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高校に合格した・・・。悪名高き高校で、知る者は名前を聞くだけで後退りする。母親はこんな高校でも素直に喜んでくれた。合格通知を仏壇に供え、御先祖様にご報告中である。高校のランクなんかこの親には全く関係ない。高校は高校なのである。父親も酷く喜んで、飲めない酒を飲み過ぎ、すでに夢の中で遊んでいる。その夜、母親に呼ばれた。母は内職をしていた手を止め、神妙な顔をしながら口を開いた。「・・・これでお前の好きな道にいけるな。自分の選んだ道や。一度は死んだ気になってやってみろ。好きこそ物の上手なれていうやろ」それだけ言って又、内職に精を出す。くどくどとした能書きは一切言わない人で、その言葉が、最初で最後の母の"教育論"であった。母の一言が効いたかどうかは解らないが、とにかく水を得た魚の様に高校入学後は親が私の体を瑕かうほど勉強に夢中になってしまった。まるで、何かに取り付かれたようなありさまである。デザインやデッサン、製図などは、夜を徹して描いたり、日本美術、西洋美術の専門書を読みふけったもので、教養を得るということがこんなにも楽しいものか遅まきながらこの道楽息子にも解ってきたような節がある。ある日の放課後、職員室から声がかかった。職員室なんかに呼ばれることは碌な事がないと頭から思っている。ところが予想外であった。ある風景を写した1枚のモノクロ写真がある先生の目に留まり、やたらと褒めて頂いた。「ええ写真やな。なかなかのもんや・・」他の先生も横から覗き込み「これええで・・、物語があるな・・。」猛烈に気恥ずかしくなり、本人は正直何処がいいのかその時点ではさっぱり解らない。先生は徐に立ち上がり本棚から1冊の写真集を取り出し、私に見るよう勧めてくれた。「土門拳写真集」である。後にこの一冊の本が私の後半の高校時代を大きく変えることになるとは今の時点では想像すら出来なかった。
2006.11.30
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級友たちは高校受験の為に猛烈に勉強している。それを横目で見ながら、まるで自分とは無関係な事だと、この極楽トンボは感じている。まるで切迫感がない。相変わらずである。もう下がる事のない定位置に鎮座しながら、ふと、行く高校あるのかな?・・・そんな心配する位なら少しは勉強しろと誰もが言いたいところだが、勉強せずに高校へ入りたいと明らかに虫のいい事ばかり考えている。ある放課後、先生が「進路について話し合いがあるから覚悟しておけ。」覚悟しておけ、とは進学をあきらめろということか・・・。あきらめるのは自分にとっては容易いことだが、最低の高校でも入ってほしいと願う母親の気持ちを考えると妙に切ない感情が溢れてくるものだ。校長室に呼ばれ中に入ると、部屋には校長、教頭、そして担任が悲壮感漂う空気の中で、私の成績表を見ながら明らかに言葉を失っている。担任は眉間にしわを寄せ、タバコを吸うよりもしがんでいる。教頭も怪訝な顔で此方を見ており、おそらくどうしたらこんな悲惨な点が取れるのかその術を聞きたいような感すら感じられるのだ。勉強は嫌いか?行く高校無いぞ・・、ほら来たぞと思いながら、はげあがった教頭の頭を眺めていると、校長が徐に「絵が好きなんか・・・。わしと同じやな。長谷川等伯が好きなんや。君は誰が好きなん?」以外な質問に当然一年前に万博で見たジョアン・ミロが好きです。と言ったもののミロ以外の作家の名前は当然、頭の中には見当たらない。もし詳しい突っ込みでもされたら、此方は困るのだ。ボロが出て収拾がつかなくなる。「ほぉ~ミロか」校長は少し嬉しそうな顔をし、「絵やデザインの勉強出来る学校はどうや。絵が好きなら絵の勉強をやってみたらええんとちがうか」そんな高校あるのかといくつかの質問をした。凄くやりたい、やってみたい、そんな気分がもう単純明快な男に取り付いてしまった。帰り道、珍しいことに高校について真剣に考えてみた。親にそのことを言うと、開口一番「行かしてくれる高校があるだけでもありがたい。補欠でもなんでもいい。入ったらビリでもいい・・・」毎日言っているお題目であり、はたして、絵やデザインを習う高校を受験すると親は理解しているんだろうか。息子も困った者だが、親も困った親である。受験する高校はわずか10分で決まってしまった。
2006.11.28
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全く、小、中学校では勉強しなかった。その度胸たるや凄まじいもので翌日中間試験であろうが期末であろうが、教科書すら開かない。そんな人間にまともな点など取れるはずがないし、躾だけには異常に厳しかった母親も情けない事に子供の教育には今ひとつ関心が薄い。試験で悲惨極まる点を取ろうが、試験中ににナイターを見に行こうが注意の一つもしない。子が子なら親も親である。ちなみに人に見せられない情けない答案用紙は丸められ、帰り道にあるため池に向かって投げつけられる。そして池の藻クズと消えるのである。働き者の母親は内職の仕事を悲壮感漂う姿で、寝る間も惜しんで作業していた。バカ息子の学業の事まで頭が廻らなかったのかも知れない。それを逆手に取って自分の好き勝手な事をしていたのであるから始末に悪い。1年間終わると全く手あかのついてない新品同様の教科書と漫画を細密に書き込んだ我ながら惚れ惚れする出来栄えの教科書がある。そんなとんでもない男にも最低の高校だけでも行ってほしいと願う親のささやかな想いがあった。悪友も試験期間中はさすがに遊んではくれなかったし、そんな時、なぜか絵を描いていた。絵が好きだった。チラシの裏に、Gペンを使いインクで、外では、コンクリートの上にロウ石で空想の世界を描く・・・。自分自身でも恐れながらも誰よりも上手いと感じていたが、そんな折、この勉強嫌いな中学生に電撃的経験を体験する。70年大阪万博の時、ガスパビリオンの招待で来日していたジョアン・ミロの制作現場に偶然にも見学することが出来た。彼は"無垢の笑い"をパビリオンの白い壁面にペンキと刷毛でものの30分で仕上げてしまったのだ。その時の衝撃の大きさは今もって忘れることは出来ない。その伸びやかな筆のタッチ、大胆な構図に黒を基調に強烈な色彩・・・。そんな面白い世界があるのか。・・・すべてが新鮮で感動した。まさに目から鱗とはこのことか。それを境にやってみたいことがおぼろげながら見えてきたのは確かであった。しかしそれを具体的に説明できるほど、私自身の頭が回転していなかったのも、また事実である。
2006.11.27
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学生時代のバイトの中で今も強く心に残るシーンがある。当時、学生服の小売店で配達の仕事をさせてもらっていた。学校指定の店なので入学シーズン前になると殺人的な忙しさになる。制服が仕上がる度に原付バイクでお客様の自宅まで届け、代金を頂戴する。ある日、店主からセーラー服の配達を頼まれ届けることになった。私は伝票の住所を見て少しばかり顔が曇った。嫌な胸騒ぎがした。バイクを飛ばして15分。目的地まで行くのに道は入り乱れ、狭く、バイクが通るのが精一杯である。ここは大阪でもかなり貧しい人が肩を寄せ合い生活している所で、まさに地図に乗っていないところなのだ。路上でオヤジが酒を飲んで寝ている・・・。夫婦なのか路上に胡坐をかきおそらくホルモン焼きか、美味しそうに食べている。このあたりの家、アパートは皆、多少なりとも傾いている。目の錯覚ではない。家が斜めに傾いているのだ。配達先の家はアパートである。やはり傾いていた。入り口のドアーも窓も看板も・・・。アパートの前で女の子が、なにやら此方を見ながら「制服屋の兄ちゃん!、もってきてくれたん・・・」女の子は毀れるような笑顔で問いかけてくる。お世辞にもいい服を着ているとは言えない。「2階にお父ちゃんとお母ちゃんいてる・・。」女の子は私の届けた制服の箱を大事そうに抱えながら自分の部屋へ走っていった。建物が傾いているせいか此方がめまいを起こしそうな錯覚に陥る。傾いた階段を恐る恐る登ると、4畳半ぐらいの大きさか、かなり散らかった少し異様な匂いがする部屋に。真ん中に父親が厳つい顔をしながらタバコをふかして私の姿を見たのか「兄ちゃん・・・まぁ中へ入り・・」母親もうまそうにタバコを吸っている。即座に貧しいことがわかる。父親は能書きを並べだした。俺は病気や、だから働けない、明日に生活保護費が出る、だから私に何をしろと言うのだ・・。要は今は金が無い。商品だけ置いて行け。と言うことらしい。代金を頂かないと店主に怒られることをいくら叫んでみたところで、金ができたら払う。の一点張りである。商品は持ち帰りますとはさすがに言えず、もはや彼女は箱から制服を取り出して嬉しそうに体に合わせて母親と喋っており、今更奪い返して持って帰るわけにも行かない。しかし彼女は本当に幸せ一杯の笑顔を振りまいている。今までほしいものも買ってもらえず辛抱してきたのであろう。そんな彼女の過去を考えていると目頭が熱くなり、涙もろい自分に情けなくなる。涙を必死に押さえ、商品を奪い返すこともできず、店主が怒るであろう店におめおめと戻ったのである。事情は説明し、謝った。「解った・・。ご苦労さん」店主はそれだけ言って又、作業場へと消えていった。なぜか遣る瀬無い気持ちが襲ってきた。その後お金を払ったかどうかは私には判らない。ただあの時の笑顔の彼女が今どんな風に暮らしているのかすこし知ってみたい気がする。
2006.11.22
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おそらく我輩が幼稚園に入る前・・・。もう40年以上の昔になるだろうか。ブリキ製のロボットのネジを巻きながらささくれ立った畳の上で遊んでいた遥かな記憶がある。前歯の無い口にはコリスのチューインガムを噛みながらおらが天下の気分で遊びに熱中していた。その頃はおもちゃといえばほとんどがブリキ製である。ぜんまいネジを回し、数秒間稼動するそのおもちゃの世界は、当時の我々の頭の中に限りなく夢の想像を膨らませるに充分だった。ブリキ製のバスを買ってもらい喜び勇んでバスにまたがり"新車"のバスを真っ二つにへこましてしまい、母親からこっ酷く叱られた事がある。かなり奮発して親はこのバカ息子に買ってくれたのだろう。その形相たるや尋常ではなかった。へこんだバスとロボットそして工場跡で拾った屋根の無い潰れたミゼットが幼い頃の私の"三種の神器"で、飽きもせず、独り言を呟きながら空想の世界に没頭していたものである。お菓子屋で売っているハリス製のチューインガムはやや高価で餓鬼どもの日銭のこずかいで買える代物ではなく、駄菓子屋で5円で売っているコリス製が日常の愛好品で、毎日、毎日,舌を真っ赤に染めながら噛んでいた。その日は晩秋の穏やかな日曜日・・・噛んでいたチューインガムを何を思ったのか2階の物干しから道を挟んだむかいの豪邸の庭にチューインガム飛ばしをやってしまった。もちろん何の恨みもない。迷惑をかけているのは我輩の方でよく立派な門構のベルを押しては逃げていた悪餓鬼である。口から勢いよく飛び出したガムは庭に入らず偶然にも新しく改築したコンクリートブロックの塀の真上にへばりついてしまった・・・・。それ以後毎日、毎日、物干しに上がるとチューインガムが付いているのが見える。風が吹こうが、雨が降ろうが微動だにしない。10年、20年、30年、そして40年・・・。そのチューインガムはいまだにへばり付いているのである。さすがに当時、真っ赤かのガムは40年の風雪に耐え、もはや黒い"石"と成り果てている。その前の道を通る時、黒く硬くなったガムを触ると遥かな40年以上の昔の記憶が鮮やかに蘇るのである。
2006.11.21
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大丈夫かな?・・・最初に出た言葉である。88年仰木彬が近鉄の監督に就任した。18年間二軍近鉄のコーチをやりその優れた策略家として我々近鉄を心から愛する者としてはその存在は早くから知られていた。だが監督となると当時仰木彬では余りにもインパクトがなかったし、他球団から見ると実に影が薄いのである。誰もが今年の近鉄は最下位以外予想した解説者はいなかった。しかし仰木は策士であった。就任1年目から、仰木マジックを披露し、誰が予想したであろう最後の最後まで西武との優勝争いに残ったのである。そして近鉄が優勝するにはダブルヘッダーで2勝しなくてはならない。引き分けや負けは許されないのである。以後、熱き涙なしには語れぬ、球史に残る名勝負と語り継がれる10・19の幕開けである。ロッテ戦の川崎球場には人が血相を変えて殺到した。球場は観客で溢れ、周りのお店や売店はてんやわんやの大賑わい。入れなかった観客は球場の見える近くのビル、マンションに大挙押し寄せたのである。自分自身も朝から体が小刻みに身震いしている。落ち着かない。川崎へ行きたい気持ちで一杯である。テレビ中継が始まると廻りは異様な空気をかもし出している。試合が進むにつれ、絶叫し、喚き叫ぶ。笑い、そして落涙・・・。第一試合はロッテに4-3で勝った。あと一試合・・・。もう我、全身になぜか力がみなぎるのである。もうこの勢いでは近鉄の優勝間違いなしと思われた。しかし野球の神様は残酷この上ない。惜しくも近鉄は優勝できなかった。第二試合は時間切れ4-4で引き分けたのである。引き分けでは優勝できないのである。天を恨んだ・・・。卑怯者有藤監督の時間稼ぎの抗議。彼を今もって許すことはできない。後日、有藤はあの抗議は間違いだったと回想している。閉口したのは私だけではあるまい。己の信念で行なった戦術的な時間稼ぎ抗議をいまさら何を後悔しているのか。勝負師が口に出すべく言葉ではない。今でも思い出しても胸糞が悪くなるのだ。近鉄ナインは皆、泣いていた。ブライアントは父親が危篤なのに日本に残った。仰木監督も男の涙を流し泣いていた・・・。そして誰よりも近鉄を愛してた私も泣いていた。プロ野球を見て感涙で咽ぶのは初めてであり、野球とはこれほど深く、面白いもであるか再認識させてもらった。本人には迷惑かもしれないが畏れながら私も仰木彬を心の師と仰ごうとそのとき微細ながら心に誓った。翌年、近鉄は悲願を達成する。宙に舞う仰木彬監督。昨年の雪辱を果たし、強豪、森西武を叩いた。まるで筋書きのあるドラマである。あれほど地味、影が薄いと言われ続けた仰木彬は就任2年目でこれを境に押しも押されぬ名将としての地位を築いてゆく。
2006.11.20
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近鉄球団が消滅して数年になるが、数少ないファンの一人だった者としては寂しい気持ちは今も消えない。パリーグのお荷物球団として幾たびか売却を囁かれた。こんな球団を好きになったのだから私も世ほどの物好きかもしれない。もはや小学生の頃からの力の入れようで、なにをきっかけにファンになったかは今もって解らない。当時は近鉄の野球帽をかぶるのが非常に恥ずかしくて、西鉄の帽子をかぶっていたものである。そんな弱小球団にも世間の目が注がれる時が、往く度か在った。一つは第51回夏の甲子園の決勝で延長18回引き分け再試合になり、松山商業に敗れた三沢高校の太田投手の入団である。この決勝戦の中継は我が家の家宝であった14インチ白黒テレビを前に、当時でも珍しかったであろう羽根がブリキ製の扇風機をガンガン回しながら観戦した。まさしく「死闘」とはこの事だろう。ロシアの母の血を持つ太田投手は非常に端整な顔立ち、体型もスマートである。なぜか表情は少し影がありそんなところがまた女性の母性をくすぐるのか人気を独り占めにしていた。一方の松商の井上投手は非常に沈着冷静で終始表情を変えず投げていた。彼の眼鏡の奥の鋭い眼光が今でも記憶にある。その太田投手がドラフトで近鉄に入団する事になった訳だから世間は注目する。誰かが言っていた・・・「近鉄なんかに入って可哀想・・・」憤懣この上ない。大きなお世話である。これで優勝できるとは世間知らずの中学生の私すら思わない。彼の入団もあり、その年はよく藤井寺球場や大阪球場、日生球場へとよく足を運んだもので、それも一人で応援に駆けつける。近鉄戦など誰が誘っても付き合ってはくれないし、失笑されるのがおちである。ただただアンパンをかじりながらほとんど空席の中での応援で、随一近鉄の私設応援団の熱気だけは凄まじい迫力があり、それが余計にがらすきの球場に違和感を与える。座るのが疲れてきたら、十分寝転がってみることもできるし、トイレを行く時も前の観客を気にしなくていい。そんな情けない利点もあることはある。太田投手も期待された以上の活躍はできなかった。まさに弱小近鉄の色に染まってしまい、彼もまた低迷することになる。巨人、阪神へと渡り歩くが花は咲かなかった。しかし、近鉄が全国的に注目される時が来る。あの88年の10,19である。
2006.11.18
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はんどんの土曜日の午後は外食である。ちょっとセレブな感じがしない訳でもないが、ここは下町、50円玉を握り締めて全力疾走で駆け出す。目指すは「はりまや」。何のことはない、たこ焼き屋である。焦るのには訳がある。早く行かないとすぐに席を占領されてしまう。たこ焼き如きと失笑されそうだが、当時、小学校上級生の私には、一人で外食できる唯一の場所であり、仲間と密かな相談をする大切な場所でもあった。狭い店はオヤジ一人で切盛りしている。5~6人も入れば店は満杯状態になる。子供にもやたらと愛想がいいオヤジで我ら悪童仲間の評判もすこぶるよい。まさしく行きつけの店である。当時は10円でたこ焼き6ヶが買えたもので、50円あると30ヶも食べられる訳で、十分満腹感を味わえることができた。ここのオヤジの良いところは焼きすぎたりして硬くなったり、こげた物は売らない。残ったそのたこ焼きを我ら"上客"に2~3個ずつ、サービスしてくれるのだ。些細な事ながらこれは子供に取っては非常に嬉しいもので、以後注文する時は「おっちゃん!固め、こげたやつ入れて!」。するとオヤジは決まってサービスしてくれる。31個目が入ると自然と顔がほころぶのであり、何とも言えない充実感が小さな心を満たす。世間一般のたこ焼き屋の中身は蛸、テンカス、生姜のみでここはそれになんと蒟蒻、干し海老が含まれており、単純、明快な我々はここのたこ焼きは大阪で一番やなと仲間自身でやけに納得し合っていたものだ。ただ一つ我々には不満があった。ガスで焼かないのである。なんと炭火で焼く。古臭いな。時代遅れやな。と仲間同士でほざいていたが、今から考えるとすこぶる贅沢なたこ焼きを食べていた訳で、「おっちゃんなんで炭なんかでやいとんや?」「ガスないんか?」子供の言葉は残酷である。ただただオヤジは笑いながらもくもくとたこ焼きを焼いていた。額に汗の玉を浮かべた横顔は記憶の片隅に残っている。もっともそのお陰で調節ができず、焦げたたこ焼きが我々に廻ってくるのであるからこれほどありがたいことはない。のみ放題の"水"を飲みながら、無造作に詰まれた漫画を読む・・・。この上ない幸福感の絶頂を味わっていると、やがてテレビからお馴染みの曲が流れる・・・。「吉本新喜劇」の始まりであり、たこ焼きを食べながらがら吉本を見る。これぞ大阪人の土曜日の午後の典型的な過ごし方である。炭火焼きの贅沢なたこ焼きを食べさせてもらった「はりまや」は、今はもうない。
2006.11.15
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悠仁親王のお印が高野槇に決まった。高野槇という言葉を聞いて、若輩の頃の思い出がよみがえってきた。現在では高野山に登るのはケーブルカーもあり簡単に山上に到達するし、それが日常的な参拝者の方法である。ところが空海を回想しながらこの高野山、一度歩いて登ったことがある。遥かな昔はみんな歩いて参拝した訳だが今はそんな無駄な事を考える吾人はいない。山の麓に慈尊院というお寺があるが、ここが昔の高野参拝の出発点で昔はこれ以上女性は先に進めない。有吉佐和子の「紀ノ川」にも詳しく慈尊院の事が書かれているが、ここは子授け、安産祈願のお寺で、面白いことに、乳房の絵馬に願いごとを書く。まったくなまなましい型をしたものや、布で作った垂れ下がったおばあちゃん風などさまざまな乳房がお寺狭しとぶら下がっている。いいお寺ながら残念な事に、交通の便が悪く遠方からの参拝者はほとんどいない。目下には雄大な紀ノ川が静かに流れ、空は冬のせいか空気が澄み、晴天の空に野焼きの煙が天を突く。その日も伽藍内はカメラをぶら下げた、いかにも見るからに不審そうな私一人だけであった。「町石」と呼ばれる物がここから山上の根本大塔まで約24キロ。1町約108メートル置きに180本の町石が山道の参道に立っている。空海の時代は木製だが鎌倉時代に御影石に立て替えられた。高さ3メートル、幅約30センチ、今でいう道案内版の役目を果たしている。急な坂道を登るにつれ周りはなるほど、実にいい風景である。紀州の山並みが屏風を重ねたように見える。いっぷくの南画を鑑賞しているようで日本の原風景とはこの様な風景を指すのだろう。人恋しや・・・と出会いを求めても人は私以外まったくいない・・・。恐らく当時はこの道の存在も知られていないのかも知れない。何時間歩いても人にあわない。高野槇の自生地に入ると昼間でも薄暗く男の私でも自然と歩くスピードが速くなる。まったく音はない。落ち葉を踏みしめる音しかしないのである。今歩いている道は間違いなく空海が歩いた道であり、空海も同じ風景を見ながら登ったのだろうと思うと恐れながら時空を越え、魂や思考が共有できると想うのは少々考えすぎか。山頂に着いたのはもう廻りは薄暗くなっていた。そこには月影に微かに輝く美しい根本大塔の姿があった。その横でうす汚れた姿で、カメラをぶら下げ、くたびれた顔をしながら立ちすくんでいたのはもちろん私だった。
2006.11.14
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我々幼少の頃のオヤジと言うものは凄まじい権限を持っていた。殴る、蹴るなどは日常茶飯事で私もオヤジに殺陣を突いて血祭りに上げられたものである。殴られる理由には此方に非がある訳でそれによって親を恨んだりはしなかった。何をするにもオヤジを中心に回っており食事をする時もはるかにオヤジのおかずの量が多かったし、オヤジの好みで毎日の献立が廻っていた。そして、必ず一品二品多かったものだ。そのおかずに限って異常な興味を示し、一度、食べてみたいと母親にせがんで見たものの、睨みつけるばかりである。なぜかオヤジもくれなかった。食事中に無駄口を叩くと叱られるので家族は黙々と食事をする。今からは想像も出来ない家庭の風景だがこれが当たり前だと、その頃は思っていたものである。当時、我が家には不思議な事にオヤジの歯ブラシ一本しかなく、当然ながら我々の歯ブラシはない。要は我々は歯磨きなどしなくていいと言うことらしい。歯磨きを許されたのは中学生になってからであり、情けない事に自分の歯ブラシを持った事に異常な喜びを感じた。しかも世間で使われているようなチューブに入ったおしゃれなものではなく、粉末の歯磨き粉だった事を覚えている。当時、子供用のイチゴ味のチューブに入った歯磨き粉は私の羨望の数少ない一品でなぜか今になっても商品を見ると心が騒ぐ。そのしわ寄せか、母親が生涯、歯で苦しめられていた記憶が残っている。昔、家庭内でのオヤジはいい意味での威厳があり、今の時代のように子供と同じ目線で友達感覚の付き合いでは決してなかった。それが良いか悪いかは私には判らない。ただ厳しく育ててくれたオヤジには感謝している。そんなオヤジも長年連れ添った母が逝ったとき、初めてオヤジの涙を見た・・・。オヤジ49歳の時である。誰にも判らないように夜中、一人で泣いていた。よほど母親をきずかったのかその後、浮いた話を聴いたことは一度もない。
2006.11.12
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「巨人、大鵬、卵焼き」と言う言葉があった。要するに強い物、好きな物を代表している。さすがに大鵬は強かった。父がウクライナ人、母が日本人のせいか顔も端整で特に女性に人気が高かった。祖父が相撲が大好きでよく白黒のテレビを見ながら解説してくれたものである。ちなみに祖父は黄金期の双葉山や柏戸が好きで大鵬はそうでもなかったらしい。要は「阪神、柏戸、卵焼き」なのである。大阪人のヘンコさが性格に滲み出ている。15尺の土俵の中で行なわれる迫力ある戦いはスポーツとして観戦することが当たり前になっている昨今だが、相撲とは本来は神事である。四股は土地の邪気をはらい、天下泰平、五穀豊穣、子孫繁栄、など願うが、そんなことは私に興味は余りない。それよりも15尺の土俵の原型を発案した信長の知恵に脱帽する。なぜ15尺なのか・・・・。非常に興味深いことで、これにより現在の相撲の原型に近ずくのである。黎明期の相撲とはそんな生易しいものではなかったようで、まさしく命を懸けての戦いであった。當麻乃蹴速と野見乃宿禰の一戦は凄かったらしい。野見乃宿禰が當麻乃蹴派速のあばら骨を砕き、蹴り殺している。それもそのはずで当時は突く、殴る、蹴るの三手しかなかった。もはや相撲と言うよりは”喧嘩”に近かったのかも知れない。勝負に勝ち、人を殺めた野見乃宿禰は相撲の祖として神になり、今も相撲界からあがめられているが、負けて殺されてしまった當麻乃蹴速は今、奈良當麻町の里に住民に守られなが静かに眠っている。
2006.11.09
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丹波の山奥に藁葺きの建物がある。ここでは牡丹鍋や但馬肉の焼肉を食べさせてくれる。ここの存在を知ったのはもう15年も前のことか・・・。大学の教授に面白いお店があることを教えてもらい、食い物に関して敏速に動くのは私のひとつの取得だし、話の内容がやたらと自身の五臓六腑に染み渡った。車で丹波篠山へ、さらに篠山から山道を登り、着いた所は山に三方に囲まれた鳥の声しか聞こえない所で、そこに例の藁葺き小屋がひっそりと建っている。なるほど、これはいい、やけに懐かしい風情を漂わす。中は囲炉裏が数ヶ所あり、そこを囲んで食事するわけだ。純朴そうないわゆる田舎のおばさんが食材を運んでくる。アマゴを頭から竹串に刺し、囲炉裏の灰の上に刺す。アマゴよし、但馬肉よし、地卵よし、風情よし、やけに自身を納得させている。この男の頭にはもう次の企画がおぼろながら構築されている。「よし!今度の親睦会はここだ!」。小さいながらも宿泊できる場所もあり1泊をかねての懇親会は素晴らしい企画だと自分自身に酔っているフシがあった。数日後、まったく統制のとれてない学生男女30名を引き連れ、くたくたになりながら到着した。「どや!・・ええやろ!」「感激物やろ・・」なぜか私だけがテンションが高いような気がする。「みんなこれ着ろ~」「先生・・・・何やこれ・・」。お前らこんなもん知らんのか・・・どてらや」「今日から田吾作になるんや!」一人ではしゃいでいる私をさめた目で見ていたのは気のせいか・・・。美味しい、美味しいと言いながら、その食べっぷりから気に入ってくれたことは察しられた。酔い覚ましに2~3人の学生を連れて外に出るが晩秋の夜は寒い。しかし満天の星空である。こんなにも星があったことが感激である。流れ星が次から次えと消えては現れる。♪空に星があるよ~に・・・・・。♪星はなんでもしっている~。知っているだけの星の歌を2~3曲口ずさんでいるといつの間にか学生たちは消え、私一人になっていた。
2006.11.08
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学校が終わるとランドセルを投げ捨て、替わりに庭球を握り、我らの”専用球場”へ全力疾走・・・・。メンバーは6人、仲のいい連中が集まり、何よりも大好きな三角野球の始まりである。バットもグローブも要らない庭球と体一つでできる、当時の我々にはエキサイテングなスポーツであった。腕がバットに手のヒラがグローブになり、セカンドがない。ベースは置石と街燈がその役目を果たす。今から考えればなんとも他愛ない遊びだがそれが毎日の生活のリズムになっていた。ゲームも熱中し白熱した頃に限って邪魔者が入るのである。ここは野球をしていることが見つかってはいけない場所なのである。「こぉ~ら!」「出て行け~」遠くの方でオヤジらしき者が叫んでいる。どうやら見つかってしまった。しかし我々は試合の方が重要なのであり、そんな脅しに負ける連中ではない。オヤジが時折、絶叫している。そのうちオヤジが業を煮やし、棒を持って出てきたのだ。棒を振り回して我々を追いかける・・・・。もちろん捕まるような連中ではない。今の時代では想像も出来ない光景だが昔は強烈なオヤジが身近にいたものだ。だが、オヤジも怒るのも無理はない。この餓鬼どもは水道局の内部に忍び込んで野球をしていた。オヤジは水道局に勤める公務員。立ち入り禁止の場所に金網を乗り越えて入ること自体いけないのである。棒を振り回しながら追いかける”過激派”公務員など今では大問題になろうが、オヤジにしてみれば単なるパフォーマンスに過ぎなかったに違いない。実際に捕まった話など聞いたことはない。
2006.11.07
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その場所は熱気と異様な雰囲気に包まれていた。力道山の空手チョップが炸裂するたびに地鳴りのような歓声がいっせいに起こるのだ。ここはある神社の広場。街頭テレビが一台、仰々しく櫓の上に鎮座しており、テレビの前はくろやまの人だかりである。私も街頭テレビが記憶に残る最後の世代である。その頃のプロレスは国民最大の楽しみでありストレス発散の格好の番組であった。あの頃の力道山は我々のスーパーヒーローであり、卑怯千万、憎き悪役レスラーを一撃でリングに沈めるその爽快感は子供の私にも十分理解できた。力道山が吸血ブラッシーとの”世紀の一戦”を見るたびに当時テレビのある祖母の家に親戚一同が集まり、今から考えればそれほど大きくない画面に段通織のテレビ掛けをめくり、そわそわしながら皆で午後8時を待ったものである。端整な顔の力道山の頭に塗ったポマードの輝きがより一層彼をジェントルマンに見せる。白いガウンを脱ぐと黒いタイツ姿・・・。このタイツ姿こそがスーパーヒーローの証しであるのだ。憎きブラッシーは金髪を振り乱し力道山にかぶりつき血まみれにする・・・・。テレビを見ている男たちは息を呑み手に汗を握る・・・。「卑怯者!」「反則やろ!」「レフリーは何処を見ている!」完全に魂は後楽園ホールである。女連中は悲鳴を上げる・・・。8時50分、力道山は反撃に出る、天下の宝刀、空手チョップが炸裂するのである。なぜかテレビ中継が終わる寸前に勝負がつくのである。そんな疑問を考える輩など誰もいない。力道山が勝つことが何よりも大事なのであり、それによって明日の活力になり、明日の話題に花が咲くのである。私自身いまだに試合中に裂けたタイツと空手チョップは脳裏に焼きついている。だがそんな力道山も暴力団の男に腹部をナイフで刺されあっけない死を遂げる。1963年12月の事である。弟子たちにジャイアント馬場、アントニオ猪木、大木金太郎がいた。この三人が第2次プロレス黄金時代を作っていくことになる。
2006.11.05
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