2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
全14件 (14件中 1-14件目)
1
◇ 3月24日(火曜日); 旧二月二十八日 戊辰(つちのえ たつ): 大安、社日(其の二)先日行われた東京マラソンは抽選に当たらないと走れない程の盛況だった。ボストンマラソンやホノルルマラソンに負けない、一般庶民も参加できるスポーツの祭典を日本の首都で開催しよう、というのがオモテの話。実は有事の際、首都交通網に対して交通規制を行う為のデータ収集と予行演習だというのがウラの話なのだそうだ。朝の走者一斉スタートから、最終完走者がゴールするまでは7時間程もある。なる程これほどの長時間にわたって、首都の主要道路の交通を規制でき、又徒に人心を刺激しないで済む口実は、都民マラソン位しか無いだろう。慢性的に混雑する首都の地上交通を緩和する為に、地下鉄路線網を整備拡充して行くというのはオモテの話。実はこれも首都有事非常の際の特に軍事物資の搬送と、(主として)要人の移動手段を確保する為というのがウラの話。なる程、新しい地下鉄路線程地下深くまで延々と降りなければホームにたどり着けず、これなど核攻撃を想定しての事かと思えなくもない。結果今や東京の地下鉄は無慮13路線!おかげで東京に住んだり東京に仕事を持つ者にとってすら、路線図が無ければ何線のどの駅まで乗れば良いのかさっぱり分からない始末だ。中でも殊に有楽町線は、自衛隊の駐屯地と防衛省、永田町を結び、重要駅の構内は戦車や装甲車がそのまま走れるように作ってある(のだそうだ)。永田町駅には首相官邸と国会議事堂に直結する秘密の通路が有る。そういう話も以前聞いた事がある。急速に悪化を続ける不況のせいで企業にも政府にもお金が無い。だから派遣切りも人員削減も給与カットも致し方ない、というのはオモテの話。実はこういう中でも、お金は有る所にはだぶつく程有る、というのがウラの話。国や中央銀行、そしてBIS(国際決済銀行)には巨額の資金留保がある。然しこういうお金は国会審議などを必要とするオモテの経路では還流出来ない。お金は流れが淀むと腐る。動かすことによって、初めて利益を生み社会を潤す事が出来る。これはオモテもウラも変わりはない。然し上で触れたお金はオモテを流れないから、これが流れる事によって潤う「社会」はいわばウラであり、普通に我々が暮らす社会より遥かに淫靡で、限定された少ない構成員によって形成されている。この「社会」には政治家(の、特に政権与党の一部)、大企業(の一部。こういう社会には中小零細企業などお呼びではないのです)、そして大金融機関(の大部分)が所属しているらしい。彼らはこの世界を牛耳るものであると同時に受益者でもある。然しこの世界での実際の働き手は彼ら自身では無く、金融ブローカーと呼ばれるいわば仲買人である。銀行はこういう連中を介在させることで口を拭う。彼らは窓口となる銀行の委嘱を受け、原資を小口(とはいえ庶民からすれば見たこともない額)に分割し、それぞれを資金需要を抱えた大企業や様々な団体に回して、やがて回収する。つまりは「運用」の一切を取り仕切る。金融ブローカーは従ってやはり受益者あり、それと共に資金還流のLaundrymanとしての役割も担っている。首都圏には約三千人にも及ぶLaundrymenが蠢動しているそうだ。こういうウラの世界には従って、お金はだぶついているものらしい。然もこれは明示的に「違法」ではない。形式上合法。然し道義的にはどうかは、どうも藪の中で分からない。(そういう仕掛けになっている。)オザワ君は(恐らくは)大変な苦渋の末、辞任を否定し、民主党代表として続投される意向を記者会見で発表されたが、ここで取り沙汰される「政治資金の不正記載」に相当する金額はせいぜい3千万円程度。最も遅くになっても今年の9月には行われるはずの総選挙に向けては、遥かに巨額の金が政権与党を中心に動いている事を睨めば、この程度の金で嵌められたと臍を噛む思いもあるのだろう。これは、たまたま僕自身も極々端っこの方でトラの尾を踏んでしまったような気分のある、ウラの世界のウラの話。北太平洋地域の安全保障の一翼を担う為には、我が国もミサイル迎撃システムの導入が必要だ。然も兵器システムや管制システムは、一旦有事となれば米軍との互換性が必須だ。日本独自の開発によるものだと、いざという時に他の国との連携が取れず、結局上手く機能しないで血税の無駄になる。そう言って兵器を米国から調達したのはオモテの話。本当は米国への経済協力に過ぎないのはウラの話。北朝鮮から信頼性の低いボロロケットが飛んできても、ちゃんと間に合うように迎撃出来ないかもしれないというのもウラの話だったが、正直な自民党幹部が「そんな事しても当たりっこない!」と本音を漏らしてしまい、防衛大臣まで「自信がない」などと言っちゃったものだから大問題になっている。どうも正直や素直はウラの話やウラの社会の大敵で有るようだ。僕自身も他の大多数の人も、親には「ウラオモテの無い人間になりなさい」と云われ、学校でもそう教わってきた。学校での良い子ほどそれを素直に信じて生きてきた。ところが社会に出るとその日から逆を体験するようになる。正直は実は「バカ」と同義であり、誠実は「甘い」と云われ、ウラオモテが無いと融通の利かない「堅物」だと云われる。大半の元良い子はこれに順応して行き、それを生きるための方便として我が物にしていく。若者や後輩に、「君はまだまだ若いね」とか、「人生や社会はそういうもんじゃ無いんだよな」などと訳知り顔に言うのは、自らの苦い挫折を糊塗するための方便である。これに徹底して順応できるか、或いは逆に元々本性として無節操なのを学校時代は隠していたような連中は、実社会というところではどうかすると成功者の地位に就く。中途半端にしか折り合いが付けられないと終生中途半端なままか、悪くすると大抵落伍者の地位にまで貶められてしまう。こうなると一体親の薫陶とか学校の教育、或いは品格とか倫理というものは、むしろ実際においては「反社会」的なものでしかないのか?などと考え込んでしまう。「ウラの話」は決して相手の目を正面から見据えてはしない。常にハスに構えて口跡も曖昧に、周囲を憚るように思わせぶりにしかしない。これも学校の時には良く注意されたことだ。「ちゃんと人の目を見て話しなさいっ!」つくづく思うことだが、子供に教えている事を大人自らが恥じなければならないような国は、これはもう滅びますな。
2009.03.24
コメント(0)
◇ 3月24日(火曜日); 旧二月二十八日 戊辰(つちのえ たつ): 大安、社日今日の暦の欄に記した「社日」は「しゃにち」と読む。社日とは雑節の一つである。雑節は、二十四気や五節句などの暦日の他に、季節の節目を刻むために設けられたもので、社日を含め全部で九つある。他の八つは、節分、彼岸、八十八夜、入梅、半夏生、土用、二百十日、二百二十日である。これらの内「社日」と「半夏生(はんげしょうと読む)」以外は我々には今でも割合に馴染みが深い。社日は春の社日(春社)と秋の社日(秋社)の二度あり、それぞれ春分又は秋分に最も近い戊(つちのえ)の日に定められる。今日は戊辰だから、従って春社となるのである。因みに「つちのえ」というのは、五行(世界の基本要素としての木、火、土、金、水)の内「土」に関わり、「え」は兄で陽性(「つちのと」の「と」は弟で陰性)とされる。従って土の神様を晴れがましく祀るには相応しい日なのだろう。この日には産土神(「うぶすなかみ」と読む。我々それぞれが生まれた土地の守り神様の事だ。)をお祀りする。つまり本来は自分の産土神に参拝し、春には五穀の種を供えて豊作を祈願し、秋にはその年の収獲に感謝するのが農業国家日本のしきたりであった。しかし今や一億総流浪の時代である。僕なぞわざわざその為に岐阜にまで出かける事は大変だし、よしんば出かけたところで自分の生地をテリトリーとする産土神の祠が見つかる保証は無い。だから棲家近くの神社であっても、或いは仕事の途中でたまたま通りすがりの神社に詣でても良かろうと思う。お稲荷さんとか戦没者の鎮魂神社とか特定の「専門分野」を担当する神社で無ければ何処でも良いだろう。その辺は日本のヤオヨロズの神様は融通無碍。お詣りする側の気持ちさえちゃんと有れば固いことはおっしゃらないだろうと思う。特に春の社日には、この日に酒を呑むと耳が良くなるという伝習がある。これを治聾酒(じろうしゅ)というそうだ。これも特別なお酒があるわけではなく、日本酒でも焼酎でもウィスキーでも、或いはビールでもワインでも良いのだそうだ。春宵一献。今日戴くお酒に際しては、ちょっと社日のことを思い出して、「耳が良く聞こえますように」とお祈りになるのも宜しかろうと思う。それにしてもこの治聾酒、アソー君やオザワ君などにもちょっと飲ませてみたい気がする。
2009.03.24
コメント(0)
◇ 3月23日(月曜日); 旧二月二十七日 丁卯(ひのと う): 仏滅、彼岸明けお彼岸が明けたら再び寒くなった。日本列島周辺の等圧線は再び縦縞模様に変わり西高東低の冬型に戻った。昨日気象庁のお役人から晴れがましくも開花宣言を賜った靖国のソメイヨシノも、今日は訪れる人も(恐らくは)少なく、俄な寒風に縮こまっていることだろう。移り変わりの早いのは秋の天気が代表のように云われるが、春の天気も同様である。ところで女性の心の移ろい易さを喩えて「女心と秋の空」などと云うが、元々これは「男心と秋の空」であったらしい。「男心と川の瀬は一夜にして変わる」などとも云われたようだ。しかし、これはご維新前の江戸時代の武家社会でのこと。当時の武家では、女性は他家に嫁せば表の存在ではなくその家の「奥」であり、○×家のY染色体の継承責任を負わされた存在であった。だから自らの意のままに考えや生き方を変えるなど慮外の話であった。(武家以外の町人の世界では当時も男女同権で、むしろ女性の側から三行半を付きつけることも珍しくは無かったらしいけれど。)それが、徳川政権が瓦解して文明開化の新時代になった。これは同時に武家階級の没落であり、新興富裕層(主に士農工商の最下層をその中心勢力とした)の台頭であった。何しろそれまでの最上級と最下級の身分階層が猛烈にシャッフルされたのである。それに伴い女性の意識も大いに変革した。「天璋院様のご祐筆の妹のお嫁に行った先のおっかさんの甥の娘」であることを、後生大事に心の拠り所にして生きるような旧士族の女性を尻目に、紫の袴を翻し短靴を履いて颯爽と女学校に通い、大人(つまり目上)の男に対して「随分ね。よくってよ。知らないわ!」などとしゃらっと言い放てる新女性が輩出した。そうなると移ろい易くも測りがたいのは男心ではなく女心と変じたのである。(漱石の小説に出てくるのは全てこのテの、男にとって謎めいた女性ばかりだ。)以来「女心と秋の空」が主流となった訳。これはいわば男の側からの恨み節でもある。だから、秋の方は女心に譲って、春は男心に復活の「栄」を授けることにして、「男心と春の空」などと言いふらしてみてもいいかもしれない。(今更という気もするけれど。)閑話休題。「いいちこ」という焼酎のブランドがある。九州大分の三和酒類という会社が出している「下町のナポレオン」という愛称の麦焼酎だ。暫く前からDVDに録画したドラマを再生すると時々このCMソングが流れて気になっていた。唄っているのはビリーバンバンだが、男性二重唱のハーモニーが美しく何となくこちらの琴線を刺激する。画面には「BERNINA」という表示が出るので歌のタイトルがBERNINAかと思っていたら、これはスイス鉄道を走る急行列車の名前なのだそうだ。(いいちこのCMは此処)そうなると全曲が聴きたくなって捜してみたら、ユーチューブのHPにちゃんと見つけることが出来た。「また君に恋してる」というタイトルで、CMソングを土台にしてリメークしたらしい。ハーモニーはやはり期待通りで美しい。♪♪朝露が招く光を浴びて 初めてのように触れる頬掌に伝う君の寝息に 過ぎてきた時が報われるいつか風が散らした花も 季節巡り色を付けるよ『また君に恋してる 今までよりも深く未だ君を好きになれる 心から』♪若かっただけで許された罪 残った傷にも陽が滲む幸せの意味に戸惑う時も 二人は気持ちを繋いでたいつか雨に失くした空も 涙拭けば虹も架かるよ『くりかえし』♪♪ムムム、なんと純情で清らかな。こうなるとやはり移ろい易いのは男心じゃなくて女心だな。因みに同じCMソングは坂本冬美も唄っているが、これはやはりオトコの歌だ!
2009.03.23
コメント(0)
◇ 3月22日(日曜日); 旧二月二十六日 丙寅(ひのえ とら): 先負、三りんぼう、NHK放送記念日今日が放送記念日とは、84年前の1925年(大正14年)に、日本で最初にラジオ放送が行われたことに由来する。日本のラジオ放送の歴史が百年未満とは少し意外だ。何となくもっと長いという気がしていた。最初のラジオ電波は東京の芝に在ったNHK東京放送局からの試験放送によるものだった。家にテレビが来たのは、僕が中学生の時だったと記憶する。僕ではなく妹が何かしたお祝いにと云う事で、父が教え子のやっていたオリオン電気という店から購入した。それまでは僕にとっては放送というのはラジオ放送でしかなかった。ラジオの放送は良く局符号の名乗りを行った。これはコールサインといって、NHK名古屋のコールサインはJOCK。日本で最初にラジオ電波を飛ばしたNHK東京放送局のコールサインは、想像通りJOAKだ。そうなると、JOBKは大阪放送局だなと思ったらその通りだった。この3局は全て同じ大正14年の開局だ。今ではコールサインなどに注意を払う人も少ないだろうが、昔は「こちらはJOCK。NHK名古屋放送局です。」でその日の放送が終了し、テレビの場合には君が代の演奏と共に日の丸の旗が翻ったように記憶する。さて、となるとJODKは何処だろうと思ったら、福岡でも札幌でもなく朝鮮のNHK京城放送局のコールサインだったそうだ。JOEKは欠番だそうだが、これはやはり当時朝鮮と並んで日本の統治領であった台湾のために取ってあったのかもしれない。更には、JOFK 広島、JOGK 熊本、JOHK 仙台、JOIK 札幌、JOJK 金沢、JOKK 岡山、JOLK 福岡と続いて、JOZK 松山まで至る。途中JOMK、JOWK、JOYKは何故だか欠番である。これら22局の設置は松山を除き、1930年代の始めまでに完了している。一番遅い松山放送局でも1941年だ。この時代、日本は軍部主導の下で来るべき戦争に向けて突き進んでいた。その中での放送網の整備は、庶民にとっては娯楽が増えるという楽しみを以って迎えられたが、国にとっては軍事的な急務だったのだろう。今日行われた東京マラソンも、首都有事の際の広域交通規制実施のための予行演習だという話もある。世の中の事は中々額面どおりにとっているだけには行かないのである。
2009.03.22
コメント(0)
◇ 3月21日(土曜日); 旧二月二十五日 乙丑(きのと うし): 友引ついに今日東京でも桜の開花宣言が出た。遥かに南の長崎でも、今日桜の開花宣言が出たそうだ。東京の開花宣言は昨年より七日早いそうだ。だからといってすぐ地球温暖化と結びつけるのは早計だ。それより今年の日本の夏は又々大いに暑くなる恐れがある。その方がイヤだ。ちょっと前のブログに「桜開花の標準木がどの木か分からない」と書いた。今日たまたまお昼頃のテレビニュースで、靖国神社での開花宣言の様子を観られたので、標準木の大体の在り処が分かった。名札が付いているかどうかは未だ知れない。それにしても、開花宣言の瞬間の様子は面白かった。靖国神社境内の一角に、十数人のオジサンやオバサンが標準木と思しき桜の木を遠巻きにしている。木のすぐ傍には地味なスーツをしっかり着込んだおじさんが、ポツポツと咲き始めた花をねめつけている。そしてこのおじさんは、やおら姿勢を正すと、「開花が五輪を数えました。これを以って開花宣言と致します。」とおごそかに(でもなかったけれど)おっしゃった。その瞬間周りのオジサンオバサンからは自ずと歓声が上がり、拍手が起こったのである。この方は歴とした気象庁のお役人であるそうだ。靖国神社近くに住む知人によれば、既に何日か前からこの木の周りには人が群れて、テレビカメラも待機しており、「一体何事だろう?」と思っていたそうだ。気象庁のお役人も、神田橋近くの庁舎から此処まで出張ってきて、蕾の様子を連日しっかり見張っていらしたのだろう。何しろうっかり見逃しでもしたら、職務怠慢の廉で叱責を受けるかもしれない。「実は上の方の枝には、もう花が開いていたのにあの人は気付かなかった。」と苦情が来るかもしれない。或いはネットでチクられるかも知れないのだ。そしてやっと今日、うららかな晴天の日中に、衆目の集まる中で桜の開花を晴れがましくも「公式」に宣言することが出来て、彼の任務も大過なく無事終わったのである。まことにご同慶の至り。ご苦労様でした。ところで、あぁいう見張りは夜も続けるのだろうか?それとも桜の蕾は日中しか開花しないのだろうか?それとも日本のお役所の性向から推測するに、「毎年3月1日以降の日付であって且つ午前9時00分から午後5時00分の範囲内で、省令によって指定されたソメイヨシノの標準木において5輪以上の蕾の花弁の全てに90度以上の開展を認めた場合に、これを当該管内における桜の開花と認定し遍く布告する。」と決められているのであろうか。これは別に冗談だとは必ずしも片付けられない。現に「春一番」については、ちゃんと気象台の規則で定義が決められている。曰く:「立春の日から春分の日までの期間内において、日本海を進む低気圧に向かって、南側の高気圧から10分間平均で風速8m/s以上の風が吹き込み、前日に比べて気温が上昇した場合に、これを春一番と認定する。」上の条件を満たさない場合には、幾ら春の南風が吹いても、気象庁は春一番とは認めないのだ。何だか馬鹿馬鹿しいけれど、お役人が真面目な顔付きで宣言し、取り囲んだオジサンオバサンが喝采し、それをテレビカメラが映しているのだ。このご時勢に長閑でいいなぁとも思う。しかし若し桜に意識というものがあったら、こんなにも注目されたら恥ずかしくも緊張しただろうな。それにしても、開花宣言の根拠は一輪ではなく五輪の開花なのだな。これは今まで知らなかった。
2009.03.21
コメント(2)
◇ 3月20日(金曜日); 旧二月二十四日 甲子(きのえ ね): 先勝、春分の日「カタカナになった外来語」から始まって、「バイキング料理」、「ヴァイキング部族」と、ブログ思考の連鎖は続く。釈迦楽教授は、「ところで歴史上におけるヴァイキングの位置というのはもう少し注目されるべきで、アメリカに関しても、最初にこの大陸に移ってきたヨーロッパ人はヴァイキングだという説があり、アメリカ文学史をヴァイキング時代から考えるべきだとおっしゃる方もいます。」などとメール(コメント)を下さった。なる程アメリカ文学史の世界にもヴァイキングに関わる議論があるのか。ヴァイキングがノルウェーの荒海を越えて「海賊狼藉」の歴史が始まったのは8世紀頃だそうだ。きっかけは、その頃気候が良くなり、ヴァイキング族の人口が爆発した。そこで新たな耕作可能な地を求めて、紅毛碧眼屈強な連中が荒波の海に乗り出して行ったのだそうだ。当時ヴァイキングの間では一夫多妻制が広く行われており、フィヨルドの狭い耕作可能の土地を所有する男共が何人もの女性をも所有していた。血気にはやる若者(男子)には中々女性が回って来ない。そこで彼らは、自らの遺伝子を残すためには、荒海を越えて新しい土地と♀を求めざるを得なかったのだ。故郷を後にしたヴァイキングの若者たちは先ずスコットランド北部に到達したらしい。そして更にアイスランド、グリーンランドにまで至り、それらの土地には彼らによる襲撃と定住の証拠があるそうだ。彼らは更に進んで、北米にまで到達したことは確かだが、北米大陸に定住した証拠はまだ見つかっていないそうである。だから、彼らがアメリカ文学史に影響を与えたかどうかは未だ何とも云えないことになる。しかし、彼らの遠征に関する伝説くらいは当時の北米に住んでいた部族(やはりモンゴロイドだったのだろうか?)に伝わりその後も様々に伝承されて、結果アメリカ文学史に何がしかの痕跡を記す結果になったのかもしれない。当時のヴァイキングの宗教は(北欧の原宗教は押しなべてそうだったが)多神教で、主神にオーディーンを戴きその下にヴァルキュリウルという戦争に関わる半神がいた。この神の名は英語ではValkyr (ヴァルキァー)、ドイツ語ではWalkyure(ヴァルキューレ)と綴り発音する。もうお分かりだろうが、日本語(の発音)では「ワルキューレ」だ。ワーグナーの「ニーベルンゲンの指輪」に出てくる9人の女神である。ワルキューレは戦場を馬で駆け巡り、勇敢に戦って斃れた死者の中から天国(ヴァルハラという楽園王土)に迎えるのに相応しい者を選び取ったという。ヴァイキングの若者たちは、「土地と女」を求めてスコットランドを始めとするヨーロッパの沿岸を侵した。彼らは侵略戦争で討ち死にしても、その勇敢さによって極楽王土(ヴァルハラ)に往生できると信じているのだから戦死など畏れない。それに相手は異教の神(キリスト)を戴く異教徒だ。信じる神が違う異教徒間の戦いは理非曲直の域を超え、異生物間の殲滅戦にも等しくなるのは、現代でも未だに事実である。ヴァイキングの襲撃略奪における暴虐苛烈さには凄まじいものがあったろう。襲われた土地の修道院(当時はキリスト教の修道院は外敵に対する砦でもあった)の修道士や村人などは、とても彼らの敵ではなかった。男共は殺され、女と財宝は掠奪された。これが、人々の記憶に染み付いて、ヴァイキング=海賊=暴虐無残という伝承として残ったということのようだ。ところで、「ヴァイキング」というのは元々北欧の武装船団の名称であったのが、後にその舟に乗って襲撃してくる部族名に転化した。当時のスカンディナヴィアには、攻撃的なヴァイキングとは別に豊穣な土地を求めて家族単位で移住していった人々も数多く居たことが分かっている。こういう人達は北大西洋の島々へ移住して行き、やがては北米にまで定住地を求めて、その地にスカンディナビアの伝承を根付かせたかもしれない。彼らはヴァイキングよりも穏やかで、派手な恐怖伝説を残さなかったろう。とはいえ、原住民にとっては侵入者には変わりは無いから、お互い和気藹々とお茶でも共にしながら暮らしたとは必ずしも思えない。しかし、原住民と移住民それぞれの住居跡(建物の形や構造で区別出来るそうだ)が隣り合って並んでいて、しかも殺戮や掠奪の証拠である焼け石や大量の焼け炭の痕跡が「見つからない」遺跡がかなり残っているのだそうだ。北大西洋から北米にかけて、略奪者としてのヴァイキング以外に、比較的「平和裏に」家族単位で移住した人々が居た事は、古びた遺跡以外にどうして分かるのだろうか?ここに遺伝子学、つまりゲノムが登場するのだ。人間の性別を決定するのはY染色体だ。人間には23対46本の染色体があるが、その内の一対だけが男と女で異なっている。所謂XX染色体とXY染色体だ。この対がXX染色体だと女性、XY染色体だと男性である。このY染色体は「オトコ」を決定するものだと云うことになるが、これは男子間でしか子孫に継承されない。だからこのY染色体を追跡すると、特定の男子の家系を遡ることができる。一方遺伝子には又ミトコンドリアDNA(以下略してmtDNAと書く)というものがあり、これは母親のみから子供に継承される。このmtDNAを追跡していくと、人類の系統を母系で辿ることができる。これに係る有名な本が「イブと七人の娘たち」(ブライアン・サイクス)である。これによると、ヨーロッパの全女性は旧石器時代の七人の女性の子孫であり、更には全世界の女性は全てアフリカの一人の女性を始祖とすると推定できるのだ。所謂「ミトコンドリア・イブ」である。さて、若しスカンディナヴィア人の北大西洋地域への進出がヴァイキングによるものだけであったとしたら、戦闘用の小さなヴァイキング船には女性は乗せていくことは無いから、彼らが到達した土地々の人々にはスカンディナヴィア人(ヴァイキング)のY染色体だけがその「痕跡」として残される筈である。それに対して、家族単位での移住に際しては、当然女性も一緒に行くわけだから、スカンディナヴィア由来のmtDNAも現地で継承されていく。実際こういう調査はポリネシア諸島などで行われ、住民の移動の歴史や経路を検証するのに利用されている。その結果トールヘイエルダールの有名な仮説も変更しなければならなくなったそうだ。同様の調査を北米の人々に対して行えば、アメリカ文学史におけるヴァイキング(スカンディナヴィア人)の影響如何に関しても何か面白い傍証が得られるかもしれないという気がするのだ。(勿論そういう追跡研究の作業は膨大であり、「雑音」や他のあらゆる可能性を注意深く周到に分別していかなければならないから、僕が此処に書くような簡単なものではあり得ない。)アメリカ文学史の解明にゲノムが貢献できるとしたら本当に面白い。学問の発展の歴史は同時に専門化と細分化の歴史でもある。その結果それぞれの領域は相互に没交渉になってしまう。特に理科系の学問と文科系の学問の間の障壁は高い。だから、上のような「学際交流」で何がしかの具体的な成果やヒントが出てくれば、今後の人類の知恵の進化のためにも面白く且つ有意な事だろうと思うのである。※ 上に引いたブライアン・サイクス(Brian Sykes)はオックスフォード大学の人類遺伝学の世界的権威。一般向けの「イブと七人の娘たち」(The Seven Daughters of Eve)の他に、Y染色体の追跡を取り上げた「アダムの呪い」(Adam’s Curse:大野晶子訳でソニーマガジンズから出版 – 2005年)が出ており、どちらも知的好奇心をいたく満足させてくれる。
2009.03.20
コメント(0)
◇ 3月19日(木曜日); 旧二月二十三日 癸亥(みずのと い): 赤口、下弦の月日本のカタカナになった外来語は海外では必ずしも通じないということを、昨日のブログで書いた。バッハは「バーク」で、シューベルトは「シュバート」、モーツァルトは「モザート」、ショパンは「チョピン」と云わないと通じないよ、といった類である。そうしたら未だあった。「バイキング」である。スカンジナビア地方の伝説の海賊のことではない。色々な料理が並べられて、其処から好きなものを好きなだけ取って食べるという、オバサンたちご愛好の(そして僕が大嫌いな)アレである。アレは何故「バイキング料理」などというのだろう?好奇心旺盛なB級探偵としては気になるから、早速探索してみた。多分皆さんの中にも、海外に行ってホテルの朝食の際「バイキング料理」と云って通じなかった経験をお持ちの方がお出でだろう。(僕はそうだ。)バイキング風の朝ごはんを食べたかったら、「バッフェ」とか「バッフェ・スタイル」と云わないと通じない。日本語では普通「ビュッフェ」というが、これはフランス語風の発音で、世界の公用語としてのさばる英語では「バッフェ」に近く発音される。この「バ」はバとブの中間位の感じで口の奥に少しこもるように発音すれば完璧だ。それはともあれ、このバッフェ・スタイルをちゃんとした英語では「スモーガスボード(smorgasbord)」という。これは元々スェーデン語で、smorgasはパンとバター、bordはboardでつまりはテーブルの事だと言う。なるほど、スェーデン語となると、段々バイキングに近づいて来たようだ。B級探偵としてはもう少し追求しなければならない。そうしたら、帝国ホテルに行き着いてしまった。折柄日本は高度経済成長期に入っており、当時の帝国ホテルのシェフだった村上信夫さん(故人)という人が、帝国ホテルの料理のバリエーションを充実させるために欧州に出張させられた。その時にデンマークでスモーガスボードに遭遇し、「これはいける!」と日本に持ち帰ったのだそうだ。それでスモーガスボードの店をホテル内に開こうとしたが、どうも日本人には馴染み難い言葉なので、名称を社内公募したのだそうだ。「スモーガスボード」と口に出してみると美味しそうな感じはまずしないものなぁ。当時近くの有楽町の映画館でカーク・ダグラス主演の海賊映画「バイキング」が上演されていて、船上で食べ放題、飲み放題のシーンがあり、その豪快さが話題を呼んでいたので、それを思い出した帝国ホテルのボーイさんが、「バイキングが良いんじゃないか」と提案し、これが採用されたのだという。そして「インペリアル・バイキング」という名前のレストランが帝国ホテル内にオープンした。1958年(昭和33年)の事だそうだ。因みに、同ホテルには今でもThe Imperial Viking SALというレストランがちゃんとある。スモーガスボードの朝食が34ドル、昼食が53ドル、そして夕食は80ドル(何れも大人料金、税サービス料別)もするというから、僕は行かない。高級縁日料理に何故そんな値段を払うのだ。それにセルフサービス(バイキングだからそうだと思うが)なのにサービス料を取るのかい?これでバイキング料理の由来は知れたが、帝国ホテルには他にも発明料理がある。それは「シャリアピン・ステーキ」だ。これはステーキ肉を薄く叩いて、すりおろした玉ねぎソースでマリネし、しかる後焼くのである。玉ねぎの香りと甘みが肉とよく合って僕は好きだ。1936年(昭和11年)に帝国ホテルに投宿した、当時世界でも有数のオペラ歌手(バス)であったロシアのフョードル・シャリアピンが歯痛に悩まされ、肉は食べたいが固くてダメだという状態にあった。それを見かねた帝国ホテルの「ニューグリル」のシェフが、日本のすき焼きにヒントを得て作り歯痛のオペラ歌手に供したのがはじまりだそうだ。牛肉を玉ねぎでマリネすると玉ねぎのたんぱく質分解酵素が働いて肉が柔らかくなるのだ従って、外国に行って「シャリアピン・ステーキ」と云ってもやはり通じないのである。
2009.03.19
コメント(0)
◇ 3月18日(水曜日); 旧二月二十二日 壬戌(みずのえ いぬ): 大安今日もまた5月並みの陽気だったそうだ。さすがに今日はコートを家に置いて出たが、結構風が強くて、往来を歩いている時には、小寒い気がしないでもなかった。さて、僕の愛読する釈迦楽教授の最新のブログのテーマは、NHK FMで朝放送されている「バロックの森」であった。この番組は、以前は「バロック音楽の楽しみ」というタイトルで放送されており、僕も大学の研究室時代、自作の管球アンプにジャンク屋から掘り出して来たチューナーを繋いで愛聴していた。自作のアンプは当時東芝から新発売されたばかりの50CA10という、大きめの魚肉ソーセージを半分に切った位の三極管を、A級シングル回路の出力用に使った、至って単純で従って素直な作りだった。その代わり大きなNFB(ネガティブフィードバック。要するに音の粗さを抑える仕組みです。)をかけたので、アンプの出力は片チャンネル8ワットしか出ない。だけど常識的な音量でまともな音楽を聴くのなら、出力は3ワットもあれば充分だ。スピーカーはダイヤトーンの16センチシングルコーンを密閉箱に入れ、グラスウールを詰め込んだ、これも極単純で素直な仕掛けだ。プリアンプは作るのが難しくて面倒だった(お金も無かった)ので無し。つまりはチューナーからFM放送を聴くための(それしか聴けない)専用機みたいな、オーディオシステムなどとは恥ずかしくて言えないほどのものだった。(しかし、その後暫くしてサンケンという会社から廉価なICプリアンプが発売されたのと、アルバイトで貯めたお金で、中古だったけれどマイクロのレコードプレーヤーが買えたので、一応レコードも聴けるようになりました。念のため。)アンプにチューナーを繋いでスイッチを入れると、シャーシーに2本並んだ50CA10のヒーターが赤く温まって程なく音が出てくる。ソリッドステート回路には無い、このウォームアップのラグタイムが何とも良くって好きだったのだ。真空管の様子を良く見ていると、熱せられて陰極から飛び出した熱電子が、途中のグリッドを通過する時に吹き込まれた音楽の精を帯びながら陽極に飛び込む様子が見える。(客観的にはウソです。)腹に響く重低音や、鋭い撥弦音など、つまりは「ドガチャガ音楽」を聴くには向かない代わりに、正に室内楽やバロック音楽をゆったり長閑に聴くためには最適と自負できるシステムだった。これを完成させて、初めてスイッチを入れた時に聴こえて来たのが、NHK FMの「バロック音楽の楽しみ」だったのだ。寒い冬の朝で、窓を開け放って部屋にこもった煙草の煙を追い出していたら、窓ガラスの湯気が凍りついて綺麗な模様が出来た。猛烈に寒くて震えながらだったけれど、出来立てほやほやの手作りのアンプから響いて来るバロック音楽の旋律は、凛然にして清冽な寒気に相応しくあくまでも繊細で且つ美しかった。方々に大声で触れ回りたいけれど、同時に誰にも秘して内緒にしておきたいような、晴れがましくも後ろめたいような、何とも云えない感動を味わったものだ。調べてみたら、この番組は1969年(昭和44年、40年前!)に始まったそうだから、僕が研究室にいた時代には既にやっていた。ちゃんと我が記憶は計算に合っている事になる。それにしても、番組のタイトルこそ少し変わったものの40年後の今も、釈迦楽教授によれば番組はまだ放送されているそうだ。これはすごい。最近の番組は、持ってせいぜい一年。視聴率が下がれば、半年にも満たないで放送を打ち切ってしまう。それを考えれば、こういう番組を地道に40年間放送し続けているNHKもエライ。これだけになれば最早立派に一つの文化である。実際日本の音楽愛好者にバロック音楽の魅力を啓発するのには、この番組は大いに有為な貢献を果たし得たろうと思う。NHKには他に、N響アワー(1980年4月放送開始。継続年数29年。)、日曜美術館(1976年4月放送開始。継続年数33年。)、新日本紀行(1963年10月放送~1982年3月。放送期間19年。「新日本紀行再び」は2005年4月から)などという文化系の長寿番組がある。(あくまで「文化系」であって、のど自慢や紅白など「歌謡系」や「大河系」は含みません。)「バロック音楽の楽しみ」もそうだが、案内役の専門家の方々の解説が造詣深く、随分勉強になる。N饗アワーは芥川也寸志も良かったけれど、池辺晋一郎と特に壇ふみが好きだった。新日本紀行は、今は「新日本紀行再び」というタイトルで、30年ほど前の番組で取り上げた場所を再訪する構成だ。当時子供や若者だった人が歳月を経て、すっかり立派な中高年になっている。そして当時の自分たち位の歳の連中に、伝統行事や工芸の後継を託そうとしている。30年前に主役だった人たちは、概ね既に故人になっている。町並みや周囲も変わった所変わらぬもの交々である。それを観ながら自分の過ごした同じ時間も思い出されて来る。これには案内役は登場しないが、番組の中身自体が過去の自分史への案内役である。これもいい番組だと思う。こういう番組は自ずから残るのではなかろう。残そうと思う人が居なければ残せないし残らないはずだ。「時代の潮流」というもっともらしい理屈立ての表層軽薄に逆らって、底流にある本質をメディアの表現として継承すべきだとの見識がない限り、消えて行き、忘れられてしまうだろうものだ。つまり上で「NHKはエライ」と書いたけれど、本当はNHKそのものがエライのじゃなく、多分に四面楚歌、そうでなくとも亜流の雰囲気の中で、こういう番組を守る為に奮闘運動を続けて来た人が居ての事だろう。NHKがエライのは、そういう人達を消極的にしろ許容している点においてである。のっけから随分話がそれてしまった。本当はこのブログではバロック音楽の泰斗バッハは、英語では「バーク」と云うんだよ、という事を書くつもりだったのだ。アメリカにいるとき、何かの拍子にクラシック音楽の話題になって、こちらも負けじと蘊蓄を傾けようとバロックから古典派への話をしようとした。所はアメリカでは唯一の文化都市ボストンでの事だ。何しろ我が同胞の小澤征爾がこの町のボストンフィルの音楽監督をしているのだ。憚りながら彼を応援するためにも、同じ日本人としてクラシック音楽に関して多少造詣のあるところを見せなければならない。ところが作曲家の名前が通じない。バッハと云っても、周りはそれは誰だという顔をしている。その内やっとバッハの英語発音はバークである事が理解できた。そうなるともういけない。我々は学校で、バッハ、ヘンデル、ハイドン、モーツアルト、ヘンデル、ワーグナー、ベルリオーズ、ドボルザークなどなど、大作曲家の名前は随分教わってきた。ところがそれぞれの名前は英語で教わったわけではない。ましてや言語の綴り等は教わっていない。全部カタカナでしか教わって来なかったのだ。バッハが英語で「バーク」だとすると、モーツアルトは「モザート」か?ドボルザークは確かチェコ人だから、英語では何と言うんだろう?ヘンデルの最後の綴りはLかRか?英語では「ヘンダー」なのか?大バッハはヨハン・セバスチャン・バッハだった。このヨハンは英語ではJohnで良いのだろうか?大バッハは「Bigバーク」なのか?まるで犬の遠吠えじゃないか?と、疑問は後から後から沸いて来る。そうなるともう毛唐どもに薀蓄を語るどころではなく、小中学校の教師を恨みながら沈黙するよりなかったのだ。悔しかった。日本の外来文化の受容はこういう点では本当に行き当たりばったりだ。「天麩羅」はポルトガル語だそうだし、「袈裟」なども外来語だけど何語が起源かは忘れた。未だこんなものは良いけれど、「イギリス」はオランダ語の「エンゲレス」から来た言葉だし、「カステラ」はポルトガル語だ。「背広」はcivilから来たとか、英国の洋服屋が多い町筋である「サビル・ロウ」に由来するともいう。幕末の横浜には「カメ」という名前の犬がやたら多かったそうだが、これは外国人居留地のイギリス人が飼い犬を呼ぶのに「Come here! Come here!」と叫んでいたのを、「カメや!カメや!」と聞いたハイカラかぶれの日本人が「そうか、あちらでは犬をカメと呼ぶんだ」と、すぐに真似っこをした所為だそうだ。事ほど左様に、日本人は外来語を受容するに実に柔軟自在、言い換えればいい加減にどんどん取り込んできた。それ自体決して悪いことではない。むしろ我が国民の洋才咀嚼の闊達な能力を表すものとして自慢したいくらいだが、いざこれを引っさげてアチラで毛唐と文化論などを戦わせようとすると困ってしまうのである。「ギョエテとは俺の事かとゲーテ云い」という川柳がある。釈迦楽先生のブログからの連想で、バロック→バッハ→バークと持って行くつもりが、バロック→自作アンプ→NHKの長寿番組はエライとなってしまったのだ。ごめんなさい。
2009.03.18
コメント(0)
◇ 3月17日(火曜日); 旧二月二十一日 辛酉(かのと とり): 仏滅、春の彼岸の入り今日は気温も上がり、この辺でも四月頃の陽気になった。日本のあちこちから「観測史上最も早い」と称して、気の早い桜の開花便りが届き始めているが、これはソメイヨシノという種類の桜についての話だ。明治の頃から日本人にとっての桜はいつの間にかソメイヨシノ(染井吉野)に席巻されてしまったが、日本の桜は他にも色々ある。第一ソメイヨシノ自体が、江戸彼岸桜と大島桜の交配で出来上がった(どちらが父親でどちらが母親かも分かっているらしいが僕自身は覚えていない)幕末期生まれの人口種だ。寒緋桜や江戸彼岸桜は東京でも既に其処此処に花をつけ始めている。しかし、気象庁という役所が、全国にわたって一律の基準で桜前線とか開花予想を布告する都合上、ソメイヨシノを以って標準木としたのである。つまりは、これもグローバリゼーション。このグローバリゼーションの煽りを喰らって、寒緋桜や山桜などその他の桜はマイナーな存在に貶められたのである。ついでに言えば、古来東京の桜の名所の一つは隅田川の堤(昔は墨田川とも書いたから、これを略して墨提とも云った。)である。これは漱石君も「猫」の中で「月並み」の代表として掲げている。曰く、「この日天気晴朗なりといえば、一瓢を携えて墨堤に遊ぶような連中」が月並みの代表だと迷亭君に云わせている。この墨提の桜は、江戸時代までは山桜や江戸彼岸、大島、八重など、様々な種類の桜が入り混じって花季の川堤を彩っていた。それぞれの種類の桜は開花の時期も咲いている期間も微妙に違うから、江戸市民は随分長期間にわたって花見を楽しんだということだ。ところが桜の木というのは、元来それ程寿命は長くない。それで墨提の桜も段々老齢の木が混じるようになって来た。これでは大東京の桜の名所としてはみっともないとして、明治になって暫く前に近郊の植木屋が開発したばかりのソメイヨシノに植え替えてしまった。張本人は榎本武揚か勝海舟かどちらかだったらしい。その結果、墨提の桜は見事に一様化された。ソメイヨシノはご存知の通り、山桜などとは違って葉が出る前に花が咲く。しかも一斉に満開となり、数日間の短い花季が過ぎれば恬淡として一斉にさっさと散る。気短で何事にも執着しない事(つまりはやせ我慢)を美徳とする江戸っ子の好みにはぴったりだったから、東京中の桜の名所で見る間に花見桜の主流の地位を席巻した。つまりはグローバリゼーションの結果としての寡占化である。おかげで墨提の花見も随分せわしないものに様変わりしてしまった。以前のように、山桜、吉野、八重から葉桜と、どうかすると二~三週間にわたった花見時も、ぱっと咲いてぱっと散って、はいおしまいということになった。折りしも文明開化の掛け声華やかなりし頃である。首都東京では欧化を急ぐことしきりであった。銀座通りの辺りは帝都の看板として古臭い商家を惜しげもなく壊し、変わりに英国から招聘した建築家に委嘱してレンガ造りの建物をどんどん建てさせた。銀座通りというのは、元々は日比谷入り江を埋め立てて出来上がった造成地だ。じくじく湿った埋立地である上に、日本は高温多湿、夏は亜熱帯の気候にもなる。そんなところに寒冷乾燥地帯に最も適応するレンガ造りだから、住み難い事使い難い事は想像して余りある。付け焼刃の真似っこ街路は早晩取り壊される運命の仇花であった。しかし、当時はレンガ造りの町並みが夕暮れの灯点し頃ともなれば、新式の瓦斯灯に映える様子はまさに文明開化の象徴であった。そのハイカラな町並みを彩るために植えられたのがソメイヨシノだ。♪昔恋しい銀座の柳♪というのは更に時代が下っての事である。さて、想像してご覧うじろ。かつての徳川様の居城、今は明治帝のおわします宮城を遥かに望む銀座の街路には、新築のハイカラなレンガ造りの建物が赤錆色の軒を並べる。時は春。春は宵。しかるべく間隔を置いて植えられたソメイヨシノの漆黒の幹に、ほの白い花が彩りを添え、それが瓦斯灯の明かりに仄かに浮かび上がる。行き交う人々も胴長短足寸詰まりながら、誂えたてのシルクハットにフロックコートだ。夜目遠目という如く、遠くに瓦斯灯に照らされた風景として眺めれば大英帝国首都の倫敦もかくやと思い違うことも出来る。どうです。まさに富国強兵を以って世界の大国に伍して行こうとする帝国日本の躍動感が感じられるじゃありませんか。其処に地方から勅任県知事が己の上司である東京政府に詣でるため陸続とやって来る。彼らの目には帝都東京の景観は、これこそ新時代、文明開化の象徴として強い印象を与えたであろうことは想像に難くない。それで、彼らはソメイヨシノの苗木を手に入れて(レンガ造りの建物は持って帰れないし、瓦斯灯も同様だ)新時代に向けて邁進する首都東京の象徴として郷里に持ち帰ったのだ。これが、ソメイヨシノが日本中に蔓延する原動力になった。つまりはグローバルスタンダードに同化しようとする気持ちを煽るマーケティング戦略ですな。(上は、僕自身が実地に見聞した事では無論ありません。伝聞や書物での知識に過ぎません。ひょっとしたら記憶違いや勘違いがあるかも知れません。よしんば間違っていても、知りません。「そりゃ違うよ!」という場合には、謹んでご教授を賜ります。でも、その場合でもこういう話の方が面白いことには変わりありません。ね?)それが、時代が下って桜の開花予想、桜前線の指標にまで使われ、つまり本格的に桜のグローバルスタンダードになった訳だ。因みに、東京の桜の開花を公式に宣言する指標は、千代田区九段の靖国神社境内にある標準木に指名されたソメイヨシノである。僕にとって靖国神社は割合に身近な存在だが、未だにこの標準木なるものを発見し得ていない。これが標準木です、という名札など下がっていないようなのだ。(下がっているかもしれないけれど。)多分標準木と明示すると、誰かが花芽を摘んでしまったり、ドライヤーなどで蕾を暖かくして早く咲かせようとする輩が出てくるのを恐れているのかも知れない。これはつまり「情報のグローバル化の中での個人情報の保護」と云うことなのだろう。だから、「家の庭のソメイヨシノはもう花を付けたのに、何故未だ開花宣言が出ないのか」と苦情を述べ立てても、靖国神社のエリートであるソメイヨシノが咲かない限り、民草のゴマメの歯軋りに過ぎないのである。僕自身は先日根津から抜け出た上野公園の噴水脇で見た寒緋桜の花と、今日たまたま見つけた江戸彼岸桜の幾輪かの花で充分である。それより、昨日辺りから黄砂が東京辺りでも随分飛んでいるらしい。アチラの方面からは色々飛んでくるが、どこかのボロロケットとは違って黄砂はともかくも季節の便りではある。しかし、洗濯物や布団を天日に干す習慣がまだまだあるこの国では、お気をつけになったほうが宜しかろうと思う。さて、最近はなるべくその日の内に床に入るようにしている。元来宵っ張りの朝寝坊のたちなので、本当は深夜になるほど頭が冴える。然し商社時代の大先輩に以前、「君、50台半ばを過ぎたら絶対日付が変わる前に就寝しなさい。僕はそうしている。これなら120歳まで人間は生きられるんだ!」と云われた。この先輩は山崎豊子の「不毛地帯」にも登場した(無論脇役で別名である)方で、「帝大」の法科まででて商社に入った変人だが、長じて健康に良いと「タキオン水」なるものに凝り、僕が彼のオフィスに遊びに行くたびタキオン水で作らせた特注のうどんばかり食べさせてくれた。別段の事もなく普通のうどんだったけれど。そのせいかどうか、まだご病気とかお亡くなりになったとは聞かないから、立派に存命のご様子なのはご同慶の至りだ。ところで早く床に就くのは良いが、頭に興奮が残っていると、必ず2時間程で目が覚めてしまう。明瞭に覚醒するわけではない。半醒半睡の幾分朦朧とした状態だ。こういう状態だと色々な想念が浮かんで来て、それらについて考えているのだが、最近は考えに合わせて何と頭の中でキーボードを打っている事が多いのだ。僕は日本語入力に際してはローマ字変換を使う。一応ブラインドでキーを叩く事が出来、少なくとも同年輩の連中よりは「打鍵速度」は遥かに速いと思う。然しいずれしてもキーを叩くスピードでしか考えが進まないのだ。例えば「哲学」が頭に浮かぶと「tetsugaku」と頭の中の指が動いて『変換』とキーを叩くのだ。この『変換』が首尾良く終わるまで次に考えは進まない。このモードに入ってしまうと中々抜け出せない。キーストロークのスピード=思考のスピードである。それが余りに遅いから、頭の別の部分がイライラしている。そうして、「こんな風じゃ抽象的なアイデアなど絶対生まれないな。」と、頭の別の部分は苦々しく考えているのだ。抽象的な概念を纏めるには、頭の中に様々な模糊とした観念や雰囲気が、時に交じり合い時に渦巻いていなければならない。イザナギとイザナミの国産みの時と同様でなければならないのだ。しかし頭でキーボードがカチャカチャ動いていると、こんな状態には金輪際ならない。「頭でキーボードを鳴らしているようじゃ、ケクレや湯川に及びもつかないのは勿論のこと、まともな考えなんか出てくるわけは無いぞ。」と頭の中の批判者は冷笑する。半分眠りながら懊悩するのは気持ちの良いものではない。しかし、程なく頭の中の「指」も疲れてくるようで、結局は眠ってしまうのだが。どうも歳をとった所為なのかなぁ。そうは思いたくは無いのだけれど。第一これが一時の夢では無いとすると、120歳まではとても生きられないじゃないか。
2009.03.17
コメント(0)
◇ 3月16日(月曜日); 旧二月二十日 庚申(かのえ さる): 先負3.5インチのフロッピーディスクが今月一杯で生産中止になるのだそうだ。これは、世上の諸般を明快に切り捨てる(言い換えれば過激な)メルマガを発行しておられる畏友からの情報で、彼もメルマガの読者からの投稿で知ったそうだ。従って僕自身が「裏取り」をした訳ではないけれど、畏友はIT分野で一家を為すといってもいい方だし、投稿された方もいい加減な風説を流す方ではなさそうだから、概ね正しい情報だとしても良いと思う。確かに最近はフロッピーディスクというものは見かけない。僕の使っているノートPCもデスクトップPCにもフロッピーディスクドライブ(我々の世界ではFDDと符牒で呼ぶ)など付いていない。DVD/CD ROMドライブやUSBのスロットが幾つか付いているが、FDDが標準装備でなくなったのはもう暫く前のことだったと記憶する。僕がITに手を染めたのはもう30年以上前のことだった。フロッピーディスクは日本人の発明だそうだ。(本当かどうか確かめたことは無い。)コンピュータの外部記憶メディアとして出てきたのは、最初は8インチのフロッピーだったと思う。(短い期間だったけれど12インチのものがあったような気がするが自信が無い。)8インチで容量は確か256KBだった。256KB!それでも、それまで見慣れた磁気テープやハードディスク装置と較べて、その軽薄さ簡便さには感動した。Floppyという言葉は、着物などが風でばたばたする様子とか、だらだらして締りが無いという意味だ。そういう「軽い」言葉が、重厚な(当時はそういうイメージだった)コンピュータの世界に使われるようになった事にも感動したものだ。その内5インチの大きさのフロッピーが出て、程なく3.5インチの大きさになった。容量も1.44MBになった。8インチ時代と較べて、面積が5分の一になって容量が5.8倍になったのだから、記憶効率は30倍弱になった訳だ。これは一見大したことではあるけれど、メモリーチップそのものやMOなど「固い」記憶メディアの記憶密度の向上スピードからすれば遥かに及ばない。やはり「ダラダラして締りが無い」素材だと限界がある所為だと、将来の衰退の予感はあった。フロッピーの次に消えるのは何だろう。MOは今ではもう余り見なくなった。DVDやUSBメモリーはどうなんだろう。こういうメディアは更に記憶密度を増しながら暫くは続くんだろうという気がする。しかし、インターネット回線の高速化が進みこれがどんどん普及していくと、そもそも情報を手許で持っている必要があるのかという気がして来る。情報だけではない。処理系つまりプログラムだって自分のパソコンにある必要は無くなるだろう。もう既にデジカメの写真をネットワーク上に預かるサービスは多くの人が利用するようになっているし、SaaS(Software as a Service)といって、ネットワーク上のソフトウェアを「賃使用」するサービスも普及し始めている。つまりネットワーク自体がコンピュータになり、記憶装置になる訳だ。こういう流れを「クラウドコンピューティング」という。Cloud Computing、つまり「雲計算」だそうだ。要するに「装置」が何処に在るんだか分からない。分かる必要も無い。雲から雨が降ってきてそれに濡れるように使えれば良いのだという感じなのだ。そうなると、パソコンを「パーソナル」で持つ必要も無くなる。実際今まで色々な機械をしこたま売って儲けたサンマイクロという会社の誰かエライ人が、「世界には数台のコンピュータ(サーバー)があれば充分だ。」とのたもうている。(散々儲けた今頃になって!)しかしいつもながらIT世界での新語の作り方はダサイ。このクラウドコンピューティングなんかすぐに廃れさせて、もっと粋でしっくり来る名前にしなければならないと思う。何れにしろこの傾向が進めば、なにより重いパソコンを持ち歩く必要は無くなるから、色々物を持って歩くのが大嫌いな僕は歓迎だ。家の書斎(ということにしておく)の机の上だって、パソコンが我が物顔に居座るようになって久しく、はっきり云って邪魔だ。机は古来本の一二冊も広げてその上で居眠りをする場所だったはずだ。上のようになれば、手許にはネットワークにアクセスできる装置があれば良いのだから、これくらいの機能ならば携帯電話の大きさがあれば充分だ。ただ、人間の目と手には相応の大きさを持ったインターフェースがどうしても必要だから、表示用の画面と操作用のキーボードには一定以上の大きさが必要ではある。僕としては背広の内ポケットや、シャツの胸ポケットに入れて不自由を感じない程度の大きさ・重さであれば歓迎である。尤も、雨に濡れるようにコンピュータが使えるようになっても人間が進歩するかどうかは、又別の問題である。さて、フロッピーが生産中止になると、フロッピーにストックされたままになっている色々なデータを他のメディアに変換するサービスなどがビジネスとして出てくるのかもしれない。ビデオについても同じようなサービスがあるのだから、もう誰か始めようとしているものがいるに決まっている。こういう時に機を掴んで、すぐに動けばお金を儲けることが出来るのだろうが、僕などはそう思って何もしないし、しようにも元手が無いから、せいぜいブログを書くくらいのものである。
2009.03.16
コメント(1)
◇ 3月15日(日曜日); 旧二月十九日 己未(つちのと ひつじ): 友引、京都嵯峨釈迦堂お松明昨日とは変わって風も弱く良く晴れた。書斎(ということにしておく)の窓越しに見える隣の庭の白梅も、花弁より赤茶色の萼の方が優勢になってきた。お天気も周期的に移り変わるようになった。今週は木曜くらいまではこちらでも暖かい陽射しの日が続くという予報だ。晴天の蒼穹は鋭さを失い、水彩の水色のように淡くなった。今週の金曜日は春分の日、春のお彼岸だ。いよいよ東洋のみならず西洋の暦でも春の季節に入る。いっとき、西松建設の陸山会への迂回献金の件で騒がしかったメディアもこのところはこの件に関しては余り取り上げない。日本のメディアの事だ、際物記事に相応するネタが出てくるまでは、国会での麻生君の失言を期待しながら放っておく積りだろう。この間までは次期首相に擬せられてまんざらでもなかった筈の小沢君はじわじわと退潮気味だし、対する自民党は内心のほくそ笑みを隠して静謐を装っている。政治には金が必要だし、政治家として出世するには他の政治家より金を使わなければならない。良い悪いではない。これは理論的に自明のことだ。(何故自明かは、いつかヒマな時に書いて証明しようと思う。)だからこれは陸山会だけの問題ではない。自民党でも西松建設に連なる団体から金を貰ったことを「今になって分かって驚き」、「手続き上は問題ないが、道義的な面からお返しする」などという議員が出てきた。他の議員だって内心戦々恐々だろう。検察には無論不偏不党の立場で粛々と捜査をし、違法は違法として然るべく仕事を進めていただきたい。しかし、民草として余程承知しておかなければならないのは「法は正義と同一では無い」ということだ。法律は人間が作った。本来人間を律するものとしては、法律以前に天網がある。天網恢恢という如く、これは大所的で鷹揚でゆったりとしたものだ。しかし天網は自然界の摂理と、人間のあるべき本来(日本語で言えば「義」とか「理」。英語で言えば「fairness」とか「trust」だな、きっと。)に即したものだから、鷹揚に見えながら疎にして漏らさずと云うことになる。しかし天網を対処的に応用するのは中々難しいから、これをばらして都度必要な分だけ取り出し、辻褄の合うように組み立てて文章に記し、万民に布告したのが法律である。その過程でどうしても大局は失われ、対処的な部分から恣意性が入り込む。つまりは、「汝不正義を為して、他者を害し亦自らに恥じること勿れ。」というのがいわば天網で、それを物差しに仕立て直したのが法律だ。法律はすなわち天網ではなく、その一部分をある方向から切り取って作ったものに過ぎない。人の横断用に信号機がある。車は見渡す限り全く来ない。信号は赤だ。この時安全を見切って横断をするのは違法ではあるが不正とはいえない。こういう時に欧米人は自己責任を以って赤信号になど頓着しないでどんどん横断する。日本人は車など来ないのに律儀に青信号になるまで待つ。横断歩道は人の安全を守るものであるという本義に戻れば、自分の責任で安全を確認しさえすれば、信号の色如何に構わず渡って良い筈だ。つまり、違法と不正は区別して考えねばならないということだ。今回は10年前に半ばでっち上げられた政治資金規制法に、小沢君の秘書が違反したという疑いで逮捕された。これは違法の廉で逮捕となったのだから、それだけの事である。未だ起訴もされておらず違法の事実は証明されていないのだ。ところが我が民草の一般は未だまだ「お上」意識が抜けず、法律もお上の定めたものであり、従って無謬と思い込む傾向が強いから、違法の疑いが生じただけでそのまま不正と思い込む。「火の無いところに煙は立たぬ」と云うじゃないかと云われそうだが、火の無いところでも煙は立つ。脇から煙をどんどん吹き込んでやれば、火の無い所だって火事に見えてしまうこともある。だから、清廉潔白のフリを求められる政治家にとっては致命的な打撃になるので、放ってはおかれなくなる。同様の供与を受けているが、未だ検察の追及を受けてはいない政治家は、競って「道義的な面から」お金を返却して口を拭おうとする。大体こんなところに道義的などというものを持ち出すのが可笑しいじゃないか。繰返すが、政治は金が必要だ。政治家には献金が必要だ。そうでなければ誰も政治家になれなくなってしまう。だから金を受け取るのは不正でもなんでもない。受け取り方が違法かどうかは、その時の法律次第だ。問題はその金の出所に対して、万民から付託された権能を不当に使って具体的な「お返し」をしたかどうかだ。その一点に恥じることがなければ、小沢君だって自民党の二階君だって、他の道義的人士だって、堂々としていれば良いのだ。また、万民の側でも、その点を糺すべく監視すればよいのだ。今の新聞やその他のメディア、賢しら気な評論家などは言論よりも商売が先行するから、こういう本質になど迫ろうとせず、井戸端会議のお先棒を担ぐような程度のことしか云わない。三権分立の意味というのは、小学校か中学校で教わった。なるほど、上手い仕組みだと納得した事を覚えている。人間の社会では、権能を付託されたもの(=政治家・役人)と、対するに民草万民、そして言論・報道の三者が鼎立しなければならない。そうして初めて政治における三権分立のように、上手くバランスが取れた社会が出来上がる。そうなると、政治家や役人、それに民草万人は最早中々変わり難いものだから、言論・報道のお粗末さが現代の諸悪の根源だということになるのだろう。それより何より心配なのは北朝鮮のミサイルだ。若田さんを乗せたスペースシャトルは概ね上手く飛ぶだろう。スペースシャトルなどは部品点数が百万を超えるそうだから、何とか上手く飛んで予定通りの軌道に乗るというのは驚異的な話なのだ。こういう機械にはredundancyという、言い換えれば代理機能とか「あそび」という設計概念が組み込まれているので、少しくらいの故障なら何とかなるようにしてある。あそびの無い歯車機構はかみ合うのはしっかりかみ合うけれど、びくとも動かないそうだ。つまり、あそびとかゆとりは、機械の円滑な運動と、安全保障上も揺るがせに出来ない大事な要素なのだ。しかし、かの国が今度打ち上げると言い立てている「試験人工衛星」(これも意味不明の言葉だ)には、「遊び」とか「ゆとり」とかいう思想がかけらでも入っているだろうか?どうもそうは考えにくい。第一あの国にそもそもそういう概念があるのだろうか?そうなると、どこかで一旦小さな齟齬が生じると、それがどんどん成長してカタストロフィーになだれこむなどという事になりかねない。何故かマスコミは未だ騒ぎ立てていないけれど、意地になっているものを止められないとしたら(どうも止められないような気がする)、せめて「とにかく故障せずに上手く飛んで、太平洋の何処かに無事落っこちて欲しい」と思うことしきりである。
2009.03.15
コメント(1)
◇ 3月13日(金曜日); 旧二月十七日 丁巳(ひのと み): 赤口、奈良春日大社祭曇天。予報では低気圧の所為で関東地方も夕刻から風雨が強まると。千駄木から団子坂へ行こうと思った。このところ漱石の三四郎を読んでいた所為だ。千駄木というと最寄りのJRは山手線の西日暮里駅だということが少し意外。千駄木はもっと上野寄りだと思っていた。東京メトロの駅が構内にあるが、これは千代田線。これまでの頭の中の地図なんて随分いい加減なものだった。やっぱり歩く機会でも無いと分からない。乗り物で地理感を養えるのはせいぜいバスか都電である。駅構内の大江戸屋という蕎麦屋に入った。駅蕎麦の店も勢力範囲があるのだろう。池袋の辺りは「あじさい」という実に不味い蕎麦屋が入っているが、大江戸屋というのは初めてだったから入ったのだ。天玉蕎麦400円也。あじさいよりは不味く無い。無論美味しいと感動はしない。蕎麦などは元来グルメぶって食べるようなものではない。小腹を手軽に満たしてくれれば良いのだ。だから、あじさいの不味さは半端では無いということになるのだ。それより店の中の二人のオバサンが「いらっしゃいませ今日は♪」、「ありがとうございました♪」、「又お待ちしています♪」などとのべつに掛け合いで唄うように唱えている。誰か相手が居て言っている様子では無い。第一店内に客は3人程度で僕も入れて3人とも既に自分にあてがわれた丼を抱えている。新たな客が入ってくる様子も、店内の客が出て行く気配も無い。特に出入りは無いのに二人は上の文句を適当に入れ替えながら唄っているのだ。二人の唄はつまりは、客寄せと景気づけらしい。「なるほどね。皆努力しているんだ。」とちょっと感心した。しかし、これで誰も店内に居なくなったらどうなるんだろう。未だ唄い続けるんだろうかと、試してみたくなったけれど、これは出来ない相談だ。高架になった線路の下を線路に垂直にくぐる通りは権現山通り。これを山手線の内側に向けて、つまりは南西に辿ると、やがて不忍通りに交わる。その表示の有る交差点に至る手前で左に折れ、昔の商店筋に入り込む。車の往来の盛んな大通りを歩くより、こういうところでは路地に入って、昔の道筋の面影を辿るのが面白い。案に違わず道筋の両側には、如何にも昔からだろうと思われる小店が並んでいる。八百屋、肉屋、床屋、食堂、豆腐屋など。時々唐突に並びに稲荷の祠があって、幟がはためいていたりもする。途中ですずらん小路というのを見つけたから右に折れて小路に入り込む。両側には蕎麦屋、めし屋、居酒屋など押しなべて間口の小さな店が並んでいる。とんかつという暖簾を出した和幸という屋号の店があったが、無論方々に支店を持つあの和幸などではない。唯一無二、一店ぎりの和幸だ。三四郎の時代には、木造の安普請が軒を並べていたと思う。店筋の裏手に回ればもう家並みも無く、野っ原か畑が拡がっていたはずだ。僕はこういう道を歩く時は、後になって立て込んできた家やビルなどを無理やり取り去った姿を頭の中で想像することにしている。そうすると、三四郎や漱石が生きて親しんだ光景が、上手くすれば忽然と再現されてくるのだ。すずらん小路はすぐに終わりになって、いきなり不忍通に飛び出す。出ればもうすぐそこが東京メトロの千駄木駅だ。その先が札の辻で「団子坂下」とある。頭の中では団子坂はもっと先の不忍池辺りだと思っていたので意外だったが、表示の方が正しいに違いない。団子坂を登ろうと札の辻の信号待ちをしていたら、向こう側に和服に割烹着を付けた女性が信号待ちをしている。美禰子には程遠い年齢の女性だったが、和服に割烹着の女性なんて見かけたのは随分久しぶりのことなので、思わず見入ってしまう。このオバサンは、玄関が引き戸の古い家に帰って、部屋にはきっと長火鉢などがあるんだろう。長火鉢には鉄瓶が乗っかってちんちん音を立てているのに決まっているのだ。さすが漱石や三四郎に縁のある団子坂だと無闇と嬉しくなった。今の団子坂は対向二車線の舗装された立派な道路である。しかし三四郎の頃は幅がやっと二間程で両側は食べ物屋や茶屋が並ぶ狭い道だったようだ。無論舗装などは無く、雨が降れば泥濘、晴れれば土埃の立つ道だったはずだ。三四郎は美禰子やよし子、それに廣田先生や野々宮宗八君と連れ立ってこの団子坂を下り、菊人形の展覧会を観に行くのだ。三四郎達は横丁の細い路地から大観音の前に出て団子坂下に向かう。つまりは僕とは逆の方向から来たのだ。団子坂下から登っていくと、緩やかに左に逸れていって団子坂上という札の辻に出る。今の交通の表示は即物的だがそのまんまで分かり易い。そこで来た方向を振り返る。『坂の上から見ると、坂は曲がっている。刀の切先の様である。幅は無論狭い。右側の二階建てが左側の高い小屋の前を半分遮っている。其後には又高い幟が何本となく立ててある。人は急に谷底へ落込む様に思われる。』きっと道の拡幅工事がされたに違いないが、其の工事も道の形までは変えなかったようだ。但し道の幅が拡がった所為で、上の表現よりは勾配は遥かに緩やかにしか見えない。坂上から下を見ると確かに道は右に切れ込むように見える。但し刀の切っ先のような鋭さはない。人も車も谷底に落込むのではなく、長閑に坂を下ってやがて見えなくなる。ここでも想像をたくましくして道幅を半分以下に切り詰め、両側の建物を取り去り、よしずの小屋掛けを配置して、三四郎たちの見た光景を頭に作り出してみる。それで密かに嬉しくなる。団子坂上を更に少し先に行くと駒込学園というのが有って、そのすぐ向こうが大観音らしい。かなり広い敷地にお寺が二つあって、更にその道路際に十二面観音堂がある。となると、廣田先生の下宿はもうすぐ近くにあった事になる。しかし小説の中の話しだし其処までは捜しようが無い。同じ道を逆に辿って不忍通りに戻るのは芸が無いから、又路地に入って適当に当たりをつけながら歩く。東京は坂の町だ。それと路地の町だ。路地は昔の道筋や土地の境界をなぞっているはずだから、律儀に縦横に交差などはしていない。いい加減にくねったり、急にくの字に曲がったりする。そういう細い路地を辿っていくと、昔から代々この辺に住んでいるんだろうと思わせる家に出会う。路地に入り込むと東京ではどこでも付いてくる騒音が無い。独りで歩いているのが心配になるほど静かだ。時々塀の上に猫がとまっていて、胡乱なやつだとばかりに視線を投げられたりする。婆さんが独り掲示板を覗き込んで丹念に何か読んでいたりもする。やがて又路地から飛び出るような感じで、根津神社の北門に行き会う。此処まで来れば既にもう既知の世界だ。境内には名物の躑躅の群落が外の道に続く斜面を埋めているが、未だ躑躅の花には遥かに早いから経路を散策する人も居ないし、花の頃には薄謝を徴収する小屋にも誰も居ない。境内を抜けて権現坂に出会う鳥居の辺りでちょっと考える。坂をちょっと登れば大学の地震研究所だ、其の先は農学部。其の辺りから構内に入り、三四郎池まで行けば何となく今日の物語は完結するような気もするが、流石にもうそんなにゆっくりしては居られない時間でもある。それで結局権現坂を下って不忍通に出てそれを突っ切り、芸大の辺りを抜けて駅に向かうことにする。こうして見ると不忍通は昔は谷底を伝う筋であったことがよく分かる。三四郎の時代には谷底には小川が流れていて根津と谷中を分けるような形になっていたらしい。此処で三四郎は菊人形展の雑踏を抜け出した美禰子と二人きりになって、ちょっとばかり有るのだ。当時は周りは野っ原でしかない。今はもうそんな面影は望むべくも無い。この後精養軒に向けて歩き、暗闇坂から鴎外の居住地跡(今はホテルになっている)を通って、精養軒の脇の長い石段を登って東照宮の境内から公園内に入り、文化会館の向かいの公園口の改札に行った。途中の噴水は高く吹き上がると折からの強風で霧になって吹き飛ばされる。風下に居るとずぶ濡れになるだろう。寒緋桜は濃紅色の重たい花を咲かせていた。長く鬱屈した不如意の中で、否応なく時間だけはあるから本棚から漱石の本を順に抜き出して読んでいた。最初に三四郎を読んだのは多分中学か高校の頃だった。その後大学の研究室時代にも読み耽った。しかし、其の頃は東京の地理には不案内で有ったから、小説の中の人物の挙措や心理は読み取れても、周囲の町並みなどにまでは理解が及ぶべくもなかった。上野精養軒が団子坂とどういう位置関係にあり、三四郎が美禰子や與次郎君とどう歩いて何処に至ったかなどはさっぱり没交渉だった。こちらに来てもう30年余りになり、東京に土地勘も出来てきたが、今度は逆に三四郎を読み返すことなどは無くなった。半ば余儀なくという状況の中とはいえ、今回この両者が再び出会ったのだ。そうして、歩いてみるとまことに面白い。僕は銀座や赤坂、六本木などという、田舎者にとって「東京らしい」場所には一向に感動も感心もしたことは無い。しかし今日の千駄木や根津、それに入谷の辺りには(特にその路地と、スーパーやコンビニを見かけない商店筋には)随分懐かしいものを感じさせてもらった。僕には東京の中でもこういう辺りが合っているように思う。長きにわたって鬱屈の原因となっているRMからの話は、来週の火曜日にはいよいよという事だ。RMの言語感覚と世界観は僕とは(というよりは「世間一般とは」とすら云えるはずだ)全くずれているから、こちらの物差しに合わせようとするとイライラが募るばかりだから、もうあるがままに聞くことにしている。「そうなって欲しい」とは切実な願いだし、今後に向けての生存の必然だが、こちらの論理では最早追求はしない。だから、そういう中での今日の団子坂と割烹着のオバサンは、僕の心にとっては大いなる慰藉であり、感謝の対象ですらあったのだ。
2009.03.13
コメント(0)
◇ 3月2日(月曜日); 旧二月六日 丙午(ひのえ うま): 先勝、旧初午僕が日頃愛読させていただいているブログがある。ペンネーム釈迦楽さんという方がお書きになっているブログで、釈迦楽さんは名古屋の大学で英文学の教鞭をとっておられる教授先生だ。色々な題材を取り上げて、時に鋭く、又洒脱な文章をものされるので、ついつい刺激されてコメントを何度も投稿させていただいている。時節柄先生の大学では期末試験を終えられた由にて、これはご同慶の至り。そこで、学生諸君の答案から珍妙な誤字を選び出して「誤字大勝」なるものをブログにアップしていらっしゃる。僕が目にしたのは今回が初めてだったが、何でも釈迦楽さんのブログでは恒例の事らしい。見ていると当節の学生諸君(英文学専攻だかられっきとした文化系ですな)の「漢字熟語感覚」なるものが仄見えて面白い。僕が見て「フム、中々!」と思ったものを適当に選んで此処に再掲させていただく。先ずは、「決局」⇒正しくは「結局」。(以下同様にて)「登上」⇒「登場」、「衝激」⇒「衝撃」、「集収」⇒「収集」、「復襲」⇒「復讐」、「異和感」⇒「違和感」。この辺りは「なるほどさもありなん」という程度で、言葉の意味を考えれば「そう書いてもいいかも」などと思えなくもない。「要訳」⇒「要約」などは、やはり英文学の学生さんなのかなとも思える。ちょっと面白いのは、「刑部」⇒「警部」。これは史学専攻の学生が混じって試験を受けたのかなとも思ってしまう。勿論「刑部」を「ぎょうぶ」と読んでの話だけれど。それにしても当たり前だけれど、未だ試験は昔ながらの筆記でやっているんですなぁ。ワープロを使うと衝撃は笑劇などと出てきて時に笑わせられるけれど、上のような誤字、当て字というのは出てこない。さて、釈迦楽先生が今期の「誤字大賞」に選抜されたのは「子供の鳴き声」!これは無論正しくは「泣き声」だが、「鳴き声」と書くことには僕なぞ中々深い含意を見てしまう。「泣き声」には子供の悲嘆の様子が窺え、聞き手の感情が動かされているのが感じられるが、「鳴き声」となると聞き手は中立的で感情移入は感じられない。昨今問題の幼児虐待も、親や身内のものが子供の泣き声を「鳴き声」と聞いている所為かもしれないなどとつい思ってしまう。(釈迦楽さんの当該ブログ原文はこちらです。)さてさて、こういう「新造語」や「当て字」に於いては、我が敬愛する夏目漱石先生をもって嚆矢とする(と僕は思っている)。待てよ、この「嚆矢」という言葉は、釈迦楽さんの講座の学生さん達にとっては最早死語なのではないかしらん?第一今時のフツーの学生たちはこれを読めるかなぁ?近代日本語の書き言葉の創始者は漱石、鴎外、直哉あたりと云われるが、他のお二人がどちらかと云えば生真面目なスタイルだったのに対し、漱石先生は(不真面目というわけでは決して無いけれど)縦横無尽に新造語や当て字をお使いになった。漱石先生の発明になる当て字を、これも適当に列挙してみると、「瓦落多」⇒読みは「がらくた」(以下同様にて)、「仮令」⇒「たとえ」、「喋舌る」⇒「しゃべる」、「草臥れた」⇒「くたびれた」、「八釜しい」⇒「やかましい」、「糠る海」⇒「ぬかるみ」、「婆かす」⇒「ばかす」、「巧果」⇒「こうか=効果」、「鈍栗眼」⇒「どんぐりまなこ=団栗眼」、「蹴爪づく」⇒「けつまづく」、「寸断々々」⇒「ずたずた」、「迂路つく」⇒「うろつく」、「反吐もど」⇒「へどもど」、「涙が煮染む」⇒「にじむ」、「出鱈目」⇒「でたらめ」、「お菜」⇒「おかず」など、有るわあるわ!「草臥れた」は如何にも疲れきった様子が窺われるし、「八釜しい」もなるほど!だ。「蹴爪づく」も「寸断々々」も秀逸だし、「出鱈目」などは今時のパソコンのMIMEの変換でちゃんと出てきてしまう!学生諸君の誤字は「あ、そう」くらいのものだが、さすが文豪、上のどれを見ても、何がしに「フムなるほど!」と思わざる含意にニヤリとさせられたり、「上手いっ!」と思わずつい手を打ってしまう。ところで、「うるさい」をMIMEで変換すると候補に「五月蝿い」とちゃんと出てくるが、これも漱石先生の発明なのだそうだ。今ではちょっとした街中の家に蝿なぞ見なくなってしまったが、漱石先生の生きた明治から大正の始めのころは、首都東京にも蝿が我が物顔に群れ飛び、五月の頃にはさぞかしうるさかったのだろうと想像できる。誤字や当て字だって恥ずることは無い。それが人をして思わずニヤリとさせてしまう「深さ」があれば、暫くすればワープロの変換候補にまで出世して皆に使われるようになるのだ。釈迦楽先生もその辺りを学生に説いて、いっそ高等な当て字創りを督励されては如何なものだろうかと考えるが如何に。※ここで、お断りしておきますが、上の漱石の新造語や当て字は僕が直に渉猟したものではありません。出所は、「半藤一利著 漱石先生大いに笑う 講談社1996年」です。因みに著者の半藤(「はんどう」とお読みするそうです)さんは、漱石の長女である筆子さんの娘婿でいらっしゃる由。
2009.03.02
コメント(2)
◇ 3月1日(日曜日); 旧二月五日 乙巳(きのと み): 赤口、東大寺二月堂修二会、岐阜美江寺祭子供のころ、母が「これ、もうやいにしなさい」とか、「もうやっこで遊びなさい」とか云っていた。「もうやい」というのは、一人で独占するのではなく、周り(というよりその場に居る少人数の間)で物の場合は分け合って使う、食べ物の場合は分配して食べると、そういう意味だった。これは、お隣の名古屋の親類の家などに行くと、「もうやぁ」などと少し「訛って」いたが、何れにしても岐阜や名古屋に限られた方言だと思っていた。先日無聊のままに書棚の奥から引張りだして読んでいた本に、昔の東京には「おもやい」という言葉が有ったというのを見つけた。(というより、以前この本を読んだときには気が付かなかったか、忘れてしまっていたのを再発見したということになりますね。)「皿などを隣同士で共用しようというときは『オモヤイにしましょう』と言ったりもした。」(林望著 - テーブルの雲 - 新潮社 1993年)とある。林氏の祖母に当たる人は、江戸の御家人の血筋に当たるそうで、彼はこれを御家人言葉の一つと思っていらっしゃるようだ。気になってちょっと調べてみたら、長崎方面にも同様の言い回しがあるということで、長崎地方の人はこの言葉を自分たちの地域の方言だと思っているようだ。長崎の方は、語源も「催合い」、「舫い合い」(舟を二艘並べて、舫いを繋ぎあう)などとあり、なるほどもっともらしい感じがする。ネットでごく荒っぽく関連を渉猟した結果は、この「おもやい」とか「もうやい」という言葉は近世までは東~北日本でごく普通に使われていた言葉であったらしい。(それが九州の長崎に飛び地のように、しかも今でも割合に普通に使われているらしい言葉として残っているのは分からない。佐世保には「グループホームおもやい」というのもあるそうです。)言葉(方言)もそうだが味(食文化)の方も、その分布を調べてみると昔の日本人の暮らしようが分かったり、意外な地域同士の交流があったことが垣間見えたりして随分面白いことが分かるようだ。(関連:野瀬泰申 - 天ぷらにソースをかけますか? ニッポン食文化の境界線 - 新潮文庫 2009年)すっかり中部地方固有の方言だと思い込んでいた「もうやい」が、近世までは標準語であったらしいのだが、そうなると、他の「なぶる=ちょっかいをかける、いささかの悪意を以って人に干渉する」とか、「まわしをする=仕度や準備をする」など、今まで郷里の岐阜地方の方言だと思い込んでいた言い回しについても、意外な事が分かるのかもしれない。
2009.03.01
コメント(0)
全14件 (14件中 1-14件目)
1