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神の存否-334 尾崎紅葉の「金色夜叉」の貫一とお宮の「金>か、愛」と主要登場人物の狭山「愛<か、金」の情緒関係とは相違し、此れが「愛」そのものの変遷ともなれば、誰しもが憎しみ若しくは妬みを感じるでしょう。ただし、その憎みと妬みが通常は其の体験者自身の比較衡量によって大小があり多くの事件が巻き起こされます。此れが西洋はいざ知らず、道教・儒教世界であれば小児許嫁制度などにより表面化はしませんが、水面下では古今東西垣間なく現れる現象で、物語の格好の題材になるのは言わずもがなです。:記 定理三五 人はもし自分の愛するものが自分のこれまで独り占めにしていたと同じの、あるいはより緊密な愛情の絆によって他人と結合することを表象するならば、愛するもの自身に対しては憎しみを感じ、またその他人を妬たむであろう。 証明 人は自分の愛するものが自分に対してより大なる愛を感じていると表象するに従ってそれだけ大なる名誉を感ずるであろう(前定理三四 我々の愛するものが我々に対してより大なる感情に刺激されていると我々が表象するに従って、我々はそれだけ大なる名誉(名誉とは感性的には誇りと捉える)を感ずるであろう。により)。言いかえれば(この部第三部の定理三〇の備考要約: 喜びおよび悲しみは愛および憎しみの一種である。しかし愛および憎しみは外部の対象に関連するものであるから、我々は今述べた感情を他の名称で表示するであろう。すなわち我々は内部の原因の観念を伴ったこの喜びを名誉と呼び、これと反対する悲しみを恥辱と呼ぶであろう。しかしこれは人間が他から賞讃されあるいは非難されると信ずるために喜びあるいは悲しみを感じる場合のことである。そうでない場合は、内部の原因の親念を伴ったこの喜びを自己満足と呼び、これに反対する悲しみを後悔と呼ぶであろう。により)それだけ大なる喜びを覚えるであろう。したがってその人は(この部第三部の定理二八 我々は、喜びをもたらすと我々の表象するすべてのものを実現しようと努める。反対にそれに矛盾しあるいは悲しみをもたらすと我々の表象するすべてのものを遠ざけあるいは破壊しようと努める。により)愛するものが自分と最も緊密に結びついていることを表象するようにできるだけ努めるであろう。そしてこの努力ないし衝動は、他人もその同じものを欲していると表象される場合なお強められるものである(この部第三部の定理三一 もし我々が自分の愛し、欲し、あるいは憎むものをある人が愛し、欲し、あるいは憎むことを表象するならば、まさにそのことによって我々はそのものをいっそう強く愛し、欲し、あるいは憎むであろう。これに反し、もし我々が自分の愛するものをある人が嫌うことを、あるいはその反対を、すなわち我々の憎むものをある人が愛することを表象するならば、我々は心情の動揺を感ずるであろう。により)。ところが仮定によれば、この努力ないし衝動は、愛するもの自身の表象像が愛するものの結合している他人の表象像を伴っていることによって阻害されることになっている。ゆえにその人は(この部第三部の定理一一 そこで我々は、精神がもろもろの大なる変化を受けて時にはより大なる完全性へ、また時にはより小なる完全性へ移行しうることが分かる。この受動が我々に喜びおよび悲しみの感情を説明してくれる。こうして私は以下において喜びを精神がより大なる完全性へ移行する受動と解し、これに反して悲しみを精神がより小なる完全性へ移行する受動と解する。さらに私は精神と身体とに同時に関係する喜びの感情を快感あるいは快活と呼び、これに反して同様な関係における悲しみの感情を苦痛あるいは憂鬱と呼ぶ。しかし注意しなければならないのは、快感および苦痛ということが人間について言われるのは、その人間のある部分が他の部分より多く刺激されている場合であり、これに反して快活および憂鬱ということが言われるのは、その人間のすべての部分が一様に刺激されている場合であるということである。の備考により)そのことによって悲しみに偏重する。愛するものをその原因として意識し、同時にかの他人の表象像を伴った悲しみに、刺激されるであろう。言いかえればその人は(この部の定理一三の備考により)愛するものに対して、また同時にその他人に対して(この部第三部の定理一五 おのおのの物は偶然によって喜び・悲しみあるいは欲望の原因となりうる。の系により)、憎しみに刺激されるであろう。したがってまたその他人、その他人は愛するものを享楽しているのであるからねたむであろう(この部第三部の定理二三 自分の憎むものが悲しみに刺激されることを表象する人は喜びを感ずるであろう。 これに反して自分の憎むものが喜びに刺激されることを表象すれば悲しみを感ずるであろう。そしてこの両感情は、その反対の感情が自分の憎むものにおいてより大でありあるいはより小であるのに応じて、より大であり、あるいはより小であるであろう。により)。Q・E・D・此れが証明すべきことであった。 スピノザの「エチカ」著作当時の彼の精神感情はいかにも人間的認識主義に基づくものかが、聖人・哲人といった著名人と異なり、真の「人間原理」を求めていたのかが、肌を刺します。哲学・思想ランキング
2022年02月28日
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神の存否-333 スピノザはこの部第三部の定理三三・定理三四で「同類のもの」なる語句を使用していますが、如何なるものを指しているでしょうか。本来的には和訳「同類」は同じたぐいとして仲間とみなされることで、多く、あまり好ましくないような場合に用いるのですが、スピノザはこの意味で否定的には使用していないと想われます。後世の米国の社会学者ギディングス(The University of Chicago Press: Journals Franklin Henry Giddins/1855-1931)は、これを社会的結合の本質をなすものとした「他者を自己と同類であると認める意識」。 生成社会. 自生的に発生した独立性の高い社会集団・ 組成社会としますが、スピノザはこの意味でも使用しているのかも判断は付きかねます。 定理三三 我々は我々と同類のものを愛する場合、できるだけそのものが我々を愛し返すように努める。 証明 我々は自分の愛するものをできるだけ他のものよりも多く表象しようと努める(この部第三部の定理一二 精神は身体の活動能力を増大しあるいは促進するものをできるだけ表象しようと努める。)により。ゆえにもしそのものが我々と同類のものならば、我々はそのものを他のものよりも多く喜びに刺激することに努めるであろう(この部第三部の定理二九 我々は人々が喜びをもって眺めると我々の表象するすべてのことをなそうと努めるであろう。また反対に我々は人々が嫌悪すると我々の表象することをなすのを嫌悪するであろう。)により。つまり我々は、我々の愛するものが我々の観念を伴った喜びに刺激されるように、言いかえれば(この部第三部の定理一三 精神は身体の活動能力を減少しあるいは阻害するものを表象する場合、そうした物の存在を排除する事物をできるだけ想起しようと努める。)この備考により、そのものが我々を愛し返すようにできるだけ努めるであろう。Q・E・D=此れが証明すべきことであった。 定理三四 我々の愛するものが我々に対してより大なる感情に刺激されていると我々が表象するに従って、我々はそれだけ大なる名誉(名誉とは感性的には誇りと捉える)を感ずるであろう。 証明 我々は(前定理三三 我々は我々と同類のものを愛する場合、できるだけそのものが我々を愛し返すように努める。により)できるだけ、愛するものが我々を愛し返すように努める。言いかえれば我々は(この部第三部の定理一三の備考 これらのことによって我々は愛および憎しみの何たるかを明瞭に理解する。すなわち愛とは外部の原因の観念を伴った喜びにほかならないし、また憎しみとは外部の原因の観念を伴った悲しみにほかならない。なおまた、愛する者は必然的に、その愛する対象を現実に所有しかつ維持しようと努め、これに反して憎む者はその憎む対象を遠ざけかつ滅ぼそうと努めることを我我は知る。しかしこれらすべてについては、以下においていっそう詳しく述べるであろう。により)愛するものが我々の観念を伴った喜びに刺激されるように努める。そこで、愛するものが我々のためにより大なる喜びに刺激されていると我々が表象するに従って、この努力はそれだけ多く促進される。言いかえれば、我々はそれだけ大なる喜びに刺激される。ところが我々は我々と同類の他のものを喜びに刺激したことによって喜びを感ずるたびごとに、我々自身を喜びをもって観想する(この部第三部の定理三〇 もしある人が他の人々を喜びに刺激すると表象するある事をしたならば、その人は喜びに刺激されかつそれとともに自分自身をその喜びの原因として意識するであろう、すなわち自分自身喜びをもって観想するであろう。これに反してもし他の人々を悲しみに刺激すると表象するある事をなしたならば、その人は反対に自分自身を悲しみをもって観想するであろう。により)。ゆえに愛するものが我々に対してより大なる感情に刺激されていると我々が表象するに従って、我々はそれだけ大なる喜びをもって我々自身を観想するであろう。 すなわち我々はそれだけ大なる名誉(名誉とは感性的には誇りと捉えるのが妥当なのかは再考)を感ずるであろう。Q・E・D・此れが証明すべきことであった。哲学・思想ランキング
2022年02月27日
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神の存否-332 スピノザは人間本性の全般に亘って、生まれつきに性善論が備わっているとは思考しません。倫理教育及び実践を促す所以でしょう。 定理三二 ただ一人だけしか所有し得ぬようなものを、ある人が享受するのを我々が表象するなら、我々はその人にそのものを所有させないように努めるであろう。 証明 ある人があるものを享受することを我々が表象するなら、そのことだけによって我々は(この部第三部の定理二七 我々と同類のものでかつそれにたいして我々が何の感情もいだいていないものがある感情に刺激されるのを我々が表象するなら、我々はそのことだけによって、類似した感情に刺激される。及びその系一 その人に対して我々が何の感情もいだいていないある人が、我々と同類のものを喜びに刺激することを我々が表象するならば、我々はその人に対して愛に刺激されるであろう。これに反してその人がそうしたものを悲しみに刺激することを我々が表象するならば、我々はその人に対して憎しみに刺激されるであろう。により)そのものを愛するであろうし、また享受しようと欲するであろう。ところが仮定によれば、他の人がその同じものを享受することは自分がこの喜びを達するのに妨げになることを我々は表象する。ゆえに我々は(この部第三部の定理二八 我々は、喜びをもたらすと我々の表象するすべてのものを実現しようと努める。反対にそれに矛盾しあるいは悲しみをもたらすと我々の表象するすべてのものを遠ざけあるいは破壊しようと努める。により)その人にそれを所有させぬように努めるであろう。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。 備考 このようにして、人間の本性は一般に、不幸な者を憐れみ幸福な者を妬むようにできていること、しかも(前定理三一 もし我々が自分の愛し、欲し、あるいは憎むものをある人が愛し、欲し、あるいは憎むことを表象するならば、まさにそのことによって我々はそのものをいっそう強く愛し、欲し、あるいは憎むであろう。これに反し、もし我々が自分の愛するものをある人が嫌うことを、あるいはその反対を、すなわち我々の憎むものをある人が愛することを表象するならば、我々は心情の動揺を感ずるであろう。により)他人の所有していると彼らの表象するものを彼らがより多く愛するに従ってそれだけ大なる憎しみをもって妬むということが分かる。次に人間が同情心を起こすようになるその同じ人間本性の特質からして、また人間が妬む心をいだき、あるいは名誉欲に支配されるということが起こってくることが分かる。最後に、もし我々がこれを経験に聴こうと欲するならば、経験そのものもすべてこの通り教えることを我々は見いだすであろう。ことに我々が自分の幼少時代に思いを至すならなおさらのことである。というのは、小児はその身体がいわば絶えざる動揺状態にあるがゆえに、他の人々の笑いあるいは泣くのを見ただけで笑いあるいは泣くのを我々は経験している。さらにまた小児は他の人々がなすのを見て何でもすぐに模倣したがるし、最後にまた他の人々が楽しんでいると表象するすべてのことを自分に欲求する。これというのも事物の表象像は、すでに述べたとおり、人間身体の変状そのもの、人間の精神感情は精神行動、すなわち外部の原因によって人間身体にもたらされて人間を、このあるいはかの行動に決定する刺激の様式そのものにほかならないからである。 以上を考察すれば、人間の精神感情、なかでも妬みは人間の精神の奥底に秘み隠れ住む生得の性向かもしれません。まして、幼児から此の傾向が見えるとするスピノザのこの主張は、少子核家族化の傾向を帯びる世界では幼児教育はパターン化しつつあり、個人個人の徳育教育がないがしろにされ、妬みは犯罪化する危険性があります。シンデレラのガラスの靴が呼び起こされます。哲学・思想ランキング
2022年02月26日
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神の存否-331 スピノザは人間の精神の愛の脆さと「神の愛=神への愛・神からの愛の確信」との相違を強調します。人類史における人間の「愛」とは、人類言語の数ほど意味合いは異なり、「愛」が持つ語彙は古今東西、事程左様に人間の世界観によって複雑多様になります。 定理三一 もし我々が自分の愛し、欲し、あるいは憎むものをある人が愛し、欲し、あるいは憎むことを表象するならば、まさにそのことによって我々はそのものをいっそう強く愛し、欲し、あるいは憎むであろう。これに反し、もし我々が自分の愛するものをある人が嫌うことを、あるいはその反対を、すなわち我々の憎むものをある人が愛することを表象するならば、我々は心情の動揺を感ずるであろう。 証明 ある人があるものを愛することを我々が表象するなら、単にそのことだけによって我々はそのものを愛するであろう(この部第三部の定理二七 我々と同類のものでかつそれにたいして我々が何の感情もいだいていないものがある感情に刺激されるのを我々が表象するなら、我々はそのことだけによって、類似した感情に刺激される。により)。ところが、もともと初めから我々はそのものを愛していることが仮定されている。だからもとの愛に対して、さらにその愛をはぐくむ新しい原因が加わることになる。したがって我々は自分の愛するものを、まさにそのことのために、いっそう強く愛するであろう。次に、ある人があるものを嫌うことを我々が表象することによって我々はそのものを嫌うようになるであろう(同じ定理二七により)。ところでもし我々が同時にそれを愛していると仮定するならば、我々はその同じものを同時に愛しかつ嫌うであろう。すなわち我々は(この部第三部の定理一七の備考 要論:同一対象が多くのかつ相反する感情の原因となりうることを容易に理解することができるのである。を見よ)心情の動揺を感ずるであろう。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。 系 このこと定理三一、およびこの部の定理二八(我々は、喜びをもたらすと我々の表象するすべてのものを実現しようと努める。反対にそれに矛盾しあるいは悲しみをもたらすと我々の表象するすべてのものを遠ざけあるいは破壊しようと努める。)の帰結として、各人は自分の愛するものを人々も愛するように、また自分の憎むものを人々も憎むようにできるだけ努めるということになる。こんなところから詩人プーブリウス・オヴィディウス・ナーソー(羅語: Publius Ovidius Naso/ 紀元前43年- 紀元後17年 または18年/帝政ローマ時代最初期の詩人の一人。共和政末期に生まれ、アウグストゥス帝治下で平和を享受し繁栄するローマにて詩作を行った。一般にギリシア・ローマ神話の集大成と受け取られている)のあの言葉も出てくる。 我ら愛する者はかつ望みかつ恐れようよ、 他人の捨てるものを愛するなんて野暮なことだ、 (オヴィディウス) 備考 自分の愛するものや自分の憎むものを人々に是認させようとするこの努力は実は名誉欲である(この部の定理二九の備考 ただ人々の気に入ろうとする理由だけであること差したり控えたりするこの努力は名誉欲と呼ばれる。ことに我々が、我々自身あるいは他人の損害になるのも構わずにあること差したり控えたりするほど熱心に民衆の気に入ろうと努める場合にはそう呼ばれる。しかしそれほどまででない場合は鄭重と呼ばれるのが常である。次に我々を喜ばせようとする努力のもとになされた他人の行為を表象する際に我々の感ずる喜びを私は賞讃と呼び、これに反してその人の行為を嫌悪する際に感ずる悲しみを非難と呼ぶ。を見よ)。このようにして各人は生来他の人々を自分の意向に従って生活するようにしたがるものであるということが分かる。ところで、このことをすべての人が等しく欲するゆえに、すべての人が等しくたがいに障害になり、またすべての人がすべての人から賞讃されよう愛されようと欲するゆえに、すべての人が相互に憎み合うことになるのである。哲学・思想ランキング
2022年02月25日
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神の存否-330 人間の精神感情は、世情に影響されこそすれ、あくまでも自己判断に基づく。其れ故に、真なる正義や悪徳に神の天秤が仂くとは言い難い。:記 定理三〇 もしある人が他の人々を喜びに刺激すると表象するある事をしたならば、その人は喜びに刺激されかつそれとともに自分自身をその喜びの原因として意識するであろう、すなわち自分自身喜びをもって観想するであろう。これに反してもし他の人々を悲しみに刺激すると表象するある事をなしたならば、その人は反対に自分自身を悲しみをもって観想するであろう。 証明 自分が他の人々を喜びあるいは悲しみに刺激すると表象する人は、そのことだけによって(この部第三部の定理二七定理二七 我々と同類のものでかつそれにたいして我々が何の感情もいだいていないものがある感情に刺激されるのを我々が表象するなら、我々はそのことだけによって、類似した感情に刺激される。により)喜びあるいは悲しみに刺激されるであろう。ところが人間は(第二部定理一九 人間精神は身体が受ける刺激「変状」の観念によってのみ人間身体自身を認識し、またそれの存在することを知る。および第二部定理二三 精神は身体の変状「刺激状態」の観念を知覚する限りにおいてのみ自分自身を認識する。により)自らを行動に決定する刺激「変状」によって自分自身を意識する。 だから他の人々を喜びに刺激すると自ら表象するようなある事をなした人は、喜びに刺激されかつそれとともに自分自身をその喜びの原因として意識するであろう。すなわち自分自身を喜びをもって観想するであろう。また反対の場合にはこれと反対のことが起こる。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。 備考 愛とは(この部第三部の定理一三の備考 要約:すなわち愛とは外部の原因の観念を伴った喜びにほかならないし、また憎しみとは外部の原因の観念を伴った悲しみにほかならない。なおまた、愛する者は必然的に、その愛する対象を現実に所有しかつ維持しようと努め、これに反して憎む者はその憎む対象を遠ざけかつ滅ぼそうと努めることを我我は知る。により)外部の原因の観念を伴った喜びであり、憎しみとは同じく外部の原因の観念を伴った悲しみであるから、ここに述べた喜びおよび悲しみは愛および憎しみの一種である。しかし愛および憎しみは外部の対象に関連するものであるから、我々は今述べた感情を他の名称で表示するであろう。すなわち我々は内部の原因の観念を伴ったこの喜びを名誉と呼び、これと反対する悲しみを恥辱と呼ぶであろう。しかしこれは人間が他から賞讃されあるいは非難されると信ずるために喜びあるいは悲しみを感じる場合のことである。そうでない場合は、内部の原因の親念を伴ったこの喜びを自己満足と呼び、これに反対する悲しみを後悔と呼ぶであろう。 なお、自分は他の人々を喜びに刺激しているとある人の表象するその喜びが、単に表象的なものにすぎないこともありうるし(第二部定理一七の系 人間身体をかつて刺激した外部の物体がもはや存在しなくても、あるいはそれが現在しなくても、精神はそれをあたかも現在するかのように観想しうるであろう。により)、また、(この部の第三部定理二五 我々は、我々自身あるいは我々の愛するものを喜びに刺激すると表象するすべてのものを、我々自身および我々の愛するものについて肯定しようと努める。また反対に、我々自身あるいは我々の愛するものを悲しみに刺激すると表象するすべてのものを否定しようと努める。により)各人は自分を喜びに刺激すると表象するすべてのものを自分について表象しようと努めるのであるから、名誉を好む人間が高慢になり、またみなに嫌われていながらみなに気に入られていると表象する、というようなことが容易に起こりうるのである。 ギリシア古代史の哲人が思考した人間の公正なる判断に基づく「哲人による国家統治」は人間の精神感情にはとらわれない「真理判断」を目指したものではあるが、それには現代最先端のAI技術のコンピューターの可能性を連想させるものがあります。哲学・思想ランキング
2022年02月24日
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神の存否-329 思想、殊に哲学では「欲求」と「欲望」を区別します。 動物の、飢えたから食べたいというような身体的な必要を「欲求」と呼び、意味の世界の中で人間化された諸「欲求」を「欲望」と呼ぶ。 そして、欲求は有限なので満足させることができるけれど、人間の欲望は無限なので限界がないとします。詰まりは、生物学的・動物的本能を起因とする欲は「欲求」であり、精神感情に関わるならば「欲望」と大まかには区分されます。とは云え、其の区分は人間に関しては案外難しく曖昧性が伴います。たとえば金銭欲、其の目的意識は限りない美食・性欲・情欲等々多肢に渡ります。また、金銭欲とは対象的な名誉欲があります。家門の誉れなどの武士道などの部類も其の一例です。此のことが、史上、古今東西において商いが武を背景にした権力に貶められてきた原因です。とは云え、某有名人の「金で母親は買える」との発言を聞けば金銭欲を名誉欲の下位にするのは致し方ないでしょう。:記 定理二九 我々は人々(*下記注意を参考)が喜びをもって眺めると我々の表象するすべてのことをなそうと努めるであろう。また反対に我々は人々が嫌悪すると我々の表象することをなすのを嫌悪するであろう。 *注意。ここおよび以下において「人々」というのは、その人々に対して我々が何の感情もいだいていない場合と解してもらいたい。 証明 人々があるものを愛しあるいは憎むと我々が表象することによって、我々はそのものを愛しあるいは憎むであろう(この部第三部の定理二七 我々と同類のものでかつそれにたいして我々が何の感情もいだいていないものがある感情に刺激されるのを我々が表象するなら、我々はそのことだけによって、類似した感情に刺激される。により)。言いかえれば我々は(この部第三部の定理一三の備考 要約:すなわち愛とは外部の原因の観念を伴った喜びにほかならないし、また憎しみとは外部の原因の観念を伴った悲しみにほかならない。なおまた、愛する者は必然的に、その愛する対象を現実に所有しかつ維持しようと努め、これに反して憎む者はその憎む対象を遠ざけかつ滅ぼそうと努めることを我我は知る。により)そのことのためにそうしたものの現在を喜びあるいは悲しむであろう。したがって我々は(前定理第三部定理二八 我々は、喜びをもたらすと我々の表象するすべてのものを実現しようと努める。反対にそれに矛盾しあるいは悲しみをもたらすと我々の表象するすべてのものを遠ざけあるいは破壊しようと努める。により)人々が愛しあるいは喜びをもって眺めると我々の表象するすべてのことをなそうと努めるであろう云々。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。 備考 ただ人々の気に入ろうとする理由だけであること差したり控えたりするこの努力は名誉欲と呼ばれる。ことに我々が、我々自身あるいは他人の損害になるのも構わずにあること差したり控えたりするほど熱心に民衆の気に入ろうと努める場合にはそう呼ばれる。しかしそれほどまででない場合は鄭重と呼ばれるのが常である。次に我々を喜ばせようとする努力のもとになされた他人の行為を表象する際に我々の感ずる喜びを私は賞讃と呼び、これに反してその人の行為を嫌悪する際に感ずる悲しみを非難と呼ぶ。哲学・思想ランキング
2022年02月23日
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神の存否-328 定理二八 我々は、喜びをもたらすと我々の表象するすべてのものを実現しようと努める。反対にそれに矛盾しあるいは悲しみをもたらすと我々の表象するすべてのものを遠ざけあるいは破壊しようと努める。 証明 我々は喜びをもたらすと我々の表象するものをできるだけ表象しようと努める(この部第三部の定理一二 精神は身体の活動能力を増大しあるいは促進するものをできるだけ表象しようと努める。により)、言いかえれば我々は(第二部定理一七 我々を悲しみの感情に刺激するのを常とする物が、等しい大いさの喜びの感情に我々を刺激するのを常とする他の物と多少類似することを我々が表象する場合、我々はその物を憎みかつ同時に愛するであろう。により)、そうしたものを、できるだけ現在するものあるいは現実の存在するものとして観想しようと努めるであろう。ところが精神の努力ないしその思惟能力は身体の努力ないしその行動能力と本性上相等しくかつ同時的である(第二部定理七 観念の秩序および連結は物の秩序および連結と同一であるの系 この帰結として、神の思惟する能力は神の行動する現実的能力に等しいことになる。言いかえれば、神の無限な本性から形相的に起こるすべてのことは、神の観念から同一秩序・同一連結をもって神のうちに想念的に、すなわち観念として起こるのである。)。ゆえに我々はそうしたものが存在するように絶対的に努める、あるいは我々は、そうしたことに衝動を感じまたそうしたことへ力を尽す。これが第一の点であった。次にもし悲しみの原因であると我々の信ずるもの、言いかえれば、(この部第三部の定理一三の備考 要約:すなわち愛とは外部の原因の観念を伴った喜びにほかならないし、また憎しみとは外部の原因の観念を伴った悲しみにほかならない。なおまた、愛する者は必然的に、その愛する対象を現実に所有しかつ維持しようと努め、これに反して憎む者はその憎む対象を遠ざけかつ滅ぼそうと努めることを我我は知る。)により、我々の憎むもの、が破壊されることを我々が表象するならば、我々は喜ぶであろう(この部第三部の定理二〇 自分の憎むものが破壊されることを表象する人は喜びを感ずるであろう。により)。したがって、我々はそうしたものを現在するものとして観想しないようにそれを破壊することに努め、あるいは、それを我々から遠ざけることに努めるであろう。これが第二の点であった。ゆえに喜びをもたらすと我々の表象するすべてのものを受け入れんとする。以下云々。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。 スピノザは人間の精神の努力乃至その思惟能力は身体の努力ないしその行動能力と本性上相等しくかつ同時的であるとします。この意はどの様な状況下に置かれても身体の努力なしには人間の精神の努力は実らず、精神の努力は身体の努力に反映される。五体満足を「のほほん」と生きている人間にはなかなかに理解できないでしょうが、パラリンピックのアスリートたちを見れば理解できる筈です。哲学・思想ランキング
2022年02月22日
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神の存否-327 定理二七の以降の後半の証明・系・備考 証明 なぜなら、もしこのことのために我々がそうしたものを憎むことができるとしたら、我々はそうしたものの悲しみを喜ぶことになるであろう(この部第三部の定理二三 自分の憎むものが悲しみに刺激されることを表象する人は喜びを感ずるであろう。 これに反して自分の憎むものが喜びに刺激されることを表象すれば悲しみを感ずるであろう。そしてこの両感情は、その反対の感情が自分の憎むものにおいてより大でありあるいはより小であるのに応じて、より大であり、あるいはより小であるであろう。により)。しかしこれは仮定に反する。 系三 我々は我々の憐れむものできるだけその不幸から脱せしめようと努めるであろう。 証明 我々の憐れむものを悲しみに刺激するものは我々をも類似の悲しみに刺激する(前定理二六 我々は、我々の憎むものを悲しみに刺激すると表象するすべてのものをその憎むものについて肯定しようと努める。また反対に我々の憎むものを喜びに刺激すると表象するすべてのものを否定しようと努める。により)。したがって我々はそうしたものの存在を除去するすべてのことを、あるいはそうしたものを破壊するすべてのことを、想起しようと努めるであろう(この部第二部の定理一三 人間精神を構成する観念の対象は身体である、あるいは現実に存在するある延長の様態である、そしてそれ以外の何ものでもない。により)。言いかえれば我々は(この部第三部の定理九の備考 この努力が精神だけに関係する時には意志と呼ばれ、それが同時に精神と身体とに関係する時には衝動と呼ばれる。したがって衝動とは人間の本質そのもの云々。自己の維持に役立つすべてのことがそれから必然的に出て来て結局人間にそれを行なわせるようにさせる人間の本質そのものにほかならない。次に衝動と欲望との相違はといえば、欲望は自らの衝動を意識している限りにおいてもっぱら人間について言われるというだけのことである。このゆえに欲望とは意識を伴った衝動であると定義することができる。このようにして、以上すべてから次のことが明らかになる。それは、我々はあるものを善と判断するがゆえにそのものへ努力し・意志し・衝動を感じ・欲望するのではなくて、反対に、あるものへ努力し・意志し・衝動を感じ・欲望するがゆえにそのものを善と判断するということである。により)そうしたものを破壊しようとする衝動を感ずるであろう。あるいはそうしたもの破壊するように決定されるであろう。ゆえに我々は我々の憐れむものをその不幸から脱せしめようと努めるであろう。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。 備考 あるものを憐れむことから生ずる、そのものに親切をしてやろうとするこの意志ないし衝動は慈悲心と呼ばれる。したがってこれは憐憫から生ずる欲望にほかならない。なお我々と同類であると我々の表象する対象に善あるいは悪をなした人に対する愛あるいは憎しみについては、この部第三部の定理二二の備考我々は我々の愛したものに憐憫を感ずる(前定理二ー 自分の愛するものが喜びあるいは悲しみに刺激されることを表象する人は、同様に喜びあるいは悲しみに刺激されるであろう。しかもこの両感情が愛されている対象においてより大でありあるいはより小であるのに応じて、この両感情は愛する当人においてもより大でありあるいはより小であるであろう。で示したように)だけでなく、また以前には我我が何の感情もいだいていなかったものに対しても、ただそのものが我々に類似する・同類であると我々が判断すれば我々はこれに憐憫を感ずる、のちに示すだろうように。したがって我々は自分と同類のものに善をなした人に対しても好意を感じ、また反対に自分と同類のものに不幸を与えた人に対しても憤慨を感ずるであろう。を見よ。 フランス語圏ジュネーヴ共和国に生まれ、主にフランスで活躍した哲学者、政治哲学者、「結んで開いて」で有名な作曲家ジャン=ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau/1712年 - 1778年)は、憐憫の情について、自然人の行動を律しているのは、自己愛である。彼は自分の生存が可能であるように、さまざまな困難を克服する。その自分への配慮が自己愛という形をとるわけだ。この自己愛が他の人に向かうとき、そこに憐憫の情が生じる。憐憫とは自己の延長としての家族や友人に向けられた、生存への本能の社会的な現れともいえるとしています。哲学・思想ランキング
2022年02月21日
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神の存否-326 定理二七以降の前半の証明・備考・系の内容の一部は、恰も仏教の教え、世の衆生がその名を唱える音声を観じて、大慈大悲を垂れ、自らの解脱、衆生に救いを得させるという目的を持つ菩薩及び観音、即ち修行中の生(聖)者を連想させます。 証明 事物の表象像とは人間身体の変状「刺激状態」のことであり、そしてその変状の観念は外部の物体を我々に現在するものとして思い浮かべさせる(第二部定理一七の備考要約: 我々は、しばしば起こるように、もはや存在しないものをあたかも現在するかのごとく観想するということがいかにして起こりうるかを知る。により)。言いかえれば(第二部定理一六 人間身体が外部の物体から刺激(アフィキトゥル)されるおのおのの様式の観念は、人間身体の本性と同時に、外部の物体の本性を含まなければならぬ。により)その変状の観念は我々の身体の本性と同時に外部の物体の現在的本性を含んでいる。ゆえにもし外部の物体の本性が我々の身体の本性に類似するならば、我々が表象する外部の物体の観念は、外部の物体の変状に類似した我々の身体の変状を含むであろう。したがってもし我々に類を同じくするあるものがある感情に刺激されたことを我々が表象するなら、この表象は、この感情に類似した我々の身体の変状を表現するであろう。だから我々と類を同じくするあるものがある感情に刺激されることを表象することによって、我々はそのものと類似の感情に刺激される。しかしもし我々と類を同じくするものを我々が憎んでいるなら、その限りにおいては、我々は(この部第三部の定理二三 自分の憎むものが悲しみに刺激されることを表象する人は喜びを感ずるであろう。 これに反して自分の憎むものが喜びに刺激されることを表象すれば悲しみを感ずるであろう。そしてこの両感情は、その反対の感情が自分の憎むものにおいてより大でありあるいはより小であるのに応じて、より大であり、あるいはより小であるであろう。により)そのものと反対の感情に刺激され、類似の感情には刺激されないであろう。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。 備考(備考1) 感情のこの模倣が悲しみに関する場合には憐憫と呼ばれる。しかしそれが欲望に関する場合は競争心と呼ばれる。ゆえに競争心とは我々と同類の他のものがあることに対する欲望を有すると我々が表象することによって我々の中に生ずる同じ欲望にほかならない。 系一 その人に対して我々が何の感情もいだいていないある人が、我々と同類のものを喜びに刺激することを我々が表象するならば、我々はその人に対して愛に刺激されるであろう。これに反してその人がそうしたものを悲しみに刺激することを我々が表象するならば、我々はその人に対して憎しみに刺激されるであろう。 証明 この系は、この部の定理二二が定理二ーから証明されたのと同じ仕方(感情の比較衡量)で前定理(定理二六 我々は、我々の憎むものを悲しみに刺激すると表象するすべてのものをその憎むものについて肯定しようと努める。また反対に我々の憎むものを喜びに刺激すると表象するすべてのものを否定しようと努める。)から証明される。 系二 我々の憐れむものの不幸が我々を悲しみに刺激するからといって、我々はそのものを憎むことはできない。哲学・思想ランキング
2022年02月20日
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神の存否-325 ミケランジェロの代表作の1つである「ダビデ像」で有名なダビデ(在位:前1000年 - 前961年頃)は、イスラエルの2代目の王。羊飼いから身をおこして初代イスラエル王サウルに仕え、サウルがペリシテ人と戦って戦死したのちにユダで王位に就くと、ペリシテ人を撃破し要害の地エルサレムに都を置いて全イスラエルの王となり、40年間もの期間を王として君臨した。旧約聖書の『サムエル記』および『列王記』に登場し、伝統的に『詩篇』の作者の一人とされており、イスラム教においても預言者の一人に位置づけられています。英語の男性名デイヴィッド(David)は彼の名に由来します。イスラエルの苦難バビロン捕囚以後、救世主(メシア)待望が強まると、イスラエルを救うメシアはダビデの子孫から出ると信じられるようになります。新約聖書では、イエス・キリストは屡々「ダビデの子」と言及される。イエス(ヨシュア)=「ヤハウェ(イスラエルの神)は救いである」の意を持つとも。キリスト=「油を注がれたもの(救世主)」という意味ですが、イエス・キリストは姓名ではなく、「イエスはキリストである」という尊称です。「ゴータマ」に「最上の牛」が、「シッダールタ」に「目的を達成する人」という意味が込められていると同様の仕様でしょう。何れにしろ、ナザレのイエスが神の分枝として顕現すれば我々常人には見ること能わず、預言者のみが現見するのみの存在です。キリストの特異性は受胎の奇跡は別としても人間との類似性を持つことです。 定理二七 我々と同類のものでかつそれにたいして我々が何の感情もいだいていないものがある感情に刺激されるのを我々が表象するなら、我々はそのことだけによって、類似した感情に刺激される。 定理二七は、我々如何にが新・旧約聖書・コーラン・各種の仏教物語を表象するかを指摘します。哲学・思想ランキング
2022年02月19日
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神の存否-324 定理二六 我々は、我々の憎むものを悲しみに刺激すると表象するすべてのものをその憎むものについて肯定しようと努める。また反対に我々の憎むものを喜びに刺激すると表象するすべてのものを否定しようと努める。 証明 この部第三部の前定理二五(我々は、我々自身あるいは我々の愛するものを喜びに刺激すると表象するすべてのものを、我々自身および我々の愛するものについて肯定しようと努める。また反対に、我々自身あるいは我々の愛するものを悲しみに刺激すると表象するすべてのものを否定しようと努める。がこの部第三部の定理二ー(自分の愛するものが喜びあるいは悲しみに刺激されることを表象する人は、同様に喜びあるいは悲しみに刺激されるであろう。しかもこの両感情が愛されている対象においてより大でありあるいはより小であるのに応じて、この両感情は愛する当人においてもより大でありあるいはより小であるであろう。)から帰結されたように、この定理はこの部第三部の定理二三(自分の憎むものが悲しみに刺激されることを表象する人は喜びを感ずるであろう。 これに反して自分の憎むものが喜びに刺激されることを表象すれば悲しみを感ずるであろう。そしてこの両感情は、その反対の感情が自分の憎むものにおいてより大でありあるいはより小であるのに応じて、より大であり、あるいはより小であるであろう。)から帰結される。 備考 これで我々は、人間が自分自身ならびに自分の愛するものについて正当以上に感じ、将又、自分の憎むものについて正当以下に感ずるということが起こりやすいことを知りうる。 こうした表象は自分について正当以上に感ずる人間自身に関係する時は高慢と呼ばれ、そしてこれは狂気の一種である。なぜならこのような人間は、単に表象においてのみ達成されることをすべてなしうるものと目を開きながら夢み、そのためにそれらのことを実在するかのように観想し、そしてそれらの存在を排除しかつその人間自身の活動能力を限定するものを表象しえない限りにおいて、それらについて誇っているのだからである。ゆえに高慢とは人間が自分自身について正当以上に感ずることから生ずる喜びである。次に人間が他のものについて正当以上に感ずることから生ずる喜びは買いかぶりと呼ばれ、最後に人間が他のものについて正当以下に感ずることから生ずる喜びは見くびりと呼ばれる。 現代にあっては高慢は人類須らく陥っている問題かもしれない。其れ故に陥穽には気を配る配慮はあらゆる場面で必須であり、明日は人間、若しくは、なかでも自己が認識する世界さえ消失することを肝に銘じて生涯を全うしたいものです。哲学・思想ランキング
2022年02月18日
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いっぷ句-71オミクロン誰が(たが)細胞の成れの果て 愚通 地球上で最初のウイルスはどうやって出現したのか。約40億年前の地球は、小さな物質があるだけのモノに満ちた世界だった。そのモノが「非生命」から、遺伝情報を複製する「生命」へと一線を越えた。その瞬間を目撃した研究者がいる。試験管の中で、モノにすぎなかった物質が寄生体へと驚きの進化を遂げた。そして細胞へと進化、ところがこの時点で敗北者、物質の1つが周りの成分を引き寄せて自分の複製を作り始めた。時々、複製のミスが生じ、「出来損ない」が生まれた。どこかが壊れたのか複製ができなくなっていた。消えて無くなると思いきや、しぶとく他の物質の複製反応を借りて数を増やした。まるで寄生体だ。とは云え、人間身体を司るDNAの60%はウイルスです。Virusが生命でないとしたら人間の生命体としての本体は40%です。
2022年02月17日
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神の存否-323 定理二五 我々は、我々自身あるいは我々の愛するものを喜びに刺激すると表象するすべてのものを、我々自身および我々の愛するものについて肯定しようと努める。また反対に、我々自身あるいは我々の愛するものを悲しみに刺激すると表象するすべてのものを否定しようと努める。 証明 我々の愛するものを喜びあるいは悲しみに刺激すると我々が表象するものは、我々をも喜びあるいは悲しみに刺激する(この部第三部の定理二一 自分の愛するものが喜びあるいは悲しみに刺激されることを表象する人は、同様に喜びあるいは悲しみに刺激されるであろう。しかもこの両感情が愛されている対象においてより大でありあるいはより小であるのに応じて、この両感情は愛する当人においてもより大でありあるいはより小であるであろう。により)。ところが精神は(この部第三部の定理一二 精神は身体の活動能力を増大しあるいは促進するものをできるだけ表象しようと努める。により)我々を喜びに刺激するものをできるだけ表象しようと努める。言いかえれば(第二部定理一七 もし人間身体がある外部の物体の本性を含むような仕方で刺激されるならば、人間精神は、身体がこの外部の物体の存在あるいは現在を排除する刺激を受けるまでは、その物体を現実に存在するものとして、あるいは自己に現在するものとして、観想するであろう。および、その定理一七系 人間身体をかつて刺激した外部の物体がもはや存在しなくても、あるいはそれが現在しなくても、精神はそれをあたかも現在するかのように観想しうるであろう。により)そうしたものを現在するものとして観想しようと努める。また反対に(この部第三部の定理一三 精神は身体の活動能力を減少しあるいは阻害するものを表象する場合、そうした物の存在を排除する事物をできるだけ想起しようと努める。により)我々を悲しみに刺激するものについてはその存在を排除しようと努める。ゆえに我々は、我々自身あるいは我々の愛するものを喜びに刺激すると表象すかすべてのものを、我々自身および我々の愛するものについて肯定しようと努める。また反対の場合は反対のことに努める。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。 以上は、たとえ「愛」そのものを共有する集団であれ、「愛」の対象が複数に跨がれば敵対性を帯びる集団意識の危険性に警鐘を与えたものともとれます。哲学・思想ランキング
2022年02月16日
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神の存否-322 勧善懲悪は人の感情を揺すぶります。我々の憎むものを悲しみに刺激することを我々が表象する個人的精神感情に照らしての悪役は人間個人の倫理に反しても攻撃の対象「妬み」に通じます。:記 定理二四 ある人が我々の憎むものを喜びに刺激することを我々が表象するなら、我々はその人に対しても憎しみに刺激されるであろう。反対にその人が我々の憎むものを悲しみに刺激することを我々が表象するなら、我々はその人に対して愛に刺激されるであろう。 証明 この定理はこの部第三部の定理二二 ある人が我々の愛するものを喜びに刺激することを我々が表象するなら、我々はその人に対して愛に刺激されるであろう。これに反して、その人が我々の愛するものを悲しみに刺激することを我々が表象するならば、我々は反対にその人に対して憎しみに刺激されるであろう。と同様の仕方(間接的感情移入)で証明される。その個所を見よ。 備考 これらの感情ならびに憎しみから来るこれと類似の諸感情はねたみ(妬み)の中に入れられる。したがってねたみとは人間をして他人の不幸を喜びまた反対に他人の幸福を悲しむようにさせるものと見られる限りにおける憎しみそのものにほかならない。哲学・思想ランキング
2022年02月15日
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神の存否-321 スピノザの哲学が民族的救済並びに宗教的しがらみからの同胞への救済を目していたであろうことは疑いを得ません。;記 定理二三 自分の憎むものが悲しみに刺激されることを表象する人は喜びを感ずるであろう。 これに反して自分の憎むものが喜びに刺激されることを表象すれば悲しみを感ずるであろう。そしてこの両感情は、その反対の感情が自分の憎むものにおいてより大でありあるいはより小であるのに応じて、より大であり、あるいはより小であるであろう。 証明 憎まれたものは悲しみに刺激される限りにおいて破壊される、しかもより大なる悲しみに刺激されるに従ってそれだけ多く破壊される(この部第三部の定理一一の備考 そこで我々は、精神がもろもろの大なる変化を受けて時にはより大なる完全性へ、また時にはより小なる完全性へ移行しうることが分かる。この受動が我々に喜びおよび悲しみの感情を説明してくれる。こうして私は以下において喜びを精神がより大なる完全性へ移行する受動と解し、これに反して悲しみを精神がより小なる完全性へ移行する受動と解する。さらに私は精神と身体とに同時に関係する喜びの感情を快感あるいは快活と呼び、これに反して同様な関係における悲しみの感情を苦痛あるいは憂鬱と呼ぶ。しかし注意しなければならないのは、快感および苦痛ということが人間について言われるのは、その人間のある部分が他の部分より多く刺激されている場合であり、これに反して快活および憂鬱ということが言われるのは、その人間のすべての部分が一様に刺激されている場合であるということである。により)。ゆえに(この部の定理二〇により)自分の憎むものが悲しみに刺激されることを表象する人は反対に喜びに刺激されるであろう、しかも憎まれたものがより大なる悲しみに刺激されたことを表象するに従ってそれだけ大なる喜びに刺激されるであろう。これが第一の点であった。次に喜びは喜ぶものの存在を定立する(同じく上記に述べた、この部の第三部定理一一の備考により)、しかもその喜びがより大であると考えられるに従ってそれだけ多く定立する。もし自分の憎むものが喜びに刺激されることをある人が表象するなら、この表象は(この部第三部の定理一三 精神は身体の活動能力を減少しあるいは阻害するものを表象する場合、そうした物の存在を排除する事物をできるだけ想起しようと努める。により)その人良身の努力を阻害するであろう、言いかえれば(上記に述べた、この部第三部の定理一一の備考により)憎む人は悲しみに刺激されるであろう、云々。Q・E・D・此れが証明すべきことであった。 備考 この亊次第はあまり基礎の固いものでなく、また心情の葛藤を伴わないわけにはいかない。 なぜなら(まもなくこの部第三部の定理二七 我々と同類のものでかつそれにたいして我々が何の感情もいだいていないものがある感情に刺激されるのを我々が表象するなら、我々はそのことだけによって、類似した感情に刺激される。で証明するだろうように)、人は自分と同類のものが悲しみの感情に刺激されることを表象する限り、悲しまざるをえないからである。また反対に自分と同類のものが喜びに刺激されることを表象すれば、喜ばざるをえない。しかしここで我々は、人があるものを憎んでいる場合のみを念頭に置いて言っているのである。 以上の文面を慮ってみれば、人種的偏見・民族的差別・宗教的嫌悪・偏見及び虐待の其れとは関わらなかった民族はいざ知らず、宗教のみならず、人種的偏見からの二重の迫害を受けた民族としてのスピノザは自らの体験に照らしても魂の叫びであったでしょう。哲学・思想ランキング
2022年02月14日
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神の存否-320 スピノザは人間の精神感情の愛憎の深さが当事者のみならず他者にもどう及ぼすのかを問います。:記 定理二二 ある人が我々の愛するものを喜びに刺激することを我々が表象するなら、我々はその人に対して愛に刺激されるであろう。これに反して、その人が我々の愛するものを悲しみに刺激することを我々が表象するならば、我々は反対にその人に対して憎しみに刺激されるであろう。 証明 我々の愛するものを喜びあるいは悲しみに刺激する人は、我々が、我々の愛するものがその事びあるいは悲しみに刺激されたそのことを表象する限り、我々を喜びあるいは悲しみに刺激する(前定理第三部定理二一 自分の愛するものが喜びあるいは悲しみに刺激されることを表象する人は、同様に喜びあるいは悲しみに刺激されるであろう。しかもこの両感情が愛されている対象においてより大でありあるいはより小であるのに応じて、この両感情は愛する当人においてもより大でありあるいはより小であるであろう。により)。ところがこの喜びあるいは悲しみは、仮定によれば、外部の原因の観念を伴って我々の中に在る。ゆえに(この部第三部の定理一三の備考 要約:すなわち愛とは外部の原因の観念を伴った喜びにほかならないし、また憎しみとは外部の原因の観念を伴った悲しみにほかならない。なおまた、愛する者は必然的に、その愛する対象を現実に所有しかつ維持しようと努め、これに反して憎む者はその憎む対象を遠ざけかつ滅ぼそうと努めることを我我は知る。により)、もしある人が我々の愛するものを喜びあるいは悲しみに刺激することを我々が表象するなら、我々はその人に対して愛あるいは憎しみに刺激されるであろう。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。 備考 定理二一は憐憫の何たるかを我々に説明してくれる。我々はこれを他人の不幸から生ずる悲しみであると定義することができる。しかし他人の幸福から生ずる喜びがいかなる名前で呼ばれるべきかを私は知らない。さらに我々は他人に善をなした人に対する愛を好意と呼び、これに反して他人に悪をなした人に対する憎しみを憤慨と呼ぶであろう。最後に注意すべきことは、我々は我々の愛したものに憐憫を感ずる(前定理二ー 自分の愛するものが喜びあるいは悲しみに刺激されることを表象する人は、同様に喜びあるいは悲しみに刺激されるであろう。しかもこの両感情が愛されている対象においてより大でありあるいはより小であるのに応じて、この両感情は愛する当人においてもより大でありあるいはより小であるであろう。で示したように)だけでなく、また以前には我我が何の感情もいだいていなかったものに対しても、ただそのものが我々に類似する・同類であると我々が判断すれば我々はこれに憐憫を感ずる、のちに示すだろうように。したがって我々は自分と同類のものに善をなした人に対しても好意を感じ、また反対に自分と同類のものに不幸を与えた人に対しても憤慨を感ずるであろう。 此れは人間が個人生活だけでなく、社会生活上、いかに集団・同族意識が意識下にあるかを顕しています。昨今の情報映像のリアルタイム化によりその傾向は加速化こそすれ、沈静はなく、常態化しつつあります。哲学・思想ランキング
2022年02月13日
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神の存否-319 我々は通常生活においても、子に対する父としての自然な愛情である父性愛に対して、母親としての子供に対する本能的な愛情に驚かされることがあります。したがって母性愛と母性本能はほぼ同義として扱うことが出来ます。其のこと故に、人類の贄となる神の子イエスに対する聖母マリアの愛が自らの腹を痛めた子に留まらず人類そのものへの愛となる聖母信仰が生じます。:記 定理二一 自分の愛するものが喜びあるいは悲しみに刺激されることを表象する人は、同様に喜びあるいは悲しみに刺激されるであろう。しかもこの両感情が愛されている対象においてより大でありあるいはより小であるのに応じて、この両感情は愛する当人においてもより大でありあるいはより小であるであろう。 証明 愛されているものの存在を定立する事物の表象像は(この部第三部の定理一九で証明 要約:愛するものの存在を定立する事物の表象像は、愛するものを表象しようと努める精神の努力を促進する。言いかえれば精神を喜びに刺激する。これに反して愛するものの存在を排除する事物の表象像は、精神のこの努力を阻害する。言いかえれば精神を悲しみに刺激する。 ゆえに自分の愛するものが破壊されることを表象する人は悲しみを感ずるであろう云々、のように)、愛されているものを表象しようと努める精神の努力を促進する。ところが喜びは、喜ぶものの存在を定立し、しかも喜びの感情がより大なるに従ってそれだけ多く定立する。なぜなら喜びは(この部第三部の定理一一の備考により)より大なる完全性への移行だからである。ゆえに愛する当人における愛されている対象の喜びの表象像は、愛する当人の精神の努力を促進する、言いかえれば(この部の定理一一の備考により)愛する当人を喜びに刺激する、しかも喜びの感情が愛されている対象においてより大であったのに従ってそれだけ大なる喜びに刺激する。これが第一の点であった。次に物は何らかの悲しみに刺激される限り破壊される、しかもより大なる悲しみに刺激されるに従ってそれだけ多く破壊される(同じくこの部第三部の定理一一の備考 要約:我々は、精神がもろもろの大なる変化を受けて時にはより大なる完全性へ、また時にはより小なる完全性へ移行しうることが分かる。)。したがって(この部第三部の定理一九 自分の愛するものが破壊されることを表象する人は悲しみを感ずるであろう。これに反して自分の愛するものが維持されることを表象する人は喜びを感ずるであろう。により)、自分の愛するものが悲しみに刺激されること表象する人は同様に悲しみに刺激されるであろう、しかも悲しみの感情が愛されている対象においてより大であったのに従ってそれだけ大なる悲しみに刺激されるであろう。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。哲学・思想ランキング
2022年02月12日
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神の存否-318 スピノザの人種的・宗教的背景の心身の二重の複雑性が此処定理二〇では彼の正邪をも超えた屈折した苦悩が顕れていることが憶測されます。後世のユダヤ人への独逸ナチスの迫害の熱狂的狂奔を暗示しています。 定理二〇 自分の憎むものが破壊されることを表象する人は喜びを感ずるであろう。 証明 精神は(この部第三部の定理一三 精神は身体の活動能力を減少しあるいは阻害するものを表象する場合、そうした物の存在を排除する事物をできるだけ想起しようと努める。)により、身体の活動能力を減少しあるいは阻害する事物の存在を排除するようなものを表象しようと努める。言いかえれば精神は(同じこの部第三部の定理一三の備考 これらのことによって我々は愛および憎しみの何たるかを明瞭に理解する。すなわち愛とは外部の原因の観念を伴った喜びにほかならないし、また憎しみとは外部の原因の観念を伴った悲しみにほかならない。なおまた、愛する者は必然的に、その愛する対象を現実に所有しかつ維持しようと努め、これに反して憎む者はその憎む対象を遠ざけかつ滅ぼそうと努めることを我我は知る。しかしこれらすべてについては、以下においていっそう詳しく述べるであろう。)により、自分の憎むものの存在を排除するようなものを表象しようと努める。したがって精神の憎むものの存在を排除するような物の表象像は精神のこの努力を促進する、言いかえればそれは(この部第三部の定理一一の備考 そこで我々は、精神がもろもろの大なる変化を受けて時にはより大なる完全性へ、また時にはより小なる完全性へ移行しうることが分かる。この受動が我々に喜びおよび悲しみの感情を説明してくれる。こうして私は以下において喜びを精神がより大なる完全性へ移行する受動と解し、これに反して悲しみを精神がより小なる完全性へ移行する受動と解する。さらに私は精神と身体とに同時に関係する喜びの感情を快感あるいは快活と呼び、これに反して同様な関係における悲しみの感情を苦痛あるいは憂鬱と呼ぶ。しかし注意しなければならないのは、快感および苦痛ということが人間について言われるのは、その人間のある部分が他の部分より多く刺激されている場合であり、これに反して快活および憂鬱ということが言われるのは、その人間のすべての部分が一様に刺激されている場合であるということである。)により、精神を喜びに刺激する。ゆえに自分の憎むものが破壊されることを表象する人は喜びを感ずるであろう。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。 この人間の精神の通常の善悪・道義・正邪をも超えた感情は善の中にも悪を持ち込み、悪の中にも手前勝手の善の思いを持ち込みます。善の中の悪道、悪の中の善道を醸し出すのです。此れこそが人間精神の根底の基本なのかもしれません。人類史上類まれなる発展途上にある現代にあっても根を枯らすどころか、増々、枝葉を満たすのですから。復仇に対する復仇。スピノザは旧約ユダヤ民族としての迫害には如何様に歯軋りしたのかは我々には計り知れないものがあります。哲学・思想ランキング
2022年02月11日
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神の存否-317 一口に「愛」といっても古今東西における其々の思わく・枠組みが相違し、此れが「愛」だと統一されているわけではありません。社会的な人間にとって根源的な愛の形態の一つは。自分自身を支える基本的な力となる自己愛( 英語でself-love とも、narcissism の訳語として用いられることもある)なるものでしょう。 生まれてきたばかりの赤ん坊は、庇護者と接しながら自己と他者の認識を形成する。その過程で自身が無条件に受け入れられていると実感することが、自己愛の形成に大きく関与します。「自分が望まれている」事を前提に生活できることは、自身を大切にし自己実現に向かって前進する土台となり得ます。また、自己に対する信頼が安定すること、自分という身近な存在を愛せることは、その経験から他者を尊重することにも繋がるのです。心理学者らからは、自己愛が育って初めて他人を本当に愛することができるようになる、としばしば指摘されているが如く、自分を愛するように、他者を愛することができるという訳です。自分を愛せない間は、人を愛するのは難しいと言われるのも道理です。ところが、子供の成長環境によっては、虐待されたり、自身の尊厳を侵されたりするような環境に屡々置かれることがある。この場合、その子供は自己の精神統御次第で逆境に打ち勝ち、人格者に成長する可能性もあるし、自己愛が希薄な自虐的な性格になるなどの可能性もある。もし仮に後者であって自己愛を取り戻すには、自身が無条件で受け入れられていると強烈に実感する実体験が鍵の一つとなることもあり得ましょう。将又、周囲から見てか精神的に未熟な者が、恋愛の最中に「恋している自分に恋している」と評されることも多々あります。これは、気分が舞い上がり対象を愛している自己に酔っている、また、パートナーがいるという優越感に浸っている状態を揶揄するものです。しかし、本人の認識も、他者も、恋愛の対象も、全面的に真に相互的な恋愛感情を抱いていると誤認しやすいことから、問題を醸しやすく生に限りある「自己愛」は人間精神に究極の「喜び」を齎すものではありません。 スピノザは世界の究極の存在であるものにも、世界を認識しようとする人間存在に「自己愛」という思惟がある以上、その延長・様態の根源であるものには「自己愛」が存在する筈だと思考します。哲学・思想ランキング
2022年02月10日
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神の存否-316 スピノザが人間の精神活動における感情として、前定理一九では自分の愛するものが破壊されることを表象する人は悲しみを感ずるであろう。これに反して自分の愛するものが維持されることを表象する人は喜びを感ずるであろう。として「愛」なるものを取り上げていますが、スピノザの「愛」なる概念とは一様なものなのか、将又、如何様なものを指し示すのかはスピノザ哲学を理解する上で非常に重要です。スピノザの著書には大概に序論から始まるのですが「エチカ」には其れらしきものはありません。特に実践倫理が「愛」を中心にされる筈なのに前提が曖昧です。 実は、1660年頃の若きスピノザの著書「知性改善論」に「エチカ」の序論とも云うべき「愛」の概念が語られています。「喜び・悲しみ・欲望」の前提たる「冨・名誉・快楽」の追求を情念と指摘した上で、人間なる者の愛は全て滅びうるものへの愛であると述べ、人間の愛は「喜び・悲しみ・欲望」とともに一過性のものだと暗示します。スピノザは「知性改善論」では「愛」の定義を「愛とは、優れていて善いと我々の知性が判断するところの対象との合一である」と記します。この観点から「エチカ」では「愛」そのものの対象が課題になり、我々を愛の永遠・不滅の愛・永劫の愛へと導くことを目します。哲学・思想ランキング
2022年02月09日
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神の存否-315 スピノザが精神感情とした基本の第三者、「喜び・悲しみ・欲望」に「愛」なるものがどの様な位置を齎すのでしょうか。:記 定理一九 自分の愛するものが破壊されることを表象する人は悲しみを感ずるであろう。これに反して自分の愛するものが維持されることを表象する人は喜びを感ずるであろう。 証明 精神は身体の活動能力を増大しあるいは促進するものを(この部第三部の定理一二 精神は身体の活動能力を増大しあるいは促進するものをできるだけ表象しようと努める。により)、言いかえれば(この部の定理一三の備考 要約:愛とは外部の原因の観念を伴った喜びにほかならないし、また憎しみとは外部の原因の観念を伴った悲しみにほかならない。なおまた、愛する者は必然的に、その愛する対象を現実に所有しかつ維持しようと努め、これに反して憎む者はその憎む対象を遠ざけかつ滅ぼそうと努めることを我我は知る。により)自分の愛するものを、できるだけ表象しようと努める。ところが表象力は物の存在を定立するものによって促進され、また反対に物の存在を排除するものによって阻害される(第二部定理一七もし人間身体がある外部の物体の本性を含むような仕方で刺激されるならば、人間精神は、身体がこの外部の物体の存在あるいは現在を排除する刺激を受けるまでは、その物体を現実に存在するものとして、あるいは自己に現在するものとして、観想するであろう。により)。ゆえに愛するものの存在を定立する事物の表象像は、愛するものを表象しようと努める精神の努力を促進する、言いかえれば精神を喜びに刺激する。これに反して愛するものの存在を排除する事物の表象像は、精神のこの努力を阻害する。言いかえれば精神を悲しみに刺激する。 ゆえに自分の愛するものが破壊されることを表象する人は悲しみを感ずるであろう、云々。Q・E・D・此れが証明すべきことだった。 人は自らに喜びをもたらす原因となるものを愛し、悲しみの原因となるものを憎む。スピノザによれば、人間は自己を存続させようとする本性を持ち、喜びとは人間がより小さな完全性から、より大きな完全性へ移行することにより生まれる感情であり、悲しみとはその逆であることになる。哲学・思想ランキング
2022年02月08日
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神の存否-314 スピノザは人間の精神感情は現実的身体の刺激からのみの喜び・悲しみあるいは欲望に限定されない付随の感情、脳活動の表象にも人間が影響されることを説きます。:記 備考一 私がここで物を過去のものとか未来のものとか呼ぶのは、我々がその物によって刺激されたかあるいは刺激されるであろう限りにおいてである。例えば我々がある物を見たかあるいは見るであろう、ある物が我々を活気づけたかあるいは活気づけるであろう、ある物が我々を害したかあるいは害するであろうことども等々の限りにおいて、私はその物を過去のもの、あるいは未来のものと呼ぶのである。なぜなら、物をそのようなふうに表象する限りにおいて、我々はその物の存在を肯定している。言いかえれば身体はその物の存在を排除するいかなる感情にも刺激されない。したがって(第二部定理一七 もし人間身体がある外部の物体の本性を含むような仕方で刺激されるならば、人間精神は、身体がこの外部の物体の存在あるいは現在を排除する刺激を受けるまでは、その物体を現実に存在するものとして、あるいは自己に現在するものとして、観想するであろう。により)身体はその物の表象像によってあたかもその物自身が現在したであろう場合と同じ仕方で刺激される。ではあるがしかし、数々の経験をもつ人々は、物を未来あるいは過去のものとして観想する間は、大抵動揺して、その物の結果について多くは疑惑を有するから(第二部定理四四の備考 要項:精神は物の現在する存在を排除する原因が現われぬ限り、たとえ物が存在していなくとも、常にその物を自己に現在するものとして表象する。もし人間身体がかつて外部の二物体から同時に刺激されたなら、精神はあとになってそのどちらか一つを表象する場合ただちに他の一つを想起するであろうということ、言いかえれば両者の現在する存在を排除する原因が現われぬ限り両者を現在するものとして観想するであろう。なおまた我々が時間をも表象することは何びとも疑わぬところである。すなわち我々は、ある物体が他の物体と比べてより緩やかにあるいはより速やかにあるいは等しい速度で運動すると考えることによって時間を表象するのである。を見よ)、したがって事物のこの種の表象像から生ずる感情はさほど確乎たるものでなく、人々がその物の結果について確実になるまでは、しばしば他の事物の表象像によって乱されることになる。 備考二 今しがた述べたことどもから、我々は希望、恐怖、安堵、絶望、歓喜および落胆の何たるかを理解する。すなわち希望とは我々がその結果について疑っている未来または過去の物の表象像から生ずる不確かな喜びにほかならない。これに反して恐怖とは同様に疑わしい物の表象像から生ずる不確かな悲しみである。さらにもしこれらの感情から疑惑が除去されれば希望は安堵となり、恐怖は絶望となる。すなわちそれは我々が希望しまたは恐怖していた物の表象像から生ずる喜びまたは悲しみである。次に歓喜とは我々がその結果について疑っていた過去の物の表象像から生ずる喜びである。最後に落胆とは歓喜に対立する悲しみである。 此処に初めてスピノザは我々が時間をも表象すること、人間が、ある物体が他の物体と比べてより緩やかにあるいはより速やかにあるいは等しい速度で運動すると考えることによって時間を表象することを述べ、彼の時間観を述べています。哲学・思想ランキング
2022年02月07日
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神の存否-313 人間は過去あるいは未来の物の表象像、更には、私的には夢魔(むうま)の齎す仮象によっても悲喜こもごもの感情が引き起こされます。:記 定理一八 人間は過去あるいは未来の物の表象像によって、現在の物の表象像によるのと同様の喜びおよび悲しみの感情に刺激される。 証明 人間はある物の表象像に刺激されている間は、たとえその物が存在していなくとも、それを現在するものとして観想するであろう(第二部定理一七 もし人間身体がある外部の物体の本性を含むような仕方で刺激されるならば、人間精神は、身体がこの外部の物体の存在あるいは現在を排除する刺激を受けるまでは、その物体を現実に存在するものとして、あるいは自己に現在するものとして、観想するであろう。および、その系 人間身体をかつて刺激した外部の物体がもはや存在しなくても、あるいはそれが現在しなくても、精神はそれをあたかも現在するかのように観想しうるであろう。)により、そしてその物の表象像が過去あるいは未来の時間の表象像と結合する限りにおいてでなくては、それを過去あるいは未来のものとして表象しない(第二部定理四四の備考 要項:たとえ物が存在していなくとも、常にその物を自己に現在するものとして表象するを見よ)。だから物の表象像は、単にそれ自体において見れば、それが未来ないし過去の時間に関係したものであろうと現在に関係したものであろうと同じである。言いかえれば(第二部定理一六の系二 この帰結として第一に、人間精神は自分自身の身体の本性とともにきわめて多くの物体の本性を知覚するということになる。により)により・身体の状態(コンスティトゥティオ)あるいは感情(アフェクトゥス)は表象像が過去あるいは未来の物に関するものであろうと現在の物に関するものであろうと同じである。したがって喜びおよび悲しみの感情は表象像が過去あるいは未来の物に関するものであろうと現在の物に関するものであろうと同じである。Q・E・D・此れが証明すべきことであった。哲学・思想ランキング
2022年02月06日
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神の存否-312 一般に「不倫」、どちらか又は双方が既婚者がいる場合の浮気では、其の不倫行為の当事者ではなく、相手方を責めるのは屡々耳にすることです。恐らくこれにはスピノザの云う精神の基本的感情である喜び・悲しみ・欲望の全てが関わり合います。「不・倫」の語彙が表す如く人間精神の感情を逆撫でするものでしょう。理知的であると思われていた人間さえ感情を揺乱させます。此れが不倫行為の当事者に喜び・悲しみ・欲望の全てがむかえば世間には理解されない行為を生むことさえあります。 定理一七 我々を悲しみの感情に刺激するのを常とする物が、等しい大いさの喜びの感情に我々を刺激するのを常とする他の物と多少類似することを我々が表象する場合、我々はその物を憎みかつ同時に愛するであろう。 証明 なぜなら(仮定により)この物はそれ自体によって悲しみの原因である。そして我々が(この第三部の定理一三の備考 要約:すなわち愛とは外部の原因の観念を伴った喜びにほかならないし、また憎しみとは外部の原因の観念を伴った悲しみにほかならない。なおまた、愛する者は必然的に、その愛する対象を現実に所有しかつ維持しようと努め、これに反して憎む者はその憎む対象を遠ざけかつ滅ぼそうと努めることを我我は知る。により)この物を悲しみの感情をもって表象する限り我々はそれを憎む。さらにまたそれが我々を等しい大いさの喜びの感情に刺激するのを常とする他の物に多少類似することを我々が表象する限り、我々はそれを等しい大いさの喜びの緊張をもって愛するであろう(この第三部前定理 ある物が、精神を喜びあるいは悲しみに刺激するのを常とする対象に多少類似すると我々が表象するというだけのことからして、その物がその対象と類似する点がそうした感情の起成原因〔直接原因〕でなくても、我々はその物を愛しあるいは憎むであろう。)により。したがって我々はそれを憎みかつ同時に愛するであろう。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。 備考 二つの相反する感情から生ずるこの精神状態は心情の動揺と呼ばれる。したがってその感情に対する関係は、疑惑の表象に対する関係と同様である(第二部定理四四の備考 要約:我々は物を現在に関してもあるいは過去ないし未来に関しても偶然なものとして表象するであろう。)を見よ。そして心情の動揺と疑惑との相違は、ただその度合の強弱という点にのみ存するのである。しかしここに注意しなければならぬのは云々。私は前定理(ある物が、精神を喜びあるいは悲しみに刺激するのを常とする対象に多少類似すると我々が表象するというだけのことからして、その物がその対象と類似する点がそうした感情の起成原因〔直接原因〕でなくても、我々はその物を愛しあるいは憎むであろう。)においてこの心情の動揺を、それ自身によってある感情の原因であり・偶然によって他の感情の原因であるような原因から導き出したが、それはそうした方がこの動揺をより容易に前の諸定理から導き出しうるからであって、何も心情の動揺が、多くの場合、二つの感情の起成原因〔直接原因〕であるような一対象から生ずることを否定しているわけではないということである。なぜなら、人間身体は本性を異にするきわめて多くの個体から組織されており、したがって人間身体は同一物体からきわめて多くの異なった仕方で刺激されることができる。また逆に、同一事物が多くの仕方で刺激されうるからには、同一事物がまた多くの異なった仕方で人間身体の同一部分を刺激することができるであろう。すなわちこれらのことからして我々は同一対象が多くのかつ相反する感情の原因となりうることを容易に理解することができるのである。哲学・思想ランキング
2022年02月05日
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神の存否-311 精神と感情の違いを我々は通常は意識的には区別していません。精神と感情の差とは、精神的および感情的は識別の類似したおよび異なった特徴の両方との二つの類型の人間の行動パターンを示します。人間の心(精神)と私たちが日常生活で経験する感情との間には驚くべき関係があることが生理学的・心理学的研究によっても示されています。さらに、人間は、人生のさまざまな段階で精神的および感情的行動の両方を経験することは明らかです。一言で言えば、 精神的行動は人間の脳で扱うことが知られています 一方 感情的な行動は心を扱うと考えられています。精神的行動は心(生理学的には脳)と関連しています。さらに、精神的な行動と感情的な行動の間には重要な関係があり、さまざまな感情の変化が自分の精神に明らかな影響を与える可能性があります。例えば、事故で彼の最愛の人を失った人は感情的には非常に悲しい、そして人間の心は排水されていきます。当人は数日、数ヶ月そして時には何年もの間悲しみ、そして最終的には脳内の神経伝達物質の反応性活動の結果として鬱病のような障害の症状と同様の症状を伴う弱い精神状態に陥るでしょう。人間の精神的な行動は個人によって異なります。精神的な変容とそれに続く心的外傷を伴う人生の出来事を経験したことのある人は、普通の人のそれと比較して非常に感情的であるか、あるいは全く感情を持たないでしょう。=記 定理一六 ある物が、精神を喜びあるいは悲しみに刺激するのを常とする対象に多少類似すると我々が表象するというだけのことからして、その物がその対象と類似する点がそうした感情の起成原因〔直接原因〕でなくても、我々はその物を愛しあるいは憎むであろう。 証明 その物がその対象に類似する点を我々は対象自身において(*仮定により)喜びあるいは悲しみの感情をもって観想した。したがって(この部第三部の定理一四 もし精神がかつて同時に二つの感情に刺激されたとしたら、精神はあとでその中の一つに刺激される場合、他の一つにも刺激されるであろう。により)精神はこの類似点の表象像によって刺激される場合ただちに喜びあるいは悲しみの感情にも刺激されるであろう。したがってまたこの類似点をもつと我々が知覚する物は、偶然によって喜びあるいは悲しみの原因となるであろう(この部第三部の定理一五 おのおのの物は偶然によって喜び・悲しみあるいは欲望の原因となりうる。により)。そこで(前の系 我々は、ある物を喜びあるいは悲しみの感情をもって観想したということだけからして、その物自身がそうした感情の起成原因でないのにその物を愛しあるいは憎むことができる。により)その物が対象に類似する点がそうした感情の起成原因〔直接原因〕でなくても、我々はやはりその物を愛しあるいは憎むであろう。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。哲学・思想ランキング
2022年02月04日
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神の存否-310 スピノザは目的因としては精神の自由は無いとしますが、感情は偶然が作用因として働くとします。:記 定理一五 おのおのの物は偶然によって喜び・悲しみあるいは欲望の原因となりうる。 証明 精神が同時に二つの感情に、すなわち一つは精神の活動能力を増大も減少もしないもの、他の一つはそれを増大あるいは減少するものに刺激されると仮定しよう(この第三部の要請一 人間身体はその活動能力を増大しあるいは減少するような多くの仕方で刺激されることができるし、またその活動能力を増大も減少もしないような仕方で刺激されることもできる云々を見よ)。 前定理一四(もし精神がかつて同時に二つの感情に刺激されたとしたら、精神はあとでその中の一つに刺激される場合、他の一つにも刺激されるであろう。)から次のことが明白である。すなわち精神があとでそれ自体では精神の思惟能力を増大も減少もしないとする仮定すれば、第一の感情の真の原因によってその第一の感情に刺激される場合、精神はただちに、自己の思惟能力を増大しあるいは減少する第二の感情に、言いかえれば(この部第三部の定理一一の備考 要約:精神がもろもろの大なる変化を受けて時にはより大なる完全性へ、また時にはより小なる完全性へ移行しうることが分かる云々。注:感情の比較衡量。)により、喜びあるいは悲しみに、刺激されるであろう。したがってかの第一の感情の原因となった物はそれ自体によってではなく偶然によって喜びあるいは悲しみの原因となるであろう。またこの同じ経路でそうした物が偶然によって欲望の原因となりうることを容易に示すことができる。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。 系 我々は、ある物を喜びあるいは悲しみの感情をもって観想したということだけからして、その物自身がそうした感情の起成原因でないのにその物を愛しあるいは憎むことができる。 証明 なぜなら、このことだけからして(この部第三部の定理一四もし精神がかつて同時に二つの感情に刺激されたとしたら、精神はあとでその中の一つに刺激される場合、他の一つにも刺激されるであろうにより)、精神はあとでこの物を表象する時喜びあるいは悲しみの感情に刺激されるということになる、言いかえれば(この部第三部の定理一一の備考「感情の比較衡量:記」により)精神ならびに身体の能力が増大あるいは減少させられるなどなどのことになる。したがってまた(この部第三部の定理一二 精神は身体の活動能力を増大しあるいは促進するものをできるだけ表象しようと努めるにより。)精神がその物を表象することを好みあるいは、この部第三部の定理一三の系(この帰結として、精神は自己の能力ならびに身体の能力を減少しあるいは阻害するものを表象することを厭うということになる。)により、厭うことになる、言いかえれば(この部第三部の定理一三の備考 これらのことによって我々は愛および憎しみの何たるかを明瞭に理解するにより)、精神はその物を愛し、あるいは憎むことになる。Q・E・D・此れが証明すべきことであった。哲学・思想ランキング
2022年02月03日
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神の存否-309 スピノザは精神の基本的感情を喜び・悲しみ・欲望とし、何ら他の精神感情は無いとしています。我々が馴れ親しんでいる春秋左伝の「喜怒哀楽」の精神感情とは違った捉え方です。他には心理学的・生理学的にも其々に分類がされており、結構難解な問題です。イギリスの進化論「種の起源」で著名な博物学者チャールズ・ダーウィン(Charles Robert Darwin/1809~1882年)は悲しみ、幸福、怒り、軽蔑、嫌悪、恐怖、驚きという七つの基本的感情が、文化によって異ならず、普遍的に同じ方法で表現されると考えていました。五情・六情・七情などの分類もあり千差万別です。スピノザは精神の基本的感情に顕れる精神感情は三つの基本感情の組み合わせであるとするものです。:記 定理一四 もし精神がかつて同時に二つの感情に刺激されたとしたら、精神はあとでその中の一つに刺激される場合、他の一つにも刺激されるであろう。 証明 もし人間身体がかつて同時に二つの物体から刺激されたとしたら、精神はあとでその中の一つを表象する場合、ただちに他の一つをも想起するであろう(第二部定理一八 もし人間身体がかつて二つあるいは多数の物体から同時に刺激されたとしたら、精神はあとでその中の一つを表象する場合ただちに他のものをも想起するであろう。)により。ところが精神の表象は、外部の物体の本性よりも我々の身体の感情をより多く示している(第二部定理一六の系二 第二に、我々が外部の物体について有する観念は外部の物体の本性よりも我々の身体の状態をより多く示すということになる。)により。ゆえにもし身体、したがってまた精神は(この部第三部の定義三 感情とは我々の身体の活動能力を増大しあるいは減少し、促進しあるいは阻害する身体の変状「刺激状態」、また同時にそうした変状の観念であると解する。)を見よ。かつて二つの感情に刺激されたとしたら、あとでその中の一つに刺激される場合他の一つにも刺激されるであろう。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。哲学・思想ランキング
2022年02月02日
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いっぷ句-70漢の目胃袋並みで脳はなし 愚通にほんブログ村
2022年02月01日
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神の存否-308 21世紀にの情報化社会に生きる現代人は自己の精神を自らが分析する能力は、押し寄せる量子物理科学の発展に伴う情報を制御するより、受け身に立つ受動形態を伴うことが多々あり自己の精神統御は過去よりも曖昧模糊となり、情報さえ人間の表象の阻害要因として働き、精神の葛藤(conflict)は輻輳化しています。:記 定理一三 精神は身体の活動能力を減少しあるいは阻害するものを表象する場合、そうした物の存在を排除する事物をできるだけ想起しようと努める。 証明 精神がそうしたものを表象する間は精神ならびに身体の能力は減少しあるいは阻害される(前定理一二 精神は身体の活動能力を増大しあるいは促進するものをできるだけ表象しようと努める。)において証明したように)。其れにも関わらず、精神はそうしたものの現在的存在を排除する他の物を表象するようになるまではそうしたものを表象するであろう(第二部定理一七 もし人間身体がある外部の物体の本性を含むような仕方で刺激されるならば、人間精神は、身体がこの外部の物体の存在あるいは現在を排除する刺激を受けるまでは、その物体を現実に存在するものとして、あるいは自己に現在するものとして、観想するであろう。)により。言いかえれば、今しがた示したように精神ならびに身体の能力は精神がそうしたものの存在を排除する他のものを表象するようになるまでは減少しあるいは阻害される。したがって精神は(この部第三部の定理九 精神は明瞭判然たる観念を有する限りにおいても、混乱した観念を有する限りにおいても、ある無限定な持続の間、自己の有に固執しようと努め、かつこの自己の努力を意識している。)によりできるだけこのものを表象しあるいは想起しようと努めるであろう。 Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。 系 この帰結として、精神は自己の能力ならびに身体の能力を減少しあるいは阻害するものを表象することを厭うということになる。 備考 これらのことによって我々は愛および憎しみの何たるかを明瞭に理解する。すなわち愛とは外部の原因の観念を伴った喜びにほかならないし、また憎しみとは外部の原因の観念を伴った悲しみにほかならない。なおまた、愛する者は必然的に、その愛する対象を現実に所有しかつ維持しようと努め、これに反して憎む者はその憎む対象を遠ざけかつ滅ぼそうと努めることを我我は知る。しかしこれらすべてについては、以下においていっそう詳しく述べるであろう。哲学・思想ランキング
2022年02月01日
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