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読後感を書いておく。著者は、大正15年東京生まれ。現在は、85歳くらいか。この本は、80歳くらいの時期に書かれたようである。いろいろと興味深いことが書かれているが、歳を重ねるという現実は素直に受け入れるしかないか。
2011/09/14
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あだし野の露きゆる時なく、鳥部山の烟立ちさらでのみ住みはつるならひならば、いかに物のあはれもなからむ。世は、定めなきこそいみじけれ。命あるものを見るに、人ばかり久しきはなし。かげろふのゆふべをまち、夏の蝉の春秋を知らぬもあるぞかし。つくづくと一年を暮らすほどだにも、こよのうのどけしや。あかず惜しと思はば、千年を過ぐすとも、一夜の夢の心ちこそせめ。すみはてぬ世に、みにくきすがたを待ちえて何かはせむ。命長ければ辱多し。長くとも、四十に足らぬ程にて死なむこそめやすかるべけれ。その程過ぎぬれば、形をはづる心もなく、人に出でまじらはむことを思ひ、夕べの陽に子孫を愛してさかゆく末を見むまでの命をあらまし。ひたすら世をむさぼる心のみ深く、もののあはれもしらずなりゆくなむあさましき。(第七段)------------------------------------------------------------【上記の感想】上記は、『徒然草』の引用。京都に鳥部山はあるようだ。鳥辺山と今は書くようだが。さて、今の時期になると、秋の虫の鳴き声が聞こえる。そして、蝉の鳴き声が弱くなり、ツクツクボウシの鳴き声が目立つようになる。世の中の無常感が漂う時期である。そんなことを思うこの頃。
2011/09/05
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この本は、2010年2月13日に発行されたものである。なぜ、この日付かというと、バンクーバーオリンピックが行われたのが、2010年2月12日~28日であるからのようだ。当然ながら、この本は、バンクーバーでの競技の前に書かれた本である。著者は、言わずと知れたモーグルスキーヤーである。出場した4回のオリンピックの結果だけを書けば、長野での7位から、まさに一歩一歩の前進で、バンクーバーでは4位。次のオリンピック(2014年、ロシアのソチで開催予定)のことは、さすがに現時点では話題にもなっていないが、出場してメダルを獲得してもらいたいものだ。
2011/06/18
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久々に読書日記を書く。この作品は、1995年の山本周五郎賞の受賞作。山本周五郎という名前のつく文学賞なので、涙をさそう感動の中にユーモアのある優れた作品が受賞対象になっているのか。そんな想像をする。実際、この作品はそういった点は、堪能できた。この文学賞を受賞した他の作品も読んでみようかな、と思ったりしている。
2011/04/09
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この本は、2004年4月に発行されました。今から、6年前になります。著者の宇田川清江さんは、当時、NHKのラジオ深夜便のアンカー。ただ、今年になり、20年間務めたラジオ深夜便を勇退されたそうです。お疲れ様でした。以下は、4月13日の産経新聞の引用です。---引用開始---“大人のラジオ”として中高年を中心に絶大な支持を得ているNHKの「ラジオ深夜便」。スタートから20年にわたりアンカーを務めてきた宇田川清江さん(75)が3月、番組を勇退した。働く女性として、母として、必死に駆け抜けた半生を振り返り、「人とのつながりが大切だということを、しみじみと感じます」と語る。 「ラジオ深夜便」がスタートしたのは平成2年。宇田川さん50代の時だった。ラジオの深夜放送といえば若者向けの番組が多い中、静かな音楽を挟みつつ、メーンキャスターに当たるアンカーがリスナーに語りかけるようにゆっくりと話す番組は人気となった。 「まさか、夜眠れない人があれほどたくさん聞いてくださっているとは」と宇田川さんは振り返る。中には介護や病気の痛みをこらえて耳を傾けてくれる人たちもいた。 優しい声が印象的な宇田川さんだが、これまで歩んできた道のりは決して平坦(へいたん)ではなかったと明かす。 NHK入局は昭和32年。当時はまだ、女性がニュースを読むと信憑(しんぴょう)性がないといわれていた時代だった。初任地の札幌勤務を経て、35年に東京のアナウンス部に異動。テレビの「生活の知恵」「婦人の時間」などの番組を任されるようになった。しかし、転機はすぐに訪れた。「デスクには『子供は産むなよ』といわれていましたが、どうも私は間が悪い人間のようで、2年後に子供ができました」と笑う。 39年にNHKを退職。フリーになるが、子供の交通事故を機にすべての仕事を降りた。軽いけがで済んだものの、目を配らせられなかったことに自責の念を感じたからだ。 2年ほど家庭で過ごしたが、時々、仕事の虫がうずく。姑(しゅうとめ)に育児の協力を嘆願し、NHK国際放送の「ラジオ・ジャパン」に復帰。子供がようやく手を離れたころ、「ラジオ深夜便」の仕事が舞い込んだ。時に悩み、立ち止まりながらも、仕事を続けてきた女性が放つ言葉は、多くのリスナーの心に響いた。 3月末、放送界を牽引(けんいん)してきた功績が認められ、「放送ウーマン賞2009」の「40周年特別賞」が贈られた。「細々とでもマイクの前で仕事ができたのは、いただいたご縁があったから。フリーとなり、家庭に犠牲を払いながらも続けてきたことが、評価していただけたのかな。私の一世一代の受賞でございます」 トロフィーを胸に抱え、はじけるような笑顔が輝いていた。(三宅陽子さんによる文章です)---引用終了---
2010/05/03
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最近、鬼平に凝っている。【この本からの引用】と【上記の感想】をいう形で、少々書いておきます。直近の関連日記は、こちら。【この本からの引用】平蔵の背後へ忍び寄って来た浪人ば編笠をぬぎ捨てざま、【上記の感想】編笠とは何か。顔を隠し気味にかぶる藁で編んだような帽子で、雨よけにもなるもの。まあ、そんな感じだとは思いますが、自信がないので調べてみます。まず、手元の新明解によると、「スゲやイや藁で編み、頭にかぶる笠。日よけや顔を隠すのに用いられた」と。これだと、私が想像する「雨よけ」には用いられないような。また、「編笠」と「すげ笠」を混同しているような。「すげ笠」は遍路旅に用いられ、雨よけと日よけを兼ねているようである。【この本からの引用】木村忠吾が突棒で撲りつけた。【上記の感想】「突棒」とは何か。手元の新明解によると、「江戸時代、罪人を捕り押えるのに用いた、丁字定規風の道具。頭部は鉄製で歯をたくさんつけ、それをそでなどにからみつけた。」文字だけでまとめると、けっこう苦しいですね。(笑)こちらの画像で確認しましょう。
2008/10/30
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【この本からの引用】と【上記の感想】という形で読後感を書いておきます。日本刀のことを、ちょっとだけですけどね。関連日記は、こちら。【この本からの引用】平蔵の腰間から疾り出た愛刀・粟田口国綱の切先が、ざっくりと切り割った。【上記の感想】日本刀には興味がないが、気まぐれで調べてみます。鬼平の刀は、粟田口国綱とのこと。さて、その粟田口国綱はというと、人物名のようです。何となくわかっていましたが、日本刀の名称は刀工名で語られるようです。以下に、ウィキペディアより引用しておきます。「粟田口国綱(あわたぐちくにつな、1163年?-1255年頃)は、鎌倉時代初期、山城国粟田口の刀工。本名、林藤六郎。左近将監を称する。」
2008/10/28
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読後感を書いておきます。【この本からの引用】と【上記の感想】という形で。【この本からの引用】紙に包まれた金は、小判で一両。現代でいえば、およそ十万円にも相当しよう。【上記の感想】一両は十万円と覚えておけば良いようです。が、それでは大雑把すぎるので、日銀のウエブサイトで調べてみました。すると、つぎのように書かれていました。-----引用開始-----江戸時代における貨幣の価値がいくらに当たるかという問題は、大変難しい問題です。なぜならば、当時と現在では世の中の仕組みや人々のくらし向きが全く異なっていて、現在と同じ名称の商品やサービスが江戸時代に存在していたとしても、その内容や人々がそれを必要とする度合いなどに違いがみられるからです。ただ、一応の試算として江戸時代中期の1両(元文小判)を、米価、賃金(大工の手間賃)、そば代金をもとに当時と現在の価格を比較してみると、米価では1両=約4万円、賃金で1両=30~40万円、そば代金では1両=12~13万円ということになります。また、米価から計算した金一両の価値は、江戸時代の各時期において差がみられ、おおよそ初期で10万円、中~後期で3~5万円、幕末頃には3~4千円になります。 -----引用終了-----何がなんだか分らなくなりました。通貨の価値が永久に変らないなどということはないという、当たり前のことを確認しただけでした。【この本からの引用】同心・木村忠吾と松永弥四郎へ密偵ニ名をあたえ、【上記の感想】木村忠吾と書き、「きむらちゅうご」と読む。鬼平初心者なので、こんなことも知らなかった。ニックネームは、うさぎ。なぜうさぎなのか、その理由を調べておいた。以下に、書いておきます。ネットで借用させていただきました。m(__)m-----引用開始-----木村忠吾が物語に初めて登場するのは第二巻の第二話、「谷中・いろは茶屋」にてである。火盗改メの同心とは似つかないおとなしい性質、芝・神明前のお菓子屋さん「まつむら」で売られている「うさぎ饅頭」そっくりなことから口の悪い与力・同心から「兎忠さん」と呼ばれていた。いくらからかわれても童顔へにたにたと笑いを浮かべ怒りもしないのろまだが、愛嬌があり皆から愛される人柄である。」-----引用終了-----
2008/10/27
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『今昔物語集』の巻17ノ3の読後感を書きます。あらすじは、治安維持を司る役人が、合戦中に矢をすべて射尽くしたため、非常なピンチに陥った。その際、自身の氏寺の地蔵菩薩に助けて下さいと祈念した。すると、一人の小僧が現れ、次々と矢を拾って役人に渡してくれた。しかし、その小僧は合戦の途中で、背中に矢を射られてしまい、役人は小僧を見失ってしまった。さいわい合戦の方は勝利をおさめた。その後、役人は氏寺に参詣し、地蔵菩薩を見たところ、その地蔵菩薩の背中に矢が立っていた。それを見て、役人は、戦場で自分を救ったのは地蔵菩薩だったことを知り、感激した。まあ、こんな感じですか。要するに、地蔵菩薩は大変ありがたい存在だと説いていると思われます。以下に、調べたことを、少々書いておきます。「日本においては、浄土信仰が普及した平安時代以降、極楽浄土に往生のかなわない衆生は、必ず地獄へ堕ちるものという信仰が強まり、地蔵に対して、地獄における責め苦からの救済を欣求するようになった。賽の河原で獄卒に責められる子供を地蔵菩薩が守るという民間信仰もあり、子供や水子の供養でも地蔵信仰を集めた。また、関西では地蔵盆は子供の祭りとして扱われる。また道祖神と習合したため、日本全国の路傍で石像が数多く祀られた。」(ウィキペディアより)これは、日本の地蔵信仰について書かれた部分。今でも、昔からある道の傍らに、お地蔵さんを見ることがある。この地蔵信仰は、平安時代以降に盛んになったようである。ところで、今昔物語の成立はというと、12世紀前半で平安末期だそうです。多分、地蔵信仰が盛んだった時期だと思います。「胡ぐい(やなぐい):矢を入れ、腰につけて携帯する道具。奈良時代から使われ、状差し状の狩胡(かりやなぐい)と幅の広い平胡(ひらやなぐい)とがある。また、古製の靫(ゆき)が発展したものを平安時代からは壺胡(つぼやなぐい)といい、公家の儀仗用となった。行列では、女性が手に持って歩く。」(ネットで借用 m(__)m)「やなぐい」というのは、矢を入れるものです。今となっては使われることなど決してなさそうな言葉ですね。
2008/10/22
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読後感を書いておきます。この作品は、いわゆる時代小説です。舞台は、江戸時代です。以下に、【この本からの引用】と【上記の感想】を書きます。【この本からの引用】今からざっと40年前の寛政時代、改革が行われて、「相対済し」という法令が出た。「相対済し」とは、金銭を貸した方と借りた方との話し合いで問題を解決することだが、この時のそれは、旗本や御家人の焦げついている借金を帳消しにせよと、札差に申し渡したのだと聞いている。【上記の感想】当時は、武士が商人から借金をするのが一般的だったようです。今までの借金は返済しなくても良いことになり、当然武士は喜ぶものと思われます。が、実際は借金をした武士が困ってしまったというのだから、世の中わかりません。その理由は、今までの借金はちゃらにすることにより、今後は一切お金を貸してもらえなくなるから。【この本からの引用】男は今、茶店の床机に腰をおろしている。飯倉神明宮の境内であった。参詣をすませた男は、さすがにすぐ炎天下を引き返す気になれなかったのか、たっぷりと葉を茂らせた大木の陰にある茶店へ向かって行ったのだった。【上記の感想】「飯倉神明宮」を調べてみました。東京都港区にある「芝大神宮」のことでした。同神宮のウエブサイトには、次のように書かれています。「芝大神宮は、伊勢神宮の御祭神、天照大御神(内宮)、豊受大神(外宮)の二柱を主祭神としてお祀りしています。御鎮座は遠く平安時代、寛弘二年(1005年)一条天皇の御代に創建された由緒あるお社です。 古くは、飯倉神明宮、芝神明宮と称され鎌倉時代においては、源頼朝公より篤い信仰の下、社地の寄贈を受け、江戸時代においては、徳川幕府の篤い保護の下に社頭はにぎわい大江戸の大産土神として関東一円の庶民信仰を集め、「関東のお伊勢さま」として数多くの人々の崇敬を戴きました。その当時の賑わいは、広重の錦絵に窺うことができます。 その後の当宮の社史をみますと、明治、大正、昭和初期の関東大震災、太平洋戦争の激動期においても、数多くの苦難にも耐えて氏子並びに崇敬者に支えられ現在の御社殿に至ります。」
2008/10/20
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読後感を書いておきます。この本は、1995~1997年に書かれた作品をまとめて、1997年10月に発行されました。著者が70歳位の時期に書かれたものと思われます。最近私が読んだ著者の本の読後感は、こちらです。以下に、【この本からの引用】と【上記の感想】を書いておきます。【この本からの引用】一生もの、ということを昔はよくいいました。一生かけて大事にするもの、一生かけて長く使うもの、といったようなことなのですが、その品物は各人いろいろで、髪飾り、指輪などから、着るものなら結城というようなことです。【上記の感想】これは、幸田文の随筆『月の塵』より、著者が引用した部分。つまり、孫引きになります。私などの親の世代は、一生ものという言葉を確かに使っていました。私が子供の頃のことになりますが。しかし、今となっては、私自身がその言葉を使うことがなくなってしまいました。事実、一生ものというほど大切に使っているものが見当たりません。要するに使い捨てが普通のことになり、安い物を買ってその後買いかえるというようなサイクルが、ごく自然なことになっています。勢い、良いものを選び取る能力というものが、ゼロに近いように思います。ただ最近になり、自分の残された時間を思うと、良いものを長く使ってみたいと思うようになってきました。例えば、少々値がはりましたが、防水タイプで靴底に路面で滑りにくい構造にした靴を最近買いました。これが中々履き心地が良く、良い物を使うということの良さを認識した次第です。【この本からの引用】その店の主人がいい蕎麦を作ることを天職にしている人で、日本中に出来のいい蕎麦粉を求め、みずから粉にひき手で打ち、最高の蕎麦を客に供することに情熱を傾けている。【上記の感想】蕎麦を私は良く食べてきました。が、本当に食べてきたのと問われれば、赤面せざるをえません。立ち食い蕎麦や、市販の干しそば、更にはカップめんなどが、ほとんどだからです。しかも、一人で短時間に食べるという状況です。単に私が歳をとったと言えばそれまでですが、最近になり、いわゆる「蕎麦を掻き込む」という習慣に、多少の変化が出てきました。つまり、ゆっくりと味わいながら、蕎麦を賞味するというふうに。と、偉そうなことを書きましたが、そんな高級な?食べ方は初心者です。レベル的には、蕎麦粉8:小麦粉2で打った蕎麦を「二八そば」と言うことを、つい最近知りました。まあ、そんなことを思いました。
2008/10/12
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読後感を書いておきます。この本は2006年に発行されました。著者は2004年に他界されました。その年の2月8日から3月18日までの日記を、この『ガン日記』に収めてあります。以下に、【この本からの引用】と【上記の感想】を書きます。【この本からの引用】近藤啓太郎の如き人間が現れるとは、思いもよらざるべし。鴨川の亀田病院は近藤の人柄をよく知りおれば、その言い分を許したるならん、これも偉大なる医療行為也。【上記の感想】私は千葉県に住んでいますが、鴨川の亀田病院というのは今も評判が良い。ただし、具体的なことはわからず。【この本からの引用】中江兆民「一年有半」をよみだす。兆民のは喉頭ガン也。【上記の感想】ガンのことを書いた本を、私はほとんど読んだことがありません。さいわい私自身がガンを意識する機会がなかったからです。中江兆民がガンで他界したと知り、ガンというのは以前よりあった病なのかと、驚く始末です。それだけ、現在の日本では、ガンが珍しくなくなったということでしょう。良く言えば、他の原因で亡くなることが少なくなったということでしょうか。著者は食道ガンで亡くなり、兆民は喉頭ガンで亡くなりました。ガンについての知識は素人ゆえ、調べてみました。国立ガンセンターのウエブサイトによると、食道ガンについて、次のように書かれています。「食道がんについては、喫煙と飲酒が確立したリスク要因とされています。特に扁平(へんぺい)上皮がんではその関連が強いことがわかっています。また、喫煙と飲酒が相乗的に作用してリスクが高くなることも指摘されています。食道がんが多く見られる南ブラジルやウルグアイでは、熱いマテ茶を飲む習慣があります。中国や日本、香港からも、熱い飲食物が食道粘膜の炎症を通して、食道がんのリスクを上げることを示す研究結果が多く報告されています。熱いものを飲んだり食べたりする食習慣が、おそらく確実なリスク要因でしょう。近年、欧米で急増している腺がんについては、胃・食道逆流症に加えて、肥満で確実にリスクが高くなるとされています。予防要因では、野菜・果物の摂取がおそらく確実とされています。」喫煙はしないし、飲酒も適量と思いますが、熱いものを飲食するのは控えなければいけないような気がしてきました。【この本からの引用】まだ前にずっと命がつづいているような気がしていた時と、残り一年と限られた時とで、別に生きる心掛けに変ることはない。前々から、生きるのは今日一日、「今ココニ」の時空しかないとして生きてきた。これが生涯かけて文学をやって来て最後に得たものだ。生きるのは、「今ココニ」しかないと覚悟すれば、先に時があるかないかは何の変りもないわけである。【上記の感想】余命一年を宣告された著者が書かれたことですが、感動的であります。「今ココニ」というのは、著者が他の作品でも繰り返し書かれている言葉です。まだ著者の作品を読み続ける予定ですので、この言葉の意味を考えながら読んでいこうと思いました。
2008/10/01
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読後感を書いておきます。この本は1999年に発行されましたので、著者が70歳を越えてから書かれたものと思います。著者の作品を私は最近続けて読んでいますが、直近の関連日記はこちらです。最近続けて読んでいる理由は、今後のどうやって生きていくかを考えるうえで、大変参考になると思うからです。以下に、【この本からの引用】と【上記の感想】を書きます。【この本からの引用】数年前わたしはこの寺の墓地に墓を作ったので、ついでにその話もしておく。【上記の感想】著者は自分の墓のことを、何度も書かれていますね。(関連日記は、こちら)一言で言えば、歳は争えないということでしょうか。そんなことは誰でも中年以上になれば自覚することで、どうしようもないので、微笑ましくなります。さて、今回は著者の墓があるという、信州須坂の浄運寺のウエブサイトを訪問してみました。「墓など作る気もなかった」著者が、一目惚れしてここに墓を作ろうと思った場所とのことなので。ウエブサイトを見ると、「霊園分譲中」とのことです。興味をお持ちになられた方は、墓を作ることをお勧めします。と、なぜここまで宣伝するのかというと、ウエブサイトに著者の墓の画像が載っており、無断でお借りするためです。(m(__)m)見晴らしが素晴らしそうです。【この本からの引用】わたしがついに探しあてた理想の仕事椅子はスイスのジロフレックス社のものだった。【上記の感想】ちょうど椅子を買いたいと思っていたので、思わず引用。27ページに著者が愛用していた同社の椅子の画像がありますが、それを見ると、この椅子は、同社の82か83のようです。重厚感と柔軟性をあわせ持つような感じの椅子です。
2008/09/29
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読後感を書いておきます。この本は、平成10年12月に発行されました。したがって、著者が70歳を越えてから書かれた作品と思われます。著者の作品の読後感を書いた直近の私の日記は、こちらです。以下に、【この本からの引用】と【上記の感想】を書きます。【この本からの引用】日本でもつい五十年ぐらい前までは、家を作るといえば、最低でも百年三代は保つものを建てると考えるのがふつうだった。が、1970年ごろから家もまた大型耐久消費財と見做されるようになった。つまり商品になった。何とかハウスとか何とかホームという、名のある企業が住宅産業を始め、怒涛の勢いでプレハブ住宅作りが主流になっていった。注文主も大工の建てる家よりそういう既製品を好むようになった。【上記の感想】著者のお父様は、たしか大工だったと記憶しています。そのせいか、建築物に対する見方は、それなりに厳しいものがあります。一言で言えば、30年しか持たないような家を批判しています。が、最近になり?、日本政府が音頭をとっている100年住宅、200年住宅を作ることを目指しているようです。日本は湿気が多い気候であることや、少子化問題など、障害が多く、果して思惑どおりにいくかどうか微妙だと思われます。と言っても、住宅に関しては知らないことばかりの私の想像ですが。【この本からの引用】そこへ先年、松本健一『幕末の三舟』(講談社選書メチエ)という本が出たので、わたしは早速とびついて読み、この三舟の生き方について、またとくに泥舟について新しい事実を知ることができたのであった。【上記の感想】私も『幕末の三舟』を読み、こちらに読後感を書きました。そこでは、「高橋泥舟は私にとって馴染みがない人物でした。今回この本を読むことで、はじめて知ることになりました。」と書きました。実際、私が高橋泥舟のことを知ったのは、ほんの3年前のことです。三舟(勝海舟・山岡鉄舟・高橋泥舟)生き方はそれぞれですが、著者は泥舟を「無私」というタイトルで一つの話にまとめています。江戸から明治になる転換期に幕府方の人物として存在感のあった泥舟ですが、新政府に仕官することなく、隠退したという点で評価されているようです。私も、その点には賛成したいと思います。
2008/09/28
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読後感を書いておきます。この本は、昭和62年に発行されました。つまり21年前になりますか、早いものです。当時の著者の年齢は60歳を超えた位です。この本は、ハラスと命名した飼い犬を亡くした後に書いた、ハラスと過ごした13年間の回想録です。著者の場合、47歳で初めて犬を飼うという経験をされたとのこと。なお、中野孝次の作品の読後感を書いた最近の日記は、こちらです。以下に、【この本からの引用】と【上記の感想】を書きます。【この本からの引用】「へっ、戦争中のことを忘れたのかよ。石油なんかいつ輸入されなくなるかもしれやしねえ。」【上記の感想】いきなりハラスとは関係ない会話の部分です。これは、著者がある村人との会話で語った言葉です。著者は1925年生まれなので、多感な10代後半で戦争を経験されています。今の相場の話ですが、ここにきて原油価格の下落が続いています。投機による価格上昇が何割だとか、色々と言われていますが、このまま原油価格が下落し続けると言う考えは、楽観的すぎるかもしれません。ふと思ったので、書きとめておきました。【この本からの引用】獣医は仔犬を渡すときに血統書も一緒につけてよこしたが、あらためてそれを見るとなんでも大変な血統のようである。【上記の感想】私は犬を飼ったことがないので、血統書を見たことがありません。そこで、調べてみました。社団法人ジャパンケネルクラブのウエブサイトによると、「血統証明書とは、社団法人ジャパンケネルクラブ(JKC)に血統登録された同一犬種の父母によって生まれた子犬に対して発行されるもので、人間に例えると「戸籍」のようなものにあたります。純粋犬種は、この血統証明書によって、本犬、両親から祖先まですべて同一の犬種であるということが証明されなければなりません。」と書かれていました。血統書は、正式には血統証明書というようです。【この本からの引用】小説家の近藤啓太郎さんは、かつてみずから「八溝犬舎」というのを経営していたくらいで、犬に関しては玄人といっていい男だが、あるときタクシーの中でわたしにこう言った。「毎日犬の散歩をさせないようなやつは飼う資格がないよ。鎖で繋ぎっぱなしにしとくくらいなら、保健所にわたしてしまったほうがよっぽど犬のためなんだ。」【上記の感想】私も子供の頃、犬を飼いたいと思ったことがありますが、結局は散歩を毎日する自信がなく断念させられた記憶があります。犬を飼うのは中々大変なことです。近藤啓太郎を、ちょっと調べておきます。中野孝次よりも5歳ほど年長の方でした。以下に、ウィキペディアより引いておきます。-----引用開始-----近藤 啓太郎(こんどう けいたろう、1920年3月25日 - 2002年2月1日)は、作家。三重県四日市市生まれ。東京美術学校日本画科卒業。戦後、千葉県鴨川で一年ほど漁業に従事する。その後鴨川中学校図工科教師となり、かたわら創作を行う。1952年、「遭難」を『早稲田文学』に発表してデビュー、1956年、「海人舟」で芥川賞受賞。第三の新人の一人に数えられ、阿川弘之、吉行淳之介、安岡章太郎らとは終生親しくつきあった。----引用終了-----
2008/09/19
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読後感を書いておきます。この本は2003年に発行されました。著者が77歳くらいの、まさに晩年の作品になります。著者の作品は数冊読んでいますが、直近では、こちらに読後感を書きました。以下に、【この本からの引用】と【上記の感想】を書きます。【この本からの引用】これは六十の手習いというように、事実僕は六十歳の年から始めたのだが、老年の娯しみの一つに数える。何がいいかといえば、字がうまくなることではなく、書をするその状態がいいのだ。【上記の感想】ある程度の歳を重ねてから始めると、うまくなるというのが不可能です。偉そうに断定的に書いてしまいましたが、私のピアノもうまくなるのは無理というもの。もちろん、毎日やっていれば、それなりにはうまくなりますが、うまくなることが楽しみであるならば、相当忍耐強くなければ耐えられません。それほど、遅々たるスピードでの上達と言えるでしょう。著者は、「書をするその状態がいい」と言われます。例えば、墨を磨るときの香り、硯の形状や材質など、楽しみ方は色々あるようです。私のピアノの場合にしても、天候による音の微妙な違いを楽しむなど、色々な楽しみがあります。まあ、そんなことを考えてみました。【この本からの引用】私はスペイン人の個人生活を高く買っている。むしろ愛してさえいる。ナポリ人と同じく彼らは、イギリス人のように新しい服を買うために一日十五時間働くくらいなら、穴のあいた服を着ている方がましだといのである。私は実は彼らの意見に賛成なのである。【上記の感想】これは、スタンダールの著書の引用です。つまり、孫引きになります。スタンダリアンというと、まず大岡昇平が浮かんできますが、中野孝次もスタンダリアンのようです。経済的繁栄という観点から見ると、19世紀はイギリス、20世紀はアメリカという感じでしょうか。スタンダールは19世紀のフランスの作家ですが、上記引用部は、イギリスを皮肉っていいるように思えます。日本の経済的繁栄というと、20世紀後半の30年位でしょうか。アメリカ型の大量生産大量消費が幅をきかせていた時代で、長時間労働をして物が増えていくことに幸福を感じていた時代であったと言われています。どこの国でも、始めの物を持たない段階では、物を持つことが幸福であると思うものなのでしょう。まあ、当たり前でしょうけど。
2008/09/17
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読後感を書いておきます。この本は、1998年11月に発行されました。当時の著者の年齢は、73歳位でした。以下に、【この本からの引用】と【上記の感想】を書いてみます。【この本からの引用】大体良寛という人は、子供と毬つきをしていたことばかり有名だが、非常な勉強家で、独学で『万葉集』も勉強するし、何かに熱中しだすとかぎりなくのめりこんでゆくタイプの人であったようだ。だから書もやりだすとかぎりなくのめりこんでゆくタイプの人であったようだ。だから書もやりだすと徹底して学んだのである。【上記の感想】著者は、書が好きだったようである。自ら書くこと、そして鑑賞することも。かつて、『老年の愉しみ』の読後感を書いた日記で、同書より「書で難しいのは上手に書けるかどうかではなくて、無心に書けるかどうかである。」という一節を抜粋して、私なりの感想を書きました。さて、今回は、良寛について書かれていました。良寛という人は、実に良い字を書いたというのが著者の考えです。画像で紹介されていますが、書のことなど門外漢の私には、良くわかりません。本に載っている小さな画像を見ているだけでもありますので。多分、本物を目にすると、別の思いを持つかもしれません。折しも、今年は良寛生誕250年に当たるようで、良寛に関連する土地では、いろいろなイベントが開催されているようです。【この本からの引用】墓の形は、かねてから鎌倉東慶寺にある小林秀雄の五輪塔が気に入っていたので、その真似をした。小林秀雄の墓はその五輪塔のほか何もないさっぱりしたもので、わたしはそれもその通りにしようと思っていた。【上記の感想】かつて、『なにを遺せますか』という著者の本を読んだとき、墓のことを書かれていました。こちらです。著者の場合は、ながらく「死んでも墓など要らぬ、骨は海か森にでも撒いてくれ、と言いつづけてきた」そうです。が、その後、結局は墓を自ら準備したとのこと。その辺の事情はともかく、「五輪塔」とは何でしょうか。ちょっと調べてみました。ウィキペディアの冒頭には、「五輪塔(ごりんとう)は、主に供養塔・墓塔として使われる仏塔の一種である。五輪卒塔婆、五輪解脱とも呼ばれる。」と書かれています。これだけでは抽象的すぎて何がなんだかわかりませんが、色々と読んでいくと、墓参りの際、これが五輪塔だという程度はわかるようになりました。
2008/09/10
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読後感を書きます。この本は、2006年3月に発行されました。執筆時の著者の年齢は、75歳くらいと思われます。著者の本は、過去にも数冊読んでおり、こちらの日記などに、読後感を書きました。以下に、【この本からの引用】と【上記の感想】を書きます。【この本からの引用】十代の若者が、一人乗りの飛行機に片道のガソリンだけを詰めて敵の陣営に突っ込んでいったんですよ。その若者たちは突撃しながら、まもなく靖国神社で両親と再会し、仲間たちと落ち合えるんだと自分に言い聞かせたことでしょう。靖国神社とは、そういうところなのです。国の代表としての首相が参拝するのは当然です!」【上記の感想】これは、六星占術の細木数子さんがテレビで語った言葉だそうです。国の代表が堂々と参拝できれば良いのですが、それを望む方々もまた多い。しかし、それを望まない方々もまた多く、声が大きい。さらにメディアの賛否両論の声がまた大きい。この状況では、国の代表が参拝するのは容易なことではない。ただ、皮肉なことに、国の代表が参拝することの賛否両論があり、注目されることで、先の戦争を風化させないという効用があると思われます。【この本からの引用】山崎拓議員を中心として、超党派の議員が突然、「国立追悼施設を考える」と言いだしたときには正直なところ驚いた。(2005年10月)【上記の感想】国立追悼施設を建てることにも、もちろん賛否両論があります。建てる理由、場所など、まだまだ議論すべき点が多いようです。著者の考えは著書を読めばわかりますが、仮に建てるとしたら、硫黄島に建てるとことを提案したいとのこと。なかなかユニークであります。なお、4年近く前になりますが、『新しい追悼施設は必要か』の読後感を書きました。その日記を読み返して見ると、靖国神社にまつられているのは軍人・軍属であり、広島や長崎の原爆による戦没者、東京や大阪などの空襲による戦没者などは、対象になっていないので、靖国神社を「追悼の中心施設」と位置づけるのは適当ではないとの意見がありました。4年前も今も、この意見には、なるほどと思わせるものがあります。
2008/08/31
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読後感を書いておきます。この本は1998年9月発行ですので、10年前になりますか。著者が60歳になる前に書かれた本になります。著者が書かれた本の感想は過去に書きました。『対論 昭和天皇』と『皇后四代』です。どちらも3年前に読んだ本ですが、当時は皇室に興味をもっていたことが思い出されます。以下に、今回読んだ『晩年の研究』を、【この本からの引用】と【上記の感想】という形で書いてみます。【この本からの引用】松田がなにげなく右手を見せてくれた右手の人指し指と親指の第二関節付近に、穴があいているのである。その穴に絵筆がすっぽりとおさまる。【上記の感想】松田というのは、松田権六という漆芸家のことです。ウィキペディアには、次のように書かれています。-----ウィキペディアより引用開始-----松田 権六(まつだ ごんろく、1896年4月20日 - 1986年6月15日)は石川県金沢市生まれの蒔絵師である。「うるしの神様」の異名を持つ。7歳で蒔絵の修行を始める。石川県立工業学校漆工科、東京美術学校漆工科を経て1943年 東京美術学校教授に就任、以後36年教鞭を取る。1947年日本芸術院会員となり1955年 2月15日に重要無形文化財(人間国宝)保持認定を受ける。伝統工芸の復興に力を尽くす一方で並木製作所の蒔絵万年筆(ダンヒル・ナミキ)の製作指導といった新しい蒔絵の模索も行っている(この万年筆は、ドイツ皇帝が、詔勅にサインする国璽用にも使われた)。-----引用終了-----その松田権六の右手ですが、筆をもつことにより、自然と穴があいてしまったようです。それだけ精力的に描き続けたということのようです。【この本からの引用】あなたは、自分の晩年の生き方を想像してみたことがあるだろうか。「晩年」という語に、特別のイメージはわかないので想像できないという人もいるかもしれない。【上記の感想】晩年とはどういう意味なのでしょうか。「人生において、死ぬ前の数年のことで、それまでに生きた時間とやや異なる生き方をした時間。」これは、私が今考えたことです。と言っても、まっさらな状態で考えたわけではなく、『晩年の研究』を読んだあとに考えたことです。では、三省堂の新明解をひいてみましょう。すると、晩年とは、「相応の人生経験を積んだ人が亡くなる前の数年間。中高年に達しない物故者の生涯について回顧する時にはあまり用いない。」と書かれていました。ごく普通ですね。さて、自分の晩年の想像ですが、貧困な人間関係しか築いていないため、寂しい晩年になりそうですね。まあ、あまり想像したくはないです。(苦笑)それから、今のところは、何かを残そうとかという思いは全くないです。残すにもそんなものはないじゃないかと言われれば、その通りなんですが。(笑)これには、過去に読んだ本で安岡昌篤が言われていた次の言葉の影響を受けていると思われます。「すべてのものは何もかも消えていくのだ。それでよいではないか。自分は何一つ残すつもりはない。残そうと思うのは未練である」と。
2008/08/24
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読後感を書いておきます。この本は、1994年頃に書かれたと思われます。著者は1930年生まれなので、執筆当時は64歳位であったと想像されます。「老い」について書くにはまだ若かったのではとも思いますが、「老い」を意識する分には、別に不思議ではないかも。なお、著者の作品は数冊読んでおり、読後感を書いたことがあります。それは、以下の2冊です。『我は苦難の道を行くー汪兆銘の真実』 『「北方領土」上陸記』 それでは、以下に、【この本からの引用】と【上記の感想】を書きます。【この本からの引用】硫黄島といえば、戦争を知らない世代にとっても重苦しいひびきで伝わっているようだ。太平洋戦争の玉砕の島である。さきごろ、玉砕の指揮をとった栗林忠道中将の未亡人らが慰霊のために島にわたると聞いて同行させていただいた。【上記の感想】ウィキペディアに、栗林忠道について、次のように書かれていました。-----引用開始-----死後、米国からは高評価を得ていたが、日本国内では局地戦で戦死した司令官ということもあり、一般的にはあまり注目されていなかった。しかし2006年、映画「硫黄島からの手紙」が公開され、渡辺謙が栗林を演じた事から、その人となり、軍人としての能力、トップとしてのリーダーシップ等に注目が集まっている。-----引用終了-----私は、映画「硫黄島からの手紙」を見ていないので、何とも言いかねます。まあ、機会があれば、見てみようと思います。【この本からの引用】戦後の恐慌期といわれた昭和24年に私は新入社員1年生になっている。勤め先は自動車のメーカーだったが、敗戦を期に生産は止まっていた。当然のコースとしてやがて会社側から首切りが提案されている。まず対象になったのは共稼ぎ女子社員だった。夫の将来は引き受けたから、妻のほうは勇退してほしいといわんばかりの通達が発表になったのである。【上記の感想】著者が働いていた自動車メーカーは、トヨタ自動車です。トヨタの株式を私は保有しているので、昭和24年頃の情勢を調べました。すると、戦後の恐慌期と言われるだけあり、企業は大変だったようです。それが、朝鮮戦争の勃発(昭和25年)で息を吹き返したと。まあ、そんなことを聞いたか読んだかしたなあ、と思い出しました。
2008/08/10
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読後感を書いておきます。この本は、2007年3月に発行されました。著者はプロ棋士で、この本の執筆時の年齢は36歳位になると思います。以下に、【この本からの引用】と【上記の感想】を書きます。【この本からの引用】いま私はNEC所属という形で、表記されるときは「四段・瀬川晶司(NEC)」となる。【上記の感想】著者は61年ぶりの編入試験を経て、プロ棋士になったという異色の経歴の持ち主です。アマチュア時代にはNEC関連企業に勤めていたため、今は、NECとスポンサー契約を結んでいるようです。NECのサイトにも、書かれています。【この本からの引用】「このうち信用で勝たせてもらった将棋も何局かある」【上記の感想】上記は、谷川17世名人(資格者)の著書に書かれていた一文だそうです。将棋界で使う「信用」という言葉、これは私たちが普段使う、「あの人は信用できる人なので、まかせておける」という類とは、ちょっと違うようです。将棋というのは、当然ながら勝負事です。「信用」があれば、対戦相手のほうで勝手に諦めてくれるというか、まだ粘れる局面でもこの人にはかなわないなと思わせる力、まあ、そんな意味で使われているようです。もちろん、その「信用」というのは、一朝一夕で出来上がるものではなく、もちろん将棋が強いのが前提ですが、日々の態度などから、自然と作られるみたいです。まあ、何となくわかるような気がします。
2008/07/27
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読後感を書いておきます。この本は、2007年8月に発行されました。城山三郎は、経済小説という分野のパイオニアと言われています。ウィキペディアにも、次のように書かれています。「城山 三郎(しろやま さぶろう、1927年8月18日 - 2007年3月22日)は小説家。経済小説の開拓者として、また伝記小説の作者として評価されている。本名は、杉浦 英一(すぎうら えいいち)。」以下に、【この本からの引用】と【上記の感想】を、少々書いてみます。【この本からの引用】父は大岡昇平さんのことを尊敬していました。【上記の感想】この本を読もうとした切っ掛けの一つが、実は、この一節です。大岡昇平については、ウィキペディアを見ると、次のように書かれています。「大岡 昇平(おおおか しょうへい, 1909年(明治42年)3月6日 - 1988年(昭和63年)12月25日)は、小説家・評論家・フランス文学翻訳家。」大岡昇平の著作は、数冊読みましたが、代表作と言われている『野火』の読後感は、こちらです。【この本からの引用】父が戦争の体験を話し始めたのは、『指揮官たちの特攻』を書き始め、その途中で母が亡くなってからです。【上記の感想】城山三郎の『指揮官たちの特攻』は、確か昨年のことと思いますが、出版社の新聞広告等を何回となく見たので、それなりに売れた本だと思います。私はまだ読んでいませんので、そのうち読むことがあるかもしれません。ただ、戦後生まれの私たちには、特攻に対する距離感があまりにもありすぎます。その点で、読むか読まないかは微妙な気がします。ただ、城山三郎は、70歳をすぎた頃より、娘さんに戦争体験を話し始めたそうです。「話さなければならないし、そのために生かされてきたのだと思う」という言葉を交えて。この言葉を読むと、襟を正して、『指揮官たちの特攻』に向き合って見ようかとも思います。人は、人生の残り時間が少なくなると、話さなければならないこと、やるべきことことが見えてくるのかもしれません。
2008/07/20
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【ソウル=築山英司】日本政府が14日に新中学校学習指導要領の社会科解説書に竹島(韓国名・独島)を初めて明記したことに対し、韓国国内で反発の動きが始まった。日本政府の対応次第で、2005年の「竹島の日」騒動以来の抗議活動が、韓国に広がる恐れがある。 ソウルの日本大使館前で高齢男性1人が「独島侵奪の野望を粉砕しろ」と書いたたすきをかけ、「独島は韓国領」とハンドマイクで絶叫し、大使館正門に突進したが、警備の警察官に阻止された。 水原市から来た男性(39)は数時間、白地に太極旗をデザインした韓服を身に着け、日本語で「独島は韓国領土だ」と書かれたプラカードを黙って掲げた。 与野党の国会議員も抗議活動を開始。与党ハンナラ党の約40人は日本大使館を訪れ「領有権主張の撤回」を要求した。野党の民主労働党も大使館前で抗議の意を示すシュプレヒコールを行った。ハンナラ党と最大野党民主党の一部議員はそれぞれ実効支配する竹島にヘリコプターで向かい、気勢を上げた。 米国産牛肉の輸入再開に反対する集会・デモを主導したインターネットの掲示板には「日本大使館前で集会を」という呼び掛けも現れた。抗議活動の方法が議論されている。(中日新聞)【上記の感想】微妙な問題なので、深入りは避ける。2005年にも竹島のことが報じられていたとのこと。記憶が曖昧なので、復習しておいた。なお、日本のかかえる領土問題は3件。それは、北方領土・尖閣諸島・竹島。関連日記は、こちら。
2008/07/15
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読後感を書いておきます。この本は、2004年8月に発行されました。2003年頃は、イラク戦争に自衛隊を派遣するか否かであらそわれていた時期で、国のあり方が問われていた時期であったようです。最近は、マスコミの論調も変化してきているというか、そんなことよりも、もっと国民に身近な食料品や原油の値上がりなどに関心が移ってきているように思われます。なお、当時の著者は40代前半という年齢でした。以下に、【この本からの引用】と【上記の感想】を書いておきます。【この本からの引用】明治期に日本を離れてイエール大学で教鞭を取っていた歴史学者・朝河貫一は、日露戦争後にいよいよ軍国主義化する日本を憂えて記した『日本の禍機』の中で、「米国民情の特色」を次のように列挙している。1.神秘の伝説をよりどころとしない、根拠の明白な愛国心を持つ。2.人々の見識のみを信頼し、自由に自国を批評し、反省する。3.著しきユーモアの情を持つ。4.自由な民主主義こそが個人を進歩させると信じ、だれもが強い自信を持っている。5.自由な進歩を願っている弱者には同情の心を持ち、他の圧制を脱しようとする国や人を庇護する。【上記の感想】『日本の禍機』という本が引用されていました。この本については、3年半位前の過去日記で触れています。ちょっと思い出したので、書きとめておきました。
2008/07/06
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この本は、平成5年8月に発行されました。当時の著者の年齢は、60歳位と思われます。この本はステッセルという軍人の名前からわかるように、日露戦争時のことも書かれています。当時ステッセルが乃木に名馬を贈りましたが、その馬の名前が寿号(すごう)というようです。この後調べてみますが、その寿号の墓が、隠岐にあるようです。なお、日露戦争のことをテーマにした本は数冊読みましたが、読後感を書いた日記を発見しました。こちらです。
2008/05/28
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読後感を書いておきます。この本は、2003年11月に発行されました。初出は、マネー誌に、2002~03年に連載されたとのこと。当時の著者の年齢は、78歳位でしょうか。著者の著書には、たしか『私は77歳で死にたい』がありました。いささかショッキングなタイトルだったので、良く覚えています。著者は、現在80歳を超えておられますが、まだまだ健在と思われます。この本を購入した最大に理由は、ブックオフで105円で売られていたからです(笑)。と言っても、中国株に無関心であればこの本を購入をすることはないし、現に中国株への投資を継続中です。もっと言うならば、来年は中国株への投資金額を今の倍にしようと計画中なので、何か適当な本を捜していた最中ではありました。最も、投資金額倍増計画と言っても、現在の投資金額は大したことはないです。それに、来年というのも、本気度を疑われそうですが。この本の内容は難しい箇所もありましたが、それは私の知識のいたらなさに原因があります。そういうわけで、内容については、何も書けません。著者が信頼できる方であること、それから、本のタイトルがシンプルなこと。この2点から、良書であると判断しております。
2008/05/24
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この本は2005年1月に発行されました。著者年齢は、40~50代という、まだまだ現役世代の方々です。私も一応現役世代なので、書斎という言葉には惹きつけられるものがあります。要するに、理想的な書斎など持ちあわせているはずもなく、理想を言えばキリがない。しかし、理想に少しでも近付きたい。そんな気持ちからです。この本を読んで思ったのは、そろそろ机を買い替えようかと、本気になったこと。実は今の机は、私が小学校に入学する時に、両親に買ってもらったものを、未だに使用しています。それだけ愛着のあるものには違いないのですが、手狭で使い勝手に難点がありますので。けっこう本の影響を受けやすい性格は、今も昔も変わらず(笑)。
2008/05/24
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この本は、2005年11月に発行されました。著者の御二方は昭和7年生まれですので、73歳位の時の対談集です。五木寛之氏の本はけっこう読んでいますが、ブログでは、こちらで読後感を書いていました。稲盛和夫氏は、私がかつて京セラ系の企業に勤めていた関係で、多少は縁のある方です。と言っても、雲の上の存在でしたので、話をしたことはありません。以下に、【この本からの引用】と【上記の感想】を書きます。【この本からの引用】僕は小説家として、最近は言いたいことを言うようにしているんです。学者ですと、学問の理論というものがありますから、根拠のないことは言いにくい。でも、僕は小説家だから、言いたいことが言える。【上記の感想】これは、五木寛之氏の発言です。言いたいことを言うのは、けっこう勇気が必要です。これを言えば反論されて面倒だからとか、下手すれば脅迫されたり、稀に命を狙われることもありえます。一読者としての私の立場からは、言いたいことを好き勝手に言っている本というのは、けっこう面白いです。【この本からの引用】経済学者も経済人も、経済成長をしなければ会社うまくいかない、日本経済が破壊されてしまうというふうに思っているようです。それで相も変わらず、何パーセント成長というようなターゲットを置いてやっています。世界中の発展途上国のみならず、先進諸国もまだまだ発展をするんだって言っていますね。しかし、エネルギーであれ資源であれ、有限なのですから、それはできるわけがないんです。【上記の感想】これは、稲盛和夫氏の発言です。なかなか微妙な発言です。現在は京セラの役員を退かれており、おそらくこの対談が行われた時も、経営の第一線からは退き気味だったと想像します。ともあれ、現実は、そのとおりだと思います。昨今の資源高、エネルギー高、食糧高、いずれも、我々の進むべき道を、示唆しているようです。
2008/05/18
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【上記の感想】上記の画像は、モーリス・ルブランである。以下に、ウィキペディアより引用する。-----引用開始-----モーリス・ルブラン( 1864年11月11日 - 1941年11月6日) は、フランスの小説家。紳士的な振る舞いの泥棒にして探偵「アルセーヌ・ルパンの生みの親として良く知られる(和訳版では「ルパン」の表記が一般的だが、よりフランス語の発音に近い「リュパン」という表記のものも存在する)。ルブランの「ルパン」は、しばしばイギリスの作家コナン・ドイルの生んだ「シャーロック・ホームズ」と対比される。-----引用開始-----日記のカテゴリに「読書」があるが、最近はほとんと使うことがなかった。が、最近やや時間に余裕がでてきたため、娯楽としての読書をしてみようという気になった。そこで手にしたのが、『棺桶島』。
2007/04/30
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2004年8月に発行されたこの本は、『月刊レジャー産業資料』に連載された記事を書き改め、書き下ろし原稿を加えて1冊にまとめたものです。『月刊レジャー産業』という業界向けの雑誌は、綜合ユニコムが発行している雑誌です。以下に、【この本からの引用】と【上記の感想】という形で、少々書きます。【この本からの引用】1988年3月13日夕方、ドラが鳴り、「蛍の光」が流れ、最後の青函連絡船が出航していった。函館港を出たのが「羊蹄丸」。青森港を出港したのは「八甲田丸」。3時間50分後、青森港では大勢のひとびとが「八甲田丸」をペンライトを振って出迎え、函館港では、行列した車のヘッドライトが「羊蹄丸」を夜の海にライトアップした。こうして青函連絡船80年の歴史に終止符が打たれた。【上記の感想】青函連絡船の歴史は80年とのこと。交通手段の発達により、短い歴史しか残せぬ乗物には、独特の哀愁が漂う。80年という年月は、人間の寿命に匹敵するわけで、それなりに歴史を刻んだというべきかもしれない。少なくとも、私はそう思いたい。馬車や人力車は、大雑把に言うと明治から昭和の初めにかけて活躍した交通手段ですが、その歴史は80年には満たないように思います。なお、2005年10月15日の日記で、馬車や人力車について触れました。物心がついたときには既に歴史を終えていた馬車や人力車に比べて、青函連絡船は現役バリバリであっただけに、懐かしい気持ちが強いですね。その歴史を終えるとき、青函連絡船は8隻残ったそうですが、係留船として4隻、外国に売り払われたのが4隻と、全8隻がスクラップにされずに残ったそうです。当時からは間もなく20年にもなろうというので、現況はわかりませんが、とりあえずは、幸せな晩年を迎えることができたと言えそうです。その中の「羊蹄丸」は、船の科学館に係留されているとのこと。まだ見たことがないので、訪ねてみたいですね。
2006/09/23
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この本は平成17年5月に発行されました。著者は1947年生まれの大学教授です。以下に、【この本からの引用】と【上記の感想】という形で、少々書いておきます。【この本からの引用】傷つきさすさには、たしかに時が解決する部分があります。思春期と若い青年期、年齢で言えば、12歳頃から25歳くらいまでが、一番傷つきやすい時期です。【上記の感想】若者は傷つきやすいという。これはよくわかりますが、この本では、「傷つき体験の乏しさ」を挙げて、特に最近の若者は傷つきやすいと指摘しています。すなわち、昔は兄弟が多く、幼い時から頻繁に兄弟げんかがあり、親も感情にまかせて、遠慮なく子どもを叱り飛ばしていたといいます。こうした体験によって、傷つかない心が作られていったと。聞いたことがあるように説なので、一般化している説なのだろう。改めて書いたのは、兄弟多かりし家族に郷愁を感ずるためです。と言っても、その郷愁は私の父母世代あたりに遡ります。すなわち、戦前生まれの世代ですが、例えば父の兄弟は9人でした。私の世代だと、核家族が一般化し、父母と子ども2人というのが標準世帯と言われていました。どうしようもないことですが、私もいわゆる標準世帯で成長し、昔に比べると傷つきやすい世代に属します。【この本からの引用】心傷ついてつらいときには、自然な感情に任せることです。泣きたかったら、泣くことです。しゃべりたかったら、しゃべりまくることです。甘えたければ、甘えることです。【上記の感想】自然な感情に任せていつも行動できれば、そのほうが良いに違いない。現実には、刷り込みや縛りといったものに邪魔されて、素直な感情をあらわにすることは難しい面もあるでしょう。例えば、男が泣くのは良くないという刷り込みですが、現在はともかく、私の世代では珍しいことではない。それゆえにぐっと我慢することになるのですが、今後は人前では無理としても、悲しい時は隠れて思いっきり泣くことにしよう(笑)。
2006/09/20
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この本は2003年5月に発行されましたが、実際の執筆期間は、2002年の秋から年末にかけて、とのことです。当時の株式市況は下落傾向にあり底が見えないという状況で、この本にもその状況が反映されており、やや悲観的な部分があるように思えました。それゆえに、勇気や計画性や自助精神といったものをこの本では讃えており、40代を主な読者対象として書かれているようです。著者は1947年生まれの方で、実際に54歳でサラリーマンを引退され、現在は別の部門で活躍されているようです。例えば、「NPO法人国際社会貢献センター」を通じて、大学の非常勤講師を務めておられます。以下に、【この本からの引用】と【上記の感想】という形で、少々書いてみます。【この本からの引用】1998年に特定非営利活動促進法、いわゆるNPO法が制定され、2001年にはNPO法人の税制優遇措置(NPOへの寄付などの税制優遇措置)ができた。これらの法整備によって、NPOの数は急増中だ。NPO法人として認証されたものは、2003年2月末現在、1万89件に達する。寄付などの所得から控除される対象NPO認定の条件が厳しすぎるといった現行税制の問題が指摘されてはいるが(2003年4月から認定条件緩和)、NPOの社会的存在意義がますます大きくなっていることは間違いない。【上記の感想】NPOについては全く知らないので、引用してみた。この機会に勉強しておこうという意図です。ところで、NPO法については、2004年11月27日の日記で触れましたが、その成立には、辻元清美議員が尽力されたはずです。なお、辻元議員は2002年3月に秘書給与問題のため散々なバッシングのあと辞職され、ちょうど1年前の総選挙で政界に復帰しました。【この本からの引用】作家、城山三郎氏の言葉だが、「人間は誰でも探検家、芸術家、判事、戦士の要素を持っている」そうだ(『40歳からの手習い術』大島清著、ごま書房)。【上記の感想】勇気付けられる言葉です。サラリーマンのように長いこと組織の一員として生きていると、時々自分に何ができるかと、多少の焦燥感を抱いて自問することがあります。もちろん、年齢により自問の深浅はあるでしょう。私はサラリーマン生活が通算で20年位になりますが、仕事がとりあえず順調な時は、「自分に何ができるか」と自問することはまずなかったように思います。しかし、行き詰まりを感じたとき、そして実際に37歳の時に転職をしたときなどは、大いに自問しました。当時は上記の城山三郎の言葉を知りませんでしたが、出合ってみると中々含蓄のある言葉です。まさか、本気で探検家や芸術家で生計を立てようという気持ちを、いまさら持ち合わせてはいませんが、迷った時のヒントにはなりそうです。
2006/09/11
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この本は1999年6月に発行されました。著者は1925年千葉県生まれの方で、現在私が住んでいる千葉県市川市出身の方なので、多少の親近感を覚えます。なお、著者の本は過去に2冊読みましたが、それは、『自分を活かす気の思想』と『老年の愉しみ』です。以下に、【この本からの引用】と【上記の感想】という形で、2点書いておきます。【この本からの引用】墓はますます個人の墓になってゆくであろう。人生もまた一回限りの、繰り返しのきかぬものである以上、墓も1人ひとりのものであるのが正しい形なのかもしれない。「先祖代々之墓」という思想が今は無意味なのである。そして個人の墓であるかぎり、いつか忘れられてゆくのも、これもまた当然の成り行きなのだ。【上記の感想】私も歳を重ねたせいか、墓のことが書かれていると、気になる。墓には永続性があるというのは、どうも嘘のようである。ちなみに、『暮らしの世相史』(加藤秀俊著)には、今ある墓は、100年もすれば無縁化して苔むす石碑になる運命である、と書かれている。ちなみに、自分の家の墓を見てみても、父方の祖父母・おじ・おばの遺骨が納められているだけで、その先の先祖の名前も知らない。そして、私には子供がいないので、いずれは墓参りをしてくれる子孫が絶える運命にある。墓のことは、いずれ、真剣に考えねばならないことだ。【この本からの引用】「寛厚な自然が人間のほしいままなる営為を咎めず、憤らず、一木一草、惜しみなく与えつくしてくれた。その洪恩をおもっては、このまま別子の山を荒蕪するにまかしておくことは、天地の大道に背くのである。どうかして濫伐のあとを償い、別子全山を舊のあおあおとした姿にして、之を大自然にかへさねばならない。」【上記の感想】上記は、『幽翁』(西川正治郎編)の一節なので、孫引きになる。別子銅山の所長であった伊庭貞剛(1847-1926年)の言葉と伝えられている。かいつまんでいうと、精鋼作業に不可欠の木材伐採と木炭製造によって濫伐してきた結果、別子銅山の山々は、土の地肌をさらけ出し、毎年の出水で荒れた無残な姿になり果てていたという。それを見て、貞剛は利益を度外視して、植林を思い立ったという。伊庭貞剛は、住友の根幹をつくった人物のようだが、中々の人物であったらしい。
2006/09/09
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手元にある『生麦事件』は、1998年9月に発行された本ですが、初出は雑誌『新潮』に1996~98年にかけて連載されたようです。さて、今回『生麦事件』を読もうとした理由は、著者が先頃永眠されたからです。山陰中央新報の訃報記事を転載します。-----転載開始-----吉村昭氏(よしむら・あきら=作家)7月31日午前2時38分、すい臓がんのため東京都三鷹市の自宅で死去、79歳。東京都出身。葬儀・告別式は親族のみで行う。後日お別れの会を開く予定。喪主は長男司(つかさ)氏。妻は作家の津村節子さん。 学生時代に肺結核で死と向き合った経験から文学を志すようになる。故丹羽文雄氏が主宰する「文学者」の同人となり、66年に「星への旅」で太宰治賞を受賞。 「戦艦武蔵」などで記録文学の新境地を開き、73年に菊池寛賞。一方で、歴史小説を次々に手掛けた。綿密な資料集めと、徹底した現地取材には定評があった。-----転載終了----なお、著者の本では、『ポーツマスの旗』の感想文を、2005年2月19日の日記に書きました。以下に、【この本からの引用】と【上記の感想】という形で1点書いておきます。【この本からの引用】藩は蓑田に指示し、グラバーにミニエー銃5千挺の購入を指令した。【上記の感想】転載した山陰中央新報の訃報記事に書かれていますが、著者の仕事は「綿密な資料集めと、徹底した現地取材」に特長があったようです。そのことには良し悪しがあり、読者にとって、資料を基にした細かい数字の羅列は退屈であるかもしれません。まあそれはともかく、引用部に出てくるグラバーを、学んでおくことにしましょう。ウィキペディアによると、トーマス・ブレーク・グラバー( 1838年6月6日 - 1911年12月13日)は幕末に活躍した商人で、明治以降は高島炭鉱の経営に当たったとのこと。もともと武器商人であるが、蒸気機関車の試走、ドック建設、炭鉱開発など日本の近代化に果たした役割は大きいとのこと。武器の販売では、薩摩、長州、土佐ら討幕派を支援したとのこと。蒸気機関車の試走では、1865年、大浦海岸で日本初の蒸気機関車アイアン・デューク号を走らせたとのこと。墓は長崎市内にあり、邸宅跡がグラバー園として公開され、長崎の観光名所になっていますが、これは御存知の方も多いと思います。
2006/09/02
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この本は、2000年11月に発行されました。著者は、1948年生まれの方なので、執筆時の年齢は52歳位になります。この本の系譜は、福沢諭吉の『学問のすすめ』にあるようですが、これは、『知的熟年ライフの作り方』の冒頭に章を設けているので、ほぼ間違いないと思います。私の独断では、『知的生活の方法』(渡部昇一)も影響を与えているのではないかと思います。最も、私の記憶では、『知的生活の方法』は若い年齢層を対象にして書かれていたように思います。これに対して、今回読んだ『知的熟年ライフの作り方』は、タイトルどおり、熟年を対象にして書かれています。ところで、この「熟年」という言葉ですが、この言葉は最近になってよく聞かれます。正確には熟年とはどういう年齢層をさすのかと思い、調べましたが、結局わからずじまい。何となくわかるのは、40~50代の年齢層を熟年と通称しているらしい、ということ。もし、詳しく御存知の方がいましたら、ご教示願いたいものです。以下に、【この本からの引用】と【上記の感想】という形で、1点書いてみます。【この本からの引用】世界の昆虫学者の大きな関心であるヒマラヤのなぞのチョウ、テングアゲハの幼生期解明に、横浜市港北区篠原北のチョウ研究家、五十嵐邁さん(61)が成功した。アゲハチョウの進化をたどるカギとなるこのチョウへの挑戦を思い立ったのが昭和37年。以来四半世紀、サラリーマン生活の中で自ら8回、協力者の派遣を含めると計14回も生息地に通った執念がついに実った。【上記の感想】上記は、1986年8月19日の朝日新聞の記事であるそうです。蝶の研究をライフワークとされていた五十嵐邁さんが、四半世紀という歳月をかけて、サラリーマン生活を続けながら、テングアゲハの幼生期を解明したとのこと。こういう話を聞くと、誰しも勇気付けられるものと思います。
2006/08/27
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古代ローマには今までは全く関心がなかった。と言っても、今でも特別な関心があるわけでもないので、わからないことだらけである。いつもながら、個人サイトで素晴らしいのがあったので、勝手ながら紹介させていただく。ローマ史を趣味とされている方のサイトで、こちらからご覧になれます。以下に、【この本からの引用】と【上記の感想】を書く。【この本からの引用】帝国内の多くの円形闘技場のうちでも、ローマのコロセウムは文字どおり最大であり、当時の驚くべき技術水準の高さを示す記念碑でもある。【上記の感想】西暦80年にティトゥス帝によって完成したそうですが、観客収容人員は5万人とのこと。流血や殺人行為を見世物とするために作られたものだそうです。残酷と言えばそのとおりですが、人間の本性は昔も今も変わらず、でしょうね。【この本からの引用】ローマ帝国の各地で、人々は余暇を見つけては戦車レースの見物に集まった。【上記の感想】ベン・ハーという映画があります。私も中学生だった時に見た記憶がありますが、映画のテーマを理解するにはあまりにも餓鬼であったためか、内容は全く記憶に残っていません。それでも、戦車レースのシーンは、かすかに記憶に残っています。全力疾走する4頭立ての戦車を制御するのは並大抵のことではなく、特にコーナリングは至難の技で、多くの戦車が転倒したそうです。
2006/08/22
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この本は、1999年9月に発行されました。著者は1930年生まれの政治評論家で、執筆時の年齢は69歳位でした。この本では、親の介護問題についての著者自身の体験を、赤裸々に書かれています。ここまで書かなくてもいいのにと思う箇所もありますし、著者の父母と二人の妹の悪口を書かれた箇所も多々あり、その辺りは読み飛ばしました。以下に、【この本からの引用】と【上記の感想】を2点、書いてみます。【この本からの引用】小石川の家が空襲で焼けたのは4月13日の夜だったが、空襲警報が出ると間もなく、老人と女・子供は近くの六義園に避難するようにと、町内の警防団から指示が出た。【上記の感想】1月22日の日記に、『小石川の家』(青木玉)の感想文を書きました。露伴の小石川の家と同様に、俵孝太郎の家も、空襲で焼かれたとのこと。一致点を見つけたため、書きとめてみました。【この本からの引用】自家中毒で死ぬ幼児は、最近でこそほとんどいなくなったが、かつては恵まれた家庭に育った若夫婦の最初の子供には決して珍しくなかった。当時は虚弱体質のせいにされていたようだが、戦後になって、あれは幼児の激症の心因性の胃腸障害、幼児の急性胃潰瘍のようなものであって、その原因は主として親の育児の未熟さから生ずるストレスだ、といわれるようになった。【上記の感想】自家中毒は知らなかったので、調べてみました。こちらが、参考になりました。俵孝太郎も、自身の記憶にはないようですが、自家中毒で重体に陥ったことがあったそうです。
2006/08/20
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この本は、2001年1月に発行されました。著者は1960年生まれの方ですので、執筆時は41歳位でした。以下に、【この本からの引用】と【上記の感想】を書いてみます。【この本からの引用】21世紀のエネルギーは、安定した供給力だけで良しとはならない。経済性や利便性に加えて、消費に伴う環境負担の少なさなど総合的な視点から、何が主要エネルギーになるかが決まっていくことになるのは間違いない。【上記の感想】著者が言うには、21世紀のエネルギーは、天然ガスであるとのこと。環境負担の少なさが、鍵であるとのこと。【この本からの引用】天然ガスをガス田の生産現場で、石油タンカーで輸送可能な形、つまりガソリンなどの石油製品に化学的に転換する方法で、GTL技術と呼ばれている。【上記の感想】GTLについては、1月4日の日記あるいは6月3日の日記でも触れました。特に、6月3日の日記中の日経新聞の記事によると、「価格が高騰している石油の代替燃料として、日本を含む先進国を中心に普及に弾みがつく可能性もある」と。 石油価格高騰は消費者にとっては嬉しくないものだが、GTLの普及にとっては追い風になるのかもしれない。【この本からの引用】世界の天然ガス利用状況を見ると、欧米地域は平均してエネルギー消費全体の約25%であり、大産ガス国であり国策としてガスを優先的に導入したロシアが約50%と高い。【上記の感想】手元の資料集から、「天然ガスの産出」(1999年)を見ると、1、ロシア2、アメリカ3、カナダ4、イギリス5、アルジェリアの順になっています。
2006/08/19
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この本は1979年6月に発行されました。著者は1932年生まれの方なので、執筆当時は47歳位でした。この本では、1945年3月10日未明の東京大空襲について書かれています。私の過去日記では日本各地の空襲について結構触れていますが、東京大空襲について触れた日記を挙げてみます。2005年10月23日の日記と2006年2月18日に日記で触れていますが、特に後者は、今回と同じ著者によって書かれています。さて、最近になり、ようやく著者・早乙女勝元氏が館長を務める「東京大空襲・戦災資料センター」を訪れました。非常に貴重な資料が集められていましたが、今回は2点書いておきます。一つ目は、焼夷弾のことです。実際にB29爆撃機から投下された焼夷弾の実物が保存されていました。もちろん爆発後の殻です。その大きさは、太さが直径で75ミリ位、長さが500ミリ位と、意外と小さいものだと思いました。焼夷弾の名称は、「M69焼夷弾」というそうです。画像では、手前の筒型のものが、「M69焼夷弾」です。最も爆撃機から投下される時は、これが38本束ねられた集束焼夷弾として投下されます。これが地上近くになってばらばらになって落ちてくるということです。二つ目は、石川光陽氏が撮影した記録写真です。ここでは画像を載せることはしませんが、黒こげになった死体の山は、衝撃的でした。以下は、【この本からの引用】と【上記の感想】です。【この本からの引用】しかし、現場の人たちは、火災を前にして、短時間のとまどいがあったことも、見逃すことはできない。逃げてはならぬ、火は消すものだ-の意識が、12歳の私の頭の中にさえあった。【上記の感想】当時の都民は、『防空必携』というものを携帯していたそうです。その巻頭には、三つの誓いとして、「私達は必勝の信念ををもって最後まで戦い抜きます」「私達は準備を完全に自信のつくまで訓練を積みます」「私達は互いに扶け合い力をあわせて防空にあたります」と書かれていたそうです。これが、被害を拡大した原因の一つに挙げられるのではないか、というのが著者の視点です。このことに私は全く気がつかなかったので、書きとめてみました。
2006/08/06
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この本は1995年7月に発行され、当時の著者の年齢は65歳位でした。以下に、【この本からの引用】と【上記の感想】という形で、少々書いてみます。【この本からの引用】闇(ヤミ)とは、公定(マルコウ)に対語である。統制経済の時代には、政府の手で主な消費物資にいちいち価格がつけられ、違反すると処罰された。だから、マルコウ以外の商品は明るい太陽の下に出ることはできず、その売買はヤミになった。ヤミの商品を売り買いする市場がすなわちヤミ市である。ここには、食料品、衣類、雑貨、その他、販売が禁止されているものなら、なんでも並んでいた。1947年夏に飲食店がすべて禁止されてからは、逆に呑み屋と食べ物屋がその中心になった。【上記の感想】ヤミ市は困窮の時代の徒花という。1949年にGHQから撤廃命令が出されると青空ヤミ市は規制され、やがて消滅したという。私自身が知るところでは、新幹線が開通する前の大宮駅西口の様子です。飲み屋が軒を連ねていましたが、下水道が整備されておらず、ドブからの悪臭には驚いたものです。私の記憶では1980年頃のことです。【この本からの引用】東京の人びとが戦後はじめて見た中華料理に一つに、ギョウザがある。【上記の感想】ギョウザが普及したのは戦後のことらしい。ウィキペデイアを見ると、日本で食べられる餃子は、戦後満州を経由して流入してきたものが主流であるとのこと。と、やはり「戦後」らしい。また、面白いことに、ギョウザの消費量が多い都市が判明しているようだ。それは、宇都宮市や静岡市であり、特に宇都宮市は有名だそうだが、私は知りませんでした。
2006/08/05
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この本は今年の5月に発行されました。商船三井の株を保有していることもあり、今回は海運の知識を増やす目的で、この本を読んでみました。以下に、【この本からの引用】と【上記の感想】つ形で、2点書きます。【この本からの引用】日本にも「飛鳥」や「にっぽん丸」「ぱしふぃっくびいなす」などがあります。日本のクルーズ人口はまだ少なく、2004年の統計でも船内1泊以上の外航クルーズに参加した人はわずか7万3000人という状況ですので、その振興に向けてより一層の努力が求められます。【上記の感想】仕事や学業にいそしむ年代には、時間とお金がないという現実的な問題に阻まれてしまうクルーズです。しかし、今日の産経新聞には威勢の良い記事がありました。以下に、一部を抜粋します。「富裕層向けの旅行商品を販売するJTBのロイヤルロード銀座は6月末に、平成20年4月出発の世界一周クルーズを発売したところ、1人の料金が最低でも260万円という高額商品にもかかわらず完売した。」「近畿日本ツーリストも今月、1人あたりの料金が350万円の世界一周ツアーを発売した。日本旅行が発売した豪華客船「飛鳥II」のチャータークルーズは2泊3日の短期間ながら、旅行代金は1人あたり最高50万円。それでも好調な売れ行きをみせているという。」【この本からの引用】海運界に対してさらに大きな変化を促したのは1960年代のコンテナ革命でしょう。【上記の感想】コンテナ革命と時を同じくして、日本の海運業界は集約化しました。例えば、1964年に三井船舶と大阪商船が合併して大阪商船三井船舶(商船三井の前身)が誕生しました。コンテナ革命以前は、貨物の積み降ろしはフォークリフトや人の手で行っており、そのため多くの人手と時間がかかっていましたが、コンテナを使用するようになって人手と時間を大きく削減することができるようになったとのことです。いまでは専用の大型機械「ガントリークレーン」を使って、重さが30トン以上のコンテナもたったの約2分で積み降ろしできるようになったと。ガントリークレーンの画像を載せておきます。これは日本のある港のガントリークレーンですが、香港やシンガポールなどでは、このガントリークレーンが相当数設置されていると思われます。
2006/07/30
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この本は2003年3月に発行されました。初出は、2001~03年にかけて、『新潮45』に連載されたそうです。さっそくですが、以下に、【この本からの引用】と【上記の感想】という形で、少々書いてみます。【この本からの引用】「われわれは嘘をつくときも、真実をいうときもひっきょう目指すところは一つなので、嘘で相手を納得させて得をする見込みのあるときには嘘をいい、また真実をいうのは、むしろ真実によって利得を上げ、相手にもいっそう自分を信用させようという目的からくる。このようにわれらは、することはおなじでなくとも、目指す目的は同じことなのだ。何も得がないとなれば、ふだんは正直な者も嘘をつくであろうし、嘘つきも正直ものになるであろう。」【上記の感想】なかなか示唆に富んでいます。これは、『歴史』を著した紀元前5世紀のヘロドトスの言葉とのことです。【この本からの引用】一つはどんなに調査をしても、赤松大尉が自決命令を出した、という証拠が出てこなかったことである。【上記の感想】第二次世界大戦時、アメリカ軍が沖縄に初めて上陸した慶良間列島(けらまれっとう)で、日本軍の指揮官であった赤松大尉の命令によって、女性や子供も含めた全員が集団玉砕した事件があります。ただ、この事件は事実そのものがあったかどうかで争われているようで、「沖縄集団自決冤罪訴訟」が提起されていると聞いています。ただ事件のことに私は明るくないので、言及はできません。曽野綾子氏は、「皆が声を揃え、1人の反対者もなく、その非をなじる場合には、そこに自動的にいささかの危険が発生している。」と書かれています。そして、現地を訪れ綿密な調査をして、引用部のように断定されました。相当な妨害があったのは想像に難くないのですが、この辺には作家魂を感じます。
2006/07/29
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『氷点』は、1964~65年に朝日新聞に連載された小説です。当時の著者の年齢は、40代前半でした。「原罪」をテーマにした小説であるが、人間が陥りやすい過ちが随所にちりばめられており、なかなか読み応えのある小説でした。また、ストーリー展開も見事で、どんどん先を読みたくなる小説であり、さすがにプロの小説家が著した作品は違うなと思いました。テーマの「原罪」に関しての正面切った読後感を書くと長くなるので、今回はとりとめのない読後感を書きます。【この本からの引用】ライラックの花の美しい6月も過ぎ、白い馬鈴薯の花が咲く真夏を迎えても、陽子は一向にやめる気配がない。【上記の感想】ここで気になったのは、ライラック。よく聞く植物名だが、どういうものなのかよくわからない。そこで、画像を捜して、貼り付けておくことにする。【この本からの引用】層雲峡にアイヌの火まつりがある。それを見に行こうと徹は夏枝と陽子を誘った。【上記の感想】層雲峡と書いて、「そううんきょう」と読む。北海道には行ったことがないため、調べてみた。すると、タイムリーにも、「層雲峡峡谷火まつり」が、7月の最終土曜日に行なわれるようだ。
2006/07/22
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この本は2000年11月に発行されました。著者は1931年生まれの方なので、執筆時の年齢は69歳くらいになります。この本のタイトルにある「疼痛」とは何かわからなかったので、調べてみました。手元の辞書によると、「疼痛」とは「ずきずきとするいたみ」のことです。「疼痛」の意味もわからないほどなので、私自身は今まで深刻な肉体の痛みを経験することなく生活してきました。以下に、【この本からの引用】と【上記の感想】という形で、2点書いてみます。【この本からの引用】私は先生がリューマチザンであることを本で読んで知っていた。しかし私はルノワールは2本の松葉杖に引っ懸ったぼろ服であることを知らなかった。【上記の感想】21歳の梅原龍三郎(1888-1986年)が、師匠であるルノワールを初めて見たときの印象を、梅原自身の著書『ルノワールの回想』で上記のように書かれています。ルノワールはリューマチを患っていたとのことですが、素晴らしい絵画を次々と生み出したルノワールにして、病に悩まされていたことを思うと、天才も秀才も人間なのだなと、妙な親近感を覚えます。ルノワールの「ピアノを弾く少女達」(1892年)の画像を載せておきます。【この本からの引用】彼は死ぬ2年前から胃を病み、胃癌とわかってからほぼ1年たったところで、「腹痛や苦しき中に明けがらす」の一句を残し、悠然と死に赴いた。かねてより鉄舟に私淑していた落語家の三遊亭円朝が臨終の見舞いに来ると、鉄舟は一席を所望した。自分が死ぬまでの間、集まってきた人たちが退屈するだろうから喋れというのだ。円朝は涙をぼろぼろと流しながら語り、鉄舟は横たわらずに座禅を組んだままこと切れた。【上記の感想】上記は、幕末の三舟のうちの1人、山岡鉄舟の臨終の場面です。「腹痛や苦しき中に明けがらす」という一句は、胃癌による腹痛により寝付けず、床の中でカラスの鳴き声を聞いたという句でしょうか。強い痛みが想像されます。なお、2005年5月29日の日記にも、山岡鉄舟のことを書きました。
2006/07/16
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この本は、1996年6月に発行されました。著者は1934年生まれですので、執筆時は62歳くらいでした。以下に、【この本からの引用】と【上記の感想】という形で、一点だけ書いてみます。【この本からの引用】女性が男性並みに働いて、経済力があるスウェーデンなんかでは、離婚以前に、女性があまり結婚をしなくなっている。結婚しないで、好きな男性ができたら、同棲するわけです。結婚してしまうと、制度に縛られて、嫌いになった時に、別れるのが大変になりますが、同棲なら、いつでも別れられるからです。法律的結婚によらないで生まれた婚外子が、スウェーデンやデンマークでは、全体の子供の数の半分になっている。アメリカ、イギリス、フランスあたりでも、婚外子が3分の1くらいになっています。女性に経済力があるから、結婚しないで子供を産むということも、可能になるわけです。【上記の感想】2004年11月27日の日記に、『なんでやねん』(辻元清美著)の感想文を載せました。そこに書きましたが、『なんでやねん』の一節に次のような箇所がありました。「現在の日本人の性行動をトータルに見たとき、新生児のうち婚外子がアメリカ33%、イギリス39%、フランス40%、ノルウェー49%に対して、日本が1.7%というのはあまりに落差がありすぎる」これを読み、他国のあまりの婚外子の多さに何かの間違いではないかと思いましたが、今回の『学問はどこまでわかっていないか』にも、同様のことが書かれていました。要するに、これは本当のことのように思われます。
2006/07/15
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この本は2006年2月に発行されました。ただ、最初の刊行は1952年になります。自伝というからには、本多静六自ら書かれたもので、当の本多静六は1952年1月に85歳で逝去されています。本多静六は埼玉県菖蒲町生まれの方ですが、先ほど検索したところ、菖蒲町のHPに氏のことを詳しく紹介されていましたので、リンクを貼っておきます。埼玉県菖蒲町のHPは、こちらです。「日本の公園の父」として紹介されているようです。以下に、【この本からの引用】と【上記の感想】という形で、1点だけ書きとめておきます。【この本からの引用】さて、当時の年棒800円であるが、その中から製艦費献納1割を差し引かれ、正味手取りが720円、月割にして60円ばかりであった。しかも、それからさらに恩給基金等の控除があって、本当の正味は月58円というのであった。【上記の感想】ここで面白いと思ったのが、「製艦費献納」という項目。給料の1割を「製艦費献納」という名目で差っぴかれていたようです。あまり時間をかけて調べる余裕はありませんが、漱石の『野分』に次のような一文があるそうです。「博士はえらかろう。しかし高が芸でとる称号である。富豪が製艦費を献納して十五位を頂戴するのと大した変わりはない。」ここに、「製艦費献納」という言葉が出ていました。ちなみに、『野分』が著されたのは1907年(明治40年)、本多静六のほうの引用部は1892年(明治25年)のことを書かれており、「艦」の役割が大であった時代を偲ぶことができます。
2006/07/08
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この本は1991年の発行ですが、その前年には商船三井客船(社名です)の「にっぽん丸」という外洋クルーズ船が竣工しました。以下に、「にっぽん丸」の画像と商船三井客船の沿革を載せます。1963年 旧大阪商船の移住客船の保有管理を行う日本移住船が発足 1970年 商船三井客室と合併し、社名を社名を商船三井客船と改名 1989年「ふじ丸」竣工 1990年「にっぽん丸」竣工 2002年 日本チャータークルーズを設立つまり、この商船三井客船は最初は「日本移住船会社」という社名でした。かつては南米移住者が多かったのですが、その後「移住者数が減少してきたため、苦境に立つことになった。このため、客船部門だけを切り離して別会社組織で運営することと」して、1963年に「日本移住船会社」を設立したそうです。まとまりがありませんが、以上を読書感想文ということにさせていただきます。
2006/07/01
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この本は、1997年に発行されました。本の形式は、マザー・テレサが折々に語った言葉を、ホセ・ルイス・ゴンザレスバラドというジャーナリストが編集し、それを渡辺和子が訳すという形になっています。マザー・テレサについては5月14日の日記で少々触れた程度ですが、それによると、マザー・テレサは福者という称号を与えられているとのこと。福者とは、カトリック教会において、死後その徳と聖性を認められた信徒に与えられる称号です。なお、マザー・テレサの生涯は、こちらがよくまとまっています。「神の愛の宣教者会」という女子修道会がありますが、マザー・テレサは設立当初から活動されておりました。ウィキペディアには、次のように書かれています。神の愛の宣教者会 (かみのあいのせんきょうしゃかい) は、1950年10月7日に聖座の認可を受けて設立されたカトリックの女子修道会。「もっとも貧しい人々のために働くこと」を使命とする。現在、133の国と地域で活動し、4500人以上の修道女がいる。(ウィキペディアより)以下に、この本を読んで感銘を受けたマザー・テレサの言葉を、いくつか抜粋してみます。「大切なことは、たくさんのことをし遂げることでも、何もかもすることでもありません。大切なことは、いつでも何に対しても喜んでする気持ちがあるかどうかなのです。貧しい人々に奉仕している時、私たちは神に仕えているのだと確信していることなのです。」(66ページより)「執着心から、捨てられないものの何と多いことでしょう。すべてをイエスに差し出すためには、所有物は少ない方がよいのです。」(136ページより)「男女を問わず、自分のお金をいかに貯めるかに悩んでいる人々は、真の貧者です。もし自分の手許にあるお金を他人に与えようとするなら、その時、その人は富者、真の意味で豊かな人になれるのです。」(137ページより)
2006/06/10
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『宣告』は、1975~78年に雑誌「新潮」に連載され、単行本にするときもほとんどいじらなかったそうです。すなわち、『宣告』は齢40代後半の著作になります。以下に、【この本からの引用】と【上記の感想】という形で、少々書いてみます。【この本からの引用】楠本他家雄と名付けられた39歳10箇月の男は、健康な体と精神をそなえながら死んでいく。彼のこの世での持分である明るい時間が、ざっくりと切り取られ、あとは生れる前と同じような暗黒の時間が続く。けれどもその暗黒は、生れる前とは決定的に違う面もある。なぜなら、そこには知り合った死者が生きているからだ。【上記の感想】5月28日の日記に書きましたが、著者が『宣告』で最も力をこめて書いたのは、「虚無の存在論」でした。「虚無の存在論」と言われてもわかりにくいのですが、上記の引用部分には、そのへんがよく出ているように思います。私たちが生きている時間はいうまでもありませんが、生まれる前や死後の時間が間違いなく存在することを主張されています。さらに別の箇所で、主人公(楠本他家雄)に次のように語らせています。「たしかにこの壁や鉄格子や鉄扉は、何ものでもない。監獄という建物、制度、囚人と看守、それらも何ものでもない。もっとも大切な事実は、それら目に見えるものを支えている、目に見えないものの存在です。わたしは目に見えないものに向かって祈るのです」ここに書かれている「目に見えないものの存在」が、「虚無の存在」を差しているのでしょう。【この本からの引用】楠本他家雄、昭和○年4月19日生れ。右の者、昭和4○年2月12日より5日以内に所定の方法により刑の執行をおこなうべし。法務大臣【上記の感想】上記の感想を書くにあたり、ウィキペディアを参照し、以下にまとめました。刑事訴訟法476条に、「法務大臣が刑の執行を命じたときは、5日以内にその執行をしなければならない」と規定されているそうです。死刑囚に死刑宣告がくる時期の規定は、475条にあるようです。475条によると、死刑は判決確定後、法務大臣の命令により6ヶ月以内に執行することが定められています。しかし、再審の請求や恩赦の出願等の期間はこれに含めないことも定められており、死刑確定から執行までほとんどが数年から数十年もの間、平均では7年程度を要するのが現実のようです。異例の早さで死刑が執行された池田小児童殺傷事件の死刑囚でも、約1年の時間を要したとのこと。つまり、適切な言い方ではないかもしれませんが、死刑宣告には法務大臣の「気分」が占める割合が大きいように見受けられます。例えば、2005年10月31日に就任した杉浦正健法務大臣は、就任時に「(死刑執行命令書に)私はサインしません」と異例の発言をされたそうですが、一時間後に撤回されたそうです。また、大臣により様々であるが、法務省当局としては「死刑無し」の前例を出来る限り作らないように、大臣の任期終了前には相当な催促が行われると言われています。『宣告』の記述によると、死刑はある時期集中的に行なわれる傾向があるようです、その時期を「あらし」と呼ぶそうです。この「あらし」の原因が、大臣の任期終了前の催促によるのかもしれません。
2006/06/04
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この本1990年に発行されました。ただ、この本に集められたのは、ある死刑囚と著者との間に取り交わされた往復書簡です。それらの書簡は、1967年8月15日から69年12月7日まで、つまりその死刑囚が処刑される前日までのものです。加賀乙彦氏の著書は、5月7日の日記に書いた『キリスト教への道』に次いで2冊目になります。そして今、著者の代表作に数えられる『宣告』を読んでいる途中です。以下に、【この本からの引用】と【上記の感想】という形で、少々書いてみます。【この本からの引用】『宣告』(1979年)は、もし私がAという人物に出会わなかったら書かれなかった作品である。主人公の死刑囚が処刑されるまでの4日間を描出しながら、私はAをモデルに、1人の私の分身を創り出そうとした。【上記の感想】Aというのは、著者が書簡を取り交わした「ある死刑囚」のことです。このAは、処刑されるまで16年間ほど獄中にあったそうです。そのうちの7年近くは、死刑囚としていつ処刑されるかわからない日々を送っていたということです。最後は、「従容」という形容が適切かどうかは迷うところだが、ともあれ、従容として死刑に臨んだようです。Aの説明はこれ位にしますが、著者は『宣告』について、次のように言われます。『宣告』で最も力をこめて書いたのは、死刑囚の日常生活や監獄の実態などではなくて、虚無の存在論であった。と、「虚無の存在論」と言われています。これをわかりやすく説明するのは難しい、というか私自身よくわかりません。おそらく、もっともっと著者の著書を読み込んでいかないと、理解出来ないことだと思います。【この本からの引用】真に人間的な生き方というのは、死を知ることではなく、いつおとずれるかわからぬ死を、誰でもおそれるようにおそれながら、一つの生を生きていくことにあるように考えます。【上記の感想】これは著者の、「癌の告知」に対する考え方です。著者は、その癌が死を免れないものである場合に、その癌を本人に告知することには反対の立場をとられています。最も、そのように書かれた時期は、1969年9月12日のことなので、今では異なる考えをお持ちかもしれません。そういうことはともかく、「癌の告知」をヤフーで検索してみました。ここでは2件リンクを貼っておきます。こちらが一つで、もう一つはこちらです。ところで、私の考えはどうかというと、現時点では何とも言いかねます。それは、現時点では私自身あるいは肉親が癌に冒されていないのが一つの理由、そしてもう一つの理由は、私自身が医療職に携わっていないからです。
2006/05/28
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