2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
全13件 (13件中 1-13件目)
1

♪通天閣高い~高いは煙突~煙突は黒い・・・♪子供の頃よく口ずさんでいた全く作者不詳の唄である。その通天閣が半世紀を迎えた。もはや通天閣は大阪城と並ぶ大阪の顔になったわけだが両方ともコンクリート作りというのも面白い。初代の通天閣はパリのエッフェル塔をまねた非常にエレガンスな雰囲気を持っていたらしい。ただ軍の命令のため戦場の弾となり、露と消えた。今建っているのは二代目である。昭和31年のオープンから数年後、物好きの父に連れられ、やたらと多い人並みにもまれながら当時珍しかった円形のエレベーターを並んで待った記憶がある。通天閣界隈はあの新世界があり、今からは到底想像も出来ないぐらい賑やかで、華やかな街が存在した。大人も子供も楽しめる数少ない歓楽街の一つであった。寄席、スマートボール、演芸場、Zボール、当り屋など子供の感覚からしてもワクワクするところだし、父などはきっと唯一のユートピアに違いなかったと思う。ちなみに当り屋とは車にわざと当たる不届き者ではなく、「弓矢」をさせてくれるところで、的に当たれば商品がもらえる。昼は新世界名物串かつを二度浸け禁止のウスターソースに付けていただく。嬉しいかな、なぜかキャベツは食べ放題。当時一本10円だった。当時10円で牛など食べれるはずがないと、私の祖母や母はなどは頑なに食べなかった。誰が流したのかその肉の正体が実しやかに囁かれた。父や私はそんなことは関係ない。何の肉であろうが、安くて美味しいければよいのである。今はなぜか怖いところと風評されるがまったくそんなことはない。今でもこんな敷居が低くて、気の使わない場所は少ない。人情もたっぷりである。ところで我々が愛してやまない吉本の新喜劇の舞台背景。ほとんどが新世界、西成界隈の現風景である事を知る人は少ない。
2006.10.27
コメント(0)

何でも自分でやらないと気がすまない。息子が小学校に上がる半年前、どうしても学習机を作りたくなった。と言うのも、多少木工には自信があって、約3年間ほど丹波年輪の里で木工技術を習った事がある。仕上がりの良さは別として、自宅のブックケース、テレビ台、電話台、椅子、食器棚などほとんど手作りの木工品で占められている。紅松特有のぬくもり感が好きで ほとんどこの木を使っているし、オイル仕上げをすると年が経てば経つほど白木が独特のアメ色になる。こうなると道具も凝りだした。ホームセンターの道具では許されず、鉋は東源次、鑿は高昇などブランドを買い求め、もはや道具を見ると誰もが木工作家と見間違えるほどである。そして息子のためにこの腕を振るおうと考えたのである。いいではないか・・。父親の作った学習机と椅子で勉強できる・・・こんな幸せなことはない。と自棄に自画自賛しながら制作に取り掛かった。既製の商品にない広々とした天板、机の上に乗せる引き出し付の本箱、椅子は肘宛付・・・・。悪戦苦闘の連続でありながら向こうに息子の笑顔がある・・・その事だけ心の糧としてこの父は頑張ったのである。年輪の里には一般見学者も多い。一応に「息子さんの為に・・・?いいお父さんね・・・。」そのマニュアルどうりの感想ながらもひそかにほくそ笑んだ。浅はかな頭の私は、完全に息子は喜ぶと思っていた・・・・・。しかし結果は不評であった。どうしても既製品のマリオの机が欲しいと言うではないか。「友達が来たらかっこ悪い!」・・・・かっこ悪い・・・。強烈な一言を放たれ全身の力が抜けていく。いくら説得しても聴く耳を持たないの は父親譲りか。家族もどちらか言うと息子側である。それから数日後息子の笑い声と驚嘆する声が部屋から響いてきた。マリオのシステム机がそれほどいいものなのか。日の目を見なかった私の愛する机は第二の人生を歩む事になった。天板を大きく作ったのが幸いしたのかキッチンテーブルになってしまった。
2006.10.25
コメント(0)

大和と河内地方に茶粥と呼ばれる食べ物が昔からある。奈良粥とも言われ余り市民権を得ていないこの食べ物、実は私が愛してやまない食べ物の一つなのである。”おかいさん”つまり「お粥」はこの地方にとっては病人や胃腸の弱い者が口にする食べ物ではなく、立派な庶民の食べ物で毎日食べなければならない主食の一つであった。この”おかいさん”は名前のとおりお茶で煮込む。一般的には煎茶の粉を使って炊き上げるが、それは好みの事で、番 茶、ほうじ茶、玄米茶など、いろんなお茶の香りと風味で楽しむとができるし、堅苦しい流儀などまったくない。ただ一度、父が作った麦茶の茶粥はさすがに売れ行きはわるかったみたいで、家族から冷たい視線を受けていたようだ。その後、父発案の麦茶の茶粥は永遠に食卓から消えた。祖母や母などがよく朝に夕なに作っていた姿を覚えている。忙しい昨今では日曜日の朝ぐらいしか作らなくなったが、その美味しさは歳を重ねるごとにますます虜になるもので、たかが茶粥如きで笑われるかも知れないが時々むしょうに食べたい衝動に襲われる。祖母などは大きなお鍋に茶粥を作りその中に薩摩芋や焼餅など入れて一緒に煮込む。お茶碗に五分の冷ご飯に熱い茶粥を並々とかけて食べるのが今でも続く我が家の食べ方で、冷ご飯と熱い茶粥の絶妙さは日本人に生まれてきて良かったと一人で自棄に納得しながら随一のおかずである胡瓜の古漬をつまむ。先日、奈良に行ったとき、ある有名な料理屋で昼食をしたが驚い たことに、なんと茶粥が品書きに書いてある。「おっ!・・・」と喜びもつかの間、なんと値段の立派なことか・・・。この値段ならまさかおかずは胡瓜の古漬のみとは考えたくはないが、半分白け気味になり、手頃な、もみじ定食を頼んだ。
2006.10.24
コメント(0)

もうすぐ紅葉のシーズンがやってくる。今年も又、吉野の紅葉を見に行く予定である。吉野といえば桜で有名だが、なかなか秋の吉野は素晴らしい。桜のシーズンは人並みでごった返すがその点、秋の吉野は静かで特に晩秋から初冬の風情はたまらなく心を刺激する。全山真っ赤になり吉野山の参道は落ち葉で埋め尽くされる。ほとんど見学者のいない山は冷たい空気で張り詰めている・・・。「花よりも軍書に悲しい吉野山」のとおり吉野は悲しい歴史に包まれている。古くは壬申の乱から江戸末期まで数々の物語があり、静御前と奥州へ落ちる義経が涙で別れた坂や西行が庵をくみ時世を哀れみ過ごした所など多くの見所があるがなんと言っても南朝の悲哀であろう。京都の北朝に対して吉野に南朝が置かれた。足利尊氏の策略は、本流の皇統を次ぐ後醍醐天皇を吉野に遷宮させた。亜流の北朝が皇統を引き継ぐことになる。後醍醐天皇は京都を奪還しょうとするが、悲願叶わず、吉野で崩御される。「我、苔に蒸すとも魂は北天を睨まん・・・。」壮絶なお言葉であり、御陵は北天つまり京都の方を向いて建てられた。数十年後南朝は北朝に下ることになる。余談になるが現天皇は北朝の流れである。何時の事かは忘れたが昭和40年代か、南朝本流の”熊沢天皇”と言う吾人が吉野に現れ、我こそ本流の皇統を継ぐ者として世間を驚かせたことがあった。私はこの話、まんざら眉唾ものでないと思っている。現代の今も南朝の忠臣たちの子孫も多く生きながらえている。江戸倒幕の時も落ち延びた尊王派をかくまっていた。それほど吉野は帝との関係が深い。難しい話はさておき、また今年も時空を越え当時に想いをよせ真っ赤に染まった吉野山を眺めながら、名物柿の葉寿司をつまむ・・・・。私の至福の時である。
2006.10.20
コメント(0)

病名が解るだけでもどれだけ精神的に救われるか・・・。解れば対処の仕方もある。2回目のホルモン療法から少しずつ効果が現れてきたのだ。体がなんとなく軽くなってきたような気がしないでもない。毎回の血液検査でもテストロゲンが上昇してきた。「いや~凄い。画期的だ・・。」教授は数値を見て明らかに喜んでいる。まさか、人体実験をされていたのか?しかし、毎回、注射をすることにより段々と改善されていったのは事実である。半年ほど通院した頃には、ほぼ改善していた。体が自由に動けることはありがたいし、気力も不思議と充実してきたのがわかる。「うん・・・。数値も戻っているし、今日が最後にしましょう。」嬉しい教授の一言である。正直今、生きてる事自体嬉しかった。お世話になった看護士さんに「やっと、終わった・・・」「辛かった・・・」。彼女も喜びながら「初めて来院した時、完全に死んでたもんね。」「うちの先生、紹介状がなかったら見ないのに、無理やり苦しい・・・て、入ってきたのは初めてよ」と大声で笑った。半年前の苦しさを考えるとこれほど改善するとは想像することさえできなかったし、いくつ病院に転がりこんだかわからない。そのつど現因が解らない・・・。あの時、偶然にも病院の待合室の雑誌を見たから現因を突き詰めることが出来た。もし、雑誌を見なかったら今頃どうなっていたかと考えると背筋が寒くなる。今、”男性更年期”が増えているらしい。更年期から鬱病や精神不安になる事があると聴いた。半年前の事を考えながらの帰り道、なぜか大粒の涙が流れた・・・。
2006.10.19
コメント(0)

「勉強の為ご協力お願い致します。」教授が口を開いた。おいおい・・・こんな所でパンツを脱げというのか・・・・。私を取り囲むように医学生たちはメモを取っている。診察前に膨大な問診表に書き込んだデーターに目をとうしている。状態を説明した。このなかにし礼に似た教授は話を聞きながらデーターに目を移しながら、「可能性はありますね」「血液検査をします」前立の検査をしますので「ズボン脱いでくれますか・・・」とうとう脱ぐときが来たか・・。別室に入ってホットしたが何も学生まで入る必要はないだろう。タオルをあててもらったのは嬉しいがまったく形だけの物で人に見せられる括弧ではない。前立は異常はない。血液検査の結果がまわって来た「少ないです・・・。テストロゲンが非常に少ないですね。」テストロゲンとは男性ホルモンのことである。「通常で15、少なくても10・・・。貴方の場合は7しかありません。」どうしましようか・・・?と言われてもどうすればいいのだ・・・。少なくても女性化したり、おすぎの様にはならないようだ。「ホルモン療法されますか?リスクもあります。血液が濃くなります。前立線癌になりやすい体質になります。」このしんどさを治す為にわざわざこの病院に来院しているのであって、いまさらはい止めるとはいえまい。承諾書にサインをさせられもうこの治療で死んでも文句は言えないわけだ・・・。もう好きにやってくれ。どんな治療でも良いから早く治してくれ。癌にかかろうがこの苦しさから脱出させて欲しい。この日を境に三週間ごとに筋肉注射を私の腰にうつ、痛い、痛い、テストロゲン増加の為のホルモン療法が始まっのである。
2006.10.18
コメント(0)

病院からもらった降圧剤で改善するか・・・。担当医の余りにも簡単な結論にやや不信感を持ちながらも藁にもすがるおもいで薬を服用した。しばらくすると体に変調が現れてきた・・・。目がちかちかしだし、目が開けられない。体が動かない・・・。記憶がはっきりしないのである。すぐにタクシーを飛ばし少しはなれた総合病院へ、。事情を説明したところすぐCTを撮りますとの事・・・。しかし画像を見る限り出血の兆候は見られない・・・が血管の詰まりは解らないので、MRIをすぐにあてる様に進められ紹介状を書いてもらい、翌日又、違う病院へ。真っ直ぐに歩けない・・・。10mも歩けば息切れ、めまい、強烈な不安感が襲う・・。ところがMRIをあてても血管の詰まり、脳種瘍も見当たらない。何が現因なのか?理由の解らないものほど不安なことはない。まだ若いのに現因不明の病気でこれから寝たきりになるのか・・・。まったく仕事も、車を運転することができないし、したいとも思わない。寝ていても谷底に落ちていく感覚なのだ。不思議な感覚だ。人が死ぬ瞬間とはこんな気持ちになるのか、まさにこのまま死んでも納得できる苦しさである。何軒、病院を変えただろう・・・。現因がわからない。なぜ!気が立ち。まわりを当り散らす。もう完全に死にたい気分に襲われる。死んだ方が楽だ・・・。生きた屍状態である。一人で歩けない情けない日がつずき、全身に無力感が支配し、野球中継も見たくない。好きな映画も見る気が起こらない。まるで女性の更年期のような症状である。ある日病院で待合室にあった雑誌の見出しが気になり手に取った。「男性にも更年期はある」その雑誌を貪る様に読んだ。まったく私の症状と同じゃないか。もしかして「男性更年期?」雑誌には関西の外来診察の行なっている病院が書いてある。阪大と関西医科大、二件しかない。これを見逃すわけにはいかない。全身の力を振り絞り、すぐに電話番号を控え、連絡を取った。運よく、明日は男性更年期では有名な先生が外来だと言うので早々関西医科大のある守口まで行くことにしたのである。なぜか泌尿科である。そんなことは問題ではない。余りにも沢山の患者が待っている。みんな何の病気なのか?年は40才前後なのにもう泌尿科にかかるのか・・・。前立線肥大、尿漏れ、それとも若いのにED・・・・?。ぼーとしながら2時間ほど待っと、マイクで名前を呼ばれた・・・・。診察室に入ると、そこには先生他、医科学生男女30人ぐらいが熱気ムンムンで私の診察を待っていた。まさかここでズボンを脱ぐことになるとは・・・・。
2006.10.17
コメント(0)

あれは忘れもしない2000年4月30日・・・。ゴールデンウイークが始まろうとしていた。体調はいたって快調、お昼に三宮にでも遊びに行こうとしていた。4月にしては肌寒い午後である。駅に向かって歩いていると急にめまいが襲ってきた。立っていられず街路樹にもたれかかり、しゃがみこんでしまった。と同時に油汗が噴出してきた。「これはやばい・・・」と感じつつも数分で回復してきたのでゆっくりと歩き出すと又、めまいが襲ってくる・・・。異様な不安感が頭を掠めた。「・・・・脳梗塞?」「まさか・・・」と言うのは、当時の首相、小渕さんが脳梗塞で倒れた直後で、嫌な考えが津波のように襲ってきたのだ。もう遊びどころではない。布団の上に崩れるように倒れた。横になっても苦しい・・・。病院は休みである。いくだびか救急車を呼んでもらおうかと考えたが、なぜかこんなときなのに人目を気にする・・。こんな症状は初めてであり、時々意識も朦朧としてくる。明日は病院が開いている。一晩寝たら直るかもと考え、不安な夜を過ごした。一緒だった・・・症状は変わらない。這うように近くの総合病院に。いつもなら2~3分で行ける所だが動悸、息切れ、フラフラしながら病院に。気持ちでは30分ぐらいかかったような気がする・・・。自分の診察まで待てない。苦しくて、苦しくて我慢ができず病院のベットに寝かせてもらい、診察を待った。看護士が血圧を測りに来た。一回目、二回目、怪訝な顔をしている。三回目を測った。少し慌てたように「高すぎる・・・。高すぎるで・・・。」私に言われてもどうしろと言うのだ。「200の120」血圧が高いので降圧剤を出しましょう。医者はいとも簡単に病名を断定した。そんな簡単な病気かと内心不安に思いつつ、家にどう歩いて着いたかは記憶にない。言われた通り薬を飲んだが改善するどころか悲惨なことが待っていた・・・。
2006.10.13
コメント(0)

今、韓国で宝塚の「ベルサユのバラ」の公演が評判らしい。昔、ブームになった頃、一度、学生を連れて見に行ったことがある。なかなかチケットも手に入らない時だけにある筋からチケット40枚手に入れる事ができた。ある筋とはいかがわしいところではなく、宝塚歌劇団のある人から回してもらったもので当時はプラチナ級である。自分ながら「ベルバラ」の鑑賞は課外学習としてちょっと粋ではないかと自我自賛しながらも、実は公演のあとに歌劇の衣装制作デザインの現場と舞台装置を見せていただくことが最大の目的であり、男としてあまり「ベルバラ」自身余り興味はない。公演開始1時間30分前に集合のはずがやはり学生、時間にルーズな者がたくさんいる。回りは人でごった返している。キャンセル待ちの観客も数十人並んではいるものの、もう並んでも手に入らない。運の悪いことに遅刻するであろう学生のチケット十数枚、手に握り締めていた。それを目敏くキャンセル待ちの観客に見つかったのである。時はすでに遅く、私を取り囲むようにチケットを売って欲しいと迫ってきたのである。人相が悪かったのかテキ屋に見えたのか・・・自分自身を恨んだ・・・。「売り物ではありません!」と何度怒鳴り叫んでも、相手の顔はもう目が据わっている。こんな状態で人が喋っていることなど耳に入るわけがない。ここで売ってしまうと完全にテキ屋になってしまう・・・。まだ、警察の厄介にはなりたくないし、学校関係者がテキ屋とはシャレにもならない。遅れてきた者を叱りとばすはずが助けに船になるとは・・・逃げるというべきか、転がり込むように劇場に入るともう開演数分前であった。華やかな舞台はファンを熱狂させる。私はファンでもないがここの舞台に夢を見る人の感情が少しわかるような気がしないでもない・・・。強烈な睡魔に襲われながらも、公演後衣装室を見学させてもらった。あの華やかな舞台とはまるで正反対のような静けさとこじんまりした部屋、地味である。2~3人のデザイナーの方が黙々と制作に励んでいる。本当に縁の下の力もちとはこのことを言うのだろう。余りの両極端の違いに愕然としたのは私だけだろうか。宝塚名物の草もちを齧りながら夕日を眺め、ふとマリーアントワネットのことを考えた・・・。
2006.10.11
コメント(0)

現役の頃、うちの父親は不思議な定期券を持っていた。幼い頃の私はその定期券が不思議で不思議で、大人になれば誰でも持てると密かに思っていた。何しろその定期券の威力は絶大であり、バス、私鉄、当時の国鉄、はもちろん、遊園地、動物園、映画館などの行楽地などこの定期券を見せる事により、本人はおろか家族など父と一緒であれば何処へでもタダで入れる訳だ。父がお金を払って乗車した記憶はない。いつの日か奈良のあやめ池遊園に行った時、家族4人を引き連れて堂々と定期券を見せて入場口から入ったとき係員が少し怪訝そうな顔で父の事を見ていたが、父は通るとき、サッと定期券を見せ、頭を少し下げる・・・。誰も引き止めるものはいない。当時の私の頭ではそれがどんな定期券か知るよしもない。その定期券がどういう定期券であった事を知るのは随分先になってからのことである。何のことはない父は交通局に勤めていたので個人だけが乗れる市バス、地下鉄のみの定期券を持っていただけで、この定期券で私鉄、国鉄、ましてや遊園地などは入れるわけがない。要するに我々家族ともども不正乗車をしていた訳で、今から考えると顔から火が出る思いがする。当の本人はそんな罪悪感など今持って微塵のかけらもない。その当時は、今の様にギスギスした世の中ではなかったのかも知れない。今は公務員といえば目の仇にされる時世だが、昭和30年代は何から何まで人間を中心にまわっていたような気がするし、いい意味での曖昧さがあり、人の心もおおらかな時代だった。この父親、さすがに定期券で家族を無銭飲食させる勇気はなかったらしい・・・。
2006.10.10
コメント(0)

明治10年西南戦争に敗れ、鹿児島の城山で西郷隆盛公は自決した。それより数ヶ月前我、祖父が誕生した。数ヶ月間明治の豪傑と同じ空気を吸って生きていた事になる。この祖父、幼い私を非常に可愛がってくれた。質素な家に住み、いつも母親とたずねた時などはこの家には似つかわない豪華な黒檀のたんすから桃の缶詰、氷砂糖など取り出し、与えてくれたものである。この祖父の人生は戦争の連続であった。日露戦争に従軍し、日中、太平洋戦争と修羅場を潜りぬけ生還した強運の持ち主でもあった。晩年その為か戦話が好きで、私の父親を捉まえては当時の思い出を語る。明治の末、この祖父なぜか解らないが生花業と葬儀店を営み、大成功を収めた。豪邸に住み当時非常に珍しかった運転手つきのフォードにのってたらしい・・・。祖母には昭和初期に大阪でカフェを経営させている。ここまで来ると私も大金持ちになっているはずだが、なぜか下層階級にいる・・・・。実は祖父には弟がおり、事業するのはいいが次から次えと失敗し借金地獄にはまった。ようは商才がないのである。できの悪い兄弟の為に結局は家も、財産も使い果たす結末を迎える破目になる。幼い記憶では、祖父の穏やかな表情と質素な家に住み、やたらと吠えるスピッツが印象に残っている。豪華な黒檀のたんすは当時の面影を知る随一の物かも知れない。西郷隆盛いわく「子孫に美田を残さず」。まさに明治の気骨者は西郷の遺訓どうり子孫に財産を残さずに逝ってしまった。
2006.10.08
コメント(0)

緑に山並みに白いハリウッドサインを見たのはもう10年前ぐらいか・・・。やたらと多いカメラ機材を持って撮影に来たのはいいがまったくのおのぼり気分でいる。今回の目的地は、シーポート、サンタモニカ、チャイニーズシアター、ビバリーヒルズなどなど、盛りだくさんの予定である。このカメラマン、ハリウッドサインを見てから以上にテンションが上がりっぱなしで、目が血走っている。ヒルトンホテルで夜働いている日系の彼女の再会が撮影以上の楽しみなのである。空港に迎えに来てくれていた友人の米国人社長の車に乗りシーポートへ・・・。実は滞在中の一週間、この社長の車を足に使う予定でありそのことは本人も知っている。彼は若いながら兄弟でフレームの会社を経営しており、神戸にもよく仕事で来ていた。見るからにアメリカ人の底抜けに明るい性格の好さを持っており、陰湿な面はまったくない。波静かなシーポートは実に美しい所で岸には個人の豪華なヨットが停泊している。空気がまろんでいるせいか、風景がはんなりとして、一日中海を見ていてもまったく飽きない。ただ昼食に食べた巨大なハンバーガーとどう見ても一人で飲める量ではないコーラーには閉口した。彼女の姿はすぐに判った。向こうも少し驚いた様子で、すぐに笑顔で答えてくれた。黒髪の美しいこの女性は日本語も堪能でホテルの地下で日本人相手にお土産を売っている学生である。祖父も岡山にいるらしい。そして将来は日本で働きたいと言っていた。日本にきたら連絡するようにと名刺を渡したが未だに連絡はない・・・・。ホテルで数人のツアーの日本人と他愛もない話をしていた。驚いたことにチップの話が出て「チェックアウトするときに枕の下にチップを入れておく事それがマナーです。」と添乗員に言われたらしい。私から言えば、そんな事をするのは日本人だけで外国人は誰もそんなことはしない。そういう馬鹿馬鹿しい慣習はすぐに止めたいもので、現に一週間同じ部屋で生活してても一度もチップなんか枕の下に入れたことなどない。でもきちっと掃除やベットメーキングされており、腹立ちまぎれに私の下着も盗まれたりしたこともない・・・。なぜこんないい加減なことがいつから始まったのかまったく謎である・・・・。
2006.10.06
コメント(0)

オリンピック開催地で、大阪が北京に大差で敗れてもう数年になるが、今回は国内選考で東京が選ばれた。判官びいきで福岡をなんとなく応援していた私はがっかりするよりも少しばかりしらけた気分になる。何も2回も東京でする必要もあるまいし、地方の都市で開催した方がよほど地域活性化につながり、経済効果をもたらす。あれから東京オリンピックも40年以上経つ。当時、まだ道も主要道路しか舗装されず、一歩裏道に入れば土のでこぼこ道。車もほとんど通らない。その道は我々の格好の遊び場だった。ケンパ、ビー玉、ベッタン、など道のど真ん中で夢中になっても誰も邪魔する物が通らない。雨が降れば道は水溜りが出来、アイスバーを浮かべて他愛もない遊びをしたものである。物はなくてもみんな幸せな顔をしていたものだ。まだ冷蔵庫や洗濯機などもなく、ほとんどの家にもテレビはなかった。東京オリンピックを境に、テレビの購買が増えていく。高度経済成長の時代に入るのだがその時代と共に日本人は経済的に潤い、金満民族になっていく。ある日、小学校の児童を全員引き連れて近くの道路に連れてこられた。無理やり日の丸の小旗が渡された。先生が少々興奮気味に「力一杯、振るように!」道路は老若男女、人、人、人で溢れかえっている。皆、嬉しそうな顔をしている。口数もやたらと多い。われ等チビッ子は最前列に並び、日の丸の小旗で友達とこずい合いのまっ最中、日の丸の小旗も半分破れ状態のとき、「来た来た!来たぞ~!!」その声と共に歓声が怒号の様に変化した。北の方向から白煙が見えてきた。「あれが聖火ランナーか・・・」と幼い我々にも充分理解する事が出来た。数十台の白バイとパトカーが物々しく先導しており、10名程度のランニン姿のランナー達が二列に並んで、まるで大名行列の様。顔はみんな誇りに満ちている。単純なもので先生に言われたとおり、小旗が折れるぐらい必死で振っている目の前を凛々しく走っていく姿と、足音は今でも鮮明に覚えている。数日後、秋晴れの中、第18回東京オリンピックが開催された。
2006.10.04
コメント(0)
全13件 (13件中 1-13件目)
1