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あーーー、なんでこうもうまくいかないんだろう・・・・・・一難去って、また更に大きな一難を乗り越えてちょっとだけ ほんのちょっとだけちいさな幸せを感じる時が、あったと思うのにどうしてこうも私達ふたりは、ツイてない???自分で言うのもヤな感じだけどこれでも相当、ここ何年間だけを振り返っても精一杯がんばってきたよ、どれもこれも。こんなに大真面目に取り組んですべて受け止め、逃げずに立ち向かってきたのになぜいつも最後は、ハッピーエンドが見られない?天の上の偉い方達、いくらなんでもあんまりじゃない? 嫌われてんのか、私達。これ以上何をどう堪えて、どんだけ頑張ればいいかもうワカラナイヨ・・・・・・・トンネル抜けたら、またトンネルなんてもう飽きたよ、かんべんして。取り乱しはしない。いい歳だし、もう慣れっこだから。でも、そろそろキツイよ、助けてよ。穏やかに暮らしたい、ただ、それだけを新年に祈ったのに、それも叶えてはくれないの?私達どうすれば?まだまだ裸足で修行を続けろと?果てしない。果てしないな、人生は・・・・・こんなに長く生きても、先がどこに繋がってるのかまったく見えない。いまだ手探りだ。ただ、猫を家族に迎えるという、その夢だけは捨てずに生きてる。★ ★ ★ ★ ★今日のひとこと。「早く春になれ!」
2017.01.30
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わりと近くにある街のデパートの催事場で物産展があるというのを、ちょっと前の広告で知り、行こう行こう!と子供のように楽しみにする夫婦。雪国と南国とで育った環境にまったくもって何もかも共通点はないけれど、田舎育ちなふたりだもの♪しゃれたものより ふつーうーにー 郷土料理がすきーーー!(by 永野風?) ちょうど我が故郷の唐揚げが、実践販売されると知り行く前から無駄に期待感は高まる。ここ数年の唐揚げブームで、関東にも沢山の“名物”を自称する専門店が進出して頑張ってるようだけど、今のところ私の舌を唸らせた(偉そうに!)マイフェイバリット唐揚げは、まだない。いやどれも、それなりに美味しいのは美味しいが、私の求めるそれは単に我が家の味いわゆる『おふくろの味』が基準なわけで・・・いくら故郷が唐揚げ大国だからと言っても、土地土地、家家で味も素材も異なるので、これが我が郷里の唐揚げだ!と言えないのが、もどかしいところ。それがついに先日、一番理想に近い味と巡り合えたので、気持ち的にはなんだか都会の真ん中で幼馴染にばったり再会したような感動というか、初恋の人にウン十年ぶりに会ってしまったような、戸惑いとヨロコビみたいな。まー、大げさだが、それくらい今の私が食べたかったそれが、やっと手に入った・・・いや、口に入ったわけである。最近歳のせいか油ものが胃に受け容れられづらく、揚げた匂いを嗅いだだけで胃の蓋が閉じ気味になりがちだが、この唐揚げは別物だった。揚げたてのひと口を販売のおばさんが、試食させてくれたけど、衣も油も軽く、待ってました!の食後感。迷わず大き目パックを購入。おばさんがパックを袋に入れてくれようとして、思わず「あぢっつ!!」と大声で叫んでしまうくらいアツアツホカホカのヤツだから、不味いわけない。冷えても美味しいのは知ってる。でもやっぱその場で猫舌な私も味わいたい。ダンナの無茶ぶりもあり、私がおばさんにこっそり爪楊枝をもらい、催事場休憩場の椅子に腰かけ、迷わずひと口頬張る。部活帰りの高校生の集団がすぐそばに居るのも構わず、鶏肉を頬張りご機嫌ないい歳の夫婦。買い食いしそうな若者に恥ずかしい姿を見られないよう、静かにはふはふ。揚げたてうまっ♪ 食べたとたん、母の唐揚げが恋しくなった。母のは何でも豪快だから、にんにくももっと強めで、隠し味にハチミツも入るけど、それに負けない美味しいのに、関東で初めて出合った。物産展だから、価格設定が馬鹿みたいに高いのがネックだけど、そう滅多に食べるもんじゃないし、都内のこの店に行こうとすると交通費もかなり高くなるから、これはこれで良しとする。近所にあったらあったらで、しょっちゅう買いに行って、肥えるモトだし。この距離感が大事。会えそうで会えない運命の人、次はいつ会えるのか、あ、今すれ違ったのに・・・みたいな身悶えする昼ドラマ的な(笑)。とりあえず、私の胃袋は満たされた。ついでに言うと、ほんとのお目当ては駅弁まつりの方だった。もの凄い種類の弁当が用意されてたのに、余裕かまして行ったらもうほとんど完売してた。残ってる中から、好みのを選ぼうとして迷う。これだけしかなくても何回も内容見て散々迷うんだから、全種類なくて良かったわ。牛肉系1コと海鮮系1コをゲット。この日の夕食になる。どっちも多分これから先、旅するチャンスがないだろう土地の弁当だからその土地に「行ったつもり」で、じっくり味わい堪能。それにしても最近の弁当は、ひと昔前に比べると、油も塩分も控えめでほんと上品で優しい味に仕上げてるな。どちらも知らない弁当だったが、クオリティの高さや店の熱意が感じられ、お腹も喜ぶ内容だった。下りのエスカレーターにて。若い外商担当らしき男性が、品のいい白髪のご婦人をエスコートして温かい言葉を添えてお見送りするのに遭遇。小柄なその人の両手には、紙袋が3つ下げられていていい“お買い物”ができた充実の笑みを浮かべていた。そこだけ昭和の百貨店のような優雅な時が流れる。思わず私の下げた袋の唐揚げが、匂わないようにと祈る。あのご婦人の“夢”を壊しちゃいけない気がして・・・彼女にとっては今も、デパートは『特別な場所』なのだろう。ああいうお客さんが離れない限り、その役目は果たさないと。レトロすぎるデパートの時代錯誤も、たまには悪くない。場所によっては、フロアをブランドにまるごと貸したり、閉店したりきっとこの時代にうまくフィットせず、経営も苦しい状態がずっと続いてることだろう。長年そこにあるものが消えてしまうのは、とても残念だし、あっても閑散としてると胸が痛むけど・・・この前のねこ展と言い、この物産展と言い、デパートは今、プライドを捨て、生き残りをかけて、必死にイベントや食品フロアで客を繋ぎ止めようとしている。それでも体力がもたず消えていく中で、郊外のショッピングモールと同じことをしたところで、客が取り戻せるほど世の中甘くない。都内では地域発信のテナントが人気を集めているらしいし、ゆるキャラブームでや被災地復興支援の輪など、きっかけは何であれ地方と都会を繋ぐ役割がまだ、デパートにはある気がするのでなんとかこのまま、年に数度のお祭りを仕掛けたりしてココでしか得られない特別な時間を過ごせるよう、私らみたいな人達を楽しませる憩いの場所であり続けてほしい。あの催事場の、他では味わえない独特な高揚感は、今の時代かなり貴重だから。★ ★ ★ ★ ★今日のひとこと。「インコおじいさんの独裁政治始まる。Eちゃん任期終えて帰国でセーフだったな。」
2017.01.22
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全国的に厳しい寒さが続いているが、この日はちょっとだけ頑張った私達夫婦への“ご褒美”とも言える、快晴の心地よい一日に。姑の体調異変の連絡を受けて数日。やっと夫婦そろって動ける時間ができたので、彼女を施設から預かり、病院に連れて行く。リハビリの甲斐もなく今では自力歩行もままならぬ彼女を、車椅子で運ぶのもひとりでは難しい。目的地周りの急な坂に行く手を阻まれ、すぐそばにある病院も気合を入れないと挫けてしまいそう。私ひとりで受診に付き添った時は、結局行きも帰りも施設のスタッフの好意に甘えてしまった。随分前に車を手放した私達には、老いた親をそこまで連れて行くのもひと苦労。今回も仕事で疲れてやっとの休みを介護に費やさねばならないダンナを、サポートするために私も一緒に。介護を始めて思うのは、たとえ血が繋がろうが繋がってなかろうが、田舎だろうが都会だろうが、医療や福祉に携わる人の言葉のニュアンスから、「女が介護するもの」という考えがビシビシ伝わってくるということ。だから私が血の繋がらない嫁という立場であっても、ダンナより私が動かないといけない雰囲気ができあがってて、こうして病院や施設にふたりで付き添っても、私中心に物事が進もうとする。まー、私が神経質なくらい細かくいろいろ聞いたり、彼女の症状等喋りすぎるから喋りが得意でないダンナより、細々聞きやすいし頼みやすいというのもあるだろう。でも、実母の介護に帰った時にも同じような事を言葉から感じるから、きっと世の中的にどんなに女性が才能を開花しどんどん社会進出を果たしたところで、女は家庭や家族のために尽くすべき、という固定観念は平成から元号が変わろうとも、この先も恐らく何も変わらない。とか、なんだか偉そうに。いやでも、実際介護に巻き込まれれば、女性ならばきっと誰もがそう感じるはず。相変わらずのお騒がせ姑は、やっぱり今回もパキッとした答えが出なかった。施設の看護師から聞かされた情報をもとに本人に問診しても、記憶障害が前より進んでいるのか、「いつごろから?」「どんな風に?」と幼児に問うように優しく聞かれても、答えるには答えるが、以前よりももっと「考える」持続力がもたない。2か月くらい前までは、「AかBか?」には答えられたのに、今や考える事を放棄してる。彼女なりの訴えや希望は言うには言うが、優先順位とか相手の気持ちとかまるで無視で、だからこちらがその度に混乱する。認知症は失敗や暴言を吐いても、それを責めたり叱ったりしてはいけないと、あちこちの専門家が書いているのを読んではいても、この日も私は彼女にいつも通り説教をしてしまった。彼女が理解できなくても、身勝手すぎるから言わずにはいられない。何も責めるな、叱るな、すべてを肯定で受け止めよ、なんて家族にとっては罰ゲーム。何をしても許され、イヤな事はしないでいいなんて、都合のよすぎる病気だな。その患者さん達には失礼かもしれないが、とりあえず姑だけに関して言わせてもらえば自分の好きなモノしか受け容れず、嫌いなコト苦手なコトを全部周りに押し付けてきた勝ち逃げの彼女には、ふさわしい病気なのかもしれない。その分、家族や介助人がどれだけ苦労し、涙しているかも気づくことなく・・・・・・思ったよりも悪い症状じゃなさそうだから、薬も栄養補助剤的なモノで済んで面倒なことにならずよかったにはよかったが。それにしても彼女に尽くした後のこちらの疲労感ったら、ハンパない。ふたりして言葉も出ないくらい、疲れてしまう。施設を出たらサッサと家に帰るもんだと思ってたのに、最寄駅の方とは真逆に歩き出すダンナ。しかもどんどん歩幅を広げ、本気で歩き出す。任務終了の解放感か、それともあまりの空の青さからか、穏やかな波の輝きのせいかとにかく彼は、海に向かいたかったようだ。それが解ったから、私も遅れまいと必死について行く。江の島の見える海岸でドーン!とそびえる富士山を拝みながら、大きく深呼吸。風が夕陽の熱を孕み、ちょうどいい塩梅に暖かく。サラサラと流れる砂に踏みしめる音を感じながら、口元も緩む。波が穏やかすぎて、波乗り人もいない。ひたすら眺めのいいキラキラした海が広がる。さっきまでの全部。もうどーーーーーーでもよくなった。ここに来て、何もかも流して帰ればいい。時には地平線に向かい叫んだっていい。ホントは絶叫して発散したいとこだったが、浜辺でムードに浸るカップルに遠慮して体の冷えないうちに退散することに。帰りに買った自販機の缶コーヒーの温かさに癒され、疲れも徐々に薄まる。帰りの車内で、施設からまた留守電があり、そろって焦る。まだまだ少しも気は休まらないが、そんな時は海がある。何度でも、いつでも、海に行って流せばいい。★ ★ ★ ★ ★今日のひとこと。「福島から富士山見えるのか!」
2017.01.17
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去年の初詣は節約?して、珍しく一般参拝で簡単に済ませた。「それが悪かったのかな」と、姑事で夫婦そろって振り回された一年を苦笑い。「今年はちゃんとご祈祷してもらおう!」とダンナの鼻息も荒く。仕事の疲れが溜まってるから、もう少し先でいいよと止めるのも聞かず、ひとりでも行く!!と言い張るので、八幡様まで初詣。正月らしさはあっという間に消え、街中には二月のイベント物が店の入り口を陣取るように溢れてるけど、ここの周りはまだ、正月気分が漂っている。色とりどりのやや派手すぎ&やや違和感のある着物姿の家族だなーと思ったら、言葉が聞き取れず。どうやらここにもアジアンな風が届いているようで。他には、いつでも薄着の欧米の方達とか・・・少しだけ無国籍な雰囲気も漂いつつ、いつもの本殿ご祈祷所へと向かう。大所帯のややマナーの悪い一団にきつきつに囲まれながらのお参りとなり、かなり居心地が悪い。新年早々、『忍耐』を強いられる。お御籤を引いたら、私は中吉。ダンナは凶を二度引いた。川崎大師は凶がばんばん出るので慣れてるが、八幡様で凶を引いたことにダンナ本気で青ざめる。でも、凶を幸運に変えてくれるお御籤納め所がいつの間にかできており、一応はそこで悪運を落として、気を鎮める。ひと通りの用事が済み、お茶でもしようとレトロな喫茶店に落ち着く。後でわかったのだが、そんな憩いの最中に私の留守電に施設の看護師から恐怖のメッセージが・・・たまたまだが、その内容を聞かぬままダンナがちょうど施設に行ったので、直接話を聞けてよかったのだが。姑の体調にまたおかしな症状が出て、それが年末年始と続いてるという。数日前、看護師からの電話で軽く私が話を聞き、緊急性はないと言ってたのに僅か2、3日でこの変わり様。ダンナが施設に着いたら、早急に受診を!くらいの迫られようだったと。結局その日は診療時間も終わってるので、近々また病院付き添いをすることに(嘆)。この施設に移ってまだ1か月とちょっとなのに、その僅かの間に体調崩したと緊急呼び出しされ、病院に連れて行くことが続く。薬で進行を遅らせているとはいえ、完治するわけじゃなく緩やかに進むだけなので、今の体調の変化も、認知症の症状が思った以上に速く進んでいるせい、と思う。調べた限りでは、ことごとく自律神経がやられるらしいので、それに由る異常が次々と起こる。高齢者が一度体調崩すと、階段を転げ落ちるようにみるみる弱ってくのは、避けられないと覚悟はしている。それにしても彼女のここ数か月の弱り方は、想像以上に速い。いやホントは3年前、本人の不注意から背骨と腰の圧迫骨折して、医師や家族の話も無視して治療と真面目に向き合わなかったせいで、嫁の私に丸2か月間完全寝たきり介護をさせたあの日に遡る。あの時から徐々に彼女の崩壊は始まっていたのだ。それが3年分の加齢により、今一気に厄介な症状として現われただけ。ダンナには悪いが、これこそまさに『自業自得』の見本である。人間ここまで自分の体や運のよさを過信し、我慢も努力もせず自分勝手に生きてるとこんなに酷くてイタイ目に遭うんだなー、という最悪のケース。同居して8年を越え、姑と日々接する中で、もう充分すぎるほど学んだ。当の本人が一番それに気づくべきなのに、最早今自分が何者かさえよくわからず何のため生かされているのかも考えず、ただ気力もなく、小さく息だけをしてる。正月に最愛の呑気な次男が、娘と奥さんを連れて面会に行ったところで、次男だけの自己満足にはなっても、今の彼女にはなんの足しにもなっていない。施設に入る随分前から彼女には、この先の目標などあるわけもなく、たったひとりの孫さえ生き甲斐にもなっておらず、ただ死ぬのが怖いから、必死で周りにしがみつき周りに守られ、生きていただけ。この所その恐怖さえ感じないのか、生きようとする力がまるでない。「目の表情がおかしい。なんか違ってる」と、面会を終え帰って来たダンナが呟いた。そんな調子で、せっかく気持ちも新たに1年を始められると思ったばかりのその瞬間さえも私達には赦されず、こうしてまた去年までと何ら変わらず姑の面倒に巻き込まれ、既にもう何が何だかわからない。進むべき道を見失いそうで、ふたりとも戸惑っている。新年なのに気が重い。こんな暮らしがいつまで続くのか、終わりが見えないのが介護の地獄。『今年こそ平穏に。夫婦穏やかに暮らしたい』欲張りはしない。願いはシンプルにひとつ。ただそれだけなのに、どうしてこんな辛くて重い試練が続くんだろう。★ ★ ★ ★ ★今日のひとこと。「今の姿、必死すぎて見てらんない。輝いてた時代、確かにあったのになぁ。」
2017.01.14
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雨上がりの午後を待って、重い腰を上げる。えいっと気合を入れなけりゃ、今日はダンナも夕方まで居ないし、きっとダラダラしてしまうとこだった。新年明けて間もないんだし、いきなり後ろ向きになるのは縁起でもないし、せっかく近所でやってるんだし、最終日なんだし・・・やっぱり予定してたことを、行動に移そう。と、いうわけで、行ってきましたわが心の師匠(勝手に思ってる)岩合さんの『岩合光昭写真展~ねこ~』 。ほんとはトーク&サイン会目当てに行くつもりだったけど、さすがに時間が取れず、断念。あー、そこまで岩合さんが来てたというのに・・・会いたかったな、岩合さん。ちょっぴり本気で弟子で使ってほしいくらい、大好きな写真家・・・というより、人間的に惹かれる人のひとり。私がもし、まだライターを続けてたら、真っ先に会って話を聞いてみたい人。その夢は叶わないけど、せめて彼の五感で撮られた世界を感じに・・・写真家人生40年以上の中で出合った猫たちの写真の中から、選び抜かれた約160点が、岩合さんの愛情たっぷりのひとことコメントとともに、テーマごとに展示され、どこを見ても、ほっこりにっこり。見る人の口元が皆緩み、時折、楽しそうな声がフロアに広がる。会いたかった猫も居た。私の故郷で撮られた写真もあった。ひとつひとつのカットを見ながら、猫の眼差しの先に居る岩合さんの苦労や笑顔を想像しながら、じっくりたっぷり堪能。そんなに大きな会場じゃなかったけど、見応え充分。お土産?コーナーの岩合ショップも、グッズが思った以上に色々あってしっかりチェックするのに、結構時間がかかってしまった。迷いに迷って選んだのは、ベタすぎるけど、レターセット、シール、ポストカードという・・・全く冒険をしない面白みのないチョイス。でもいいんだ、実用的で。早速スマホケースに、お気に入りのシールを迷わず貼った。明日からこのコと一緒に、頑張れる。ちなみに待ち受け画面もスマホ買った一年前から岩合写真になってるのだが。岩合さんが猫写真を撮るきっかけになった、30年前の家族「海かいちゃん」のエピソードは、今まで知らなかったので、やはり行ってよかった。もう何年も前から、保護猫の里親になる夢をもち続けているのだが、老婆の介護が先に来て、猫の世話どころじゃなくなってたから今年こそは!!と考えている。姑の食事やオムツの心配より、猫の餌やりや猫砂の交換をしたい!夫婦の年齢的にも、これ以上は延ばせないだろう。猫を置いて先に逝くわけにはいかないから・・・そういう先のことまでも想像しつつ、充分慎重に進めなければ。『真っすぐに生きてる。』この写真展のキャッチコピーが、妙に胸に刺さる作品の猫たち。命の大切さ、生きることの素晴らしさ、猫に教えられ、岩合さんに教えられ・・・新年最初のエネルギーチャージ、無事完了。★ ★ ★ ★ ★今日のちょっと長めのひとこと。「大人になるハレの日に、分別ない騒動起こす輩が不愉快。センスない格好して、何がやりたいんだ? 理解したくもない。」
2017.01.09
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ふたりきりの静かな年越し。姑が施設にお世話になれたからこその、8年ぶりに浸る穏やかな時の流れ。なのに去年と同じで、仕事で疲れ果てたダンナは、リビングで早々と深い寝息をたてて夢の中・・・・・・カウントダウンは、毎年恒例のクラシックコンサートにチャンネルを合わせ。2016年を締めくくるのは「イーゴリ公より『ダッタン人の踊り』」。オペラとか歌入りの曲は意味解らないから好みじゃないが、これは強烈な個性で、一度聴いたら忘れられない中毒性をもつからなぁ。新しい年の始まりにふさわしい内容かは謎。それは置いといても、今回も時間ピッタリに演奏を終えた指揮者の腕前の鮮やかさに、素直に感動。二年連続ダンナの寝息つき生演奏を、ひとりで聴いての年越しだけど。この番組を毎年観ないと、年を越したという実感がもてない。そんなに感動もなく、ぬるっとやって来ました2017年。今さらだが、2016年を一文字でと聞かれたら、私の場合はおそらく「変」。長年苦しみ続けている婦人病の不快感を少しでも軽くしようと、一筋の光に賭けて挑戦した特殊手術。その効果が思いのほかあった気がして、耐えるしかなかった痛みが消え、体内の巡りが確実に変わった、の変。元気だけが取り柄だったはずの姑の体調・身体機能の急激な低下、それに伴い生活の基盤が変わり、我が家のライフバランスも変わり・・・家電等生活関連物が次々に壊れ、あれもこれも新品に変わり・・・それ以外にも、大小さまざま変わりまくりの1年だった。変わりたいのに変わらないのは、私の向上心・意欲の低下。姑事やダンナや実家、私の病気等々に振り回されすぎて、擦り切れたというべきか。以前ならは何かしら自分にプラスになる事をしようと、それなりに前向きに、小さな挑戦をしようと色々考えていたのに。この数年、闘病と介護で自分が誰だか何のために生きてるのかもわからないギリギリの状態が続いてる間に、その情熱の種火さえ、すっかり見失ってしまった。セ○ミンでも飲まないと、ダメなのかもしれん。スタミナがない。寝る時間が足りなくても、編集者の頃から慣れっこだから、今も変わらずそこそこ平気だ。ただ、体力的にというより、私の中の、情熱の熱量の問題。魂ゆさぶられるほど、何か打ち込みたい!と思えるものがない、という。昔はオタクと自分で認めてもいいくらい、好きな事にとことんハマり身も心もお金も捧げてきたのに。これが、枯れる ってことなのかなぁ。私をくすぐる物事が、今はない。まだまだ老いるには早すぎる。好奇心をもって、抱負を熱く語って、今後の私を作るためにも、1年を充実させるべきいい時期だと思うのに。何かしなきゃとは思うけど、前ほど焦りもなくなって。友達の充実ぶりを知っても、人は人、自分は自分。と変に開き直って、動じなくなった。諦めてるのはある。私の周りは、とっても凄い地位やキャリアや技能をもった人人が居て、私に何も取り柄がない分、彼等が私の誇りだけれど・・・それじゃさすがに悲しすぎるので、せっかく体調も少しはマシになり、姑との別居が叶ったのだし、新しい年の幕開けとともに私の暮らしを、私の心を、もとに戻していかなくちゃ。酉年なだけに、自分をとり戻す。これが、今年の抱負だな。★ ★ ★ ★ ★今日の長めのひとこと。「有名人も客で来るぺーさんの店が消えた。この町でこの店知らなきゃモグリって言えるくらい多くの胃袋を鷲掴みにして、止まり木みたいな憩いの場が。急にあのレバニラとゴン太麺の焼きそばが食べたくなったら、どうすれば? 夫婦そろって新年早々大ショック。」
2017.01.04
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