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昔の話である。年末になると買出しに家族と出かける。迎春準備で商店街や市場は生鮮食料品や練り商品などを買い求めに人波が押し寄せ、賑やかな活気に包まれる。この年末の買出しがやけに楽しくてよく人混みにもまれに行ったものだ。年が明けると街は一変、静寂さを漂わせ、空気は冷たい冷気に張詰め、光は目に眩しい。朝起きると新しい下着に着替え、親に新年の挨拶をし、雑煮を頂く。店の閉まった街の静けさを感じながら氏神様に初詣へ行く。ところがである。馬鹿な事をしてくれたもので、一昔そんな美しい日本の伝統を破りある大手のスーパーが元旦からなんと店を開けだした。それに負けじと追随、次から次えと大手のスーパーが真似をしだし開店しだした。そうなると今度は中堅スーパー、ホームセンター、大型電気店なども開店。昔はデパートでも三日からしか開かなかった。これでは全く平日の営業と同じ感覚ではないか。確かに便利である。しかし店が閉まるからこそ、年末の慌しい買出し風景があったのであり、おせち料理も存在感があった。特に日本人は節目、節目を祝い、大切に守ってきたのだ。便利、効率だけが優先される事自体おかしいとは今の日本人は思わないらしい。それらには文化も伝統も存在しない。本来文化とか伝統は不便、非効率なものなのである事を解って欲しい。だから大切なのだ。正月の風情を変えてしまった大手スーパーの罪は大きい。途轍もなく罪は大きいのだ。家族の誰かが働く事により家庭の正月の様子まで変わってしまった。正月三が日だけは国民皆休んだらいいのだ。誰がなんと言おうと。暴論かも知れないが荘厳な光とおいしい空気は一年に一度は味わなくてはいけない。皆そろって正月気分を味わい、そして伝統を子孫に継承していく。お金では買え難い財産である。極論、暴論お許しあれ。今年はこれにて筆を置きたい。皆様良いお年を・・・・。
2006.12.30
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映画好きの叔父は近くの映画館へ幼い私を連れてよく見に行った。子供を連れて行くぐらいだからアニメか怪獣映画と思いきやいつも石原裕次郎か小林旭である。当時の娯楽といえば映画かパチンコぐらいしかなく、特に映画は隆盛を極めていた。叔父も20歳そこそこの青春時代で、裕次郎に憧れていたのだろう。所詮、土台が土台だけに叔父の裕次郎カットはお世辞にもカッコイイものではなかったし子供ながらも裕次郎を見ているとカッコイイ事はわかっている。足が長いし、大勢のヤクザとの喧嘩のシーンなどボコボコに殴られながらもニヤリと笑い、口を切って微かに流れる血を見てボクサー並みのパンチ力で反撃・・・。余りにも強すぎる。それゆえに女性にはあまり興味が無い。これぞ色男の条件か。女性を見たら目をぎらぎらさせた叔父には所詮無理な話でやはり雲泥の開きがある。その頃の映画館は3本立てが大方で叔父に言わせると裕次郎、旭、クレィジーキャッツの組み合わせが最高らしい。その叔父の影響ではないと思うが学生の頃から裕次郎のLPやテープを好んで聴く姿が友人らにはちと不可解に写った様だ。当時は荒井由美、チューリップや吉田拓郎などが若者たちの"神様"であったし、演歌の歌など聴く輩は"体制派"と罵られたものだ。しかし裕次郎の歌はよく聴くと実に味がある。その中でも特に心しみる歌が「わが人生に悔いはない」である。 「わが人生に悔いはない」 詩/なかにし 礼 曲/加藤 登紀子 鏡に映るわが顔にグラスをあげて乾杯を、たった一つの星をたよりにはるばる遠へ来たもんだ。長かろうと短かかろうとわが人生に悔いはない。この世に歌があればこそ、こらえた涙いくたびか、親にもらった体一つで戦い続けた気持よさ、右だろうと左だろうとわが人生に悔いはない。桜の花の下で見る夢にも似てる人生さ、純で行こうぜ、愛で行こうぜ、生きてるかぎりは青春だ。夢だろうと現実だろうとわが人生に悔いはない。わが人生に悔いはない。 誰しもが悔いのない人生をおくりたいと願っている。裕次郎は若くして彗星のように消えていった・・・。しかしその面影は我ら中高年の永遠のヒーローとして強烈に心に焼きついているのだ。
2006.12.29
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三重県と奈良県の県境に赤目という珍しい地名の所がある。ここは日本滝100選にも選ばれた滝の名所で一般に赤目四十八滝と呼ばれている。大小、形の変わった滝など四十八滝以上の表情を見せてくれるのだ。雨が多いせいか水量も多く四季折々何時訪れても素晴らしく、多くのアマチュアカメラマンが三脚を据えシャッターチャンスを狙っている。特に紅葉は素晴らしく滝と紅葉が一幅の絵のように見学者を楽しませてくれる。我輩も人生、人間関係に悩み、迷い、また自身喪失など精神的にダメージを受けた時には何故か赤目に足が向くのだ。行くと本当に心が癒やされる。魂の洗浄と言うべきか。水の流れる音、岩にあたりほとばしる水しぶき、悩みに結論が出るわけではないが滝というものは不思議な力がある様だ。特に厳冬の赤目は雪で風景が一変する。木々は樹氷し、凍りついた滝を間近で見る美しさは、同時に自然界の驚異や尊厳さを充分に体感できる。昔、厳冬の赤目の滝見せたく学生20人ほど連れてスケッチに来たが、余りの寒さと滝の横の遊歩道が凍結しており、少し登ったところで二人の学生が足を滑らしなんと滝壺にはまってしまった。幸いな事に小さいな滝つぼで深さが腰ほどしかなく、学生は自力で這い上がってきたが、落ちた学生には本当に申し訳ないが、不謹慎なことに皆の爆笑のネタになってしまった。事務所でのストーブにお世話になり、笑い話で済ませることが出来たが、一歩間違うと大変な事になっていた。赤目、この不思議な名前は昔、役の行者がここで修行していた時に赤い目の牛に乗った不動明王が現れたことに由来するがその後ここは忍者の修行の地として利用されることになる。
2006.12.28
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大阪の南部、南河内地方の太子町に昔から「太子顔」という言葉がある。民俗的にどう言う意味があるか正確な事は解らない。"言い伝え"とも言うべき代物かもしれないが、この土地特有の顔があるらしい。蟇目、鉤鼻、色白、烏色の黒髪・・・・。父方の祖父曰く、ここは大昔、蘇我本家発祥の地で稲目、馬子の代に奈良の飛鳥に本家が移り、親戚筋である聖徳太子が後に、ここを治めていた。代々聖徳太子の似た顔の子供が多く生まれるらしい。特に太子に好く似た子供に「太子顔」と名誉ある称号が与えられる。大いなる謎の部分も多いがまんざら眉唾ものでもないらしい。太子無き後、上宮一族本家は、斑鳩で蘇我本家、入鹿により滅亡するが、生き残った一部がこの土地に逃げ込んできたのだ。そのとき蘇我の支流であり蘇我山田石川麻呂が彼らを救った。石川麻呂もここが本拠地で邸宅もあった。その落延びた子孫がこの土地に住み着いて現在に至っている。昔から住んでいる住民は多かれ少なかれ縁のある連中である。新しいニュータウンも出来、新しい住民が流入している今は、昔ほど熱心ではないが、そういうこともあってか地の長老は非常に「太子顔」を喜ぶ。ちなみに私も恐れながら「太子顔」であった。幼い時、父の実家に一緒に帰ると「お前は太子顔や。良かった、良かった。」と親戚一同、近所の連中が集まってくる。帰るたびに物凄いご馳走が出たものでそれが食べれるからこそ嬉しかっただけで、流行廃りのない、この顔で得したことは余り無い。当然ながら顔というものはそれぞれの生き方でいい顔にもなるし、味のある顔にもなる。悪い事を考えたり、行なえばそれなりの顔つきになるものだ。しかし最近、鏡を見るたびに、どうも見てもお金のありそうな顔には見えそうもない・・・。少し考えすぎか・・・。
2006.12.26
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「はな~ぇ~」「はな~ぇ~」と、祖母の大きく透きとおる声が下町の住宅地に響く。運搬車の自転車に繋がれたリヤカーは生花を満杯にして月、3回の行商に出る。祖母の声に待ってたかのようにお客様が玄関から飛び出してくる。いつも祖母の行商を楽しみにしている人たちで花売りもそこそこに井戸端会議が始まり世間話に花が咲く。叔父と祖母が行商している所に何故か幼少の私も付いて廻るのであるが、常連のお客さんは私を目敏く見つけると、お菓子やらお饅頭など大量の差し入れがある。私が喜んで付いて廻る一つの訳がそれで、滅多に子供が食べられるようなお菓子ではない。高級品なのだ。世間話をしながら祖母が慣れた手つきで仏花、榊など組んでゆき藁で見事に括りつける姿はまるで手品を見ているようで、私はその不思議な括り方に興味を持っていくら真似をしても花がばらけてしまい、全く出来なかった事を覚えている。この括り方は祖母が昭和初期に考え出し、以後関西の仏花、榊のくくり方の主流となる訳で、今でも花屋やスーパーの生花売り場でこの結び方を見ると祖母の姿を思い出すのである。私が、行商につきまとう理由はもう一つある。必ず祖母は昼食を"純喫茶"で食べ、コーヒーを飲んで休憩する。そして"しんせい"のタバコをうまそうに吸う。もちろん幼少の私も連れて行ってくれるのだがなにせ子供は"純喫茶"には行けない。当時高校生でも入っている所を見られると退学になったらしい。"純喫茶"その怪しげな名前は何をもって"純"というのか・・・。未だに解らないが、祖母と一緒に食べたホットケーキの味とクリームソーダの不思議な美味しさは脳裏から忘れる事が出来ない。当時の行商のルートは記憶には残ってはいるものの昔の人情味溢れる下町風情は消え、高層マンションが立ち並ぶメタリックな風景になってしまった。「はな~ぇ~」「はな~ぇ~」の声は無機質な街には似合わない。それはもう仕方がない・・・40年も前の昔話である。
2006.12.25
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ピンと張詰めた空気が重苦しい。国数英の順に試験が行なわれたが、明らかに自分より自信に充ちた受験生の後ろ姿が見える。試験終了時間が来ると案外サバサバとした気持ちで鉛筆を置いたが燦々たる回答用紙を見るに付け正直これで終わったかなと内心おもったもので、気持的にはもう落ちてもいい、又、初めからやり直したらいいと思いつつも落ちたら明日から仕事もない、どうしたらいいのか、そこまで深く考えても頭が廻らない。家でも私を瑕かってか皆、無口になる。二日目はデッサンで、ハンカチと石鹸、それと油土を構成するわけだが比較的私にとっては簡単すぎる試験で正直、物足りなかったものだ。帰り道、やけに夕焼けが綺麗で、太陽が日の丸の様にでかく、頻りに感動しながら一人、田んぼのあぜ道を歩き「これですべておわったんや・・・。」母の日本バサミを見ながら、独り言を呟きながら駅までの道草。そのときの夕焼けの美しさがいまだに脳裏に焼きついている。実は試験の2日間、有給休暇をとって受験に来ていた訳でまだ"籍"は会社にある。数日後、家から職場に電話がかかって来たがそれが合否の電話であることはすぐに察せられた。「もしもし・・」「あかんかったか・・」「あほんだら、合格や」「安心せい!通った!」父の狂喜する声が受話器から漏れてくる。喜びが全身からほとばしったと同時に全身から力が一気に抜けて行き、会社退職の2日前であったことも私の精神状態が尋常ではなかった。合格通知を見たとき、嬉しさよりも母の元気な姿が走馬灯のように次から次えと現れては消えてゆくと同時に一気に涙腺が緩み、ここに母がいない悔しさで仏壇の前で泣き崩れてしまった事を思い出す。念願の大学生になるわけだが大学で工芸というものに面白さを見つけ、以後のめり込んで行く事になる。そして工芸を専攻したらこそ又、染織家、写真家の大家にめぐり合える事など今の時点では想像すら出来なかったもので、今から考えれば当時、とてつもない大きな賭けに出たものだと苦笑せざるを得ない。若さゆえんの爆走かもしれない。もし受験に失敗していたらどうなっていたか・・・。又、違った人生を歩んでいただろうし、どちらが本当は良かったかそれは今の時点では解らない。ただ母の最後の約束だけ果たせたことだけが異常に嬉しかった。
2006.12.24
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親は大学に進学して欲しいと願っていた。そんな親の期待を裏切って就職する道を選んだのである。少しの迷いも戸惑いも私には無かった。高校を卒業して少しでも親の負担を軽くさせたかったし、早く一人前として自立したかったのも大きな理由である。早々に内定が決まっていたある大阪の中堅染工場に入社させてもらい、デザイン室に配属され、輸出用のアロハ柄を毎日毎日カラーインクで手を染めながら描いていた。昼休みにはバレーボールを楽しむ姿は、まるで絵に描いたような工場での休憩風景である。この年、デザイン室には高卒の私と、短大卒の女性が入社したのだが、数ヶ月経つ頃からか、彼女と仕事の内容に差がつきだした。彼女は東京出張、企画の立案などまかせられ、こちらは毎日毎日、黙々と筆を動かす仕事のみである。このあたりからか"学歴"という目の見えない壁の存在がひしひしと重く圧し掛かってきたのはいくら鈍感な私でも十分わかった。たかが2年如きの差でこれほど仕事の内容が違うものか、やるせない気持ちが徐々に大きくなっていったのは確かである。毎日、仕事の内容で悩む日々が続く事になり、悩んだ末の一つの結論が大学受験であった。「俺、大学受けるわ・・」と母に言うと、なんともいえない嬉しい顔をしていたのを今、思い出す。結論を出した以上その日から仕事が終わると猛勉強が始まった。半年間のブランクは大きい。自分自身でも鬼の形相で毎日を過ごしていたと思う。たとえ不合格でも悔いの残らぬようにと自分自身に言い聞かせていたものだ。ところが母の健康状態が急に悪化、新年早々、帰らぬ人となってしまった。誰がこんな事態を想像していたか、完全に精神が萎えてしまった。母を想い出しては涙が流れ、こんな精神状態で受験などできるのか。大学受験を断念しょうかと真剣に悩んでいた時、父も見るに見かねてか、母が病床で「お前の大学受験・・・ほんまに喜んでいた」「あんな勉強嫌いが大学受験するとはな。人生は判らんな・・」母の気持ちを汲んで受験しろと父は言う。母の気持ち、43才の若い命でこの世を去る無念さを考えるとくやし涙と、ただただ悲しく、毎日涙を流すことしかできなかった。2週間後の受験日、母親が内職の時に使っていた大切な日本バサミをそっとを筆箱に入れ悲壮感漂う姿で14倍の難関にぶち当たったのである。
2006.12.22
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河島英五を知ったのは大学2回生の頃か。南九州をヒッチハイクをしていた頃、鹿児島の阿久根という町のある小さな食堂でラジオから彼の歌が流れていた。なかなかいい歌でメロディーだけが頭に残り曲名は解らなかった。その歌が「酒と泪と男と女」と解ったのはかなり経ってからの事である。当時、彼が20代そこそこの歳で此れほどの情感の歌が唄えるとは内心感心したものである。何時ごろからか、自然に彼の曲や人間性が好きになりその豪放磊落的な人生は私にとっては一種の憧れであった。河島英五のコンサートだけはよく行ったもので値段もリーズナブルなのが正直嬉しい。素朴な舞台は彼の性格をよく現しており飾り気が無い。熱唱する彼の姿は今も目に焼きついているが、全く病気とは縁が無かったと思われていた彼が病気で48才の若さで逝ってしまった。悲しかった。若い頃から彼の歌に勇気を与えられ人の心情を教えられて来たものにとってはポッカリと心の中に穴が空いたような気持ちである。「生きてりゃいいさ」「野風増」などの名曲があるが私は特に「時代おくれ」の詞が大好きで生涯こんな人間でいたいと思うばかりである。 「時代おくれ」阿久悠作詞・森田公一作曲 一日二杯の 酒を飲みさかなは特に こだわらずマイクが来たなら 微笑(ほほ)んで十八番(おはこ)を一つ 歌うだけ妻には涙を 見せないで子供に愚痴(ぐち)を きかせずに男の嘆きは ほろ酔いで酒場の隅に 置いて行(ゆ)く目立たぬように はしゃがぬように似合わぬことは 無理をせず人の心を 見つめつづける時代おくれの 男になりたい不器用だけれど しらけずに純粋だけど 野暮じゃなく上手なお酒を 飲みながら一年一度 酔っぱらう昔の友には やさしくて変わらぬ友と 信じ込みあれこれ仕事も あるくせに自分のことは 後にするねたまぬように あせらぬように飾った世界に 流されず好きな誰かを 思いつづける時代おくれの 男になりたい目立たぬように はしゃがぬように似合わぬことは 無理をせず人の心を 見つめつづける時代おくれの 男になりたいこんな時代だからか。やけに心にしみる・・・。英五、ありがとう。 合掌。
2006.12.19
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最後の船場商人は言っていた。「企業とは存続させることが何より大事なことや」廃業すれば従業員は路頭に迷う。従業員の後ろには家族がある。それを考えると企業の経営者たる者、非常な社会的責任を負わされる。船場では三代もつのは珍しいと言われる。創業者は苦労しながら会社を立ち上げ、二代目はそのオヤジの後ろ姿を見て育つ。三代目になるとそんな苦労も知らず、ぼんぼんで、なんの苦労も知らず育ててもらう。ぼんぼん社長の従業員になった者は悲惨であり、たかが、三代もたせるのも至難の事なのである。そんな中に、大阪の天王寺に驚くほど長い歴史の会社がありおそらく世界一の長き伝統の老舗がある。創業西暦578年、今から1400年の昔の飛鳥時代で、株式会社「金剛組」という会社である。社寺建築や、復元、修理などが主な業務で四天王寺建立の為、聖徳太子の命で百済から三人の工人が招かれた。その後脈々と伝統が受け継がれ、現在に至っている。1400年の間、存亡の危機は沢山あった筈でそれを乗り越えてきたのだから凄い。ちなみに大工という意味は「大きな工人」という意味でその中の棟梁は男の中の男の仕事といわれてきたし、江戸時代初期までは、人々から職人は尊敬の念をもたれていた。しかし、徳川時代の「士農工商」の身分差別により職人は蔑まれてくる。今の時代でもホワイトカラーから見ると職人はやや蔑まれている感は拭えないのは私の考えすぎか。1400年には及ばないが日本には創業1000年の和菓子屋や800年間の味を守ってきた京都の料亭など数多くあるのだ。どの店や会社など決して大きくは無いが長く継承されて来たには訳がある。いろんな物に手を出さなかった事であり家業一筋に打ち込んできたからであろう。バブルに浮かれた企業はいろんなことに手を染め、バブル後に泡と消えていった。能力の無い経営者は社会的に責任を負わなければならない。だが、企業を信じてきた従業員は気の毒というほかはない。「扇子商法」で有名な船場の社長は合えば必ず「景気のいい時は扇子を広げ不景気になれば扇子をたたむ」「大きく成る事よりも企業の存続が大事や」と眼鏡の奥の眼光鋭い目でただただ言うのみである。
2006.12.15
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丹波黒の枝豆の存在を知ったのはもう約25年も昔のことか。篠山で日本画を描かれているある先生から一房頂いた。その美味しさに新鮮な驚きと普通の枝豆には無い芳醇な香りは一瞬のうちに私の味覚を虜にしてしまった。以後毎年、解禁日になると車を飛ばして買いに行くのであるが、全く残念なことに10年ぐらい前からか"純"丹波黒の枝豆が消えてゆく。ブームになれば生産が追いつかなくなるのは当たり前で愛知産や岡山産などが平気で篠山の店頭に並ぶ。いかにも今、畑から抜いてきた様に見せるテクニックは見事なものであるが、気の毒なのは本物の丹波黒の枝豆と疑う事無く、買った観光客である。どうも地場産ではなく、怪しい・・・と感じた頃から自分の食べる枝豆は自分自身で作る事にしたのだ。もう5年ぐらい前になるか・・、隣町である八千代町の役場に頼んで畑を借りて育てた訳だが、此処は丹波地方と気候が好く似ておりで、朝夕と昼の寒暖の差が大きいこと、これが大事でこれが無いと黒豆は大きく育たない。もともと豆自体そんなに肥料はいらない。ほったらかしにしていても育つ物で難しい講釈はいらない。無農薬で育てた黒豆はそれは立派な実を付けていた。まさしく20年前に見たあの本物の黒豆である。やや紫色に煮えあがった黒豆は円やかな湯気の中から見るからに食欲をそそる。枝豆として食べる分だけ収穫し、あとは大黒豆の成熟を待つのだ。山に囲まれた猫ほどの額の畑は街の雑踏を忘れさせてくれるには十分な大きさであり、一日何も考えずに農作業に励むことができる。ささやかながら「晴耕雨読」を楽しむことができた。ちなみに私は八千代町に縁もゆかりもないが八千代町の御好意により"名誉町民"にさせて頂いている。
2006.12.13
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ちょっと変わった男がいた。まるで漫画の世界から飛び出したような強烈なキャラクターの持ち主だった。怖い顔ではなく非常に愛嬌のある顔で性格も非常にいい。私の高校時代の悪友であるが、彼の常識は我々の非常識で、常に失笑の的であった。いくら注意しても直す気がなく、まるで唯我独尊、我道を歩むタイプであり、それでいて、なぜか彼と一緒にいる時は、話が弾み楽しいのである。人の家に上がりこんでは、勝手に飯を食いだす。それも遠慮せず食い尽くすから始末に悪い。この男に遠慮と言う言葉は頭の中には存在しない。最後には炊飯器の釜や味噌汁の鍋など脇に抱え、最後の一粒、一滴までむしゃぶりつくすのだ。家人も開いた口が開いたまま、あきれ返っている。「ポリバケツ」彼に付いた名誉あるあだ名である。彼は嫌がることなくこの名前が非常に気に入っている節があり、ポリバケツをかぶってはおちょけていた事を思い出す。もう一人の悪友が非常に似顔絵が上手く、呆れるほど特徴を鋭く捉える。彼が「ポリバケツ」の似顔絵を描いた時、デフォルメされた顔はそっくりで、自腹が捩じれるほど可笑しくて転げ回ったものだ。丸い顔に分厚い唇、小さな目、吊り上った眉毛に、デカイ鼻、そしてプロレス狂である。下級生にも瞬く間にその似顔絵は"秀作"として浸透したのである。下級生もフランクに上級生の教室に入り込み、彼の顔を拝みに来る。その中に漫画を描くのが何よりも好きな彼らはいた。数年後、ポリバケツの彼にそっくりの顔のプロレスラーが現れる。その作品によって彼らは有名な漫画家に君臨する事になる。悪友「ポリバケツ」は彼たちの筆により、ヒタイに肉の刺青をいれられ、正義のプロレスラーのヒーローとなり日本を席捲、大ブレイクするのだが、チビッ子達の大好きなプロレスラーのヒーローが我、悪友がモデルだとは当時を知る者しか知らない。そんな正義のヒーローのモデルになった彼もキャンブルには勝てず、噂では余りいい話は聞こえてこない。
2006.12.06
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あれほど勉強が大嫌いで、教科書に漫画しか描かなかった男が高校に入ると人が変わったように勉強しだした。徹夜の名前すら知らなかった人間が、時間も忘れ物事に熱中する。今考えても、もし校長の一言がなく、普通科の高校に進学、また高校を断念していたならば、人生も大きく変わっていたに違いない。それが良いか悪いか今の時点では解らない。ただ、芸術や物作りの道に進まなかったのは確かである。よく母親が言っていた事を思い出す。「好きな道なら死んだ気でやれ」「好きこそ物の上手なれ」その単純明快な"教育論"は理論好きの評論家でも太刀打ちできまい。また人との出会いも重要である。"最低ランク"の高校にしか入れなかったが、教員の先生方は"最低ランク"ではなかった。人間的に魅力があり、熱心に指導していただいた。有難いことに与えられた「一冊の本」により、全く未知の世界に足を踏み入れることが出来たのも先生の一言であり、私自身が人間的に形成されたのも高校時代が基本になっているのも事実である。できの悪い孫をあきらめず愛してもらった祖母は晩年、「人生に勝ち負けはない・・。いい人生やったと思える生き方がいいんや」そのときは右から左に聞き流していたが、今ようやくわかる世代に指しかかった。余談であるが、時世がらよく「勝ち組、負け組」とメディアから流れるが、私にはこの言葉の意味が解らない。何をもって勝ち、負けが決まるのか。お金を稼いだ人間が勝ち組なのか・・。そうではあるまい。金満でも人間的に魅力の乏しい人は多いし、清貧でも心豊かなスケールの大きい人物もいる。金でしか物を測れない人間は不幸である。これはワーキングプアの私の僻みとも聞こえるが、もし祖母は生きていたらば今の時代を如何考えるだろう。デキの悪い息子の高校進学すらほぼ諦めていた母親も晩年「いきたかったら上の学校行かしてもらい・・」と何を訳の解らない事を言っているのかと一蹴していたがおそらく自分は、もう永くはないと考えていたかも知れない。高校時代に大切な二人が相次いで逝ってしまった事も後の私の人生哲学に大きな影響を与えてしまったのは確かである。祖母の一言である、「いい人生やった」と思えるような生き方を私もしたいものである。
2006.12.03
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ずっしりした重厚な写真集「古寺巡礼」はその重さで内容が測り知れた。食入る様に1枚、1枚ページをめくる。レンズをから見た仏像に圧倒された・・・正直に素直に真面目に写した被写体は、それが故にこの極楽トンボを完全に虜にしてしまったのだ。奇抜なテクニックを使わず、自然光だけを使ったその律儀さは被写体である仏像を最大に生かしている。巨大なハンマーで頭を殴られたような状態で、私の頭の中は完全に真っ白になり、心理状態はまさしく"極楽浄土"である。不撓不屈の写真家、土門拳は二度の脳出血にも負けず車椅子で撮影し続けたのである。その姿は尋常ではない。三度目の脳出血を起こし11年間こん睡状態の末、1990年81歳の生涯を終えるのだが、写真に対するひた向きな生き方を知るにつれ、またもや泣き虫男はここでも感動の涙を流すのである。なぜこんなにも涙腺が弱いのか・・。天を恨んだ・・。自分自身でもこのような人の心をつかむ写真が撮りたい、壮絶な生き方がしたい・・・。10代の頃ゆえの純粋な気持ちである。以後、週末の過ごし方が変わっていく。日曜日や祝日になると一人で気ままに奈良を訪ね、まほろば香る大和路を写す事を始めた。雨が降ろうが、風が吹こうが古都奈良へと足を運ぶ。何かにとりつかれた様に20キロや30キロはざらに歩いたものである。歩かなければいい写真が撮れないという自負がこのカメラ小僧に如何いう訳か信念としてある。祖母から借り受けている全自動リコーオートハーフを持って・・・。一眼レフが欲しかった。咽からから手が出るほど欲しかった。仕上がりの悪い写真は祖母のカメラに責任を転化、己の腕の悪さは棚に上げているから始末に悪い。写真担当の先生などは、「弘法は筆を選ばず」ともっともらしい事をいいながら笑うのみである。カメラは、我が家には全く縁のない品物で私自身、幼い頃から親に写真を写してもらった経験など記憶に一切ない。その点祖母はハイカラな人で、当時でも1万円以上した全自動リコーオートハーフを持っていた。そんな情報を黙って頬って置くほど善良な孫ではない。なんやかんやと訳の解らないことをいいながら善良な祖母からカメラをくすめ盗ってしまった。本当に悪い孫である。数ヵ月後に、そのカメラが祖母の大切な形見になろうとは今の時点では知るよしもなかった。
2006.12.02
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