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途中で飽きたが最後まで読んだ。開高健「日本三文オペラ」の、作者は違えど続編みたいなものと読んでいたら、1950年代に大阪にアパッチ族という屑鉄泥棒の集団が実在したそうで。しかし小松左京にしろ開高健にしろ、アンソロジー収録の短篇を除けば、読むのは5~6年振りとなる。歳をとるわけだ。 追い詰められたアパッチと呼ばれる人たちが鉄を食い始めて鋼鉄人間となって・・・書いてるだけで暑苦しい。列挙するのが面倒になるほどこの手の話は・・・サイバーパンクにまで持ってくと・・・止める。 発表された当時は新鮮で衝撃的だったかもしれんが、今読むと、戦争に持っていくまでがかなり退屈。文章自体が魅力を持っているわけでもない。息抜きと、途中から「日本三文オペラ」への郷愁の念によって、サクっと読み終えるつもりが、随分かかったのは、やっぱり暑いから。小松左京「日本アパッチ族」(光文社文庫 お取り寄せ)
2002/07/31
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手元にあるのが単行本なので読み始めるまで知らなかったが「聖」の続編。幸いだ。 終盤時折夫婦の狂いが逆転する。物語を救ってくれる第三の人物を期待していたが、男の母にしろ医者にしろその域まで辿り着くことはなかった。 電車の冷房の音が耳に障る。部屋の扇風機のタイマーの歯車がコンセントを抜いても回り続ける。暑さよりも寝苦しい。真夜中に扇風機を玄関に移すのは状況だけ見れば発狂に似た。テレビの音にさえ吐気を感じた。雑な音が腹にくる。そのくせやかましい場所に身を置いても何も感じない。祭りは人が多い。音が頭に棲みつかなければそれでいい。 三番目の人物は子供か。主人公夫婦の間に産まれたばかりの。言葉を持たないので意識に昇りにくい。「今の生活も、いずれ消えてしまうか」と岩崎はようやく絡んでいく。「いやさ、妊娠する前の俺のことなど、とうに消えているのだろう。腹がふくれていなければ、寝たんだか寝ないんだか、はっきりしないことだろう」「あたし、橋の上から、お墓にいるあなたを見てたんですよ」 いかなる人間関係も性的結びつきよりも、「聖」で書かれた最初の出会いは妙な説得力で「それでは仕方がない」と思わせる。そのような出逢い出会い方で始まれば狂っても仕方ない。古井由吉「聖・栖」(新潮文庫 この本は現在お取り扱いできません)
2002/07/28
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また古井由吉が続く。 古本屋の奥で犬が鳴いた。これまでにも何度か書いたことのある、老犬を部屋の隅で寝かしているのが見える古本屋。店の主人が外に出ると鳴き出した。何かの気配が傍から消えると不安になるのか、主人が戻って来ても二度鳴いた。 古井由吉二冊を渡すと「今時純文学を読む若い人がいるんですねえ、とっくに純文学は死んだと思ってたよ」と主人。ある程度汚いのを承知で買う古本を「これちょっと汚れてるからまけときます」という判断は好きだ。これまでもまとめて買った時は三度まけてもらった。一度は「こんな本うちにあったの知らんから200円でええで」とよくわからないことを言われた。 物語を終わらせるのに水の力を借りるのは「たぢからお」にしろ「同時代ゲーム」にしろ、よくある。残り数頁となった頃に大体予想出来た。「百年の孤独」は・・・・・・、風だったかな。 大学祭の中を歩いていたら急に呼び止められ、劇団員に「ただ歩いて往復するだけの役をやってください、その役者が急に出られなくなって、諦めていたのですが、今あなたを見て諦め切れなくなって」という風に頼まれ、演技指導を受け、出番になれば意外とやり通せた女性の話は、あれも多分古井由吉だったろう。何に入っていたか確かめるのが、近くて遠い。これもつまりはそのような、小さな村の昔からの葬送儀式の一旦を担ぐ乞食/聖役をひょんなことから押しつけられる男、押しつける女、死に向かう女の祖母、祖母の少女時代における当時の乞食/聖との関係。 そのような状況に陥ったら、そのような振舞いは自然に出来るかもしれない、それだけしか思えない、ということでもない、が、多くを思ったわけでもない。古井由吉「聖・栖」(新潮文庫 現在お取り扱いできません。)
2002/07/25
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小説以外が二冊続くことも珍しい。 古井由吉が翻訳したムージルが気になり、文学全集の端本が店の前に積まれている古本屋に行くとすぐに見つかった。この古本屋で欲しいものを見つけるのはよほど運に恵まれなければ難しい。本が積まれているのは外だけではなく店の中もそうだ。肩まで積み上げられた本達は背後の本棚を上部以外隠し、商品を並べる意味がよく分からなくなっている。本を抜き取ろうとしてそれらが崩れるのなら納得出来るが、狭い通路を通るだけで崩れてくる時もある。積み直している間も店長は動くことを知らない。そんな店ではあるが、いかにも宝が埋もれてそうで、店に入る度に意気込むが、空気も不味く、粘れたことがない。地震の時以外でも小さい子供が入ると本に埋れて潰されるかもしれない。 そんな中で見つけた一冊。というより、以前もこれは見たものの、随筆だから別にいいかと思っていたら一週間後に無くなっていた。店長に聞くと「藤枝は好きな人は好きだからねえ、売れたはず」と言われて諦めた。なのに今またあるというのは、店長でさえ確認が困難な店であるから適当なことを言ったんだろう。 講談社文芸文庫版「悲しいだけ/欣求浄土」の巻末、著書目録を確かめると、「空気頭」が意外と早く書かれているのに驚く。多分これに驚くの二回目。しかし、大体昭和29~42年に書かれたの収めてあるのを読むと、この人が「悲しいだけ」「欣求浄土」を書いたのは、そのまんまだが、「田紳有楽」に至る理由はよく解らない。 はっきり言って現在興味のある人など少なく、むしろ嫌われている、志賀直哉を筆頭とする白樺派。藤枝静男はそれに入るのかよく知らないが、学生時代から志賀直哉宅をよく訪ね、本多秋五、平野謙、変わったところでは小津安二郎まで出てくる、古き良き時代の文筆家/作家志望者たちの楽しそうな交友を書いた部分は、可笑しいというより、可愛い。師である志賀直哉への敬慕の情は大いに伝わる。それが彼らの本を読もうという気持ちにまで至ることにはならないが。「泥棒三題/今朝の泥棒」は、犯罪百話 昭和篇/小沢信男編(ちくま文庫 に収録されているのを以前読んだ。思えばこの本には野坂昭如を読むきっかけを貰った。 昭和43年初版 定価590円 amazonでヒットするはずもなく。
2002/07/24
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この装丁をやられたら作者は装丁者を殴ってもいいと思う。 小説は、一人、人物をつくれば、少なくとも始められます。とくに、私小説的な形をとりますとね。で、主人公は調達した。しかし、一人の主人公で連作を一本書いてうまくいくと、私小説的な心境小説ものに完成しちゃうんですよね。そこで、もう一人、人物は必要だろう。もう一人登場させて、これで一篇しのぐ。その先は五里霧中なわけです。どうももう一人の人物を呼んでいるらしいけれど、その人物を登場させるのにひと山あります。もう一人の人物を登場させるのは大変なんですよ。大変なエネルギーと羞恥がいります。とにかく三人出てくれると、ひとまず安堵します。三人出ればさらに、また何人か人物を呼ぶんだけど、これを登場させるかどうか、また思案のしどころでうね。一人の人物として登場させたり、半分くらいの影として登場させたりと、いろいろなやり方がある。まあ、自然に任せていこうとしたら、結局、人物としては三人止まりでした。とりあえず石を置く。とういう形象をつくるかぜんぜん見当がつかない。しかしとりあえず石を幾つか配置しておけば、自ずからあちこちで形をつくらなくてはならなくなるだろう。そういうことで進めていくんです。 大体「楽天記」が出た後の対談集。ただの偶然。江藤淳・吉本隆明・平出隆・松浦寿輝・養老猛司・大江健三郎。養老孟司という人は解剖学者。大江健三郎が杉浦日向子の漫画について、古井由吉について書いた高橋源一郎の文章について、意外と言っては変だが、ごくまともに好意的に書いていたのに驚いた。まあ、とりあげてた「百物語」は文芸誌に連載されていたものだが。「漱石的時間の生命力」を読んでいると、古井由吉が漱石について語っているのが古井由吉自身について語っているように見えてきた。かなり違うのに。 連作形式についてもいろいろ語られてる。私は「忿翁」タイプが今のところ一番好きだ。前章と関係があるのかないのかわからぬが、全体としてはやはり一つである、そのような。「楽天記」「白髪の唄」は単体ではいいが、続けられると、飽きてしまうから。 ヨーロッパの小説にはそういうのが多いんじゃないでしょうか。いろいろ時間を辿っているようでも、パラノイア的普遍性でぎっしり詰まっているというような。馬鹿言っちゃいけない。三十年ずっと同じことを考えているわけないだろう、というような感じの小説が。 私には三日間同じことを思い続ける人でさえ不思議に見える。古井由吉「小説家の帰還―古井由吉対談集」(講談社 現在お取り扱いできません
2002/07/22
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私の産湯は、母の亡骸湯灌のための、まあたらしい盥によってなされた。 野坂昭如「母陰呪縛譚」冒頭 野坂昭如「マリリン・モンロー・ノー・リターン」を読んでいた。表題作は面白かったものの、「母陰~」に至ると、その、今まで何度もこのようなものは読んだという感が強くなりすぎ、苦痛が来た。古井由吉ばかり読み続けているとこちらが書くこともあまりに古井じみて来るので、野坂昭如はちょうど良い薬だと思ったのだが、飽きた野坂昭如と、飽きていない野坂昭如があり、飽きた方の野坂昭如にわざわざ今近づく必要もない。 嫌な気分に引きずられ続けると分かっていながら、テレビで「プライベート・ライアン」をやった時に最初の30分をまた見てしまい、それ以来あまり映画を観る気がしなくなっているので、映画を観に行くから原作を読んだというわけでもない。覚えていたわけでもないのに、思い出したように手が伸びた。「奇跡を起した男」をどこのアンソロジーで読んだのだったか思い出せない。「円錐蓋」はどうしようもなくつまらなく、他の作品も古典として以上に読む価値はない。しかしやはり「タイム・マシン」だけは今でもじゅうぶん面白い。海外SFにほとんど私は触れたことがない。筒井康隆「幻想の未来」、吉村萬壱「クチュクチュバーン」などの、救いようのない地球の未来を描いているものが私は好きだ。ウエルズの書く紀元80万2701年の世界構造とちっぽけな恋愛風味もいいが、実にシンプルな終末近くの地球の描写は、読みながらそれを眺めていると感じられるから、それはいいものだ。ハーバート・ジョージ・ウェルズ「タイム・マシン」橋本 槙矩 訳(旺文社文庫 現在お取り扱いできません)偕成社版 雨沢泰 訳角川文庫版 石川年 訳岩波少年文庫版 金原瑞人 訳
2002/07/21
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「忿翁」とも「白髪の唄」とも「仮往生伝試文」とも、特に「白髪の唄」に、似ている。もはやごっちゃになってどれがどれだか分からない。そういえば最近外国人作家の本を読んでいない。調べてみたら一月半も外国人作家の書いた本に触れていない。そもそも本を読むペースが極端に落ちている。特に理由は見つからない。 ここまで来ると書くこともない。さて次は何を読もうと思った時、古井由吉以外を手に取る理由がない。いや、今はまた野坂昭如が手に入った。漢字四文字なので共通点もある。何を言っているか分からない。 書き方を掴めば内容に頓着せずとも話は進むのか、同じエピソードでも違う話の中に取り込まれれば同じではないのか、書いたことは忘れるのか。「狂ってました」と青年はかるくふきだした。「あれは一体、何事ですか、と脇からたずねられました。咎められた気分がして振り返ると、その片割れが口をあけて、乱闘に入っているのです。狂ってるよ、とそうつぶやくんです」 そうつぶやいて、またふっと笑った。 ふっと笑った、を、ふっと狂った、と読んだ。そうしてふっとした調子に狂うこともあるのかな、と思った。読み間違いから狂う、誰かの呼び間違いに真面目に自分の存在を疑う、疲れて帰途につくのもつらいと思っているうちに家へ帰ることを忘れる、というようなことが、私にはありそうもないが、世の中には、少しくらいはあるようにも、思えてくる。 古井作品に頻出する言葉で言えば、人々は狂気を分有しているから、誰でも狂える。ふとバランスを崩せば、はみ出したまま帰ることを忘れることが出来る。狂うにも狂わないにも、大した理由は必要がない。 そんなことはない、と書いた傍からすぐに思う。古井由吉「楽天記」(新潮文庫 在庫切れ)
2002/07/15
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たしか「白髪の唄」の中だと思ったが、調べるとそうでもない。古井由吉ではあったと思うが、その中のどれだったかというと、混線する。エピソードの一つから話の全体を思い出すのがむずかしい。しかしそれはたしかにあった。現実で似たものを見た今ではそれが交わってさらに正確なところが浮かびにくくなる。 電車の向かいの席にて、母親と子供二組、そのうちの一人の子供が鳴きだした。猫であろう、子供にしか出せない種類の声、音がある。私も昔猫と口喧嘩の真似事をして笑われた覚えがある。あの時の猫は猫の鳴き真似に反応していたのか、自らの声が反響したように思えて訝ったのかは、今では分からない。子供は不気味に顔まで猫に似た。それを親は咎めるでもなし、もう一人の子供が反応するでもなし、ただしばらく鳴いていた。そして何の理由もなく鳴き止んだ。降りる時に鳴いた子供が最後まで残り、関係のない間柄なのかと一瞬思ったが、すぐに後をついて母親らしき人と手を繋いだ。四人が四人とも違う境地に立っているように見えた。 往生とはただ死ぬことも含むが、極楽浄土に生まれ変わることも指す。出典はいちいち書かれていないが、「霊異記」あたりからが多いのだろう、様々な聖人たちの往生伝を語る中に、作者の想像が入り込む。往生伝を語れば往生から遠くなるか、近くなるか。そもそも往生は願ってなるよりたまたまなってしまうようなものに私には見える。往生を願って修行していたものがふっと気を抜いた隙に甘い構えのまま連れて行かれる、往生を諦めて眠るように死のうとした瞬間に迎えが来る、そのようには書かれていないが、本人にとっては不本意な往生の仕方が多かったように思えて仕方ない。望み励めば叶うならばありがたみは少ない。そもそも死んだ先のことを生きているうちから考えるのは・・・話が逸れた。 往生譚をそのまま綴っても仕方ない、むしろ往生譚であることを利用して面白みを膨らませ、往生を願う者を笑い遊んでいる。「無数に反復した」で締められるところに反応するなら、往生人たちは極楽などに行けず、何度も娑婆に転生し何度も往生を願い天のものに笑われ続けている存在に見えてくる。 しかし何故猫の鳴き真似するのに、顔まで似せる必要がある。記憶に染み込んでしまったではないか。古井由吉「仮往生伝試文」(河出書房新社 在庫切れ)
2002/07/12
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少し間を開けただけで誰がどれやら最初は思い出せなかった。この間というのは不思議なもので、深刻で暗鬱なはずのこの物語も珍奇で滑稽なものにしか見えてこなくなる。そして実際に、濃い面子が乗った船が転覆した後も、水に浮かびながら交わされる、ほぼ無意味と思える議論というより、各々偏屈な個性的意見を吐かねば自らが存在しなくなるといわんくらいの勢いで進む妙なテンションの会話は、コント臭い。 ──まあ、まあ、ちょっと待って下さいな。この上もないお喋りとお喋りが互いに出会えば必ず途方もない、ただ無駄ばかりの無意味で馬鹿げたお喋りになるそうですけれども、それにしても、ほんとうやら根も葉もない嘘やら、そんなことはどうでもいいといった廻りくどい途方もない話をつづけて、いったい私に貴方は何を言おうとしてるんですの・・・・・・?相変わらず津田夫人だけが正しい。読んだのは六章のみで一冊になってる分だが、ヒットしなかった。埴谷雄高「死霊 2」(講談社)
2002/07/05
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469頁。最近あまりこれくらいの長編は読んでなかったなと思ったら、「死霊」も読めば「ゼウスガーデン衰亡史」だって長かったと気付いた。どうも危うい。 次第に古井由吉に馴染んできたようで、読みかけている合間は思考の文体が古井由吉のそれになる。寝入る時にともすれば頭の中に浮かぶ本の空白に文体を借りてひたすら綴るのを眺めるようになる。これが出来る作家とそうでない作家がある。漫画の場合では手塚治虫か細野不二彦の絵がいい。自然と進む話に脈絡はなく、漫然と続くだけだが、稀に何か素晴らしいものを見つけたような気になることもある。たいてい眠りに入っているのでうまく起き出せず、翌日覚えていたとしても起き出して後の頭で考えれば大したものではない。 古井由吉・後藤明生・小川国夫・黒井千次・阿部昭などらを指して呼ばれる「内向の世代」という呼称に捕まるのか、古井由吉の文体でものを考える時にはたしかに心が内へ向く。作中で内に向いているのはどちらかというと語り手ではなくその周辺。 友達と、別の友達の恋人と、三人で他愛もない話をしているうちに20年前のことに辿り着く。いつのまにかそのような話が出来るようになっていた。珍しい話題ではない。これまでにそのような話をしたことがなかったわけではない。この面子では、誰もその時はそこにいなかった。なのにそのことを話せるということに違和感を覚えた、というより気付いた。生まれてさえいなかった者達の間にも語れる過去の出来事はあると。 自分の斜め後にいる人間にとっては、あの事件は起っていないのだ、という不思議さの上にも、降りていたという。 藤里の当時の身になってみれば、その事件を知らない人間がそこにいるという不思議さは、無理もない。そのことについて何も知らぬ人間が、そのことで苦しむ人間の上へ、奇妙に逆転した熟知のような力を及ぼすことはある。憎悪のほうへ振ることもあれば、宥和へうながすこともあるだろう。あの人間には起っていないのだという驚きはやがて地震に返って、済んでいるのだという安堵の情のひろがりを許した。数学の問題を解きなやんでいたこの私も、済んだことになるのか。 こちらは四十年。 この数年後に書かれた「忿翁」の方を先に知っていたため、「憤怒」「忿怒」という言葉が目についた。しっかりと確かめたわけではないが、前者は主に他者が使い、後者は語り手が使っている。古井由吉「白髪の唄」(新潮文庫)
2002/07/01
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