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第2章 人間の本質(28節 24-28) 24 霊的な力による人間の変容アストラル体から霊我への変容は、知的進化、感情や意志の浄化と純化などから推し量れる。また、宗教や芸術の諸経験はエーテル体を生命霊に変容させる。日常生活でも、意識されないうちにこうした変化が起こることはある。しかし「秘儀参入」では、詳細は後述するが、超感覚的認識を元に、こうした作用を意識的に行う方法を示している。ここでは人間に、魂的、体的作用だけでなく、霊的作用もあることを指摘しておく。この霊が人間の永遠なる部分である点も後に述べる。25 霊人 自我の作用は、アストラル体、エーテル体にとどまらず、肉体にも及ぶ。状況によって顔面が紅潮したり、蒼白になったりするのは、自我が肉体に影響する例である。自我の影響で肉体に変化が起きる場合、自我は肉体内に隠れた力と実際に結びついている。こう述べるからといって、この隠れた働きを物質的なものと誤解してはいけない。肉体に物質的に現れるのは開示された部分に過ぎず、その背後には、隠された霊的な力が働いている。ここで言う作用とは、物質的な作用ではなく、肉体の生成崩壊を制御する不可視な諸力に対する霊的な作用である。肉体への自我のこの作用は、通常は非常にぼんやりとしか意識されず、超感覚的認識によってのみ明瞭に意識される。これが人間の第三の霊的構成要素である。それは、肉体の対極として「霊人」、東洋の叡智では「アートマ(霊的意志・真我」)と呼ばれる。記:シュタイナーの言う、東洋の叡智「アートマ」とは、禅道の極めに顕われる「無我の我」。たとえ、誕生・終末を繰り返す永遠の世界と無限の境地を「真我・真理」として捉える「悟り」を指すようにも想えます。飛躍するならば、認識概念を持つ人間存在が真実在の宇宙を支えているともいえます。26 肉体への働きかけは最も高次 肉体は人間の最も低次な構成要素であり、そこへの働きかけが最も高次な構成要素に関係する点は理解し辛いので、霊人については誤解がされやすい。然し乍ら、肉体では自我が霊に作用するにあたって「三重のヴェール」を越えなくてはならないので、自我の最高次な働きかけが必要になる。27 人間の構成要素のまとめ神秘学的に見ると、人間はこのように種々の構成要素からなる統一体である。その体の部分は、肉体、エーテル体、アストラル体であり、魂の部分は、感受魂、悟性魂、意識魂であり、自我は魂の中でその光を広げる。そして霊の部分は、霊我、生命霊、霊人である。前述の通り、感受魂とアストラル体は密接に結びつき、一体となっている。同様に、意識魂と霊我も一体である。なぜなら意識魂の中で霊が光り輝き、そこから霊が他の諸構成要素を照らし出すからである。こう考えると、次のような人間の区分も可能である。アストラル体と感受魂、意識魂と霊我をそれぞれ一つにまとめ、さらに悟性魂を「自我」そのものと捉えることもできる。なぜなら、悟性魂は自我の本性にかかわっているものの、まだ自らの霊的本性を意識していない「自我」だからである。こう捉えて人間の構成要素を七区分「肉体・エーテル体もしくは生命体・アストラル体・霊我・生命霊・霊人」することもできる。28 事柄に即した観察結果としての七区分 第2章の事柄をその意味に沿って考え、これを「魔術的な発言」として先入観で否定しなければ、唯物論的思考が習慣化している現代人でも、この人間の七区分に「蒙昧な魔術性」があるとは考えないだろう。虹が七色であったり、音階が七音(第八音は基音の繰り返しと考える)であったりすることには根拠があるが、人間の七つの構成要素にも、高次の宇宙考察からしか得られない根拠がある。音や色に現れる七の数が「迷信」と見なされないように、人間構成要素の区分も迷信ではない。(以前にこのことを口頭で述べた際に、色の場合、赤と紫の外側にも眼では知覚できない色が存在するので、「七という数」は不適当であるという反論があった。けれども、この点を加味しても、色との比較は正しい。なぜなら、肉体や霊人の外側にも人間の構成要素は続いているからである。ただその継続部分が、ちょうど赤と紫の外側の色が肉眼には不可視であるのと同じように、「霊的に不可視」であるに過ぎない。超感覚的観察は自然科学的思考を正確に理解できず、自然科学的には素人であるとしばしば言われるので、このような補足をした。しかし上述のことを正しく受け止めていただければ、それは真の自然科学と一切矛盾しないことを了解していただける筈である。具体的な説明や、自然研究との直接的関係を示すために、自然科学的事実を引用することもあるが、その場合にも、自然科学との矛盾は一切ないと言える。哲学・思想ランキング
2022年10月31日
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第2章 人間の本質(28節 23)23 生命霊 自我の力がアストラル体の背後に在る隠れた力にまで浸透することでアストラル体を支配するが、さらに発展すると、同じことがエーテル体でも生じる。ただ、克服すべきものがアストラル体では一つであるが、エーテル体では二つなので、より密度の高い働きかけが必要である。対アストラル体と対エーテル体の作用の違いは、子どもの成長過程での変化に着目するとわかりやすい。まず、自我の働きかけによって快や欲望、喜びや苦痛といった魂的なものがどう変化するかを見るために、幼少期を思い出してみよう。何に喜び、何に苦しんだだろうか。幼児期にもできることはあったが、後になってそれ以外に何を学んだだろうか。これらは自我によるアストラル体支配の現れである。なぜなら、アストラル体が快や苦、喜びや苦しみの担い手だからである。それに比べると、気質やその人の深い個性などの性質は、時を経てもあまり変化しない。子ども時代の怒りっぽさを、大人になっても持ち続けていることはよくある。人間の基本性格は変わらないという意見もあるくらいである。人間の基本性格とは生涯一定で、現れる側面が状況に応じて変るだけだという考えもあるが、これは観察が不十分だからである。十分に観察すれば、基本性格や気質も、自我のかかわり次第で変化することがわかる。勿論、その変化はアストラル体の諸特性に比べれば緩慢である。両者の違いは、時計の短針と長針の動きに擬(なぞら)えることができる。性格や気質を変化させるには、成長力、消化力、生殖力といった生命の領域を支配する力と同質であるエーテル体領域に働きかける必要がある。これについては、後に詳述する。… 快や苦、喜びや苦しみに振り回されている限り、自我はアストラル体に作用していない。魂の諸特性を変化させるとき、その働きが始まる。さらに、性格や気質まで変化させようとするとき、自我の働きがエーテル体に及ぶ。意識するしないにかかわらず、誰でも、自我はエーテル体を変化させるべく作用している。 宗教はエーテル体に作用する:通常の生活の中では、宗教衝動が最も大きくエーテル体を変化させる。宗教からの力を自我が繰り返し取り込み作用させると、自我内に、エーテル体までをも変化させる力が作られる。生活の中で学習、内省、感情の浄化といったアストラル的なものは、比較的弱い力でも変化しうる。ただ、それらの変化の基盤は、それぞれ別個である。しかし、宗教は、思考、感情、意志に統一性を与え、魂の営みすべてを統一的な光で照らし出す。出会いをきっかけに、人は日々違ったことを考え、感じる。しかし、そうした筋のない事柄に宗教的体験が統一的な糸をつなげるなら、思考や感情が日々を越えて一貫性を持つようになる。宗教は、魂の営みに一貫性をもたせるのである。この影響は時間と共に積み重なっていく。作用が継続的に反復し、エーテル体に働きかけるのである。 芸術によってエーテル体が変化する:真の芸術も同様に人間に作用する。思考や感情が、フォルム、色彩、音を媒介に芸術作品の霊的基盤にまで浸透すると、自我はエーテル体にまで及ぶ衝動を得る。この点を徹底して考えると、人類進化にとっての芸術が持つ大きな意味がわかるだろう。これらの例では、自我の働きかけがエーテル体にまで作用している。ここまで顕著ではなくとも、同様な例は生活の中に多くある。このように人間には、自我の作用を待つ隠された構成要素があるとわかる。これは第二の霊的構成要素であり、「生命霊」と呼ばれる。(東洋の叡智では「ブッディ」と呼ばれる)。「生命霊」と「生命体(エーテル体)」には同一の作用があるので「生命霊」と呼ばれる。自我の作用を受けていない場合が生命体で、自我の活動が浸透すると生命霊として現れてくる。記:「ブッディ/buddhi(覚)」とはサンスクリット語では、目覚めた人・智慧・心の状態・理解力・本質の意。哲学・思想ランキング
2022年10月30日
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第2章 人間の本質(28節 20-22)20 本来の自我は人間の内側から現れる 意識魂においてはじめて「自我」の真の特性が現れる。感受魂や悟性魂では外界と関係するが、意識魂はそれ自体からなる構成要素である。それゆえ「自我」が知覚されるのは、意識魂を介して、まさに内的活動を介してなのである。感受魂では対象物に沿って像を形成し、悟性魂ではその像に働きかける。しかし「自我」は単に受け身では知覚できない。自らの活動によって、自我という構成要素を自己内部の深みから引き上げなくてはならない。「自我」知覚…→自己内省に至って「自我」が内的に活動し始める。この意識魂における自我の知覚は、体的三構成要素、魂的二構成要素を介する観察とはまったく違った意味を持つ。意識魂に「自我」が開示するときには、外界に霊界が作用するときと同じ力が働いている。しかし、三つの体(たい)、二つの魂ではその力は直接には現れずヴェールに覆われている。肉体ではそのヴェールが厚く、現れ方が低次であるが、悟性魂に行くにしたがって段階的により高次に現れる。そして、意識魂において、それまで隠れていた力がその真の姿を現し、魂の最奥の神殿に歩み入る。その力は、すべてを満たす霊性という海からの一滴にすぎない。しかし人間は、先ず、この霊性をこの神殿で認識しなければならない。自らを認識することによって、他の霊性の開示をも見出すことができるのである。21 意識魂に現れる自我は魂全体を高める 意識魂に一滴の水のように現れるものを、神秘学では「霊」と呼ぶ。それゆえ意識魂は、あらゆる現象内に隠されている霊と結びついている。現象内の霊は、意識魂内の自我を見るのと同じ仕方で見られる。自我の知覚に至った活動を、現象世界に向ける。それによってより高次の構成要素が発達する。体と魂の構成体以外のものが付け加わるのである。まず低次の魂部分に潜むものを、自我の働きかけで克服する必要がある。低次の欲望にふける享楽的人間と高貴な理想主義者とでは、この自我の働きかけに差がある。低次の欲求を捨て、高次の要求に向かい、自我の働きかけで魂を高貴化する必要がある。自我が魂の営みの主人になるのである。こうして、欲望や享楽が自我による許容範囲内だけで現れる状態に達すると、それまでは意識魂にしか現れなかった自我が、魂すべてに現れるようになる。人類のあらゆる文化や精神的努力は、基本的にはこの自我による支配を目指している。すべての現代人は、望むと望まざるとにかかわらず、意識するとしないとにかかわらず、この方向での努力に何らかの態度を取らざるをえない。22 霊我 この意識魂に現れる自我の働き掛けによって、見えるものの背後に隠れた、より高次の構成要素に到達する。自我による働き掛けによって、自らの魂の主人になり、隠れたものを顕現させることができるようになるが、この働きかけはさらにアストラル体にまで更に広げることができる。これによって、自我がアストラル体に隠れた構成要素と結びつき、アストラル体を支配し変容する。この変容したアストラル体は「霊我」と呼ばれる。(*これは東洋の叡智で言う「マナス」である。)霊我はより高次の構成要素であるが、これはいわば萌芽的で、活動と共にしだいに現出してくる。 参照:神智学の定義によるマナス(manas)は、人間の心、知性、自我を司っている不可視の身体である。英語のmindと相応している。基本的にマナスは、メンタル体とコーザル体に大別される。メンタル体は、肉体(およびエーテル体)やアストラル体と一体であり、パーソナリティー(低位我、人格)を構成する。このように、メンタル体と様々な身体が一体だからこそ、人間は意識的活動が出来るのである。しかし、一般的な人々の意識はアストラル体が優勢であるという。コーザル体は、霊的魂であるブッディと結合しており、ブッディの代役しているため、魂体と呼ばれる事がある。また、最終的にコーザル体は、理性(ブッディ)と知性(メンタル体)の架け橋となるものである。しかし、マナスの性質には3つの様相がある。低位マインド。具体マインドとも呼ばれており、合理的思考の原理である。自我(英: ego)。これは魂であり、知性の原理である。高位マインド。抽象マインドとも呼ばれる。先述したとおり、理性と知性の架け橋がこれである。これら三つの様相には断絶があり、教育や瞑想はこの断絶に橋を架ける事であるという。マナス界もしくはメンタル界には七つの亜界があり、これもまた低位と高位に別けられる。低位亜界には「イリュージョン (錯覚)」が存在する。これは想念形態の背後に真理を追いやることでもある。つまり真理と自らの思考を間違えつつ盲信することである。高位亜界はコーザル界などと呼ばれる。一般的に魂はこの亜界の身体(コーザル体)に位置している。哲学・思想ランキング
2022年10月29日
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第2章 人間の本質(28節 19)19 「私」の語源と自我体験の関係 多くの心理学は、「私」の本性についても間違って考えている。既述の「私」についてに対し、たとえば、エドゥアルト・フォン・ハルトマンが著「心理学概要」の中で次のような事実を挙げて反証している。然し乍らその実は、反証ではなく裏付けなのである。「まず自意識が生まれ、それに対する呼称として固有名詞が使われる。その後、固有名詞の代替語として「私」という人称代名詞が生まれた。そして、他人から何と呼ばれようと、話者が自分を表す語として用いる。「私」という語を知らなくても、さらには自分の名前がなくても、自意識は発達する。その自意識は固有名詞で表現できれば「私」などという語を用いずにもすむので、「私」という語には何の神秘性もない。「私」という語の内実は、すべて自意識から受けとっている」。この観点はまったく正当だし、事柄の妙な神秘化を避ける姿勢にも同意する。「私」という語の使用経緯は本質的ではなく、自意識の元である自我が重要で、それが「私という語よりも古い」のは確かである。人間と動物では、外界と内面の関係を別様に体験する。そしてその人間だけの体験を表現するにあたって、人間固有の特性を表現しうる語が不可欠なのである。三角形という語の成立過程は、三角形の本質の考察にはまったく無関係であるのと同様に、言語の進化の過程における「私という語の成立過程は、自我の本質とは無関係なのである。記:エドゥアルト・フォン・ハルトマン エドゥアルト・フォン・ハルトマン (Karl Robert Eduard von Hartmann/1842-1906)はドイツの哲学者。生の哲学や新カント派、ユングなどに影響を与えたことで知られる。ヘーゲルから形而上学的理念を、ショーペンハウアーから盲目的意志をとって総合し、自身の哲学の立場を「無意識者」として掲げた。さらに言えば、スピノザの実体、フィヒテの絶対的自我、ヘーゲルの理念などもこの体系に含まれている。この「意志と表象」は、止揚された一元論である。哲学・思想ランキング
2022年10月28日
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第2章 人間の本質(28節 15 - 18)15 感受魂:外界への窓 記憶にはさまざまな段階があり、最も単純なのは、知覚対象を、別の場で再度思い浮かべる場合である。人間は、対象を知覚するだけでなく、知覚印象を保持することができる。これが可能なのは、アストラル体と自我との間にある経過が生じるからである。アストラル体が外的印象を意識化し、自我がこの意識を内に取り込むことで印象を保持することにある。… 超感覚的に観ると、まさにこの地点が体(身体)と魂の境目である。眼前の対象を意識化するのはアストラル体という体の働きであるが、その意識を永続的なものにするのは魂である。このように人間では、アストラル体と魂が密接に働き、両者はいわば一つの構成要素になっている。したがって、この両者を指して「アストラル体」と呼びうる。しかしより正確に言うなら、体側は「魂体」、魂側を「感受魂」と呼ぶことができる。16 悟性魂 外的対象の本質を内に取り込み、それに意識を向けるとき、一段高い構成要素が関係する。知覚対象からより離れ、自己内のものに働きかけるからである。これが行われるのが、悟性魂または心情魂と呼ばれる部分である。… 感受魂や悟性魂で対象を知覚しそれを記憶するが、その活動の方向は完全に外界向きである。自分化(自己内部化)した記憶にしても外界由来である。しかし、魂には感受魂や悟性魂以上の部分がある。それをイメージするには、ある単純な事実を超感覚的に観るだけでよい。17 意識魂:霊界への窓 言語の中には、他とは本質的に違う単語が一つだけ存在する。それは「私」である。他の単語は、対応する存在に対して用いられる。しかし「私」という語が指し示す存在は、言葉を発した本人だけである。私を指す語として、「私」という単語を外から聞くことはない。語り手が自分を指すときにだけ「私」と言える。「私にとってだけ、私は「私」である。すべての他人にとって私は「汝」である。そしてすべての他者は、私にとって「汝」である」。これは深い真実を表している。つまり、本来の「私」という存在は、外界にまったく依存していないのである。それゆえいかなる他者も、この言葉を私に向けて発することはない。超感覚的直観を意識的に保って来たユダヤ教では、「私」という呼称を「言い表し難き神の名前」としている。この言い方は、まさに「私」という語の特別な意味を指し示している。外的な事柄から、魂のこの上位の領域に到達することはない。魂の隠された聖域であり、同種の魂を持った存在だけがそこに参入できる。「魂が自らを「私」と認識するとき、人間の内なる神が語りはじめる」。感受魂と悟性魂の営みが外界に向かうように、魂の第三部分は、自らの構成要素を知覚することで神的領域に入っていく。18 「私」を神と同一視している、という誤解 第17節(意識魂:霊界への窓)上の考えは、「私」と「神」を同一視したものと誤解される可能性がある。しかし、「自我が神である」というのではなく、「自我の*あり方*が神的なものと同じである」と言っているだけである。「一滴の海水は海の水と同じ性質を示す」と「一滴の海水は海と同じである」とでは意味が違う。ここでは、一滴の海水が「私」に、海そのものが神的なものに対応する。人間の最も根源的な存在部分は神的なものに由来し、それゆえ人間には神的なものが宿ると言える。つまり人間は、この第三の魂部分を介して内的に自己を知る。したがって神秘学では、この第三部分を「意識魂」と呼ぶ。したがって、体(身体)が、肉体、エーテル体、アストラル体の三つから成るように、魂は、感受魂、悟性魂、意識魂の三つから成る。哲学・思想ランキング
2022年10月27日
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第2章 人間の本質(28節 12 - 14)12 動物には記憶はない 植物が意識を持つという誤解もあるが、それより、動物が記憶力を持つという誤りの方が多いだろう。主人と再会した犬の喜びようを見れば、当然、記憶力があるように思える。しかし、犬による主人の再認識は、記憶ではない。犬は、主人のある構成要素から発せられる一種の引力を感じ取る。主人の存在、つまりこの構成要素の存在が、犬に快の感情を生じさせる。主人が現れると、主人の存在によって新たに快の感情が呼び起こされる。しかし記憶とは、その時に特定の体験を感じることでなく、過去の体験の保持である。ここまで納得できても、事柄を見通せないと犬に記憶力があると考えることもありうる。犬は主人の不在を悲しむからである。事情は次の通りである。犬は、主人と一緒の生活を通して主人の存在を不可欠に感じるようになる。それゆえ、主人の不在は、空腹と同じで、喪失感となる。人間本性の洞察には、こうした厳密な区別が必要なのである。13 動物の記憶:正確な観察の必要性 動物における体験と行動の関連を事柄に即して観察すれば、人間における両者の関連との違いが分かるはずである。動物に記憶がないことは、超感覚的には直接に観察される。しかし、通常の感覚的観察でも、動物の振る舞いを観察し、それについてきちんと考えれば同じ結論に到達する。ところが、観察が不十分だと、動物に人間と同様な記憶があるか否かは確定できないという反論もありうること。つまり、人間は、自己の魂内を内省することで、記憶の存在を確認するが、動物に対してはそうした内省はできない。したがって、動物の記憶について論じることはできないというのである。しかし、これは観察から間違っている。正確な観察の必要性が必須である。記憶能力の有無を実際に判断するのは、自分の場合も、他人あるいは動物の場合も、外界の事物との関係を観てである。記憶の根底には内的な力があるかもしれないが、その有無の判断は外界との関連で行われている。そして、動物における外界との関連も観察できるし、それをきちんと行えば、上述の結論、「動物に記憶がないことは、超感覚的には直接に観察される。」に達する。14 忘却・想起は自我に関係 自我にとっての想起と忘却は、アストラル体にとっての目覚めと眠りに相応する。眠りによって昼間の憂い事が消えるように、忘却によって嫌な経験や過去の一部を消す。また、消耗した生命力の回復に眠りが必要であるように、新たな体験に囚われなく向き合うには、記憶の一部を消さなくてはならない。忘却によって初めて新たなものを学ぶ意欲が生れる。字を学ぶにあたっては、その練習の逐一を覚えているわけではない。それでも書く能力が後に残る。字を書くたびに、文字練習の際のあらゆる体験が蘇るならば、字などは書けない。哲学・思想ランキング
2022年10月26日
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第2章 人間の本質(28節 10 - 11 )10 アストラル体 エーテル体をイメージするに当たっては「死」を考えたが、より高次の人間構成要素をイメージするには「眠り」を考える。… 見える部分だけを問題にすれば、あらゆる創造活動が行われるのは覚醒時である。しかし覚醒時の活動には消耗が伴うので、ある程度経過したら睡眠をとって力を再生する必要がある。その睡眠中には、思考や行動は止み、あらゆる苦楽も意識(*快夢・悪夢の意識行動が可能かどうかの論は別として)から消える。そして、目覚めと共に意識が蘇える。入眠に際し沈み込んだ意識と、覚醒に際し立ち上ってくる意識は同じである。意識を目覚めさせる超感覚的な構成要素は、アストラル体と呼ばれる。肉体形姿を維持するには鉱物的素材や諸力の他にエーテル体が必要であったが、エーテル体は意識を目覚めさせることはできない。エーテル体は肉体を植物状態に保つだけである。アストラル体の力ではじめて目覚める。睡眠中、アストラル体の作用は消えたように見える。しかし、超感覚的に観察すると、エーテル体から抜け出し、離れて存在している。感覚的観察ではアストラル体そのものは見えず、見えるのはその作用の結果であるが、睡眠中にはそれも消える。肉体は鉱物と共通で、エーテル体は植物と、アストラル体は動物と共通である。植物は常に睡眠状態にある。ただ、ここで言う意識の意味を正確に捉えていないと、植物にも意識があるという誤解もありうる。たとえば、刺激によって葉を閉じる反応は動物と似ているが、そうした植物を見て「植物には感覚がある」というのである。しかし、ここで言う意識とは、外的作用に反応することを言うのではなく、その反応に際して何らかの内的体験が伴うことを意味している。そうでなければ、鉄板が熱で膨張するのも意識の働きになってしまう。熱によってある存在が内部に痛みを感じるときにはじめて意識がある。と言える。11 自我 人間には超感覚的に認識される第四の構成要素がある。それは、人間以外の外界のいかなるものにも存在せず、それを持つがゆえに、人間は「万物の霊長」なのである。覚醒した人間では、アストラル体以外の構成要素も作用している。覚醒時の体験には、現れては消えるものだけでなく持続的なものもある。この持続的体験に着目すると、二つの構成要素の違いがはっきりする。あるいは、人間と動物の体験の違いを比較すれば、更にわかりやすいだろう。寒暖・快苦・周期的な空腹や渇きといった外界からの影響を、動物はかなり法則的に体験し、それによって自分を意識する。人間の営みはそれを超えて、欲望や願望までをも含む。注意深く観察すれば、動物の行動や感情を喚起する外的要因を明らかにし得(う)る。しかし、人間ではそうはいかない。その動因は欲望や願望であり、外界や身体的状況が原因ではない場合もある。超感覚的に見ると、そうした動因は人間の第四の構成要素である「自我」に端を発している。… アストラル体単体では、快と不快、空腹や渇きが現れる。しかしそれらは持続的ではない。その持続を体験する主(あるじ)が「自我」である。誤解を避けるためにさらに説明すると、内的諸体験が様々に移ろい流れていく中で、持続的なもの(*時間的観念の物理的・観念的解釈を参照)を感じ取るとき「自我感情」が目覚めるのである。空腹を例に考えてみよう。空腹の条件が整うと毎回その度に空腹の感情が現れ食卓に向う。これだけでは「自我感情はない。それには、空腹を感じて食卓につくだけでなく、以前の食事での喜びが快として持続しているときに「自我感情」があると言えるのである。つまり、現在の空腹体験に際しても、過去の食事の快体験を結びけられるときに自我感情が生じている。 つまりは、現在の空腹の体験に、食事に伴う過去の快体験が結びつくと、自我感情が生じる。… エーテル体の支持を失った肉体は崩壊し、アストラル体の照明を失ったエーテル体からは意識が消え、「自我」による過去との連続を失ったアストラル体は、すべての過去を忘却する。肉体にとっては死であり、エーテル体にとっては眠りであり、アストラル体にとっては忘却が対応する。エーテル体は生命、アストラル体は意識、自我は想起をそれぞれ担っている。哲学・思想ランキング
2022年10月25日
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第2章 人間の本質(28節 06 - 09 )06 生命に対する考え方の変遷 19世紀前半当時の「真の自然研究者」は、生物は鉱物には存在しない何か、つまり「生命力」を持っていると考えた。鉄は外からの作用で磁化するが、それと同様に「生命力」が物質素材に作用すると考えた。この「生命力」は、ここでの「エーテル体」ではないが、その予感ではあった。19世紀後半から20世紀初頭になって、この「生命力」は科学界から無視され、すべてを物理科学・化学的に説明する時代になった。つまり、唯物論的自然科学では、生体内には無生物的、鉱物的素材だけがあるとし、他は一切認めないのである。つまり、生物を複雑な機械として捉えている。ただ「生命力」の類似概念を仮定する科学者も無視できないくらい少なからずいる。ただい、彼らも本書の「エーテル体」には賛同しないだろう。この点に関して、超感覚的認識と自然科学的認識で議論しても、決して噛み合わない。自然科学がこの時代に進化するためには唯物論的な考え方が不可欠であったと超感覚的認識からは考える。自然科学では、感覚的観察手段を限りなく洗練させてきたが、それには「隠された世界」に向かう能力を犠牲にしなければならなかった。人間進化の過程では、人間の本質として、その都度、ある能力を犠牲にして他の能力を育てる。そして現代は、再びこの「隠された世界」に向かう能力を育てるべき時代に入った。自然科学は、初めから隠された世界の否定することで論理的整合性を保っている。これを批判しても、隠された世界が認められるわけではない。隠された世界を明るみに出すことで、時が来たと感じる人はそれを認めるだろう。07 自然科学に決して無知ではない 自然科学への無知がゆえに「エーテル体」などと言っていると誤解されないために上記のことを述べた。08 肉体はエーテル体が支えている 人間の第二の構成要素であるエーテル体は、肉体よりも高次な超感覚的現実である。エーテル体の超感覚的様子については、関連がよりわかりやすい第二部で述べる。ここでは、エーテル体が建築家として作用しつつ、肉体の隅々まで浸透している点だけを指摘しておく。あらゆる器官の形態は、エーテル体の流れと動きが維持している。心臓は「エーテル心臓」に、脳は「エーテル脳」に沿って作られている。肉体と同様、エーテル体も分節化しているが、より複雑である。また、肉体では、各部が独立しているが、エーテル体は、すべてが相互に生き生きと浸透し合っている。09 エーテル体は植物界と共通肉体は鉱物界と共通で、エーテル体は植物界と共通である。また、生命あるものはすべて自身のエーテル体を持っている。記:エーテル とは、光の波動説において宇宙に満ちていると仮定されるもので、光が波動として伝搬するために必要な媒質を言う。ロバート・フックによって命名された。 特殊相対性理論と光量子仮説の登場などにより、エーテルは廃れた物理学理論だとされている。哲学・思想ランキング
2022年10月24日
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第2章 人間の本質(以下28節 01 - 05)01 見えるものは見えないものの顕現 ここでは人間についての超感覚的認識を述べる。つまり、人間における「開示された秘密」をとりあげる。先ず、感覚や感覚に依拠する悟性では、肉体だけが観察される。しかし、超感覚的認識から言えば、肉体は人間構成要素の一つにすぎない。肉体概念は、「死」並びに死せる自然である「鉱物界」を考えると明確になる。これによって、本書の目的である超感覚的認識による解明が始まる。そこでまず本章では、全体を展望するにあたって必要な事柄について述べる。02 肉体のみ(死せる身体)は鉱物界と同質 人間の肉体(物質体)は鉱物界と共通である。人間構成要素でも、肉体以外は鉱物界と共通ではない。囚われなく観れば、死体の存在様式は鉱物界と同じである。死体とは、鉱物界の諸経過に従う人体構成要素である。肉体の素材と諸力は鉱物界のそれと同じであるが、生きた肉体は崩壊しない。生きている間、肉体内の鉱物界的な素材や諸力は、より高次の目的のために使われているのである。死をもって、肉体に鉱物界と同じ作用が及ぶ。死後、肉体を構成する物質的素材と諸力の本性に沿って、肉体形姿は解消する。03 生存時肉体は一部損傷時以外は崩壊しない このように、開示した部分と隠された部分を明確に区別する必要がある。鉱物的な素材や諸力だけが作用すれば肉体は崩壊するが、生きている間は、そこに目に見えない力が対抗的に作用しているはずである。… ここから超感覚的科学が始まる。この科学は、上述の対抗的なものを探求するが、その対象は感覚的には観察できず、超感覚的に観察しなくてはならない。「隠されたもの》」開示される道筋は後の章に譲り、ここでは、超感覚的に観察される事柄について述べる。04 高次世界についてはまず伝聞で学べ 高次の直観に至る第一歩は、伝聞でもかまわないので、超感覚的研究の成果を学ぶことである。こうした成果は、自分で観察できないうちでも、理解は可能である。そして、理解から直観に向かうのが最良の道である。05 エーテル体 肉体の崩壊を防ぐものは高次の直観力でなくては観察できないが、見えるものを頼りに普通に判断すれば、その隠れたものの諸作用は認識できる。そうした諸作用の結果が、鉱物界の素材と諸力で成り立つ人間形姿である。この形姿は、死を境に次第に失われてゆき、命なき鉱物界と一体になる。生きている間、肉体を崩壊から守り、物質的素材と諸力に働きかけているものが「エーテル体(生命体)」である。 誤解をさけるための補足 20世紀初頭の物理学では光を伝搬する媒体として「エーテル」を仮定した。しかし、ここでの「エーテル体」は、それとはまったく無関係である。その諸作用は感覚的に観察できるものの、それ自体は高次の直観によってのみ知覚できるものである。そして、肉体を構成する鉱物素材に一定の生きた形姿を与える働きである。また、本書では、「エーテル体(生命体)」という呼称と共に、すでに否定された旧自然科学的「生命力」の概念を復活させたいわけではない。これについて、著者は『神智学』ですでに論じた。さらに、「体」という表現も誤解しないでいただきたい。「体」という表現は何らかの物質的、感覚的なニュアンスを持つが、エーテル体はもちろん物質ではない。目に見えない高次の事柄にも名称は必要であり、その名称は通常の言語から借用せざるをえない。その点を考慮してご理解いただきたい。哲学・思想ランキング
2022年10月23日
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「神秘学概論」概略第1章(仮付) 神秘学の性格23 真の神秘学へ向かい合う姿勢 私の述べる神秘学では通常の意味での自己弁護は一切しない。ここでも、正しい神秘学的努力によって生命が強められると囚われのない目には認識される点に触れるだけである。神秘学的努力によって、世間知らずになったり夢想に陥ったりすることはない。人間の霊的・魂的部分の故郷である生命の源泉から力を汲み出すだけである。24 報告を学んでから修行の道へ 神秘学に向かう際には別な妨げもある。原理的には、神秘学的叙述を読むと超感覚的世界に向かう際の魂的体験をする。しかし現実にはこれは一種の理想である。実際には、未体験な超感覚的内容を、まず報告として理解する必要がある。これ以外の方法はないし、本書もそれを踏襲している。著者の知る、「人間の本質」、「誕生と死」、「霊界における人間の離肉状態の様子」、「宇宙と人間の進化」が記述される。単なる憶測がドグマ(教条主義)として、信仰の対象として権威的に示されているという誤解もありうるが、それは真の神秘学には当たらない。著者の魂内にはこうした超感覚的世界の内容が息づいていて、熟読した読者にはこの内容に向わんとする衝動が点火される。同じ読書でも、霊学的な認識内容と、感覚界の事実報告では体験が異なる。感覚界の報告ではその世界にまつわる内容を読むだけだが、超感覚的事実を正しく読むと、読者は霊的諸存在の流れに入り込んでいる。超感覚界の成果だけでなく、そこへ至る内面の道も受け入れている。読者は屡々それにまったく気づかない。霊界参入を、感覚的体験を元に類推してしまうために、霊界の記述を読んでも、その体験を思考的なものと感じてしまう。しかし、本来の意味での思考受容では、すでに霊界に参入していて、考えを受け取っただけと思っていても、実は知らず知らずのうちに体験をしているのである。… 本書の第二部では、超感覚的認識への「道」が記されているが、これを実践すると、この体験の本質が明らかになるだろう。まずその道筋を述べ、次のその成果を述べるのが正しい順だと思われがちである。しかし、実際はそうではない。超感覚的世界を魂的に見ずに、そこへの参入を目指す修練だけを行うと、超感覚界での基盤が得られず、混沌しか現れない。超感覚界の基盤となる諸事実を素朴に知るなら、後になってそうした諸事実を認識する道筋が明確にわかる。神秘学的な諸著述を見れば、これが超感覚的認識への最も確実な道であることがわかる筈である。また、超感覚的認識に暗示的作用などないこともわかる。そうした認識内容は浄化された魂にしか与えられないからである。必要なのは、あらゆる暗示的な力を拭い去ること、真理が語りかけて来る道筋と同じ道筋の語り口しか許さないことの二点である。自分が霊界に生きていることに気づかない読者もいるが、それは無思慮で暗示的にそれを受け取っているからではなく、体験があまりに精妙であり、それに慣れていないためである。… まず第一部の内容理解で、超感覚界の共通認識者になり、第二部の魂的修行を実践することで、自立的な認識者となる。25 神秘学のための道具は高められた自分 その精神やその真の意味においては、感覚界の事実に基づく科学と、超感覚界の探究方法とには何の矛盾もありえない。科学者は自然から供与されたものを加工した道具や方法を用いる。超感覚的認識方法でも道具を用いるが、これは人間自身である。そしてより高次の探究の準備として、人間は自然から与えられた能力をより高度に変容させ、自身を超感覚界の探究のための道具にしなくてはならない。 記:人間を構成するのは、その60%が水と云われ、 この水を除くと、人間の身体は、炭素原子が50%。 酸素原子が20%、水素原子が10%、窒素原子が8.5%、カルシウム原子が4%、リン原子が2.5%、カリウム原子が1%などから構成されています。然し乍ら、此の構成体に意識が伴うのです。何に故なのでしょう。哲学・思想ランキング
2022年10月22日
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「神秘学概論」概略第1章(仮付) 神秘学の性格18 霊界認識は生の力の源泉 現存するものの中に隠れた存在を、認識、推測、あるいは予感するなら、また、認識力の発展可能性や、通常には隠されたものの開示への希求を感じるならば、神秘学への機が熟していると言える。こうして神秘学に向かうなら、知りたかった答えがある程度までわかるだけではなく、生命や生活を妨げ、且つ、弱めるものをも克服できる。超感覚的なものを否定すると、高次の意味で生命が衰弱し、魂が死に、隠れたものを開示し得ないことから来る絶望が生じうる可能性は大である。こうした死や絶望は、神秘学に向かおうとする魂にとっての壁であり敵である。人間の内なる力の消滅と共にこの死と絶望が襲ってくる。この状態では、生命の力は自己の内界では致し方なく外からしか得られない。感覚的事物を知覚し悟性的に分析し、苦楽を感じ、出来得ることを行う。しかし、これはその場凌ぎでしかなく、やがては内的に死ぬ。外界からのものはやがて尽きるからである。これは、個人的主張ではなく、人間の内的営みにおいて観られる事実である。事物の深淵には、人間を衰弱から守る力が隠れている。新たな生命力の源泉となる深みに向かおうとする内的な力がなくなってしまうと、ついには外的事物も生命を喚起する力を失っていく。19 人間進化は宇宙進化に寄与する これは個々の人の幸不幸だけでなく、神秘学的な高次の観点からすると、全宇宙の平安と災いに密接に関連している。神秘学からすると、人間が自らの力の正しい育成を怠るなら、それは全宇宙にとって有害である。人間が超感覚界との繋がりを失い、自分の生命存在そのものを荒廃させると、最後には人間の内的なものが死に、絶望に陥り、人間の弱さゆえに、全宇宙の進化を妨げることにもつながる。(*現代物理宇宙科学の人間原理の各論を参照。)20 感覚界だけの信奉は人間の弱体化につながる 隠されたものなどは存在せず、感覚と悟性で知りうる事物が全てであると信じ、自分を欺くことも可能ではある。然し乍ら、こうした欺瞞は、意識の表層にあっては可能であるが、深層では不可能である。感情や願望は欺き切れない。感情や願望は、隠されたものを求めている。その感情や願望が満たされない状況では、人は疑惑や絶望に追い込まれる。隠されたものの認識に向かうことで、希望の喪失、生の弱体化、絶望などを克服できる。21 霊学的認識は活力の源泉 霊学的認識の果実とは、単なる知的好奇心の満足ではなく、生に強さと確かさを与えることにある。この認識の力は、活力や自信の永遠の源泉であることに由来する。一度でもこの源泉に触れたなら、絶えずそこから力を得られる。22 神秘学を厭世的と見るのは誤解 神秘学の性格のことに不健全な部分を見つけ、霊学的認識を避ける人もいる。寧ろ、表面的にはこの主張は正しい。この種の人は、実生活にかかわる事柄への関心の方が強い。現実から目を背け、空想に過ぎない隠された世界に救いを求める人間を弱者と看做す。病的夢想や弱さを避けつつ霊学探究に向かうためには、この反論の部分的正当性を認めなければならない。この反論は健全な判断に基づいているからである。ただ、その判断は浅く表面的で、完全な真理ではない。… 超感覚的認識努力によって、実際に生命が弱められ真の現実から逃避するとしたら、その種の反論は超感覚的な認識努力の土台を打ち崩し得る正当性を持つことになる。(*正しき神秘学的認識方法による超感覚的認識努力は、生命が弱められ真の現実から逃避する結果が生じることはない。)哲学・思想ランキング
2022年10月21日
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「神秘学概論」概略第1章(仮付) 神秘学の性格 08 神秘学の二つの基本見解 次の二つである。1:可視界の背後には、感覚や感覚に依拠する思考では捉えられない世界が存在する。2:人間内の未開発な能力を発展させれば、この不可視界に入ることができる09 不可視界に対する態度:否定 不可視界に対してはさまざまな態度がありうる。不可視界否定派:感覚界だけが存在し、不可視界は存在しない。現在の科学では未熟であるが、原理的には、科学によって感覚界の謎は感覚界そのものから解くことができる。10 不可視界に対する態度:不可知 不可視界容認、然し乍ら、不可知派:不可視界が存在するかもしれないが、人間の認識力には限界があり、その世界は不可知であり、それは信仰の対象ではあるが、科学の対象ではない。11 不可視界に対する態度:不可侵 神聖領域不可侵派:本来信仰すべき対象を学問するのは不遜であり、それはタブーである。12 不可視界に対する態度:非普遍 不可視界非普遍派:感覚界の事実は普遍的に共通認識できるが、超感覚的事物は、個々人で体験が異なり、普遍的な内容は語れない。13 不可視界に対する態度:その他 他にも種々の異論がある。14 可視界だけでは解明できない謎の存在 可視界を詳しく見ると、そこには可視界の事実では解明できない謎がある。その謎は、可視界の科学がどれだけ進歩しようとも、原理的に解決不能である。可視界の事実は、本質的に不可視界を指し示している。これが分かっていないと、可視界が提示する謎を見過ごすことになる。謎を見過ごしているが故に、すべての疑問は、感覚的事実で解明できると思い込む。そうした思い込みを持っていてもなお現れる疑問であれば、いずれは可視界の事実で解明されるだろう。しかし、問いがなければ答は得られない。神秘学的には、可視界の事実だけでは解明できない疑問の存在を認めなくてはならない。人間の問いに制限を設けることで学問に限界を設けてはいけない。15 不可知派への反論:認識の限界は間違い 人間の認識には越えられない限界があり、不可知界は認識できないという考えが主流である。確かに、そこでの認識方法では不可知界には入り込めない。しかし、異なる認識方法を育てられれば超感覚界に入り込める。状況を吟味すると、認識限界論者は別な認識法の存在を知らないだけであることがわかる。そして、知らないことについて判断は下せない筈である。知っていることについてのみ語り、知らないことについては沈黙するのが筋である。既知のことを語る権利はあるが、知らない若しくは知ろうともしない事柄が不可能であると言う権利はない。彼らの超感覚界への無関心は責められない。しかし、自分が関心を持たないという理由で、人類がそれを知るのを妨げることは許されない。16 不可侵派への反論 超感覚的領域への参入を思い上がりと見なす人々に対する反論は、次の通りである。人間には超感覚的領域に入る能力が備わっており、それを持ち腐らせてしまうのは、この能力に対する罪である。17 否普遍派への反論 超感覚的世界についての見解は、個人的感情や意見に過ぎないと考えるなら、人間全般に共通する本質を否定することになる。確かに、超感覚界は、個々人においてしか認識されないのは事実である。しかし、認識が十分深ければ、内容は共通である。ただし、科学的で確実な道を採らず勝手な道を選択すれば、認識内容は食い違う。また、その共通性を認めるためには、「神秘学の道」の特異性を知っていなくてはならない。 記:21世紀の物理科学の成果は、過去には人間が視床下部の働き(不可視とされていたもの)では見えない世界として諦念(ていねん)していた事柄を、各種特殊な視聴外計測機器の開発をもって難局を乗り越えようとしています。量子重力理論は過去の量子論と相対性理論を単一統合化する統一重力理論として多大な期待が持たれていますが如何なものでしょう。此の我々人類の存在宇宙の要素さえ96%が。驚くべきことに、未だに存在は確認されるものの、認識・認証の科学的解明はおろか観測方法さえ見つかりません。哲学・思想ランキング
2022年10月20日
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「神秘学概論」概略第1章(仮付) 神秘学の性格06 霊学と自然科学の違い 神秘学の内容には証明がないという反論があるが、証明を求める姿勢で本書を読むと判断を誤る。本書の意図は証明ではない。そうではなく、本書は超感覚的諸事実との出会いの導きになることを目指している。超感覚的事実との出会いの道筋は、先ず自然科学的認識において魂的能力を育成し、それを自然なかたちで発展させることである。自然科学的考察と霊学的考察の違いは霊学領域に入ればすぐにわかる。自然科学:諸事実は感覚界に存在し、魂的活動はその背景にあって目立たない。霊学:霊学的諸事実は魂的活動によって生じるので、魂的活動が前面になくてはならない。したがって、読者の魂的活動が前提条件になる。科学的精神を基盤に、魂の活動によって諸事実が現れるという道筋である。それゆえ、超感覚的事実を考察できるようにする道筋についても述べる。… 神秘学をしっかりと読むなら、以前にはなかった考え方が得られることに気づく。そして、証明の本質についても考えを新たにするだろう。自然科学的証明:叙述に対し外から加えられる。霊学的証明:自然科学的思考における証明的活動が、事実探究の時点で、その探求活動の中に含まれている。言い換えると、事実へ達する道そのものが証明になっていなければ、事実を見い出すことができない。したがって、真にこの道筋を辿るなら、証明はすでに体験している。外からの証明は無力である。ここで判断を誤ると、多くの誤解が生じる。07 道筋が正しければ誰でも超感覚的体験ができる 神秘学の基礎には誰でも獲得しうる二つの見解がある。神秘学者から見れば、正しい手段によれば、誰でも体験できる見解である。しかし大多数から見ると、この体験の不可能証明は存在しないにもかかわらず、論争の火種となっている。哲学・思想ランキング
2022年10月19日
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「神秘学概論」概略第1章(仮付) 神秘学の性格03 自然科学の持つ二つの意味 1には自然についての認識を得ること。2には認識過程での活動を通して魂的に成長すること。認識過程での活動を通して魂的に成長することである。 神秘学では、この成長した魂の力を自然界以外に向ける。つまり、厳密な自然科学的思考を育て、その厳密さを保って別な領域に応用している。したがって、自然科学を軽視しているのではない。04 自然を対象として科学的態度を育成 自然科学では、対象が思考の方向を示してくれるが、非感覚界の内容では、純粋に内的な力で考察の方向を定めなくてはならない。自然科学における思考の厳密性は、感覚的対象が保証していると信じられているので、感覚的対象という手がかりが失われれば、当然、厳密性は保てなくなるとされる。つまり、科学的手順が意識化されていないのである。自然科学的探求をしていても、そこで科学的態度を十分に育成できていなければ、非感覚的領域の考察の際に当然誤りに陥る。これを根拠に、「感覚的対象がなければ科学的ではありえない」という誤った判断が下されている。こうして、非感覚的世界についての非科学的な話が蔓延する。しかしその原因は、非感覚的世界の内容が本質的に科学的でありえないからではなく、自然観察を介しての科学的自己教育ができていないからである。05 神秘学者が取り得る姿勢(参考:ルドルフ・シュタイナー/Rudolf Steine、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ/Johann Wolfgang von Goethe、カール・グスタフ・ユング/Carl Gustav Jung三者の神秘学への姿勢)記:人間の思考・認識は甚だ十全とはいえないのは事実でしょう。古今東西何百年にも亘って認証されたものが時を経れば、事実を反映しない塵芥とは云わないまでも史上の一記述として処理されます。 隠されたものが見えるようになると、自分に学問的基盤がなくても、それを公言したくなる誘惑にさらされる。しかし、神秘学者はそれを警戒しなくてはならない。現状の神秘学には実際に多くの誤りが存在し、神秘学に偏見を持つ人は、それを元にすべての神秘学研究を無意味とし、蔑視しているが、そこにさらに絶好の餌を撒くことになるからである。しかし、科学者が神秘学を批判し拒絶する際の根拠は、ほとんどが、前述の「感覚的対象がなくなれば、科学性は保てない」という無意識な前提である。彼らが神秘学の誤りを指摘した場合、彼らは、自身の前提を自覚していないので、その誤りレベルでの議論は不毛である。したがって、望ましいのは、神秘学を淡々と記述し、それが正当か否かの判断は開示された秘密を受け入れる準備のできた人々に委ねることだろう。それゆえ、神秘学に向かって努力する者は、語るべきと思うことを、ただ単純に語ればよい。その正当性は、他人の判断に委ねる。ただし、この他人とは、すべての固定観念から解放され、世界に開示された秘密についての報告を相応に受け止めることができる、自己形成が十分にできた人である。神秘学者が語る際には、以下の点に注意している。1:その内容が、学問や生活上の成果とどのように関係するかを示す。2:どのような反論があり得るかを示す。3:感覚的諸事実がどれくらい神秘学的考察の裏付けとなるかを示す。4:説得技術を弄さない。哲学・思想ランキング
2022年10月18日
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「神秘学概論」概略第1章(仮付) 神秘学の性格02 神秘的内容を扱う学問的態度 本書は非常に誤解されやすいが、偏見や先入観なしに読んで欲しいと思っている。本書には、認識に際し特殊能力を要する神秘的知識は一切述べていない。ここで言う神秘とは、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe/1749年 - 1832年)の云う「開示された神秘(秘密)」と同じである(「色彩論」において、ゲーテは色彩のさまざまな現象を集め、それらを系統的に配列した。そして、それらの基礎となる最も単純な現象を発見し、それを根源現象と名付けた。つまり、濁りを通して光を見ると、そこに黄色や赤が見え、光を帯びた濁りを通して闇を見ると、そこに紫や水色が見える、という現象である。色彩現象全体の鍵となるこの重要な現象は、一方は夕日として、もう一方は青空として、私たちが当たり前に見ることができる。日常でごく普通に触れているものの中に、最高の神秘が存在しているのである)。感覚と感覚に依拠する悟性では捉えられないもの(秘密)が、超感覚的認識方法によって開示されるのである。… 「科学(学問)とは感覚と感覚に依拠する悟性で解明されるもの」というのであれば、神秘学は学問ではない。しかし、こうした条件は、根拠ある洞察から得られたのではなく、個人的な感情から生まれたものである。これを示すために、科学の前提条件を吟味してみよう。科学的というのは、特定の対象を探求するからではなく、探求の際の魂的姿勢を指している。通常は、感覚界を探求することで科学的態度を身につけるが、それゆえに「科学的態度は感覚界を対象にしたときにしかあり得ない」と考えられがちである。しかし、科学的態度を保持したまま、非感覚的領域を捉えることも可能である。つまり、次の2つのステップを踏むのである。1自然界を対象に《科学的態度》という魂的能力を育てる。2その態度で非感覚的領域を探求する。それゆえ、自然科学と言えるのと同じ根拠を持って、神秘科学(神秘学)と言えるのである。 原注1「神秘性と学問性は対立概念で、それゆえこの表現自体が矛盾である」という理由で、「神秘学(神秘の学問)」という表現が拒絶されもした。この主張は、この視点からすれば正当である。しかし、ここでは別な視点を採っている。自然科学が自然についての科学(学問)であるのと同様に、神秘学は神秘とされる内容についての学問である。自然そのものが学問でないように、神秘とされる内容そのものは学問ではない。したがって、神秘学の内容は認識した者にとっては神秘ではなくなる。哲学・思想ランキング
2022年10月17日
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いっぷ句-75緑去り紅(くれない)来たる嵐山 愚通にほんブログ村
2022年10月16日
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「神秘学概論」概略第1章(仮付) 神秘学の性格01 神秘学に対する態度記: 宇宙意識とは何なのだろうか、人間には、未だ知られていない能力が内在してはいないだろうか。それに到達する方法は様々なジャンルに亘ります。唯一無二の創造神の宗教観、絶対存在・絶対意思・絶対意識の感性的経験では知り得ない有形の現象の世界の奥底にある究極的なもの、物体の存在根拠を探究する「哲学」のうちの「形而上学」。全ての世界を物理的世界観を以て解き明かそうとする、即ち、神や絶対者を持ち出さないで解明しようという態度の物理科学的世界観や生命論が代表されます。其のなかでも独自に人間精神の奥底、人間の通常の理論的認識、感覚的に把握されうるものだけを超えた事象に対してシュタイナーは注目し、独自の理性的な思考、科学的な態度で探求する、所謂世間のオカルティック「神秘学」超えた領域へと「神秘学概論」が絡みます。 「神秘学」に対する世間の常識と態度は、両極端でみれば、一方には迷信(superstition)、迷信とは人々に信じられていることのうちで、合理的な根拠を欠いており、一般的には社会生活をいとなむのに実害があり、道徳に反するような知識や俗信などのうち、社会生活に実害を及ぼすものである。として否定する立場である。方や対するには科学、特に物理科学・物理科学的生命論では認識・認証されていない分からないことの解明を期待する人びとがいます。更には此の両極の立場には同意できない中間層の「神秘学」解釈の思考があります。「神秘学」には「通常の認識では得られないものがあるはず」と確信、もはや神秘学ではなく深い認識への憧れゆえに、既知のものを拒否し、理性を離れた神秘信仰にまで高めた多くの信奉者がいます。「神秘学」を合理的・科学的判断を以て解き明かそうとするシュタイナーは初期には迎え入れられても断絶は避け得ない定めでした。哲学・思想ランキング
2022年10月16日
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閑話休題「神秘学」の進化論的考察1(挿入) 記:生命科学・進化論曰く、地球上の生命の生命の起源・誕生には「有機物」、「液体の水」、「エネルギー」の3つの条件を満たす必要があると考えられている。 地球の生命の体は、たんぱく質を初めとする有機物と水でつくられエネルギー体として活動している。 最初の生物の原料がどこから来たのかは、未だに謎に包まれ、議論の的になっているものの、生命がつくられるには、有機物の存在は欠かせない。生命科学・進化論では生物が物質からアミノ酸の合成を経て生命への誕生・進化が始まると解き明かすのに対して、シュタイナーは万物を霊的なものとして捉え、特に宇宙世界のなかでも太陽系を霊的存在そのものに比定し「霊的な鉱物」から其の系列上で発生したと捉える。生命科学・進化論が無生命からの起源・誕生説を説くのに対して、唯一神宗教とギリシァに代表される形而上古典哲学は絶対意識を認証することを前提に「絶対意思・絶対者の存在」を世界の生命誕生の起源と見て世界を睥睨してみせます。然し乍ら、現代最先端科学の統一重力理論の超ひも理論(超弦理論)は人間原理(anthropic principle)、物理学、特に宇宙論において、宇宙の構造の理由を人間の存在に求める考え方、そもそも観測されるべき宇宙は存在しないという強い人間原理と、人間の存在を必然とするような宇宙の構造に傾斜しています。今の科学を賑わすマルチバース宇宙理論は原理的には認証でき得ない理論でしか終わらないために、結論的には信教や形而上哲学と変わるところはありません。とはいえ、近い将来には、非生物から生命が誕生した現実的な道筋がはっきり見えてくる日もそう遠くはないかも知れません。 地球上の生命は天変地異によるアミノ酸の合成から、ウィルスを含め生命体が発生し、単細胞生物が生じ、更には其の機能的増殖の故に、複細胞・雌雄生物が生じ、其の効率化のために本能効率化するための動物が生じ人類に至る理論が罷り通っているが、此れが真実そうかは21世紀の現代最先端科学の生命・物理科学では量子重力理論の量子の縺れの不確定要因を取り入れた、AI(artificial intelligence)技術世界では少々確信が持てない世界が見え隠れする。詰まりは、上記の過程の逆転の発想である。思考→意思→生命→世界の認証体としての生命体への進化である。此の論に従えば人間及び世界は、神もしくは神ならざるものによる思考の産物との結果が生じる。シュタイナーの「神秘学概論」も此の論に立脚すれば然程に驚くにあたいしないと云えます。人間精神の奥底≒宗教≒神秘学≒物理科学的生命論が成り立つことさえ、あながち、狂気とは看做されない時代を迎えているかも知れません。哲学・思想ランキング
2022年10月15日
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「神秘学概論」本文 ― 要約宇宙の進化と人間記:シュタイナー「神秘学概論」のルツィフェル(Lucifer)、ラテン語で「光をもたらす者」(lūx 光 + ferre 運ぶ)を意味する者は、元々は、高位の大天使の一人で、地球の進化の太陽紀から月紀にかけてあった「天上の戦い」で自由になった存在として、必ずしも悪霊とはされず、神秘主義と芸術を人間に志向させる要になった存在として描写されます。 その8 ルツィフェル(ルシファー、ルキフェル、ルシフェルとも/Lucifer)と諸周期 月が分離する頃の、特殊な霊たちに注目してみよう。その霊たちは、自分の中に月紀の性質を余りに保ち続けていたので、太陽が地球から分離するに際してもそれに参加することが出来ず、また地球紀の月から地球に向けての働きかけにも参加できなかった。彼らの中には、月紀に於いて太陽に背いたときの衝動が生きていたのである。これらの霊をルツィフェル的な霊と呼ぶことが出来る。彼らは地球紀に於いていびつな仕方で進化をし、やがて人間存在たちを「誘惑」するようになった。彼らの作用によって、第一に人間たちはアストラル体で意識像を制御し、支配する能力を与えられ、自分の認識行為の主体となった。しかしそれは、同時に宇宙の姿だけを映し出すという意識の特徴が失われるということにもなった。そして第二に、その主体的な認識の起点がアストラル体であったため、自我はそのアストラル体に依存するようになり、人間存在の低次の要素の影響を受けるようになってしまった。彼らルツィフェル的な霊たちは人間に自由な活動を可能にさせたが、同時に誤謬と悪の可能性をも与えたのである。そして、それ以上に重要な結果として、人間に「死」を生じさせたということが挙げられる。以後の人間はアストラル要素によって体験でき、また肉体を破壊する作用としての地球の働きを、強く印象として受け取ることになってしまったのである。 ルツィフェルたちは、地球に於いて、低次の段階に留まっていた人間たちにも作用した。その人間たちの生命体は余りにも保護されずにいたので、ルツィフェルの作用を受けて、自分の内部に存する自我の火花を勝手に拡大してしまい、周囲に強力な、そして有害な火の作用を生み出した。これは地球にとって一種の破局であった。 ルツィフェルの影響から部分的に免れていたごく少数の人々は、その破滅から逃れて、現在は大西洋の海水に覆われている地域へと移住した。霊学はこの地域を「アトランティス」と呼び、またその時期を「アトランティス期」と呼ぶ。さらに、霊学の文献はそれ以前の時期を、地球紀の物質上の進化の最初期から始めて、ヒュペルボレイオス期、レムリア期と呼んでいる。 アトランティス期(初期)当時、秘儀参入者たちはルツィフェルに影響されることが少なかったため生命体を通して形態霊の領域と完全に結ばれることが出来た。そして、自分たちがある偉大な存在によって導かれていることを知る。その存在は太陽と地球の分離を指導したものであり、太陽に属するものである。そしてこの存在によってキリストが将来現れるであろうことを予見した。このキリストに関する啓示をキリスト神託、或いは太陽神託と言う。当時、太陽の他にも天体として土星・火星・木星があり、それらの分離を指導した土星人・火星人・木星人たちがいたから、同様にして別の秘儀参入者たちが彼らから神託を受けた。また、太陽からは、地球と分離したのちにも太陽の進化に追いつけなくなった者たちが金星や水星を生じさせていたから、金星神託と水星神託もまた生じた。ルツィフェルの影響を大きく受けた人たちには、ヴルカン星神託が与えられた。これを生み出した存在たちは最も早い段階で太陽の進化に追いつけなくなったものたちである。 アトランティス中期、低次の霊的存在たちは秘儀参入者たちを誘惑した。低次の霊的存在たちは人間たちに働きかけて人類の真の幸福に敵対させるようにし向けていたのである。この結果、不幸が増大し、成長力と生殖力が母胎から切り離されて単独で利用されたので、特別な仕方で空中・水中の力が引き出されてアトランティス地域は破壊されていった。空気と水の破局が訪れたのである。アトランティス人たちはその地域を離れ、移住を開始した。現在のヨーロッパ、アジア、アフリカなどへである。 この頃になると、人間を専ら感覚的・物質的な次元に限定しようとする存在が現れた。のちに、これは人間を物質界に引き止める力を持ちアーリマンと呼ばれるようになった(原ペルシァ期。メフィストフェレスもこのアーリマンに数えられる)。人間たちはルツィフェルだけに影響されるのではなくなったのである。この結果として人間たちが堕落すると、太陽神託(キリスト神託)に関する秘密が重要性を帯びるようになる *3。 やがて、キリスト秘儀参入者の中から最も優れた七人がアジアの南方、太古のインドに居住した人々の教師となった。この七人の偉大な師の影響力は絶大なものであった。彼らによって伝授された事柄はインド人の魂の奥底に刻まれ、超感覚的叡智に貫かれた文化が生じるに至る。――但し、例えば転生について正しい考えを持つことが出来たのは彼ら偉大な師に直接会うことの出来た者に限られたし、今日に伝えられる「叡智の書」(ヴェーダ)はこれら偉大な師たちの教えをそのまま伝えてはおらず、その痕跡を残すのみとなっている。これが、アトランティス期の直後に訪れたインド期(第一後アトランティス期)の状況である。 これ以後、順に原ペルシァ期(第二後アトランティス期)、エジプト・カルディア期(第三後アトランティス期)、ギリシァ=ラテン期(第四後アトランティス期)、第五後アトランティス期、と時代は推移してきた。次にこれらの時代を概観しよう。 原ペルシァ期の霊的文化の指導者は、ツァラトゥストラ、もしくはゾロアスターと呼ばれた 。太陽霊としての彼はキリストの到来を予見し、またアーリマンに「アーリマン」の名を与えたもした。 エジプト・カルディア期には、歴史上ヘルメスの名で呼ばれる人物が現れた。彼は、ツァラトゥストラ自身の弟子の一人の生まれ変わりである。 ギリシァ=ラテン期では、人々は感覚世界の中に於いて、完全な形式で霊的なものを表現しようとした。ギリシア芸術がその結果である。また、この頃になると、偉大なインドの師・ツァラトゥストラの弟子たち・ヘルメスの信奉者たちがそれぞれの弟子を育成しており、それぞれに秘儀の地を設定して「古代の秘儀」の保存と復興を計った。 第五後アトランティス期とは、西暦四、五、六世紀に準備がなされ、十五世紀に開始され、今日も続いている文化期である。そして第六後アトランティス期がまもなく到来しようとしている。これは物質文化と霊界での営みを結びつける性格を持つものである。そのためには霊的な直観を体験することが必要となるだろう。哲学・思想ランキング
2022年10月14日
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「神秘学概論」本文 ― 要約宇宙の進化と人間 その7 地球紀 <地球紀の始まりと濃縮、濃縮中の人間、各遊星の出現> 地球紀は、土星紀・太陽紀・月紀の三つの繰り返しをその前段階とする。これらの直後の地球は全て魂と霊からなっており、そのごの物質的な地球に於ける被造物となる全ての存在を萌芽として含んでいる。 この宇宙体に於いて「濃縮」が起こる。この濃縮によって地球に火の形態が現れる。これは熱を生み、地球の大気圏に存在していた人間に影響を与えた。人間の中に生命が点火され、アストラル体の中にのちに感覚魂となるものの萌芽が生じたのである。従って、この時点での人間は、感覚魂とアストラル体、生命体、そして火によって構成される肉体からなっていた。 この濃縮の過程は進み、気体または空気を生じるようになる。人間がその空気の成分を自身に組み込むと、アストラル体の一部が独立し、のちに現れる悟性魂の萌芽となる。その一方で、火と空気からなる地球の一部が独立し、現在の太陽のもととなる宇宙体を形成する。 そしてさらに濃縮は続き、水の成分が地球体に組み込まれるようになる。人間がこの水の要素を自身に組み込むと、意識魂の萌芽を持つようになる。地球から分離した太陽には高次の霊的存在たちが住まい、地球の人間存在に影響を与える。それは即ち、昼と夜の分化である。昼の時間には、地球は自身の成分で人間の魂を覆い、人間を肉体に定着させるが、夜の時間には人間の魂は地球から離れ、肉体と地球は睡眠状態に入る。 次の濃縮過程によって、地球に地と呼ばれる固体の部分が付け加わる。そして人間も地上生活に必要な体に、地の要素を組み込む。このことによって、月が地球を去ることになる。そして両性の分離も始まった。 以上の地球形成期のあいだに、人間はそれまでの土星紀・太陽紀・月紀を通じて獲得してきた諸能力によって進化していた。 太陽が地球から分離した頃、もはや地上には生存場所を見いだせなくなってしまった魂があった。彼らは宇宙霊に導かれて木星へと移った。同様に、そののちの凝縮化に耐えられなくなった魂たちは火星に移り、また地球に空気成分が組み込まれた頃、土星が用意された。哲学・思想ランキング
2022年10月13日
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「神秘学概論」本文 ― 要約宇宙の進化と人間 その6 月紀 それまで太陽であった存在が「宇宙の眠り」から覚めると、月紀が始まる。月紀に於いては、太陽と新しい土星の二つが融合して、新しい遊星が作られる。即ち、月である。人間のエーテル体は休息期に進化を遂げており、肉体はその進化に追いついていない。そのため、人間の肉体はエーテル体無しに現れる。 人間の肉体が進化したエーテル体に適応できるようになるため、まず土星紀に於ける諸事象が繰り返される。ただし、このときの肉体は熱形体に加えてガス体としても振る舞う。そして土星再現期の最終段階に、人間存在は太陽紀に於いてのように生命をになうようになる。ここに至って運動霊が自身のアストラル体を人間存在の中に流入させることが出来るようになる。このアストラル成分によって人間の肉体は濃縮度を高め、「水」・「水体」と呼ぶことの出来る存在形態になる。 ここでまたしても、全ての存在が一様に進化をしているわけではないので、人間界の他に二つの領界が生じる。土星紀の段階に留まっている領界と、太陽紀に留まっている領界である。やがて、月は二つに分裂し、(i) 人間界及びその二つの領界と、幾許かの高次の本性たちを含む宇宙体と、(ii) それ以外の高次の存在たちだけを含む宇宙体とに分かれる。この前者が、我々人類の居住地となる「太古の月」であり、後者は精妙化を続けて再生した太陽のようになる。太古の月〔或いは月体、または単に、月〕に結びついた形態霊は、人間の肉体に働きかけ、水のような状態であったものをねばねばとした状態にする。 この太古の月に於いて、やがて太陽の影響から脱しようとする動きが起こる。これは月の存在に与えられた意志の要素(トローネの遺産)によるものである。その結果、月体は霊的にも素材的にも (i) 太陽の生命と密接な結びつきを持つ生命活動と、(ii) 太陽の生命とは無関係に独自の道を進む生命活動という二種類の活動を営むようになった。太陽が影響しているとき、月に住まう存在たちの意識状態は太陽に完全に左右され、独立性を保てない「より暗い意識状態」となり、それ以外のときには自律的な「より明るい意識状態」を保てるようになった。月の生命はこの二つの意識状態を交互に体験した。この段階に於ける彼らの意識に於ける形象は、我々にとっての夢に於ける形象に似ている。暗い意識状態は夢のない眠りに似ており、明るい意識状態は夢を見ている眠りの状態に似ていた。それ故、彼らの意識に於ける形象は(外的事象の模造ではなく)一種の象徴像であった。やがて、月は太陽の周りを公転し始める。これは、霊的存在たちの力による。そして月の存在たちは、太陽に面している箇所では太陽の影響を受け・その壮麗な姿を感じ取り、その裏側では独自の生活をして・自分のアストラル体が働くままに任せ、醜悪な外的形姿をとるようになった。 月紀の人間に働きかけた諸霊について触れておけば、おおよそ次のようになろう。人格霊は人間のアストラル体を独立させ、人格の特徴を植え付けた。火の霊がエーテル体に働きかけ、一種の記憶力がエーテル体に組み込まれた。生命の子らは肉体に働きかけ、アストラル体の相貌の模造になるよう促す。等々。 人間がさらなる進化を遂げると、「堕ちた月の本性たち」は太陽に晒される時期にも意識を保てるようになる。次第に太陽の時期が長くなり、やがて太陽に従属するようになっていく。そして、再び太陽と月が一つの宇宙体となり、人間の肉体はエーテル化する。肉体はエーテル形式を取ることによってエーテル体により親和的になり、太陽と合体した今、太陽霊たちの直接の領域に入り、彼らの影響を強く受けるようになる。その太陽霊たちとは、叡智霊や運動霊たちのことである。叡智霊はエーテル体に叡智を与え、運動霊はアストラル体を活発にする。このとき、叡智霊は人間の肉体(エーテル化したもの)以外の肉体にも影響を与えるので、人間ではない鉱物的植物や植物的動物も、叡智を受け取る。この時期のこの宇宙体を、それ故「叡智の宇宙」と呼ぶ。 総じて、月紀の進化は、七つの周期に分けられる。まず始めに土星紀と太陽紀の進化を繰り返す周期(準備周期)が一つづつあり、次に月と太陽とに分かれる中間の周期がある。この中間の周期が次の三つに分けられる。一つ目が、生命の子らが働きかける前の時期であり、二つ目は彼らが働きかける時期。そして三つ目が、そうして生じた存在たちが世界に適応するのに要する時期である。そして最後に衰退周期と呼ばれる時期がある。これが二つに分けられる 。月紀の進化全体を一大周期、または遊星紀と呼び、それを七つに区分したときの各時期を小周期と呼ぶことが出来る。この小周期を更に七区分したものを「さらに小さな」周期と呼ぶことも出来る。哲学・思想ランキング
2022年10月12日
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「神秘学概論」本文 ― 要約宇宙の進化と人間 その5 太陽紀 <太陽紀の肉体と太陽紀の進化(進化速度による区別)> 太陽紀の進化の経過によって、人間存在にエーテル体が組み込まれ、人間の意識の状態は無意識、或いは夢のない眠りの状態にほぼ等しくなる。 宇宙が休息期を終え、かつての土星が新しい宇宙体である太陽となって現れる。太陽紀は、まず土星紀の各状態を繰り返す。叡智霊が肉体にエーテル体を浸透させると肉体は第二の完全性の段階へと引き揚げられる。こののち、太陽紀は休息期間に入り、そのあいだに生命を得た人間の肉体は分離を始め、二つに分かれる。休息期間が終わると運動霊たちが活動を始める。すると、土星に於いては熱であったものが凝縮を始め、現在のガスに比せられる状態になる。次いで、形態霊、人格霊、愛の霊などが作用する。 ここで注意しなければならないのは、全てのものが一様に進化するのではないということである。土星紀に形成された人間の肉体の全てが太陽紀に叡智霊によって固有の生命体を得たわけではない。それ故、太陽紀になって叡智霊が流入すると、肉体は二つのタイプに別れる。一つは叡智霊の流入を受け容れることができたものであり(これらは空気にまで凝縮する)、もう一つはそのまま進化をせずにいるものである。そして、人格霊にも進化したものと進化せずに留まっていたものという区別が生じ、進化した人格霊は進化した肉体と関連する一方で、進化しなかった人格霊は進化せずに留まっている肉体と関連する。進化しなかった人格霊は、太陽体から離れて別の天体をなし、新しい土星となる。そして太陽の第二領界〔即ち進化せずに留まっている肉体〕に向かって人格を付与しようとするのである。これが太陽紀中期の進化である。このあと、様々な霊たちが作用を行っては休息期間に入るということを繰り返す。そして太陽進化は大休息期に入る。哲学・思想ランキング
2022年10月11日
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「神秘学概論」本文 ― 要約宇宙の進化と人間 その4 土星紀 <土星紀に於ける人類と、土星の進化に伴う諸霊、土星紀の終わり> 土星紀には、現在的な意味での鉱物や植物、動物は存在していなかった。そして肉体のみを備えた人間のみが存在していた。しかし、それは物体化した存在としてであって、他に物質形体を持たぬ存在たちも土星紀には現存していた。ここでの肉体とは、物質法則に支配されているものを言い、現在の鉱物・物質的な素材を備えたものを言っているのではない。そして、ここでの物質法則は、専ら熱の作用として表現される。熱は、ここでは「暖かく感じる」とか「冷たく感じる」といったように感覚に現れる限りでの熱である。感覚的には、土星紀中期には専ら熱のみが存在していた。 土星紀には肉体の他に霊的な本性たちが住まっていたが、それらは土星の大気圏をなしていた。それら本性の内で非常に高次のもの、「叡智霊」(キリスト教霊学では「キュリオテテス」、即ち「主なる存在たち」)と呼ばれる存在たちが自らの部分を土星の物質的なものの中に沈めると、土星はそうした周囲の存在者の生命を映し出すようになった。そして土星が進化をすると、自分自身の存在の中から「意志」を流出できるようになる。この意志を受けて浄福を感じていた存在たちが「意志霊」(「座(トローネ)」)である。意志と生命との共同作用によって土星の進化が進むと、「運動霊」(「デュメナイス」或いは「力」)たちが活動を開始した。この霊たちは肉体と生命体を以ておらず、アストラル体を有していた。土星によって反射された生命はこの運動霊たちのアストラル体の諸特性を身に付けるようになり、その生命があたかも知覚行為や感情その他の魂の諸力を発しているかの如くに現れるようになった。「形態霊」(「エクスシアイ」、或いは「能」)のアストラル体が次いで反応を受け、感情の表現を伝えているかの如くに生命が振る舞うようになった。時を同じくして、現在の人間の自我のような働きを可能にしていた別の存在たち、即ち「人格霊」(「アルヒァイ」、或いは「原初」)たちの影響から、土星が人格・自我を反射するようになる。この人格霊たちは、自我を有しているという意味で、この時期に於ける人間であった。しかし彼らは肉体及びエーテル体を有してはおらず、現在の我々とは異なる人間であった。このあと、土星の進化の過程が進むと、それまで外〔大気圏〕の霊の活動を反射していたのとは対照的に、一種の内面が生じるようになる。こうなると、「火の霊」(「大天使」)や「愛の霊」(「セラフィーム」)が活動するようになる。そしてやがて、「薄明の子ら」(「天使(アンゲロイ)」)、「調和霊」(「ケルビーム」)が土星に影響するようになる。 こうした諸霊の活動は、土星に存在する人間幻像ファントム(これは人間の萌芽である)に影響を与える。そして人間幻像が意志霊を通して特定の形姿を表すようになると霊的存在たちは次第に引退していき、土星紀は進化をやめる。このとき、土星は消滅し、宇宙は一種の休息期に入る。しかし、人間萌芽は解消してしまうのではなく、解散する。これは霊的存在たちが再びこの段階から働きかけるということを意味する。哲学・思想ランキング
2022年10月10日
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「神秘学概論」本文 ― 要約宇宙の進化と人間 その1 <人類の進化と宇宙の進化、そしてアカシャ年代記> 人間の諸本性は、宇宙全体とも関わり合っている。そして人間本性の進化も、また、宇宙の進化と関連している。霊学は、この関連を霊的な認識によって過去に遡り探求する。 自我が体の三分肢と結びつくまで、三つの体からなる本性は自我無しに進化してきた。霊学は、地球という遊星(*同義とされる惑星でないことには注意)の生成過程を遡ることでこの時代を考察する。物質存在としての地球は、或る霊的な宇宙存在から進化してきた。それ故、素材として濃縮する以前の時点に遡って考察をするには、霊学の方法を用いる他にない。 素材的なもの(*物理的個物)は、死と共に崩壊する。しかし、それをその形態として生じさせた霊的な力は消失しない。そして、その形態の正確な模造を霊的な次元に残している。宇宙の一切の過去の経過は、このようにして痕跡として残されており、人はそれを「アカシャ年代記」と呼んでいる。 その2 <遊星の進化と、記述の言葉> 霊学的に探求すれば、我々の地球が既に三度の遊星状態を通過してきた(*シュタイナーの云う遊星状態の地球とは霊的存在の影響を受ける・及ぼす霊体と個体。但しギリシァにおける地球全体を一つの生命体と考える「ガイア理論」とは異相)ということを看取できる。そして遊星状態と遊星状態とのあいだには、霊化された中間状態を認めることが出来る。 地球は、まず第一に地球そのものがそれ以前の遊星状態の再物体化として現れ、次に地球上で自我が肉体・生命体・アストラル体の中に入って人類が進化するという経過を経た。それまでの人類は自我を有してはいなかったのである。そして、人類と遊星は、このような仕方を繰り返すことで進化してきた。霊学は、最初の遊星物体化の時期を土星紀、第二のものを太陽紀、第三のそれを月紀と呼ぶ。そして第四の遊星物体化の時期が地球紀である。 注意すべきことは、これら遊星物体化の経過を記述する際に現在の地球の諸事情に由来する表現しか用いることができないということである。とはいえ、かつての状態に於ける事象を描写する際に用いる言葉は、それらの事象から発して現在のものとなった事象を描写する際に用いる言葉でもあるのだから、決して間違いというわけではない。 その3 <人類の諸本性の進化> 土星紀には、人類は肉体しか有していなかった。土星が霊化し、太陽として再物体化してのち、肉体は土星紀に於いて成熟していた段階まで発展し、エーテル体と結びついた。月紀にも同様にことが生じ、アストラル体と結びついた。そして地球紀に至り自我を受容するようになったのである。それ故、肉体は現在第四の進化段階にあり、エーテル体は第三の、アストラル体は第二の、そして自我は漸く第一の進化段階にあることになる。哲学・思想ランキング
2022年10月09日
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神秘学概論-序言 七版から十五版での序言(一九二○年)[旧版からの変更]ー6 第一章「神秘学の性格」眠りと死 その1 <睡眠に関する神秘学的説明、及び、睡眠時のアストラル体について> 人間は睡眠に陥ると肉体とエーテル体だけを有し、アストラル体と自我とを含まぬようになる。睡眠中に意識や、思考内容、快苦が無いことは、このように説明される。こうしたとき、アストラル体と自我は、破壊されてしまっているのではなく、体を離れて魂的・霊的な環境の中で活動している。アストラル体と自我は、肉体とエーテル体の中での活動と魂的・霊的な環境での活動を交互に繰り返している。 人間の肉体が物質世界に属するように、アストラル体もアストラル界に属している。睡眠のたびにアストラル体はアストラル界に戻り、目覚めと共に肉体・エーテル体によって吸収される。アストラル体は、睡眠中には宇宙の中にあり、肉体・エーテル体の外で生きていると言ってもよい。ここで言う宇宙とは、人間全体がそこから生まれてきたような場所であり、人間形姿の源泉を有する場所である。人間はこの宇宙に調和的に組み込まれている。アストラル体はここで力を自らに蓄え、そこを離れても活動できるようにする。この力の発露が、健康な眠りの齎す爽快感である。 その2 <夢について> 睡眠時、アストラル体が完全には肉体及びエーテル体から離れずにいることがある。夢が生じるのはこのときである。アストラル体が、依然感覚器官と何の関連を持たない程度には肉体と離れているけれど、エーテル体とは一定の関連を持っているとき、アストラル体の諸経過が形象となって知覚される。そしてアストラル体がエーテル体とも離れてしまうと、夢のない眠りとなる。 その3 <死の直後、死後の体験、エーテル体とアストラル体の分離> エーテル体が肉体から切り離されることが、死である。この後(のち)は、肉体は物質的な作用によって崩壊していく。しかし死に際してもエーテル体は崩壊するのではなく、しばらく、勿論、個人差はあるが数日間程度はアストラル体と結びついて存在する。このときに両者を結びつけている力は、生きているあいだにも働いていた力であるが、アストラル体がエーテル体に人間の形姿を与えていたような、そのような力である。 アストラル体がエーテル体と結びついているとき、肉体とは切り離されているから最早感覚を得ることはないが、エーテル体が有する形象を過去の人生の思い出として体験する。生きているあいだに体験できるそれまでの思い出は肉体による束縛のために不完全であったが、魂にとっての人生に於ける印象は何一つ失われてはおらず、完全な思い出を体験することが出来る。 やがてエーテル体は肉体と結びついていた頃の形態を失い、アストラル体と分離する。このことは生きているあいだにも一時的ながら起こることがあり、そのとき人は、「しびれが切れる」と言う。そして死後このことが起こると、思い出も消え去る。 その4 <自我が自身の願望を消去する。 死後、自我は自身の願望を消去するようになる。生きているあいだには、自我には三つの願望があった。一つは体に由来する願望である。これは体が崩壊すれば消えてしまうものである。二つ目は自我の霊的本性から発する願望である。これは体が諸器官で以て対象を開示し、霊的な体験をすることによって満たされる。そして第三のものは、感覚世界に於ける霊的でないものによって満たされるような願望である。これは言わば感覚的な願望であり、例えば美味なる食事の楽しみなどがこれに当たる。この第三の願望は、死後、満たされることがない。自我は、この願望を消去しようと努めるのである。 その5 <人生の遡行と霊界への参入> 次に死後体験するのは、死の直前から幼児期に至るまでの人生を、時間を遡行して辿り直す、というものである。このとき、物質界を対象としていた自我の欲望の結果は、全て満足感ではなく苦痛を齎す。これは、自我の欲望を消去することにも役立つ。欲望が浄化の火によって焼き尽くされると言ってもよい。 こうして人間は新しい存在段階に入り、アストラル体と分離する。自我は、感覚生活から得た霊的なもの(これは全ての体験と経験の精髄である)をその人生の成果として霊的な世界(霊界)に入る。この、霊的外界とでも言うべき環境には、自我と同質の、他の自我存在が満ちている。そして自我は、彼らと身体器官を通さず直接的に語り合うようになる。 その6 <霊界に於ける存在様式、諸領域、そして人間> 霊界の諸事象は、感覚界の事象と比較して理解することが出来る。例えば、感覚界で対象が色を伴って現れるように、霊界の存在も色となって自我の前に現れる。感覚界での印象に最もよく似ているのは、聴覚的な現れである。霊界に於ける生命のあり方は感覚界の音響や協和音とよく似ている。霊的存在たちは他の自我に流入することによって自己表明を行う。このとき二つの存在は、感覚界に於ける二つの存在のように互いに区別できるようには、存在していない。 まず、霊界に三つの領域を認めることが出来る。感覚界での事象になぞらえて言えば、第一の領域は、「陸地」であり、第二の領域は「海と河川の領域」、第三の領域は「大気圏」である。感覚界に於いて物質形態を取って存在するものたちの霊的本性は、第一領域の陸地に於いて知覚される。ここでは、それらは感覚界に於けるのと丁度反対のあり方をしている。例えば感覚界に於ける赤い石の霊的本性が緑のものとして体験される、といったように。第二領域の海は、感覚界に於ける全ての生命からなっている。植物・動物・人間の生命を霊的な目(霊眼)で見るとき、それらは霊界を貫いて、海や河川のように流動・循環して存在している。そして、感覚世界に於ける感情・情熱(悩みと苦しみ・喜びと楽しみ)が霊界の大気圏(第三領域)をなしている。例えば戦場を霊眼で見れば、そこは熱狂や苦悩、勝利の喜びといったものが嵐のように渦巻いているのを見て取ることが出来るだろう。 他にも、感覚世界に於ける「熱」に対比できるものを第四領域とし、また「光」に比較しうるものを第五領域として認めることが出来る。熱のように全ての事物や存在を貫いているのは、霊界に於いては思考内容そのものである。物質界に於ける人間が、自身の住まう環境に創造的・生産的な仕方で働きかけるために魂の中に生じさせる全ては、この霊界の第四領域に由来する。そして第五領域に存在するものは、叡智である。叡智は、陽光が地上の事物を照らし出すように、霊界に於ける存在を照らし出してその真の意味と霊界にとっての役割を明らかにする。 死後の人間は、霊界の第一領域に於いては、その肉体を成り立たせていた諸力の中で生き、第二領域に於いてはそのエーテル体を、そして第三領域に於いてはそのアストラル体を構成していた諸力の中で生きる。そして自我の周りには、再びアストラル体が形成される。死後に於いては、睡眠中とは異なり、霊界から自我に流れ込む力はそれを賦活するのみならず、新たに形成をも行う。形成されたアストラル体はエーテル体と肉体を必要とするようになり、人間は再生する。このとき、その自我が浄化される過程で看取された苦痛の像が、その苦痛を償おうとする力を自我に与える。このようにしてそれまでの人生が新しい人生を規定するようになるのである(この、以前の生き方とのちの生き方のあいだの法則的な関連を、「カルマ」と呼んでおこう)。 その7 <遺伝について> このような超感覚的な視点からの考察は、感覚界に於ける人々の出自を偶然のものと見なさない。また、その人の持って生まれた才能を遺伝として説明することもない。或る血族の終わりに偉大な人物が現れたとして、寧ろ神秘学は、その人物が自分の人格のために必要な体をその血族の中に求めたことを示していると説明する。霊界に於ける経歴を背景として、その人物の出自は決められているのである。 その8 <霊学の内容は出来事の意味を変える> 霊学が語る超感覚的な諸事実は人生を論理的に理解させてくれる。たしかに説明の付かない事柄を説明できるからと言ってその理論が正しいとは限らない。しかし、霊学が語る内容は本書が後半で述べる方法によって体験することが出来る。この体験そのものが証明として機能することになる。 そして超感覚的な諸事実は、それのみならず、人生に於ける出来事の意味合いを変えることが出来る。例えば、つらい出来事をそれまでのように単なる心を苦しめる事柄ではなく、前世に於ける自分が自分に課したものだと理解することで、それは必然的で、自分が乗り越えるべき出来事だと受け取ることが出来るようになる。 その9 <霊学と教育> 動物は生まれたときから生きる術を心得ているが、人間はそうした遺伝とは無関係に、前世に由来する内的な力を教育によって引き出すことが出来る。遺伝された素質と、その素質を通して発揮される力は異なる。教育とはこの後者に働きかけることだと言ってもよい。哲学・思想ランキング
2022年10月08日
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神秘学概論-序言 七版から十五版での序言(一九二○年)[旧版からの変更]ー5 第一章「神秘学の性格」人間性の本質 <霊について。三つの霊的な人間本性、そして人間の七区分> 「私」なる意識魂を理解・知覚しようとするならば、「私」の本性を自分の内部の奥底から取り出してくるのでなければならない。この、「私」を開示する力は、肉体に於いて最も低次の現れ方をし、一段上るごとに隠されたものを明らかにしてゆき、ついに「私」を開示するに至る。そのとき、魂の内奥にある霊性を露わにする。霊性は海の如くに全てを満たしており、意識魂は全ての現象に隠されて存在している霊と結びついている。 人間は、「私」〔意識魂・自我 *2〕が体と魂の諸分肢に新たな要素を付け加えることで霊的に高次の存在になる。まず、「私」は魂の低次の分肢に働きかけ、「私」が許さぬ限りはそれら諸分肢の中に如何なる欲望も入り込まないようにする。こうすることで、魂の全てが「私」の表現〔現れ〕になる。そもそも、人類の文化的・精神的生活はこの「私」の支配を完成させるために営まれていると言える。 順次、自我は諸分肢に働きかけることでそれらを変化させる。これは、次第により高い集中度を必要とするようになる。自我によって変化させられたアストラル体は、「霊我」と呼ばれる〔霊の第一の本性〕。これは東洋の叡智が「マナス」と呼ぶものと同一である。エーテル体は「生命霊」へと変化させられる(霊の第二の本性)。これはまた、「ブッディ」と同一のものである。そして肉体が変化させられたとき、それは「霊人」となる(第三の霊的本性)。東洋の叡智はこれを「アートマ」と呼ぶ。 感覚魂とアストラル体が密接に関係していたように、意識魂も霊我と一つの全体を成している。それは、意識魂の中の霊が、人間の他の諸本性を変化させるからである。そこで、悟性魂を自我そのものとして数えることにすれば、人間を七つに区分することが出来る。一つには肉体、二つ目にはエーテル体もしくは生命体。そして三つ目はアストラル体であり、四つ目が自我、五つ目に霊我を数え、六つ目に生命霊、七つめに霊人と続く。このように人間を七という数で分類することは、超感覚的世界の認識に慣れていない現代人にも十分受け入れられるものであろう。哲学・思想ランキング
2022年10月07日
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神秘学概論-序言 七版から十五版での序言(一九二○年)[旧版からの変更]ー4 第一章「神秘学の性格」人間性の本質 <人間に於ける体の三分肢と、魂の三分肢。四つの人間本性> 人間の「肉体」は、死すれば鉱物と同じあり方(*有り様)を示すようになる。即ち、人間を鉱物と区別するところのものは、肉体以外の人間本性である。生きている人間に於いては、感覚的な認識からは隠されている部分が肉体の鉱物的な素材の力に抵抗している。此の肉体を崩壊させぬように働き掛けているものを「エーテル体」、或いは「生命体」と呼ぶ。このエーテル体は、感覚的な認識によってはその作用、即ち肉体内に存在する鉱物素材に一定の生きた形態を与える働きしか認めることが出来ない。そして肉体の各部はエーテル体の各部の働きによって維持されている。人間は肉体を鉱物と共有しているように、エーテル体を植物と共有している。そして全ての生き物は、エーテル体を保持していると言ってよい。 肉体のみを備えた人間が死の状態にあるように、肉体とエーテル体のみを備えた人間は、眠りの状態にある。この没意識状態から意識を目覚めさせるものが、超感覚的な認識の意味での第三の人間本性、即ち「アストラル体」である。人間が睡眠するとき、アストラル体はエーテル体と離れて存在している。人間はこのアストラル体を、動物と共有している。それ故、植物は常に睡眠状態にあると言える。神秘学は、体はこれら肉体・エーテル体・アストラル体の三分肢から成立すると語る。 第四の人間本性が「自我」である。これこそが、動物と人間を決定的に分かつものである。自我は、想起を可能にする。これの働き掛け故にこそ、人間は体験している対象が変化することを理解できるようになる。自我を持たない諸動物は、如何に記憶力を有しているように見えようとも、それを有してはいない。この自我が人間から離れるとき、そのことは忘却という現象として知られることになる。 さて、ここに至って体的なものと魂的なものとを区別することが出来る。自己にとって外的な対象を意識に現れさせる働きを持つアストラル体は体的であり、その意識を持続させるものは、魂なのである。例えば、記憶(*自我の要素)は外的な対象が去っても、その印象を呼び起こすことが出来る。とは云え、感覚的な対象についてはアストラル体とそのための魂が深く結びついているため、アストラル体を「魂体」と呼び、アストラル体に結びついている魂を「感覚魂」と呼ぶことも出来る。一方自我は、感覚的なものについての記憶を利用しながらその記憶について思考することが出来る。そのため、これには「感覚魂」ではなく、「悟性魂」もしくは「心情魂」の名を与えておこう。そして「意識魂」と神秘学が呼ぶ魂の部分がある。これは、その当人のみが名指すことの出来る魂の部分「個としてのわたくし」の自分であり、これは魂の外と何らの関わりを持たない。その意味で、この部分は神に擬えるることが出来る。神秘学は魂を、これら感覚魂・悟性魂・意識魂の三分肢から成立していると述べる。哲学・思想ランキング
2022年10月06日
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神秘学概論-序言 七版から十五版での序言(一九二○年)[旧版からの変更]ー3 第一章「神秘学の性格」[神秘学の対象]二つのテーゼ、人々への寄与、教授の順序] 神秘学は、次の二つのテーゼ(*定立された命題)を基礎とする。即ち、(Ⅰ) 可視的な世界の背後には不可視的な世界があり、はじめには感覚とその感覚に結びついた思考にとって隠された世界であるということと。(Ⅱ) 人間の中に微睡んでいる能力を開発すれば、この隠された世界に参入することが万人にとって可能であるということである。感覚世界の諸事象を認識する方法のみが人間にとって可能な認識方法であると考え、否定的な意見に固執する人は、他の認識の方法があるということを知るべきであり、少なくとも自分の知らないこと、超感覚的世界の内容について、それが存在するかしないかを(*通俗的な常識的前提判断から)云々してはいけない。また、超感覚的世界の内容へは個々の人がそれぞれ自分で到達しなければならないとは云え、その方法が成功すれば、各人の理解は一致する筈である。人々の見解に相違があるとしたら、それは学問的に確かな方法に沿っていないからである。 霊学による認識は、人々の人生に幸せを与える。そればかりではなく、全世界の幸福とも関わっている。神秘学的な考察を経れば、己の力を正しい仕方で発揮できていない人物は世界中のあらゆる存在に害を与えていると理解できるようになる。超感覚的なものの認識は人々に強さと確かさを与え、人々はそこから慰めと力づけとを得る。 本書はまず、超感覚的な世界の内容を語る(第一部)。そしてそののちにその内容を得る方法を語る(第二部)。まず読者は、超感覚的な世界についての共同認識者となり、次いで超感覚的な世界に於ける自立した認識者となるのである。哲学・思想ランキング
2022年10月05日
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神秘学概論-序言 七版から十五版での序言(一九二○年)[旧版からの変更]ー2 第一章「神秘学の性格」[神秘学の対象]探求の方法、自然科学との差異|二つのテーゼ、人々への寄与、教授の順序] 神秘学が対象とするのは、感覚及び感覚に結びついた思考でもって宇宙を認識するときには必ず抜け落ちてしまうようなものである。感覚には開示されずに残るものを、「神秘のもの(*ものごと)」と呼んでいるのである。神秘学は、これを開示し、適切な認識の仕方を教え、「秘密」でなくする(*究明する)学である。ここで問う、学問(*論理的科学)はその対象によってではなく、その方法によってそれ以外と区別されるべきものであると想定している。我々は、自然物の認識に於いては、その対象によっては、より良く導かれていると思われる。即ち、その対象を当て込みや偏見によって歪曲して受け取ることが少ないといえる。神秘学的な探求を行うときにもこのような態度が必要である。これが成功するときには、誰しもが納得するような、超感覚的世界に関する事実を得ることが出来る。霊学(*神秘学)と自然科学との差異は、その入門段階に於いて顕著に表れる。それは、神秘学の対象が、魂の活動に存しているからである。霊学が事実として述べ挙げるのは、魂の活動を通してしか知覚することの出来ないものである。それ故、霊学者はそれを発見する手段についても語る。魂が如何に活動すればそれを発見することが出来るかということが、即ちその事実の証明として機能するからである。感覚的な諸事象についての著作はその対象について述べるが、神秘学書は読者にその対象の事実を体験させる。哲学・思想ランキング
2022年10月04日
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神秘学概論-まえがき 初版のまえがき(一九○九年)[否定派への反論と、肯定派への諫め(たしなめ)] 本書のような内容を持つ書物を世に出す際には、世人から頭ごなしに否定される可能性があるということは承知している。しかし本書は、私がかつて従事していた物理学の研究から得た現実の、例えば(*物理科学上の)熱に関する事柄を、霊学の立場から述べ直しているに過ぎない。そしてその内容は、哲学の領域に於ける吟味にも耐え得るものである。私はこれまでに哲学的な著作を発表してきたが、それらと、本書は矛盾するものではない。その一方で、本書を鵜呑みにしたがる読者も注意すべきである。というのも、本書の内容は盲信すべきものではなく、寧ろ、感覚世界に)囚われぬ理性と健全な真理感情で以て、理解すべきものだからである。 四版のまえがき(一九一三年)[超感覚的世界への参入可能性と、超感覚的認識の客観性] 超感覚的世界に関する事柄を知ることは人間の知性には出来得ないと思うのは間違っている。まず少なくとも人生の意義という問題はこの超感覚的世界と関わりを持たない限り解くことの出来ぬものである。そして、たしかに通常の科学研究に使用するような認識は感覚的な世界に限界付けられており、それを越えることは出来ないにせよ、人間の認識能力を強化することは出来る。生物の細胞を研究する際の状況が類比的である。たしかに肉眼では細胞を検分することが出来ないが、我々の認識は肉眼でのものに留まらない。その際の方法が、本書で述べる瞑想並びに集中なのである。本書の「高次の諸世界の認識」に於いて述べられる内容は、個々其れ其れの人の区別を超えて、誰にとっても同じ仕方で現れるものである。そしてその故に、この「超感覚的認識」は単なる主観的で神秘的な体験とは異なる。本書が語る内容は、客観的なものとして体験されるのである。たとえ現代の思考習慣からすれば理解しがたいかも知れないがである。哲学・思想ランキング
2022年10月03日
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5. 人聞を神的世界へと導くー2 人聞が自らの心魂のなかで認識でき得たものと、キリスト教が神と名づけるものとのあいだには大きな乖離がある。それは、知識と信仰の隔たり 、認識と宗教的感受との隔たりである。古代の密儀の徒には、この隔たりはなかった。密儀の徒は、自分が神的なものを、段階を追ってしか把握できないと知っており 、なぜそうしかできないのかも知っていたからである。彼等には段階的に体験される神的なもののなかに、本当の生々しい神的なものが存在していることが明らかであるから。彼等には、 一柱の完全な、完結した神について語るのは困難である。密儀の徒は、完結した神を認識しようとはしない。彼等は神的な生命を体験しようとする。彼等は自らを神化しようとする。彼等は神性と外的な関係を持つことを意図しない。この意味で、キリスト教神秘主義は無条件のものではない。これがキリスト教の本質になったのをシュタイナーを批判するのです。シュタイナーにとっての神とは、外にある絶対的、超人的な神ではなく、人間の内奥の自己と等身大の神、「神的な生命」存在なのです。彼シュタイナーは人間夫々ひとりの個体・個性こそが存在の条件であると考えているのであす。観念的なものを重要視しつつも、観念の世界に浸るのではなく、現実の世界で生きる人聞としての生をも重視する。意志・感情・思考を含め人間の主体性から出てくるものが中心となり、外なる神はその人間を助ける存在として解釈されのです。シュタイナーーの考える神とは、人間を越えて人間の外に構えるキリスト教の神ではなく、古代ギリシアの密儀精神が見い出した、人間と等身大の人間の内部にある神を意味しするのです。哲学・思想ランキング
2022年10月02日
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5. 人聞を神的世界へと導くー1 シュタイナーは、自己修練・自己認識を通して宇宙と繋がり、内部に神性を感得する体験を、シュタイナーは古代ギリシアの密儀宗教の体験と同質のものだと考えいたふしがあります。但し、そうした体験により感得した自らの内部に芽生えた神性は、キリスト教の源であると論じた神智学協会入会直前に行った講演 「神秘的事実としてのキリスト教と古代の秘儀」で、古代ギリシアの密儀精神で見い出される神性をキリスト教の源泉であると論じています。その講演前半では、シュタイナーは、プラトン(紀元前 428頃 348頃)の神秘思想を中心に、へラクレイトス(紀元前 535-475)などプラトン以前の哲学者の思想を吟味し、古代ギリシアの哲学者にとって神秘的認識が、いかに重要であったかを語っているます。後半では、プラトン神秘思想がフィロン(紀元20年頃-40年頃) を通しどのように福音書の成立に影響したかを述べながら、「キリスト教はゆっくりと密儀から芽生え、密儀の叡智がキリスト教の言葉を纏うと結論づけています。シュタイナーは初期グノーシスを含め、後のキリスト教神秘主義者らを好意的に見立てていました。然し乍ら、彼らが自己の外に絶対的な神をおくことについては批判的でした。シュタイナーによれば、自らの中に「自分の神性」しか見出せないものに、グノーシス教派は外なる神へ自己を近づけようと絶え間ない努力を続けるが、神と自己の神性の隔たりは縮まるわけもない。この縮まらないことが、神の存在の証明とされていると批判したのです。哲学・思想ランキング
2022年10月01日
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