全27件 (27件中 1-27件目)
1

〇小谷城の哀話を扱った小説が多々あるようです。イ)徳永真一郎著『新浅井三代記』 読者からの手紙には<最後まで意地っ張りであり通して>潔い死を選んだ長政の一生に感動され、<現地に行ってみて、浅井せんべいも長政まんじゅうも売っていないことが、いかにも彼の土地らしく、涙が出るほどうれしく思いました。>と書いてあったそうな。 ロ)谷崎潤一郎著『盲目物語』 長浜の在に生まれた盲目の弥市という男の語り口は、ひら仮名の多い長文。それがお市の方の悲しい運命と相俟っています。天下の美女にかしずき、直接その肌に触れ、柔らかな弾力性のある御方様を按摩するという、谷崎氏特有の耽美的にして女性を拝める一連の作品の礎となった作品。そして『蘆刈』『春琴抄』へと。ㇵ)井上靖著『淀どの日記』(野間宏文芸賞) 目瞑れば茶々の脳裡に浮かぶ不気味な焔、小谷城落城の思い出から物語が始まり、彼女自身が猛炎の中、大坂城にて自害する時の光景が終章に綴られているようです。ほかに同著の『戦国無頼』も小谷の落城から。二)舟橋聖一著『お市御寮人』 舟橋氏独特の絢爛たる文章で綴られたもの。ホ)吉川英治著『真書太閤記』 小谷城の長政のもとに出向き、降伏を勧めるも叶わず、茶々を背負い、お市の方の手をとらんばかりにして城から脱出させた秀吉のくだりは、史実から有り得ないかも知れませんが、優しさを人間の本質とする吉川氏らしい構成の在り方なのでしょう。きっと各図書館では、毎年、大河ドラマに因む特設コーナーが設けられていることでしょう。
2026.02.28
コメント(0)

〇自らを<東洋と西洋の間の使者>と称して13回も来日し、東洋と西洋文化の相互作用の中に人間の在り方を模索、機械文明の果てしなき発展の落胤として枯渇してゆく人間の精神の潤いへの果敢な闘いを陶芸から伝えた人でした。香港で生まれ京都や彦根で幼年期を過した彼は、小泉八雲の著作に感化され再び来日し、英国で学んだエッチング(銅版画)の技術を教えている時、志賀直哉・武者小路実篤・柳宗悦・岸田劉生などの白樺派とねんごろになりました。そんな或る日、招かれた茶会で楽焼の絵付けを経験したことからやきものへの興味が湧き、日本人に溶け込んで日本人が本来欲している素朴な民芸の良さを彼の作品を通して伝えました。11年間日本に在住したリーチは大正9年、浜田庄司を伴って英国へ帰り、漁村セント・アイブスにヨーロッパ初めての登り窯を築きました。「人間の魂の宿るやきもの」を鼓舞した彼の著書は世界中で愛読され、欧米随一の陶芸作家として敬愛されるに至りました。英国王室はサーの称号に類するC・Hを彼に贈り、またエリザベス女王は訪日に際して彼のエッチング「手賀沼」を皇后への土産ものに携えられたようです。92歳の生涯を民芸的立場で東西文化の融合に寄与した彼の功績を称え、死後の翌年に日本で大々的な展示会が催されました。
2026.02.27
コメント(0)

〇昭和25年4月1日発刊の掲題の書は日本交通公社出版部から出ています。<鬱陶しい雨がざあざあと美濃の野山を閉じ込めて、恐ろしく蒸し暑い日の午後である。汗搔きの私は、べっとりと脂の濁染んだ顔を窓外に出して、冷やかな雫を火照った両頬に受けた。>京に関して西も東も判らない谷崎純一郎は、東京の松崎氏の紹介状を携え、大阪毎日支局に立ち寄った模様。<・・・通された二階座敷の縁外には加茂川が流れて対岸は宮川町の色里である。夜になると、太鼓、三味線、鼓の音が川に響いて、電燈の光がきらきらと水に輝く賑やかさ・・・>平安神宮の小節を経て、祇園の綴りへと移ります。瓢亭や中村屋のことも第一節の朱雀日記の項に。関西の女を語る、磯田多佳女のことの件は大山崎ガイドの折、磯田多佳の手引きで大山崎山荘に夏目漱石が立ち寄った事や、「春の川を隔てゝ男女哉」(御池通り木屋町西の句碑)の話題にも辿れたのでした。
2026.02.26
コメント(0)

〇かにかくに祇園はこひし寝るときも 枕のしたを水のながるるの和歌を残した吉井勇は星林社から掲題の書(昭和22年11月20日発行、定価75円也)を著しています。<この不夜庵は、島原の廓の東南隅上之町の端にあって、俳名呑獅といふ桔梗屋治介の大きな家構への、丁度真後ろに當つてゐた。東は斜めに朱雀野が見渡され、南は七條の通りに近く、ずつと田畑がつづいてゐて、紫雲英や蒲公英の花の咲いてゐる向ふに、樟や椎の森を隔てて、東寺の塔の霞んでゐるのが、ひどくのどかに眺められた。>俳人:太祇を主人公とした京都は島原遊郭辺りの江戸期の町人文化を流れるような文体で描いています。
2026.02.25
コメント(0)

〇午前中は父が遺した小型のお雛様10組以上を玄関先に飾りつけました。粘土製、藁製、紙粘土、貝殻、木の実、玉子の殻、土鈴、一刀彫・・・いろんなお雛様を緋毛氈の上に並べました。午後は家内と散歩です。なるべく自転車でも通ったことのない知らない道を選んで171号線近くまで。桂川の土手を隈なく探しましたが土筆は見つけられず、代わりにサントリービール工場裏の畦地でレンゲを見つけました。喫茶店での休憩も含め、2時間半ほどの散歩でした。今夜はおでんのおかずですので、道中にて賀茂鶴の小瓶を買いました。温度差が激しいこの時節は、おでん当ての一杯も乙なもの。
2026.02.24
コメント(0)

〇人生で一番楽しかったと思われるのは学生時代。K・UGleeClubという男声合唱団で青春の情熱を燃やし、いろいろ学び、友情を培いながら、社会へ巣立つ準備の日々を過ごしました。 私が入部する数年前の事情では、わがKUグリーには関学、同志社、立命館、京大、龍谷と言った目の上の瘤があって関西においても5位に入るのがやっとでした。やがて関学と同志社がコンクールから離脱し、ようやく3位が取れそうな実力もついて来ましたが、なかなかその壁を破ることが出来ませんでした。わがグリーを育てて下さったのは桜井先生でしたが、ちょうど私らの学年が幹部になった年に、二期会でご活躍中の木川田先生をお招きしてご指導願いました。指揮部の連中や渉外担当者は先生のご自宅に何度もお伺いし、懇意にして戴きました。桜井先生のドイツ式歌唱法から、木川田先生のオーストリア歌唱法に180度変更、複式呼吸は同じですが、ベース系の土台の上にメロディラインを乗せる歌い方から、メロディ重視、かつ軽やかに発声する歌唱法に変更して戴いたところ、その年度は何と関西で初めて優勝できたのでした。関西代表というレベルから言えば本来なら全国大会では1、2位に入れる筈でしたが、初めての経験で、全メンバーが浮き足立っていたので、課題曲の一部分、テナー系が歌うのが途切れた部分もあって5位に甘んじてしまいました。全国大会出場者50人という枠に対してクラブ活動という観点で練習出席状況を重視するのか、実力重視で臨むかということで、当時、人事担当のわが胸が痛んだ思い出の舞台でした。木川田先生は、全国大会当日以前に収録していた教育テレビの放映もあった為お祭り騒ぎの状態で気が昂ぶっている我々に、厳しく対処するか、緊張を倍加させないよう優しく接するか迷われたようで、後者を選択した結果、全国優勝を果たせなかったと責任をお感じになり、爾来40数年もの間、悔やんでおられたようでした。 KUグリークラブは後にも先にも、関西コンクールでの優勝はこの時1回きり(数年後からリサイタル重視の為コンクール不参加)でした。我々が尊敬して止まなかった木川田先生、ありがとう御座いました。どうぞお安らかにお眠り下さい。
2026.02.23
コメント(0)

〇小学新3年生のガイドは安全が第一ですから、ガイド一人につき生徒さん4、5人でグループを組みます。ガイドさんの前を行かないよう、ガイドさんや付き添いの先生からの注意を守れますかぁ~と校長先生が問われますと、ハ~イという元気な声が返ってきます。私が子供たちに力説したことは「皆さんのふるさと大山崎には有名な人物が訪れているし、昔栄えた町だから宝物が沢山あるところ」という郷土愛を持たせる話し振り。秀吉と光秀による天下分け目の天王山の戦いでは、友達作りの上手であった秀吉、気持ちを伝えることが上手であった秀吉に軍配が上ったこと。宝寺では人は生まれながらにして左肩に神さんが居られ、自分の行動が全部記録されていて、死んだ時の裁判で行いが読み上げられるから、ルールを守り、優しく生きるようにしよう。大きくなったら解ることですが、人生で一番楽しいのが学校時代。宿題があっても学校生活が一番楽しい時期だから、みんな仲良く友達を大切にしましょう。観音寺の仏さまの美しい御顔。これは人々に優しく接して居られるから、みんなもこういう御顔になれるよう優しく居ようね。打出と小槌の話、橋架け観音の話、泥棒と聖天さんの話、偉そうにしている役人と聖天さんの話・・・いろんな民話を織り交ぜながら、少しでも耳の片隅に残してくれるよう印象的なガイドを心がけました。生徒たちはガイドから聞いたことをそれぞれノートに控えています。宝寺の三重の塔は秀吉さんの一夜の塔と呼ばれ、秀吉さんは○○工務店(CM)のように仕事が速かったんだよ。元気で素直な小学3年生、やがて大きくなって大山崎を背負ってくれることでしょう。3年生から卒業まで何度かこういう課外授業を子供たちは受けています。郷土を大切にする心が育ち、歴史に興味を持ってくれると嬉しいけどなぁ~。
2026.02.22
コメント(0)

以前DVDに録画しておいたテレビ番組の中で、感動した事があります。遥洋子さんは大阪市内(後に寝屋川)に牧場を営む家庭の5男と末っ子の1女として育ち、演劇からブロードウェイのダンサーまでチャレンジされました。そして仲間のプロポーションなどの隔たりから日本に戻って、上岡龍太郎氏と出合ったそうな。演劇時代には台詞など与えて貰えなかったのに、上岡氏は彼女に自由な発言の場を与えてくれましだが、全てぶっつけ本番。活きたアドリブの無い時には頭を小突かれたそうな。後からの言い訳や思いつき、反省を一切認めず、本番での成果しか認めなかったそうな。その後、彼女はクラシックバレーのしなやかな動きに魅せられ習って居られたが、両手を頭上にかざしながら、後ろ向きに床に着くポーズなど出来っこ無いと諦め、師に反論したところ、私が過去・現在教えた生徒で出来なかった人は皆無。「頭の中、精神がそれを拒むだけで、身体は決して拒んではいない」と諭されましたとさ。
2026.02.21
コメント(0)

〇ノートの1ページに書き留めていました。 背中をごり押す 雪の風 風 風 瞼を襲う 雪の結晶 結晶 結晶 頬打つ 雪の礫 礫 礫 一瞬にして変わる 雪嵐 嵐 嵐 背を丸め 身を縮め 道行く人は 皆 無言・・・ 舗装路を転がり 舞い上がる 一陣の粉雪 遠景の山を閉ざす 灰色の緞帳 行く手を阻んでいた 白い 魔女 それも幻覚のように 消え失せて やがて 街は平静を取り戻す 不安を除いてくれたものは いつもの 穏やかな 日輪 そうだ あの柔和な 太陽に わたしも 安らぎの 太陽になろう
2026.02.20
コメント(0)

〇梅雨の走りになって、買い溜めする買物客も多いのか、向いの八百屋からは威勢のいい商い声が聞こえて来るが、骨董を並べる清六の店には、客らしい客も無かった。京造りは間口が狭い上に奥行が長いので、奥の土間は暗かった。おしめ等を洗っていた咲代は、ふと、その手を止めた。店先でことりと音がしたからである。「あんた?---お客はんらしいえ。」「うん」生返事だけで、出て行きそうにもない。夫の居るだろう見当に顔を向けて、「あんた!お客はんと違うかて言うてますのに・・・?」「うん、今行く」 言葉数は増えても調子は同じであった。ほんに仕様のない人という素振りで、前掛けで手を拭き拭き、咲代は店に出て行った。が、直ぐに戻って来た。「確か、ことっと音がしたのに、誰も居やはらへんわ。もう、今日で三辺目え。けど、あんなもん盗みに来る人もあれへんやろな。」と言われて、「何言うねん!店に出したアるもんには、一つ拾万円からするもんかてあるのんや。商売もんに何ということ言うのや、ほんまに、えらい女房もろたもんや。」「へえ、えらい女房で悪おしたね。あたしが居いひんかったら、この子の世話、あんた、して呉れはりますのんか?」 どうですと言わんばかりの目を夫に向けてから、咲代は背中の末子の寝顔を見ようと、体ごと首を捩じった。首に力が入るから、口がへの字になる。それが清六の癪に障った。「お前が居いひんかったら、この子も出来へんかった筈や。ほんまによう産む女や。」「あたしに産ました人は、あんたどすやろ?・・・ほれほれ、ひどいお父さんやなア、かわいそうに、かわいそうに。」そんな言葉を残して、咲代はまた洗濯にかかった。この末子で七人目であった。もうこれ以上はーーーという意味で、末子と名付けたのである。清六は、元来、のんき症で、父から土地等の不動産を譲り受けていることは、一層、彼を暢気にした。それに清六は古いものが好きで、惚れ込んで貰った咲代が、年々古女房になっていくのに、内心安らぎを感じているのであった。また、古道具屋という商売も、いわば彼の趣味道楽に近かった。毎朝古めかしい品物に、一つ一つ叩きをかけることが、彼の生き甲斐であった。ここ二、三日は知人から借りた戦記ものの古本を、奥の部屋で読み耽っていて、店番もルーズになっていた。しかし、今はとっさの直感から、彼は店先に飛び出た。棚の一番手前にあるべき布袋の置物が無くなっていた。今朝、いつになく荒っぽく叩きをかけて、その出っ腹から音がしたので、よく覚えている。清六は、やられたと思った。盗んだ者も憎かったが、気の緩んでいた自分に腹が立った。仏像だの、甲冑だの、鏡台だの、櫛だの、等身大の人形だの、骨董ものでゴタゴタした店先であるだけに、ぽっかり空いてしまった棚の隅の空間が、淋しかった。・・・・清六の肩が落ちた。咲代が後ろに来て、じっと見守っているのも知らなかった。盗まれた布袋の銅像は、値打ちものではなかった。たゞ、その腹の丸みが、他の布袋のものより秀でていた。黒艶のある豊かな腹の丸みに、清六は一家の安泰を託していたことに、この時、初めて気付いたのであった。それから、そばに妻の居ることに気付いた。淋しげで虚ろな彼の目と、それを慰める咲代の目がしばし無言の語らいをした。 そこへ、老紳士が入って来た。咲代は奥へひっ込んだ。老紳士客は、やヽ大きな武者人形に目を付けたようであった。色褪せているにも拘わらず、その人形を見つけてくれた老紳士を、清六は有り難く感じて、揉み手をしながら、したり顔で上客に接した。盗まれた布袋のあった場所は、やはりぽかんと空いた侭で淋しかった。・・・<昭和44年6月20日作>
2026.02.19
コメント(0)

〇ボランティア・ガイドをリタイアして随分経ちますが、史実の発見や新しい情報の収集も楽しみのひとつでありました。サントリーウイスキー山崎蒸留所のお姉さま達のガイドを受け持った折、事前の資料作成の段階で、歴史上の人物と小倉百人一首との繋がりを知り驚きました。例えば、水無瀬の滝に関連して言えば、 水無瀬山せきいれし瀧の秋の月 おもい出るもなみだなりけりの作者は藤原家隆で、彼の歌は百人一首98番目 風そよぐならの小川の夕暮は みそぎぞ夏のしるしなりけるまた関大明神さんのガイドで紹介する平兼盛 遙かなる旅の空にもをくれねば うらやましきは秋の夜の月は百人一首では40番目の和歌、 忍ぶれどいろに出にけりわが恋は ものや思ふと人の問ふまでという有名な歌の作者で次の41番目 恋すてふわが名はまだきにたちにけり 人しれずこそ思ひそめしかと詠んだ壬生忠見との大接戦で結局兼盛が勝ちました。忠見は負けたことを悔やみ続け病死したということです。 また宝積寺の寺歴の説明で僧:寂照が母の為法華八講を盛大に行い、500人の出家人の読経に、聴衆のすべてが涙したという逸話が大江匡房の「本朝往生伝」に載っているのですが、何を隠そう、この匡房の歌が73番目の 高砂の尾上の桜咲きにけり とやまの霞たたずもあらなむで、宝塚歌劇女役:尾上さくらさんの芸名の根拠になった歌だったのです。
2026.02.18
コメント(0)

〇コロナ蔓延期の外出禁止の一時期を除く、凡そ十年もの歳月をかけて解明した俳誌「京鹿子」の生みの親、先師鈴鹿野風呂翁の『續俳諧日誌』が十六日わが家に届きました。本書は限定三十冊の非売品で、わが母校関西大学図書室にも送付されています。昭和十九年から二十二年までの四年間の記録を活字に纏めたもので、俳誌統廃合時代の「京鹿子」の空白期を埋めるべく企画したものです。野風呂生前期に、それ以前の毛筆の日記を纏めて発刊された『俳諧日誌』巻一、巻二。この二冊には索引が有りませんが、スタッフ七名の辛苦のもと、人名に三十三頁、地名に二十三頁、来信・往信に百三十九頁を割き、一千十六頁に及ぶ大書となりました。既刊の二冊は野風呂先師ご自身が参画、健在の折だったので、墨書の日誌は楽に読み解けた筈。野風呂先師独特の個性的な筆遣い、それに石州産の和紙を節約されたのか、途中から可成り小さめに書かれていたり、裏面が映り出て読み難いものも多々ありました。昨日俳号を付与した青年が、東南アジアの戦場へ赴任、ほど無く殉死されたという生々しい記録や被ばくの広島・長崎を初め、大阪環状線内の焼夷弾による疲弊した街の記録、停電や列車の混雑・遅延・・・。かと思うと、俳人の目で近畿を中心に姫路、岡山方面等の風物も叙情的に綴られています。俳句がらみの交友記録のみならず、戦時中、敗戦後の国情を知る上で歴史資料としても垂涎の読みものと確信しています。
2026.02.17
コメント(1)

〇永いこと歌舞伎を観ていませんが、子供の頃は父と二人して大阪の旧歌舞伎座へ芝居を見に行ったものです。昭和30年代、海老蔵の与三郎、梅幸のお富、嵐吉三郎の蝙蝠安。玄治店のワン・シーンが頭にこびりついています。春日八郎のヒットソングにもなった、言わずと知れた<粋な黒塀見越しの>松のお富の家にゆすりにやって来たのが与三郎と蝙蝠安。 同じ悪党であってもこの二人、氏素性が違っています。それを端的に表したのが、持ち合わせの煙草を切らせたので、ちょいと一服いただきたいと蝙蝠安がお富からタバコ入れを拝借するシーン。「あいよ」とタバコ入れを渡したお富がよそ見している隙に、蝙蝠安はキセルに詰める素振りをしながら、その実、ごっそりと刻みタバコを抜き取り自分のタバコ入れに詰め込むのです。たったそれだけの仕草で観客には浅ましい盗人の下劣さが手に取るようにわかります。ありふれた煙草というものを題材に、登場人物の横顔を瞬時に描きだした演出法、そこに江戸時代の劇作家や演出者の優れた感性を見つけ、小学生ながら感服したのです。
2026.02.16
コメント(0)

〇「ものを生む知恵」というジャンルでの1番目には、<困ったは金の卵>という題で、不便を感じた時の工夫が特許クラスのアイディアを生むと上前淳一郎さんは名著『読むクスリ』に述べておられます。 列車1台遅刻したのがきっかけで安全カミソリを発明したジレット、万年筆のペン先に割れ目を入れたウォーターマン、十字溝のネジを考案したフィリップ。 碁が大好きな人が黒・白を表裏にした結果思いついたオセロゲーム、これをゲーム業者が5千万円で買ったとか。 釣り好きが夜釣りの浮子に鈴を付け且つそれを洗濯バサミに付けて取り外しを楽にしたものが7百万の価値に。 この本が出版されたのが今から30数年前だから現状はどうだか存知ませんが、洗濯機で糸くずを除く袋状の網いわゆるクリーニング・ボールを考えた主婦には、当時、1個につき4円10銭つまり毎月およそ2百万づつの収入が7年間続いていると記述されています。 雇用問題がクローズアップされているご時世ですが、就職戦線で勝ち残るにも、或いは職場でかけがいの無い戦力と認められ雇用を護られるにも、 他の人に秀でる<何か>が必要とされますね。愛社精神を根底に秘め、創造力豊かな個性を持つ人物が有利なのではないでしょうか?
2026.02.15
コメント(0)

〇父が遺してくれた蔵書の中でも、一番魅力を感じる書物は『日本名勝寫生紀行』(京都之巻)。 小林鍾吉、岡野栄、中澤弘光、跡見泰、山本森之助という明治中期に活躍した画家五人の紀行書。現在検索すると八千円から一万五千円ほどする垂涎の名著。流麗な文章もさることながら、本文の合間、合間に入れてある挿絵もシンプルにしてユーモラス、味わい深いものがあります。実に贅沢な仕上がりで、数人合作の画もあって、飽きることのない京都紀行文です。
2026.02.13
コメント(0)

〇大手拓次には「四月の顔」という詩があって、合唱で歌った記憶があります。 二月とは?今から二十年前の日記を再掲載します。<昨日は鱗華句会の例会と一ヶ月遅れの新年会でした。年末は止むを得ないけれど、新年会が続く主宰の御立場を考慮して鱗華句会では、毎年二月に新年会を設けています。 春隣絵本のやうな家の建つ 殉教の巡査の笑みや春隣 待春の鏡台に増ゆ化粧品この句は女性の春を待つ心境を化粧品に託して詠んだもので、句会場の女性、男性双方からどよめきがありました。主宰は雅号を使って詠む分には、男性が女性の身になって詠むのも一つの文芸創作上の技と仰って下さいました。 通勤車二月の顔をどつと呑む二月の顔ってどんな顔??思いますところ、一年間で一番つまらない、地味で面白くない月が二月なのかなって感じるのです。ですから早朝から満員電車に乗り込む通勤者の表情がどなたも、もう一つパッとしない雰囲気、加えて宮仕えの辛さを織り込んだ積りです。>
2026.02.12
コメント(0)

〇今朝の京都新聞洛西版を開いて、「大山崎ふるさとガイドの会」が30周年を迎えたという記事に驚きました。私は退職後の2004年、事前のガイド養成講座を20回ほど受講。翌春、第1班に組み入れて貰いました。2007年には幹事役を仰せつかり、春の天王山ウォーキングでは、500名ものお客様を混雑を極力控えめに、無事故で催事を終えることができました。添えている写真には、同じ班のメンバーが数人居られ、嬉しい限りです。印象に残っているのは、乙訓地区の民話をもとに脚本と美術大生の紙芝居絵を揃え、小学校や養老施設等へ出前ガイドが誕生し、本部様宅でFMおとくに用の録音体験したことです。一種の声優になって子供たちに喜んで貰える幸せをいただいたことです。心から30周年おめでとう、これからも宜しくのメッセージをお届け致します。 〇
2026.02.11
コメント(0)

〇宇多喜代子先生監修の俳句日暦、某年某月の句は、 子に与ふ名前はひとつ冬銀河 日下野由季夜空に無尽蔵にある星の銀河、一方、練りに練って名付けた吾子たちの名前。 7年目に漸く授かった長女、産み日が近づき入院すると、いよいよ真剣に名前を探します。名付けの参考書を買い、字画などの基礎を頭に叩き込み、あれやこれやと5つほど候補を挙げながら妻と相談。陣痛が来て、やっと赤ん坊に遇えた瞬間、病院の待合で読み耽っていた推理小説の当初、怪しまれて犯人の名前がこの子にぴったり。産み終えて母親の顔に変わった妻に示すと了承を得ました。2月、友達の多い子になって欲しいとの希望もあって月ふたつの名前にしました。
2026.02.10
コメント(0)

〇平安期の女性の場合、生没年代や本名を知ることは難しく、紫式部が藤原宣孝と結婚していたことは判明していますが、そのライバル清少納言に至っては昔の学者は独身者と思い込んでいたようです。 しかしいろんな系図を探っている内、清少納言の子という文献があったので、子供がいる以上、亭主もいたに違いなかろうということで、その名は橘則光。清少納言より少し上の位の中流官僚で、その出世ぶりは左衛門尉・・・警視庁の局長クラス修理亮・・・宮中の営繕を司る役の次官遠江介・・・・・・・・副知事クラスという具合です。彼とは早くに結婚し、男児を設けていますが、同居という形はとって居なかった模様。2度目の結婚は彼女が中年過ぎの頃で、かなり年上の藤原棟世がその人で、摂津守や山城守を歴任した人物。 或るとき、藤原斉信(タダノブ)が清少納言の才女振りに嫌気して、「蘭下花時錦帳下」という白楽天の詩の一節を使いに持たせ寄越しました。この続きは「蘆山雨夜草庵中」なのですが、少し工夫して、「草の庵を誰かたづねん」と添え、そんなことをおっしゃっても、廬山雨・・・の一句をお答する人などおりませんよと、とぼけました。その手紙を見て、斎信や周りの公家たちは、やられた、この女、ただ者じゃないぞと感心し、それ以降はすっかり少納言のファンになってしまったということです。 この評判を聞いて、夫の則光は、さっそく彼女の元を訪れ、あの時は俺も傍にいて鼻高々だった、自分の出世より嬉しく感じたと述べています。この時期、少納言・則光は少し上の公家たちから<いもうと・せうと(兄)>と呼ばれていたようで、同居しない二人がからかわれていた節があります。清少納言はその後ますます有名になり、ともすればいろんな貴族が押しかけてきますので、こっそり誰にも告げないで秘密の家に里下がりしていると、斎信さまから「お前は何処へいったのか、せうとなら知っているだろう、教えろ」と迫られ往生したと則光は打ち明けます。この秘密の場所を知っていたのは夫の則光と公卿の藤原経房だけでしたが、経房も、その場に居合わせながら知らん顔。経房さまと目が合ったりしたら笑い転げそうで、目の前の若布(ワカメ)ばかり、がむしゃらに食べていたよと漏らします。やはり夫婦ですね。(参考図書「日本夫婦げんか考」永井路子著)
2026.02.09
コメント(0)

〇「野菜を”かう”」というフレーズの”かう”にいろんな字を当ててみると、広辞苑では1支う2交う3肯ふ4替ふ、換ふ、代ふ、変ふ5買う6飼うという9つもの漢字が顔を出しました。野菜との組み合わせに一番妥当な語を選ぶとすれば”買う”になるのですが、どっこい私は6番目の”飼う”を充てることになるのです。 *「野菜を飼う」ええ?動物じゃあるまいし飼うとは之如何にとお思いでしょうが、それはやはり心情的に飼うがぴったりなんです。 * 某年の晩夏、例によって家内が懸賞でいただいたものの1つに「サラダの種・トマトの苗3種類」がありました。トマトの苗は庭の3箇所に地植えにしました。やがて3種類のトマトはそれぞれ生長し、恰も手品師の小箱のように尽きることなく晩秋まで、朝夕の食卓を賑わせてくれました。 *一方サラダの種の方は、外で育てようとしたものは雑草の勢いに負けて全滅。台所の出窓に置いた容器に蒔いたものが辛うじて残りました。 *愛情をもって水遣りしていたら、瑞々しい黄緑色の葉が育ち、厨仕事をするわたし達をやさしく慰めてくれる存在になりました。茶碗のような容器に砂地の床、時おり指先を通して注ぐ水だけが生命線であるのに、これまで2度ほどわが家族の食材になり、半年ほど美しい若草色が待春の出窓を飾り、アクセントになっていました。これは正しく”飼う”と言わずして何としよう。
2026.02.08
コメント(0)

〇受験生になる頃には立体音のステレオが出回りました。その頃のステレオ機にはSPの78回転、ドーナツ盤の45回転、そしてLP用の331/3回転という具合に三つの切り換え装置がありました。 45回転レコードの代表の曲といえば、「黄色いサクランボ」という大人向けのお色気たっぷりの曲。LPステレオの代表曲は「熊蜂」。遠くから来た熊蜂が右側の拡声器から左側のスピーカーに移動するのが、実に立体的に聞こえました。 さて受験勉強の休憩時間を凡そ10分くらい取るには、亡父が学生時代に愛用したSP大盤のクラシックを両面聴くのが適していました。メニューイン氏の弾くバイオリン協奏曲やベートーベン第五番運命。LPでは小遣いで手に入れた「新世界より」やショスタゴ・ヴィッチの「交響曲第5番」など。
2026.02.07
コメント(0)

〇年があらたまり、受験シーズンになって参りました。久しぶりに清水範義さんの『日本語がもっと面白くなるパズルの本』からお借りしました。1)「ゴルゴ13」の性格が最も表れている台詞を1つ挙げ、その性格について15字以上20字以内で答えよ。2)「巨人の星」の星一徹は、なぜ中日の監督になったのか、15字以上20字以内で答えよ。3)「サザエさん」と「ちびまる子ちゃん」の家庭の会話の様子からわかる人間関係の共通点を15字以上20字以内で答えよ。 奇妙な問題ですが、実はこの3つの中で、実際に某私立高校の入試問題として出題されたものが1つあります。それは1~3のどれで、答えも考えて下さい。こういう問題では、正しい解答というものを予め決めておくことには問題がありそうですね。子供たちは必死に悩んだことでしょう。おそらく出題者は、模範解答のように感じられる能力、それを整理して説明できる能力を問うておられたのでしょう。<解答 3 「両方の家庭とも、親子関係が健全である」>
2026.02.06
コメント(0)

〇勤王派と佐幕派が凌ぎを削っていた幕末、背中に封じ文の彫り物をした春代という稀有な女スリがいました。三条と四条の間に仮橋があって、その脇の掘っ立て小屋には、世を忍ぶ桂小五郎が身を潜めていました。その小屋の主・野村三千三から新選組の様子を探って欲しいと頼まれ、新選組、夢想流の達人・佐竹観柳斎を色仕掛けで懐柔し新選組の動向を逐一三千三坊主に報告していました。 新選組副組長・土方歳三は敵方に動きが漏れていることに気づき、佐竹を疑い、鳥羽街道で彼を斬り捨てました。これを悟った春代は身の危険を察知、船から飛び込んだり、泳いだり、ほうほうの態で山科近くの藩谷にある実父の小屋に逃げ込みましたが、娘がまだ盗みを止めず悪いことをしていると誤解して、槍で突き殺してしまいました。彼女を不憫に思った人々が小屋の近くに地蔵堂を建て、供養しました。地蔵の背中には、彼女と同じ封じ文が彫られていたとか。(参考文献・李風聞書おんなこよみ)
2026.02.05
コメント(0)

〇到頭見つけました!物置小屋からノートルダム女学院中学高等学校にて教鞭を執らせていただいていた父の文法ソング。 〇助動詞 活用型の歌(まりと殿様)四つの段に む・けむ・らむ下二は つ・る・らる・す・さす・しむむず のサ変に ぬのナ変たり・り・なり・かり・めり ラ変べし・たし・ごとし・まほし・まじ ク・シク活き・ず・まし・じ・らし 特殊活 特殊活注 断定の「なり」・「たり」は形動型だから、 (ラ変型)プラス(連用形に「に」又は「と」) 完了の「たり」は純ラ変 〇助動詞 接続の歌(かもめの水兵さん)る・らる・す・さすしむ・むず・む・す(連用形に接続)じ・まし・まほし・(サ変に)り (連用形に接続)つ・ぬ・たり・けり・けむ・たし・き (連用形に接続)らむ・めり・らし・べし・まじ(ス)なり(々) 等等。
2026.02.04
コメント(0)

〇京都新聞の朝刊に、今村翔吾氏の小説・『未だ本能寺にあり』が連載されていますが、あの偉大な信長公の最期、「本能寺の変」に興味がありますね。<六月朔日、夜に入り、老の坂へ上り、・・・(略)。信長も、御小姓衆も、当座の喧嘩を下々の者ども仕出し候と・・・(略)、明智が者と見え申し候と、言上候へば、是非に及ばずと、上意候。(略)信長、初めには、御弓を取り合ひ、二、三つ遊ばし候へば、何れも時刻到来候て、御弓の絃切れ、其の後、御鎗にて御戦ひなされ、御肘に鎗疵を被り、引き退き、是まで御そばに女どもつきそひて居り申し候を、女はくるしからず、急ぎ罷り出でよと、仰せられ、追ひ出させられ、既に御殿に火を懸け、焼け来り候。・・・(略)> 歴史書として著名な「信長公記」(人物往来社)桑田忠親<校注>から一部抜き出しました。原本を解読するとなると大変ですが、後世の学者の注釈のお陰で、楽に読むことができます。
2026.02.03
コメント(0)

〇現在進行中のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟」は面白可笑しく作られていて、興味ありますね。ところで小谷城の哀話を扱った小説が多々あります。イ)徳永真一郎著『新浅井三代記』 読者からの手紙には<最後まで意地っ張りであり通して>潔い死を選んだ長政の一生に感動され、<現地に行ってみて、浅井せんべいも長政まんじゅうも売っていないことが、いかにも彼の土地らしく、涙が出るほどうれしく思いました。>と書いてあったそうな。 ロ)谷崎潤一郎著『盲目物語』 長浜の在に生まれた盲目の弥市という男の語り口は、ひら仮名の多い長文。それがお市の方の悲しい運命と相俟っています。天下の美女にかしずき、直接その肌に触れ、柔らかな弾力性のある御方様を按摩するという、谷崎氏特有の耽美的にして女性を拝める一連の作品の礎となった作品。そして『蘆刈』蘆刈」『春琴抄』へと。ㇵ)井上靖著『淀どの日記』(野間宏文芸賞) 目瞑れば茶々の脳裡に浮かぶ不気味な焔、小谷城落城の思い出から物語が始まり、彼女自身が猛炎の中、大坂城にて自害する時の光景が終章に綴られているようです。ほかに同著の「戦国無頼」も小谷の落城から。二)舟橋聖一著『お市御寮人』 舟橋氏独特の絢爛たる文章で綴られたもの。ホ)吉川英治著『真書太閤記』 小谷城の長政のもとに出向き、降伏を勧めるも叶わず、茶々を背負い、お市の方の手をとらんばかりにして城から脱出させた秀吉のくだりは、史実から有り得ないかも知れませんが、優しさを人間の本質とする吉川氏らしい構成の在り方なのでしょう。きっと各図書館では、毎年、大河ドラマに因む特設コーナーが設けられていることでしょう。希望者数が多いので、返却の期日を遵守することが大切ですね。
2026.02.02
コメント(0)

〇昨年12月23日に逝去された茨木和生先生に謹んで哀悼の意を表します。先生と亡父すばるはノートルダム女学院中高等学校PTA俳句会(句集『小部屋』)でのご縁がありました。丁度10年前の記事がありますので、再度ご披露させていただきます。<昨日は俳句結社「運河」さんの60周年の記念パーティにお招きいただき、総勢160人の宴で楽しく過ごさせていただきました。主宰茨木和生先生は、亡父がノートルダム女学院PTAのお母さん達の俳句を教えていた後任になっていただいたご縁のほか、日本のほぼすべての俳句結社が参加する「大阪俳人クラブ」において、私ども「京鹿子」の後を継いで、現在、運営していただいているご縁もあって、個人的もご懇意にさせていただいております。茨木先生は演出のお上手な方で、今回はチベット出身のオペラ歌手・バイマーヤンジンさんの歌とスピーチを私たちにプレゼントしてくださいました。 富士山よりも高い高原地しかも、9月から6月までが冬季、零下20度ぐらいの極寒の地がふるさと。 11人兄弟の貧しい家庭、兄や姉の頑張りの下、教育に熱心だったご両親の御蔭で、大学まで卒業。日本人のご主人との出会いから、大阪に20年在住。チベットの歌を歌う傍ら、チベットに至便な生活と文化を根付かせようと懸命に努力され、学校を10校建てられました。 マイクをかなり遠ざけるスタンスで、美しい声の歌と笑いと涙、感動のスピーチで聴衆を虜になさいます。ヤンジンさんについてはネットで検索の上、御覧下さい。運河さんからの献金は新たな学校創設の一助となることでしょう。
2026.02.01
コメント(0)
全27件 (27件中 1-27件目)
1
![]()
