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◇ 10月31日(土曜日) 旧九月十一日 己酉(つちのと とり) 仏滅: 【立憲君主制と独裁制】その一最近読んだ本に、「立憲君主制と独裁制は本質的に相容れない」と書いてあった。「なるほど、そうだ。その通りだ!」と思った。国が国たり得る条件は三つあるといわれている。つまり、(1)区画された領土がある。(2)領土内に継続的に居住する複数の人民がいる。(3)領土内に施行され、強制力を持つ権力が存在する。これらは国際法上の通念として広く了解されている。つまり、あなたが一念発起して独立国の主になりたいのなら、この三つの条件を実現すれば宜しい。ただこうして「国」を作っても、ちゃんと認めてもらうためには、幾つかの「外国」からの承認が必要になる。つまりは、上の三条件を満たした上で、協定とか条約、或いは契約の形で外国との間に法的な関係を樹立すれば良いのだ。詳しい方法に関しては、井上ひさしという人の書いた「吉里吉里人」という本に書いてある。(1)の領土と(2)の人民(国民)は、共に物理的な存在なので分かり易い。しかし(3)は「権力」という抽象的なものだ。これは「統治権」とも云われる。簡単に言えば、統治権とは「領土内に行き渡って、人民に強制力を持つ個人、又は集団、あるいは仕組み、更にはその総体」ということになろう。人間の性として、抽象的なものには何らかの象徴的な実在を求めたい。つまりはシンボルである。大抵の宗教では、教祖や始祖の彫像などが祀られ、具体的な信仰や祈りの対象とされる。仏教徒は仏像をあがめ、キリスト教徒はキリストの像に祈る。モスリムは偶像を掲げないが、天を指す多柱式のモスクそのものがシンボルの役割を果たしている。更に言えば、平和のシンボルは鳩だし、五大陸融和のシンボルはオリンピックだ。広島も長崎も原子爆弾の被爆地としての記憶を永続させるために、原爆ドームや天主堂をシンボルとしている。事程左様に、人間は抽象的概念に具体的で有形のものを対置させることで得心し安心するのだ。そしてその具体的な有形物は、人々やその集団に遍きシンボルとして受け入れられるものでなければならない。そのためには、神話、伝説など、俗世間や大衆を超越した何がしかが必要になる。そういうもので補強されて、人が帰依し、更には服従できる条件が整う。つまりシンボルは犯し難い権威を仮託出来るようなものでなければならない。国を統べる統治権に対しても、このシンボルが必要になる。国旗や国歌はこのシンボルの一部を構成するが、国民全体を束ねる力は弱い。やはり生身の人間がシンボルとして存在すれば、統治権の基礎は安定し、より磐石のものとなる。これを特定の一族に仮託し、それを補強する神話・伝説を血統に求めたものが王様や君主である。王様や君主は世襲制である。世襲であることによって神話や伝説を守ることができ、民衆を帰依せしめることが出来る。従って、この場合血統の正統性を保証するための理論的根拠が大変重要になる。ここで少し余談に走る。英国では現在も紋章院という立派な機関があり、ここでは王家継承者の正統性や、複数の王統間の関係を検証したり研究したりするのを専らとしている。紋章院の創設は、リチャード三世の時代(15世紀中頃)にまで遡る。もう6世紀もの歴史を持つ堂々たる機関である。実は英国では、国内に王位の継承者が絶えて、外国から王様を迎えた事が過去に三度ある。先ず、ジェームズ一世(在位1603年~1625年)。この人はthe Virgin Queenとして生涯独身を通されたエリザベス一世の後、スコットランドのスチュアート家から招かれて英国の王になっている。二度目は、ウィリアム三世(在位1689年~1702年)。ジェームズ一世の四代後のジェームズ二世は、英国最後のカトリック信者の王様だったが、その宗教政策などが議会による反対を招き、名誉革命によって追い出されてしまった。ウィリアム三世は、オランダのオレンジ公ウィリアムズであったが、英国議会の要請でオランダから英国に渡り、英国王ウィリアム三世となった。この人もスチュアート王朝の一人とされている。そして三度目は、ジョージ一世(在位1714年~1727年)である。先代のアン女王が、後継者のいないままに崩じられた後を受けて、ドイツから(再び英国議会の要請を受けて)英国に渡り、英国王に就いた。この方は英国王でありながら、殆ど英語が出来ず、閣僚とはフランス語で話をしたそうだ。又、元々ドイツのハノーファーの出身であるため、大陸政策には熱心であったが国内政治には無頓着で、彼自身ドイツに滞在されることが多かったそうだ。それで、国内政治は専ら内閣に委ねられることになった。その結果、内閣は首相に率いられ、国王ではなく議会に責任を持つという形が定着した。これがわが国でも現在行われている「責任内閣制」である。又、有名な「国王は君臨すれども統治せず」という考え方もこの時点で定着し、王様はここで名実共に「国民の統合のシンボルとして、民衆の崇敬を集める国家元首」になったのである。ヨーロッパでは王家同士の結婚はごく普通に行われており、直接の王家継承者が絶えても、血統の迷路を辿って有資格者を他国から招くことには余り抵抗がなかったようだ。そして、こういう際には紋章院は大活躍をしたはずである。国境を跨った王家間の混血による親近感が、時代が下って欧州連合を可能にした一つの要因ではないかとも思う。さて、上に見られる英国の例のように、議会制度を整備充実し、統治権の中味を権威と権力に分離する。そして、権威をシンボルとしての君主に、権力を議会に割り当て、憲法を最高の規範に仰いで、行政においては議会を優先させるという仕組みが、現在世界に見られる立憲君主制である。立憲君主制では王様は国家元首の地位にあるが、政治権力としては機能しない。政治権力は憲法の下で民衆によって選出された議員による議会に委ねられるのが普通である。王制を廃した国、或いはアメリカ合衆国のように最初から王様がいない国では、普通大統領制が布かれている。大統領は国民による選挙によってか、或いは軍事的な力などを背景にしてのし上がった者が自ら国家元首を僭称することによって、その地位に就く。つまり大統領は元を糺せばタダの人だ。そういう人が国民に広くシンボルとして受け入れられるのは、生半の事ではない。また、タダの人とはいえ、自らを頼んで、或いは選挙という戦いを勝ち抜いて国家元首の地位に登り詰めるのであるから、無視できない力を持っている人である。これはシンボルというよりむしろカリスマというに相応しい。実際にそういう大統領は枚挙に暇が無い。而して、国家元首の地位を襲ったカリスマ指導者は、預言や異言を駆使して、民衆を信頼或いは恐怖せしめ、更には服従・帰依せしめるのである。勿論、議会の力が充分に強く、大統領を実質的にシンボルとしての国家元首としている国もある。しかし、「天与」の血統に支えられた王様に比較すると、そのシンボルとしての基盤は相対的に脆い。そして、権威と権力が分離しにくいことも大統領制の内包する危険だともいえる。(この稿続く)
2009.10.31
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◇ 10月25日(日曜日) 旧九月八日 辛丑(みずのと う) 仏滅:【ハゼの紅葉】東京には江戸時代から残る庭園が多い。その内の一つに六義園というのがある。これは元禄年間(18世紀初頭)将軍綱吉の命により、川越藩主柳沢吉保が築園した、所謂大名庭園である。明治時代になって岩崎彌太郎の別邸になり、その後東京市に寄贈されて、一般に公開されるようになった。地下鉄南北線の駒込駅で降りて本郷通りに出ると、もうこの庭園を囲むレンガ塀は直ぐ傍である。水戸徳川家の大名庭園であった、近くの小石川後楽園に較べれば小ぶりだが、都心の雑踏を区切って残された一角は、中々風情があってほっとする。ここは、春の季節には枝垂桜が有名である。入口を入って直ぐの開けた場所の中央にこの木はあり、今の季節は何本もの支柱に支えられた枝についた葉がそろそろ色を変え始めている。秋ももっと深まると、園内随所の楓が紅葉して見事な様子になるそうだが、まだそれまでには少し早い。しかし、今頃の時期はハゼノキの紅葉が美しい。ハゼノキは漢字で櫨の木と書き、ウルシ科ヌルデ属の落葉小高木である。この木は東南アジアから東アジア一帯の温暖な地域が本来の自生地で、わが国には江戸時代に琉球王国から持ち込まれた外来植物である。この木の葉は丁度今頃から紅葉を始める。その紅葉の仕方が面白い。梢の先の葉群れが一斉にではなく、部分的に紅葉するのだ。それも紅葉する葉は徹底的に真紅に変じる。一旦紅葉するとなったら、相当の決意をもって一気に真紅に身を変じたように見える。遠目には、未だ夏の緑のままの枝の一部に、真紅に燃える葉が混じっているのは不思議でもあるし美しい。ハゼの実からは木蝋を作る。元々は観賞用としてではなく、木蝋採取のための資源作物として持ち込まれたのだそうだ。木蝋から出来上がるのは和蝋燭だ。和蝋燭はパラフィン系の蝋燭より、明るく長時間持つ。それに炎から出る煤が少ないため、仏間や寺院などで金箔を貼った仏具を汚さないとして、西日本では未だに人気があるのだそうだ。因みに、有名なマイケル・ファラデーの「ローソクの科学」での観察は、この和蝋燭を使ってのものだったそうだ。俳句の世界では秋に美しく紅葉するハゼノキを櫨紅葉(はぜもみじ)とよび秋の季語としている。櫨の実も秋の季語である。漱石先生にも櫨紅葉を詠んだ句がある。二三本竹の中なり櫨紅葉明治28年、先生28歳の句である。ハゼの木はこれから日々色を変えていくのであろう。全木紅葉した眺めも良いが、未だ部分的な今頃が僕は好きだ。
2009.10.25
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◇ 10月23日(金曜日) 旧九月六日 辛丑(かのと うし) 友引: 霜降【霜降】今日は二十四気の霜降である。太陽の黄経は210度。この位置にはさそり座が有る。夏の夜、さそり座の一等星であるアンターレスは、南の空に真紅の怪しい光を煌かせる。暑さにうだりながらそれを眺めたのは、未だついこの間のことのように思えるのに、さそり座は夜空から消え、今は太陽の居所になっている。時はそのように過ぎていく。霜降の次にやって来るのはもう立冬である。日本の平地の紅葉は、霜降の頃に始まり立冬の頃に最盛期となる。【鳩は木の枝にとまれるか?】ある駅頭で人と待ち合わせをしていた時の事。相手が少し遅れてくるとの連絡があったので、改札口付近の雑踏を避けて、すぐ近くにある小さな公園に行ってみた。鳩が沢山いた。これはその駅だけではない。日本ではごく当たり前の光景だ。駅だけではない。神社の境内や公園などにも当たり前のように沢山の鳩がいる。この鳩は普通ドバト(土鳩)と呼ばれる。鳩には少し可哀相な呼称だ。元々この鳩は、ヨーロッパから、北アフリカ、そして中央アジアにかけて分布する鳥で、日本には奈良時代に持ち込まれたという。つまりは外来の鳥なのだ。元々の野生種はカワラバトという.。どうも最初は狩猟の対象として、わが国に持ち込まれたようだ。繁殖能力が高く、繁殖期は特定の時期に限定されいないので、どんどん数が増えた。それが再野生化して、神社仏閣に多く住み着くことになった。それで、かつては「堂鳩」とか「塔鳩」などと呼ばれていたらしい。それが訛って「ドバト」となったのだそうだ。ドバトというと、何となく土にまみれて生きているようで、ご本人(鳥)たちは聖域から地に堕ちたような思いをされているかもしれない。ドバトは人を余り怖れない。加えて持ち前の繁殖力のせいで、日本中そこいらじゅうに普通に見かける。件の公園でも、ベンチに腰を下ろす僕の足下近くまで、横目でこちらを窺いながら、首を前後に振ってひょこひょこ歩き寄って来る。あの首に、割り箸で添え木を当てて、首振りを出来なくすると、鳩は歩けなくなってコロコロ転ぶのだそうだ。想像すると可笑しいけれど、これは誰か実際にやってみたヤツがいるに違いない。周りの鳩は、地べたを歩いているか、塀や地下鉄の駅の入口の屋根に、つまり何れにしろ平らな場所にばかり居る。そういえば鳩が木の枝に止まっているのは見たことが無い!遥かな枝の高みに鳩が颯爽と止まって、鳴き交わしている図は見たこともないし、想像し難い感じもする。鳩は木の枝に止まる事はできるのだろうか?近くまで寄ってきて横目でこちらを窺っているヤツの足下を見ると、どうも華奢な造りで、枝を掴んで体重を支えるのは覚束なさそうである。この公園でも鳩の糞害には悩まされているようで、餌をやらないでくれという主旨の看板が立っている。しかし、その看板の傍が鳩にとっては殊更に居心地の良い場所らしく、特に数多くの鳩が集まって休息しているのも可笑しい。アイツら、全部分かっていて、わざと看板の傍にたむろしているのかも知れない。彼らの表情を見ているとそんな気がして来る。待ち合わせで何もする事が無いと、そんな事を考えて独りで面白がっている。アグネス・チャンという女性タレントが居るが、彼女が初めて日本に来て一番驚いたのは、そこいらじゅうに鳩が群れていることだったそうだ。彼女の出身地である香港では鳩は立派な食材なのだ。だから鳩を見かけると皆捕まえて食べてしまう。彼女は、その鳩が日本では悠々と、人を恐れる風も無く、そこいらに平気で群れているのが信じられなかったそうだ。鳩料理は僕も何度か食べたことがある。特に、羽毛をむしった鳩の皮に飴を塗りこんで油で挙げた、広東料理の「脆皮鴿」(チョイペイガッ)は、香ばしくも美味しくて大好きだ。要するにペキンダックの鳩バージョンだといえるが、鳩の場合は丸ごと骨まで食べられる。日本では鳩を捕獲して食用にするのは法律に触れるのかもしれないが、まだ食べたことが無い。あぁ中国の鳩料理を又食べてみたい!中々待ち人が来ないと、鳩を眺める目にもそんな邪な思いも入り込む。それにしても、鳩は枝に止まれるものかどうか、駅や公園にいる鳩は夜には何処で眠るのか(まさか地べたで眠るわけではないはずだ)、どなたかご教示いただければ嬉しい。
2009.10.23
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◇ 10月21日(水曜日) 旧九月四日 己亥(つちのと い) 赤口: 【14年前の罪状?】日本郵政の西川社長が亀井さんに詰め腹を切らされ、後任の社長には斉藤元大蔵事務次官が指名されるようだ。亀井さんは郵政民有化に反対して自民党を離れ、次の選挙ではホリエモンを刺客として送り込まれるなど、小泉自民党にはさんざん煮え湯を飲まされた人なので、「小泉・竹中」体制の残滓にはさぞかし怨念をお持ちなのだろうという気がする。西川さんはあくまでも辞任という形にはなっているが、形式上はともかくも、事実上の更迭に違いない。これに対して、自民党の政治家や財界の一部からは、「政治の民間介入だ」などという声も出ているが、これはおかしい。現在の日本郵政の唯一の株主は国、つまり日本政府である。大株主の方で、その主が代わって政策を転換したのだから、今までの政策に従って日本郵政を運営してきた代表取締役にお引取り願うのは、政府の介入ではなく民間の常識に過ぎない。むしろそうしない方が株主としては無責任というものだ。西川さんも体調不良の中、社長を引き受けさせられて、一生懸命郵政事業の正常化に努めて来られた。その結果郵政事業の収益性も大幅に改善されてきているそうだ。「無理やり引き出され、体の不調をおして粉骨尽力してきた人間を切るなど、人倫にもとる!」というのは人情には訴え易いが、これも的外れだ。今回の社長人事は、西川さんの力量や人品骨格、まして名誉不名誉とは何の関係も無い。郵政の政策転換とは、目的地に行くのに、今まで列車で行けと言っていたのを、今度はフェリーで行けとなったようなものだから、運行技術もロジスティクスも今までとは違うものが必要になる。それだけの事だ。これは機能の問題であって、人格や個人の能力の問題ではない。ところが、後任人事に関しても、機能と人格をごちゃ混ぜにしたおかしな批判が出てきている。「後任に選ばれた斉藤元大蔵事務次官は、れっきとした大物官僚OBである。民主党の脱官僚政策とは矛盾するではないか!」という批判だ。これも自民党と財界の一部に多い。竹中平蔵氏などは、「大蔵省の事務次官から東京金融先物取引所の理事長になったのを『天下り』というのです。それが日本郵政の社長になるのは『渡り』に他ならないじゃありませんか。民主党政権が自らそういうことをするとは!」とおっしゃるが、これはおっしゃる方のおつむの方がお粗末だ。それにしても、いつから「官僚=悪人」という事になってしまったのだろう。これは本来、官僚機構というメカニズムに対する批判であったはずなのだ。もっと云えば、そういう機構に依存し、時にそれに牛耳られて来てしまった政治家の、自己批判であったはずだ。斉藤さんは大蔵省を1995年に退官なさっている。今から14年も前のことだ。よしんば大蔵省が悪人の巣窟で、そこのトップだった斉藤さんが悪人の元締めだったとしても、そこを出所してシャバで立派な業績を作っていらしたのなら、もう14年も経てば「犯罪人」ではないだろう。かつて「悪人」だったという経歴が終生付いて回るなどという理不尽な話は、刑法の世界にだってない。斉藤さんは、大蔵省時代に小沢さんや藤井さんなどと近く、国民福祉税などを巡って、要するに現自民党とはソリが合わなかった人のようだ。自民党の反発や批判はそれを根に持っての事だという説もある。まんざら嘘でも無いだろうとは思うけれど、再び、そんなものは事実であれ誇張であれ、三流週刊誌のゴシップ記事の類で、だからどうなんだと、まともな人間なら真面目に取り上げるべきものではない。「脱官僚」とはメカニズムの問題であって、「元」も含めて、官僚個々人を云々するようなものではない。もっと云えば、官僚機構におんぶに抱っこで、自分では動きもしないし国会での答弁も出来なかった政治家の側に課せられた大きな課題である。そこを取り違えて、官僚=悪人のような思想が広がるに任せたり、国会で官僚が答弁するのを法律で禁じたりするなどというのは、政治家のだらしなさを棚に上げての愚かな報復である。そんな事をしていると、優秀な人材がどんどん官僚を志望しなくなり、日本の行政府は危機的状況になってしまう。再々のことだが、今回の日本郵政の後任人事に対して、マスコミの報道に「見識」というものが全く見られなかったのにも、今更ながら失望を感じる。何れにしろ、日本郵政は郵便事業や金融事業のみならず、以前の郵便局がそうであったように、行政サービスの窓口としての機能も再び求められる事になるようだ。そういう新方針の下で収益性も改善していくという難事業に、新社長がどうリーダーシップを取っていかれるか。斉藤さんが評価或いは批判されるべきはその一点であって、彼の「出自」や「過去の罪状」を云々するなどという次元の低い話で無い事は確かである。【厚木語辞典】 その第三回「あがく = 悪がく」「悪ガキ」の動詞形。「あの連中、気に入らないことがあるとすぐ悪がくから・・・」などと使う。名詞形になると「ワルガキ」と変化する。→『足掻く』「りふじゅん = 理不純」理由が不純でむかつくこと。→『理不尽』(類)理不順=生理不順の略「しゅつらんのほまれ = 出卵の誉れ」女性は子供を産める内が華だということ。閉経して卵も出てこなくなれば女としての名誉も無くなるという、厚木地方の俗信。最近では女性蔑視だという批判の大合唱が巻き起こり、声高には殆ど言われなくなった。或いは、雌鶏が卵を産むことを褒め称えて云うことからも。「厚木神社のお祭りの縁日で買ってきたひよこなのに、雌だったしこんなに大きくなって毎日卵を産んでくれて、本当に出卵の誉れよねぇ。」などと使う。→『出藍の誉れ』
2009.10.21
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◇ 10月19日(月曜日) 旧九月二日 丁酉(ひのと とり) 仏滅: 東京日本橋べったら市【電池依存再び】17日のブログに【電池依存】というテーマで書いたら、浪来三五郎さんという方からコメントをいただいた。浪来さんは、「銀塩カメラになさったら?」とおっしゃる。そうだった!昔のカメラは電池が要らなかった!フィルムを巻き上げて、構図を決め、露出やシャッタースピードを調整して、ピントを合わせ、おもむろにシャッターボタンを押した。これらの操作の全てを吾と吾が手で行っていたのだ。浪来さんは「自称平成の木村伊兵衛??? モノクロ写真の不思議な力と古いカメラのバネと歯車の仕掛けだけで写真が撮れる潔さに魅了されています。」とおっしゃる。浪来さんは名機Rollei35を愛用なさっていて、それで「浪来三五郎」とおっしゃるのだそうだ。なるほど、確かに全て手動のカメラで撮影する銀塩写真にはノスタルジーを醸すものがある。僕も亡き父譲りの銀塩カメラを2台ほど持っている。しかしこれは既に「堕落した」比較的新しい時期のもので、デジタル表示やフィルムの自動巻上げ装置などが付いており、やっぱり電池に頼らざるを得ない。しかし、僕自身はやはり自分で使うには、浪来さんには申し訳ないけれどデジタルカメラの方がどうしても便利だとせざるを得ない。僕は、写真を撮ろうと思ったら、ひたすら撮影モードに気持ちを切り替えないといけない。どういうことかというと、具体的にはとにかく沢山シャッターを切ることである。プロの方々は知らず、僕などは随分何枚も撮った積りでも、後になって眺めてみると、あっけないほど少ない写真しか撮れていないと思うのが常である。特に気に入った写真が少ない。僕の場合、「自分の目でモノを観るモード」と、「写真を撮影するモード」とはどうも両立しないようだ。先日はある庭園で水琴窟を見つけて喜んだくせに、帰ってみると肝心の水琴窟の写真を撮り忘れている。これはと思った対象を見つけてシャッターを切ったにも拘らず、観てみると構図が悪かったり、ピントや露出が悪かったり、微妙な点が気に入らない。その癖意識しないで撮った写真に「中々良いなぁ」と思うものを見つけたりもする。そうなると、自らの目で鑑賞しながら楽しみながら、それなりの写真も残しておく為には、とにかく何かある都度シャッターを切っておく必要があるし、特に人などの動きのあるものに付いては同じシーンを何枚も数多く撮っておかなければならない。そうしておいてやっと何枚か自分なりに納得できて気に入った写真が生まれてくるのである。こういう風だと、やはり何枚だろうがメモリーカードの容量一杯まで、失敗を気にせずに撮影できるデジカメである。銀塩カメラではフィルムを何本も消費せざるを得ず、どうしてもケチ根性を払拭できない性としては、勿体ない気持ちの方が先立って、シャッターを押す手が滞りがちになる。それにデジカメは後でパソコンを使って修整やトリミングが出来る。多少逆光気味で撮った写真なら、明るさとコントラストを調整できるし、気が付かずに余計なものまでが写っててしまっていても、トリミングで画から外すこともできる。カラーで撮影した写真でも、セピア調のモノトーンに加工できるから、ちょっとレトロな感じを演出することも出来る。銀塩写真だと、よほどの趣味人で無い限り、普通はDPE屋さん任せになってしまうので、こういう自由度は無い。つまりは、僕の写真やカメラに対する姿勢は邪道なのだろう。無闇と沢山撮って、後でコチョコチョ細工をするということになると、どうしてもデジカメになってしまうのだ。従って、やはり中々消耗しない電池の開発を望むより他は無いのである。それにしても、浪来さんはゆったりした豊かな時間をお過ごしになっているのに違いなく、その点は本当にお羨ましいと思うことしきりである。【政治家は君子豹変というけれど】民主党政権になってから、かつての自民党政権時代とは報道されるニュースの調子が変わってきたような気がする。補正予算の絞り込みの過程にまで踏み込んだ報道は以前には無かったことだし、それぞれの閣僚も闊達に新機軸を打ち出そうと積極的に動いている。中々清新の気風が見える所なども以前の自民党政権には無かったことで、僕としては好感が持てる。Squeezerは嫌われるものだ。ダム工事の中止や、補正予算目当ての事業が縮小されたり中止されたりするのは当然の事である。それによって自らの利害が傷付けられたといって騒ぐのは、自民党政権時代の政策をそのまま継承しろというのと同じだ。自らの既得権をそのままにしておいて、それ以外のところでだけ新しい政治をやれというのでは、民主党に圧倒的多数の議席を与えて、結果的にこの国の政権を委ねた、先頃の選挙での我々大衆の行動とは矛盾する。民主党は事あるごとに、「コンクリートから人へ」と云っている。ならばその政策に反対する地方や大衆も、これに対抗する、天下国家に視野を据えた理念を掲げるべきだ。「何十年も待たされた挙句に、此処へ来て中止だとは、余りにひどい!」と云うのは如何にも泣き言めいて情けない。それにそういう苦情をぶつけるべき相手は、そんなにも長い間放置するに任せてきた自民党であろう。今一番張り切っているように見えて、それ故に方々から賛否の評にさらされているのは前原国土交通大臣だ。羽田空港の国際化をぶち上げて森田千葉県知事の逆鱗に触れたのはつい最近のことだ。森田知事は芸人出身の所為か、政治家としては一般ウケのする言葉をお発しになる。それが僕から見れば、県の知事としては如何にも品格に欠けて、底の浅いもののように見える。特に羽田空港の一件では、眦を決して不退転の意気込みで前原大臣と談判に及んだはずだったのに、あっけなく懐柔されてしまい、ゲタゲタ笑って大臣の肩を叩いていらっしゃった。「いやぁ!地方をあんまり苛めないでくださいよ!あはは。」だそうだ。観ていて千葉県民がお気の毒になった。あの人は元々大田区を地盤として議員におなりになったそうだ。それが、「埼玉県か千葉県の知事になりたい!」とおっしゃり、結果として千葉県の知事選に当選してしまったのはご存知の通りだ。もともと海辺に駆け出して、夕日に向かって「バカヤロォー!」と叫ぶのが得意な人だから、海の無い埼玉県の知事におなりにならなかったのは、埼玉県に住む身としては大いに幸いである。千葉市辺りの海べりに立って西を望めば、羽田空港は目の前だし、晴れた日の夕方ならば夕日も望める。目の前の羽田空港を睨みながら「バカヤロォー!」と叫べば、彼にはお誂え向けの景色である。ところが、この人は大田区選出の議員だった頃には、羽田空港の国際化を実現するのだと「40歳台の青春の全てを賭けて」いらしたのだそうだ。これは、ブログ上のお仲間である為谷邦男さんのブログで知った。「お笑いみのもんた劇場で紹介されたものだそうだが、面白いから此処にリンクを貼っておく。君子豹変というけれど、それは大義や理念が有っての話である。選挙の地盤が変わればそれに合わせて政治理念までころっと変えてしまうのは、悪しきポピュリズムの見本みたいなもので、まことにお里が知れる。改めて千葉県民にはお気の毒様と申し上げなければならない。ところで、民主党政権には今しばらく遷移状態が続く。長い自民党政権時代からの脱却を実現しようとすれば、これは止むを得ない。来年度予算が史上最大に膨らんだというのも当然である。政権が変わっても、国の政策の相当部分には継続性が保証されなければならないのだから、民主党を政権政党として選んだ有権者としては、これは有る程度許容する責任も有る。一方で、前任者を批判や否定している段階は、後任者としては前任者を批判し悪者に出来るのだから、楽な段階でもある。民主党政権の本当の本当の試練は、来年度予算が決まって以後、独自の政府運営が実務段階に入ってからの事になる。かように新政権にはまだまだ大いに期待をしたい。しかし、一つ気になることがある。それは、国会で官僚が答弁するのを禁じるという法案である。これは政府内からではなく、民主党の小沢幹事長の考えのようだ。あの小沢さんの事だ。ついその背景にある種の政治的な思惑を勘ぐってしまう。しかし、それはさて置きこういう事柄を法律にしてしまおうという考えはおかしい。議員にとって、立法は成果実績であり勲章である。しかし、法律は出来た時から一人歩きしてしまう。遵法とは個々の法律の中身に関わらず人を拘束するものである。国会は良識の府であるはずだ。小沢さんの秘められた意図は問わないとしても、こんな事は運用で官僚依存を廃していくようにすれば良い。この点僕としては珍しいことだが社民党の意見に賛成する。【厚木語辞典】 その第2回「あきのひはつるべおとし = 秋の日は鶴瓶落とし」秋の日は寂しくて、特に夕方になるとあの賑やかな笑福亭鶴瓶ですら落ち込んでしまう。→『秋の陽は釣瓶落とし』「いっしみだれぬ = 一糸乱れぬ」一糸纏わぬ真っ裸に、ほんのわずかな衣装を纏って踊っても、これが乱れることなく、大事なところはちゃんと隠しとおせる。かつての厚木宿でのプロストリッパーの伝説。→『一糸乱れぬ』「むりじに = 無理死に」厭なことを言ったり、やりたくない事を強制したりして、死ぬほどの思いを相手にさせること。大抵は死ぬまでには至らないが、時に本当に死ぬより辛い思いをさせたり、仮死状態に陥らせてしまったりするともあるので、一般にやってはいけないこととされる。→『無理強い』「あるって = 歩って」「歩く」という動詞は日本語ではカ行五段活用だが、厚木語では特殊な「タ行促音活用」となる。(用法)「昨日は一杯あるったなぁ!」、「距離がこんなにあるって教えてくれてたら、あるってなど来ないのに!そんな事ってあるってか!?」などと使う。→『歩いて』
2009.10.19
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◇ 10月18日(日曜日) 旧九月一日 丙申(ひのえ さる) 先負: 朔、浅草観音菊供養、川越祭り【川越祭り】この土曜日曜は埼玉県川越市の川越祭りであった。川越祭りは、元々川越の総鎮守である氷川神社の神幸祭の付け祭りが発展したものだが、そういうご託や能書きは既に多くの人によって紹介されている筈なので、僕が色々書くまでもない。近くに居ながら僕は未だ行った事がなかったので、秋晴れのお天気を幸いにして出かけてみた。西武線の本川越駅を降りると既に物凄い人混みで、満足に歩けない。お祭りの期間中は、市内の中心部は全面交通規制が布かれ、自動車は全く走れない。道路は全て人ばかり。其処に町々の山車が練り歩く。蔵作りの街として有名な筋は、山車の通るメインストリートでもあり、ところどころに山車を眺める縁台がしつらえられ、囃子舞台もあってオカメヒョットコ、狐面など色々な装束をした人が、笛と鉦の音曲に合わせて踊っている。道路わきには屋台の店が目白押しで、焼きそば(大盛り、オムレツなどの種類がある)、お好み焼き(これも大阪名物、広島風など)、たこ焼き(京風、大粒など)、焼き鳥(秘伝のタレかけ放題というのがあってマヨネーズが置いてあった)、じゃがバター、ベビーカステラ、チョコバナナ、水飴、金魚すくい(夏の思い出、だそうだ)・・・などなど、縁日定番を商う店の他に、ケバブとかタイ風ラーメンなどという昔は見なかったような店も並ぶ。中に「はしまき」などという店があって、何だろうと思えばお好み焼きのようなものを割り箸に巻いて売っている。こんなもの初めて見た。「宝石すくい」などというのもあって、これはキラキラする紙片(?)を埋め込んだプラスチックボールを水に浮かべたのをすくい取るというものであった。こういうコケおどしは、如何にもお祭りらしくて良いものだ。屋台のほかにも川越らしい芋饅頭をふかして、熱々のものを蔵作りの老舗の店先で売っていたりもする。小江戸ビールという地ビールを飲ませる店もあった。川越の人々にとっては、年に何度も無い稼ぎ時なのだろう。こういう中を何処から湧き出てきたかと思うほどの人々が、思い思いに飲み食いしながら、肩を接してそぞろ歩いていくのである。川越祭りの山車は29台あるそうで、江戸時代から伝わるものも多い。そういう山車は県指定の文化財になっている。山車同士が行き会うとそこで一種の「駆け引き」があり、暫く踊り手同士のやり取りがあって、何れどちらかが道を譲るような形になる。これを「曳っかわせ」といって、このお祭りの見所の一つになっているそうだ。又山車はただ淡々と練り歩くのではなく、老舗の玄関口に正面を向けて、その店の主家らしき人々に挨拶をしたりする。多分街の顔役か、大口の寄付をしたのではあるまいかと勝手に思う。また、囃子舞台の一つづつにも立ち寄って、舞台の踊り手との間で掛け合いをしたりする。とにかく主要な街筋は、おしなべて家の周りに紅白の幔幕を張り巡らしてお祭り一色である。僕はいささか人混みに食傷して、時の鐘の筋を東に向かった。予め地図を見て調べておいた川越城本丸御殿跡(現在は平成23年まで補修工事中で閉館中)と、隣接する川越市立博物館に行こうと思ったのだ。暫く歩いて行くほどに人混みは嘘のように消え、県立川越高校の付近まで行くともう誰も歩いて居ない。閑散と静まったひ街角には赤い郵便ポストが祭りなど知らん、というように立っている。田舎のお祭りはこういう所が良い。喧騒を外れれば、其処は普通の静かな町並みである。祭りの華やかさや賑わいは遠くの夢のようだ。そういうところを歩く一種のもの哀しさには独特の味わいがある。普段、何処まで行ってもお祭りだらけのような東京とは、その点が違う。博物館に寄って、川越の歴史などの展示物を拝見したあと西に向かい、再びお祭りの喧騒と人混みに身を投じた。そろそろ夕闇が迫るころになり、山車には灯が入った。これから幾つもの山車が交差点で出会い、「曳っかわせ」が繰返されるクライマックスになるそうだが、もう流石に大混雑は沢山だ。この程度で余韻を残しながら引き上げるのが丁度良い。灯が点ってまだまだ喧騒と混雑が続く中を、再び電車に乗って帰ってきた。埼玉では12月になると今度は「秩父夜祭」というのがある。これは京都祇園祭、高山祭と並んで日本三大曳山祭の一つであるが、これも僕は未だ見たことが無い。しかし、行くかどうかは未だ決められないでいる。
2009.10.18
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◇ 10月17日(土曜日) 旧八月二十九日 乙未(きのと ひつじ) 赤口: 伊勢神宮神嘗祭【電池依存】最近は、自由時間にちょっと思い立って出かけるときにはデジカメを持参する。行きがかりの景色や季節の草花を撮影しようという魂胆だ。郊外や観光地へ行く時には、小さな単眼の望遠鏡も持参する。これは以前ドイツの空港の売店で目に付いて買ったものだ。ミノックスの製品で長さが7センチほど、縦横が3センチほどの矩形で小さくて軽い。倍率は6倍だが、レンズはさすがにドイツ製でくっきり見える。これを持っていると昔のスパイの端くれにでもなれた様な気分がする。これには、更にデジタル式の時計と温度計と高度計まで付いているから、自分の居る場所の高度を測ったりでき、結構注目を惹き、仲間同士の話のタネには出来る。高度計は時々とんでもない数値を示すことがあって、普通の里山にいるのに非常な高地に居ると教えてくれることもあるが、それはまぁご愛嬌である。そして勿論現代人の必携品である携帯電話も持っていく。ところがこれらの携帯用電子機器の電池がどんどん消耗してしまう。ミノックスの電池は余り消耗しないが、これは時計や高度計などの測定表示くらいで、機械動作はしないからまぁ当たり前だ。しかしカメラと携帯電話の電池の消耗がひどい。携帯電話などは数回の通話や、インターネットアクセスを行うと、もう電池切れの警告が出て使えなくなる。どちらも充電式の電池であるが、暫く前から一晩かけて充電しても、すぐに電池切れになってしまうようになった。もともと充電式の電池は劣化するものだというのは知っていたが、これ程だとは思っていなかった。リチウム電池には当たり外れがあって、僕のは外れの方が回ってきたのかもしれない。カメラの方はとっくに諦めて、市販の使い捨ての電池を使っている。携帯電話は常に「哺乳瓶」を持ち歩かないとだめだ。コンビニで売っている、単三電池入りのケースにコネクターがついたアレである。加えて、それぞれの電池の規格が全て異なる。ミノックスはCR2016というボタン電池で、デジカメのは2CR5という枕のような形をしている。2CR5という電池はちょっと珍しいようで、そこいらのコンビニには中々置いていない。そして携帯電話の哺乳瓶は単三の電池を2本使用する。かくして外出する時にはそれぞれの本体と共に、予備の電池と哺乳瓶を併せて持ち歩かなければなら無い事になる。それぞれの本体はどんどん小さく軽くなっているが、予備の電池まで持ち歩くのはなかなか大変だ。これは車がガソリンスタンドを連れて走っているようなものだ。もっと云えば、万歩計の電池はLR44というボタン電池だし、電子辞書のは単四の電池だ。僕は持っていないが、最近電車内で皆がピコピコやっているゲーム機の電池まで入れたら、我々の身の周りは様々な規格の電池だらけという事になる。おまけに、充電式の電池が劣化したからといってこれを買い換えようとすると、これが結構高価である。そうなると、「もう結構使ったし、買ってから暫く経ったから、高い電池を買うより本体を新型・新製品に買い換えようか」などとつい考えてしまう。電池がダメになったから本体を買い換える・・・これはいかにも本末転倒の話だ。或いはこれはメーカーの陰謀では無いだろうか、という気もする。デジカメも携帯電話も、それぞれに充電式電池の形を微妙に変えておけば互換性はなくなるから、買い替え需要を促進するにはなかなかうまい(そしてズルイ)作戦だといえる。まさかとは思うけれど…【厚木語辞書】 先ずは始めに「あ」- あは厚木のあ!それに決まっている。ついでに、日本語の五十音の最初の字。「いっきとうせん = 一気当選」小田急本厚木の駅前の路地の居酒屋ではよく行われている行事、一気飲みのコンクールで一等賞になること。この時に供されるおつまみの定番は「シロコロ焼き」というゲテモノに決まっている。いい加減酔っ払っているので、一等賞を貰って気が大きくなってしまい、つい無敵の気持ちで見ず知らずの他所の人たちに奢ったりしてしまう。転じて威勢の良いこと。→『一騎当千』「おうまがとき = お馬が時」夕方。そろそろ暮れて薄暗くなる頃。畑や田圃で仕事を終えたお百姓がお馬サンを引いて帰ってくることから。厚木ではつい先ごろまで日常見られた光景であった。→『逢魔が時』「おだわらひょうじょう = 小田原表情」小田原は今では小田急の急行や特急に乗れば厚木からは程近い。しかし以前は厚木人にとっては身近では有るが遠くにある憧れの町であった。何しろ厚木には無いお城がある。晴れ着を着こんでおめかしして出かける場所であったが、しかし行って見れば小田原にはお城しかない!後は蒲鉾屋しかない。拍子抜けするけれども、しかし帰ってくるときには「小田原に行ってきたよ!良かったよ!」という表情を無理に作って周りに自慢する。だから未だ小田原に行った事が無い厚木人にとっては、小田原帰りの人の表情から察するに小田原は謎めいた街であった。この事から、何となく釈然としないこと。物事がはっきりしないで不明瞭なことをいう。→『小田原評定』「かいとうらんま = 解答乱ま」試験の際に答えが分からず、「えいっ!まぁどうでも良いや!」と、滅茶苦茶な解答をしてしまうこと。どうせ勉強もしていないのに、分からないのは当たり前だと、潔く割り切ってしまうことから、ばっさりと黒白を明確にすること、或いは錯綜した事態をてきぱきと整理していくことなどを云う。尚、厚木語の「乱ま」「ま」は、感嘆の接尾辞で本来は「まぁ」であったと考えられる。つまり「解答乱マァ!」というのが正しい。→『快刀乱麻』※ 厚木には昔「ランマ」という怪盗が居て、これが庶民の味方の義賊としてバッタバッタと悪代官を懲らしめたという。痛快に物事を切り分け、事態をどんどん進めていくという意味の、「怪盗ランマの如し」はこれから出たという俗説もある。
2009.10.17
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◇ 10月16日(金曜日) 旧八月二十八日 壬辰(きのえ うま) 大安: 三りんぼう【向島百花園とむらさき小唄】山手線の日暮里駅前から、亀戸駅行きのバスに乗った。乗客は、近くにお住まいの様子の分類すればご老体に属する、普段着の方々ばかりだ。こういう方々は唯我独尊の気風が強い。はっきりいえば周りに無頓着である。停留所に停まったバスが動き出す都度、運転手氏が「危ないから取っ手につかまるか、座席に座るかしてください」と云うのだが、一向に意に介さない。マイクで繰返し放送されていることも、それがご当人に向けられたものであることも全くお気づきになっていない。覚束ないながら、悠々とバスの中を縦断して行かれるし、立っちゃいけないというのに、ドアの傍のステップに留まって仕切り板にもたれたりしていらっしゃる。さすがに運転手氏は馴れたもので、言葉あくまでも柔らかに、且つ丁寧に我慢強く注意を繰返していらっしゃる。こちらは段々に落ち着かなくなる。その内、運転手がキレてしまって、「やってらんないよ!もう私は降りるから、後は勝手にしてください!」と言い出しはしないかと気が気ではなくなる。バスは白髭橋で隅田川を渡り、明治通り沿いに暫く行く。「百花園前」という停留所で降りれば、向島百花園はもうバスの走る明治通のすぐ向こう側だ。バスを降りて、僕独りが感じていたかもしれない緊張感から解放され、ほっとした。運転手氏はこの後暫くして、亀戸駅の終点に安着するまでは、あの調子で気が抜けないことであろう。まことにご苦労様なことである。向島百花園は大名庭園や富豪のお邸庭園ではない。この辺りのご近所の粋人が、周りの文人墨客と語らって造った庭であるそうだ。出来上がったのは文化文政の頃だというから、もう200年位も前の話だ。現在は都立の公園になっており、国指定の名勝・史跡にもなっている。造園当時は新梅屋敷といって梅の名所だったそうだが、その後和漢の文学植物を集めては植えしている内に、百花園の名を冠されるようになったという。入口で入園料150円(廉い!)を払って、今見頃の花は?と訊ねると、「萩はもう花が終わってしまったし、そう云えば御成座敷の脇のバショウが花をつけているし、コフクザクラ(子福桜と書く)も咲いていましたっけ。」といささか気の毒そうな返事が返ってきた。園内には萩のトンネルというくぐり抜けがあって、花の頃は大いに人気を集めるらしい。園内は東に細長い池を配した回遊式になっている。細い道によって30ほどの区画が出来ており、それぞれに万葉集や詩経に登場する草木が植えられている。入口で云われたように今は花が少ない時期であるが、それでも金木犀、アカマンマ(犬蓼)、利根アザミ、ホトトギスなどが、しょぼしょぼと花を付けていたし、またカリン、ウメモドキ、トベラ、コムラサキなどがそれぞれに実をつけていた。教えられたコフクザクラも、池のほとりに白い小さな花をしょぼしょぼ付けていた。どうも此処の花はしょぼしょぼと咲いているのが良いようだ。綺麗に刈り込まれた木が行儀良く並ぶような小洒落た庭園では無く、何となくやりっ放しほったらかしで、草ぼうぼうの感じがするが、それでも荒れたりすさんだりした感じではなく、ちゃんと要所々折々にはさりげない手がかけられていることが知れる。こういう「さりげなく見えて実は手がかかっている」のは、やはり江戸情緒なのかもしれない。適当な縁台に腰を下ろして、木々の枝越しに秋空を眺めていると妙に落ち着いた気持ちになる。枝越しのビルを網膜から消してしまえさえすれば、江戸とは云えぬまでも昭和の頃を偲ばれるような気分だ。小奇麗にまとまった庭よりは、こういう庭の方が僕は好きだ。園内には方々に句碑もある。回遊路にはぼんぼりの様なのに詩が書いてある。庭園の中、御成座敷に近いところに水琴窟を見つけた。水琴窟は、底に穴をあけた素焼きの壺を逆さに地面に伏せてある、日本の伝統的庭園装飾だ。上から水を注ぐと、粘土質の地面の窪みに溜まった水に滴が落ちる。それが壺の中の空間に反響して、金属質の澄んだ良い音が聞こえる。京都のお寺などに良く見る他、茶室の前の蹲踞(つくばい)の傍にも置かれることが多い。郷里の家の近くの料理屋にもこれがあった。水琴窟は壺が地面に半ば埋められているのが普通だが、百花園のは壺を埋めずに地面に伏せて置いてある。手水鉢には大きさの揃った小石が入っており、小さな柄杓でその上から静かに水を注ぐ。壺の肩からは中空の筒状の棒が突き出していて、それに耳を近づけると遠くの方にかそけき琴の音が聞こえてくる仕掛けである。騒音ひしめく現代の都会では、こういう小さな音を愛でる機会は殆ど無いから、偶に出会うとホッとして嬉しくなる。百花園では地面に壺が埋けてないから、水琴窟ではなく梅洞水と名づけられている。見ていると、この梅洞水の筒状の棒の先から一生懸命中を覗き込んでいる人が居た。さすがに「其処からは音を聴くんですよ」と教えて差し上げようかと思ったが、ひょっとして何かが見えているのかも知れないので、そのままにしておいた。あの人、何か貴重なものをご覧になったのだろうか?百花園はさほど広くはなく、30分もすれば一応歩き尽くすには充分である。しかし、草ぼうぼうに見える中に、色々なものが目に付きだすと結構楽しみは尽きない。梢越しに見る空も良い。気が付くと僕は「むらさき小唄」の節を口ずさんでいた。僕の生まれるはるか前の唄なのに、なぜ知っているのだろうか!?向島の魔法にかけられてしまったのかもしれない。むらさき小唄というのは、「雪之丞変化」という映画の主題歌で、東海林太郎が昭和10年に録音したそうだ。今では知らない人が殆どだろうから、YouTubeに採録されているのをご紹介しておく。唄っているのは美輪明宏だ。この唄のどこかに「舞扇」という詞があった筈で僕は其処が好きだったのに、どこにも見当たらない。これも謎である。百花園からは、バスの他に東武伊勢崎線の東向島駅が近い。東武伊勢崎線は曳舟駅で地下鉄半蔵門線とつながっているから、帰りはそれで帰った。春になると梅の他に、節分草や片栗の花も咲くそうだから、又行ってみようと思っている。
2009.10.16
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◇ 10月14日(水曜日) 旧八月二十六日 壬辰(みずのえ たつ) 先負: 鉄道の日【厚木憧憬】 - あらま!「大間違いだよ!横浜に行くのは海老名乗換えの相鉄線。茅ヶ崎に行くのは相模線。茅ヶ崎から横浜の高島屋なんかに行けないよ!」10月12日のブログ【厚木憧憬 そろそろ締めくくり編】を発信したら、殆ど間をおかずに友人の厚木人からクレームのメールが届いてしまった。これは失礼!慌てて調べてみたらなるほど、小田急の海老名駅から横浜に向けて、ほぼ一直線に両駅を結ぶ路線が走っているではないか。JR相模線で茅ヶ崎まで行き、東海道線に乗り換えて横浜までというのは、ハレの日のお出かけとしても結構大旅行だなぁとは、最初から漠然と思っていた。しかし、僕にとっての相鉄線とは、横浜駅の片隅、崎陽軒のシュウマイを売っている屋台の近くに入口が確かあったっけか?という程度で、相鉄線の電車が一体何処へ行っているのかはとんと意識に無かった。すみません。相鉄線は正式の名前は相模鉄道といって横浜銀行・三井グループ系の私鉄だそうだが、開業以来今年で92年になる歴史があるそうだ。10年程からは大手民鉄の仲間入りをしているそうだから、これを知らないと厚木人に責められても文句は言えない。又横浜駅西口付近には多くの不動産を保有する大地主企業でもあり、友人幼年時代御用達の横浜高島屋はこの相鉄が誘致したのだそうだ。なるほど、それなら「茅ヶ崎から(JRに乗って)横浜の高島屋なんかに行けないよ!」とおっしゃるのは分かる気がする。「行けない」というのは「行くことができない」のではなく、「(他所の会社の電車なんかに乗って、相鉄の仲間の横浜高島屋に行っては)いけないよ!」というココロだったのだ。現在の相模鉄道の本線は、横浜~海老名間を結ぶ路線だが(途中から分岐して湘南台へ行く「いずみの線」と云うのもある)、あのJR相模線も、かつての相模鉄道であったそうだ。首都圏周辺の私鉄には、旧国鉄や他の私鉄、在来のマイナー路線などとの統廃合や葛藤の歴史が一般で、相模鉄道にも現在までには、JRや小田急などとの間に色々な物語があったようである。我が友人の厚木人様;よそ者の不明と軽率な思い込みによって、あなた様の幼少期の美しい思い出を歪めて喧伝してしまい、大変申し訳ありませんでした。おっしゃる通りあなた様は晴れ着をお召しになって、「ニセの厚木駅」ではなく、小田急の海老名駅から相模鉄道に乗り換えて、途中余計な街を経由することなく、直通で横浜の高島にいそいそとお出かけになっていたのですね。厚木人としては、一旦茅ヶ崎という街を経由しなければ横浜に行けない(海老名は厚木の属領みたいなものだから許せる)というのは、よそ者の度し難い誤解として、お許しになれなかったのでしょう。お蔭様で相鉄線という、首都圏にありながら、東京都内には一つも駅を持たない鉄道の存在を知ることが出来ました。少し世界が明るくなった思いです。ところで、我が埼玉県には西武鉄道というやはり大手私鉄の、いわば領土みたいなところですが、これは相鉄に倍する、いやそれどころではなく、三倍も四倍もの錯綜した歴史と路線を持っています。先ず新宿と川越(西武線では厚木と同様に、この駅を「本当の川越」、つまり「本川越」と名付けていますが)を結ぶ西武新宿線。池袋と飯能を結ぶ西武池袋線(亡き父はこれを「おわい電車」と呼んでバカにしていました。元々東京市民のウン×を畑の肥やしとして運んでいた電車だったそうです。)があります。そしてこの主要二路線に加えて、更に狭山線、西武園線、国分寺線、多摩湖線、多摩川線、拝島線、山口線、そして秩父線と、合計10もの路線がそれぞれに交差し、或いは連結してクネクネごちゃごちゃと走っているのです。地元の人間もどれがどうなっているのかちゃんと知っている人は少ないほどです。しかしそれぞれにはちゃんと由来があり、統廃合の歴史があるのは相鉄線と同じです。今度お目にかかった際には、この辺をじっくりと語り合いましょうね。
2009.10.14
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◇ 10月12日(月曜日) 旧八月二十四日 庚寅(かのえ とら) 先勝: 芭蕉忌、体育の日【厚木憧憬】 - そろそろ今まで色々厚木について独りよがりの勉強をしてきた。そろそろ一応の締めくくりをつける頃合かもしれない。余りしつこく厚木をあげつらうと、温和でありながら奥底では誇り高い厚木人の逆鱗に触れて、身辺に危険が及んでしまう不安がある。厚木の街には鉄道駅は二つしかなく、人口に較べて鉄道駅の数が少ないことは前にも書いた。二つの駅(本厚木駅と愛甲石田駅)はどちらも小田急線の駅で、都心(新宿)と小田原や箱根と、東西方向を結ぶには便利だ。それでは、南北方向を結ぶ、特に厚木から湘南方面に行くにはどうするかと云うと、JR相模線(茅ヶ崎~橋本)というのがあって、これにはちゃんと厚木駅というのが有る。ところがこの厚木駅は厚木市ではなく相模川を隔てたお隣の海老名市に存在しているのだ。又もや厚木には存在しない施設に「厚木」の名前だ!件の厚木人の畏友にそれを指摘すると、「フン!あんなものは川向こうで厚木じゃないし・・・」とつれない。僕などは、他所に有っても厚木という名前がつけられているのは凄いじゃないかと思う。厚木ナイロンは海老名市に、厚木飛行場は大和市と綾瀬市にあるのに、それぞれの土地の名前は無視されて厚木の名前を被せられているのだから、厚木人としては大いに喜んで良いだろうと思う。しかしながら、その辺は厚木人には中々複雑な思いがあるらしい。だから厚木人はJR厚木駅を認知せず、実際に厚木にある小田急の駅には「本当の厚木」、つまり本厚木と命名している。これは「川向こうはニセの厚木」というココロである。そのくせお膝もとの厚木の街はハレの日に晴れ着を着て行く場所などではなく、単に新宿や湘南地域への通過点位にしか扱われていないのだ。友人の厚木人も子供の頃は、「川向こうのニセの厚木駅」から相模線に乗り換え、茅ヶ崎経由で横浜に行って、高島屋で「デパ食」に行ったり玩具を買ってもらったりするのが、ハレの日の大きなイベントであり楽しみだったそうだ。厚木の街の影は薄い。どうも屈折した話だが、それでも厚木人の心根には密やかな誇りがあるもののようで、僕などが余りに「シロコロ、シロコロ」というと、「あんなゲテモノばっかり有名になって」と、自嘲的な中にもまんざらでも無い表情を、件の友人などはなさるのだ。厚木人は、左様に複雑でデリケートな方々だから、余り調子に乗って揶揄し過ぎると剣呑である。そうなると、天下に昂然と自慢できる厚木の誉れは無いのかと云うことになるが、実はこれがある。厚木は実は財政的に非常に豊かな街なのである。以前このブログで「都道府県の財政力指数」というのを取り上げたことがある。財政力指数とは簡単に言えば、自治体の年間支出に対する収入の割合のことだ。つまり、財政力指数が1だと、その自治体は収入と支出のバランスが取れていることになり、1を上回れば財政上黒字と云うことになるのだ。逆に1未満だと従って赤字と云うことになり、国の地方交付税の交付対象となる。つまりは「お国の紐付き」となるわけだ。厚木は1964年(昭和39年)以来今日まで45年もの長きにわたって、地方交付税の不交付自治体、つまり自主独立の財政団体としての輝かしい歴史を持っている。その厚木の財政力指数であるが、平成18年度は何と1.47であった!同年の神奈川県下市町村の財政力指数の平均は0.86、全国の都道府県平均は0.46であったから、厚木市の財政は神奈川県内のみならず、全国の中でもトップ10に入る極めて健全なものなのだ。「小江戸訴求」において厚木市がライバルと看做す川越市は、同年の財政力指数が1.07であったから、財政の健全度と自治体としての自主財政という面からは、川越市ではなく厚木市の方に堂々の軍配が上がる。厚木市の人口は22万人余り。標準財政規模は532億円超であるから、単純に計算すれば平成18年度の厚木市の収入は782億円で、年間250億円程度の財政黒字となる。これは赤ちゃんから老人までの全厚木市民が、一人あたり年間約11万円の利益を上げていることにもなる。ところで財政力指数は過去3年間の数値を平均して算出される。昨年の秋以降の経済・金融大不況の影響は、勿論未だ上の数字に反映されていない。厚木市内に著しい「シャッターストリート化」の影響なども、その後の数字にどのように反映されているかは未だ測り難い。現在の状況は、実は中々楽観を許さないのかもしれない。であるにしても、全国の殆どの自治体が永続的な財政赤字の中で低迷している中で、厚木市の健全財政の長年の実績を、厚木人としては大いに誇って良いし、又厚木の街の潜在力にも自信を持って宜しかろうと思う。さて、今まで概観してきた厚木について、幾つかのキーワードを抽出してみよう。◎ 厚木は、相模川を母、大山を父として発展した、元来「通過型」の街である。家鴨の足の形に似た厚木市の地図を見れば、厚木の街が大山に至る街道と相模川の流路を軸に出来上がっているのは明らかである。だから街に「へそ」は無いし、もっと言えば独特の文化も史跡もない。あるのは自然の地形と古来の民間慣習の流れである。しかし、これは悪いことではない。山と川が美しい事を山紫水明という。そして現在を規制する中央指向の過去(歴史)が無いことは、将来に向けて自由な発想が出来るということでもある。◎ 厚木は、わが国の梵鐘製作のメッカであった。平安時代まで梵鐘の鋳造は京阪奈地帯が中心であったが、鎌倉時代になると各地に鋳物師が分散移住し、厚木の属する相模地方には特に優れた鋳物師が移ってきた。その結果厚木は日本一の梵鐘製作地になった。この事実を殆どの厚木人は知らないか忘れてしまっているようだ。これを街興しに利用できないものか。寺院の鐘の音の響きは、現代の「癒しブーム」の流れにも乗るものだし、何より「日本一」というのは価値がある。梵鐘の素材は銅と錫の合金である。この二つの金属の配合、溶融温度、成型などは工業技術の分野であるが、梵鐘をどうデザインすれば、或いは何処にどのように帯をつければ、余韻の深い美しい音が出るかは、これは工業と芸術の融合した領域である。伝統というものもないがしろにして良いものでは無論無い。幸い厚木には、こういった分野に近い大学が(神奈川工科大学、東京工芸大学、厚木高等専修学校)設置されており、「学園都市」という面も持っているのは前にも書いた。この辺りと地域に根ざした相互連携を考えて、厚木振興の作戦を考えてみたらどうだろう。渡辺崋山の「小江戸」に頼るよりよほど実質的意義があるような気がするのだが。◎ 厚木は、養豚業が盛んだった。無論現在は、前に述べたように養豚業そのものは殆ど東北地方などに移っていってしまった。しかし豚肉の加工技術と食の伝統はちゃんと厚木に残っている。「とん漬」、「シロコロ」がその例だが、前者は生活臭が強すぎ、後者は老若男女に遍くウケルものでもなく、それぞれに訴求力が今一つだ。実は厚木にはもう一つ「厚木ハム」というものがあって、ドイツ直伝の技術を駆使して作られたハムは、本場のドイツで賞を貰うほどだという。しかし厚木ハムは個人の職人さんが努力していらっしゃるレベルで、街を活発に又元気に出来るほどの存在ではない。ハムやソーセージは好きな人も多いし、何よりある層に嗜好が偏らない。菜食主義者で無い限り、老若男女貴賎貧富を問わずハムやソーセージが「大っ嫌い!」という人は見かけない。この厚木ハムを、同じ豚肉の加工技術の賜物として、とん漬けやシロコロと共に厚木の特産としてプロモートしていく作戦はどうであろうか?原材料ビジネスより付加価値加工ビジネスは、厚木人のみならずわが国の得意とするところであるし、「厚木のトングルメ」としてのオファーの幅も大きく広がるはずだ。それに再び、厚木には東京農業大学の厚木キャンパスも設置されているのだ。◎ 厚木には温泉地が七つもある。大山詣の伝統もある。これを魅力あるものとして再開発する作戦はどうか。ここでも神奈川県初の観光文化学部を擁する松蔭大学のキャンパスが厚木市森の里にあるではないか!例えば七つの温泉と大山(観光)詣、それに市内の森林公園などの観光・休養施設を様々に組み合わせ、相互にリンクさせるような工夫をして「ぐるっと厚木一巡り」などとルートマップ化するなどどうだろう?◎ 厚木の街は道路のせいで東西に分断されてしまっている。良く整備された広域道路網が仇になって、市内には慢性的渋滞も生じている。これを物理的に解消しようとすると、道路の新設やモノレールの建設など大袈裟なことになってしまう。厚木は前に述べたように、インターネットの導入など先進的な試みに積極的な街でもあったはずだ。だからハード面ではなくソフト面で大いに工夫してこれを解消できないだろうか。例えば、駅を中心に放射状に延びるバス路線網それぞれの要所々に、ハブとなるべき場所を作り、ハブ間のミニバスやシャトルバスの運行を行なって、公共交通だけを実質的な環状路線網にしてしまうなど。◎ 厚木には存在していないのに厚木の名を称する施設や団体を、厚木のために大いに利用させてもらう。これはどうしたら良いのか。まさか「名前使用税」とかロイヤリティを徴収する訳にも行くまいし。ま、おいおい考えてみよう。いずれにしても厚木は「線」の街である。要となる文化的歴史的な「へそ」が無いと嘆くのは、無いものねだりで致し方ない。それなら線と線を結んで平面にすれば良い。平面まで行かないでも、別々の線を縦横に結んで蜘蛛の巣(Web)のような展開を計れば良い。厚木は本来様々な人やものが通過し、又交差する街である。そうすれば厚木本来の地の利、人々の心根、自然の配置を活かして、面白くも魅力的な街づくりが出来そうな気もするのだが、如何なものであろうか。厚木も厚木人も共に不思議な魅力がある。何だかいつの間にか僕にとってはそうなってしまった。地縁も無い門外漢のくせに色々お節介を焼きたくなるが、これからは「私製厚木語辞典」を気が向いたときに掲げながら、彼方から、しかも幾分斜めの方角から関わって行きたいと思うのである。《とりあえずの締めくくりにて》
2009.10.12
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◇ 10月10日(土曜日) 旧八月二十二日 戊子(つちのえ ね) 大安: 目の愛護デー【厚木憧憬】 - 続きの続きこうして厚木に付いて少しばかり勉強して来ると、何だか親近感、それも「もうちょっと頑張ったら良いんじゃない!?」という感情移入が募ってくる。知識が増えてくるほど、厚木に対する歯がゆいような気持ちが嵩じてくるのは何故なのだろう?厚木は、1980年代中期以降、ニューメディア都市構想の一環として、市役所、鉄道駅構内、図書館等市内各公共施設にキャプテンシステム街頭端末の設置を進めたり、更にはその後更にインターネットを利用した公共サービスの電子化を進めるなど、先進的試みをいくつか実施している自治体でもあるそうだが、他所の人間にはちっともそんな印象が生じない。その一方で、旧厚木宿付近はシャッターを降ろす店舗が多く見受けられる現状があり、商店会でも色々打開策を講じているらしいが、中でも埼玉県の川越市のように「小江戸」と呼ばれる街づくりを目指していると聞いた。何故川越如きが目標なのか。埼玉県に住む僕としては、「何か望みが小さいんじゃないの」という気がするけれど、考えてみれば水運を中心として街道の宿場町としてかつて栄えたという点では、両者共通しているところがあるのかもしれない。少し調べてみると、厚木はかつて東海道の脇往還、厚木街道の宿場町だった。江戸時代後期の政治家で画家としても有名な渡辺崋山は、「厚木の盛なる、都と異ならず」と記した事があるそうだが、それを根拠にして厚木人は「小江戸あつぎ創造会議」などというものを立ち上げ、「厚木=小江戸」プロパガンダの訴求を行っているのだそうだ。ところが渡辺崋山は今の愛知県の渥美半島近くにあった田原藩の家老出身の人で、厚木とは何の地縁も無い。ムムム・・・ちょっと無理があるんじゃないだろうか?第一政治家なんて今も昔も適当なリップサービスを無責任にして回る人種だ。憧れられた方の川越は、旧首都である江戸に程近く、松平信綱や柳沢吉保など幕府の重鎮が治めた街であるのに対して、厚木は先に述べたように、誰が自分の村の殿様やらよく分からない状況に置かれていた街である。よく言えば厚木は権力に庇護されたりおもねったりすることなく、民百姓が闊達に生きた街だと云えよう。そうではないか?又現在、川越には都心からの鉄道は、埼京線、東武東上線、西武新宿線、更にはそれらに相互乗り入れする地下鉄有楽町線、副都心線など、至便と云っても良いほど整備が進んでいるのに、厚木は事実上鉄道は小田急のみに依存している。その代わり道路と云う形での広域交通網は、前にも述べたように二つの有料高速道路と三つの国道が市域を縦横に貫通しており、川越街道と関越道、それと国道16号しかない川越を大いに凌駕している。(しかしその所為で厚木市中は渋滞に悩まされている)川越には蔵造りの町並みが保存されており、「小江戸」という呼び名も、多少大袈裟だと思うけれど冠する事が出来るが、厚木には往時を偲ばせるような町並みなどは残されていない。川越には江戸城の一部を移築した喜多院があるが、厚木には見るべき史跡が無い。しかし、厚木やATSUGIの名を冠したものなら(厚木には無いけれど)川越を遥かに凌ぐ。「他所に在っても厚木は厚木だ!」と主張すれば、厚木の方がエライ。川越の名物と云えば芋と芋を使った菓子の類だ。近頃は地ビールでも頑張っているようだが、まだまだ全国区には程遠い。その点、厚木は・・・・はて、厚木の特産品は何だったろうか??厚木は相模川の清流の賜物としての鮎が名産であったが、最近はご他聞に漏れず地物の鮎は激減してしまったそうだ。しかし厚木人は鮎には愛着が強いようで、鮎を冠したお祭りなどは今でも行なわれている。鮎の他にはブタである。厚木は元来養豚業が盛んな土地であった。本厚木の駅前や街中の商店街などには「とん漬」と称して、豚肉のスライスを味噌漬けにしたものを商う店が散見される。「なんだ!ただの豚肉の味噌漬けじゃないか」と云われてしまいそうだ。僕も反論したい気持ちが有るけれど、未だ自ら食する機会が無いので何ともいえない。厚木を訪れる機会が有った際にも、駅前のちょっと気になる老舗らしき店先にこれを見つけながら、「何だ!豚肉の味噌漬けだ。」と思って買わなかったのだ。この点、どうも「とん漬」の訴求力は今一つのようである。それに対して近年知名度において伸張が目覚しいのは「シロコロ」である。これは簡単に言えば、ブタの白モツを焼いた、そこいらの居酒屋で「ホルモン焼き」とか「モツ焼き」として出てくるアレである。但し、一般にホルモンとして売られ、又焼肉店などで出てくるものは、どちらも腸を割いて平たく薄くしたものをボイルしたものである。しかし厚木ではそうではない。豚の柔らかい大腸のみを生のままよく洗い、しかも割かずに管状のままで供される。これは厚木周辺で養豚業が盛んであった賜物である。脂身を適度に纏った豚ホルモンは、屠殺処理されたその日のうちに新鮮なままで市内のお店に納品される。 これを一口大に切って網で焼くと外側の皮が縮んで名前どおりにコロコロになり、柔らかながらしっかりした歯応えの外側と、内側の分厚く脂が付いている部分の取り合わせが絶妙で、ビールやお酒に良く合う。タレは店によって色々あるけれど、厚木市内の多くの店では味噌ダレが主流となっているようだ。如何にもコレステロールやプリン体だらけの、決して健康志向の食べ物とはいえないが、これは美味しい!このシロコロ、中々バカにしたどころではない。「ご当地B級グルメ」の全国コンクールである「B-1グランプリ第三回大会」(2008年)で、最高の栄誉であるグランプリ(金の箸の形をしたトロフィーが賞品だそうだ)を獲得してしまった。因みにB-1グランプリで金の箸を獲得したのは、第一回と第二回が静岡県富士宮市の焼きそば、第三回が我がシロコロ、そして第四回が秋田県横手市の「横手の焼きそば」である。厚木のシロコロ以外は、どちらも主食ともいえる料理であるのに対して、シロコロは「おかず」或いは「おつまみ」であって、こういうものが単独でグランプリを獲得できたのはエライと思う。因みに来年つまり2010年の「第五回B-1グランプリ」は、他ならぬ厚木で開催されるそうで、厚木人たちは大いに意気に燃えているそうである。厚木のコンビニやスーパーに行くと「地域限定シロコロスナック」というのも売られている。これも馬鹿馬鹿しい気もするけれど、中々美味しいのだ。しかし近隣に養豚農家が多くあったことから発祥したシロコロも、宅地開発によって侵出した新住民からの「臭い!汚い!」という苦情に負けて在の養豚農家が激減してしまったことにより、最近では東北地方の養豚農家などからの納品に頼る結果になってしまった。そういう点では地産地消のご当地名物とは云えなくなってしまったのは何となく寂しい。又、モノがものだけに、やんごとなき女性やセレブには嫌われがちで、愛好者がオッサンや若者に偏向しがちなのは無理からぬとはいえ、町興しの起爆剤としては少し弱い気もする。厚木が「小江戸」を目指してNHKの朝ドラの舞台を引っ張って来ようとしても、ヒロインがもうもうたる煙にまみれながらシロコロをつまむというのでは、ちょっと画にはなりそうに無いではないか。ところで厚木出身の有名人にはどんな人達が居るのか。先ずは何よりキョンキョンこと小泉今日子である。キョンキョンは僕でも知っている。そして、榊原郁恵も厚木出身だそうだ。タレントとか女優ということになると僕が知っているのはこの程度だ。2006年ミス日本の小久保利恵と云う人も厚木出身だそうだが、この分野に闇い僕としては「あ、そう」と云う程度でしかない。他に名取裕子も厚木出身と看做すこともあるそうだが、彼女は高校時代を厚木で過ごしただけだと、我が厚木出身の知人はなぜか名取裕子を厚木人とはお認めにならない。良く知らない小久保さんは別として、小泉今日子、榊原郁恵、名取裕子(知人は反対するだろうけれど)と並べると、なんとなく「厚木人」としての共通項が浮かび上がってこないだろうか?つまり、基本的に明るい性格で、しかししっかりモノで、元気が良い庶民派・・・・?男性だと、スポーツ界には何人も厚木人がいらっしゃるらしいが、これまたこの世界に闇い僕が知っているのは原辰徳。尤も彼は生まれたのは福岡で、育ったのは相模原。厚木には小中学校の6年間を過ごしただけだというから、彼を厚木人にするには異論があるかもしれない。あと、僕が知るのは政治家の甘利明だ。彼は先の麻生内閣では行革担当大臣を務めた人である。人柄や政治姿勢に関しては良く知らないからうっかりしたことは云えないが、自民党の海千山千の政治亡者連中と較べれば、何となく鳴かず飛ばずで印象が薄い気がする。尤もこれは僕が単に無知である所為かもしれない。《もう少し続く》
2009.10.10
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◇ 10月8日(木曜日) 旧八月二十日 丙戌(ひのえ いぬ) 先負: 寒露今日は二十四気の寒露。太陽の黄経は195°にまでなった。春分を起点とする太陽の暦年も過半を過ぎた。そろそろ秋たけなわのニュースが各地から聞こえてくるようになった。この辺でも二三日前からキンモクセイの香りが其処ここに漂っている。【厚木憧憬】 - 続きさて、厚木市は神奈川県のほぼ中央を占める街で、新宿から小田急の特急に乗れば約45分の距離(駅は本厚木)にある。富士山麓の山中湖に源を発した相模川に、東丹沢山地に発した中津川、鮎川が相模川に合流して市中を南に向けて流れている。街の南では玉川も合流している。このため、複数の河川による侵食が複雑で、厚木付近には台地と侵食盆地が交互に入り組んでいる。大まかに云えば厚木の街は相模川による沖積平野の上にあると云ってよい。つまりかつて海進が大きかった時代には厚木の辺りは海だったのだ。西の方角には丹沢山地(最高峰丹沢山は標高1567m)が広がり、その東端には江戸市民の信仰を兼ねた行楽の対象であった大山(別名雨降山、標高1246m)もある。この一帯は丹沢大山国定公園に指定されてもいる。余り知られていないかもしれないが、厚木周辺には温泉地も多く、ざっと並べてみると厚木温泉、厚木酒井温泉、飯山温泉、かぶと湯温泉、七沢温泉、広沢寺温泉など七箇所もの温泉地がある。総じて泉質はアルカリ性低伸張泉という、つまりは浸かっていると、つるつるすべすべする、所謂「美人のお湯」である。しかし当世人気のあるような形での温泉宿や温泉地の開発は余り見られず、よく言えば鄙びて素朴な、意地悪く言えば投げやりで工夫のない温泉地ばかりであるように思える。この辺革めて当世化の努力をすべきか、或いはそのままにしておく方が良いのか、判断が別れ悩ましいところである。厚木の辺りの相模川には、流路に沿って自然堤防が発達しており、旧厚木町や岡田の集落がその上に立地している。厚木神社の辺りで川原に降り、視線を低くして上流の方角を見はるかすと、人の手で弄繰り回される以前の相模川の景観が偲べるような気分になる。本厚木駅の周辺は、かつて稲作が盛んであり一面の水田地帯であったが、市街域の急速な発達によって水田が埋め立てられため、1970年代以降地盤沈下が深刻な問題になっている。ここで厚木周辺の歴史を概観してみよう。厚木の辺りでのヒトの暮らしの歴史は縄文時代にまで遡る。県立厚木北高等学校の付近には縄文集落の遺跡も発見されている。中世に至ると厚木付近は大江氏(鎌倉幕府の政治家)から別れた毛利氏の所領となる。毛利氏はやがて厚木を離れて広島(安芸の国)に移り、やがて戦国の大大名になって関が原の戦いでは西軍の総大将になった。(そして負けた)14世紀頃の厚木はわが国最大の梵鐘生産地であった。つまりお寺の鐘を作る事にかけては、厚木はかつて日本一だったのだ。何故此処でお寺の梵鐘の生産が盛んになったのかはさっぱり分からない。近世になると、厚木は幕府領(天領)・旗本支配地、そして下野烏山藩や相模小田原藩、下総佐倉藩、武蔵金沢藩などの数多くの藩領に細かく分割され、その支配区分も錯綜した。幕末の頃はこの付近の村のほとんどが複数の領主により支配される有様で、一体オラが村の支配者は誰であるのか誰も知らないという状況であったのだそうだ。1868年になって、厚木の旧旗本支配地が神奈川県に属す事になり、その後の廃藩置県による統廃合を経て現在のような形になった。尚厚木市としての市制発足は1955年(昭和30年)の事である。古来厚木地域は相模川を利用した水運・交通の要衝であり、津久井-平塚間の中間交易や、大山街道に至る大山詣の宿場町として発展した経緯がある。そのため、中卸業者が多く、かつての旧厚木町市街地域には問屋街が形成されていた。水運が盛んであったことにより、川沿いに木材の集散地があり、厚木の名は「集め木=アツメギ」が転化したことに由来するといわれている。現在でも厚木は神奈川県央地域の物流拠点となっていて、東名高速道路と小田原厚木道路のインターチェンジや、国道129号、国道246号、合同バイパス、国道412号バイパスなどの主要国道が存在し、それぞれが市内で交差している。ところが皮肉なことに、そのこと自体が市内での慢性的渋滞の主要原因になっている。また、129、246、412の三国道が合流したバイパスは、市の中心部の商業地域(旧厚木町)とその他の西部地域とを分断する形で作られてしまったせいで、厚木の商業地域の発展と拡大を妨害している。これを解消しようと20年余り前には「厚木都市モノレール構想」が模索されたが、バブル経済崩壊と地元バス会社の大反対によってあえなく中止。今でも一部の厚木市民の見果てぬ夢として、その資料は厚木市立中央図書館に所蔵されているそうだ。モノレール構想はかつて我が郷里の岐阜市にもあった。市電を廃止するに際して市内の交通手段として構想されたようだ。「岐阜にモノレールが走っとったらえぇがね。名古屋にもモノレールはあらへんで。」と構想されたのだが、結局沙汰止みになってしまった。多分やはりお金の問題だったろうが、バス会社が大反対したかどうかは知らない。いずれにしても岐阜の街には渋滞するほどの車は走っていなかった(今もそうだろう)から、「モノレールなんかカネばっかかかってとろくさいで止めよまいか」となったのだろう。いずれにしても、モノレールと云う乗り物は日本の街にはどうも馴染まない。立川のモノレールも決して元気では無さそうな様子だし、浜松町から羽田に通じているような、特殊事情があるところにしかおそらくは向かないのであろう。厚木にもモノレールはどうにも似合わない。本厚木の駅前から森の里まで、田圃や民家の上を高架にぶら下がるか或いは跨るかしたハコに運ばれていくのを想像すると、却って時代錯誤の駕籠道中のような気がする。これが中止されたのは厚木人の英断といえる。また、同時期に小田急線の本厚木駅から愛甲石田駅の間に新駅を設置するという動きも厚木市が中心になって進められたが、これもあえなく中止となってしまった。厚木は、縦横に伸びる幹線道路、東名高速道路など広域的な交通利便性には優れている。しかしその一方で、足下の市中心部では交通渋滞が慢性的で、市民は等しく迷惑している。特に鉄道駅が2つしかないため、厚木市民の日常の交通手段としてはバスが偏重される。バス路線網は、旧厚木小学校の跡地にある厚木バスセンターと本厚木駅を中心に放射線状に展開している。しかし前述の慢性的渋滞と、環状路線網が造られていない事により、都心など他の街に仕事のある厚木人は朝夕の混雑と渋滞に、慢性的に難渋を強いられている。他人に尽くして自らの苦難に耐える。厚木人の多くに共通する美風は此処にもあるのかもしれない。それからちょっと意外であった、厚木は大学、短期大学が多く設置されており、小田急線沿線の大学・短期大学の学生が集まる街でもある。上にも述べたとおり(厚木人には素直に喜べないだろうが)広域交通の面からは便利な街であり、また首都圏に近いことから研究開発、流通およびサービス業などの企業も集まっている。神奈川県内の他の街は、東京都心部への通勤通学者のベッドタウンという性格を持った所が多いが、厚木市はこの点事情が異なる。何しろ昼間人口の方が夜間人口を1割程度上回っているのだ。ところがご他聞に漏れず、近年大型店舗や大学の撤退が相次ぎ、市内の産業空洞化が問題となっている。地の利交通の便に優れているのに、誘致した学校や企業には捨てられてしまう。これは厚木人にとって哀しいことであろう。比較的古い時期から発展した地域であるため、組織、企業、施設等に厚木、アツギ、あつぎ、ATSUGI等を冠するものも多いが、そのいくつかは厚木市内に登記されておらず所在地もない。その所為でしばしば誤解を受けるし、厚木人自身も当惑してしまうことが多い。極め付きは厚木飛行場である。厚木飛行場は太平洋戦争敗戦後、米国の進駐軍が日本占領の緒にした場所である。かのマッカーサー元帥がコーンパイプを咥えて軍用機のタラップから降り立ち、「日本人の精神年齢は六歳程度だ」と、今考えれば中々正鵠を得たともいえる発言をなさった場所でもある。正に日本の戦後は厚木飛行場から始まったといえる。ところがこの戦後日本の歴史を画したともいえる厚木飛行場だが、実は近くの大和市と綾瀬市に跨って存在するのであって、厚木市にはそのかけらもない。それなのに何故厚木飛行場と呼ばれるのかについては、一薀蓄を傾ける必要があるが、それはともかく、現存する米海軍の厚木基地はまだUS Naval Air Facility Atsugiであるし、此処を共同使用している海上自衛隊でも相変わらず正式名称は海上自衛隊厚木航空基地である。厚木飛行場と厚木市の間は相模川や海老名市で隔てられており、厚木とは陸続きですら無い。厚木市には付帯施設も関連施設も全く無い。要するに厚木はここでも名前だけ使われてしまっているのだ。因みに、厚木出身の我が畏友も、厚木飛行場は「見たことはないけれど、厚木のどっかその辺に有る」位に思っていらしたようで、僕から初めて事実を知らされて愕然となさっていた。どうも厚木人は、厚木ナイロンも厚木飛行場も厚木と云う名前があるから厚木なのであって、それが何処にあろうと別に気にしないという鷹揚な気持ちをお持ちのようである。《まだ続く》
2009.10.08
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◇ 10月6日(火曜日) 旧八月十八日 癸未(きのえ さる) 先勝: 国際文通週間【厚木憧憬】 - 承前このところ厚木が気になっている。街にはそれぞれの表情が有る。それは公平や客観的な印象などではない。あくまでも僕の主観で捉えたものである。そういう表情に基づいて、僕には好きな街、そうでもない街、何となくしっくり来ない街、くつろげる街、憧れる街などがある。僕は岐阜県の南部、濃尾平野が南に向けて広がり始める岐阜市という街に生まれた。青春時代の数年間を長野県中部の松本市で過ごし、血気に燃えた青年から今日までは、首都圏の特に西南部で活動している。今は埼玉県南部の所沢市に住み、仕事の場所は東京である。岐阜市は生まれ育った土地でそれなりの愛着はあるが、街そのものとしては大した愛憎もない。幼児期から少年時代を過ごす土地は、自分の意識が急速に拡大していく中で、常に周辺に対する発見と否定が錯綜する場所であり、土地や人に対する愛憎こもごもが、やがて地縁という無色透明に近いものに昇華していくのであろう。松本市を核とする安曇野一帯は、最初は単なる田舎町でしかなかった。松本はお城を中心とした観光地、北アルプス登山の入口、そしてリンゴや葡萄など高原農業の土地であるが、「亡命家の街」でもあった。暮らし始めて暫くして、土地元来の農耕文化に根ざした層と、東京から失意と共に亡命してきた芸術家、作家、学者の織り成す層が、松本と云う街と周辺の安曇野で重層的に絡まりあっていることを発見した。以来、付き合うほどに強い愛着を覚えている。今では松本に程近い安曇野の一角に、温泉付きのコミュニティでも作り、気の合った友人達と終の棲家と成したいというほどに、その愛着は嵩じている。所沢市はありきたりの東京のベッドタウンでしかない。しかし暫く前から狭山丘陵などに、意識して里山の自然も多く残され整備されるようになった。今では色々再発見をしつつあるが、やはり安曇野には及ばない。東京は、・・・東京として一括りにするには大きすぎて、纏めては云えない。王子の街は亡き父の縁の地でいささかの思い入れはある。飛鳥山や王子権現もある。王子の狐も未だ住んでいるような・・・。本郷や千駄木、谷中、根津、神楽坂など尊敬する漱石など文豪に縁のある街は、坂の上り下りも楽しいし好きだ。神田や千代田区の、猥雑と格式がモザイクになっているような雰囲気も好きだ。それに較べて新宿や六本木界隈は嫌いだ。さて本題の厚木は・・・、厚木は別に何の感興もない。第一厚木などつい先ごろまでは、厚木ナイロンと米軍厚木基地くらいしか頭に無かった。しかし、最近になって親しくお世話になっている方が厚木のご出身であったために急に身近な街になった。お付き合いで何度か厚木の街にもお邪魔したことがある。もっぱら小田急の本厚木駅とその周辺程度ではあるが、どうも何ともまとまりの無い街である。岐阜市なら長良川と金華山、松本ならお城と浅間温泉と云うような、いわば「町のへそ」と云うべきものが厚木には無い。尤もこの点は所沢も同じであるけれど。僕にとって街というものには、何か風景的或いは心理的な「へそ」が無いと落ち着かない。魅力も感じられない。そういう点では厚木にはお城も無い。厚木神社というのはあるが、街の名を冠した神社であるのに、お社も小さくみすぼらしく、相模川の土手縁にポンとあるばかりで、とても町のへそとしての趣は無い。しかし、最近になって厚木には日本語の特異地帯というユニークな特徴があるらしいことを知った。例えば厚木では「歩いて」を「歩って」と促音で言う。これは独り厚木だけでなく周辺でも同じようだが、厚木人はそれを標準語だとして譲らない。「大つごもり」は「大つもごり」だし、「おみやげ」は「おみあげ」、「しゃがむ」は「しゃごむ」である。厚木人はこれを当然「標準語」であると、恬淡として疑わない。そも厚木人には「標準語」という概念自体が無いように見受けられる。これは名古屋人が味噌カツやきしめん、櫃まぶし、天むす、白たい焼きなどを名古屋独特のものではなく、当然の如く全国区の食べ物だとして疑わないのと共通する。言葉の発音上の変形だけではない。厚木では「台風一過」は「台風一家」であり、「理不尽」は「理不純」である。それぞれは単なる誤解ではなく、聞いてみると中々の含蓄がある。僕のように教科書的な言葉の蓄積しか無いものからすれば、厚木人の言葉のセンスは時に新鮮ですらある。「眼からうろこ」ではなく、眼にサロメチールくらいの刺激はある。それは連綿とした歴史による方言と云うものでもない。さして知られてもいない土地で暮らす、或いはそこで生まれ育った厚木人の感覚や心持をそこはかとなく醸し出している。これはむしろ厚木語と云ってもいいものかもしれない。件の厚木人の方から、折に触れて言葉を採譜していく内に、僕にとっての厚木は一種独特の存在感を主張するものになってきつつある。それは好きな街、そうでもない街、或いはなんとなくしっくり来ない街のいずれのカテゴリーにも属さない。厚木語という新鮮な言語表現を通じて「何となく気になって仕方が無い街」になりつつあるのである。今後気が向いたときに、「厚木語」の一端を紹介していく。これは無論体系的な調査・研究などではない。採譜対象は極々限られている。(事実上一人しかいない)それに、ユニークな厚木語は、厚木人であっても気を緩めてくつろいだ状況下にないと自然には出てこない。緊張したり「よそ行き」の雰囲気の中では、厚木人といえどもNHKや文科省が日本人に強制した「標準語」を使ってしまうのである。また、そうであるが故に採譜できる厚木語の語彙もなかなか思うようには増えない。そこで、今や気分的には準厚木人のような積りになりつつある僕自身が、日本語での言い回しについて「厚木語ではかくあるべし」と勝手に解釈したものも混じっている。これは言葉を通じて、厚木という日本の何処にでもありそうな街の心象風景をさぐってみたいという、いわば余計なお節介である。それでは、実は厚木人も良く知らない厚木と云う街はどんなところであろうか?少し厚木のことを勉強しておけば、親近感も増そうというものである。《続く》
2009.10.06
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◇ 10月4日(日曜日) 旧八月十六日 壬午(みずのえ うま) 大安: 望昨日は旧暦の八月十五日、つまり昨日の夜は十五夜だった。此方では空の大半は雲に覆われていたが、それでも月が昇ってくる夕刻には西空にも雲の切れ目がところどころにあって、十五夜のお月様は時折顔を出してくれた。昨日NHKアーカイヴスという番組で、キューバ危機に関するドキュメンタリーの再放送を観た。キューバ危機は1962年の10月のこと。昭和37年であるキューバ危機というと、ソビエトのフルシチョフ首相が覇権主義の野望にとらわれてアメリカ合衆国の裏庭と云われるキューバに核ミサイルを配備。時のケネディ大統領が、キューバの海上封鎖を実施し、一挙に核戦争の恐怖が広まった。それをケネディの苦悩の末の決断で回避した。そういうイメージが僕の中には定着していた。ケネディは世界を救った英雄だと、それが「伝説」の基調だった。ところがこのドキュメンタリーではそうではなく、フルシチョフのギリギリの決断で核弾頭とミサイルの撤去命令が出て、危機が回避されたのだという。キューバは1902年以来軍人出身のバチスタによる独裁政治が続き、これに乗じた当時のアメリカ政府が不平等条約を強制して、結果としてバチスタ政権、アメリカ政府、アメリカ企業(特に精糖業)、マフィア(麻薬)の四者連合によって、キューバの富がアメリカに流れる仕組みが出来上がっていた。これに反対した弁護士出身のフィデル・カストロがバチスタ政権に対する戦いを挑み、幾多の辛酸を経て1959年にバチスタを国外追放にした。革命政権の首相に就任したカストロは、飢えた国民を救済するために、食料にならない砂糖キビの栽培から穀類の栽培へと農地改革に取り組む。そして、政治体制も社会主義へと転換する。つまりは、それまでキューバの利権を簒奪し放題だった合衆国に対して公然と楯突いたのだ。眼と鼻の先のCash Cowの「裏切り」にあったアメリカは、革命によってアメリカに亡命したキューバ難民に密かに軍事訓練を施す。キューバ難民はバチスタ政権時代被っていた恩恵を革命によって失ったインテリや政治家、そして富裕階級など、革命政権に恨みを抱く人々が大半だったそうだ。そして、アメリカは自国を表に出すことなく、革命政権を打倒するために亡命キューバ人による新造の武装勢力をキューバに送り込む。これが所謂ピッグズ湾事件である。このピッグズ湾侵攻は惨めな失敗に終わり(アメリカは約束した援軍を送らなかったのだそうだ)、政権初期のケネディを手酷く痛めつける。そしてケネディ大統領はキューバ革命政権の打倒を公然と政策に掲げるのだ。そして様々な破壊活動と云う形で、これを実行していく。カストロの暗殺計画も、結局失敗したがこの時期にCIAによって実行されたのだそうだ。カストロはこれに対抗しようとするも、国民は飢え、カネもなく進退窮まる。それでも諾々とアメリカに屈する事無く、アメリカの圧倒的な軍事力の前に抵抗して「玉砕」まで覚悟する。ここにソビエト連邦が登場する。折りしも東西冷戦の気運盛んな頃である。ところが核ミサイルの配備においてソ連は米国に圧倒的な遅れをとっていた。世界の社会主義国の盟主としてソ連としては何とかしてアメリカ合衆国に拮抗しなければならない。そこでキューバに目を付ける。何といってもキューバはアメリカの裏庭だ。そこに核ミサイルを配備すれば、アメリカにとっては未曾有の脅威になる。フルシチョフは「キューバをハリネズミにするのだ。アメリカがキューバを飲み込もうとすればエライ事になる。」といったそうだ。カストロも核ミサイルを渇望した。核ミサイルさえあれば、アメリカも易々とキューバには手を出せない。「近くの国はわが国から全てを搾り取ろうとしている。そこに手を差し伸べてくれる国がある。私は1千発でも核ミサイルを配備してほしいと望んだ。」後年、カストロはそう述懐している。以来キューバへの核ミサイル配備を急ぐソ連と、打倒キューバ革命政権を掲げるケネディ政権との暗闘が始まる。アメリカはキューバ上空に頻繁に偵察機を飛ばして威嚇偵察を実行する。キューバ軍はソ連よりの指示で迎撃を禁じられている。眼と鼻の先を半ば公然と飛行していく偵察機を目にしながらキューバは苛立ちを募らせる。当時既に核兵器の使用に際しては「相互確証破壊」という考え方が有った。これは英語ではMutually Assured Destruction、略してMADという。つまり、一旦核兵器をぶっ放すと、相手方は生き残った基地から核による報復攻撃を行う。すると今度は別の側が又生き残った基地から核報復攻撃を行う・・・。その結果お互いに壊滅的な状態に陥るまで、歯止めの無い破壊が続くことになるという考え方である。まさにMADであるが、核保有国はそういう推移になることを熟知しているため、その故に核兵器は戦争の抑止力になるというのだ。まことに危うい考え方だが、当時の米ソの首脳の頭にMADが有った事は事実である。つまりフルシチョフがミサイル配備を督促・推進しながらも、キューバ軍による攻撃を禁じたのは、アメリカとの全面核戦争の引鉄を自らが引くのを畏れたことによる。しかし、現場のカストロの苛立ちは募り、ついにキューバ軍はアメリカのU2偵察機を撃墜してしまう。それ以前の偵察飛行により、アメリカは既にキューバにミサイル基地の建設が終わっていることを知っていたから、ケネディはカリブ海全域に渡る海上封鎖を発令する。同時に欧州のNATO軍と国内の米軍にも「デフコン2」を命令する。デフコンとはDefense Controlの略で、デフコン1になると最早現実の核戦争状態である。デフコン2はそれに次ぐレベルで、簡単に言えば米国とNATO軍全軍が臨戦態勢をとるということになる。一方のフルシチョフは、ミサイルと核弾頭を海上輸送中の全ての艦船に対して直接命令を出し、「海上臨検中の米国艦船に停船を命じられたら、その時点で攻撃を受けたと看做せ。」と指示する。所謂キューバ危機である。この危機は、アメリカの偵察機がキューバにミサイル基地を発見した翌日の1962年10月15日から13日間続く。この間、アメリカ国民はもとより世界の人々は初めて現実の核戦争危機に直面し、尋常ならざる恐怖を味わったそうだ。アメリカ国内では缶詰や水などの買占め騒ぎも起こったという。ソビエトでもヨーロッパでも、人々は固唾を呑んで事態の推移を見守り、祈ったのだそうだ。上にも述べたように、最終的にはフルシチョフの譲歩によってキューバ危機は一応回避され、従って我々は未だに生きている。カストロは最終局面では全くつんぼ桟敷におかれ、自国の運命を大国間の頭越しのやりとりで決められたことに激怒し、核攻撃を声高に叫んだそうだ。実際には、U2偵察機による発見以前にキューバの核ミサイル(の少なくとも一部)は発射可能の状態になっており、発射しようとすれば出来たのだそうだ。そうなると、大陸間ミサイルの能力に劣るソ連は、ヨーロッパでの戦端を開くことを迫られ、第三次世界大戦が勃発することは避けられなかったという。果たしてケネディが英雄だったのか、そうではないのか。歴史は多面的なものだから、単純な善悪はいつまで経っても定めがたいところである。しかし、僕としてはこのドキュメンタリーを観て幾つか印象に残ったことがある。(1) 1962年というと僕は中学生か高校生だった筈である。しかし、キューバ危機の期間中の事は全く記憶にない。世界中の人が恐怖に怯えたというのに、これはどういうことであろうか?或いは日本では第三次世界大戦や核戦争の恐怖は真剣に、深刻に取り上げられなかったのであろうか?或いは僕だけが脳天気な少年だったのだろうか?(2) 自国の利害や損益に係る事であっても、「自由と正義(と民主主義)のため」と大義名分に転換し、圧倒的な国力と軍事力を以って他国を事実上蹂躙していくのはアメリカ合衆国の本能のようなものである。「勝てば官軍」であるし、「歴史は勝者が創る」ものであるから、何れ何事も正当化できる。しかし、キューバ危機の後十年間にわたるベトナム戦争で大きな挫折を味わった。その後もイラク戦争への介入などでも痛い目を見たのに、基本的にその姿勢は大きくは変化しなかったように思える。それが、米国史上初の黒白混血のオバマ大統領の登場によって、変化し始めたように思うのだが・・・。そうであれば、今後の世界にはいささか希望が持てるようになったとも思えるが、果たして本当にそういえるのだろうか?(3) キューバ危機でのキューバの立場は、北朝鮮の状況に非常に良く似ている。切羽詰った時に核というカードを求めるのは、かの国においても全く同じだ。今度は世界は、これに対して上手く対処出来るのだろうか?(4) 時のケネディ政権の枢要な位置を占めた人間たちは、皆若く才気に溢れ理想と希望(そして野望でもあるが)に燃えた者ばかりであった。ケネディ大統領は45歳、マクナマラ国防長官は46歳、ラスク国務長官は53歳、大統領の弟のケネディ司法長官に至っては37歳の若さであった。若さの裏面は自信過剰、そして性急さと経験不足である。この辺、今の政権与党である民主党に何となく共通するところは無いか?久しぶりに一生懸命観てしまった番組だったが、色々考えるところが多かった。こういう番組(一言でいえば一般ウケのしない堅い番組)はNHKの独壇場である。民放ではどうしても途中にコマーシャルが入って白けてしまう。最近は芸能ゴシップまでトップニュースで取り上げるところも目立つようになったNHKだが、こういう番組には手を抜かず力を入れて欲しいと思う。そうすれば心置きなく受信料を払える。
2009.10.04
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