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さて、とうとう最後の謎である「ごみ収集車」の場面について語ろう。これに関しては、「自殺説」「暗殺説」「逃亡説」と意見が分かれており、それぞれに解釈が可能ではあるが、僕は「組織による暗殺」だと見ている。先ず、「逃亡説」は最も可能性が低い。もし逃亡するなら、既に実行に移しているだろうからだ。わざわざヌードルスを探し出し、「殺してくれ」などと頼む理由がない。また、「自殺説」も今一つ説得力に欠ける。あの時、マックスは明らかにヌードルスを追って外に出て来ている。にも拘らず、そんな突発的に車に飛び込んだりするだろうか…。では、何を根拠に、僕は「暗殺説」を選んだのか。ここで思い出して欲しいのが、ファット・モーの店で見ていたニュース番組の言葉だ。「最後の証人であるベイリー長官は、屋敷から一歩も出て来ない」そう、マックスは暗殺を恐れ、ずっと屋敷に籠(こも)っていたのだ。だからこそ、ヌードルスを屋敷に呼び寄せる必要があった。しかし、どうだ。彼は、今まさにヌードルスを追って、屋敷の外へ出て来たではないか。それも、たった1人で。そして動き出すごみ収集車…。もう説明の必要は無いだろう。では、何故マックスはヌードルスを追って、屋敷の外へ出て来たのか…。それは、やはりヌードルスに対する特別な想いがあったからではないだろうか、と思う。恐らく、マックスは本気で友情を感じていたに違いない。息子にまで、ヌードルスの本名(デヴィッド)を名付けている程だ。友情の証である懐中時計も、彼は捨てずに持っていた。そう考えると、35年前にマックスがヌードルスを銀行襲撃に連れて行かなかった理由にも、別の解釈が生まれる。つまり、「マックスは本当はヌードルスを助けるために、彼を裏切り者に仕立てたのではないか?」という解釈だ。一緒に行けば、ヌードルスは間違いなく組織に殺される。目の前で親友が殺される姿は見たくない。かと言って、組織の命令には逆らえない…。ならば、ヌードルスが裏切ったという形で置いて行く事で、少しでも逃げる時間稼ぎをしてやろうとしたのではないか。ヌードルスならきっと逃げ切ってくれるはずだ、と。そんな解釈も可能になるのだ。しかし、35年振りに再会したかつての仲間は、全く取り合ってくれないどころか、自分の名前さえも呼んでくれない。裏切りの真相を暴露したにも拘らず、それでも彼はまだ自分を「親友だった」と言う。マックスの中に強い罪悪感なり、懐古の情が生まれても不思議は無い。屋敷を出て行くヌードルスに対し、せめて最後はベイリー長官としてではなく、マックスとして話をしたかったのではないか。だから、暗殺される危険がある事も忘れて、思わずヌードルスを追いかけて来てしまった。そして滑った…。結局、最後の最後まで過去を引き摺って生きていたのは、ヌードルスではなく、実はマックスの方だったという事なのだろう。そんなマックスの背中を、ヌードルスはどんな想いで見送ったのか…。(結果的に、彼は4人の仲間全員の死を見届ける事になった)いずれにせよ、35年前マックスに出し抜かれて奪われた現金を、遂にヌードルスは取り戻した。目の前でマックスが死に、もう自分を追って来る者は誰もいない。彼は、過去の因縁にようやくケリをつけたのだ。この後、モーの部屋へ戻り、ベッドに横になりながら、ヌードルスは一体どんな表情を浮かべたのだろうか…?それが、もし35年前の夜と同じ、あの笑顔だったとしたら…?ヌードルスに対するイメージは、根底から覆(くつがえ)るのではないか。ラストカットでヌードルスの手前にある薄いベールは、「この物語を表面的に観ているだけでは、ヌードルスの本当の素顔は見えて来ない」という、レオーネ監督からのメッセージなのだろう。そう、【ONCE UPON A TIME IN AMERICA】は、ヌードルスとマックスの騙し合いであるだけでなく、監督と観客の騙し合いでもあるのだ。この映画の巧みな所は、約4時間に渡って「ヌードルスの友情と恋の物語」を描きつつ、そこに多分に「マックスの視点」を紛れ込ませてある点にある。マックスは、ヌードルスの事を「友情に厚い男」「自分に騙された負け犬」だと思っていた。それこそが彼の誤算であり敗因ともなるのだが、そうやってマックスが騙されたのと同じ目線で、観客も騙されるように心理誘導されているのだ。また、裏ストーリーへの入口となる物語の「ほつれ」が、唯一キャロルとの車中での会話だけしかない、という点も大きい。あの場面で何らかの違和感を抱けなければ、観客は「ヌードルス=友情」「マックス=金」というイメージから抜け出せぬまま、永久に同じ物語の中を堂々巡りする事になるのだ…。さて、如何だったろうか。これが、僕の読み解いた【ONCE UPON A TIME IN AMERICA】の全容だ。本作を「ノスタルジックな友情と恋の叙事詩」だと見ていた向きには、およそ受け入れ難い解釈ではあろうが、しかしどれだけ突拍子が無かろうと、寧ろこれまでのどの解釈より辻褄は合っていると思う。更に、ヌードルスとマックスに対する印象が、「表」と「裏」とでは完全に逆転する事も、理解してもらえたのではないか。そんな複雑かつ難解な本作を、小池修一郎は素直に「友情と恋の物語」として描いた。しかし、それでも消えなかったサスペンスの香りが、僕を原作映画へと誘(いざな)ったのだろうと思う。まあ、そのおかげで、久し振りに頭をフル回転させてくれる好敵手と巡り会えたのだから、この幸運に感謝したい。ありがとう!!因みに、映画の評価は以下の通り。内容的には満点ながら、やはり4時間はちょっと長過ぎるという事で…(笑)。【ONCE UPON A TIME IN AMERICA】… 満足度★★★★☆
2020.03.29

マックスからの手紙により、35年振りに街へ戻って来たヌードルス。ここで印象的なのは、彼の目だ。確かに、身なりこそ良くないが、彼の目は死んでいない。ファット・モーの店に入る際も、公衆電話から客を帰すように指示を出しているし、そこに笑顔や怯えの表情は一切見られない。常に警戒心を解かず、冷静に状況を見極めようとしている。そして、あのロッカーに隠した共同基金の話になった時、彼はこう言った。「35年ずっとそれを考えていた」これは、人生を諦め、思い出の中に逃げ込んで生きる男の言葉ではない。ヌードルスは、間違いなく現在進行形で生きている男である。だからこそ、真相を確かめるため、35年振りに故郷へ戻って来た…。もっと言えば、その前の場面、阿片窟を出てモーの店へ鍵を取りに行った時も、彼は実に手際よく追っ手のギャングを撃ち殺している。「縄を解いてくれ」と頼むモーに対しても、「お前が殺したと疑われるとマズい」と的確な判断をするなど、全く冷静さを失っていない。去り際に、モーの頬をポンポンと叩いて励ます余裕まである。これが、仲間を死に追いやった罪悪感に苛(さいな)まれ、組織に怯えて逃げ出そうとする男の態度だろうか。寧ろ、首尾よく事を進めている、といった様子ではないか。この導入部を観ただけでも、ネット上に流布する「ヌードルスは負け犬」のイメージが、かなり怪しい事が分かる。では、何故、そうした情報が見落とされる事になったのか。それは、取りも直さず、その後に描かれる少年時代のエピソードの数々に、観客が心を奪われてしまうからに他ならない。スクリーンに映し出される少年達の友情が眩しければ眩しい程、初恋の記憶が甘酸っぱければ甘酸っぱい程、観る者はそこに永遠の輝きや純粋さを求めてしまう。ヌードルスにとって、この掛け替えのない日々の思い出だけは嘘ではない…、と勝手に思い込んでしまう。それが、観客の目を欺くためにレオーネ監督が仕組んだ、巧妙なトリックだとも気付かずに…。更に、ここでもう一つ見落としてはならない重要な事がある。それは、この少年時代の思い出が、ヌードルスだけのものではなく、同時にマックスのものでもあるという事実だ。特に、7年間を刑務所で孤独に過ごしたヌードルスに比べ、ずっと仲間達と苦楽を共にして来たマックスの方が、実は仲間に対する思い入れは深いのではないか、という気がする。その証拠に、35年振りとなるあの再会シーンを見ていると、過去に縛られて生きているのは、ヌードルスよりも寧ろマックスのように映るのだ。仲間を裏切った罪悪感を抱えて生きて来たのは、実はマックスの方なのではないか。そんな印象すら受ける。そうでなければ、今更ながらにヌードルスを探し出したりなどしないだろう。では、マックスがヌードルスを呼び出した理由は何なのか。屋敷での2人のやり取りを追ってみよう。部屋に通されたヌードルスに向かって、マックスは「俺を殺せ」と言う。過去の裏切りの真相を暴露し、「復讐させてやる」と言う。恐らく、マックスは自身の破滅に際し、ヌードルスに殺される事で、罪滅ぼしをしたかったのではないかと思う。(ただ、その一方で、ヌードルスを再び犯人に仕立て上げ、道連れにしようとした可能性もある)過去の真相を暴露し、ヌードルスを挑発するマックス。そうやってヌードルスを逆上させる事で、彼に拳銃の引き金を引かせようとしたのだろう。35年前のあの夜と同じ駆け引きだ。しかし、ヌードルスはそれには応じない。それはそうだろう。「殺させたい男」と「殺したくない男」。お互いの目的が、今回は真逆なのだ。しかも、マックスは知る由も無いが、「35年前に仲間を裏切った」という点に関してはヌードルスも同罪であり、その事でマックスを責めたり恨む理由が、ヌードルスには全く無いのだ。まして、罪悪感などあろうはずもない事は、改めて言うまでもないだろう。「ヌードルスは、俺の事を親友だと思っているに違いない」これこそ、35年前もそして今夜も、マックスが犯した最大の誤算である。そして、マックスのこの思い込みに引き摺られ、観客も「ヌードルス=友情」という固定観念を植え付けられてしまう事になる。しかし、ヌードルスから見た裏ストーリーは全く違う。元々、マックス達とは縁を切りたいと思っていた。デボラを失ったのも、完全に自業自得だ。そうなると、あの裏切り計画で彼が奪われたものは、ロッカーの現金だけという事になる。そして、35年目にして、ヌードルスはそれを前金という名目でマックスから取り戻した。過去の真相も突き止めた。もう、これ以上マックスに用は無い。(自分が手を下すまでもなく、どうせマックスは自滅する)後は、何事も無くこの場をやり過ごし、部屋を出て行くだけだ。そういう結論にならないだろうか?何故なら、誰も(マックスも観客でさえ)、自分が過去に仕掛けた「裏切りの事実」に気付いていないのだから…。平行線を辿る、2人の駆け引き。泣き落としのつもりか、最後は思い出の懐中時計まで見せるマックスだが、それでもヌードルスは歩み寄ろうとしない。いや、確かに、この時ばかりはヌードルスも昔を懐かしみ、優しげな表情を浮かべるのだが、飽くまでも相手を「ベイリー長官」と呼び、他人行儀のままだ。そして、こう言う。「ベイリー長官、俺の昔話はもっと単純だ。 友達がいた、親友だった。 命を救おうと密告したのに、奴は殺された。 自ら望んで。 良い友情だった。 ただ、2人とも不運だった」一聴すると、これはヌードルスの本音のようにも聞こえるが、勿論そうではない。飽くまでも、マックスの描いたシナリオをなぞっているに過ぎない。そうやって「友情に厚い男」「惨めな負け犬」という相手の持つイメージをそのまま演じる事で、ヌードルスはどこまでもマックスを突き放すのだ。こうなると、マックスにはもうなす術が無い。全ての手札を切ったマックスに対し、ヌードルスは何一つ手札を見せていないのだから。勝敗は明らかだ。しかも、裏切りの真実を打ち明けたにも拘らず、ヌードルスはまだ自分を「親友」だと言う。「生涯の努力が無駄にならないように」そう告げて、部屋を出て行くヌードルス。この時、マックスの胸に去来するものは何だったか…。これを踏まえた上で、あの「ごみ収集車」の場面へと視点を移そう。
2020.03.28

【ONCE UPON A TIME IN AMERICA】を読み解く上で重要なのは、この作品が「二重構造」になっているのを見抜く事だ。「表ストーリー」と「裏ストーリー」と言い換えても良いだろう。ただ、その両方がぴったりと張り付き、境目がほとんど無いため見落としてしまうのだ。では、その裏ストーリーへの入口は、一体どこにあるのか…。それは、ヌードルスがキャロルと車内で交わす会話シーンにある。実は、宝塚版を観た時から、「警察に密告して欲しい」というキャロルの言葉には、妙な違和感を覚えていた。マックスを助けたいだけなら、誰にも相談せず、自分で電話すれば良いのではないか…。寧ろ、それが最も確実で、自然な心理だろう。しかも、原作映画でのヌードルスとキャロルは、互いに毛嫌いし合う犬猿の仲だ。何故、わざわざ嫌いな男にそんな事を頼む必要があるのか。宝塚版ならまだ納得できた部分も、映画版のキャロルは明らかに怪しい。そして、ふと思った。僕が感じたこの違和感を、ヌードルスも感じなかったか…?しかし、その後の展開から見ても分かるように、それは絶対にあり得ない。もし、この時ヌードルスが何かを勘繰っていれば、ロッカーの現金が無くなっているのを見て、あそこまで茫然自失したりはしないだろう。と、その時「マックスと離れたくないなら、一緒に刑務所に入って」というキャロルの言葉から、もう一つ別の可能性がある事に気が付いた。そして、それこそ正に「裏ストーリー」とも呼べる【ONCE ー】の新たな扉を開く鍵となった。前回も書いたように、ヌードルスとマックスは常に同じ事を同じレベルで考えている。禁酒法時代の終焉と共に、マックスは「ヌードルス達を裏切ろう」と考えるようになっていた。では、もし、ヌードルスもまた同様に「仲間達と縁を切りたい」と考えるようになっていたとしたら…。デボラとの関係は、最悪の形で終わってしまった。マックスは「連邦準備銀行を襲撃する」と、無謀な事を言い出している。これ以上、過去の人間関係に引き摺られて危険な橋を渡り、ドミニクのように滑って人生を棒に振りたくない。そう考えていたとしたら…。しかし、どうやって彼らと縁を切る…?ロッカーに隠した共同基金はどうなる…?そこへ不意に舞い込んだのが、キャロルからの「警察への密告」相談である。この時、ヌードルスは考えなかったか。「もし、これで俺だけ捕まらなかったら…?」3人が逮捕されている間に、自分はロッカーの現金を独り占めし、逃亡できるのではないか。そう、本来はマックスが「ヌードルス達を裏切るための計画」として考えた警察への密告を、ヌードルスはヌードルスで「マックス達を裏切る計画」に利用できると思い付いた可能性があるのだ。だから、あの時、彼はキャロルの話に何も答えなかった…。(それでなくとも、人生で最も多感な時期を刑務所で過ごしたヌードルスにとって、マックスの暴走のために再び服役する事など絶対に嫌だったろう)「ヌードルスは親友を助けるために警察に密告した」と思っている人達にとっては、俄かに信じ難い発想ではあろうが、充分に辻褄の合う可能性である。それに「親友を助ける」という大義名分は、そもそもマックスが描いたシナリオの話だ。ヌードルスがその通りに考えて行動した、という証拠はどこにも無い。観客は、ただ物語の成り行きだけで、「ヌードルスは友情に厚い男」だと思ってしまっているのである。では、あの時、実際にあの部屋の中で何が起きていたのか…。襲撃事件の夜へと話を進めよう。皆から離れ、1人で部屋に入り、ドアに鍵をかけるヌードルス。電話をかける際、彼は躊躇(ためら)いの仕草を見せるが、勿論これは警察に仲間を売る(=実際は助ける)事への迷いなどではない。自分の計画(=本当に裏切る)が、上手くいくかどうかの躊躇いである。失敗すれば、自分も警察に捕まるだけでなく、裏切り者だとバレる危険性まである。そうなれば、本当に一巻の終わりだ。電話をかけた以上は、絶対に銀行襲撃に参加してはいけない。(しかし、キャロルから「マックスはあなたを臆病者だと笑っているわ」と言われている手前、自分の口から「行きたくない」とは言えない)そうした不安があったのだろう。しかし、結果的に、ヌードルスのこの不安は杞憂に終わる。何故なら、襲撃に参加して欲しくないのは、マックスの側も同じだったからである。ヌードルスを裏切り者に仕立て上げるためには、絶対に一緒には連れて行けない。何とかして、彼を置いて行く必要があった。もう、お分かりだろう。あの時、あの部屋で進行していた「裏切り計画」は1つではなく、実は「2つ」。ヌードルスとマックスは、期せずして同じ事を企んでいたのである。銀行襲撃に「行きたくない男」と「行かせたくない男」の駆け引き。奇妙な構図だが、これこそセルジオ・レオーネ監督が仕組んだ最大のトリックに他ならない。しかし、2人の思惑が全く同じであるため、観客はそのトリックに気付かないのだ。そして、ヌードルスの「狂ってる」という言葉に激怒した(芝居をした)マックスが背後から殴り掛かり、彼を気絶させる。ヌードルスは、この言葉にマックスが怒り狂う様子をフロリダの海岸で目撃しており、そう言って彼を挑発し、仲違いする事で、襲撃に行かない口実を作ろうとしていたのだろう。当然、それはマックスの側も同じだった。(彼も、病院で口論になった時と同じように、ヌードルスを「お荷物」だと言って挑発している)ここからも分かるように、【ONCE ー】は決して単純な「友情と恋」の物語などではない。ギャングの世界で繰り広げられる、男と男の静かなる「決闘」の物語でもある。マカロニ・ウエスタンの名手と謳われたレオーネ監督だからこそ辿り着けた、究極の表現スタイルと言えるだろう。その後、ヌードルスは事件現場で3人の死体を見る事になる。彼らが刑務所に入っている間に、イブとどこかへ高飛びするつもりでいたヌードルス。ところが、彼らがまとめて死んでくれた事で、計画は予想以上の好結果に終わる。大金を独り占めできる上に、仲間達の復讐に怯えて暮らす心配も無くなったのだ。一石二鳥ではないか。阿片窟でこれまでの緊張が解け、自然に溢れ出たのがあの満面の笑みだったのではないか。その時の彼の喜びがどれ程のものだったかは、想像に難くない。しかし、翌日開けたロッカーの中に、現金は入っていなかった…。放心しながら、独り街を去るヌードルス。次回は、この「裏ストーリー」から見た、35年後のヌードルスとマックスについて語ってみたい。
2020.03.27

一般的に、映画を観た人達の中には「ヌードルス=友情と恋」「マックス=金と権力」というイメージがあるのではないかと思う。そして、ヌードルスよりもマックスの方が賢い、と。それはやはり、あの「警察への密告」と、その後の2人の「人生の落差」に起因するのだろう。マックスは裏切りによって全てを手に入れ、逆にヌードルスは全てを失った。そして、ヌードルスには少年時代の懐かしい思い出と、一生消えない罪悪感だけが残った、と…。しかし、果たして本当にそうだろうか。僕が映画を通して観た限り、そうした印象は受けなかった。僕の目に映ったヌードルスとマックスは、謂わばコインの表と裏。彼らは、常に同じ事を同じレベルで考えている。そして、その時々でどちらの面が上を向くかだけの違いでしかない。確かに、少年時代のヌードルスとマックスは仲が良さそうに見える。しかし、同時に彼らは、出会った頃からずっと「相手を出し抜こう」「相手より優位に立とう」と張り合っており、その様子はさながらライバル同士とも言える。「金」に対する考え方も、2人は最初から全く違う。それが窺えるのは、5人で駅のロッカーへ現金を隠しに行く場面だ。ここでのヌードルスは、マックスの提案に対して明らかに不満そうな表情を見せている。そして、少し間を置いて「賛成だ」と言うのだが、この時の笑顔もどこかわざとらしいのだ。つまり、ヌードルスは好きな時に好きに使えない「共同基金(=共有財産)」という発想に、そもそも納得していなかった節がある。そればかりではない。もし仮に、この時の笑顔があのラストの笑顔と繋がるように描いてあるのだとすれば、この段階で既に彼が何かを企(たくら)んでいた可能性さえ生まれる。マックスが「ロッカーを開ける時は5人一緒だ」と言った時、ヌードルスはこう思わなかったか。「じゃあ、誰かが居なくなった時、その残った金は山分け(或いは総取り)しても良いんだな?」つまり、ヌードルスは最初から「友情」よりも「金」を選ぶつもりだった可能性があるのだ。更に、7年後にヌードルスが出所してからは、彼らの関係はどんどん反りが合わなくなって行く。その様子は、まるで互いの腹を探り合っているかのようだ。この性格の違いを決定づけたのは、やはり7年間という刑務所生活だろう。ヌードルスは、海辺のレストランの場面で、デボラにこう語っている。「服役中、『滑った…』と言って死んでいったドミニクの事が、頭から離れなかった」と。(マックス達の事は、一言も触れられていない)これは、「滑る」つまり「ヘマ(失敗)をする」事がギャングの世界では「死」に繋がる事を、ヌードルスが身を持って体感した事を意味する。それに対し、服役を免れ、仲間達と共にギャングの世界で実績を上げて来たマックスには、そうした慎重さは感じられない。この7年間の差が、2人の生き方にかなり影響している事は、疑いようが無い事実である。慎重派のヌードルスと、上昇志向のマックス。この真逆な性格の2人が、次第に距離を置くようになったのは、当然の事と言えるだろう。加えて、キャロルの存在が、更に2人の関係を拗らせる。そんな両者を、辛うじて繋ぎ止めていたであろう友情の糸。それが極限まで引っ張られ、プツンと切れた瞬間こそ、あの銀行襲撃計画だったに違いない。そして、そのどちらの切れ端にも掴まる事ができなかったパッツィーとコックアイは、裏社会の深い闇へと滑り落ちて行く事になる…。さて、次回はいよいよ物語の核心に迫る、あの銀行襲撃事件について語ってみたい。
2020.03.26
雪組の東京公演も千秋楽を迎え、いよいよ映画【ONCE UPON A TIME IN AMERICA】の解説をする時が来た。あれから1ヶ月以上もあったので、ゆっくりと考えながら書く時間が持てた。おかげで、全問正解とまではいかなくとも、かなり正確に読み解けているのではないかと思う。小池修一郎がこの真相に辿り着いているかどうかは不明だが、少なくとも宝塚ファンにとっては驚愕の展開になるだろう(笑)。僕が宝塚版を観て抱いた疑念というのは、ラストシーンでヌードルスがマックスに向かって言う「諦めるなよ」という台詞に端を発する。25年振りに再会した親友へ、最後にかける言葉としては、あまりに素っ気ないのではないか…。そう感じたのだ。生きていた事を今まで隠していたとは言え、マックスは最後の最後に心の拠り所としてヌードルスに救いを求めている。にも拘らず、ヌードルスは彼の気持ちに寄り添う素振りを見せない。だから、「もしかすると、この言葉はダブルミーニングなのではないか?」と思ったのだ。昨年末の『観劇まとめ』の中で、僕はこう書いた。「頑張れ」という言葉が、逆に相手を傷付けてしまう場合もある。つまり「諦めるなよ」という言葉には、「頑張れ」という表の意味と、「お前は終わりだ」という裏の意味があるのではないか、と思ったのだ。そうしてマックスを突き放す事で、ヌードルスは彼を自殺に追い込んだ…。そう考えた時、僕の中に一つの疑念が湧いて来た。もしかすると【ONCE UPON A TIME IN AMERICA】とは、実は「友情物語」に見せかけた「復讐劇」なのではないか…?確かに、ヌードルスは金もデボラもマックスに奪われている。いや、その後の人生まで奪われたと言っても良いだろう。真相を知って、彼を恨んだとしても不思議は無い。復讐の動機は、充分にある。だから、原作映画がどうなっているのか気になったのだ。あの場面で2人が何を語っているのか、ヌードルスは去り際に何と声をかけているのか…。すると、どうだろう。映画では、「復讐」という言葉が、はっきり出て来るではないか。ただしそれは、ヌードルスからではなく、マックスの口から「復讐させてやる」という表現で。明らかに、宝塚版とは色合いが違う。一方のヌードルスはというと、常に相手を「ベイリーさん」と呼び、他人に思い出話を聞かせるような口調で話している。マックスが挑発したり、懐中時計で感傷に訴えても、ヌードルスは目の前にいる男を、決してマックスと認めようとしない。宝塚版では歩み寄っている部分も、映画では完全に平行線だ。そして、去り際の言葉がこれ。「生涯の努力が無駄にならないように」宝塚版の「諦めるなよ」に比べ、より他人行儀な印象ではあるが、こちらもどちらにも受け取れる言い回しではある。果たして、ヌードルスはどんなつもりで、この言葉をマックスに言ったのか…。この後のごみ収集車の場面と共に、気になる一言だ。気になったと言えば、もう一つ。「前金」として受け取った鞄の行方だ。宝塚版ではヌードルスはこれを返しているが、映画では手ぶらで来ている。場面を遡って探してみても、受け取って以降は一度も登場しない。つまり、(僕の見落としが無い限り)ヌードルスはあの大金を自分のものにしている、という事だ。そして、最後に見せるあの謎めいたヌードルスの笑顔である。あの表情が意味するものは何なのか…。何の意味も無く、ごみ収集車のシーンから繋いであるとも思えない。僕の中で、疑念と違和感が広がっていった。これが、僕が原作映画を最初から観てみようと思った切っ掛けである。では、次回からは、いよいよ作品の本質に迫って行こう。先ずは、ヌードルスとマックスの性格について考察する。
2020.03.25
新型肺炎の影響により、公演が一時中止になる憂き目に遭いながら雪組が千秋楽を迎えた。作品自体の素晴らしさに加え、望海風斗と真彩希帆の退団が発表された直後だった事もあり、ファンにとっても組子にとっても様々に思いが残る公演となった。それでも、タカラジェンヌ達に感染者が出なかったのは、せめてもの救いだろう。(個人的には、劇団側とファン側とがしっかり協力し合えば、これ以上の公演中止は避けられるだろうと見ている)【ONCE UPON A TIME IN AMERICA】は、正に望海風斗の集大成とも呼べる作品だった。勿論、彼女の代表作と言えば【ファントム】を始め幾つもあるのだろうが、少年期から青年期、壮年期と、一つの作品で望海風斗の男役としての魅力を余す事なく堪能できるのは、【ONCE ー】を置いて他にないだろう。彩風咲奈の格好良さも、こちらの方が際立っていて好きだ。望海と真彩に関しては、本人達の実力は言うまでもなく、組子達の実力まで向上させた功績も大きいのではないか。勿論、前任の早霧せいなにその才が無かったとは言わない。しかし、それは飽くまでも「宝塚内」に限っての話だったと思う。その「宝塚」という枠に収まりきらないスケールを持つ望海と真彩がトップコンビに立った事で、組子達の中に新たな視点が生まれた。それが雪組を変えたのではないかと思う。少なくとも、(早霧と比較するつもりはないが…)僕はこういう雪組を観たいと思って待っていた。お披露目公演の【ひかりふる路】から今回の【ONCE ー】まで、望海と共に成長する組子達の姿を見届けて来られた事に感謝したい。サヨナラ公演【fff -フォルティッシッシモ-】でも、更に進化した雪組を見せてくれるはずだ。チケットが1枚でも手に入る事を祈りたい。さて、25日(水)から予定していた映画版の解説だが、花組と星組の初日幕開けが27(金)になる事を受けて、こちらの更新も30日(月)からに変更した。いや、別に深い意味は無いのだが、せっかくの祝福ムードに割って入らない方が良いかと思って。(慌てて更新するものでもないし…)そして、ここで予め断っておきたい事がある。それは、来週からお届けするものが、飽くまでも原作映画の解説であり、宝塚版と比較するものでもなければ、小池修一郎の解釈を否定するものでもない、という事だ。この解説を載せるにあたり、ネット上の全ての感想や解説をチェックした訳ではない。しかし、恐らく僕の解説は、これまでのあらゆる解釈や仮説に風穴を開け、作品に全く新たな視座を提示する事になるだろうと自負している。勿論、(これは前置きにも書いてあるが…)僕は自分の書いたものが「全問正解」だと豪語するつもりはない。寧ろ、この解説を起点として、また新たな解釈や視点が様々に生まれて来る事を期待している。これは、そのための布石だ。それだけに、宝塚ファンには、「原作映画の美しい部分を丁寧に抽出し濾過して描いたものが小池修一郎バージョン」であり、「残ったサスペンスの部分を使って再構築したものが僕の解説」であると区別してもらいたいのだ。僕の解説には、ロマンスやノスタルジーの要素は一切無い。(原作映画を観ていない人は、混乱するだけなので読まない方が良いだろう)それらを了解した上で、「そんな馬鹿な!!?」と驚きながら楽しんでもらえれば幸いだ。記事は(何の不具合も無ければ…)、毎朝9時に自動更新される。とその前に、明日は20時から七海ひろきの「HIROKI NANAMI 1st ANNIVERSARY TALK&LIVE」がYouTubeとLINEで無料配信されるので、観なければ。彼女は退団直後から精力的に活動し、公式LINEでも頻繁に連絡(?)をくれるので、退団から随分と経ったような気になっていたが、実はまだ1年なのだ。先日の『ちちんぷいぷい』も『バラエティ生活笑百科』も、凄く楽しく観させてもらった。意外に、バラエティも得意…?明日海りおも、ディズニー映画【ムーラン】の吹替えが決まり、順調にスタートを切った。宝塚では同期でも、声優としては先輩になる七海ひろきから、何かアドバイスを貰ったりしたのだろうか(笑)。そして、今日は月組トップ娘役・美園さくらの退団が発表された。大劇場ではまだ2公演しか観ていないせいか、随分と早い気がしてしまう。(月城かなととコンビを組むとばかり思っていたが…)しかし、決まってしまった以上、珠城りょうと共に笑顔で最後の日を迎えて欲しい。それまで、全力で応援するぞ!!☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆
2020.03.23
久し振りにブログでも更新しようかと思っていた所に、珠城りょうの退団が発表された。完全に不意打ちだ。しかし、ファンにとっては「遂に」でも、本人にとっては「ようやく」なのかも知れない。恐らく、彼女自身はもっと早い退団を望んでいただろう。彼女は【I AM FROM AUSTRIA】の公演時、インタビューでこんな事を言っている。「トップの人間は、個人的な感情で進退を決められない。 色々な葛藤がある」思えば、研9という早さでトップに就いてから、退団まで8公演。周りから見れば、恵まれた環境を歩いて来たように感じられるが、果たして本人にとっては幸せな4年間だった、と言えるかどうか…。彼女はずっと葛藤しながら、ここまで来たのではないかという気がする。そんな彼女の姿を見るにつけ、僕にはいつも思い出す言葉があった。尊敬すべき幸福な人は逆境にいてもつまらぬ事はくよくよせず心配しても始まらない事は心配せず自分の力のない事は天に任せて自分の心がけをよくし根本から再生の努力をする人である ― 武者小路実篤 ―不器用ながらも、常に真っ直ぐな気持ちで闘い続けたトップスター、珠城りょう。サヨナラ公演にはまだ日があるが、今はこの言葉を彼女への賛辞として贈ろう。タカラジェンヌとしての本懐を「誇り」だけではなく、「幸せ」という言葉で語れるよう、組子達と残された日々を楽しんで欲しい。
2020.03.17

今は、ただ静かに再開(再会)の日を待ちながら…。宮本浩次【夜明けのうた】2020年夢みる人 私はそうdreamer明日の旅人さ月の夜も 強い日差しの日も歩みを止めない忘られぬ思い出も 空のこの青さも全部 全部 この胸に抱きしめたい私の好きなこの世界時に悲しみに 打ちひしがれてふと 忘れた振りしてた涙が頬を 伝うよでも 町に風が吹き明日が私を誘いに来るあゝようこそ この町へ私の住む町へあゝ夜明けはやって来る悲しみの向うにあゝ私も 出掛けよう私の好きな町へあいに行こう 私の好きな人に夢見る人 私はそうdreamer明日の旅人さ悲しい時も 嬉しい時でも歩みを止めない君と二人歩いた 色づく並木道光の中二人 包まれこのまま 永遠にでも 町に風が吹き二人を明日へと誘うあゝさようなら私の美しい時間よあゝ夜明けはやって来る優しさの向うにあゝ私も 旅立とう新しい明日にあいに行こう 新しい私にあゝ 町よ 夜明けが来る場所よそして 私の愛する人の 笑顔にあえる町よあゝこころよ 静かに燃え上がれ風が誘うその先の新しい明日にあいに行こう 未来の私にあいに行こう 私の好きな人にあいに行こう 新しい世界に
2020.03.12

「ショー【Ray -星の光線-】の感想は、3月3日の鑑賞後に」と書いた翌日に、公式LINEで新型肺炎の影響による休演が発表され、何となく書くタイミングを失ってしまった。加えて、とりあえずで書き始めた映画【ONCE UPON A TIME IN AMERICA】の解説がかなり好調に進んだ事も、感想に気が回らなくなっていた理由だ。最近、ようやく解説に目処が立ったので、改めて星組公演について書きたいと思う。記憶が曖昧なので、大味な感想になっているがご容赦を。因みに、映画の解説は「前置き」を含めた全5回を、3月25日(水)から5日連続で更新予定だ。予告通り、全く新しい【ONCE ー】の世界をお見せできると思う。それだけに、今は何より無事に公演が再開される事を祈っている。さて、前回の記事でも書いたが、星組ショー【Ray】はベテランから若手までバランス良く見せ場があり、その上でトップコンビの歌とダンスを堪能できる、非常に理想的な構成となっていた。宙組【アクアヴィーテ!!】のように何かに特化しているわけではないのだが、どの場面もジェンヌの個性と演出がピタリと嵌まっている感覚がある。ロケットの演出も面白く、「おや?」と思っている内に始まり、終わったかと思ったら、まだメンバーが舞台に残っていて、また「おや?」となって…(笑)。こういう変則的な構成も、飽きさせない要素の一つだろう。【眩耀の谷】が重たい雰囲気だったせいか、【Ray】で見せる礼真琴の煌めきは格別だ。芝居で抑えていたものが、一気に解放されている心地良さが、こちらにも伝わって来た。トップスターとしての気負いよりも、「自分が舞台で表現できる最高のものを観客に届けよう」という気持ちが、良い方向に影響しているのだろう。その真っ直ぐさが、組全体にも浸透している事が、観ていて分かる。星組は、今よりもっと良い組になるだろう。瀬央ゆりあも、更に頼もしさを増していた。前回公演の感想で「歌声に艶が欲しい」と書いたら、今公演ではさっそく改善が見られた。恐らく、成長のスイッチが入り、吸収力が高まっている時期なのだろう。轟悠との共演を通して、まだまだ進化しそうだ。愛月ひかるはダンディさで、綺城ひか理は逞しさで、華形ひかるは華やかさで、それぞれ場を盛り上げた。生え抜きの天華えまからは、持ち前の明るさに加え、芸事に対する貪欲さが感じられた。芝居でも汶族の若者を熱演していたし、これからも泥臭く男役道を邁進して欲しい。せおっちの時と同様に、何かの切っ掛けで一気に化けそうな吉兆が見えて来た。ぴーすけ、もう少しだ!!☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆極美慎は随分と凛々しい顔付きにになって来たし、天飛華音はARIに似た爽やかさと伸びやかさで魅せてくれた。雪組に続き、星組も闘える集団になりつつある。今後を楽しみに見守りたい。ただし、怪我や病気だけはしないように。そして、個人的に興奮が最高潮に達したのは、美稀千種のソロ場面だ。どうやら僕は、彼女を見ると乙女モードが発動するらしく(笑)、今回も心の中で「キャーッ、美稀さ〜ん!! ♡」と黄色い声を上げてしまった。フッ、俺を虜にするとは罪な人だぜ!!(〃ω〃)y-~~~♡ありがとう!!次回の観劇は、4月7日(火)の花組【はいからさんが通る】だ。ただ、他の週もまだ若干だがチケットがあるようなので、宝塚の上演状況を見ながら3月中の予定を決めたい。
2020.03.06

「あかん、雛祭りに間に合わへんがなッ!!」と言っているかどうかは不明だが(笑)、使われなくなった雛人形たちに第二の人生を送ってもらおうという趣旨の『福よせ雛プロジェクト』。持ち主の「雛人形を手放す(=捨てる、処分する)」という罪悪感を和らげると共に、不要となった人形たちの再活用を目的として始まったらしい。結構、皆さん引退後は自由気ままなようで…(笑)。
2020.03.03
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