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抱擁家族/小島信夫 二人の伯母は背の低いこと以外似ているところがない。 祖父が危ないというので交代で泊まり込みをすることになり、伯母二人に替って母と二人で病院に着いたのが夜九時十五分。一進一退と医者が言う容態は現在「進」の状態らしく(実際には回復の方向へ進むということはもうないのだが)、今すぐに何がどうということはなく。他の四人の患者、いずれも男性の老人達の中には意識のある人もいるらしいが、私たちの声にも明かりにも迷惑がる様子もない。簡易ベッドを借りて祖父の横に母が寝、私は広い喫煙室にあるソファで過ごすことに。 喫煙室は空気が悪い。換気扇は黒くなっていないところがなく、回すと余計に濁った空気が振りまかれそうだった。回さないと眠れそうもないので回した。窓から見える電車の窓と窓の重なりが十字架に見えた。多くの墓を運んでいるように見えた。それらしい場所でそれらしいことを思おうと思っている、そう感じた。 カメの中に水があった。水がなぜ気にかかるのだろう。なぜカメの中の、とるにたらぬ水が、そこに在る、そこに在ると思えるのだろう。 夜中の病院の廊下を歩いても怖いことは何もない。うめき声や咳が聞こえてもその出所はそこら中にある。看護婦も仕事をしている。喫煙室の自動ドアを開ける音は大きく響く。静かですらない。読書は進んだ。 肝心な場面もそうでない場面も同じ速度で進む。余命幾ばくもない妻のために嗚咽する夫の前に溜まる水は涙ではなく雨漏りによるものであった。今にも亡くなりそうな肉親の近くで死に向かう妻の描写が続く本を読んでいた。夫は病床の妻とも交わった。祖父は少なくとも76歳まで祖母と性生活を営んでいた。それぞれ祖父らしいこと、孫らしいことをした、された記憶は少ない。それでも残された日記を読むと血の繋がりを感じた。政府を罵る文章はあっても、親族に注がれる言葉は平等であり、そこに好き嫌いが見られないのは、誰かに見られることを予感してのことか、それともそのような付き合いしかしていなかったからか。 半分読み終えたのが午前二時頃、結城信一作品集を既に読み終えていた。もう一度病室をのぞいて機械の数値を確かめてから、寝るか、と部屋を出るとすぐ傍を歩く看護婦にぶつかりかけ、さすがに驚く。最初の頃の主人公のように心臓に痛みが走ったがすぐ治った。 酸素濃度? だったかの表示が0になっていた。これは機械の調子か何かでそうなるだけで、心配することではないという。母もまだ起きて立っていた。しかし出来ることはない。眠気は冷めた。 誰か他人がいなければ、他人がいなければ、 と俊介は呟いた。 三時過ぎ読み終え、解説を残し夢に入る。 伯母が隣の病室に作家が入院していて、今インタビューを受けているという。名前を聞くと森内俊雄というので驚く。目は覚めない。落ち着いた頃に病室に入り「森内俊雄さんはどこにいらっしゃるでしょうか」と本人の正面にいる人に尋ねると、黒い着物を着た小柄の男がそうだと言う。慌てて何を言っていいかわからず「あなたの作品あ、好き、です、この間の『新潮』の、『十一月の少女』も、読みました」と、マイナーといっていい作家のファンが突然現われるなんて珍しいことでしょう、と下衆っぽい考えを持ちながら話すと、「風邪薬代くらいはあなたにもらったことになるかもしれませんね」と斬り返される。紙がなく、余白の多い松阪の野球カードがテレビの上にあったのでそれにサインをしてもらうと、冗談で書いたような句が記されている。名前も違うが、そちらが本名だとのこと。帰りの玄関にてもう一枚、さっきの句に続く下の句が書かれた紙を見つける。ますます安っぽい冗談みたいになったサインを大事に抱えて夢から出る。 清掃員の人が、少しでも臭いを遠ざけるために端にどけていた灰皿の中身を片付けていったのが午前五時四十分、その後何度か人の出入りがあった。寝付こうとも自動ドアの開く音で目が覚める。朝に見る電車は意外と近くに見え、昨晩無理やり作り出した不気味さの影も見えなくなっていた。廊下を歩く足音は時々部屋の中にまで入りこんできたように聞こえたが、それも昨晩より音が近くなっただけのことだった。八時半に病室に行くと既に簡易ベッドは片付けられて母が座っていた。耳栓はしたもののやはりろくに眠れなかったとのこと。祖父の状態は昨日の危ない時に比べるとかなり落ち着いてきたそう。 いずれにしても、文学作品は、たとえ前に読んだことがあっても、いま読んでみたければ、何もいうことは出来ないようなところがあります。新しい時代に入ってきたので、それが書かれた時代から自由になり、その作品をとりまいていた雑音から自由になって、私たちが急に目のさめるように思うとしたら、それはたぶん値打ちのある作品ということになる。そういう作品はその発表当時から、そのまま私たちの前にあり、私たちの眼はその活字の上を走っていたのです。その時なりに理解していたのかもしれないが、自分がいい当てる言葉が見つからなかったというようなことなのかもしれません。こうしたことは、作者本人もそれなりに気づかないこともあるので、この意味で、一般に文学作品は生き物で、たえず動いていて、私たちが読むときに生物の本領を発揮して動きはじめ、変化しはじめるのかもしれません。著者から読者へ より 次に読み始めた古井由吉「櫛の火」でも、入院する女の場面が最初にあり、病院の内で話が進む。 帰る少し前になり、換気扇を取り替える工事をする人達が来た。二人来た。真ッ黒の換気扇は取り外された。「それらしい舞台も簡単に消える。朝の陽や工事で」と私は思った。祖父はまだ生きている。一年以上前から意識がないままに。小島信夫「抱擁家族」(講談社文芸文庫)2002/11/30 20:29:28セザンヌの山・空の細道 結城信一作品選/結城信一 2002/04/28(日) 戦後短篇小説再発見5 生と死の光景/講談社文芸文庫 編 で私はこう書いている。 そして、これまで読んだこのシリーズの中でも一番良いのが結城信一「落葉亭」。どうも私は、藤枝静男の茶器趣味や森内俊雄の小筆蒐集などの、爺さん趣味、「落葉亭」の場合は庭園造り、そういったものについて書かれたものが、非常に好きらしい。作者の思い入れが強いというのもあるし、老境に入ったからこそ書けないものを、自らの愛する事物に託した文章は、とても真摯で、美しく、また楽しそう。実際、大きな岩の上に寝そべってみたくなった。大きな庭のある家を持つことが出来たなら、庭に巨岩を置きたくなった。それだけではなく、このような小説に出会えて、とても嬉しかった。 たしかにそのくらい「落葉亭」は気に入った。だから今回短篇集が出てるのを見て驚いた途端に買ってみた。が・・・・・・、少女趣味が、露骨で・・・・・・。森内俊雄の場合は、全編それということはないし、自制もきいていて、よくは知らないがその傾向が現われたのも老年に入ってからじゃないだろうか。結城信一の場合は、それまで恬淡とした雰囲気で好きな感じの話だなあと思ってたら、少女が出てきた途端に物語が安易に流れて、見てられなくなってくる・・・。全部読んだけれど。「螢草-柿ノ木坂」「鶴の書」は、とくに「鶴の書」は、カルロス・フェンテス「女王人形」に似た最悪の後味を残す作品で、しばらくは本を置いたが、それだからといって悪い話というわけではない。ただ、そこで受けた衝撃が、後の短篇を読むにつれ、少し嫌あなものに変わっていった。21歳の時の初恋の相手が小学生だったというくらいは別にいいんだが・・・。 そういう意図で編まれた短篇集なんだろうが、次があるとしたら、「落葉亭」傾向のものが多く入ることを望む。 荒川洋治の解説はとてもいい。
2002/11/30
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題名と、「福武書店」の文字と、「『迷宮都市』はガルシア=マルケス、イタロ・カルヴィーノといったマジックレアリズムの~」という本裏紹介文とを、ほぼ同時に目にした時に予想した通りの内容の本。 作家がある「一行」を探しているところから始まる『市街地図』では、本当にその「一行」が町中を逃げ回り、主人公が車で追いかける。実際にそのような恋人が居たのではないかと思えるほど、一編だけ温度の違う『ストリップショー』。それらを楽しみはしたものの、また他外のものも多少は楽しみもしたものの、疑問が湧いてくる。「これらと似たような話は今までも多く読んできた。好きだったはずだが、この本の中でも出来がいいものは好きだが、しかしこれらのような物語は、悪く言えば誰にでも作り出せる、また、ボルヘスに限らず、数多くの先駆者達が既に優れたものを残し、それを多少は読んでしまった後では、あまり読む意味がないのではないか」などということごと。 そして原題にも使われている最後の一編『SEIの本』に至ると、読むのが苦痛になっていた。その話が面白くないのも原因の一つ。祖父の容態が悪化し、もう長くはないということを聞いた後だからということも一つ。たまに行く、寝たきりの犬が居る古本屋に今日久し振りに行ったところ、犬の姿が見えなくなっていたことまでも、その一つ。本に集中出来なくなった途端、いろいろなことが頭を占めた。 何もボルヘスが開発したわけではないが、「この手の話」の鉱床は無限にある。だからそれにいつまでも付き合っていくのも、飽きる。自然主義を礼賛するわけでも、リアリティ一辺倒の方が高尚だとも言うわけでもないが、実を感じさせられない物語は、実を感じる、よいものの後に読むと、少々うんざりしてしまう。 全部つまらなかったわけではないが、上に挙げた二編以外の良いものでも、短すぎて物足りないが多かった。デヴィッド・ブルックス「迷宮都市」実川元子 訳(福武書店 在庫切れ)
2002/11/27
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あまり良くはないなあ、少なくとも傑作ではないなあ、でもなんだか深沢七郎の文体は落ち着くなあ、久し振りかなあ、そうでもないか、でもちょっと良くなってきたかなあ、随分と十年二十年経つのが速いなあ、やっぱり良いんじゃないかな、最後はお婆さんが、庶民が、強いなあ。 「よかったでごいすね、いい娘でございすよ、わしはよく知ってるけんど顔はまずいけんど稼ぎ者だし、気持はいいし」 とオクレやんは言った。顔がまずいと言われてオカアもギンも小松のおばさんも嫌な気がしてきた。ひょっとしたら顔はこの上もなくまずい顔かもしれないのである。(嫌なことを言うなア)とオカアは思った。そんなことを言うが稼ぎ者だし、気持はいい娘である。顔はまずいけれど(これは、どうしてもすすめよう)とオカアはきめたのだった。ギンも腹の中で(顔はまずいけんど、ほかにはないし、気持のいい性質らしいから)と徳次郎が帰ってきたら貰うようにすすめようときめた。小松のおばさんも(顔はまずいけんど、稼ぎ者だというから)と腹のなかで思っていた。オクレやんはこれから芸者の手おどりを見に行くのだそうである。 長い永い呪文のようなものとして深沢七郎の朴訥とした文章は身体に沁みていく。良いことばかりではない。このようなことはこのようなことを書くのにふさわしい人が書くのでなければ似合わない。身体に余る。服として着られない。似合わないことが外から指摘されるまでもよく見える。 憧れる。深沢七郎集〈第3巻〉(筑摩書房 お取り寄せ)
2002/11/24
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似ている。それぞれ違う生き方を生き、違う狂気を孕み、堕ちたり転げたりする登場人物たち。女たち。男たち。書かれた人物を書いた者が同じならそうなるというわけでもない。ここに描かれた相似形はこの時代ならばそれは当然のことであったかのよう。前半の主役である路地の奥の家の描写がいつまでも影を落とす。「夜の香り」に出てくる大倉に似ている、川崎というぶらぶらした男。こちらは死なないので汚く生きる。 実状を見たこともないくせに郷愁に浸れる物語序盤の路地奥の光景、それを過ぎてからは、いつもの、というわけではないが、馴れた古井作品の(いつのまにか馴れていた)枠を出ない、少し小粒の作品だとたかをくくっていると、ある日突然住んでる国がなくなるような展開を見せ、そういえば現実の対話でも急な展開はまず静かな語られ方から始まるものだと、確かに思い出したような気になる。多くを経験したわけではないが、そのようなことはあった。 この作品の文章に魔力はあまりない。 巻末解説は後藤明生。古井由吉「女たちの家」(中公文庫 現在お取り扱いできません)でもアマゾンのユーズドストアでは1280円とある。
2002/11/23
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多和田葉子の文章を受け付けなくなっているのではないか、という特に根拠のない危惧は空振りに終わった。しかし「変身のためのオピウム」の時のような良い文章には出会えなかった。「ふたくちおとこ」の時のような「やられた!」感もなかった。私は多和田葉子の小説を読んだ。私は「容疑者の夜行列車」という小説を読み終えた。その前後における「私」にはそれほどの違いは見られない。小説の主人公のように二人称で語られることはない。 二日目の朝、目が覚めてしまった直後、言い訳のように、膀胱に圧迫を感じる。トイレに行きたいのだな、と他人事のように思う。起きる気になれない。これが夢だったらどんなにいいだろう、と思う。しかし、トイレに行きたい人間と、目が覚めてしまった人間と、起きるのが嫌だと思っている人間と、全部足し算してみても、たった一人である。これほど自分が一人だと思わされる瞬間はない。たとえ一人旅でなかったとしても、旅の同伴者を起こしてトイレに行くことはできない。トイレに行く時には、人間はいつも一人である。 話の内容と昨日の夢が混ざって煮凝る。ある学校へ後輩達を試合のため連れていかねばならない。しかし最終バスが桁外れに時間が早く、今から家を出て間に合うはずがない。私は自分が既に引退しており、心配する必要のないことに気付く。それと同時に、引退した身であるからこそ、そこへ行かなければならなかったことにも気付く。間に合わない事実に変わりはない。今からでも何とかなりそうな夜行列車を探し始める。多和田葉子「容疑者の夜行列車」(青土社)
2002/11/21
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古井由吉断ちから二ヶ月(2002/08/18(日) 親/古井由吉)、併録の「妻隠」を読んでからは随分と経つ(2002/05/08(水) 虚空/埴谷雄高 妻隠/古井由吉 貧家の子女がその両親並びに祖国にとっての重荷となることを防止し、かつ社会に対して有用ならしめんとする方法についての私案/スウィフト/深町三郎 訳)。『「もうしばらくしたらきっと好きになってしまう作家だ」と前々から、引っ掛かっている。』とはなんと予言的か。その通りになってしまっている。「聖」「栖」「親」三部作を読んだ後では、慣れたせいか、新鮮味は感じない。最初にこれを読んだ時に面白いと感じなかったのも頷ける。中盤は、読んでるはずなのに頭に入ってこず、私は本当に古井由吉が好きだったのかなどと不思議に思った。終盤に入るとまたガラリと変わったが。 岩に腰をおろして、灰色のひろがりの中に躰を鎮めたとたんに、杳子はまわりの重みが自分のほうにじわじわと集まってくるのを感じて、思わずうずくまりこんでしまったという。実際に重みが自分の上にのしかかってきたわけではなかったけれど、周囲の岩が自分を中心にして、ふいに静まりかえった。谷底のところどころに、山の重みがそこで釣合いを取る場所があって、そんな一点に自分は何も知らずに腰をおろしてしまった。そう彼女はとっさに思った。そして自分が生身の躰でそんなところに坐っていることに空恐ろしさを覚え、そして、そんな畏れに顫える子供みたいな心を自分が岩の重みの間でまだ残していることにまた空恐ろしさを覚え、彼女はしばらく顔を上げられなかった。 わざと四時間もおいて、夜中の十二時過ぎに、彼はまた電話をかけた。通和音を聞きながら、彼は杳子の家の暗闇の中に単調なベルの音が響きわたるさまを思い浮べた。音は踊り場から階段を下って家族たちの眠りの中に響き、階段を上って、机にうっぷしている杳子の暗い存在感の中で輪をひろげる。白い机に汚れをためて、自分自身の臭いの中にうずくまりこんで、杳子は遠い無表情な信号の繰返しを訝っている。彼の顔をぼんやり思い浮べては融かしながら、それでも耳を傾けている。それからゆっくり立ち上がって、階段を這うようにして降りてくる・・・・・・。 自分で書き写してみると、どうしてこのような文章をこの人は書けるのだろう、と、なんだか泣きたい気分で思う。何気ないように見えるがどこか違う。体の一部が異常に発達した獣が尋常でない我が身を引きずりつつその異常さを他の獣に気付かせず、黙々と狩りを行うような・・・・・・自分でもさっぱりよく分からない喩え。 とにかく予想通り、大江健三郎の小説に向かう時のように、自分の中で古井由吉作品は他とは少し違う意味合いを帯びる「別枠」に入った。古井由吉「杳子・妻隠」(新潮文庫)
2002/11/20
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しばらく前のこと。帰り道の途中にいくつか猫がよくたむろしている場所がある。そのうちの一番家に近い一つ、一階が喫茶店になっているマンションの駐車場。その側の道路に、猫のような形をした動かないものが転がっていた。夜中のことであり、暗くてはっきりとは分からなかった。また、はっきりと確かめたくもなかった。人間と猫であり、言葉も通じなく、顔や種類がどんなものだったかをはっきりと認識していたわけではない。しかしここにはよく猫がいるということを知っていた。おそらくそのうちの一匹と思われる猫のようなものは動くことをせずに道路に転がっていた。近づいて確かめなければそれは何か違うものになるとでも信じ込みたい気持ちで、その場を通り過ぎた。すると車が一台やってきた。そのまま走れば、さきほどの何かを轢いてしまう、いや、しかしあれは生ゴミを入れた何かが破裂しただけのものかもしれない、いやしかし・・・・・・と考えるより先に車はそれを轢き、小さな骨の砕ける音とともに、猫の前脚あるいは後ろ脚のようなものが地面から少し上に跳ねて見えた。 以来そこで猫を見ない。 次の日どこかのバカがバカなことをして自分のバカさをネット上に公開していた。私はそれを知ってはいたがそのバカの所業を見る気にはなれなかった。見てしまえば多くの似たようなものと同様に、自分に関係のないところで殺された何かの、ただ単に動かなくなったものとして見えてしまうだけと分かっていた。ただの物として見れば気分は悪くなっても尾を引く痛みにはならない。 ジョニー・ウォーカーがナカタさんの目の前で次々と猫を殺す第16章。量にすれば僅か20ページ。そこをただ嫌悪感を持ってしか読めなかった私には随分と長く思えた。ジョニー・ウォーカーは猫を殺さなければいけなかった。村上春樹はそのような話が出来上がった以上その場面を書かなければいけなかった。二人にはそれほど悪意はない。私も二人は嫌いではない。しかしごく個人的な感傷から、私はその章を憎んだ。 それはともかく、上巻を読んでる時は結構楽しかったのに、下巻に入ると、上巻で敷いたレールの上に物語をただ転がしただけのように見え、読書がただの行追い作業になってしまった。「正確な言い方をするなら、この石自体には意味はない。状況にとって何かが必要であって、それがたまたまこの石だったんだ。ロシアの作家アントン・チェーホフがうまいことを言っている。『もし物語の中に拳銃が出てきたら、それは発射されなくてはならない』ってな。どういうことかわかるか?」村上春樹「海辺のカフカ」(上)(新潮社)同(下)
2002/11/19
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壮大な量の子供時代のことを思い出した翌日に読んだものは、幻想と現実の境の曖昧な子供達の出てくる物語だった。あまり暗くない。登場人物は多すぎる割に枚数が少ないので個々の掘り下げが物足りない。後半作者の、いや登場人物の一人である小説家脇野有朋が思い入れのある人物達への比重が傾きすぎる気はしたが・・・・・・。 しかし文芸誌というものは、たまに好きな作家が長編書き下ろしを発表する時以外、買う理由が見つけられない。古井由吉が現在連載している「群像」だって、ただそれだけでは買う理由にはならない。読むだけなら図書館でも出来るが、時によれば読む理由さえ見つけ難い代物だ。もっとも、なければないで困るのだけれど。全ての作家が書き下ろしの形態で作品を発表出来るわけでもない。 新約聖書のマタイによる福音書第六章三十四節の言葉は多くの人に愛されて、良く知られている。新共同訳によると”だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である”となっている。慰めに満ちた言葉である。生きる勇気と希望をここから汲みだす人はクリスチャンのみとは限らない。 ところで、トワさんが今日になってビヤン神父に問いただしているのは、まさに、ここである。「明日のことは明日自らが思い悩むのですね。わたしでも誰でもない。明日という主人公が悩んでくれるわけですね。文章の主語は明日です。どうでしょう?」 私には信仰心はない。神を持たない。カソリック信者である森内俊雄ははっきりとキリスト教について書く。それゆえに何がどうであるという思いを私は抱かない。「この解釈は面白い」それだけだ。 ・・・・・・陶土を轆轤にかけているような午後になった。風が吹いている。地上を巨大な鳥の影が横切ったように感じられる。十一月は神秘な月である。それは十月と十二月に挟まれて、ひっそりと静まっている。 と、ここまで書いてきた。そして、ペンを置いたとき、小説家脇の有朋の家の時計が午後三時をさした。その時計は玄関をはいったホールから、吹き抜けで二階へ通じている階段を登りつめた正面の壁にかかっていた。 それは円形の臙脂色の枠にかこまれた大きなカラクリ時計である。針が三時をさすと、丸く白い文字盤がおもむろに上弦、下弦の月のようにふたつに割れて回転を始める。同時にモーツァルトの歌劇「魔笛」第二幕九場パパゲーノ、パパゲーナの掛け合い”パ、パ、パ”のオルゴールが鳴り響く。真二つに割れた文字盤が時計の内部の部品をきらきら光らせて、ゆっくりと反転する。<時>が裂けて、壊れる。丁度一回転して、何食わぬ顔で文字盤が正位置に戻る。そして、異なった世界の午後三時になる。どこからか、何かが誰かが滑りこんできた。 序盤を読むうちに感じた「今年出た小説の中では一番の出来かも」という期待は少しずつ薄れていったが、元々今年出た作品で今年読んだものは少ないので、軽々とトップ10に入る。それも上位に。「翔ぶ影」の頃の作者は書くことが苦しそうだった。「氷河が来るまでに」の頃は生きることが苦しそうだった。しかし「真名仮名の記」と本作では実に楽しそうで、文章が生き生きとして、自分の書きたいことを書いてるという風に見える。 そのように創られた作品は悪いものにはなりにくい。もっとも、苦しみ抜いて産み出される作品もそうである。それでは「この程度でいいか」の妥協と共に送り出された作品以外はたいていいい作品ということになる。それも無理がある気がする。ともあれ好きな作家が書いたいい作品は好きになれる。新潮12月号(新潮社)
2002/11/16
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「読み直し」はひとまず置く。新しく本を手に取ることを止めていたのは僅かな間なのに、もういろんなものを読みたくなってきた。それはそれでそう悪いことではない。カラマーゾフの親父にはもうしばらく死なないでいてもらうことにする。 トルストイ幼年時代の淡くほろ苦く美しい思い出と母の恐ろしい死とを書いたもの。に見えるがトルストイの母は彼が物心つく前に死んでいる。ほぼ事実のように思いながら読んでいたものは創作であった。それは驚いた。あまり興味のなかったトルストイという作家は、やはり名前が長く残っているだけはある、と思った。しかし肝心なことはそれではない。 本を読みながら文章を追いながら、見ていたものはその文章ではなく、想っていたのは描写される光景ではなかった。少なからず記憶されている、私自身の「幼年時代」を、あるいは「少年時代」を、一つの言葉や名前から次々と連鎖して、厖大な量を思い出していた。本は触媒に過ぎなかった。 夢をよく見る。昔の夢をよく見る。ばらばらの時代から寄せ集められた、それほど親しくなかった者達が出るような夢をよく見る。その多くは夢を見ている最中は実際のことに見えるが、起き出して思い出してみると明らかにデタラメでいい加減でそんな事実はなかった、はっきりと夢だと言い切れるものである。夢を思い出に変えるつもりはまだない。混同したことはまだ一度もない、はずだ。 しかし今日思い出した事実であるはずの思い出達の中に、幻想的なものがいくつかある。無邪気な子供は何をするか分からない。ノスタルジックな靄のかかった思い出に無意識のうちに細部を加えて物語的なものとする、そういうことも少しはあるかもしれない。しかしこれは何もさっき初めて思い出したことではなく、これまでもふとした拍子に思い出してしまった奇妙な過去の出来事として、はっきりと刻みつけられた、その気になればその時を共有した他の人に聞いて確かめれば確かめられることである。しかし今周囲にいる友人達はそれほど昔から知り合いだった人達ではない。また、確かめようとしても「そんなことはなかった」と一蹴されてしまうことは恐ろしい。しかしそれはあったのだ。別に奇怪な出来事や超常現象などではなく、思い返してみれば少し幻想的な雰囲気を孕んだだけの、日常からごく僅かだけずれた出来事どもであるだけかもしれない。それは事実ではある。しかしはっきりとした事実ではないように思える。だがそれはどちらでも構わない。現在証明することが難しいというだけでなく、少々強引に言い切れば、それは「思い出」という名の、半分は付け足された虚構であっても、害のないものならば多少の思い込みは許されるものである。勿論ある程度年齢を重ねていない頃に限られた話として。「それとも今の日々が楽しくないから思い出すのでしょうか」と歌う歌はある。しかしそのように思い出したわけではない。 ただの、過去だ。 幼年時代にそなえていた、あのみずみずしさや、屈託のない気持、愛への渇望、信仰の力などは、いつの日かふたたび戻ってくるのだろうか? 純真な快活さと、限りない愛への渇望という二つの最上の美徳が、生活における唯一の欲求だったあのころよりもよい時代なぞ、はたしてありうるだろうか? あの熱心な祈りはどこへ行ったのだろう? 最上の恵みである、あの清らかな感動の涙はどこへ行ったのか? 慰めの天使が飛んできては、笑顔でその涙を拭い、子供の清純無垢な想像に甘い夢を吹きこんでくれたものだったのに。 あの涙や歓喜が永久にわたしから離れ去ってしまうほど、重い足跡を、はたして人生がわたしの心に残したのだろうか? 本当に残ったのは思い出だけになってしまったのだろうか?トルストイ「幼年時代」原卓也 訳(新潮文庫)同 藤沼貴 訳(岩波文庫)
2002/11/13
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初見ほどの衝撃はなかったこと。そして以前は何に驚いたかというと、最初の「私」パートの方にであり、真実の告白であり、真実であるだけに残酷なまでに酷い妻の描写であった。あまり慣れていないので面食らった、「田紳有楽」の次に気楽に読み始めたところ不意打ちを食らわされたという感じだった。 二十代の終わりごろ、瀧井孝作氏を訪問すると二、三百枚の本郷松屋製の原稿用紙を私の前に置いて「これに小説を書いてみよ」と云われたことがあった。そして「小説というものは、自分のことをありのままに、少しも歪めず書けばそれでよい。嘘なんか必要ない」と云われた。私は有難いと思ったが、もちろん書かなかった。そのころの私には、書くべき「自分」などどこにもなかったから、書きようがなかったのである。 書くほどのものではない「自分」をただ真実であるからというだけで安易に書く人達・・・・・・そしてそれを「私小説」だと言えば芸術を創った気になる人達・・・は、ともかく。 一度目に受けた衝撃は何だったか。この、露わ過ぎる告白の後、全く事実であるはずがない、しかしそこには確かに「自分」のある部分が露骨に語られていると感じる、もう一つの「私」パートの出現にある。 精力をつけんが為に、女を見返して征服したいが為に人糞を精力剤として加工して飲み、精を出す。静謐ながらえげつない内容だった前半とはがらりと変わって滑稽味を帯びたですます調、妻は過去に死んだ者。 正直今回はこちらの方をそれほど面白いとは感じなかった。が、先程の「真実の告白」の後にいけしゃあしゃあと、このようなものを書き記せる、平気で嘘っぱちを並べておきながらやはり「自分」をその中に書き込んでいる、書き込めている。それが恐ろしかった。 紛れもなく私小説で始めておきながら、私小説ではないようなものを挿入しておいて、しかしそれも確かに私小説である。では私小説とはなんだ、という気になる。そもそも私小説と呼ばれるようなものはあまり好きではないはずだ。しかし衝撃を受けた、受けてしまったという事実には変わりはなく、そう呼ばれているものにはもっと恐ろしいものがあるのではないか、と不安になってしまう。 が、今はそんなにいろいろ手をつける気分でもない。藤枝静男「田紳有楽・空気頭」(講談社文芸文庫 現在お取り扱いできません)
2002/11/03
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「カラマーゾフの兄弟」がいつまで経っても読み終わらない。というよりあまり本を読んでいない。するとここに書くこともない。それでは少し気持ちが落ち着かない。習慣となったものは怖い。 ということで息抜きに別の日記を始めた。大倉ポエム
2002/11/01
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