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[1] 読書日記 <動物を擬人化して感情移入する人間は、容易に人間を動物化して認識する傾向が ある。私は「動物だって人間と同じように生きる権利がある」といった言説が大 嫌いだ。それは動物が嫌いだからではない。私は動物も好きだが、人間のほうが はるかに大切だと考えているからだ。たとえば「鯨は巨大で頭がいい動物だから 保護しなければならない」という主張は、私には「小さくて頭の悪いユダヤ人を 隔離せよ」というヒトラーの主張とダブって聞こえてくる。> 長山靖生 「謎解き 少年少女世界の名作」(新潮新書) を読了。 <大人にとって「少年少女世界の名作」は、諸国の歴史を読み解く絶好の資料であり、 世界の見方を変える本だと言える> <「少年少女世界の名作」には、資本主義体制の本質や会社組織の真実、芸術至上主 義への懐疑はもちろん、親子の相克や階級間の闘争史、幼児虐待や少子化社会への 警告、グローバリズム対民族主義テロの予告まで書かれていた> という、 「少年少女世界の名作」の具体的な作品たちを一個一個取り上げながら、 大人も楽しめる「少年少女世界の名作」の読みの可能性を示唆してくれる一冊。 例えば、 「フランダースの犬」であれば、<貧しかった日本人にとっての癒し系>。 「小公子」は、<日清戦争後の母子家庭を魅了した夢物語>。 「十五少年漂流記」の、<少年も無縁ではいられない英米仏の領土問題>。 「ドリトル先生物語」が、<物語に刻まれた無意識の侵略思想>。 「ピーターパン」だって、<成長と義務づけられた近代人の無限地獄>。 「若草物語」ならば、<喜びと恐怖の狭間で揺れる「女の自立」>。 他にも、 <「少年少女物語の名作」では、性的な話題は用心深く避けられるのが常だが、ことに 少女売春などは絶対にふれてはならないタブーである。 だから、少女たちが引き取られる家庭には、「男」はいない。 『赤毛のアン』のマシューは初老のうえに、女性と話をするのも怖いという極度の女 性恐怖症であり、たぶん生涯を童貞で過ごしたであろう人物だ。 『秘密の花園』の当主は旅行がちで不在であり、『アルプスの少女ハイジ』は、山で 暮らすおじいさんに引き取られる。 例外的に『小公女』では、孤児になったセーラが労働に従事するが、彼女が働くのは 女学校の中である。> などと、物語を読み解く上で、解釈の鍵になりうるようなヒントも散りばめられている。 ボーナストラックとして<二十二世紀に「少年少女世界の名作全集」を編纂する際には、 必ずノミネートされるだろう>「ハリー・ポッター」シリーズについても触れている。 (色合いとしては、他の作品以上に分析的であり、批評的であり、苦言的な内容) <『ナルニア』や『指輪』の魅力は明らかに宗教性にある。従来、よくできたファンタ ジーは独自の宗教といえるほどの価値体系を内包しており、それは魅力であると同時 に、教会との間に軋轢を生ずるほど危険視もされた。これに対して「ハリー・ポッタ ー」は良くも悪しくも「宗教」を巧みに避けている。クリスマスやハロウィンは出て 来るが、それらは風俗習慣としてであり、宗教色は意図的に脱色されている。これが 世界中の異なる宗教を持った地域の人々も「ハリー・ポッター」をわりに安心して読 める理由なのかも知れない。>
2008年06月04日
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[1] 読書日記 <「絶世の美男子で、全能で、女の子の気持ちはすべてわかっている光源氏というS が、Mの女の子たちをいたぶりまくる」 これは、世界の生んだ、最初の偉大なSM小説といえます。光源氏は自分の意思で 振る舞っているように見えるのですが、じつは、大和朝廷の女の子たちが、読者と して集団的に「育てあげた」理想のSにほかならず、読者の意のままに動いている のです。> というようなことも書いてあるが、 主に、 <キリストの磔刑像こそがMの起源>、 <キリスト教徒というのは、全員がMです>、 <ユダヤ=キリスト教の神さまこそSそのものです>、 <SMというものは、鞭が神から人間の手に渡った瞬間に生まれたもの>、 <Sの誕生と同時に近代が生まれた>、 <サドを俟って、サディズム、つまり、先行して存在していたMのカウンターパートと してのSが誕生した>などと、 <「SMをキリスト教との関わりから、文明史的に考察する」>試みの一冊、 鹿島茂 「SとM」(幻冬舎新書) を読了。 他にも、欧米系SMの「鞭」と「革」に対して、何故日本では「紐」と「縄」なのか、 など。 一応の知的好奇心は満たせる一冊。 作者もエピローグで書いてあるが、<SMの実践的指南書>でも<SM業界(そういう ものが存在しているとして)のインサイド・レポート>の類ではないので。 ちなみにブログの公開の際に、一部引用文がわいせつ、公序良俗に反するとして削除を 求められたので、他の引用文と差し替えるはめに……。杓子定規的な規制は本当に面倒 くさく、映画のレビュー等でも何度書き直しを要求されたことか。
2008年06月02日
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[1] 読書日記 <犯行現場に残された厖大なデータのなかから、何を解析したらいいのか、 どの情報は捨てるべきなのかを熟慮し、複数の属性にまたがった隠れた法則を 見出して犯人を追いつめる作業は、極めてデータマイニング的である。 ただし、データマイニングは、データ収集、必要情報の取捨選択など、解析作業に 入る前の下準備に厖大な時間がかかるので、たいていの場合、連続殺人はすでに 終了していて、「後から出てきて偉そうにご託を並べたけど、結局誰の命も救えな かったじゃないか」と、探偵は非難されるのである。> 「さおだけ屋はなぜ潰れないのか?」のデータマイニング版とも言える一冊、 岡嶋裕史 「数式を使わないデータマイニング入門」(光文社新書) を読了。 クラスタ分析の例として、ガンダムのモビルスーツを4つのクラスタに分類して分析し てみたりと、多少マニアックなネタは出てくるものの、極めて平易にして明解な、 データマイニングの入門の入門の入門の入門を教えてくれる概括本。 言うまでもなく、初歩の初歩の知識ではなくもっと深く知りたい人や、とっくに入門を 済ませているような人、即実践・実用化をしたい人のニーズに応えるような類の本では ない。 しかし、データマイニングというものを切り口にして、<好むと好まざるにかかわらず、 情報を搾取されないと生活できない世の中が現出しているのである>と話を進め、最終的 には情報管理社会、そしてその先にある監視社会(<なんらかの形で自らの痕跡やログが 残る情報機器は、すべて監視機構になり得るのである>)に警鐘を鳴らし、 <こうした状況下においては、情報機器や情報ネットワークに対する理解の度合いが、 個人の社会における位置を規定する。 情報に精通していない人は、そうとは気づかないまま監視のもとにおかれ、情報を搾取 され、管理される。それに対して、情報に精通している人は、集積する情報を利用し、 他者を管理する側にまわり、自らを監視の外に置く方法を知り得るのだ。> 社会システムへの学習、理解、精通を促す啓蒙の一冊となっている、良書でもある。
2008年05月29日
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[1] 読書日記 <エヴァンゲリオンみたい、と子供のような感動を覚えたが、 馬鹿にされそうだったので黙っておいた。 息を吸って、吐いてみた。エヴァに乗ってしまったからには行くしかない。> どうしてもこの部分だけ、自分は今まで何を読んできて、これから後も何を読み続けよう としているのだろうと、感じずにはいられないほど浮いている。 時代の雰囲気に流されたのか、これがこの作者の本質なのか。 山本文緒 「恋愛中毒」(角川文庫) を読了。 「パイナップルの彼方」、「ブルーもしくはブルー」と読んで、しばらく積み本にして いた山本文緒の作品であるが、先日飲み会の席で友人の口から「ブルーもしくはブルー」 の書名が出たことで懐かしく思い、再び読む切っかけとなった。 買ってはみたものの一度積んでしまうと、どうしても直近に買った本を優先してしまい、 なかなか読むタイミングの掴めない積み本たち。 友人の評価はイマイチだったが、積み本癖のある自分にとって、こんな些細な事柄でも、 十分に読む動機となる。 ちなみに、積んであった米澤穂信の「さよなら妖精」も、同様な理由が読む切っ掛けにな り、最近になって読了。 刺激をくれる友人の存在はありがたい。 それはさておき、「恋愛中毒」。 面白いというよりも、とにかく上手い。 氏の作品はとにかく、大人の為の真の意味でのファンタジーというか、願望(欲望)充足 機関。これこそ本当の意味での癒し系(死語か?)では。 エンターテイメント系小説としても、「恋愛中毒」のタイトルの意味が読書に理解させら れる後半は、スリリング。
2008年05月22日
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[1] 読書日記 <今われわれが享受している「ふつう」は、何のかのといいながら、親世代がふつう 以上に努力してくれた蓄積のおかげなのであり、決してふつうに過ごしていて天から 降ってくるようなものではない。そして今、日本はそんなかっての貯金を使い果たし つつある。というか、国庫をみれば、実は「豊かさ」なんてなくて、すべては借金の 上に成り立っていたのである。 この状況下で「努力しない」というのは、「淘汰して下さい」と言っているようなも のだ。> 長山靖生 「不勉強が身にしみる」(光文社新書) を読了。 例えば、ゆとり教育。 <学校の週休二日制は、生徒にゆとりを持たせるためではなく、公立学校の教職員 という「公務員」の勤務時間短縮のための制度改革だった> <学習内容が減ったからといって、教育時間もいっしょに減らす必要性(必然性)は、 どこにあったのだろう。これでは結局のところ、学校における一時間当たりの学習 濃度は変わらないではないか> 道徳教育、人格教育ならば、 <「学級崩壊」をきたすのは、躾よりも勉強を優先した結果ではない。躾も教育も ないがしろにされているから、見事にそのどちらも身につかないだけなのでは あるまいか> <だいたい自分の子供もろくに監督できない人間に、どうして学校の監視、監督、 助言ができようか。それが出来るくらいのしっかりした親、社会的な発言力もある ほどの人物なら、そもそも今時の公立学校に子供を通わせてはいない> 何かを信じるという行為は、 <信じるというのは、善良な行為ではなく、思考の停止である。考えるのをやめに して、あとは他人の意見に身を委ねる。それが「信じる」ということだ。そして しばしば、安易に信ずる者は、被害者になるばかりではなく、加害者にもなって しまう> <「分かる」を諦めて「信じる」に移行するラインが、すべての人間に存在する。 誰でもすべて「分かる」ことができない以上、理解力の限界の先は、他人の説明 なり、何らかの世界観なりを「信じて」納得するより仕方ない> 当たり前といえば、当たり前のなことでもあるけれど、勉強になりました。
2008年05月20日
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[1] 読書日記 <この本は「あなたが『えらい』と思った人、それがあなたの先生である」という 定義から始まるわけですから、「先生がえらい」というのは、本が始まった瞬間 から既決事項なんです。残る全ての頁は「人間が誰かを『えらい』と思うのはどう いう場合が?」という『えらい』の現象学のために割かれることになります> 内田樹 「先生はえらい」(ちくまプリマー新書) を読了。 別に、世間で「先生!」と呼称されている人々や、 教職員のことを『えらい』と言っている本ではない。 コミュニケーションの本質とは何かを、わかりやすく説いてくれる一冊。 中高生向きに書かれた本であるので、本当にわかりやすい。 全体としても、部分部分にしても読んでいて面白く、人に自信を持って薦められる本。
2008年05月19日
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[1] 読書日記 最近とにかく本屋に行けば、そのカバーイラストが目を引く、 イラストレーターの中村佑介氏の展示会「PORTRATION」を見に行ってきた。 本日が開催最終日。 この催しの情報を知ったのが昨夜だったのだけども、今住んでいるマンションから 徒歩で10分は掛からない場所が会場だったので、ぎりぎり見に行くことができた。 こういう瞬間にしみじみと、街中であり、都会に住んでいるメリットを実感できる。 せっかく本人がいらしてるのだし、ということでミーハー(死語?)根性丸出しで サインをもらって帰ってきた。 スケッチブックに描いた一般人の肖像画を中心としたユニークな作品展で、 絵を見にいった感想っぽくない感想になるが、面白い作品展だった。 というわけで、 中村佑介氏の作品がカバーイラストに使用されている、自分の持っている本で、 一番手近にあった、 日日日 「ピーターパン・エンドロール」(新風舎文庫) でも、この機会に読むことにする。 日日日の本は何冊か、持っている(積んでいる)が実際に読むの今回が始めて。 今現在放映されている日日日原作のアニメ「狂乱家族日記」は、回を追うごとに物語も、 アニメとしてのクオリティも、劣化の一途であるが、この作品は果たしてどうか? 中村佑介氏がカバーイラストを手がけた主な作品↓
2008年05月13日
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