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東京各地の桜の名所はほぼ五分咲き。満開のところもある。明日の日曜日は天気も良さそうだし花見客で賑わいそう。 ところで私はそんなニュースを目にしながら、思わず知らず口ずさんでいたのは童謡「花かげ」。「十五夜お月さん ひとりぼち/桜ふぶきの 花かげに/花嫁すがたの お姉さま/車にゆられて ゆきました」(大村主計作詞、豊田義一作曲、昭和6年;1931)。 ・・・この童謡からつぎつぎに連想して、「花嫁人形」「金襴緞子の帯しめながら/花嫁御寮はなぜ泣くのだろ/文金島田に髪結いながら/花嫁御寮はなぜ泣くのだろ」(蕗谷虹児作詞、杉山長谷夫作曲、大正13年;1924)。 「雨降りお月さん」「雨降りお月さん 雲の蔭/お嫁にゆくときゃ 誰とゆく/ひとりで唐傘 さしてゆく/唐傘ないときゃ 誰とゆく/シャラシャラ シャンシャン 鈴付けた/お馬にゆられて 濡れてゆく」(野口雨情作詞、中山晋平作曲、大正14年;1925) 三曲とも嫁入りを歌った大正時代の童謡である。ここで私は不思議に思った。いずれも花嫁を楽しく祝福していないことに。私は男だから嫁入りの気持ちを分からない。しかしこれらの童謡の作詞をしたのは男性である。 童謡ではないが西條八十作詞、古賀政男作曲の「誰か故郷を想わざる」の二番は「一人の姉が 嫁ぐ夜に/小川の岸で 淋しさに/泣いた涙の 懐かしさ/幼馴染の あの山この川/ああ 誰か故郷を想わざる」(昭和15年;1940) この詞は、「花かげ」の姉妹の別れと同じような姉弟の別れである。仲良しきょうだいの家族の別離。ただし、「花かげ」の三番の「遠いお里」という言葉から、この時代の日本の結婚が、個人の恋愛に帰すというより「家」の問題だったことが察せられる。このことは、ずっとゆるくなって結婚するふたりの愛が強調されているが、「瀬戸の花嫁」(山上路夫作詞、平尾昌晃作曲、昭和47年;1972) の姉弟の別れの陰にうっすらと揺曳している。 童謡「みかんの花咲く丘」(加藤省吾作詞、海沼實作曲、昭和21年;1946)は戦後すぐに発表された。童謡歌手川田正子さんが歌うために作られたという。三番に登場する「母さん」については説がある。戦争で母親を亡くした子供が大勢いるので、その子供たちにとってこの「母さん」という詞は辛すぎるであろうと、「姉さん」に変えられたという。 しかし、現在この歌をうたうひとは「母さん」と歌っているにちがいない。・・・私の説にすぎないが、私は原詞はむしろ「姉さん」だったのではないかと思う。その理由。歌詞の一番および二番に登場する船は、嫁入りする姉が乗っていた船だ。「瀬戸の花嫁」と同じに、姉さんは船で嫁入りしたのである。かつて仲良く姉妹(あるいは姉弟)ふたりで眺めた海。その海をいまひとりぼっちになって眺めていると、黒い煙を吐きながら島影に消えて行った姉さんを思い出す。・・・「みかんの花咲く丘」はこうして一番、二番、3番が意味のある一繋がりになる。「みかんの花咲く丘」はそういう歌なのだ。 ・・・ハハハハ、桜咲くニュースから童謡「花かげ」を口ずさみ、連想が連想を生み、なぜ日本の花嫁は淋しく悲しそうな歌に詠まれるのだろうと思いながら、「みかんの花咲く丘」へやって来た。【追記】 童謡「赤とんぼ」を思い出した。「1、夕焼け小焼けの 赤とんぼ/負われて見たのは いつの日か/3、姐やは十五で 嫁にゆき/お里のたよりも 絶えはてた」(三木露風作詞、山田耕筰作曲、大正10年;1921)。この詞には三木露風自身の幼い日の思い出が描かれていると言われる。三木露風が5歳のときに両親が離婚し、彼は祖父の家にあずけられた。面倒をみたのは子守の姐や。その背中におぶわれて赤とんぼが舞う光景を見た。しかし姐やは嫁に行ってしまった。ひとりぼっちになってしまった。「夕焼け小焼けの 赤とんぼ/止まっているよ 竿のさき」。・・・せつない日本の光景である。
Mar 30, 2024
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早朝から雨がかなり激しく降っていた。風も強い。しかし私は一ヶ月半も前からの約束があり、篠突く雨をついて外出。風が前から吹くのでズボンが雨に濡れる。 東京は昨年より15日遅れで桜が咲いたというが、通り道の桜はいまだしというところ。ただ、ある家の門前に、盆栽というには大きすぎるが鉢植えの桜が一本、咲いているのを目にした。この風雨で散ってしまわなければよいが。鉢植えとはいえ屋内に取り込むには大きすぎた。 筍が店に並んだ。一本買う。先端を見て、すっかり土に埋もれていたことがわかる。こういう筍はアク抜きをしないほうが香り高く、美味い。さて、どう調理しようか。 春野菜も上手い季節。水菜(地方によって京菜あるいは壬生菜ともいう)、蕗、そしてみずみずしいアスパラガスも買った。 小庭の文旦の実が地に落ちていた。中身はすっかり鳥に喰われ、皮だけがまるで栗のイガが三つにはじけるように割れている。このところ鳥たちが文旦を喰いにくる。中身はすっかり食い尽くし、皮だけが残っている。 じつは鳥たちが文旦を喰い始めたのは今年になってからである。というのも、我が家の文旦は毎年たくさんの実をつけていたが、私がためしに食ってみると苦味があった。マーマレードを作ってみたことがあるが、苦味は抜けなかった。そのマーマレードの苦味は私は意外に好きだったが、一度きりの試みに終わった。ところが鳥がすっかり喰っているので、また私は食べてみた。苦味がないのである。酢っぽさは、夏蜜柑ほど。・・・なるほどなぁ、と野鳥の食い物をみつける鋭い感覚に感心したのである。100個ぐらいも生っている、どうぞどうぞ喰っておくれ、というわけである。 雨に打たれているからっぽの皮を私は拾い集めた。
Mar 29, 2024
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あいかわらず一日中執筆。一応の区切りがついたところでメールをチェック。 ついでに何かおもしろい番組はないかとザッピングしていたら、オッ!、これは貴重だ。先日亡くなられたマウリツィオ・ポリーニ氏が優勝したショパン・コンクールの伝説のステージ写真と、演奏録音。当時18歳。 ワルシャワ、1960年2月22日-28日。第一ステージ。即興曲3番作品51、エチュード第10番および第25番、ノクターン第48番、ポロネーズ作品第44番。ただし、この録音の正確な日時は不明とのこと。 さらに第二ステージ(3月1日から5日)。24の前奏曲作品28番、エチュード第10番および25番、マズルカ作品第50番、第33番、59番、そしてピアノソナタ第2番作品35番。 3月13日の第三ステージ。ピアノ協奏曲第1番作品1番。 このポリーニ氏の演奏に、カラヤン氏は舌を巻いたと何かで読んだおぼえがある。ポリーニ氏ショパン・コンクール演奏ポリーニ氏ショパンコンクール第2ステージポリーニ氏ショパンコンクール第3ステージ
Mar 27, 2024
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少なからず驚いた。弟が遺言書を持っていてくれと、私に預けた。開封は裁判所がするので、開封しないように、と。開封すると遺言書として無効になるからである。私は無言で受け取った。 さて、私自身も作っておかなければならないか・・・
Mar 26, 2024
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ピアニストの巨匠マウリツィオ・ポリーニ氏が亡くなられた。享年82。 来日しての演奏会も多かった。録音盤も多い。いまはそれを聴いて楽しむしかない。 マウリツィオ・ポリーニ氏を追悼いたします。
Mar 25, 2024
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俳優・寺田農氏が亡くなられた。享年81。 1968年に毎日映画コンクール男優主演賞を受賞された、岡本喜八監督作品『肉弾』の劇場パンフレッを、私の資料箱より出して画像を掲載し、寺田農氏を追悼いたします。いまは存在しない新宿のアートシアターでの上映を懐かしく、そしてありありと映像を思い出します。
Mar 24, 2024
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手早くというか口早くというか、朝昼夕の食事をサッとすませ、相変わらず執筆に専念。もう12時間も書き続けている。目薬をさしながら、そして、口には出したくないが、ただいま21時を過ぎて少し疲れた。なんだか止められなくなっている。・・・しかし、もう止める。 腹立たしいのは執筆の最中にコマーシャルや、音声生成でアンケートをもとめる電話だ。アンケート電話は即座に切る。コマーシャル電話も即座に切る。応答はまったくしない。ただきょうの一件のコマーシャル電話はもう何度かかってきたか知れない。これは女性の肉声である。とうとう私は言った。「あなた、でたらめに電話しているのでしょう? 無礼だね!」・・・さて、これで効くかどうか。なにしろ近頃の女性は図々しい。私はヒトに勧められて物を買ったり見たりしない。私の選別眼はそんじょそこらのヒトに分かりはしない。そんなフラフラした精神でもない。・・・まあ、そんなとこだ。疲れているので邪魔する奴にはイライラするのである。
Mar 22, 2024
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「春の嵐が吹くまえに」と、故谷村新司さんが歌ったけれど、今日は春分だというのに嵐が吹き捲くっていた。重いコートを着直さなければならなかった。 家人はレストランのシェフ主催のパーティに出席し、深夜まで帰ってこない。私は終日、執筆。 3月20日は赤穂浪士・大石良雄の死んだ日、大石忌である。かつては京都祇園の万亭(一力)で法要が営まれていたが、現在はどうなのだろう。私は知らない。 狂うまで花に踊りや大石忌 青穹(山田維史)
Mar 20, 2024
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終日つよい風が吹いていた。まもなく20時になる今も、軒端を風が渡って行く。寒い1日だった。とはいえ暖房するほどでもない。そこいらへんの気温が微妙だ。 朝食後、文字原稿を書き始めたところに従姉から電話が入った。「おはようございます!」と張りのある元気な声だ。「暖かくなってきたから、みんなで遊びに来ない?」 昨年暮れの兄弟会食のとき、従姉は孫のひさしぶりの来訪があり参加できなかった。私たち兄弟にも会いたいが、大変遠くに住んでいるため滅多に会えない孫が来るので、会食を断念した。そのとき私は、「暖かくなったら会いに行くよ」と言ってあった。 「あなた幾つだっけ」と訊くので、ふた月たらずで79だと言うと、彼女は87だ、と。 大型建物の建築家だった彼女の夫は53歳の若さで死んだ。それを思い出しながら、「いまボクは50代の人に会うと、自分の子供に会っているような感じだよ」「そうでしょうねー。Nだって60過ぎだもの」と、彼女の長男の名を言った。 私たち兄弟のスケジュールを調整すると約束して電話を切った。 午後6時半まで執筆。
Mar 18, 2024
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寝ていると背にさざ波の揺れを感じた。ほとんど気付かないほどの揺れだったが、私は地震だと思い、枕元の時計を見た。午前6時17分あるいは18分になるところだった。揺れはすぐに背に感じられなくなった。日曜日なので少しゆっくり布団にもぐっていようと思ったが、例によって読みかけの本を開き、1時間ほどでその本を読了した。 ここ一ヶ月間ほどにもなろうか、ときどき今朝のような有るか無きかのこまかい揺れを寝ている背中に感じていた。すぐに忘れてしまうので、それがどんな揺れなのかを調べもしなかった。が、今朝の揺れについては午前中のウェザーニュースで午前6時17分ころ福島県沖で最大震度4の地震があったと報じていた。津波の心配はないとも。私が背中に感じたさざ波のような微かな揺れは、これであったと判った。 私が住んでいる地域から少し離れているが、ここはかつて立川断層の存在が指摘されていた。「かつて」と言ったのは、2018年だったはずだが日本経済新聞にその活断層の不存在が報じられた。その理由は、過去に断層の活動があったという証拠は無いというものだ。断層帯の約6割を占める名栗と立川断層南部には、立川断層は存在しない、と。そしてこの新聞報道より以前の2015年ころには、断層の名称が「箱根ヶ崎断層」に変わったらしい。 我が家がそうした活断層帯からはずれるか否かの論議は別として、13年前の東日本大震災時に我が家の敷地にありありと生じた異変は、実は今なおそのままになっているのである。地面の変異であるから、吾が手で旧に復することができない。しかも敷石の浮き上がりや、それを含むある線状にある東西の隣接地との境界塀に生じた亀裂などから、その地下にはあきらかに断層らしき地層があると推測できる。実は先ごろ11月に1ヶ月をついやして建物の外装のメインテナンスをしたが、その一部に3.11時のある変化に対する修復が含まれていたのである。 ハザード・マップによれば我が家のある一帯は危険区域には入っていない。しかし・・・私はこのハザード・マップの調査を信じることができないでいる。 オッ! 書き終えてアップしようと思ったら、また揺れた。午後12時3分。
Mar 17, 2024
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近頃どうしたことか夜中の3時頃に目が覚めてしまう。目が覚めると書いたが、実のところ目はつむっている。頭だけが冴えるのだ。そのまま転々と寝返りうっていると、いつのまにか再び寝入ることもあれば、まったく眠れないこともある。しかたがないので灯を点け、読みかけの本を開く。就寝前にも1時間半から2時間ほど読書するのを日課としているが、眠くなるとそのまま本を枕元に置いて寝てしまう。そんな読みかけの本を開くのである。 そうして読んでいると、ある一行の記述に私は驚いた。それは人物伝のなかの派生的な記述(記録)である。派生的な人物とは云え歴史上の重要人物なので研究論文の数はおそらく膨大であろう。私が驚いた記録というのは、記録され私家版として極少部数印刷されたが、ある事情からすべて破棄された。しかし、ただ一冊、記録者の知人の手にわたったものが奇跡的に秘匿されたという。それが今私が読んでいる本の著者に借覧を許された。つまり私が驚いた記述は、ここに初めて世に現れたのであった。 私が驚いたのはその記録と、私が数十年前に読んだアマチュア研究者の論文の記述、さらにまったく別な小説のテーマの陰にある事件(歴史的事実)の記述・・・それらが私の頭のなかで一繋がりになったからだ。アマチュア研究者の論文について私は、その依拠した資料のなかの或る字句の解釈に思い込みがあるのではないかと疑念を抱いていた。しかし私は数十年間その研究論文の趣旨を忘れてはいなかった。 発表年代もたいへん異なるこれら三つの文書を、一繋がりのこととして言及したものは嘗て無い。それはそうだ、個人に秘匿された(科学的専門的な)記録が世に出たのは、今私が読んでいる本が初めてなのだから。 ・・・しかしながら、私の頭の中で繋がった事柄を、私は書くわけには行かないだろう。あまりにも微妙な問題だからだ。私の頭の中で繋がったとはいえ、それが事実であることを示すためにはさらに多くの資料がいる。その資料は事態をとりまく外部資料には無いであろう。内部資料。それよりももっと密なるものでなければならない。・・・ウ〜ン、このテーマは墓場まで持って行くしかないか・・・
Mar 16, 2024
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伊・仏文学者の大久保昭男氏が亡くなられた。享年96。 大久保氏はイタリアの文豪アルベルト・モラヴィアの翻訳で知られていられた。 私が学生時代にモラヴィアを知ったのも、大久保昭男(てるお、あきお)氏の翻訳によってだった。 私はイタリア大使館の仲介で、来日したモラヴィア氏に会いもした。その経緯については随分前にこのブログに書いた。私はモラヴィア氏の初めての長編小説「無関心な人々」の翻訳本を携えて行った。その本の扉にモラヴィア氏は署名してくださった。帰りに、私を送ってくれたイタリア大使館員が、「よかったですね、署名がもらえて」と日本語で言った。私は、「実は・・・」と、署名のある本の扉を開いてご覧にいれた。「ああ・・・!」 日本語の本は左開きである。洋書は右開きだ。私はモラヴィア氏に礼をもって本を左開きで差し出した。しかしモラヴィア氏は本をくるりと回転させて右開き本のようにして署名なさったのである。礼儀知らずな学生だと思われたかもしれない。・・・本を見た大使館員はすぐに察して、「ああ・・・!」と言ったのだった。 「仮想舞踏会」「ローマの女」「孤独な青年」「軽蔑」等々、大久保昭男氏訳のアルベルト・モラヴィアを私はたくさん読んだ。 大久保昭男氏を追悼いたします。
Mar 14, 2024
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注目すべき報道が毎日新聞に出た。鎌倉市の鶴岡八幡宮が、全国各地の神社を包括する宗教法人神社本庁から離脱する方針を固めた。宗教法人法に基づき境内に告示されたという。 神社本庁は鶴岡八幡宮からの通知書を受け取ったが、離脱の理由は明記されていなかった。 これですぐに離脱が決定したわけではなく、今後、神奈川県知事の認証が必要であるため、正式な離脱までには尚時間を要するとのこと。 離脱理由があきらかではないので、様子見ということになるが、私個人は離脱に賛成である。私はいかなる宗教もまったく信仰しないので、鶴岡八幡宮に対する私の賛意は、神社本庁の水面下での政治的な動静を憂えてのことだ。神社本庁の動静とは、すなわち民主主義にもとづく国際平和を謳う現行の日本国憲法を破棄して、天皇を頂く富国強兵男尊女卑の明治憲法への回帰を本意とする団体の一員としての活動である。この団体は安倍政権内の政策研究会と強く結ばれていることが知られている。安倍晋三は祖父岸信介の意志を受け継ぎ、虚仮(こけ)の一念で日本を軍国主義国家にしようとしていた男だ。 鶴岡八幡宮が神社本庁から離脱を決めた意図は不明だ。その意図にあらたな危険な政治目的がないことを、私は願うばかりである。下の画像は、15歳の中学生だった私の手帳に書かれた岸信介氏の署名。私は「怪物」に会いに行ったのだ。警護の人たちが私を捕えた。岸氏が「坊やを放しなさい」と言った。首相を辞任して半年後の1960年12月のことだった。
Mar 12, 2024
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第96回米アカデミー賞授賞式がロサンゼルスで現地時間10日に開催され、山崎貴監督の『ゴジラ-1.0』が視覚効果賞を受賞した。日本映画が視覚効果賞の栄誉に輝くのは史上初めて。 さらに長編アニメーション映画賞に宮崎駿監督の『君たちはどう生きるか』が受賞した。 すばらしい。おめでとうございます!
Mar 11, 2024
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明日3月11日は東日本大震災から13年目になる。復興はいまだに完全ではない。福島第一原発事故処理も然りだ。しかしながら、異常なほど記憶力が欠如する国会議員や、司法も行政も、まるで他人事のような振る舞いの13年間だったのではあるまいか。能登沖震災にしても、すでに2ヶ月有余が経過しているが、道路さへ不通のままだ。 先月のある日、私が住んでいる地区の方々が隔週で行なっている高齢者サロンに、民生委員退任後1年ぶりに出かけた。私が訪ねなかった間に、たくさんの顔見知りが亡くなっていた。何か話しを、と請われて私は亡母の在宅看護の実情をありのままに話した。また東日本大震災のときの様子もくわしく話した。 母は末期にはさまざまな電子医療機器に繋がれての在宅医療だったので、震災時の電源消失は即座に死活の事態だった。それらの機器のレンタル契約会社や薬局、そして主治医の文字通り間髪を入れない素早い対応があって、母の命は救われた。そしてまた、介護人・・・つまり私が自分の身体を気づかないうちに損なっていたのか。ある日、母の主治医が私の様子を見て、「お兄さん、ちょっと診せてください」と、母の介護ベッドの傍で私を診察した。「病気寸前のところです。すぐに病院に行ってください」と主治医は言った。 以前私はこのブログに、血圧測定日記と1日の食事記録を毎日欠かさず書いていると述べた。じつは主治医の勧めですぐに病院に行ったときから始まったことだ。血圧測定日記は1年間にちょうど1冊。現在12冊目である。 ・・・高齢者サロンでそんな話をしたのだった。少し暗い話だったので、私は「歌いましょう」と、「浜辺の歌」、海つながりで「桜貝の歌」、それから明るく楽しく「高原列車は行く」を歌った。こんどは歌唱指導に来てくださいと言われたが・・・さあて、さあて。 下に掲載する絵は、震災後まもなくに刊行が予定されていた津波小説集の装丁のためのスケッチである。ある事情で使用されなかった。山田維史 油彩Tadami Yamada次は母の様子の当時のスケッチ。山田維史Tadami Yamada
Mar 10, 2024
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観たい観たいと長年思っていたジャン・ルノワール監督の映画『黄金の馬車』 (The Golden Coach) をYouTubeが掲載していた。日本語の字幕が付いている。 舞台は18世紀の南米スペイン植民地。総督が公用車という名目で購入した豪華な黄金の馬車を運んできた船で、イタリアの仮面劇(コメディア・デラルテ)の一座が新天地で一旗揚げようとやってきた。そして一座の花形カミーラ(アンナ・マニャーニ)をめぐる騎士と闘牛士と総統との恋の鞘当ての始まり。原作はプロスペル・メリメの一幕戯曲。映画は1952年の作品。1993年に日本初公開。 監督ジャン・ルノワール(1894-1979))は、画家ピエール=オーギュスト・ルノワールの次男。またこの『黄金の馬車』を撮影したクロード・ルノワール(1914-1993)は三男。 深刻なものは何一つ無い、と言いたいところだが、原作がメリメであるし、監督は『大いなる幻影』『南部の人』のジャン・ルノワールである。表面に出てこないがセリフのちょっとした端々に、植民地支配階級と原住民とのはなはだしい格差が語られる。遊興階級である貴族の税優遇や、庶民に対する侮蔑となってあらわれる教育格差。あるいは黄金の馬車に象徴される権力。あるいはまた公金の私的流用等々。まるで日本の国会議員のようだ。・・・こうした問題は、映像によって深刻化されてはいない。が、映画全体を通して語られているのである。 この映画の構成を私はおもしろく思った。 映画は劇場の舞台で始まる。幕が開くと正面に大階段を据えた舞台装置。それは総督官邸の大階段である。黄金の馬車が運ばれて来たというので、みなが一斉に階段を駆け上がり一室に突入して行く。・・・そのあとをカメラが追い、一室に入ると、ここから舞台装置ではない現実の官邸内部になっている。まったく自然な流れで切り替わる。この後に総督官邸で繰り広げられる事件が、すでにして仮面劇一座の出し物である喜劇悲劇という枠組みである。すばらしい導入部だ。 映画は実は二部構成と言ってもよいだろう。第一部と第二部とのあいだにインターバルがあるのではない。仮面劇一座の老座長が舞台幕前で観客に向かって「二幕の始まり」と口上を述べるのである。物語はここから少しばかり色合いがちがってくる。一座のヒロイン、カミーラをめぐる恋の鞘当てが深刻さを帯びてくるのである。・・・そして、大団円へ。詳しくは述べないでおくが、再び映画冒頭と同じ大階段の舞台装置。ひとりカミーラが降りてくる。彼女は自分の宿命に気づく。女優は、舞台を離れられないことに・・・。ジャン・ルノワール監督『黄金の馬車』
Mar 8, 2024
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いやはや東京の明日は雪の予報が出ている。3月もすでに1週間が過ぎたというのに。我が小庭の樹木はほとんどが常緑樹なのだが、落葉の紫陽花はもうずっと前から新芽を出し、その一部は若葉が萌えている。冬のうちは完全に土中に埋まっていて、有るか無いかさへわからないアフリカ起源のアガパンサスは、力強く15cmにも伸びた。・・・それなのに可哀想に、雪を被るかもしれないとは。たしかに夜も9時を過ぎて、次第に寒気が増してきた。 春雨や朝餉の膳に蜆汁 青穹(山田維史) 婀娜情け散り敷く梅に春の雪
Mar 7, 2024
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全作品 山田維史All art works by Tadami Yamada
Mar 6, 2024
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暖かくなってきたと思えば、今日はまた寒い。これを「寒の戻り」というのか。朝から小雨が降っている。住宅街を灯油販売の車が行く。商人は透かさない。えらいもんだ。 とはいえ暦のうえでは今日あたりから啓蟄(けいちつ)。虫、穴を出るである。 穴から出ないやつらが国会にはいる。日本の国会に啓蟄という言葉はついぞ無い。泥棒たちがお手盛りの会議をやっている国だ。 啓蟄やまたぞろ潜る議員連 青穹(山田維史) 亀鳴くや泥棒会議の議員連
Mar 5, 2024
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我が幼年時代の思い出 高見澤家の雛人形 神韻や古き衣冠の享保雛 ◯神さびて古き衣冠や享保雛 亡母制作の某家の雛人形 いまいずこ母の創りし雛人形 ◯里遠く亡母創りし雛人形 更けゆくは息子ばかりの雛祭 菱餅をほおばる男児雛祭り山田維史 「立ち雛」
Mar 3, 2024
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きょう3月1日は1954年の同日、ビキニ環礁付近の海域でマグロ漁の操業していた第五福竜丸が、アメリカの原水爆実験「ブラボー」によって放射能灰を浴びた。戦後9年にして広島・長崎につづく三度目の日本人原水爆被害である。実験に使用された原水爆が「BRAVO;ブラボー(万歳)」と名付けられていた事実が、当時の欧米諸国の原水爆に対する考えを反映している。原爆被害は実は日本が唯一だったのではなく、ビキニ環礁域の島民も被曝に苦しんだのだった。 私は第五福竜丸被曝記念日にあたり、ちょうど10年前、60周年記念日にもこのブログ日記に書いている。その記事をそっくり再掲載してみようと思う。原水爆禁止日本協議会理事長であり、大学時代の私の国際法の教授安井郁氏の思い出もある。その記事には漏れているが、被爆した第五福竜丸が焼津港に帰ってきたニュース映画を、当時9歳だった私は観ていた。TVがない時代、映画館で本編映画の前にニュース映画が同時上映されていたのである。なお掲載した昔の映画リーフレット画像はそれぞれクリックすると拡大画像になります。【2014年3月1日の日記】 1954年3月1日午前3時42分、米国がおこなったビキニ環礁における水爆「ブラボウ;万歳」の実験により、静岡県焼津港所属の鮪漁船「第五福竜丸」の乗組員23人が被爆して、今日がちょうど60年目になる。「ビキニ死の灰」という言葉で語られることになるこの事件は、広島・長崎以後わずか9年で新たな原水爆被爆とそれによる死者が出たことで、世界に衝撃を与えた。 この事件の経緯を詳しくのべる余裕はないが、被爆した「第五福竜丸」は、現在、東京・江東区の東京都立第五福竜丸展示館(かつて夢の島と称していた場所)に展示されている。 ちなみに「第五福竜丸」被爆事件と被災した23人の乗組員については、最初に死亡した無線長久保山愛吉さんを中心に据え、新藤兼人が映画作品にしている。事件からまる5年後のことである。出演は宇野重吉、乙羽信子、小沢栄太郎、千田是也。 公開時、私は会津若松の若松大映で観ている。たしかワラ半紙のような紙に印刷した二つ折りのパンフレットを保存してあるはずと、幾つもの資料保存箱のうち、これか?と目星をつけて開けてみた。図星が当たって、意外に早く探し出せた。私が中学2年生の時だから、54年前の若松大映のパンフレットである。たぶん、現在残っている唯一の物ではないかしらん。ごらんいただくことにしよう。 一枚の紙の表裏に印刷していて、内側となる頁の囲み記事の執筆者に、原水爆禁止日本協議会理事長・安井郁氏の名がある。私の大学時代の国際法の教授である。もちろん映画を観た時には、数年後にはこの人が私の教授になるとは思いもしなかった。
Mar 1, 2024
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