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先日義母の打掛の事を書いた。義母の父は彼女の嫁入りのために出入りの呉服屋に娘の晴れ姿を想像しながら注文を付けたのだろう。遺品を整理するのは大変と書いたけれど、時間をかけて故人の大切だったものへ思いを馳せながら整理するのもまた、楽しいことではある。ブロ友のしぐれ茶屋おりくさんはずっと亡きお父様の書かれたもの、集められたものを一つ一つ読み返したり、懐かしんだりして整理されている。母の着物は打掛の他にもたくさんあった。自分で着物を解いて作り直すように集めてあった端切れもたくさんあったのである。私の母が闘病中にそれらで小物の袋など作って楽しんでいたが、その母もいなくなった。どうしたものか。考えていたら、アメリカのジェニファー(10年も前に高校生の時、我が家にホームステイした子)から、お母さんが縫ったというタペストリーが届いた。縫いこんである端切れは、日本風の模様だが明らかに日本の布じゃない。彼女のお母さんは手芸が趣味で、パッチワークや刺し子を楽しんでいるらしい。10年目前に手作りのクッションを送ってもらったことも有る。そうだ!彼女なら日本の着物の端切れを楽しんでくれるだろう。上手に使ってくれるだろう。ジェニファーに聞くと、お母さんが使いたいと言っているから送って欲しいと言って来た。日本の布を使った手芸の本と義母の着物の端切れを最初はEMSでそして船便で別に一箱、ジェニファーのママのグレイスに送った。グレイスからはすぐに返事が来て、喜んでいる様子が伝わってきた。彼女の手によって、それらはどうのように再生されるのだろうか、ちょっと楽しみ。
September 10, 2013
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断捨離って難しいものですねえ。これも何度も書いたけど、別にことさら大きな声でいうわけじゃないが、私は4人の両親をほとんどその最期まで我が家で介護した。最後の最後の1週間ぐらいは本人たちの希望で、我が家であったり、ホスピスであったり。最期を看取るということは、彼らの愛着を持って集めたもの、使ったものの処分もするということなのである。4人分。先日その最後の母の家の冷蔵庫を処分して、後は母の着物を少し残すだけとなった。義父と半身不随の義母が20年以上前我が家にやって来た時、義父一人では処分判断出来ないで、義母の着物を入れたまま桐の箪笥を5棹持って来た。義父が亡くなってからその箪笥を1つずつごみに出し、大量の着物を袋に入れて出した。それでも、結婚式に義母がその父から贈られたお色直しの振袖や訪問着は少し直して、古いものが好きな長女が結納の時や卒業の袴と一緒に着た。それでもまだまだ残っていたのである。つい先日まで。しかし、この、残務処理、もし私が残したら、娘たちに回すことになる。本当に大変なのである。出来るだけ自分のものも含めてつけを回さないようにしなければと思うこの頃。そこで母の着物は9月の3回忌後にすることにして、まずは義母の残っている物を処分した。着付け教室の先生をしている交流協会の友人に電話して、外国人に着物を着せるイベントに使えるものはそうしてもらい、義母が手を通してない着物は着たい生徒さんがいたら着てもらうようにケースごと持って行ってもらった。最後に残った義母の鳳凰の刺繍の花嫁衣裳。私も結婚式に着せてもらった花嫁衣裳。捨てがたいけれど、持っていてもしょうがない物でもある。古くなる一方だ。夫の伯母は彼女の打掛を衝立にしたと言うけれど、母のこれは金糸の続き柄なのでそれも出来ないし、もし作ってもそんな大きなもの我が家じゃ飾るところもない。先の友人に相談して、交流協会で役立ててもらうことにした。そして先日、花嫁衣装がお嫁に行ったのである。これを着ている母の写真とこれを着ている私の写真と、上の写真は思い出に残して。
August 29, 2013
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「忍耐トマト」は私の造語である。テレビを見ていたら水を与えるのを極力減らして、耐えさせた甘いトマト栽培の話をやっていた。アンデス原産のトマトは水が無く耐え忍んだトマトの方が甘いんだそうだ。この辺りまで書いたら、ワンパターン、分かりやすい性格、書くことはすでに見破られているブログ、私の読者の方は「ははーん」と、ピンとくる人もいるだろうなあ。我が家の庭の角に作った猫の額程の畑での今年の収穫第1号は下の写真の玉ねぎ。放っておいたら勝手に大きくなってくれた玉ねぎ。母の家だった庭に夫が芝生を剥いで耕して作った1畳程の畑での収穫のジャガイモが2番目。本当はこの写真の倍以上採れた。夏の初めに毎日毎日どんどん大きくなって収穫が続いたのは2本のきゅうりの苗木からの収穫。イギリス旅行中、適当に水やりをしてもらうよう頼んだ友人が言った。「台風が来そうだったから、支柱をしようと棒を立てたのに、深く耕してないから、棒もささりゃしない」だろうね。ナス、ピーマンは勉強もしないいい加減農夫なのでちょびっとの収穫。今はプランタンのハーブ、赤く色づいた唐辛子、ムラサキから赤に変色中のパブリカ、毎日毎日伸びて、何も手入れをしないのに毎日毎日山盛りおひたしになるツルムラサキが育っている。そしてもれなくミニトマトも母の家の庭で栽培している。たった2本の木から200個以上のトマトが採れた。昨日の雨が降る前の3週間ほどのカラカラ天気中、1週間ほど山の家に行っていた事は書いた。もう十分収穫して木もきっと枯れるだろうと、トマトの水やりは頼まなかった。 落ち↓トマトは耐え忍んだのである。見捨てられたのも知らず、水が無くても、実を結び、大きく育み、耐えに耐えて甘くなった。今日、もうないだろうとその残骸を見に行った私、けなげにまだ成長し続けているトマトの木から50個ほどトマトを収穫し、イチジクのコンフォートを作る片手間にトマトソースを作った。今夜の夕食は豚肉とハーブたっぷりのトマトソーススパゲッティ。「このトマトソース甘いでしょう?」夫に聞いた。「家のトマトだろう?」察しがよろしいようで。一緒のテレビ番組見ていたんだった。
August 26, 2013
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イギリス旅行記やっと最終章。「お母さん達、今日予定は有るの?」娘が聞いてきた。帰国は夜の7時過ぎ、ヒースローまでこの頃は娘の家からタクシーで行くことが多い。3人ならヒースローエクスプレスとそう変わらないよと、娘がインターネットで予約してお金を出してくれる。(単に後で払わないというだけか)。1時間程で着くから、4時に家を出れば十分間に合う。何にも予定が無いというと、「じゃあ、女王陛下の誕生日イベントを見にマルまで行こう」と言って来た。女王の誕生日は4月21日。でも寒い時期だから、6月にお祝いイベントをやるのである。私たちは朝、シートを持って9時頃家を出て、セントジェームスパークまで歩いた。途中でサンドイッチとおクッキー、飲み物を買う。セントジェームスパークには前日と違って、ウェストミンスター寄りの首相官邸が有る側から入る。官邸の横、式典の観覧席が組んであるホースガードの庭には、おめかしした招待客が並び、遠巻きにたくさんの観客が垣根を作っていた。私たちは公園を縦に突っ切り、アドミラルアーチとバッキンガムを結ぶ、マルの両サイドに作られたパイプのバリケードの観客の層が薄い所に張り付いた。10時頃から始まり一連のイベントはざっとこんな具合 1.バッキンガムから全王室警護隊がホースガードに移動、パレード 2.女王様初めロイヤルがホースガードに移動 3.ホースガードで閲兵などの式典 この間1時間程 4.ホースガードから全衛兵がバッキンガムに移動 5.女王様たちがバッキンガムにお帰り 6.ホースガードの招待客や観客がマルを通ってバッキンガム宮殿前に移動 この間、私たちは公園の芝生にシートを引いて、サンドイッチを食べる。 たくさんの人が公園内を行きかい、家族連れがピクニック。 7.バッキンガム宮殿バルコニーから女王様は観客に手を振られ、祝福を受けられる。 公園からは見えないので、声も聞こえないのでなおピクニック続行。 8.バッキンガム横のグリーンパークで祝砲が20発ぐらい鳴る。 セントジェームスパークの鳥がその都度一斉に飛び立ち、右往左往するのを眺める 9.そろそろかなと、カメラをアドミラルアーチの方向上空に構えて待っていると、 轟音と共に最初はヘリコプターの編隊が、そして輸送機のような大きな飛行機が 飛んで来た。 何組かの曲芸飛行の後、レッドアロー編隊がカラーの雲を引いてバッキンガム方向 に消えた。 10.シートを畳んで家に帰り帰国の準備をした。 この日面白かった発見、 その1、衛兵はマルの道路の両サイドに等間隔でバッキンガムからホースガード まで並んだが、一度、大きなコンパスのようなものを持った兵隊が、そ のコンパスで距離を測り、立ち位置が違っていると横へ横へそしてパチン と靴を鳴らして、立ち位置訂正をしていたこと。 その2、馬のうんち掃除機(バキュームカーみたいの)が大小2台有って、全隊が ホースガードに移動した後、きれいに道路を掃除していたこと。 馬は動きながらうんちをするのでそれはそれはたくさんの落し物が・・ それではそのバキュームカーは写っていませんが、本日もデジブックで Trooping the Colourを。 *注意 音が出ます。長いです。
July 24, 2013
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さてコツウォルズから帰って翌日は、娘が出勤してからごそごそ活動開始。まだ、イギリスに着いて5日目。のんびりとロンドン郊外のキューガーデンに向かう。何と言っても今回のロンドン旅行のテーマはガーデンズ。花とガーデンを期待して行ったのだが、イングリッシュガーデンはどこ?馬鹿が付くほど広大な庭園には植物園、温室、宮殿、森(ちょっと暗く道に迷う)ピクニックエリア、池、中国の建物、空中散歩エリアなどが有る。中には「Minka House」なんて竹藪に囲まれた藁ぶき屋根の日本古民家と庭園の地域も有った。民家ですでに家じゃない、なんて突っ込みたくなるけれど・・・。花を期待したら、ちょっとがっかりなのである。日本の民家の周りの色とりどりのシャクナゲは見事だったけれど、何しろスケールが大きすぎて、狭い面積にぎっしり花を植えるイングリッシュ庭園ではない。イングリッシュ庭園て、イギリス特有の長屋のような繋がった家々の裏に、木塀で囲まれた狭いヤードをいかに美しく見せるか競う所から始まったんじゃないだろうか。その意味で庭園内を汽車型連結バスで廻らなければ一日では廻りきれないキューガーデンにイングリッシュガーデンを期待してはいけないのだろう。はたして、我らはバスを降りて、木々の下に咲くブルーベルを見に森に入って道に迷った。お昼を食べて、キューガーデンの駅に帰る途中。夫が聞いてきた。「この後は?」「ピカデリーで本を買う」と、駅前で夫が指さした。「本屋ならそこにあるよ」なるほど、可愛らしい本屋が有るじゃないか。小さな本屋なのに、その右半分を子供の本が占めていた。それぞれの棚にはたった一人の店員さんのお薦めと読後感想が書いてある。その表示がとっても可愛らしく素敵だ。手に取った本が面白いか聞くと「何歳の子?男の子?女の子?女の子ならこれがきっといいと思う。絶対面白いと思う」英語の苦手なウサギ、子供の本の多読中。もってこいの本屋ではないか。そこで、またもやいつものように知り合いの子供に本を買ってあげる素振りを装う。私の英語で、その知り合いの子供がどのくらい本が読めるか分かってしまうのだろうが、本屋のお姉さん、そんなことはおくびにも出さず親切に本を選んでくれた。買った本は7冊。これで今日は、ロンドン中心部の本屋に行かなくても良いことになった。しかし我ら5時半からのランガムホテルのアフタヌーンティーを、ホテルで待ち合わせて仕事帰りの娘と食べることになっているのであった。やっぱり夕方、本を買う予定のピカデリーのお隣、オックスフォードサーカスに出て行ったのだった。もちろん、最初は写真にない、グラスの中の果物(たぶんラズベリー、あえて聞かなくてもいいのがいい加減な性格)のゼリーからスタート。なみなみと注がれたポットの紅茶。何種類かのサンドイッチ。サンドイッチのパンもたぶん自家製だろう。ココアの生地だったり、緑色だったりするからホウレンソウかな。さすが賞を取っているだけのことはある。バスケットに入った温かくて、粉砂糖をふんわりかけたスコーン。最初に出て来てテーブル脇に飾られ、ウェイターのサービスを待っていたお菓子たち。お食事ではないけれど、一応格式あるホテルなので、袖なしワンピースとヒールの靴で行ったのでした。まだまだバラの咲かないロンドン、寒かった。
July 9, 2013
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キフツゲート・コートガーデンズを1時頃出て、また羊の丘を下る。2時少し前、ホテルに到着、預けておいた荷物を受け取り外に出ると、タクシーの運転手ケイトが待っていた。昨年のブロードウェイでのピックアップといい、予約しておいた時間通りだ。「どうだった?ヒドコートとキフツガーデンはきれいだった?」聞いてきた。その日はロンドンに帰るためにシェークスピアの街、ストラトフォード・アポン・エイボン駅に送ってもらうように頼んであったのだ。しかし、電車の時刻6時までにはまだ時間が有るし私はストラトフォードは2回目、娘は3回目。そこで駅ではなく、まだ行ったことが無いシェークスピアの奥さんのアン・ハサウェイの生家に寄ってもらうことにした。街に入り、エポン川を渡り、観光客がいっぱいの見覚えのある街並みを通り抜け、到着。そこから街までは歩くと少しありそうだ。ケイトとはそこで別れる契約だったけれど、駅まで荷物を持って歩くのが大変なので、頼み込んで、駐車場で待っていてもらった。「急いで戻るから」という私に、彼女は「もう来ないかもしれないから、ゆっくり見ておいで」 という。その後、エポン川の川沿いにあるシェークスピアの眠る教会の裏庭まで送ってもらいケイトに別れを告げた。車を降りるとき、彼女が小さな包みを私にくれた。チッピングカムデン付近の絵が描かれたカードセットだ。そして、去年私がもらって、キープしておいた見慣れた彼女の電話番号の書かれた印刷物の裏に、メッセージが書いてあった。シェークスピアのゆかりのいくつかの場所を見学し、ゆっくりと電車が出るまで街でケーキを食べお茶を飲んで、街外れの駅からロンドンに帰る電車に乗った。電車の中でケイトの手紙を読みながら、ふと思った。行きずりでなく、こんなふうに人と何回も繋がることが出来る旅がまた出来るといいなと。これも私の旅のスタイル。チュルトナム・スパの駅でケイトの車に拾ってもらってから、夢のような長い長いコツウォルズの3日間だったような気がした。
July 7, 2013
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朝、ホテルで朝食を済ませて、オーナーのサイモンに予定のハイキングコースを告げると、彼はホテルの分厚いハインキングファイルからコーティングしてある1枚を抜いて、キフツゲートガーデンとヒドコートマナーガーデンを含むコースの地図を貸してくれた。「楽しんで来てね」と前夜注文しておいた、ものすごく大きくて豪華そうなサンドイッチとおやつのブラウニー、チップス、水の瓶が入ったランチパックを渡してくれた。瓶の水はさすがに重いので、早朝、ホテルの近くのスーパーで私が買っておいたペットボトルの水に差し替える。今回のコツウォルズハイキングは村から村へではなく、幸運にもミクルトン周辺に2つも有る有名なガーデンをメニューに入れたパブリックフットパスや農道を通行するルートだ。昨年歩いたコツウォルズウェイともまた違う。サイモンが言うには休まずそのルート歩けば2時間。しかし、我ら寄り道、花園写真撮影、迷い道、ピクニック、畑の脇道でおやつ、フットパス上の羊との会話などで、その日優に5時間かかったのであるからして、今日の日記はパート1。先ず、ホテルを出る→村の雑貨屋の片隅に間借りしている郵便窓口で切手を買って、ポストカードを出す→村はずれの教会内見学→教会前の羊がうろうろしている草の広場からフットパスに入る。フットパス、どこやねん!←大阪弁になっている。かなり広い広場の3方にフットパスの木戸が有る。サイモンの地図には、大きなオークの右横を選べと書いてあるが、そもそもオークの木を知らない、それらしき木が何本も有る。皆大きい。その辺にいる牧場脱出羊に聞いても逃げるばかり。最初からオリエンテーリングの様相を呈してきた。仕方ないのでその中の1つを選ぶ。違う木戸を他の外国人(ここでは我らが外国人)グループが通過した。あっちだったかな?そして畑の道はだんだん登りになっていく、振り返るとミクルトンの村のオレンジの屋根が木々に埋もれながら小さく見えた。あの外国人(ここでは我らが・・・)達が同じ道のずっと前を行く。何じゃ、どの木戸を出ても同じだったんじゃない。幾つかの羊が逃げないための木戸を開け締めして牧場を通過する、勾配はどんどんどんどん急になって、大きな森に向かっていた。眼下にはミクルトンを通り越して、遠くの村まで見える景色が広がる。ひょっとしたら、シェークスピアの故郷ストラトフォード・アポン・エイボンまで見えるのかもしれない。景色を眺めていたら、前のグループの人影が消えた。木戸を開けて牧場を通るフットパスか?森に沿って回り込むフットパスか?オリエンテーリングゲームに逆戻り。我ら3人の合議(この場合地図が読めない、読む気が無い夫は抜かす)で牧場内を選ぶがこれははずれだったかもしれない。羊とにらめっこしながら「ごめんあそばせと」群れをかき分けて進む。ボスとおぼしき羊がめいめいと鳴いてよそ者を知らせるがお構いなしでフットパスを進む。途中森の中に東屋や石垣が見えた。 実はこの写真↑、翌日その東屋から撮ったフットパスの写真なのである。だから、この日歩いたのは写真の羊が列を作って歩いている所。最後は信じられない急坂を登りで一気に車道に出た。大きな木戸をえいこらしょと押し開け、振り返ると娘が言った。「なあんだ、ここがキフツゲートコートガーデンじゃない」意外とあっさりというか、思いがけずというか、予想外というか、地図の読み方が間違ったというか。当初の予定通り、12時からしか開かないキフツゲートコートは翌日に回し、車道横の森の中をそこから15分ほどのヒドコートマナーガーデンに向かった。ヒドコートは広大な敷地に、カフェテリア、レストラン、藁ぶきの屋根の昔の住宅、いくつもの池や噴水を配した庭園、花園、ピクニックエリアなどが有る。たくさんの人々が車で訪れていた。そう、ほとんどが車で。入り口から入るとすぐから、きれいな花々に魅了され、3人はすぐさま写真家に変身。それぞれのカメラで、それぞれのアングルで写真を撮る。どれもこれも、どこもかしこも写真に治めたい。薔薇こそまだ早かったが、藤、アリウム、芥子、何種類もの苧環、牡丹、芍薬、石楠花、躑躅、皐月、薊、フウロソウ・・・。花園の中を彷徨いながら歩いて、赤ずきんちゃんが花摘みをしながら道草した話を思い起こさせるようにたくさんの白い花が一面に咲いている芝生に大きなハナミズキや山法師が木陰を作るピクニックエリアで、シートを敷いてお弁当を開いたのだった。お腹がいっぱいになったらお昼寝がしたくなった昼下がり。写真は我らではない、外国人、いやここでは我らが・・・・・。
June 29, 2013
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スリーウェイズ・ハウス・ホテルに着いて、チェックインをすると、48部屋有るからコツウォルズとしたらそれほど小さくないホテルなのだが、オーナー自らがカギを持って、私達の部屋まで案内してくれた。「ここはお父さんたちの部屋、あなたはもう少し遠く」と娘に言う。なぜそれがオーナーだと、私にわかったか?私が「あなたの写真の載っている本を持っている」というと、「由美(コツウォルズ紹介本の著者)が書いた本?今持ってる?」と聞いてきた?鞄から本を取り出して見せる。「彼女、日本でプディングクラブ開いたんだよ。先日も私と妻と銀座でプディングクラブやりに日本に行ったよ。今日も日本からのゲスト達が1泊だけどグループで来ているよ」ああ、玄関で見かけたグループがそうなんだ。後で直接彼女たちと話してみたら、紅茶を勉強するグループで、先生と一緒に来ているのだそうだ。「今日のパーティ参加は70人ぐらいだから、7時より少し前にラウンジに来て、食前酒楽しんでね」その後、娘のロンドンでの仕事が楽しいかとか少しおしゃべりして彼は、娘を彼女の部屋に案内して行った。ゆっくりお風呂に入り、ハイキング客が多いコツウォルズのホテルとて、ドレスコードは特別なさそうなので、ちょっとだけ良い服に着替えて、泊まり客用ラウンジに行くと、もう皆集まって、シャンパンなど飲みながらそれぞれ談笑していた。日本人の6、7人のグループはソファーに座って談笑している。ブラジル人のグループは男性は黒いスーツと蝶ネクタイで正装、女性もドレスアップしていた。張り切り方が尋常じゃない。もう少しドレスアップするべきだったかな?そのラウンジで今日のプディングの7種類の内容と名前、シェフの紹介を面白おかしく紹介して、だんだんに参加者の気分を高揚させていく。ラウンジから移動、パーティールームの前のもう一つのラウンジで、パーティーの進行予定、食事の時の各自のアルコールの種類の注文、プディング前の軽い食事が肉か魚かパスタか注文を取る。だんだんわくわくしてきた。入り口にプディングの名前を書いたボードが掲示されて、いよいよパーティルームへなだれ込む。その夜の参加者は毎月参加の常連さんと、世界からやって来た、わたし達のような物好き達だ。総勢70人とマネージャーやシェフ、サービススタッフなど10人ほど。10人ぐらいずつに分けられたテーブルが7つ。ネームプレートが置かれた前に座ると、前もって注文しておいた、アルコールがピッチャーやボトルに入れられて、それぞれのグループの前に置かれる。あちこちでシャンパンの栓が抜かれる音がする。私の横は毎月参加している、会員さんの男性と女性2人組。ウエイターさんの抜くシャンパンの栓の勢いが良くて、飲む前から冗談を言い始めている。もうラウンジで出来上がっちゃったかな?その間も進行係のマネージャーがユーモアを交えて、説明しながら会を進行していった。シェフが真ん中のテーブルで、肉や魚の料理に野菜やサラダを盛り合わせて、それがそれぞれの注文者に配られた。ゆっくりとお酒と食事で会が進む。娘の横はオランダから来た男女3人組。娘と談笑している。自分でもお菓子を作るんだそうだ。頃合いを見て、進行者が、いよいよお待ちかねのプディングだよと言った。あっと、その前に、ホテルのサーバーの他に7つのプディングの内の2つを厨房から運ぶ役を、日本人のグループから1人、ブラジル人のグループから1人を、進行係が指名したのだ。そして1つずつ皆の前をお披露目しながら、手拍子の中プディング登場。プディングに自由にかけられるカスタードソースやクリーム、チョコレートソースも登場。最もイギリスの伝統的な暖かいプディング3品は温められた台の上に。プディングだからと、日本のプッチンプディンみたいの想像した?イギリスの伝統プディングは、しっかりした生地にナッツや果物を入れ、ギュッと詰めて蒸し焼きにしたものが主流。どちらかと言えばしっとりしたフルーツたっぷりのパウンドケーキに近い。
June 24, 2013
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Three Ways House Hotelすべてはコツウォルズの地図の中にここを見つけたことから始まった。イギリス南部、ライの街はずれから小さな村ウェンチェルシーへの最初の私たちの、ナショナルフットパスの遠足があまりにも楽しかったので、2回目はコツウォルズを村から村に歩くというのを昨年やった。毎日テレビの旅行番組見ては、お城がいいな、きれいなガーデン見学もいいなという夫に合わせて、「ああそうですか」と、コツウォルズのきれいな見学出来るガーデンをwebで探していたら、ミクルトンという小さな村のマナーハウスではないけれどこじんまりした伝統が有りそうなホテルに行き当たった。ロンドンの娘と一緒に行こうと、イギリス旅行3日目の土曜日、1泊申し込んだ。近くにハイキングで行かれる有名な庭園が2つ有る。ハイキングと、庭園めぐり両方満足させられると。予約完了してなおもホームページを見ていると、そのホテルで毎月行っている「プッディングクラブ」という会員ページに行き着いた。ひょっとして、これって「世界ふしぎ発見でやっていたホテルの伝統的イギリスのプディングを受け継ぐためのパーティだよね」思わずうなった。こんなおいしいイベントを逃す手はない。さっそくホテルに直接メールで問い合わせる。会員でなくても参加できるという返事が返って来た。条件は2つ。 ・前金で1人、36ポンド払うこと ・イベントの有る金曜日の夜から宿泊すること仕事のある娘だったが、金曜日、半日休暇で行ってもいいよというので、さっそく2泊の宿泊に変更し直し、何回かのやり取りで手はずを整えた。そのうち、娘は金曜日休もうかなという。そうなると人間もっと欲が出て来る。じゃあ、金曜日ホテルに行く前にもうちょっとコツウォルズの他のお城や庭園見学できるよね、ということで、電車のルートをオックスフォード廻りでなく、西側から回り込むルート、コツウォルズの1つの街であるチュルトナム・スパ下車に設定した。コツウォルズウェイを歩けば早くても7日掛かる程の広い地域がコツウォルズ。レンタカーを借りない我らは庭園からお城、ホテルに行く足が無い。そこで昨年の資料をごそごそ探し、遠足の折、お世話になったタクシーのケイトさんの電話番号の控えを探し出した。今度はケイトさんにメールを送って交渉する。チュルトナムでピックアップしてもらって、庭園巡りをしてもらい、夕方プディングパーティまでにホテルに送ってもらうハイヤー契約にした。準備完了。今回のイギリス旅行のテーマはガーデン巡り&ちゃっかりイベント参加型?
June 20, 2013
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と言ってもほんの少しだけ、お休みします。 本当はジャカルタ旅行記ホットなうちに書き終えたかったんですけれど・・・ 灰色ウサギ
June 5, 2013
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3日目の予定はマンガドゥアでの買い物の他にもう1つ。昨年ジャカルタ駐在中の友人のヒサコさんの家に泊まったが、その友人のアリさんにバティック村を案内してもらった。もう一度会いたいと思ったのである。マンガドゥアでノビさんたちが日本の友達にお土産にするジルパブ(イスラブの被り物を選んでいるのに付き合い。その後また小さいバス、アンコットに乗り、専用レーンを走る連結バスBRTに乗って、アリさんとの待ち合わせ場所サリナデパートへ。昼頃だったろうか、待ち合わせ場所はデパート内のマクドナルド。さて座ってコーヒーを飲んでいると、フェリさんが席を立つ、しばらくすると交代でノビさんが席を立つ。マックの横にお祈りの部屋が有るんだそうだ。何にもすることが無い私、話し相手が代わるので、帰って来たフェリさんに思わず日本語で話しかけた。すると、英語で「ミセス・ウサギさんですか?」と男の人が声を掛けて来た。おお、アリさんの旦那さんのビコさん。後からアリさんが来ると伝えて、今度はビコさんがお祈りに出かけた。私はいつも荷物番。そうこうしているうちに、アリさんがやって来た。私は思わず言ったのだった。「アリさん、お祈りは?」「ああ、もう済ませました」そしてアリさんとの再会を果たした私、アリさんの分かりやすい英語につられて、もうそこからは、気が緩んで心地よい英語での会話。仕事に戻るビコさんと別れて、女4人、食事と観光に出発したのである。遅い、昼ごはんは私はソトアヤム。辛くないからね。前回お腹を壊した私、これが一番無難なのを知っている。観光最初は独立記念塔、モナス。前回は閉まっていた。私が言った。「月曜日だから閉まっているんじゃない?」大丈夫大丈夫という彼ら、そして案の定第4月曜日でやってない。「ウサギさんついてないねえ」と、べちゃくちゃべちゃくちゃ歩きながら、それなら、すぐ近くの象の博物館へと移動する。私以外初対面でも、意気投合している3人とゆっくり歩きながら、おしゃべりに余念がないので、博物館に着いたときは4時を回っていた。「ねえ、もう閉館の時間じゃない?」そういう私に皆「大丈夫大丈夫」そして、玄関、鎖がしてあり守衛さんが1人座っていた。「おやすみ」守衛さんと記念撮影し、少しおしゃべりし、「うさぎさん、ついてないねえ。もう一度ジャカルタに月曜日じゃない日に来なきゃねえ」3人は 地下駐車場の方に入って行ったのである。わたし達車じゃないのに。地下には足洗い場と、広くてクーラーの効いたお祈りの部屋が有った。時折入って来た男性が足を洗ってお祈りをしている同じ部屋で、4人の女性達はまたべちゃくちゃおしゃべり。その間に、備え付けのお祈りの服を被り交代でムスリムの3人はお祈り。そして言う。「このお祈りの服、みんな、ピンク。面白いから3人で写真撮って」駐車場で涼んで(お祈りしない私は)4人そこを出る。もう夕方、またサリナに戻ったわたし達、夜は結婚記念日だからビコさんと映画に行くというアリさん、ビコさんが来るまでカフェでコーヒーを飲む。そしてビコさんが来るとまたマックに移動。さてこの次、私以外の4人は交代でどこに行ったでしょう?簡単に当たったでしょう。正解、お祈り部屋。半径1キロぐらいの間で、わたし達、食事とお茶と、おしゃべりとお祈りだけして観光なしで終わりましたとさ。なんとなくインドネシア時間という意味が分かりかけてきた3日目であった。
June 5, 2013
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コケコッコー!!朝が来た!3日目の朝も鶏の鳴き声とコーランの響きで起きた。皆はまたマンディとお祈りをした後2度寝をしている。中学生のフェリ君の淹れてくれたジャワコーヒーを飲みながら、英語の出来ない奥さんのアトゥンとテーブルでインドネシア語を練習していると、開け放たれたドアから若い男が入って来た。また新たな親戚の人かな。私は椅子から立ち上がって、「はじめまして、ウサギです。」と、右手で握手しながら挨拶した。挨拶も慣れてきたなあ。ちょっと得意気。その男の人、まっすぐ衣裳部屋の前に行きドアの鍵をガチャガチャいわせ始めた。「あの、あの人誰?」そっとアトゥンに聞く。「鍵を直しに来た工事屋さん」しまった。工事屋さんに自己紹介しちゃった。きっと、アトゥンは挨拶している私の後姿を見ながら笑いを堪えていたのだろう。昼近くになって、ノビさんと、お姉さんのフェリーさんと町の中心、マンガドゥアに買い物に出た。マンディとお祈りで遅くなったから、ミニバスはやめて、タクシーで向かう。渋滞の高速を走り、高速を降る。かれこれ1時間。あんなに走ってメーターは日本円で600円ほど。窓の外は何もかも珍しい。あっちこっちににゅきにょきと出来掛けの高層ビル、強いにおいのするどぶ川、廃線の電車の線路の脇に建てられた掘っ建て小屋と線路で遊ぶ子供、屋台にぶら下がったお菓子の袋、果物、金物、日用品。車の走っている地域が、大きなビルがたくさんになって、街が少しきれいになって来た頃、いくつかのビルから、マンガドゥアという表示が見えた。そろそろかな。隣のノビさんを見ると寝ている。助手席のフェリーさんを見るとぐああと寝ている。着いたのにどうするのよ。右も左もわからない外国人の私を置いて、現地人が寝ていてどこで降りればいいの?とりあえずメーターのお金は準備した。1,000円行かない。運転手がフェリーさんを起こす。たぶん「お客さん、この辺りで良いですか」とかなんとか言いながら。がばっと起きたフェリーさん、あわてて鞄をまさぐる。私が後ろからお金を差し出す。タクシーを降りると、ノビさんが言った。「飛び起きたら、一瞬日本かと思った。」2人のゆるり感と襷掛けバックをしっかり身に寄せて常に張りつめた私と、この緊張感の差。ほら街の中心は音が無ければ、日本と変わらない。
June 4, 2013
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同じアジアでこんなにも人間の考え方も、生活様式も、世界観も違うものかといつも驚かされる。そしてもっと驚くのは、どこの国の人も、皆、すごく親切で人懐っこくて、すぐに友達に成ろうとする。人間は変わらない。同じ人間だもの。インドネシアでは誰でも家に入って来た人は泥棒以外は大歓迎、ご飯を食べてけ食べてけと言い、すぐ友達になるのである。おじさんは、姪の友達を知っているし、いとこはいとこの友達を知っている。すぐに友達になるから。勝手に家の中をうろうろしているから。さて、滞在2日目、スーパーから帰ってマンディをして食堂に出て来ると、誰もいない。家の中が嫌に静か。いや、言葉が出ない後遺症のあるお兄さんがうろうろ、「みんなはどこですか」お兄さんが指指したフェリ達の部屋に入ると、なんと奥さん、フェリ、ララ、ティティ、そして誰だか知らない人がいて、皆で化粧のし合いっこをしている。う、かなり濃い化粧。「化粧してあげようか?」 「ううん、しなくていい、自分でやる」そして皆、今日の家族のカラーで有る赤いレースとぴかぴか光るサルーン(腰巻みたいなスカート)をおそろいで着ていた。お婿さん方親族全員が赤で統一するんだそうだ。マイクロバスの運転手が迎えに来た。お兄さんが、衣裳部屋や、バックヤードに続く部屋のドアを閉めている。さあ、出発。中学生の男の子フェリが助手席で、お父さんの膝に乗る。やっぱり今日も定員オーバー。ここでは規則はなんて言ってはいけない。警察官は来ない。取り締まれば全員が掴まる。街の中心に有る結婚式場はすごく大きな会場だった。600人ぐらいの招待客が来るという。ウサギはうろうろ、到着と同時に初めましての握手とハグを繰り返す。相手は赤い服だから一族だろうな。控室に入ると同時に放っておかれた。あんなに家で化粧していたのに、化粧のやり直し、ジルバブのやり直し。狭い部屋の中にはオレンジの組もいる。なるほどあっちの親族なんだな。床に1m位のジュータンを引いて、お祈りの被り物を被ってお祈りをする人もいた。変わりばんこにお祈りをしている。お姉さんの1人イアンさんが控室に来て所在無げな私を廊下にさらって行く。廊下に並べられた食事をお皿に盛って食べろという。ちょびっと取った。この後が心配だから。廊下に知らない人の中に一人は心細いよう。化粧に忙しい家族が誰も構ってくれなくても、家族のそばが良い。また誰だかわからない人が私を連れに来て連れ去った。「日本語話せる人がいるから紹介するね」「こんにちは、日本語お上手ですね」「はい、私は慶応大学医学部出て、日本の病院で長年勤めていました」ぎく、一界の主婦にここでの会話は日本語でもハードルが高い。ドクターは病院名と地位の書いてある名刺をくれた。今日のお嫁さんは脳外科医、お婿さんは小児科医。なるほど。控室にそっと帰ろうとする私の手を今度はお婿さんのお父さんが引き留めた。「新郎新婦と写真を撮りなさい。」そして、新郎新婦とお嫁さんのお父さんと、家族写真のように写真を撮ったのである。何人にも握手して、いっぱい紹介されて、たくさんの人と写真を撮った。お姉さんのイアンさんの会社の社長さんに紹介されと英語で話しをしてテーブルで一緒にご飯を食べる。ピンクの液体を薦められる。お酒が飲めないからどうしようと思って、はたと気が付いた。この会場にお酒は絶対に有るわけない。ジャンブーのスムージー。気が付けばお姉さんに言われて(何番目のお姉さんか分からないが)、18歳のティティがずっと私に付き添っていた。眼の見えない一族の大おばあさんに紹介される。80歳過ぎの黒いレースのドレスを着たお婆さん、きれいな英語で、見えない眼をこちらに向けて、私の手をしっかり握りながら、いろいろな話をしてくれた。歌も歌ってくれた。私はそのお婆さんの所に後でもう一度行って、おしゃべりをしたのである。あまりにも素敵だったから。「お婆さんと一緒に写真を撮りたいの。良いですか」結婚式はすべてが夢中で夢の中だったけど、おばあさんは絶対忘れられない思い出。もう挨拶もし尽して、食べるものも食べ尽くしたころ、家族の番が回ってきて、赤い服を着た一族が、壇上に上がり、宴の間中壇上にいた両家の御両親と新郎新婦に挨拶をしたのである。その日続いた何百人もの列の最後に。私も赤い家族の中にまじってで記念写真を撮った。そしてくたびれ果てて帰って来た家の中で、衣裳部屋が開かないから着替えられないと皆が騒いでいたけれど、私はさっさとマンディをして眠りについたのだった。私は朝が早いからね。披露宴の間中、壇上ではひとりひとりお祝いを述べる行列が続く。
June 2, 2013
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ジャカルタの眼ざめは早い。これは前回の旅行の時も書いた。前回は4時に町中に響き渡るコーランの大音響で起こされた。これ、日の出に始まるので、今回は5時頃。前回よりはまし。18歳のララとの共同のダブルベットで目が覚める。まず、コーランの音、同時に近くにある国内線の飛行場の飛行機の音、そこかしこの道路に放し飼いになっている雄鶏の時を告げる声、朝食を移動式屋台で売り歩く鐘の音、出勤のオートバイ。眠ってなどいられないのに、ララはお祈りの時間だよと、違う部屋で寝ていたノビさんに起こされるまで起きない。そしてララは眠い目をこすりながら、お祈り前のマンディ(行水)をしてお祈りに行く、帰ってきてまた死んだように寝る。私はもう眠れない。私もマンディをして起きて行くのである。お祈りを済ませて皆再び寝ている静けさの中を。外はうるさいけれどね。マンディ!昨夜寝る前に体験した。衝撃。私に宛がわれたララとの共同の部屋にはトイレと洗面所の付いたバスルームが付いていた。しかし、当然のごとく、バスタブは無い。有るのは水を貯めてあるタブだけなのである。シャワーもなければお湯も出ない。昨夜、置いて有った手の付いた桶で、タブから水を汲んで体に掛けた。そしてその冷たさに飛び上がった。こりゃあ、心臓麻痺を起しそう。だから次からは、朝の行水はタオルに水を付けて、足から徐々に心臓に向かって濡らしていくことにした。彼らは一日5回のお祈りの前に必ず入るから、私も外出から帰ると行水をした。そのうちこれが慣れたら病み付きになるのだった。再び皆が寝てしまった家の中で、主であるノビさんのお兄さんのブラマントさんだけが起きてTV を見ている部屋で、1人日記を書くのが日課になった。お兄さんは脳梗塞の後遺症で言葉が出ないので、会話の練習にはならない。中学生のフェリが起きて来て、私の為にコーヒーを入れてくれる。それもその日から彼の日課になった。その日の夜は結婚式。でもそれ前に皆で近くのスーパーに買い物に出た。家から出て、路地をうろつく鴨や鶏や猫を見ながら、蓋のない側溝に落ちないようにしながら、メイン道路まで、曲がって、曲がって曲がって出る。よし覚えた。しかしジャカルタを1人で歩くことはこの先も無いである。この国の人は自分の家以外をきれいにしないのだろうか。道路にはごみがいっぱい。毎日バケツどころか浴槽をひっくり返したような雨が一時やって来て、そのごみはどぶを行ったり来たり。細い路地から車に轢かれないようにメイン道路に出る。日本よりずっと広いが、歩道はない。アスファルトもあちこちで剥げているから、砂埃がひどい。そして、信号のない道路をびゅんびゅん走っているオートバイや車の流れを止めてあちら側に渡れないのである。絶対誰も止まってなどくれない。止まったら負けと思っているらしい。だから路地から出た車は反対車線には出られない。おそらく日本の交通ルールに慣れた日本人は3年待っても渡れないだろう。どうするか?そこは、それでうまくできている。露地の出口、スーパーの出口、四つ角に必ず人が身体を張って交通整理をしてくれているのだ、そしてうまく反対車線に渡れたら、車のガラス窓を開け、チップを渡すのである。それも一つの職業?ガイドブックには、バスには乗るなと書いてある。囲まれてバックを切られ、お金を取られるケースが有るからと。だから日本人一人ではバスには乗れない。でも、少しずつ改善されているらしい、都会のバスレインを走るバスには、車掌のような警備員のような人が目を光らせていて、混雑しそうになると次のバスに積み残しするのである。公共の場所がきれいになるよりも、空港やバスの中が安全になるのが政府主導で早いのであろう。私の周りをノビさんとフェリさんがガードして、アンコットというミニバスに乗った。最初はひやひや、でも面白い。このバス、路線上ならどこでも止まる。呼び込みもする。30円ぐらい。時々おつりをくれない時も有るようで、フェリさんが文句言っていた時も有った。手に入れ墨をした青年が乗ってきてドアの位置に立ちふさがり、何かべらべらと喋っていたときも有る。皆、知らん顔しているけど、小さいお金が有れば渡す、そうすると走っているバスから降りて行くのである。恵まれない子供たちのために寄付をお願いと言っているんだそうだ。ほんとかな?でも、お金を持っていたら寄付をする。日本じゃお金の行き場が明確じゃないものに寄付をしないよね。スーパーに着いて買い物をしていると、屋根がものすごい音がして雨が降って来た。スコール。路地の道端で燃えていたごみはこれで鎮火するだろう。
June 1, 2013
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ついに碓氷峠を越えた中山道最大の難所だという。しかしまだ難所はいくつか残っているし、もっと過酷な難所は標高差600mの和田峠だと思っている。とにかく第一関門は突破したのだ。横川の駅からタクシーで前回終わった坂本宿の出口の木戸跡に着いた。途中、2組のパーティーを車窓から確認した。我ら、一度歩いたところは重複して歩かない、いや、歩きたくない旅人なのである。坂本宿を出てすぐ道に迷った。夫はちゃんとした道路を選んだ、地図を持っている私はどぶ板のような所がそうだと言い張った。結果、どぶ板の先に小さな中山道の道しるべが有ったのである。どぶ板の次はこの熊の看板。その日、途中で出会った人、追い抜かれた人たちは何人か熊ベルを付けていた。山の家に4個ある熊ベル、カウベルをGWに行った時持ってくるのを忘れて来たわたし達、仕方ないので、ホームステェイしたフィラデルフィアから来たアリエルさんのお土産の「リバティの鐘」ミニチュアに紐を括りつけて、夫のリュックに縛った。歩くたびに独立の音がした。路は石ころごろごろ、落ち葉で滑る急斜面。登り始めて直ぐ足が痛くなった。息も絶え絶え。坂本の宿場が木々の間から眼下に見える地蔵ころがしあたり、私の後ろで「きゃあ」とけたたましい声がした。夫が落っこちたか?振り返ると、夫のそのまた後ろ、10m程の所に歯をむき出して威嚇する大きなボス猿と思われる猿が、今歩いて来た道にいる。退路は断たれた。夫はしゃがんで石を拾うしぐさをする。私はあわてて坂道を駆け登る。猿は少し進んで群れのいるだろう茂みに隠れた。夫が私の後を追って登る。「そんなに自分だけ早く歩かないでよ、息が切れる」途中で一人の男性に抜かれた。夫が言った。「熊が出たら、彼が先にやられるから良かったね」私は答えた。「彼の方が若いし、足も速いだろうから我らを追い越して逃げちゃうよ。それに熊は前から出るとは限らない。後ろから来るかもしれないよ」ちりんちりん、リバティの鐘が心なしか強くなった。和宮の道との別れ道に着いたら、右手の和宮の道から急ぎ足で降りてくる若者に会った。途中お握りを食べている時追い越して行ったもう一人の青年だ。行くべき道を間違えたらしい。先達者のwebページにはどれも、道に迷ったと書いてあった。さもありなん。登り始めて3時間位、うまく道に迷わずに熊野神社に着いた。まっすぐ茶店に入ってキツツキの木をこんこんと削る音を聞きながら、力持ちを食べる。そこからは軽井沢に向かって下り道。するするとお尻をするようにして、がけを滑り下りる。傾斜角45度の斜面の途中の道、滑り落ちたら這い上がれない。靴はずぶずぶと砂に埋もれ、砂と落ち葉と私の足が斜面を滑った。今度は夫が先に立ち、「掴まりなさい」と手を差し伸べてくれた。手を握るのなんて久しぶりだな~。中山道はこんな熊笹の中の小川の石の上も渡る。最後は別荘地の中を通り、ハイヒールやひらひらしたスカートを履いた若者や家族ずれで賑わう軽井沢銀座の目抜き通りを、砂埃で真っ白になった運動靴とよれよれになった場違いのリュックをしょった我々が、ソフトクリーム屋の列の中に紛れ込んでいたのだった。もちろん旅の疲れは、軽井沢、人工滝の流れを見ながら露天風呂~。
May 21, 2013
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陽が向こうの山の端に落ちて、浅間のお山もうすぼんやりとシルエットになる頃、薄ピンクのシャクナゲの花なら、なおさらモノクロに見える頃何処からともなくやって来てきょろきょろきょろきょろ宿場の街道の道端にポツンと足の生えたお家のような本箱に手を伸ばすのは、茶色いすべすべした短い毛のアナグマそっと扉を開け、本を出して大事そうに抱えて裏の神社の大杉の木立の陰に隠れて行った次にやってきたのはだれ?ふっくらしたシッポ。しゅしゅしゅっと三段跳びで桐の華の香薫る藁ぶき屋根のこなたからあっという間に飛び出して、一冊本を抜き取ると、また、あっという間に冷たい小川の脇の蓮華つつじの茂る暗がりに隠れて行った。堀辰夫は「信濃路」の中で辛夷は春一番にまだ芽吹いてない木々の間に咲くと書いた。ここは堀辰夫の愛した村小さな宿場のここそこに、こんな小さな文庫がありましたとさもちろん借りて行くのは人間ですけれど・・・。ちょっと想像してみましょうよ日暮れは心を物悲しくさせて、隙間を狙って山から動物がやってくる立原道造は「咲いてゐるのは みやこぐさ と 指に摘んで 光にすかして教へてくれた 右は越後(えちご)へ行く北の道 左は木曽へ行く中仙道(なかせんどう)」「村はずれの歌」でそう書いたそう、ここは村はずれ北国街道と中山道の分去れの碑のある分かれ道信濃追分の宿
May 19, 2013
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古くからのブロ友さんと一緒に鎌倉散策をして来た。事前に彼女の行きたいところを聞いた。ゾロぞろぞろと、長いメールに書かれた鎌倉のお店や、名所や旧跡を見て行きたいところの多さにぶったまげた。そのリストに沿ってコースと時間配分を考えて、それらのすべてを線で繋いだ。それをメールで彼女に送り返す。こんどは彼女がぶっ飛んだ。「全部行かなくてもいいんですよ。無理なこと分かっているから」その日の朝、彼女の乗る電車が止まって、回り道をするから遅れますというメールから始まった私たちの散歩。「予定の電車ルートを変えてみたら」とか「待ち合わせ場所を変えましょうか」と会う前に何度もメールでやり取りしたら、すっかり会う前に急接近してしまったような感じ。ずっと言っているが、私は人見知りをする性格。でも、彼女と会うのは初めてだけど、彼女のブログを見ていれば、そのかっこいい一眼レフはお互いの記念撮影のほかには、決して私に向けられないことを知っている。私は安心して会えるのである。(2人ともカメラを持っていたのに、その記念撮影さえ忘れたけれど)彼女の撮る写真は少しの地上の風景を含んだ広くてどこまでも青い空。彼女の撮る写真は足元に落ちて赤や黄色で絨毯を編む落ち葉。彼女の撮る写真は背景に陽の光がぼんやりと薄虹色を揺らす窓辺のテーブルの上に置かれた手作りのジャムの瓶。彼女の柔らかな感受性をまねして空を撮ってみました。やっぱり、空は私ではうまく撮れません。自分の写真を撮りましょう。あ、タイトルは、大仏にも行きましたから。
May 17, 2013
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前回の記事で、鹿の糞について書いた。そうしたら7パパさんや 英坊3さんが「吉永小百合さんの歌をお聞きなさい」とコメントくださった。確かに!「鹿の糞は黒豆」と歌っている。納得。若い頃毎月のように奈良に行っていたのに、春日野に座って柿の葉寿司食べた時コロコロ落ちていたのに、すっかり忘れていた。これでもう、山小屋のもみじの葉は無くなることが決定。残念。今回の山小屋行き、いつもと違って1つ目的が有った。子供のPTAをやっていた頃以来の友人がご主人の定年を機に標高550m位の安曇野に移り住んだので、そこを訪問するという目的。彼らの話を聞けば、何年も前から構想していたことだそうだけど、突然「明日、安曇野に移住します」と聞いたときはびっくりした。長年住み慣れた土地、友達もいっぱいいるだろう、もろもろの柵も有っただろう。インターネットの有る現代、簡単に移動もできる現代。でもすぐに何かしようとするにはここと安曇野では遠すぎる。そういったものはもういらない、と新しい希望と新しい生活を楽しむ決定を下したことにびっくりしたものだ。しかし、今回、洋風建築の高い天井と中2階と北アルプスを望む大きな窓が有るすてきな家にお邪魔して、すごく羨ましくなった。私たちも信州の標高1,450mに家を持っている。でもそれはあくまでも仮の生活の場所。あくまで避暑地なので年間通しては過酷だ。こちらの家の庭の水やり、防犯などを気にかけながらの二重生活だ。そこから帰らなければならない場所だ。帰らなくてもいい場所、生活のすべてが有る場所、新しい友人と新しい趣味が有る場所。いいなあ。われらにそんな決断が出来る日は来ないだろうな。建て替えて5年のこの家を捨てられないだろうし、私たちはもうこれから計画建て、こちらの家を売って、あちらで新しい家を買って生活を構築するには遅いんだろうな。あ、こちらに自分流の庭も作っちゃったし。これからも、時々の鹿との戦いを楽しみに、山の家に行こう。この頃、2,800m級の山に登るという友人夫婦。安曇野を訪問した翌日、八ヶ岳を間にして反対側に位置する我が家に招いて、1日過ごした。その時、我らが登りたいと長年思い続けて、今では我らには無理だなと断念した瑞牆山の山容がはっきり見える麓まで連れて行った。「代わりに登ってよ」その100名山の登山を唆したのである。友人が、私が山の家の壁にべたべた貼っておいた家族の写真を見て、「ここにはあなたたち家族の思い出がいっぱい詰まっているのね」と言ってくれた言葉にきゅんとなってしまった。30年前、山の家の土地を買った時の大きな決断も正解だったのかもしれない。
May 10, 2013
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この違い分かるだろうか?GW山の家に行って来た。我が家から歩いて10分ほどの別荘地域内の芝生広場に散策に行くと、あっちにもこっちにも黒い物がころころ、ころころ。かれこれ20年近く来ているけれど、こんなに大量なのは見たことが無い。「丸いからウサギの糞かな?」「キツネは昨日見た。狸もいるよね、でもウサギ見たことないよね」2年前の春、鹿に食べられるといけないので、自宅に持ち帰り大事に育てあげた紅葉の苗木3本を、今回また山荘に持って行き白樺の間に再移植した。山は濃いめのピンクの桜がわずかに綻びかけているばかり。里で育って青々とした紅葉の葉が標高1,450mの山小屋のまだ芽吹いていない木々の間に目立つ。根元用にと落ち葉をかき集めていると、敷地内にも黒いものがころころ。さて、家に帰ってネットで調べると、兎の糞と鹿の糞はほとんど同じぐらいの大きさで、兎のそれは丸く、鹿のそれは楕円形と書いてあった。楕円形だった!山小屋に有ったのは。奈良に行くとよく、「鹿の糞」なるチョコレート菓子が売っているけど、ちょうどあの形。鹿の糞じゃないか!さてさて、次回山の家に行く時まで私の植えた紅葉は無事だろうか?清里、清泉寮からの富士山。我が山荘は清里地区ではありません。あしからず。
May 8, 2013
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巷はゴールデンウイーク。私は関係なく庭いじりに夢中。ホームセンターと庭を何度も往復して、せっせと狭い庭を改造中。大きな山桃の木を山小屋から持って来たチェンソーで切ってもらった。ぎっくり腰になられると困るからこれ以外は頼めない。その巨大な根っこを掘るために、せっせせっせと周りの土を退け、枝分かれした根っこを出す。根っこがかなり現れたところで、テレビを見ていたチェンソーの達人を呼び、根を切ってもらう。そしてまた掘り進め、新しい枝分かれの根を出したら、樵さんに「切って」とお願いにあがる。3週間がかりで巨大な根っこがゴロンと出て来た。1人では持てない、転がすのが何とかやっとだ。このままではごみ収集車にも入らない。ゴミ置き場にも持って行かれない。あまりの大きさにチェンソーの歯が壊れたと、樵が言った。アマゾンで替え歯を買うまで家の庭にゴロン。そっちは置いておいて、他の場所の大改造。灯篭は先々週、母の家の庭からやって来た。家に有った1対の古い火鉢を使って、なんちゃって蹲。水道栓の改造は素人には無理だからここまで。芝生を剥がして曲がりくねった通路を庭の中央に付けたら、ちょっとすてきになった。後は、蔓バラのパゴダを設置し、その下にベンチを置く。山桃の有った場所にトネリコの木を植えたら家の南側は完成。だけど、東側と北側と西側、家の周りの草取りを考えたらいやになった。「おやつにしよう、おやつにしよう」ゴールデンウイーク。残業頑張りながら一生懸命働き、ずっと前から、この日を楽しみにしていた次女も仕事を終え、自分の家に荷物を取りに帰り、終電で空港に行き、空港で夜を明かし、ロンドンの長女の所に飛んで行った。受け入れ側の長女はパリに出張中だったようだけれど、週末は2人でアイルランドの妖精を見つける旅に出るんだそうだ。今頃2人でアフタヌーンティかな。今日、3回目のお茶をウッドデッキで飲みながら空を見上げた。
April 28, 2013
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テレビを何気なく見ていて、(ほぼチャンネル権が無いので人の見ているテレビを見る)びっくり。ロコモティブ症候群というのだそうだ。これになると他人に何らかの手助けをしてもらわないと生活が出来ない。日本人の男性の平均寿命79.44歳、女性は85.9 歳。しかし、かなりの数の人がこのロコモになって何らかの助けが無いと一人での生活は出来ないんだという。そのロコモになる年齢が平均で、平均寿命の10歳手前だというのだ。今までなんとなく平均寿命まで後何年だからそれまでに海外旅行して、国内旅行して、いろいろ老後を楽しんで、そのためには後何年分の貯金が有れば、なんて老後のライフスタイルを考えていた。しかし、もしロコモになったら、いや運動嫌いな私だから、成る確率は高い。かなりの確率で成るなら、絶対そのグループに入っちゃうはず。軌道修正しなければ、10年手前で自力での旅行は出来なくなるかもしれない。その後の10年は手助けしてもらうためにお金を使うようになるのかもしれない。思い起こしてみる。夫の両親はそういえば最後の10年ぐらい、それぞれ私が我が家で車椅子の生活やお風呂や通院を支えた。私の両親も介護のために我が家に連れてくる前、最後の5、6年は救急車を呼ぶたびに、家から彼らの家に走ったっけ。歯磨き中、歯ブラシを銜えながらの時も。2分だから救急車よりは早く着いてスタンバイ完了。周りを見渡しても、介護施設やデイケアに通っている人がいっぱいいる。ああ、そういうことか、平均寿命の年齢とは、命が尽きるまでということ。そこまでなんでも一人で出来るということではないのだ。軌道修正。人生設計の修正が必要かな。なんか急に、10年損したような気分になった。ロコモにならないように頑張らねばと、ひざの手術をしてもまだまだ元気で知識欲旺盛な隣のおばさん(私から見ておばさん、世間から見るとロコモ年齢をとっくに過ぎたおばあさん)に誘われて、鎌倉は円覚寺、夏目漱石「門」のモデルになったと言われる帰源院(非公開)をおばさんのコネで見学させてもらった。おばさんの娘さんの運転で、鉢の木で精進料理食べて、車で魯山人の窯跡見て。歩いたのは帰源院の坂道だけ。だめじゃん。ロコモ撃退、がんばらなくちゃ。
April 23, 2013
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会社から帰ってきて、ご飯を食べて、ほぼ独占状態でテレビを見て、そのテレビにも飽きてきた夫がつぶやいた。「葉書まだ来ない?」何を待っているのか?イースター休暇を利用してブラジル旅行に出かけた娘からのポストカードを。2人の娘は仕事の旅行(出張とも言うらしい)で出かけた時以外は必ず絵葉書を送って来るのである。スウェーデンやヨークやアイルランドから。私も出来れば送りたいと思うのだが、日本の観光地にはなかなかばらの絵葉書は売っていない。本屋にでも行かなければ、1枚だけ買うわけに行かないのである。不便だなあ。ヨーロッパなどは駅でも観光地でも、売店でも1枚で売っているのに。仕方なく旅行から帰って、まあ、手持ちの絵葉書の中から、訪れた場所の近くの絵葉書でごまかして送るとすぐばれる。東寺で売ってなかったから、今回は行ってない銀閣寺のを同じ京都だからいいやと送ると、すぐばれる。それでもウサギは、外国の友人たちに送る手紙に貼る切手にだけは凝るのである。両方の親の形見を整理していたら出てきたのや、自分で集めた日本的なものなど、花見の季節には桜を、結婚のお祝いカードには花嫁さんのを、漫画が好きなフランス人にはNARUTOをといった具合に。たくさん有る記念切手を入れた箱を持ち歩く。だからしょっちゅう行く郵便局では、私が物を送るとみんなが「切手持ってこられました?」とか、「記念切手いいの有るので貼っておきましょうか?」とか言ってくれる。先日は局員さん、娘に送ったB5サイズのEMSの袋の真ん中に伝票を貼って、その周りにずらりと、持ち込んだ切手を額縁のように貼ってくれた。今ではとても使いにくい62円切手の処理の仕方でもある。
April 12, 2013
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娘の家に出かけようと電車に乗った、切符売り場に定期券を買う長い列。ホームには真新しい制服を来たかわいらしい小学生がお母さんの後を必死で付いて行く。高校生も大学生も新入生の季節。みんな、うれしそうだ、希望がいっぱい。ぐんぐん伸びる春の若芽のように、この先、その希望はいろいろな障害や困難や困惑や妨害にぶち当たるだろうけど、きっと大きな実績となって、この国の未来に貢献してくれるんだろうな。今年大学を卒業して大きな会社に就職したボランティアの若い友人が2人いる。1人はかって、中学を卒業して再婚の母に連れられて日本にやってきた中国人だった少女。その少女はたった1年間であいうえおから勉強して、高校を日本人と同じに受験して合格した。そして、そこで親友を作った。2人目の少女。2人は別々の大学の大学生になっても、一緒に遊んだり、勉強したり、今度は教える側になってボランティアしたり。就職が決まって、卒業旅行に海外に2人で行くんだ、と聞いたのは2月。「卒業旅行はどうした?」と聞いたのは3月。「私たちの考えが甘かったと気が付きました。自分たちで働いたお金では海外なんて行かれなかった。」残念そうに言う彼女たち。でも私はちょっとうれしかった。世の中がそうやって自分の思う通りにならないと悟ったこと、そして何よりもそこで、誰かに頼ろうとせず、我慢する方法を選んだことは大きな成長だと思う。就職を前にして彼らはもう自立し始めているのだ。頼もしいなあ。海外卒業旅行で何か得ることも有ったかもしれない。でも、働いていれば自分の力で海外旅行なんてできる。その時海外で得たものの方がきっと胸を張って報告出来ることだろう。「いつ行くんですか?今でしょ、今しかないでしょ」なんてことは絶対ない。日曜日、3か月前からの予定通りお花見をした。花が無いから、大雨の予定だったから、家の中で。16人。フィリピン人、ベトナム人、インドネシア人、日本人。 食べものの写真を撮ろうとしたら、もうすでにサテと緑豆のクレープといくつかのお皿は空っぽ。上の写真↑
April 9, 2013
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散り行く桜を求めて、妹と鎌倉を歩いた。お昼を食べるところから始めたので、そんなに歩いてはいないのだが、八幡宮の牡丹の花を写真に撮りたいとはらはらと散る桜の並木の中、段蔓を八幡宮へ向かう。参道は花筵牡丹園には赤、黄色、ピンク、白と牡丹が咲き乱れ、上から桜が牡丹の上に降ってくる。源平池には花筏カメラを弄るようになってから、花の美しい季節をだんだんに当てられるようになってきた。花を求めてさまよっている時、遠くに紫を見つけた。何だろう鎌倉のには小路がたくさんあり、間違って入ると行き止まりの事もしばしば。そんな恐れを抱きながら、人ひとり通れる小道を紫を視界に入れながら進むと、葉先をほんのり赤く染めた新芽が芽生え始めているもみじの大木が生い茂った、民家の門前に出た。まるで清里の別荘地の奥まった一角のような家だ。そして門の中からずっと奥の斜面に紫の諸葛菜が咲き乱れていた。運よく、お家の人が出て来られ、「門を入って見ていいですよ、綱の先には行かれませんが」と許可を頂いたので、お庭の端に入らせてもらって写した写真。横に電車が写り込んでいます。トンネルを抜けるとそこは紫だった、という風景が電車に乗ると見られるはずです。一瞬ですけど。
April 2, 2013
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1月にカイル君夫婦に会った時、桜の咲く頃、ミネソタの家族がやって来るからと横浜で会う日を決めておいた。例によって呑気な私、1週間前の予約で大丈夫と高を括って、チャイナタウンのいつものレストラン菜香に予約の電話を入れた。ところが、副都心線とみなとみらい線直通化の煽りを食って、中華街はものすごい人気で9人分の予約が取れない。急いで、中華街で中国茶の専門店を営む友人に泣きついて、いくつか中華街の知り合いを当たってもらい、老舗の同發を無理やり予約してもらった。カイル君夫婦、彼の妹、弟夫婦、両親とウサギ夫婦の9人。4年前に我が家にステイしたブルース・ウイルス似のお父さんを思い出して、たくさん食べるかもしれないからと伝えて置いた。豚と鶏肉の蒸し物から始まるコース、4品来たところでそろそろお腹いっぱいになって来て、「この後何が出る?」と聞いた。5品目の青菜のにんにく炒めを運んできたおばさんウェートレス。ぶっきらぼうに「しらない!」ひゃはは、普通のレストランなら即、首である。中華街は大陸系、台湾系の人たちのコミュニティ。この中には小学校から高校まである。この町の中で暮らす限り、日本語が話せなくてもやって行かれれる。何年日本に住んでも。彼女もその言い方が客に失礼に当たるなんて思っても見ないのだ。みなとみらいの高級ホテル内のピカピカの黒檀や螺鈿のテーブルが有るレストランでもおいしい中華が食べられるけど、周りに飛び交う中国語の中で雰囲気に浸るのはやっぱりチャイナタウンならのだいご味。次の日本人スタッフに同じ質問をしてみた。「後、チャーハンとふかひれスープです」なるほどなるほど、ところが、出てきたのは小龍包。食べ方を丁寧に説明してくれるから、みんな汁を逃がさないように上手に蓮華に受けるのに必死だ。「これで終わり?」「春巻が来ます。」夫がつぶやいた。「聞けば聞くほど増えるから怖くて聞けなくなってきた」やっと「フライライスです」、という怪しげな言葉と共にチャーハンとふかひれスープが来た。コラーゲン入っているし、アメリカでは禁止されているから食べられなくて貴重だよ。残さず食べろ食べろと、オーナーらしきおばさんが薦める。ああ、おなか一杯。これは私のオーダーミスか。高級でもいいから皿数を少し、というべきだったか。食べながらも楽しく思い出話しをする。彼ら、4年前に付き合ってくれたウサギの次女がそこにいないことを残念がっていた。彼女のジョークと親しみやすいキャラクターがよほど印象に残っていたのだろう。初期の私のホームステイ受け入れを助けてくれた長女から、いつしかそれは次女に受け継がれていったのだ。弟のお嫁さん、マリーンの英語が早すぎて「早すぎて分からないから通訳して」と言ったら、カイルくん、ゆっくり英語で通訳してきた。通訳って日本語で答えるんじゃないか?「だって、早すぎるからって理由だったから」相変わらずの減らず口、いつまでたっても日本語で答えない彼、久しぶりの家族との再会、みんなのお箸の使い方奮闘劇をうれしそうに眺めていた。大量に余ったチャーハンと鴨のスモーク焼き。「持ち帰れないかな」カイル君のお父さんが言った。この頃レストランでは見られない、日本人のもったいないの精神はアメリカのドギーバックの方がずっと意識が高いのである。アメリカ人の友人は皆これをやっている。いやいや単に家に帰って料理するのがいやなだっかもしれないが・・・。。最後にお決まりの杏仁豆腐がやってきて、そんなに高級じゃないけれど、2時間半の楽しくて、ワイワイガヤガヤの食事会。昨夜はドギーバックのチャーハンと私が「卵だから気を付けて持って帰ってね」と冗談言いながら渡した「仙台銘菓かもめの卵」食べたかな?
March 31, 2013
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花の命は短い。急遽思い立ってこの季節にぜひ行きたいと思っていたホテルに泊まった。ザ・プリンスサクラタワー。私にとって、今はここじゃなきゃダメなのである。夫と2人、日曜日の3時にチェックイン。映画ロスト・イン・トランスレーションのホテルではないけれど、映画の中の彼女が座って東京の街を眺めていたように、さくらタワーのゆったりした部屋の大きな窓にも大理石の出窓のような場所が有る。そこによじ登って腰かけ、12階の窓から桜の大群を見下ろした。次は、さくらが咲き誇る日本庭園を散策。結婚式の出席だったらしい金髪の少女が振袖を着て、桜の下を駆け回っている。200本を超えるホテル敷地の桜の基準になるしだれ桜の下には、「満開」の表示。ほら、今日じゃなきゃダメな理由。ぐるっと回って、またサクラタワーに入ったら、桜ラウンジで桜ケーキを食べる。私の選んだケーキには上に小さな3色だんごが乗っていた。東海道五十三次の時1人で立ち寄って食べたケーキだ。そうだった、東海道の旅は桜と共にスタートしたのだった。あの時、絶対桜の季節にはここに泊まろうと決めていたのだ。夕暮れが迫る頃、ホテルからタクシーで芝の増上寺へ。増上寺の桜を見ているとちょうど本堂の後ろの東京タワーがゆっくりライトアップを始めた。桜のトンネルを通りながら東京タワーのそばまで歩く。何もかもがグッドタイミング。桜道と名付けられた通りをタクシーでホテルに帰る。今度はホテルの回廊庭園や屋外桟敷席や桜がライトアップの照明を浴びて幻想的に浮かびあがっている中を、日曜日なのに仕事を頑張っていた娘と合流して夜桜見物。8時に予約していた3階の日本レストランの位置は、ちょうど目の高さに桜の木の花が来る。奮発して予約した8,000円の食事は、すべてお花見にちなんだ物づくし。ガラス越しの桜なので桟敷席のように寒くないからこたつもいらない。快適。娘がいう。「家から日帰りでも来られるし、ホテルの庭やラウンジだって宿泊しなくても利用できるのにわざわざ大金叩いて宿泊?」そう言うなかれ。ぱあと咲いてぱあっと潔く散るのが桜の花。1年に1度しかない贅沢じゃないか。12階からの花霞み。下の建物は別館の迎賓館。光っているのは外の提灯。クリックして大きくすると、外の桟敷席のこたつも下の方に見えます。潔いのが良いとか言いながら、月曜日の朝、ホテルから出勤した夫を見送って、六義園やら、千鳥ヶ淵やら未練たらしく桜見物しちゃった。
March 25, 2013
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4月7日にお花見を設定したけれど、たぶん、絶対、花は無い。そこで、とりあえず花だけ見にみんなを誘って出掛けた。総勢15人。場所は大岡川プロムナード。川に沿って弘明寺駅から横浜近くまで歩いた。11時から歩き始めて、3時半ごろまで。ただひたすら川の両脇の桜と、屋台と人を見ながら、携帯電話を使いながらお花見。携帯電話がなぜ必要かと?15人もいるから・カメラマンが何人もいて勝手に立ち止まるから・カメラ無い人はどんどん歩くから、度々迷子になる。「今どこ?」桜の下」決まっているじゃない。「橋のそば」「たこ焼き屋さんが有る」そんなのいっぱいある。夫は屋台では絶対食べない。何が入っているか分からないからと、イスラムの友人たちは屋台では食べない。ソースにアルコールが入っているかもしれないから。彼ら、途中で私の知らない友人に会って握手をして、話し込む。「知っている人?」「いいえ、今日初めて会った人」「インドネシア人?って聞いてきたから」また止まる。「知り合い?」「いいえ、インドネシア人みたいだったから声かけた」「だって、日本にいればみんな家族みたいなもんだから」そうなんだ、自分だったら外国で日本人見たら声かけるかな?かけないだろうな。インドネシア人だと思ったら100%声かけるんだそうだ。そういうのってちょっといいな。途中の橋で、日本人のおじさんがインドネシア語でアリさんに声をかけてきた。意気投合した彼ら何人か、近くの駅から電車に乗る私たちと別れて、まだまだ桜プロムナードを、みなとみらいまで歩いて行った。
March 24, 2013
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車を買った。ああ、前回書いたか。そこでその車で高速慣らし運転に出た。やあ、それも書いたか。この車、便利な機能が付いていて、一定速度に設定するとそのまま走る。アクセルを踏まなくても、ブレーキを踏まなくても自動でそのまま走る。追尾機能が付いているので、カメラで前方の車を認識して、一定間隔で走る。前の車が遅かったら、近づきすぎないように自動で速度を落とす。前が空けば設定速度までは自動で速度を上げる。横入りの車がいれば認識して自分勝手にその速度に合わせる。坂道登りはうんこらしょと自動でエンジンの回転を上げ、坂道くだりは自動でエンジンブレーキをかける。前の車が止まれば自動で間隔を空けて止まる。信号待ちの時は自動でエンジンを落とすエコ。私はまだこの機能使いこなせないけれど、夫にしたら楽なんだとか。ところが、前の車より横10cm、縦10cm大きくなった。ちゃんと入る構造にはなっているが、車庫の屋根を支えている柱がどうにも車庫入れの邪魔に思えて、ぶつけないで入れる自信がない。そこで、屋根付き車庫を取り払ってしまったのである。解体撤去費用約10万。私が免許取って一番最初に乗った車がローレル。それ以来買い換える度サイズはたぶん少しずつ大きくなっている。隣のおばさんが言った。「年を取ると、普通は小さい車にするものよ」はい、おっしゃるとおり!おかげで電車での外出が多くなった。本末転倒。花見も電車で。
March 22, 2013
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車を買ったら選べるホテル宿泊券が付いてきた。都内のホテルにしようか、温泉にしようか迷って、せっかくだからと長距離運転の慣らしを兼ねて伊豆に一泊旅行した。途中、大室山リフトとの表示が有ったので、立ち寄ることに。相模湾から近くの標高450メートルぐらいの地点に70mくらいのすり鉢をひっくり返したような火山だ。火口は逆にすり鉢状の穴になっていた。リフトで登って、火口をぐるりと一周すると、25分ぐらいかかる。リフトの切符売り場の表示は「往復」と「片道」料金が表示されていた。「往復ください」頂上の火口周を強風で火口に落ちないように身体を支える。強風で傾斜角45度くらいの山側に転げ落ちないように身体を支えながら歩く。樹木一本生えていない。外側に転げたら、一気に山裾まで落っこちる。人が歩く道は見当たらないし、そもそもこんな坂歩けるとも思えない、転げ落ちるしか無いし。そこで思った。どうしてリフト券、片道切符あるの?
March 18, 2013
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連ドラでも朝ドラでもない。「梅どら」ここ2週間の私の日本語ボランティアはビジナーコースの2人のアメリカ人。日本語始めて15時間ほど。まだ教科書の5課である。やっとひらがなが読めるけれどまだ書くのは難しい。カタカナは知っているけれど、読めない。何でもそうだけど、何もわからない時って黙って先生の言うことを繰り返す。それで精一杯な人が多い。ところがどっこい、この2人。意欲旺盛で、ちょっとでも分からないことが有ると質問してくる。英語で!この段階では難しいことは先に教えることととし、時にはあえて教えないで通過するのに、ストップをかけてくる。英語で!他の曜日の教室にも通っていて、そっちで習った質問をしてくる。英語で!私が最初に「にほんごで教えます」と言ったにもかかわらず、ものすごい早い英語で質問してくる。「Could you .........?」の嵐だ。教科書の最初は「これは辞書です」から始まって「私は・・・・」は必須なので「は」をwaと読むなど初期の段階から知っているのが普通。きちんとした日本文を教えないと、日本語は点や丸まで単語の区切りが無いから、文章が読めないはずだ。読めないと意味もとれない。だから、正しい日本文を書く。そしてその下にローマ字で発音を書く。しかしなあ、まだまだこの段階では耳から入る音なのである。「かぞくってなんですか?」「おとうと?」「younger brother」「あれ?the day before yesterdayは?」「それはおととい」みっちり教えて、みっちり質問攻めにあって、5分オーバーで授業を終えてホッとしたところに、おもむろに破り目のある空のお菓子のプラスチック包装を出し、製造者名を指して聞いてきた。「この材料は何ですか」「材料欄はこっち、そして材料は小麦粉、小豆、梅、卵、砂糖、安定剤、増粘多糖類、うん?増粘多糖類って英語で何だ?」くー、しまった。今日も負けた。日本語で教えるはずが、相手が上手だった。せめて、聞くときは中身も持ってきて分けてよね。「梅どら焼き」 例え夫にでもバレンタインデー送って良かったと思った瞬間。↑もらった!
March 14, 2013
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毎年インドネシア人やフィリピン人の生徒達と行っているお花見。今年は節分に集まった時から皆楽しみにしている。日程を決定して、それぞれに連絡した。今年もお花見の名所を移した。私は良く行くが、皆は行ったことが無い場所である。最寄りの駅で集合ということでメールを送る。お花見の日程確認では送られてきたメールに漢字が書いてあった。よって、返信に漢字で集合すべき駅名を書いて送った。返事が返って来た。「先生、漢字がよめません。ローマ字でお願いします。」パソコンでも携帯でも、日本語入力すると変換してくれる。だからたとえ漢字が読めなくても、日本に1年もいて少し日本語が話せると、メールは漢字混じりで送って来るのである。その漢字を本当に知っているかどうかは別なのだ。日本人は良く、英語など話すことより、読むことの方が出来るという。だけどこと、漢字混じりの言語になると別なようだ。漢字が入っている日本語を読むのは話すより難しいのである。自分で漢字を送れても、その漢字が読めない事も多々ある。私はつい油断して、漢字で返信して失敗しちゃうのである。他言語を習うって面白い。最近読んだ子供の本。「シャーロッテのウェブ」には泣いた。最後は泣きながら読んだ。美しくて、温かくて、悲しくて、春のような心にしてくれる。友情って素晴らしい。
March 12, 2013
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土曜日の朝、またまた「雑木林のような庭」なんぞという本を買って、庭いじり再燃したから、さっそく、庭の敷石や置石の移動を試みて、大きな木を抜いたり、植え替えたり始めた。蹲でも作ろうかな、竹矢来もいいな。日本風の庭にするなら、母の家の庭から灯篭を持って来て、沙羅の木の下にでも置こうかな。それは午前中の事、午後、来週は母の家の家具の処分の業者が来るからと、とりあえず、いつも閉めきっている雨戸を開けて、日の光を入れて、それからダニ退治のバルサンを焚こうと亡き両親の家に出掛けた。バルサンを2階と下にかけ、外に出て庭で3時間待機することにした。玄関を出ると直ぐ、「火事です火事です」と室内で音が鳴る。あらあ、火災報知器が煙を探知しちゃった。でも、今からバルサンの真っただ中には行きたくない。火災報知器には勝手にしゃべらせておいて、バルサンの様子を窓から見張りながら、夫と母の家の庭掃除をして時間をやり過ごす。「芝刈り機出したから刈ってよ」とちゃんと家の中から事前に出して置いて機転の利くところを見せるように家の外のコンセントを指さして、夫に言った。すると夫、「だって、電気のブレーカー切ったままでしょ。」「・・・・・・!」そうであった、住んでいないから漏電が怖くて、ブレーカー落としているのだった。伸びすぎた芝生を手動の長鋏で刈ったり、小さな花をいっぱい咲かせている福寿草の周りの落ち葉を集めたり、自分の家から持って来た春に咲く花を植え付けたり。10分芝を刈ると、「ああ疲れた」と放り出す夫。仕方ないから10分ごとに交代で芝を刈る。あ、そうだ。灯篭、車に積めそうかなと、雪見灯篭の1番上のタジン鍋の蓋のような小さいのを持ってみた。重い!1番小さいのでこれだから、その下の大きな傘や足なんて2人でも持てない。「灯篭重くて持って行けそうもないね」7分で休んでいる夫につぶやくと「うん、僕もさっき1番上持ってみた。やめた方が良いと思う」試してみたのね。でも、藪蛇にならないように、試したことは黙っていたのね。
March 2, 2013
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「ブログってなんだ」とある時ふと考えた。そうしたら、ブログが書けなくなった。私はブログとfacebookとツイッター使っている。そしてそれぞれ使い分けている。多少ダブっている知り合いや友人もいるが・・・。ある日、友人が私の「ブログ記事をfacebookにリンクしていいですか」と聞いてきた。そこで私は、いやいや同じ写真と記事を改めてfacebookにも書くからそれをシェアしてくださいと伝えた。実名を出す人もいるが、ほとんどの人はブログではハンドルネームを名乗る。記事を書く上で個人名や特定されることは差し障りが有るからだ。場所や生活が特定されないように顔写真を出さない人の方が多い。私の経験から、内容や、書き方からずっと女性だとばかり思っていたら、男性だったということもある。ブログは自由なのである。偽りの自分を作り上げてもいい。それはそれで面白い。読む方だって、ブログはそういうこともありうる世界だと分かっているはずだから。何しろ読み手だって実名出してないのだから、相手が事実じゃなくても文句は言えない。facebookはそれは出来ない。きちんと実名登録するのが基本だ。自分のページとリンクするそのほとんどは有ったことのある友人なのだ。ブログは「すべてが事実とは言えないと認識する場所」でありfacebookは「確たるものや現実を出す場所」ここ何日かのもんもんで、そこに至ったのであった。ちょっと前に書いた丹後旅行のブロ友さん、バスの予約時に「前金はどうやって振り込む?」と聞いたら、「以前お会いしてもう身元が割れていますから当日で良いです」と言った。なるほど、ブロ友さんも一度会うと身元が割れるのである。想像していた世界から現実に移動するのか。ちなみにツイッターはハンドルネーム登録でかまわない。ブログと同じ。ブログリンクに使っている人もいる。 灰色ウサギは実は男性だ。←うそうそ。何人かに身元が割れている。 灰色ウサギの書くことは実はてんこ盛りの創作である。←有るかもよ。 今日の写真にケーキを載せようとしたが、なぜかそのページだけスクロールが動かない。
February 28, 2013
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2か所のお役所に行かなけれならない必要が生じた。朝、家を出る。郵便局に寄って小包を出してから駅に行こうと考えていたのに、すっかり忘れて丘を下ってしまった。丘の下の郵便局に行けばいいかと思っているうちに、パスモのチャージの事を考えていたら、駅の改札を通り抜けてしまった。うーんどうしよう、荷物重いし、持って歩くのは大変だし、ロッカーに入れようか。しかしなあ、帰って来た時、きっと駅の中のロッカーから荷物を出すのを忘れて改札出てしまい、家に帰ってから「この鍵何だっけ?」って気が付くのだろうな。ままよ、このまま持って歩こう。渋谷で降りて坂を登る。お役所1終わり。荷物重い。折角良くなった腰がまた痛くなりそう。ああ、それなのに、東急フードショウに吸い寄せられて、チョコレートなんぞ買ってしまった。チョコレート好きなお隣さんの分と自分の分を少しと。スコーンも買った。確実に自分が重くなった。電車に乗って移動、お役所2。お昼を食べる。またまた自分が重くなった。電車に乗って最寄りの駅に帰って来た。丘を登るバスに乗ってやっとこ、郵便局に。書籍郵便で3冊の本を韓国のゼリンさんに送った。1日持ち歩いた本の重み。タイトルから、こんなドジな話ではなく、もっとまじめな「本の重み」を想像した方、ごめんなさい。 ↑自分の分
February 12, 2013
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だんだんに暗く落ちて行く空を見ながら、みぞれとも雨ともつかない空の上から落ちてくるものを感じながら、私はとト屋さんの露天風呂に浸かっていた。髪を吹き飛ばしていく日本海の風に吹かれながらわずかに息が出来るだけの顔を湯船の上に出して、温かいお湯に深く深く浸かっていた。房総半島と三浦半島、両の腕に抱かれた赤子のような位置をゆったりと船の行き交う東京湾の海を見慣れた私は、ざざーと音のする雄々しい日本海を少しでも感じていたかったのだ。しかししかし、お風呂の後には蟹が待っている♪そそくさと浴衣を着て、羽織を羽織ってダイニングに急ぐ。次から次と入ってくるお客さんは大広間にでも行くのだろうか、私たちともう1組はダイニングでスタッフさん付きっきりで蟹を頂いた。さっき見せられた私の蟹がきれいに捌かれて蟹しゃぶや、刺身や、焼きガニや、茹で蟹や、鍋や、もうなんだか分からない。いろいろにお料理してもらうそばから、ただひたすら無言で食べる、食べ方を教えてもらいながら、お皿にのせてもらいながら、子供のようにただ黙って食べた。ただ黙って食べる。これが蟹の正しい食べ方、なんてね。蟹ちゃんバスの京都からの運転手さんも帰りの運転手さんも、言った。「美しい丹後の雪景色が見られなくて残念ですね」
February 10, 2013
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ある日、古くからのブロ友、rikizukiさんのやっている丹後旅行センターの蟹ちゃんあみちゃん直行便で蟹を食べに行って来た。はるばる新幹線に乗って京都駅まで行き、八条口で待っていた蟹ちゃんバスに乗り、今度は、丹波を抜け大江山を抜け、京丹後。3年ほど前も、てんきてんき丹後という一度聞いたら忘れられない名前の道の駅でバスを降りたら、待ち構えていたrikizukiさんにてんきてんきの店長さんの車に押し込まれ、聖徳太子のお母さんの名前の付いた間人(たいざと読む)港やら、平七魚水産の蟹水槽や、鳴き砂の海岸を日本海に暮れ落ちる夕陽と競争しながら案内してもらったのだった。今回も日本海の潮の匂いがその強い風と共に感じられる頃、てんきてんきでバスを降ろされた。rikizukiさんは突然の所用でお会いできなくなったけれど、今回のお宿「とト屋」さんが迎えに来てくれていた。とはいえ、とト屋さん、てんきてんきから見えるところ。海からの身を切るような風が冷たい。玄関を入ると意匠をこらした土間やカフェと温かい出迎えの声が迎えてくれた。ふむふむ、踏み込んだ瞬間、前回のように大きなホテルではないけれど、アットホームで気配りの気いたお宿をと選んだ私の目と、そのチョイスを押してくれたrikuzukiさんの決定は間違っていなさそうと思ったのだった。その夜食べる、私たちのために用意されていた生きている3匹の、間人の港産にしか付けられない緑のタグが付いた蟹を見せられる。「これからこれを捌いて、料理の準備しますから、お先にお風呂どうぞ」フロントと食堂とバーのある玄関棟からアートな渡を通って宿泊棟、部屋に行く階段や廊下には韓国の陶芸家さんの陶器や日本の古陶器にきれいな花が素敵に活けられていて、それにも、おかみさんのセンスが感じられてその後の展開もわくわくしてきた。部屋に入って障子を開ける。ガラス窓が有るのに、さあと冷えた冷気が感じられ、防風林の松の向こうに一本の日本海水平線が見えた。明日も続く
February 9, 2013
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昔、昔、若い王子様がお妃様になる人を探していましたが、なかなか本当にこれは素晴らしいというお姫様が見つかりません。そんなある日、1人の娘が「私はほんとうのお姫様です。でも疲れているので寝せてください」と訪ねて来ました。王子様のお母さんは20枚の布団と20枚の羽根布団を敷いて、その下にたった1粒のえんどう豆を置きました。「さあ、これで寝られなかったらそれはほんとうのお姫様」とお母さんは言いました。翌朝、お姫様は起きて「昨夜は背中が痛くて痛くて全然眠られませんでした」そう言ったのです。それはほんとうのお姫様でした。 「えんどう豆の上に寝たお姫様」アンデルセン童話から ------------------------------------------------------------------------------ 夫が予防接種をしたにもかかわらずインフルエンザに罹った。私のセミダブルのベットと彼のそれとの間は50センチ。間が有っても同じ部屋で寝ているのだから、予防接種をしている私だって絶対うつる。怖い。別棟の2階、廊下の奥の一番遠いベットルームに隔離するという手もあるが、寒い廊下を歩かなければならない。同じ理由で上げ膳据え膳する私もいやだ。 そこで、彼を寝室に閉じ込めて、私が畳の部屋で寝ることにした。夫はそんな私の心を感じて、2日目には熱が下がったものの、びたっと寝室に籠り、食事と、トイレにしか出て来ない。 畳の部屋に布団を敷いて寝た朝、腰が痛い。起きるのが辛い。布団をそっと畳んでみると、なんと、あんなにきれいに掃除したはずの先日の豆撒きの豆がどこから出て来たのか、一粒、コロンと布団の下で潰れていた。 「・・・私は、本当のお姫様?」 ない、ない、ない、そんな大合唱が聞こえてきそう!はいはい、腰が痛いのは年末、修理に出すプリンターを居間から宅急便に受け渡す為に玄関まで運んだ後、ぎっく腰になって、なかなか治らないからだ。 べたっと寝て過ごしている夫がお風呂から上がって、声をかけてきた。「ねえ、ウサギは昨日、腰を診てもらいに整形外科に行って、湿布薬もらったよね。1枚分けてくれる?お風呂の蓋を閉める時に、ぎっくり腰になった」「・・・・・わ、わたしより軽いものを持ってぎっくり腰?」 これから2人で過ごす老後が心配で、心配で、心配で。
February 7, 2013
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「キャパとゲルダ・タロー、2人の写真の違いは何だと思う?」横浜美術館の写真鑑賞の後、私は駅へと通じる長いエスカレーターを連なって降りる人々の見えるカフェで、シフォンケーキをつつきながらエミルさんに聞いた。私は、前日、インターネットで検索した時のショックを引きずったまま写真展を見たのである。学生時代からLIFEとそれに掲載されている写真を持っているのに、ロバート・キャパという名は実は架空の名前で、ゲルダ・タローとフリードマン・エンドレ・エルネーの2人の合作で、ゲルダ亡き後、キャパがその名を引き継いだというのを知らなかったのだ。実にショック。ロバート・キャパのLIFEに載った「崩れ落ちる兵士」は有名だ。横浜美術館で私たちはその写真を見た。その写真の3枚ほど前に兵士が崩れ落ちる以前の駒逆回しのような、他の3人の仲間とスペインの丘を前進する生存する兵士の写真もこの目で見た。スペイン内戦時、ゲルダとエンドレ2人は共にこの丘でこの兵士たちを撮ったそうだ。ゲルダはローライのカメラで、エンドレはライカで。そしてゲルダは別行動していた戦場で27歳で戦車に衝突され命を落とす。その後キャパの名を名乗り続けた彼は「崩れ落ちる兵士」をLIFEに発表するのである。しかし、2日前のNHKの特集で作家の沢木耕太郎が言っていた。そもそも崩れ落ちる兵士のアンダルシアに有る丘では、その時戦闘など始まってはいなかった。したがって、キャパの撮った兵士は死んではいないのである。ただその時何かのはずみで足を滑らせて転んだというのが今では通説だいうのだ。2重のショック。そしてもっと沢木は推理する。コンピューターで時間と位置を計算すれば、あの時、あの写真はキャパの立ち位置からは撮れなくて、カメラもオリジナル現像から推理して彼のライカでは考えられないんだそうだ。前日に美術館で見たあの写真はいったいだれが撮ったものだ?一緒にいたゲルダのカメラで撮ったものだと沢木は推理していた。頭の中が混乱でぐるぐるした。冒頭の文章に戻る。ゲルダとキャパの写真を見てその違いという私の問いかけにエミルさんは分からないと答えた。しかし私は、もし「崩れ落ちる兵士」が死んでいないのなら、それはキャパが写したもの。それが本当の戦闘であるなら、ゲルダが写したものと結論付けたい。なぜなら、美術館で何百枚も見てきた写真の中で、ゲルダが撮った写真は、傷病者や死者を気丈に冷静に写している。彼女は結論ありきで写真を撮っているのではないかと私は感じた。「可愛そうでしょ?」「戦争はこうだから恐ろしい、悲惨だ」そう、伝えたいのだ。キャパの写真から私が受けた印象は少し違った。彼は生きている人間をたくさん撮っている。バリケードの上の少年、ナチに協力したフランス人女性を取り巻く人々、オマハビーチのちょっとぴんぼけ写真の兵士。それは見る人によって少しずつ捉え方の感情が違うはずの写真だ。バリケードの上の少年は、その状況を喜んでいるのかもしれない。戦場の中の歓喜。ナチに協力した女性の写真からは、女性がかわいそうと思う人がいるかもしれないし、取り囲む人間の日和見主義を見て取るかもしれない。良いきみと思う人も絶対いる。ノルマンディー上陸のビーチのピンボケから、戦争の悲惨さよりも、今この時の緊迫感や自分の親や兄弟を重ね合わせる人がいるかもしれない。プライベートライアン。もちろん、彼は負傷している兵士など写さなかったわけではない。けれど、私はそこが2人の違いではないかと思ったのである。だから、崩れ落ちる兵士が実際には訓練中で有っても、それはそれでキャパらしいと思った。たとえそれを彼が撮ってなくても。彼はその写真をLIFEに選んだのだから。ゲルダなら没にしただろうと思うのだ。今日の写真は2枚。ランドマークタワーとクイーンズAの間のオブジェを私とエミルさんの2人が交互に私のカメラを使って撮った。どちらが私でどちらが彼か。ヒント、わたしのは「策士策に溺れる」。挙句に、ちょびっと涙がこぼれた。うーん、理屈くさい記事を書いてしまった。どこぞからまた、この頃の記事まったくもって面白くないと、ヤジが飛んで来そうだ。
February 5, 2013
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昨日は節分毎年お正月が終わって少し落ち着いた時期に、日本語生徒のインドネシア人やフィリピン人とお餅を食べたことが無いという彼らのために、我が家でお餅パーティをする。今年は皆の日程が会わなくて、昨日の2月3日になった。私のインドネシア語の先生の発案で、ちょうどよいから恵方巻きをみんなに作らせようということで、海苔巻の材料も準備してもらった。総勢16人。先ずはお雑煮やお汁粉を食べる。お正月バージョン。お餅を焼いている間にエビフライも焼き鳥も、サラダも無くなる。早!少しお腹が膨れたところで、来客の1人であるヒサコさんに教えてもらって皆で豆まき用の升を色紙で作った。そこに少しずつ豆を入れてもらう。もう投げる前からみんなの目が輝きだした。「いい?、投げるときは鬼は外、福は内っていうんだよ」そう教えるも、みんなの目はもう升の中。ただ一人の子供のアオミちゃんが作ってくれた鬼のお面と福のお面を、じゃんけんで決めた人が被る。窓を開けて窓を開けて!始めるよ!「鬼は外!」一声に鬼めがけて豆を撒くとたちまち3匹の鬼はウッドデッキに追い出され、なんとそこで笑いながら飛んでくる豆をキャッチして、食べ始めた。カメラマン、鬼、福、桃太郎まで入り乱れての大騒動。それが終わると、恵方巻きの講習会。私は海苔巻下手なので、ヒサコさんが皆に教える。卵焼き、蟹、甘海老、かんぴょう、キュウリ、たらこ、でんぶ、サーモン。半分のサイズの海苔の上に好きなものを乗せて自分の分は自分で作る。あれ、意外とみんな上手。ご飯を少な目に具を欲張って入れた私は罰が当たってへたくそ。夫も自分で作った。うれしそう。さあさ、今日だけはメッカの方角じゃなくて、南南東を向いて食べましょう。
February 4, 2013
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横浜パシフィコで行われた国内最大級のカメライベントのCP+2013に行って来た。70,000人が訪れるというものすごく大きなイベントだ。みなとみらい駅に降り立つと、ほとんどの人のが会場に向かう。どんどんどんどんものすごい高そうなカメラをぶら下げたマニアや写真愛好家が同じ方向に途切れなく流れて行った。私はこれで3回目。今回は一緒に行くはずだった夫が急に行かれなくなったけど、約束していたエミルさんが来たので一緒に行った。私の目的は会場で行われているカメラやショーや講習会トークショー、講演会などではなく、会場の一角で行われている「御苗場」という写真展内でブロ友さんのChloe さんのブースを訪れるためだ。訪問時間を前もって伝えておいたので、chloeさんはブースにいてくれ、3回目の対面になるエミルさんも彼女の写真の説明を受けることが出来た。動物写真家の彼女、去年からの作品は今追い求めている鹿。出展作品はバリの鹿。明らかに鹿なんだけど、ヒンズー教徒のお祈りの場面に現れた鹿は、なんだか日本の鹿と違って神々しくも有る。そんな鹿を優しくカメラは捉えていた。まだまだ鹿を追い求めるという彼女の今後の作品がたのしみだ。その後、CP+のチケット持っている人は400 円引きになるというので、会場から出ている連絡バスで、横浜美術館に回り、若いころから大好きな「ロバート・キャパ」の写真展も見た。以前、おじさんも報道カメラマンだったと話してくれたエミルさんも一生懸命展示写真を見ていた。写真を撮るのは下手な私。でも写真を見るのは好きだ。
February 3, 2013
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子供の本の「マチルダ」を英語で読んでから、ちょっと子供の英語本にはまった。娘の帰国時に合わせて、本屋で2,3冊子供の本を買って貰った。ロンドンの本屋で娘は店員に「子供の読む本を探しているんですが、何かお勧めは?」と聞いたらしい。店員「お子さんはおいくつですか?」と問うたそうな。言葉に詰まった娘は思わず「お母さんは10歳です」と言いそうになって、「お母さんは」の部分だけ飲み込んで答えたそうだ。届いた本は「The London Eye Mystery」と「Little Lord Fauntleroy」イギリスの10歳、なかなか手ごわい。ほとんど単語をすっ飛ばして読んでいる。今日も弔いの花。アルジェに種を植えた人々へ。資源のない日本でぬくぬくと温かい部屋で実った果実を食べながらではあるけれど・・。Belgische_Pralines さん、鋭いです。白い花、偶然ではありません。
January 31, 2013
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種を撒くそしてその種に水をやる人育てる人たわわに実が生る収穫する人人々に配る人その実を食べ豊かになり幸せになるそして人々は後に残った掌の種を見ながら思う「この種を返せば、もっと実が生り、もっとたくさんの人が幸せになる」一番最初の種を撒くのが一番難しい上の文章とは関係ないけれど、webページで、久しぶりに杉原千畝の記事を見つけた。先週の日曜日、アメリカでホロコーストの追悼集会が有ったらしい。その中にいる「6000人のビザ」によって助かった人たちやその子孫がいまだに彼と彼の行為を忘れないで感謝をささげている。いやいや、彼もまた種を撒く人だった。
January 30, 2013
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じっと息をひそめ、何か恐ろしいものが通り過ぎるのを待つ穴の中のカエルの心境がわかるような、分からないようなそんなこの頃。食卓でコーヒーを飲みながら、首を曲げ真上を見上げると光の中に青空とそこを横切って飛ぶトンビ。時にはもっと高いところを飛行機雲を引きながら、銀色に光る飛行機が飛んでいく。家の中に空が有る風景。だけど?だから?写真を撮るといつもその空がしゃしゃり出てくる。花のそばに自己主張してくる。下書きした原稿が有ったけど、これはもう少し先延ばししようと思った今日という日。
January 29, 2013
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新丸ビルのバルバッコア・クラシコというブラジル料理の店でカイル君と奥さんのミホコさんに会ってきた。彼、年に1.2度面白いメールをくれるのである。「ぼくたち会わなきゃ」とか「会う必要がある」とか。で、結局会っても別段用事はないのである。私にだけじゃなくて、夫や娘たちにも「ずっと会ってないから会わなきゃ」っていうのだ。今年は29才になるという。日本に日本語の勉強のために留学していたのは20才前、卒業してひょっこりまた我が家に遊びに来て、そしてまた英語の先生をするために来日、そのまま居ついて日本女性と結婚してしまった。いまだに私たちを日本の家族だと思ってくれているらしい。そして私は定期的にカイル君とミホコさんと会うのである。私が日本語で話して、彼が英語で返す。ホームステェイしていた時から変わらず・・・。この変則会話は相変わらず。絶対英語でなんか話してやらないから、そっちが日本語で会話してくるまで。
January 28, 2013
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書きたいことが心の中に有って、頭の中ではちゃんと文章になっているのに、はて、ブログに書こうとするととても書けない。もやもや。丘を降りて、古墳のあるトンネルを抜けると道端に水仙が咲いていた。そこは市の敷地だから、水仙はただ生えてきたものではなく、誰かが植えたもの。今日はそこに花盗人が2人。私がそばを通ると、すっと後ろ向きに顔を隠した。登りに向かう路の途中で、露店の野菜スタンドのおばさんから夕食用の菜の花と蕗の薹を買う。ちょっと香りを嗅いで、バックに入れて、丘を登りきると花の名前が付いたカフェ。私は200円払いカップを受け取り、エスプレッソを注ぐ。ガラス張りのだだっ広いカフェには、熱心にパソコンのキーを叩く男の人が一人だけ。エスプレッソを一口飲んでから、おもむろに本を開いた。帰り道、水仙畑に盗人はいない。下を向いた水仙が悲しい。やっぱり、頭の中に出来た文章は書けない。それはそれでいい。水仙の写真を撮ったからそれでいい。
January 24, 2013
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私の言葉ではない。先ず、わたしは、雪が降ったどうしよう。車は出せない。買い物にも行かれない。困った!と思った。雪が降った日、Facebookを開けると思った通り、雪にはしゃぐ友人らの子供達の写真が有った。ベランダの雪に興じるフィリピンから帰って来たばかりのフランセスちゃん、自宅のウッドデッキの雪をかき集めるアオミちゃん。雪だるまを作る日本語教室の子供たちの写真も有る。大人の心配はよそに、銀世界は子供たちにとってはまさに降って湧いた、夢を運ぶアミューズメントパーク。そして、少しするとfacebookに雪の写真がどんどんん更新される。雪景色の中で寝転んだり、ふざけたり、はじけるような笑顔ではしゃいでいるのは大人。インドネシアやフィリピンやベトナムから来た日本語の生徒達だ。中には来日1年にも満たないで、初めて雪を経験する人もたくさんいる。facebookの写真は故郷の家族も恋人も見る写真付き手紙のようなもの。「日本に雪が降ったよ。雪は真っ白で、きれいで、そして冷たいよ。そして世界はほらこんなに美しい」そんなことを写真で伝えているのか。いや違うな、ただもううれしくてはしゃいでいるのだろうな、子供みたいに。買い物や雪かきの心配はどこえやら、見ているこっちまで笑顔になっちゃう。今日のおやつ、足立音衛門の木箱入り栗のパウンドケーキ。さすがにこれは冷凍しないで食べた方がよさそうだ。 ☆今日もいらしていただいてありがとうございます。 なかなか時間が取れなくてコメント返しが充分に出来ません。 皆様のブログにお邪魔して、そちらにコメントさせて頂きます。☆
January 16, 2013
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三浦按針(ウイリアム・アダムス)の事である12月のある日、マイク・ポウルトン脚本、ロイヤル・シェークスピア・カンパニーの監督であるグレゴリー・ドーラン演出の「家康と按針」の舞台を見に行った。そそっかしい私の事、会場は神奈川県民ホールだとばかり思って到着するも、そこにいるのは私一人。おや?間違えたかな。芸術劇場と書いてあった。急いで山下公園の入り口でタクシーを捕まえる。「すみません、芸樹劇場知っていますか?」乗ってすぐ、大桟橋の入り口を左に曲がり、すぐの道を左に曲がり、2分で到着。ビルの間から港の方を見ると、なんと山下公園の銀杏の木が見える。県民ホールのほぼ斜め後ろ。歩いてこられたのね。そうして鑑賞した三浦按針の物語、4年前のリメイク版だ。あの時と同じ家康は市村正親、藤原竜也の日本人宣教師と英国人俳優のアダムスは代わっていた。この公演は今月末ロンドンで上演される事になっていて、英語が半分、日本語が半分の舞台であるから、互いに自分の得意じゃない言語は字幕を見るようになる。イギリスでの日英通商400年の行事の始まりを飾るイベントになる。確かに、彼がその歴史の始まりだった。彼は妻子のいるイギリスには帰らず、家康にもらった身分と名前と領地と日本の妻と子供と共に日本で生涯を送った。それでも、難破した彼の船から13年後にやって来たイギリスの船が日本との交易を始めたのだ。その時徳川秀忠が甲冑を2体、イギリス国王に送ったという。ロンドン塔に行った時、なんでこんなところに日本の甲冑がと思ったが、あれはその時のだったかもしれない。学校の教科書で習った按針、私の中の按針はただそれだけで来たのだが、4年前の日本での公演をわざわざ見に来た按針の生まれた街のスーザンさんと知り合い、外国人に按針の事を教えられた。メドウェイであって、昨年、按針の菩提寺で行われたスーザンさん再来日の歓迎パーティで会って、按針の事をもっともっと知った。先週の木曜日、スーザンさんは日英通商400年記念行事の打ち合わせのため按針の街メドウェイからロンドンに出て行ったそうだ。これから精力的に1年間のいろいろな行事に企画・参加していくのだろうな。月末の「Anjin」ロンドン公演、ロンドンの長女も早々と昨年の内に前売り券を買ってお互いにコンタクトを持ったから、スーザンさんとその日、合流できるといいなあと思っている。「国土は万里の雲海を隔てていれども、我らの領域は誠に近し」(徳川家康から英国王ジェームズ1世へ。1613年10月)←外務省柔らかツイート http://japan400.com/ja/ からもらってきました。写真はスーザンさんに連れて行ってもらった時撮ったメドウェイ市(旧ジリンガム)のセントマグダリン教会内のアダムス洗礼の石の蓋付き聖水盤。
January 14, 2013
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昨年ロンドンの娘が夫のリクエストに答えて、帰国時かばんに入れて来たオーストリアかドイツの巨大なシュトーレン。真ん中にアーモンドのマジパンが入っている。シュトーレン用のだけあって、マジパンも柔らかくてとろけるようだ。やっぱり本場のは違う。これでなくちゃあ、と始まった暮れからお正月のお菓子合戦。毎日、お菓子の裏をひっくり返して賞味期限との戦いをしていたある日、はたと気が付いた。そうだ、お菓子グルメのブロ友さん達、冷凍していると書いてあったのを思い出した。買ってすぐじゃなきゃ風味が抜けちゃうんだそうだけど、まあ、いいか。冷凍しよう。そして、長野の「まほろばの月」、「福砂屋のカステラ」など冷凍庫に押し込んだのであった。これで、少しはコレステロールから逃れられるかな?そんなある日ぎっくり腰も治って来たので、思い立って話題の映画「レ・ミゼラブル」を見に出かけた。毎週のようにミュージカルやクラシックコンサートに出かけ、この映画もロンドンで見て、なおかつ日本で見た長女とやっぱりミュージカル大好きな次女が小さなハンカチだと間に合わないから大きなタオルを持って行けと言う。レ・ミゼはロンドンで2・3回見た。涙は出たけど、そんなにおいおい泣いた記憶はないから、タオルじゃなくても大丈夫だと高を括って出かけた。しかしである。これが泣ける。アン・ハサウェイが子供を思って歌うと泣ける。子役のコゼットが暗い森の中でさびしくて歌うと泣ける。アンジョルラスが革命のバリケードで「Do you hear the people sing?」と歌いだすと泣ける。マリウスで泣いて、ジャンバルジャンで泣いて、果ては外見ならヒュー・ジャックマンよりこっちがジャンバルジャンだなと思われる、ちょっとごつ過ぎるラッセル・クロウのジャベールがセーヌに身を投げるところで泣いた。映画も良かった。すごく良かった。娘たちが映画にもいっぱい出ていたというウェストエンド(ロンドンのミュージカルの地をそう呼ぶ)の役者さんが私には誰かは分からないけれど、バリケードの中の仲間たちの歌がすごく良かった。そして一番歌もいいなと思って涙したのは、大人になったコゼットよりも、コゼットとマリウスに横恋慕するエポニーヌにだった。すっかり感情移入してしまった。しかし、今日の娘のツイッターのリツイート「Les Miserables fan Sally Frith sees musical 957 times」これはすごい!イギリスにはミュージカルを957回も見た強者がいる。本日のタイトル「ああ無情」は私が子供の時、いとこの書棚にそれを見つけて初めて読んだ「レ・ミゼラブル」の日本語翻訳の題名。
January 11, 2013
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いつも灰色ウサギのブログにお越しいただきありがとうございます。 今年もよろしくお願いします。 長女のポルトガル土産のタイルの上に鎮座する「たねや」の達磨豆。 田作り、芋きんとん、豆きんとん、黒豆、生酢、煮しめ、慈姑煮、松前漬け。 鯛を焼いて、新年の料理を完了。 今は犬がいないから、焼いた鯛を二尾とも食べられちゃう心配もなく、 魚市場で半身に下ろして貰って来た鰤をさばいて、マグロと一緒に刺身にする。 桂むきで刺身のつまを作り、生わさびを下す。 スモーク鴨やかまぼこ昆布巻きなどは切るだけ。 年越しそばの出汁を鰹と昆布と鶏肉で採る。 ついでにお雑煮用の出汁も昆布と鴨肉で採る。 そして正月三が日、5人でお節をはじめ作ったものを食べ尽くした。 海老の鬼柄焼きやタコの酢の物、サラダ、茶わん蒸し等ちょいちょいと付け足していくだけ だから簡単。 洗うお皿だけが毎回五万と出る。 ブールミッシュのケーキを食べ、次女の手作りケーキを食べ、 お抹茶を点てて正月の花びら餅。 昨夜、皆が風のように去ったが、後にはもらったお菓子や、取り寄せたお菓子や、 お土産のお菓子が五万と残った。 どうする? 今年の目標もまたダイエットだけど・・・。
January 4, 2013
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一昨日の事、食後のひと時、足の爪を切っている夫を見ながら、「なんか飛躍的に家がきれいになる方法ないかな。思い切って家に有るもの半分ぐらい捨てればいいのかな」と、呟いた。すかさず夫が「僕を捨てないでね。お掃除全部終わったら、お父さんがいないなんてことにならないように」新年の挨拶のグリーティングカードも送った。クリスマスカードと合わせて53枚。年賀状も終わった。郵便受けに届くグリーティングカードを読みながら後は今日帰って来た次女とお料理を作るだけ。明日はロンドンから一時帰国している娘も彼女の夫と一緒にやってくる。いつもの年のように鰤を半身買って年越しをし、いつもの年のように鎌倉八幡宮に行こうと思っている。ああ、そういえば去年は母が亡くなって喪中だったから初詣行かなかったなあ。暮れには両親の家に行って年を越したように、娘たちが訪れて来るようになった。廻り廻る。 今年もお世話になりました。 灰色ウサギのブログに来てくださってありがとうございます。 明日は家族と過ごします。 ブログはお休み 良いお年をお過ごしください。 頂いたコメント返しは時間が無くて出来ませんので 皆さまのブログに伺いコメント残します。
December 30, 2012
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