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昨夜、ニコラス・ケイジ主演の娯楽映画『ナショナル・トレジャー』を見ました。 ちなみに、いい大人の私が、この手の娯楽映画をわざわざDVDを借りてまで見るということには、深い事情がありまして。 実はこのところアメリカのテレビドラマ・『24』の第4シリーズを毎週2本ずつDVDを借りて見ているんです。1本のDVDには2話が収録されていますから、2本なら4話。で、これを4日に分けて見ているわけ。だってこのドラマ、もう毎回ハラハラ、ドキドキしっぱなしなので、一日にDVD一本分、すなわち2話まとめて見ると身体に毒なんですもん・・・。 ま、そんなわけでこのところ毎週2本のDVDを借りているわけですが、私の行きつけのレンタルショップでは、1本のDVDを1週間レンタルすると300円かかるのに、旧作を3本まとめて借りると500円で済むというサービスがあるんです。つまり、2本借りると600円だけど、3本借りれば500円という、まさに資本主義経済の根幹を揺るがしかねないような料金体系になっているんです。となれば2本の『24』の他に、もう1本、何でもいいから借りるしかないじゃないですか。 ということで、このところ毎週『24』を2本と映画を1本、合わせて3本のDVDを借りる、というのが習慣になっているんですな。で、その映画の選択ですが、何しろ週日、仕事の後に見ることが多いので、深い味わいの映画より、頭を使わないで楽しめる単純な娯楽映画の方がいい。とまあ、そんなわけで、この間たまたま借りたのが『ナショナル・トレジャー』だったんです。 さてこの映画、その題名の通り「宝探し」がテーマの物語です。世界各国から集められた莫大な宝を、アメリカの建国に携わったフリーメーソンたちがある場所に隠した、という伝説を信じた一族がいて、何代にもわたってひたすらこの財宝の在り処を探し続けてきたのですな。が、そもそもそんな夢のような財宝などあるはずがないとするアメリカ政府や歴史学会からは、この一族は爪弾きにされ、変人扱いされてきた。で、そういう世間の扱いに懲りた父親(ジョン・ボイト)は、そんな宝探しの夢からは手を引いているんです。 しかし、彼の息子のニコラス・ケイジは「お宝ハンター」としての一族の伝統を祖父から色濃く受け継ぎ、この財宝を探し続けて、ついにその在り処を探る上での重要な手がかりを見出すわけ。どうやら合衆国の独立宣言書の裏に、目指す財宝の在り処を示す秘密の地図があるらしいんです。とはいえ、アメリカで最も重要な書類である独立宣言書は、首都の国立公文書館に厳重に保管されている。これを盗み出して、どうこうするなんて、ちょっと無理な話です。 ところがそのことを聞き知ったとある悪漢が、ケイジに先駆けて独立宣言書を公文書館から盗み出すことを画策し出すんですね。で、そのことを知ったケイジは、独立宣言書を守るために、自らこれを盗み出さなくてはならないことに気づくわけ。何しろ当局は、宣言書を盗み出すことなど不可能と思っていますから、ケイジの警告に耳を傾けてくれませんのでね。 で、すったもんだの末、ケイジは悪漢よりも一足先に宣言書を盗み出すことに成功します。そして、そこから財宝の在り処を探り出すわけですが、敵もさるもの、ケイジの動向を見ながらしっかり後を追っかけてきます。しかもそればかりではなく、警察もまた独立宣言書奪還のため、捜査の手を伸ばしてくる。さて、ケイジは悪漢と警察の手を逃れながら、財宝を探し出すことができるのか? ま、そんな感じの映画ですわ。 で、もちろん上に述べた宝探しのメイン・プロットも、色々「謎解き」の側面があって面白いのですが、これに絡むサブ・プロットとして、ケイジとその親父であるボイトの「親子関係」というのが、なかなかいいんですね。「一つの手がかりを辿っていくと、別な手がかりに到達する。で、その新たな手がかりを辿っていくと、また新たな手がかりに到達する。そうやって、手がかりだけ与えて人間を弄び、その人生を狂わせてしまう。それが宝探しなのであって、財宝なんて実際には存在しないのだ」と喝破している親父・ボイトと、それでも財宝はあるのだ、とする息子・ケイジの相克といいましょうか。で、その相克のただ中で、否応なく息子の宝探しに巻き込まれてしまったボイトが、お宝ハンターの一族の血に再び目覚め始め、ついには親子協力して財宝の在り処を突き止めるようになっていく・・・。 「宝探し」が、「父親探し」につながる・・・ま、その辺が、いかにも健全なアメリカ娯楽映画の、「ぽい」ところなんですなあ。何せ、この映画の制作はディズニーですからね。作中、ほとんど人が死にませんし、親子で楽しめる宝探し映画でございます。 さて、そんな『ナショナル・トレジャー』に対する私の採点はと言いますと・・・ 70点、ギリギリ合格でーす。わざわざ映画館へ足を運ぶほどの作品ではないが、DVDでちょろっと見るくらいなら決して損した感じはしない、というほどの番付です。ま、それなりにおすすめですよ。 ちなみに、この映画でもう一ついいところはですね、もうネタバレもいいところですが、ケイジたちが探している「宝」は、実際に価値あるものとして実在する、というところですね。よくあるでしょう、「宝はあった。しかし、それは今となっては価値のないものだった」というような結末が。たとえば『ルパン3世 カリオストロの城』の結末のように、主人公たちが追い求めていた宝とは、湖の底に沈んだ古代ローマの遺跡でした、みたいな奴。ああいうのは、ちょっと、ね。やっぱり宝探しなんだから、実際に使える宝が出てきてくれないと、つまらんですよ。その点、『ナショナル・トレジャー』は、いいですよーん。 ところで宝探しといえば、実は釈迦楽家にも代々伝わる秘宝伝説がありまして・・・。しかし、その話をし出すと長くなりますので、今日はこの辺でおしまいにしましょう。またいつか、気が向いた時にでもお話しますね。それでは、皆さん、お休みなさーい!
May 31, 2006
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ドイツでは、「ハインツ」という名前の少年は必ず「ケチャップ」という綽名になるといいますが、ことほど左様に、ケチャップ・メーカーとして世界的に有名なアメリカのブランド、ハインツ。我が家では最近、このメーカーのトマト・ケチャップを愛用しております。今日の夕食、「白身魚のピカタ」にもぴったりー! ところで、ケチャップ、マヨネーズ、ソースの3つは、どのメーカーでも同じような製品を出しているとは言うものの、その微妙な味の違いが、案外、各家庭のこだわりとなっているもので、同じメーカーのものを代々使い続けているご家庭が多いのではないでしょうか。ちなみに我が釈迦楽家では、永年、マヨネーズは「キューピー」、ソースは「ブルドッグ」の中濃、そしてケチャップは「デルモンテ」というふうになっておりました(過去形)。 しかし、冒頭に記したように、その鉄の掟の一角がついに崩れたんです。 ハインツのケチャップ・・・うまい。 我が家が「ハインツ党」になったのは、しかしながら、その味の良さばかりではありません。ハインツ・ケチャップの容器が、これがまたどえらい優れモノでありまして。 普通、ケチャップって、容器から注ぐのがうまくいかないことが多いじゃないですか。なかなかケチャップが出て来ずに、「プフー!」なんて空振りしちゃったりして。それでまた注ぎ口のところにケチャップがついて汚れてしまうことが多いんですよね。で、そのケチャップが固まって、ガジガジになってしまう、と。 ところがですね、ハインツのケチャップの容器は一味違います。もともと注ぎ口を下にして冷蔵庫に保管するようになっているところからしてよく考えられていますが、それよりも凄いのが注ぎ口。ハイツのケチャップ容器は、注ぎ口に特殊な「弁」が付いていて、これがケチャップの逆流を完全にシャットアウト! 注ぎ口がケチャップで汚れてしまうなんてことが一切なーし! 一体、どういう構造になっているんだろうと思うんですけど、とにかくハインツに変えてから、ケチャップを使う度に感動してます。 先にも言いましたように、この種のテーブル・ソースには各家庭のこだわりがあって、愛用品を変えるにはそれなりの思い切りが必要だと思いますが、もしまだ「ハインツ」のケチャップを一度も試したことがないという方がいらっしゃいましたら、ぜひ一度お試し下さい。「目からウロコ」かも知れませんよー!これこれ! ↓ハインツトマトケチャップ逆さボトル460g
May 30, 2006
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今日、夕食をとりながらNHKのニュース解説番組を見ていたんですが、今日のお題は「デフレ後の日本経済」でした。 で、番組の冒頭、紳士服の販売が上向きで、数年前に流行った「中国製1万8千円スーツ」は影を潜める一方、6万円代の紳士服が相当な売れ行きを示していることが伝えられ、日本経済がデフレを脱却しつつあることが指摘されていました。しかしその一方、スーパーマーケットなどの日用品市場では相変わらず価格破壊が維持されており、業種によっては必ずしもデフレ脱却が進んでいないのだそうです。 で、まあそんなことから、「解説者」として登場した某大学の学者先生が、「日本経済は今や(デフレ脱却組と非・脱却組に)2極化している」と大仰に指摘され、そこから彼は現在の日本の消費者動向を解説し始めたんですね。つまり、今でも日本人全般の消費動向は基本的に低調ではあるのだけれど、しかしこれだけ長く消費の手控えが続くと、たまには少し贅沢をしたい、自分へのご褒美として好きなものにはお金をかけたいという欲も出てきて、そうした消費者の心理状況が、売り上げ好調な業種(たとえば高級シャンプー市場など)を生み出している、というわけです。 だからこそ、今は低調な業種であっても、そういう消費者の心理を読んで工夫すれば、突破口が見つかって、ヒット商品を作り出すことはできるはずだし、またそういう優れた商品を「日本製ブランド商品」として売り出せば、圧倒的な安値で勝負してくる中国製品などに対しても、競争力を持つことができる、と、その解説者某氏は結論づけるわけ。いや、必ずしもその解説者が、ということではなく、番組全体として、そういう結論に「話のオチ」というか、「落しどころ」を見つけようとしたんですな。 まあね・・・。もちろん、以上のような現象は確かに現在の日本で生じていることなんでしょう。しかし・・・こんなことは、敢えて「解説」するに値することですかね? 「2極化」なんて流行の言葉を使われると、何だか納得させられちゃうんですが、そんなの、いつの時代だってそうじゃないですか。歴史上、どんな時代だって、基本的には「高いものが買える人」と、「安くてもそれで用が足りるなら十分だと思う人」の2種類しかいないと思うんですよ。もちろん、一人の人間が、この両方のタイプを兼ね備えることはあるでしょうが。逆に言うと、「さほど高くもなく、さほど安くもない商品だけに、妙に心惹かれる」という人は、そんなにいないと思うんです。 それに「貧乏してても、たまには贅沢したい」という人間心理にしても、そんなの普遍的な心理じゃないですか。また「不況の中でも、工夫次第で売れる商品が作れる」ということにしたって、今に限ったことじゃない。そんなの「当たり前」のことですよ。そうでしょ? じゃ、この番組は、あの解説者は、何を「解説」したんですか・・・。 素人向けの経済番組を見ていると、私は大体いつも、上のような印象を持ちます。つまり、情報部分(値段の高いスーツが売れ始めた、とか、高級シャンプーが売れている、といったもの)に関しては「へぇー」と思いますが、それを「解説者」が「解説」し始めると、「そんなの、改めて解説されなくたって分かってるよ」という感じをいつも受けてしまうわけ。 で、その都度嘆かわしく思うのは、「解説者」なるものの全般的なレベルの低さですわ。この程度のことだったら、何もどこぞの「経済学者」でなくとも、「文学者」の私だって言えます。どうせテレビに出して「解説」させるなら、もう少し素人を驚かせるようなことが言える奴を連れて来いって。 もっとも、民放某局の○村太○氏みたいに、何の学者でもないのにあらゆるニュースを解説して見せ、しかもその解説とやらが「そんなこと言っちゃっていいの?!」という意味で、世間の耳目を驚かせる人にも、困ったものですが・・・。 ちなみに、ワタクシ・釈迦楽は、○村氏とは違う意味で、素人は驚き、玄人は白目を剥くような、そんな日本経済回復のための驚天動地の必殺アイディアを沢山持ってますから、テレビ局の方、ご一報を! (なーんだ、やっぱり、それが言いたいんじゃん!)
May 29, 2006
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今日は、ブログを通じてお近づきになったマイクさんご夫妻、そしてロックさんご夫妻と共に、オフ会がありました。 で、お昼ちょっと前にマイクさん宅に到着。少々お太り気味のせいか、一瞬、アザラシの子供かと見紛う白いワンコ(パグ?)の熱烈お出迎えを受けてお邪魔すると、広々リビングに既にパーティーの準備が。フライング気味に始めたオフ会は、少し遅れて到着されたロックさんご夫妻も加わって盛り上がり、ワインの瓶が次々と開けられていきました。 しかもそのワインが凄い。何せマイクさんもロックさんも札付きのワイン通ですから、そんじょそこらのワインではありません。今回も色々とお相伴させていただきましたが、中でも特に「イケム」という貴腐ワインと、マイクさんが末期の酒にと秘蔵していた超高級トカイ酒、これらはどちらも蜂蜜か?と思うほどの甘さと芳しい芳香は私のような素人にも分かるほどの高貴な味でしたね。 そしてマイクさんの奥様のジェーンさんお手製のお料理と、ロックさんの奥様のケイトさんが差し入れられたお料理、どちらもとてもおいしかったですー。ジェーンさんの方では、挽き肉とチーズと卵を使ったお料理が濃厚な味で絶品でしたし、ケイトさん差し入れのサラダも2品ともいい味でした。ワインと料理がこれだけ揃っているのですから、贅沢なパーティーです。 でまた、会話の方もジェーンさんのテニス仲間の興味深いお噂から始まって、マイクさんのバイオリンの迷演奏あり、ジェーンさん&ケイトさんの「猫踏んじゃった」のピアノ連弾あり、といった具合。マイクさんご夫妻の二人のお嬢さんの話、ロックさんご夫妻のご子息の話など、話題はあちこちに飛びましたが、今日の傑作は、マイクさんの愛犬(先程の白パグちゃんではなく、ラブラドールの方)の話。このワンコ、なんとジェーンさんのご尊父様が亡くなった時、どさくさに紛れてマイクさんがペットショップに立ち寄って品定めをし、お通夜の日に買って来た、というんです。お通夜の帰り道、お父様を亡くされてがっくりしているジェーンさんが、何だか車の後部座席から物音がすると思ったら、それがラブラドールの小犬だったんですって。マイクさんは、「だってジェーンが寂しそうにしているから・・・」などと笑っておられましたが、あれはただ単にマイクさんが買いたかったから買ったのに違いない・・・。何せまだ躾けもなっていない小犬を家に残したまま、翌日はマイクさんもジェーンさんもお葬式に参列されたわけですから、帰宅後、家がどんなになっていたかは・・・想像がつきますよね。 しかし、よりによって、そういう時に小犬を買ってくるマイクさんって・・・。お医者さんにしておくにはもったいないキャラクターです。 その後、マイク家の二匹のワンコの間の恋物語の爆笑エピソードも出たのですが、ま、それは少々アダルトな方向の話ですので、ご想像にお任せするとして。かくして、爆笑トークの連続の楽しい時間はあっという間に過ぎ、ロックさんと私の酔いが醒めたのを見計らって、オフ会は解散となりました。 今回は、私の誕生日祝いを兼ねてのオフ会だったので、マイクさんからはちょっと高価なプレゼントも頂いてしまい、さらにこの2、3日、私が悩んでいた腰痛も治療していただいてしまったりして、申し訳ないことになってしまったのですが、ブログを通じて知り合った方々と、こうして楽しくお付き合い出来るということ自体、幸福なことですね。感謝、感謝。 このオフ会も今回で2度目、前回はロックさん宅で行われましたので、次こそは釈迦楽宅で企画しないといけませんね。ま、夏休みが近くなった頃をメドに、何か計画しておきましょう。マイクさん、ジェーンさん、ロックさん、ケイトさん、次は拙宅においで下さいねー。
May 28, 2006
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昨日の夕方、散歩の途中で行きつけのギャラリーに立ち寄り、オーナーのMさんとおしゃべりを楽しんで来ました。彼女は先日、現在中国でお仕事をなさっているご主人と香港で落ち合い、お二人で10日間ほどをかけてオランダ・ベルギー旅行に行っていらしたばかりですので、その辺の旅のお話を伺おうと思いまして。 で、旅先での写真を見せていただきながら、様々な旅のエピソードを聞かせていただいたわけですが、「オランダ」と「ベルギー」というのは、地理的に隣り合っているとは言え、色々な点で異なることの多い国のようで、Mさんは現地でそのことをつくづく実感されたとのこと。 第一、言葉が違いますよね。元来オランダ語はドイツ語に近く、また大抵の人は英語がそこそこ話せるのに対し、ベルギーの方はフランス語の勢力が強く、英語が通じにくい国柄らしい。英語が通じるかどうかというのは、多くの日本人と同様、英語でどうにかこうにか用を済ませながら外国旅行をしているMさんご夫妻にとっては大きな問題です。 で、まあ、ひょっとするとそういう言葉の問題のことも含まれているのかも知れませんし、Mさんご自身、通りすがりの旅行者の目で判断してはいけないのかも知れませんが、と断られた上でコメントされたのですが、二つの国を比べると、オランダの方が断然印象が良かったのだそうです。とにかく人々が親切で、旅行者のことを笑顔で歓迎してくれる感じのオランダに対し、一方のベルギーの方は、よく言って「都会的」、悪く言えば「ビジネスライクで、無愛想」なのだそうで、たとえば道を尋ねるにしても、オランダでは「そこまで行くのだったら私が連れてってあげましょう」などと言って自分の車で親切に送ってくれる、なんてことがしばしばあったのに対し、ベルギーでは、いい加減に「あっち」などと言われるばかりで、それがまたしばしば間違ったことを教えるものだから、一層迷ってしまうことが多々あったそうです。まさかわざと間違った道を教えたのだとは思いたくないですけど、あまりにもしばしば間違った道を教えられるので、Mさんも「ひょっとして・・・」と思わざるを得なかったのだとか。宿泊先のホテルでもかなり不愉快なことがあったそうで、どうもいかんですなあ、ベルギーは・・・。 ま、そんなこともありまして、自然、話は愉快に旅が出来たオランダのことに集中するわけですが、そのお話を伺う限り、なかなかいいところのようですね。首都のアムステルダムは町中がゴミだらけ、犬の糞だらけで、案外汚い町だったそうですが、都会を少し離れれば、まあステキなところばかり。木立と水路の中に古いレンガ造りの建物が立ち並ぶ街並みは、まさに日本人が「ヨーロッパ」と聞いてイメージする街並みそのものです。街角のちょっとしたレストラン、カフェ、土産物店がまたステキでね。 ところで、Mさんご夫妻はオランダに日本人女性の知人がいらっしゃるんです。で、今回のご旅行でも、現地でこの方と会われたそうですが、この女性がまたなかなか数奇な人生を送ってこられた方でして。 この方、どういうきっかけがあったのか、とにかくお若い時にオランダに住み始め、現地の方とご結婚もされたのですが、その後離婚され、それからは日本語を教えたり、しまいには掃除婦までしながら辛うじて生計を立てていたというのですね。しかしやがて経済的にも精神的にも行き詰まり、もうダメだ、日本に帰ろうと思っていた矢先、今、パートナーとしてご一緒に暮らしておられるオランダ人男性と出会い、また日本大使館でお仕事を得ながら、彼の地で幸福に暮らしておられるのだとか。 人生いろいろですなあ。 ところで、オランダで実際に離婚を経験されたこの方のおっしゃることなので、確かな情報だと思いますが、オランダでの離婚制度というのは、ある意味、凄いです。ちょっとびっくりしますよ。 どう凄いかといいますと、彼の地では、夫か妻のどちらかが「この結婚はうまく行ってない」というふうに感じ、離婚に踏み切ろうと決意すると、もう、三行半を突きつけられた側には抵抗する余地がないんですって。二人でよく話し合って、もう一度もとの鞘に戻ろう、というようなことにはならず、もちろん書類上だけ結婚を続けたまま、実質別居する、ということもままならないらしい。とにかく、どちらかが「離婚したい」となったら、もうスパッと離婚する以外道はないのだそうです。ということは、たとえば「俺、別に好きな女が出来たから、お前とは別れたい」と夫が言ってきたとすると、妻はもう為す術もなく離婚されちゃうわけです。ただ、そういう形で、自分の意志とは関係なく離婚を迫られた場合、法的な救済措置というのはいろいろあって、経済的な援助が受けられるようになっているのだそうですが・・・。 いやー、素晴らしいですね、オランダの離婚制度! さすが、「安楽死」を認めるお国柄だ。実に合理的です。 やっぱねー、夫でも妻でも、そのどちらかが一度でも「離婚したい」と思うようになっちゃ、どちらに罪があるにせよ、もうその結婚は実質的におしまいですよ。「子供のために」とか、「世間体が悪いから」とか、そんなような理由で無理に我慢したり、あるいは別居したりしながらずるずる離婚を先延ばしするより、もう国家の権威をもって問答無用で別れさせちゃう方が、当事者の双方にとってよっぽどいいんじゃないでしょうか。ばっさりやって、すっきりする。まさに外科的な荒療治ですが、長い目で見れば、最良の解決法だと私は思うなあ。これこそ、人間関係に対する深い洞察の法制化ですよ。天晴れ、オランダ政府! ま、旅というのは、そこへ行った人はもちろんのこと、その話を聞くだけでも色々考えさせられ、タメになることが多いもんです。昨日もオランダ・ベルギーの話を伺って、楽しくも有意義な散歩となったのでした。
May 27, 2006
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私は、時々、ふと妙なアイディアが思い浮かび、それについてあれこれ考え出すと、それがどんどん増殖・増幅・錯綜して、果てしがなくなる時があります。でまた、それが何か高尚で素晴らしいアイディアならまだしも、たいていはアホな考えなので、ショーモナイのですが。 で、つい今し方も、「鏡」をテーマに、またまたバカなことを考えていたという・・・。 たとえば小さな電球を灯したとしましょう。そして、その前に「鏡1」を置いたとします。当然鏡には電球が映っていますよね。で、その「鏡1」を少し傾けて、それを「鏡2」に反射させます。そして、「鏡2」に映った電球の像を「鏡3」に反射させる。そして今度はそれを「鏡4」に反射させ、それをまた「鏡5」に反射させる。 で、そうやって鏡の数を増やし、角度を変えながらどんどん反射させていって、最終的にそれをもとの「鏡1」に反射させるわけですよ。すると・・・ ・・・どうなるんですか? 「鏡1」に映る電球の数は2つになるの? いやいや、仮に2つになったとすると、その電球の像が「鏡2」から次々と反射していって、また「鏡1」に戻るわけだから、4つになるのかな? いや、それがまた巡り巡って8つ? いや16? 32? ・・・・ じゃ、キリがないじゃん。あんまり電球の像が沢山映り過ぎて、すごいビームになっちゃってたりして。 「音」の分野でも「ハウリング」って現象がありますよね。マイクで音を拾い、その音を拡大してスピーカーから流す。で、その際、スピーカーから出た音を同じマイクで拾ってしまうと、一度拡大した音をさらにスピーカーが拡大してしまい、さらにそれをマイクで拾ってしまって、ということを繰り返しているうちに、やがて耳をつんざく音が発生してしまうという奴。 それと同じことが、「鏡」でも起こるのかしらん??? でも、そんなはずないですよね。もしそうなら、やりようによっては、豆電球一つで家中を光の洪水にすることが出来ることになっちゃいますもん。そんなこと、出来るはずが・・・ ・・・あるかな・・・。 あー、もう! わけが分からん! そんなこと分かったって仕方がないのにぃ! でも、気になるなぁ・・・。誰か、頭のいい方、「それは理論的に可能です」とか、「不可能です」とか、教えて下さーい!
May 26, 2006
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今日、伝統のF1モナコ・グランプリが開幕しました。インディ500マイルレース、ル・マン24時間耐久レースと並び、世界3大レースの1つに数えられるこのレース、世界中を転戦するF1レースの中でも、もっとも華やかなイベントと言ってよいでしょう。ちなみに、F1グランプリというのは通常、金曜日からフリー走行が始まって、土曜日が予選、そして日曜日に決勝が行われるのですが、モナコ・グランプリだけは木曜にフリー走行が始まり、金曜日がお休みで、土曜が予選、日曜が決勝となります。ここは公道を使ったレースなので、3日連続して道路封鎖するのが難しいのですな。 で、伝統と格式のあるレースだけに、ここで勝つことはすべてのF1ドライバーにとって夢のまた夢。実際、コース幅が極端に狭いため、コース上で追い抜きをかけることが非常に難しく、さらに一瞬のミスがクラッシュにつながるので、ここで勝つためには速いマシンとドライバーの腕だけでなく、戦略と運が大きな比重を持つことになります。速いドライバーよりも、運のいいドライバーが勝つことも多いんですね。そんな中、ここで6勝しているアイルトン・セナ、5勝しているミハエル・シューマッハ、4勝しているアラン・プロストなどは、大したものでありまして、「モナコ・マイスター」の称号を受けているのもうなづけます。 さて、今年はどのようなレースが展開されるのか、日曜日の決勝が楽しみですなー! ところで、会場となるモナコ公国ですが、ここも変わった国でして。大きさはわずかに2平方キロと、皇居の約2倍の大きさしかない世界で2番目に小さい国(1番小さいのはバチカン市国)。軍隊は持たず、いざとなると周囲を取り囲むフランスの庇護を受けるのだとか。主たる産業は観光、そしてカジノ。また独自に美しい切手を発行しているため、その切手も名産品なのだと、切手マニアから聞いたことがあります。 で、ちょっと驚いたのですが、モナコ公国というのは、国連に加盟している国々の中で、日本が正式な国交を開いていない、たった2つの国のうちの1つなんですって。残りの1つはもちろん「北」の国ですが、モナコ公国と「北」とが同じ扱いって、何だかちょっと不思議ですなあ。 不思議といえば、そんな皇居の2倍くらいしかない都市国家が、国家としてちゃんと運営されていることも不思議です。それどころか、世界中の正真正銘のセレブがここに住みたい! と思っていたりするわけでしょう? 羨望の国家なわけですわ。 そういうことを考えると、石原都知事の「東京カジノ構想」をもっと大がかりなものにし、日本のどこか過疎の土地にでも人工的なカジノ都市でも作ってみたらどうなんですかね。もちろん、F1・日本グランプリもそこで招聘する。もちろん、カジノの収入だけで都市経営は成り立つので、そこの住民は税金を払わなくていい、ということにしてね。もちろん、文化的な面でも教育的な面でも治安の面でも、最高のレベルを目指すわけ。 既に日本では「○○特区」という形で、それぞれの地域に特殊な社会システムを導入することを行っていますが、スケールが小さい、小さい。そんな、竹下首相時代の「ふるさと創生1億円ばらまき制度」みたいなのじゃなくて、本格的な都市実験をやってみればいいのに。皇居の2倍の大きさの人工都市くらい、作れるでしょ、その気になれば・・・。 何だか、話が脱線しましたが、そんな妄想も抱きつつ、週末のレースを楽しみにしているワタクシなのでした。フェラーリ、頑張れ!
May 25, 2006
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今日の新聞を見ていて、おお! ついに! と思ったことがひとつ。 ホンダの2ドア・クーペ、「インテグラ」がとうとう販売終了ですか・・・。 かつてCMに米国俳優マイケル・J・フォックスを起用し、「カッコ・インテグラ」という名コピーと共に一世を風靡したこともあり、また近年では「タイプR」と称する特別仕様車が走り屋に受けて、そちら方面ではそれなりのシェアを保っていたこの車。しかし、ごく普通のユーザーが「2ドア・クーペ」なるものに興味を示さなくなってきた昨今、走り屋御用達というだけでは割に合わなかったんでしょうな。またひとつ、日本から由緒あるクーペが消えてしまった・・・。 そういえば、かつて「究極のデートカー」としてホンダの名を高らしめた「プレリュード」も既に市場から消えて久しいし、日産の「シルビア」も、トヨタの「セリカ」も「レビン」も「トレノ」も、それからマツダの「RX-7」も絶版になったんだよなー。いすゞの「117クーペ」や「ピアッツァ」に至っては、メーカーごと消えちゃった。あと日本のクーペでかろうじて残っているのなんて、日産の「フェアレディZ」くらいなもんか? 私なんぞが20代の頃は、若い男っちゅーのは、みんなカッコイイ車を求めて2ドア・クーペに乗ったもんですけどねえ。何せ2ドアですから、後部座席に乗り込むにしても、まず前の座席を倒さなきゃいけなかったりするわけですが、そういうことにしたって若い頃はそんなに面倒臭いとは思わなかったけどなあ。むしろその狭いクーペに野郎どもばかり4人ぎっちり乗って動いていると、そこに妙に強い連帯感が生まれ、何だかやけに気が大きくなってきて、別なグループが喧嘩を売ってきたら、おお! 上等じゃねえか、表出ろ! なんてことにもなりかねない感じでしたけどね。 ああいう若さゆえの血の気の多さっていうのは、その時は危なっかしいものですけど、振り返ってみればいいもんですな。そういう血の気の多い時代が自分にも確かにあった、と思い出せること自体が、今の自分の存在確認になるような気がする。 それに、「血の気」に関連して言いますと・・・、まあ私も教育者の端くれだけに、あまりこういうことは言ってはいけないのでしょうが・・・実は私は「暴走族」というのがさほど嫌いではないという・・・。ああ! 言ってもうた! 若い頃、夜中に一人眠れない時など、どこか遠くで暴走族がけたたましい爆音を立てて走っているのが聞こえてくると、ああ、この真夜中に起きているのは俺だけじゃないんだ、あそこにも誰か眠っていない奴らがいるんだという気がして、心休まる気がしたもんですよ。 それに一度、こんなこともありました。やはりその時も私は夜中に眠れずに悶々としていたのですが、何かの気配にベッドから這い出してベランダに出てみたんです。すると、全長200メートルくらいはあろうかという、ものすごく大きな編隊を組んだ暴走族の一団が、家の前の道路を静かに、ゆっくりと移動しているじゃありませんか。既にどこかでひと暴れしてきたと思しきその一団が、今は静かに移動している、その姿のきらびやかだったこと! 私は一瞬息をのみ、夢を見ているのだろうかと思ったほど、それは美しい光景でありました・・・。 あの光景を思い出すたびに私は思うのですが、ああいいうのをNYとかでやったら、「日本人をなめちゃいかんぜよ」という恰好のデモンストレーションになりませんかね・・・。 おっほん! ま、一般論から言えば、暴走行為はよくないことですので、良い子の皆さんは決して真似をしないように・・・。 しかし・・・それにしても2ドア・クーペがことごとく消滅した今、この頃の若い連中は一体何に乗ってるんでしょうか。若いうちからオートマのワンボックスに乗ってるようじゃ、「男」になれないんじゃないの? なんてちょっと思ってみたりして。 ま、そんなことを思うにつけ、インテグラ、惜しい車を亡くしました。さらば、インテグラよ! もし車にもあの世があるのなら、彼の地で究極のV-tec サウンドを響かせ、思う存分爆走しておくれ!
May 24, 2006
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五月だというのに毎日毎日雨なんか降っちゃって・・・。ただでさえ、この時期、何を着ればいいのか分からんっちゅーのに、このところの雨模様で、半袖を着るべきか長袖を着るべきかも分からないという・・・。まったく、寒いんだか暑いんだかはっきりしてくれい! ちなみに私の外国人の同僚たちは、既にこぞってクールビズに突入です。あいつら、日本人に比べて体温がよほど高いので、寒さには滅法強い割に、気温が20度を越えようものなら暑い暑いと大騒ぎ。彼らにとって日本の五月は完全に真夏なんですな。何を着ればいいかなんて悩む必要がなくて、羨ましいもんですわ。 もっとも、仕事の時はまだいいんですよ。私の場合、とりあえずスーツ、あるいはそれに準じたスタイルですから。問題なのは家にいる時。今頃の季節って、半袖のポロシャツだとまだちょっと寒いし、かといって何かを羽織るというほどは寒くはない、という感じでしょ? となると、たとえばTシャツを着て、上に長袖のシャツを羽織る、なんてのが標準的な普段着ということになる。 で、その長袖のシャツなんですが、あれ、どうやって着ればいいんですか・・・。 いや、もちろん分かってますよ。裾をズボンの外に出して、ビラビラ着ればいいんでしょうが。 しかし、どうも私には、あの着方がねぇ・・・、だらしないように思えて仕方がないんですなぁ。なんか、パジャマのまま外に出ちゃいました、みたいで、「隙だらけ」という感じなんですよね・・・。 その一方、もちろん、今どき「シャツ、イン!」はないだろう、ということも分かっている。そこに葛藤が生じるんだなー。 でまた、もう一つ問題なのは、私の体型です。実は私、日本人離れして胴が短いので(あれ? どさくさに紛れて自慢してます?)、シャツを外に出す着方をすると、シャツの裾がお尻を隠すどころか、もっと下まで行っちゃって、それはそれで格好悪いんですよね。まったく、足長お兄さんの私は、長袖シャツをどう着こなせばいいんですか・・・。 聞くところによると、名古屋近郊の「一宮市」というところでは、市の職員が毎週金曜日に普段着で執務する制度を取りやめたのですが、その原因は、職員の多くがシャツをズボンの外に出して着ていてるのを「市の職員にあるまじき格好である」と見咎める市民が多かったからだそうですね。やはり、私の世代より上の人にとっては、あの「シャツの裾ビラビラ」は許し難かったんでしょうな。 でも、クレームをつけた年長の市民の方々の気持ち、分かるなあ。やっぱり、あれはだらしないですよ。 40代前半という私の微妙な年齢は、若い世代のファッション・センスと、年上の世代の衣裳哲学のちょうど境目にあるので、長袖シャツの着方には、ほんと、悩まされます。 もうこの際、どんどん暑くなって、長袖シャツなんてお呼びでない、という季節に早くなってもらいたい! 長袖シャツ、嫌いだー!!
May 23, 2006
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今、私のところのゼミ生たちは就職活動の大詰めで、最終面接に通ったとか、内定をもらったとか、そういった報告が次々と寄せられています。 ちなみに、この2年くらい、我がゼミ生たちの就職活動は絶好調で、名のある一流企業からじゃんじゃん内定をもらっている模様。ええ! そんな会社に受かっちゃったの? と驚くことばかりですわ。いやー、こういう状況はほんの数年前までは考えられなかったですね。その頃には、まあ、就職が決まらないゼミ生ばかりで、9月とか10月とか、そんな頃まで就職活動している子がいましたし、正規の就職を早々とあきらめ、派遣で働くことを決意する子や、ワーキングホリデーで外国に行ってしまう子、あるいは専門学校に進学する子が多かったですから。特に専門学校に進学する子が結構いて、ついに「大学」は日本の最高学府の地位を「専門学校」に奪われたのかと、私を嘆かせたものでした。 それが、まあ何ということでしょう。最近の我がゼミ生たちの就職活動は連戦連勝で、まるでふた昔前のバブル期を思い起こさせるほどの状況です。たとえば「○京○菱○FJ銀行の内定を蹴ってどこか他の会社に就職する」なんて贅沢な選択をするゼミ生も結構いますからね。確かに名古屋地域ってのは、今、景気がいいのでしょう。自分の給料明細を見る限りにおいて、私自身としては決してそんな印象はないんですけど・・・。 で、今日も一件、旅行業界大手○TBの内定を蹴って、格安料金で有名な旅行代理店○ISに就職することを決めた、なんて報告を、あるゼミ生から受けました。へえー、今どきの学生は、選択肢が○TBと○ISだったら、後者をとるわけですか。ちょっと意外・・・。 で、その理由を聞いてみると、○TBの方はとにかく初任給が少なく、手取り15万円なのだそうで、これでは暮らせないというんです。一方、○ISの方はと言いますと、基本給が19万円、それに出来高に応じた額が加算されるとのこと。「私、負けず嫌いなので、頑張って契約沢山とって、それで同期の子たちより沢山お給料もらう方がいいと思うんです」と、そのゼミ生はニコニコしながら言っていましたが、企業のネームバリューよりも給料(と労働環境)の実質をとるその名古屋嬢魂に、私もちょっと感心してしまいましたよ。 しかし、景気がいいって言ったって、一流人気企業の初任給が15万円か・・・。親元から通勤するのならともかく、アパートを借りて自活するとなると、給料15万円ではいくらも残らないんじゃないですかね。ちょっと、ひどいなあ。労働者搾取なんじゃないの? ま、とにかく、一応、自分の希望する会社に内定をもらった連中は何だか嬉しそうで、おかげでゼミ全体の雰囲気も明るくなって、いいことでございます。 ただ、よく見ていると、そういう明るくキャピキャピしたゼミ生たちの中で、その雰囲気に少し乗り切れていない子もいるようです。多分、思うような就職活動ができていないのでしょう。就職活動の真っ只中にいると、希望の会社に入れるかどうかに自分の人生がかかっているような気になってしまうのでしょうね。元気のない子の目に、何だか焦りの色が窺えます。 でもね、仮に第1希望の会社に入れなかったとしても、そんなことは大したことではないんだ。内定をくれた会社こそが、その子にとって縁のある会社なわけで、そこに入って頑張ればいいんですよ。第一、希望する会社に入ったところで、どっちにしろ「働いて給料もらう」というのは、そんなに楽しいことではないのであって、辛きことのみ多かりきなんだぜ、と言ってやりたいもんです。 ま、元気のなかった子には、後で励ましのメールでも出しておくか・・・。 人さまの大事なお子さん方を「ゼミ生」として預るってのも、これで案外、気を使うものでございます。でも、もちろんそこが楽しいところでもあるんですけどね!
May 22, 2006
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大相撲夏場所が終わりました。幕内最高優勝は白鵬。優勝決定戦で雅山を下しての初賜杯でした。 今場所は開幕早々、横綱・朝青龍と綱取りの大関・栃東が休場となり、当然、優勝に最も近くなったのは白鵬でしたが、久々に「らしい」相撲を見せた大関・千代大海と関脇・雅山、そして新入幕・把瑠都が快進撃を続け、案外混沌とした優勝レースの様相に場所は大いに盛り上がりました。 しかし、このところ優勝争いに最後まで加わるまで地力がなくなってきた千代大海がまず脱落、また終盤になってさすがに新入幕らしい硬さの見えた把瑠都が雅山に破れると、優勝争いは白鵬と雅山との一騎討ちということに。どちらも初優勝がかかっていますから必死です。で、千秋楽の本割りは両者共に危なげなく勝ち、決定戦にもつれ込んだという次第。 ちなみに、正直なところ、私は雅山という力士がこれまであまり好きではありませんでした。「雅山」という優雅な醜名にも係わらず、相撲自体は何とも泥臭い突き押し相撲ですから・・・。それに大関から陥落して以来ずっと鳴かず飛ばずで、もう雅山の時代は終わりだな、と思っていたところもある。しかしここ数場所、割といい相撲が続き、上位の力士を食ったりするので、ちょっと見直してはいたんです。それに勝ち名乗りを受けている時、右手で右腿をポーンと叩く独特の所作も、このところ雅山の専売特許になってきた感じがありますしね。珍しいですよ、相撲をとる前ではなく、取った後に気合を入れる力士って。 とまあ、そんなこともあり、また日本人力士と外国人力士が対戦する場合、どうしても日本人側を応援したくなる私としては、今日の決定戦ではぜひ雅山に勝って欲しかった! 白鵬はこれから先、いくらでも優勝のチャンスはありますが、雅山の場合、今後そういうチャンスは何度もないでしょうから。 ・・・が、そんな私の期待も虚しく、優勝決定戦では白鵬が危なげなく雅山を破り、賜杯をかっさらっていきました。立ち会い、雅山もいい突っ張りを出しましたが、懐の深い白鵬を後退させるところまではいかず・・・。その後、まわしを取られ、組み止められてしまったら、もう雅山には攻め手がない。白鵬にじっくり取られて、おしまいです。嗚呼、残念。 しかし雅山、頑張りました。先場所10勝、今場所14勝ですから、来場所は大関復帰がかかります。今場所の悔しさをバネに精進して、来場所、また頑張って欲しいものです。一方、白鵬はこれで来場所、綱取りとなります。いよいよ白鵬時代の到来かな。大関レースでは琴欧州に後れをとった白鵬ですが、横綱レースではライバルに大きく先んじることになりそうです。 それにしても、朝青龍・・・。このところの稽古不足は誰の目にも明らかでしたが、それでも結果を出すことで、批判の矛先をかわしてきたところがある。しかし、白鵬がこれだけ強くなってくると、今後は以前のように毎場所優勝ということはできなくなるでしょう。実際、年6場所制覇した頃の相撲と、ここ数場所の相撲は全然違っていましたからね。それにしても朝青龍の稽古不足というのは、一体何なんでしょうかね。結局、「慢心」ということなのかしらん。ま、私としては朝青龍の下品な相撲が嫌いで、この人の全盛期がいつまで続くのかと辟易していただけに、これが案外早く終わりそうな気配に喜んでいるんですけど。 さて優勝争い以外の側面に目を向けますと、やはり言及せざるを得ないのは、私が「角界のレクター博士」と命名した把瑠都ですなあ。大銀杏も結えない新入幕力士が、千秋楽に優勝争いをしている大関と戦うなんて・・・。そんなこと、あり得んじゃないですか。でまた、ただ力が強いだけなのかと思いきや、これがそうでもなくて、案外相撲が分かっているんだよなー。たとえば差し手の返し方一つとっても、実に堂に入ったものでありまして、現時点で三役格の相撲ですよ。今日の白鵬戦にしても、白鵬が立ち会い左上手を取りに来ることは分かっているのだから、自分では上手にこだわらず、じっくり見て突っ張っていけば、私としては把瑠都にも勝機はあったと思うんですけどね。ちょっと勝ち急ぎ過ぎて大関の術中にはまってしまった。しかし、今場所を通じて彼の潜在能力はよく分かりましたので、来場所以降が楽しみです。横綱・大関の連中は要注意ですな。下手すると、レクター博士に「シュルシュルシュル」っと食われちまいますぜ。 さて、把瑠都の他に、となりますと・・・あまり見るべきものがなかった、かな。ま、強いて言えば豊真将という力士。今場所こそ怪我で負け越したものの、面構えがいいので、この先、ちょっと期待してもいいかな、という気になりましたけどね。でもあとは全滅。琴光喜は相変わらず雑な相撲でバタバタ前に落ち、千秋楽でようやく勝ち越す体たらく。若の里も周囲の期待を裏切ることにかけてはベテランの域に達してきました。旭鷲山は珍しく大勝ちしましたけど、この人と旭天鵬、そして玉乃島の三人は、大勝ちした翌場所は大負けするという繰り返しですから、今場所勝ったからといって来場所に期待はできません。 また腕を痛めて負け越した安馬に関しては、その正攻法の相撲を誉める人が多いし、私もなかなかいいと思うのですが、相撲ってのは勝たなきゃしょうがないので、正攻法の中にも工夫を凝らさないといかん時期に来ているのではないかと思います。 一方、人が大物と褒めそやす稀勢の里ですが、私はどうもピンとこない力士でありまして、この人が大成するところが想像できないんですよね。妙に気合は入っているけど、相撲自体のスケールが小さいと言いましょうか・・・。精一杯上に上がって大関止まり、いやそこまでも行けるかどうか、というところじゃないでしょうかね。もっとも彼はまだ若いので、これから先大化けするかも知れませんから、あまりひどいことは言わないでおきましょうか。ちなみに、彼に比べれば、ライバルの琴欧州は、怪我さえ治ればもういっちょ上に行ける素材ですな。今場所の琴欧州は、先場所からの足の怪我を引きずって精彩がなかったですけど、ま、彼も来場所以降ですな。 さて、5月場所が終わると、次は7月、暑い暑い名古屋場所がやって来ます。名古屋場所になると、私の住む名古屋周辺でも街中でちらほら力士の姿を見かけることがあったりして、なかなか風情があるんですよ。それに名古屋場所が始まると、大学ももうすぐ夏休み、という感じもしてきますしね。 てなわけで、今から名古屋場所が待ち遠しいワタクシなのでありました。大相撲ファンってのは、気が早いものですからネ!
May 21, 2006
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4月の下旬に行った学会で、私はあるシンポジウムに司会兼講師として参加していたのですが、そのシンポジウムで私が発言したのは、「文学研究者よ、もっと大衆化せよ」ということでした。 よく「研究職に就いている」というと、「いいですね、好きなことばっかりやれて」なんて人から言われるのですが、それは大きな大きな誤解でありまして、学者というのは、実は自分の好きな研究ばかりやっているわけではないんです。 たとえば、まず勤務先の大学で「授業」をやらなければならない。それも、自分の専門の授業だけをやるのならいいですが、必ずしも専門の授業ばかり持てるばかりではありません。私だって、専門は「アメリカ文学」ですが、勤務校では「アメリカ文化概説」もやれば、「アメリカ映画論」もやれば、語学としての「英語」もやります。ということは、それらの授業をするための予習というのが必要なわけで、自分の専門外の本も沢山読まなくてはならない・・・。 それから「学会活動」も時間をとられることの一つですね。たとえば学会の方から、ある本を書評してくれと言われれば、当該の本を読んで書評しなければならない。その他、学会の運営に携われば、それはそれで膨大な時間をとられてしまいます。 また、これらに加えて種々の雑用がある。たとえば勤務先大学での「委員会」なんていうのがそれに当たりますが、これがモノによってはすごく時間をとられることがあるんですな。 というわけで、学者もなかなか忙しいんですよ。ですから、どうしても自分の研究のための時間には、研究に必要な本しか読まなくなってしまったりするわけ。つまり、自分の研究に差し当たり関係のない本は読まない、というふうに、どうしてもなってしまうんです。 これがいわゆる「専門バカ」への道であります。もちろん、超人的に能力のある研究者であれば、そういう限られた時間の中でも幅広い読書をしていますけど、私を含め、普通の研究者レベルでは、なかなかそういうわけにもいかない。「専門じゃないので、よく知りません」というセリフが、大手を振って通用してしまうんですよ、この業界では・・・。 でも、そういう状況って、他の文化研究のジャンルではあまり通用しないんじゃないかと思うんですよね。 たとえばアメリカ映画の研究者がいたとして、「私はジェームズ・ディーンの映画が専門ですから、『ダ・ヴィンチ・コード』は見ません」と言ったとしたら、それは多分通用しないんじゃないかと思うんです。その場合、やっぱりジェームズ・ディーン映画に限らず、古いところから最新作に至るまで、とりあえず色々見てないとまずいでしょ? 映画評論家って、そういうことですよね? とまあ、そんな思いもあって、先日のシンポジウムでは、「我々アメリカ文学研究者も、もう少し大衆小説なんかも読んだ方がいいんじゃないの? そして、あんまり仲間内の言葉ばかり使わず、一般の人が分かる言葉で、アメリカ文学の魅力を語った方がいいんじゃないの?」というような趣旨のことを、私は発言したんですね。 しかし、こういう発言は、もちろん諸刃の刃でありまして、「なら、自分からやれ」と言われることは当然、覚悟の上です。 というわけで、このところ私は、文学史には絶対に載らないような、ベストセラー的な大衆小説を、時間を見つけてはちょこちょこ読んでいるんです。ちなみに今読んでいるのは、Grace Metalious という人(女性)の書いた大ベストセラー小説『Peyton Place』。 で、これが・・・面白い! うーん、やっぱりベストセラーって、ベストセラーになるだけのことはありますね。私はこれまで、一つの方針として「ベストセラーは原則として読まない」ということを守ってきたのですが、少なくとも自分の研究対象であるアメリカのベストセラー本に関しては、この原則をとっぱらって、あれこれ読んでみようという気になってきましたよ。その意味で、少なくとも私にとっては、シンポジウムに参加したのは良かったかな。有言実行したおかげで、今まで自ら閉ざしていた世界が、目の前に広がりましたからね。 さて、それではこれからまた少し、この本の虜になってくるとしますか。それでは、皆さんも、よい週末をお過ごし下さい。
May 20, 2006
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今日は家内を連れて、刈谷市美術館というところでやっている「トロースドルフ絵本美術館展:赤ずきんと名作絵本の原画たち」という展覧会を見に行ってきました。 しかしその前に腹拵え、ということで、美術館へ向かう途中、刈谷市のお隣の豊明市にあるロシア料理店「甘藍(かんらん)」というところで昼食をとることに。ここ、前にインターネットで発見して、一度行ってみたいと思っていたんです。ロシア料理なんて、なかなか専門店で食べることがないですからね。 で、豊明市役所の近くにあるそのお店は、大きな道から少し入ったところにあって、ランチはA:壺焼きシチュー&ピロシキ、B:ビーフストロガノフ、C:ロールキャベツ、の3種類から選べます。値段はどれも1000円で、どのメニューにもサラダと飲み物が付きます。で、この中から私たちが選んだのは、壺焼きシチュー&ピロシキ、そしてロールキャベツ。 で、待つことしばし。出てきた料理を見ると、なかなかおいしそうです。ロシア風ミートパイともいうべきピロシキは、予想していたよりよほどあっさりとしたもので、油っぽさは皆無。また壺焼きシチューの方は、キノコの風味豊かなクリームシチューの入った壺の上の部分をパイ生地で覆い、それをオーブンで焼いたもので、ふっくらと焼けたパイをシチューの中に落とし込みながら食べるという趣向。一方、ロールキャベツはと言いますと、かなり長時間じっくりと煮込んであるらしく、肉もキャベツもとろとろになっています。これを添えられたご飯、あるいは同じく添えられたライ麦パンと共に食すわけ。 かくして、ピロシキ、シチュー、ロールキャベツの3つの料理を家内と二人で分け合って食べたわけですが、そのおいしさは・・・ 味のペレストロイカやーーー! ま、本当のことを言いますと、ロールキャベツに塩味が少し足りず、その点で少し減点はあるのですが、それにしても、たった1000円で本格ロシア料理が食べられたのですから、まあ合格ということにしておきましょう。食後に供された「ロシアン・コーヒー」もおいしかったですしね。紅茶にジャムと少量のお酒を入れる「ロシアン・ティー」は飲んだことがありますが、ロシアン・コーヒーというのは今回初めて。ふちに砂糖をつけたグラスに熱いコーヒーを注ぎ、そこに生クリームをたっぷりと、しかも静かに注ぎ入れ、コーヒーの色とクリームの白い色が2層になるようにしたものなんですが、こってりとしていて、寒い国のコーヒーたる趣がありました。BGMとしてロシア民謡(「恋人よこれが私の、一週間の仕事です、しゅらしゅらしゅらしゅらしゅらしゅらしゅららー、しゅらしゅらしゅらしゅーらーらー」みたいな奴)がガンガンかかっている中で飲めば、なおさら、ね。 さて、お腹が一杯になった我ら夫婦は、いよいよ次の目的地である刈谷市美術館へ向かうことに。ここは市が経営しているさほど大きくない美術館なのですが、学芸員がいいのか、時々思わぬ企画を立てて良質のアートを見せてくれるので、私も一目を置いている美術館なんです。ちなみに今回の「トロースドルフ絵本美術館展」は、例の「日本におけるドイツ年」の一環で行われているもので、その意味では、前にこのブログでもご紹介した「ケーテ・コルヴィッツ展」と同じですね。なんか私、ドイツ年を堪能しているなぁ・・・。 ま、それはともかく、今回の展覧会の目玉は、ずばり、「赤ずきん」です。「赤ずきん」にまつわるものなら何でもコレクションしていたヴァルトマン夫妻という方がいらして、このご夫妻がこの絵本美術館に「赤ずきんコレクション」を寄贈したんですな。で、それ以来、この絵本美術館もまた継続して赤ずきんにまつわる本・絵本・グッズを精力的に集めてきた、と。そして今回の展覧会では、このコレクションの中から350点ほどを見ることができる、というわけです。 なーんだ、『赤ずきん』なんてガキの読むもので、興味ないや、と思われたそこのあなた! そもそも赤ずきんの物語をご存じですか? 赤ずきんがおばあさんに扮した狼に食べられちゃうけど、あとから猟師さんがその狼の腹を割いて、おばあさん共々助けられる話だろ、ですって? うーん、正解は正解ですけど、それはドイツの「グリム童話」バージョンですね。それ以前にフランスの「シャルル・ペロー」バージョンというのがあって、こちらでは赤ずきんは狼に食べられたままなんだそうですよ。つまり、ペロー・バージョンでは、「赤ずきん」というのは女性の処女性の象徴なのであって、その教訓とは「不用意に知らないところをウロウロしていると、狼(=男)に食べられてしまって取り返しがつかないことになるから、大切にすべきものは大切にしなさいネ」、ということなんですな。もっとも、このペロー・バージョンがオリジナルかというと、そういうわけでもなく、ペローもまた民間伝承として伝わっていた様々な形の赤ずきん物語を、自分なりにアレンジして採録したんでしょうけどね。 で、そもそも話の筋の基本的なところからして、かくのごとき相違があるわけですから、その後、世界中で数限りなく出版された「赤ずきん」の本や絵本にも、数限りない相違があるのは無理のないことでしょう。たとえば今回の展示を見ると、赤ずきんちゃんの年齢設定にしても、ほんの童女に過ぎない赤ずきんがいるかと思えば、思春期っぽい赤ずきんもおり、果ては乳飲み子を抱えた赤ずきんまでいるというのですから面白い。また赤ずきんちゃんが被っている「赤い頭巾」にしたって、絵本によって「頬被り」風あり、帽子風あり、ヘルメット風あり、マント風あり、と色々です。 さらに、もう一方の主人公である「狼」の描き方にしても、やたらにリアルなものもあり、擬人化されて二足歩行する狼もあり、アニメのようなコミカルな狼もあり、といった具合。こうなってくると、どの国の、どの時代の、どの出版社の『赤ずきん』を読んだかによって、赤ずきんに対するイメージも千差万別ということになります。ほら、そう考えるとなかなか面白いでしょ? というわけで、一口に「赤ずきん」といっても、色々あるんだなー、ということを教えられて、私としても結構面白かったですよ。 でまた、そのことに関連してここであらためて思うのは、「学問の基本は、コレクションにあり」ということですね。なんとなれば、「コレクション」をして、様々な赤ずきんバージョンが存在する、ということに気づいたところから、ようやく比較・対照が始まり、相違点の特定が始まり、分析が始まるのでありますから。 ・・・なーんて、我ながらイイコト言うなあ! ホレボレしちまうぜ。 実は、かく言う私もまた、ある種の本のコレクションをしているのでありまして、今回の展覧会を見たことによって、そのコレクション魂が活性化されました。おーし、ますますやる気が出てきたゾ! ここしばらく、そちら方面の仕事に手を着けていなかったけれど、またちょっとそちらの方に手を広げてみようかな。 ・・・あー、ところで、これだけ偉そうなことを言った後で言うのもなんですが、実を言いますと、今回の展覧会で私が最も心惹かれたのは、上記の様々な赤ずきんコレクションではないんです(何だ、違うのかよ!)。私が最も心惹かれたのはですね、展示室でいうと「第2展示室」になるのかな? そこに展示されていた諸作品、とりわけ著名な赤ずきん画家の一人であるビネッテ・シュレーダー女史が、赤ずきんコレクターのヴァルトマン夫妻に書き送った手紙と、そこに描かれた様々な「赤ずきん関連イラスト集」なんですな。これはもう、えも言われぬほどカワイイ赤ずきん(&狼)のオンパレード。複製でもいいから欲しい!と、つい思ってしまいました。しかもこれらの作品の中には、たとえば「狼の前でストリップするおばあさん」なんてイラストもあって、あろうことか、あの赤ずきんちゃんのおばあさんが、ソファーにどっかり座って葉巻をふかしている狼の前で、軽やかに、そしてコケティッシュに、ストリップしている様子がユーモラスな連続イラストで描かれていたりする。これ、はっきり言って、最高です。 とまあ、そんなわけで、今日は珍しいロシア料理専門店でランチを食べ、さらに「赤ずきんコレクション、その他」に大いに啓発された午後を過ごすことができたのでした。名古屋周辺にお住まいの方でこのブログをお読みの方がいらっしゃいましたら、刈谷市美術館の「トロースドルフ絵本美術館展」、ぜひ一度足をお運び下さい。会期は今月28日までですよー。
May 19, 2006
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お昼のニュースで、古本業界大手・ブックオフの新社長が決まったという話題が取り上げられていました。 で、ちょっと驚くのは、新社長となった方は、十数年前に時給600円のパートとしてブックオフに勤め始めたおばちゃんだったこと。ほ、ほう、って感じでしょ? このおばちゃん、お昼の連ドラ見てても時間の無駄だし、少しでも家計の足しになればとパート勤めを始めたらしいのですが、なんでも一生懸命やる質の人だったらしく、お店を少しでも良くしようと、つい頑張っちゃったんですね。たとえば客から買い取った古本の清掃のために使う紙ヤスリにしても、彼女が試行錯誤の結果、最も適した紙ヤスリを発見し、それが今では全店舗で採用されているのだそうです。 また、店長に任命されたお店の売れ行きが思わしくなかった時、閉店を決意した社長を説得し、この店に勤める店員の士気を高めることで危機を乗り切ったのだとか。彼女曰く、「中古品流通業では、店員の資質が売り上げを大きく左右する」のだそうで、まさに彼女は部下の店員の意識改革によって、溌剌とした感じのいい店にすることだけで、売り上げをアップさせたんですな。 もちろん、そういう彼女の方針に、部下の店員たちが休日返上で応えたというのですから、人望もあったのでしょう。テレビ画面上で見た限りでは、あまりバリバリとした感じも、ガツガツした感じもない、ごく普通の人当たりのいいおばちゃんでしたが、そこがまた良かったのかも知れません。 ちなみに、もう一つ驚いたのは、このおばちゃん、タレントの清水国明さんの実姉だということ。ブックオフのテレビ・コマーシャルに清水さんが登場している理由がこれで分かりました。 とにかく、そんなパートから叩き上げのおばちゃんが、社員6000人の会社のトップになっちゃったというのだから、なんだか古本業界の秀吉みたいですなあ。また、彼女をトップに据えたブックオフの創業者にしたって、古い体質の古本業界からの風当たりの強い中、ブックオフを全国800店舗以上のチェーン店に育て上げたという意味では、信長的なところもあるし。 ま、パートのおばちゃんから社長へ、というのは、この世知辛い世の中にしては、なかなか面白いニュースでしたね。ライブドアとか村上ファンド的なM&A手法の真逆を行く出世物語ですもん。「一生懸命やれば、業種によっては、私も一国一城の主に・・・」なんて、思わせてくれますからね。 ところで・・・せっかく社長が代わったのだから、これを機に一人の古本好きとして、ひとつブックオフに注文を出しておきましょう。それは何かと言いますと・・・ 日本全国・全店舗を同じ作りにしないで、何店舗かにひとつでもいいから、「プレミアム・ブックオフ」を作ってくれ! で、そこでは買い取りは行わず、漫画やゲーム・ソフトや写真集の類は一切置かず、またできればハウツーものなんかも置かないで、大人の鑑賞に耐える本だけ扱ってくれ! そして、その店舗では内装もリッチにし、店内を薄暗い照明にし、洒落たジャズでもBGMとして流してくれ! また客が店に入った途端、「いらっしゃいませーー!」の大合唱もやめてくれ! ついでに店内にスタバ的なコーヒー店を併設し、買った本をそこでちょっと読めるようにしてくれ! 要するに、本好き・古本好きな大人のための居場所を作ってくれ!! ・・・そして、何だったら、ワタクシ・釈迦楽をそこの店長に雇ってくれ! (あれ、この人、叩き上げの次期社長になるつもりだよ・・・ヤダネー!) ・・・バレちゃあ、しょうがねえ・・・。
May 18, 2006
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今授業でシェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』を読んでいるんですが、後にシーザー暗殺に係わるブルータスが、シーザーを暗に指して「あんな奴がローマの王になるくらいだったら、ローマ市民であることをやめ、田夫野人にでもなった方がマシだ」とほのめかすシーンがある。 ところで、我が日本でも小泉さんの後継選びが人の口の端に上るようになってきて、安倍・福田の両有力候補に加え、泡沫候補の名前もチラチラ出始めました。ま、それはいいとして、私がちょっと驚いたのは、ま、誰とは言いませんが、これまた政治家一家の出の若手議員で、総裁選に出よう、などと言っている人がいることです。 で、なんで私が驚くかというと、この人、私の中学時代の後輩でして・・・。で、これがまたとーってもパッとしない子だったんですーー。あの何をやってもヘマばかりの、のっそりした木偶の棒君が、親譲りの票田を背に国会議員となり、今回はともかくこの先、万が一にでも我が国の首相にでもなったらと思うと、やっかみ半分、ちょっとブルータスの心境にもなります。と言って、実はこの木偶の棒君なんかはまだいい方で、私の通っていた小・中学校は政治家の息子が結構いたのですが、そのほとんどがもう揃いも揃って品性下劣な不良ばかり。それが今では自民党の中でも相当な中堅どころになっているんだから世も末です。ま、イギリス名宰相チャーチルだって、子供の頃は劣等生だったと言いますから、彼らだってひょっとすると大人になっていい人間になったのかも知れませんけどね。 しかし現首相を含め、総裁候補がほぼ全員、政治家の息子・孫・曾孫という状況、つまり日本の政治が実質的に世襲制になっているというのは、あまりよくないんじゃないでしょうかね。もっとふさわしい人がいると思うのですが。 たとえばワタクシとか・・・。 おっほん。ワタクシが首相に就任したアカツキには、まずエネルギー革命を提案・実行しますね。原発はすべて廃止の方向で。で、新築の住宅やビルや公共の建造物の屋根や壁面には、すべて太陽光発電システムをとりつけることを義務づけます。ソーラーパネルの色は地域によって変えることにし、街並みの色に統一感が出るようにしてね。なーに、日本の家屋やビルなんて、30年も経てば総取っ替え状態なんですから、あっと言う間に相当量の太陽光発電ができるようになりますよ。 それから車の動力も、すべてフューエルセル・モーターに転換し、そのための開発とインフラ整備に着手する。フューエル・セルなら排気ガスは単なる水ですし、動力源が水素なら、それこそ無尽蔵ですからね。また一般家庭にも天然ガスから水素を取り出す方式でフューエル・セルを普及させ、太陽光発電と合わせて、日本の電気エネルギー事情を化石燃料依存の状態から脱却させます。 次は刑法の改正だな。もう年齢なんか関係なく、犯した犯罪が同じであれば、等しく厳罰。死刑は廃止する代わりに、終身刑を導入して、反社会的な人は一生社会から追放。ただ希望者があれば、世界各地で地雷堀りのボランティアをさせ、掘り出した地雷の数に応じて、罪を軽くする。軽犯罪にはシンガポールみたいに「鞭打ち刑」を導入。道端にゴミを捨てたガキなんかは、お尻ペンペンです。痴漢なんかは「私は痴漢です」というプラカードを首からぶら下げて、渋谷の雑踏に立たせましょう。 民法では、何はともあれ、相続税を廃止します。で、直接税は安くして、間接税(消費税)を大幅アップする。実質サラリーマンだけが重く負担している直接税を軽くし、国民が公平に負担せざるを得ない間接税の税率を上げた方が、絶対に税負担の公平化になりますから。 それから、教育関係。現在ほぼ10割が高校進学しているのを止めにし、高校進学は国民の5割くらいにしちゃいましょう。義務教育を終えたらさっさと社会人になるようにする。ただ専門学校をもっと充実させてね。大学進学率は今の半分以下、国民の5人に1人くらいでいいですわ。小学校での英語教育なんてナンセンスなので、もちろん止めさせますよー。 外交? 八方美人外交なんぞ止めて、日本と仲良くしたい国とだけ付き合いましょう。近いところにある国だから、どうしても仲良くしなきゃいかんということもない。また国連には、もう金を出すのは止めます。それだけでなく、日本に外交的メリットのないことに、金を支出するのは一切止めます。お金は上手に使わなきゃ。 ・・・なーんてね。いかがです、釈迦楽泡沫候補の政治信条は? ほんと、政府がこうしてくれりゃーいい、と思うことは沢山ありますが、なかなかそういうことを主張してくれる政治家も政党もありませんなあ。よく世論調査なんかで、「支持する政党はありますか」なんていう項目がありますが、支持するも何も、支持するかどうかを決めるとっかかりになるような話題すら振ってくれないんだもの、誰もがみんな「無党派層」になりますよ。 ま、どうせ誰がなっても同じなんですが、9月の総裁選、どうなるんでしょうかね。でも、とにかく、私が直接知っている3世・4世議員たちの出馬は、パスしてもらいたいなー!
May 17, 2006
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サッカーの日本代表が選出され、いよいよWカップが近づいてきたという感じがしますね。 ところでサッカーと言うと、いつも私は思うのですが、たとえば一人の選手がボールを受けたら、その選手を味方選手が十重二十重に取り囲んで護衛し、その集団のまま相手ゴールにゆっくり近づいていって、そのままゴールになだれ込むというのでは、ダメなんでしょうか? なまじパスしたりするから相手ディフェンスにボールをインターセプトされちゃうので、最初から「パスはしない」方針で行けばいいのでは? その場合、護衛用の選手には、日本が誇る「フィジカルに強い」連中、つまり力士を使うわけですよ。そういうのはルール違反なのか知らん? さて、それはともかく、楽天ブックスで注文しておいた千葉敦子著『ニューヨークの24時』が今日届きました。で、夕食後、ざっと半分くらい読み終わったのですが、まあ予想していたような本でしたね。つまり、そこそこ面白い、という意味ですが。 この本、故・千葉敦子さんが、ニューヨークでフリー・ジャーナリストとして生きてきたその経験を踏まえながら、取材・調査・情報整理・執筆・息抜き・健康管理・・・といった、ジャーナリストとして生き延びるためのノウハウを縦横に語りつつ、さらに24時間眠らない街・ニューヨークの魅力を語り尽くすという趣向なんです。 ところで、この種の本というのは「時代性」というか、「タイムラグ」という弱点から逃れることはできません。千葉さんのこの本にしても、それが書かれたのは1986年で、今からちょうど20年前ということになる。ですから書かれていることのところどころに、時代を感じさせるところがあるんですね。たとえば、「日本人は手書きが好きで、プロのジャーナリストでも今だに手書きで原稿を書いている人がいるけれど、ワープロを使えばもっと早く書けるようになるのだから、早くワープロに習熟すべきだ」なんて趣旨のことが書いてあったりする。もちろん、今どきのジャーナリストがパソコンを使っていないはずはないので、千葉さんの先進性は認めつつも、この種のアドバイスに関しては、それが現代を生きる我々にとって参考になる、というものではありません。 また、「ジャーナリストの朝は、新聞の切り抜きから始まる」、みたいなことが書いてあると、今のようにインターネットが普及している現在、昔ながらの切り抜きというのは、果たして有効なのだろうか、などとちょっと思ってしまったりして。 ま、そんな調子で、ところどころに時代の古さを感じるところはあるんです。が、それ以外の部分に関しては、今読んでもとても興味深いし、千葉さんのニューヨーク生活の充実ぶりには、ただただ目を見張るばかり。 何に目を見張るかというと、やはり「時間の使い方」が日本人離れしてエネルギッシュ、ということですね。とにかく、時間を無駄にしない、というのが千葉さんの習い性なんです。 いや、それは千葉さんの習い性、というより、ニューヨークの習い性、と言った方がいいのかな? ニューヨークのエグゼキュティヴは、朝8時にはエンジン全開で働いているといいますから、そういう連中をつかまえてインタビューする、なんてことになると、彼らが働き始める直前の10分、15分という時間しかないわけ。そういう時間でツボを押さえた取材をするとなれば、それはもう事前の調査が十分でなければならないし、「~についてどう思いますか?」なんてアバウトな質問ではどうしようもない。ですから、こういう街で、しかも収入は自分が書いた記事の印税だけなんて状態で生きていくとなれば、時間の使い方だって必然的に研ぎ澄まされた、エネルギッシュなものにならざるを得ないのでしょう。 でまた、のらくらしていたらサバイバルできない街であるだけに、そこに生きる人々の厳しい日常をサポートする環境が整っているんですな、ニューヨークってところは・・・。たとえば食生活にしたって、毎日凝った料理なんて作っている暇はないので、時間のある時にある程度まとめて料理し、できた惣菜を巨大な冷凍庫で保存して、必要に応じてそれを解凍して食べる、というような効率的なものにならざるを得ないわけですけど、そういう単調な食生活をサポートするように、ニューヨークの街では、毎日どこかしらで新鮮な野菜や果物の市が立つ。ですから、仕事帰りにそういうところにちょっと立ち寄れば、たちまち身体にいい生鮮食品を簡単に手に入れることができるわけ。 また仕事面でも、ニューヨークでは公共図書館が充実していて、しかもそこに勤めている司書が飛び切り有能なので、ジャーナリストとして何か調べ物をするとなれば、これほど恵まれた環境もない。 さらに仕事の後のお楽しみもふんだんにあるんですな。たとえば14時間ぶっつづけで仕事した後、夜11時開演のお芝居を見に行くこともできたりする。それに彼の地では各種パーティーがやたらに開かれますから、気が向けばそういうところに参加して、楽しむこともできるし、人脈を広げることもできる。 とまあ、ニューヨークという環境が提供してくれる様々な便宜を最大限活用しながら、そこでフリー・ジャーナリスト千葉敦子がいかに生きてきたか、ということが、この本を読むとよく分かります。その充実度たるや、単なる読者である我々まで、何だか楽しくなってくるような感じですから、ジャーナリストとしてのノウハウがどうのこうということよりも、「俺もうかうかしてはおれん! 千葉さんみたいに頑張らねば!」という気にさせるところにこそ、この本の価値があるのかも知れません。私のようなのらくら者にはふさわしい、いわば「カンフル剤」のような本ですな。 ま、とにかく、まだ全部読み終わったわけではありませんが、『ニューヨークの24時間』というこの本、上に述べてきたような意味で、なかなか面白いです。文筆業を目指している人はもちろんのこと、ただ単に「ニューヨークでの生活」なーんてものに漠然と憧れを抱いている人にも、教授のおすすめ!と言っておきましょう。なーに、「漠然とした憧れ」と言ったって、馬鹿にしたもんでもありません。そこからスタートして頑張ればいいんですから。 ・・・しかし、それにしても、ちょっと千葉さんは忙しすぎたんじゃないでしょうかね。この本の冒頭で千葉さんご自身、人間というものは「忙しくしている人」と「暇な人」に二分され、自分は明らかに前者であって、こういう忙しい人間に「もう少しリラックスしろ」といっても無駄だ、と書かれていますが、千葉さんにはそういうふうに忙しくも充実した生活をされた挙げ句、癌に倒れて早世されてしまった。それは残念なことだけれど、早死にする人というのは、やはりそれだけ人生を早回しで生きなければならなかったんでしょうな。それに引き換え、きっと私のようなのらくら者は、のらりくらりと仕事して、無駄に長生きするのでしょう。 ま、「忙しくしている人」と「暇な人」、それぞれ、そういうふうにしか生きられないということなんでしょうけどね。
May 16, 2006
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先日から風邪で体調を崩していた家内ですが、ついに止まらない咳に耐えきれず、今日の夕方、私が行ったのと同じ病院に行きました。診断の結果、風邪を通り越して気管支炎になりかけているとのこと。だから僕が言ったじゃないの。僕の言うことを聞いてもっと早く病院に行ってたら、そこまで悪化しなかったんだって。家内の場合は、「気管支炎」じゃなくて「聞かん子炎」ですよ。 で、たまたま私が大学から帰るのと、家内の診察が終わるのがほぼ同時だったので、私がちょっと病院に寄って家内を引き取り、帰りがけにそのまま夕食を食べて行くことにしました。これから作るのも大変そうだったのでね。 とはいえ、今日は別に豪勢に外食する気もありません。手軽にさくっと食べられればそれでいいわけ。で、そういう場合にうってつけの場所があるんですよ、家の近くに。その名も「高針食堂」。「高針」というのは地名で、「○○食堂」というチェーン店の高針店、という意味なんです。 で、ここはちょっと昭和初期風のレトロな感じの店構えで、要するに和食のカフェテリアなんですね。つまり、客は棚に置いてある何種類もの惣菜の小皿を好きなだけ選んで取っていき、最後にご飯と味噌汁類を受け取って会計を済ます、というセルフサービス・システム。ま、いわば大学の学食とか、一般の会社の社員食堂みたいな奴の、一般ピープル版ですわ。もちろんそんな風ですから、値段はきわめて庶民的。しかも、沢山の惣菜の中から自分の食べたいものを選べるようになっているので、体調が優れず、あまりしつこいものが食べられない今日の家内としても、それなりにあっさりしたおかずをピックアップできるわけ。 というわけで、家内はイカと大根の煮物とメンチカツとオクラの小鉢、私はすき焼き(with 温泉卵)に野菜炒めを取り、これにご飯(家内は小、私は大。でも値段は同じ)と味噌汁をつけて、二人分で1200円弱! 安い! ちなみに「振りかけ」はお好みで自由にかけていいので、たっぷり振りかけちゃいましたー。 しかし、こういうカフェテリア形式って、楽しいですよね。あれも食べたい、これも食べたいという感じになってしまって、目移りしてしまい、食べられる分だけ選び取るのがひと苦労。つい取り過ぎてしまいそうになるのでね。で、今日食べたものにしても、家庭的な味付けで、どれもそれなりにおいしかったですー。 で、満腹して人心地ついたところであたりを見渡すと、サラリーマン風の人が一人で食べていたり、年配の御夫婦が二人向かい合って食べていたりするのが散見されます。なるほど、独り暮らしのサラリーマンなんかですと、会社帰りにこういうところで食べて行けば面倒がないし、野菜なども適当にとれるので、きっと好都合なのでしょうね。また子供が仕上がって二人暮らしに戻った年配の夫婦なんかだと、今日はちょっと手抜きしてここで食べましょう、なんてことにもなるのでしょうな。庶民的でレトロな和食のカフェテリアというのがそこそこ繁盛しているというのも、分かる、分かる。 一方よく分からないのは、ヤンママ風の若いお母さんが、こういうところに小さな子供を連れて来て食べさせているケース。しかも自分はケータイか何かにうつつを抜かし、ようやく箸が使えるぐらいの小さな子供が汚らしく食べ汚しているのを放りっぱなしにしているという・・・。あのね、あなた、子供の養育の基本は「食」ですよ! それを他人任せにして・・・。その子が大きくなって、グレちゃっても知らないよ。それに大体この時間、あなたのご主人はどうなっているの? まったく・・・。 ・・・ま、人生いろいろですわ。 てなわけで人生の諸側面を眺め、納得したり腹を立てたりしながら、庶民的な食堂での夕食に大満足した我ら夫婦だったのでした。たまにこういうところであっさりとご飯を食べるというのも、面白いもんですな。でも、ま、明日は家内にも元気になってもらって、手作りのおいしい夕食を食べさせてもらいたいもんです。 でないと、グレちゃうぞ。
May 15, 2006
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今日もまた一日、本を読んで過ごしました。読んでいたのは『回想するヘンリー・ミラー』(水声社)という本です。 この本、ヘンリー・ミラー本人が書いたものではなく、彼の晩年に彼の家で4年間にわたって家政婦を勤めたトゥインカ・スィーボードという女性が、折に触れてなされたミラーの座談を書き留めたものなんですね。ですが、最終的にはミラーも原稿をチェックし、しかもその原稿を雑誌に売り込んだりもしたようですから、半ば彼の作品と言ってもいい。それでいて基本的には座談を書き留めたものですから、そこで語られている話題の一つ一つは短く簡潔で、とても読み易いんです。読んでいると、身振り手振りを交えて語っているミラーの姿が目に見えるようです。 座談の内容は様々です。「ぼくのドイツ的特質」「我がカウボーイ時代」「初めてペンで稼いだときのこと」「ビッグ・サーに移り住んだきっかけ」といったような自分自身にまつわるエピソードを語るときもあれば、「画家」「後悔」「野心」「死について」「愛について」といったテーマに沿って話をしている時もある。しかし、それらにも増して面白いのは、ミラーがその人生の中で出会った様々な人々にまつわるエピソードや人物評を語っている部分です。 たとえばミラーの人生を変えるきっかけともなった無政府主義者エマ・ゴールドマンとの出会いや、ミラーにとってのファム・ファタール(運命の女)であるジューンとの出会いと別れ、さらに彼のフランス時代のパトロンでもあったアナイス・ニンへの辛辣なコメントなど、彼の人生を彩る様々な女たちの話題も面白いですし、彼が敬愛して止まないフランスの作家ジョルジュ・シムノンや俳優チャーリー・チャップリンなどとの楽しいエピソードもいい。そうかと思えば、たとえばピカソを語っている座談では、「人間としては嫌な奴だった」とこきおろしていたりして、ほうと思わされたりもします。 また、座談の話題が何であるかを問わず、ところどころでいかにもミラーらしい節回しが聞かれるのも面白いところで、たとえば「友情」と題された座談はこんな調子で始まります: とくに強調しておきたいのは、友人に対するぼくの態度に二重性があることだよ。いいやつだと褒められていても、そういったことにはまったく不誠実でね。僕は彼らの陰口をたたき、批判をし、欠点や弱点をからかった。本当のところ、最初にぼくの注意をひくのは、彼らの欠陥だったから。おかしなことだけど、僕を惹きつけるものがまずそれだった。ぼくは悪漢や悪党には、すこぶる好感をもっているよ。やつらにはいわば、ぼくと同じ種類の、同じ色合いのものがあるからね。(48ページ) で、ミラーはこれに続いて親友アルフレッド・ペルレスとの次のようなエピソードを紹介しているんです。それによると、ペルレスがスペインのイビサ島で執筆活動をしていた時、お金がなくて困っているというので、ミラーが何とかしてやろうと、ペルレスの窮状を訴えるパンフレットを書き、それを様々な有名人に送って金の無心をした、というんですな。で、それに応じて、アンドレ・ジッドやオルダス・ハックスレーといった有名人たちが実際に金を送ってきてくれた。ところがミラーはその金をペルレスに送金せず、ちゃっかり自分で使っちゃった、というんです。で、あとからペルレスが「あの金は・・・」と問い合わせてきたので、ミラーは正直に自分が使い込んだことを告白したんですって。しかし、ペルレスはそう聞いても別に怒りもしなかった。もし逆の立場だったとしたら、ペルレスだってミラーのために集めた金を使い込んだだろうということを、ペルレス自身知っていたからだと言うんですね。で、ミラーはこのエピソードを語った後、「ぼくが友情と呼ぶのは、こういったことだよ」と締めくくるわけ。「友情とは、それ自体が不安定なひとつの世界だ。友人がいなければ、人生はつまらなく、無意味で、退屈だろう。そうかといって友情は、素晴らしい恵みであるだけでなく、災いでもあることは承知だよ」と。 ね、いかにも「ヘンリー・ミラー」じゃないですか! とまあこんな調子で、この本の全編にわたってヘンリー・ミラーの世界が展開しているわけですよ。ま、確かに時にはそのあまりのタフさに辟易させられることもありますが、それは同時に読む側の軟弱さを痛快にズバリと突いているわけですから、読んでいて爽快です。私はミラーの書くものに一貫して共通するこの爽快さが好きなんです。多分、私とミラーでは性格の方向性が全然違うと思うのですが、それだけに、自分にはないミラーのタフなところに惹かれるんでしょうな。 ミラーの書く作品は、創作であろうとエッセイであろうと皆、自伝ですが、そのすべてが読み易いわけではありません。しかし、そうだからといって敬遠するにはあまりにも惜しい作家です。私としては、多くの人にミラーのことに興味を持ってもらいたいし、その価値のある作家だと思っていますのでね。ですから、まだミラーという人物のことを知らない方がいらっしゃいましたら、この本、ミラー入門書としてなかなかいいですよ。「教授のおすすめ!」です。 最後に、自慢をひとつさせて下さい。この本のダストジャケットに使われているミラーのリトグラフですが、実はワタクシ、これを一枚所蔵しているんです。絵の右上のところに、フランス語で以下のような言葉が書いてありましてね。Donnez-moi un peu d'espoirDonnez-moi un peu du cielDonnez-moi beaucoup d'amour 訳すと、ほんの少し、希望を下さいほんの少し、空を下さいそして沢山、愛を下さい ということになるでしょうか。「いつも愛を」と題されたこのリトグラフは、今まさに、私の名古屋の自宅のリビングルームに飾ってあります。これこれ! ↓回想するヘンリー・ミラー
May 14, 2006
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普段は絶大な免疫力を誇る家内ですが、さすがに今年の風邪はしつこいらしく、いまだに咳がとれず、あまり調子がよくなさそう・・・。というわけで、今日の夕食は私が作ることにしました。ちょっと季節外れな感じはしますが、今日は一日雨模様で気温もさほど上がらなかったので、作ったのは鍋物。題して「鶏つくね&蓮根鍋」ですが、もちろん私のオリジナル。というか、いい加減な思いつきでね。 まず鍋に水を張り、そこに粉末カツオ出汁、酒、市販の濃縮蕎麦つゆを入れ、扇に切ったダイコンを入れて一煮立ち。そこにエノキ、マイタケ、糸こんにゃくを投入します。そして次は鶏つくねの準備。鶏肉のミンチに酒、塩、醤油、片栗粉、それに生姜とニンニクの粉末を少々、刻んだニラ、そしてここがポイントですが、魔法のスパイス・柚子胡椒を少々入れて捏ねます。そして適当に粘りが出てきたところで、2本のスプーンを使って団子に丸め、先程の鍋の中に投入。 そして、ここでもう一つのポイント。蓮根をすり金ですり下ろしたものを鍋に投入します。で、一煮立ちすれば、あとは豆腐と白菜を入れるだけで完成。ポン酢などのタレは使わず、鍋のスープ自体で食べる感じです。 とまあ、思いつきで作ったこの「鶏つくね&蓮根鍋」ですが、結果から言いますと・・・ う・まーい! 確かに見た目はあまりよくありません。というのは、すり下ろした蓮根が変色し、スープを灰色にしてしまうから。またマイタケもスープを濁らせてしまった原因の一つかも知れません。しかし、蓮根のすり流し入りのスープの味のよろしいこと! ほんのりとろみのついた、優しい味。それに、蓮根というのは咳止め効果があるそうなので、咳風邪にはもってこいです。それから、スパイスとして柚子胡椒を入れた鶏つくねのうまいこと! これは予想を越えるうまさ。初夏に鍋物? なんて言わず、ぜひお試し下さい。 さて、私は今日は一日、仕事がらみで本を読んでいました。読んでいたのはE.M.Hullという人の書いた「The Sheik」(1919)という作品。大衆向けロマンスの世界では記念碑的な作品なんですが、まだ読んでいなかったもので。 これ、どういう小説かと言いますと、イギリス貴族の娘で冒険好きなヒロイン・ダイアナが、自らキャラバンを率いて1ヶ月砂漠を旅行しようとするんですね。ところが、彼女を見初めたアラブ人の若き族長(シーク)が、計画的に彼女をさらい、自分の情婦にしようとするわけ。なにせ砂漠の王者たるシークの手中に落ちたわけですから、彼女に逃げ道はなく、無惨に凌辱されてしまうんです。 しかし、ダイアナも勇敢な女ですから、そう簡単にシークの情婦になるわけにはいきません。隙があれば逃げ出そうとし、またシークの寝首をかこうとしたりする。そこがまたシークには面白く、ますます彼女を放したくなくなるんですな。 しかしそうこうしているうちに、段々、彼女はシークの魅力にとりつかれ始めてしまう。荒くれ者どもを自らの実力一つで手下に従え、砂漠に君臨する美しき野獣に惹かれていくわけですよ。そして、彼のことを知れば知るほど、彼が単なる野獣ではなく、教養もあり、また計り知れない深慮と優しさを備えた男であることも分かってくる。もちろんシークの方も、ダイアナを単なる情婦として扱うことが出来なくなってきます。 で、そんな感じで互いに認めはしないものの、ヒーロー・ヒロインとも少しずつ相手を愛し始めた時、シークの永年のライバルであり、本物の悪党である、別な部族の族長がダイアナをさらってしまうんですね。邪悪な欲望がヒロインに迫る! しかし、もちろんそこはそれ、ロマンスですから、ダイアナは急を聞いて駆けつけたシークによって、危機一髪のところを救い出されます。ところが、この救出劇の中でシークは背後から忍び寄った敵の一撃を受け、生死の境を彷徨うことに。 そしてシークがそういう状態にある時に、ダイアナは彼の出生の秘密を聞かされます。実は・・・彼はアラブ人ではなく、イギリス人貴族の父とスペイン貴族の母の間に生まれた高い身分の男だったんですな(やっぱり! そうだと思った・・・)。それが色々複雑な事情があって、砂漠の民の族長に育てられることになり、その育ての親の跡を襲って族長となっていたんです。 で、傷が癒えたシークは、思うところあって、ダイアナをイギリスに返すことにします。もちろん彼女への愛をひたすら押し隠して。しかし、もはや砂漠こそ我が故郷、シークのいない世界なんて想像もできないというところまで思い募らせていた彼女は、イギリスに帰ることを断固拒絶します。かくしてシークとダイアナの間に「帰れ」「帰りません」の意地の張り合いが繰り広げられるわけですが、さて、どうなることやら・・・。 ま、そんな感じの小説です。コテコテですね。 しかし、これが当時としてはものすごく受けたらしいんですな。なにせ1919年といえば、「アラビアのロレンス」が活躍し出した頃でしょ。砂漠で暴れる文明人っちゅーのが、憧れられていたんですよ。それに、第1次世界大戦の直後で、イギリスには健康な若い男、つまり結婚相手になりそうな男が払底していた。だから、想像の上だけでもいいから強い男に強奪されたい! という思いが、イギリス女性の間に蔓延していたんですな。そこへ「砂漠の野獣」ですもん、そりゃ、受けますよ。そして、この種の「砂漠ロマンス」というのは、この後、一種の定番になります。例えばこの小説の50年後に出たヴァイオレット・ウィンスピアという作家の『ブルー・ジャスミン』なんて有名なロマンスは、ほとんど『シーク』の焼き直しですからね。 でも・・・結構面白かった。うふ。 というわけで、今日は「鶏つくね&蓮根鍋」を作りながらも、心情的には「砂漠の野獣」になりきっていたワタクシなのでした。・・・ま、本物の砂漠の野獣は、あんまり鍋は作らないと思いますけどね。
May 13, 2006
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今日は大学はお休み。ということで、買物がてら家内と家の近くのショッピングモールに行き、ついでにスターバックスに立ち寄って、トール・ラテを飲んできました。もちろんチョコバナナ・パウンドケーキも添えて。本当はポピーシード・パウンドケーキが一番好きなんですが、このところ見かけないですなあ。どこ行っちゃったのポピーシードちゃん? しかし来る度に思いますが、スターバックスって、いいですよね。出されるコーヒーの味が好き、ということもあるけれど、なんかあの雰囲気が好きなんだよなー。 何がいいって、スタバの雰囲気が「勉強」と結びつくところがいいんですよね。スタバって言うと、単に友達同士で待ち合わせをしたり、ワイワイガヤガヤおしゃべりをしたり、あるいはビジネスマンが打ち合わせに使ったり、というような使い方をするよりは、本やノートを小脇に抱えてツカツカとやって来て、ここでトールラテ飲みながら勉強する、というのが似合うような気がするんですよね。実際、たまにここに立ち寄ると、端っこの方の席に陣取って一心不乱にレポート書いていたり、何らかの受験勉強をしているメガネ女子を一人、二人、見かけたりする。 ま、そういうのはアメリカの学生街のコーヒーショップ、あるいは書店とタイアップしたコーヒーショップなんかでよく見かける光景であって、結局スタバは、「勉強する場所」という知的な雰囲気も含めて、アメリカ西海岸のコーヒーショップのあり方を日本に輸出した、ということなんでしょうけど、そういういい意味での模倣なら、私は大歓迎です。 もっとも私自身はといえば、スタバで何かを勉強したり、原稿を執筆したりしたことはありません。でも、スタバに立ち寄ることによって、そういう知的な作業をしたくなる気分というか、やる気が掻き立てられるということはあります。よーし、家に帰ったらいっちょ書くぞー、という感じになってくるんですな。頭のビタミン剤みたいなもんですかね。こういうのは、従来型の日本の「喫茶店」でお茶を飲んだ時には、あまり覚えない感覚なんだなー。 ところで、実は今日はもう一つの「頭のビタミン剤」として、フリージャーナリストの故・千葉敦子さんが書かれた『ニューヨークの24時間』(文春文庫)という本を買おうと思って、同じショッピングモール内にある書店にも寄ったのですが、残念ながらそこにはこの本は置いてありませんでした。 千葉敦子さんというのは、学習院大学を出て、東京新聞だったか、とにかく日本の新聞社に勤められた後、ニューヨークに留学され、そこからフリージャーナリストとしてのキャリアを始められた方ですが、残念なことに、その後乳癌を患われ、若くして亡くなられたんですね。で、この『ニューヨークの24時間』という本には、その千葉さんのニューヨーク時代のことが書いてあるらしく、それだけに、アメリカという国に対して、ニューヨークという街に対して、また文筆業というものに対して興味津々の私にとっては、おそらく非常に面白く読める本なのではないかと思うのです。ま、そんなこともあって、私としてもこの本を読んでみる気になったわけですが、「本」というものは、それを私が読みたいと思う時に限って、売り切れていたり、絶版になっていたりするものなんですな。いつでもそうなんですけど、ほんと、不思議です。 ちなみに文春文庫の棚には、千葉さんのご著書としてこの本以外のものが2冊ほど置いてありましたが、どちらも千葉さんご自身の癌体験を扱ったドキュメンタリーで、ちらっと立ち読みをしたところ、「化学療法の影響か、そろそろ身体がつらくなってきた」とか、「今度は小脳に転移したと医者に告げられた」というような文章が書き連ねられていて、読むのがあまりにも辛くなりそうだったので、買うのは止めました。『ニューヨークの24時間』は、結局、家に帰ってから楽天ブックスで買いましたけどね。(今買うと、送料無料なので、アマゾンで買うよりお得ですよー!) ま、そんなこんなで、お目当ての本は買えませんでしたけど、おいしいコーヒーとパウンドケーキを食べ、スタバ独特の雰囲気にあてられてすっかり「お勉強モード」にはなったので、今日はこれから少し気合を入れて勉強しましょうかね。それでは皆さん、お互い、良い週末を!千葉さんの本、まだ読んでないので、何とも言えませんけど、興味のある方はどうぞ! ↓ニューヨークの24時間
May 12, 2006
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あー、今日も見てしまった。「トヨエツ」こと豊川悦司が出ているテレビ・ドラマ『弁護士のくず』。巷のテレビ・ドラマ評によると、とても好調なようですが。 ま、個人的な評価を言わせてもらえば、ドラマとしての出来は大したことないと思うんですよ。さらに、トヨエツ自身の出来も、私の目から見るとあまり良くない。「新しい芸風にチャレンジしている」とか、「『探偵物語』時代の松田優作のようだ」とか、世評は高いみたいですけどね。 じゃ、何で見るんだと言われますと・・・トヨエツのファンだからですーーー。うふ。 私、日本の俳優の中で、豊川悦司をかなり買っているんですよね。 ま、セリフ回しは、それほどうまいとは思ってないんです。一本調子ですしね。でもねー、何だか存在感があるんだよなー、この人。 まず身体がでかい。そして足の長さを含め、スタイルがいい。そしてそれよりも何よりも、歩き方、物腰、仕草、そういう身体を使った一つ一つの所作が美しい! あれは天性のものか、それとも訓練の賜物か、それは分かりませんが、日本の俳優であそこまで所作のきれいな人っていないんじゃないか知らん。ほんと、独特の雰囲気を出すんですよね。 それを最初に感じたのは、数年前にヒットした『青い鳥』というテレビ・ドラマでのこと。このドラマの中でトヨエツは田舎町の駅員の役を演じたのですが、半袖の制服の袖を折り返す(当時としてもかなりダサい)着方とか、何気なく検札用のハサミをクルクル回す動作など、完全に田舎の駅の駅員になりきっていた。どこからどう見ても、田舎の駅の駅員になってましたからね。あれは見事でした。 また2、3年前にやっていた『ラブ・ストーリー』というテレビ・ドラマで、創作に行き詰まっている作家をコミカルに演じたことがありますが、あれもなかなか良かった。 ってなわけで、日本の芸能人なぞまるで眼中にない私にしては珍しく、トヨエツが出るドラマだけは、出来不出来は度外視して、ついトヨエツ見たさに見てしまうんですな。 で、これでもし『弁護士のくず』の出来が良ければ、迷わず「教授のおすすめ!です」となるんですが、そこまでの出来とは思っていないので、強いておすすめはしません。しかし、ただ単にトヨエツが手をポケットに突っ込んで歩いているシーンを見るだけでも、勉強になりますよ。その昔、石原裕次郎ってのは歩く姿のサマになる男だなあと思いましたが、その現代版は間違いなくトヨエツですな。 というわけで、私もトヨエツみたいな歩き方をしたいもんだ、と常々思っているワタクシなのでした。男は常に、勉強でございます。
May 11, 2006
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ま、車好きの人以外にはあまり関係のない話ではあるんですが、昨日の新聞の片隅に、GM系自動車メーカーのオペルが、日本での販売を断念し、市場から撤退することを決定した、というニュースが載っていましたね。つい最近までオペルの「アストラ」という車を愛用していたものとして、また随分前のことですが、同じGM系でオペルともつながりの深い「いすゞ」のジェミニに乗っていたものとして、何だか寂しい気がします。 しかし・・・思えばオペルも、他人の思惑に左右されてばかりいた会社ですなぁ。 例えば、ヤナセ。そもそも90年代後半にオペルが日本でそこそこ売れていたのは、ヤナセが販売を担当したからですが、もともとヤナセがオペル車を扱うようになったのは、同社とフォルクスワーゲン社との大喧嘩の成りゆきなんです。もともとヤナセが扱っていたフォルクスワーゲンの「ゴルフ」が日本で馬鹿売れしたため、フォルクスワーゲン社が調子に乗ってしまい、ヤナセとの縁を切って自社の販売ネットワークを日本で構築しようとしたんですな。で、そのことに腹を立てたヤナセが、「今までの恩を忘れやがって!」とばかりに、いわばフォルクスワーゲン社への当てつけとして、ライバルのオペル車を売り始めたわけ。全国的な販売網を持ち、外車ディーラーとして定評のあるヤナセが売るとなれば、それなりに売れるのは当たり前で、主力の「アストラ」をはじめ、セダンの「ベクトラ」やコンパクトな「ヴィータ」が相当数売れた。 しかし、やはりメルセデス・ベンツみたいな高級車を売ることに誇りを持ってきたヤナセとしては、庶民の車であるオペル車なんて、本音から言えば扱いたくないわけですよ。これは、ヤナセでオペルを買った人なら誰でも経験することですが、オペルの車でヤナセ・ディーラーに乗り付けると、ベンツ・オーナーが乗り付けた場合と全然対応が違いますから。ショールームで新型のベンツを見ていても、それがオペルのユーザーだと分かると、店員は客の足下見て寄っても来ません。ま、ヤナセの名誉のために一言付け加えると、販売サイドのこういう態度にも係わらず、整備メカニックは非常に優れていたので、私は不愉快な気持ちを毎度抱かされながらも、愛車の整備はヤナセに任せていましたけどね。 ・・・で、結局、ヤナセはオペルの販売権をじきに放り出すんですな。「ゴルフ」の販売権を失った時はちょっとパニくったものの、しばらくして落ち着いたら、ベンツだけ売ってれば商売になるんだということが分かったのでしょう。だったら、天下のヤナセが無理して大衆車売ることもない、と。かくして大手ディーラーのヤナセにそっぽを向かれたオペルは、日本において苦戦を続け、その結果、親会社のGMの経営危機の巻き添えをくらって、今回、市場撤退を余儀なくされてしまったんですな。つまりオペルは、車の善し悪しというよりも、ディーラーと親会社の不誠実さによって日本市場をつぶされたようなもんだ。 GMも悪いですよ。もともと日本市場を甘く見て、かつては「サターン」なんて出来損ないの車を日本で売ろうとして大失敗をした経験のある会社ですが、そんな会社だけに世界戦略もまったくなっておらず、せっかくスズキやいすゞやスバルといった一癖も二癖もある日本の自動車メーカーを傘下に収めていたのに、その資産をまるで活かせず、資金に困ったからと言って手放しちゃった。まったく、「何やってんだか」って感じです。 ちなみに世界戦略という点から言ったら、アメリカの3大自動車メーカーの中では、フォード社が一番上手いですね。日本のマツダ、スウェーデンのボルボ、イギリスのジャガーなど、傘下に置いたメーカーの資産とネームヴァリューをうまく活用しつつ、自動車生産の効率化を成し遂げていますから。またクライスラーはクライスラーで、合体した相手先のベンツ社に迷惑がられながらも、ここに寄りかかりつつ「クライスラー300C」なんて売れ筋の車を作り出したりして販売は絶好調。 それに引き換えGMは・・・。自慢の「キャデラック」がもはや「憧れの高級車」と認識されていない日本では、もう軍用車「ハマー」しか売るものがないという・・・。結局、オペル車を市場撤退させたことにしても、「貧すれば鈍す」なんでしょうな。 ま、オペルそのものも、今ひとつパンチがないメーカーではありましたけどね。「いい車なのに、売れない」の典型例。フォルクスワーゲンのような生粋のドイツ車に比べると、そこまでの質実剛健さはなし。日本車と同程度の信頼性はあれども、値段は3割増し。それでいて、イタリア車やフランス車ほどのデザインの洗練はなし。となると、確かにセールス・ポイントがないよなぁ・・・。いや、デザインに関しては、かつてはそれなりにあって、例えば「カリブラ」なんてスポーツカーは相当カッコよかったし、ベクトラやアストラだって、ひと頃はそれなりにカッコよかったのに、それをモデルチェンジ毎にどんどん改悪しちゃうんだからどうしようもない。 車を売るビジネスというのも、難しいもんなんですなー。 でも・・・私が思うに、ホントはそう難しいものでもないんですよ。デザインが良ければ、デザインさえ魅力があれば何とかなるというのが、自動車ビジネスの本質なんです。例えば、私のかつての愛車・いすゞジェミニが、その平凡なパフォーマンスと貧弱なディーラー網にも係わらず当時の日本で相当数売れたのは、イタリアの天才デザイナー・ジウジアーロのデザインだったからです。また、私の現在の愛車であるプジョー306が日本に受け容れられたのは、それがフェラーリのデザインでも名高いイタリアのデザイン工房・ピニンファリーナの作品だったからでしょう。さらに、一時期ボロボロだったアルファロメオが立ち直ったのは、名デザイナー、ダ・シルバが名車「アルファ156」を作り出したのがきっかけだったのではないでしょうか。必ずそう、とまでは言い切れないのが面白いところですが、車の場合、デザインの良さが七難隠すというところはある。 オペルだって「空力デザイン」ということを最初に言いだした会社なんだから、その過去の資産を大いに喧伝しつつ、それを活かした魅力的なデザインを生み出せば、もう少し何とかなったんじゃないかと思うんですけどね・・・。 ま、今更ごちゃごちゃ言っても仕方のないことではありますが、とにかく親しみのあった外車メーカーの日本市場撤退というニュースを耳にし、何とも残念な気がしているワタクシなのでした。オペルよ、さらば! いつかまた景気が良くなってきたら、日本に再上陸して、あの懐かしい「稲妻マーク」をキラリと光らせておくれ!
May 10, 2006
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連休前は私が風邪でダウンしていましたが、今度はどうやら家内が風邪にかかったようで、昨日の夜あたりから具合が悪くなり始め、今朝はついに起きられませんでした。私のゼミの学生も風邪を引いているのがいましたから、密かにあちこちで風邪が流行しているのでしょうか。気温が乱高下しますからね、この時期。 で、今日は大学が引けてから、スーパーマーケットに寄り、「熱さまシート」だの、ポカリスエットだの、梅干しだのといった風邪対策グッズをしこたま買い込んできました。私の風邪対策は、圧倒的な物量作戦を常としますので・・・。 で、夕食も私が作りました。と言っても、ごく簡単なもので、白がゆに梅干し、それに焼き鮭の瓶詰め、出来合いのゴボウサラダに白菜の漬物といったところ。今日は私も家内に付き合って、病人食の夕食です。 それにしても、おかゆに梅干しという組み合わせは、たまに食べるといいもんですね。何だかお腹の中がすっきりするといいますか。お米の国に生まれた幸せを感じます。 家内も半日寝ていたおかげで少しは良くなったらしく、おかゆをおいしそうに食べていました。これで私の言う通りに風邪薬を飲めばもっと早く治ると思うのですが、「薬は嫌い」とか言ってなかなか飲んでくれないのが困ったところ。何であれ薬が大好きな私とは、そこが違うんだなー。 でも、ま、いいや。とにかく良くなるまで、私が看病してあげましょう。 皆様も季節外れの風邪にはご用心、ご用心! それでは、お休みなさい!
May 9, 2006
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以前、ある雑誌の依頼に応え、「イギリス・アメリカの作家の中で特に嫌いな作家は誰か、またその理由は何か」というアンケートに回答した、ということをこのブログにも書きました。で、その時私は、こういう否定的なアンケートというのは回答し難いものであるなぁ、という感想を記したはず。 で、その雑誌の当該号がいよいよ刊行されて、手元に送られてきたのですが、上に述べたような理由から、私は自分の回答が載った特集ページをあまり読みたくなかったんです。 ところが、家内がそのページを見せてくれというので、見せてあげると、案外面白がって読んでいるんです。で、あんまり面白そうにしているので、つい私も釣られて脇から読み出したのですが、これが・・・確かに面白いんですよ。 私を含め、日本中の英文学関係の先生方総勢72人が「あの作家が嫌い、この作家が嫌い」ということを、その人なりの理由を一言添えて述べているわけですけど、「え、そうだったの?!」という驚きの連続なんです。 例えば、学会をリードする大御所の先生方が意外な作家のことを「実は嫌いだった」などと告白されているのを読むと、へぇ~、そうだったんですか! と思いますし、著名な作家が多くの研究者から嫌われているということが分かって、驚かされることもしばし。 特に意外だったのは、アメリカ20世紀文学を代表するウィリアム・フォークナーのことを「嫌い」だと告白している研究者が多かったこと。あと、ジェイン・オースチン(『高慢と偏見』で有名)やエドガー・アラン・ポー(『アッシャー家の崩壊』『黄金虫』などが有名)が嫌い、という方が多かったのも面白かった。また『ライ麦畑でつかまえて』で有名なJ・D・サリンジャーが嫌いだという人が多かったのも、意外とは言わないまでも、ほう、とは思いましたね。あと、日本でもファンが多い(と私は思っていた)ポール・オースターが嫌いという人も多かったなぁ・・・。 また「嫌い」という感情は制御不能であるのか、嫌いであることを述べている文章からして激しい憎悪を漲らせる方が多く、「こんな作品、早く絶版になって、学生が卒論に取り上げることがなくなればいい」なんてことまでおっしゃる方がいたり。なーんだ、他の先生たちの方が私なんぞよりよっぽど過激なこと書いてるわ。心配して損しちゃった。 それにしても、これら憎々しげな文章を一つ一つ楽しく拝見していると、色々な発見があります。 というのも、このアンケートに回答を寄せられている先生方というのは、(私を除いて)有名な先生方ばかりですから、その先生方が普段、何をご専門に研究されているか、というのは大体分かるわけ。ですから、それらの先生方がどの作家がお好きなのかは知っていたことになりますが、今回の企画により、その方たちがどの作家が嫌いなのかが分かったことで、その先生方のことをよりよく知ることが出来たような気がするんです。「なるほど、この先生はこういう系統の作家が嫌いだからこそ、こういう系統の作家がお好きなのか」、というふうな理解が進んだわけです。 考えてみれば、「何が好きか」ということが、その人のことを知る上でのよい尺度になるのと同じように、「何が嫌いか」ということもまた、その人を知る格好の材料になるわけですな。 アンケートに回答した直後は、「こういう否定的なアンケートって、どうなんだろうか」とちょっと思いましたけど、出てきたものを読んで、実はこの企画がなかなか興味深いものであったことがよく分かりました。少なくとも業界内では大きな反響を呼ぶんじゃないでしょうか。 ということで、この企画を考え出された編集長に、今回、あらためて脱帽です。由緒ある雑誌の編集長ってのは、とんでもなく大変な責務ですから、今回に限らず、いつも脱帽しているんですけどね・・・。
May 8, 2006
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あー。終わってしまいましたね、連休。私が一年で一番好きな季節の一番ハッピーな行事が終わってしまった・・・。明日から仕事だなんて、信じられない・・・。信じたくない・・・。 さて、そんなこと言いつつも、今日は東京の実家から名古屋へ戻る日。ということで、いつものようにランチは両親を連れて外食で。 今日は車で京王線の聖蹟桜ケ丘というところに出て、京王デパート内にある「歌行燈」という饂飩の店でお昼をとることに。今日まで連休という人が多いでしょうから、きっとデパートも大混雑して、駐車場に車を止めるので苦労するかなと思いきや、皆さん今日は連休疲れを癒す日とされているのか、案外どこも空いていて、全然苦労することなく車を止めることができました。「歌行燈」もまったく空いていたので、すぐに座れて、おいしくいただくことができましたしね。 そしてデパート内のくまざわ書店を軽く覗き、『ジャズでめぐるニューヨーク』(常盤武彦著・角川oneテーマ21)なんて新書を買ってしまったりして。相変わらず、ジャズの本だけはよく読む男だと思って下さい。 で、今日はさっさと帰宅して軽くお茶を飲み、それから名古屋に帰る支度。5泊6日の実家泊まりでしたけど、あっと言う間でしたね。 で、3時に実家を出て、青葉インターから東名に乗り、名古屋まで一直線。さすがにUターンラッシュも終わったのか、上り線も順調のようでした。もちろん私が使う下り線はガラガラ。 しかし、渋滞こそなかったものの、箱根を越したあたりから猛烈な雨が・・・。私のように超音速で走っていると、ちょっとした水たまりにタイヤを落としただけでもガツッとハンドルをとられてしまうので、何度か肝を冷やす場面があり、今日は4時間のドライブがいつも以上に長く感じられました。でも、何とか無事に帰宅ー。 は~。明日から仕事か~。でも、遊んだ後には仕事しないとね。 それに今日は「仕事、頑張ろう!」と思わせてくれることも色々あったんです。一つは、私がアンケートに答えている雑誌が出版されたこと。それからもう一つは、私も執筆している本の評判が相当良いらしく、先日の朝日新聞に続いて、今日は何と読売新聞の読書欄に取り上げられていたこと。読売新聞は購読者数が多いですから、これの読書欄に取り上げられると売り上げが伸びると言いますからねー。印税、期待しちゃおうかな。 さて、これから少し明日の準備をして、F1・ヨーロッパグランプリ(これが私にとって、連休最後のお楽しみなんです!)を見て、それから寝るとしましょうか。それでは、皆様、連休お疲れさまでした。また明日から頑張りましょう、お互いに!
May 7, 2006
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今日のこと、というより、昨夜のことなんですが、偶然、NHKの衛星放送で「お母さんに会いたい」というドキュメンタリーの再放送をやっているのを見つけ、思わず見てしまいました。 この番組、もともとは2004年の11月に放送されたものなのですが、反響が大きかったらしく、これまでに何度か再放送されているんです。で、私も以前、再放送になっていたのを途中から見て非常に感動したもので、昨夜、番組の最初から見るチャンスに恵まれたのをいいことに、もう一度通して見てしまったというわけ。 このドキュメンタリー、フィリピンに住む少年ノラルディンと、その妹のマリマルの話なんです。ノラルディンが10歳くらい、マリマルが8歳くらいでしょうか。 で、彼らの一家は子沢山なんですが、とても貧しく、しかも父親が肺病で働けないため、兄弟中で一番上のノラルディンとマリマルを親戚の家に預け、ノラルディンが観光客に手提げ袋を売る、その売り上げを送金してもらって、ようやく暮らしているんです。つまり一家の生計が、ほんの10歳くらいの幼い少年の双肩にかかっているわけ。 しかもノラルディンとマリマルは、ただで親戚の家に預けられているわけではないんです。親戚も貧しいので、置いてもらうためには下宿代を支払い、さらに家の仕事を手伝うことが条件なんですな。ですから、ノラルディン少年は、まず朝一番に水汲みなどをして一働きした後、市場へ行って観光客に袋を売り、その売り上げから自分と妹の分の下宿代を払い、月々1000ペソほど実家に送金し、しかも妹のマリマルが小学校へ通うための学費も稼いでいるんです。10歳の少年がですよ。そんなふうですから、自分は学校へ通うのは断念せざるを得なかった・・・。もちろん兄だけでなく、8歳のマリマルだって、掃除から洗濯から食事を作るのまで全部やるんです。 だけど、この幼い兄妹の艱難辛苦はそれだけじゃないんですね。彼らはイスラム教徒なんですけど、親戚の家の周辺はキリスト教徒が多い。ですから市場で袋を売っていても、キリスト教徒から苛められるんです。悪口を言われたり、ものを投げられたり、殴られたり、稼いだお金を巻き上げられたり。小学校に通っているマリマルだって、毎日同級生から「テロリスト」呼ばわりされて苛められるんです。ノラルディンは、キリスト教徒たちから妹が苛められる度に、妹を守りに行かなくてはならない。 そんな生活が何年も続くのですが、ある時、実家の母親が病気で入院したと聞き、ノラルディン・マリマルの兄妹は、今まで以上に頑張って袋を売ってお金を貯め、母親に会いに行こうとするわけ。ノラルディンだけでなく、マリマルまで袋を売って1ヶ月以上かけて、ようやく実家に帰るだけのお金を貯めるんです。何年かぶりにお母さんに会えるとなって、実家へ向かう船に乗る二人の笑顔たるや・・・。ほんとに喜びに輝くような笑顔なんです。 そして何年かぶり母親に会えた時の、二人の様子! マリマルはもちろん、しっかりもののノラルディンさえも10歳の少年に戻って、涙にくれて・・・。もう涙なしには直視できない。 ところが、ノラルディンとマリマルが幸福になれたのも束の間のこと。母親の入院にかかった費用が、この一家に重くのしかかるんですな。身体の弱い父親も、稼ぎの少ない叔父も、誰も助けられない。このままでは警察に突き出されることになってしまいそうなんです。 で、家族会議が開かれ、結局ノラルディンとマリマルをもう一度親戚の家に返し、今まで通り、送金してもらうしかない、と決まるんですな・・・。母親に会ってすっかり子供になってしまったノラルディンもマリマルも、もちろん泣いて嫌がるわけですが、それでも兄のノラルディンは子供心に「自分が行くしかない」と思ったのでしょう。かくして何年かぶりで母親に再会してからわずか8日の後、二人は再び親戚のところに旅立つんです。泣き叫ぶ妹をなだめながら、自分の涙は隠して「泣くな。行くぞ」と引っ張っていくノラルディンの健気さ! その数日後、また市場でノラルディンが袋を売っているシーンでドキュメンタリーは終わります。 前回、途中から見た時ですら涙なしには見られませんでしたけど、今回、はじめから見て、もうボロボロですわ。こんないたいけな小さな子供が、貧しさゆえに母親から引き離され、宗教上のことで苛められたりしながら、どうしてこんな苦難の道を歩かなければならないのか・・・。しかも、そんな苦難の中にいて、どうしてあんなに明るく、純粋で、健気な精神を保っていられるのか・・・。ノラルディンってのは、あれは間違いなく天使だな。もう拝みたいようなもんです。 このドキュメンタリー、もしもう一度NHKで再放送するようなことがあれば、ぜひ皆さんもご覧になってください。いつもなら、ここで「教授のおすすめ!です」と言うところですが、テーマがテーマだけに、そんなおふざけを言う気にもなりません。これは、豊かになって、色々なことを忘れてしまった日本人が、自分たちの現在を見直し、世界のことを知るために、ぜひ見ておかなければならない映像です。 しかし、一つだけ良かったなーと思うのは、最初の放送があってから、視聴者からこの兄妹を何とかしてやりたいという申し出が殺到したらしく、寄付金が集まって、今では二人はちゃんと母親のもとに帰り、二人とも学校に通えるようになったらしいんです。それだけは、ほんと良かった。もちろん、ノラルディンたちと同じような境遇の子供たちは他にも沢山いるわけで、この二人がそうなったからといって、問題は一つも解決していないのではありますが・・・。 ところで、感動的なドキュメンタリーを見て我が釈迦楽家一同、涙涙になっていたまさにその時、つけっぱなしになっていたテレビから、東京・多摩センター駅(昨日我らが行ってたところじゃん!)において、我が子を二人も殺した母親が逮捕された、というニュースが! タイミング悪過ぎ・・・。 この世界のどこかでは、「お母さんに会いたい」という、最低限の望みすらなかなかかなえられない小さな子供たちがいて、子供ながらに奮闘しているというのに、モラルの狂った我が国では母親が子供を殺しますか・・・。 まったく、情けないことでございます・・・。
May 6, 2006
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今日は多摩センターというところに昼食兼散歩に行って来ました。 ここでは毎年この連休中、お祭りが行なわれていて、屋台が並んだり、各種イベントが行なわれるんです。ま、そういうのを見がてら、休みの雰囲気を楽しもうかな、と。 で、まずは昼食を、と思ったのですが、当てにしていた某ホテルのレストランは満員で入れず。で、馴染みの支配人さんに「この辺で他においしいものないですかね?」と尋ねると、「おいしいものでございますか。さよう、それならこの先の屋台で焼きそばを売っております」ですと。この支配人さん、いつも大真面目な顔して面白いことを言う人で、私は大ファンなんですが、さすがに両親をつれて道端に座って焼きそばを食べるというのもちょっとアレだよな、と思い、とりあえず他を当たることに。 といって、今日はどのレストランも満杯で、唯一、閑散としていたお寿司屋に入ってようやく昼にありつくことができました。ま、まったく期待していなかったものの、値段の割においしいお寿司屋でしたけどね。 で、昼を済ませてから「パルテノン多摩」という一種のイベント会場に行き、会期中だった「多摩の里山の暮らし」にまつわる展示を見ることに。ここで一昔前の多摩の農民の暮らしと、それを支えた里山のあり方について勉強しましたけど、それによると、多摩の里山が荒れたのは、昭和30年代の燃料革命(薪・炭の時代から石油などの化石燃料の時代へ)の影響が大だったとのこと。またそれに追い打ちをかけたのが、後の多摩ニュータウンの開発で、これにより、ついに里山そのものが存在しなくなってしまった、というのです。無論、今となっては時計の針を逆回しにするわけにもいかないでしょうけれど、それにしても人間と自然が持ちつ持たれつで共存していた時代の象徴としての里山が、無味乾燥な住宅地に変わっていく様子を写真などで見ると、「時代の進歩」っつーものが、必ずしも人間を幸福にするとは限らないなとつくづく思わされます。 それにしても、展示されていた農具や籠・笊などの産物を見ると、昔の日本人がいかに創意工夫に富み、また働き者であったかがよく分かります。またそれなりに精密に作られた古地図や、昔の村人同士の紛争とそれをいかに解決したかを記した古文書などを見ても、我々の祖先がいかに論理的でかつ公平な社会生活を営んでいたかがよく分かる。とにかく、昔の日本は、今の日本とは大違いですわ。逆に、ぐずぐずになってしまった今の日本が、それでもまあ何とか国として、社会として、成立していることが不思議と言えば不思議ですなぁ・・・。 さて、そんな感じでしばしお勉強した後、再び屋台が立ち並ぶ大通りを少し歩き、お祭りの雰囲気を楽しんでから、今度は今日の私の一番のお楽しみへと向かいました。実はこのお祭りの期間、この会場で、多摩美術大学の学生が、自分たちの版画作品をチャリティーで販売するんです。私はこれが楽しみでね。 で、たしかこの辺り、というところを探すと、お! やってる、やってる! 昨年と同じ場所で、多摩美の学生が作品を露天に並べているじゃないですか。段ボール箱二つに版画作品がぎっしり詰め込まれて、どれも一枚1000円とのこと。私が夢中になって、この中から目ぼしいものを探している間、私の父が売っている学生たちと雑談していましたが、彼ら曰く、「学生の作品ではありますが、中にはきちんとした展覧会に出品できるようなのもあり、一枚1000円なんて普通はあり得ませんよ!」とのこと。 ま、それはどうか分かりませんが、私は美大に行くような連中というのは、好きこそものの上手なれで、多かれ少なかれアートに対するセンスがある、と思っているんですね。で、そういう連中が作ったものは、どんなものであれ、やはり多かれ少なかれ価値があると思っているんです。そして、そういう連中の作品の中に、私自身のアートに対するセンスと多少なりとも共鳴するものがあれば、私はそれを手に入れたいと思うんです。作品を買うという行為は、どんな言葉にも増して、その作品を作り出した作者を励ますことができますから。しかもこの場合、払った代金の若干がチャリティーに流れるわけですから、なおさら気分がいいじゃないですか。 で、結局、探しに探して、「五十嵐さやか」さんという学生が作った、花に埋もれる少女を描いた版画作品を買うことにしました。ビュランを使った白黒のエッチングですが、ちゃんと額に入れれば、それなりに見られるのではないか知らん。もちろん、昨日見たケーテ・コルヴィッツの作品とはレベルが違いますが、あれもアート、これもアート、ということでね。 かくして、今日は子供の日のお祭りを楽しみつつ、少しだけお勉強し、版画を買うこともできて、なかなか心楽しい一日となったのでした。しかし、このところ明らかにちょっと遊び過ぎですので、今日はこの後、少し頑張って私も勉強する予定です。私だって、少しは生産的なことをしないとね!
May 5, 2006
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町田市立国際版画美術館で開催中の「ケーテ・コルヴィッツ展」に両親を誘って行って来ました。 1867年に生まれ、1945年に没したドイツの女性画家、ケーテ・コルヴィッツ。「日本におけるドイツ年」の一環として企画された彼女の作品展は、昨年の夏の茨城県つくば美術館での展覧会に始まって、新潟県立近代美術館、姫路市立美術館、熊本県立美術館と巡回し、最後に町田市立国際版画美術館にやって来た。私としては、前から見たいと思っていたこの展覧会を、ようやく地元・町田で捕まえることができた、という感じです。 ところで、私が初めてケーテ・コルヴィッツの作品を見たのは、今から15年前の夏。シカゴ大学名誉教授、マーリン・ボーエン先生のお宅に於いてでした。先生のお宅の一室に、コルヴィッツの素描が何気なく掛かっていたんです。それは小さな男の子と、その子の祖母らしき老女の顔を並べて描いた小品だったのですが、小さな子供が時折見せるような、ほうっとした表情を浮かべた男の子と、その子を見守る悲しげな老女の表情から、二人の貧しさと苦しみがじんわりと伝わってくる。そんな絵でした。 おそらく、このお祖母さんには、今日、孫に食べさせてやるだけの食べ物がないのでしょう。そしてこの子の父親と母親は、既にこの世にないのでしょう。 もちろんそんなことは、絵を見た瞬間に私の頭の中で勝手に出来上がったストーリーに過ぎません。表面的に見れば、可愛らしい小さな男の子と、そのお祖母さんらしき老女がひっそりと描かれているだけなんですから。しかし、見れば見るほど「絶対にそうに違いない」と思わせるだけの力が、その素描にはあった。 で、感動した私は早速ボーエン教授を捕まえて「この絵は一体何だ?」と問うたわけですよ。すると教授は「おお、これか!」という感じで、すぐに絵の来歴を語ってくれました。 ま、その話は長いので要点だけ言いますけど、要するに教授がまだ若かった時に、ある画廊でこの絵と出会い、どうしても欲しくなってしまった。しかし、もともと孤児院の出身で、苦学してシカゴ大に進学されていた先生には、当然その絵を買うだけのお金がない。そこで支払いを分割にしてもらって、余計にアルバイトするなど苦労に苦労を重ね、ようやく1年がかりでそれを自分のものとしたというのです。若い時の苦労の証でもあるだけに、この絵には特別の愛着があって、自分にとっては何ものにも替え難いものなのだと、そうおっしゃっていましたっけ。 若かりし日のボーエン先生ご自身が極度に貧しかったからこそ、この絵に描かれた貧しい祖母と孫の絵に吸い寄せられたんでしょうな。 ま、とにかく、こうして私の脳裏に「ケーテ・コルヴィッツ」という名前が刻み込まれたわけですよ。それから少しして、90歳近いご高齢で亡くなられたボーエン教授の懐かしい思い出と共に。 しかし、コルヴィッツというアーティストは、まだ日本ではさほど認識されていないところがあるので、その作品を見ることはなかなか難しい。小淵沢にあるフィリア美術館に何点か所蔵品があるのを見ましたけれど、その位なもんです。ですから、今回、かなり大規模な回顧展があるというので、私は昨年から楽しみにしていたんですな。 で、今日、ようやくそれを見ることができたのですが、なかなか大きな展覧会で、一度にこれだけのコルヴィッツ作品が見られるのは、おそらくこれが本邦初でしょう。中心となるのは版画ですが、素描もあり、また彫刻作品までありました。コルヴィッツに彫刻作品があるとは知りませんでしたけどね。 今回特に印象深かったのは、初期の作品。「処女作に向かって成熟する」というような言い方がありますが、それはジャンルを問わず多くのアーティストに当てはまるものであって、私が思うに、コルヴィッツの作品のエッセンスは初期作品にすべて詰まっている、というところがある。特に木炭画(あるいは木炭画風のエッチング)における光(白)と闇(黒)のコントラストが生み出すドラマチックな効果はものすごい。私にとっては、今回の一番の見どころでしたね。 それから、それぞれの年代毎の自画像、これも素晴らしかった。初期の頃の明るく、そして凛とした自負心の現れが感じられる自画像もいいし、晩年の頃の枯れた自画像もいい。 また、コルヴィッツはさすがに女性の画家だけに、子供を描かせるとほんとに素晴らしい。彼女が描く子供は、いかにも「母の目が捉えた子供」の像であって、そういうところはちょっと日本のいわさきちひろを思わせるところがある。こればかりは、男の画家には出せない味と言っていいのではないか知らん。 しかし今回の展覧会のメインとなったのは、貧しい労働者の暮らしを描いた作品や、そうした貧しい家庭を襲う様々な悲劇を描いた作品、そして「死」そのものを描いた作品です。戦場で夫を失った寡婦、寡婦と子供たち、母親を死神に奪われた子供たち、子供の死を嘆く貧しい母親・・・そういったものをテーマとして描いた一連の絵は、コルヴィッツ流に表現したピエタ(キリストの死を悼む聖母マリアの図像)なんでしょうが、時にムンクを思わせるその画風は、貧しさ・悲しさを通り越してついに狂気に至る、みたいなところがあって、正直、見ているだけで息が詰まります。 展覧会を見るといつも疲労困憊する私ですが、今日はいつも以上に疲れました。 ところで、今回、新たに強く感じたのは、コルヴィッツの絵画表現における「手」の重要性です。コルヴィッツの絵の中では、人間の手がとても大きく描かれているんです。ほとんど顔と同じくらいの大きさ、といいましょうか。で、その大きく描かれた手の一つ一つが、顔の表情と同じくらい、それぞれ「表情」を持っていて、雄弁なんですね。「雄弁」というのは、もちろん、「雄弁に苦悩を語っている」という意味ですが。 あともう一つ、特筆すべきは「耳」かな。コルヴィッツが人物画の中で描く耳の美しさ。これは一見の価値があると思います。ま、それはもちろん、横顔を描いた時にしか分かりませんが。 で、展覧会全体として見た場合の感想なんですが、今回のコルヴィッツ回顧展では「死」や「苦悩」を描いた作品が多過ぎて、展覧会全体がかなり重苦しい調子になってしまったところに、やや不満が残った、かな・・・。私が思うに、コルヴィッツの真骨頂は、「死」や「苦悩」といったテーマを表に出していない絵の中に、そうしたものを秘める、というところにこそあるのですが、今回はその「秘め」た絵が少なかった。私としては、先にボーエン教授のお宅で見たような、パッと見は何のことはない人物画なのに、その意味するところが見る者の心にじんわりと、しかし間違いようもなく響いて来るような絵を期待していただけに、今回はちょっと直球勝負過ぎましたね。 でも、そういう不満があるとはいえ、日本でこれだけの数のコルヴィッツ作品を見られるのは、そう何度もあるチャンスではありません。その意味で、もしまだご覧になっていない方がいらっしゃいましたら、ぜひこの機会に東京・町田まで足を運んで見てください。教授のおすすめ!です。 それにしても、町田市立国際版画美術館というのは、なかなかいい美術館ですね。とてもいい企画の展覧会を過去、何度も行なっています。大体、「版画美術館」と銘打って、収集を版画に限定しているところからして、素晴らしい。作品の収集にそれほど大金を注ぎ込めない市立の美術館として、相対的に値段の安い版画作品に的を絞って収集と展示を行い、その代わりこのジャンルの美術館として一流を目指すという方針は、とても賢いと思います。たしか初代の館長は、版画の普及に力を注いだ久保貞次郎さんだったと記憶していますが、「版画美術館」というアイディアは、久保さんの発想だったんでしょうかね。ま、それはともかく、こういう賢い美術館が実家の近くにあるということは、幸せなことでございます。今後も、優れた企画力で、大いに我々を楽しませてもらいたいものです。
May 4, 2006
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今日はゴールデンウィーク恒例となりました、小学校時代からの友人たちとのバーベQパーティーでございます。 今回は都合によりメンバーが一人欠けて、4人でのパーティーになってしまいましたが、とりあえずいつものように友人Tの家の前に集合し、途中、買物をしながら相模川の河原へ。 昨日雨が降ったということで川の増水を心配していたのですが、それは大したこともなく、いつもの場所に陣取ることができました。そうなるともう慣れたもので、炭の着火係、テーブル&椅子設営係、食材カット係といった感じで手際よく仕事を分担し、あっと言う間に準備完了。今日は炭火の加減もばっちりで、まずは棒つきフランクフルトからバーベQ開始! ま、ソーセージなんて、日常生活でそんなに沢山食べるもんじゃないですけど、こういうところで青空の下、炭火で焼いたフランクフルトを頬張ると、これがまたうまいんだ。あまりのうまさにビールもグビグビと進んでしまいます。 そしてフランクフルトの次は、魚好きのEのリクエストでシシャモを焼きましたが、これも炭火で焼いて皆で食べると、なかなかうまいものですね。 で、お次は今回の新機軸、「焼き蟹」の登場です。殻つきのたらば蟹を網の上でジクジクと焼いてみたところ、これがなかなかのヒット! 甲羅の焦げる匂いが何とも言えず食欲をそそります。 そしてこの後焼き鳥をして、いよいよ真打ち・牛カルビの登場! これはもう、うまくないわけがない。飲む方もビールからチューハイに切り換えてグビグビと。 今回は買い出しの際、食材の分量を控えめにしたので、ここまで食べ終わってもまだ食欲はバッチリ残っており、〆の焼きそばも、しっかり作ってしっかり味わうことができました。昨年はお腹がいっぱい過ぎて焼きそばまで食べられませんでしたからね。もう昔のように馬鹿食いは出来ないということを、我々もついに学習しましたよ。 それにしても、今日はバーベQ日和でしたなあ。頭の上はお日様キラキラ。川面から渡って来る薫風そよそよ。しかもお腹は心地よく満腹、アルコールも回っているとなれば、もう半分天国に居るような気分になってきます。 で、そんな感じでいい加減に酔いが回ってきたとなると、いつものことながら皆の集中砲火を浴びるのはT君の役目。例の、この歳になってもまだ結婚もしていない男でございます。 Tの奴、いい加減に身を固めろと詰め寄る我らに対し、先だって妹さんのお子さんが生まれたのを良いことに、親もとりあえず一人は孫の顔を見ることが出来たのだから、もう自分が結婚する義務はなくなったし、自分としても一緒に住んでいる甥ッコを自分の子のように可愛がってやっているから自分自身の子供なんかいらないんだ、などと言うわけです。 でまたTはこの甥ッコを本当に可愛がっていて、この子のために学資保険を積み立てたい、だとか、自分が死んだら遺産がこの子に行くようにするにはどうしたらいいのか、などと真剣に考えているわけ。 当然のことながら、我々3人は「それは違うだろう!」と異口同音に突っ込むわけですよ。いくら甥ッコとは言え、他人の子供の学資保険積み立ててどうするんだ! 順番から言って、まず自分が一家を構えることを考えるのが普通だろう。もしこの先Tが結婚した場合、妹の子供に学資保険積み立てているなんて分かったら、嫁さんがいい顔しないに決まってるじゃないか! まったく、何を考えているのかよく分からん男でございます。 でも、そういう変なところがこの男の持ち味ではあるのですが。 さて、いい加減、皆でTを論難して楽しんだ後、撤収作業に入り、これまたあっと言う間に片づけを終えてとりあえず今日のお楽しみは終了ー。今年もいいバーベQパーティーとなりました。 しかし、今回一つだけ問題だったのは、トイレのこと。川沿いの土手に公共のトイレがあって、昨年まではこれが使えたのですが、今年はどういうわけかこれが閉鎖されて使えなくなっていたんですな。しかし、なにせバーベQにはビールがつきものですから、当然小用も近くなる。そこで、仕方なく草の茂みで、ということになるわけですが、それもねえ・・・。 まあ男ならそれでもいいですよ。でも、女性は? 周りを見渡すと、我々のように男だけのパーティーというのは少なくて、むしろ比率から言ったら6対4くらいの割合で女性の方が多いんです。果たしてうら若き女性たちは、「トイレがない」という厳しい状況にいかに対応しているのか? ちょっと興味深い謎でしたね・・・。
May 3, 2006
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このところ毎日のようにニュースに顔を出す拉致被害者・横田めぐみさんのご両親。先日はアメリカ大統領に会い、今度は韓国へいらっしゃるのだそうですね。ま、お嬢さんがとんでもないことに巻き込まれて、大変なことでございます。 しかし、この事件もよく分からんですなあ・・・。 拉致された時に大騒ぎ、というのなら分かるのですが、これが大ごととして騒がれるようになったのはようやく数年前の小泉首相訪朝の時からですよね。で、それ以来、一応、継続的に騒がれてはいるのですが、一向に進展はしていないと・・・。 しかも、何だか余計可哀相だなと思うことに、毎日のようにニュースに取り上げられる割には、国民の関心が薄いような気がするんですよね、何となく。要するに、他人事なんでしょうな。重大な事件ではあるけれど、とりあえず自分には関心ないな、というしれ~っとした雰囲気の中で、横田さんご夫妻が毎日のようにテレビに登場して、一生懸命「娘を返してくれ」と懇願しているのが、何だかとっても哀れ・・・。 そんな状況だけに、彼らがアメリカ大統領のところに行っちゃう、という気持ちも分かるな。多分、彼らの話をマジで聞いて、善処しようと努力するのは、世界の中でアメリカ大統領だけでしょうからね。 この件に関し、我が国の官房長官は「日本政府を介さず、直接大統領に会われた方が、効果があったと思います」なんて言ってたようですけど、それもすごい発言ですな。我々は関知しないから、よその国の元首に頼んだら? と言っているようなもんじゃないですか。 ま、そういう政府の対応を見ても、結局、当事者たる二国間で解決しない問題について、解決の手助けをしようとしてくれるのは、世界広しといえどもアメリカだけだ、ということを横田さんご夫妻はしかと感じたでしょうね。自分の国も何にもやってくれないし、国連もほったらかし。頼りになるのはアメリカだけだと。 これが現実なんですよ。世界の中でアメリカだけが「警察国家」なのであって、被害にあったら警察に届けるのが一番、というわけです。 ところで、私は若い世代の人たちと接することが多いのでよく知っているのですが、彼らにアメリカの印象を尋ねると、「自分だけが正しいと思っているのが嫌い」というのが圧倒的多数なんです。「アメリカの正義」を世界に通用させようとするのが嫌だと。10人の学生に聞くと10人がそう答えます。多分、日本人の大多数も、そう思っているんじゃないでしょうか。 で、私はそういう同胞に尋ねたいんです。あなたたちは横田さんご夫妻の訪米&大統領との会見をどう見るのか、と。 日本のアホなマスコミは、米軍の基地の移動のために日本が金を出すのはおかしい、というところばかりに目をつけますが、異国の一家の災難のために立ち上がるのは世界の中でアメリカだけだ、ということをなぜ取り上げないのか。 いや、それだけじゃないですよ。例えば日本のタンカーが原油を積んで中東から帰ってくる時、そのタンカーを海賊の手から守っているのは誰なのか。米国第7艦隊じゃないですか。そもそも日本の日常生活は、アメリカによって守られているんです。戦争が起こるときだけじゃない。それを「正義の押し売り」だと、果たして誰が言えるのか。 アメリカを批判するのは簡単なんですよ。だけど、批判するなら、ちゃんと見るべきところを見てからやってくれ、と私は言いたい。 閑話休題。 さて、私は今日、東京の実家に戻ってきました。連休の谷間ということもあって、大した渋滞もなく、スムーズに帰ってくることができました。 ところで東名を3時間も走っていると、色々な車を見かけるわけですが、ま、車好きの私から見て、「お! こいつはカッコイイ車だな」というのを見かけることは、そうあるわけではありません。1台あるかないか、というところです。 で、今日、「お!」と思ったのはBMWの大型クーペ、6シリーズが走っているのを見かけた時。クリス・バングルによってめちゃくちゃにされてしまったBMWのデザインですが、新型の6シリーズは、それでもまともな部類ですな。あまり見かけることがない車なので、ちょっと見とれてしまいましたよ。 しかし、こういう伊達な車に限って、乗っている奴のレベルが低いというのか、今日見かけた6シリーズも、例によってリア・フォグランプを点けて走ってましたよ。この種の高級外車に乗ってる奴って、なんでこれ見よがしにリア・フォグ点けるんだろう? これも分からんなあ。 でも、こういう無法者の車に揉まれながら、とにかく無事に実家に着いたから良かった、良かった。 さて明日は、恒例となりました「中年男たちのバーベQパーティー」の模様をお伝えできると思います。それでは、お休みなさーい!
May 2, 2006
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年度末は何かと不運なことが多かったワタクシ。しかし、このところ、何となくですが、運気が上昇しているような気がするんです。 例えば、昨日。近所のスーパーで買物をしていたら、ゴールでンウィーク中のイベントとして、「福引」をやっていたんです。それで家内と私と一回ずつ引いたら、私の方が大当たり! で、見事「お茶漬け海苔セット」(200円相当)をゲット!! ま、それだけのことですが・・・。 いや、実はそれだけじゃないんですよー。ついこの間、共著でアメリカ文化史関連の本を出版しまして、そのことはこのブログでも報告しましたが、どうやらそれがかなりの勢いで売れているらしいんです。朝日新聞に広告が出たのをきっかけにして、売れ行きにはずみがついたらしいんですな。編集者の人が舞い上がってましたから、相当なものなんでしょう。地味な出版社から出た地味な本だっただけに、それが売れているというのは私としてはむしろ意外なんですが、それでも自分が携わった本が売れているというのは嬉しいもので、その点でもちょっとご機嫌なんですわ。 その他、この種の幸運が2、3続いたもので、あれ、なんかちょっといい感じじゃないの? なーんて思っとるわけですよ。 こういう場合、どうしたらいいんでしょう? 宝クジでも、買っとくべきでしょうか? いやいや、やっぱりこの運気は仕事で使わないといかんですよね。このいい気分をバネに、今まで手がけてきた仕事を一つにまとめる作業にでも取り組み始めるとしましょうか。 でも、今は季節もいいですし、仕事の前にちょっと遊ばないとね。てなわけで、明日は夜、東京の実家に戻ります。東京に場所を移して、ひとしきり遊んで、心身ともに充電して、それからエネルギー全開で仕事しまーす。 それでは、明日からはしばらく東京からの更新となりますが、引き続きご贔屓のほど、よろしくお願いいたしやす。
May 1, 2006
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