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平成21年5月20日 22歳から70歳までの50年近い長い長い会社生活を終えてからもう7年が経ってしまった。現役時代も含めてあっという間に日々が過ぎ去った気がする。 会社生活の終わりが見え始めた頃から、世間でよく言われる「退職後の生き方には、何か生き甲斐を持たいないといけない。その為には退職前から趣味を持つなど準備が必要だ。そうでないと奥さんに嫌われる濡れ落ち葉になってしまう」などの言葉が世の中には飛び交っていた。しかし元々好きなように生きたきたこれまでのやりかたを特別に変えることもないだろうと何の準備も心構えもなくその日を迎えたのだった。 そして、いざ退職してみて一番感じたのはこの快感は何だろうと思うほどの開放感だった。会社時代、B型の自分には何もストレスはないと思っていたのだが、やはりそれなりのストレスがあったのだとつくづく思うことだった。 いざ退職してみると先ず助かったのは近所の気のおけない友人たちと夫婦で集まって2,3年前から毎週土曜日にプレーしていたグラウンドゴルフだった。35年くらい前に私の住む団地が出来て、そのとき前後して家を建てて住み始めて、皆現役時代の忙しい中で、夜な夜な集まって町内会を一緒につくり、苦労したほぼ同年輩の仲間である。その後にはグラウンドゴルフの仲間を中心に町内に小規模ながらどんぐりの会(老人会)も作ることができて更に交流は広がっている。どんぐりの会では新年会や史跡巡りなども楽しむ。 65歳から通い始めて8年間妻共々農業の真似事をしていた(詳細は拙ブログのカテゴリ・エッセイ欄にある)市民農園も大いに退職後の生活を楽しませてくれた。 また旧友たちとの付き合いも楽しい。特に高校時代の同期生たちとは今でも、いやゆっくりなった今だからこその付き合いが続く。同期生は350人。残念だがそのうち分かっているだけでももう50人を越す旧友が亡くなってしまった。同期会の度に、今は亡き恩師や旧友に黙祷をする時にはいろいろな想いが頭の中を駆け巡る。そういう歳になってしまった現実がある。 同期会で還暦旅行と称して行ったロスアンゼルスとラスベガスの旅、博多港から行った釜山の旅、伊勢・熊野の旅、奈良・南紀の旅など参加した旅の数多い。この11月には指宿で「八期喜寿の集い2016」を幹事の一人として計画中である。 同窓会といえばもう一つ今も週一回の練習をする大学時代の男声合唱団のOB会がある。これも私の生活の中で大きな比重を占めている。大学を卒業して小倉市(合併で北九州市になるの前年の小倉市が初任地だった)に行きここで転職その後、長崎市、徳山市(現在は周南市)と転勤し、鹿児島に子会社を作るというチャンスを得て20年後に帰郷した。仕事も軌道に乗った2,3年後だったか再び歌いたくなり同期生を訪ねた。そこで聞いたのはOB会で合唱祭などに出場して歌っているという耳寄りな話だった。私は次の総会に出席して先輩、同輩、後輩に挨拶をし、それから諸行事にも参加するようになった。 参加して2,3年後には先輩方が定年退職で自由な時間を確保できるようになり、演奏会を開こうという気運が盛り上がり、週一回の定期練習が始まった。仕事が多忙だった私だったが時の運と地の利にも恵まれほぼ毎週の練習にも参加し0B会としての第一回目の演奏会を迎えた。それからほぼ3年に一回の定期演奏会が開催されるようになり、昨年7月には第九回目を迎えることができた。幸いこれまで9回の演奏会には全てのステージに立つことができた。それだけではない。県内各地や時には県外から各地に呼ばれて公演や賛助出演、各種イベントなど年間10回近くステージに立つ。これも大きな生き甲斐になっている。 もう一つがこのブログである。これも思いつきで書き始めたブログが開設からの日数が3000日になっている。そして開設日から8年を経過しているのである。それにしては、書いた回数は未だに900回にも到達していない。気まぐれな自分を反映して、最長では6ヶ月も更新をサボったり、1ヶ月くらいは簡単にサボるブログだが、平成23年の秋から始めた「鹿児島の歴史」による記事が多くなってきた。歴史は子供の頃から大好きではあったが、その道に進んだわけでもないし、その後も忙しくてそれどころではなかった。しかし、自由な時間ができたとき、あるきっかけで近所の史跡巡りを始めた。そこを出発点にして今日まで郷土史全般手当たり次第に動き回っている。 この春には退職後少しでも社会に恩返し出来ればと二つやっていたボランティア活動も高齢を理由に辞退して文字通り更に自由の身となった。 このように振り返ってみるとタイトルにした「歳をとるのも悪くない」は「歳をとるのもいいものだ」に変えたいくらい現在の生活は自分なりに充実している。しかし、確実に国指定の後期高齢者という老境に入っているし、あまり無理せず今後の生活を楽しみたい。
2016.05.31
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鹿児島市池之上町にある「奈良原助八殉死の地」は清水町側から玉竜中・高校に向かう道路沿いにある。学校の敷地まで何百mと離れていない。そこは福昌寺跡に入るもう一つの道の近くでもある。 今から50年前にこの碑の前を3年間学校に通ったのだが、当時から保存されて当地にあったのかどうか、記憶のかけらもない。 説明版にあるとおりだが、争乱の世を悲観し自ら命を絶った島津家第十一代当主・島津忠昌に殉死した奈良原助八の殉死に地である。 この碑文は鹿児島の「金石文」で読むことが出来るが、説明版とも内容が重複するので省略する。 これが、奈良原助八を慰霊するために建てられた「六地蔵塔」の一部であると言う。 昭和16年3月編纂の市来町郷土史(現在は平成の大合併により「いちき串木野市」)によると次の記述がある。 然るに、忠昌の治世中、争乱ほとんど絶ゆる間もなく、自ら戈を執って度々出征したが、永正三年八月六日、大隅高山城の攻撃に大敗して為に人生を悲観し、其の後快々として楽まなかった。斯くて、永正五年二月十五日、夜半の月影を仰ぎながら、 ねがはくは花のもとにて春死なんそのきさらぎの望月のころと、西行法師の和歌を口すさみつゝ、短刀を逆手に握って「よし、新納、肝付は今から必ず百年のうちに美事おれが取り潰ぶして呉れるぞ」「えいつ」と一撃、血潮はさつとほとばしつた。忠昌時に年四十六、(中略)為に寺を建てゝ太平山興国寺と称した。此時侍臣奈良原助八殉死追腹を切った。これが薩摩に於ける殉死の始まりである。(この市来町郷土史はネット上の「近代デジタルライブラリー 市来郷土史」で見ることが出来た)
2016.05.30
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いきなりだが、豊臣秀吉が薩摩(鹿児島)に来たことを知らない人は多いのではないだろうか。実は史実として秀吉は鹿児島にしっかり足跡を残しているのだ。今回はそこに至るまでの経緯を少し書く事にした。 天正5年(1577)島津家16代当主・島津義久は、宿敵伊東義祐を日向から追いはらうことに成功し、念願の薩摩、大隅、日向の三州平定を果たした。 その勢いに乗って翌年には豊後(大分)を本拠地に、九州の大半を支配していた戦国大名・大友宗麟の大軍と日向の耳川で戦い、大打撃を与え、天正9年(1581)には水俣の相良義陽を降伏させた。続いて天正12年(1584)には肥前の龍造寺隆信を島原の戦いで敗死させた。更に島津氏は北九州市へと勢力を広げ、天正14年(1586)九州で最後まで島津氏に抵抗していた大友氏の府内を占領し、九州制覇は目前と思われた。しかし、大友氏は大坂にき、豊臣秀吉に救援を依頼した。 かねてから九州博多の貿易港支配を目論んでいた秀吉は渡りに船とばかりに、天正15年(1587)25万余の大軍を自ら率いて豊前小倉城に入城した。ここで軍を二つに分け、自らは一軍を率い肥後(熊本)方面から薩摩に向かい、弟秀長に一軍を与えて日向(宮崎)方面から薩摩に向かわせた。これに対する島津方は、主力を南九州へ引き上げ態勢を立て直し、日向国根白坂で秀長の軍と戦ったが多勢に無勢、秀長軍に敗北した。 敗れた島津義久は頭を剃って僧体となり、名を「龍伯」と改め、薩摩川内(現在の薩摩川内市大小路町)にある泰平寺で秀吉に拝謁した。上の写真の像がそのときのものである。 説明文は拡大して読めます。 現在の泰平寺 説明版は拡大して読めます。 和睦石 泰平寺址の石碑 秀吉に拝謁した義久率いる島津氏はその後どうなったのか。義久に薩摩国、義久の弟・義弘に大隅国、義弘の息子・久保に日向国の一部を安堵した。しかし、その後の島津氏はここから塗炭の苦しみに遭遇することになる。それでもそれらを乗り越えて島津氏の三州治世は他に例を見ない永きにわたり続くのである。続きはいずれ書く事もあると思う。(尚古集成館発行の「島津家おもしろ歴史館」、桐野作人著「島津義久」などを参考にした)
2016.05.27
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これまで島津家墓所の福昌寺跡を何回も訪れたが、その中に説明版にも書いて無くて、それでいて沢山の墓標など石造物がある一角があった。一体どういう方の墓標かと思っていたのだが、先日ブロ友rinzoさんのブログにそのことが書かれていた。 その一角は元々、現在の玉龍中学、高校の前にあったと言われる恵燈院跡にあった墓地が福昌寺跡墓地に移されたものだと言う。 ここには島津一族の子供の墓とと犬の墓があるという珍しい場所であった。ここの墓標も廃仏毀釈によって改号されている。 改号 光玉眞明彦命 とある。 仏像3体 いずれも墓標でもある。それぞれ美しい。 天保十一庚子年 蓮想院殿寳法幻鑑太禅童女 6月晦日 (童女ということからも幼い女子と思われる) 文政九〇戌年 天如院殿紅山玉〇太禅童子 十月二十六日 最後列には犬墓が並ぶ 元治二年〇〇 妙性善狗霊位 五月初六日 (狗は犬) 洋犬ス〇之墓 玉竜中学校、高校前の恵燈院跡は現在は住宅地になっている。恵燈院は島津家第八代当主・島津豊久(1375~1425)の菩提寺といわれる。開山は石屋真梁である。
2016.05.24
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5月14日、午前9時45分の桜島フェリーで鹿児島市街から対面に見える桜島(ここも鹿児島市)側にある大隅半島に向かった。 南大隅町根占川北にある「花の木農場」に移転建設された「花の木ファーム」の竣工祝賀会に招待を受けて高校の同期生4人で久しぶりの旅気分である。現地で東京から二人、熊本から一人の同期生と合流した。時間の関係で私たちは出席できなかったが、記念式典には地元出身の森山農林水産大臣、伊藤鹿児島県知事の出席もあったという。 「花の木農場」は高校の同期生Nくんが理事長を務める「社会福祉法人・白鳩会」の施設の一つである。ここでは農業と福祉を結びつけた画期的な事業が行われており、昨年10月29日には第二回「ディスカバー農山魚村(むら)の宝」の優良事例として白鳩会と農事組合法人・根占生産組合で運営する「花の木農場」の農福連携の取り組みが、全国27地区の一つに選ばれている。 農場の一部 完成した「花の木ファーム」 花の木農場マップ(拡大できます) 祝賀会会場の外 祝賀会場 地元の混声合唱団・コールみなみん の皆さんの演奏が祝賀会を盛り上げた。 ここは、彫刻のある農場としても有名である。しかし、まだまだ有名なものがある。それは初代ザビエル聖堂(石づくり)の石材が、ここ花の木農場に安住の地を得て保存されていることである。 ザビエル記念広場 花の木農場ザビエル記念広場につての説明(拡大して読むことができます) 写真集「過疎地域に光りを 彫刻のある農場 花の木写真集」に素晴らしい大きな彫刻が多く置かれている。その中にもザビエル記念聖堂の写真ももちろん入っている。いずれ詳しく紹介したい。
2016.05.16
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釣きち三平も顔負けするするような我が家の次男坊。仕事が忙しく、久しく釣りにも行けなかったのだが、ゴールデンウイーク最後の3連休の3日、夜釣りに出かけた。最初予定していた、釣り船で渡る錦江湾(鹿児島湾)の堤防は風が強いということで渡船は欠航とのことでがっかりしていた。ところが夕方になると、血が騒いだのか、ごそごそ釣りの準備を始めた。 そして、今朝私がグラウンドゴルフに出かけようとしていた8時ごろ次男坊のご帰着である。当初目論んだ場所ではないし、私も妻も期待をしていなかったのだが、大きなクーラーを開けるとそこには、大きくてしっぽが曲げられた真鯛一匹ともう一匹。 釣った場所は鹿児島市谷山港 谷山救難用へり広場ヘリポート近くの陸上からとのこと。 大きいのは60cm、小さい方は50cm。今日はどういう料理になって出てくるのか、今から楽しみである。
2016.05.04
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勝軍院をは前回書いた「阿弥陀如来坐像」の磨崖仏が主役と思われるが、他にも驚く程の石造物があり、宝庫であった。 上の2体の石仏はひな祭りを思わせるような愛らしさである。 下の塔は何という名前の塔? よく見かける気がするが。 梵字と「三」の字以外は読解不能の石塔 右はは奉寄進の文字。 石仏 十王の一つか? 五輪塔 勝軍院の文字が書かれているが、他は読解不能だった。 苔に覆われたカエル 不動明王3体 崖の高いところに置かれていた。 中から左側の全体を見る
2016.05.03
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