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西岡常一と言う男がいた。先祖代々法隆寺の解体や修理に携わってきた最後の宮大工棟梁である。80歳を過ぎても現役で奈良薬師寺の金堂や西塔を再建に携わった。その古代建築の目に見えない先人の知恵や技術に舌を巻く。西岡家には代々"口伝"と言われるものがあり、守り継がれてきた。例えば [堂塔の建立には木を買わず山を買え] の口伝は「建立には1つの山の木を使うべし。木は土質によって性質が異なる、同じ環境で育った木を使え。」環境が異なる木を組むと後に木自体が歪んできて暴れだす。その環境で育った性質、人間で言えば性格が現れ一つの纏まりがなくなる。[堂塔の木組みは木の癖組み]「木は育った場所によって,それぞれ癖を持つ。それをいかに見抜き,生かして組む。」要は無駄な物は一切ない。それぞれの癖を見抜いてその木にあった場所で使う、いわば適材適所と言うべきか。[木は生育の方位のままに使え]「木は山で育った同じ方位で組むべし。木は方位によってねじれたり,反ったりする。右に反る木と左に反る木は力が相殺される様、組み合わせて使う事。」木と言う物は乾燥すると反ってくるもので同じ方向の物を組んだら歪んでくる。あえて性質の異なる物を組み合わせる事により、より強い物になる。これら口伝は人間関係にもあてはまるもので興味深い。法隆寺や薬師寺が木造ながら1500年の風雪に耐え、凛と存在するのは、宮大工の深い造詣が建築の随所に垣間見る事ができるからだ。1000年生きた木は切って尚1000年生きると言われる。古木を槍がんなで表面を削るとまた木の香りがするという。電気がんなで削ると1週間でカビに覆われると。今、我々が忘れかけようとしている事を、宮大工と古代建築が教えてくれている様であり興味深い。。薬師寺の西塔再建で、もう一つ宮大工の壮大な知恵がある。国宝の東塔よりも再建された西塔は1.7m高い。しかし、500年経てば東塔と同じ高さになるのだ。500年後を見すえているそのスケールの大きさ、現代人も目先だけのことを考えずに壮大に生きたいものである。
2006.09.30
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桜の時期にはまだまだ早々だが大阪市内に万代池と言うところがあり、周囲2キロぐらいのジョギングコースも整備され近くの住民の憩いの場になっている。実はこの万代池、知る人ぞ知る隠れた桜の名所なのだ。桜の名所は多く、姫路城や大阪城公園、夙川沿いなど数えたら切りがない。確かにそれぞれの名所は面積も広く多くの観光客がシーズンに押し寄せる。私自身、桜は好きで毎年いろんな所へ撮影に出かけるがおそらく、この万代池の桜が美しさ、密度的に、No1であると思う。なにせ遊歩道の両側から樹齢50年の桜が林立し満開のときはまるで花のトンネルとなる。その壮大かつ壮麗さは絶句するほど美しい・・・・。本当に美しい・・・。満開のときは空が見えなくなるほどで、特に夜桜には近所の住民たちで狂喜、乱舞する。大阪人で「花見はどこへ行く?」と聴いたら「万代池」と答えたらその人ははある意味、”通”であるかもしれない。散りぎわは特に美しく、花びらが薫風に乗り、池は花びらで敷き詰められ、一面ピンクの絨毯になるのだ。あいにくメジャーでない為、余り観光客は来ないし、良く晴れた日のブラブラ歩きでお弁当持っての花見は最高である。ただし、花見をしながらのバーベキュウはいただけない。自分たちは楽しいかも知れないが、肉の香りやスモークは桜の風情にはあわなし、痛みやすい桜の幹に平気で座る吾人もデリカシーがない。そういう現風景を目の当りにするとやや白けてしまうのは私だけか・・・・。大昔、この池に竜が住んでおり、旅人たちが襲われた。それに悲しんだ聖徳太子が曼荼羅経を読んで竜をこの池に閉じ込めた。それ以後この池をマンダラ池と呼ぶようになった。いつしか時が流れマンダイ池と訛ったらしい。
2006.09.28
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須磨海岸に遊びに行くと泉州の方角に海に浮かぶ島のように葛城、金剛山が目に入る。そこは、神戸の人には楠公さんで慕われている楠木正成の生誕地である。私自身も金剛山が好きで年に数回訪れる。特に千早城あたりが大好きで今も南北朝の面影を多く残している。楠公さんが鎌倉軍100万の敵をわずか数百人で守り通した不落の山城、千早城は今も昔のたたずまい漂わしている。河内地方の一豪族でありながら騒乱の時代は彼を要求していた。軍学の天才、正成が中央に登場することになる。金剛山の麓に古刹観心寺がある。ここは楠公の菩提寺で学問所であった。前回訪れたときは早春の穏やかな日で苔むした石段を数段登ると甘い香りが体を包む・・・。山門をくぐるとそこは古木の梅林であり、どの梅の木も約200年の風雪に耐え、何とも趣のある素晴らしい梅林である。余り知られてないのか、梅林にカメラを持った私しかいていない。狭い石段を登りきると楠木の大木の間から「建て掛けの塔」が目に入った。この「建て掛けの塔」実に不思議な塔であり、五重塔の一重の部分しかない。要は建て掛けの途中で、永久に完成されることはない。なぜなら建築途中で楠公が神戸湊川に出陣せざるを得なくなった。湊川の合戦である。今、湊川神社になっているこの地で弟、正季と壮絶な戦死をした。がためにこの塔は「建て掛けの塔」になってしまったのだ。毎回この塔を見るたびに心が震え、楠公さんの無念さを感じられずにはいられない。なぜ兵庫の会下山に陣を置いたのか?地の利もあると思うがここからは大阪湾を挟んで故郷金剛山が目の前に見える。楠公さんとて、ふと幼少の頃や家族の事や故郷の山河を思い出していたのだろうか・・・・・。須磨海岸に来て金剛山を眺めているとついそんなことを考えてしまう・・・。
2006.09.27
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他愛もないことだが少々洗車をさすとおそらく私の右に出るものはないと自負している。家の近くに大手のタクシー会社があり、専務から早朝のアルバイトをやって欲しいとの依頼が兄弟を通じて話があり、少々懐も寒かったせいかどんな仕事かも解らずOKを出した。まさかタクシーの運転をする訳でもないし案外気楽に構えていた。ただ時間が早朝でなくどう考えても夜中である。眠たい目をこすり歩いて車庫に着くと明かりが光々と照らしており屈強な運転手が数人立ち話をしている。おそらく、仕事が終わり車が入庫したばかりなのであろう。大きな声で売り上げの話をしている。顔を見ると売り上げの良し悪しは表情に出るもので、少ない連中は黙々と車を洗っている。目敏く私の姿を見つけたのか、「お~ぃ。頼むわ。」といいながら近ずいてきた。手には¥1000札を握っており、私に仕事を頼むらしい。仕事はそう、タクシーの洗車である。本来は仕事が終わったら自分自身で洗車をするのが規則らしいが夜中の2時、3時に仕事が終わって洗車するのは辛い。そんな訳でその仕事が洗い屋に回ってくる。この洗い屋、完全に個人事業であり、まったくタクシー会社とは関係ない。元でもまったくかかっていない。水道は使い放題、石鹸も会社の備品であり好きなように使える。次から次へとタクシーが帰ってくる。運転席から窓を開け「まだ、いけるか・・・?」と¥1000札を渡す。一日最高15台が限度。1台を約20分で洗車するのだ。もちろんタイヤも室内清掃もしなくては行けない。中には上がりが良かったのか気前のいい運転手などは少しいろを付けてくれたり、嬉しいお寿司の差し入れなどがある。確かに辛い仕事だが早朝だけでこれだけ稼げる仕事は滅多にないものだ。また運転手自身、いろんな職業の果てにこの仕事に従事しており、人に言えぬ苦労を歩んで来ている。まさにここは人生の坩堝の感がある。誰かが言っていた・・・。嘘か誠か解らないが洗い屋をして家を建てた人がいるらしい。学生時代で体力が漲っていた。その後2年間「洗い屋」をすることになる。
2006.09.26
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願書提出まで一ヶ月をきった。彼女の実力は日々良くなってきた。お世辞にもまだうまいとはいえないが、大学入試のデッサンにはコツがあり、各芸大にもそれぞれの受け入れが出来る描き方がある。要は受験する大学の好む描き方をすればよいのであって無駄な努力はする必要がない。こちらも舌を巻く天才的なデッサン力は毎年10人ぐらいであってあとはドングリの背比べみたいなもので驚くに値しない。あとは一般試験でいい点を取ればよい。彼女のもう一つの理由は、私が条件に出した母親に住み込んでもらったことである。課題に専念できるし娘にも目が届く。もちろん今はアルバイトもさせていない。しかしある程度の力がついても合格できる保証はもちろんないしそんなに甘くはない。ある日母親に「うまくはなっていますが難しいかもしれません・・・・」と正直に答えると、母親は少し黙り込んで押し殺した声で「・・・御まじないは・・・・良く効く御まじないはないでしょうか・・・」御まじない・・・・?母親の顔を見ながら怒りよりも情けなくなり、あきれ果ててしまった。何事もお金で解決できると思うその心根が無性に情けなくなる。私自身も採点や入学の合否に加わる事を知ってのことだろう。もちろんそんな事が許される訳がないし入試問題漏洩で豚箱には入る予定はない。もう一度「うまくなってきていますし、娘さんを信じて上げたらいかがですか・・・」母親はうつむいたままうなずくだけで多少は自分の愚かさを解ってくれたのだろうか・・・。私も週3回に増やし入試前日まで猛特訓が続いた。以外にサバサバしながらこれでだめなら納得できるか・・・と自分自身に言い聞かせながらこれであの家族とも離れられることが何よりも代えがたく、嬉しさで一杯だった。そう・・・野に放たれたような鳥のように・・・だ。「合格」と喜びの彼女からの連絡が入ったのは数日後か・・・・・。両親の喜びは言葉では口では言い表せないほど狂喜している。ほっとため息つきながら彼女の痛ましい過去を振りながら楽しいであろう学生生活を送ってほしいと願わずにはおれなかった。あれから20年・・・。その後の彼女の事は知らない。知ろうとも思わない。
2006.09.24
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こちらは焦りもあり、気合を入れて教えているがまったく彼女は冷静である。ところが2回目、3回目と行く度に部屋がどうも汚くなっていく・・・・。ある日、とうとう頭の線が切れてしまった。これから勉強する机がごみの山で部屋はまるでごみ屋敷の状態、足の踏み場もない・・・。「やる気あるんか!」「やめるんやったらいっでも辞めるぞ!」語気が荒く、激しい。「・・・ごめんなさい。・・・・今まで彼がいてて、課題してない・・・。」もう怒りを通りこしてあきれ返ってしまった。私は完全に舐められているんだろう。こちらが無力間に襲われその日はもうこちらもやりたくなかったし、一応、母親に中止の電話を入れた。母親は慌てて「今からすぐに行きますから・・・いて下さい・・。」と涙声で必死に引きとめる。私も会って正式に断ろうと考えていたし、この際待つことにした。親が来る前に怒鳴りちらしながら彼女に部屋の掃除を命じたが、余りの手際の悪さにいたたまれず必死に掃除を手伝う情けない己の姿があった・・・・。父親も来た。初対面である。額に汗をかき、汗のにじむTシャツ姿の姿を見て少し怪訝な顔をしたようにみえたのは私の考えすぎか・・。少しは人に見せられるような状態の部屋に両親は下座に座った。嫌だなと思う暇も父親は名刺を差し出してきた。なんとなく名刺を眺めていると、うっ・・・え!・・町長!とは声に出さず、多少驚いて見せた。兵庫県のある地方の町長である。ちなみに母親も有名なベーカリーのお店を経営している。なるほど、財はあるわけだ、ときな臭い想像をしてしまった。両親から彼女の中学時代からこんこんといろんな問題点を涙を浮かべながら説明する・・・。父親も目を赤くしながらうんうんとうなずく。もちろんこの席に彼女はいない。彼女は若いのに壮絶な人生を歩んでいるようだ。少し彼女に同情すら覚えてしまう破目になりながらもこの親のいい加減さ、自由気ままに甘えさせた生活、批判されるのは両親かもしれない。でも彼女に心情的に支援する気はさらさらない。大の大人が涙を流し、頭を下げられたらどうして断れよう・・・。小心者の自分自身を恨んだ。ただし、この小心者にも意地がある。このまま引き受ける為には一つの条件を提示した。
2006.09.22
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学校が終わって宝塚までやたらと遠い・・・。高速を飛ばしても2時間もかかる。こちらの時間の都合上、週1回しか指導することができない。したがって課題の宿題が出るのは当たり前でそれをしなくてはこちらの考えどうりに進まない。初日の夜、猛特訓をしょうとしていたが、彼女はまったくデッサンと言うものがまったく理解できていないのだ。鉛筆のそろえ方から使う紙までこちらから用意する。まず理論から教え、鉛筆の特性、紙の性質などまるで安い肉を30回噛むがごとく丁寧に教える。頭の線がいく度か切れる危機に陥る・・・。まだ絵を描くどころではない。えらいこと引き受けたなぁ・・・。と頭の中をコダマのように繰り返し響いている・・・。今日はどうも母親は来ていない。来ない日の方が多いと知ったのは後日のことだが実家は車で2時間ほどかかるらしい。母親がいないのか今日の彼女はよく喋る。「先生・・・彼女いてるん・・・」「お酒は好き・・?」まったく筋違いの質問をしてきた。「忙しいねん・・・わたし・・」「毎晩三宮でバイトしてんねん」「・・・・毎晩バイト・・・おい!それ水商売か!」「うん、そうや・・」彼女はニコッと笑いながら涼しげな視線を差向けてきた。当然の事ながら親も知らないらしい。学校が終わった後や授業を途中で抜けたり、最悪なことに学校をサボルこともあるのだ。「バイトはやめろ。」「やめんと課題できんやろ。」怒っているわけではないが口調が強くなってきた。彼女にはまったく危機感がないし、やる気がふせている。どうも彼女には寂しそうな影がある様にみえて仕方がない。私の気のせいかも知れないが・・・。絵もまともに描けない者がなぜ芸大を受験しなければいけないのか?どうして親があれほど熱心に受けさしたがるのか?謎である。親との確執か学校とのトラブル、それとも友達との関係?今の時点では想像も出来ない。宝塚を車で出たのはもう午後11時をまわっていた・・・・・。
2006.09.21
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研究室勤めの頃、家庭教師をした事がある。それも芸大入試対策用のデッサンの描き方を教える。ある知人の紹介で「どうしても芸大に入りたいという方がいるから個人レッスンをしてあげて欲しい」と言われたが余りのりきにはなれなかった。知人に恩義があるので断る事も出来ず、とりあえず生徒に合ってみることに・・・。宝塚で姉と二人で生活しているらしい。一軒家である。なんと豪勢な受験生だろう。その優遇差に少し腹も立ちかけたが自分としてはまだ承諾はしていない。なにせ今までデッサンをした事がないので実力がどの程度かも解らない。玄関に母親と彼女が立っていた。私の姿が見えたのか母親の方は深々と頭を下げている。彼女の方は何が不満なのかこちらを睨み返しているように感じられた。二人住まいにしては余りにも広すぎる・・・。女性二人、用心が悪いし、怖くないのか・・・。おせっかいか、私にはまったく関係ない。父親は何の仕事をしているんだろう・・・。そちらの方が興味がある。私は椅子に座り、どう考えても今、上等なコーヒーを飲んでいる。母親が口を開いた。「娘を助けてください」「先生しか頼る方がいないのです・・・。」急に助けてください。と言われてもはい解りましたとはいえない。事情が何かあるようだ。条件を提示してきた・・・・。興奮する自分を押し殺してあくまで冷静に「それで結構です。」と言わしたくなるような非常識な金額を提示してきたのだ。非常識・・・こんな高額聴いたことがない。まさしても私の悪い癖が出てしまった・・・。金欠病の病人は断ることなど完全に忘れ目の前の特効薬に手が伸びていた。この特効薬に後日、強烈な副作用が出ることなど知るよしもなかった・・・・。
2006.09.20
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十円玉を握り締めて友達と走り出した。目指すは「金魚や」。駄菓子屋である。当時駄菓子屋は我々にとっては憩いの場であり、社交性、そして人間の醜さを体験できる、数少ない所であった。ところせましとおもちゃやお菓子が乱雑に並べられた空間は我々のユートピアの世界が存在する。「金魚や」別名「がめじじぃ」そう名前の通り「がめついじじぃ」の略語であり、我らが与えた名誉ある称号である。ここのオヤジはがめついと子供どころか近所の主婦までにも浸透している。なにせ当りくじが出ても素直に認めない。以前、5円で1回くじを引いた。壁紙に昆虫の模型が1等から30等まで貼り付けてある。もちろん1等は大きなカブトムシであり30等となれば虫眼鏡で見ないと解らないぐらいお粗末なもので、今まで何回と挑戦したが25等以上のものがあたらない。25等と言っても30等と大きさは変わらず、噛みきり虫が小金虫に変わっただけに過ぎない。友達に聴いてもそれ以上当たった奴は見当たらない。ところが引いたくじが1の数字を鮮明に刻印してある・・・しかも朱色で・・・興奮の余り「1等や!」と叫ぶと横にいた仲間もくじを見て「おぉ~!」と驚嘆の声を出した。ところがである。オヤジは苦虫をかみ殺した顔をしながら「あぁ~どれどれ・・・・」と当りくじを取り上げ「え~1等か・・・・?」「1等かな・・・・?」「11等かなぁ・・?」一人で当りくじをクシャクシャにしながら「わからんな~もう1回さしたるわ」その言葉にのったのがやはり子供である。当時少しの知恵と交渉術があれば1等のカブトムシが手に入ってた訳だが案の定、オヤジの策略に乗せられ26等の紋白蝶になってしまった。一枚も二枚もオヤジが上であった。この悔しさは今思い出しても胸糞が悪くなる・・・。こんな人間のずるさを経験できるのも駄菓子屋の一つのよさかも知れない。
2006.09.19
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仕事で車で湾岸線を走っている。大阪から堺方面に差し掛かると浜寺公園が左手に見えてくる。浜寺か・・・懐かしいなぁ・・・。と思いながらもおもわず昔の記憶が頭の中枢を刺激したのだ。昔、浜寺といえば関西でも須磨と並ぶ有数の海水浴場で広大な芝生と風雪に耐えた迫力ある黒松の大木が記憶に残っている。夏になると膨らました浮き輪を肩にかけ、麦わら帽子をかぶり、お弁当を持って出かける。自宅からちんちん電車で20分で行けるこの海水浴場は我が家のささやかな夏のレジャーであった。4~5段の石の階段を駆け上がると目の前は大海原である。水平線の向こうには六甲山脈、淡路島の山並みが屏風のように美しく並んでいる。ちなみに戦後間もない頃余りの風光明媚な浜寺は外国人の別荘地となる。もちろん日本人は入れる余地などない。そのせいか昭和30年代までは浜寺の美しさが守られるわけだがその後が良くない・・・。戦後の経済発展の為に日本人みずからこの美しい浜辺を埋め立ててしまう破目になってしまった。今から考えれば愚かな事をしたものだと悔やんでも悔やみきれない。今でも湾岸線を走ると左に浜寺の松並木が当時の面影を残している。右側を見ると巨大なコンビナートとパイプラインが入り乱れた工場群・・・・。幼い頃、砂浜で見た名前も知らない巻貝は二度と日の目を見ることがないコンクリートの下に静かに眠っているのか・・・・。
2006.09.18
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大阪と奈良をまたぐように竹之内街道がある。この竹之内街道、飛鳥時代に作られた日本で一番古い官道である。私は時々この竹之内街道を訪れる。と言ってもこの場所に先祖累代の墓があるから1年に数回は訪れなければならない。幼少の頃から竹之内街道の移り変わりを見てきた。太古の息吹が感じられるこの道が大好きでよくスケッチをしたり、写真を写したものである。太子町と言っても大阪の太子町で兵庫県の方ではない。名前の由来どうり聖徳太子の御廟がある。なにせ、ここは「王陵の谷」と呼ばれ、父の用明天皇、叔母の推古、孝徳、小野妹子などの古墳があり、そうそうたる歴史上の人物が登場する。遣隋使、遣唐使などが難波の津に着岸した後は奈良の飛鳥まで歩かなくてはならない。その道が竹之内街道である。大阪はもう痕跡もなく大阪と奈良の県境のみに昔の面影を見ることが出来る。目を閉じて風の音を聴いているとまるで高松塚古墳の壁画美人が歩いているような錯覚を覚える。若き時代の聖徳太子も愛馬黒駒にまたがり走ったに違いない。そんなことをいろいろ考えると楽しい。日本史では大化の改新で蘇我本家は滅びるが、しかし野に下った「蘇我さん」は脈々と今もここで静かに生活している。真贋は定かでないが私の御先祖様も聖徳太子の命でその年の新米を御廟に供え、廟所を守るように大役を授かったらしい。その御褒美ではないと思うが累代の御先祖様のお墓はなぜか太子の廟所の周りを守る様に建てられている。その伝統は今もつずけられているとか・・・・。
2006.09.15
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今もその店はあるかどうかはわからない。本町界隈の地下に「大名そば」と言う屋号のそば屋があった。知り合いがやたらと美味いとの事なので断りきれず2人で昼食に行くことにした。お昼も少し回っていたせいかサラリーマンが列をつくっている。なるほど列が出来るぐらいだから多少の期待をした。と言うのもその知り合いの味覚がおそれながら我々と少しずれている点が大いにあった。その紹介で食べに赴いて裏切られた品、数々・・・。今度もなんとなく嫌な予感がしたわけでもない。店の中は戦場である。何を食べようかと考える暇もなく、知り合いは「だいまい2つ」と中年の女性の従業員に注文した。あちこちで「だいまい」「こっちもだいまい」と乱れ飛ぶ・・・。「う・・・うまい!」一口食べての感想である。おそらくお客のほとんどがこの「だいまい」を食べている。中身は冷たいそばにスルメが二切れ、その上に葱と透けてみえそうなかまぼこ。それだけである。だしの入っている器には卵を落とし、その中にそばを入れて食べるのであるがこれが本当に絶品の美味さなのだ。残っただしは熱い蕎麦湯でといてのむ・・・。ささやかな至福の時である。当時、本町の商社でデザイン室の顧問をしており周3日、本町に出向いていたのでそのそばを食べることが仕事よりも重要になってしまい12時を待たず10分前に職場を抜け出して早々に席を取るのである。このときわかったことだが12時より早く入ると¥100引きなのも私にとっては嬉しいことであった。ちなみにこの「だいまい」。「大名そば」がなまったらしい。
2006.09.14
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もうかなり昔の話。大阪に住んでた頃、休日の朝、漫画の本を読んでいるといきなり父が私の頭を手のひらで握り締めながら「おい・・神戸に行こうか?」と嬉しそうな顔をしながら漫画の本の間に顔を突っ込みながらたずねてきた。嫌だと言っても、父にすればもう行こうかと言うことは行くことである。当時、私の頭の中では神戸などどこにあるなど知るよしもない。難波か天王寺界隈、もしくは新世界の隣ぐらいの知識しかなかったものだ。父は休みになると私と母を連れてよく遊びに連れて行ってくれたものである。地下鉄かバスで行ける所と思っていたが着いた所は天保山。ここは船の乗り場である。客船に乗って神戸に入るという今からは想像も出来ない事で、なんとゆったりとした時代である。二等席は大広間で雑魚寝・・・今から考えれば1時間そこそこの乗船で1等も2等も関係ないとは思うのだが。今と違い当時、神戸の埋め立てはほとんどなかった。ポートピアランド、ロッコーアイランドもちろんなく、海がやたらと大きく、大阪湾が大海原に感じられた。神戸港に近ずくにつれ船上生活者の船が無造作に停泊しており倉庫が立ち並びお世辞にも美しいとは言えず今の神戸の美しさからは想像も出来ない。船が着岸するところに真っ赤な塔が立っている。父が自慢そうに「あれがポートタワーや」「通天閣より高いで」父のレベルはその程度なのである。どうやら神戸に来た目的はちょうどこの年にオープンしたポートタワーが目的らしい。当時珍しかった外の風景が見えるエレベターに驚愕し、母と私をほったらかしに異常にハイテンションに陥った父の姿が瞼に焼き付いている。
2006.09.13
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ぽっかりと心の中が抜けている。正直今、何もする気が起こらないのである。オープンまでもうわずかの日数しかないのに気持ちを入れ替えて頑張らなくてはと気持ちだけが空回りしている。この状況において、私自信もう大学での夜の8時、9時の仕事が出来なくなってしまった。学生のいない照明の消えた教室、明かりのない廊下・・・・。ラジオの音だけコンクリートの壁に響く・・・。彼女が学校に強い未練があった事も私の心理状態を萎えさせてる一つの理由かも知れない。笑われるかも知れないがトイレにも行けなくなってしまった。なるべく学生の授業中に制作し暗くなるとみんなで帰るようにリズムを変えることにした。巨大な作品自体はもうほぼ完成にちかずいており、教室の天井からぶら下げているので誰でも悪評をほざく事が出来る。作品自体は自分でも大いに気に入っている。作品を見て自己陶酔に陥っている己がいる・・・。後日無事搬入が終わった。これで終わったなぁ。十分すぎるほどの満足感が全身にあふれていた。帰り、ある小さな喫茶店に入ると、バンバンの「いちご白書」が流れていた。やたらと愛想のいいウェイトレスにコーヒーを頼んで飲んで、小さな窓から外の殺伐とした風景を眺めていると、確かに彼女が乗っていた同じ色の車が疾走のように走っていった・・・・。思わず彼女の名前が口から漏れた・・・・・。
2006.09.09
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25歳・・・。余りにも若すぎる。目を真っ赤に腫らしながら彼女の自宅に着いたのは夜の8時を回っていたか。同期生の連中も目を腫らしながらこちらに会釈をした。私の頭の中は「どうして・・・」「無茶や・・・」「なんで・・・・」同じ言葉がただただ回っているだけで完全に思考能力が伏せている。業者か親戚か人があわただしく蠢いている。ご両親が部屋で弔問客を接待しているときに私を見つけたらしいがそれも気がつかず彼女の元気だった頃の遺影の写真にボーっと立ちながら独り言ともつかない小さな声で何かつぶやいていた。「これからやないか・・・」「神も仏もないんか・・・」「あほ!なんでや・・・」「先生・・・・」お母さんの声が聞こえた。「長い間すいませんでした・・申し訳ありません」また涙が流れてきた。ご両親が喋るほど涙が流れる・・・。卒業して2年間、研究室に入って学生の面倒も良く見てくれたし何より彼女がいると研究室が明るくなった。お父さんから病気の原因を聞いてももう涙は出なかった・・・。遺影の笑った顔を見ながら、「つらかったなぁ・・・。よう頑張ったな・・・。もう痛いおもいせんでええ・・・」。彼女がいつも学校に早く戻りたい・・・と、うわ言のように言ってたことを・・・。そして最後の言葉が「・・・パパ・・・・だぃ~好き・・・」それを聞いたとき私の涙腺が一気に破れて涙が溢れてきた・・・・。人の目も気にせず大声で泣いている自分がそこにいた。
2006.09.08
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彼女は少し落ち着いてきたのか感情を抑え今の状況を伝えてきた。「看護婦さんに内緒で電話をかけている・・・」「微熱が下がらない・・・。」「学校に行きたい・・・。」中身を包み隠すような言い方なのである。本音が聴きたい。病気は?何が原因かそれが知りたい。彼女は病名を言わない。あくまで病状を言うのみで、決して本音には触れたがらない。仕方のないことで彼女の心情を察すればこのままそっとしてあげるのがいいことであり、私は最初の会話が感情的になった事を詫びた。「学校に行きたい・・・。」それが彼女との最後の会話になることなど知るよしもなかった。彼女との久しぶりの会話で少しは胸の痞えはいえたが、さらに病気が長引くことを知ったせいか、人事のことを考えると癒鬱になってしまう。作品も8割がた仕上がってきた。夜遅くまで学校に残ってやった成果だと一人納得しながら搬入の構想を描いていた。10月に入りめっぽう秋らしくなり久しぶりに学生と一緒に学生食堂で食事をし他愛もない事で話が盛り上がっていた。その余韻を引きずりながら研究室に戻ると雰囲気が違う・・・・。明らかにただならぬ異様な雰囲気だ。教員たちは無言で立ち尽くしていた。女性2人が泣いている・・・・・。一人の女性が涙を流しながら重たい口を開いた。「・・・・先生・・・今・・・亡くなったそうです・・・」精一杯それだけ言うと泣き崩れてしまった。「嘘やろ・・・・」「え・・・」目の前が真っ白になった・・・・・。
2006.09.07
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その女性はもう半年以上も休んでいる。もちろん病気である。本人からの電話は一度もない。気立てが良く、頭の回転の速い、水泳が得意な女性である。そのことが半年間、頭の中が鬱状態である。授業に支障が出るからである。そんな事を考えながら今回の作品のプランニングが出来、いよいよ作品の制作に取り掛かった。時間も余りない。学生の授業時間に教室の片隅を借りながら黙々と手を動かす。「なに作ってるんですか?」「どこに出すんですか?」と学生が自分の作品も作らず気にしているようだ。「うん・・また言う・・」と愛想のない返事をかえした授業が終わり学生の姿がなくなり教室に静寂がやってきた。これから自分自身の時間だ・・・誰にも邪魔されず制作に取り掛かった。1時間ほどたち波に乗り出して来た頃、静寂の研究室に甲高い電話のベルが鳴り響いた。だれ?今頃・・もう午後6時を回っている。無愛想に「もしもし~」応答がない・・・「もしもし~」「どなたですか・・・」よく聴くと受話器の向こうで嗚咽が聞こえた・・・・。「・・・・先生・・・私です・・・」泣きながらの電話であった。入院している彼女からである。「ごめんなさい・・・・」「どうしたの!連絡もしないで・・・」「どこがわるいの!」彼女は相変わらず泣いている。なにか重大なことがあることをもちろん今の私にはまだ理由など知るよしもなかった。
2006.09.06
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会議中に見取り図を見せてもらった。会場の位置を知りたかった。何階にあるのか?美術売り場のギャラリーか?どう見てもそれらしいスペースが見当たらない。たいして百貨店側は力を入れてないかもしれない・・・。それならこちらもある程度気が楽だ。もちろん気を抜くつもりなどはさらさらない。それとなく、聞いてみた。「え~っと・・作品の展示場は何階ですかね?」「余りスペースもないみたいだし・・・」すると太い黒い眼鏡のふちの施工責任者が甲高い声で喋りだした。暑くもないのに額に浮き出た汗を頻繁にハンカチで拭いている。少し緊張気味に「ギャラリーはありません!」「ギャラリーはありません!」。二度も同じことは言わなくても馬鹿じゃあるまいし解っている。ギャラリーがない?どこで発表するんだ?百貨店の企画部の女性責任者が微笑みとか苦笑いか区別がつかない表情で「ウインドウです。」「入り口の横の・・・・」。会議室が一瞬静まり返ったのは私の気のせいか?。ウィンドウか・・またえらい所でやるもんだ。まさしくこんな人通りがあり、人が集まる所はない。他の出品者はうわごとか訳の解らない事をぶつぶつ喋っている。また、蒼白になりうつむいている者、貧乏ゆすりが激しくなっている者などそれぞれの表現方法で心理状態を表しているのだ。案外、私本人は嬉しくて、愉快な気持ちに襲われていた。脳からドーパミンが泉の様に溢れていたかもしれない。異常にはしゃいでいる一人の男を見て、他人から見たら異様に見えたかも知れない。気になる事があった・・・それは作品とは関係ない。同じ研究室で働く後輩の女性の事である。
2006.09.05
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目と目が合ってしまった・・・。学科長が口を開いた。「やってみるか?」考える余裕もなく、複雑な気持ちとは裏腹に「やります。やらせてください。」と私は二つ返事でOKを出した。作品に関して制作費も無造作に大学が負担してくれるし、また、作品発表の会場が魅力的だった。この秋に某百貨店がリニューアルオープンする。そのオープニングで作品を公開できるからである。作品を作りたがらないに名誉欲だけの塊の輩には、私の発言は助けに船であろう。作品を発表しないで何が教授か・・恥ずかしくないのか・・・と大きな声で叫びたいが目で相手の顔をにらみ軽蔑することだけが私の随一の反撃方法である。若手のメンバーが決まり、内心ホッとした。本当に純粋に作品を作りたい、心から物作りを愛するものが選ばれて・・・・。オープンまで3ヶ月余り。私の頭の中はまだ真っ白な状態である。構想も素材も何も決まっていない。ただ恥ずかしい作品だけは作りたくない気持ちで一心である。2日後大学で某百貨店の企画室、建設業者、との全体会議があった。詳細な説明を聞いているうちにこれはただならぬ事だと気がついても、逃げ出す事は出来ない・・・もう大きな歯車は完全に動き出していた・・・。
2006.09.04
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ある日の午後、大学の研究室で教職員が集まり、彼らにとっては非常に重大な会議が行われていた。ある展覧会メンバー選出の会議である。私には余り興味のあることではない。どうでもいいことだ。持論を延々と喋り自分が出品者にどれだけ相応しいかと得意げに主調する者。もじもじと小さな声でつじつまの合わない話の内容ながら明らかに私が適切者であることを控えめにアピールする輩。何の興味もなく能面のように学生のレポートを黙々と採点している者など、まるで生体の違う生き物が同じ容器に入って自分の本能がまま行動している有様である。百家争鳴、出尽くしたところで学科長が口を開いた。その存在感さえ今まできずかなかったが、みんなの目線がそちらに注視しだした。「ここは、若手の新鋭にやってもらったらいかがか?」時期学科長の席を狙う者には逆らって反対する訳がない。また作品を作る気などさらさらない無気力者も若手に振り向け、大賛成である。こういう輩はいつも自分に雲行きが怪しくなってきたら、天下の宝刀で「若手にチャンスを与えよう。」と言い出す。調子の良さに、いい加減にしろ・・・と思いつつ、口には出せない。学科長の鶴の一言で方向が決まったが大学から7人選抜される。私の所属する学科は2名の枠がある。若手と呼べるものは約20名・・・・。学科長の眼光がこちらを見ている。顔を避けても確かにこちらを見ている・・・・。背筋に冷たいものが走った・・・・・。
2006.09.01
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