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1976年講談社から出た、1~5章収録の「定本 死霊」版。 残り20頁ほどのところで雷雨が来たので、雷見物をした。部屋の明かりを消し、濃いサングラスをかけ、窓をスクリーンに見立てて、烈しい雨音を聴きながら暗い空を観る。真ん中の窓枠に隠れるほど小さいなもの、スクリーンの外に気配だけがするもの、龍のように長く逞しいもの、人間の手のレントゲン写真のように多く分れているもの。観ていて飽きないが、目にはあまりよくなさそうで、長時間続けるのは止したほうがいい。 置き場所は限られているから、値段はそのままでいいから本は全部最初から文庫サイズで出してくれと日頃から思っている私は、それだけで威圧感を与える一冊の書物にたいするありがたみや、稀覯本にはあまり興味がない。しかし、この死霊という分厚い、黒い、暗い、手で支えながら読むのは疲れる本には圧倒された上に、これを所有していることがちょっと嬉しい。読むのに長時間かかるうえに、この後9章まで続くも、作者の死により結局未完ということを知っているので、徒労が文字通り重くのしかかるのだが。 付箋119枚を使った。これらを貼られる前の状態で積み上げると、約1、1ミリメートル、小指一本挟んだと同じくらいの厚さになる。にもかかわらず、両側から圧する黒い表紙により本の形態はほとんど変容していない。 一人の読書家の老人が死の間際に、「あれも読んでおけばよかった、これも読んでおけばよかった」と後悔する瞬間、この本を読んでいなかったことを後悔する必要はない。死ぬまでに必ず読んでおくべき本など何もないが、あるゲーム好きが「たけしの挑戦状」をクリアしなかったから死んでも死にきれんと思うことはないのと同様に、物語の結末は字義通り死んでもわからないのだから、気にしながら死ぬよりは何も気にしないで死んだ方がいい。「たけしの挑戦状」の場合は苦労してエンディングを見てもたけしにバカにされるだけだが、こちらにその心配はない。 夏目房之介「読書学」に、著者が仕事帰りの夜八時、死霊を読んでいてふと顔を上げ時計を見ると六時半をさしており、「時間が戻った!」と思うエピソードが書かれていた。実際はただの故障だが、それくらいのことは起きてもいい雰囲気がこの本にはある。この漱石の孫は、「ある時死霊に書いてあることがすんなり理解出来るようになり、すらすら読めた」といったようなことを書いていた。私が死霊を手にとったのも、前々からどことなく好意を抱いていた埴谷雄高を講談社文芸文庫短篇小説再発見で初めてまともに触れ、家にあるもののうちから短篇一編を読み、古本屋で定本死霊を見付け、と、スーっ、スーっと読み始めることが出来た。すんなり理解出来たかはともかくとして。「たけしの挑戦状をクリア」的な、読み終えたことそれだけでネタに出来るから読んだわけでも、難解で、形而上文学の金字塔だから、日本文学大賞受賞作だから、というような雑音は無視し、ただ読みたくなったから読んだ。最近の私の読書は「何故読むか」の理由が欠落している。自然に手が伸びるから読むのであり、意識しなくても息を吸ったり吐いたりするようなものだ。 内容。5章中盤までは普通に読める。時間がかかったり、変なテンションだったりはするが、つまらないことはない。昭和21~24年にかけて「近代文学」誌に連載された1~4章(ただし4章については大幅加筆、とある)と、昭和50年に「群像」に発表された5章との間には、時間にするとたった20数年の間だが、 私の暗い頭蓋のなかを小さな蛍火のようにこちらからあちらへ作中人物達が歩きまわるだけでそとへ出てゆかなくなってから幾年かたった。この作品の自序を書いてからすでに七年たったが、その長い歳月の大半を私は病気で倒れたまま、徹夜など気にもかけず飛びまわりたがる作中人物達とただ暗い頭蓋のなかだけで対話してきたのであった。病床で、長い間、どれも正常とは言い難い(いや、ただ一人、津田夫人のみは愉快に常人だが)人々を頭に住まわせることは尋常ではない。自ら書き起こした物語の作中人物たちの言辞に捕らえられ、あの使い回された言い回しの通り──この作品が書かれた当時では今ほど俗化されてはいなかったろうが──「深淵を覗き込むものは~」なんとやら、だ。波浪がどんなに繰り返しゆすぶったところで、岩を積み重ねたコンクリートで塗り固めたこの桟橋は、びくともする筈はなかった。これが存在というものだ、と彼は考えた。そして僕に欠けているのは、存在の感情なのだ。この言葉、存在という何か重々しい言葉を彼は最近覚えたばかりだった。勿論、前から知ってはいたのだ。それは小学校の国語読本にさえ出ていた。しかし今、痛切にそれを感じているようには、──それを感情と結びつけて、存在の感情というふうに理解したことは、今までになかった。お前に欠けているのは存在の感情なのだ。それは外国の偉い詩人の書いたものの中にあった。彼はそれを最近、翻訳で読んだのだ。彼は中学校の三年生で、もう何でも読むことが出来た。福永武彦「夜の寂しい顔」より ──、おお、それはこうです。もし人間をその内部に含んでいた存在が、或るとき、或る窮極の、時間の涯のような瞬間、怖ろしい自己反省をして、そこに嘗て見慣れた存在以外のものを認めたとしたら、永遠に理解しがたいようなものがそこに残っていたとしたら、ぱっくり口をあけ虚空の空気が通うほどの巨大な傷がそこに開いているとしたら、そのものは人間からつけ加えられたものだ。それは時期知れぬ、何時の間にかつけ加えられた。それは、それまで見たことも予想したこともなかった、まるで奇妙な、存在が不動の存在である限り決して理解しがたいものの筈です。おお、それこそ・・・・・・その名伏しがたいものこそ、虚体です! 三輪の問題とは、人間はついに人間を越え得るか、否か、だ。人間がついに永遠の人間性を主張し得るために、むしろ存在をのみこみ、内包するほど茫漠たる巨大な虚体を、目もなく耳もないような忌まわしいその相手へ決然と与え得るか、否か、だ。おお、そうなのです!「死霊」第3章 屋根裏部屋 より 死霊を読む合間に他の短篇一つ、と手にとった作品の最初で中学三年生の主人公に語られる「存在」という言葉が、次に目を移した死霊の続きで頻出したという偶然に少し苦笑した。その隔たりの何と大きいことか。一つの言葉に向かうだけで、多くの異種の文章が生み出される。しかし福永武彦の書く中学三年生が「虚体」を語ることはないのが救いだ。 しかし、思っていたよりも死霊は面白いのだが、それぞれの人物の展開する無茶な理論について何か思うとなると、ただでさえたいていのことに対して等距離を持って接することにしている私からは、どの人物の途方もないどの話にも賛成や反対や納得や批判をする気が起こらない。だからこそ面白い読み物として楽しめた気もする。5章で三輪高志が語る千億光年の彼方からの使者との会話には正直呆れ気味だったが・・・・・・。 とりあえず、図書館で借りて読むにも、後で読み返すときに不便だろうから6章以降はまたむしょうに読みたくなった時に買うことにして、この一冊の為に随分と離れてしまった他の貯まっている本を読みたくなってきた。 前述の、読書好きの老人が死ぬ間際に読まなかったことを後悔する本、私がその時に思い浮かべるのはきっと、指輪物語やハリー・ポッターだと思う。埴谷雄高「死霊 1」(講談社)同 2同 3埴谷雄高全集〈別巻〉資料集・復刻 死霊(講談社)埴谷雄高全集〈3〉死霊 全一巻(講談社)重いだろうに・・・私の読んだものは見つからなかった。
2002/05/28
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「表現の冒険」の巻以上に、異質な空気漂う一冊。故郷・異境というよりあちら・こちら、ここの世界とそうではない場所といったもののように感じられる、そんなところの話が多い。それが面白いか、となると、今まで読んだこのシリーズの中で一番読み辛く、あまり楽しめなかった。ページ数も一番多く320pとある。異郷の地から日本を故郷として眺めるというのはやはり戦時中の話に多く、その点「歴史の証言」とかぶるが、そちらは259pとシリーズ中最短。・井伏鱒二「貧乏性」・長谷川四郎「シルカ」・小林勝「フォード・1927年」・木山捷平「ダイヤの指環」・辻邦生「旅の終り」・石牟礼道子「五月」・五木寛之「私刑の夏」・森敦「弥助」・林京子「雛人形」・光岡明「行ったり来たり」・小田実「「アボジ」を踏む」・島田雅彦「ミス・サハラを探して」 福武文庫版「カフカ傑作短篇集」の翻訳者として、また、その解説者の川村二郎と、リルケ理解についてかつて一度やりあったこと(ちょっとしたことだけど、何故か印象に残っている)のある人として、さらに、自分の名前が嫌いな私が、シンプルでかっこいい名前が好きだから、印象に残っていた名前として記憶している長谷川四郎の「シルカ」は、悪い意味ではないが、名前の印象の通りの作品。 以前引き揚げものが好きだと2/14の日記に書いた。今と文体が違うので気持ち悪い(別に今も統一してないが)。やはり私の好きな、安部公房「けものたちは故郷をめざす」に「少し似ている」と解説で触れられている五木寛之「私刑の夏」では、正直あまり期待していなかった初五木寛之体験だったが、かなり楽しんだ。「吐き気を催す感動」というか、「そんなこと書かないでくれ」というか、どうしようもない、既に起こった悲劇を突きつけられる小説がある。このシリーズ「生と死の光景」に入っているハンセン氏病である島比呂志の書いた「奇妙な国」は、本人が書いたものだから、本人が書くことは出来たのだから、まだ救いがあるように思えるが、水俣病患者からの途切れ途切れの声を写した石牟礼道子「五月」にその救いはない。小説として書かれたものであるから、それはほんとうではない、このように患者が語ったわけではない、とは思っても、それがほんとうではないから、患者は元気にペラペラ喋っている、というわけではなく、やはり突きつけられたものは大きく、辛い。 光岡明「行ったり来たり」は面白いなあ。戦後短篇小説再発見〈7〉故郷と異郷の幻影 (講談社文芸文庫)
2002/05/21
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・織田作之助「神経」・島尾敏雄「摩天楼」・梅崎春生「麺麭の話」・林芙美子「下町」・福永武彦「飛ぶ男」・森茉莉「気違いマリア」・阿部昭「鵠沼西海岸」・三木卓「転居」・日野啓三「天窓のあるガレージ」・清岡卓行「パリと大連」・後藤明生「しんとく問答」・村上春樹「レキシントンの幽霊」 森茉莉と村上春樹のものが既読。 単純な話だから通じやすいとか、この種の妄想話は読み飽きたとか、思いながら、何故読んでて泣いたのか。福永武彦「飛ぶ男」。特別文章に感動したというのではない。歩けぬ身体で病院に鬱々と暮らす主人公に感情移入したわけでも、同情したわけでもない。病人が空飛ぶことを夢見る、ただそれだけの話。だがとにかく涙は流れた。「首塚の上のアドバルーン」も途中で読むのを止めた身では、後藤明生が好きだとはいっても、この類の、語り手が興味を示す伝説・本の周辺を語る小説は、読者である私が語り手と同じものに興味を示せないと楽しく読み進めることが出来ない。 発表時期が前後するが、筒井康隆「鍵」の序章としても読める三木卓「転居」(「転居」は1978年10月発表。「鍵」は同年に刊行された短篇集「バブリング創世記」収録)も面白い。あとは阿部昭と林芙美子といったところか。戦後短篇小説再発見 (6) 変貌する都市(講談社文芸文庫)
2002/05/19
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半村良「産霊山秘録」と一緒に第一回泉鏡花賞を受賞した短篇集。 後藤明生1932年生まれ、森内俊雄1936年生まれ、古井由吉1937年生まれ。昭和42~48年頃の芥川賞候補作を見ると、後藤が少し上にずれるが、やはり獲ったものが名前を多くの人に知られているなと感じる。といっても、小説に興味のない人に、また興味ある人にとっても、古井由吉の名がどこまで通じるか、ほとんど通じない気がするが、この分野に詳しいものなら、三人の中では一番のビッグネームであろう。ちなみに後藤は1999年死去。 森内作品に深く影を落としている、キリスト教、アルコール、夢、また、最新刊真名仮名の記(2002/04/08(月) 真名仮名の記/森内俊雄)ではなりを潜めてはいるが、暗さ。これらの要素は、とっつきにくく、そのために、古井由吉のようにメジャー街道を走ること(興味ない人にとってはそうでもない)も、後藤明生のように飄々とした作品(それほどそうでもない)で世に受け入れられることも(全然そうでもない)ない理由だと思うが、かといって森内作品が他の二人に劣るとは私は思っていない。 三人を並べた理由。この年代で好きなは他にはあまりいない。 序盤少し退屈だが、後半胸の鼓動が高鳴るのをはっきり意識した「盲亀」「暗い廊下」、自転車旅行には少し思い入れがあるので楽しめた「春の往復」、ラストがみじめったらしく美しい表題作。 だが私が好き、楽しめたということと、人がそうであるかとはまったく違う。フラナリー・オコナーほど、読者に奇妙な義務感を負わせるわけではないが、この重さは人に薦められる重さではない。 日記書き出す前は思いもしなかったが、古井後藤森内と、この三人が私の中で並び始めた。図書館でも近所の古本屋でもamazonでも見つからなかったので、はるか遠くの古本屋にネットで注文した。
2002/05/17
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すばると文学界を少し見る。高橋源一郎「ミヤザワケンジ全集」第5回。ぼちぼち。野坂昭如に在りし日の文壇酒場ついてのインタビュー。野坂の近作にはあまり興味は起こらないが、「文壇」はそのうち読もうと思う。そのうち。文学界新人賞発表二作、現役作家のものでさえほとんど読んでいないのに新人の作品を読む理由が見つからず。題名見た途端に読みたくなった吉村萬壱「クチュクチュバーン」はやはり例外。・内田百間「ゆうべの雲」・石川淳「アルプスの少女」・稲垣足穂「澄江堂河童談義」・小島信夫「馬」・安部公房「棒」・藤枝静男「一家団欒」・半村良「箪笥」・筒井康隆「遠い座敷」・澁澤龍彦「ダイダロス」・高橋源一郎「連続テレビ小説ドラえもん」・笙野頼子「虚空人魚」・吉田知子「お供え」 石川安部藤枝筒井澁澤高橋と、12篇中6篇が既読。このシリーズ中で最も多い。百鬼園先生の「ゆうべの雲」も、福武文庫「サラサーテの盤」からとあり、あの本は半分ほどは読んだはずだが、この話が入っていたかは思い出せず、読んだ後もどっちだったか思い出せなかった。既読のものをもう一度読んでもいいのだが、今は他にも読みたいものがあまりに多すぎるのでパス。 野坂昭如の文壇酒場話読んだ後で、芥川龍之介の文士気取りを嗤っている稲垣足穂「澄江堂河童談義」を読むのは最初面白かったが、やはりというか当然というか、少年愛、尻への愛の話になり鼻白んだ。幾度も読んだ「一千一秒物語」、またいくつかの童話、それ以外の足穂については、はっきりいってどうでもいい。 小川国夫とよく間違える、そう間違える機会があるわけでもないが、勘違いする機会がある時にはいつも間違える、小島信夫。「馬」がこの中では(といっても6篇中、だが)一番。笙野頼子の「虚空人魚」系の作品は、疲れる。「硝子生命論」とか。半村良には「ボール箱」という短篇があるが、あっちの方が好きだな。 この手のアンソロジーの常連である牧野信一は、常連であるがためにか入っていない。入れるならこの巻だったろうと思うが。「ゼーロン」なんかでも、馬が出てくるな。妙な小説の題材として使いやすいのか、馬。講談社
2002/05/14
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群像と新潮の今月号を少し見る。川端康成文学賞受賞作に河野多恵子「半所有者」町田康「権現の踊り子」。町田のを読んでなかったので読む。カレーライスから中途半端アーティスト気取り連中への憤りへ発展するのは少し驚いたが驚いただけ。群像に古井由吉新連載。連載で読むのでは目が進まんと見送り。 別に読みたいものに困っているわけじゃないのに山田風太郎に走るのは、最近目が疲れているから。しかし小さい頃からこういうものを読んで育った人達は幸せだ。もはや小さくなくなってしまった今の私が読んでもじゅうぶんに面白いものを、小さい頃から読んでいれば、内側に蓄えられる何かはとても豊かになるだろう。忍法帖シリーズについてここが面白いあそこがかっこいいあの忍法が面白いなどと言っても所詮言葉は作品を語るに足りず、下手すると語ることによって面白さを伝えることに失敗し最初から語らなければ良かったと思うことになると思う、思い込みがちなので、無理に出てこない言葉をほじくり出す気にはならない。山田風太郎「江戸忍法帖」(講談社文庫)
2002/05/13
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滑るように物語の半分ほど読んだところでふと目を移して巻末の文書を読み出すと、これまで気付かなかった涼しい風に気付いた。 レイナルドアレナスは、二十歳になってまもなく、最初の小説『夜明け前のセレスティーノ』を書いた。 ファン・アブレウ「ハバナの奇跡」一行目悪寒は風のせいか、この一行のせいかははっきりしない。随分長い間震えた。二十歳でこのような、このような小説を書ける二十歳が居たということは、事実であるがためにかえって信じたくない。何に対してかは分からないが「どうすればいいのだ」という思いが浮かんだ 私は深沢七郎の小説を「祈り」だと感じている。 島のこの船着場から波は続いているのだが、寝泊りの港へは二日もかかるのだ。孫の秀雄だちを乗せた船は、今朝ここから寝泊りへ出てしまったのだが、まだ寝泊りへは着いてもいないのだけれど。 ワシは (もう、どうしようもないのだ) 今、秀雄の弟の政次を連れて、追いかけるようにこの船着場まで来たのだが。 昨日も倅の為吉に、あれ程よく云っておいたのに、毎日毎日云っておいたのに、何回云ったか知れなかったのに。 「秀雄だけは寝泊りへはよせ」 と、あれ程云ったのに。 秀雄達は今朝、 「波にゆられてドンブラコ」 と唄いながら、あの南京小僧の歌を唄いながら出て行ったのだ。 深沢七郎「南京小僧」冒頭「夜明け前のセレスティーノ」からところどころ抜粋。 この家はいつも地獄だった。みんなが死んでもないのに、もうここでは死んだ人たちの話ばっかり。そしてまず最初にばあちゃんがいたるところで十字を切りはじめた。でも暮らしがほんとに悪くなったときだった。セレスティーノが詩を書こうと思いついたのは。かわいそうなセレスティーノ! いまぼくには彼が見える。居間のドアの陰に坐って両腕を引き抜いている。「で、きみのかあちゃん、どうして首をつったの?」「知らない。でもその日の午後、焼きはじめた二本のサツマイモがこげてしまったんだ。それをとっても気にして、その日はそれっきり話をしなかった。どうしたのってぼくが聞くと、もういいかげんにして、と言って、そしてその日、夜になるとすぐ、もうカプリナの木からぶらさがってたんだ・・・・・・」「頭もおおって、怖いから」「ぼくは汗だく・・・・・・」「ぼくのかあちゃんが首をつったら、ぼくらふたり、同じ話ができるかも・・・・・・」「すっごく寒いな!」「ぼくは暑くてたまんない!」「ぼくらも首をつらないか?・・・・・・」「あしたしよう」「いや。いますぐのほうがいい」「ううん。あしたのほうがいいって言ったよ」「顔が水びたしだ」「泣いてるもの」こちらからは「叫び」だ。人称の混乱、物語の混乱、突然の引用による断ち切り、合わない辻褄。多くの、人によれば全く受け付けないような要素がこの小説にはある。だが、主人公くらいの年齢の少年から見れば、世界は夢と現実との区別がはっきりとはしていないし、殺したいと思ったやつは何度も殺し、いつも迫害されるセレスティーノは何度も殺されてしまうように、見えてしまうのかもしれない。暑さと乾きと貧困の中で、これらのことが事実起こっていたとしてもわたしたちは見たこと聞いたことを語りつづけずにはいられないからだ。 作中引用されている「使徒行伝」第四章二〇 よりそれを否定出来る力を私は持てない。 終盤の戯曲部分が、それまでの良さと比べて、錯綜しすぎて、集中力をなくすとろくに読み進めなくなってしまうが、そこに至るまでのほとんど全ては、偉大な作品として、作者と出版社と翻訳者にほんとうに感謝した一冊。国書刊行会のページで旬の一冊として紹介されている。レイナルド・アレナス「夜明け前のセレスティーノ」安藤哲行 訳(国書刊行会)
2002/05/12
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面白がる理由、面白かった理由、面白いと感じた理由、どれでもいい。何故面白かったか、を書くのは難しい。面白くなかったものを面白くなかったと書くことは簡単で、どこがどのように面白くなかったかを書けばいい。面白いものにはもちろんそれなりに面白い理由があるから面白いと思ったのだが、具体的にどこがどのように、と考えると、一つ一つ取り出してみても、それだけでは面白い理由には足りず、全体として見ると輪郭がぼやけてしまう。しかし、そのような面白かったことを何故面白かったかと考える暇もないくらいに、「全て面白い」と言える作品がないわけではない。あるいは、面白いと思う先行作品があり、それより遙かにすぐれているので面白いといえるものもある。 安易な喩えを使うなら、恋愛である。「髪が好き」「顔が好き」「目が好き」「財産が好き」「地位が好き」「脚が好き」また、「全部好き」「特にこれといっていいところがあるわけじゃあないけれど、なんか好き」など。 だが、本、小説、物語と恋愛は同じものではない。「面白い」と「好き」も同等ではない。 人に何かを勧める時に、絶賛し、熱心に勧めることを私は好まない。ましてや「絶対読め」などとは言えない。多くの人は、小説にしろ何にしろ、自分と同様には対象に対して価値を認めはしない。当たり前のことである。多く類似性のある人とであっても、似ているからこそ、違った部分が大きく見え、永久に自分は他人ではないと気付くしかない。 後藤明生や古井由吉、「内向の世代」でくくられていることは、大して意味がない。二人とも、その面白さをどのように面白いかを説明することは難しい。「挟み撃ち」を読んだ時、さほど面白いとは思えなかった。悪くはないと思った。悪くはない、だけでは他の作品に手を伸ばす理由にはならない。しかし「関係」「笑い地獄」「めぐり逢い」「スケープゴート」と、間隔は開きながらだが、読んだ。特に短篇「関係」「ああ胸が痛い」は、一生背負っていきたいくらいに、好きだ。 好きだから面白い、か、面白いから好きだ、か、では意味が違う。後藤明生は好きだが、古井由吉はまだ好きになれるほどの作品数を読んでいない。私の基準「四作目に自然に手が伸びたら好き」にはまだ達していない。だが本作に収められている三編はどれも傑作であり、面白くて、好きだから、傑作というのではなく、作品が傑作であるからこそ、面白く、また好きになったのだ、と思う。 合計二十五枚貼られた付箋の下にある文章を読み直してみても、それを書いて、人が、また自分が面白がれるとは思わない。粗筋を紹介すれば、それは果たして興味を惹く粗筋であるかは、はっきりそうではない、と言い切れる。 だが、それでも、「男たちの円居」のラストは奇跡のように美しく、それが何故、であるかを説明する理由を、私は思い付かないので書くことが出来ない。 なんのことはない、結局私は長々と書いて、何も書いていない。古井由吉「雪の下の蟹・男たちの円居」(講談社文芸文庫 在庫切れ)
2002/05/10
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夢野久作のは「死後の恋」。「死霊の恋」は別のとこで読んでたので飛ばす。いつも思うが「他~篇」ってなってる方のが良い場合が多い。「ポンペイ夜話」も、ポンペイの廃墟描写は素晴らしいんだけれど。「フランス文学の魔術師といわれた」ゴーチェらしいが、それが今の時代でも通用しているかとなると疑問に思う。ゴーチェの作品の着想や出来が悪いとは思わない。彼は19世紀の作家で、私は21世紀に生きている。100年以上の隔たりの間には、ゴーチェ以外の多くの幻想作家がおり、すぐれたものもそうでないものも、多くの作品が書かれた。もちろんそれらを全て知っているわけでもなく、短い人生の間で無理して知るつもりもないが、時代が近かったり同国人であったりした方が好きになりやすく、面白がりやすい。やすい、というだけでしかないが。「死霊の恋」「ポンペイ夜話」「コーヒー湧かし」の三篇については、その幻想的な部分を新鮮に味わえるだけの土壌はとっくに崩れてしまっている。役者を主人公とする「二人一役」は、詩人、画家などを主人公とした小説を私が大好きなのを考えてみれば少し正当な評価が難しく、すると、「オニュフリユス」の特に夢の部分(そういえば澁澤龍彦「夢のかたち」にも紹介されていた)だけが、純粋に面白いといえるとなってしまった。 が、別段そう批判的な気分になるわけではない。やはり古いものであっても、好きな系統の話群ではあるのだ。嫌いなものが古びても好きになることはないだろうが、好きなものが古びても、古びているなりに、やっぱり、幾段下がるかはしれないが、古びてしまったからという理由で嫌いになることは、あまり、ない。 ただ、かつて好きだったものにある日全然興味を失ってしまっているのに気づくことってのは、決してない話じゃあないからな・・・。テオフィル・ゴーチェ死霊の恋・ポンペイ夜話 他3篇」田辺貞之助 訳(岩波文庫 在庫切れ)
2002/05/09
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転がってる種類の本がある。読むぞ、読もう、読んだ、となるような本ではなく、特に読みたいものがない時や、なんか適当に読みたい時などに適当に読む種類の本である。文学全集のばらけたのや、「80年代SF傑作選」(ハヤカワ文庫)、国書刊行会の「怪奇小説の世紀」(一巻だけヒットしない。なんで?)、蒲松齢「聊斎志異」なんかがそうだ。「妻隠」はそれらには入っていないものだが、それ以外はそれらから適当につまんだ。「虚空」は単行本のではなく、現代文学大系(筑摩書房)という全集の中の一冊、現代名作集(四)から読んだ。短篇。そして、そこで、私はその山を見出したのである。 この部屋も窓が遠く薄暗かった。奥行がひろい部屋の中央には、一つの大机が置かれてあるだけだった。そして、その上に垂れた薄白い闇の中に、それはあったのである。 埴谷雄高「虚空」より いささか恣意的に抜き出してみると、どう見てもギャグにしか思えない文章だけれど、慣れてしまえばそれほど気にならない。それより、旋風(つむじかぜ)に巻き込まれてしまう蛇が それは地上五尺ぐらいのところに浮かんでいた。そこにまわっている気流の上昇力と均衡しているように、宙に浮かんだまま動かなかった。けれども、かすかにまわっていた。それが真横になったとき、端の部分が少しのびきったように見えた。こちらへ向いたとき、それはわずかに首を擡げた四尺くらいの細長い蛇だと解った。それはゆっくりとまわっていた。そして、しだいに頭を上に擡げて行った。その動作は、一見、無意味と思われたが、けれども、全身の緊張にはりつめた運動なのであった。それは賢明に均衡をとっていた。そして、私にはそれがはっきりと見えたのであった。透明な螺旋となって揺れたってくる渦のなかで、その蛇は擡げた頭を素早く垂れたように見えたが、横からの風圧にくるりとまわった胴のなかへその頭がはいって、ちょうど首許から少し下で紐を環に通してぎゅっとしばったようになった。それはわずか二間くらい向うで起った。私はさっと眼をおとした。 同じく「虚空」よりすごく可愛くて。「山肌にいると風に襲われた。飛ばされないように頑張った。その姿は滑稽でもあろう、何の因果でたまたまやってきた人間の眼に映されなければならないか。ああ、どうやらもう俺は飛んでいってしまうらしい」とでも思っているようで。「杳子」の37ページ目に紐が挟まれたままだった。最初から読み返すのは先日の嫌な気分にまた陥りそうなのでやめ、同時収録の「妻隠」に行った。こちらは読むのに苦はない。これといって特別に何か言うところもないがつまらないわけでもない。読んで損したという気分はないが「古井由吉すごい!」と言うほどでもない。ただ感覚として「もうしばらくしたらきっと好きになってしまう作家だ」と前々から、引っ掛かっている。「貧家の子女がその両親並びに祖国にとっての重荷となることを防止し、かつ社会に対して有用ならしめんとする方法についての私案」は、題名から想像される通りの話。ただ、このような諧謔は泉鏡花「醜婦を呵す」なんかもそうだが、一抹の本音が混じっているように見える。晩年あのようになってしまったスウィフトが書いたものだけに。埴谷雄高「虚空」(現代思潮社)古井由吉「杳子・妻隠」(新潮文庫)ちくま文学の森〈7〉/恐ろしい話(筑摩書房)
2002/05/08
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古井由吉「忿翁」をふと読みたくなって、行き帰りの途中にある本屋に全て寄ったが、どこにも置いてなかった。文芸書コーナーは数年様変わりしてなさそうな本屋もあり。明日には別に読みたくなくなっているかもしれないのに。代わりというわけでもないが、上村一夫「狂人関係」文庫版全三冊を買った。 国固有のテンション・描写・物語というのがある。私の偏見で言えば、ロシアはハイテンション、ドイツ大仰、ラテンアメリカはシュール。自分の居る国である日本の作品にはあまりそういう視点を持てない。アメリカは雑多で特別に印象はない。 一見フリークス落ちにしか見えない、収録作品中最悪の後味を残す「女王人形」にしろ、アステカの女神を模したものであると解説で読めば一応は納得出来る。これが、何の説明もなく、どこの国の作家かも知らずに読めば、最悪な後味は最悪のまま、その印象がフェンテスという人物にまで拡大されかねないことになるだろう。アーネスト・ヘミングウェイがバーナード・ベレンスンに語ったこと、彼の名作の秘密は象徴がないことだといったこと。海は海、老人は老人、少年は少年、カジキマグロはカジキマグロ、鮫はほかのどの鮫とも同じなのだ。こうしたもの自体に人々は力をあたえ、表層下を手探りし、いつもより多くのものを探している。わたしには少なくとも理解できる。わたしはごく幼いころを日本ですごし、すこし大きくなってからをアメリカですごした。わたしにはほのめかしを通してものをごとを観たり、神秘化したがる部分がある。いっぽうアメリカ人の部分はなにも信用せず、いつも表向きの話の裏にあるほんとうの物語を探している。 ロジャー・ゼラズニイ「北斎の富嶽二十四景」中村融 訳 より 単なるフリークスオチではないと分かった時にはそれなりによく出来た話だと納得出来たが、単なるフリークスオチだと思っていた時は、衝撃が大きかった。気分が悪かった。吐き気がした。作者を恨んだ。何も知らなかった時の方が、作品の持つ力は大きかった。カルロス・フェンテス「フエンテス短篇集 アウラ・純な魂 他四篇」木村榮一 訳(岩波文庫)
2002/05/07
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短篇小説再発見シリーズを読み出す前に、大江健三郎「ピンチランナー調書」を読んでいた。以前途中で放り出したやつだ。読み覚えのあるところはスラスラ読めた。何を放り出す理由があったのだろうと思った。しかし、240ページくらい読んだところでふと虚しくなった。ただもう字面を追っていくだけになり、快感も面白さも何も感じなくなっていた。「大江作品でまだ読んでないやつだし」「一部では変に評価高いようだし」「買ってあるんだし」では、読み進める理由として足りなくなった。「何故読むのだろう」「こんな荒唐無稽な作り話の何が面白いのだろう」「読書ってこんなにつまらないもんだったのか?」と思い始めると、本自体への嫌悪感があらわれた。 短篇小説再発見シリーズにおいても、素晴らしいものに出会えた時もある、それなりに好きなものもある、だが、「何故こんな程度のものをわざわざアンソロジーに入れるのか」というのもあった。短篇だし、初めて触れる作家だし、最後まで読まなきゃ判断は出来ないしと、読んでみたはいいが、つまらなかった場合、少しずつ、少しずつ、「小説/虚構をわざわざ読むことへの疑問」が貯まっていった。 私はこれまでほとんど、自分の好きなものしか読んでこなかった。嫌いなら最後まで読まない。義務感で読書をすることはない。趣味に義務を持ち込むことはない。~をもっとよく知るためには~~を読んで(聴いて、観て)おいた方がいいなどというのは、一切無視しても構わない。人生は好きなことだけしていけるわけじゃないから、趣味では好きなことだけを選びとればいい。何かのスポーツをよりよく楽しむために体を鍛えるのと、好きな作家ではあるが興味のない作品を義務的に読むことには、大きな差がある。 結局本離れを起こし、数日本を手に取れなかった。大体、次に読む本を選ぶ時は、自然にスーっと何かを読みたくなって、スーっと手が伸びて、スーっと読み出すのがこれまでの常。それが止まれば無理に本を読むこともない。 結局、困った時の風太郎頼み。大好きな北斎も登場する。 ところで、各地に散らばった犬士たちを探す旅、犬士発見の旅と、八犬とはかかっているのかしらん。 「それじゃ、お前さんはどうして絵をかくのだ」「おいらは絵が好きだからさ。子供のころから、ただもう、絵をかくのが好きだったからさ」(北斎)「そうだろう。ところが私は。──」 と、馬琴は首をかしげた。「まさか子供のころから戯作をかこうなど思うわけがないが──いま、こういう商売をやってきて、一応世間に認められるようになっても、どうも好きじゃない。これは虚名だ、物語ばかりじゃなく、自分自身が虚の世界に生きているのだ、こんなことをしてるのは、自分本来の暮らしじゃない、という気持ちがどこかぬぐえないのだよ」「もし、あたしの怪談がほんとうにこわいなら、そりゃさっき申しましたように、あれが実の世界をかいたものだからでございましょう。あたしは、この浮世は善因悪果、悪因善果の、まるでツジツマの合わない、怪談だらけの世の中だ、と思っておりますんで。──」(鶴屋南北) 馬琴はうめくようにいった。「ツジツマの合わん浮世だからこそ、ツジツマの合う世界を見せてやるのだ」「しかし、それは無意味な努力ではございますまいか?」「お前さんの世界は有害だ」 空中の声が笑った。「あたしは、有害のほうが無意味より、まだ意味があるのじゃないかと考えているんで。馬琴は、思いきった怪異の着想家であった。その怪異は、荒唐無稽であればあるほど人を面白がらせる。しかしこれは一歩あやまると、ばかばかしさに失笑させる。面白がらせるのと失笑させるのは紙一重である。 この苦しみの中に、しかし馬琴ははじめて、自分が「八犬伝」をかきつづけるのは、生活のためでも孫の未来のためでもなく、人に頭を下げずに生きるためでも現実から逃避するためでもなく、それどころか小説を完結させようという目的のためですらなく、ただおのれの内部からあふれてくる物語自体のためであることを知った。 山田風太郎が自身を滝沢馬琴になぞらえて書いてると言いたいのではない。むろんそういう部分もあるだろう。だが全てではないだろう。おおいに感情移入するところもあるだろうが、馬琴と風太郎ははっきりと別物である。 虚構を読むことは無意味なことか? 実際、現実には虚構ではない物語が溢れている。分かりやすいオチがつくわけでも、めでたしめでたしで終わるわけでも、ない。途中でプツンと切れるのはあるが。だがそれらを知る、特に深く知るのは、親しいものであっても不完全に終わる。自分は他人ではなく、他人の物語に自分は点景でしか干渉出来ない。自分にとっての他人でもそうだ。親しいものが死んでしまえば深い悲しみに襲われるだろう。だが、それで自分まで死ぬわけではない。結局一人の人間が持てる物語は一つだけなのだ。 八犬伝自体のストーリーは、ダイジェスト版の漫画、吾妻ひでお「贋作ひでお八犬伝」などでおぼろげながら知っていたので、最初「虚の世界」の方は退屈で、早く、北斎と馬琴らの登場する「実の世界」パートを読みたかった。 北斎と馬琴が語らう場面、杉浦日向子「百日紅」にあった気がするが、探しても見つからなかった。上村一夫「狂人関係」の方だったか。文庫が出ていた。 小説に、物語に、虚構に、あまり意味はない。なくても人は生きていける。「文学は高尚」などという認識も、根本に誤りがあるので今では通用しない。漫画より読むのに時間がかかる分、より価値のあるものだと思いたがっているだけの部分がある。一人称で語られる場合、感情移入がし易い分、身近に感じることがある。主人公と自分の姿を重ねて「自分が本当は言いたかったこと」を発見することもある。 だが、それらは真実ではない。 事実が根としてあったとしても、虚構として書かれた以上は、私は虚構として読む。虚として創られたものを虚として受け入れる。そこに実はない。本作中の北斎のように仕事を実、家庭を虚、馬琴はその逆、そのように分けるならば、私にとっての読書は虚である。実とするには足りない何かが、名付けられないままに、ある。「義務的な読書」に嫌気がさしたにもかかわらず、すぐにまた本に手を出すのは、それが面白いからでもあるが、また、自然なことであるから、特別に意味を持たせなくてもしてしまう、出来てしまう行動であるから。生きることに理由や意味がなくても、人は生きる。生きなければならないという義務は、ない。読みたくない理由があれば読まないが、特別に読む理由がなくても私は本を読む。それが虚であれ実であれ、大した違いはない。山田風太郎 「八犬伝(上)―山田風太郎傑作大全〈20)」廣済堂文庫(お取り寄せ)同上、(下)
2002/05/04
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