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〇毎月初の句会と言えば本部の例会です。ここで勢いをつけて別の句会へとすすみたいのですが、世の中そんなに簡単には問屋は卸しては呉れません。4半世紀前の拙句ですが、 舞妓来て席華やぐや川床涼み 夜の帳ひたひた迫る川床涼み 農小屋は寸莎壁壁晒しどくだみ草 オカリナの音色辿れば月見草 言の葉に天使の羽や虹立つ日 夕焼や今し孔雀の羽ひろげ 夕焼のはての果てまで対峙せり 鉾粽まだ新しき染工場 供養料百円とあり花木槿 夜濯や床落ちさうな物干台かように、日記に残しておくと、すぐ当時の事が偲ばれます。
2023.07.31
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〇今住む家は、高校2年生の時、まだ住宅ブームの走りの頃、父が退職金前借と国民金融公庫から某かの借り入れをして60余年前に購入したものでした。平屋ですから多く住めない筈なのに、何と当時、この家に父母、それに子供4人が寝起きしていたのですから、無理すりゃ5人住まいも可能ですが・・・。最初、105坪の敷地には亡父が薔薇の花を植えていました。ところが或る時を境に父は椿の魅力に取り憑かれてしまったようです。大阪は天王寺公園の植木市、京都は北野天満宮の植木市などで幼木を買って来ては開花を楽しみにしていました。そのうち、椿の専門書を参考にして珍しい品種を造園屋から通信販売で購入したりして、百種類以上の椿で埋め尽くされ、さながらこの庭が造園業の体をなしていました。現在は当時の80%程度に減っていますが、庭守りの家内の日々の奮闘に感謝しています。
2023.07.30
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〇某日家内が生後5か月の孫をあやすのに、「指の歌」を歌っていました。1)これはわたしのとうさまえらいかた これはわたしのやさしいかあさまやさしいかたよ2)これはわたしのにいさませがたかい これはわたしのねさましんせつよ3)これはわたしのにこにこあかちやん みんなわたしのおうちのかたよ家内は私と結婚する前は、幼稚園教諭。大学で学んだようです。戦前の日本は旧態依然としていて、一家の主人、父親の権威は強かった。私も母から人をさしていう場合、「方」と言うのですよと教えられていました。時々使います。 昭和29年10月再版、山下道子編『幼児歌曲集』にも載っています。NHKの「幼児の時間」という番組で、歌のおばさんが歌っておられました。 佐藤義美作詞の「よいおへんじ はい」では、「おやりなさい」といわれたら、いつでもどこでもなにしていても よいおへんじ「はい」すぐにやりますよいこども 独裁政権の隣国の教科みたいですね。後日、再度詳細を。
2023.07.29
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〇銀行員時代の羽振りの良い頃は、こまめに理髪店に行っていましたが、子会社に入社した頃から、収入に応じて大衆の散髪屋を利用するようになりました。現在は木の葉髪を遥かに過ぎ、丸坊主に近い頭の佇まいではあるけれど、首筋あたりは整えないとみっとも無いし、世の女性に失礼にならない程度に理髪店へ。向田邦子さんは女性から「理想と憧れる女性像」として憧れの対象でした。お姉さまは服装のセンスが良くって、気に入った服は色違いでお揃えになっていたようですねというアナウンサーの問いに、妹さんは「ええ、洋服などのスタイル・柄を選ぶのは、殆ど直感だったと思います。随分昔から、そのような直感を蓄える努力をして居たようです。」>学びたいものです。
2023.07.28
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〇作家安岡章太郎の「おつまみニ題」では、彼の父親は酒豪だったそうで、連日の晩酌には奇妙なものを作らせていたそうな。リンゴの輪切りの醤油漬けやら、一寸角の大根に梅干を漬けた汁をかけたものなど一風変ったものだったようです。酒の料理を自ら行う人の代表に、きだ・みのる氏を挙げ、開高健氏と一緒に訪問した折、洗面器で煮た豚のあばら肉をご馳走された由。アルマイトの洗面器にバターを4分の1ほど溶かし、そこへ豚のあばらの片方をまるのまま放り込み、ぐつぐつ煮、更にニンニクを加えられたそうな。文豪たるものかくも豪快な暮らしをなさるものだと感心しながら読みました。
2023.07.27
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〇いつでしたか、一度この書物について書いた事があります。父の蔵書の一つ、堂本寒星著『南座』はシールの剝がし痕があるので古書店名は判明しませんが、価格200円。布切れには貴人らしき女性が椅子に座って寛いでいる図、しかも錦繍を使っているし、7センチほどの厚みのある書の天にも金箔が施されています。更に、しおり(表紙裏面、裏表紙裏面)には、安土桃山風俗の図柄が、優雅な佇まいを醸し出しています。文獻書院昭和4年11月20日発行の初版、定價金四圓という代物。目次第一部 四條河原篇 ここでは七つの櫓の紹介。第ニ部 南座篇 第三篇 大正と昭和総ページ数は405ページ。古書店では店頭の飾りとして重宝する書物だけどいろんな価格がついています。
2023.07.26
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〇去る23日の日曜は野風呂記念館での吟行句会がありました。候補地は京都駅近辺の梅小路公園辺り。灼熱と言っても良いほどの暑い夏日。水族館や小川の流れる森、隣には鉄道博物館あって、句材はいろいろ。ところで、この句会には総勢20名ほど、世界各国から京都大学に日本文学を学びに来ている留学生達が見学に来られました。各人に精記用紙や主宰の選句一覧などのコピーを配り、主宰には特選句及び入選句に懇切丁寧な解説を、時折逆質問など織り交ぜて進行されました。留学生からも数名、質問や感想を貰って、有意義なひとときを過ごしました。
2023.07.25
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〇大村しげさんの『静かな京』の宝鏡寺の節には、<宝鏡寺さんの門をはいると、その右手に「人形塚」というのがあって、台石には武者小路さんの人形よ誰がつくりしか誰に愛されしか知らねども愛された事実こそ 汝が成仏の誠なれ 実篤という、人形の霊に捧げることばが、刻んである>から玉章を綴っておられます。吟行地として私が訪れた折には、五色の唐傘が干してあった事を鮮明に覚えています。「でも言って委員会」の番組で、存命の三宅久之さんが、母国を守るために散っていった青年達を慰めるため靖国神社の日本人形を語り、落涙しておられた事も忘れられません。JR京都駅近くの淡島神社にも、戦死された人、亡くなった人を偲ぶ人形たちが・・・。
2023.07.24
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〇昭和45年頃、大和(現りそな)銀行の本店営業部に在籍していた時、預金部門と為替・出納部門は互いに対岸の配置で偶然に夏季休暇が一致した理由なのか、普段それほど親しくもなかった渡辺君と初日は名古屋、翌日は米原経由で芦原温泉郷へ。予約していなかったので、旅館の女性に上から下へと一瞥を食らい、小さ目の部屋に通されました。温泉や料理の記憶は皆無。しかし、夜通し亡霊を感じて寝苦しい思いを二人して経験した事は今も残っています。
2023.07.23
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〇日本三大敵討ちと言えば、一富士の曽我兄弟、二鷹の赤穂浪士、そして三茄子の伊賀越え鍵屋の辻の仇討ち。これに絡んで来たのが荒木又右衛門で、元は当時の風習・男色に端を発し、美男の渡辺小才治に恋慕していた河合又五郎。小才治は生返事しつつ、急遽元服したので思いを遂げらねぬ故、家来を使って彼を暗殺させ、逐電。そこで渡辺の遺族・渡辺数馬、その姉婿に当たる荒木又右衛門に助太刀を依頼。身を寄せていた河合甚左衛門たちに守られ、九州へ逃げ延びる情報を得て、義弟の数馬、その従者二名を足して四名の荒木方、他方又衛門側は、叔父の甚左衛門や槍の名手・桜井半兵衛ほか総勢二十名。この闘いは六時間も費やし、又右衛門側は一人の犠牲者。相手は又右衛門、甚左衛門、桜井半兵衛の三人。故に荒木又右衛門の腕前に疑問符が残ります。
2023.07.22
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〇九時を過ぎた。大蔵は酒風に誘われ、河向こうの屋台へ飲みに行った。信子は今夜も、街のチンピラに囲まれてネオンの街に消えて行った。里子は船の上で、サブの頭を撫でていた。船体が少し揺れ、背後に人の気配を感じた。 「もう、店、閉めてしまったンですね。」妙に丸みのある男の声だった。橋に近づいた車のライトが、男の顔を浮き彫りにした。 「あら?ーーー太田さん。」 「九時頃になるといつもこうしてられるンですか?」島の夏は遅くまで、物音が絶えなかったが、この河の先を少し行くと、もう其処は、寂れた入り江であった。橋の袂は、月明かりの無い夜は、そばの通りに反して、静かな闇に包まれていた。太田に答えるのも、気が進まなかった。サブを相手に独りでこうしているのが、里子には何よりも憂鬱な気を紛らせる時だったのである。それに、女々しい、いかにも坊ちゃん育ちを思わせる太田など、この場に居て欲しくなかった。里子の茶を濁したような返事に、太田は清水屋へ帰って行ったらしい。また、静かになった。今が満潮時なのであろう、黒い水面は昼間より、ずっと高く見えた。車が橋を往来する都度、波面が光った。・・・・・・船がまた、傾いた。振り返ると、米田が立っていた。よく共鳴する声で、 「太田が話しているのを、二階の窓から見ていたンです。如何だったと内緒で聞いたら、さっぱりダメだと彼、云ってました。」成る程、それで此処へ来た訳ーーーー 「皆に知れたら、四年の人から叱られるンでしょ?」米田は巻綱の上に座って、 「適当な理由拵えて、出て来たンです。」この人のやりそうな事だと里子は可笑しく思いながら、 「今、自由時間でしょ、他の人がその辺歩いているかも知れないわ。」 「バレたら、バレた時の事です。別に悪い事している訳でもない・・・」 「それもそうね・・・・・?」 「バレたら最後、---ドンファンと云われるンです。女の人の前で。」そう言われて悪い気しないンでしょうと言ってやりたかった。 「合宿って、楽しいでしょうね。・・・・?」 「えヽ、この夏の合宿はフレッシュとの親睦が第一の目的になっています。コンクール強化合宿というのが、この後また、あるンですけど、その時は、一日中喉を使います。」 小さい時から不幸に操られてきた里子には、そんな楽しい思い出など、殆ど無かった。中学時代は、早く亡くなった母の後を継いで、大蔵や信子の世話をした。その後、八百屋に行ったり、飲み屋の看板娘になって働いたが、その頃から大蔵が急に酒に溺れ、暮らしは楽にならなかった。店を開けたのも実を言うと、義兄の持ち込んだ縁談に応じた結果、金の融資が受けられたからである。先方の息子は、街中噂の高い放蕩者で、式を挙げて三月も経たぬ間に、金龍という、もと、福岡に居た芸者と出来てしまったーーーと言うより、二人は里子が嫁ぐ前から情を交えていたに違いなく、縁談には、そんな事はひたすらに隠されていたのである。また、二人の仲は、里子を除く街の大概の者は知っていたので、憐れなのは里子ひとりであった。夜中に飛び出し、大蔵に泣く泣く訴えたが、この島で五本の指に数えられる大桐旅館の金の程を知っている彼は、甘い言葉で宥め、先方に里子を送り届けるや、しきりにへつらった。里子は非道な姑に、朝昼となく、店の信用を落とすような事では困ると苛められた。それでも、そんな噂が、また、街中に広がり、大桐旅館を非難する声が高まるに至って、到頭、里子は悪魔の手から解き放されたのである。その代わり大蔵の機嫌が悪くなったのは言うまでもないが、里子にとって、この方がまだしも苦ではなかった。意志の弱い信子は、姉が街中評判の女になったのが禍したのか、街の不良と夜の二時、三時まで遊ぶ事にぶちまけた。ときどき、里子に思いを寄せる男も居たが、彼女は受け入れなかった。どのみち、父の事で、妹の事で問題が起こるのが予想されるので、里子は今のまヽ、歳を取るより仕方なかった。いろんな苦労を経験して来た里子には、まだ、苦労など知る筈のない、学生の楽しい話は、遠い国の出来事に見え、彼らと接する時は、おとぎの国に居る積もりで居た。独り物思いに耽る里子を見て、「不幸を背負ったような人って、何処か魅力があるなぁ・・・いや、もしそうでなかった、許して下さい。」まあ、何て目の利く人だろうと里子はちょっと怯んだが、こんな年若い男から簡単に自分の過去を見抜かれる程、自分が貧相になったのかと思うと、淋しくなった。そして、なんだか物の分かったような米田と、もう少し悲哀さを味わいたい気がして、 「これは或る人の話だけどねぇ・・・。」と、自分の過去を他の女に準えて話してみた。米田はじっと聞いていたが、話が終わると、 「もしそんな人に会ったら、こうしてやる!」米田は里子の手を取って、冷たい彼の両手に包んだ。 「暖かい手だなぁーーー」里子の手の温みが次第に、彼の手に移って行った。里子は、今までにない程、この瞬間を幸せに感じながら、暗闇の船の上で、いつまでも自分の手を米田に預けて居た。 (完)
2023.07.22
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〇八月の中旬になって、隣の清水旅館は二週間ぶりに、また、学生の合宿で賑わった。里子らが店の掃除をする朝の七時前、学生達はランニング姿で近くの浜まで、一斉に駆けて行った。 彼らの若々しい様に、里子は気が晴々とした。橋横の狭い店であったが、水を撒いたり、掃いたりする手元がいつになく、軽かった。浜で体操を終えた五十に近い学生の殆どが、先を争って氷やジュースを求めて入って来た。学生達の合宿がある度、清水屋のお零れを稼げるので、里子を初め、口喧しい父も、遊び好きの信子も、忙しく立ち働いた。学生達は氷やジュースが何処よりも安くて美味いと口々に言っては、慌しく出て行った。 僅か三日や一週間で去って行く学生との短い接触の間に、里子は好みのタイプを見つけては、淡い希望を持ちつ、捨てつした。里子らの寝起きする処は、店のすぐ後ろに横付けしている船の中であった。もと、父の大蔵は漁師仲間でも名の知れた男だったが、見通しの悪い漁の将来を考えると、あっさり諦め、義兄の融資のもとに、こうして橋の袂に飲食店を開いたのである。 サブを連れて近くの中学校に来ると、一人の男が会釈した。見知らぬ顔ゆえ、後ろを見たが誰も居ない。つかつかと寄って来、犬の名前はと尋ねる。余り不思議なことなので、里子は少し驚きの色を見せたが、相手が合宿に来ている学生の一人だと分かって、笑顔を作った。 「太田って云うンです。」 男はすぐ自分の名を言った。それから、如何言ったものか迷っているらしく、里子は彼の次の言葉を待ちながら、サブの顔を見た。食い物でもない石ころを、次々嗅いでいる。丸い口許の黒い毛は、まだ成犬になっていない証拠のように見えた。 「この辺で、一番景色の好い所は何処ですか?」 「そうですね、グランドの横に山があるでしょ。登ったら、瀬戸内海が見えるわよ。」里子の言葉は、歳の所為か、女らしい落着きがその一語一句に見られた。太田はすぐに別れようとはしないで、彼女に何か促していた。里子は、今、この男と登っても差し支えなど無かったが、自分から案内するのも気が退けた。 「あれっ、ちゃーんと石段がついてますね。いつも登られるンですか?」明らかに、この言葉からは、彼女も一緒に登らせようとする欲望が感じられた。一度結婚に失敗した里子は、男の我儘をよく知っていた。この歳の男にもうその兆しが見えるのだと、里子は思った。 と、仲間らしい二人が側に来て、 「もう、やってるなー気をつけて下さい。此奴は部きってのドンファンですから。」露骨な忠告が可愛いかった。里子はかすかに笑って見せた。ジーパン姿の男を米田、水色の半袖の男を佐々木と言った。彼らもこの時間を如何使って好いのか迷っていたと見え、結局、一緒に登るような事を言い出した。これなら、彼らと同行しても、後ろめたい処がないように思え、里子はついて行った。石段を登り始めると、米田がクサリを持たしてくれと言った。手渡すと、よし、先に登ろうという声を残して、サブと駆け登って行った。その子供っぽい振る舞いが美しく目に残った。太田は自分のペースを乱されたのを不服に思ってか、少しふさぎ込んだような顔つきで、里子と歩調を合わせていた。佐々木は細長い草を廻しながらついて来た。頂上まであと少しという辺りへ来ながら、里子は息苦しくなって立ち止まり、額の汗を拭うと、太田らは、堪らん!と言って、石垣にどかっと腰を下ろしてしまった。 「お前、だらしないな」一方が言うと、「お前もだらしないな」と相手をやり込めた。佐々木は尻のポケットからタオルを出して拭き、太田に渡した。太田は丁寧に拭き終えると、ハイライトを佐々木に勧めた。この何気ない男同志の友情を、里子は、また、美しいと思った。 頂上では米田が、遅いなと言いたげに待っていたが、お互いに顔を認め合う距離にあって、少しも歩こうとしない里子らのぐずついた調子に飽き飽きしたのか、サブに、お手!お代わり!を連発していた。近づいた里子に、よく仕込んであると、何でもないお世辞を言った。里子は、この米田こそドンファンだと心の中で呟いた。鳥居を越えて山の端に立った太田が、夕陽が綺麗だから来いと叫んでいる。もう、沈むか?と透る声で米田が聞く。もう半分だと精一杯の声が返って来る。成る程、白い波の波形さえ見えない、遠く地平線の上に、学童が描いたような、真っ赤な夕陽が、半ば沈みかけていた。夕陽を見ると装って、太田は里子の目を垣間見た。佐々木がベースで始めると、米田がバリトンで邦人の曲を合唱した。やヽ遅れて、太田のテナーも加わった。三人の奏するハーモニーは、合唱を聴き慣れない里子の耳に美しく響いた。お上手ねぇとも言わず、里子は快さそうに聴いていた。太田がこの人の知っていそうな曲をやろうと言って、「山寺の和尚さん」を始めた。里子も途中から丸い声で歌ったが、二十七の出戻り女の声に羞恥を感じて、二度目には黙ってしまった。彼らの合唱をよそに、お稲荷さんの林から、一本調子の油蝉が鳴いていた。 <前編>
2023.07.20
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〇信長公の父・信秀公は流行病に罹り、42歳で没し、法名を桃巌とし、国中の僧を集め、盛大な葬儀(僧300名)が行われました。この折、信長公は、長柄の大刀と脇差を藁縄で巻き、髪は茶筅髷に巻きたて、袴も穿かない姿で、抹香を掴んで仏前へ投げつけ去られたと『信長公記』には書かれています。 今思い出しました。小学館の「小学5年生」の付録に、「信長と秀吉」を描いた漫画があって、このシーンもあったのかも知れません。漫画を通して歴史に興味を持ちました。
2023.07.19
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〇16年前、「西国街道まちづくり研究会」主催で、京都府立大学大場修教授の「景観から集落を読み取る」という副題で、家屋配置、伝統的な家屋形式の保持、沿道景観の特徴という観点から写真映像による講義があって、私も拝聴していました。会場は向日神社参集殿でしたから、第95代目宮司からも神社の謂れ、歴史などご披露いただきました。参加者は西国街道を愛する研究会の方を中心に、向日市の歴史愛好会、長岡京のガイドの会の方など、古きを温ねて新しきを知ることを厭わない人々で、中には若い人々も数名居られました。この界隈では有名な住宅は勿論のこと、街道筋や向日市で見たことのあるお家が事例として採り上げられていました。講座が終了するとワークショップ形式で、メンバーがお作りになった西国街道地図(住宅地図を適宜貼り合わせたもの)を二手に分れ、各人知っている知識・情報を10センチ四方のメモに書いて地図に貼り付け、そこからいろんなトークが交わされました。大場教授も「こんなに活発に論議されているワークショップを見るのは初めて」と驚かれていました。私は主に大山崎地区に関してメモを貼っていきました。盛んに質問されるお二人が居られたので不思議に思って居たら、彼らは元大山崎ふるさとガイドの会のメンバーだったようです。小1時間ほどでしたが、大山崎のことをアピールして来ました。
2023.07.18
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〇いつも元気にしている健太くんが欠席しています。担任の山田先生が一時間目に話して下さいました。健太くんは珍しい病気でしばらく学校を休むことになるというのです。七重ちゃんはびっくりしました。あの元気な健太くんが病気だなんて・・・。 山田先生とクラスの仲間とでお見舞いに行きました。病院のベッドに寝ている健太くんは、病人とは思えないくらい元気そうなのに、難しい病気とたたかっているのだそうです。七重ちゃんは神様に祈りました。健太くんの病気が治りますようにと。何度も何度もお願いしました。・・・でも健太くんはそれきり元気な姿を見せないまま、天国へ行ってしまいました。七夕の夜空に、涙でにじんだ星が見えます。とうとう七重ちゃんは声を出して泣きだしました。神様ひどいよ。どうして健太くんを元気にしてくれなかったの?何度もそう言いました。 すると、コバルト色の夜空に、黄色に輝くものが見えて来ました。ずんずん大きくなって近づいて来ます。流れ星?いいえ、もっと違ったもののようです。あっ、ピカチュー!・・・そうです、それはまぎれもなく七重ちゃんが健太くんにプレゼントしたピカチューのキーホルダーでした。 ピカチューは何度か夜空を泳いでいましたが、最後に大きな光となって、そしてパッとはじけて空中分解したかと思うと、七つのお星さんになりました。七重ちゃんは「ケンタウス七星」という名前をつけました。 いつか七重ちゃんが大人になって、健太くんそっくりさんの彼とこの夜空を仰ぐ時、ケンタウス七星はなおさらのこと、キラキラ輝いて二人を祝福してくれることでしょうね?おしまい
2023.07.17
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〇さてさて翌朝の学校では隣りの健太くんが声をかけてきました。「このピカチュー、七重ちゃんが作ったの?ありがとう!」うわーい、健太くんが喜んでくれた。七重ちゃんは嬉しくてたまりませんでした。まだ、口をきけない七重ちゃんでしたが、心の中は健太くんでいっぱいでした。 そんなある日、七重ちゃんはクラスの男の子にいじめられていました。「お前はしゃべれない、だから叩いても文句を言わねえだろ?」と言って、髪の毛を引っ張ったり、スカートをめくったり、輪ゴムを飛ばしたりしました。運動場で遊んでいた健太くんがそれを見つけ、いたずらな男の子とたたかってくれました。泣きながらも七重ちゃんは、健太くんが自分を応援していてくれるのを嬉しく思っていました。「お前は表で遊ばないからいじめられるんだ。俺と外で遊ぼう」と言って、ろく木や鉄棒の所へ連れて行きます。自分も同じようにしたいのだけど、どうしても行動に移せません。本当に困った子だと自分がいやになってしまった七重ちゃんでした。
2023.07.16
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〇七重ちゃんは小さい時から人見知りする子でした。ひとりでお人形さんとお話するような子で、お友達がいません。小学校に通学するようになった時、隣りの健太くんがいろいろ話しかけてきても、首を上下に動かしたり、横にふったりするだけなので、健太くんは他の女の子に目が移ってしまったようです。困った七重ちゃんは、どうしたら男らしい健太くんの気持ちを自分に向けることができるかなと考えました。何か素敵な贈り物をしてみようかなと思い、おじいちゃんから貰った千代紙で紙人形をこしらえました。自分の手から健太くんにそれを渡すことなど、恥ずかしくってとうていできません。學校の健太くんの机の下の物入れにそっと隠しておきました。健太くんは元気な少年でしたから、紙人形を棚から床に落としたことにも気づいていません。あらら、そこを通った別の男の子が運動靴で踏んづけてしまいました。 せっかく一生懸命に作った紙人形は形が歪み、泥で黒ずんでしまいました。ちゃんと手渡さなかったせいでしょうね?誰も見ていない休憩時間に七重ちゃんは、その紙人形を自分のランドセルに戻しました。今度はバザーで買ったキーホルダーを、別のものに変えてみることにしました。粘土でピカチューを形づくり、陰干しにして、色鮮やかな絵の具を塗りつけて、ピカチュー・キーホルダーのでき上がりです。淡いピンクの袋に「健太くんへ、七重より」とていねいに書いておきました。そして願いをこめて健太くんのランドセルに、そっと入れました。 今日は彼のお家で、このプレゼントにきっと気づいてくれるだろうと、楽しみにしていました。その晩七重ちゃんはなかなか眠れませんでした。
2023.07.15
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〇某年某日、一駅離れた資料館に行くため阪急電車のホームで待っている時、若い母親を囲む幼い兄弟。折しも当駅に先に着いたのは特急電車。ふたりの子供が敬礼の恰好や手を振ると、車掌さんもこれに応じました。幼い兄弟はその事が嬉しくって、手を振ってくれたよと満面の笑みで母親に報告するのでした。男の子は汽車や列車など乗り物に興味を抱きます。そしてそれらの運転手や車掌は憧れの職業。この日の車掌さんのちょっとした応対が、将来的には、少年たちにとって優しさの根源となったことでしょう。
2023.07.14
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〇30数年前の金曜の夜は深夜の3時頃まで起きていたのに、雨戸越しに聞える蝉しぐれの所為か、翌土曜日の朝7時過ぎにはいつも通り雨戸を開け、新聞を取り入れ、水撒きなど済ませている内、姉や妹もぞろぞろ起床し始めました。私がが寝て居たテレビの部屋では、次姉がNHKの朝ドラマを観ていました。そばに座って一緒に観ました。「この主人公の演技、上手やねぇ?」と話しかけると、次姉も こ「ほんとにこの娘の演技、自然で見事やと思うよ」と次姉も同じように感じているようでした。あのキャストの中で、ひょっとしたら一番上手なのかも知れないと、二人して思いました。その昔、京都の桂に住んでいた頃、父が児童劇団「こまどり」を牛耳って居ました。長姉・次姉も、そのメンバーでした。私は一度も、それらの発表会を観ませんでしたが、長姉の演技は群を抜いて居たと思っています。間もなく父の転勤で佐賀市に移り、そちらの小学校の学芸会で長姉が演じた狂女は、学校中で有名になったのですから。父は2年後に大阪本社勤務になり、宝塚歌劇や歌舞伎の観劇に通うようになりました。宝塚の華やかな夢舞台の虜になったのは長姉。長身で、家が裕福だったとしたら長姉は宝塚の生徒に成りたかったでしょうに・・・小柄な姉は、その夢をとうに諦めていたように思います。 今魔法の杖で30数年の歳月を巻き戻し、もし、父が演出者で、家族で劇をやることが出来たと空想したら、演技力のある長姉を筆頭に、4人姉弟妹のドラマなど出来たかも知れません。4人で1番しっかり者の妹も卒なく演じることが可能だし、鷲も少しは味のある演技が出来たのかも知れません。私はダンスも覚えたいし、日本舞踊も習ってみたいのですが、こればっかりは夢物語でしょうねぇ・・・。
2023.07.13
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〇京都新聞月曜には俳句、短歌などの文芸コーナーがあり、わが結社「京鹿子」鈴鹿呂仁主宰のほか、岩城宏之先生、そして坪内稔典先生。稔典先生編集の『漱石俳句集』(岩波文庫)から適宜抄出してみました。聞かふとて誰も待たぬに時鳥螢狩われを小川に落しけり わが恋は闇夜に似たる月夜かな芭蕉忌や茶の花折つて奉る黙々と火鉢の灰をならしけり衣更て見たが家から出て見たが蛍狩の折、夢中になりすぎて、小川に落ちたり、青年漱石の恋に悩んだ思い出も句になっていますね。
2023.07.12
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祇園宵山 遠縁の人づてを頼りに はるばる熊本の田舎から 奉公に出てきた祖父と 賀茂川の水で育った祖母が 出会った祇園宵山 あっ 痛す すいまへん 赤い鼻緒の下駄を踏んだのがきっかけ 後から考えるとそのお相手さんは 取引先のお嬢さん 赤い糸が強かったのか 身分の壁を越えて 祖父は養子に納まった 四條通りの上空が 群青色に染まる頃 白地浴衣は名前入り 身を隔てるは赤い帯 腰は未完の円山に 下駄にはみ出る白指の ほんにをなごは美しや そぞろ涼しき夕風の 運ぶ囃子に提灯も 揺れて灯ともる長刀の 切っ先天を突くばかり 路地に入ればからころと 木下駄の音の快く 腕とる君のうなじから 仄かに匂う化粧水 このまま時よ留まれと 祈る思いの嬉しさよ (祇園祭の宵山を頭に浮かべ創作してみました。やっぱり7・5調に文字を入れる方が楽ちんです)
2023.07.11
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〇真言宗山階派の大本山・勧修寺の塔頭の一つに仏光院があり、大石順教尼が再興され、寺の入口には市川寿海、中村鴈治郎の献灯が建っています。順教尼は俗名・妻吉といい、堀江の廓で舞妓に出ておられ、一番上手な舞手でした。十七のとき、「堀江の六人斬り」事件の巻き添えで養父に両腕を斬りおとされた(明治三十八年)。その後寄席に出たり料理屋を始めたり、結婚、出産、二人の子連れで離婚、そして得度。 そのむかし臙脂を塗りしくちびるに 筆をふくみて書く文そこれ 勇 くちに筆とりてかけよと教えたる 鳥こそわれの師にてありけれ 順教兎に角、常人を超越された苦労人で、芸術家でもありました。(参考図書『静かな京』大村しげ著)
2023.07.10
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〇浅井建爾著『日本の地名』はどの情報も興味深いものがあります。例えば今2つしかない「府」は一時、全国に10カ所もありました。東京、京都、大阪、箱館、神奈川、新潟、甲斐、度会、奈良、長崎。府とは最高の地位とか、中心的と言う意味合いのもの。東京は日本の首都・政治の中心地、大坂は天下の台所・経済の中心地、京都は千年も首都であったという輝かしい歴史の中心地。これには一歩下がる意味で、神奈川は明治9年9月、新潟は明治2年2月、長崎は同じ6月に、箱館(函館)、甲斐、度会、奈良は明治2年7月に県へと移行したようです。 明治4(1871)年の廃藩置県により藩が廃され、県という行政組織になりましたが、当時は3府302県という夥しい数でした。その一例として、千葉には20以上もの県があったようです。公平を期したり、慣習・人情の同一性など、新政府は試行錯誤の末、明治11年11月に漸く、4分の1以下の3府72県まで削減しました。
2023.07.09
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〇今から15年ほど前、ユネスコに世界無形文化遺産として登録する為の基礎資料として、祇園祭の山鉾の体重測定が行われました。以下測定結果を並べますと。長刀鉾 :11.10t 孟宗山 :0.54t 油天神山: 0.55t保昌山 : 0.67t 函谷鉾 :11.39t 太子山 : 0.59t四条傘鉾: 0.40t 占出山 : 0.51t鶏 鉾 : 9.42t白楽天山: 0.71t 霰天神山: 0.65t 山伏山 : 0.60t月 鉾 :11.88t 芦刈山 : 0.64t 綾傘鉾 : 0.36t蟷螂山 : 1.22t 菊水鉾 :10.31t 木賊山 : 0.67t伯牙山 : 0.52t 郭巨山 : 0.69t 放下鉾 :10.32t 岩戸山 : 8.25t 船 鉾 : 8.41t 北観音山: 9.27t橋弁慶山: 0.80t 黒主山 : 0.67t 八幡山 : 0.75t鈴鹿山 : 0.70t 役行者山: 0.84t 鯉 山 : 0.81t浄妙山 : 0.78t 南観音山: 9.54t(重さは人や装飾品を含む) 最も重いのが大きさから言っても納得の月鉾、次で函谷鉾、そして長刀の順。鉾の恰好をしていながら軽いのは、岩戸山、船の形の船鉾、山で意外に重いのが蟷螂山、軽いのが二つの傘鉾でした。 神功皇后に因むのは船鉾と占出山。この占出さんを京をんなにして詠めば、 五百キロそんなにおすかと占出山 五百キロ内緒どすえと占出山どうしても川柳風、 体重計踏み絵の如し鉾祭
2023.07.08
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〇ゆっくりとしたペースを守りながら断捨離しています。 昔は著名作家の初版ものや、有名な歴史本、観光本や美術書等は、古書でも値打ちがありました。しかし今や初版刊行本もそれほどニーズが少なく、よって価格も微々たるものです。手放したくない心の葛藤を経て、数冊、近隣の古書店にて処分しました。その見返りで得た古書は、太田牛一著、中川太古訳『信長公記』上、下巻。偉大な信長公の一端を知る術になります♪
2023.07.07
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〇もう20年前の想い出かも知れませんが、18切符を利用して、それに合わせたダイアのJR新特急に乗り、岡山駅に下車、岡山名産の白桃の気品ある姿を見て、さすがに手の届かぬ価格に購入を諦め、戻りました。子供の頃の果物はリンゴ、ミカン、ブドウ以外はどれも高級。バナナ、スイカ、そして桃も。缶詰でパイナップル、そしてモモ。昔は容易に手に入らなかった「ものの値打ち」「宝もの」が多々ありました。俳優さん女優さんは手の届かない高嶺の人。そう言う区切りがあったので、メリハリがあったのでした。
2023.07.06
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〇もう今は放送していない、小堺一機さん司会の「ライオンのごきげんよう」公開録画の話題です。 さて、録画のお客さんは西條秀樹(真っ黒け)、坂下千理子(色白で気取らず可愛い)、そして山村紅葉(友近さんを色白にした感じ?)のお三人が来週木曜の放送用、金曜は千理子さんが抜けてブラック・マヨネーズの二人と交代です。わたし達観客はテレビ放映の際、雰囲気を盛り上げる上で、なくてはならない存在なのでした。拍手の練習、喚声(或る意味で悲鳴)の上げ方など、若手漫才師のリードに従い何度も練習しました。本番では西條さんも山村さんもトーク内容が地味だったので小堺さんのフォローは大変だったように思います。二度目の録画では笑いのコツを心得た漫才コンビーでしたから小堺さんのトークや動きも軽やかになっていました。こういう笑いのツボはガイドする身にとっても重要なことですから、いろいろ勉強させて戴きました。
2023.07.05
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〇それほど幅のない道路や車の運行がそれほど無い道路での人の通行を見ると、ごく自然に左側通行する人が圧倒的に多く見られます。通常、人は左側に心臓があり、弛まず動いて命を維持してくれています。ゆえに、無意識のうちに左通行する事で、心臓を護っているのかも知れません。歩道がある場合でも、左右の歩道の選択は個人の自由。左派が優勢、しかも、こちらが右側の歩道を選び、そこを歩いていても歩道内での左通行者が多く、こちらが左に避(よ)ける次第。何とかアメリカや西欧に合わせて刷新して貰えないでしょうか?
2023.07.04
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〇夏場に入って胡瓜の値段が少しずつ安くなりつつありますが、家内に言わせると、近くの無人販売所なら3,4本で100円、スーパーの1本68円の胡瓜なんてとても買う気がしないとも。 胡瓜と言えば、住吉小・中学校に通う頃、昼食には必ずと言って良いほど、胡瓜揉みが食卓にありました。これをおかずに茶碗1,2杯たべるのだから・・・。住吉神社の夏祭りは、大阪のトリを務めるだけに夜店が、いっぱいありました。幽霊屋敷は無論の事、のぞきからくり(円形のテント小屋の小窓から覗くと押し絵の錦絵)など。紫色の細い竹でこしらえた上等の虫籠に鈴虫、粗い目の竹籠のキリギリス。キリギリスの方が安価だったように思いますが、餌の胡瓜の饐えた匂いは嫌いでした。
2023.07.03
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〇和菓子と言えば千年にわたって都が置かれた京の老舗のものに目が行きます。三十年ほど前に文化出版局から出された『古都彩菓』(数江鮎子・中村弘子・杉浦澄子共著)の夏の部には、藤の花、夏衣、かざり粽、おりひめ餅、唐衣、天空、水無月・氷室、大文字など名前からして奥ゆかしく目に映ります。「天空」は寒天を材料としたもので、京都では丹波糸寒天と言って昔ながらの製法でつくられた、麻糸を四角く束ねたようなもの。テングサなど紅藻類を大釜で茹で、煮汁を麻袋に入れて天秤棒に重石を吊り下げて濾したものを、フネに容れて凝固させ、それをテンツキという道具で糸状に押し出したものを葭簣に広げて、マイナス二、三度の寒気に晒し、日中は十度程度の気温の天日に干すことを一週間ほど繰り返して、ようやく出来たものが糸状の寒天。 戸外に捨てたトコロテンが寒気に触れたり、日中の日を浴びたりする内に、乾物状態になったものを再び心太に作ると、より美味になるとか。黄檗山万福寺の隠元禅師に試食して貰ったところ、精進料理にも使えると賞賛、「寒天」と名付けて貰った由。明治十四年、ロベルト・コッホによって細菌培養法が編み出されるに至って、日本の日本の主要な輸出品になりました。子供の頃、原色に近い赤、黄、緑色の立方体の寒天の入った蜜豆などは、見た目も美しく、舌触りも良いので、大好物でした。
2023.07.02
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〇いきなりですが、クイズです。「閑所」「装物所」「高野山」「渡辺綱」これらは、或る場所の別称ですが、何処か解りますか?正解はもう少し後にお知らせすることにして、正解の場所を余所の国では、何と表現するのかな?英米=ぶらぶらする社交場、詩人の座仏国=穴あき椅子、エスカルゴ独国=0号室伊国=身だしなみの部屋そろそろお解りいただけたでしょう。トイレ・便所のことです。閑所=文字通り、其処が淋しい場所だから。装物所=更衣室のことで、いにしえの貴族はトイレにゆくたび、着替えをしていたようです。高野山=これが洒落ています。山に行って髪(=紙)を落とすに由来しています。渡辺綱=トイレには鬼が居るという伝えがあって、私も父から脅かされた記憶があります。羅生門の鬼退治をしたのが渡辺綱だから、略してこう表現したのでしょうね。トイレの呼び名は古い順に、厠(カワヤ)、雪隠(セッチン)、手水(チョウズ)、御不浄などとなりますが、折角の隠語が一般的になり、浸透し尽くすと、別の隠語が考え出されたものと思われます。 わたし達の日常生活と切っても切れないトイレだけでも、話は広がるものですね。 (参考図書・清水義範著『日本語がもっと面白くなるパズルの本』)
2023.07.01
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