2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
全6件 (6件中 1-6件目)
1
三度目か。四度目か。とにかく二度目ではなく。ましてや一度目ではない。なんのことはない、再読に選んでいるものは既に何度も読んだもの。幅は狭い。まだまだ、まだまだ多くの、想像出来ないほど多くの本が、小説が、作品が、物語が、あらゆるところに溢れてはいるけれど、その中で好きになれるものは少なく、実際に読むものはごく僅か、何度も読むものは極端に言えば数冊程度にまで限定出来る。 以前読んだ時より、主人公「おれ(ラゴス)」の顔を最初から随分年寄り臭く想像した。 四ヶ月後、おれは歴史と伝記に読み耽っていた。年代を追って史書を読み、各時代への理解を深めるため、それぞれの時代における重要人物の伝記はその時代の歴史に並行して読むという方法が、なんとぜいたくな、そして愉悦に満ちたものであったかは、かくも大量の書物に取り囲まれているおれにしかわからず、実際おれにしか体験できぬものであったろう。それはまた歴史理解の最も効果的な方法であったことをおれは確信している。それにしてもかの星における歴史は長く、複雑でもあった。いつ読み終えるかしれぬそれらの歴史をおれは散歩する暇さえ惜しんで読み続けた。といっても、焦燥とは無縁だった。かくも厖大な歴史の時間に比べればおれの一生の時間など焦ろうが怠けようがどうせ微微たるものに過ぎないことが、おれにはわかってきたからである。人間はただその一生のうち、自分に最も適していて最もやりたいと思うことに可能な限りの時間を宛てさえすればそれでいい筈だ。 どうしてあまり本を読みたくなくなったのか。部屋に積まれてる「そのうち読もう」という類の本。殆どがまだ「そのうち」が来ないまま虚しく横に寝ころんだまま。そういう時期はある。これまでにもあった。好きな作家が出来た。幾つか作品を読んだ。まだまだ他に作品はあるが「ここまででいいや」と勝手に線引きをして、「読むものがない」と一人で嘆いた。何度もあった。特に理由があるわけでもない。しかし、自然に──「自然に? 左様 充分自然に!」伊東静雄──手が、目が進む読書以外の、気の乗らない義務的な読書はあまり良くない。次に自然に何かが読みたくなる時まで、あまり新しいものが読みたくない今は今として手を加えないでおこう。他にもいろんなことがある。「カラマーゾフの兄弟」を今読んでいる。これを境に、何か別の方法で何か別のことに進もう。筒井康隆「旅のラゴス」(新潮文庫)
2002/10/22
コメント(0)
読み直し。笙野頼子『二百回忌』は途中で飽きた。 今まで読んできた作家、思ったよりずっと貧相な数のそれらを漠然と思い浮かべながら。江戸川乱歩・・・決め手にかけるか。チェーホフ・・・「退屈な話」あれは嫌だ! 村、村・・・春樹、別に読み直したいものもないか。龍・・・暴力、性、経済、どうでもいいなあ・・・あ、『69』! というそういう。 楽しいな。こういう読書は。青春小説は。いい意味で馬鹿馬鹿しい小説は。 しかし楽しいことばかりでもない。どこか引用するのにいい箇所はないかと見直してみると、そこだけ抜き出してみてもあまり笑えない。小説の底に一貫して流れている「60年代終わりの雰囲気」こそが大切なのだ。私達が歳をとった時、たとえば「99」を、1999年に流れていた90年代終わりの雰囲気を楽しそうに書けるだろうか、書くべきことが見つかるかどうか? 悲観的な予測しか立たない。「1950年代に生まれていたら、ビートルズをリアルタイムで楽しむことも、その後の音楽の隆盛も丸ごと目の前で見ることが出来たのになあ」とぼやいた友人がいる。「じゃあヒッピーなんかにもなりたいか?」と聞くと答えはノーだった。今の感覚を持ち越して考えることを捨てるのは難しい。 この小説と同じように、母校に夜中数人で忍び込み校庭でウンコをしてきた知り合いもいる。それは反体制の象徴でも、恨みでもない。ただ酔った末の勢い任せだ。それとタイミングの良い(悪い?)便意と。 しかしアダマは優しい。ボタ山のふもとに知り合いの養鶏場があるけん電話してみよう、と言ってくれた。アダマは忠実だ。僕に忠実なのではない。アダマは信じている。僕を信じているのではない。一九六〇年代の終わりに充ちていたある何かを信じていて、その何かに忠実だったのである。その何かを説明するのは難しい。 その何かは僕たちを自由にする。単一の価値観に縛られることから僕達を自由にするのだ。「ある何か」が摩滅され消耗しきった跡をしか私達の世代は歩いていないかもしれない。しかしまた別の何かが私達の底には充ちていたような気がすることもある。それはだらけた、うすぼんやりとしたものでしかなくても。それが自分達のものであるというだけで、価値はある。69と99の違いなどただの数字だ。昔の雰囲気に憧れているだけなのは寂しい。村上龍「69」(集英社文庫)
2002/10/19
コメント(0)
日野啓三が死んだ。驚いた。新聞見て「ええっ!」と声が出た。 好きな作家でもないのに。作品は短篇一つしか読んだことがないのに。~賞の選考 委員としてよく名前を見かけるなあという程度の認識しかないのに。 別に悲しむ理由はないが。突然知ってる名前が死ぬと驚く。 好きな短篇二つ。 牧野信一の感想は今年書いてる。2002/03/19(火) ゼーロン・淡雪 他十一篇/牧野信一、2002/03/20(水) バラルダ物語/牧野信一。読んだところなのにまた読み直した、という感じだが半年以上経っている。恐ろしい。印象深い出来事は何十年前のことでも一週間前のことでも、昨日のことのように思い出せるのなら、それは昨日の出来事と同様に在る。しかしこの半年は随分早い。 思ったより読んでいなかった。忘れてる部分が多いというより、覚えている部分が少なかった。主人公が「いつのまにか感情を喪失している達磨」であることも忘れ、物語が進むにつれて次第に感情を取り戻すことも忘れていた。最初から覚えていなかった。天狗洞という怪しい預けられた男が奇妙な通過儀礼と綺麗な娘さんと監視する師匠とああだこうだで最後は主人公が娘さんを追っかけて~、というような「無意味な」話だから好きだったんだと思ってたのだけれど、意外と意味があるじゃないか。 マルスの歌。 歌が聞えて来ると・・・・・・だが、この感情をどうあらわしたらばよいのか。今、黄昏の室内でひとり椅子にかけているわたしの耳もとに、狂騒の巷から窓硝子を打って殺到して来る流行歌『マルスの歌』のことをいっているのだ。 神ねむりたる天が下 智慧ことごとく黙したり いざ起て、マルス、勇ましく ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ いぶり臭いその歌声の嵐はまっくろな煤となって家家の隅にまで吹きつけ、町中の樹木を涸らし、鶏犬をも窒息させ、時代の傷口がそこにぱっくり割れはじけていた・・・・・・しかし、いったいこんなふうの文句をどれほど書きつづけて行ったならば、わたしは小説がはじまるところまで到達することができるのか。実際、わたしはこの数日小説を書こうと努めつつ、破れ椅子の上でひそかにのたうちまわりながら、しかもペンが記しえたかぎりのものはこんなふうの、ああ、無惨にもおさない詠嘆の出殻に過ぎぬ拙劣な文句のかずかずでしかなかった。『マルス』の怒号に依って掏りかえられた鬱陶しい季節の中では、こんなあわれな芸当しかわたしにはできないというか。嘲笑する窓外の歌声に赫となって、わたしはいらだつ指先で書くそばから一枚一枚びりびりと紙を裂き、それを宙に投げつけ、床に散った紙屑の中に依然として整理されないままのわが感情を踏みにじった。そもそも地上の出来事に、どうしてこれほど本気になるのだ。およそ小説を書くべきペンはどんな地上的感情をも、その乱雑をもかならず切断してしまっているはずではないか。わたしは立ち上ってはるかに街頭の流行歌に向いNO!とさけんだ。そして、すぐそのあとから歯ぎしりしてこみ上げて来る感情の揺れかえしをぐっと噛みとめ、またもペンを取り直し、もうすべてを刎ねつけ、きちがいのようになって、さあ、是が非でも、小説・・・・・・ 冒頭の文章書き写すだけで充分という気もするが・・・・・・しかしやっぱりこれも最初以外は、覚えてはいたが、『マルスの歌』としてではなく、ただ漠然とこれまで読んだものの一部として覚えていたのであり、『マルスの歌』としてよく覚えていたのは最初の部分だけだた。つまりはこれが石川淳という人なのだなあきっと。埴谷雄高の仲間一行が事務所で酔い潰れていた石川淳を道路に放り出したのは・・・『影絵の時代』の方だったかな。まあいいや。 石川淳につられてか、次の読み直す本に町田康『人間の屑』を一度は選んだのだけれど、どうも進まなかった。 牧野信一全集が筑摩書房から全六巻で発売中。こんなサイトを見つけた。 しかし、好きな作品はあるけれど、積極的に人に薦めるものでは、ない。 石川淳『マルスの歌』は、新潮文庫版「焼跡のイエス 処女懐胎」に入っているけれど、絶版、かな。あまりきちんと調べてはいないが他にも入ってるものはいくらでもあるだろう。眠さには勝てない。
2002/10/16
コメント(0)
> かつて私はこの本にとても感動した。とても速く読み終えた。一章ごとに「自分の細胞が生まれ変わっていくのが肌に感じる」くらいに素晴らしい作品だと思った。しかし今回読み直すとそこまでの感動はなかった。とても良い作品だ。だが退屈なところもある。とても良いところもある。そうでもないところもある。私はこの本がとても好きだった。だが二回読んだ今、その好きは少し変わってしまった。ただ打ち震えていただけのものの中身がなんとなく解ってしまった。 わたしは半世紀を遙かに越えて書き続けてきました。わたしはわたしという井戸を掘り続けてきたのです。それがどれほど貧しい井戸なのか、わたしは誰よりもよく知っています。この井戸はとうに涸れ果てているのかもしれません。あるいは、この井戸からはもとより飲むに適せぬ、濁り水しか掬えぬのかもしれません。仮に、それが泥水だったとしても、わたしにはこの井戸以外から汲むことはできなかったのです。「読み直し」を始めるにあたり、大江健三郎『奇妙な仕事』を手に取った。しかしこれは既に何度も読んでいた。ドストエフスキー「死の家の記録」を読み始めた。違う翻訳者のもので読んだ方がいいのではと思い、置いた。部屋を見渡すとこの一冊が目に留まった。「系統的に読むのはいつでも出来る。思い付くまま読み返していこう」と決め、読み始め、読み終えた。長編にもかかわらず、以前一度読んだ時から一年も経っていないにもかかわらず、再読に堪えた。「ぼくたちの唯一の希望は」 青年の声が、わたしを夢想から現実に引き戻しました。「ぼくたちは、いちばんいい詩をまだ書いていないということです。そのことについてなら、ぼくは断言することができるような気がします」「わたしは」 わたしはそういいかけて、一瞬、口を噤みました。「わたしはどうなんだろう? いちばんいい詩はもう書いてしまったのだろうか」 わたしが自問するように訊ねると、青年は心の底から可笑しそうに笑ったのです。「あなたが? この国の詩をはじめたあなたが? ああ、なんて変なことをおっしゃるのでしょう。これを話したら、ぼくの友人たち、未来の優れた詩人たちはきっと腹を抱えて笑うに決まっています。先生、あなたはあんなにお書きになった。あれほど優れた詩や小説を、山のように。ということは、他の誰より、他のどんな若い詩人や詩人候補生よりずっと希望があるってことじゃありませんか! 書かない者より書いた者にこそ希望がある。それが、詩人の論理です。先生、ぼくはあなたがうらやましい。ぼくはいまなにを書いていいのかわからない。ぼくには若さしかないからです。なのに、先生は若さ以外のすべてを持っていらっしゃる。そして、若さにはなんの意味もないのです!」 先月か先々月か、どこかの雑誌で高橋源一郎と柴田元幸の対談。「90年代翻訳小説ベスト10」だったかそのような企画。相変わらずブコウスキーとエリクソン以外は私が読みたくなるような紹介のされ方はしてないなあと思いつつ。「ブコウスキーの悪影響」からいい加減抜け出して欲しいと思いつつ。『日本文学盛衰史』『官能小説家』以降の仕事は、『ミヤザワケンジ全集』以外「とても酷い」この人はしかしこのような作品を残してはいるのだと。誰に言うともなく思い出した。 清白、透谷、啄木のパートはとてもいい。花袋部分は退屈。 そういえば、気に入った箇所に付箋を貼り、後に文章を書き写す(とても、とてもサボり気味)ことを始めるきっかけになったのは、この本だ。ただ読み終え、置き、後は忘れるに任せるというのがどうも勿体なくなったからだった。高橋源一郎「日本文学盛衰史」(講談社)
2002/10/14
コメント(0)
自分が大江作品に求めていることは何なのか。自分が何故大江健三郎という作家を他の作家と区別して受け止めているのか。自分にとって重要な作家は誰なのか。など。 ノーベル賞を貰ったから世間に名前が売れ、たまたま興味を持ったというだけ、たまたま読んでみただけ、たまたま読み終えただけというならば、その作家のほとんどの作品を読もうとは思わない。たまたま面白かったというだけでも、長年自分の中にその興味が持続することもない。惰性で読んでいるわけではないが、個々の作品をそれほど分けて考えているわけではない。 読んでる最中、読み終えた直後または読後しばらくの間、その文体でしか物が考えられなくなったり、文章を書く場合しつこいくらいに伝染したり、そのような力は今回あまり感じられなかった。私の感受性が衰えたのもあるが、前作「取り替え子」と同様に文章に取り込まれてしまうような感覚はなかった。と言っても、以前「取り替え子」を読んだ直後に書いた感想(ここの日記にはない)は、大江の多用する──なんとかかんとか──(──・・・・・・──)の下手な使い方により、文章の繋がりがよく分からないというかさっぱり分からない酷い代物を残していた。青臭いというより子供の持つ嫌な強引さの無邪気な部分を感じ少し恥ずかしくなった。過去の駄文にしろ残しておけば反省材料にはなる。あるいは反省材料にしかならない。 いつの頃からか大江作品を一つの塊として捉えるようになり、大きな一つの枠の延長にまたこの「憂い顔の童子」もあると感じた。実際初期の作品以外は作者自身がモデルとなった男を主人公とし、知的障害者の息子がおり、「森」あるいは「森のようなもの」また「森の伝説」が絡んでくる物語がほとんどだ。大雑把に言ってるのであまり正確ではないが、私は飽きもせずそれらに触れてきて、良くも悪くも自分の中にそれらは棲みついた。 そのせいか、たとえば大江作品で好きなものに順位をつけよと言われても(言われたことはないが)、判断を下し難い。好きなものもある。好きでないものもある。読んでいないものをのぞけば、それらは一つの塊にしか見えず、上下の区別をつけることは自分の中では無意味になる。人に勧めるとなると「万延元年のフットボール」「みずから我が涙をぬぐいたまう日」「キルプの軍団」などを挙げるのたたやすいけれど・・・・・・。 つまり「取り替え子」同様に充分楽しめたが、それを他の人にはどう具体的に説明するか、自分の中に映る「憂い顔の童子」と他人に見せる「憂い顔の童子」の間の差が何かを伝える自信がない。明確な言葉を持ち、その上re-readingを実践して(その人には習慣的なものであろうが)よりよく読むことを楽しんでる人もいるというのになあ! やっぱりうつってるな。しかし無理に捻りだしてない分、正直だ。 引き返し、まだ水着が濡れていないのを幸い、そのままズボンとシャツをつけて帰る江の電の駅前で、生きた小型のタコを一匹買った。海水ともどもビニール袋に入れてくれたタコを膝に乗せて坐っていたが、小田急に乗り換えてすぐ、袋の結び目から、焦げた針金に似ている足の先端が出て来た。爪を立ててつねってみたが、めげる様子もない。そのうちスルスルと全身を露わしたタコは、いったん膝の上に位置を定めてから、跳び降りて電車の板の床を歩いて行く。注視されるなか、ありふれた出来事のようにゆっくり立ち上がった古義人がビニール袋をかぶせると、タコはまだ残っていた水のなかに落着いた。 ──手慣れたものですねえ、と車掌から声をかけられたし、 ──散歩に連れて行かれるのですか、と質ねて来る女性もいた。 ──海の傍だと気持がいいらしいので、時間があれば、運動もさせます。 作中は長江古義人と記される、海外の有名な賞を取ったり、その道の筋から小規模とはいえ肉体的に痛く重いテロを受けたことのある主人公の作家を研究する、ローズさんというアメリカ人が ──・・・・・・古義人さんの小説の構想では、ローズさんのことはどう語られているんですか? と、ずっと黙っていた動くんが質ねかけた。 ──どうして、小説に私が出て来なければならないの?と言ったところで、既に小説は半ばを過ぎるところまで書かれており、小説の中で長江がこれから書こうとしている(今書かれている小説)について語り始めるところから、森/Tの枠を越えた、あるいはより内向きとなった話が展開する。ちょっと分かりにくいが自分でもこの書き方よくは分かっていない。「静かな生活」で長女に作家の父を外から見た姿で批判させたのにも似ているか。 長江が書きたがっている「童子」の話を書くための前段階としての小説として「憂い顔の童子」はあるようにも見える。が、憂い顔でもはしゃいだ笑顔でも、また年寄りでも子供でも童子性を持った時その人は童子になる、または童子のようになる。前半長江がしつこくドタバタを繰り返し、最後には機動隊を模した若者に振り回され意識不明の重体に陥るが、それらはどれも、身体が子供であったならそれほどの怪我は伴わない種類のものではなかったか。伝説としての童子物語を希求するあまり、子供時代、自分とは別れて森に向かっていってしまったもう一人の自分、コギーと今の自分を同一化したいがそれは叶わず肉体に傷を作り、そうして初めて自分とは別の物語として童子のことを書き始める・・・・・・。 そんなあまり私の好きではない読み方は置いといて。 ショウペンハウエルや長江古義人に言われるまでもなく、私も「読み直し」の重要さを感じ取る為に、あまり次々と読みたい本というのもなくなってきた最近、そろそろドストエフスキーあたりの再読を始めようと思っていた。 本を読み終えるだけではなく、気に入ったところには付箋を貼り後で書き写し、感想を、誰かに頼まれたような宣伝文や紹介としてではなく、自分の中にその本がどう生きたか、その時の自分にとってはどれほど重要であったかを重視して感想を書くようになる以前に読んだ品群より、読み方を変えてからの作品群の方が私には印象が強い。また、印象が強いゆえに過大評価している部分もあるかもしれない。ドストエフスキーの主要作品は昔に読んだ。それでも漠然と何か大きなものとして自分の中に残ってはいるが、今回「憂い顔の童子」を読んでいる最中、いつのまにか大江健三郎という名は自分の中にドストエフスキーと同等に強くこびりついてることに気付いた。好き嫌い良い悪いだけの単純な問題ではない。 三人。一人では寂しく、二人では中途半端、四人では多い。三人の作家を自分の中の重要な位置にあるものとして挙げる、読み直しの対象作家としてとらえるとすると、あと一人枠が空く。古井由吉、深沢七郎、スティーヴ・エリクソン、ガルシア=マルケス、藤枝静男・・・・・・古井が今のところ一つ抜けているか。野坂昭如や高橋源一郎はダメなものは酷くダメだからなあ。急いで決めることもない。大江健三郎「憂い顔の童子」(講談社)
2002/10/10
コメント(0)
で、何が十二なんだろう。主要人物11人+ and you ということか。それともあまり重要とも思えないもう一人が数に加えられているのか。何か言及したところがあったかどうか知らない。そもそも話の最後と解説の最初のページが破られている。貰い物。こういうことは珍しい。フェイビアン:おい、頼むから、その手紙を見せてくれ。道化:フェイビアンさん、わたしにも頼みがあるんで。フェイビアン:聞くよ、なんでも。道化:この手紙を見ないでくださいよ。 時々笑いはしたが、それだけ。シェイクスピア「十二夜」中村勲 訳(角川文庫クラシックス)
2002/10/01
コメント(0)
全6件 (6件中 1-6件目)
1


