はお目にかかる程、17世紀を代表した数学・物理学界における大科学者であり今日にまでに其の影響は及びます。とはいえ、他方でヤーコプ・ベーメの神秘主義神学や錬金術に多大な興味を示すなど科学者らしからぬ一面も持ち合わせています。更には、キリスト教の研究にも生涯を通じて打ち込んでいます。新・旧聖書や其の系統にある伝説にある出来事の年代確定に天文学手法を導入しながらキリスト教的歴史観である史伝をプロテスタント的史観で以(も)って世界を統一的連関のもとにとらえようとしています。其れ等を歴史学の一領域として再構築し、また「ダニエル書」や「ヨハネの黙示録」を解釈した独自の終末論を展開しています。ニュートンの絶対的時間や絶対的空間の確立はスピノザの思考する数学的演繹法にも多大な影響を与えたことは言うまでもありません。絶対的時間や絶対的空間を多少の相違はあれども、ニュートンは其れがキリスト教の教義と矛盾するとは考えておらず、彼の主著「プリンキピア」では、第一巻・第二巻で物体の運動を一般的な形で数学的に論じ、其れに基づいて第三巻で天体の運動を扱い、万有引力の法則へと導き、第三巻の「哲学するための規則」には、ながらく実験的諸科学の指針となった方法も明示し、宇宙の体系を生み出した至知至能の「唯一者」に触れ、其れが万物の主だと述べています。スピノザの主著「エチカ-幾何学的秩序に従って論証された」に相似する部分も多々みられます。「プリンキピア」で至知至能の「唯一者」を万物の主だとは述べてはいますが、正教会のカトリックに対しては激しく非難し、ローマ教皇を神に楯突く「大淫婦」、世俗に堕落した俗物だと断罪します。更にはアタナシウスら正統派教父をも批判、三位一体説は聖書をラテン語に翻訳して,異教の伝統とキリスト教とを照応させたヒエロニムスによる改竄だと主張して事実上否定します。其のこと故にローマ教会から異端と断罪されたことが、彼の身に多くの圧力が加わったことの素因となります。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年08月19日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ88 或る意味でライプニッツは政治や外交にも携わり、マインツ選帝侯やハノーヴァー選帝侯に仕えたが故の、自らの地位、スピノザようには社会的地位層を離脱してまでライプニッツの解答は同系統に属する同じく「神の概念」を持ち出すスピノザの思考基盤とは相違し、哲学的らしからぬ「神学概念」の神をあからさまに顕(あらわ)しています。此の要因には、彼の市民的階層と政治的地位の影響があったことは免れ得ません。現代常識上、哲学思考に「神格」即ち「信教上」の神を述べるのは政治的・階層上の立場はどうであれ、思想界では異端者扱いを受けることにもなります。然し乍ら、彼のライバルとも言える「林檎の落下」から引力を発見した、ライプニッツと微分法の第一発見者の立場を巡って争ったサー・アイザック・ニュートン(英: Sir Isaac Newton)、イングランドの自然哲学者・数学者・物理学者、アイザックという名は、旧約聖書 の創世記に登場する太祖の一人イサクに由来するとして、ニュートンは生涯を通じてキリスト教研究にも打ち込んでいた事実はあるにしても、彼自身は絶対的時間や絶対的空間などを確立した「プリンキピア」にて宇宙の体系を生み出した至知至能の「唯一者」に触れ、それは万物の主だと述べています。但し、宇宙の体系を生み出した至知至能の「唯一者」に触れ三位一体を否定、ローマ教会から異端と断罪され公職から排除されますが、、神が作成した宇宙の仕組みを理解しその偉業を称えるためといったある種の宗教的な側面を持って執筆していたにしても、ライプニッツが行ったような神学的な側面を物理学には持ち込みませんでした。正教会の批判にも拘(かかわ)らず実のところニュートンは生涯を通じてキリスト教研究にも打ち込んでいた事実は意外に知られていません。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年08月18日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ87 所謂(いわゆる)宗教や哲学及び物理学上の神の能力については、人類史の至宝アインシュタインを持ち出すまでもなく、唯一の「有」、存在に変化変遷はあり得ない全能(Omnipotent)の根源であることは、ライプニッツも当然に「神の能力」に関しては、人間が図りし得る能力の段階ではなく全能(Omnipotent)だということです。当然に、「知」に関しても全知(Omniscience)です。絶対存在・絶対精神・絶対意思としての倫理性を問えば、倫理は「神」から始まり、完全なる善(Omnibenevolent)であるのは当然の帰結です。神は存在に関しては特に世界には必然的存在としてあり必然的存在者(Necessary existence)として世界の基底に有ります。然し乍ら、ライプニッツは神は必然的に存在するとしたことで、「何故に世界が存在するのか」という問いへの解答としています。「何故に世界は此のようになっているのか」という問いには、同じく充足理由律を元に「あらゆる可能性の中からこの世界が選ばれたことには理由がある筈である」として「神があらゆる可能世界の中から最も良い世界を選んでこの世界を現実化した」という最善説を解答とします。此れでは何処その国家の首脳の「丸投げ」論であり、解答が先にありき状況になり正教会からは神秘主義者として非難されたスピノザとは相違し世渡り上手のライプニッツ自身の性状が読み取れます。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年08月17日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ86 「ライプニッツは、何故に世界が存在するのか」という問いに対し「汎(あら)ゆることには原因があるとする「充足理由律」即ち、伝統的な論理学の根本原理の一つで「何の様(どのよう)な事柄からも其れとする結果が生ずるのには其れなりの十分な理由がある」とするもの。ライプニッツが初めて唱えた「充足理由律」。客観的な世界の構造からくる原理であるとするよりは、簡略的説明を試みれば人間はどんな事件にも直感的にその原因を求めようとする傾向があり、人間の其の知的な態度を表現としていると取れば解り易いでしょう。其処から導き出されるのは、世界が存在することにも原因があり、人間が通常に判別している要因としての因果関係とは随分異相なものとなります。言い換えれば、神の宇宙論的証明と呼ばれる形の議論、現代をもってしても物理学上の証明が不可能な理論に巡り会います。ところが、此の理論だけであれば、其の所謂(いわゆる)存在有、絶対存在・絶対精神・絶対意思としての神の出処問題が新たに俎上し、「神の原因は何か」という無限後退に陥ることに行き当たります。此れには哲学・宗教・現代物理学を問わず「あらゆる側面について極上至極(ごくじょうしごく)の質を持つ、中国史で「史記」の藺相如(りんしょうじょ)活躍の場として「「和氏の璧(翡翠)」として表現される「完璧」、一切の欠けりのない存在は「存在論」に立つ以上は思想・信教・科学を問わず絶対的な「律」として「虚無主義」であれども否定することは出来得ません。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年08月16日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ85 事物の根本的起原、世界の存在の根拠が別問題とすれば、自然学理論として現況の科学では応じ切れません。結局は、形而上の解読方法、「何事も十分な理由なしには起こらない」、言い換えれば「どの様なことであれ、其れが起こったならば、十分ものを知っている人には何故に其れが此のように結果を現し、別様にならないのかを決定するための十分な理由を示すことが必ず出来る」というものです。此の原理からの当然の疑問に先ず第一に浮上するのは、「なぜ無ではなく、何かがあるのか」というものです。実際、何もなかった方が、なにかあるよりも簡単で容易であると言える。次に、事物が存在しなければならないということを認めた上で、「何故に事物はこういうふうに実在しなければならないのか、別様であってはいけないのか」ということの理由を示すことが出来なければ疑問は解消しません。ライプニッツによる解答は二つの問い、一つが「何故に世界が存在するのか」という問いであり、他のもう一つが「何故に世界は此の様に成しているのか」という問いです。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年08月15日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ84 ライプニッツは1697年の著作「事物の根本的起原」および1714年の著作「理性に基づく自然と恩寵の原理」では、存在の根拠を探る問題として「何故に何も無いのではなく、何かがあるのか」将又「何故に世界は此の様に成っているのか」というこの世界の在り方の根拠を問う問題を定式化しました。「ライプニッツは1697年の著作「事物の根本的起原」で、存在の根拠を探る問題としてこの問いを明示的に定式化しています。即ち、今我々が現にしている存在するものの十全の理由や根拠は事物の時系列には見出し得ない。幾何学の原理の書物の変遷を遡及して例を揚(かか)げていますが、半(なか)ば意味不明の愚問です。此処では、世界の様々な現況を取り上げる可(べ)きです。何故(なぜ)なら、次の状態・状況が先立つ状態からなんらかの仕方で 「とある変化法則によって」引い起こされることが表されるからです。此の観点から見れば、先立つ状態へどの様に遡及しても、世界が何故(なぜ)に実在しないよりも、寧ろ実在するのか、将又、何故に現況を成しているのか、十全の理由を諸状態のうちには見い出すことは出来得ないと論述します。其れ故、仮に世界が永遠であると仮定してみても、諸状態の継続しか考えない場合には、どの状態のうちにも、十分の理由(十全の解答)を見い出すことは出来得ないないであろうと問います。世界の存在の根拠が別問題にあると取れるからです。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年08月14日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ83 「なぜ何かがあるのか」を問う問題、将又・屡々(はたまた・しばしば)、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」と同時に扱われる関連した問い「何故に世界はこのようになっているのか」というこの世界のあり方の根拠を問う問題を、現在にも議論されている形で初めて明確に定式化したのは、17世紀のドイツの哲学者ゴットフリート・ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz/1646年-1716年)です。ルネ・デカルトやバールーフ・デ・スピノザなどとともに近世の大陸合理主義を代表する哲学者で、主著は「モナドロジー(単子論)」「形而上学叙説」「人間知性新論」等々多くを数えますが、なかでも、ライプニッツ晩年(1714)の代表作「単子論」、実際の表題は信奉者ニコラ・レモンのためにフランス語で書かれた表題なしの全90節の小論からなるライプニッツの形而上学が、整理された形で展開、「単子論」の表題は 1720年にドイツ語訳を出したハインリヒ・ケーラーが与えたものであるものの、内容表現としては適宜でしょう。此の全90節のなかにライプニッツの哲学の全体が単子(モナド)の概念を中心に圧縮されたかたちで展開されています。モナド「単子(Monad)」とは組成体(物体)のなかにある単純な実体であり,其の本性を問えば表象と欲求である。更には其の表象の判明度により次の四つに段階的に区別されると示します。(一)には裸のモナド、(二)には動物精神、(三)には理性的精神、(四) には神存在を夢想しています。世界を構成するモナドは、ユークリッドの点の定義の如く、部分や構成要素を持たないのだから、「外から何かが中に入る」ことはありえず、因果関係や作用は「外的な対応する変化」であって、「内的な何かのやり取り」としては理解できないものだとしています。ところが、宇宙には空間があり運動があります。(一)の裸のモナドを部分や構成要素を持たないのだから、「外から何かが中に入る」ことはありえず、因果関係や作用は「外的な対応する変化」であって、「内的な何かのやり取り」としては理解出来得ないもの、ライプニッツの主張通りモナド(単子)を、大宇宙を形作っている究極単位として捉えれば、何ら広がりをもっていないし、性質をもっているものとしては凡そ想像さえつかない夢想出すら来ないこと、「ユークリッド幾何学」に云う「点理論から、空間と運動の拡張としての時間概念が湧いてきません。「ユークリッド幾何学」では「零(0)」は基点としては働くものの、基点を幾ら倍増しても「零(0)」は拡がりを持ちません。「モナド」を物質論的に捉えず、大乗の「空論」の有って無き性状の「空」其のものとすれば解答に近付けるのかとも思い巡らします。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年08月13日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ82 抑々が世界には始まりがあって終末に向かうとしたエントロピー理論に誤りがあるとすれば、ビッグバンのコア(Core)も唯一つではなく、幾つもの連鎖であり大宇宙の終末は新たなコア(Core)への転遷だと思考すれば、世界の始まりと終末は考慮せずに済み、「神の見えざる手」を根底に置く必要から離脱できます。此のコア(Core)の複数個乃至は無数の連鎖と捉えれば世界の始まりや終末は一個の大宇宙の観点からのみの観想となり、「核/Core」の先の「根源の根源」や「究極の何故の問い(The Ultimate Why Question)」もしくは「存在の謎(The riddle of existence)」にハイデッガーの「神の見えざる手」を考慮する必要は無くなりますが、世界連鎖の究極の根源に関しては答えは与えられません。但し、時間の始まりの問題や其の終末に関しては「永続する宇宙や永遠の時間」を想定することからは開放され、時間は始まりがあり、終末があれども「核/Core」の連鎖の循環に新たに再生されるに過ぎないことに成り、現代の物理化学理論の「有から無への転遷及び無から有が生じる」理論は納得性が高められます。此処から飛躍的に思考を進めれば人間精神の転遷をも夢想することも可能だと云えましょう。然し乍ら、「なぜ何かがあるのか」を問う問題には答弁すること能わず、新たなる「究極の問い」は払拭されてはいません。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年08月12日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ81 抑々(そもそも)の始まり、ビッグバンの核(Core)の銃き爪(ひきがね)となる未(いま)だ、言い換えれば今だに知り得ない、或いは永久に知らざれない「モノ」、其の人間では観相すること能わずの「ビリヤード(billiards)」台にCue Ball & Object Balの「核/Core」としての「白球である核(Cue Ball)」を生み出し、「白球である核」としてのブレイクボールを突き、此処に、世界の根源的な、決して人間が観念として「観・想」は可能かもしれませんが、「観相」即ちビリヤードの突き手であるハッカーの実相、「エネルギーの問題」は抱(かか)えることには異論はあるとしても、「無相」即ちスピノザの思考する「絶対存在・絶対精神・絶対意志」さえ意識することのない「自己」が無い「無有を離れた完成体」が「根源の根源」として、白球(核/Core)を創造しビッグバンを引き起こし、其の後の爆発膨張の結果である宇宙の形態及び其の形状を決定したように「無有夢有」思考の流れは捉えていることを覚えます。人間が「神格」或いは人格性を賦与さえした「創造に関わるナニモノ」かは、我々の思考の何ものをも関連付けすることが出来得ない究極の完全体です。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年08月11日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ80 ビッグバンが真空の量子揺らぎから発生したとしても「時間」は「現在的な時間は」其の中では全く異相のものであり、人間の観想的には空間の広がり、重力(量)子の海の中で次第に形成されます。其れ故に時間の始まりは、実際的には問えない課題となります。「無い時間」の先行者を問うことに意味が無いのです。物理学理論・観測上では現代では「無から有・有から無」の変位を捉えつつあります。人間が時間の始まりの問題を避けるためには、始まりの在る時間とは時間の無い世界を初源とするのであり、人間の観想する時間は「始まりと終わり」の無限遡及に嵌まり込みます。時間のない世界を人間は観想できませんが、次世代スーパー・コンピューターには可能となるかもしれません。「何故に何も無いのではなく、永遠に続く宇宙があるのか等々、こうした問いに回答が負い変わる可能性は否定し得ない時代に置き換わるのは遥かな未来ではないでしょう。時間の絶対性はもはや過去の時代的遺物であり、時間が運動の一局面の表情に過ぎないとする見識が「IT」時代には勢いを増しています。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年08月10日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ79 最先端の物理学理論の「揺らぎ」なる量子力学の自然法則を「不条理」だと決めつけて「ハイデッガーの見えざる手」並びに「創造に関わる神格」を持ち出しても、量子力学の「揺らぎ」理論と変わるところはありません。大怪我に見舞われ奇跡的に助かった人間が百パーセントの見込みのない生命を持続出来得たのは医療機関でさえ絶望していた奇跡である。此の事実を認めれば奇跡の根拠に神を起点とすることは可能でしょうが、「なぜ何もなかったのではなく、神がいたのか」の信仰上以外での理論上の遡及可能な疑問が残ります。存在の根拠についての思考上の基盤的なレベルの原理でそれを解明しようとしてみても、将又、因果連鎖を過去に遡ることによって答えようとしてみても、更なる基盤的な何かへ、更には、もっと基盤的な何かへ、時系列的には過去へ、更なる過去へ、無限後退が生じるだけで、そこから先の解答を得られないのが現代思考の水準であり、限界であるとも云えるでしょう。然し乍ら、半導体の集積密度は18-24カ月で倍増し、チップは処理能力が倍になってもさらに小型化が進むという法則。即ち、世界最大の半導体メーカーであるインテル社創設者のひとりであるゴードン・ムーア博士が1965年に経験則として提唱したことに由来するムーアの法則(Moore's Law)、半導体の性能は指数関数的に向上するが、実際には、集積密度の向上ペースは鈍化しているものの、新たに「集積密度」を「性能向上」に置き換えることで、法則は現在でも成立しているとされている。最近は価格対性能比で、18カ月で2分の1になるともいわれているITインフラの状況が続けば人間の何兆倍の思考速度が促進されコア(Core)の爆発からビッグバン(BigBang)の経過を読み取り其の過去を推測・確定することも可能となるかもしれません。世界の創造は信仰や哲学よりも「物理学」が「人間を超えた人間としてのキーパーソン(Key Person)」に成ることも猿人から人間へ言語獲得から理性獲得への史的時間の発展の長さのハイスピード化を眺めれば、哲学や宗教は「IT」の将来に関心を持つべき時代が目前に迫っています。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年08月09日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ78 最先端の物理科学理論では、「物理学上の世界」をビッグバン(BigBang)を世の始まりとして定義します。ところが、此の説明では「何故に何も無かったのではなく、ビッグバンが存在したのか」、即ちビッグバンのコア(Core)存在の根源の解答には遠く及びません。更に進んだ量子力学ではビッグバンは真空の量子揺らぎから発生した量子力学の法則にしたがい発生したと見ています。此れはビッグバンの「核(Core)」と目されるものの存在を説明どころか、解明の糸口(ヒント)さえ掴みきれない疑問を更に累積するだけの回答です。見方を変えて、哲学的であれ、将又(はたまた)、宗教的であれ、「神」を持ち出し、其の人間には理解すること不可能な絶対能力の存在を持ち出してもハイデッガーの見えざる手、因果連鎖を過去に遡ることによって答えようとしてみても、遡及追求すれば無限後退が生じるだけで、そこから答えは得られないことは明白でしょう。幾ら、量子揺らぎから発生したといった説明が通ったにせよ、其の「揺らぎ」を発生させる空間ではなくとも場所が在ったのか。将又、「揺らぎ」なる量子力学の自然法則は空間絶無「無」から生じたとでもいうのでしょうか「無」、「揺らぎ」なるものは空間なくしてありえないから不条理です。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年08月08日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ77 哲学であれ宗教であれ、将又、最先端科学であれ。「世界全体存在の中での無の存在を否定或いは肯定する若しくはしない」にしても「何かが在る」ことを否定することの問い掛けからは逃れることは誰しもが凡そ困難であり懐疑主義者にしても虚無主義の立場に立たない限りは凡そ不可能です。此の問いの前提に、実在するものはすべて意識的なものだけであるとする観念論的な立場、将又、記者の「夢有無有」の語彙(ごい)「世界の全ては自己の意識が捉える幻想のようなものでしかないが、其れに現実味を与えて生存するのが理性を勝ち得た人間の特権であり、其れだけの世界に対しての変化の作用力を秘めています。人間が世界に対しての変化の作用力を持つならば、「神」は人間に様態としての変化性を認識していることに成ります。たとえ、世界がシネマ「マトリックス」の如く、自己自体は水槽で扶養されている脳だ。将又、コンピューターの行き着く先に予期される自己再生による進化の極限でのシミュレーション結果に過ぎないとしても「存在自体」は否定し得ない。現代先端科学の「在るものが無となり」「無から在るものが発生」している事実は認めても其処には「何もない」ことを容認するものは浮かびません。「まったく何もない」と主張しても、其の主張そのものが存在を示しています。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年08月07日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ76 人間とは産まれ落ちた時点から胎児(Fetus)期の記憶からなのか、或る時期までは母親が全ての解答です。理性らしき知性を獲得する段階を踏むまでは、「何故」に回答するのは母親など肉親及び親代わりの人間が「何故」に解答してくれます。幼児が昆虫の足を?ぎ取るのは「何故」の好奇心の顕れなのでしょう。然し乍ら、知性を獲得し理性を手中にした青年期は、「何故」の対象が大変革します。もはや、母親に問うても「そんなことは、当たり前」との回答しか得られません。自我の覚醒とともに存在への疑問が浮上、物事の根拠を「何故」と繰り返し問い続けることで、軈て(やがて)現れる究極の問い「究極の何故の問い(The Ultimate Why Question)」もしくは「存在の謎(The riddle of existence)」とも言われる形而上のなかでも、取り分け、根源的な問い・第一の問いに歴史を通して果敢に挑戦しています。勿論のこと、現代の理論化学も此の難問を追求しています。対して宗教の、なかでも「神エホバ」に纏(まつ)わる旧約のユダヤ教や新約であるキリスト教、最も新しい大預言者アッラーを抱(いだ)くイスラム教は、屡々、混乱を呼ぶ悪名高き問い、解答不可能な奇問、愚かな問い、将又(はたまた)、問うことが危険な問いであるものに回答を与えています。即ち、「常有、永遠に続く存在有」が「何が在るのか」と「なぜ在るのか」の二つに問いに対する答えです。信教と哲学・現代科学の思考の分肢点であることは間違いはなさそうです。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年08月06日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ75 デカルトの懐疑主義ではないが、古来より哲学が抱える大きな課題、其れが人間の体験や経験の感性では捉えきれない形而上の問題です。「唯物論の初めに物ありき」や「信教が説く、初めに言葉ありきが創造の始まり」では、感性では捉えきれないものを扱う形而上哲学では流石に納得はしないでしょう。「何故に何も無いのではなく、何かが在るのか。(Why is there something rather than nothing?)」は哲学の一分野である形而上学の領域で議論される有名な問題の一つですが、神学や宗教哲学、また宇宙理論科学の領域などでも議論されています。ハイデッガーの「存在論」も其れを問い、思考しています。何故に「無」ではなく、「何かが存在する」のか、其の理由・根拠を問う問題は人間理性が、或る段階に達すると当然に湧き上がる疑問です。言い換えれば、「何故に宇宙・ 天地万有・万物があるのか。(Why is there a universe?)」、「何故ゆえに世界があるのか?(Why is there a world?)」、「何故に全てが無ではないのか?(Why not nothing?)」なども「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」に収束します。物事の根拠を「なぜ」と繰り返し問い続けることでやがて現れる問いであることから「究極のなぜの問い(The Ultimate Why Question)」、またはより簡潔に「究極の問い」とも呼ばれるものは、宗教説法に使用されること屡々で解答することが著しく困難であることから「存在の謎」(The riddle of existence)とも言われるが、信教では「神」に行き着く説法です。此の説法が効果的なのは原因解明に段を踏んで神に至るまで至るまで追求を差し止まないところにあり、境遇によっては結局は「神格」に辿り着き強烈な信教者が誕生します。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年08月05日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ74 紀元前の懐疑論者ピュロン以来の懐疑論者の頂点に立つのが「コギト・エルゴ・スム」の当事者デカルトです。世界環境を幻想其のものだとして捉え、自らの五感の感覚意識をも否定し、世界の全ての汎ゆる形状が無事象(むじしょう)であるとしたものの、事象其のものを問う「我」は否認出来得ない得ないと結論付けます。俗に言えば臍曲りの人間が、懐疑論者ピュロンの思想を自己の生得する時代に定義化することを試みているのではないかと疑えます。とはいえ、デカルトの思考の帰結先は「神」を否定するところにはありませんでした。懐疑主義(かいぎしゅぎ、米: skepticism、英: scepticism)とは、基本的原理・認識に対して、その普遍性・客観性を吟味し、根拠のないあらゆるドクサ(独断)を排除しようとする主義であるのですが、 デカルトは最終的には懐疑主義を放棄しています。此の思考の波及は西田幾多郎にも及んでいます。自己を取り巻く世界環境を「夢幻」として取り扱うのはインドのナーガルジュナの思考に顕著ですが、彼の「空論」にしても「世界存在」としての実体は夢想は出来得るものの、其の実体は「有」でもなく「無」でももない「空」、「正覚者」が自ら求めれば実相を観想することは可能かもしれないが、世界存在の理「空」に関して「在って無し」更には「在って無しには非ざる」ものだと結論づけています。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年08月04日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ73 アイネシデモスの懐疑論の10か条の懐疑の方式トロポイ(tropoi)の第六の感覚の媒体は人間の五官情報の受け止め方の個人による多様性を考慮すれば解ります。生理学的には、「舌」は人間の基本味の受容器であり甘味、酸味、塩味、苦味、旨味の5つが基本味に位置づけられています。基本味が他の要素である嗅覚、視覚、記憶などで拡張された知覚心理学的な感覚としての味は、風味(ふうみ)と呼ばれることからも定型化することは困難であり懐疑の最たるものと成ります。第七の対象の量については、抑々が(宇宙の至元の始まりの有無が解らない以上、定常化は不可能です。第八の出来事の頻度は、定型化されるとすると、人間の自由精神さえ否定化され、不定の運命などは適用できなくなります。第九の文化、習慣、法律の定型化は歴史を鑑みれば定型化されないことは必至です。第十のあらゆる知識は相対的であるのは人間が全世界を創造したのではない以上から当然に帰結します。以上により、アイネシデモスは「もの」の本性の確実な認識は不可能で、判断中止(エポケー)を提唱し、更には、彼にあっては因果性も否定しています。われわれ動物の種類が異なるに従って、人間の個人個人が異なるに従って、同一の個人においても、感覚器官が異なるに従って、これらが同一でも、その時々の身心状態によって、 知覚する者の視角や距離によって、知覚される物を包んでいる物質や状況によって、知覚される物の数や量によって、その物の他との関係によって、知覚者の習慣によって、対象の風俗習慣法律によっては人を定型化することは出来得ないし不可能だとしています。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年08月03日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ72 アイネシデモスの打ち建てた10か条の懐疑の方式トロポイ(tropoi)は、第一に動物其々各種族の身体構造は何等(なんら)定型化されたものでもなく、時間の経過に置いて変動しうる。此のことはダーウィンの進化論を待つこともなくても当然の帰結です。第二の人種或いは人間各個人の体質の相違にしても黒・白・黄の肌合いは単にメラニンの配合の違いであり人間の正邪の判断の基底とは成り得ないこと当然です。第三の各感覚器官の構造は其々の生命組織が自己保存能力の適合過程に置いて獲得したものであり、生命保存の希望的恒常性と結び付き、人間各個人の体質、各其々の感覚器官の構造、生理心理上の条件を永遠的に存続することを、通常生活する人間は兎も角も、自己は天命から選択された人間であることを認証せずとも、自然淘汰が作用しています。第四の生理心理上の条件とは、其の人間の生育環境や宗教色の度合いにより千変万化します。爬虫類である蛇を愛玩する者もいれば、宗教的に見るのも嫌だといった具合です。第五の対象の位置、距離、場所に関しては、人間其れ其れの感受性が表層に浮かび上がります。ぎらつく太陽を間近に観想する者もいれば、暗闇に輝く星々を平面的に捉えるといった具合です。まして宇宙の果への感覚は「距離」感さえ掴めず、球形なのか馬頭型なのかさえ掴みきれない問題であり、懐疑性の塊であるのを考慮すると頷けます。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年08月02日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ71 17世紀には宗教改革によって教会の権威が地に堕ちた時期に、紀元前1世紀頃のギリシアの懐疑論者ピュロン、著作は残されていないが「ピュロン式議論」などが歴史資料から見い出されることで知られてます。其の懐疑論の立場について同じく著作は残されていないが、クノッソス出身で10の根拠 (トロポイ) を掲げたことで有名アイネシデモスが発展させたピュロン主義が、宗教改革によって正教会の権威が地に堕ち、思想的には実存主義や唯物主観よりもピュロン主義が復活して再現されています。彼の哲学の目的は、プラトン創立のアカデメイアがアンティオコスの影響下で失った懐疑主義を再興をすることにありました。懐疑派のモデルになった10か条の懐疑の方式であるトロポイを掲げたことで有名です。10か条の懐疑の方式トロポイ(tropoi)とは,人間の感覚や知識とは、(1)動物各種族の身体構造、(2)人間各個人の体質、(3)各感覚器官の構造、(4)生理心理上の条件、(5)対象の位置、距離、場所、(6)感覚の媒体、(7)対象の量、(8)できごとの頻度、(9)文化、習慣、法律、の定型化(10)あらゆる知識は相対的であるとしたところに得意性があり、「もの」の本性の確実な知識は不可能で、判断中止(エポケー)を提唱し因果性も否定したことは、インドの龍樹の「空論」を想起させます。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年08月01日
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