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◇ 5月24日(日曜日); 旧五月朔日 己巳(つちのと み): 大安老松さん;湯島近くの旧岩崎邸にいらした時のお話面白く拝読しました。旧岩崎邸は、明治の中頃(1896年)に建てられた木造洋風建築だそうですが、途中の戦争などにも拘わらず百年以上もの時を経て今まで残ってきたのは素晴らしい事ですね。運も良かったと思いますが、三菱グループの人達がこの建物の維持保存のために相当の努力をされたのだろうと思います。ゲートを入って、高台になった敷地を左手に見ながら回りこむように坂道を上り詰めると、いきなりという感じで洋館の正面に出ますが、あの黄色(あれは単なる黄色というには適当では無く、「カスタードクリームの色」というのが相応しいでしょうね)の二階建て洋館が眼前に出現するのは、いつも(といっても僕もせいぜい二度の訪問経験しかありませんが)ちょっとした驚きです。洋館は部屋数が十数もあり、それぞれは当時の粋を凝らした意匠が施されていますね。どの部屋にも暖炉が切られ、しかもそのどれにも黒く煤けたあとが残り、決して装飾ではなく実際にちゃんと利用された事がわかります。それに、これは比較的最近になって再現されたそうですが、部屋毎の金唐草模様の壁紙は流石に見事です。そういう中を着飾った貴顕淑女が緩やかに経巡り談笑する。そんな光景が目に浮かぶようで、セレブ好きなあなたを魅了したであろう事は容易に想像出来ます。きっと「こんな所に住んでみたい!」と思われた事でしょうね。僕はしかし、仕切りのロープ越しに乗り出して見る事が出来たトイレ(当時は「はばかり」とか「厠」と云っていたはずですが)に有った男性用の小便器のデザインに興味を惹かれ(是非使い心地を実際に試してみたかったけれど・・・残念!)、更にその奥の小部屋に垣間見えた便器が今と同じ洋式であるのに驚きました。明治20年代から30年代の東京の下水事情は知りませんが、まさか岩崎財閥の迎賓館とも言うべきこの洋館のトイレが「ポットン便所」では無かっただろうとは思うのですが・・・。僕はどうしてもこういう下世話なところに興味をそそられるタチですから、こんな事を書くとまたあなたの顰蹙を買うに決まっていますね。本当はこの洋館のバックオフィスとも言うべき厨房にも大いに興味があるのですが、スタッフを捕まえて聞いた話では厨房も、そしてもう一つの必需品であったはずの浴室も非公開で見ることは出来ないのだそうです。この洋館の食堂は、今岩崎邸の概要を説明するビデオシステムが置いてある部屋だそうで、その脇のドアの向こうに厨房があって、お客の食の進み具合をそのドアから覗き見ながら、当時の使用人が厨房に指示を出し、給仕をしたのだそうです。あなたは眉をお顰めになるでしょうが、僕は折角百年以上も保存された文化財である以上、そういう人間必然の営みに拘わる部分をも、或いはそういう部分こそちゃんと展示解説して欲しいのです。しかし、「住みたい」というあなたの気持ちに水を差すようですが、この洋館は当時から接客用に使われ、岩崎家の人々の日常生活の舞台は隣接する和館であったそうです。やはり日本人には和風の空間の方が普段の暮らしには合っていたのでしょうね。さてこの和館ですが、今でも洋館に隣接して残っていますが、実際に行ってみると座敷が有るのみで、やはり生活のバックヤードの部分が無い。これらの部分は時代が下ってくる過程で取り壊されたり、建っていた土地も切り売りされてしまったようです。ちょっと調べてみたら、元々この土地は幕末までは越後高田藩の江戸屋敷があったのだそうです。当時の大名の江戸屋敷は小藩といえども今の常識を越えた規模です。その跡地を襲った旧岩崎邸も敷地内の建物が20棟以上あったのだそうで、それが今の規模になるまでには随分多くの建物が割愛され、和館の「生活臭」の部分もそれと共に失われてしまったのでしょう。それは僕にとっては大変残念です。だって生活臭の無い座敷や接客部分だけの邸宅跡なんて、ねぇ。因みに直ぐお隣ともいえる東大の本郷キャンパスは、元々加賀前田藩の江戸屋敷であった事は、良く知られています。夏目漱石の小説によって三四郎池と呼ばれることになった池は、江戸時代には前田邸の育徳園心字池だった事は、あなたもご存知かもしれませんね。江戸幕府は参勤交代を布いた際に、各大名の江戸屋敷を領地の地理関係に倣って配置したのかもしれません。こうやって、あなたからすれば色々粗探しをしてしまうのが僕の悪い癖だといわれそうですが、これは僕のさがとでもいうべきところなのでお許しください。しかし、旧岩崎邸の為に少し申し上げれば、高田藩本来の大名庭園を無理やり芝庭にしてしまった愚を咎めるのを置くとすれば、芝庭の周辺には「隅田の花火」など各種の紫陽花の植えられた一角や、ソメイヨシノの植えられた一角、そして楓の植えられた一角があるので、それぞれの最も美しい頃にいらっしゃれば、時々のセレブの気持ちが味わえることでしょう。もう一つ付け加えれば、同じ旧財閥系、或いはセレブの生活を忍ぶには、近くでは千駄木の団子坂にある旧安田楠雄邸、それに目白椿山荘の傍にある蕉雨園などにも是非いらっしゃるようお勧めします。特に後者は、明治30年に当時の宮内大臣田中光顕伯爵によって建築され、後に講談社の野間家のものとなった建物で、堂々たる唐破風屋根を戴いた玄関は、多くのテレビや映画の撮影に使われた所為で、あなたも必ず一度は見た記憶があるはずです。何より建物全体は往時のままに残されており、暖炉のある食堂や集会室、それに座敷などはもとより、厠も風呂も当時のままに残されています。旧岩崎邸とは異なり、当時の生活が丸ごと忍ばれるのですね。ただ残念ながら一般公開はされていないので(お茶会などは開かれているようですが)、入場料を払えば誰でも見学できるというわけではありません。僕は幸い講談社に縁のある友人を知っていますので、若しあなたが当時のセレブの生活の表向きだけでなく、丸ごと追体験してみたいとおっしゃるのなら、何とかできるかもしれません。少なくとも僕は岩崎邸よりは蕉雨園の方が好きだし、史跡としても貴重ではないかと思うのですね。若し実現できる暁には、蕉雨園がどうして松尾芭蕉に縁があるのかもお話してあげましょう。千駄木の旧安田邸は未だ僕も行く機会がありませんが、ここもあなたには面白いだろうと思います。でもどうも気紛れにしか公開しないようで、現在は水曜日と土曜日にしか見学できないそうです。東京は江戸開府以来400年間も実質日本の首都であった町なので、随分失われているとはいえ探せば色々興味をそそられる場所があります。一つだけ例を挙げれば紀尾井町です。今紀尾井町といえば、赤坂プリンスホテルやニューオータニなどの立ち並ぶ、何となく高ビーな町ぐらいにしか思われないでしょう。しかし、本来はこの界隈に紀州藩と尾張藩、そして彦根藩井伊家の江戸屋敷が有ったことから、その一字ずつを取って紀尾井町と呼ばれるようになったのです。こういう背景知識をちょっとかじった上で、それぞれの興味と嗜好で歩いてみると、東京というのは中々味のある町でもありますね。
2009.05.24
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◇ 5月23日(土曜日); 旧四月二十九日 戊辰(つちのえ たつ): 友引昭和館へ行って来た。昭和館は九段下の交差点のお濠側の角に在る。直ぐ傍には旧軍人会館で、2.26事件の時には戒厳司令部としても使われた九段会館がある。この辺のお濠は牛ヶ淵と呼ばれ、東の千鳥ヶ淵ほど有名ではない(千鳥ヶ淵には改修された遊歩道があるが、牛ヶ淵には無い。つまり二人で腕を組んで桜を見ながらそぞろ歩きが牛ヶ淵では出来ない。)けれど、春には桜の名所でもある。九段坂を挟んで向かい側には靖国神社の境内が広がり、地下鉄の出口から少し九段坂を登れば江戸城の田安門だ。田安門をくぐれば日本武道館もある。直ぐ傍の九段会館が昭和レトロ風の建物であるのに対して、この昭和館は灰色の歪な茶筒のような形をしている。「チェルノブイリ型の原子炉のようだ」という形容もあるらしい。云われてみれば窓の無い7階建ての「原子炉」は、九段会館との対比が強すぎて少し不気味だ。僕は九段下界隈には以前から随分何度も訪れる機会があって、この建物があることも、それが昭和館という名前である事も知ってはいたが、中に入る機会はついぞなかった。忙しく目的地に向かう途中であるのが殆どだった事もあるが、昭和館という名前にある種の先入観を持ってもいたのだ。だって、直ぐ隣が旧軍人会館で、通りの向こう側が靖国神社だ。そんな場所に窓の一つもない「昭和館」という建物があるのだから、これは何となく右翼っぽい、国粋主義の殿堂であるような感じがして、足を踏み入れるのが躊躇われたのも無理はないと思う。昭和館の中は7階に分かれており、最上階の7階と6階が常設展示スペースになっている。7階は昭和10年代から敗戦まで、6階は敗戦から昭和30年代までの展示物が置かれている。主に当時の庶民の生活道具や当時の子供たちに関する物品が展示物として選ばれている。僕は勿論戦後に生まれた立派な「アプレゲール」だが、展示物の中に卓袱台や蝿帖、それにストローの付いたブリキ製の霧吹きなどを見つけると、「こういうの、有ったあった!」と無性に懐かしくなる。木製の洗濯盥や蛇腹模様の刻まれた洗濯板を母が使っていたことも思い出す。第一「アプレゲール」という、今や死語を覚えているのだからしょうがない。コーナー毎にはテレビが置いてあって、当時のニュース映画を観る事ができるようになっている。あの時代の事だ、殆どが「息子が名誉の出征をしてお婆さん一人になった蕎麦屋を手伝う小国民たち」とか、「機関車や自動車の運転を習い、銃後の物資輸送に貢献する娘たち」、「食糧増産に奮闘する農村を慰問する報国文化隊」とか、つまりは銃後の庶民を励まし鼓舞する内容のものばかりだ。この点は靖国神社にある遊就館とはテーマの置き所が異なる。展示物にも千人針があるくらいで、武器や兵器の展示や前線での戦闘の写真などはない。それにしても、ニュース映画で観る子供たちの顔つきは純粋で明るいのが強く印象に残った。総じて血色が良いし(無論カラーではなくモノクロの映像だけど、血色の良し悪しくらいはモノクロでも分かる)、何より目がキラキラしている。幾ら宣伝のためとはいえ、そういう子供たちばかり選抜して撮ったのだとは思えない。良くも悪くも、あの頃は皆信じるものがあり、そのために一生懸命だったのだろう。今あの子達と同年齢の子供を映したら、恐らくもっと暗いひねくれた雰囲気の映像しか出来ないだろうなと思う。あぁいうニュース映画は何となく今の北朝鮮の宣伝映画やテレビ映像を思い出させる。しかし、けんか腰に唾を飛ばしながら喋ったり、少年少女の無理笑いが鼻に付く北朝鮮のフィルムに較べると、日本の方がはるかに穏やかで柔らかい。この点はやはり日本人の国際的な弱さなのかもしれないとも思う。一つ一つ丁寧に観ていくと結構見甲斐がある。途中で疲れてしまい、又来ようということにして外に出た。何しろ館内には休憩所も喫茶室も無いのだ。この次には6階の展示を中心に見てみようと思う。昭和館は常設展示の7階と6階だけが有料で、5階以下の映像・音響室や図書室などは無料になっている。常設展示室への入場料は300円である。これは廉いと思うな。もう少し上手くプロモーションすれば、多くの中高年にはファンが出来て、入場者も増えるのだろう。因みに、此処は国営の施設で、今の建物は10年前の平成11年に出来たのだそうだ。
2009.05.23
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◇ 5月22日(金曜日); 旧四月二十八日 乙丑(ひのと う): 先勝先日まで「水も漏らさぬ水際作戦!」(これ何だか変な日本語だな)を、それが最高の重大事であると吹聴してきた政府は、急速に方針転換してしまったようだ。新型インフルエンザに関する報道もトーンダウンして、連日臨時ニュースを流したり、「今日は何人!」、「今日は何処で!」と危機感を煽ってきた緊迫感は失せてしまっている。必要以上に深刻に騒ぐだけ騒いで後は直ぐに飽きてしまうのは、わが国民性が世界に誇り得る美点(こういう世の中では「美点」というべきだろう)であるし、最近とみに大衆迎合の姿勢を貫こうとしている報道機関を併せ思えば、まぁとっくに予想された事ではある。閉鎖されていた保育所は再開され、学校の休校も解かれ、予備校も再開し(そろそろ中間試験なのだそうだ)、デイケアサービス施設も再開し、病院も通常診療の範囲に入れてしまい、イベントの自粛勧告も無くなり、JRの駅売店も営業を再開した。成田などの主要空港での機内検疫もやめてしまうのだそうだ。「もうウィルスが入って来ちゃったんだからしょうがないじゃない。どっちにしたってもう色々厳しくやったって意味無いよ。」という事なのだろうか?おいおい、それで大丈夫なのかい?と心配になってしまう。先の大戦の時、それまで「鬼畜米英の敵兵に皇国の土は一寸たりとも踏ませない!」と国民を煽り耐乏を強いてきたのが、太平洋上の防衛ラインがどんどん潰されていったら一転して、「陣地を取られちゃったんだからしょうがないじゃないの。本土決戦だ!飛んできた敵の飛行機を霞み網や鳥もちで引っ掛け、敵兵が上陸して来たら竹槍で一匹でも多くの敵兵をやっつけよう!」という事になったそうだが、どうもそのイメージが今回に重なってしまう。前回(5月20日)の我がブログにも書いたが、インフルエンザウィルスの感染拡大のプロセスは、(1)ウィルスの細胞への吸着と進入、(2)細胞内への放出と核内への取り込まれ、(3)ウィルス遺伝子の転写複製、(4)子孫ウィルスの細胞外への放出、そして(1)へ戻る、と要約できる。何事も「入る時」と「出る時」が重要だ。我々の場合でも「入る時」(つまり食う事)と、「出る時」(つまり・・・する事)の何れかに障害が起こると命に係る事になる。つまり上のプロセスでも(1)と(4)を阻止妨害する事が感染拡大を阻止するキーポイントになる。(1) を阻止妨害するにはワクチンが必要になる(勿論一端感染しておいて直ってしまっても良い)が、新型ウィルスのワクチンを作るためには新型ウィルスそのものが必要になるため、これは必ずある程度の感染流行の後にならざるを得ない。普通は新型ウィルスが同定されてからワクチンが出来るまでには数ヶ月は必要なのだそうだ。何かと話題のタミフルやリレンザなどの抗ウィルス薬は(4)の阻止妨害に有効なものだ。つまり、「入ってきちゃったものはしょうがないじゃないの。だったら出られなくしてしまえばいいじゃない!」という事なのだ。そうなると政府の作戦は、「ワクチンが出来るまでの間は対症的に抗ウィルス剤で凌いでいこう」というように思える。しかし若しそうなら、例えば感染地域の感染予備軍、つまり若青年層や妊婦、糖尿病・透析患者には抗ウィルス剤の予防配布をするとかした方が良いのではないか?確かタミフルは3千万人分の備蓄が有るとか云っていなかったか?それと、今までの感染防止策を次々に解除するに当たっては、今回の新型ウィルスが幸いにして弱毒性であった事が大きく作用しているのだろうけれど、それがために今回の決定に至ったのだなどとおためごかしを云ってはいけない。あくまでも本当の理由は、地域経済への影響を最優先に考えての事だというのは、政府も地方自治体もちゃんと明言しておくべきだろう。この点「都市機能の維持のため。府民の皆さんもどうか理解して一緒に頑張ってください。」と発言している大阪府知事は率直で多少は好感が持てる。しかし中央政府の連中は、「季節性インフルエンザ程度だから」、「重篤な症状になった人が居ないから」、「死者も未だ出ていない」などとしか云っていない。「入ってきちゃったからしょうがない。」「捉まえてみたらそれほど凶悪なヤツじゃないじゃないか。」と云って品薄のマスクや手洗い・うがいの励行だけに頼り、基本部分で手抜きをしていると、患者はどんどん増えるぞ!若し手抜きの所為で死者が出たらどうする!いつものように「思わざる事態となり、まことに遺憾に存ずる次第。」などでは済まさないぞ。微力ながらこのブログでどんどん糾弾してやるぞ。先ずは、「今回の防疫態勢の急激な緩和は、この不況下にあっての社会システムの維持と、新型ウィルスの危険度を天秤にかけたトレードオフの結果であって、新型ウィルスの脅威とその感染拡大可能性が減じたわけではない。」という本音(事実)を政府首脳自らが国民に遍くしかも明示的に告知する事だ。それと同時に、抗ウィルス剤の備蓄量と増産見通し、更には配布戦略に関しても具体的に明示すべきである。そして、上述(1)に係るワクチンの配布可能時期についても同様である。そうしないままに国民を不当に油断・楽観させるのは、かつての大本営発表の再現でしかない。どうも麻生首相も、次のハイライトを太平洋島サミットなどに求め始めたような気がする。それに、他にも北朝鮮の短距離ミサイル発射の可能性が出てきた。時の権力者のアドバンテージを最大限に発揮するための題材としては、新型インフルエンザはもう旬が過ぎたという事なら、いよいよ民主党や報道言論機関には本来の使命を自覚して欲しいものだ。
2009.05.22
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◇ 5月21日(木曜日); 旧四月二十七日 丙寅(ひのえ とら): 赤口、小満今日は二十四気の小満。立夏に続く二十四気で旧四月の正節だ。「万機高揚して、諸事満ち足りる候」だそうだ。都内の公園や並木の緑も濃くなり始め、初夏の陽射しに映えて美しい。しかし、吹き渡る風には未だ梅雨時の湿気は感じられず(沖縄や奄美では既に梅雨入りしたそうだが)、時に涼やかで爽やかだ。農事にあっては麦の穂に実が充ちて来る。日本には麦秋という美しい言葉が有るが、この麦秋ももうそろそろの事でもある。気候としては申し分の無い頃ではあるけれど、世の中は新型インフルエンザがいよいよ関東地区にも波及したり、不況不景気は相変わらずだし、どうも小満どころではない。その中で昨日「GDPの伸び率が戦後最悪の状況になった。不況からの回復の道のりはまだまだ遠い。」と報じられ、公共放送(僕はニュースは基本的に公共放送でしか見ない。民放のニュースは扇情的で迎合的過ぎるからだ。)では、トップニュースになっていた。要約すると、今年1~3月期のGDPの前年同期対比が最悪の数字になり、年率にすると-15.2%の減となる見通しだ、というのだ。公共放送のアナウンサーは感情を殺して喋ることにかけては定評が有るが、相変わらず平板ながらそれでも精一杯深刻そうに原稿を読んでいた。これで、「あーあ、また暗いニュースか」と気が滅入る思いをした人も多かろう。僕もそんな雰囲気で観ていたが、その内「これは変だぞ!」と思い始めた。我々は最近エコ生活とか地球温暖化防止などと云って、環境問題に関して神経質になってきている。「環境を守る」、「環境をこれ以上破壊しない」というのは、よき市民の常識であり義務であると感じるようになっている。悲観論者は、今回の豚由来の新型インフルエンザの流行にしても、営々と環境を破壊してきた人類に対する自然からの報復であるとすら云っている。その一方で、GNPやGDP、海外輸出額は伸びていかなければならない。経済や金融に関しては、そういう相変わらずの成長至上主義に喜憂の尺度を求めるのは、これはおかしいんじゃないか。人間と動物の違いというものを、学校の頃に教わった。二足直立歩行をするか、言葉を持っているか、道具を使うかどうか。その辺が当時の基準であったと記憶する。こういう考え方は人間を進化の頂点に置くという、人間中心の価値観を下敷きにしたもので、当時から僕にはしっくりしない印象があった。その後色々な研究の進展や新たな発見によって、二足直立歩行はやむを得ず獲得した、動物としては一種の「奇形」だ。背骨はつり橋の牽索のように重い内臓を保持するには理想的であったのが、これを90度立ててしまった事によって本来の設計思想には全く反する構造的な重圧に耐えなければならなくなった。殆どの内臓疾患や、ぎっくり腰、肩こりなどは「失敗作」としての人間固有のものだ。直立した脊柱の天辺に脳が乗る事で、人間の脳は発達しすぎてしまった。言葉にしても、鯨や霊長類、更には鳥類にも言語と認められるものがある。道具にしても、チンパンジーなども自ら作成しこれを活用している事例がある。などなど、元来人間の優位性や動物との差別化の証拠であるとされてきたものが、どんどんその根拠を失ってきている。どうも人間は進化の頂点ではなく隘路であるらしい。僕は、人間とそれ以外の動物を区別する最も際立った、そして重要なものは、「生きるためのエネルギーを何処にどうやって求めているか」だと思う。つまりは、古くは「人間は火を発見し、それを自らのものとした」と云われた、アレである。人間以外の全ての生きとし生けるものは、太陽エネルギーを与えられるがままに享受している。だから気候の変動によって、栄えたり滅んだりしてきた。人間も根本的には同じである。電力、石油資源や石炭、原子力、これらの全ても元々は太陽エネルギーによって育まれた資源である。ただ、人間の違うところは、現在の太陽エネルギーを与えられるがままに享受するのではなく、過去の蓄積、つまり埋蔵資源までも積極的に掘り出してこれを消費する点である。こういう事業は物理的には地球という環境のエントロピーをどんどん増大させる事になり、環境を不可避的に改変していく事になるのだが、その議論はここではしない。大事なのは、生きるためのエネルギーとして享受すべき量を超えて、どんどん掘削調達し消費するという、人間以外の動物(植物も同じ)では決して行わない行為をするというのが人間の本質的な定義であろうという点だ。そして、全ての経済行為は此処にこそ、まさにその根拠を持つものであり、その隆盛を我々は進歩とか発展だとずっと思ってきているという事なのだ。つまり、我々が当然期待できる、或いは期待したいものとして何の疑問もなく考える、「経済的に安定した豊かな社会」とは、それ自体が既に「環境に優しい、自然に優しい」エコ社会とは本質において相反してしまうものなのである。さて、今年の1~3月期のGDPを年間に外挿すると前年対比で-15.2%の減少となる。これは戦後最悪であり、今後不況を脱するまでの道のりは遠い、というのは上述したとおりである。一方今年のGDPを金額で表すと(うろ覚えだけど)516兆円だそうだ。こんな金額は身近では無いので、直感的には分からないが、平成15年当時のGDPとほぼ同じなのだそうだ。今から6年前だ。それで公共放送は、「わが国の経済は6年前に後退してしまう可能性が強くなりました。」と悲痛(そうに下手な演技をして)いう。この点こそ僕は「変だぞ!おかしい!」と思うのだ。「未だそんな事をいうのか?『昨日のエコでは間に合わない』とCMのように繰返していながら、その一方で経済や金融面では相変わらず成長至上主義のお先棒を担ぐのかい!?」6年前の平成15年、我々の生活は其処に戻る事に怖気を奮うほどひどかっただろうか?僕個人としては、今とそれほど変わらない、むしろひょっとしたら今よりも幸せな時代であったような気持ちすらする。未だに「経済成長が善」とする考え方は、畢竟地球資源のこれ以上の簒奪を促すものである。それに地球上の資源・資産の保存則というものを考えれば、所謂発展途上国への圧力を強化し、世界的に貧富の差の拡大を推進するものでしかないではないか。普段我々は、エコ社会やエコ生活の推進と、GDPの伸長を望む気持ちを何の矛盾もなく頭の中に置いているが、これを筋道立ててつまびらかにし、この両者の間の大きな矛盾とどう折り合いを付けていくべきかという点に光を当てていくのが、ひいては「何故平成16年当時のGDPではダメなのか!?」と敢えて問いかけていくのが、日本の指導的な言論機関・報道機関の責務ではないか?そう云えば同じニュースの中で、エコカーの需要急増を睨んで業績回復を狙う、とか家庭用太陽光発電システムの開発を推進する、というのが「経済回復への明るい可能性」と、同じアナウンサーが(ここは無理して微笑みながら)喋っていた。出来上がったものは確かにエコには貢献できる。エコカーは埋蔵化石燃料の使用を低減できるだろうし、二酸化炭素の排出量も減らせる。太陽光発電も同様だし、特に自然に存在する最も低エントロピーのエネルギーを、しかも地球外から無尽蔵に(少なくとも後数億年は期待できる)受け取れる。しかし、製造・増産に費やされるはずのエネルギーは相変わらず埋蔵化石燃料に依存している事を、我々はちゃんと知らなければならないし、太陽エネルギーの積極利用が進めば進むほど、地球上に蓄積される地球外由来の廃エネルギーをどう処理するかも考えなければならないだろう。我々は経済・金融活動の伸長は、本質的にエコロジーとは相反するものである事を忘れてはならないのだ。そうでなければ、エコはエゴでしかないのである。そして公共放送の賢者諸君には是非にも「見識」という言葉とその意味を改めて考えて欲しいのである。
2009.05.21
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◇ 5月20日(水曜日); 旧四月二十六日 乙丑(きのと うし): 大安新型インフルエンザは既にわが国に上陸し、ヒトからヒトへの二次感染して兵庫県から大阪府に伝播し、つい最近滋賀県も犯した。関東地区ではこの文章を校正している今(木曜日)川崎と八王子に感染確認者が出たとの事だ。相手は電子顕微鏡レベルの小ささだ。必ず検疫や防疫ラインを突破してわが国でも流行を見るだろうとは、僕だけでなく大方の想像していたが、やはり、という感がある。今のところ関東地区での感染者は、渡航時にウィルスに感染したそうだから、まだこの地域ではヒトからヒトへの二次感染は見出されていない。おかげでマスクはバカ売れだそうだ。僕自身も昨日処方薬を取りに行く友人に付き合って都内のドラッグストアに行った時に、マスクの棚がきれいに空っぽになっているのを目撃している。友人はその店の常連で、「×○さん、マスクいります?」と聞かれ、「いいえ。でも棚には無いよ。」と答えたら、「いや、このままだと完全に売切れてしまうので、お得意さんのために取って置いてあるんですよ。どうぞお持ちください。」と、無理やり一つ(5枚入りだそうだ)買わされたと苦笑していた。この不況の中、マスクの製造販売業者には新型インフルエンザのわが国上陸は、まさに風邪ではなく神風の如きものだろう。ご同慶の至りというのは、余りに不謹慎ではあろうが、密かに神棚にお札を上げて感謝している業者もいるのではなかろうか。今や日本中の注目の的になってしまった関西地区では、色々な催し物が中止の憂き目に会い、学校も休校になるなどして、街の雰囲気も良くないそうだ。毎年百万人ほどを集めて盛況な神戸祭りも急遽中止され、これを当て込んで屋台や出店の準備までしていた飲食店などは大打撃を被ったそうだ。日曜に全国に放映されている、「桂三枝の新婚さんいらっしゃい」という番組は、収録はするものの、収録会場へ来る客には全員にマスク着用を指示したのだそうだ。放映当日、カメラがパンして聴衆を映したら、さぞや異様な光景が出現するだろうと、何となく興味をそそられる。僕は5月4日のブログ「新型インフルエンザとマスコミ」で長大な文章を書いた。その時に大いに批判したのは、これを筋道立てて報道しない、一般の人々を啓蒙とは言わないまでも啓発すらしようとしないマスコミの姿勢であった。この点は未だに変わっていない。それで、ここで改めてこの新型インフルエンザについて書いてみようと思う。無論医者でも医学者でも無い僕は素人であるけれど、しかるべき素材を与えられ(僕の場合は書物だったが)筋道立てて考える姿勢を持てば、個人として今の事態にどう対応すべきかについてヒントになるし、心の持ち様も変わる。そういう点で報道機関が相変わらず手抜きをしている以上、僅少な読者しかないこのブログであるとはいえ、いささかの役に立つかもしれないと思うからである。5月4日のブログと重複するところもあるが、おさらいも兼ねて敢えて気にせず書いてみる。繰返しだが、これは僕が知り得た(ソースは全て信頼できるものだが)範囲の、背景知識として共有して無駄が無い(筈の)ものであり、自ずとその詳細さや範囲には限界もある。これによって何らかの行動を読者に示唆或いは教唆するものではないのは当たり前である。● 先ずインフルエンザは三つの型に分類され、今回の新型インフルエンザはA型とされている。これは、季節性流行の原因ともなるが、周期的にパンデミックを起こす型である。B型は季節性流行を、C型は軽い風邪症状を起こすインフルエンザの事だ。● 今回の新型ウィルスはH1N1型と云われている。このHとかNとか云うのは、ウィルスの表皮に存在するHAタンパク、NAタンパクの事で、HAタンパクには1~16の種類(サブタイプ)が、NAタンパクには1~9と9種類のサブタイプが存在する事が確認されている。HAもNAもそのウィルスの抗原性を規定する。抗原性というのは感染対象を選ぶ性質の事であり、例えばH1N1に対する抗体を持っている人にはこの型のウィルスは感染しない。● 水鳥にはH16種、N9種全てのサブタイプが存在している事が確認されている。つまり水鳥には理論上144種類のインフルエンザウィルスを持っている。しかし、水鳥がインフルエンザで絶滅してしまわないのは、水鳥とインフルエンザウィルスの間には何らかの共生関係が維持されてきている所為だと考えられている。ウィルスとしては宿主(水鳥)を全滅させてしまっては自らも滅亡してしまい、元も子もないからだ。又トリ型インフルエンザウィルスは、以下に述べる感染のプロセスに必要な蛋白質同士の相性がヒトとの間では悪い所為で、ヒトには感染しないか、感染しにくいとされている。だから近くに水鳥が泳いでいても恐れる必要はさらさら無い。● インフルエンザウィルスの感染は以下の段階を経て起こる。(1)先ずウィルスの対象細胞への進入、(2)進入したウィルスの細胞核への取り込み、(3)核内でのウィルス遺伝子の転写・複製、(4)複製ウィルス遺伝子の細胞外への遊離放出。この過程(4)以後(1)に戻り、これが繰返されると、罹患者は発病しウィルスの伝播者にもなるのだ。この患者が生き延びて平癒すると体内にはウィルスは無くなると共に、その(今回の場合H1N1型)ウィルスに対する抗体が形成される。従って同じ人が同じ型のウィルスに再度感染することはない。● 上の(1)、つまりウィルスの細胞への進入段階で活動するのがHAタンパクである。ウィルスに触れた細胞はウィルスの吸着を阻止しようとするが、HAタンパクはこの抗体を中和し無力にする中和抗体の生産を促す働きを持っている。● (2)の前提となる進入ウィルスの細胞内放出に際してもHAタンパクが活動する。進入ウィルスが細胞内に放出され(3)の細胞核に取り込まれるためには、細胞自身に存在するタンパク質分解酵素の働きが必要になるが、その際にこのタンパク質分解酵素とHAタンパクとの相性というものが影響する。HAタンパクは、相手がヒトの場合気道上皮細胞(要するに喉の粘膜のこと)に含まれている蛋白質分解酵素との相性が良い。この結果、ウィルスの遺伝子は細胞の核内に入り込む事ができる。だから、インフルエンザの症状としては喉の痛みや炎症、咳が普通に見られるのである。● 少し細かくなるが、HAタンパクのアミノ酸にアルギニン(アミノ酸の一種)の繰返し配列が有ると、喉の粘膜だけでなく体の他の部位にある細胞に普通に存在しているタンパク質分解酵素の相性も良くなってしまう。こうなると感染細胞は一挙に増えてしまう。(強毒性ウィルス)● (3)のウィルス遺伝子の転写複製の際には、ウィルス遺伝子の本体がRNAである所為で、「誤まり修正」の機構が働かない。これがウィルスが変異し新型ウィルスとなって出現する原動力となっている。● (4)細胞外への子孫ウィルスの遊離放出にさいして働くのがNAタンパクである。NAタンパクは子孫ウィルスの細胞外放出を促進する。このNAタンパクの働きを妨害するのが抗ウィルス剤タミフルやリレンザである。つまり、タミフルもリレンザもウィルスを殺すのではなく、いわば細胞内に入り込んだ暴漢を封じ込めて外に出られなくするわけだ。● ところでA型ウィルスは動物にもヒトにも感染する。ウィルス保有者の水鳥のほかには、ブタ、アザラシ、トラ、クジラなどがA型ウィルスに感染する。上に述べたように蛋白質同士の相性が有ってヒトとトリ、更にはアザラシ、トラ、クジラの相互間に無差別感染が起こるわけでは無い。しかしこの中でもブタはトリ型とヒト型のウィルスの両方に感受性を持っている、つまり感染する。つまりブタが両方のウィルスに感染した場合、ここでHAとNAタンパクにシャッフルが起こって抗原性が変化し、トリインフルエンザ由来のウィルスがヒトにも感染する能力を獲得する事がある。これを言い換えると、トリとヒトとブタが日常的に接する機会が多い環境では、新型インフルエンザが発生する可能性が高いということになる。つまり地域としてはアジアが新型インフルエンザの発生源となる事が多い。別の味方をすれば、これらが相互に近接して或いは入り混じって生活する所謂開発途上国が発生源になる可能性が高いということだ。今回の場合発生源はメキシコであるが、これは後者の事例に相当するといえるだろう。大元はメキシコの貧困地帯に発生したそうだが、お金がかかるため、体調不良を覚えても医者にかからず我慢してしまう人が多かった事も大量罹患の原因になったとも云われている。● 有効な対抗策は、人間の移動や集合する機会を減らす事、又個々人としてはマスクの装着やうがい、手洗いの励行などである事はご存知の通りだが、もう一つはタミフルのような抗ウィルス剤を備蓄し、いざとなった場合には、国境を超えてこれらの薬剤を速やかに移送配布するロジスティクシステムの必要が生じる。この点では国際間の協力体制の確立が重要なポイントになる。● 上述のようにHAタンパク内のアルギニン配列により、ウィルスの毒性が左右される。弱毒性の場合感染部位は喉の粘膜に限定されるが、強毒性の場合だとそれ以外の細胞にもウィルスは感染する。その結果、肺炎だけでなく心筋炎、脳炎、激しい下痢などの症状を起こすようになり、最後は出血を伴う多臓器不全にまでいたってしまう。今回発生初期の段階で患者の一部に下痢症状が見られたというので、専門家などが緊張したのはこのためだったのだ。● 幸いにして今回のものを含め過去流行したインフルエンザは全て弱毒性であった。強毒性を示すHAタンパクのサブタイプはH5、H7だそうだが、そういう意味では今回がH1N1というサブタイプであったのは不幸中の幸いであった。● 1997年以降アジア各地で蔓延が警戒されているトリインフルエンザはH5N1というサブタイプのウィルスによって引き起こされる。現在の新型ウィルスH1N1の流行がトリインフルエンザの流行地であるアジアに波及したらどうなるか?理屈で考えれば、H1N1とH5N1のシャッフリングでは、この2種類以外のウィルスは出来ない。従って若しそういうことが起こっても、現在の新型インフルエンザに対する対策をしっかりしておけば、両タイプのインフルエンザの混在によって新たに深刻な危機が生じる事はないといえるはずだ。しかし、新型インフルエンザのアジア開発途上国への流行拡大は大いに考えられる事なので、この辺に関する専門家や研究者の見解は是非にも聞いておきたいと思う。最後に、ウィルスによる感染症は完全に防御する事はできない。(但しウィルス自体も世代を経るに連れ変化適応していくので、長期的には特定のウィルス感染症は根絶する事が出来る。)従って水鳥のように(とまでは云わないが)ウィルスとヒトとの共生を実現できれば、それにこした事はないといえる。具体的にはインフルエンザウィルスの毒性を全て弱毒性にする事ができれば、甚大な被害を被る恐れはなくなる(少なくとも非常に少なく出来る)訳だから、何とか折り合っていけるのではないか?こういう分野での研究はなされているのか、進んでいるのか、これは先行きの事を考えれば是非知っておきたいところだ。更には、今回の発端にも見られるように、ウィルス感染は先進国より開発途上国に、富裕層より貧困層により大きな被害をもたらす。これを解決するためには、先進国と途上国間のエゴを越えた利害調整や、貧富の格差の解消が必要になるわけだが、これはインフルエンザ以前から世界中の多くの心ある人の宿願であっても、まだまだその糸口は見えそうにない。しかし、問題の根源はそういうところにもあるのだということは、常に忘れないようにしたいものである。
2009.05.20
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◇ 5月10日(日曜日); 旧四月十三日 乙卯(きのと う): 先勝、母の日、愛鳥週間始まり今日は五月の第二日曜日、母の日。「おかあさん」という言葉の響きは美しい。この日にそう呼びかけてくれる人が居る人は幸せだと思う。又そう呼びかける相手がいる人も幸せだと思う。僕は昨年の六月に母を亡くした。だから、もうこの言葉を声に出して云う相手は居ない。外国由来の行事ではあるけれど、母の日は良い行事だと思う。ずっと残ればいい行事だと思う。父の日は・・・・・これは取ってつけたように作られた行事だから、どうでも良い。
2009.05.10
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◇ 5月6日(水曜日); 旧四月十二日 辛亥(かのと い): 先負今日は連休の最終日だ。あいにくの雨模様の天気だ。今年の連休、中には続けて今週一杯休んでしまう人も多いらしい。それでもニュースを観ていると、操業短縮のせいで休みを強制されている人もいるようだ。本来楽しい事でも強制されれば楽しくなくなる。中々世の中うまくはいかないものである。最近麻生首相が何となく元気に見える。昨年9月のリーマンショック以来自民党と麻生首相の人気は低落傾向が続いた。9月以降わが国にも波及した金融危機や不況なども後押しする形で、「麻生人気」はどんどん低落して支持率は歴代で最低レベルにまで落込み、同じ自民党の中でも「麻生では次の選挙は戦えない」という危惧が高まってきた。こういう傾向は中川大臣の「酔っ払い辞任」の辺りまで続いたように思う。しかし、その後北朝鮮のミサイル騒ぎがあった。如何にも誂えたようではあったけれど好敵手民主党の小沢代表秘書の収賄騒ぎがあった。そして今回の新型インフルエンザ騒ぎが連続して起こった。収賄騒ぎ以外の二つは「危機」とも云い得る事件だ。こういう危機が生じると時の与党のトップには有利だ。自衛隊を動かすのは時の首相にしか出来ないし、インフルエンザ防御の水際作戦だって、時の政府しか主導権を取れない。冷静に考えれば、組織や金を動かす行政権限を行使できるのは政府でしかないから、これは当たり前の話だ。実際に現場で汗を流し、危機の防御に尽力してくれるのは、政権政党の如何に係らずそれぞれの組織の人達であるし、動く金だって税金だ。こういう組織や人々そしてお金は、よしんば今の政権与党が民主党であった場合でも変わるものではない。同じ人々であり同じお金だ。しかし一般の民草からするとあたかも麻生首相が決断をし、指揮をしているように見えるものだ。これは時の施政権力者の大きなアドバンテージだ。つまり言い換えれば国や国民にとっての危機は、施政権力者にとっては「おいしい」チャンスだと云える。民主党はこういう時にはやはり野党でしかない。つまり現実に自ら出来ることは政府に対する批判でしかないから、どうしても民草における印象は薄くなるし、どうかすると「麻生さんはあんなに一所懸命やっているのに、どうしていじめるんだ。」などとすら思われてしまう。何しろ我々は、冷静に筋道立てて考えてみれば到底勝ち目の無いはずの戦争への道を、なし崩し的に突き進んでいるさ中、戦争の是非に関して真剣で本質的な議論を重ねる代わりに、大政翼賛会などというものを作ってしまった国であり国民性なのだ。麻生さんは名門政治家の家系にあってこういう点には敏感なセンスをお持ちなのだろう。北朝鮮のボロミサイル騒ぎの時以来、大変上手に自分を露出していらっしゃるように見える。現在自民党内での「麻生降ろし」の声は実際弱まっているようだし、今世論調査を実施したらどんな結果が出るかは大体の想像ができる。そう思うと麻生さんは随分強運の持ち主だという気がする。対するに民主党の小沢さんは、どうも今や印象が薄い。元々人前に出て積極的に自分をアピールするキャラクターの人ではないから、こういう状況の中では「時我に利あらず」と、早々と逼塞されてしまったのか?いっそ民主党としても与党自民党に合同して華々しく危機対処策に乗り出し、「行動する民主党」というイメージを打ち出してみたらとも思うけれど、そうなると元々分類上は、「自民党よりはややリベラルな保守政党」である民主党としては、自民党との対立軸を鮮明にするのとは逆の効果になってしまうため、中々そんな事は出来ないのだろう。こういう時は、硬派の論客でありルックスにも優れた管さん辺りに、華々しく頑張ってもらいたいという気がする。僕は別に民主党の支持者では無いけれど、今のまま麻生自民党のイメージが増進してしまうのはどうも面白くない。だって、麻生さんが若し、自前の発想が「定額給付金」でしかない程度の人だったとすれば、この国がこれから良くなるとは思えないもの。
2009.05.06
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◇ 5月5日(火曜日); 旧四月十一日 庚戌(かのえ いぬ): 友引、こどもの日、立夏、端午今日は二十四気の立夏。連休の始めの2日は今年の「八十八夜」であった。これは立春の日から数えて88日目にあたる日の事で、やはり太陽暦である二十四気の気節を基準とし、暦の上では雑節の一つとされる。「今年の」と断る必要があるのは、地球の公転運動のゆらぎの所為で毎年これが(そして二十四気も)同じ日付になるとは限らないからだ。「八十八夜の別れ霜」という言葉があるとおり、北東から南西に斜めに長く延びる日本列島でも、流石にこの日以後になると霜の降りる事は滅多に無くなるのだ。そして今日の立夏。新緑は目にいよいよ眩しく映え、春は段々と夏に移って行く。南方の洋上では台風の発生が報じられ、里山を歩けばミズキやヤマボウシ、それに松や栗など、普段は目立たない木々が花をつけて思わぬ妍を競っているのを見かける頃でもある。今日は又こどもの日、端午の節句でもある。旧暦(太陰暦)では、五月は十二支の「午の月」とされた。この午の月の最初の午の日を、月の端め(始め)の午の日という意味で「端午」といったのだそうだ。「午」の音は「ゴ」であり数字の五に通じる。それでやがて五月五日が本来の端午の日に変わった。昔は月数と日数に同じ奇数が来るのをめでたいとして、これを節句として祝った。これは三月三日の桃の節句、七月七日の七夕、九月九日の重陽の節句も同様である。端午の節句はご同様に中国にその歴史を発するが、元々は邪気を払い健康を祈願する日であった。ちょうどこの頃野に生える蓬(よもぎ)や菖蒲を飾ったり、これを浸した酒を呑んで、無病息災を願ったのだそうだ。蓬も菖蒲も葉に独特の香りがあり、これが邪気を払う力があると信じられたのだ。つまり、この頃は端午の節句は男女平等に祝うものであったわけだ。それがわが国に伝来して鎌倉時代(武家が公家を凌駕して政治権力を握った時代)になると、菖蒲は「尚武」に通じる(つまりは駄洒落ですな)と云う事で、男の子中心のお祭りになった。菖蒲の葉の形が剣先に似ている(つまりはこじつけですな)こともあったという。併せて、鎧や兜のミニチュアを飾り、鯉幟も庭先に掲げるようになった。鯉幟は勢い良く急流を泳ぎのぼる鯉のように男の子が立身出世を果たす事を祈ったのだという。こうなると何となく端午の節句における女性の影が薄くなってしまうように思える。しかし、蓬餅は元々邪気祓いの縁起物であって男女を区別するものではない。又端午の節句に柏餅を戴くのも、柏の葉は新しい芽が出るまで古い葉が落ちないという性質があり、これが血筋が絶えることなく引き継がれるという縁起になぞらえられた所為で、これも別に男子女子を区別するものではない。更に云えば、やはりこの日の定番である粽(ちまき)は、古くは三世紀の中国の屈原という政治家・詩人の故事に因むものであり、これも男子女子の区別は無い。つまりは端午の節句が男の子の祭りだといっても、それは飾りや幟などの形式だけの領域の話であり、コト食べ物に関する限り男女の格差はないのだ。端午の節句というと、♪柱の傷は一昨年の、五月五日の背比べ♪とか、♪甍の波に雲の波、重なる波の中空に♪という唱歌を思い出す。貧乏教師の長男だった僕には、父が紙で鯉幟を作ってくれた。尤もこの鯉幟は外出している間に強風に飛ばされて無くなってしまった。そして夕方家族で打ち揃って銭湯に行けば、湯船には菖蒲の葉を束ねたのがちゃんと浮いていて、手で掴んで絞るようにすると良い香りが手に移ったものだ。そう云えば東京生まれの父は、味噌餡の柏餅が好きだった。小豆餡ではなく味噌餡の柏餅は、今は知らないが僕の子供の頃の岐阜では見たことは無い。池之端の天神下の交差点にある和菓子屋にはこれが置いてあって、たまたま上京した父と通りかかった際にそれを見つけて父は感激していた。今は端午の節句のこの日も、ゴールデンウィークの中に埋もれ、家族は揃って出払って留守にしてしまい、家に菖蒲湯をたてて粽を食べ、皆で節句を祝うなどという事も余りないのではなかろうか?明日は一日遅れだけど湯島辺りにでも出かけて味噌餡の柏餅でも買ってこようか。
2009.05.05
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◇ 5月4日(月曜日); 旧四月十日 己酉(つちのと とり): 先勝、みどりの日我々日本人は悲観論を喧伝して憂い顔をするのが好きなようだ。連休前、4月の末だったと思うが豚インフルエンザ流行の兆しというニュースが飛び込んできた。僕は友人が発行しているメールマガジンで第一報を知った。ニューヨークに住む彼の友人が「特報!」と知らせてきたのだ。引用されていた「特報」によれば、「豚起源のインフルエンザがメキシコで発生。罹患者は急増。合衆国にも既に患者が出た。青壮年に死者が多い。」などと緊迫感が漂っていた。友人自身も、「地球上にはびこって我が物顔に他の動物や植物を蹂躙してきた人類に対する自然からの報復だ。」と、パンデミック(世界的大流行)は既に不可避でこのままだと人類の存亡に関わるような論調で、これを紹介していた。日本のメディアもその翌日くらいの夕方のニュースからこれを扱い始めた。その後のニュースのヘッドラインはもう豚インフルエンザ一色になった。まるで危機感を募らせるのを使命としているようだった。こういう時に人類の「原罪」のレベルにまで遡って悲壮な面持ちで憂えるのは、どうも我が国民性なのかもしれないと僕は感じた。日本には「先憂後楽」という言葉が有って、インテリや賢者ほど真っ先に国を憂え、深刻だ大変だと喧伝するのを賢さの証だとする風潮がある。暫く前の北朝鮮によるボロミサイル発射の「予告期間」にも似たような現象があった。もっと遡れば幕末にペリーが黒船を率いてやって来た時も、このままでは皇国は滅びるとの悲観論・悲壮論が蔓延したし、関東大震災の時の朝鮮人による陰謀説騒ぎも同類だったように思える。ところが連休も半ばを過ぎた今日辺りはもうそういう雰囲気は、少なくとも庶民の間には薄れてきている。しかし、これが皆が冷静になった所為だとは一向に思わない。何となく皆が馴れてしまった所為である気がするのだ。何かあると憂い顔で大騒ぎをし終末論まで飛び出す。そして喉元過ぎればすぐに忘れてしまう。これは北朝鮮のミサイル騒ぎの時も、黒船騒ぎの時も同じではなかったろうか?これが若し日本人の国民性だとするならば、日本人は図太いというか、或いは危機的状況にも直ぐに順応できる優れた才能を与えられているというべきか。それにつけても今回もマスコミの報道は不愉快だった。今でも不愉快だ。日本のマスコミはこの頃「ウケ狙い」の姿勢ばかりが目に付く。スポーツ新聞などの話ではない。権威のある、従って報道責任も重いはずの公共放送や有力全国紙の話である。何事か緊急事態が生じた場合に報道機関において肝心なのは、事実や現象の背景にある科学的根拠や研究現場における現状を適切に紹介し、専門家でない大衆が「自ら考え、対処し行動できる」よすがとし得る報道をする事であるはずだ。それがどこもかしこも、色々な図を表示したりして「分かり易く」という姿勢ばかり目に付いた。これは衆愚的であり、早い話が人を馬鹿にしている。インフルエンザと人間との係わり合いは昨日や今日の事ではない。ある程度まで信頼できるインフルエンザの記録は12世紀にまで遡る事ができる。近代になって色々なデータの残っている最初の(そして最悪の)インフルエンザは1918年に発生したスペイン風邪だそうだが、それ以来研究は着実に進み、科学的にも医学的にも又疫学的にも相当な知識が蓄積されている。そういうものが適切に報道・流布されていれば、今回の新型インフルエンザに対しても最初から冷静な反応が出来るはずだし、今後に対しても一過性ではなく永続的な知識を人々の間に広めておける。ひいては身辺の新たな危機に際して民草自らが考えられる下地を養成出来るはずなのだ。● インフルエンザウィルスには、ウィルスの内部蛋白の違いによってA型、B型、C型という3つの型があり、この中で重篤な症状やパンデミックを引き起こす恐れのあるのはA型だけだ。B型は季節性インフルエンザの、C型は軽い風邪の症状の原因となるウィルスで、どちらも大きな脅威にはならない。しかしマスコミはA型インフルエンザとは云うだけで、その意味やB型C型との相違点をちゃんと伝えていただろうか?● インフルエンザウィルスの型を表す「H1N1」などというのは、A型ウィルスの抗原性を規定するもの(ウィルス表面の蛋白質の型)だ。これは防御免疫上重要で、新型インフルエンザの流行のし易さや、ワクチンの準備に要する手間を測る目安になる。「H」にはH1~H16までの16種類、「N」には9種類のサブタイプ(亜種)がある。つまり全部で144種類のインフルエンザウィルスが存在する事になる。水鳥の世界にはこの全ての亜種のウィルスが存在するが、人間界には全部があるわけでは無い。今までに人間界で流行したインフルエンザウィルスは、せいぜいH3N8?(名称なし)、H1N1(スペイン風邪)、H2N2(アジア風邪)、H3N2(香港風邪)の4種類に過ぎない。つまり、今回の新型ウィルスと「HnNm」のタイプが同じウィルスによる流行が最近(同一世代内で)有ったのなら、その際の罹患者やワクチンの被接種者には防御免疫が残っていて今回のインフルエンザは感染しない事になる。ところが今回の新型ウィルスはH1N1型だという事だ。これは1918年に世界的に大流行したスペイン風邪のウィルスと同型だ。既に百年も経つと人間の側の世代交代が終わってしまっているため、現存ずる人々に防御免疫が残っているのは期待出来ない。こういった話は、過去との対比としてちゃんと報道されていただろうか?● 次にどれほど急激に流行し得るかだが、これを推定するには「基本再生産数」というのが目安になる。これは、罹患者が未だ誰も居ない環境に対して、R(0)=β*κ*Dで表される。ここでβは人同士の接触一回辺りの感染確率で、Dは感染症ごとに凡そ決まっている感染期間の長さである。κは一人の人が集団内でD期間内に平均何人と接触するかを表す。従ってこのR(0)が大きいほど感染は急速に流行する事になる。この値が<=1だと流行は起こらない。又この式を見ると感染期間が短ければ、又余り人に接触しないようにすれば流行の程度を抑えられる事が分かる。タミフルなど抗インフルエンザウィルス薬の服用はDの値、つまり感染期間を短くする事に貢献する。タミフルはウィルスを殺したり、感染そのものを防ぐものではないが、この事を知っている人は果たして何人居るだろうか?タミフルを服用したから安全だと、人混みに平気で出て行くようであれば、若しその人が感染者の場合逆にκを大きくする事になってしまう。● 次に、新型インフルエンザは如何に激しく流行しようとも必ず自然に終息する。何もしないでも必ず終息する。それも流行が急激である程早く終息するのだ。上述の基本再生産数R(0)は罹患者が誰も居ない環境の中で感染者が再生産される場合の話だ。今度は既に感染者が出ている集団(つまり現実に今世界各地に生じている集団の事だ)の中での再生産数Rを考える。そうすると、このRは感染の流行の推移によって減少していく事が分かる。つまりこういう事だ。新型インフルエンザに感染すると、その罹患者はやがて回復するか死亡するか、どちらかの結果になる。回復した人には感染防御免疫が出来ているから、二度同じ型のインフルエンザには罹る事はない。又一方で感染した結果死亡した人は当然集団から除外される。だから例えばR(0)=10というインフルエンザ(これは実在すれば非常に感染力の強いインフルエンザだ)でも、暫くするとRは減少を始め、やがて<1になってつまりは終息する事になるのだ。ワクチンが無くても、何も対策を講じなくてもそうなのだ。一般にインフルエンザの感染期間(D)は2~3週間、長くても1ヶ月程度だそうだ。今度の新型インフルエンザでも後暫くするとこのR(0)とDについてもおよその値は分かってくるだろうから、それを基にして今後の推移の仕方、いつ頃までに終息するかに見当が付けられるはずである。● 新型ウィルス用のワクチンは全員に行き渡る必要は無い。これも上記の議論に注意すれば理解できる。今R(0)=4という新型ウィルスを例にとると、最初の感染者は集団内の4人を二次的に感染させ得る。この時集団内の50%の人数にワクチンが接種されていれば、二次感染者は平均で4人ではなく2人になる。若し75%の人がワクチンを接種済みであれば、平均二次感染者数は1人になり感染の流行は起こり得ない。更には時間が経過してDを超える頃には罹患者で防御免疫を獲得した人の数も増えていくから、これによっても再生産数Rは減少していくはずだ。実際の話はこれ程単純に推移する訳ではないが、それでも「ワクチンは国民全員に行き渡る必要は無い」という事は知っておいて良い。● もう一つ非常に重要な事は新型ウィルスの毒性だ。これが強いと犠牲者が大勢出ることになる。無論その所為で(集団の母数が減少するため)感染流行の終息時期は早まるが、その代償としての犠牲は極めて大きなものになる。マスコミは罹患者数の増加のみを重大事として取り上げているが、実はこの毒性の強弱はそれ以上に重要なのだ。今までの経緯を見れば発生源のメキシコにしか未だ死者は出ていない(アメリカでの1人の死者は、訪問者として滞在していたメキシコ人だ)し、WHOも昨日(だったと思うが)「新型インフルエンザは強毒性ではない」との公式発表をしている。これは重大で且つ喜ばしい情報であるはずだ。どうしてマスコミは感染地域と感染者数の増加のみを重大事として報道するのか?● インフルエンザウィルスも世代交代をして行くが、その際に毒性なども変化し得る。インフルエンザの流行には第二波第三波ということもあり、その際に毒性が強くなっている事も過去の事例には有ったということなので、これには注意が必要である。再生産数Rが1を下回るまでの期間は、民草としては油断することなく、やはり人混みへの外出などを控えるなどの防御策を講じておくべきだ。● 同一の宿主(今の場合はヒト)が、例えばH1N1型とH3N2型の2種類のウィルスに感染した場合、子孫のウィルスはH1N1、H1N2、H3N1、H3N2の4種類の型を取り得る。この4種類の内2種類は親ウィルスとは異なる新型である。上に述べたように「HnNm」はウィルスの抗原性を規定するから、今の場合H1N2、H3N1の2種類のウィルスは、それまでの防御免疫が働かない新型ウィルスだと云う事になる。これをウィルスの「シフト」という。先日見つかった日本の「感染容疑者」は結局問題の新型ウィルスではなく、「ソ連A型ウィルス」に感染していると判定されたが、こういうところでシフトが起こって新型ウィルスの同時多発現象などということにならないよう注意する必要があるのだ。スペイン風邪(1918年~1919年)やアジア風邪(1957年~1958年)、更には香港風邪(1968年~1969年)の頃と較べて、世界の人間の交流頻度(つまりκ)は飛躍的に増加している。ボーダーレスというのは金融やビジネスの世界だけではない。感染症の世界でも同様なのだ。今回のような新型インフルエンザに対して現代の社会や人類が従来以上に大きな危機に曝されているのは事実である。だからパンデミックは起こり得る。むしろ不可避的に起こると断じて良い。しかしこれを即座に人類の危機であるとか、人間の原罪のせいだと騒ぐのは愚かだ。冒頭に書いたが、我々日本人はどうかするとそういう悲観論が好きだし、昨今のマスコミやマスコミに登場する評論家などは殊更深刻論を喧伝したがる。その方が「面白い」し従って視聴率や購読者数を稼げるからだ。一方の我々民草もそういう論調に乗せられて深刻ぶるのが好きだ。そのくせ、それこそ喉元過ぎればすぐに忘れてしまう。新聞やテレビなどの報道機関は、「事実を報道する」事だけが本来の使命ではない。事実とは既に過去の話だ。だから事実を知らせる事など実際誰でも出来る。しかるべき報道機関(そして評論家諸氏)の使命とは「見識」を広める事である。それが出来ないなら報道など病原ウィルスと変わりがないのだ。
2009.05.04
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