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神の存否-395 第四部定理八 善および悪の認識は、我々に意識された限りにおける喜びあるいは悲しみの感情にほかならない。 証明 我々は我々の存在の維持に役立ちあるいは妨げるものを(この部第四部の定義一 善とはそれが我々に有益であることを我々が確知するものと解する。および同じく同部の定義二 これに反して、悪とは、我々がある善を所有するのに妨げとなることを我々が確知するものと解する。により)、言いかえれば(第三部定理七 精神の能動は妥当な観念のみから生じ、これに反して受動は非妥当な観念のみに依存する。により)我々の活動能力を増大しあるいは減少し、促進しあるいは阻害するものを善あるいは悪と呼んでいる。我々はこうしてある物が我々を喜びあるいは悲しみに刺激することを知る限りにおいてそのものを善あるいは悪と呼ぶのである。喜びおよび悲しみの定義による。第三部定理一一の備考におけるその定義 喜び・悲しみ・欲望のほかには私は何ら他の基本的感情を認めない。を見よ)。したがって善および悪の認識は、喜びあるいは悲しみの感情そのものから必然的に生ずる喜びあるいは悲しみの観念にほかならない(第二部定理二二 人間精神は、身体の変状〔刺激状態〕のみならずこの変状の観念をも知覚する。により)。ところでこの観念は、精神が身体と合一しているのと同じ仕方で感情と合一している(第二部定理二一 精神のこの観念は、精神自身が身体と合一しているのと同様の仕方で精神と合一している。により)。言いかえれば(同定理の備考 抜粋:精神の観念と精神自身とは同一の必然性をもって同一の思惟能力から神の中に生ずるのである。で示したように)この観念は感情自身と、すなわち、身体的変状の観念と、実は単なる概念によって区別されるのみである。ゆえに善および悪の認識は、我々に意識された限りにおける感情そのものにほかならない。Q・E・D・此れが証明すべきことであった。哲学・思想ランキング
2022年04月30日
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神の存否-394 第四部定理七 証明:後半部 したがって、精神がある感情に捉われる場合、それとともに身体は自己の活動能力を増大しあるいは減少するある変状に移る。なおまた身体のこの変状は(この部第四部の定理五 おのおのの受動の力および発展、ならびにそれの存在への固執は、我々が存在に固執しようと努める能力によっては規定されずに、我々の能力と比較された外部の原因の力によって規定される。により)自己の有に固執する力をその原因から受ける。ゆえにこの変状は、それと反対の第三部定理五(物は一が他を滅ぼしうる限りにおいて相反する本性を有する。言いかえればそうした物は同じ主体の中に在ることができない。)、且つ、それよりも強力な(この部第四部の公理 自然の中にはそれよりもっと有力でもっと強大な他の物が存在しないようないかなる個物もない。どんな物が与えられても、その与えられた物を破壊しうるもっと有力な他の物が常に存在する。)により、変状を身体に起こさせるある物体的原因(第二部定理六 おのおのの属性の様態は、それが様態となっている属性のもとで神が考察される限りにおいてのみ神を原因とし、神がある他の属性のもとで考察される限りにおいてはそうでない。)によるのでなくては抑制されることも除去されることもできない。 そしてこれにつれて(第二部定理一二 人間精神を構成する観念の対象の中に起こるすべてのことは、人間精神によって知覚されなければならぬ。あるいはその物について精神の中に必然的に観念があるであろう。言いかえれば、もし人間精神を構成する観念の対象が身体であるならその身体の中には精神によって知覚されないような〈あるいはそれについてある観念が精神の中にないような〉いかなることも起こりえないであろう。)、精神は前のよりも強力なかつ前のと反対のある変状の観念に刺激されるであろう。言いかえれば(上記:第三部の終りにある感情の総括的定義感情の総括的定義により)精神は前のよりも強力なかつ前のと反対のある感情に、すなわち前の感情の存在を排除ないし除去する凍る感情に刺激されるであろう。これで見ると感情はそれと反対のかつそれよりも強力なある感情によってでなくては除去されることも抑制されることもできない。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。 系 感情は、精神に関する限り、我々に起こっている身体的変状と反対のかつそれよりも強力なある変状の観念によってでなくては抑制されることも除去されることもできない。なぜなら、我々を支配している感情は、それよりも強力でかつそれと反対のある感情によってでなくては抑制されることも除去されることもできないのであるが(前定理六 ある受動ないし感情の力は人間のその他の働きないし能力を凌駕することができ、かくてそのような感情は執拗に人間につきまとうことになる。により)、それはつまり(上記:第三部の終りにある感情の総括的定義感情の総括的定義により)、我々に起こっている身体的変状よりも強力でかつそれと反対のある変状の観念によってでなくては抑制されることも除去されることもできないというのと同じことだからである。哲学・思想ランキング
2022年04月29日
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神の存否-393 第四部定理七 感情はそれと反対のかつそれよりも強力な感情によってでなくては抑制されることも除去されることもできない。 証明:前半部 感情とは、精神に関する限り、ある観念、精神がそれによって自己の身体につき以前より大なるあるいは以前より小なる存在力を肯定するある観念である(第三部の終りにある感情の総括的定義 精神の受動状態(アニミ・パテマ)と言われる感情は、ある混乱した観念、精神がそれによって自己の身体あるいはその一部分について、以前より大なるあるいは以前より小なる存在力を肯定するような、また精神自身がそれの現在によってあるものを他のものよりいっそう多く思惟するように決定されるような、ある混乱した観念である。説明 私はまず感情あるいは精神の受動は「ある混乱した観念」であると言う。なぜなら、すでに我々の示したように、精神は非妥当な観念あるいは混乱した観念を有する限りにおいてのみ働きを受けるからである。次に私は「精神がそれによって自己の身体あるいはその一部分について以前より大なるあるいは以前より小なる存在力を肯定する」という。なぜなら諸物体について我々の有するすべての観念は外部の物体の本性よりも我々の身体の現実的状態をより多く表示するものであるが、特に感情の形相を構成する観念は、身体あるいはその一部分の活動能力あるいは存在力が増大しあるいは減少し、促進されあるいは阻害されるにつれて、身体あるいはその一部分が呈する状態を表示ないし表現しなければならぬからである。しかし注意すべきことは、私が「以前より大なるあるいは以前より小なる存在力」と言っているのは、精神が身体の現在の状態を過去の状態と比較するという意味ではなく、むしろ感情の形相を構成する観念が身体について以前より大なるあるいは以前より小なる実在性を実際に含むようなあるものを肯定するという意味だということである。そして精神の本質は精神が自己の身体の現実的存在を肯定する点に存するし、また我々は完全性ということを物の本質そのものと解するから、したがって精神が自己の身体あるいはその一部分について、以前より大なるあるいは以前より小なる実在性を含むようなあるものを肯定するごとに、精神はより大なるあるいはより小なる完全性に移行することになる。だから私がさきに、精神の思惟能力が増大しあるいは減少するとよく言ったのも、精神が自己の身体あるいはその一部分について、以前に肯定したよりもより大なるあるいはより小なる実在性を表現するような観念を形成する、という意味にほかならなかったのである。なぜなら、観念の価値とその現実的な思惟能力は、対象の価値によって評価されるからである。 最後に私が「精神自身がそれの現在によってあるものを他のものよりいっそう多く思惟するように決定される」と付加したのは、定義の始めの部分に説明されている喜びおよび悲しみの本性のほかに、欲望の本性も表現しようとしたためであった。)により。哲学・思想ランキング
2022年04月28日
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神の存否-392 第四部定理六 ある受動ないし感情の力は人間のその他の働きないし能力を凌駕することができ、かくてそのような感情は執拗に人間につきまとうことになる。 証明 おのおのの受動の力および発展ならびにそれの存在への固執は我々の能力と比較された外部の原因の力によって規定される(前定理五 おのおのの受動の力および発展、ならびにそれの存在への固執は、我々が存在に固執しようと努める能力によっては規定されずに、我々の能力と比較された外部の原因の力によって規定される。により)。したがって(この部の定理三 人間が存在に固執する力は制限されており、外部の原因の力によって無限に凌駕される。により)その力は人間の能力を凌駕することができ、云々。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。 記:例えば、現実主義者が如何様に解釈しようと、神秘体験の当事者を考察すれば、其れは体験者自身にとっては実体験であり他の人間の侵犯を許さない、精神感情はもとより深奥たる心の聖域となります。此れを他者、社会的体制が否定するのは恐らくいかなる方法も功を奏することはなく、解決は有り得ません。神秘体験の神秘たる所以です。例:旧約聖書の神の顕現・キリストの復活・預言者ムハンマドの啓示を筆頭に世界には多くの神秘体験者が在り、其の体験は人間の精神感情の深奥を支配する基底となることは誰しもが疑問を持ち得ません。哲学・思想ランキング
2022年04月27日
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神の存否-391 第四部定理五 おのおのの受動の力および発展、ならびにそれの存在への固執は、我々が存在に固執しようと努める能力によっては規定されずに、我々の能力と比較された外部の原因の力によって規定される。 証明 受動の本質は単に我々の本質のみによって説明されることができぬ(第三部定義一 ある原因の結果がその原因だけで明瞭判然と知覚されうる場合、私はこの原因を妥当な〔十全な〕原因と称する。これに反して、ある原因の結果がその原因だけでは理解されえない場合、私はその原因を非妥当な〔非十全な〕原因あるいは部分的原因と呼ぶ。および、第三部定義二 我々自らがその妥当な原因となっているようなある事が我々の内あるいは我々の外に起こる時、言いかえれば(先に掲げた前定義により)我々の本性のみによって明瞭判然と理解されうるようなある事が我々の本性から我々の内あるいは我々の外に起こる時、私は我々が働きをなす〔能動〕と言う。これに反して、我々が単にその部分的原因であるにすぎないようなある事が我々の内に起こりあるいは我々の本性から起こる時、私は我々が働きを受ける〔受動〕と言う。により)。言いかえれば(第三部定理七 おのおのの物が自己の有に固執しようと努める努力はその物の現実的本質にほかならない。により)受動の力は我々が存在に固執しようと努める能力によっては規定されず、むしろ(第二部定理一六 人間身体が外部の物体から刺激(アフィキトゥル)されるおのおのの様式の観念は、人間身体の本性と同時に、外部の物体の本性を含まなければならぬ。において示したように)必然的に、我々の能力と比較された外部の原因の力によって規定されなければならぬ。Q・E・D・此れが証明すべきことであった。哲学・思想ランキング
2022年04月26日
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神の存否-390 第四部定理四 人間が自然の一部分でないということは、不可能であり、また人間が単に自己の本性のみによって理解されうるような変化、自分がその妥当な原因であるような変化だけしか受けないということも不可能である。 証明 個物が、したがってまた人間が、自己の有を維持する能力は神あるいは自然の能力そのものであるが(第一部定理二四の系により)、しかしそれは無限なる限りにおける神あるいは自然の能力そのものではなく、人間の現実的本質によって説明されうる限りにおける神あるいは自然の能力そのものである(第三部定理七により)。ゆえに人間の能力はそれが彼の現実的本質によって説明される限り、神あるいは自然の無限なる能力の、言いかえれば(第一部定理三四 神から産出された物の本質は存在を含まない。により)神あるいは自然の無限なる本質の一部分である。これが第一の点であった。注* 神即自然・人間の能力 次にもし人間が単に彼自身の本性のみによって理解されうるような変化だけしか受けないということが可能であるとしたら、人間は(第三部定理四 いかなる物も、外部の原因によってでなくては滅ぼされることができない。および第三部定理六 おのおのの物は自己の及ぶかぎり自己の有に固執するように努める。により)滅びえずして必然的に常に存在することになるであろう。そしてこのことは有限な能力を有する原因からかあるいは無限な能力を有する原因から起こらなければならぬであろう。すなわち単なる人間の能力によるか云々。この場合は人間は外部の原因から生じうる他の諸変化を退ける力を有することになろう。あるいは自然の無限なる能力によるか云々。この場合は人間が自己の保存に有効な変化だけしか受けないようなふうに自然が一切の個物を導くことになろう。従いてそのどちらかでなければならぬであろう。ところが始めのことは不条理である(前定理第四部定理三 人間が存在に固執する力は制限されており、外部の原因の力によって無限に凌駕される。による。その定理の証明は普遍的であってすべての個物に適用されうるから)。ゆえに人間が単に彼自身の本性のみによって理解されうるような変化だけしか受けず・したがってまた、すでに示したように、必然的に常に存在するということが可能だとしたら、それは神の無限なる能力から起こらなければならぬであろう。したがって(第一部定理一六 神の本性の必然性から無限に多くのものが無限に多くの仕方で(言いかえれば無限の知性によって把握されうるすべてのものが)生じなければならぬ。により)ある人間に発現したと見られる限りにおける神の本性の必然性からして、延長および思惟の属性のもとに考えられた全自然の秩序が導き出されなければならぬであろう。 この帰結として(第一部定理二ー 神のある属性の絶対的本性から生ずるすべてのものは常にかつ無限に存在しなければならぬ、言いかえればそれはこの属性によって永遠かつ無限である。により)人間は無限であることになろう。しかしこれは、この証明の始めの部分により、不条理である。ゆえに自らがその妥当な原因であるような変化だけしか人間が受けないということは不可能なのである。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。 系 この帰結として、人間は必然的に常に受動に隷属し、また自然の共通の秩序(記:物理法則>生命秩序>社会法則)に従い、これに服従し、かつこれに対して自然が要求するだけ順応するということになる。哲学・思想ランキング
2022年04月25日
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神の存否-389第四部定理三 人間が存在に固執する力は制限されており、外部の原因の力によって無限に凌駕される。 証明 この部の公理(自然の中にはそれよりもっと有力でもっと強大な他の物が存在しないようないかなる個物もない。どんな物が与えられても、その与えられた物を破壊しうるもっと有力な他の物が常に存在する。)から明らかである。なぜなら、ある人間が存在するや否やそれよりもっと有力な他のあるもの、例えばAが存在し、またAが存在するや否やA自身よりもっと有力な他のもの、例えばBが存在する。このようにして無限に進む。したがって、人間の能力は他の物の能力によって規定され、外部の原因の力によって無限に凌駕される。Q・E・D=此れが証明すべきことであった。 記:此の章は深読みしなければ自然=神を否定しているようにも取れます。与えられた物を破壊しうるもっと有力な他の物が常に存在するとは究極に神を予期しているのか、「自然の中」とは文字通り「自然=神の内なる中」を指すのでしょうか。「常に存在する」との文言も気懸かりです。スピノザは神そのものが全てであり外部の原因の力を否定していた筈ですから「有・常」としての神は。スピノザの世界の構図、有==常住=世界=宇宙=自然≒物理的法則に従えば、人間の精神感情に限った発言と取るべきでしょう。此れはスピノザの人間認識論に余りにも固執したことから出てくる見解なのかどうか。スピノザが後世の神学論者か唯物論者なのかの論争は起こるべくして起こったことも頷けます。哲学・思想ランキング
2022年04月24日
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神の存否-388 第四部定理二 我々は、他の物なしに自分自身だけで考えられることができないような自然の一部分である限りにおいて働きを受ける。 証明 我々がその部分的原因にすぎないようなあることが我々の中に生ずる場合(第三部定義二 我々自らがその妥当な原因となっているようなある事が我々の内あるいは我々の外に起こる時、言いかえれば(前定義により)我々の本性のみによって明瞭判然と理解されうるようなある事が我々の本性から我々の内あるいは我々の外に起こる時、私は我々が働きをなす〔能動〕と言う。これに反して、我々が単にその部分的原因であるにすぎないようなある事が我々の内に起こりあるいは我々の本性から起こる時、私は我々が働きを受ける〔受動〕と言う。により)、言いかえれば(第三部定義一 ある原因の結果がその原因だけで明瞭判然と知覚されうる場合、私はこの原因を妥当な〔十全な〕原因と称する。これに反して、ある原因の結果がその原因だけでは理解されえない場合、私はその原因を非妥当な〔非十全な〕原因あるいは部分的原因と呼ぶ。により)我々の本性の法則のみからは導き出されえないようなあることが我々の中に生ずる場合、我々は働きを受けると言われる。ゆえに我々は、他の物なしに自分自身だけで考えられることができないような自然の一部である限りにおいて働きを受ける。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。哲学・思想ランキング
2022年04月23日
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神の存否-387 第四部定理一 備考 この第四部定理一は第二部定理一六の系二(抜粋:第二に、我々が外部の物体について有する観念は外部の物体の本性よりも我々の身体の状態をより多く示すということになる)からいっそう明瞭に理解される。すなわち表象は、外部の物体の本性よりもより多く人間身体の現在的状態を知悉する云々。しかも判然とではなく、混乱して曖昧な云々、表示する観念である。精神が誤ると言われるのはこれから起こる。例えば我々が太陽を観る場合、それが我々から約二百フィート隔たっていると表象する。我々は太陽の真の距離を知らない間はこのことについて誤っている。しかし我々がその距離を知ったとすれば、誤謬は除去されるが、表象は、言いかえれば太陽の観念身体への刺激云々、身体が太陽から刺激される限りにおいてのみ太陽の本性を表示するような表象そのもの云々、は除去されない。したがって我々は、たとえ太陽の真の距離を知っても、太陽が依然として我々の近くにあるように表象するであろう。なぜなら、第二部定理三五の備考(抜粋:もしあとで我々が太陽は地球の直径の六百倍以上も我々から離れていることを認識しても、我々はそれにもかかわらずやはり太陽を近くにあるものとして表象するであろう。なぜなら、我々が太陽をこれほど近いものとして表象するのは、我々が太陽の真の距離を知らないからではなく、我々の身体の変状〔刺激状態〕は身体自身が太陽から刺激される限りにおいてのみ太陽の本質を含んでいるからである。)で述べたように、我々が太陽をこれほど近いように表象するのは、太陽の真の距離を知らないからではなく、精神は身体が太陽から刺激される限りにおいて太陽の大きさを考えるからである。同様に、太陽の光線が水面に落ちてそこから我々の目に反射して来る場合、我々は太陽の真の場所を知っていながらも、それがあたかも水中にあるかのように表象する。精神を誤らしめるその他の表象についても同じことが言われるのであって、それらの表象は、身体の自然的状態を表示していようと身体の活動能力の増大ないし減少を表示していようと、真なるものに矛盾せずまた真なるものの現在によって消失しない。なるほど、我々が誤ってある害悪を恐れる場合に、真の報告を聞いて恐怖が消失するということはありうる。しかし反対に、我々が確実に生起する尊意を恐れる場合、誤った報告を聞いて恐怖が同様に消失する、ということも等しく起こりうる。したがって表象は、異なるものが真であるというだけで真なるものの現在によって消失するのではなく、むしろ、第二部定理一七(もし人間身体がある外部の物体の本性を含むような仕方で刺激されるならば、人間精神は、身体がこの外部の物体の存在あるいは現在を排除する刺激を受けるまでは、その物体を現実に存在するものとして、あるいは自己に現在するものとして、観想するであろう。)で示したように、我々の表象する事物の現在する存在を排除するより強力な他の表象が現われることによって消失するのである。哲学・思想ランキング
2022年04月22日
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神の存否-386 定理一 誤った観念が有するいかなる積極的なものも、真なるものが真であるというだけでは、真なるものの現在によって除去されはしない。 証明 誤謬〔誤謬〕は単に非妥当な観念が含む認識の欠乏のみに存する(第二部定理三五 虚偽〔誤謬〕とは非妥当なあるいは毀損し・混乱した観念が含む認識の欠乏に存する。)により、そしてそれらの観念はそれを誤りといわしめるような積極的なものは何も有しない(第二部定理三三 観念の中にはそれを虚偽と言わしめるような積極的なものは何も存しない。により)。むしろ反対にそれらの観念は神に関する限り真である(第二部定理三二すべての観念は神に関係する限り真である。により)。だからもし誤った観念が有する積極的なものが、真なるものが真であるというだけで異なるものの現在によって除去されるとしたら、真なる観念が自分自身によって除去されることになろう。これは(第三部定理四 いかなる物も、外部の原因によってでなくては滅ぼされることができない。)により不条理である。ゆえに誤った観念が有するいかなる積極的なものも(証明 この定理はそれ自体で明白である。なぜなら、おのおのの物の定義はその物の本質を肯定するが否定しない。あるいはその物の本質を定立するが除去しない。だから我々が単に物自身だけを眼中に置いて外部の諸原因を眼中に置かない間は、その物の中にそれを滅ぼしうるようないかなるものも我々は見いだしえないであろう。)Q・E・D・此れが証明すべきことであった。哲学・思想ランキング
2022年04月21日
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神の存否-385 第四部 人間の隷属あるいは感情の力について 公 理 自然の中にはそれよりもっと有力でもっと強大な他の物が存在しないようないかなる個物もない。どんな物が与えられても、その与えられた物を破壊しうるもっと有力な他の物が常に存在する。 *此の公理はスピノザの云う「神=世界=宇宙=自然≒物理的法則」にはそぐわないように見えます。世界がマルチ・バースで成り立っていようと、ユニ・バースであろうとスピノザの云う神は「有」であり永劫不朽の時空間を呑み込んだ実体であるはずです。此の公理の自然とは一体全体何ものを指しているのでしょうか、此処に云う「個物とは世界≠神」だとでも理趣を変えたのか。「自然の中には」との訳文が気に入りません{神の中には」と置き換えたくなります。スピノザが云う神が「神=世界=宇宙≒物理的法則」を超えた世界外存在である筈はないと確信するからです。此の公理は、自然の中にはそれよりもっと有力でもっと強大な他の物が存在しないようないかなる個物、即ち被造物はない。どんな物が与えられても、その与えられた物を破壊しうるもっと有力な他の物が常に存在するは世界内の個々の存在に限定する。即ち、神以外の常住の否定、神の思惟と延長の捉え人間感情に移入したものと捉えます。スピノザは「神=世界=宇宙≒物理的法則=個物」ではなく「神=無限=世界=宇宙≒物理的法則=無限・偏在」のなにものかと思考していると捉えます。哲学・思想ランキング
2022年04月20日
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神の存否-384 第四部 人間の隷属あるいは感情の力について 定 義 一 善とは、それが我々に有益であることを我々が確知するもの、と解する。 二 これに反して、悪とは、我々がある善を所有するのに妨げとなることを我々が確知するもの、と解する。 この二つについては前の序言の終り(抜粋:善とは我々が我々の形成する人間本性の型にますます近づく手段になることを我々が確知するものであると解するであろう。これに反して、悪とは我々がその型に一致するようになるのに妨げとなることを我々が確知するものであると解する)を見よ。 三 我々が単に個物の本質のみに注意する場合に、その存在を必然的に定立しあるいはその存在を必然的に排除する何ものをも発見しない限り、私はその個物を偶然的と呼ぶ。 四 その個物が産出されなければならぬ原因に我々が注意する場合に、その原因がそれを産出するように決定されているか否かを我々が知らぬ限り、私はその同じ個物を可能的と呼ぶ。 第一部定理三三の備考一(抜粋:その本質が矛盾を含むことを我々が知らないような物、あるいはその物が何の矛盾も含まないことを我々がよく知っていてもその原因の秩序が我々に分からないためにその物の本質について何ごとも確実に主張しえないような物、そうした物は我々に必然であるとも不可能であるとも思われないので、したがってそうした物を我々は偶然とか可能とか呼ぶのである。)においては可能的と偶然的との間に何の差異も設けなかった。これはそこではこの二つを精密に区別する必要がなかったからである。 五 相反する感情ということを、私は以下において、人間を異なった方向へ引きずる感情のことと解するであろう。これは共に愛の種類である美味欲と食欲のごとくたとえ同じ類に属するものであってもかまわない。この場合は本性上相反するのではなく偶然によって相反するのである。 六 未来・現在・および過去の物に対する感情ということを私がどう解するかは第三部定理一八の備考一(抜粋:物を過去のものとか未来のものとか呼ぶのは、我々がその物によって刺激されたかあるいは刺激されるであろう限りにおいてである。)および同じく定理一八の備考二(我々は希望、恐怖、安堵、絶望、歓喜および落胆の何たるかを理解する。すなわち希望とは我々がその結果について疑っている未来または過去の物の表象像から生ずる不確かな喜びにほかならない。これに反して恐怖とは同様に疑わしい物の表象像から生ずる不確かな悲しみである。さらにもしこれらの感情から疑惑が除去されれば希望は安堵となり、恐怖は絶望となる。すなわちそれは我々が希望しまたは恐怖していた物の表象像から生ずる喜びまたは悲しみである。次に歓喜とは我々がその結果について疑っていた過去の物の表象像から生ずる喜びである。最後に落胆とは歓喜に対立する悲しみである。)において説明した。そこを見よ。 しかしここになお注意しなければならぬことがある。それは我々は、時間的距離を、空間的距離の場合と同様、ある一定の限界までしか判然と表象しえないことである。すなわち、我々から二百フィート以上も離れているすべての対象、あるいはその距離が我々の判然と表象する距離以上に我々の居る場所から隔たっているすべての対象を、我々は我々から等しい距離で隔たりかつ同一の平面にあるかのように表象するのを常とするが、これと同様に、その出現の時間が我々の通常判然と表象する間隔よりもいっそう長い間隔で現在から隔たっていると表象されるすべての対象を、我々は現在から等しい時間的距離で隔たっているように表象し、これをいわば一時点に帰するのである。 七 我々をしてあることをなさしめる目的なるものを私は衝動と解する。 八 徳と能力とを同一のものと私は解する。言いかえれば(第三部定理七(おのおのの物が自己の有に固執しようと努める努力はその物の現実的本質にほかならない。)により、人間について言われる徳とは、人間が自己の本性の法則のみによって理解されるようなあることをなす能力を有する限りにおいて、人間の本質ないし本性そのもののことである。哲学・思想ランキング
2022年04月19日
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神の存否-383 第四部序言の後半部:善および悪 善および悪に関して言えば、それらもまた、事物がそれ自体で見られる限り、事物における何の積極的なものも表示せず、思惟の様態、すなわち我々が事物を相互に比較することによって形成する概念にほかならない。なぜなら、同一事物が同時に善および悪、ならびに、善悪いずれにも属さない中間物でもありうるからである。例えば、音楽は憂鬱の人には善く、悲傷の人には悪しく、聾者には善くも悪しくもない。事情はかくのごとくであるけれどもしかし、我々はこれらの言葉を保存しなくてはならぬ。なぜなら、我々は、眺めるべき人間本性の型として、人間の観念を形成することを欲しているので、これらの言葉を前に述べたような意味において保存するのは我々にとって有益であるからである。 そこで私は以下において、善とは我々が我々の形成する人間本性の型にますます近づく手段になることを我々が確知するものであると解するであろう。これに反して、悪とは我々がその型に一致するようになるのに妨げとなることを我々が確知するものであると解するであろう。さらに我々は、人間がこの型により多くあるいはより少なく近づく限りにおいて、その人間をより完全あるいはより不完全と呼ぶであろう。というのは、私が「ある人がより小なる完全性からより大なる完全性へ移る、あるいは反対により大なる完全性からより小なる完全性へ移る」と言う場合、それは「彼が一つの本質ないし形相から他の本質ないし形相に変化する」という意味で言っているのではなく、なぜなら例えば馬が人間に変化するならそれは昆虫に変化した場合と同様に馬でなくなってしまうから、単に「彼の活動能力、彼の本性を活動能力と解する限りにおいて、彼の活動能力が増大しあるいは減少すると考えられる」という意味で言っているのであって、この点は特に注意しなければならぬ。 最後に私は、一般的には、完全性を、すでに述べたように、実在性のことと解するであろう。言いかえれば、おのおのの物がある仕方で存在し作用する限りにおいて、その物の本質のことと解するであろう。そしてこの際その物の持続ということは考慮に入れない。なぜなら、いかなる個物も、それがより長い時間のあいだ存在に固執したゆえをもってより完全だとは言われえないからである。事物の本質には何ら一定の存在時間が含まれていない以上、事物の持続はその本質からは決定されえないのだから。むしろおのおのの事物は、より多く完全であってもより少なく完全であっても、それが存在し始めたのと同一の力をもって常に存在に固執することができるであろう。したがってこの点においてはすべての物が同等なのである。 *有と持続として捉えられる時間の特性。哲学・思想ランキング
2022年04月18日
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神の存否-382 第四部序言の中文の後半部:人間精神・感情の起生原因の主旨*記 ところで目的原因と呼ばれている原因は、人間の衝動が何らかの物の原理ないし第一原因と見られる限りにおいて人間の衝動そのものにほかならない。例えば「居住する」ということがこれこれの家屋の目的原因であったと我々が言うなら、たしかにそれは、人間が屋内生活の快適さを表象した結果、家屋を建築しようとする衝動を有した、という意味にほかならない。ゆえにここに目的原因として見られている「居住する」ということは、この特定の衝動にほかならないのであり、そしてこの衝動は実際に起成原因なのである。この原因が同時にまた第一原因と見られるのは、人間というものが一般に自己の衝動の原因を知らないからである。すなわち、すでにしばしば述べたように、人間は自己の行為および衝動を意識しているが、自分をある物に衝動を感ずるように決定する諸原因は知らないからである。 なおまた自然が時に失敗しあるいはあやまちを犯して不完全な物を産出するという世人の主張を、私は、第一部の付録(要約:人々は生起する一切が自分のために生起すると思いこんでからは、すべての物について、彼らに最も有用な点を重要事とする判断への論駁)において論じたもろもろの虚構的な考えの一つに数える。 このようにして、完全および不完全とは実は単に思惟の様態にすぎない。すなわち我々が同じ種あるいは同じ類に属する個体を相互に比較することによって作り出すのを常とする概念にすぎない。私が先に(第二部定義六 実在性と完全性とは同一のものであると解する。)実在性と完全性とを同一のものと解すると言ったのもこのためである。すなわち我々は自然における一切の個体を最も普遍的と呼ばれる一つの類に、言いかえれば自然におけるありとあらゆる個物に帰せられる有という概念に、還元するのを常とする、こうして自然における個体をこの類に還元して相互に比較し、そしてある物が他の物よりも多くの有性あるいは実在性を有することを認める限り、その限りにおいて我々はある物を他の物よりも完全であると言い、またそれらの物に限界、終局、無能力などのような否定を含むあるものを帰する限りその限りにおいて我々はそれらの物を不完全と呼ぶのである。これを不完全と呼ぶのは、それらの物は我々が完全と呼ぶ物と同じようには我々の精神を動かさないからであって、それらの物自身に本来属すべき何かが欠けているとか、自然があやまちを犯したとかいうためではない。なぜなら、物の本性には、その起成原因の本性の必然性から生ずるもの以外のいかなるものも属さないし、また起成原因の本性の必然性から生ずるものはすべて必然的に生ずるからである。 スピノザの云う神存在を世界=宇宙=自然と捉えれば、宇宙・世界・自然の予定調和説が浮上します。然し乍ら、宇宙は真実、全き交響曲を奏でるのでしょうか。其れには量子理論の不確定性原理やホーキング博士のブラックホールの蒸発理論等の理論物理学が、スピノザの云う神存在を我々の面前に人類に提供する可能性を秘めます。:記哲学・思想ランキング
2022年04月17日
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神の存否-381 第四部序言の中文の前半部 ある物を製作しようと企てそしてそれを完成した人は誰でも、その物が完成された、完全になったと言うであろう。これはその作品の製作者自身ばかりでなく、その製作者の精神ないし意図を正しく知っている者、あるいは知っていると信ずる者はみなそう言うであろう。例えば、ある人がある作品、それがまだ仕上げられていないと仮定する、を見て、その作品の製作者の意図が家を建てることにあると知るならば、その人はその家が完成されていない、不完全であると言うであろうし、これに反して、その作品に製作者の与えようと企てた目的が遂げられたのを見るや否や、それは完成された、完全になったと言うであろう。しかしある人がいまだかつて他に類例を見たことのないようなある作品を見、かつその製作者の精神をも知らない場合には、その人はもちろんその作品が完成されているか完成されていないかを知ることができないであろう。こういうのが完全および不完全という言葉の最初の意味であったように思われる。 しかし人間が一般的観念を形成して家、建築物、塔などの型を案出し、事物について他の型よりもある型を選択することを始めてからというものは、各人はあらかじめ同種の物について形成した一般的観念と一致するように見える物を完全と呼び、これに反してあらかじめ把握した型とあまり一致しないように見えるものを、たとえ製作者の意見によればまったく完成したものであっても、不完全と呼ぶようになった。 もろもろの自然物、すなわち人間の手で製作されたのでないものについても、人々が通常完全とか不完全とか名づけるのはこれと同じ理由からであるように見える。すなわち人間は、自然物についても、人工物についてと同様に一般的観念を形成し、これをいわばそれらの物の型と見なし、しかも彼らの信ずるところでは、これを自然(自然は何ごとも目的なしにはしないと彼らは思っている)が考慮し、型として自己の前に置くというのである。このようにして彼らはあらかじめ同種の物について把握した型とあまり一致しないある物が自然の中に生ずるのを見る時に、自然自身が失敗しあるいはあやまちを犯して、その物を不完全にしておいたと信ずるのである。 これで見ると、人間が自然物を完全だとか不完全だとか呼び慣れているのは、物の真の認識に基づくよりも偏見に基づいていることが分かる。実際、我々は自然が目的のために働くものでないことを第一部の付録で明らかにした。つまり我々が神あるいは自然と呼ぶあの永遠・無限の実有は、それが存在するのと同じ必然性をもって働きをなすのである。事実、神がその存在するのと同じ本性の必然性によって働きをなすことは我々のすでに示したところである(第一部定理一六)。したがって神あるいは自然が何ゆえに働きをなすかの理由ないし原因と、神あるいは自然が何ゆえに存在するかの理由ないし原因とは同一である。ゆえに神は、何ら目的のために存在するのではないように、また何ら目的のために働くものでもない。すなわち、その存在と同様に、その活動もまた何の原理ないし目的も有しないのである。 *スピノザの云う「神即自然」とは実体を自己原因としてとらえ、デカルトにはじまるアリストテレス的実体概念の革命を徹底し,無限に多くの属性から成る唯一の実体を神と呼んだ。いっさいの事物は様態すなわち神の変状であり、神は一切の事物の内在的原因であり、すべての事物は神の必然性によって決定されているとして、神即自然の汎神論的体系を展開し、思惟と延長を神の二つの属性、すなわち同一実体の本質の二つの表現と見て、心身平行論の立場をとり、デカルトの二元論を乗り越えたとされる主張です。こうして彼は自己の個体本質と神との必然的連関を十全に認識するとき、有限な人間は神の無限にあずかり、人間精神は完全な能動に達して自由を実現してそこに最高善が成立すると説いた。汎神論はキリスト教の正統からは変装した無神論として非難され、当時はスピノザを極悪の無神論者と見る見解が支配的であった。後に 1785、,F・H・ヤコビとM・メンデルスゾーンとの間でG・E・レッシングがスピノザ主義者であったか否かについて論争がはじまり,カント哲学の評価ともからんでドイツの知識人の非常な関心をひき,ヘルダー及びゲーテやカントをも巻き込み「神即自然というスピノザ思想の再評価をめぐる大論争に発展し,その過程でスピノザの名誉回復がおこなわれ、ゲーテやヘルダーは彼の影響のもとに汎神論的思想を形成した。これを汎神論論争といいますが、現代量子重力理論では宇宙の始まりがビッグバンを遡りインフレーションそのものを超えた「無」のエネルギーそのものが問われようとしています。量子重力理論では「無」とは数学的「0」ではなく、「点有」としての無限エネルギーを秘めた何者かという、我々の存在の有無の概念を超えた何者か、我々の存在の虚と無の境界も甚だ曖昧となりつつあります。スピノザを超えるのは、宗教なのか哲学なのか、不確定性原理に成り立つ量子理論なのかは、文字通り「神(未来の時or永遠の瞬間)を知る」ものだとも今は待つしかあるまい。哲学・思想ランキング
2022年04月16日
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神の存否-380 第 四 部 第四部 構成序言定義:一、二、三、四、五、六、七、八公理:定理:一、二、三、四、五、六、七、八、九、一〇、一一、一二、一三、一四、一五、一六、一七、一八、一九、二〇、二一、二二、二三、二四、二五、二六、二七、二八、二九、三〇、三一、三二、三三、三四、三五、三六、三七、三八、三九、四〇、四一、四二、四三、四四、四五、四六、四七、四八、四九、五〇、五一、五二、五三、五四、五五、五六、五七、五八、五九、六〇、六一、六二、六三、六四、六五、六六、六七、六八、六九、七〇、七一、七二、七三付録:一、二、三、四、五、六、七、八、九、一〇、一一、一二、一三、一四、一五、一六、一七、一八、一九、二〇、二一、二二、二三、二四、二五、二六、二七、二八、二九、三〇、三一、三二 人間の隷属あるいは感情の力について 序 言第四部序言の前半 感情を統御し抑制する上の人間の無能力を、私は隷属と呼ぶ。なぜなら、感情に支配される人間は自己の権利のもとにはなくて運命の権利のもとにあり、自らより善きものを見ながらより悪しきものに従うようにしばしば強制されるほど運命の力に左右されるからである。私はこの部でこの原因を究め、さらに感情がいかなる善あるいは悪を有するかを説明することにした。しかしこれを始める前にあらかじめ完全性と不完全性、および善と悪について少しく語ってみたい。 *スピノザの思考に影響を与えたのは哲学のみならず詩篇にまで及んでいます。帝政ローマ時代最初期の詩人 プーブリウス・オウィディウス・ナーソー(ラテン語: Publius Ovidius Naso/BC43年3月20日 - AD17年或いは18年)善きものについての詩篇にも興味を惹かれ影響は受けたものと思われる。 *参考:マザー・テレサ #友愛# 人はしばしば、不合理で、非論理的で、自己中心的です。それでも許しなさい。人にやさしくすると、人はあなたに何か隠された動機があるはずだ、と非難するかもしれません。それでも人にやさしくしなさい。成功をすると、不実な友と、本当の敵を得てしまうことでしょう。それでも成功しなさい。正直で誠実であれば、人はあなたをだますかもしれません。それでも正直に誠実でいなさい。歳月を費やして作り上げたものが、一晩で壊されてしまうことになるかもしれません。それでも作り続けなさい。心を穏やかにし幸福を見つけると、妬まれるかもしれません。それでも幸福でいなさい。今日善い行いをしても、次の日には忘れられるでしょう。それでも善を行いを続けなさい。持っている一番いいものを分け与えても、決して十分ではないでしょう。それでも一番いいものを分け与えなさい。信教のみならずスピノザ思考の「エチカ」の幸福論にも相通じる倫理観でしょう。哲学・思想ランキング
2022年04月15日
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神の存否-379 今もし我々がこれら欲望、喜びあるいは悲しみの三つの根本的感情およびさきに精神の本性について述べた事柄に注意するなら、我々は、もっぱら精神に関係する限りにおける諸感情を次のように定義しうるであろう。 感情の総括的定義 精神の受動状態(アニミ・パテマ)と言われる感情は、ある混乱した観念<--中略>、精神がそれによって自己の身体あるいはその一部分について、以前より大なるあるいは以前より小なる存在力を肯定するような、また精神自身がそれの現在によってあるものを他のものよりいっそう多く思惟するように決定されるような、ある混乱した観念である。 説明 私はまず感情あるいは精神の受動は「ある混乱した観念」であると言う。なぜなら、すでに我々の示したように、精神は非妥当な観念あるいは混乱した観念を有する限りにおいてのみ働きを受けるからである(この部第三部の定理三 精神の能動は妥当な観念のみから生じ、これに反して受動は非妥当な観念のみに依存する、を見よ)。 次に私は「精神がそれによって自己の身体あるいはその一部分について以前より大なるあるいは以前より小なる存在力を肯定する」という。なぜなら諸物体について我々の有するすべての観念は外部の物体の本性よりも我々の身体の現実的状態をより多く表示するものであるが(第二部定理一六の系二 第二に、我々が外部の物体について有する観念は外部の物体の本性よりも我々の身体の状態をより多く示すということになる。これは私が第一部の付録(要:スピノザ思考の概念に対する世の諸偏見)の中で多くの例を挙げて説明したところであるにより。、特に感情の形相を構成する観念は、身体あるいはその一部分の活動能力あるいは存在力が増大しあるいは減少し、促進されあるいは阻害されるにつれて、身体あるいはその一部分が呈する状態を表示ないし表現しなければならぬからである。 しかし注意すべきことは、私が「以前より大なるあるいは以前より小なる存在力」と言っているのは、精神が身体の現在の状態を過去の状態と比較するという意味ではなく、むしろ感情の形相を構成する観念が身体について以前より大なるあるいは以前より小なる実在性を実際に含むようなあるものを肯定するという意味だということである。そして精神の本質は精神が自己の身体の現実的存在を肯定する点に存するし(第二部定理一一 人間精神の現実的有を構成する最初のものは、現実に存在するある個物の観念にほかならない。および定理一三 人間精神を構成する観念の対象の中に起こるすべてのことは、人間精神によって知覚されなければならぬ。あるいはその物について精神の中に必然的に観念があるであろう。言いかえれば、もし人間精神を構成する観念の対象が身体であるならその身体の中には精神によって知覚されないような、あるいはそれについてある観念が精神の中にないような、いかなることも起こりえないであろう。により)、また我々は完全性ということを物の本質そのものと解するから、したがって精神が自己の身体あるいはその一部分について、以前より大なるあるいは以前より小なる実在性を含むようなあるものを肯定するごとに、精神はより大なるあるいはより小なる完全性に移行することになる。だから私がさきに、精神の思惟能力が増大しあるいは減少するとよく言ったのも、精神が自己の身体あるいはその一部分について、以前に肯定したよりもより大なるあるいはより小なる実在性を表現するような観念を形成する、という意味にほかならなかったのである。なぜなら、観念の価値とその現実的な思惟能力は、対象の価値によって評価されるからである。 最後に私が「精神自身がそれの現在によってあるものを他のものよりいっそう多く思惟するように決定される」と付加したのは、定義の始めの部分に説明されている喜びおよび悲しみの本性のほかに、欲望の本性も表現しようとしたためであった。 第三部 終り哲学・思想ランキング
2022年04月14日
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神の存否-378 付録:感情の諸定義 四八:情欲 四八 情欲とは性交に対する欲望および愛である。 説明 性交に対するこの欲望は適度であっても適度でなくても情欲と呼ばれるのが常である。 なおこれら五つの感情、名誉欲・美味欲・飲酒欲・貪欲・情欲は(この部第三部の定理五六の備考(抜粋:きわめて多様であるべき感情の種類の中でも特に著しいのは美味欲、飲酒欲、情欲、食欲および名誉欲である。これらは愛もしくは欲望の感情の本性をその関係する対象によって説明する概念にほかならない。なぜなら、我々は美味欲、飲酒欲、情欲、食欲および名誉欲を美食、飲酒、性交、富および名誉への過度の愛もしくは欲望としか解しないからである。なおこれらの感情は、単にその関係する対象のみによって相互に区別される限り、反対感情を有しない。なぜなら、通常我々が美味欲に対立させる節制、飲酒欲に対立させる禁酒、最後に情欲に対立させる貞操は、感情あるいは受動ではなくて、それらの感情を制御する精神の能力を表示するものだからである。)で注意したように反対感情を有しない。なぜなら礼譲≒鄭重は名誉欲の一種であるし、また節制、禁酒および貞操が精神の能力を示すものであって受動を示すものでないことはこれまたすでに注意したところである。もちろん貪欲な人間、名誉欲の強い人間、あるいは臆病な人間が、食事、飲酒および性交の過度を供しむということは有りうるにしても、それだからといって食欲、名誉欲および臆病が美味欲、飲酒欲、もしくは情欲の反対ではない。なぜなら食欲者は一般に、他人のところでなら飲食をむさぼることを願っている。また名誉欲の強い者、すなわち人々に賞讃されようとのみしている者は露見しないという望みさえあればどんなことにも節制を守らないであろうし、またもし彼が飲酒家たちや好色家たちの間に生活するならば、まさに人の気に入ろうとのみするその性情のゆえに、ますます多くこの同じ悪行に傾くであろう。最後に臆病者は、もともと自らの欲しないことをなすものである。たとえ彼が死を逃れるために自己の財宝を海中に投じようとも、彼の食欲家たることには変りがないし、また好色家としての彼がその情欲をほしいままにすることができないのを悲しむとしても、彼はそのゆえに好色家たることを失いはしないのである。一般的に言えば、これらの感情は美味、飲酒などに対する個々の行為に関係するよりはそれへの衝動そのもの、それへの愛そのものに関係する。したがってこれらの感情に対置されうるものは、我々が其ののちに述べるであろう寛仁と勇気のみである。 嫉妬およびその他の心情の動揺の定義はここでは省略する。なぜならそれらの感情は、これまで定義した諸感情の合成から生ずるものであるし、またその多くは特に名称をもっていないからである。このことは、実生活のためにはこれらのものをただ種類として知るだけで十分であることを物語っている。 なおまた我々が説明した諸感情の定義からして、そのすべての感情は欲望、喜びあるいは悲しみの三者から生ずること、あるいは寧ろすべての感情はこの三者以外の何ものでもないこと、そしてこれら三者のおのおのはその異なった関係およびその異なった外的特徴に応じて、それぞれ異なった名称で呼ばれる償いになっていることが明らかになる。哲学・思想ランキング
2022年04月13日
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神の存否-377 付録:感情の諸定義 四三:鄭重 四四:名誉欲 四五:美味欲 四六:飲酒欲 四七:貪欲 四三 鄭重あるいは礼譲とは人々に気に入ることをなし、人々に気に入らぬことを控えようとする欲望である。 四四 名誉欲とは名誉に対する過度の欲望である。 説明 名誉欲はすべての感情を育(はぐく)みかつ強化する欲望である(この部第三部の定理二七 我々と同類のものでかつそれにたいして我々が何の感情もいだいていないものがある感情に刺激されるのを我々が表象するなら、我々はそのことだけによって、類似した感情に刺激される。および定理三一 もし我々が自分の愛し、欲し、あるいは憎むものをある人が愛し、欲し、あるいは憎むことを表象するならば、まさにそのことによって我々はそのものをいっそう強く愛し、欲し、あるいは憎むであろう。これに反し、もし我々が自分の愛するものをある人が嫌うことを、あるいはその反対を(すなわち我々の憎むものをある人が愛することを表象するならば、我々は心情の動揺を感ずるであろう。により)。したがってこの感情は、ほとんど征服できないものである。なぜなら、人間は何らかの感情に囚われている間は必ず同時に名誉欲に囚われているからである。キケロは言う、「最もすぐれた人々も特に名誉欲には支配される。哲学者は名誉の軽蔑すべきことを記した書物にすら自己の名を署する云々」。 四五 美味欲とは美味に対する過度の欲望あるいは愛である。 四六 飲酒欲とは飲酒に対する過度の欲望および愛である。 四七 貪欲とは富に対する過度の欲望および愛である。 *マルクス=トゥリウス=キケロ (Mrcus Tullius Cicero /前106~前43年)は、ローマ共和政の末期の「内乱の1世紀」時代の政治家でかつ雄弁家、文章家、哲学者として著名であった。地方の騎士(エクイテス)の家柄に生まれ、ローマに遊学、修辞学、哲学、法律を学び、弁護士として頭角を現す。さらにアテネ、小アジア、ロードス島に行き、ギリシア哲学を学びギリシア語文献をラテン語に訳すなど、素養を積んだ。ヘロドトスを「歴史の父」と呼んでローマに紹介したのもキケロであった。哲学・思想ランキング
2022年04月12日
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神の存否-376 付録:感情の諸定義 三九:臆病 四〇:大胆 四一:小心 四二:恐慌 三九 臆病とは我々の恐れるより大なる害悪をより小なる害悪によって避けようとする欲望である。 この部第三部の定理三九の備考(抜粋:人間をしてその欲するものを欲せずあるいはその欲せざるものを欲するように仕向けるこの感情は臆病と呼ばれる。したがって臆病とは人間をしてその予見する悪をより小なる悪によって避けるように仕向ける限りにおける恐怖にほかならない。)を見よ。 四〇 大胆とは同輩が立ち向かうことを恐れるような危険を冒してある事をなすようにある人を駆る欲望である。 四一 小心とは同輩があえて立ち向かうこと辞さないような危険を恐れて、自己の欲望を阻まれる人間について言われる。 説明 そこで小心とは大抵の人が通常恐れないようなある害悪に対する恐怖にほかならない。だから私は小心を欲望の感情に数えない。それにもかかわらず私がここで説明しようとしたのは、欲望を眼中に置く限り、小心は大胆の感情と事実対立するからである。 四二 恐慌とはある害悪を避けようとする欲望がその恐れる害悪に対する驚きのため阻まれる人間について言われる。 説明 そこで恐慌とは小心の一種である。しかし恐慌は二重の恐れから生ずるゆえに、我々はこれをもっと適切に次のように定義することができる。すなわち恐慌とは人間をして迫っている害悪を排除することができないようなふうに驚愕させあるいは動揺させる恐怖であると。「驚愕させる」と私が言うのは、その事惑を排除しようとする彼の欲望が驚きのため阻止されると解される限りにおいてである。また「動揺させる」というのは、この欲望が、同様にその人を悩ましている他の害悪に対する恐れのため阻止され、その結果彼は二つの害悪のいずれを避けるべきかを知らないと考えられる限りにおいてである。 こうしたことについてはこの部第三部の定理三九の備考(抜粋:予見される悪を避けようとする欲望が他の悪への怯えによって阻害されていずれを選ぶべきかを知らない場合に、特にその恐れる二つの害悪がきわめて大なる場合にはその恐怖は恐慌と呼ばれる。および第三部定理五二の備考(抜粋:害悪への驚異は人間がその害悪を避けうるための他のことを思惟することができないまでに人間をもっぱらその害悪の観想の虜にするからである。)を見よ。なお小心および大胆についてはこの部の定理五一の備考(抜粋:私が恐怖するのを常とする害悪を軽視する人を私は果敢と呼ぶであろう。その上憎む者に害悪を加え・愛する者に親切をなそうとする彼の欲望が私の躊躇するのを常とする害悪への恐れによって抑制されぬことを眼中に置くなら、私は彼を大胆と呼ぶであろう。次に私の軽視するのを常とする害悪を恐れる者は私には臆病に見えるであろう、その上もし彼の欲望が私のあえて躊躇しない害悪への恐れによって抑制されるということを眼中に置くなら、私は彼を小心と言うであろう。そして何びともこのようにして判断するであろう。)を見よ。哲学・思想ランキング
2022年04月11日
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神の存否-375 付録:感情の諸定義 三六:怒り 三七:復讐心 三八:残忍あるいは苛酷 三六 怒りとは我々の憎む人に対して、憎み心から、害悪を加えるように我々を駆る欲望である。この部第三部の定理三九(ある人を憎む者はその人に対して悪≒害悪を加えようと努めるであろう。ただしそのために自分自身により大なる悪の生ずることを恐れる場合はこの限りでない。また反対に、ある人を愛する者は同じ条件のもとに、その人に対して善≒親切をなそうと努めるであろう。)を見よ。 三七 復讐心とは我々に対して、憎しみの感情から害悪を加えた人に対して、同じ憎み返しの心から、害悪を加えるように我々を駆る欲望である。 この部第三部の定理四〇の系二(もしある人が、前に自分がいかなる感情もいだいていなかった他人から憎しみのゆえにある害悪を加えられたことを表象するなら、彼はただちに同じ害悪をその他人に報いようと努めるであろう。)ならびにその備考8我々の憎む者に対して害悪を加えようとする努力は怒りと呼ばれる。また我々に対して加えられた害悪に報いようとする努力は復讐と称される。)を見よ。 三八 残忍あるいは苛酷とは我々の愛する者あるいは憐む者に対して、害悪を加えるように我々を駆る欲望である。この部第三部の定理四一の系の備考(この場合憎しみの方が優勢を占めるならば、彼は自分を愛してくれる者に害悪を加えようと努めるであろう。この感情は残忍と称される。特に、愛してくれる者が憎しみを受ける何の一般的原因も与えなかったと見られる場合にはそうである。)を見よ。 説明 残忍には温和が対置される。しかし温和は受動ではなく、人間が怒りおよび復讐を抑制するような精神の能力である。哲学・思想ランキング
2022年04月10日
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神の存否-374 付録:感情の諸定義 三二:思慕 三三:競争心 三四:感謝あるいは謝恩 三五:慈悲心 三二 思慕とは、その物を想起することによってそれを所有しようとする欲望があおられ、また同時にその物の存在を排除する他の事物を想起することによってその欲望が阻まれる、そうしたある物への欲望ないし衝動である。 説明 我々がある物を想起するなら、すでにしばしば述べたように、我々はそのために、その物が現在した場合と同様の感情をもってその物を観想するように促される。しかしこの傾向ないし努力は、我々の精神がはっきり醒めている間は、大抵、我々の想起する物の存在を排除するような事物の表象像によって阻まれる。だから我々が自分をある種類の喜びに刺激する物を思い出す時、そのために我々は同じ喜びの感情をもってそれを現在するものとして観想するように努める。だがこの努力はその物の存在を排除する事物の想起によってただちに阻まれる。ゆえに思慕は実際は我々の憎む物の不在から生ずるあの喜びに対立するある種の悲しみなのである。しかし思慕なる名称は欲望に関係するように見えるので、そのゆえに私はこの感情を欲望の感情に数える。 三三 競争心とは、他の人がある物に対する欲望を有することを我々が表象することによって我々の中に生ずる同じ物に対する欲望である。 説明 他人が逃げるのを見て逃げ、あるいは他人が恐れるのを見て恐れ、あるいはまたある人がその手を焼いたのを見てそのため自分の手を引っこめて、あたかも自分の手が焼かれたかのような動作をする人、そうした人を目して我々は、他人の感情を模倣するとは言うが他人と競争するとは言わないであろう。これは競争には模倣の場合と異なった原因があることを我々が指摘しうるためではない。ただ端正であり、有益であり、あるいは愉快であると判断される事柄を模倣する人だけを競争すると呼ぶ慣わしになっているためである。 なお競争心の原因についてはこの第三部部の定理二七(我々と同類のものでかつそれにたいして我々が何の感情もいだいていないものがある感情に刺激されるのを我々が表象するなら、我々はそのことだけによって、類似した感情に刺激される。)およびその備考(備考一 感情のこの模倣が悲しみに関する場合には憐憫と呼ばれる。しかしそれが欲望に関する場合は競争心と呼ばれる。ゆえに競争心とは我々と同類の他のものがあることに対する欲望を有すると我々が表象することによって我々の中に生ずる同じ欲望にほかならないを見よ。だがねたみがなぜ多くの場合この感情と結びつくかについてはこの部第三部の定理三二(ただ一人だけしか所有しえぬようなものをある人が享受するのを我々が表象するなら、我々はその人にそのものを所有させないように努めるであろう。)およびその備考(要旨:人間の本性は一般に、不幸な者を憐れみ幸福な者をねたむようにできている。)を見よ。 三四 感謝あるいは謝恩とは我々に対して愛の感情から親切をなした人に対して親切を報いようと努める欲望あるいは同様な愛の情熱である。 この部第三部の定理三九(ある人を憎む者はその人に対して悪〔害悪〕を加えようと努めるであろう。ただしそのために自分自身により大なる悪の生ずることを恐れる場合はこの限りでない。また反対に、ある人を愛する者は同じ条件のもとに、その人に対して善〔親切〕をなそうと努めるであろう。)および(定理四一の備考(この場合憎しみの方が優勢を占めるならば、彼は自分を愛してくれる者に害悪を加えようと努めるであろう。この感情は残忍と称される。特に、愛してくれる者が憎しみを受ける何の一般的原因も与えなかったと見られる場合にはそうである。)を見よ。 三五 慈悲心とは我々の憐む人に対して親切をなそうとする欲望である。 この部第三部の定理二七の備考(要旨:あるものを憐れむことから生ずる、そのものに親切をしてやろうとするこの意志ないし衝動は慈悲心と呼ばれる。したがってこれは憐憫から生ずる欲望にほかならない。)を見よ。 記:慈悲がスピノザの云う神なるものの基底にあるとしても、其れは人間の神に起因する様態の延長上に過ぎず、其の裁量は人間に任されています。神自身からは人間の幸・不幸には関与せず、人間の幸・不幸は自らが神存在を理解し関与「実践倫理(幸福の倫理)」することにあるとするのがスピノザの基本的主張であり思想です。哲学・思想ランキング
2022年04月09日
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神の存否-373 付録:感情の諸定義 二八:高慢 二九:自卑 三〇:名誉 三一:恥辱 二八 高慢とは自己への愛のため自分について正当以上に感ずることである。 説明 だから高慢と買いかぶりとの相違は、後者は外部の対象に関係するが高慢は自己を正当以上に感ずる当人に関係するという点にある。なおまた買いかぶりが愛の一結果あるいは一特質であるように、高慢は自己愛の一結果あるいは一特質である。このゆえに高慢とは自分について正当以上に感ずるように人間を動かす限りにおける自己愛あるいは自己満足であると定義することもできる(この部第三部の定理二六の備考(要項: 高慢とは狂気の一種である。なぜならこのような人間は、単に表象においてのみ達成されることをすべてなしうるものと目を開きながら夢み、そのためにそれらのことを実在するかのように観想し、そしてそれらの存在を排除しかつその人間自身の活動能力を限定するものを表象しえない限りにおいて、それらについて誇っているのだからである。ゆえに高慢とは人間が自分自身について正当以上に感ずることから生ずる喜びである。次に人間が他のものについて正当以上に感ずることから生ずる喜びは買いかぶりと呼ばれ、最後に人間が他のものについて正当以下に感ずることから生ずる喜びは見くびりと呼ばれる。を見よ)。この感情には反対感情が存しない。なぜなら、何びとも自分への憎しみのため自分について正当以下に感ずることはないからである。実に人間は、自分がこのことあるいはかのことができないと表象する限りにおいても自分について正当以下に感じているのではない。というのは、人間が自分にできないと表象する事柄はすペてそう表象せざるをえないのであって、この表象によって彼は自分ができないと表象することを実際になしえないようなある状態に置かれる。すなわち自分はこのことあるいはかのことができないと表象する間は彼はそれをなすように決定されないのであり、したがってまたその間はそれをなすことが彼には不可能でもあるのである。 しかし単に他人の意見のみに関する事柄を眼中に置くなら、我々は、人間が自分自身について正当以下に感ずるということもありうることを考えうるであろう。例えばある人が悲しみをもって自己の弱小を観想し、他の人々が少しも彼を軽蔑しようと思わないのに自分がすべての人から軽蔑されるように表象するということはありうるのである。そのほか人間は不確実な未来に関して現在の瞬間にある事を自分自身について否定する場合に、自分について正当以下に感ずることができる。例えば自分は何も確実なことを考ええないし、また悪いこと賎(いや)しむべきことしか欲しあるいはなすことができないなどという場合のごときである。最後にある人が自分と同等の他の人々のあえてなすようなことも、恥辱に対する過度の恐れからあえてしないのを我々が見る時に、その人が自分自身について正当以下に感じていると我々は言うことができる。そこで我々はこうした感情を高慢と対置させることができる。この感情を私は自卑と名づけるであろう。すなわち自己満足から高慢が生ずるように、謙遜から自卑が生ずるのである。したがって我々はこれを次のように定義する。 二九 自卑とは悲しみのために自分について正当以下に感ずることである。 説明 しかし我々はしばしば高慢に謙遜を対置させるのが慣(なら)いである。けれどもその場合には両感情の本性よりもむしろ結果を眼中に置いているのである。すなわち過度に自らを誇り、この部第三部の定理三〇の備考 (抜粋:名誉を好む人間が高慢になり、またみなに嫌われていながらみなに気に入られていると表象する、というようなことが容易に起こりうるのである。)を見。、自分の美点と他人の欠点のみを語り、すべての人の上に立とうと欲し、また最後に、自分よりはるかに地位の高い人々に見るような威儀と服装とをもって立ち現われる人、そうした人を我々は高慢な人と呼ぶのが常である。これと反対に、しばしば赤面し、自分の欠点を告白して他人の美点を語り、すべての人に譲歩し、最後にまた、頭を垂れて歩み、かつ身を飾ることを嫌う人、そうした人を我々は謙遜な人と呼んでいる。 なおこれらの感情、すなわち謙遜と自卑とはきわめて稀である。なぜなら人間本性は、それ自体で見れば、できるだけそうした感情に反抗するからである(この部第三部の定理一三 精神は身体の活動能力を減少しあるいは阻害するものを表象する場合、そうした物の存在を排除する事物をできるだけ想起しようと努める。および定理五四 精神は自己の活動能力を定立することのみを表象しようと努める。を見よ)。こんなわけできわめて自卑的でありきわめて謙遜であると見られる人々は大抵の場合きわめて名誉欲が強くきわめてねたみ深いものである。 三〇 名誉とは他人から賞讃されると我々の表象する我々のある行為の観念を伴った喜びである。 三一 恥辱とは他人から非難されると我々の表象する我々のある行為の観念を伴った悲しみである。 説明 この二つについてはこの部の定理三〇の備考(抜粋:自分は他の人々を喜びに刺激しているとある人の表象するその喜びが、単に表象的なものにすぎないこともありうるし、また各人は自分を喜びに刺激すると表象するすべてのものを自分について表象しようと努めるのであるから、名誉を好む人間が高慢になり、またみなに嫌われていながらみなに気に入られていると表象する、というようなことが容易に起こりうるのである。)を見よ。 だが恥辱と羞恥との相違をここに注意しなくてはならぬ。すなわち恥辱とは我々の恥じる行為に伴う悲しみである。これに対して羞恥とは恥辱に対する恐怖ないし臆病であって、醜い行ないを犯さぬように人間を抑制させるものである。羞恥には通常無恥が対置されるが、無恥は、適当な場所で示すだろうように、実は感情ではない。しかし一般に感情の諸名称は既に注意したように、その本性を表わすよりもその日常の慣用に関係しているのである。 これでもって喜びおよび悲しみの感情に関する予定の説明を終えた。だからこれから欲望に関係する感情へ移る。哲学・思想ランキング
2022年04月08日
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神の存否-372 付録:感情の諸定義 二五:自己満足 二六:謙遜 二七:後悔 二五 自己満足とは人間が自己自身および自己の活動能力を観想することから生ずる喜びである。 二六 謙遜(*自劣感)とは人間が自己の無能力あるいは弱小を観想することから生ずる悲しみである。 説明 自己満足は、我々が自分の活動能力を観想することから生ずる喜びであると解される限りにおいて謙遜と対置される。しかしそれは、我々が精神の自由な決意によってなしたと信ずるある行為の観念を伴った喜びであると解される限りにおいては、次のように定義される後悔と対置される。 二七 後悔とは我々が精神の自由な決意によってなしたと信ずるある行為の観念を伴った悲しみである。 説明 我々はこの三つ(自己満足・謙遜・後悔)の感情の原因をこの部第三部の定理五一の備考(抜粋:後悔とは原因としての自己自身の観念を伴った悲しみであり、自己満足とは原因としての自己自身の観念を伴った喜びである。そしてこれらの感情は人間が自らを自由であると信ずるがゆえにきわめて強烈である。)および第三部定理五三(精神は自己自身ならびに自己の活動能力を観想する時に喜びを感ずる。そして自己自身ならびに自己の活動能力をより判然と表象するに従ってそれだけ大なる喜びを感ずる。)、定理五四(精神は自己の活動能力を定立することのみを表象しようと努める。)、定理五五(精神は自己の無能力を表象する時、まさにそのことによって悲しみを感ずる。)ならびにその備考(抜粋:我々の弱小の観念を伴ったこの悲しみは謙遜と呼ばれる。これに反して、我々自身を観想することから生ずる喜びは自己愛または自己満足と称される。)において示した。また精神の自由な決意については第二部定理三五の備考(抜粋:人間が自らを自由であると思っているのは、すなわち彼らか自分は自由意志をもってあることをなしあるいはなさざることができると思っているのは誤っている。そしてそうした誤った意見は、彼らがただ彼らの行動は意識するが彼らをそれへ決定する諸原因はこれを知らないということにのみ存するのである。だから彼らの自由の観念なるものは彼らが自らの行動の原因を知らないということにあるのである。なぜなら、彼らが、人間の行動は意志を原因とすると言ったところで、それは単なる言葉であって、その言葉について彼らは何の理解も有しないのである。すなわち意志とは何であるか、また意志がいかにして身体を動かすかを彼らは誰も知らないのである。またそれを知っていると称して魂の在りかや住まいを案出する人々は嘲笑か嫌悪をひき起こすのが常である云々。記:然し乍らスピノザは後々の記述では「人間の精神の自由」をある意味合いで復活させているその真意を慮ること。)を見よ。 しかしなおここに注意すべきことがある。それは習慣上から「悪い」と呼ばれているすべての行為に悲しみが伴い、「正しい」と言われているすべての行為に喜びが伴うのは不思議ではないということである。実際このことは、前に述べた事柄から容易に理解される通り、主として教育に由来しているのである。すなわち親は「悪い」と呼ばれている行為を非難し、子をそのためにしばしば叱責し、また反対に「正しい」と言われている行為を推奨し、賞讃し、これによって悲しみの感情が前者と結合し喜びの感情が後者と結合するようにしたのである。このことはまた経験そのものによっても確かめられる。何となれば習慣および宗教はすべての人において同一ではない。むしろ反対に、ある人にとって神聖なことが他の人にとって涜神的であり、またある人にとって端正なことが他の人にとって非礼だからである。このようにして各人はその教育されたところに従ってある行為を悔いもしまた誇りもする。哲学・思想ランキング
2022年04月07日
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神の存否-371 付録:感情の諸定義 二○:憤慨 二一:買い被り 二二:見縊り 二三:妬み 二四:同情 二〇 憤慨とは他人に害悪を加えた人に対する憎しみである。 説明 この二つの名称(注:憤慨と憎しみ)が通常の用法では別の意味を有することを私は知っている。しかし私の意図するところは、言葉の意味を説明することではなくて、事物の本性を説明しかつ事物を一定の言葉であり云々。〜〜その通常の意味が私の用いたいと思う意味とひどくはくい違わないような言葉で表示することにある。このことは一度注意しておけば十分であろう。なおこの二つの感情の原因についてはこの部第三部の定理二七の系一(その人に対して我々が何の感情もいだいていないある人が、我々と同類のものを喜びに刺激することを我々が表象するならば、我々はその人に対して愛に刺激されるであろう。これに反してその人がそうしたものを悲しみに刺激することを我々が表象するならば、我々はその人に対して憎しみに刺激されるであろう。)および定理二二の備考(要約:我々は他人に善をなした人に対する愛を好意と呼び、これに反して他人に悪をなした人に対する憎しみを憤慨と呼ぶであろう。~自分と同類のものに不幸を与えた人に対しても憤慨を感ずるであろう。)を見よ。 二ー 買いかぶりとはある人について、愛のゆえに、正当以上に感ずることである。 二二 見くびりとはある人について、憎しみのゆえに、正当以下に感ずることである。 説明 こうして買いかぶりは愛の一結果もしくは一特質であり、見くびりは憎しみの一結果あるいは一特質である。したがって買いかぶりとは愛するものについて正当以上に感ずるように人間を動かす限りにおける愛であると定義し、また反対に、見くびりとは憎むものを正当以下に感ずるように人間を動かす限りにおける憎しみであると定義することもできる。この二つについてはこの部第三部の定理二六の備考(抜粋:我々は、人間が自分自身ならびに自分の愛するものについて正当以上に感じ、将又、自分の憎むものについて正当以下に感ずるということが起こりやすいことを知りうる。 )を見よ。 二三 ねたみとは他人の幸福を悲しみまた反対に他人の不幸を喜ぶように人間を動かす限りにおける憎しみである。 説明 ねたみには通常同情が対立させられる。したがって同情を言葉のもともとの意味から離れて次のように定義することができる。 二四 同情とは他人の幸福を喜びまた反対に他人の不幸を悲しむように人間を動かす限りにおける愛である。 説明 なお、ねたみについてはこの部第三部の定理二四の備考(抜粋:ねたみとは人間をして他人の不幸を喜びまた反対に他人の幸福を悲しむようにさせるものと見られる限りにおける憎しみそのものにほかならない。)および定理三二の備考(抜粋:人間の本性は一般に、不幸な者を憐れみ幸福な者を妬むようにできている)ことを見よ。 以上は外部の原因(それ自身による原因たると偶然による原因たるとを問わない)の観念を伴った喜びおよび悲しみの感情である。これから私は内部の原因の観念を伴った他の喜びおよび悲しみの感情に移る。哲学・思想ランキング
2022年04月06日
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神の存否-370 付録:感情の諸定義 一六:歓喜 一七:落胆 一八:憐憫 一九:好意 一六 歓喜とは恐怖に反して起こった過去の物の観念を伴った喜びである。 一七 落胆とは希望に反して起こった過去の物の観念を伴った悲しみである。 一八 憐憫とは我々が自分と同類であると表象する他人の上に起こった害悪の観念を伴った悲しみである。この部第三部の定理二二の備考(~我々はこれを他人の不幸から生ずる悲しみであると定義することができる。しかし他人の幸福から生ずる喜びがいかなる名前で呼ばれるべきかを私は知らない。さらに我々は他人に善をなした人に対する愛を好意と呼び、これに反して他人に悪をなした人に対する憎しみを憤慨と呼ぶであろう。最後に注意すべきことは、我々は我々の愛したものに憐憫を感ずる(前定理二ー 自分の愛するものが喜びあるいは悲しみに刺激されることを表象する人は、同様に喜びあるいは悲しみに刺激されるであろう。しかもこの両感情が愛されている対象においてより大でありあるいはより小であるのに応じて、この両感情は愛する当人においてもより大でありあるいはより小であるであろう。で示したように)だけでなく、また以前には我我が何の感情もいだいていなかったものに対しても、ただそのものが我々に類似する・同類であると我々が判断すれば我々はこれに憐憫を感ずる、のちに示すだろうように。したがって我々は自分と同類のものに善をなした人に対しても好意を感じ、また反対に自分と同類のものに不幸を与えた人に対しても憤慨を感ずるであろう。および定理二七の備考(~あるものを憐れむことから生ずる、そのものに親切をしてやろうとするこの意志ないし衝動は慈悲心と呼ばれる。したがってこれは憐憫から生ずる欲望にほかならない。なお我々と同類であると我々の表象する対象に善あるいは悪をなした人に対する愛あるいは憎しみについては、この部第三部の定理二二の備考我々は我々の愛したものに憐憫を感ずる(前定理二ー 自分の愛するものが喜びあるいは悲しみに刺激されることを表象する人は、同様に喜びあるいは悲しみに刺激されるであろう。しかもこの両感情が愛されている対象においてより大でありあるいはより小であるのに応じて、この両感情は愛する当人においてもより大でありあるいはより小であるであろう。で示したように)だけでなく、また以前には我我が何の感情もいだいていなかったものに対しても、ただそのものが我々に類似する・同類であると我々が判断すれば我々はこれに憐憫を感ずる。~を見よ。 説明 憐憫と同情との間には、おそらく、憐憫は個々の感情を眼中に置いたものであり同情は憐憫の習性を眼中に置いたものであるという以外には何の相違もないように思われる。 一九 好意とは他人に親切をなした人に対する愛である。哲学・思想ランキング
2022年04月05日
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神の存否-369 付録:感情の諸定義 一二:希望 一三:恐怖 一四:安堵 一五:絶望 一二 希望とは我々がその結果について幾分疑っている未来あるいは過去の物の観念から生ずる不確かな喜びである。 一三 恐怖とは我々がその結果について幾分疑っている未来あるいは過去の物の観念から生ずる不確かな悲しみである。 この二つについてはこの部第三部の定理一八の備考二(抜粋: 我々は希望、恐怖、安堵、絶望、歓喜および落胆の何たるかを理解する。すなわち希望とは我々がその結果について疑っている未来または過去の物の表象像から生ずる不確かな喜びにほかならない。これに反して恐怖とは同様に疑わしい物の表象像から生ずる不確かな悲しみである。さらにもしこれらの感情から疑惑が除去されれば希望は安堵となり、恐怖は絶望となる。すなわちそれは我々が希望しまたは恐怖していた物の表象像から生ずる喜びまたは悲しみである。)を見よ。 説明 これらの定義からして、恐怖なき希望もないし希望なき恐怖もないということになる。なぜなら、希望に頼ってある物の結果につき疑っている人は、その未来の物の存在を排除するあることを表象し、かくてその限りにおいて悲しみ(この部第三部の定理一九自分の愛するものが破壊されることを表象する人は悲しみを感ずるであろう。これに反して自分の愛するものが維持されることを表象する人は喜びを感ずるであろう。により)、したがって希望に頼っている間はその物が出現しないことを恐れもしている、と認められるからである。これに反して恐怖の中に在る人すなわち憎むある物の結果について疑う人は、同様にその物の存在を排除するあることを表象し、かくて喜び(この部第三部の定理二〇 自分の憎むものが破壊されることを表象する人は喜びを感ずるであろう。により)、したがってその限りにおいていまだその物の出現しないことを希望してもいるのである。 一四 安堵とは疑いの原因が除去された未来あるいは過去の物の観念から生ずる喜びである。 一五 絶望とは疑いの原因が除去された未来あるいは過去の物の観念から生ずる悲しみである。 説明 こうして物の出現に対する疑いの原因が除去される時に希望から安堵が生じ、恐怖から絶望が生ずる。この原因の除去は、人間が過去あるいは未来の物をあたかもそこにあるかのように表象してこれを現在するものとして観想することによっても起こるし、あるいは人間が彼に疑いを惹き起こさせた事物の存在を排除するような他のことを表象することによっても起こるのである。というのは、たとえ我々は個々の物の結果について決して確実でありえないとしても(第二部定理三一の系 抜粋: すべての個物は偶然的でかつ可滅的である。により)。しかし我々がそれらの物の結果について疑わないということは起こりうる。我々の示したように、ある物について疑わないということとその物について確実性を有するということは別問題だからである(第二部定理四九の備考 抜粋: 人間が偽なる観念に安んじて少しもそれについて疑わぬと我々が言う場合、それは彼がそれについて確実であるというのではなくて、単にそれについて疑わぬというだけのことである。あるいは彼の表象を動揺させる原因、言いかえれば彼にそれを疑わせる原因が少しも存在しないから彼はその偽なる観念に安んじているというだけのことである。を見よ)。したがって我々は過去あるいは未来の物の表象像によってあたかも現在の物の表象像によるのと同じ喜びあるいは悲しみの感情に刺激されることが起こりうる。これはこの部第三部の定理一八(人間は過去あるいは未来の物の表象像によって、現在の物の表象像によるのと同様の喜びおよび悲しみの感情に刺激される。)で証明したところである。その定理ならびにその二つの備考(備考一抜粋: 表象像から生ずる感情はさほど確乎たるものでなく、人々がその物の結果について確実になるまでは、しばしば他の事物の表象像によって乱されることになる。備考二:今しがた述べたことどもから、我々は希望、恐怖、安堵、絶望、歓喜および落胆の何たるかを理解する。すなわち希望とは我々がその結果について疑っている未来または過去の物の表象像から生ずる不確かな喜びにほかならない。これに反して恐怖とは同様に疑わしい物の表象像から生ずる不確かな悲しみである。さらにもしこれらの感情から疑惑が除去されれば希望は安堵となり、恐怖は絶望となる。すなわちそれは我々が希望しまたは恐怖していた物の表象像から生ずる喜びまたは悲しみである。次に歓喜とは我々がその結果について疑っていた過去の物の表象像から生ずる喜びである。最後に落胆とは歓喜に対立する悲しみである。)を見よ。哲学・思想ランキング
2022年04月04日
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神の存否-368 付録:感情の諸定義 八:好感 九:反撥 一〇:帰依 一一:嘲弄 スピノザは精神感情の諸処の感情表現の語彙を感情の三要素、喜び・悲しみ・欲望、受動態と能動態で区分すれば悲しみは受動態であり、喜び・欲望は受動と能動の両者に関係すると捉えます。要は、喜び・悲しみ・欲望の匙加減が人間個々の多彩に表現される精神感情を引き起こすとします。確かに、フロイトやユング及びヴントの精神分析学や心理学から発展した現代心理学から見れば大雑把で拙さを云う向きもありますが、現代にあっても通常に理解することは可能です。 八 好感とは偶然によって喜びの原因となるようなある物の観念を伴った喜びである。 九 反撥とは偶然によって悲しみの原因となるようなある物の観念を伴った悲しみである。 この二つについてはこの部第三部の定理一五の備考(要項:その原因を知らずにただいわゆる同感「先入的好感」および反感だけからある物を愛したり憎んだりするということがどうして起こりうるかを理解する。)を見よ。 一〇 帰依とは我々の驚異する人に対する愛である。 説明 驚異は物の新奇性から生ずることを我々はこの部第三部の定理五二で示した。だからもし我々が驚異するものをしばしば表象するということが起こるなら、我々はそれを驚異することをやめるであろう。したがって我々は帰依の感情が容易に単純な愛に変ることを知る。 一一 嘲弄(ちょうろう)とは我々の軽蔑するあることが我々の憎む物の中に存することを表象することから生ずる喜びである。 説明 我々が憎む物を軽蔑する限りにおいて我々はその物の存在を否定する。この部の定理五二の備考(抜粋: 帰依が我々の愛するものへの驚異から生ずるように、嘲弄は我々の憎みあるいは恐怖するものへの軽蔑から生ずる。)を見よ。そしてその限りにおいて我々は(この部第三部の定理二〇 自分の憎むものが破壊されることを表象する人は喜びを感ずるであろう。により)喜ぶ。しかし人が その嘲弄するものを憎んでもいるということを我々は仮定しているのであるから、その帰結として、この喜びは基礎の固いものではないということになる。この部の定理第三部四七の備考(抜粋: なぜ人間がある過去の害悪を想起するごとに喜びを感ずるか、またなぜ自分のまぬがれた危難について物語るのを楽しむかの理由。)を見よ。哲学・思想ランキング
2022年04月03日
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神の存否-367付録:感情の諸定義 六:愛 七:憎しみ スピノザが著書「エチカ(倫理学)」で最も主張すべき命題としての、人間の喜びと幸福への精神感情の経緯が人間の喜びと欲望が愛へと向かい、それが実践として善への倫理に繋がり、神(世界)単一宇宙論ユニバースで云う単一の無限の世界です。現代最先端の重力量子物理学から派生したマルチバース理論が仮想する各種の宇宙論には認識哲学を主旨とするスピノザが対応し切れないのは無理がありません。何れにしろ我々が認識するのは現宇宙ですから、スピノザの哲学的世界観を受け入れることには矛盾は生じないと憶えます。:記 六 愛とは外部の原因の観念を伴った喜びである。 説明 この定義は愛の本質を十分明瞭に説明する。これに反して著作家たちのあの定義、愛とは愛する対象と結合しようとする愛する者の意志であるという定義は、愛の本質ではなくその一特質を表現するにすぎない。そしてこれらの著作家たちは、愛の本質を十分に洞察しなかったから、愛の特質に関しても明瞭な概念を持つことができなかったのであり、その結果として彼らの定義はいたって曖昧なものと人々から批判されている。しかしここに次のことを注意してもらわなければならぬ。意志によって愛する対象と結合しようとするのが愛する者における一特質であると私が言う場合、私は意志ということを精神の同意ないし考慮、あるいは自由決意と解せず、なぜなら第二部定理四八(精神の中には絶対的な意志、すなわち自由な意志は存しない。むしろ精神はこのことまたはかのことを意志するように原因によって決定され、この原因も同様に他の原因によって決定され、さらにこの後者もまた他の原因によって決定され、このようにして無限に進む。)で証明したようにそうしたものは想像の産物にすぎないから)。また愛する対象が不在ならばこれと結合しようとし、それが存在するならばその現在に固執しようとする欲望であるとも解しない。なぜなら愛はこのあるいはかの欲望なしにも考えられうるからである。むしろ私は意志ということを愛する対象の現在のゆえに愛する当人が感ずる満足、それによって愛する当人の喜びが強化されあるいは少なくともはやくまれるその満足と解する。 七 憎しみとは外部の原因の観念を伴った悲しみである。 説明 ここで注意すべきことは前の定義の説明の中で述べたことから容易に看取される。そのほかこの部第三部の定理一三の備考(要項:すなわち愛とは外部の原因の観念を伴った喜びにほかならないし、また憎しみとは外部の原因の観念を伴った悲しみにほかならない。なおまた、愛する者は必然的に、その愛する対象を現実に所有しかつ維持しようと努め、これに反して憎む者はその憎む対象を遠ざけかつ滅ぼそうと努めることを我我は知る。)を見よ。哲学・思想ランキング
2022年04月02日
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神の存否-366 付録:感情の諸定義 四:驚異 五:軽蔑 スピノザの云う驚異とは単に非常に驚くことである驚愕(きょうがく)ではなく、其のことが他の精神感情を生起しない特殊な感情です。旧約のモーゼ(moses)が初めて神の声を頭に聞いた啓示は人間の聴覚には捉え切れないものですから、当然に所謂、新奇な物の表象として幻聴と自己の狂気を疑い、恐らくは頭からか離れずに精神感情は取り憑かれたでしょう。其のときには他には何も考えられなかった筈です。すなわち、驚異とは通常生活においては経験されない事物への精神感情の憑依・停止を意味します。:記 四 驚異とはある事物の表象がきわめて特殊なものであってその他の表象と何の連結も有しないために、精神がその表象に縛られたままでいる状態である。(定理五二 我々が以前に他のものと一緒に見た対象、あるいは多くのものと共通な点しか有しないことを我々が表象する対象、そうした対象を我々は、ある特殊の点を有することを表象する対象に対してほどに長くは観想しつづけないであろう。および、その備考 驚異、愛、恐怖などの原因となりうる一切の点をその物について否定せざるをえないようになれば、精神は、その物の現在によって、対象の中に存するものよりも対象の中に存しないものについてより多く思惟するように決定されることになるのである。本来ならこれと反対に、精神は、対象の現在によって、もっぱらその対象の中に存するものについて思惟するのが常であるのに。)を見よ。 説明 我々は第二部定理一八の備考(要約:人間身体の外部に在る物の本性を含む観念のある連結と連結は精神の中に、人間身体の変状、刺激状態の秩序および連結の相応性)で、いかなる原因によって精神は一つの物の観想からただちに他の物の思惟に移るかを示した。それはすなわちそれらの物の表象像が相互に結合して一が他に継いで起こるように秩序づけられているからである。こうしたことは物の表象像が新奇なものである場合には考えられない。こういう場合、精神はむしろ他の原因によって他のものを思惟するように決定されるまではその物の観想に引きとどめられているであろう。こうして新奇な物の表象も、それ自体において見れば、その他の諸表象と同じ本性のものである。この理由によって私は驚異を感情の中に数えないし、また数える理由も認めない。なぜなら、精神がこのように他のものから離されて、その物にだけとどまっているのは、精神を他のものから引き離す積極的な原因から生ずるのではなくて、単に、ある物の観想をやめて他のものを思惟するように精神を決定するような原因が欠けているという事実からのみ生ずるのだからである。このようにして私は(この部第三部の定理一一の備考で注意したように)単に三つの根本的ないし基本的な感情を、すなわち喜び、悲しみ、欲望の三つの根本的感情を、認めるのみである。そして私が驚異について言及したのは、この三つの根本的感情から導き出されるある種の感情が我々の驚異する対象に関係する場合には別な名称をもって呼ばれるのが習いとなっているためにほかならない。私が軽蔑の定義をもここに付加することにしたのも、また同じ理由からである。 五 軽蔑とは精神が、ある事物の現在によって、その事物自身の中に在るものよりもむしろその事物自身の中にないものを表象するように動かされるほど、それほどわずかしか精神をとらえるところのない事物の表象である。この部第三部の定理五二の備考(主旨:驚異に対立するものは軽蔑)を見よ。 尊敬および侮蔑の定義はここには割愛する。なぜなら、私の知る限り、いかなる名称の感情もこの二者から導き出されていないからである。オカルト・ホラー小説 ブログランキングへ
2022年04月01日
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